スイス の駅 えき 馬車 ばしゃ
駅 えき 馬車 ばしゃ (えきばしゃ、英語 えいご : stagecoach )は、通常 つうじょう は4頭 とう 立 だ ての馬 うま に牽引 けんいん された旅客 りょかく や貨物 かもつ を輸送 ゆそう する屋根 やね つき馬車 ばしゃ の一種 いっしゅ である。鉄道 てつどう が普及 ふきゅう する前 まえ に広 ひろ く用 もち いられ、駅 えき 馬車 ばしゃ で旅行 りょこう する人 ひと たちの休息 きゅうそく の場所 ばしょ となっていた英語 えいご で stage や station と呼 よ ばれる施設 しせつ の間 あいだ を定期 ていき 運行 うんこう していた。駅 えき 馬車 ばしゃ を運行 うんこう する事業 じぎょう や、駅 えき 馬車 ばしゃ で旅行 りょこう することを staging と呼 よ んでいた[1] 。
駅 えき 馬車 ばしゃ の車体 しゃたい は、スルーブレイス (throughbrace) と呼 よ ばれる革 かわ 製 せい のストラップで支 ささ えられており、衝撃 しょうげき 吸収 きゅうしゅう のばねのように働 はたら いていた。駅 えき 馬車 ばしゃ 自体 じたい がスルーブレイスと呼 よ ばれたこともあった[1] 。コンチネンタル式 しき 駅 えき 馬車 ばしゃ の前部 ぜんぶ および後部 こうぶ 車 しゃ 室 しつ はクーペ (coupé) と呼 よ ばれた。車内 しゃない に乗 の る乗客 じょうきゃく およびその座席 ざせき のことはインサイド (inside)、車外 しゃがい に乗 の る乗客 じょうきゃく およびその座席 ざせき のことはアウトサイド (outside) と呼 よ ばれた。アウトサイドの後部 こうぶ には向 む かい合 あ った2つの座席 ざせき が取 と り付 つ けられていることがあり、イギリス ではここをバスケット (baskets) と呼 よ んでいた。駅 えき 馬車 ばしゃ の操作 そうさ を行 おこな うステージドライバー(御者 ぎょしゃ )に加 くわ えて、コーチ・ガン (英語 えいご 版 ばん ) で武装 ぶそう したショットガン・メッセンジャー が護衛 ごえい のために乗 の り込 こ むことがあった。
ステージ (stage) という言葉 ことば はもともと、経路 けいろ 上 じょう のステーション間 あいだ の行程 こうてい のことを指 さ しており、馬車 ばしゃ は全 ぜん 行程 こうてい を各 かく ステージに分 わ けて走破 そうは していたが、誤用 ごよう が続 つづ いた結果 けっか ステージという言葉 ことば が馬車 ばしゃ のことを指 さ すようになった。次 つぎ のステーションでは休養 きゅうよう の十分 じゅうぶん な馬 うま の組 くみ が待機 たいき しており、ステーションにおいて馬 うま をつなぎかえるだけの短 みじか い停車 ていしゃ 時間 じかん で旅行 りょこう を続 つづ けられるようになっていた。このステージに分 わ ける運行 うんこう システムにより、それまで牽引 けんいん してきた馬 うま を休 やす ませ、水 みず や餌 えさ を与 あた える時間 じかん で馬車 ばしゃ が時間 じかん を費 つい やす必要 ひつよう はなくなった。駅 えき 馬車 ばしゃ は、馬 うま やラバ で牽引 けんいん される四 よん 輪 りん の車両 しゃりょう であれば何 なん でもそのように呼 よ ばれることがあるが、駅 えき 馬車 ばしゃ であるための基本 きほん 的 てき な用件 ようけん としては、誰 だれ でも運 はこ ぶ公共 こうきょう の交通 こうつう 機関 きかん であること、決 き まった行程 こうてい を決 き まった時刻 じこく で走 はし ることなどがある。使 つか われる車両 しゃりょう としては四 よん 輪 りん 荷馬 にうま 車 しゃ 、固定 こてい 車軸 しゃじく の馬車 ばしゃ 、軍用 ぐんよう 馬車 ばしゃ の余剰 よじょう 品 ひん 、高速 こうそく 馬車 ばしゃ 、豪華 ごうか なコンコードなどがあった。駅 えき 馬車 ばしゃ 路線 ろせん の運行 うんこう 者 しゃ がこれらの車両 しゃりょう の中 なか から、運 はこ ぶべき積 つ み荷 に 、道路 どうろ の状況 じょうきょう 、天候 てんこう などによって選択 せんたく していた。またこうした条件 じょうけん と車両 しゃりょう の種類 しゅるい により、2頭 とう 立 た て、4頭 とう 立 た て、6頭 とう 立 だ てを選択 せんたく していた。
