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张九龄

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ちょうきゅうよわい
诗人
张九龄
张九龄石ぞう
朝代あさよとう
姓名せいめいちょうきゅうよわい
ことぶき
ぞく汉族
通稱つうしょうちょうきょくこう
出生しゅっしょうとうだかむねおおとりさんねん
678 ねん
とうだい韶州きょくこういま广东しょう韶关きょくにん
逝世からげんむねひらきもとじゅうはちねんろくがつにち
740ねん(63さい
韶州きょくこういま广东しょう韶关きょく
はかそうはじめほら (いま韶關北郊ほっこうはじめほら山麓さんろく)
おやぞく
父親ちちおやちょうひろしいよいよ
もとはいたん
もとはいちちたん
嫡子ちゃくしちょう
かんぐう》《かそけじんどく》《とどこおおもんばかあらいきよし》《もち此謝だかとり》《いんつてどおじょう》《日夕にっせきふところそら》《ひとだれかんいたりせい》《沉理へだた》《なんしょ慰吾まこと》《らんはる葳蕤》《かつらはなあきこうきよし》《春江はるえ晚景ばんけい》《とくきみ矣》《西にしこう夜行やこう》《こたえりく澧》《あきらきょう白髮はくはつ》《かえりつばめ》《おく韋城しょう》《みずうみこうもちいおりやま瀑布ばくふいずみ》《あきばん登樓とうろうもち南江なみえにゅうはじめおきぐん》《たてまつかずきよしせいおく尚書しょうしょつばめこくおおやけ赴朔かた》《姚令こう哭李尚書しょうしょ乂》
张九龄像,选自上官じょうかんしゅうばんわらいどう

张九龄(678ねん—740ねん6がつ5にち),ことぶきいちめい博物はくぶつ[1]韶州きょくこうひといま广东しょう韶关きょく)。とうだいただ一由嶺南書生进身的宰相[2]、诗人。そつ文献ぶんけん人称にんしょう“张曲”。ゆう《张曲しゅう》。

生平おいだいら

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ちょう九齡為西汉留侯ちょうりょうこれきさき西にしすすむたけしたけぐんおおやけちょうはなじゅうよんせい孙,原籍げんせき河北かわきた[註 1]ちち张弘いよいよかんいたりさく卢县すすむしんしゅうとうしゅうごときさき以九龄贵,赠太つねきょう、广州とく。张九龄自幼聪敏,なな岁知ぞくぶんじゅうさん岁时(690ねん),おうかたせっかえ杀的广州とくもと睿,经韶しゅう,见到てき文章ぶんしょうきさきだい为叹赏[4]

たけ曌长やすねん(702ねん)擢进士最初さいしょ担任たんにん书省こう书郎いん“谤议じょう闻”退すさ职返乡。

703ねんぜんおおとりかく舍人とねりちょうせつ忤旨配流はいる欽州[5]经曲こうあずか张九龄通ぞく[6],敘為あきらきよし[7][註 2],从此张九龄自称范阳张氏,其祖さき张守れい出自しゅつじ东漢つかさそらちょうあきら西にしすすむつかさそらちょうはな[註 3]曾祖そうそ张君せいにん韶州别驾にんじょうざい于曲てき[3]ただしきさき则称西にしとめこう张良西にしすすむつかさそらちょうはなこれきさき[10],而其おとうとはりきゅう皋则しょう西にし张良安世やすよこれきさき[11]。其高门的份并とう时的だい部分ぶぶんじんうけたまわ认,包括ほうかつからげんむね[12][13]

713ねん,应“みち侔伊吕科”举,中高なかだかだい,为左じつ遗。722ねん张说はいしょう,举荐张九龄为司勋员外郎,723ねん张说さい荐张きゅう龄为ちゅう书舍じんふうきょくこう县男。725ねん党争とうそうしつ,张说罢相,十几人受牵连,包括ほうかつ张九龄。张九龄因此转太常少卿,为冀しゅう刺史しし。以母ろうざい乡,あらため为洪州都しゅうととくにわか转桂州都しゅうととく,仍充岭南どう按察使

张说そつきさき,731ねん3がつげんむね召拜九龄为秘书少监、あつまり贤院学士がくしふくいんごと。732ねん,为工さむらいろう。733ねん5がつ,检校ちゅう书侍ろう。其年あきちょうはは丧归乡里。12月,おこり复任ちゅう书侍ろう同中どうちゅう书门下平しもだいらあきらごと。734ねん,迁ちゅう书令しゅう贤院れいいんごと兼修けんしゅう国史こくし。曾劾やすろくやま野心やしんつつみ醒玄むね注意ちゅうい[14]。735ねん3がつきんむらさきひかりろく大夫たいふるいふうはじめ兴县

