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黒木くろき博司ひろし

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黒木くろき 博司ひろし
Major,Hiroshi Kuroki
黒木くろき 博司ひろし
生誕せいたん (1921-09-11) 1921ねん9月11にち
日本の旗 日本にっぽん 岐阜ぎふけん益田ますだぐん下呂げろむら
死没しぼつ (1944-09-07) 1944ねん9月7にち(22さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん 山口やまぐちけん黒髪島くろかみしまおき
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん
ぐんれき 1942 - 1944
最終さいしゅう階級かいきゅう 海軍かいぐん少佐しょうさ
墓所はかしょ 岐阜ぎふけん下呂げろ温泉寺おんせんじ
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黒木くろき 博司ひろし(くろき ひろし、1921ねん大正たいしょう10ねん9月11にち - 1944ねん昭和しょうわ19ねん9月7にち)は、日本にっぽん海軍かいぐん軍人ぐんじん海軍かいぐん機関きかん学校がっこう51太平洋戦争たいへいようせんそう末期まっき仁科にしなせきおっと中尉ちゅういとともに人間にんげん魚雷ぎょらい回天かいてん」を創案そうあんし、みずからも搭乗とうじょうして訓練くんれんちゅう事故じこ殉職じゅんしょくした。最終さいしゅう階級かいきゅう海軍かいぐん少佐しょうさ

来歴らいれき

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開戦かいせんまで

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1921ねん大正たいしょう10ねん)9がつ11にち岐阜ぎふけん益田ますだぐん下呂げろむらげん下呂げろ)でまれる[1]幼少ようしょうより成績せいせき優秀ゆうしゅう努力どりょくで、黒木くろき尊皇そんのうこころざしあつく、黒木くろき父親ちちおやまち医師いしとして近隣きんりんまずしい農民のうみん医療いりょうおおきく貢献こうけんしていた[2]母親ははおやも「ひゃくにんひとわらわれても一人ひとりただしいひとめられるよう、ひゃくにんひとめられても一人ひとりただしいひとわらわれないよう」とおしえた[3]旧制きゅうせい岐阜ぎふ中学校ちゅうがっこう卒業そつぎょう1938ねん昭和しょうわ13ねん)12月1にち海軍かいぐん機関きかん学校がっこう51)へ入学にゅうがくする[4][ちゅう 1][ちゅう 2]機関きかん学校がっこうせい3ねんだった1940ねん昭和しょうわ15ねん)8がつ中旬ちゅうじゅん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく国史こくしがく教授きょうじゅだった平泉ひらいずみきよし出会であい、ふか傾倒けいとうした[6]ふつしるし進駐しんちゅう日本にっぽん連合れんごうこくとの関係かんけい悪化あっかすると、武力ぶりょく衝突しょうとつ予期よきした黒木くろきいもうとへの手紙てがみで「さんねん以内いない日米にちべいせんがおき、にち戦争せんそう以上いじょうおおくのしん決死けっしたい必要ひつようだろう。自分じぶん広瀬ひろせ中佐ちゅうさ[ちゅう 3]をモットーにしてじゅんじる覚悟かくごだ」と決意けついかたった[7]1941ねん(昭和しょうわ16ねん)11月15にち海軍かいぐん機関きかん学校がっこう卒業そつぎょうする。どう15にちづけ海軍かいぐん機関きかん少尉しょうい候補こうほせいとなり、当時とうじ旧式きゅうしきだった扶桑ふそうがた戦艦せんかん山城やましろ乗組のりくみめいじられる[5]。ただちに瀬戸内海せとないかい所在しょざいの「山城やましろ」に着任ちゃくにんし、同年どうねん12月8にち太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせんむかえる[8]黒木くろき分隊ぶんたいとして70めいあまり部下ぶかひきいることになり、当時とうじ山城やましろ機関きかんちょうは「何事なにごとでも部下ぶか先頭せんとうち、部下ぶかにやらすこと自分じぶんでもやりとおしていた」と回想かいそうしている[9]

