あずかとめ女神めがみしゃ

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すわ33°19′35″N 130°16′06″E / 33.326311°N 130.268339°E / 33.326311; 130.268339

あずかとめ女神めがみしゃ
あずかとめ女神めがみしゃよどひめじんじゃ Yodohime-jinja
基本きほんしんいき
位置いち日本にっぽん佐賀さがけん佐賀さが大和やまとまち大字だいじ川上かわかみ1
宗教しゅうきょう神道しんとう
主祭しゅさいしんあずかとめおんないのち
例祭れいさい4がつ18にち
社格しゃかく
けん筑详じょう
本殿ほんでん構造こうぞう流造ながれづくり
建立こんりゅう时间欽明天皇てんのう25ねん
地圖ちず
地图

あずかとめ女神めがみしゃにち语:あずかとめ女神めがみしゃよどひめじんじゃ Yodohime-jinja */?日本にっぽん佐賀さがけん佐賀さが大和やまとまち大字だいじ川上かわかみてき神社じんじゃ社格しゃかくこれしき內小しゃ肥前ひぜんこく一宮いちのみやけんしゃ[1]祭神さいじんにち祭神さいじんあずかとめおんないのち[2][註 1]別當寺べつとうじにち別当寺べつとうじ神通寺じんつうじ本地ほんじふつこれじゅういちめん觀音かんのん[3]氏子うじこ方面ほうめん根據こんきょ府縣ふけん鄉社ごうしゃ明治めいじ神社じんじゃりょうにち府県ふけん郷社ごうしゃ明治めいじ神社じんじゃりょうかず日本にっぽん社寺しゃじ大觀たいかん記載きさい845[4][5],《神社じんじゃ名鑑めいかんしょう1000[6],《全國ぜんこく神社じんじゃめい鑒》ゆび800崇敬すうけいしゃゆう10,000にん[7],《しき內社調ちょう報告ほうこく》引述1925ねんてきろくゆび當時とうじゆう856氏子うじこ分布ぶんぷ於大おだいかずまち大字だいじ川上かわかみ東山ひがしやま田和たわ池上いけがみ[8],《佐賀さがけん神社じんじゃようしょう858[9]神社じんじゃかんかたしょうやく800崇敬すうけいしゃへんぬの嘉瀨川かせがわにち嘉瀬川かせがわ流域りゅういき川上かわかみ佐賀さがぐん佐賀さが以至小城おぎ[10]文化財ぶんかざい方面ほうめん,「河上かわかみ神社じんじゃ文書ぶんしょ(247しゅ)」これ重要じゅうよう文化財ぶんかざい西門にしもん佐賀さがけん重要じゅうよう文化財ぶんかざいにち佐賀さがけん指定してい文化財ぶんかざい一覧いちらん三之さんの鳥居とりいのり佐賀さが重要じゅうよう文化財ぶんかざい[11]

位置いちあずか名稱めいしょう[编辑]

神社じんじゃあずか嘉瀨川かせがわ

神社じんじゃ佐賀さが北部ほくぶてき脊振山地せふりさんちにち脊振山地せふりさんちてきたにそこ平原へいげんにちたにそこ平野へいやしょ沖積ちゅうせきおうぎ嘉瀨川かせがわざい肥前ひぜんこく風土記ふどき中稱ちゅうしょうため嘉川かがわ流域りゅういき[12][13]一帶いったいたたえため川上かわかみかいにち川上かわかみかい[1]行政ぎょうせい區劃くかく方面ほうめん神社じんじゃげんぞく肥前ひぜんこく佐賀さがぐん山田やまださと中世ちゅうせいどき山田やまだ東鄉とうごう[3]こうため川上かわかみむら大和やまとむらかず大和やまとまち[14]名稱めいしょう方面ほうめんあずかとめ女神めがみしゃてき名稱めいしょう於《延喜えんぎしきかみめいちょう》,另一方面ほうめん根據こんきょ河上かわかみ神社じんじゃ文書ぶんしょかず實相院じっそういん文書ぶんしょ記載きさい神社じんじゃざい平安へいあん時代じだいこれてき中世ちゅうせい近世きんせいどきしょうため河上かわかみみやある河上かわかみしゃ明治めいじこれ神社じんじゃ也以河上かわかみ神社じんじゃ作為さくいかんかた名稱めいしょうちょくいたり1946ねんざい通過つうか宗教しゅうきょう法人ほうじんれい登記とうき神社じんじゃ名稱めいしょうためあずかとめ女神めがみしゃ民間みんかんそくしょうさくよどみひめ大人おとな」(よどみひめよどひめよう[8]