駅 えき 馬車 ばしゃ の中 なか には以下 いか のような種類 しゅるい がある。
郵便 ゆうびん 馬車 ばしゃ - 郵便 ゆうびん 物 ぶつ 輸送 ゆそう に主 おも に用 もち いられた。
マッド・コーチ (mud coach) - コンコードに比 くら べて軽 かる く小 ちい さな車両 しゃりょう で、平坦 へいたん な側面 そくめん 、簡単 かんたん な装備 そうび 品 ひん であった。
ロード・コーチ (road coach) - 19世紀 せいき 後半 こうはん のイギリスで復活 ふっかつ した。
ステージ・ワゴン (stage wagon) も、人口 じんこう の希薄 きはく な地帯 ちたい などでは駅 えき 馬車 ばしゃ として用 もち いられることがあった。
駅 えき 馬車 ばしゃ は平均 へいきん 4[2] マイル毎時 まいじ から7マイル毎時 まいじ (約 やく 6.4 km/h から11.2 km/h)で走 はし り、1日 にち に70マイル から120マイル(112 km から192 km)ほどを走 はし っていた。
「定時 ていじ に遅 おく れて」(Behind time )、イングランドの駅 えき 馬車 ばしゃ を描 えが いた作者 さくしゃ 不明 ふめい の版画 はんが
イギリスにおいて駅 えき 馬車 ばしゃ に対 たい するよくある印象 いんしょう としては、有料 ゆうりょう 道路 どうろ の料金 りょうきん 所 しょ を通過 つうか していくロイヤルメール の郵便 ゆうびん 馬車 ばしゃ 、チャールズ・ディケンズ の作品 さくひん に出 で てくる、駅逓 えきてい 所 しょ に停車 ていしゃ する雪 ゆき の積 つ もった馬車 ばしゃ 、あるいは馬 うま に乗 の った強盗 ごうとう (ハイウェイマン )が「有 あ り金 がね を置 お いていけ」と要求 ようきゅう する馬車 ばしゃ 、といったものである。ヤードグラス は伝説 でんせつ によれば、駅 えき 馬車 ばしゃ の御者 ぎょしゃ と関連付 かんれんづ けられているが、実際 じっさい には主 おも に飲 の む技術 ぎじゅつ を示 しめ し特別 とくべつ な乾杯 かんぱい を行 おこな うために用 もち いられるものであった[3] [4] 。
必 かなら ずしも駅 えき 馬車 ばしゃ とは言 い えない、最初 さいしょ の原始 げんし 的 てき な馬車 ばしゃ がイングランドの文献 ぶんけん に現 あらわ れるのは13世紀 せいき のことである[5] 。駅 えき 馬車 ばしゃ は最初 さいしょ にイギリスにおいて16世紀 せいき に発明 はつめい され[要 よう 出典 しゅってん ] 、1910年代 ねんだい 初頭 しょとう くらいまで使 つか われていた。駅 えき 馬車 ばしゃ で旅 たび する旅客 りょかく を泊 と めるために、駅逓 えきてい がヨーロッパ中 ちゅう に開設 かいせつ された。ウィリアム・シェイクスピア の初演 しょえん は、ザ・ジョージ・イン (英語 えいご 版 ばん ) のような駅逓 えきてい において上演 じょうえん されていた。1784年 ねん に運行 うんこう 開始 かいし された郵便 ゆうびん 馬車 ばしゃ である、ロイヤルメールの駅 えき 馬車 ばしゃ は、有料 ゆうりょう 道路 どうろ 網 もう を通 つう じてイギリス諸島 しょとう の道路 どうろ 網 もう の発展 はってん を促進 そくしん することになる。
1784年 ねん 当時 とうじ 、郵便 ゆうびん 馬車 ばしゃ はロンドン からブリストル まで120マイルの行程 こうてい を17時 じ 間 あいだ で走破 そうは していた[6] 。
スペイン のカタルーニャ州 しゅう においてイグアラダ とバルセロナ を結 むす んでいたディリジェンシア (Diligencia ) と呼 よ ばれる馬車 ばしゃ 。屋根 やね の上 うえ に荷物 にもつ 置 お き場 ば がある
上 うえ にインペリアル (impériale ) を載 の せているディリジェンス (diligence ) 、1899年 ねん トゥールーズ
ディリジェンス (diligence ) は4頭 とう かより多 おお くの馬 うま を使 つか った堅固 けんご な馬車 ばしゃ で、フランス語 ふらんすご において公共 こうきょう 輸送 ゆそう を行 おこな う馬車 ばしゃ のことを指 さ す同義語 どうぎご であった。ドイツ においてはシュテルヴァーゲン (Stellwagen ) とかアイルヴァーゲン (Eilwagen ) と呼 よ ばれる少 すこ し違 ちが いのある派生 はせい 形 がた があった。ル・アーブル からパリ までのディリジェンスが、1803年 ねん にフランスを訪 おとず れた口 くち うるさいイギリス人 じん によってイギリスにおける駅 えき 馬車 ばしゃ と徹底的 てっていてき に比較 ひかく して描 えが かれている。
