李 り 斯 (前 ぜん 280年 ねん —前 まえ 208年 ねん )[ 2] ,楚 すわえ 國 こく 上 うえ 蔡 (今 いま 河南 かなん 省 しょう 上 うえ 蔡縣西南 せいなん 方 かた )人 にん ,是 ぜ 秦 はた 朝 ちょう 著名 ちょめい 的 てき 政治 せいじ 家 か 、文學 ぶんがく 家 か 和 わ 書法 しょほう 家 か 。李 り 斯曾任 にん 秦 はた 朝 ちょう 左 ひだり 丞相 じょうしょう ,司馬 しば 遷著 ちょ 《史記 しき 》,將 はた 李 り 斯和趙 ちょう 高 だか 併寫於《李 り 斯列傳 でん 》。或 ある 說 せつ 字 じ 通 つう 古 いにしえ [ 1] 。早年 そうねん 為 ため 上 じょう 蔡郡的 てき 小吏 しょうり ,負 ふ 責 せめ 掌 てのひら 管 かん 文書 ぶんしょ ,後 ご 和 わ 韓 かん 非 ひ 師 し 從 したがえ 荀子 學習 がくしゅう 帝王 ていおう 之 の 術 じゅつ ,後來 こうらい 都 と 成 なる 為 ため 諸子 しょし 百 ひゃく 家 いえ 中 なか 法家 ほうか 學說 がくせつ 的 てき 代表 だいひょう 人物 じんぶつ 。李 り 斯學 しがく 成 なり 後 ご 進入 しんにゅう 秦 しん 國 こく ,為 ため 秦 しん 相 そう 文信 ふみのぶ 侯 こう 呂 りょ 不 ふ 韋的 てき 舍人 とねり ,文信 ふみのぶ 侯 こう 很賞識李斯,任 にん 他 た 做郎官 かん 。後 こう 勸 すすむ 說 せつ 秦 はた 王政 おうせい 攻 おさむ 滅 めつ 東方 とうほう 六 ろく 國是 こくぜ 勢 ぜい 之 の 所在 しょざい ,須把握 はあく 時機 じき 而為之 の ,及後被 ひ 任命 にんめい 為 ため 長 ちょう 史 ふみ 。秦 はた 王政 おうせい 採納 さいのう 其計謀 はかりごと ,遣 や 謀 はかりごと 士 し 持 じ 金錢 きんせん 到 いた 山東 さんとう 六 ろく 國 こく 去 さ 遊說 ゆうぜい ,離間 りかん 各國 かっこく 君臣 くんしん ,又 また 任命 にんめい 其為客 きゃく 卿 きょう 。秦 はた 王政 おうせい 十 じゅう 年 ねん (前 ぜん 237年 ねん )由 ゆかり 於一 いち 位 い 姓 せい 鄭 てい 名 めい 國 こく 之 これ 水利 すいり 工程 こうてい 師 し 以修築 しゅうちく 渠 みぞ 道 どう 為 ため 名 めい ,其實是 ぜ 為 ため 韓國 かんこく 來 き 到 いた 秦 しん 國 こく 做間諜 かんちょう ,秦 はた 王 おう 下 か 令 れい 驅逐 くちく 六 ろく 國 こく 客 きゃく 卿 きょう 。李 り 斯上《諫逐客 きゃく 書 しょ 》阻止 そし ,被 ひ 秦 しん 王政 おうせい 所 しょ 採納 さいのう ,不 ふ 久 ひさ 官 かん 至 いたり 廷尉 。在 ざい 秦 はた 滅 めつ 六 ろく 國之 くにゆき 戰 せん 的 てき 事業 じぎょう 中起 なかおこし 了 りょう 較大作用 さよう 。
秦 はた 統一 とういつ 六 ろく 國 こく 後 ご ,李 り 斯與丞相 じょうしょう 王 おう 綰 たがね 、御 ご 史 し 大夫 たいふ 馮劫 等 とう 議定 ぎてい 尊 みこと 秦 しん 王 おう 尊號 そんごう 為 ため 皇帝 こうてい 。李 り 斯主張 しゅちょう 郡 ぐん 縣 けん 制 せい ,反對 はんたい 分封 ぶんぽう 制 せい ;又 また 主張 しゅちょう 焚毀民間 みんかん 所 しょ 收藏 しゅうぞう 諸子 しょし 百 ひゃく 家 いえ 之 これ 書 しょ 。李 り 斯還參與 さんよ 了 りょう 秦 はた 朝 ちょう 諸多 しょた 制度 せいど 建設 けんせつ ,對 たい 後世 こうせい 影響 えいきょう 深遠 しんえん 。秦 はた 始 はじめ 皇 すめらぎ 死後 しご ,李 り 斯為保身 ほしん ,與 あずか 趙 ちょう 高 だか 陷 おちい 害 がい 秦 はた 始 はじめ 皇 すめらぎ 長子 ちょうし 公子 こうし 扶蘇 ,立 たて 秦 はた 始 はじめ 皇 すめらぎ 幼子 おさなご 胡 えびす 亥 い 為 ため 皇帝 こうてい ,後 ご 被 かむ 趙 ちょう 高 だか 所 ところ 害 がい ,誅滅 ちゅうめつ 三 さん 族 ぞく 。
李 り 斯是楚 すわえ 國 こく 上 うえ 蔡人 ひと 。李 り 斯年少時 しょうじ ,曾在上 うえ 蔡當 とう 掌 てのひら 管 かん 文書 ぶんしょ 的 てき 小吏 しょうり 。有 ゆう 一 いち 次 じ ,他 た 看 み 到 いた 辦公處 しょ 附近 ふきん 廁所 的 てき 老 ろう 鼠 ねずみ 在 ざい 吃 ども 髒東西 とうざい ,每 まい 逢有人 じん 或 ある 狗 いぬ 走 はし 來 き 時 とき ,就受驚 おどろき 逃跑。後來 こうらい 李 り 斯又走 はし 進 すすむ 糧 かて 倉 くら ,看 み 到 いた 糧 かて 倉 くら 中 ちゅう 的 てき 老 ろう 鼠 ねずみ ,吃 ども 的 てき 是 ぜ 屯 たむろ 積 せき 的 てき 粟 あわ 米 まい ,住 じゅう 在 ざい 大屋 おおや 子 こ 之 の 下 した ,不用 ふよう 擔心人 じん 或 ある 狗 いぬ 驚 おどろき 擾。於是李 り 斯就慨然 がいぜん 嘆息 たんそく 道 どう :「一個人有沒有出息,就如同 どう 老 ろう 鼠 ねずみ 一 いち 樣 よう ,只 ただ 是 ぜ 由 よし 自己 じこ 所 しょ 處 しょ 的 てき 環境 かんきょう 決定的 けっていてき 罷 やめ 了 りょう !」