歷史れきし[编辑]

根據こんきょ延喜えんぎしきかみめいちょう頭注とうちゅう》引述てき肥前ひぜんこく風土記ふどき逸文いつぶん記載きさい:「風土記ふどきうん 人皇じんのう卅代欽明天皇てんのう廿にじゅう五年甲申冬十一月朔甲子 肥前ひぜんこくよしみぐん あずかとめひめかみ ゆう鎮座ちんざ いちめいゆたかひめ いちめいよどみひめ」,反映はんえい神社じんじゃざい欽明天皇てんのう25ねん11月1にち便びん鎮座ちんざ於佐よしみぐん栗田くりたひろしざい風土記ふどき逸文いつぶん考證こうしょうちゅうみとめため人皇じんのう卅代」、「きのえさるふゆじゅういちがつついたち甲子きのえね」以及「肥前ひぜんこくひとし後人こうじんしょうつし,《日本にっぽん古典こてん文學ぶんがく大系たいけいにち日本にっぽん古典こてん文学ぶんがく大系たいけいさら直接ちょくせつみとめためせいだん逸文いつぶんひとし後世こうせいしょうつし[8][3]つきかん如此,根據こんきょ肥前ひぜんこく風土記ふどきよしみぐんじょう記載きさい:「また川上かわかみゆう石神いしがみめい曰世ひめ海神わたつみねんつねいいわにぎょ 逆流ぎゃくりゅうせんじょう いた此神しょ海底かいていしょうぎょ おおあいしたがえこれあるひとかしこ其魚しゃ 殃、あるひと捕食ほしょくしゃ ゆう。凡此ぎょとう じゅうさんにち かえ入海いりうみ。」[13],也就せつ嘉川かがわてき川上かわかみゆう一名稱為世田姬的石神,每年まいとし海神わたつみわにぎょひとしかいりつりょう一眾幼魚逆流而上前往世田姬處,たい魚心うおごころそんけいかしこてきじんかい遭殃,たん捕食ほしょくしゃのりさかなそくざいりょう三天後返回大海[15]

根據こんきょ角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辭典じてんてき說法せっぽうせいひめあずかあずかとめ女神めがみ同一どういつしん[14],《しき內社てき研究けんきゅうのりみとめためヨタみなもとあずかとめヨト[15]大塚おおつか統子もとこ也認どうYota(ヨタためYoto(ヨトてき訛音かおん[3]。《角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辭典じてん》也指わにぎょあずかとめ女神めがみてき眷,來演らいえんへんためわにぎょゆびなまずぎょ[14]根據こんきょ神社じんじゃ大和やまとまちてき說法せっぽう以前いぜんとう有人ゆうじんざい深夜しんやわたりかん人橋ひとばしかいしょうためKanawa(カナワてきまむしへび妖襲げき死去しきょゆう一晚漁夫父子在捕魚的時候,けん遭Kanawa襲擊しゅうげきざいせきかぎ時候じこうなまずぎょ出現しゅつげん吞下Kanawa,們在すくいためりょう感謝かんしゃなまずぎょ便びんざい神社じんじゃはつちかい以後いごさい捕食ほしょくなまずぎょもと於此口述こうじゅつ歷史れきしなまずぎょ變成へんせいかみ使いん此當きょみん也不かいどもなまずぎょ[1][16]