回天かいてん誕生たんじょう

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黒木くろき仁科にしなとも創案そうあんした「回天かいてん

1942ねん昭和しょうわ17ねん)5がつ下旬げじゅんから6がつ上旬じょうじゅんミッドウェー作戦さくせんに、黒木くろき乗艦じょうかんする「山城やましろ」は、連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん山本やまもと五十六いそろく大将たいしょうだいいち艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん高須たかす四郎しろう中将ちゅうじょうひきいるちから部隊ぶたい(戦艦せんかん部隊ぶたい)として内地ないち出撃しゅつげきした。 ミッドウェーとう航行こうこうちゅうの6がつ1にちづけ黒木くろき海軍かいぐん機関きかん少尉しょうい任官にんかんし、つづき「山城やましろ乗組のりくみめいじられた[10]。6月5にちミッドウェー海戦かいせんで、日本にっぽん海軍かいぐん主力しゅりょく空母くうぼ4せき喪失そうしつする。「山城やましろ」はまった戦局せんきょく寄与きよできず、燃料ねんりょう消費しょうひしただけでげた[11]大艦だいかんきょほう主義しゅぎ完全かんぜん見切みきりをつけた黒木くろきは、潜水艦せんすいかん勤務きんむ熱望ねつぼうするようになった[12]

7がつ15にち山城やましろ乗組のりくみめんぜられ、鎮守ちんじゅづけとなる[13]山城やましろ機関きかん分隊ぶんたい部下ぶかは、黒木くろきとの別離べつりしんでなみだ見送みおくったという[14]黒木くろき海軍かいぐん潜水せんすい学校がっこう普通ふつう科学かがくせいとして採用さいようされた[15]真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき特殊とくしゅ潜航せんこうていによる片道かたみち攻撃こうげき(きゅう軍神ぐんしん)に感銘かんめいけていた黒木くろきは、きのえ標的ひょうてき搭乗とうじょういん熱望ねつぼうして血書けっしょおくり、配置はいち転換てんかん実現じつげんした[16]

同年どうねん12がつ特殊とくしゅ潜航せんこうていきのえ標的ひょうてき講習こうしゅういん(だい6)となる。倉橋島くらはしじまとくせん訓練くんれん基地きち(Pもと)で訓練くんれんや、きのえ標的ひょうてき改良かいりょうはげんだ[17]1943ねん(昭和しょうわ18ねん)4がつ1にちからよく19ねん3がつまつまで、黒木くろきみずからの血液けつえきで「鉄石てっせきしん」という日記にっきいた[18][19]同年どうねん10がつ黒木くろき仁科にしなせきおっと中尉ちゅうい(海兵かいへい71)と同室どうしつとなる[20]二人ふたりは「魚雷ぎょらい人間にんげん操縦そうじゅうし、敵艦てきかんへの命中めいちゅうりつたかくする」という、の「回天かいてん」の原型げんけいとなる人間にんげん魚雷ぎょらい発案はつあんした[ちゅう 4][ちゅう 5]どう時期じききのえ標的ひょうてき母艦ぼかんであった特殊とくしゅかん千代田ちよだ」はけい空母くうぼ改造かいぞうされ、もう1せきかぶと標的ひょうてき母艦ぼかん日進にっしん」は同年どうねん7がつ下旬げじゅんソロモン諸島しょとう沈没ちんぼつきのえ標的ひょうてき活躍かつやくできる場面ばめん限定げんていされつつあった[16]。 11月まつ黒木くろき私淑ししゅくする平泉ひらいずみした訪問ほうもんし「かんせい本部ほんぶ重大じゅうだい進言しんげんため割腹かっぷくする」とわかれをげたが、説得せっとくによりおもとどまった[23]つづ黒木くろき仁科にしな必死ひっし兵器へいき開発かいはつ嘆願たんがんするが、同年どうねん12月28にち永野ながの修身しゅうしん軍令ぐんれい総長そうちょうから「それはいかん」と却下きゃっかされた。 なお黒木くろき海軍かいぐん上層じょうそう指導しどうそうたいして批判ひはんてきで「中央ちゅうおう怠慢たいまん国賊こくぞくというのそとなし」とっている[ちゅう 6]。 また人間にんげん魚雷ぎょらいだけで戦局せんきょくえられるとはかんがえておらず、海軍かいぐん全体ぜんたい特攻とっこう精神せいしん徹底てっていするほかはないとしていた[ちゅう 7]