於是李 り 斯就跟荀卿 學習 がくしゅう 帝王 ていおう 治 ち 理 り 天下 でんか 的 てき 學問 がくもん 。學業 がくぎょう 完成 かんせい 之 これ 後 ご ,李 り 斯估量 りょう 楚 すわえ 考 こう 烈 れつ 王 おう 不 ふ 值得侍 さむらい 奉 たてまつ ,而六 ろく 國 こく 國勢 こくせい 都 と 已 やめ 衰弱 すいじゃく ,沒 ぼつ 有為 ゆうい 它們建 たて 功 いさお 立業 たちわざ 的 てき 希望 きぼう ,就想西行 さいぎょう 到 いた 秦 はた 國 こく 去 さ 。在 ざい 臨行之 の 前 まえ ,向 こう 荀子辭 じ 行 ぎょう 說 せつ :「李 り 斯聽說 せつ 一個人若遇到機會,千萬不可鬆懈錯過。如今萬乘都爭取時機,遊說 ゆうぜい 之 の 士 し 掌握 しょうあく 實權 じっけん 。現在 げんざい 秦 しん 王 おう 想 そう 吞併各國 かっこく ,稱 しょう 帝 みかど 治 ち 理 り 天下 でんか ,這正是 ぜ 布衣 ふい 出身 しゅっしん 的 てき 政治 せいじ 活動 かつどう 家 か 和 わ 遊說 ゆうぜい 之 の 士 し 奔走 ほんそう 四方 しほう 、施 ほどこせ 展 てん 抱負 ほうふ 的 てき 好 こう 時機 じき 。地位 ちい 卑賤,而不想 そう 着 き 去 ざ 求 もとめ 取 ど 功名 こうみょう 富貴 ふうき ,就如同 どう 禽獸 きんじゅう 一般 いっぱん ,只 ただ 等 とう 看 み 到 いた 現 げん 成 なり 的 てき 肉 にく 才 ざい 想 おもえ 去 ざ 吃 ども ,白白 しらじら 長 ちょう 了 りょう 一副人的面孔勉強直立行走。所以 ゆえん 最大 さいだい 的 てき 恥辱 ちじょく 莫過於卑賤,最大 さいだい 悲哀 ひあい 莫過於貧窮 きゅう 。長期 ちょうき 處 しょ 於卑賤的地位 ちい 和 わ 貧困 ひんこん 的 てき 環境 かんきょう 之 の 中 なか ,卻還要 よう 非難 ひなん 社會 しゃかい 、厭 いや 惡 あく 功 こう 名利 みょうり 祿 ろく ,標 しるべ 謗 そし 自己 じこ 與 あずか 世 よ 無 む 爭 そう ,這不該是士 し 子 こ 的 てき 本願 ほんがん 。所以 ゆえん 李 り 斯要到 いた 西方 せいほう 去 さ 遊說 ゆうぜい 秦 はた 王 おう 了 りょう 。」
李 り 斯到秦 はた 國之 くにゆき 後 ご ,恰逢秦莊 はたしょう 襄 じょう 王 おう 去 さ 世 よ ,秦 はた 王政 おうせい 即位 そくい ,李 り 斯就請求 せいきゅう 充當 じゅうとう 秦 はた 丞相 じょうしょう 文信 ふみのぶ 侯 こう 呂 りょ 不 ふ 韋的 てき 舍人 とねり 。呂 りょ 不 ふ 韋很賞 しょう 識他,任命 にんめい 他 た 為 ため 郎 ろう 官 かん 。這使得 とく 李 り 斯有遊說 ゆうぜい 秦 はた 王政 おうせい 的 てき 機會 きかい ,他 た 對 たい 秦 しん 王政 おうせい 說 せつ :「平 たいら 庸 いさお 的 てき 人 じん 往往 おうおう 失 しつ 去 さ 時機 じき ,而成大 だい 功業 こうぎょう 的 てき 人 じん 就在於能利用 りよう 機會 きかい 並 なみ 能 のう 下 か 狠心。從前 じゅうぜん 秦 はた 穆 きよし 公 おおやけ 雖稱霸天下 か ,但 ただし 最終 さいしゅう 沒 ぼつ 有 ゆう 東進 とうしん 吞併函 はこ 谷 たに 關 せき 以東 いとう ,這是什麼 いんも 原因 げんいん 呢?原因 げんいん 在 ざい 於諸侯 こう 國 こく 的 てき 數量 すうりょう 還 かえ 多 た ,周 しゅう 王室 おうしつ 的 てき 德望 とくぼう 也沒有 ゆう 衰 おとろえ 落,因 いん 此五 ご 霸交替 こうたい 興起 こうき ,相 そう 繼 つぎ 推尊周 しゅう 王室 おうしつ 。自 じ 從 したがえ 秦 はた 孝 たかし 公 おおやけ 以來 いらい ,周 しゅう 王室 おうしつ 卑弱衰微 すいび ,諸侯 しょこう 之 これ 間 あいだ 互相兼併 けんぺい ,函 はこ 谷 たに 關 せき 以東 いとう 地區 ちく 化 か 為 ため 六 ろく 國 こく ,秦 しん 國 こく 已 やめ 經 けい 有 ゆう 六 ろく 代 だい 君王 くんのう 乘 じょう 勝 かち 奴 やつ 役 やく 諸 しょ 侯 ほう 了 りょう ,現今 げんこん 諸侯 しょこう 服從 ふくじゅう 秦 しん 國 こく 就如同 どう 地方 ちほう 官 かん 服從 ふくじゅう 中央 ちゅうおう 政府 せいふ 一 いち 樣 よう 。以秦國 こく 的 てき 強大 きょうだい ,大王 だいおう 的 てき 賢明 けんめい ,就像掃除 そうじ 灶上的 てき 灰塵 かいじん 一 いち 樣 よう ,足 あし 以掃平 ひら 諸侯 しょこう ,成就 じょうじゅ 帝 みかど 業 ぎょう ,使 つかい 天下 でんか 統一 とういつ ,這是萬世難逢的一個最好時機。倘若現在 げんざい 懈怠 けたい 而不抓 つめ 緊此事 ごと 的 てき 話 はなし ,等 とう 到 いた 諸侯 しょこう 再 さい 強 つよ 盛 もり 起 おこり 來 らい ,又 また 訂 てい 立 りつ 合 ごう 縱 たて 的 てき 盟約 めいやく ,即 そく 使 つかい 有 ゆう 黃 き 帝 みかど 一樣 いちよう 的 てき 賢明 けんめい ,也不能 ふのう 吞併它們了 りょう 。」秦 はた 王政 おうせい 於是任命 にんめい 李 り 斯為長 ちょう 史 ふみ ,聽從 ちょうじゅう 了 りょう 他 た 的 てき 計 けい 謀 はかりごと ,暗中 あんちゅう 派遣 はけん 謀 はかりごと 士 し 帶 たい 着 ぎ 金錢 きんせん 、絲 いと 帛去 さ 諸侯 しょこう 國 こく 遊說 ゆうぜい 。對 たい 能收 よしかず 買 かい 的 てき 名士 めいし ,就贈送 おく 厚 あつ 禮 あや 加 か 以收買 かい ;不 ふ 能收 よしかず 買 かい 的 てき ,就派人 じん 行 くだり 刺 とげ 。這些都 と 是 ぜ 離間 りかん 諸侯 しょこう 國 こく 君臣 くんしん 關係 かんけい 的 てき 計 けい 策 さく ,緊接着 せっちゃく ,秦 はた 王政 おうせい 就派優良 ゆうりょう 將領 しょうりょう 隨 ずい 後 ご 攻 おさむ 打 だ 諸侯 しょこう 。秦 はた 王政 おうせい 也任命 にんめい 李 り 斯為客 きゃく 卿 きょう 。