根據こんきょ日本にっぽんさんだい實錄じつろく記載きさい神社じんじゃざいさだかん2ねん2がつ8にち(860ねん3がつ4にちにち叙位じょいしたがえしたさだかん15ねん9がつ16にち(873ねん10がつ11にちますいたりせいした[14]ひろちょう元年がんねん2がつ20日はつかますいたりせいいち(1261ねん3がつ22にち[5]うけたまわ3ねん11がつ10日とおか(1076ねん12月8にち),根據こんきょぶんおう元年がんねん(1260ねん)10がつてき河上かわかみみや免田めんだにち免田めんだ寄進きしん年紀としのり次第しだい注文ちゅうもんにち注文ちゅうもん記載きさい神社じんじゃたちばなしゅんしん寄進きしん仁王におう般若はんにゃこうにちこう免田めんだ3まちやく0.03平方ひらかた公里くり),ちょくいたりひろし2ねん(1230ねん)3がつてき5まちやく0.05平方ひらかた公里くりためどめ神社じんじゃそうとも寄進きしん浮免にち免田めんだ277まち4たんやく2751074.38平方へいほうまい)。相對そうたい根據こんきょ安元やすもと2ねん(1176ねん)6がつてき役所やくしょ神田かんだにち神田かんだつぼづけ注文ちゅうもんあんにち案文あんぶん》、せいおう5ねん8がつ16にち(1292ねん9がつ28にちてき河上かわかみしゃ造營ぞうえい用途ようと支配しはい惣田そうだすう注文ちゅうもん》以及ぶん2ねん2がつ10日とおか(1318ねん3がつ13にちてき免田めんだつぼつぼ領主りょうしゅ交名にち交名注進ちゅうしんにち注進ちゅうしんじょうあん記載きさい神社じんじゃゆうてい免田めんだにち免田めんだ30まちやく0.3平方ひらかた公里くり左右さゆう,以山田やまだ東鄉とうごう城崎きのさき西鄉さいごう小津おつ東鄉とうごう和深わぶかみぞ西鄉さいごうため中心ちゅうしんへんぬの於各[註 2]。此外,根據こんきょげんとおる3ねん5がつ10日とおか(1323ねん6がつ14にちてき鎮西ちんぜいにち鎮西ちんぜい下知げじじょうにち下知げじじょう記載きさい神社じんじゃざい鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうき獲得かくとくてき上分かみぶんにち上分かみぶんためかくまち1ぬきぶん,佔年貢ねんぐにち年貢ねんぐ總額そうがくたち一成いっせい[3]永久えいきゅう2ねん3がつ11にち(1114ねん4がつ17にち),根據こんきょ河上かわかみしゃしゃそうひろゆうかいじょう記載きさい神社じんじゃしゃそうえんひろざい寬治かんじ3ねん(1089ねん開墾かいこん荒地あれちなみ且建立河たちかわ上別所かみべっしょさんそく後來こうらいてき神通寺じんつうじざい室町むろまち時代ときよこれ神通寺じんつうじ轄的實相院じっそういんてき勢力せいりょく開始かいし超越ちょうえつ神通寺じんつうじなみ作為さくい神社じんじゃてき神宮寺じんぐうじ,以河上山かみのやま座主ざすてき名義めいぎ兼帶けんたい神社じんじゃてき所有しょゆう權限けんげん[14][13]

じん年間ねんかん(1240ねんいたり1243ねん),肥前ひぜんこくなりためづくり東大寺とうだいじくに社殿しゃでんきょうけん也隨停滯ていたい弘安ひろやす3ねん12月11にち(1281ねん1がつ3にち),根據こんきょ龜山かめやま上皇じょうこう院宣いんぜん記載きさい神社じんじゃじゅん徵收ちょうしゅういちこく平均へいきんやくにちいちこく平均へいきんやく最終さいしゅう能成よしなりごとせいおう5ねん6がつ16にち(1292ねん7がつ1にち取得しゅとく關東かんとう御教書みぎょうしょにち御教書みぎょうしょこうざいとくやめ制定せいてい造營ぞうえい用途ようと支配しはい惣田そうだすう注文ちゅうもん》。根據こんきょせいおう5ねん8がつ20日はつか(1292ねん10がつ2にちてき沙彌さやぼうとう連署れんしょ施行しこうじょうにち施行しこうじょうあん記載きさいかくまちひとし需繳おさめぜに300ぶん以及糧米りょうまい5ますやく9.02おおやけますいたり神社じんじゃえいひとし3ねん5がつ23にち(1295ねん7がつ6にち),御殿ごてん完工かんこうひさ後便こうびんたおせ塌,其後ざい正安まさやす元年がんねん12がつ8にち(1299ねん12月31にちゆかり神社じんじゃくだり修復しゅうふくげんとおる2ねん(1322ねん)8がつ神社じんじゃ再度さいど以一國平均役來興建社殿,ただし在社ざいしゃ殿どのなお完成かんせい便びん遷宮せんぐうにち遷宮せんぐうげんとおる4ねん(1324ねんいたりかんおう元年がんねん(1350ねん正平しょうへい5ねん),根據こんきょ座主ざすぞうなりかわ上社かみやしろひらくかご儀式ぎしき注進ちゅうしんじょううつし記載きさい神社じんじゃ可能かのうよし閉門へいもん抗議こうぎ而未ゆうきょうけん社殿しゃでん正平しょうへい22ねん7がつ27にち(1367ねん8がつ23にち貞治さだはる6ねん),根據こんきょなつけ親王しんのう令旨れいし記載きさい菊池きくち武光たけみつたてまついのちけん查神しゃてきそん毀情きょう,其後根據こんきょ建德けんとく2ねん8がつ19にち(1371ねん9がつ28にちおうやす4ねんてきなつけ親王しんのう令旨れいし記載きさいひがし妙寺みょうじ長老ちょうろうたてまついのち擔任たんにん造營ぞうえい奉行ぶぎょうのう確認かくにんいやゆう實行じっこう[3]

