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あかり宪宗

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重定しげさだこう明憲あきのりむね
明憲あきのりむね
国立こくりつ博物はくぶついんぞう宪宗纯皇帝こうていよう
明朝みんちょうだい8だい9にん皇帝こうてい
統治とうち1464ねん2がつ23にち-1487ねん9がつ9にち(23ねん198てん
前任ぜんにんあきらえいむねしゅ祁镇
つぎにんあかりこうむねしゅゆう
たてもうか悼恭太子たいししゅゆうきょく(1471ねん-1472ねん
あかりこうそうしゅゆう(1475ねん-1487ねん
出生しゅっしょう正統せいとうじゅうねんじゅういちがつはつにち
(1447-12-09)1447ねん12月9にち
大明だいめいきたちょく顺天むらさき禁城きんじょう
逝世なりじゅうさんねんはちがつじゅうにち
1487ねん9がつ9にち(1487さい—09—09)(39さい
大明だいめいきたちょく顺天むらさき禁城きんじょう
やすそう
おうきさきはいきさき吴氏
孝貞こうていじゅん皇后こうごうおう
配偶はいぐうこうきよし皇后こうごうきの
孝惠たかえ皇后こうごう邵氏
きょう肃皇贵妃まん

きょう14にん
おんな
きょう6にん
年號ねんごう
なり
谥号
つぎてんしこりどうまこと明仁あきひとたかしたかしぶん武宏たけひろとくひじりたかしじゅん皇帝こうてい
庙号
けんむね
父親ちちおやえいむね皇帝こうていしゅ祁鎮
母親ははおやこう皇后こうごうしゅう

明憲あきのりそう朱見あけみ(1447ねん12月9にち—1487ねん9がつ9にち[1]),あるしょうなりみかど原名げんめい朱見あけみふかこう改名かいめい朱見あけみ[2][3][4][5][6]ためあきらえいむねすめらぎ長子ちょうし明朝みょうちょうだい9にん皇帝こうてい明憲あきのりむね在位ざいいじゅうさんねん期間きかん恢復かいふく其叔しゅ祁鈺てきみかどごうまたため于謙とう忠臣ちゅうしんひらたはん初年しょねん勵精たい民情みんじょう任用にんようけんしょう彭時とうけんしん,頗為時人じじん所傳しょでん誦;ざい軍事ぐんじ方面ほうめんせい飭戎せいたい平定へいてい荊襄群盜ぐんとう西南せいなん傜蠻,對外たいがい抵禦韃靼だったんおんなしんおさむ复河套、經略けいりゃく哈密だてしょう功績こうせき明朝みんちょうじんせんこう評價ひょうか較高てき皇帝こうてい

ただしけんむねちょう嬖萬ちゅう晚年ばんねん信用しんようひろしただしりょうかおるまんやすとう宦官かんがん奸臣かんしんまた扩置“すめらぎそうだい肆侵うらない土地とち使つかい明朝みんちょう政治せいじ壞。なりあさ明朝みんちょうじんせん以來いらい文治ぶんじ武功ぶこう卓越たくえつてき時期じきただしあずか並存へいそんてき弊政へいせい使其有しょかけ憾。ざいだいじゅうとしてき宠妃ばんさだいん傷心しょうしん過度かど而早逝,谥号「つぎてんしこりどうまこと明仁あきひとたかしたかしぶん武宏たけひろとくひじりたかし皇帝こうてい」。

生平おいだいら

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早年そうねん

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朱見あけみふか出生しゅっしょう正統せいとうじゅうねんじゅういちがつはつにち(1447ねん12月9にち),ためあきらえいむねしゅ祁鎮長子ちょうし母親ははおやこう皇后こうごうしゅう。《あかりうつし为朱见濬。

正統せいとうじゅうよんねん(1449ねん土木どぼく堡之へんえいむねかわら擄去,兵部ひょうぶさむらいろう于謙ひとしたてすめらぎおとうとしゅ祁钰即位そくい為景ためかげみかど改元かいげんけいやすし同時どうじ立見たちみふかため太子たいしいたけいたいさんねん(1452ねん),しゅ祁鈺はたふかはいため沂王,あらためりつ自己じこてき儿子しゅ见济太子たいし[7]しゅ见济夭折ようせつきさき有人ゆうじんぬし张复りつしゅ见深为太

ねんきさき(1457ねん),えい宗因そういんだつもんへん復辟ふくへきふか重立しげたてため太子たいし。《まんれきへんちゅう記載きさいけんそう皇帝こうてい玉音ぎょくおんほろども,而臨あさ宣旨せんじのり瑯瑯如貫たま,其本じん可能かのうあるおおあるしょうゆうこうどもてき情況じょうきょうじゅう立太子りったいしてき诏书じょう太子たいしてき名字みょうじただしぼっゆううつし改名かいめいてき原因げんいん。百姓知道诏书上太子的名字后大惊,以为たて太子たいしてきいちにん[2][3][4][8][9]

えいむね临终ぜんいん他人たにん离间而对太子たいし产生猜疑さいぎある有意ゆうい于钱皇后こうごうしょ抚养てき皇子おうじ德王とくおう朱見あけみ,问内阁首辅けん一定いっていよう传位太子たいし贤多劝英むね不要ふようえき储,说传太子たいし则宗しゃ幸甚こうじんえいむねさい终没ゆうえき储,太子たいし顺利继位,为宪むね

在位ざいい

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けんそう宽仁英明えいめい任用にんよう彭时しょうとうひと即位そくいはつ就為于謙ひら冤昭ゆき當時とうじ曾有大臣だいじんおいろんけいたい廢立はいりつごと往,けんそうきりせめせつ:「けいたいごとやめ往,ちん介意かいい,且非臣下しんかしょとうげん。」;一方面展現了自己為君的品格,另一方面起了安撫臣下,阻止そし結黨けっとう營私こう。另䆁放りょう浣衣きょく婦女ふじょねがい宮人みやびとまた恢復かいふくあかりけいみかどみかどごう文治ぶんじうえけんむねたいりょう民情みんじょう,蠲賦しょうけい任用にんようけんしん考察こうさつ官吏かんり,勵精善政ぜんせいぜっしょ儼然げんぜんためいちだい明君めいくんとう其時朝廷ちょうていめい俊彦としひこ,百姓得以休养生息,こらえたたえあずかじんせん媲美,あさ琉球りゅうきゅう哈密がらす斯藏暹羅しゃむ吐魯ばん撒馬日本にっぽんもんこたえとうくに紛紛ふんぷん入貢にゅうこう人口じんこう方面ほうめんざいなりじゅうねん(1479ねんちゅうなりためおわりあかり一代的登记人口峰值,たち9,496,265,71,850,132にん反映はんえい當時とうじ明朝みんちょう仍然しょ於盛

宪宗在位ざいい初期しょき天下てんかしょう颂其统治;ただし专宠まん贵妃きさき朝政ちょうせい转向みそくらまんやす开始とく势。なりじゅうねん(1476ねん),设立西にしいのちふとしひろしただし提督ていとく外事がいじ,于是ひろしじき便びん随意ずいい罗织罪名ざいめいせいごとひろしちょく仗势はた陈钺,宁伯王越おうごし变为自己じこてき羽翼うよく自己じこひと便びん任用にんよう自己じこ话的じん就排挤打击,权势极为显赫,天下あもり惧之さんふんひろしちょくまたそうざい外立はしだていさお胡乱うろん进行边界挑衅。宪宗いのちひろしちょくてのひらかんじゅう团营。とう时有个名さけべおもねうし的中てきちゅうかんぜんえんじ诙谐かそけだま戏,经常ざい宪宗面前めんぜんひょうえんじ,颇有汉朝东方ついたちもちい滑稽こっけい方法ほうほう进谏风。一天阿丑假装喝醉酒,つくり边一个人在佯装说:“ぼうかんいた!”おもねうしにんそうよいだい骂,にんまた说:“すめらぎ驾到!”おもねうし还是よい骂如じんまた说:“ひろしふとし监来りょう。”おもねうししょそうてきよいじん赶紧おこりらい惊恐てき站在いち边。つくり边的じん问到:“天子てんし驾到がい怕,为什么害怕汪ふとし监?”おもねうし说:“わがただゆうひろしふとし监,不知ふちゆう天子てんし。”此以きさきひろしちょく逐步しつ宠。此时王越おうごし陈钺讨好ひろしちょくさんにん结为とうおもねうしいちにちゆうざい做戏,自己じこふんえんじひろしちょく手持てもちそうおのこう前前ぜんぜんぎょう有人ゆうじん问其缘故,とう说:“这双おの王越おうごし陈钺。”宪宗听后微笑びしょうりょういちじょとうひと弹劾ひろしちょく欺君枉法,擅开边衅,宪宗きさき渐疏远汪じきなりじゅうはちねん(1482ねん),ひろしちょく调出きょうじょう西にし厂也ずい解散かいさん[10]