秦 はた 王政 おうせい 十 じゅう 年 ねん (前 ぜん 237年 ねん )原籍 げんせき 衞 まもる 國 こく 帝 みかど 丘 おか 的 てき 呂 りょ 不 ふ 韋因嫪毐 謀反 むほん ,遭牽連 れん 而免除 めんじょ 相 しょう 位 い 。恰在此時韓國 かんこく 水 みず 工 こう 鄭 てい 國 こく 以修築 しゅうちく 水 みず 渠 みぞ 為 ため 名 めい ,來 き 到 いた 秦 しん 國 こく 做間諜 かんちょう ,不 ふ 久 ひさ 被 ひ 發覺 はっかく 。秦 はた 宗室 そうしつ 和 わ 大臣 だいじん 們對此事頗為不滿 ふまん ,都 と 對 たい 秦 しん 王政 おうせい 說 せつ :「從 したがえ 各 かく 諸侯 しょこう 國 こく 來 らい 奉 たてまつ 事 こと 秦 しん 王 おう 的 てき 人 じん ,大 だい 都 と 是 ぜ 為 ため 他 た 們的國 こく 君 くん 遊說 ゆうぜい ,以離間 あいだ 秦 しん 國 こく 而已,請求 せいきゅう 大王 だいおう 把 わ 客 きゃく 卿 きょう 一概 いちがい 驅逐 くちく 。」李 り 斯也在 ざい 計 けい 劃好的 てき 要 よう 驅逐 くちく 的 てき 客 きゃく 卿 きょう 之 の 列 れつ 。於是李 り 斯就上 うえ 了 りょう 有名 ゆうめい 的 てき 《諫逐客 きゃく 書 しょ 》,說 せつ :
臣 しん 聞吏議 ぎ 逐客,竊以為 ため 過 か 矣。
昔 むかし 穆 きよし 公 おおやけ 求 もとめ 士 し ,西 にし 取 と 由 よし 余 あまり 於戎 えびす ,東 ひがし 得 とく 百里 ひゃくり 奚 於宛 あて ,迎 むかい 蹇 あしなえ 叔 於宋 そう ,來 き 邳豹 、公孫 こうそん 支 ささえ 於晉 すすむ 。此五 ご 子 し 者 しゃ ,不 ふ 產 さん 於秦,而穆公用 こうよう 之 の ,並 なみ 國 こく 二 に 十 じゅう ,遂 とげ 霸西戎 せいじゅう 。孝 こう 公用 こうよう 商 しょう 鞅之 これ 法 ほう ,移 うつり 風 ふう 易 えき 俗 ぞく ,民 みん 以殷盛 いんせい ,國 くに 以富強 きょう ,百姓 ひゃくしょう 樂 らく 用 よう ,諸侯 しょこう 親 おや 服 ふく ,獲 え 楚 すわえ 、魏 たかし 之 これ 師 し ,舉地千里 せんり ,至 いたり 今治 いまばり 強 きょう 。惠 めぐみ 王 おう 用 よう 張 ちょう 儀 ただし 之 これ 計 けい ,拔三川 みかわ 之 これ 地 ち ,西 にし 並 なみ 巴 ともえ 、蜀 しょく ,北 きた 收 おさむ 上郡 かみごおり ,南 みなみ 取 と 漢 かん 中 ちゅう ,包 つつみ 九 きゅう 夷 えびす ,制 せい 鄢 、郢 ,東 ひがし 據 よりどころ 成 なり 皋之險 けん ,割 わり 膏 あぶら 腴之壤,遂 とげ 散 ち 六 ろく 國 こく 之 の 眾,使 つかい 之 の 西 にし 面 めん 事 ごと 秦 しん ,功 こう 施 ほどこせ 到 いた 今 いま 。昭 あきら 王 おう 得 とく 范雎 ,廢 はい 穰 みのる 侯 こう ,逐華陽 かよう ,強 つよ 公 おおやけ 室 しつ ,杜 もり 私 わたし 門 もん ,蠶食 さんしょく 諸侯 しょこう ,使 つかい 秦 はた 成 しげる 帝 みかど 業 ぎょう 。此四君 くん 者 しゃ ,皆 みな 以客之 の 功 こう 。由 よし 此觀之 の ,客 きゃく 何 なん 負 ふ 於秦哉!向 こう 使 つかい 四君卻客而不內,疏士而不用 よう ,是 ぜ 使 し 國 こく 無 む 富 とみ 利之 としゆき 實 み ,而秦無 む 強大 きょうだい 之 の 名 めい 也。
今 こん 陛下 へいか 致崑山 やま 之 の 玉 たま ,有 ゆう 隨 ずい 和 わ 之 これ 寶 たから ,垂 たれ 明月 めいげつ 之 の 珠 たま ,服 ふく 太 ふと 阿 おもね 之 これ 劍 けん ,乘 じょう 纖離之 の 馬 うま ,建 たて 翠 みどり 鳳 おおとり 之 の 旗 はた ,樹 き 靈 れい 鼉之鼓 こ 。此數寶 たから 者 しゃ ,秦 はた 不 ふ 生 せい 一 いち 焉,而陛下 か 說 せつ 之 の ,何 なに 也?必秦國 こく 之 の 所生 しょせい 然 しか 後 こう 可 か ,則 のり 是 ぜ 夜光 やこう 之 の 璧,不 ふ 飾 かざり 朝廷 ちょうてい ;犀 さい 象 ぞう 之 これ 器 き ,不為 ふため 玩好;鄭 てい 、衛 まもる 之 これ 女 おんな 不 ふ 充 たかし 後宮 こうきゅう ,而駿良 りょう 駃騠不實 ふじつ 外 がい 廄,江南 こうなん 金 きむ 錫 すず 不為 ふため 用 よう ,西 にし 蜀 しょく 丹青 たんせい 不為 ふため 采 さい 。所以 ゆえん 飾 かざり 後宮 こうきゅう ,充 たかし 下陳 しもじん ,娛心意 しんい ,說 せつ 耳目 じもく 者 しゃ ,必出於秦然 しか 後 こう 可 か ,則 のり 是 ぜ 宛 あて 珠 たま 之 の 簪 かんざし ,傅 でん 璣之珥,阿 おもね 縞 じま 之 の 衣 ころも ,錦 にしき 繡之飾 かざり 不 ふ 進 すすむ 於前,而隨俗 ぞく 雅 みやび 化 か ,佳 けい 冶窈窕 ようちょう ,趙 ちょう 女 おんな 不 ふ 立 たて 於側也。夫 おっと 擊 げき 瓮叩缶 かん 彈 だん 箏 そう 搏髀,而歌呼 よび 嗚嗚快 かい 耳 みみ 者 しゃ ,真 ま 秦 しん 之 の 聲 こえ 也;《鄭 てい 》、《衛 まもる 》、《桑 くわ 間 あいだ 》,《韶》、《虞 おそれ 》、《武 たけ 》、《象 ぞう 》者 しゃ ,異國 いこく 之 の 樂 らく 也。今 こん 棄擊瓮叩缶 かん 而就《鄭 てい 》、《衛 まもる 》,退 すさ 彈 たま 箏 そう 而取《昭 あきら 》、《虞 おそれ 》,若 わか 是 ぜ 者 しゃ 何 なん 也?快 かい 意 い 當 とう 前 まえ ,適 てき 觀 かん 而已矣。今 いま 取 と 人 ひと 則 そく 不 ふ 然 しか 。不問 ふもん 可否 かひ ,不 ふ 論 ろん 曲直 きょくちょく ,非 ひ 秦 しん 者 しゃ 去 さ ,為 ため 客 きゃく 者 しゃ 逐。然 しか 則 のり 是 ぜ 所 しょ 重 じゅう 者 しゃ 在 ざい 乎色樂 らく 珠玉 しゅぎょく ,而所輕 けい 者 しゃ 在 ざい 乎人民 じんみん 也。此非所 しょ 以跨海 うみ 內、制 せい 諸侯 しょこう 之 の 術 じゅつ 也。