あずかとめおんな天滿宮てんまんぐう天神てんじんしゃ

えいいさお元年がんねん6がつ16にち(1381ねん7がつ8にち弘和ひろかず元年がんねん),根據こんきょ同日どうじつてきとうさつうつしかんれき2ねん6がつ25にち(1380ねん7がつ27にち天授てんじゅ6ねんてき今川いまがわ了俊りょうしゅんしょ》、えいいさお3ねん(1383ねん弘和こうわ3ねん)2がつてき今川いまがわ了俊りょうしゅん河上かわかみしゃ造營ぞうえいだんぜににちだんぜにとうことしょ》以及よしみけい2ねん(1388ねんもとなか5ねん)4がつてき河上かわかみしゃざつてのひらさるじょうにちさるじょう并具しょあん記載きさい神社じんじゃざい徵收ちょうしゅう一國平均役時雖然遭到守護しゅご今川いまがわ仲秋なかあきにち今川いまがわ仲秋なかあきふけあやまただし最終さいしゅう仍然成功せいこうきょうけん社殿しゃでんおうひさし7ねん(1400ねんかずおうなが29ねん(1422ねん),根據こんきょ河上かわかみしゃ遷宮せんぐう并五はちりょうかい儀式ぎしき目錄もくろく》以及《かり殿しんがり造營ぞうえいりょう材木ざいもく注文ちゅうもんうつし記載きさい神社じんじゃ也曾けいきょうけん社殿しゃでんただししょうじょう不明ふめい文明ぶんめい9ねん(1477ねん),神社じんじゃざい勸進かんじんそうてききょうじょしたきょうけん社殿しゃでんあかりおう3ねん(1494ねん)、あきらおう8ねん(1499ねん)、ぶんかめ4ねん(1504ねん)以及とおる祿ろく3ねん(1530ねん)也通過つうか勸進かんじんらいきょうけん社殿しゃでんえい祿ろく元年がんねん12がつ3にち(1559ねん1がつ11にち),根據こんきょ龍造寺りゅうぞうじ隆信たかのぶとう連署れんしょ願文がんもん記載きさい龍造寺りゅうぞうじ開始かいし介入かいにゅう神社じんじゃてき社殿しゃでんきょうけん[3]

もとかめ元年がんねん(1570ねん),豐後ぶんごこくてき大友おおともおさむにゅう肥前ひぜんこくとき川上かわかみ一帶いったいなりため戰場せんじょう神社じんじゃ也毀於戰[8]慶長けいちょう18ねん3がつ13にち(1613ねん5がつ2にち),根據こんきょ收錄しゅうろく於《實相院じっそういん文書ぶんしょ》內的《鍋島なべしま勝茂かつしげ寄進きしんじょううつし記載きさい神社じんじゃ寄進きしんよしみぐん佐保さお川島かわじま河上かわかみむら內172いし49しょう7しゃくにちしゃくざい這之まえ九州きゅうしゅう探題たんだい澀川滿まんよりゆきにち渋川しぶかわみつるよりゆき千葉ちばたねやすしにち千葉ちばたねやすししょうせいにちしょうせい龍造寺りゅうぞうじたねさかえ神代かみしろ勝利かつとしにち神代かみしろ勝利かつとしとうひとひとし曾經寄進きしん田地たじいたる神社じんじゃ[14][13]。1911ねん8がつ於川上村うえむら大字だいじ東山田ひがしやまた平野ひらのぶんてきかくしゃ大明だいめい神社じんじゃ合祀ごうしいたりあずかとめ女神めがみしゃ[8][註 3],其餘てき合祀ごうし神社じんじゃなお有無うむかくしゃよどみひめしゃ以及天神てんじんしゃ[5]