当時とうじ日本にっぽん海軍かいぐんは、ブーゲンビルとうたたかマーシャル諸島しょとう失陥しっかんによって、連合れんごうぐん圧倒あっとうされつつあった[26]とくに1944ねん(昭和しょうわ19ねん)2がつ17にち18にちトラックとう空襲くうしゅうで、航空機こうくうき輸送ゆそうせん壊滅かいめつてき打撃だげきけた[27]2がつ26にちつい中央ちゅうおう海軍かいぐん工廠こうしょう魚雷ぎょらい実験じっけんたいして黒木くろき仁科にしな両者りょうしゃ考案こうあんした人間にんげん魚雷ぎょらい試作しさくめいじたが、同時どうじに「乗員じょういん脱出だっしゅつ装置そうちいのでは(兵器へいきとして)採用さいようしない」との条件じょうけんされた。それでも黒木くろき仁科にしな両者りょうしゃはその条件じょうけんれたことで試作しさく続行ぞっこうされ、同年どうねん4がつには試作しさくされた人間にんげん魚雷ぎょらいに「○6(マルロク)」のかり名称めいしょうき、かんせい本部ほんぶでは担当たんとう主務しゅむさだめて特殊とくしゅ緊急きんきゅう実験じっけん開始かいしされた。 同年どうねん6がつ、「急務きゅうむ所見しょけん」とだいする血書けっしょ意見いけんしょ作成さくせいし、海軍かいぐん上層じょうそう提出ていしゅつした[28]。 こうして同年どうねん7がつ試作しさく完成かんせいし、即刻そっこく大入島おおにゅうしま発射はっしゃじょう試験しけんおこなわれたが、条件じょうけんとしていた「乗員じょういん脱出だっしゅつ装置そうち」が完成かんせいだったため装備そうびされなかったそと試験しけん終了しゅうりょう兵器へいきとして採用さいようするためあらたな問題もんだいてんいくつかがったが、これらの課題かだい結局けっきょく終戦しゅうせんまで解決かいけつのまま、のり発進はっしんすれば生還せいかん不可能ふかのう必死ひっし必殺ひっさつ特攻とっこう兵器へいきとなった。

同年どうねん7がつ10日とおか日本にっぽん海軍かいぐん特殊とくしゅ潜航せんこうてい人間にんげん魚雷ぎょらい(回天かいてん)の訓練くんれん研究けんきゅう乗員じょういん養成ようせい目的もくてきとする「だいいち特別とくべつ基地きちたい」を新編しんぺんした(司令しれいかん長井ながいみつる少将しょうしょう[29]黒木くろき[30]仁科にしな[31]りょうともだいいち特別とくべつ基地きちたい配属はいぞくされた。 同年どうねん8がつ1にち米内よない光政みつまさ海軍かいぐん大臣だいじんによって正式せいしき日本にっぽんぐん兵器へいきとして採用さいようされ、黒木くろき仁科にしな両者りょうしゃ考案こうあん最終さいしゅうてきみとめられたこととなった。

1944ねん(昭和しょうわ19ねん)8がつ15にち大森おおもりせん太郎たろう特攻とっこう部長ぶちょうは「この兵器へいき(回天かいてん)を使用しようするべきかかを、判断はんだんする時期じきだ」と発言はつげん明治維新めいじいしんふねめいからこの兵器へいきを「回天かいてん」と命名めいめいした。そして同年どうねん9月1にち山口やまぐちけん大津おおつとう黒木くろき仁科にしな板倉いたくらひかり少佐しょうさ中心ちゅうしんとなって「回天かいてん基地きち開設かいせつされ、全国ぜんこくから志願しがんあつまった搭乗とうじょういん9月5にちから本格ほんかくてき訓練くんれん開始かいしされた[32]