臣 しん 聞地廣 ひろ 者 しゃ 粟 あわ 多 た ,國大 こくだい 者 しゃ 人 じん 眾,兵 へい 彊 つよし 則 のり 士 し 勇 いさみ 。是 ぜ 以太山 たいざん 不 ふ 讓 ゆずる 土壤 どじょう ,故 こ 能成 よしなり 其大;河 かわ 海 うみ 不 ふ 擇 よ 細流 さいりゅう ,故 こ 能 のう 就其深 ふか ;王者 おうじゃ 不 ふ 卻眾庶,故 こ 能 のう 明 あかり 其德。是 ぜ 以地無 む 四方 しほう ,民 みん 無 む 異國 いこく ,四 よん 時 じ 充美 あつみ ,鬼神 きじん 降 くだ 福 ぶく ,此五 ご 帝 みかど 三 さん 王 おう 之 これ 所以 ゆえん 無敵 むてき 也。今 こん 乃棄黔首 以資敵國 てきこく ,卻賓客 きゃく 以業諸侯 しょこう ,使 つかい 天下 でんか 之 の 士 し 退 すさ 而不敢西向 にしむき ,裹足不入 ふにゅう 秦 しん ,此所謂 いわゆる 「藉寇兵 へい 而齎盜 ぬすめ 糧 かて 」者 しゃ 也。夫 おっと 物 ぶつ 不 ふ 產 さん 於秦,可 か 寶 たから 者 しゃ 多 た ;士 し 不 ふ 產 さん 於秦,而願忠 ちゅう 者 しゃ 眾。今 こん 逐客以資敵國 てきこく ,損 そん 民 みん 以益讎,內自虛 きょ 而外樹 じゅ 怨於諸侯 しょこう ,求 もとめ 國 こく 無 む 危,不可 ふか 得 とく 也。
因 いん 此,秦 はた 王 おう 就廢除 じょ 了 りょう 逐客令 れい ,恢復 かいふく 了 りょう 李 り 斯的官職 かんしょく ,最終 さいしゅう 採用 さいよう 了 りょう 他 た 的 てき 計 けい 謀 はかりごと ,李 り 斯的官位 かんい 也升到 いた 了 りょう 廷尉 。
泰山 たいざん 刻 こく 石 せき (拓本 たくほん )為 ため 李 り 斯手書 しゅしょ
韓 かん 非 ひ 是 ぜ 一 いち 位 い 韓國 かんこく 公子 こうし ,他 た 精通 せいつう 儒學 じゅがく 與 あずか 黃 き 老 ろう ,並 なみ 將 はた 這些思想 しそう 用 よう 於法家 か 之 の 上 うえ 。韓 かん 非 ひ 口 くち 吃 ども ,不善 ふぜん 於講話 こうわ ,但 ただし 擅長於著書 しょ 立 りつ 說 せつ 。韓 かん 非 ひ 和 かず 李 り 斯都是 ぜ 大儒 たいじゅ 荀卿 的 てき 學生 がくせい ,但 ただし 李 り 斯自知 ち 學識 がくしき 比 ひ 不 ふ 上 うえ 韓 かん 非 ひ 。
韓 かん 非 ひ 看 み 到 いた 韓國 かんこく 漸 やや 漸 やや 衰弱 すいじゃく 下 か 去 さ ,屢次上書 うわがき 規 ぶんまわし 勸 すすむ 韓 かん 王 おう ,但 ただし 韓 かん 王 おう 沒 ぼつ 有 ゆう 採納 さいのう 他 た 的 てき 意見 いけん 。當時 とうじ 韓 かん 非 ひ 痛恨 つうこん 治 ち 理 り 國家 こっか 不 ふ 致力於修明 あかり 法制 ほうせい ,不能 ふのう 憑藉君王 くんのう 掌握 しょうあく 的 てき 權勢 けんせい 用 よう 來駕 らいが 馭臣子 こ ,不 ふ 尋 ひろ 求 もとめ 任用 にんよう 能 のう 富國強兵 ふこくきょうへい 的 てき 法家 ほうか 英傑 えいけつ ,反 はん 而任用 にんよう 誇 ほこ 誇 ほこ 其談、對 たい 國家 こっか 有害 ゆうがい 的 てき 儒家 じゅか 跟縱橫 じゅうおう 家 か 之 これ 士 し ,並 なみ 且讓他 た 們的地位 ちい 高 だか 於講求 もとめ 功利 こうり 實效 じっこう 的 てき 人 じん 。他 た 認 みとめ 為 ため 儒家 じゅか 用 よう 經典 きょうてん 文獻 ぶんけん 擾亂 じょうらん 國家 こっか 法度 はっと ,而遊 ゆう 俠 憑藉着 ぎ 武力 ぶりょく 違犯 いはん 國家 こっか 禁令 きんれい 。國家 こっか 太平 たいへい 時 じ ,君主 くんしゅ 就寵信 しん 那 な 些徒有 ゆう 虛名 きょめい 假 かり 譽 ほまれ 的 てき 人 じん ,形勢 けいせい 危急 ききゅう 時 じ ,就使用 しよう 那 な 些披甲 かぶと 戴盔的 てき 武士 ぶし 。現在 げんざい 國家 こっか 供養 くよう 的 てき 人並 ひとなみ 不 ふ 是 ぜ 所要 しょよう 用 よう 的 てき ,而所要用 ようよう 的 てき 人 じん 又 また 不 ふ 是 ぜ 所 しょ 供養 くよう 的 てき 。他 た 悲嘆 ひたん 廉潔 れんけつ 正直 しょうじき 的 てき 人 じん 不 ふ 被 ひ 邪曲 じゃきょく 奸枉之 の 臣 しん 所 しょ 容 よう ,他 た 考察 こうさつ 了 りょう 古往今來 こおうこんらい 的 てき 得失 とくしつ 變化 へんか ,寫 うつし 了 りょう 《孤 こ 憤 いきどお 》、《五 ご 蠹 》、《內外儲 もうか 》、《說 せつ 林 りん 》、《說 せつ 難 なん 》等 とう 十 じゅう 餘 あまり 萬 まん 字 じ 的 てき 著作 ちょさく 。