社格しゃかく[编辑]

ざい延喜えんぎしきかみめいちょうちゅう神社じんじゃ肥前ひぜんこく四座式內社之一,也是よしみぐん唯一ゆいいつてきしき內社,《しき內社調ちょう報告ほうこく推測すいそく神社じんじゃ收錄しゅうろく於神めいちょうてき理由りゆう其接壤地農業のうぎょう發達はったつ上山田かみやまだきょう成立せいりつ受到きょうみん崇敬すうけい以及鄰近國衙こくがにち肥前ひぜんこくちょうあと[8]。此外,神社じんじゃざいかみめいちょう內的地位ちい雖然名神めいしん大社たいしゃ田島たじま神社じんじゃにち田島たじま神社じんじゃよし田島たじま神社じんじゃ海上かいじょう交通こうつうかみいん此在廢除はいじょ遣唐使けんとうし制度せいど,其重要じゅうようせい開始かいしげんじゃく相對そうたい接近せっきん國衙こくがてきかみ社則しゃそく開始かいし受到重視じゅうし[14][3]

おう2ねん3がつ23にち(1162ねん5がつ8にち),根據こんきょ肥前ひぜん國司こくしちょうせんにち国司こくしちょうせんあん記載きさい神社じんじゃため一宮いちのみや」,這是神社じんじゃ作為さくい一宮在文獻上首次有記載,せいおう5ねん6がつ16にち(1292ねん7がつ1にちてき關東かんとう御教書みぎょうしょ》也記載きさいどう肥前ひぜんこく一宮いちのみや河上かわかみ神宮じんぐう」,よしみおう2ねん3がつ10日とおか(1170ねん3がつ29にちてき肥前ひぜんこく留守るすしょにち国衙こくがしもぶんにちしもぶんあんのりしょうしん社是しゃぜとうくにだいいちこれ鎮守ちんじゅ」。大塚おおつか統子もとこみとめため肥前ひぜん國司こくしちょうせんあんてき筆跡ひっせきゆうこと推測すいそくあずかせんぐり八幡宮はちまんぐう就一宮地位爆發爭議時竄改而來,她指あずかとめ女神めがみしゃせき一宮いちのみやてき用例ようれいそう共有きょうゆう22こう,其中20こうため竄改,剩餘じょうよりょうこう存疑そんぎかん於千ぐり八幡宮はちまんぐうざいけんれき3ねん(1213ねん)2がつてき八幡やはた宇佐うさ彌勒寺みろくじつかさかいにちかい (公文書こうぶんしょ)ちゅう記載きさいためとうくにだい一宮いちのみや也」,じょう兩者りょうしゃざい中世ちゅうせいどきぼつゆう一宮いちのみや地位ちい爆發ばくはつ爭議そうぎ,而且收錄しゅうろく於《龍造寺りゅうぞうじ文書ぶんしょ》、《後藤ごとう文書ぶんしょ》、《田尻たじり文書ぶんしょかず鶴田つるた文書ぶんしょ》內的天正てんしょう年間ねんかん(1573ねんいたり1592ねん起請文きしょうもん也多以千栗八幡宮為國內諸神之首,實際じっさいじょう西海にしうみみち一宮いちのみや中也ちゅうやだい八幡宮はちまんぐうにち八幡宮はちまんぐういん此她推測すいそく千栗八幡宮在中世時便是肥前國一宮[3][14]