武 たけ 骨 ほね で洗練 せんれん されていない車 くるま はほとんど想像 そうぞう もできないものである。前部 ぜんぶ では幌 ほろ が車体 しゃたい に取 と り付 つ けられており、3人 にん の乗客 じょうきゃく を収容 しゅうよう でき、車体 しゃたい から突 つ き出 だ した屋根 やね により雨 あめ から守 まも られている。この前側 まえがわ には2枚 まい のよく油 あぶら を塗 ぬ って不快 ふかい なほど臭 くさ う重 おも い革 かわ 製 せい のカーテンが屋根 やね に取 と り付 つ けられている。広 ひろ く高 たか い内部 ないぶ は6人 にん ほどを快適 かいてき に収容 しゅうよう でき、皮 かわ 張 ば りで、旅行 りょこう 者 しゃ が小 しょう 銭 ぜに やたばこ、帽子 ぼうし 、ハンカチなどを入 い れる小 ちい さなポケットが付 つ いているが、これは同席 どうせき の人 ひと で共用 きょうよう する微妙 びみょう な保管 ほかん 場所 ばしょ である。屋根 やね からは大 おお きな網 あみ が張 は られており、帽子 ぼうし 、剣 けん 、荷物 にもつ を入 い れた箱 はこ などでいっぱいになっている。すべて便利 べんり にできており、全員 ぜんいん が席 せき に座 すわ ると、設備 せつび は決 けっ して不快 ふかい ではない。屋根 やね の上 うえ はインペリアルと呼 よ ばれる場所 ばしょ で、6人 にん か7人 にん がここに乗 の り、また一塊 ひとかたまり の荷物 にもつ が載 の せられているが、これは後部 こうぶ のバスケットにも収 おさ められて、荷物 にもつ が車両 しゃりょう 自体 じたい の半分 はんぶん ほどの高 たか さもある山 やま となっている。荷物 にもつ はロープや鎖 くさり などで固定 こてい され、大 おお きな鉄 てつ の巻 ま き上 あ げ機 き で締 し め上 あ げられているが、これ自体 じたい も馬車 ばしゃ の重量 じゅうりょう の一部 いちぶ となっている。馬車 ばしゃ の車体 しゃたい は木製 もくせい の重 おも い基礎 きそ に対 たい してスプリングではなく皮 かわ ひもで固定 こてい されており、全体 ぜんたい は7頭 とう の馬 うま で牽 ひ かれている。馬 うま のうち1頭 とう は御者 ぎょしゃ が乗 の っている[7] 。
イングランドからの訪問 ほうもん 者 しゃ は、小 ちい さく頑健 がんけん なノルマン馬 ば が「我々 われわれ の乗 の った重 おも い馬車 ばしゃ を牽 ひ いて、1時 じ 間 あいだ に6から7マイルの速 はや さで走 はし った」と記録 きろく している。この速度 そくど で駅 えき 馬車 ばしゃ は運河 うんが を行 い く船 ふね と競争 きょうそう になっていたが、ヨーロッパでは19世紀 せいき に鉄道 てつどう 網 もう が広 ひろ がるにつれて廃 すた れて行 い った。鉄道 てつどう 網 もう が伸 の びなかった地域 ちいき では、バス が広 ひろ まるまで駅 えき 馬車 ばしゃ が完全 かんぜん に無 な くなることはなかった。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく における駅 えき 馬車 ばしゃ [ 編集 へんしゅう ]
18世紀 せいき から原始 げんし 的 てき な馬車 ばしゃ が都市 とし 間 あいだ で旅客 りょかく を運 はこ ぶために用 もち いられ始 はじ め、最初 さいしょ はニューイングランド 内 うち において1744年 ねん に始 はじ まり、続 つづ いて1756年 ねん にはニューヨーク とフィラデルフィア を結 むす ぶようになった。後者 こうしゃ では、所要 しょよう 時間 じかん は3日 にち かかっていたのが、「フライング・マシン」と呼 よ ばれる改良 かいりょう された馬車 ばしゃ により1766年 ねん に2日 にち になった。旅客 りょかく と郵便 ゆうびん 物 ぶつ を輸送 ゆそう する、最初 さいしょ の郵便 ゆうびん 馬車 ばしゃ は18世紀 せいき 末 まつ に登場 とうじょう し、それ以前 いぜん に主要 しゅよう な道路 どうろ で走 はし っていた郵便 ゆうびん 騎手 きしゅ を置 お き換 か えた。馬車 ばしゃ の御者 ぎょしゃ は郵便 ゆうびん 物 ぶつ や小包 こづつみ 、現金 げんきん などを輸送 ゆそう し、しばしば取引 とりひき の決済 けっさい を行 おこな い、顧客 こきゃく のために信書 しんしょ を配達 はいたつ した。1829年 ねん にはボストン は77の駅 えき 馬車 ばしゃ 路線 ろせん の、3年 ねん 後 ご の1832年 ねん には106の駅 えき 馬車 ばしゃ 路線 ろせん のハブとなっていた。