けんむね在位ざいいちゅうきさきこのみ方術ほうじゅつ[11],沉溺後宮こうきゅう,极度宠信だい17さいてきまん贵妃また生活せいかつおご靡,國庫こっこはま內帑并擴おけすめらぎそう[12][13]どう时又任用にんようふとひろしただしりょうかおるひとし奸佞かんねいとうけん[14],以致西にししょうよこほしいままあさしん諂附,且明憲あきのりむね直接ちょくせつ頒詔ふうかんためでんたてまつかん,這使とくでんたてまつかん氾濫はんらんまいへいなりふう朝政ちょうせいあら芜。ただし整體せいたい而言,なり晚年ばんねん朝廷ちょうてい依然いぜんのうゆうじょう紊地たい天災てんさいじんゆう迅速じんそくてき應對おうたい[15]いん此仍こうしょう歌舞かぶ升平ますへい太平たいへい無事ぶじ

くずし

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しげりょうあきら宪宗しゅ见深あずか皇后こうごうおう皇后こうごう、邵皇后こうごうてきごうそうはか。摄于2022ねん

なりじゅうさんねん(1487ねんはるまんすめらぎとうとけんそう於悲つう而患びょう長歎ちょうたんせつ:「萬侍長去了,わがまたはた矣。」[16]ややしょう瘦,最終さいしゅう同年どうねんはちがつ廿にじゅうにちくずしそう北京ぺきん昌平しょうへいしげりょう臨終りんじゅうぜん誨示太子たいしよう敬天けいてんほうつとむせいあいみん太子たいし頓首とんしゅ受命じゅめい[17]てきさんしゅゆうつぎそくきさきらいてきあかりこうむね

のこみことのり

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为政举措

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明憲あきのりそう朱見あけみ深作ふかさく一團いちだん和氣わき》,藉此ちゅうきょう群臣ぐんしん。“ごうさんにん以為いちたちいちしん無二むに。忘彼此ひし是非ぜひしげる一團いちだん和氣わき以召明良あきよし其類。以此どう事事ことごと必成ひっせい,以此たていさおこう必備。あに斯人,輔予盛治もりじ?”

處理しょり荊襄流民りゅうみん

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なり初年しょねん土地とち兼併けんぺい嚴重げんじゅう造成ぞうせい大量たいりょう流民りゅうみんやまよりどころけわし荊州じょうしゅうやすしゅう沔州これあいだ,“流民りゅうみんしたひゃくまん”。[18]みずうみひろ荊襄地區ちくなりため流民りゅうみんてき聚居ぞくぬすめ嘯聚。なり元年がんねん(1465)さんがつりゅうとおるいしりゅう馮子りゅうとう於房けん大石おおいししょうたて黃旗きはたおこりよしよう眾數じゅうまんなりろくねんじゅういちがつまたゆうりゅうとおるきゅうげんしょうおうひろしおこりよし流民りゅうみんしゃたちひゃくまんにんしょう鄖陽みんへん。宪宗抚宁はくしゅひさし讨伐,将之まさゆき平定へいていまたゆう陕西しゅうげんかん满四うらないすえ石城せきじょう,荆襄ふくはんけんそうつとむはい众议,いのちはくけい项忠ゆび挥,よん围攻,荆襄贼平,あきら军击斩まんにんしゅ领刘どおりなえ龙等四十人被生擒献俘京师。宪宗また专门派出はしゅつりょう杨璇抚治荆、じょうみなみ流民りゅうみん,设立郧阳抚治以及郧阳とうしゅう县进ぎょう管理かんり大会たいかいみずうみ广、河南かなん、陕西抚、按、はん、臬之しんせき流民りゅうみんとくじゅういちまんさんせんあまり户,归故しゃいちまんろくせんあまり户,其愿とめしゃきゅうまんろくせんあまり户,许各自かくじうらない旷土,かん为计ひのとりょくげん给之,れい开垦为永业,以供赋役,おけぐん县统。」此後流人るにんとくしょよんさかい乂安,ちょくいたりあかりまつ,荆襄さい也沒ゆう出現しゅつげん大亂たいらん

蠲赋しょうけい

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蠲賦しょうけいなり一朝最為後人津津樂道的善政之一,史記しきけんそういち四方しほうすいひでり,蹙然らく,亟下所司しょしにぎわいずみある輦內帑以きゅうじゅう惜人いのちだん死刑しけい必累乃下,ややゆう矜疑,輒從ひろしなだめ。」「けんそう好生よしおまいそう讞大辟(死刑しけいそうあきら),ところひろしなだめあるとくやめ而行けい。其日必卻はちちんたてまつ默坐もくざ焚香。あい矜之,惻然於玉しょく。」自他じた即位そくいくずしただやめ,僅在官ざいかんげん免稅めんぜいかて一項則已達一千九百多萬石,ざい民田たみだ稅額ぜいがくてき蠲免內帑にぎわいずみさらけい其數,僅以なりじゅういちねんためれい實錄じつろく記載きさい當年とうねん減免げんめん天下でんかかんとうこうぜいかていちひゃくれいはちまんせんきゅうひゃくせきしか而憲むねじょ此之外在がいざい該年正月しょうがつしたがえ內庫ちゅうばちじゅうまん五兩賑濟災民,四月又撥漕糧四十萬賑災,同月どうげつあずかじゅうがつまためん山東さんとうわたるみなみ山西さんせいひらよん川成かわなり河南かなん開封かいふうみなみただし隸鳳とうしゅうぜいかて總計そうけいれんどうかんぜい該年蠲免さんひゃくまんせき相當そうとう全國ぜんこく稅額ぜいがくじゅういちけんそうしわ恤民。よし此儘かんなり一朝水旱災變不斷,ざい荆襄流民りゅうみん問題もんだい處理しょりかんさい也沒ゆう出現しゅつげん較大てき社會しゃかい波動はどう

改革かいかくこげうん

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よこかんなり年間ねんかんてきさい值得しょうどうてき善政ぜんせいじょりょう處理しょり荊襄流民りゅうみんあずか蠲賦しょうけいがい,其次莫過於改革かいかくこげうん明成めいせい永樂えいらく遷都せんと以來いらい北京ぺきん便びん依賴いらいみなみかてきたうん,其中需要じゅよう每年まいとし徵集ちょうしゅう大量たいりょうみん伕運かてみちおりつねふけあやまのうなりななねん朝廷ちょうていげんしょうしょうりょうみん伕的運輸うんゆ路程ろていあらためよしかんへいこげぐんちょううん,雖然朝廷ちょうていてき增加ぞうかりょうただし節約せつやくりょう百姓ひゃくしょうてきのう有利ゆうり農業のうぎょう生產せいさんどう時又ときまた制定せいていりょうかくるい考課こうかぶんまわしじょう此以明代あきよてきこげうんざいゆうりょう完備かんびてき制度せいど,此制一直沿用至明末[19]。另外よし於漕うん改革かいかく每年まいとしふししょうらいてき輸輓これそうともまいじゅうまんせき[20]

たくみ制度せいど改革かいかく

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手工業しゅこうぎょうしゃざいなり年間ねんかん份有りょう進一しんいちてき自由じゆう明太めんたい建國けんこくふん天下でんか百姓為軍民匠灶四類,工業こうぎょうしゃ便びんるいざいたくみ户中,們各ぶんじゅうすわかずはん」,必須ひっす義務ぎむ定期ていき(通常つうじょうねんいちはんまいはん服役ふくえきさん個月かげつ)ため朝廷ちょうてい工作こうさくゆうかえよう無償むしょう服役ふくえき,於是逃役しゃ越來ごえくえつなりじゅういちねんおこり朝廷ちょうてい允許いんきょはんたくみねがい服役ふくえきしゃ以每月出つきでぜに免役めんえきあらためよし朝廷ちょうてい直接ちょくせつやといこう造作ぞうさく,這不ただしれい朝廷ちょうてい毋須さい終年しゅうねんおい工匠こうしょうろうかん擾民,手工業しゅこうぎょうしゃただようづけさんがつてき銀子ぎんす便びん免除めんじょ三月的工役之苦和回來花費的時間,也換らいよんねんてき人身じんしん自由じゆう[21]

屯田とんでん

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屯田とんでんじょう明朝みんちょう正統せいとう以後いご邊境へんきょう多事たじたむろせいややたゆ,其後屯田とんでんおおため內監、ぐんかん佔奪,制度せいどだい壞,けんむね在位ざいい,頗銳意えいい整頓せいとんなりはつせんじゅんなでもり就買かんうしせんはちひゃく並置へいち農具のうぐぐん屯田とんでんおさむかてえきぎん,以補かん耗損,へんいれしょう便びんしか經過けいか一番いちばん整頓せいとんきゅうしょいれ屯田とんでん收入しゅうにゅう仍不盛時せいじてきじゅうふんいちやめりょう後來こうらいいたりょう弘治こうじ年間ねんかん,就變どくさらはいたゆりょう[22]