殉職じゅんしょくぼつ

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黒木くろき仁科にしな両者りょうしゃ苦心くしんすえ兵器へいきとしての採用さいようみとめさせた「回天かいてん」を使用しようし、1944ねん昭和しょうわ19ねん9月5にちより本格ほんかくてき訓練くんれん開始かいしされた[33]よく9月6にちあささわやかな秋晴あきばれだったが、午前ごぜん10ごろから白波しらなみちはじめた[33]上別府かみべっぷせん大尉たいい海兵かいへい70)と仁科にしなせきおっと中尉ちゅうい海兵かいへい71)が同乗どうじょう訓練くんれんをおこなったときには、なみたかくなった[33]午後ごごになると天候てんこう悪化あっかし、海面かいめんがうねりした[33]同乗どうじょう訓練くんれんからもどった仁科にしなは、これから訓練くんれん開始かいししようとしていた黒木くろきに「わんがいなみたかいから訓練くんれん中止ちゅうししたほうがい」と進言しんげんした[34]基地きち指揮しきかん板倉いたくらひかり少佐しょうさ訓練くんれん中止ちゅうし決定けっていした[34]。しかし黒木くろき樋口ひぐちたかし大尉たいい海兵かいへい70)は訓練くんれん再開さいかい熱望ねつぼうした[34]黒木くろきは「これくらいのなみで(回天かいてんが)使つかえないなら、実戦じっせんではやくにたない」と主張しゅちょうし、板倉いたくられた[34]同日どうじつ1740ふん黒木くろき樋口ひぐち訓練くんれんよう回天かいてん同乗どうじょうして防波堤ぼうはていそと[34]樋口ひぐち操縦そうじゅうする「回天かいてん」は蛇島さしまけて針路しんろるが、成果せいか確認かくにん危険きけん防止ぼうしのためどうこうしていた内火艇ないかてい魚雷ぎょらいてい訓練くんれんよう回天かいてん見失みうしなった[35]板倉いたくらいたる民間みんかん漁船ぎょせんにも捜索そうさく協力きょうりょく依頼いらいして捜索そうさく開始かいししたが、悪天候あくてんこうのため救助きゅうじょ作業さぎょう難航なんこうした[35]。9月7にち午前ごぜん9捜索そうさくたい海底かいていにつきささった訓練くんれんよう回天かいてん発見はっけんし、黒木くろき樋口ひぐち両者りょうしゃ遺体いたいとなって発見はっけんされた[35]享年きょうねん22。23さい誕生たんじょうむかえる4にちまえだった。

訓練くんれん開始かいし直後ちょくご殉職じゅんしょく事故じこだったが訓練くんれん部隊ぶたい士気しきまったおとろえず、よく8にちあさには訓練くんれん再開さいかいこえがあがった[36]仁科にしな黒木くろき遺志いしぎ、自身じしん出撃しゅつげき(1944ねん11月8にちげん作戦さくせん菊水きくすいたい直前ちょくぜんまで「回天かいてん」の試作しさく段階だんかいりになった様々さまざま問題もんだい中心ちゅうしん改良かいりょう研究けんきゅう熱心ねっしんんでいた。1964ねん昭和しょうわ39ねん)、黒木くろき出身しゅっしんである岐阜ぎふけん下呂げろ信貴山しぎさん山頂さんちょうくすのき公社こうしゃ創建そうけんされ、黒木くろきなど「回天かいてん」で出撃しゅつげきして殉職じゅんしょくした138はしら合祀ごうしされている[ちゅう 8]黒木くろきはかは、岐阜ぎふけん下呂げろ温泉寺おんせんじにある。