ボストンとニューヨークを結 むす ぶ駅 えき 馬車 ばしゃ の運行 うんこう は、ニューヨークとプロビデンス の間 あいだ での蒸気 じょうき 船 せん の運行 うんこう が始 はじ まったことにより中止 ちゅうし された。しかしボストンからプロビデンスまでは、相変 あいか わらずアメリカ国内 こくない で最 もっと も頻繁 ひんぱん に駅 えき 馬車 ばしゃ が運行 うんこう されて、旅客 りょかく を蒸気 じょうき 船 せん に間 ま に合 あ うように6時 じ 間 あいだ で運 はこ んでいた。1830年代 ねんだい から鉄道 てつどう が都市 とし 間 あいだ を結 むす ぶようになると、駅 えき 馬車 ばしゃ の運行 うんこう 会社 かいしゃ は鉄道 てつどう の駅 えき から沿線 えんせん 外 がい の都市 とし や街 まち へと結 むす ぶようになった[8] 。
バッファロー・ソルジャー がコンコードを護衛 ごえい している様子 ようす 、1869年 ねん
コンコードと呼 よ ばれる種類 しゅるい の駅 えき 馬車 ばしゃ が最初 さいしょ に造 つく られたのは1827年 ねん である。アボット・ダウニング・カンパニーは駅 えき 馬車 ばしゃ の車体 しゃたい に皮 かわ 製 せい のストラップを支 ささ えとして用 もち い、これによりスプリングのサスペンションのような上下 じょうげ の振動 しんどう ではなく、横 よこ に揺 ゆ れる動 うご きをできるようになった。この会社 かいしゃ は40種類 しゅるい 以上 いじょう の馬車 ばしゃ をニューハンプシャー州 しゅう コンコード にある工場 こうじょう で生産 せいさん していた。コンコードの駅 えき 馬車 ばしゃ はとても頑丈 がんじょう に造 つく られているため、壊 こわ れて使 つか えなくなるのではなく使 つか い古 ふる して使 つか えなくなるのだとされていた。このタイプの馬車 ばしゃ は南 みなみ アメリカ、オーストラリア、アフリカなどにも販売 はんばい された。約 やく 700両 りょう のコンコードが、1847年 ねん に解散 かいさん するまでにアボット・ダウニングの当初 とうしょ の工場 こうじょう で生産 せいさん された[要 よう 出典 しゅってん ] 。会社 かいしゃ は事業 じぎょう 記録 きろく によれば、引 ひ き続 つづ き馬車 ばしゃ や荷車 にぐるま を1898年 ねん まで生産 せいさん していた[要 よう 出典 しゅってん ] 。マーク・トウェイン はその1872年 ねん の本 ほん 「西部 せいぶ 放浪 ほうろう 記 き (英語 えいご 版 ばん ) 」において、コンコードの乗 の り心地 ごこち を「車輪 しゃりん 上 じょう のゆりかご」と例 たと えている。
「ザ・カリフォルニア・ステージ・カンパニー」[9] というバラードは、カリフォルニア・ゴールドラッシュ 当時 とうじ の悪 あく 路 ろ を走 はし る駅 えき 馬車 ばしゃ の旅行 りょこう の状況 じょうきょう をわずかに誇張 こちょう して描 えが いている。馬車 ばしゃ の車内 しゃない では3つのベンチシートが置 お かれ、旅客 りょかく は1人 ひとり あたり15インチ (約 やく 38 cm )の幅 はば に押 お し込 こ められていた。最 さい 後列 こうれつ と真 ま ん中 なか の列 れつ の席 せき は前 まえ を向 む き、最 さい 前列 ぜんれつ の席 せき は後 うし ろを向 む いていた。最 さい 前列 ぜんれつ と真 ま ん中 なか の列 れつ に座 すわ っている旅客 りょかく は、膝 ひざ を互 たが い違 ちが いに交 まじ えるように乗 の らなければならなかった。中央 ちゅうおう の席 せき に座 すわ っている旅客 りょかく は、長旅 ながたび にもかかわらずわずかな革 かわ 製 せい のストラップが背中 せなか を支 ささ えているだけであった。荷物 にもつ は膝 ひざ の上 うえ に抱 かか え、郵便 ゆうびん 物 ぶつ を入 い れた袋 ふくろ が足 あし の下 した に置 お かれることもあった。馬車 ばしゃ の動 うご きにより乗 の り物 もの 酔 よ い に悩 なや まされる旅客 りょかく もおり、特 とく に悪 あく 路 ろ において硬 かた い座席 ざせき や屋根 やね 、車体 しゃたい 側面 そくめん などに体 からだ を打 う ち付 つ けられる拷問 ごうもん のような動 うご きが加 くわ わるとさらに悪化 あっか した。