兩者りょうしゃてき一宮爭議始於慶長けいちょう19ねん(1614ねん),あずかとめ女神めがみしゃこう陽成ようぜい天皇てんのう下賜かしこくゆうだい日本國にっぽんこく鎮西ちんぜい肥前ひぜんしゅうだいいちこれ鎮守ちんじゅ 宗廟そうびょうかわ上山うえやま正一しょういちよどみひめ大明神だいみょうじん一宮いちのみやてきふで匾額,《日本にっぽん歷史れきし地名ちめい大系たいけい推測すいそく匾額よし實相院じっそういん座主ざすとうとじゅん僧正そうじょう通過つうか本山ほんざん仁和寺にんなじ門跡もんぜきこう陽成ようぜい天皇てんのう之子ゆきこにちさとし深入ふかいりどう親王しんのう而得らい元和がんわ7ねん6がつ1にち(1621ねん7がつ19にち),根據こんきょ收錄しゅうろく於《實相院じっそういん文書ぶんしょ》內的《河上かわかみさん座主ざすとうとじゅんさるじょう記載きさいとうとじゅんれつ七點來主張與止日女神社作為一宮的正當性,其後肥前ひぜんはん藩主はんしゅ鍋島なべしま勝茂かつしげざい元和がんわ9ねん(1623ねん)以喧嘩けんか兩成敗りょうせいばいらい解決かいけつ爭議そうぎしたれい兩者りょうしゃじょりょう慶長けいちょう18ねん(1613ねんまえてき文獻ぶんけん以外いがいひとし禁止きんし使用しよう一宮いちのみや稱號しょうごう,及至たかられき4ねんたかられき5ねん(1754ねん1755ねん),雙方そうほうひとし決定けっていさい使用しよう一宮いちのみや稱號しょうごう[3][8][14][13]

明治めいじ4ねん(1871ねん)12月,神社じんじゃれつためけんしゃ,1912ねん1がつ25にちれつため神饌しんせん幣帛へいはくりょうきょうしんしゃ。1924ねんこれ神社じんじゃ雖然つぎ申請しんせいますかくただしひとし失敗しっぱいつげおわり[8][9]

さかい[编辑]

根據こんきょ府縣ふけん鄉社ごうしゃ明治めいじ神社じんじゃりょうかず日本にっぽん社寺しゃじ大觀たいかん記載きさい神社じんじゃさかいにち境内けいだい面積めんせきたち2380つぼやく7867.77平方へいほうまい[5][4],《神社じんじゃ名鑑めいかん》、《全國ぜんこく神社じんじゃめい鑒》かずしき內社調ちょう報告ほうこくひとししょう2397つぼやく7923.97平方へいほうまい[6][7]神社じんじゃかんかたそくゆび2795つぼやく9239.67平方へいほうまい[10]根據こんきょ元和がんわ9ねん(1623ねんてき座主ざすとうとじゅん由緒ゆいしょ差出さしでしょ記載きさい神社じんじゃてきよんいたりにちよんいたり分別ふんべつひがしいたり春日しゅんじつてきしろつじみなみいたる平野宮ひらのみや西にしいたる水上みずかみさんてき蛭谷ひるたにきたいたる小坂こさかつじ神佛しんぶつ分離ぶんりまえてき河上かわかみさんめんにちじょ涵蓋さかい內4まち6たん28やく45712.4平方へいほうまいかず山林さんりん30まちやく0.3平方ひらかた公里くり),田地たじ方面ほうめんしき內社調ちょう報告ほうこくゆび20まち8はん2うね17やく206535.54平方へいほうまい),《日本にっぽん歷史れきし地名ちめい大系たいけいのりしょう25まち4たん3うね25やく252280.99平方へいほうまい[8][13]。2012ねん神社じんじゃ指定していため佐賀さが景觀けいかん重要じゅうよう建造けんぞうぶつにち景観けいかん重要じゅうよう建造けんぞうぶつ[17]