736ねんあきはちがつてん长节,げんむねせい群臣ぐんしんみなけんじちん罕,どくはり九齡上事鑑十章以伸諷諫,ごう千秋せんしゅうきんかんろく」,みかど甚嘉はりきゅうよわいひさげおうためみぎ拾遺しゅういぞうためひだり闕。よしはやしはじめうし仙客せんかくとうひと结党,张九龄失去唐玄宗的信任,あらためにんなお书右丞相じょうしょう,罢知政事せいじざいしゅせい间,张九龄主张不循资格用人,为人こうめいこう,敢于谏言,利害りがい

737ねん太子たいしあきら废。同年どうねん,张九龄因所举荐的监察御史周子かねこさわいかげんそう杀,贬为荆州だいとく长史,召はじめ浩然こうぜん幕府ばくふ

738ねんふうはじめおきけんはく。740ねんはる,以“归拜めい义辞かん,农历がつななにち(6がつ5にち在家ありいえきょくこうやまい逝,享年きょうねん63岁[15][16],赠荆しゅうだいとく,谥曰文献ぶんけん。归葬罗源ほら

おとうとおとうと

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  • 张九皋,そうじょう、广さんしゅう刺史ししさい访节经略とう使、曾獻かたぶつ
  • きゅうしょう刺史しし、鸿胪きょう

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妻子さいし:谭氏(681ねん~757ねん),循州马谭诲之おんなむぎてつつえせい外孫そとまごおんなとしななじゅうななそつあずか张九龄同茔异あな

  • 长子:张拯みぎさんぜん大夫たいふ
    • 孙:张藏河南かなん寿ことぶきやすじょうちょうみずすすむ
      • 曾孙:张敦けい,袁州くらさんぐん
        • げん孙:张景しん,乡贡进士
          • せい孙:张涓,みねみなみ觀察かんさつ衙推
            • ろくせい孙:张千ことぶき
            • ろくせい孙:张皓,じんれい
              • ななせい孙:张譔
                • はちせいまごちょうきよししん
            • ろくせい孙:张諷、张謠、张詣
          • せい孙:张鄖,湖南こなんしおてつ判官ほうがん
            • ろくせい孙:张鈞
              • ななせい孙:张偉,:张珝、张珙。珙:张文璉、张文さとし
            • ろくせい孙:张道きょう
              • ななせい孙:张繼,なま张綰
              • ななせい孙:张太げん
            • ろくせい孙:张起,はししゅうつかささんぐん
              • ななせい孙:张維,よん:张贄、张○、张嗣むね、张居
              • ななせい孙:张縉,ろく:张貴えい、张再えい、张仲えい、张萬えい、张韶えい、张可えい
        • 曾孙:张景じゅうひろし州都しゅうととくさんぐん
          • せい孙:张○,かえりぜんれい
            • ろくせい孙:张廷すぐる
              • ななせい孙:张涉,:张璲、张璀。璲:张光さとし、张光ずみ。璀生张文範ぶんぱん
              • ななせい孙:张渥,なま张琇,琇生张元きち
              • ななせい孙:张淪,三子みつこ:张琮、张瓊、张璨。琮:张乾よう、张利用りよう。瓊:张克やわら、张克已かつみ。璨生张榮
              • ななせい孙:张沼,:张珽、张瑀。珽:张隆、张鉉。瑀生张亨
              • ななせい孙:张洪,:张珣、张瑛。珣生张克したがえあきらよん:张錫、张祐、张休、张鑄
          • せい孙:张燿,らくあきられい
            • ろくせい孙:张瞻,湞陽すすむ
              • ななせい孙:张文たち
              • ななせい孙:张文曜,三子みつこ:张威、张騫、张和。せい张怡,騫生张士衡
              • ななせい孙:张子のきかんあずまふとしくら三子みつこ:张允きょう、张允あきら、张化璘。まこと恭生きょうせい张廉,まこと明生めいせい张士調ちょう

文学ぶんがく

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唐詩とうしさんひゃくしゅちゅうてきかんぐう

なな岁知ぞくぶんゆう文名ぶんめいちょうせつしょうじんかんむり”。ゆう诗《かんぐう》12しゅめいれつ唐詩とうしさんひゃくしゅだいいちしゅひねのぼるてきかんぐう》38首相しゅしょうひさげなみろん,其中「草木くさき有本ありもとしんなにもとめ美人びじんおりいち联,さらだか情操じょうそうてきうつしあきら。另外,ちょう九齡的五言律詩情緻深婉,如:《望月もちづき怀远》一句いっく海上かいじょうせい明月めいげつ天涯てんがいども此時」唱絕千古せんこ