駅 えき 馬車 ばしゃ は、悪天候 あくてんこう や敵対 てきたい 的 てき なインディアン、悪党 あくとう などに見舞 みま われる環境 かんきょう をセントルイス からサンフランシスコ まで22日間 にちかん かけて、可能 かのう ならば夜間 やかん も走 はし る国土 こくど 横断 おうだん のバターフィールド・オーバーランド・メール (英語 えいご 版 ばん ) などでも使用 しよう された。こうした国土 こくど 横断 おうだん の駅 えき 馬車 ばしゃ は、馬 うま を替 か えるために途中 とちゅう のステーションにほんのわずかに停車 ていしゃ するのみであった。旅客 りょかく は貧弱 ひんじゃく な食事 しょくじ を得 え られるだけで、休憩 きゅうけい はなかった。もし途中 とちゅう のステージで旅客 りょかく が休憩 きゅうけい のために降 お りると、次 つぎ に来 く る馬車 ばしゃ のステージに空 あ き席 せき がなければ、その場所 ばしょ に1週間 しゅうかん 以上 いじょう も閉 と じ込 こ められてしまうことがあった。馬 うま が疲 つか れ果 は ててしまったときに救援 きゅうえん するため、あるいは道路 どうろ が砂 すな になっている区間 くかん で馬車 ばしゃ を軽 かる くするために、旅客 りょかく は馬車 ばしゃ から降 お りて歩 ある くことを求 もと められることがあり、また上 のぼ り坂 ざか や泥沼 どろぬま につかまってしまった時 とき などには馬車 ばしゃ を押 お すことが求 もと められることもあった[10] [11] 。馬車 ばしゃ に押 お し込 こ められている旅客 りょかく は、ウェルズ・ファーゴ (現在 げんざい は金融 きんゆう 業者 ぎょうしゃ になっているが、元 もと は駅 えき 馬車 ばしゃ 運行 うんこう 業者 ぎょうしゃ )が以下 いか のような旅客 りょかく の行動 こうどう に関 かん する規則 きそく を各 かく 馬車 ばしゃ に張 は り出 だ さなければならないような状況 じょうきょう を生 う み出 だ した。
酒 さけ を飲 の むことは自粛 じしゅく してほしいが、飲 の む場合 ばあい は他 た の人 ひと と分 わ け合 あ って飲 の まなければならない。そうしなければ自分勝手 じぶんがって で人 ひと づきあいが悪 わる いとみなされるだろう。
女性 じょせい が乗 の っている場合 ばあい 、たばこやパイプなど、女性 じょせい に不快 ふかい なものは避 さ けて欲 ほ しい。噛 か みタバコ は構 かま わないが、風 ふう にうまく乗 の るように吐 は き捨 す てて欲 ほ しい。
女性 じょせい や子供 こども が乗 の っている場合 ばあい 、荒 あら い言葉 ことば 遣 づか いは避 さ けなければならない。
寒 さむ い時 とき にはバッファローのローブが提供 ていきょう される。ローブの独 ひと り占 じ めは許 ゆる されない。違反 いはん した者 もの は御者 ぎょしゃ の隣 となり に座 すわ ってもらう。
寝 ね る際 さい は、大 おお きないびきをかいたり、隣 となり の旅客 りょかく の肩 かた にもたれかかったりしてはならない。摩擦 まさつ が生 しょう じることがある。
銃器 じゅうき は非常時 ひじょうじ に備 そな えて各人 かくじん で保管 ほかん して良 よ い。馬 うま を驚 おどろ かせるので、気晴 きば らしに外 そと を撃 う ったり野生 やせい 動物 どうぶつ を撃 う ったりしてはならない。
馬 うま が暴走 ぼうそう した場合 ばあい でも落 お ち着 つ いて行動 こうどう せよ。慌 あわ てて外 そと に飛 と び出 だ すと、怪我 けが をしたまま取 と り残 のこ されることになり、厳 きび しい自然 しぜん や敵対 てきたい 的 てき なインディアン、飢 う えたコヨーテの洗礼 せんれい をうけるであろう。
会話 かいわ において禁句 きんく とされるのは、駅 えき 馬車 ばしゃ 強盗 ごうとう とインディアンの襲撃 しゅうげき である。