事故じこ原因げんいん

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辞世じせいうた

1944ねん昭和しょうわ19ねん9月6にち午後ごご6ぎに発生はっせいした事故じこ原因げんいんは、時化しけによって訓練くんれんよう回天かいてんいちごうてき」がなみたたかれ、急激きゅうげきなダウンによって水深すいしん20mの海底かいていどろさり、救助きゅうじょまでのあいだていない酸素さんそがもたず、さんかけによって殉職じゅんしょくしたとおもわれる。

普段ふだんおだやかな瀬戸内海せとないかいにもかかわらず、9月6にち瀬戸内海せとないかいなみかぜがあり、午後ごごになって天候てんこう悪化あっかした[33]板倉いたくら同僚どうりょう仁科にしな反対はんたいたいして、黒木くろきは「天候てんこうわるいからといって(てき侵攻しんこうを)ってくれないぞ」と訓練くんれん開始かいし主張しゅちょうし、同乗どうじょうした樋口ひぐち訓練くんれん開始かいし請願せいがん襲撃しゅうげき訓練くんれんおこなわれた[34]深度しんどけい5mで水中すいちゅう航行こうこうこころみたが、悪天候あくてんこうのため水深すいしん2mでの航行こうこうとなった[37]。ところが訓練くんれんよう回天かいてん自動的じどうてき調整ちょうせいされた深度しんど5mにくぐろうとしたためまえのめりとなり、不安定ふあんてい状態じょうたい航行こうこうつづけた[37]危険きけんかんじた黒木くろき浮上ふじょうめいじたが、なみたたかれて急激きゅうげきなダウンにより黒髪島くろかみしまおき海底かいていどろんでしまう(浮上ふじょうめいじたが俯角ふかく7深度しんどけい18mで固着こちゃく[38]どういちコースの海上かいじょうはしっていた2せき魚雷ぎょらいていは、いちせきかえ地点ちてんなみこうむって機関きかん浸水しんすいして航行こうこう不能ふのうに、もういちせきなみあらく、海底かいていに「いちごうてき」がさったときに出来でき気泡きほうつけられずに通過つうかしてしまった[35]遭難そうなん判明はんめいしたあと、捜索そうさくたいはたびたび海底かいてい訓練くんれんよう回天かいてん直上ちょくじょう通過つうかし、ていない黒木くろき樋口ひぐち気泡きほうしたりスパナでたたいて自己じこ位置いちらせた[38]。だが悪天候あくてんこうにより、捜索そうさくたい海底かいてい訓練くんれんよう回天かいてん見落みおとしてしまった[38]ていない二人ふたり自力じりき脱出だっしゅつこころみたが、水圧すいあつでハッチを開放かいほうできなかった[39]

黒木くろき樋口ひぐちよく7にちあさ発見はっけんされたが、やく10あいだていないじこめられたことによるさんかけ死亡しぼうしていた。死亡しぼう推定すいてい時刻じこくは、9月7にち午前ごぜん6ごろだった[35]ていないのこされた10あいだあいだに、「だいろく潜水せんすいてい」の佐久間さくまつとむていちょうにならって泰然たいぜんとして報告ほうこくしょ(19-9-6 回天かいてんだい1ごう海底かいてい突入とつにゅう事故じこ報告ほうこく)と遺書いしょをしたためている[40]以下いか記述きじゅつ要約ようやく原文げんぶん注釈ちゅうしゃく別記べっき)。