有人 ゆうじん 把 わ 韓 かん 非 ひ 的 てき 著作 ちょさく 傳 でん 到 いた 秦 しん 國 こく 。秦 はた 王政 おうせい 見 み 到 いた 《孤 こ 憤 いきどお 》、《五 ご 蠹》這些文章 ぶんしょう ,說 せつ :「唉呀,我 わが 要 よう 見 み 到 いた 這個人並 ひとなみ 且能和 わ 他 た 交往,就是死 し 也不算 ざん 遺憾 いかん 了 りょう 。」李 り 斯說:「這是韓 かん 非 ひ 撰 せん 寫 うつし 的 てき 書 しょ 。」秦 はた 王政 おうせい 因 いん 此立即 そく 攻 おさむ 打 だ 韓國 かんこく 。起 おこり 初 はつ 韓 かん 王 おう 安 やすし 不 ふ 重用 じゅうよう 韓 かん 非 ひ ,等 とう 到 いた 情勢 じょうせい 吃 ども 緊,才 さい 派遣 はけん 韓 かん 非 ひ 出 だし 使 し 秦 しん 國 こく 。秦 はた 王政 おうせい 雖然很喜歡他,但 ただし 還 かえ 沒 ぼっ 任用 にんよう 他 た 當 とう 大官 たいかん 。李 り 斯、姚賈 嫉妨韓 かん 非 ひ ,在 ざい 秦 しん 王政 おうせい 面前 めんぜん 詆毀他 た 說 せつ :「韓 かん 非 ひ ,是 ぜ 韓國 かんこく 公 おおやけ 族 ぞく 子弟 してい 。現在 げんざい 大王 だいおう 要 よう 吞併各國 かっこく ,韓 かん 非 ひ 到頭 とうとう 來 き 還 かえ 是 ぜ 要 よう 幫助韓國 かんこく 而不幫助秦 しん 國 こく ,這是人 じん 之 の 常 つね 情 じょう 啊。如今大王 だいおう 不 ふ 任用 にんよう 他 た ,在 ざい 秦 しん 國留 くにどめ 的 てき 時間 じかん 長 ちょう 了 りょう ,再 さい 放 ひ 他 た 回 かい 去 さ ,這是給 きゅう 自己 じこ 留 とめ 下 か 的 てき 禍根 かこん 啊。不 ふ 如給他 た 加 か 個 こ 罪名 ざいめい ,依 よ 法 ほう 處 しょ 死 し 他 た 。」秦 はた 王政 おうせい 認 みとめ 為 ため 他 た 說 せつ 的 てき 對 たい ,就下令 れい 司法 しほう 官吏 かんり 給 きゅう 韓 かん 非 ひ 定 じょう 罪 ざい 。李 り 斯派人 じん 給 きゅう 韓 かん 非 ひ 送 おく 去 ざ 了 りょう 毒藥 どくやく ,叫 さけべ 他 ほか 自 じ 鴆 。韓 かん 非 ひ 想 そう 要 よう 當面 とうめん 向 こう 秦 しん 王政 おうせい 陳述 ちんじゅつ 是非 ぜひ ,又 また 不能 ふのう 見 み 到 いた 。後來 こうらい 秦 はた 王政 おうせい 後悔 こうかい 了 りょう ,派 は 人 じん 去 さ 赦免 しゃめん 他 た ,但 ただし 韓 かん 非 ひ 已 やめ 經 けい 死 し 了 りょう 。
「廷尉之 の 印 しるし 」封 ふう 泥 どろ 。
秦 はた 王政 おうせい 二 に 十 じゅう 六 ろく 年 ねん (前 ぜん 221),秦 しん 國 こく 攻 おさむ 滅 めつ 齊 ひとし 國 こく ,統一 とういつ 中原 ちゅうげん 。秦 はた 王政 おうせい 命令 めいれい 丞相 じょうしょう 王 おう 綰 たがね 、御 ご 史 し 大夫 たいふ 馮劫 說 せつ :「從前 じゅうぜん 韓 かん 王 おう 交出土地 とち 獻上 けんじょう 印璽 いんじ ,請求 せいきゅう 做守衛 しゅえい 邊境 へんきょう 的 てき 臣子 しんし ,不 ふ 久 ひさ 又 また 背 せ 棄誓約 せいやく ,與 あずか 趙 ちょう 國 こく 、魏 ぎ 國 こく 聯合 れんごう 反 はん 叛秦國 こく ,所以 ゆえん 我 わが 派兵 はへい 去 さ 討伐 とうばつ 他 た 們,俘虜 ふりょ 了 りょう 韓 かん 王 おう 。我 わが 認 みとめ 為 ため 這很好 こう ,因 いん 為 ため 這樣或 ある 許 もと 就可以停止 ていし 戰爭 せんそう 了 りょう 。趙 ちょう 王 おう 派 は 他 た 的 てき 相國 しょうこく 李 り 牧 まき 來 らい 訂 てい 立 りつ 盟約 めいやく ,所以 ゆえん 歸還 きかん 了 りょう 他 た 們抵押在這裏的 てき 質 しつ 子 こ 。不 ふ 久 ひさ 他 た 們就違背 いはい 了 りょう 盟約 めいやく ,在 ざい 太 ふとし 原 はら 反抗 はんこう 我 わが 們,所以 ゆえん 我 わが 們派兵 はへい 去 さ 討伐 とうばつ 他 た 們,俘獲了 りょう 趙 ちょう 王 おう 。趙 ちょう 公子 こうし 嘉 よしみ 竟然自立 じりつ 為 ため 代 だい 王 おう ,所 しょ 以就派兵 はへい 去 さ 滅 めつ 了 りょう 趙 ちょう 國 こく 。魏 ぎ 王 おう 起 おこり 初 はつ 已 やめ 約定 やくじょう 歸服 きふく 於秦,不 ふ 久 ひさ 卻與韓國 かんこく 、趙 ちょう 國 こく 合 ごう 謀 はかりごと 襲擊 しゅうげき 秦 しん 國 こく ,秦 しん 國 こく 官 かん 兵 へい 前 まえ 去 さ 討伐 とうばつ ,終 おわり 於打敗 はい 了 りょう 他 た 們。楚 すわえ 王 おう 獻 けんじ 出 で 青 あお 陽 ひ 以西 いせい 的 てき 地盤 じばん ,不 ふ 久也 ひさや 背 せ 棄誓約 せいやく ,襲擊 しゅうげき 我 が 南 みなみ 郡 ぐん ,所以 ゆえん 派兵 はへい 去 さ 討伐 とうばつ ,俘獲了 りょう 楚 すわえ 王 おう ,終 おわり 於平定 へいてい 了 りょう 楚 すわえ 地 ち 。燕 つばめ 王 おう 昏亂糊塗 こと ,他 た 的 てき 太子 たいし 丹 に 竟然暗中 あんちゅう 派 は 荊軻 來 らい 做刺客 しかく ,秦 しん 國 こく 官 かん 兵 へい 前 まえ 去 さ 討伐 とうばつ ,滅 めつ 掉了他 た 的 てき 國家 こっか 。齊 ひとし 王 おう 採用 さいよう 後 こう 勝 かち 的 てき 計 けい 策 さく ,繼 つぎ 絕 ぜっ 了 りょう 與 あずか 秦 しん 國 こく 的 てき 使節 しせつ 來往 らいおう ,想 そう 要作 ようさく 亂 みだれ ,秦 しん 國 こく 官 かん 兵 へい 前 まえ 去 さ 討伐 とうばつ ,俘虜 ふりょ 了 りょう 齊 ひとし 王 おう ,平定 へいてい 了 りょう 齊 ひとし 地 ち 。我 わが 憑着這個渺 びょう 小 しょう 之 の 身 み ,興 きょう 兵 へい 誅討暴亂,靠 もたれ 的 てき 是 ぜ 祖宗 そそう 的 てき 神靈 しんれい ,六王都依他們的罪過受到了應有的懲罰,天下 てんか 安定 あんてい 了 りょう 。現在 げんざい 如果不 ふ 更改 こうかい 名號 みょうごう ,就無法 ほう 顯揚 けんよう 我 が 的 てき 功業 こうぎょう ,傳 つて 給 きゅう 後代 こうだい 。