文学ぶんがく

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明朝みょうちょう皇帝こうてい擅畫ぞうさく運筆うんぴつけんむねまた擅畫神像しんぞう,曾為ちょう三豐みとよ畫像がぞうかみさい生動せいどう超然ちょうぜんちりひょうまた曾親ひつ御製ぎょせい一團いちだん和氣わきとしあさちょうとうりゅうかくほう老練ろうれん嫻熟,頓挫とんざ如。なりじゅうはちねんけんそうまたおやへんうつしりょうぶんはなだいくんいちしょ,以教導きょうどう太子たいし人倫じんりん治國ちこくみちたれくん子孫しそん。而《さだかんせいようから流傳りゅうでんいたりあきら版本はんぽん注釋ちゅうしゃくしげるみだれ明憲あきのりむね即位そくいたてそく組織そしき儒臣たい進行しんこうこうじょうそうはじめ纂輯てき綱目こうもくみなうつしにゅう書中しょちゅう,頒示天下でんかそく流傳りゅうでんいたりいまてきなりほんまた為重ためしげおさむてき孔子こうしびょうさだかんせいようおや自作じさくじょけんそうざいさだかんせいようじょちゅううつしどうちんまんいくこれひまえつじょうけい,偶及へん...ふとしそうざいからためいちだい英明えいめいきみ,其濟世さいせいやすしみんえらゆうなりれつたく不可ふか及己,しょ惜者,せいしん修身しゅうしんみかどさんおうみち,而治じゅん也。ちんはたとお往聖,まことすすむだい酋,以宏其治。」

あかり宪宗ぎょう乐图》,创作于1485ねん

たけいさお

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たけいさおうえけんむね恢復かいふくじゅうだん制度せいどいくおや騎射きしゃ西にしえんじゅん查禁ぐん[23][24]せい軍備ぐんび考試こうしへい訓練くんれん[25]かえ任用にんよう王越おうごし余子よししゅんはたひろししゅひさししゅすぐるとうのうしん處理しょり軍務ぐんむおさむけん[26],并從不斷ふだん南下なんかにゅうおかせ盤踞ばんきょかわ套的韃靼だったんしゅうら,一舉收復河套地區,使つかいとく套寇問題もんだい基本きほん解決かいけつざいべに鹽池しおいけ大捷たいしょうちゅうあかりぐん大破たいは韃靼だったんだい營,とりこさんひゃくじゅうにん駝馬器械きかい不可ふかかちけい記載きさい「虏自敢复きょ套内しゃじゅうねん,则此とし为所ふるえ慑故也。」「复居かわ套,边患しょう弭;间盗边,どる大入おおいりまたかず使つかいあさ贡。」甚至ざい後來こうらい宁海大捷たいしょうちゅう夜行やこうひるふくちょく捣蒙ふるあせおうにわなまとりこようおとこ婦女ふじょいちひゃくななじゅう,斩首よんひゃくさんじゅうなな级,はたじゅうめんうま駝牛ひつじろくせんあまり,盔甲弓箭きゅうせんがわふすまるいまたまんあまり达延あせともえ图蒙かつ仅以逃。另外したがえあきらえいむね以來いらい盤踞ばんきょざいけんしゅうてき满住ただしさん屢寇かすめ辽东,逐漸なりため患,明憲あきのりそうざいつぎ招撫はて決定けってい用兵ようへい撻伐,先後せんご於成さんねん[27]あずかなりじゅうねん[28]あかりぐんあずか朝鮮ちょうせんれんしゅ進攻しんこう屢次はんてきけんしゅうおんなしんなまとりこすうひゃくにん,斩首せんきゅうやぶよんひゃくじゅうあまり寨,夺回掳人口數くちかずせんにんとりこ斬罪ざんざいさきがけくびてきただしさんしょうなりさんねんてき进剿为ちょうやく当代とうだいまたたたえ为成犁庭。[29][30]

任用にんようおさむ輔和宦官かんがん

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宪宗さききさき任用にんようてきおさむ輔有:けんちんあや彭時りょばらしょうりゅう定之さだゆきまんやすりゅうりゅうよし彭華いんただし。对成一朝いっちょうせいゆうかみのりさん閣老かくろうどろろく尚書しょうしょうたいさん閣老かくろうゆびまんやすりゅうよしりゅうろく尚書しょうしょゆびいんみんいんけんしゅうひろしちょうほうちょうりゅうあきら讽这些朝廷ちょうてい重臣じゅうしん不作ふさく为,わたしとくけいただし也有やゆう意見いけんみとめため們之所以ゆえん抨擊,并非いさお無能むのうむさぼ贓枉ほう,而是いんためたい明憲あきのりそうせんちょうまん往往おうおう濫賞爵位しゃくい寶物ほうもつまたゆう內批でんたてまつかんてき行為こうい們身ため大臣だいじん卻沒ゆう進行しんこう有力ゆうりょくすすむ諫,使つかい明憲あきのりむね符合ふごう傳統でんとう儒家じゅか人君じんくん規範きはんいん此被時人じじん詬病無能むのう。其實したがえなり後期こうき朝廷ちょうていたいわざわいかず地方ちほう事務じむてき應對おうたい裁決さいけつ們還かくゆう所長しょちょうつとむつきしょくもりてきいん而即使萬安這種世稱的奸倖之臣,卻也よう於當其時彭時しょう輅等めいしん官員かんいんちゅう

なりあさ重要じゅうようてき宦官かんがん包括ほうかつ

  • ひろしただし西にししょうだい一任いちにんそうかん權力けんりょくだい於東おひがししょうてのひら兵權へいけん,且屢きょう大獄たいごくなみ且喜へいたてあたりこうかた飛揚ひよう跋扈ばっこためなおめいとうじん中傷ちゅうしょう而失ぜいやめ
  • ふところおんせん宗時むねとき兵部ひょうぶさむらいろう戴綸ぞくおとうといん戴綸ざい及而ため黃門こうもんふか受信じゅしんにんてのひらつかさあやかん,曾力保明ほうみょうこうむねめんまんしょがい性情せいじょう正直しょうじきあずかおうじょ交善。
  • なおめいひがししょうそうかんぜん於欺あつとみじん,藉以斂財、あるうれかんもとめざいしょ做。
  • ちんじゅんなおめいてのひらひがししょうあずかふところおん一派いっぱ
  • 覃吉あかりちゅう弘治こうじこれせい政治せいじ醇美じゅんび君德くんとく清明せいめい端本はほんせいはじめよし有力ゆうりょく焉。
  • りょうかおる當時とうじさいむさぼ黷諛佞的ふとしかんためりょうかおる、韋興。諂萬とうと受寵しん
  • 韋興ひろし直門じきもん,敲詐けんたか濫用らんよう酷刑こっけいしょ不為ふため。於汪ちょくだい一次被罷黜時下台,はつはいせん
  • ぜにのう雲南うんなん鎮監,ごくため蠻橫。りょうかおる門下もんか
  • ていただししゅう鎮監,ほしいままたて有名ゆうめい
  • 韋朗遼東りゃおとん鎮監,ほしいままたて有名ゆうめい
  • 韋眷りょうかおる門下もんか廣東かんとん舶太かんぜん收集しゅうしゅうたまたから
  • おうたかしりょうかおる門下もんかへんこうひだりどう,竟偽造ぎぞうみことのりれいくく書畫しょが玩,聚白きんじゅうまんりょう

評價ひょうか

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正面しょうめん

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明憲あきのりそう本人ほんにん曾經こうしゅゆう概括がいかつ自己じこてき一生いっしょう作為さくい:「おさむぶん而究武略ぶりゃく,飭内以攘外侮がいぶ,戡靖僭窃,应宁邦家ほうか,犹宵旰靡遑,惧功业未しげる德惠とくえしゅう,而治平之ひらのこう臻也。」