女性 じょせい に対 たい して紳士 しんし らしからぬ振 ふ る舞 ま いを働 はたら いた男性 だんせい はその場 ば で降 お ろされる。歩 ある いて帰 かえ るには長 なが い道 みち である。あなたが賢 かしこ いならこの警告 けいこく に従 したが うであろう[12] 。
長距離 ちょうきょり の大陸 たいりく 横断 おうだん 駅 えき 馬車 ばしゃ の旅客 りょかく には、持 も って行 い くべき装備 そうび 品 ひん の推奨 すいしょう があった。ニューメキシコ州 しゅう を通 とお る初期 しょき の駅 えき 馬車 ばしゃ 、ジャッカス・メール (Jackass Mail) では、サンディエゴ の新聞 しんぶん が「1丁 ちょう のシャープス銃 じゅう と100発 はつ の弾 たま 、コルト の回転 かいてん 式 しき 拳銃 けんじゅう と2ポンドの鉛 なまり 、ナイフ、厚 あつ い羊毛 ようもう のズボン、6足 そく の厚 あつ い靴下 くつした 、6枚 まい のアンダーシャツ、3枚 まい のシャツ、広縁 ひろえん の中折 なかおれ 帽 ぼう 、サックコート、オーバーコート、夏 なつ なら1枚 まい 、冬 ふゆ なら2枚 まい の毛布 もうふ 、作業 さぎょう 用 よう 手袋 てぶくろ 、針 はり 、ピン、スポンジ、ヘアブラシ、くし、石鹸 せっけん 、2枚 まい のズロース、3枚 まい または4枚 まい のタオル」を推奨 すいしょう していた[13] 。後 ご のバッターフィールドの駅 えき 馬車 ばしゃ 路線 ろせん では、旅客 りょかく にピストルかナイフを携行 けいこう するよう勧 すす めていた。
長距離 ちょうきょり であれ短距離 たんきょり であれ、駅 えき 馬車 ばしゃ で旅 たび する旅客 りょかく にとって真 しん に危険 きけん なのは、20世紀 せいき 初頭 しょとう に至 いた るまで、盗賊 とうぞく による強盗 ごうとう の脅威 きょうい であった。現金 げんきん による給与 きゅうよ や銀行 ぎんこう 間 あいだ の送金 そうきん などがこうした定期 ていき 駅 えき 馬車 ばしゃ 路線 ろせん により定期 ていき 的 てき に輸送 ゆそう されていた。カリフォルニアでは最初 さいしょ の駅 えき 馬車 ばしゃ 強盗 ごうとう が1852年 ねん 4月 がつ に発生 はっせい し、リールフット・ウィリアムズ率 ひき いる盗賊 とうぞく 団 だん がネバダシティ 付近 ふきん のステージをイリノイタウン郊外 こうがい で襲撃 しゅうげき した[14] [15] 。トム・ベル (英語 えいご 版 ばん ) は初期 しょき のよく統率 とうそつ のとれた駅 えき 馬車 ばしゃ 強盗 ごうとう 団 だん を率 ひき いており、金 かね の出荷 しゅっか や金持 かねも ちの旅客 りょかく が乗車 じょうしゃ した駅 えき 馬車 ばしゃ が出 で ると通報 つうほう する情報 じょうほう 提供 ていきょう 者 しゃ を使 つか っていた。この盗賊 とうぞく 団 だん は1856年 ねん 中 ちゅう 活躍 かつやく したが、「ガラガラヘビのディック」の通称 つうしょう で知 し られるリチャード・バーター (英語 えいご 版 ばん ) など、ベルの方法 ほうほう を利用 りよう した盗賊 とうぞく 団 だん が後 のち に続 つづ いた。盗賊 とうぞく の中 なか でも成功 せいこう した者 もの として知 し られるのは、ブラック・バートとしても知 し られるチャールズ・ボウルズ (英語 えいご 版 ばん ) で、カリフォルニアのステージを1875年 ねん から1883年 ねん にかけて襲撃 しゅうげき していた。金 かね の採掘 さいくつ が西部 せいぶ 一帯 いったい に広 ひろ がるにつれて、駅 えき 馬車 ばしゃ 強盗 ごうとう も広 ひろ がっていった。
駅 えき 馬車 ばしゃ の旅客 りょかく は、駅 えき 馬車 ばしゃ 内 ない でもステーションにおいても、インディアンの襲撃 しゅうげき にも直面 ちょくめん していた。中央 ちゅうおう 部 ぶ を横断 おうだん する駅 えき 馬車 ばしゃ やポニー・エクスプレス のステーションでは何 なん 度 ど かインディアンの襲撃 しゅうげき があった。最悪 さいあく の襲撃 しゅうげき は1861年 ねん にニューメキシコ準 じゅん 州 しゅう におけるものであった。この年 とし の2月 がつ に発生 はっせい したバスコム事件 じけん (英語 えいご 版 ばん ) までは、サンアントニオ とサンディエゴを結 むす ぶギディングス・ラインとニューメキシコ準 じゅん 州 しゅう のアパッチ族 ぞく の関係 かんけい は良好 りょうこう であった。