請各位 い 商議 しょうぎ 我 が 的 てき 稱號 しょうごう 。」丞相 じょうしょう 王 おう 綰 たがね 、御 ご 史 し 大夫 たいふ 馮劫、廷尉李 り 斯等都 と 說 せつ :「從前 じゅうぜん 五帝的土地縱橫各千里,外面 がいめん 還 かえ 劃分有 ぶんゆう 侯 ほう 服 ふく 、夷 えびす 服 ふく 等 とう 地區 ちく ,諸侯 しょこう 有 ゆう 的 てき 朝見 ちょうけん ,有 ゆう 的 てき 不 ふ 朝見 ちょうけん ,天子 てんし 不能 ふのう 控 ひかえ 制 せい ,現在 げんざい 您興正義 せいぎ 之 の 師 し ,討伐 とうばつ 四方殘賊之人,平定 へいてい 了 りょう 天下 でんか ,在 ざい 全國 ぜんこく 設置 せっち 郡 ぐん 縣 けん ,法令 ほうれい 歸 き 於一統 いっとう ,這是亙 わた 古 こ 不 ふ 曾有,五帝也比不上的。我 わが 們恭謹地跟博士 はかせ 們商議 しょうぎ 說 せつ :『古代 こだい 有 ゆう 天皇 てんのう 、有 ゆう 地 ち 皇 すめらぎ 、有 ゆう 泰 たい 皇 すめらぎ ,泰 たい 皇 すめらぎ 最 さい 尊 みこと 貴 とうと 。』我 わが 們這些臣子 しんし 冒 おかせ 死罪 しざい 獻上 けんじょう 尊號 そんごう ,王 おう 稱 しょう 為 ため 『泰 たい 皇 すめらぎ 』。發 はつ 教 きょう 令 れい 稱 しょう 為 ため 『制 せい 書 しょ 』,下命 かめい 令 れい 稱 しょう 為 ため 『詔書 しょうしょ 』,天子 てんし 自稱 じしょう 為 ため 『朕 ちん 』。秦 しん 王 おう 同意 どうい ,但 ただし 說 せつ :「去 さ 掉『泰 やすし 』字 じ ,留 とめ 下 か 『皇 すめらぎ 』字 じ ,採用 さいよう 上古 じょうこ 『帝 みかど 』的 てき 位 い 號 ごう ,稱 しょう 為 ため 『皇帝 こうてい 』,其它就按你各位 い 議論 ぎろん 的 てき 辦。」秦 はた 王 おう 又 また 追 つい 尊 みこと 先王 せんおう 為 ため 太 ふとし 上皇 じょうこう ,又 また 下 した 令 れい 說 せつ :「我 わが 聽說上古 じょうこ 有 ゆう 號 ごう ,而沒有 ゆう 諡 おくりな 。中古 ちゅうこ 有 ゆう 號 ごう ,死後 しご 根據 こんきょ 生前 せいぜん 品行 ひんこう 事跡 じせき ,給 きゅう 個 こ 諡號 しごう 。這樣做,就是兒 じ 子 こ 議論 ぎろん 父親 ちちおや ,臣子 しんし 議論 ぎろん 君主 くんしゅ 了 りょう ,非常 ひじょう 不 ふ 對 たい ,我 わが 不 ふ 採取 さいしゅ 這種做法。從 したがえ 今 こん 以後 いご ,廢除 はいじょ 諡 おくりな 法 ほう 。我 わが 就叫做始皇帝 こうてい ,後代 こうだい 就從我 わが 這兒開始 かいし ,稱 たたえ 二 に 世 せい 、三世 さんぜ 直 ちょく 到 いた 萬世 ばんせい ,永遠 えいえん 相傳 そうでん ,沒 ぼつ 有 ゆう 窮 きゅう 盡 つき 。」
秦 はた 始 はじめ 皇 すめらぎ 按照五 ご 行 ぎょう 相剋 そうこく 、終始 しゅうし 循環 じゅんかん 的 てき 五德 ごとく 終始 しゅうし 原理 げんり 進行 しんこう 推求,認 みとめ 為 ため 周 しゅう 朝 ちょう 佔有火 ひ 德 とく 屬性 ぞくせい ,如果秦 はた 朝 ちょう 要 よう 取 と 代 だい 周 しゅう 朝 ちょう ,就必須以水 すい 剋火,故 こ 現在 げんざい 是 ぜ 水 すい 德 とく 開始 かいし 之 これ 年 ねん ,為 ため 順 じゅん 天命 てんめい ,要 よう 更改 こうかい 每年 まいとし 的 てき 正 せい 朔 ついたち ,以十 じゅう 月 がつ 初 はつ 一 いち 作為 さくい 元旦 がんたん 。群臣 ぐんしん 朝見 ちょうけん 拜賀 はいが 都 と 在 ざい 十 じゅう 月 がつ 初 はつ 一 いち 這一天 いってん 。衣服 いふく 、符節 ふせつ 和 わ 旗幟 きし 的 てき 裝飾 そうしょく ,都 みやこ 崇 たかし 尚 なお 水 みず 德 とく 代表 だいひょう 的 てき 黑色 こくしょく 。因 よし 為 ため 水 すい 德 とく 屬 ぞく 陰 かげ ,而《易 えき 》卦 け 中 ちゅう 表示 ひょうじ 陰 かげ 的 てき 符號 ふごう 陰 かげ 爻叫 さけべ 做「六 ろく 」,就把數 すう 目 もく 以十 じゅう 為 ため 上 じょう ,改 あらため 成 なり 以六 ろく 為 ため 終極 しゅうきょく ,所以 ゆえん 符節 ふせつ 和 わ 御 ご 史 し 所 しょ 戴的法 ほう 冠 かんむり 都 と 規定 きてい 為 ため 六 ろく 寸 すん ,車 くるま 寬 ひろし 為 ため 六 ろく 尺 しゃく ,六 ろく 尺 しゃく 為 ため 一 いち 步 ほ ,君王 くんのう 的 てき 一輛車要有六匹馬來拉,並 なみ 把 わ 黃河 こうが 改名 かいめい 為 ため 「德 とく 水 すい 」,以此來 らい 表示 ひょうじ 水 すい 德 とく 的 てき 開始 かいし 。剛毅 ごうき 嚴 げん 厲,一切事情都依法律決定,刻 こく 薄 うす 寡恩,不 ふ 講 こう 仁愛 じんあい 恩惠 おんけい ,沒 ぼつ 有 ゆう 和睦 わぼく 情義 じょうぎ ,這樣才 ざい 符合 ふごう 五行中水德嚴峻的特質,於是百姓動輒犯法,久久 ひさびさ 不能 ふのう 得 え 到 いた 赦免 しゃめん 。