  • あかり實錄じつろく》:「ぶたじょう以守成之しげゆきくん,值重熙之うん兵革へいかくこころみ萬民ばんみんらくぎょうたれ拱而天下でんか大治おおはる矣。」
  • 名山めいざんぞうなに乔远:うえ聪明仁恕じんじょ,渊默つとむきょうこうごと母后ぼこう如古帝王ていおう。郊庙斋祭,必极诚敬。けい皇帝こうてい尝有ふう沂之いのち尝一语及委任いにん大臣だいじんりゃく无猜あるそく纪,へい斥无疑。いち四方しほうすいひでり,戚戚しかしも所司しょし赈济,ある辇内帑给じゅう惜人いのちだん死刑しけい累日るいじつ乃下。夙兴视朝,ただしぐうゆき辄放つねさんかん而不废奏引。りゅうかん盛暑せいしょある减奏ごと,以恤卫士侍立じりつ劳。间有ゆう不出ふしゅつ大内おおうち,如南囿祖宗そそう时不废游猎,うえ尝一こう焉。时御翰墨かんぼくさく为诗赋,以赐大臣だいじん。诸司あきらかなで披阅,字画じかく错,またこうむきよし问。臣下しんかえき兢业职事,莫敢ある欺。葢上以守成之しげゆきくん,值重熙之运,兵革へいかく试,万民ばんみん乐业,たれ拱而天下でんか大治おおはる矣。
  • くに》谈迁:恤饥察冤,もとめげん课吏,さききさき绝书,而于えびすそうこう阉斜ふうすみ敕之滥,また不能ふのう为帝掩也。とう其时,あさ耆德,あつし践履,うえ恬下熙,风淳せい简,たたえ明治めいじしゃしゅ推成ひろ焉。而或ゆう遗议,则在ひろしじきつとむしょうつぎあかつき辈蚀其一,于全あきら无大损也。しゃく璧之きず,乌足玷帝とく哉!すえ太子たいし以敬てんほうつとむせい爱民みち,俨然なるしゅう遗训也。说者谓帝はつよくえき储,以泰山たいざんしばしばふるえ而止。噫!みかどのうみこと钱后,复景みかど,俱事つねじょうそと,而乃轻视东宫?必不しか也。
  • くに》郑晓:みかど仁恕じんじょ英明えいめいしょうさら难,练达情理じょうり。临政のぞきじん刚不やわらゆう张有たゆ。进贤骤而にん必专,远邪亟而これゆうほう。值虏寇数おかせ边,おもんみはたうすつとむへい以竭わが财力,虏亦离散,内外ないがい宁辑。荆襄岭海,时有寇窃,推毂际,戒勿妄杀,ある用命ようめい,赏罚兼行けんこうたかしじょう理学りがく,褒封儒贤。こう淮大祲,截漕赈饥。ほしぶんしめせ变,侧身しょう过。しん僚进谏,そくわたる浮伪,时有忤,うすしめせ谴谪,旋蒙牵复。わか乃尊れいこうしょうみことけいみかど护汪きさき,褒恤于谦,其于爱憎おん怨,绝无あくた蒂,みかど谆然于天理てんりつね伦者也。以故虽屡ゆう彗孛灾,而国家こっかかんやすしゆう繇然矣。
  • くに維楨:ゆう,“靡不ゆうはつ,鮮克有終ゆうしゅう”,人情にんじょう哉!じゅんみかどはつまたなに其斤斤也きんやちゅうかんこう,禱祠しげる,而治隳矣。ぜに祔廟しょくけいみかど復位ふくいごう,此兩しゃ,雖甚盛德せいとく蔑以やめ
  • あかりさん曰:「けんむねはやただしもうかくらいちゅうさらおおゆえ,而踐阼之きさきうえけいみかど尊號そんごう,恤于謙之けんじ冤,そもそもはじむじゅん而召しょう輅,恢恢有人ゆうじんくん矣。どきぎわきゅうあきらあさ耆彥,みかどのうあつし于任じん,謹于てん戒,蠲賦しょうけい,閭里えき充足じゅうそくひとし宣之のぶゆき于斯复見。顧以任用にんようひろしじき西にし厂橫ほしいままとう竊威がらみのるあくろうへいおっと明斷めいだん如帝而為しょ蔽惑,ひさ而后さとしてらわざわいかたかしこ哉。」
  • 朝鮮ちょうせんなりむね實錄じつろく》:うえ(なりむね)宣政のぶまさ殿どの, 引見いんけんあかり澮等, いい曰: 「中國ちゅうごくゆう何事なにごと?」 あきら澮對曰: 「(けんむね)皇帝こうていつとむ於聽せい, 天下てんか太平たいへい, みんぶつとみ庶。」(時成ときなりじゅういちねん)
  • 《剑桥中国ちゅうごく明代あきよちゅううつしどう:「しゅ见深あずかてきゆう军事头脑てき祖父そふちち亲相どうこう往他们的せい勃勃ぼつぼつてき、甚至具有ぐゆう侵略しんりゃくせいてき军事姿すがた态,并且あつ赏有成就じょうじゅてき军事はた领。」

まけめん

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まけめん事蹟じせき主要しゅようあずか其大17さいてきまんてき感情かんじょうてき管理かんりゆうせき

  • つみおもんみろくろん曰:わざわいこと警,ゆうこく於此じゅうさんねんしゃ也。宮中きゅうちゅういちじょえびす,而群しょうしょうえんえきすすむ,惑匿しるべさそえ,顛例黜陟,以致でんますおのれ監督かんとくよんかく輔阿循,しょうまもるさがせ。而帝また旋悟旋迷,嘉言かげん罔入,へん釁苗ざんいくやすしとしてん乃至ないしひとしれき以所警,ぬきみみ而呼,而其如溺やわら聽者ちょうしゃそで聞也。祗幸蠲賑免租めんそしょう稽吝,なお致啟中原なかはらいか。且內がい寡大しょ藉以おこりこうしょう小康しょうこう。嗟乎!あきら傾城けいせい,危矣哉!
  • あきら史紀ふみのりごと本末ほんまつ》:「けんそう躬法桓、れいやしなえ奸甫、ふしきょう大臣だいじんちょくみなおさむといきょく近侍きんじ直得なおえさらはりおりしゃ逮治,みなみしょそら曹;緹馳ぎょうあたり北門きたもんもり明世あきよちゅうじん竊寵れいまたゆうあらわ挈利,授人だんわり如憲むねしゃむかし。」
  • あかり演義えんぎ》:「けんそういちすきあきらかん其優こたえしゅんたて斥佞じんなに嘗不辨明べんめい善惡ぜんあくいたり於內帑用つきせめ及中かん泰山たいざんれんふるえ保全ほぜん太子たいし,雖得いい明主めいしゅ所為しょいあやまざい小人こども君子くんししょう,內嬖近臣きんしん,互相煬蔽,於是ちゅう知之ともゆきぬし往往おうおう為所しどころ蠱惑こわくゆるがせあかりゆるがせ昧,ゆうはじめ鮮終,けんそう其較著者ちょしゃ也。」
  • あかり講義こうぎ》:凡此みななり朝政ちょうせいけがれにご,而國大亂たいらん,《ふみしょう其時ため太平たいへいおもんみ其不擾民せい
  • 朝鮮ちょうせんなりむね實錄じつろく》:(つかさけんてのひられい琚)さらけい曰:「しん丙午ひのえうまねん往中こく中國人ちゅうごくじんごとなり皇帝こうてい賢君けんくん也,しかいちよう大明だいめいりつ》,朝廷ちょうていやすし謐,四方しほうおそれ矣。しんいましょけいべつ他意たいよく殿下でんか遵守じゅんしゅきゅうあきら而已。」(朝鮮ちょうせんなりむねつて曰:「しか陪臣ばいしん也,而褒貶ほうへん天子てんしのりわが諸侯しょこう也,なに褒貶ほうへんわが乎?しか新進しんしん儒,曾經弘文こうぶんかんしか不知ふちこころ而如此言耶?」

其他

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  • 明朝みんちょう時代じだい上卷じょうかんだい38しょうひねけんじあきらてき心學しんがく》:なり王朝おうちょう明王みょうおうあさ歷史れきしじょうてきいちてんおりてんせいざい這個時期じき基本きほん結束けっそくりょうしゅもと璋一しょういちひゃく年來ねんらい禁錮きんこ帝國ていこくてき政策せいさくしたがえ此帝こく又重またしげしん恢復かいふくいたからそうもとてきしゅ自由じゆう奔放ほんぽうてき年代ねんだい商業しょうぎょう開始かいしふくよみがえ城市じょうし開始かいし繁華はんか思想しそう文化ぶんか開始かいし活躍かつやくしんてき生活せいかつ開始かいしおご靡,ざい這個社會しゃかい整體せいたいどうおこりいた穩定、凝聚ぎょうしゅう作用さようてき理學りがく思想しそう開始かいしゆらゆらよく墜,它必はたさらのう適應てきおう社會しゃかい發展はってんてき思想しそうしょ代替だいたい
  • なり皇帝こうてい大傳だいでん》:なりあさ君臣くんしん们是预测いたてき们留给弘あさ君臣くんしんてき,乃是一个外无强敌,ない无大敌,ひゃく业兴旺,万民乐业的太平世道。

家庭かてい

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あかり宪宗家族かぞく
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高祖父こうそふなりぶん皇帝こうていしゅ
 
 
 
 
 
 
 
曾祖父そうそふひとしそうあきら皇帝こうていしゅだか
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高祖母こうそぼ仁孝にんこうぶん皇后こうごうじょ
 
 
 
 
 
 
 
祖父そふせんそうあきら皇帝こうていしゅ瞻基
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと高祖父こうそふ彭城はく张麒
 
 
 
 
 
 
 
曾祖母そうそぼ诚孝あきら皇后こうごう张氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと高祖母こうそぼ彭城はく夫人ふじん
 