事故じこ状況じょうきょう

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* 9月6にち1740ふん出発しゅっぱつ蛇島さしまかって針路しんろり、18に180°取舵とりかじ。1810ふん潜航せんこう。1812ふん推定すいてい)に浮上ふじょうおこなうが突然とつぜん急激きゅうげき傾斜けいしゃ深度しんどけいは18mをしめし、海底かいていそこただちに緊急きんきゅう停止ていし当日とうじついちはちいちふん樋口ひぐち大尉たいい操縦そうじゅう黒木くろき大尉たいい同乗どうじょうだいいちごうてい海底かいてい突入とつにゅうセリ。直後ちょくご状況じょうきょう及所見次みつぎノ如シ)[37]
  • 応急おうきゅう処置しょちとして、5ふん間隔かんかくしゅ空気くうきを1分間ふんかん排気はいき気泡きほう海上かいじょうらせるためだが、洋上ようじょう追従ついしょうてい暗闇くらやみ風雨ふうう高波たかなみ気付きづかず)[38]電動でんどうたて舵機だき停止ていし。1845ふん - 1925ふんにかけてすうかいぬし空気くうき排気はいきしたのち空気くうき排気はいき出来できなくなる。
  • 回天かいてん」の改善かいぜんてん
  1. 悪天候あくてんこうあさ深度しんど高速こうそく潜航せんこう実験じっけん必要ひつよう[ちゅう 9]
  2. 事故じこそなえ、用便ようべん必要ひつようていない温度おんどげないため)[ちゅう 10][よう説明せつめい]
  3. 同一どういつの「回天かいてん」に2人ふたり搭乗とうじょうは、酸素さんそは7あいだ限界げんかい
  4. こう外灯がいとう応急おうきゅうブローが必要ひつよう[41]
  • 遺書いしょ
平泉ひらいずみ仁科にしなはじめとする先輩せんぱい友人ゆうじんなどへの感謝かんしゃ事故じこ自身じしん責任せきにんとの記述きじゅつのほか「天皇陛下てんのうへいかまんさい 大日本帝国だいにっぽんていこくまんさい 帝国ていこく海軍かいぐんまんさい[ちゅう 11]辞世じせい[ちゅう 12]うえ)など。
  • その状況じょうきょうていないのこされた文書ぶんしょ壁書へきしょによる)
9月6にち1955ふん酸素さんそ消費しょうひおさえるために睡眠すいみん
9月7にち4起床きしょう[ちゅう 13]辞世じせい[ちゅう 14]。45ふん万歳ばんざい三唱さんしょう[ちゅう 15]。445ふんきみ斉唱せいしょう、こののち呼吸こきゅう困難こんなんになる。6現在げんざいは2めいとも生存せいぞん[ちゅう 16]樋口ひぐち遺書いしょでは610ふんまで生存せいぞん[ちゅう 17] — 黒木くろき 博司ひろし
この訓練くんれんよう回天かいてんつかったのは午前ごぜん9ぎだった。