丞相 じょうしょう 王 おう 綰 たがね 等 とう 人 じん 進言 しんげん 說 せつ :「諸 しょ 侯 ほう 剛 つよし 剛 つよし 被 ひ 打 だ 敗 はい ,燕 つばめ 、齊 ひとし 、楚 すわえ 地 ち 處 しょ 偏 へん 遠 とお ,不 ふ 給 きゅう 那 な 些地方 ちほう 設 しつらえ 王 おう ,就無法 ほう 鎮撫 ちんぶ 。請封立 りつ 諸 しょ 公子 こうし 為 ため 王 おう ,希望 きぼう 皇 すめらぎ 上 じょう 恩 おん 准 じゅん 。」秦 はた 始 はじめ 皇 すめらぎ 把 わ 這個建議 けんぎ 下 か 交給群臣 ぐんしん 商議 しょうぎ ,群臣 ぐんしん 都 と 認 みとめ 為 ため 這樣做有利 ゆうり 。身 み 為 ため 廷尉的 てき 李 り 斯發表 はっぴょう 意見 いけん 說 せつ :「周 しゅう 文 ぶん 王 おう 、周 しゅう 武 たけし 王 おう 分封 ぶんぽう 子弟 してい 和 かず 宗 はじめ 親 しん 親 おや 屬 ぞく 很多,可 か 是 ぜ 他 た 們的後代 こうだい 逐漸疏遠了 りょう ,互相攻擊 こうげき ,就像仇 かたき 人 じん 一 いち 樣 よう ,諸侯 しょこう 之 の 間 あいだ 彼此 ひし 征戰 せいせん ,周 しゅう 天子 てんし 也無法 ほう 阻止 そし 。現在 げんざい 天下 てんか 靠 もたれ 您的神 しん 武威 ぶい 靈 れい 才 ざい 獲得 かくとく 統一 とういつ ,都 と 劃分成 なり 了 りょう 郡 こおり 縣 けん ,對 たい 於諸公子 こうし 和 わ 功臣 こうしん ,用 よう 公家 くげ 的 てき 賦 ふ 稅 ぜい 重重 じゅうじゅう 賞賜 しょうし ,非常 ひじょう 容易 ようい 控 ひかえ 制 せい 他 た 們。天下 てんか 人 じん 沒 ぼつ 有 ゆう 不安 ふあん 分 ぶん 的 てき 心 しん ,才 さい 是 ぜ 使 し 天下 でんか 安寧 あんねい 的 てき 好 こう 辦法。設置 せっち 諸侯 しょこう 沒 ぼつ 有 ゆう 好 こう 處 しょ 。」秦 はた 始 はじめ 皇 すめらぎ 說 せつ :「以前 いぜん ,天下 てんか 人 じん 都 と 苦 く 於連年 ねん 戰爭 せんそう 無 む 止 とめ 無休 むきゅう ,就是因 いん 為 ため 有 ゆう 那 な 些諸侯 こう 王 おう 。現在 げんざい 我 わが 靠 もたれ 祖宗 そそう 的 てき 神靈 しんれい 保 ほ 佑 たすく ,才 ざい 把 わ 天下 でんか 剛 つよし 剛 つよし 安定 あんてい 下 か 來 らい ,如果又 また 設立 せつりつ 諸侯 しょこう 國 こく ,這等於是又 また 挑起戰爭 せんそう 了 りょう ,想 そう 要求 ようきゅう 得 とく 天下 でんか 安寧 あんねい ,豈 あに 不 ふ 困難 こんなん 嗎?廷尉的 てき 話 ばなし 是 ぜ 對 たい 的 てき 。」於是秦 はた 始 はじめ 皇 すめらぎ 採納 さいのう 李 り 斯的建議 けんぎ ,未 み 冊 さつ 封 ふう 諸侯 しょこう ,而是把 わ 全國 ぜんこく 分 ぶん 為 ため 三 さん 十 じゅう 六 ろく 郡 ぐん 。每 まい 郡 ぐん 設置 せっち 郡 こおり 守 まもる 、郡 ぐん 尉 じょう 、監 かん 御 ご 史 し ,分別 ふんべつ 掌 てのひら 管 かん 郡 ぐん 的 てき 行政 ぎょうせい 、軍事 ぐんじ 、監察 かんさつ 職務 しょくむ ,互相牽制 けんせい 。不 ふ 久 ひさ ,李 り 斯取代 だい 王 おう 綰 たがね 成 なり 為 ため 丞相 じょうしょう 。
秦 はた 始 はじめ 皇 すめらぎ 三 さん 十 じゅう 四 よん 年 ねん (前 ぜん 213年 ねん ),在 ざい 咸陽 宮 みや 設 しつらえ 宴 えん 招待 しょうたい 群臣 ぐんしん ,博士 はかせ 僕 ぼく 射 しゃ 周 しゅう 青 あお 臣 しん 等 とう 人稱 にんしょう 頌秦始 はじめ 皇 すめらぎ 的 てき 武威 ぶい 盛德 せいとく 。齊 ひとし 人 じん 淳 じゅん 于越勸 すすむ 諫道:「我 わが 聽說殷 いん 商 しょう 和 かず 周 しゅう 朝 ちょう 統治 とうち 達 たち 一 いち 千 せん 多年 たねん ,分封 ぶんぽう 子弟 してい 及功臣 こうしん 做為膀臂輔翼。而現在 ざい 陛下 へいか 您雖統一 とういつ 天下 でんか ,但 ただし 子弟 してい 卻還是 ぜ 平民 へいみん 百姓 ひゃくしょう ,若 わか 一旦 いったん 出現 しゅつげん 了 りょう 田 た 常 つね 、六 ろく 卿 きょう 奪 だつ 權 けん 篡位的 てき 禍 わざわい 患,在朝 ざいちょう 中 ちゅう 又 また 沒 ぼっ 有 ゆう 強 きょう 而有力 りょく 的 てき 輔佐 ほさ 之 の 臣 しん ,靠 もたれ 誰 だれ 來 き 相 しょう 救 すくい 呢?辦事不 ふ 學習 がくしゅう 古代 こだい 經驗 けいけん 而長期 き 統治 とうち 的 てき 朝代 あさしろ ,我 わが 還 かえ 沒 ぼっ 有 ゆう 聽說過 か 。現在 げんざい 周 しゅう 青 あお 臣 しん 等 とう 人 じん 又 また 當面 とうめん 阿諛 あゆ 奉 たてまつ 承 うけたまわ 以加重 かじゅう 您的錯誤 さくご ,不 ふ 是 ぜ 忠臣 ちゅうしん 。」秦 はた 始 はじめ 皇 すめらぎ 把 わ 這種議論 ぎろん 交給李 り 斯處理 しょり ,李 り 斯認為 ため 這種論點 ろんてん 荒 あら 謬,因 いん 此廢棄 はいき 不用 ふよう ,於是就上書 うわがき 說 せつ :
古 いにしえ 者 しゃ 天下 でんか 散亂 さんらん ,莫能相 しょう 一 いち ,是 ぜ 以諸侯 こう 並 なみ 作 さく ,語 ご 皆 みな 道古 どうこ 以害今 いま ,飾 かざり 虛言 きょげん 以亂實 じつ ,人 にん 善 ぜん 其所私學 しがく ,以非上所 かみところ 建立 こんりゅう 。今 こん 陛下 へいか 並 なみ 有 ゆう 天下 でんか ,別 べつ 白黑 しろくろ 而定一 いち 尊 みこと ;而私學 がく 乃相與 あずか 非 ひ 法 ほう 教之 のりゆき 制 せい ,聞令下 か ,即 そく 各 かく 以其私學 しがく 議 ぎ 之 の ,入 にゅう 則 のり 心 こころ 非 ひ ,出 で 則 そく 巷 ちまた 議 ぎ ,非 ひ 主 しゅ 以為名 めい ,異 い 趣 おもむき 以為高 だか ,率 りつ 群 ぐん 下 か 以造謗 そし 。如此不 ふ 禁 きん ,則 のり 主 ぬし 勢 いきおい 降 くだ 乎上,黨 とう 與 あずか 成 なる 乎下。禁 きん 之 の 便 びん 。臣 しん 請諸有 ゆう 文學 ぶんがく 《詩 し 》、《書 しょ 》、百 ひゃく 家 いえ 語 かたり 者 しゃ ,蠲除去 じょきょ 之 の 。令 れい 到 いた 滿 まん 三 さん 十 じゅう 日 にち 弗 どる 去 さ ,黥為城 じょう 旦 だん 。所 ところ 不 ふ 去 さ 者 しゃ ,醫藥 いやく 、卜筮 ぼくぜい 、種 たね 樹 じゅ 之 これ 書 しょ 。若 わか 有 ゆう 欲 よく 學者 がくしゃ ,以吏為 ため 師 し 。