 
 
 
 
 
 
ちちえいむね皇帝こうていしゅ祁镇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと高祖父こうそふついふうかいあきらはく孙士えい
 
 
 
 
 
 
 
そと曾祖父そうそふえいしろおも簿孙忠
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと高祖母こうそぼついふうかいあきらはく夫人ふじんちょう
 
 
 
 
 
 
 
祖母そぼこうきょうあきら皇后こうごう孙氏(いち说为宫人
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと高祖父こうそふただし彦恭
 
 
 
 
 
 
 
そと曾祖母そうそぼついふう安国やすくに夫人ふじんただし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと高祖父こうそふ齐氏
 
 
 
 
 
 
 
宪宗纯皇帝こうていしゅ见深
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと高祖父こうそふしゅうどくきよし
 
 
 
 
 
 
 
そと曾祖父そうそふしゅう福山ふくやま
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと高祖母こうそぼ杜氏とうじ
 
 
 
 
 
 
 
外祖父がいそふついふう)宁国荣靖こうしゅうのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと曾祖母そうそぼかく
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ははつい谥)こう皇后こうごうしゅう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
外祖母がいそぼついふう)宁国こう夫人ふじん甄氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

后妃こうひ

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  1. はいきさき吴氏
  2. 孝貞こうていじゅん皇后こうごうおうおくりな孝貞こうていそう懿恭やすし仁慈じんじ欽天輔聖じゅん皇后こうごうごうそうしげりょう,祔太びょう
  3. きょうつとむそう僖淑きのこうむね生母せいぼ,暴薨,おくりな曰孝きよし慈慧きょうつとむそう僖崇てんうけたまわせい皇后こうごう,遷葬しげりょう,别祀たてまつ慈殿
  4. 邵貴きょうけんじみかどはは明世あきよむね祖母そぼ,宸妃,きさきしんたかおくりな曰孝めぐみかん肅溫じん懿順きょう天祐てんゆうせい皇后こうごう
  5. きょう肅皇とうとまんすめらぎとうとぜんおくりな曰恭肅端まきさかえやすしすめらぎとうと[31]本名ほんみょうまんさだいん擔任たんにん皇帝こうてい保母ほぼ而生じょう形成けいせいあねおとうとこい朱見あけみふかかえだいじゅうとし明憲あきのりむね即位そくい後生ごしょうすめらぎ长子,作為さくいあかり宪宗さい重要じゅうようてきちょうそう天壽てんじゅやま
  6. はしじゅんけんかしわなま悼恭太子たいし
  7. そう懿德ちょう弘治こうじじゅうねん(1497ねん)薨。
  8. はし懿安姚氏
  9. きょう懿敬おう
  10. 榮惠さかえきょう楊氏
  11. 康順こうじゅんはしはん
  12. そうやすしじゅんおう
  13. やすし僖榮とう[32]
  14. あきらじゅんうららあきら[32]
  15. きょう惠和けいわりょう[32]
  16. やすしじゅんめぐみかく[32]
  17. 和惠かずえせいだけ[32]
  18. はしさかえあきらおう[32]

てんじゅんはちねんはるよんがつつちのえさる(1464ねん),せんふとしきさきさとしれいせんとく俊之としゆきじょため皇后こうごう[33]

てんじゅんはちねんなつなながつみずのえさるふとかいあきらこうまごまましそうたかし正使せいししょう吏部尚書しょうしょけんはなぶた殿どのだい學士がくしけん及禮尚書しょうしょ姚夔たかし副使ふくしぶしたてまつさつたからこう奉迎ほうげいれい冊立さくりつため皇后こうごう[34]

てんじゅんはちねんなつはちがつみずのとはい皇后こうごう[35]

てんじゅんはちねんふゆじゅうがつみずのえたついのちふとしかいあきらこうまごつぎむねため正使せいししょう吏部尚書しょうしょけんはなぶた殿どのだい學士がくしけんため副使ふくし,以金さつ金寶きんぽうさつおうため皇后こうごう[36]

なりねん正月しょうがつからし(1466ねん),ちゅう使つかいまつしょ山川やまかわ,以少たもて、吏部尚書しょうしょけんはなぶた殿どのだい學士がくしけんため正使せいし太子たいししょう戶部とべ尚書しょうしょうまのぼるれい尚書しょうしょ姚夔ため副使ふくしさつふうじまんためとうとかしわためけん[37]

なりじゅういちねん(1475ねんろくがつきの暴崩。おつついふう為恭ためちかつとむそう僖淑[38]

なりじゅうねん(1476ねんじゅうがつはつはちつちのえとら明憲あきのりそう以定西にしこう蔣琬ため正使せいしれい尚書しょうしょけん文淵ぶんえんかくだい學士がくしまんやすため副使ふくしぶしさつとうと萬氏為皇貴妃,邵氏ため宸妃,おうためじゅんりょうためおうためあきら[39]

まんすめらぎとうと死後しご,於同年どうねん明憲あきのりそう臨終りんじゅういち個月かげつまえそくなりじゅうさんねんなながつ甲子きのえね(1487ねん),以太でん英國えいこくこうちょう懋為正使せいししょうでん吏部尚書しょうしょはなぶた殿どのだい學士がくしまんやすため副使ふくしだいふう後宮こうきゅうふう宸妃邵氏ためとうとちょうためとくかくためめぐみあきらためうらら、姚氏為安ためやすおうためけいとうためさかえ、楊氏為恭ためちかはんためはしたけしためせい。其中じょ邵氏がい,其餘ほんふうごう[40]

兄弟きょうだい

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  1. とくそうおう朱見あけみ
  2. 朱見あけみ
  3. もと悼王朱見あけみあつし
  4. しゅうふところおう朱見あけみ
  5. たかし簡王しゅ見澤みさわ
  6. よし簡王朱見あけみ
  7. 忻穆おう朱見あけみ
  8. 徽莊おう朱見あけみ

子女しじょ

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明憲あきのりそうただしじょ开国皇帝こうていしゅもとあきら以外いがい最多さいたてき大明だいめい君主くんしゅ

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  1. すめらぎ长子,命名めいめいははまん贵妃なりねん正月しょうがつせい本年ほんねんじゅういちがつ薨(满周岁)。
  2. すめらぎ次子じし,悼恭太子たいししゅゆう,(1469ねん-1472ねん,满3しゅう岁),はは贤妃かしわ(无子)。
  3. すめらぎさんあきらこうむねしゅゆう,(1470ねん-1505ねん,35岁),ははこうきよし皇后こうごう纪氏。
  4. すめらぎよん,(ついふうあきら睿宗しゅゆう,(1476ねん-1519ねん,43岁),はは孝惠たかえ皇后こうごう邵氏(明世あきよむねこれ生身なまみちち亲)。
  5. すめらぎ,岐惠おうしゅゆう,(1478ねん-1501ねん,23岁),はは孝惠たかえ皇后こうごう邵氏(无子こくじょ)。
  6. すめらぎろくえきはしおうしゅゆう,(1479ねん-1539ねん,60岁),ははとく张氏。
  7. すめらぎなな衡恭おうしゅゆう,(1479ねん-1538ねん,59岁),ははとく张氏。
  8. すめらぎはち,雍靖おうしゅゆう,(1481ねん-1507ねん,26岁),はは孝惠たかえ皇后こうごう邵氏(无子こくじょ)。
  9. すめらぎきゅう寿ことぶきじょうおうしゅゆう,(1481ねん-1545ねん,64岁),ははやす姚氏(无子こくじょ)。
  10. すめらぎじゅうまつ命名めいめい,(1483ねん8がつ19にち-1483ねん10がつ8にち满周岁),ははけいおう
  11. すめらぎじゅういちなんじ安王やすおうしゅゆう,(1484ねん-1541ねん,57岁),ははとく张氏(无子こくじょ)。
  12. すめらぎじゅう,泾简おうしゅゆう,(1485ねん-1537ねん,52岁),ははきょう杨氏(无子こくじょ)。
  13. すめらぎじゅうさん荣莊おうしゅゆうくるる,(1486ねん-1539ねん,53岁),はははしはん
  14. すめらぎじゅうよんさる懿王しゅゆう,(1487ねん-1503ねん,16岁),ははきょう杨氏(无子こくじょ)。

おんな

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  1. 仁和にわ公主こうしゅははおう顺妃,弘治こうじねんよめ齐世よしみやすしじゅうさんねん薨。
  2. えいやすし公主こうしゅしもよめちぇはじめ
  3. とくきよし公主こうしゅしもよめはやしたけし
  4. 皇女おうじょはや薨。[41]
  5. ちょうやすし公主こうしゅなりじゅうさんねん
  6. せんゆう公主こうしゅははだけしずか弘治こうじねん