开元よんねん(716ねん),张九龄辞官返回家乡供养母亲,途中とちゅういたいえ乡父ろうこぼしえつみなみ岭山脉じゅうふん艰难,决心どおりみなみ岭,改善かいぜん进出岭南てき交通こうつう。于是上奏じょうそうげんむね提出ていしゅつ凿山おさむとくいたりょうまこと许。开凿うめ关通どうてき工程こうてい非常ひじょう艰巨,しょ开凿てき道路どうろ也就现在距离みなみつよし市区しく北面ほくめん约30公里くりてきうめ岭顶てきうめ关驿どう

张九龄墓

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张九龄的墓地在今韶关北郊ほっこう罗源ほら山麓さんろく广东しょう重点じゅうてん文物ぶんぶつ护单广东しょう具有ぐゆう代表だいひょうせいてきとうだいだいはか。1960ねん7がついん过度ぬすめ扰而发掘。はかしつ为砖しつ结构。墓前ぼぜん祠堂しどうてき对联ゆうふく,如「當年とうねんとうしつ無雙むそう南天なんてんだい一人ひとり」。

张九龄墓こころざし

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からなお书右丞相じょうしょう、赠荆しゅうだいとくはじめ兴公阴堂こころざし铭并じょ


ふとなか大夫たいふもりちゅう书侍ろうあつまり贤院学士がくし、东海县开国男くにおじょやすし贞撰。おおやけせい张氏,讳九龄。其先范阳じん,四代祖因官居此地。おおやけ诞受せいせいたい自然しぜんぎょう气均,きゅう德之のりゆきさいしょそこまたむべ欤。盖所阙者くだとしすうのべ,苍生もちあしみみみなもと秀才しゅうさいぼつ赠都とく,历任てん诏翰,きょ连率,ちゅう书令而迁はしみぎ,凡じゅうはち徙焉。じょ乎官そん乎事迹,れつ於中原之はらの,备诸りょう笔矣。おおやけなまろくじゅうゆうさん,以开もと廿にじゅうはちねんがつななにち薨,廿にじゅうきゅうねんさんがつさんにち迁窆於此。韶江环浸,浈山隐起,かたち胜之,灵域ざい焉,かみ其安ようなが终古。呜呼!嗣子しし拯号诉罔逮,而谋远图,こくやまいしこころざし於玄しつにんたに变,わがおおやけはか於斯。铭曰:龟筮从兮たく其吉,やま盘踞兮土坚实;呜呼相国しょうこくくんはかあずか气运而齐毕。

纪念

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韶关内原うちはらゆう纪念张九龄的风度ろうきさきいん失火しっかそんはらろう所在地しょざいちめい为风路上ろじょう临江たてゆうきょくこう园,塑有张九龄半身はんしん胸像きょうぞう

注釋ちゅうしゃく

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  1. ^ 另有はり九齡先祖实为曲江罗源洞土著一說[3]
  2. ^ 另一种说ほう722ねんちょうせつはいしょうきさきただし703ねん左右さゆう二人认识是确定的[8]
  3. ^ 详见张九龄本人为張說所作墓志铭[9]