ニューメキシコ準 じゅん 州 しゅう メシラ (英語 えいご 版 ばん ) からアリゾナ準 じゅん 州 しゅう ツーソン までの駅 えき 馬車 ばしゃ ステーションのほとんどの干 ほ し草 くさ は、アパッチ族 ぞく が供給 きょうきゅう していた。事件 じけん 後 ご 、コーチーズ (英語 えいご 版 ばん ) がアパッチ族 ぞく の土地 とち から白人 はくじん を追 お い出 だ そうとアパッチ戦争 せんそう を開始 かいし した。この結果 けっか 、6台 だい の駅 えき 馬車 ばしゃ の乗員 じょういん と旅客 りょかく が死亡 しぼう し、これらの馬車 ばしゃ は焼 や かれ、そして1か所 しょ を除 のぞ く途中 とちゅう のステーションが破壊 はかい されてその管理 かんり 者 しゃ が殺 ころ された。ゼネラルマネージャーの兄弟 きょうだい のジェームズ・ギディングスは、コーチーズを探 さが し制圧 せいあつ しようと試 こころ みたが、さらにギディングス自身 じしん と6人 にん の男 おとこ たちが死 し ぬことになった。こうした被害 ひがい と、南北戦争 なんぼくせんそう が始 はじ まったことで、南部 なんぶ の大陸 たいりく 横断 おうだん ルートの駅 えき 馬車 ばしゃ は終焉 しゅうえん を迎 むか えることになった[16] 。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 郵便 ゆうびん 公社 こうしゃ の郵便 ゆうびん 輸送 ゆそう をするウェルズ・ファーゴの馬車 ばしゃ
地域 ちいき 間 あいだ の対立 たいりつ が合衆国 がっしゅうこく を分裂 ぶんれつ させていた時期 じき 、駅 えき 馬車 ばしゃ はミシシッピ川 がわ 沿 ぞ いのアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 中西部 ちゅうせいぶ にあるミズーリ州 しゅう セントルイス と、西部 せいぶ のカリフォルニア州 しゅう サンフランシスコ の間 あいだ を結 むす ぶ定期 ていき 交通 こうつう 手段 しゅだん となっていた。よく、ポニー・エクスプレスが初 はじ めて北 きた アメリカ大陸 あめりかたいりく を横断 おうだん して太平洋 たいへいよう 岸 がん へ高速 こうそく に郵便 ゆうびん 物 ぶつ を輸送 ゆそう するようになったと誤 あやま って伝 つた えられているが、実際 じっさい にはジャッカス・メールと呼 よ ばれるサンアントニオ-サンディエゴ間 あいだ の駅 えき 馬車 ばしゃ 路線 ろせん が先 さき であった。このうち最後 さいご のユマ砦 とりで (英語 えいご 版 ばん ) からサンディエゴに至 いた る180マイルは、駅 えき 馬車 ばしゃ ではなくラバの背 せ に荷物 にもつ を積 つ んで運 はこ んでいた[17] 。このジャッカス・メールは2か月 げつ に1回 かい の割合 わりあい で、テキサス州 しゅう サンアントニオとカリフォルニア州 しゅう サンディエゴの間 あいだ の1,500マイルを、1857年 ねん 7月 がつ 9日 にち から1858年 ねん 12月 がつ まで結 むす んでいた。またジョージ・チョーペニング (英語 えいご 版 ばん ) によるバッターフィールド・オーバーランド・メールもポニー・エクスプレスより3年 ねん ほど早 はや かった。
バッターフィールド・オーバーランド・メールは1858年 ねん 9月 がつ 15日 にち から、週 しゅう に2回 かい の郵便 ゆうびん 輸送 ゆそう を開始 かいし した。バッターフィールド・オーバーランド・コンコードの駅 えき 馬車 ばしゃ はサンフランシスコから、また別 べつ の大陸 たいりく 横断 おうだん ステージはより良 よ い道 みち を使 つか ってティプトン (英語 えいご 版 ばん ) から出発 しゅっぱつ していた。道 みち が悪 わる くなるにつれて、旅客 りょかく と郵便 ゆうびん 物 ぶつ はより悪 あく 路 ろ 向 む けに設計 せっけい された「迅速 じんそく 馬車 ばしゃ 」と呼 よ ばれる馬車 ばしゃ に乗 の り移 うつ った。走行 そうこう 距離 きょり は2,812マイルで、郵便 ゆうびん 物 ぶつ 輸送 ゆそう に対 たい して政府 せいふ が対価 たいか として保証 ほしょう していた60万 まん ドルを得 え るには25日 にち 以内 いない で走破 そうは する必要 ひつよう があった。