艺术形象けいしょう

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延伸えんしん阅读

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维基文库中的相关文本:あかりまきじゅうさん》,出自しゅつじあかり
维基文库中的相关文本:あかりまきじゅうよん》,出自しゅつじあかり
维基文库中的相关文本:あかり卷一けんいち》,出自しゅつじあかり
维基文库中的相关文本:あかりまき》,出自しゅつじあかり
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参考さんこう文献ぶんけん

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  1. ^ 明憲あきのりそう實錄じつろく》“えいむね皇帝こうてい长子,ははこん圣慈じん寿ことぶき太皇太后たいこうたいこう,于丁じゅういちがつにちせい。”
  2. ^ 2.0 2.1 だい明憲あきのりそうじゅん皇帝こうてい實錄じつろくまきいち》:“てんじゅんひのとうしえいむね皇帝こうていため眾所よう復辟ふくへきはいけいたいみかど仍為郕王,ふく立上たちのぼため皇太子こうたいしうえはつめいふかいたりさらめい詔書しょうしょしつうつし其故,頒行天下でんかじんみなおどろきしょうとい曰:『此非むこうしょ立太子りったいし乎?なんめい不同ふどう也?』ぶたじょうため天下でんか人心じんしんこうひさ矣。”
  3. ^ 3.0 3.1 明憲あきのりそうじゅん皇帝こうてい實錄じつろくまきじゅうろく》:“乙未おとみ上大かみおおゆき皇帝こうていみこと謚,はやふとかいあきらこうまごまましそうひとしつげ天地てんち宗廟そうびょう社稷しゃしょくうえ親告しんこくだいぎょう皇帝こうていいくむしろ上大かみおおゆき皇帝こうていみこと謚冊,ぶん曰:『孝子こうし皇帝こうていひゃくはい稽首ごとしん聞德だいしゃ必表以鴻めいこうこうしゃ必加以顯ごう,粵自上古じょうこ以至於今聖帝せいてい明王みょうおう咸由斯道しどう...』”
  4. ^ 4.0 4.1 だい明憲あきのりそうじゅん皇帝こうてい實錄じつろくまきひゃくはちじゅうはち》:“からしひつじ...うえゆかりひだり門出かどでいたりはいそうはいでん唱樂,さくよんはいらくやめ,致詞かん於丹陛上。うえひだり跪致曰:『嗣皇帝こうていふくおもんみ皇太后こうたいごう陛下へいか功德くどくけんたかしあらわたかし徽號,えい福壽ふくじゅ率土そっとどう歡...』”
  5. ^ 朝鮮ちょうせんなりむね實錄じつろく》:“(どう知事ちじじょきょただしまたけい曰:『こう皇帝こうていよく譴責けんせき我國わがくに, 凡上ひょう箋時, 多作たさくいみな避字, 使つかいとくはんしんうけたまわぶんいんいみな避字さましめせ天使てんし, とい曰: 「如元ひとしとく, 於文義美よしみ, 而亦ためいみな避, こんみなとくはん乎?」 天使てんし以指しょ於掌ちゅう曰: 「こん皇帝こうていいみな, しかめい不偏ふへんいみな, どくようなんがい?...」』”
  6. ^ 大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ》:“はる正月しょうがつじゅうななにちあきらえいむねくずしじゅうにち太子たいし卽位そくい改元かいげんなりためけんむね。”
  7. ^ あかりまき13:けんそうつぎてんしこりどうまこと明仁あきひとたかしたかしぶん武宏たけひろとくひじりたかしじゅん皇帝こうていいみなふかえいそう長子ながこ也。ははとうとあまねはつ濬。えいむねとめかわら剌,皇太后こうたいごういのちりつため皇太子こうたいしけいたいさんねんはいため沂王。
  8. ^ 朝鮮ちょうせんなりむね實錄じつろく》:“(どう知事ちじじょきょただしまたけい曰:『こう皇帝こうていよく譴責けんせき我國わがくに,凡上ひょう箋時,多作たさくいみな避字,使つかいとくはんしんうけたまわぶんいんいみな避字さましめせ天使てんしもん曰:「如元ひとしとく,於文義美よしみ,而亦ためいみな避,こんみなとくはん乎?」天使てんし以指しょ於掌ちゅう曰:「こん皇帝こうていいみなしかめい不偏ふへんいみなどくようなんがい?…….」』”
  9. ^ 大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ》:“はる正月しょうがつじゅうななにちあきらえいむねくずしじゅうにち太子たいし卽位そくい改元かいげんなりためけんむね。”
  10. ^ しん编中华历せんねん明朝みんちょう》,青海あおみ人民じんみん出版しゅっぱんしゃ,2002年版ねんばんだい637—638页。
  11. ^ ちょう實錄じつろく》「皇帝こうていこくこう道佛どうぶつ, だい內設法會ほうえ, のりちょ僧衣そうい; しつらえ道場どうじょう, のりちょどうころも, ある浹旬やめ」「ただしほうもん年少ねんしょうやから, こくこう其術, 道士どうしふくしゃうたぐじょうゆうこのみ, 而然みみ
  12. ^ あかり》:「じゅうろくねんじゅういちがつ戊子ぼしふとくらぎんさんふん一入ひとしお內庫。」「けんむね即位そくい,以沒入ぼつにゅう吉祥きっしょうため宮中きゅうちゅう莊田しょうだすめらぎそうめいよし此始。其後莊田しょうだへんぐんけん。」
  13. ^ 明憲あきのりそうじゅん皇帝こうてい實錄じつろくまきひゃくさんじゅうさん》:「へいみことのりふとくらおりかてぎんよんじゅうまんりょうなみかく衙門任官にんかん皂隸しばぎんさんせんよんひゃくよんじゅうりょうにゅううけたまわうん供用きょうよう。」
  14. ^ あかり》:けんむねまつねん,閹宦竊勢,そう討淮、浙鹽さんりょう淮積かけいたりひゃくあまり萬引まんびきしょう引壅とどこお
  15. ^ 本紀ほんぎだいじゅうよん けん宗二そうじ》:“じゅうねん正月しょうがつおつうしめん河南かなん被災ひさいあきかてがつかのえたつめん畿南及湖こう被災ひさいあきかてなつよんがつ乙未おとみきよし畿內勛戚莊田しょうだ六月ろくがつめんみなみ畿、陝西せんせい被災ひさいぜいかておつ,敕群臣ぐんしんおさむ舉職ぎょうかぶとうまさとしほうつかさまことけい九月くがつめん河南かなん廣東かんとん被災ひさいぜいかて十二月じゅうにがつめん江西えにし廣西ひろせ被災ひさいぜいかてじゅうさんねん正月しょうがつめん陝西せんせいみずうみこう被災ひさいぜいかてさんがつみずのとめん山東さんとう被災ひさいぜいかて五月ごがつへいたつ,敕群臣ぐんしんおさむしょうろくがつめん陝西せんせいみなみ被災ひさいあきかて。”
  16. ^ まん历野获编》まきさん
  17. ^ だい明憲あきのりそうじゅん皇帝こうてい實錄じつろくまきひゃくきゅうじゅうさん》:“戊子ぼし 上大かみおおやや皇太子こうたいしいたりいのちはやそく帝位ていい敬天けいてんほうつとむせいあいみんあずか凡國ごと切要せつようしゃ誨諭備至 太子たいし頓首とんしゅ受命じゅめい
  18. ^ 明憲あきのりそう實錄じつろくまきろくいちなりよんねんじゅうがつちょうとりじょう
  19. ^ なり皇帝こうてい大傳だいでん.是非ぜひ功過こうか
  20. ^ あかりしょく貨三》
  21. ^ なり皇帝こうてい大傳だいでん
  22. ^ あかりこころざしだいじゅうさん しょく貨一》「なりはつせんじゅんなでもりかいかんうしせんはちひゃく並置へいち農具のうぐぐん屯田とんでんおさむかてえきぎん,以補かん耗損,へんいれしょう便びん。」「けん宗之むねゆき頗議釐復,而視きゅうしょいれ不能ふのう什一矣。」