參考さんこう文獻ぶんけん

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  1. ^ こうすすむ·りゅう,《きゅうとうしょ》(まき99):“ちょうきゅうよわいことぶきいちめい博物はくぶつ。”
  2. ^ 苏东坡ゆう《读张きょくこう公金こうきん鉴录ゆうかん》诗:“远溯渊源きょくすい东,犹存文献ぶんけん旧家きゅうか风。江南えなさくしょう何人なんにんはじめ?岭表ただどくわがおおやけ。……”认为ちょうただし江南えなじんさくしょうだい一人ひとりだんざいすわえにわひえたま录》しょう《读张きょくこう公金こうきん鉴录ゆうかん》诗是おかてきさく伪”。だか也在《学海がっかいどうしゅう提出ていしゅつしょうどうてきほうまゆみ萃在《すわえにわひえたま录》ちゅうまた说:“至文しぶんしょうついで》谓开もと天宝てんぽう以前いぜんみなみゆうだいあい业显しゃ,此亦不当ふとう。吴越、荆楚みな江南えな也,三代至唐难以悉数,而云きょくこうはじめ,此专美之みゆきげん,而不其疏也。”
  3. ^ 3.0 3.1 とう·じょひろし,《からきむむらさきこうろく大夫たいふちゅう书令舍人とねりしゅう贤院学士がくしいんおさむ国史こくしなお书右丞相じょうしょう荆州だいとく长史赠大とくじょうはしらこくはじめ兴开こくはく文献ぶんけん张公铭》:“曾祖そうそ讳君せいすめらぎあさ韶州别驾,终于官舍かんしゃいん为土ちょせい。”ただし这个だん存在そんざいちょせいいち个词てき可能かのう一如いちにょ太平たへい公主こうしゅれいがつてき史料しりょうだん
  4. ^ きたそう·おうおさむひとし,《しんから》(まき126):“じゅう三以書幹廣州刺史王方慶,ぽうけい嘆曰:‘必致とお。’”
  5. ^ きゅうから书張せつ传》
  6. ^ きたそう·おうおさむひとし,《しんから》(まき126):“ときはりせつため宰相さいしょうおや重之しげゆきあずかどおりけいつね曰:‘じんかんむり也。’”
  7. ^ こうすすむ·りゅう,《きゅうから》(まき99):“ときはりせつため中書ちゅうしょれいあずかきゅうよわい同姓どうせい,敘為あきらきよしゆうおや重之しげゆきつねいいじん曰:‘後來こうらい人稱にんしょうくび也。’九齡既欣知己,また焉。”
  8. ^ きたそう·おうおさむひとし,《しんから》(まき126):“かいはりせつ謫嶺みなみ一見いっけん厚遇こうぐう。”
  9. ^ から张九龄《开府仪同三司行尚书左丞相燕国公赠太师张公(ちょうせつはかこころざし铭(并序)》:“范阳方城ほうじょうじんすすむそらたけしたけこうちょうはな裔孙。”
  10. ^ とう·じょひろし,《からきむむらさきこうろく大夫たいふちゅう书令舍人とねりしゅう贤院学士がくしいんおさむ国史こくしなお书右丞相じょうしょう荆州だいとく长史赠大とくじょうはしらこくはじめ兴开こくはく文献ぶんけん张公铭》:“其先范阳方城ほうじょうじん。轩辕建国けんこくげん受氏。りょう为帝师;华,さいたたえ王佐おうさ。”
  11. ^ とう·萧昕,《から银青こうろく大夫たいふ岭南节度使经略さい访处おけとう使摄御ちゅうすすむ赐紫きんきん鱼袋殿中でんちゅう监南やすし县开こくはく赠扬しゅうだいとく长史张公神道しんとう》:“とめこう世相せそう韩,安世やすよ以七かのう荣汉,とくせい闲气,钟美だい贤。”
  12. ^ だいとうしん语》:“げんむねいか曰:‘きょう以仙きゃくうし仙客せんかくかんいや耶?わかきょう岂有门籍?’九龄顿首曰:‘しんあら<ひだりはんみぎ>贱类,陛下へいか过听,以文学ぶんがくようしん。...’”
  13. ^ きゅうから书李はやしはじめ传》:“げんむね曰:‘きょう以仙きゃく无门せき耶?きょうゆうなん门阀?’きゅう龄对曰:‘しんあら<?>ほろ贱,仙客せんかくちゅう华之。...’”
  14. ^ こうすすむ·りゅう,《きゅうとうしょ》(まき99):“とき范陽節度せつど使ちょうまもる珪以裨將やす祿ろくやま討奚、ちぎりはい衄,おく京師けいし,請行あさてんきゅうよわいそう劾曰:‘みのる苴出ぐん,必誅そう賈;まごたけきょうせんまたみや嬪。まもり珪軍れい必行,祿ろくやまむべめん。’じょうとくしゃきゅうよわいそう曰:‘祿ろくやまおおかみ野心やしんめんゆうぎゃくしょうしん請因ざい戮之,冀絕後患こうかん。’じょう曰:‘きょう勿以おうえびすはじめせき故事こじあやまがい忠良ただよし。’とげ籓。”
  15. ^ よりどころからじょひろし文獻ぶんけんちょうこう神道しんとう碑銘ひめい》“なまとしろくじゅうゆうさん,以開もと廿にじゅうはちねんがつ薨”,新舊しんきゅうとうしょさくひらくもとじゅうはちねんびょうそつねんろくじゅうはち”。
  16. ^ じょやすし贞撰《からなお书右丞相じょうしょう赠荆しゅうだいとくはじめ兴公阴堂こころざし铭并じょ》:“おおやけ生年せいねんろくじゅうゆうさん,以開もと廿にじゅうはちねんがつななにち薨,廿にじゅうきゅうねんさんがつさんにち迁窆于此。”

延伸えんしん阅读

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[ざい维基すうすえ]

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维基文库中的相关文本:きゅうとうしょ·まき99》,出自しゅつじ刘昫きゅうとうしょ
维基文库中的相关文本:しんとうしょ·まき126》,出自しゅつじしんとうしょ

參考さんこう書目しょもく

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  • きゅうとうしょ·まき99·はりきゅうよわいでん
  • しんとうしょ·まき126·はりきゅうよわいでん

外部がいぶ链接

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前任ぜんにん
しょうかさ
からあさみぎ丞相じょうしょう
宰相さいしょう
736ねん—737ねん
つぎにん
裴耀きょう