1860年 ねん 3月 がつ 、ジョン・バッターフィールドは債務 さいむ のためにこの業務 ぎょうむ を撤退 てったい せざるを得 え なくなった。南北戦争 なんぼくせんそう の開始 かいし に伴 ともな い、駅 えき 馬車 ばしゃ 運行 うんこう 会社 かいしゃ はオックスボウ・ルートの使用 しよう の中止 ちゅうし に追 お い込 こ まれ、代 か わりにセントラル・オーバーランド・ルート (英語 えいご 版 ばん ) の使用 しよう を開始 かいし した。このルートの東側 ひがしがわ 、セントルイスからコロラド州 しゅう デンバー まではベン・ホラデイにより引 ひ き継 つ がれた。ホラデイは勤勉 きんべん で進取 しんしゅ の気性 きしょう に富 と んだ特徴 とくちょう のある人物 じんぶつ で、駅 えき 馬車 ばしゃ 王 おう として知 し られるようになった。デンバーからサンフランシスコまでの西側 にしがわ の区間 くかん では、バッターフィールドの負 お う莫大 ばくだい な債務 さいむ のために、事業 じぎょう はウェルズ・ファーゴ に引 ひ き継 つ がれた。ウェルズ・ファーゴは、膨大 ぼうだい な数 かず の中継 ちゅうけい ステーション、砦 とりで 、馬 うま 、人員 じんいん 、馬車 ばしゃ を抱 かか えて1866年 ねん までに長距離 ちょうきょり 駅 えき 馬車 ばしゃ ・郵便 ゆうびん 輸送 ゆそう における独占 どくせん を確立 かくりつ した。大陸 たいりく 横断 おうだん の駅 えき 馬車 ばしゃ は、1869年 ねん に大陸 たいりく 横断 おうだん 鉄道 てつどう が完成 かんせい したことで終焉 しゅうえん を迎 むか えることになった。
アメリカにおける最後 さいご の利用 りよう :短距離 たんきょり 輸送 ゆそう [ 編集 へんしゅう ]
アメリカにおける駅 えき 馬車 ばしゃ の最後 さいご の使用 しよう は、1890年 ねん から1920年代 ねんだい 末 まつ までで、アリゾナ州 しゅう ヤング (英語 えいご 版 ばん ) へ至 いた る道 みち が舗装 ほそう されて駅 えき 馬車 ばしゃ がフォード の自動車 じどうしゃ に置 お き換 か えられたときであった。最終 さいしゅう 的 てき に馬 うま が牽引 けんいん する車両 しゃりょう の使用 しよう を終 お わらせたのは、鉄道 てつどう ではなくバスであり、20世紀 せいき 初期 しょき には多 おお くの路線 ろせん バス会社 かいしゃ が設立 せつりつ された。鉄道 てつどう の主要 しゅよう 路線 ろせん 網 もう が完成 かんせい した後 のち 、そこから短距離 たんきょり であるがより高 たか い場所 ばしょ にある地点 ちてん まで鉄道 てつどう を建設 けんせつ するのはしばしば非 ひ 現実 げんじつ 的 てき であった。
主要 しゅよう な鉄道 てつどう 路線 ろせん 網 もう から10から25マイル程度 ていど の距離 きょり にある町 まち で、1,000フィート かそれ以上 いじょう 高度 こうど が高 たか ければ、鉄道 てつどう を建設 けんせつ するのはその急 きゅう 勾配 こうばい のためにとても技術 ぎじゅつ 的 てき に難 むずか しくまた高価 こうか であった。この最後 さいご の区間 くかん は、前述 ぜんじゅつ のほぼ25年間 ねんかん 、短距離 たんきょり の駅 えき 馬車 ばしゃ 路線 ろせん で結 むす ばれており、典型 てんけい 的 てき には半日 はんにち 以下 いか の旅程 りょてい であった。鉄道 てつどう の本線 ほんせん が営業 えいぎょう を開始 かいし すると、20世紀 せいき に入 はい るころまではこれに接続 せつぞく する駅 えき 馬車 ばしゃ 路線 ろせん が開設 かいせつ されていった。こうした路線 ろせん は最終 さいしゅう 的 てき にバスに置 お き換 か えられ、このため多 おお くの短距離 たんきょり バス路線 ろせん は初期 しょき にはモーターステージなどと呼 よ ばれていた。1918年 ねん までに、駅 えき 馬車 ばしゃ はいくつかの山岳 さんがく リゾート や西部 せいぶ の国立 こくりつ 公園 こうえん において、古 ふる き良 よ き西部 せいぶ のロマンの一環 いっかん として観光 かんこう 客 きゃく 向 む けに営業 えいぎょう されているのみであった。
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『駅 えき 馬車 ばしゃ (交通 こうつう ) 』 - コトバンク