黒木くろき博司ひろしかんする書籍しょせき

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく
  1. ^ 海軍かいぐん機関きかん学校がっこう(51)にはいったのは岐阜ぎふけんでは黒木くろき1めいだったという。
  2. ^ うみ51相当そうとうする海軍兵学校かいぐんへいがっこう70には、黒木くろきとも殉職じゅんしょくした樋口ひぐちたかし回天かいてん特攻とっこうだいいちじん菊水きくすいたい37乗艦じょうかん)となった上別府かみべっぷせん神風かみかぜ特別とくべつ攻撃こうげきたいだいいちごうせき行男いくお終戦しゅうせん当日とうじつ宇垣うがきまとい中将ちゅうじょうとも特攻とっこうした中津留なかづる達雄たつお菊水きくすいたい仁科にしなせきおっと)が乗艦じょうかんした47航海こうかいちょう重本しげもとしゅん一等いっとうがいる[5]
  3. ^ にち戦争せんそう旅順りょじゅんこう閉塞へいそく作戦さくせん決死けっしたいとして参加さんか戦死せんしして軍神ぐんしんとなえられた広瀬ひろせ武夫たけお少佐しょうさ戦艦せんかん朝日あさひ水雷すいらいちょう)のこと。
  4. ^ 黒木くろき海軍かいぐん機関きかん学校がっこう在学ざいがくちゅう水雷すいらいじゅつ教官きょうかんから「もっと理想りそうとする魚雷ぎょらいなにか」といういにたいし、「人間にんげん操縦そうじゅうすれば百発百中ひゃっぱつひゃくちゅう」と回答かいとうしたという。この回答かいとうから、在学ざいがくちゅう(1938ねん-1941ねん)にはすでに「人間にんげん魚雷ぎょらい」の構想こうそうっていたことが推察すいさつされる。
  5. ^ 人間にんげん魚雷ぎょらい考案こうあんして海軍かいぐん中央ちゅうおう開発かいはつ進言しんげんした潜水艦せんすいかん乗組のりくみいん複数ふくすうじんおり[21]必死ひっし兵器へいき開発かいはつ構想こうそうは、黒木くろき仁科にしなのだけの特異とくいうごきではない[22]
  6. ^ (1944ねん6がつごろ原田はらだ周三しゅうぞう大尉たいいかたった言葉ことば[24]六月ろくがつげん戦局せんきょくたい急務きゅうむ所見しょけん各部かくぶ提出ていしゅつす。つい軍令ぐんれいかんほん賛成さんせいせり。仮称かしょう人間にんげん魚雷ぎょらい先鋒せんぽう採用さいよう決定けっていせり。目下めした々として準備じゅんびちゅう戦果せんかもとめず体当たいあた戦法せんぽう完成かんせいもとむるのみ。日本にっぽんみちここにあり。国難こくなん打開だかいみちここにあるをもっ実践じっせんせんのみ。航空こうくう方面ほうめんにこの戦法せんぽう採用さいようこいねがう。体当たいあた戦闘せんとう計画けいかくのこしてせん。/げん部隊ぶたいちょう国賊こくぞくなり。信念しんねんなく誠意せいいなし。職責しょくせきたいしてしかり。/問題もんだいまったひとにあり。決死けっし捨身しゃしん覚悟かくごなきにあり。そのなかなんとかなる、最後さいごのときはやると楽観らっかんして怠慢たいまんなるにあり。国民こくみんしかり。とく中央ちゅうおう怠慢たいまん国賊こくぞくというのそとなし。戦局せんきょく今日きょういたりし所以ゆえんまったものにあらずひとにあり。
  7. ^ 同僚どうりょう渡辺わたなべじょうかたった言葉ことば[25]自分じぶんていして回天かいてん研究けんきゅう没頭ぼっとうしているがただ此の兵器へいきのみをもっ厖大ぼうだいなるてき物量ぶつりょう撃破げきは出来できようとはゆめにもかんがえていない。自分じぶんねらいは此の兵器へいき縦横じゅうおう駆使くししててき体当たいあたりする精神せいしん重視じゅうしし此の特攻とっこう精神せいしんすみやかに海軍かいぐん全般ぜんぱん徹底てっていせしめんがためである。とく航空機こうくうき関係かんけいしゃ覚醒かくせいうながうみそら一体いったいとなっててき殺到さっとうする以外いがい絶対ぜったい皇国こうこく護持ごじするのみちなしとしんずる。
  8. ^ くすのき公社こうしゃ祭神さいじん楠木くすのき正成まさしげだが、これは1944ねん11月8にちの「回天かいてん初出しょしゅつげき部隊ぶたいめい菊水きくすいたい」が、楠木くすのき正成まさしげ家紋かもんである「菊水きくすい」に由来ゆらいするためである。
  9. ^ 波浪はろうだいナルトキあさ深度しんど高速こうそく潜航せんこう可否かひ実験じっけんようス。かくタル成績せいせきルマデ厳禁げんきん思考しこうス(若干じゃっかん処置しょちあやまリシハ、当所とうしょ水深すいしんじゅうべい判断はんだんシ、じつふかのうあたハザリシニヨル)早急そうきゅう酸化さんか曹達そうだ準備じゅんびスベシ