  23. ^ 明憲あきのりそうじゅん皇帝こうてい實錄じつろくまきいちひゃくじゅうみずのえうま,閱騎射きしゃ於西えんうえ以武備懈たゆ,乃禦西にしえんいのち將官しょうかん騎射きしゃさとしそうへいかんなでやすしこうしゅひさしとう曰:「ちんおや閱公こうはくみやこただし指揮しき指揮しきすわ營,そうとうかん騎射きしゃ於西えん,其間中まなか三矢みやしゃよんにんちゅうしゃじゅうさんにんちゅう一矢いっししゃきゅうじゅうきゅうにんあまりみなぜん不能ふのう中間ちゅうかんまたゆうとめはつ一二矢者甚至馳驟失節,不能ふのうひらけゆみはつ及墮ゆみ於地しゃ,此皆なんじとうげん訓練くんれん.......。」えいひとし會同かいどう請罷きょう營把そう指揮しき指揮しきまさるとうよんじゅうろくにん上人しょうにんさとし曰:「此輩さきみななんじとうせんおぎなえなに不精ぶしょう?わかゆうかけつとむむべ精選せいせん以補。」
  24. ^ 明憲あきのりそうじゅん皇帝こうてい實錄じつろくまきいちひゃくじゅうちょうとりじゅう騎射きしゃ於西えんさきなつよんがつうえ於西えんおや閱公こうはくとくすわ營把そう將官しょうかん騎射きしゃ武臣ぶしんゆう差遣さけん在外ざいがい,及新授職及試しゃ,乃再閱之。そう指揮しき安通あんつうとうきゅうにん以射はちちゅう,及定じょうはくかくたかしやすさとはくちょうやすしとみはく輿こし成安なりやすはくかく鐄以にんごと俱罷
  25. ^ あかり》:「じゅういちねん,敕各ぐん每歲まいさいきゅうがついたり明年みょうねんさんがつ,俱常みさおねり,仍以みさお軍馬ぐんば及風ゆきめんそうほうあたり備頗おさむ飭。」
  26. ^ あかり餘子よししゅんでん》:「明年みょうねんまたもちいべに鹽池しおいけ搗巢こうしんみぎ。寇以搗巢どお徙,敢復きょ套。內地患稍いきしゅんとく一意いちいきょうやく東起ひがしおこし清水しみず營,西にし抵花馬池うまいけのべ袤千ななひゃくななじゅう,鑿崖ちく墻,塹其れんぜっまい三里置敵臺崖寨備巡警。また於崖寨空しょちくたん墻,よこいちはす如箕じょう,以尞てき避射。凡築城ちくじょうじゅういちへんじゅうしょうななじゅうはちがけ寨八ひゃくじゅうきゅうやくぐんよんまんにんさんがつ而成。墻內悉分たむろ墾,さいとくかてろくまんせきゆう。」「俊之としゆきちくあたり墻也,あるうたぐすなえきかたぶけ,寇至恃。いたりじゅうはちねん,寇入はんもとやすしとう逐之。寇扼於墻塹,散漫さんまんとくとげだい衄,へんじんえきおもえしゅんこう。」
  27. ^ だい明憲あきのりそうじゅん皇帝こうてい實錄じつろくまきいちひゃくきゅうじゅうなな》:“やすしとりこ將軍しょうぐんなでやすしこうしゅひさしとうかさねはいけんしゅうえびすうえあきらそうとしいい:「けんしゅうぞくざいまん山中さんちゅう山林さんりんだかたかし道路どうろけわしせましん等分とうぶんためなでじゅんせき半月はんげつ抵其さかいぞくよりどころけわしむかいてき官軍かんぐん四面夾攻且發輕騎焚其巢穴,ぞく大敗たいはいとりころくひゃくきゅうじゅうきゅう,俘獲よんひゃくはちじゅうろくにんやぶよんひゃくじゅうあまり寨,牛馬ぎゅうば千餘盔甲軍器無算。”
  28. ^ 明憲あきのりそうじゅん皇帝こうてい實錄じつろくまきよんじゅうなな》:“提督ていとく遼東りゃおとん軍務ぐんむひだり秉奏しんどうたけやすしはくちょう輔征剿建しゅうとりこ寇,ところみつる官軍かんぐんぶんため左右さゆう哨掖,九月二十四日從撫順關出境,れきぞくはり,必納とう寨俱そらじゅう九日了見賊約百餘眾俱在薄刀山屯聚,きゅう麾兵すすむぞくうらない大山おおやま□□しょけんむかえてき官軍かんぐん奮勇こう退すさぞく眾,くれたむろへいぞくふくじょう來襲らいしゅうまたもちいしんやりおさむぞく退すさつぎとくへいついかさねぞく俱在五嶺及迤東密林隘口阻截官軍,とう調ちょう指揮しき柯忠とうせんせいさんせんみち趨賊たむろしょしょいたり十月初四初五日抵巢功剿,ぞくさきはた妻子さいし藏匿ぞうとく,而以せいたけしひゃくあまり眾□□しょけんむかえてきちゅうとうずいとく官軍かんぐん奮勇あずかぞく連戰れんせんすうじゅうごうぞくつぶせなまとりこじゅうななにん斬首ざんしゅじゅうろくきゅう,俘獲おとこじゅうよんにん奪回だっかいとりこおとこひゃくじゅうにんなみ其牛器械きかいしょう其廬しゃ。及左哨右かんすすむ韋朗とうかくみつる官軍かんぐんまた抵戴咬納とう寨。於きゅうがつじゅうきゅうにち四散しさん衝擊しょうげきぞくぜいもり奔入深山みやま官軍かんぐんねば蹤襲いたりろうとう連戰れんせんじゅうごうぞくはいなまとりころくにん斬首ざんしゅいちひゃくじゅうきゅう,俘獲おとこじゅうよんにん奪回だっかいとりこおとこひゃく四十七人又獲其牛馬器械,なみしょう毀賊しゃひだりわきふくそうへいおうあきらゆうげき將軍しょうぐんおう銓等とくへいよし河口かこうさかいれきぞく嘹哈とう寨俱そらぞく聚深さんむかえてきこれがつさん十日至次日追至五嶺等處與賊交鋒,おさむせんじゅうごうぞくつぶせなまいちじゅうはちにん斬首ざんしゅろくじゅうよんきゅう,俘獲おとこじゅうはちにん奪回だっかいとりこおとこひゃく一十八人又獲其牛馬,さがせ敕書あささきこくじょうぶん及番しょ器械きかいとうけんぞくしゃ俱焚としいたり。”
  29. ^ ひらえびす赋》:「つきとりこ酋之所有しょゆう,罔一えびす見逃みのがし。剖其こころ而碎其腦,こな其骨而塗其膏。強壯きょうそう就戮,ろうややつき俘。若土わかづちくずし而燼ほろびなお瓦解がかい而莫けしそら其藏而瀦其宅,もり其穴而火其巢。」
  30. ^ ちょう朝鮮ちょうせん實錄じつろく》:「しんなんじ輔竊おもんみけんしゅうとうまもるほん東方とうほう黠虜也。しんおとずれなり年間ねんかんだい猖獗しょうけついちさいあいだ入寇にゅうこうきゅうじゅうななころせとりこ人口じんこうじゅうあまりまんけんそう皇帝こうていふるえいかいのちはた搗巢,誅滅ちゅうめつすんでつきのべいまろくじゅうねんひがし晏然。」
  31. ^ くにさくきょう肅端じゅんさかえやすしすめらぎとうと
  32. ^ 32.0 32.1 32.2 32.3 32.4 32.5 くに
  33. ^ だい明憲あきのりそうじゅん皇帝こうてい實錄じつろくまきよんつちのえさる 皇太后こうたいごうさとしれいいませんとくとくどうしゅん長女ちょうじょため皇后こうごうだいこん有期ゆうきあいぎょう禮儀れいぎなんじれい部會ぶかいどう翰林院かんりんいんてい以聞
  34. ^ だい明憲あきのりそうじゅん皇帝こうてい實錄じつろくまきななみずのえさるふとかいあきらこうまごまましそうたかし正使せいししょう吏部尚書しょうしょけんはなぶた殿どのだい學士がくし賢禮よしのり尚書しょうしょ姚夔たかし副使ふくしぶしたてまつさつたからこう奉迎ほうげいれい 皇后こうごう受冊たから其第至大しだい內行れいみな如儀さつせい曰朕纂紹おおとり統御とうぎょ天下でんかひさしおもんみ夫婦ふうふみちじつためみなもとせき睢得けん所以ゆえんためふうくび家人かじんせい內易所以ゆえんあらわ於象ちゅう聖帝せいてい明王みょうおうりつせきひめ輔咨しか毓秀勛門しつ純粹じゅんすいゆうはしそうせいいちこれとくゆう溫和おんわ慈惠じえじん姆師くんもとあいだれいよう爽茂簡貞淑ていしゅくしきちぎりもとかめ肆加褕翟さかえ俾冠のきりゅうくらいとく使つかいぶし以金さつきん寶立ほうりゅうなんじため 皇后こうごう於戲かつまことかつけいつね遵圖ぶんまわしおもんみ儉惟つとむなお佩詩しょ戒奉 八廟之祀享衡紞是將極 りょうみや歡心かんしんぜん羞是臻樛これえいけい螽斯きりぎりすさちひょうせい六宮母儀四海誕膺福履永振徽音欽哉