本殿ほんでん是正ぜせいめんあいだにちはしらあいだ側面そくめんよんあいだてき流造ながれづくり建築けんちく,《神社じんじゃ名鑑めいかんしょう佔地20つぼやく66.12平方へいほうまい),《しき內社調ちょう報告ほうこくのりゆび32つぼ1ごうにちごう8しゃくやく106.38平方へいほうまい),じゅうけん文化ぶんか13ねん(1816ねん),原本げんぽんひのきがわいただき中殿ちゅうでん是正ぜせいめんいちあいだ側面そくめんさんあいだてき切妻きりづまづくりかわらいただきにち瓦葺かわらぶ建築けんちく,佔地10つぼ9ごう9しゃくやく36.33平方へいほうまい)。拜殿はいでん是正ぜせいめんあいだ側面そくめんさんあいだてき入母屋いりもやづくり建築けんちく正面しょうめんたてゆう唐破風からはふこうはいにちこうはい原本げんぽんかわらいただき,佔地30つぼ3ごう4しゃくやく100.3平方へいほうまい),かけゆう副島そえじま種臣たねおみところうつしてきこく鎮守ちんじゅ」匾額。本殿ほんでんあずか拜殿はいでんあいだ以中殿どの連接れんせつ形成けいせい權現造ごんげんづくりにち権現造ごんげんづくり三殿みどのひとし日本にっぽんひらたかしわくすのきいつきたてしげる。1926ねん神饌しんせんにち神饌しんせんところ參籠さんろう殿でん社務しゃむしょ完工かんこう本殿ほんでん拜殿はいでんいただきあらためしき銅板どうばんなみ且加けん千木ちぎ鰹木かつおぎにち千木ちぎ鰹木かつおぎ[6][8][10]。此外,さかい內尚ゆうけん於元かめ4ねん(1573ねん)3がつてき切妻きりづまづくりかわらいただき建築けんちく西門にしもん[10][18]ざい慶長けいちょう13ねん(1608ねんゆかり鍋島なべしま勝茂かつしげ寄進きしんてきさんこれ鳥居とりい以及だか20べいじゅかこえたち8.6まいてき保存ほぞんくすのきじゅにち都市とし美観びかん風致ふうち維持いじするための樹木じゅもく保存ほぞんかんする法律ほうりつひとしひとし[19][20]

もと於《佐賀さがけん神社じんじゃようてきあずかとめ女神めがみしゃさかい內社及祭しん[9]
さかい內社 若宮わかみや神社じんじゃ 香椎かしいしゃ ちょうもんしゃ たから滿みつるしゃ 王子おうじしゃ よどみおんなしゃ 住吉すみよししゃ 志賀しがしゃ 加茂かもしゃ 春日しゅんじつしゃ 稻荷いなりしゃにち稲荷いなり神社じんじゃ 阿蘇あそしゃ 山王さんのうしゃにち山王さんのう信仰しんこう おつみやしゃ 高良こうらしゃ ひゃくだいみや だいえいみや
祭神さいじん 仁德天皇にんとくてんのう 神功じんぐう皇后こうごう 彥命 たまひめいのち 大友おおともべつごう 豐玉とよたまひめいのち うみわらわしん 加茂かもべつ雷神らいじん てん之子ゆきこ屋根やねいのち くらいねたましいしん けんいわりゅういのち 大山おおやま咋神 さん女神めがみ たけ宿禰すくね 豐玉とよたまひめいのちてきかずたましい 豐玉とよたまひめいのちてきあらたましい

祭事さいじ[编辑]

あずかとめ女神めがみしゃ年度ねんど祭事さいじ一覽いちらん[21]
式年しきねん大祭たいさい(50ねんいち
1がつ 元旦がんたんさいにち歳旦さいたんさい(1がつ1にち 5月 9月
2がつ 6がつ 夏越なごし大祓おおはらいにち大祓おおはらい(6がつ30にち 10月
3がつ 7がつ 11月 秋季しゅうきれい大祭たいさい新嘗祭にいなめさいにち新嘗祭にいなめさい(11月18にち
4がつ 春季しゅんきれい大祭たいさい(4がつ18にち 8がつ 12月 大祓おおはらい(12月31にち