  10. ^ 事故じこニ備ヘテ、用便ようべん準備じゅんびようス(とくとうない冷却れいきゃくためメ)
  11. ^ 陛下へいかていヲ沈メたてまつたてまつリ、就中なかんづくなかんずくろくたいシテハ、かしこかしこクモ、陛下へいか期待きたいだいナリトはい聞シたてまつきょこうぎわ生産せいさんおもえハシカラズ、しか最初さいしょ実験じっけんしゃトシテ多少たしょう成果せいかツツモ、充分じゅうぶん後継こうけいしゃでんフルコトヲとくズシテ殉職じゅんしょくスルハ、まことまこと不忠ふちゅう申訳もうしわけナク慙愧ざんきざんきたいヘザル次第しだいこう必死ひっし必殺ひっさつてっスルニアラズンバ、而モニ於テ早急そうきゅうてっスルニアラズンバ、神州しんしゅう不滅ふめつなんシトそんたてまつこう/必ズ信州しんしゅうきょこぞッテ明日あしたヨリ即刻そっこくからだとうタリ戦法せんぽうてっスルコトヲ確信かくしん神州しんしゅう不滅ふめつうたぐハズ、よろこンデここかね覚悟かくご殉職じゅんしょくヲ致スモノニこう
  12. ^ 男子だんしやもことならずちぬとも かまし大和魂やまとだましい
    くにおもぬになれぬえきあらつよしますらおが とも々よびつつしてゆくらん
  13. ^ よん〇〇けつス。心身しんしん爽快そうかいナリ。
  14. ^ せんとす えきりょう男子だんしますらおのかなしみは まもらん たましいむなしき
  15. ^ よん絶筆ぜっぴつ樋口ひぐち大尉たいい最後さいご従容しょうようトシテ見事みごとナリ。わがまたどうジクセン。
  16. ^ ろく〇〇なお二人ふたり生存せいぞんス。あいやくぎょうきょうニス。
  17. ^ 指揮しきかん報告ほうこく予定よていノ如クこうはしいちはちいちさん潜入せんにゅう突如とつじょ傾斜けいしゃDOWNトナリ、海底かいていニ沈座ス。ソノ状況じょうきょう推定すいてい原因げんいん処置しょちとうハ、同乗どうじょう指導しどうかん黒木くろき大尉たいいセルどおりリナリ。事故じこノタメ訓練くんれん支障ししょうシ、マコトニ申訳もうしわけナキ次第しだいナリ。/後輩こうはい諸君しょくんニ 犠牲ぎせいヲ踏ミえつエテ突進とっしんセヨ/訓練くんれんちゅう事故じこおこりシタルハ、戦場せんじょうルベキ我々われわれさい遺憾いかんトスルトコロナリ。シカレドモ犠牲ぎせいじょうえつエテコソ、発展はってんアリ。我々われわれ失敗しっぱいセシ原因げんいん探求たんきゅうシ、帝国ていこくまもるルコノしゅ発展はってんもとンコトヲ。/周密しゅうみつナル計画けいかく大胆だいたんナル実施じっし。/〇よんさん呼吸こきゅうちょ困難こんなんナリ/なま即死そくし。〇よんよん〇/国家こっか斉唱せいしょうス。〇よんよん/〇ろく・〇〇なお二人ふたりせいク。くだりきょうニセン。/万歳ばんざい/〇ろくいち〇(以上いじょう樋口ひぐちたかし
出典しゅってん
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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 重本しげもと俊一しゅんいち回天かいてん発進はっしん わが出発しゅっぱつついおとずれず光人みつひとしゃ、1989ねん4がつISBN 4-7698-0436-9 
    • だいろくしょう憂国ゆうこく至情しじょう」、だいななしょう菊水きくすいはたのもと」
  • 重本しげもと俊一しゅんいちだいしょう ―「回天かいてん誕生たんじょう」『落日らくじつ日本にっぽん艦隊かんたい 体験たいけんてき連合れんごう艦隊かんたい始末しまつしお書房しょぼう光人みつひとしゃ光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ〉、2014ねん7がつISBN 978-4-7698-2841-9 
  • 宮本みやもと雅史まさしうみ特攻とっこう回天かいてん」』角川かどかわ学芸がくげい出版しゅっぱん角川かどかわソフィア文庫ぶんこ〉、2011ねん7がつISBN 978-4-04-405803-6 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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