  35. ^ だい明憲あきのりそうじゅん皇帝こうてい實錄じつろくまきはちみずのとはい 皇后こうごうきょ於別かんはつ じょうざい東宮とうぐう えいむねためはい榜諭中外ちゅうがいぶん命中めいちゅうかん往採とくじゅうにんみないたり えいむねおやせんおうかしわ三人留於宮初意在今 皇太后こうたいごうかい あきら皇后こうごうくずしすんでえいむねくずし左右さゆう竊有不利ふりうたぐ うわ即位そくい 皇太后こうたいごうふくいのちれい榜諭京師けいし採擇さいたくさんにんしゃ仍在せん而立じりつおうかしわみないれふくみやにわかゆうむねうしだま朝廷ちょうていだいこん察院ごくなみくれ熹鞫たま熹皆ふとしかん也玉れんちちとくどうしゅん逮俊及其ゆう下獄げごくごくいいしょうりつだま以王其所せんせつ ふとしきさきよくえき而俊以玉嘗選いん熹賂だまゆえそつりつ以聞 じょうじゅう其事いのちかんしゅう於是おおやけこうはくとく尚書しょうしょさむらいろうどおりせい使だいてらきょうきゅうごとちゅうとうかんまごまましそうひとしみないいけい 先帝せんていしょ退すさ且有けつ不可ふかどもうけたまわ むねまつとげはく ふとしきさきはい敕諭きさき曰朕おもんみ皇后こうごう所以ゆえんどもうけたまわ むねまつおもてせいろくみや德性とくせいじゅんよしれいあいだ習者不足ふそく以當しか言動げんどうけい浮禮あらりつとめこころ曲調きょくちょう習為よこしまとろけはたなに以共うけたまわ むねまつおもてせい六宮其上皇后冊寶退處別宮仍諭文武群臣曰朕勉遵 先帝せんていいのち冊立さくりつ皇后こうごう不意ふいふとしかんうし玉偏たまへん徇己わたし朦朧もうろうはた 先帝せんていざいえらべ退ずさ母后ぼこうぜん奏請そうせいりつため皇后こうごうちんかんけい浮粗りつうん靡不ゆうはつはつなお謹何以堯おわりちんまけ天下でんかじゅうしょれいへん冊立さくりつ中宮ちゅうぐうため風化ふうかげん不幸ふこうしょぐう如此あにとくやめ哉敷つげ群臣ぐんしん悉予いたりとげ謫玉熹南京なんきん こうりょうしゅさいしゅん戍登しゅうまもるずいこれたてしゅ逾月而廢當時とうじ傳言でんごんあるいい後宮こうきゅうさきゆう擅寵しゃつえせめ及然みやきんごと莫得而詳またいいゆうあくうしだませんしゃほしだつ其權ゆうしょうけたまわもち而然つみどく於玉うんます陝西せんせい富谷とみやけんけんはたひろしためかやしゅうしゅうひろし以進授監察御すわこと謫驛すすむてんじゅんはつぐうれいしんけん以廉のう聞巡なでじょ廷章こもゆういのち
  36. ^ だい明憲あきのりそうじゅん皇帝こうてい實錄じつろくまきじゅうみずのえたつりつおうため 皇后こうごうはやふとかいあきらこうまごつぎむねつげ 天地てんちなでやすしはくしゅひさしつげ 宗廟そうびょう じょう躬告 えいむねいくむしろ出御しゅつぎょ奉天ほうてん殿でんいのちふとしかいあきらこうまごつぎむねため正使せいししょう吏部尚書しょうしょけんはなぶた殿どのだい學士がくしけんため副使ふくし以金さつ金寶きんぽうさつおうため 皇后こうごうさつ曰朕おもんみ帝王ていおう致治みち必先於正家人かじんくんあつしはしゆう於得はいまきせんろくみやひょうりつため萬國ばんこくはは義重よししげつなつねくん昭典あきのりさつ此有こくはん其來なお矣朕きょう膺大たから景仰けいこうひろし<娛訃>詎意蔽於へんかい臨婚あやま倒置とうちなおよりゆき 先帝せんてい遺言ゆいごん泯因中宮ちゅうぐうみょうせんやめなりしかおう天賦てんぷ柔順じゅうじゅん躬履じゅん生長せいちょう良家りょうけ言動げんどうたがえ於禮比倫ひりん懿德かそけあいだまこときょう於群じょう雖久そだて別宮べつく而清しょうえきちょようちょうとう於正而光ふくおもんみよろしこん以金さつきん寶立ほうりゅうなんじため皇后こうごう於戲はいわが宸嚴輔茲以承 九廟之祀以奉 りょうみや慈以はしひょうりつげん以重ははたくおもんみまことおもんみけいため百行之先惟儉惟慈為萬福之本善翼予治同享天休汝其欽哉○れいきゅうごとちゅうちょうやすしとうそうしゃく道之みちゆききょうさんだいしょいたりかんから而盛歷代れきだいすぐるくんよしみ闢非ふかあく而痛かわとく以化しるべ愚昧ぐまいそん以備がい一術耳非謂其能扶世立教延永國祚而為之崇奉也 すめらぎじょう即位そくいはつもとぞうれいてらかん乞請がくめいかた傳法でんぼう將來しょうらいいまれい尚書しょうしょ姚夔とういん 皇太后こうたいごう誕日建設けんせつひとし醮乃かい百官ひゃっかん炷香赴壇ぎょうれいそく儒者じゅしゃ自失じしつ其守矣夫しん於君ねがい其福也當すすむ以修德善とくぜんねがい其壽也當すすむ以去いっほしこん不能ふのうつきしょ當為とうい以瓣じゃくこうじれつめい其上宣揚せんよう木偶でくまえしょうりつ而拜曰為朝廷ちょうていいのりぶくしゅく壽通ことぶきどおりちょうこれにん靡然しょうしたがえすんで不能ふのう闢而はいまた不能ふのう以正しょ天下でんか後世こうせいいいなん えいびょうはつふくぞくゆうあしやまし其時いち大臣だいじん察古じんぎょう禱之嘗舉ぎょう此事ぶた於一時臣子迫切之情非 祖宗そそうきゅうてん先帝せんてい本心ほんしん因循いんじゅんいたりいまなお沿故習夫しん於君猶子ゆうし於父一指いっし一發いっぱつみな其長餋使とき醮可以助こくころせまたところただし以無えき事情じじょうきず大體だいたい其於ひじりたかし貝少かいしょうわたしそん乞敕れい凡遇とき醮不もと百官ひゃっかん於寺かん炷香ぎょうれい其僧どう坐食ざしょくしょこうろうねがい焚修以為つきしんしゃ聽如此庶以扶めいきょう全治ぜんちたい而與三代之時並隆矣 じょう曰爾とうしょげん有理ゆうり今後こんごそうどうとき醮不もと百官ひゃっかんぎょう
  37. ^ だい明憲あきのりそうじゅん皇帝こうてい實錄じつろくまきじゅうななからしさつふう萬氏為貴妃柏氏為賢妃。うえ奉天ほうてん殿でんいのちふとしかいあきらこうまごつぎむねしょう吏部尚書しょうしょけんはなぶた殿どのだい學士がくしけんため正使せいし太子たいししょう戶部とべ尚書しょうしょうまのぼるれい尚書しょうしょ姚夔ため副使ふくしかくぶしぎょうれい
  38. ^ だい明憲あきのりそうじゅん皇帝こうてい實錄じつろくまきいちひゃくじゅうよんおつ 皇子おうじ ははおさむ薨追ふうよし謚恭つとむそう僖輟あささんにち じょうふくあさしょくころも奉天ほうてんもんこといのちれいてい葬儀そうぎちゅう
  39. ^ だい明憲あきのりそうじゅん皇帝こうてい實錄じつろくまきいちひゃくじゅうはちつちのえとら以定西にしこう蔣琬ため正使せいしれい尚書しょうしょけん文淵ぶんえんかくだい學士がくしまんやすため副使ふくしぶしさつとうとまんためすめらぎとうと、邵氏ため宸妃、おうためじゅんりょうためおうためあきら...
  40. ^ だい明憲あきのりそうじゅん皇帝こうてい實錄じつろくまきひゃくきゅうじゅういち》「甲子きのえね以太でん英國えいこくこうちょう懋為正使せいししょうでん吏部尚書しょうしょはなぶた殿どのだい學士がくしまんやすため副使ふくしぶしさつ宸妃邵氏ためとうとちょうためとくかくためめぐみあきらためうらら、姚氏為安ためやすおうためけいとうためさかえ、楊氏為恭ためちかはんためはしたけしためせい前期ぜんきおおとり臚寺しつらえぶしさつたからあんそくあん居中きょちゅうさつ東寶とうほう西にししつらえぶしさつたからあや輿こし於丹墀,內教ぼうしつらえ中和ちゅうわ韶樂,內官設かんせつとうととくめぐみうららやすけいさかえきょうはしせい受冊...」
  41. ^ あかりしょまきじゅういち
あかり宪宗
出生しゅっしょう于:1447ねん12月9にち逝世於:1487ねん9がつ9にち
統治とうちしゃあたま
前任ぜんにん
ちちあきらえいむねしゅ祁镇
中国ちゅうごく皇帝こうてい つぎにん
三子みつごあかりこうむねしゅゆう
明朝みょうちょう皇帝こうてい
1464ねん-1487ねん