春季しゅんきれい大祭たいさいざい神宮寺じんぐうじ實相院じっそういんてきけいかい期間きかんちゅう舉行,地區ちく首長しゅちょう議長ぎちょう以至氏子うじこ崇敬すうけいしゃとうひとしかいまえらい參拜さんぱいよしめい神職しんしょく分別ふんべつせめまい蹈、太鼓たいこふえだい小鼓こつづみにちなみ且奏おこり佐賀さが神樂かぐら相對そうたい於性しつじょうぞく祈年祭としごいのまつりにち祈年祭としごいのまつりてき春季しゅんきれい大祭たいさい新嘗祭にいなめさいそく表示ひょうじ願望がんぼう達成たっせいにち成就じょうじゅてき祭事さいじ地區ちく首長しゅちょう眾議いん議員ぎいん佐賀さが縣議會けんぎかいにち佐賀さが県議会けんぎかい議員ぎいん地區ちく議長ぎちょう農協のうきょうちょう觀光かんこう協會きょうかい會長かいちょう以及氏子うじこ總代そうだいにち総代そうだいとう20めいひとしかい列席れっせきくびさきざいおさむはらいこう開門かいもんなみ且獻上新かみしんおさむわりてきまい以及しゅさかな蔬菜そさいみずはて鹽水えんすいとう神饌しんせんしかこうざい宮司ぐうじ奏上そうじょう祝詞のりと同樣どうようよし五名神職分別負責舞蹈、太鼓たいこふえだい小鼓こつづみなみ且奏おこり佐賀さが神樂かぐらまいしゃざいいちへんうな明治天皇めいじてんのうてき御製ぎょせいにち御製ぎょせい左手ひだりてぬささかき捧持ほうじいたりしんかく右手みぎてそくゆらすずなみ且伴ずいふえだい小鼓こつづみてきふしはく,一邊向左轉一邊獻舞,在中ざいちゅうひだりみぎ以及かく進行しんこうはらい獻上けんじょう玉串たまぐしにち玉串たまぐしずい撤走神饌しんせん最後さいご關門かんもんさくゆい[22]

文化財ぶんかざい[编辑]

あずかとめ女神めがみしゃ相關そうかん文化財ぶんかざい
名稱めいしょう 指定してい類別るいべつ 指定してい 參考さんこう資料しりょう
河上かわかみ神社じんじゃ文書ぶんしょ(247しゅ 重要じゅうよう文化財ぶんかざい 1980ねん6がつ6にち [23]
三之さんの鳥居とりい 佐賀さが指定してい文化財ぶんかざい 1983ねん10がつ17にち [19]
西門にしもん 佐賀さがけん重要じゅうよう文化財ぶんかざいにち佐賀さがけん指定してい文化財ぶんかざい一覧いちらん 1986ねん3がつ19にち [18]

註解ちゅうかい[编辑]

  1. ^ あずかとめおんないのちみとめため神功じんぐう皇后こうごうこれいもうとある神武じんむ天皇てんのうてき祖母そぼ豐玉とよたまひめ[2]
  2. ^ 山田やまだ東鄉とうごうただし山田やまださとてきいち部分ぶぶん山田やまださと推測すいそくげんため佐賀さがけん佐賀さが大和やまとまち大字だいじ東山田ひがしやまた川上かわかみ西山田にしやまだ大和やまとまち大字だいじ尼寺あまでら以至鍋島なべしままちにち鍋島なべしまむら鍋島なべしまぞう田和たわ高木瀨町長瀨たかきせまちながせ一帶いったい城崎きのさき西鄉さいごうただし城崎きのさききょうてきいち部分ぶぶん城崎きのさきさと推測すいそくげんため佐賀さが兵庫ひょうごまちにち兵庫ひょうご (佐賀さが)ふち西にしいたる尼寺あまでら以至長瀨ながせ一帶いったいあずまいたる神埼かんざきぐんあたりかいみなみいたる長瀨ながせ以至金立町藥師丸きんりゅうまちやくしまる一帶いったい小津おつ東鄉とうごうただし小津おつきょうてきいち部分ぶぶん小津おつきょう推測すいそくげんため與賀よか神社じんじゃにち与賀よか神社じんじゃ一帶いったい以至佐賀さが北川副きたかわそえまち附近ふきん深溝ふかみぞ西鄉さいごうただし深溝ふかみぞきょうてきいち部分ぶぶん深溝ふかみぞきょうげんため佐賀さが兵庫ひょうごまち以至高木瀨町東高木たかきせまちひがしたかぎ一帶いったい[14]
  3. ^ 平野へいやぶんげんため東山田ひがしやまたてきいち部分ぶぶん[14]

參考さんこう資料しりょう[编辑]

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  23. ^ 河上かわかみ神社じんじゃ文書ぶんしょひゃくよんじゅうななつう - くに指定してい文化財ぶんかざいとうすうよりどころにち

外部がいぶ連結れんけつ[编辑]