秦 はた 始 はじめ 皇 すめらぎ 批准 ひじゅん 了 りょう 他 た 的 てき 建議 けんぎ ,沒收 ぼっしゅう 了 りょう 《詩 し 》、《書 しょ 》和 かず 諸子 しょし 百 ひゃく 家 いえ 的 てき 著作 ちょさく ,以便使 し 人民 じんみん 愚昧 ぐまい 無知 むち ,使 つかい 天下 でんか 人 じん 無法 むほう 用 よう 古代 こだい 之 の 事 こと 來 らい 批評 ひひょう 當 とう 前 ぜん 朝廷 ちょうてい 。秦 はた 始 はじめ 皇 すめらぎ 修明 のぶあき 法制 ほうせい ,制定 せいてい 律令 りつりょう 。統一 とういつ 文字 もじ ,在 ざい 全國 ぜんこく 各地 かくち 修 おさむ 建 けん 離宮 りきゅう 別館 べっかん 。秦 はた 始 はじめ 皇 すめらぎ 三 さん 十 じゅう 五 ご 年 ねん (前 ぜん 212年 ねん ),秦 はた 始 はじめ 皇 すめらぎ 又 また 四 よん 出 で 巡視 じゅんし ,平定 へいてい 了 りょう 四方 しほう 少數 しょうすう 民族 みんぞく ,這些措施,李 り 斯都出 で 了 りょう 不 ふ 少 しょう 力 ちから 。
李 り 斯的長子 ちょうし 李 り 由 ゆかり 擔任 たんにん 三川 みかわ 郡 こおり 守 まもる ,李 り 斯的兒 じ 子 こ 們娶的 てき 是 ぜ 秦 しん 公主 こうしゅ ,女兒 じょじ 們嫁的 てき 都 と 是 ぜ 秦 はた 公子 きみこ 。三川郡守李由請假回咸陽時,李 り 斯在家中 いえじゅう 設 しつらえ 下 か 酒宴 しゅえん ,文武 ぶんぶ 百官都前去給李斯敬酒祝賀。門前 もんぜん 的 てき 車馬 しゃば 數 すう 以千 せん 計 けい 。李 り 斯慨然 がいぜん 長嘆 ちょうたん 道 どう :「唉呀!我 わが 聽荀卿 きょう 說 せつ 過 か 『事物 じぶつ 的 てき 發展 はってん ,不能 ふのう 太 ふと 盛 もり 』。我 わが 李 り 斯原是 ぜ 上 じょう 蔡的平民 へいみん ,街 まち 巷 ちまた 裏 うら 的 てき 百姓 ひゃくしょう ,皇帝 こうてい 不 ふ 了解 りょうかい 我 わが 才能 さいのう 低下 ていか ,才 さい 把 わ 我 わが 提 ひさげ 拔到這樣高 だか 的 てき 地位 ちい 。現 げん 如今做臣子 しんし 的 てき 沒 ぼつ 有人 ゆうじん 比 ひ 我 わが 職位 しょくい 更 さら 高 だか ,可 か 以說是 ぜ 富貴 ふうき 榮華 えいが 到 いた 了 りょう 極點 きょくてん 。然 しか 而事物 ぶつ 發展 はってん 的 てき 極點 きょくてん 就要開始 かいし 衰 おとろえ 落,我 わが 還 かえ 不 ふ 知道 ともみち 歸 き 宿 やど 在 ざい 何方 どなた 啊!」
秦 はた 始 はじめ 皇 すめらぎ 三 さん 十 じゅう 七 なな 年 ねん (前 ぜん 210年 ねん ),秦 はた 始 はじめ 皇 すめらぎ 巡遊 じゅんゆう 會 かい 稽山 ,並 なみ 沿海 えんかい 北上 ほくじょう 到達 とうたつ 琅琊山 やま ,期間 きかん 公子 こうし 胡 えびす 亥 い 、丞相 じょうしょう 李 り 斯和中車 ちゅうしゃ 府 ふ 令 れい 兼 けん 符 ふ 璽令趙 ちょう 高 だか 隨 ずい 同前 どうぜん 往。同年 どうねん 六 ろく 月 がつ ,秦 はた 始 はじめ 皇 すめらぎ 巡遊 じゅんゆう 到 いた 平原 ひらはら 津 つ 時 どき 患病,到達 とうたつ 沙 すな 丘 おか 宮 みや 平台 ひらだい 時 じ 已 やめ 經 けい 病 びょう 危。秦 はた 始 はじめ 皇 すめらぎ 立 りつ 遺 のこ 詔 みことのり 召公子 こうし 扶蘇回 かい 咸陽為 ため 其主持 じ 葬禮 そうれい ,遺 のこ 詔 みことのり 還 かえ 沒 ぼっ 交給使者 ししゃ 發出 はっしゅつ 時 じ 秦 はた 始 はじめ 皇 すめらぎ 已 やめ 經 けい 駕 が 崩 くずれ ,[ 3] 隨行 ずいこう 者 しゃ 只 ただ 有 ゆう 公子 こうし 胡 えびす 亥 い 、李 り 斯和趙 ちょう 高 だか 以及五六個親信宦官知道秦始皇去世的消息。李 り 斯認為 ため 皇帝 こうてい 在外 ざいがい 駕 が 崩 くずれ ,國 くに 內儲君 くん 未定 みてい ,應 おう 當 とう 封鎖 ふうさ 消息 しょうそく ,於是將 はた 秦 はた 始 はじめ 皇 すめらぎ 的 てき 遺體 いたい 安 やす 放 ひ 在 ざい 一輛既保溫又通風涼爽的車子中,百官奏事及進獻飲食還和往常一樣,又 また 派 は 一名宦官假扮秦始皇批閱奏摺。
趙 ちょう 高 だか 扣留了 りょう 秦 はた 始 はじめ 皇 すめらぎ 的 てき 遺 のこ 詔 みことのり ,對 たい 胡 えびす 亥 い 說 せつ :「陛下 へいか 駕 が 崩 くずし 了 りょう ,沒 ぼつ 有 ゆう 詔書 しょうしょ 封 ふう 諸子 しょし 為 ため 王 おう ,而只賜 たまもの 給 きゅう 長子 ちょうし 扶蘇一 いち 封 ふう 詔書 しょうしょ ,扶蘇到達 とうたつ 咸陽後 ご 就登基 もと ,而你卻連寸土 すんど 的 てき 封地 ほうち 也沒有 ゆう ,你準備怎麼辦?」胡 えびす 亥 い 說 せつ :「我 わが 聽說過 か 聖 ひじり 明 あきら 的 てき 君主 くんしゅ 最 さい 了解 りょうかい 臣子 しんし ,聖 ひじり 明 あきら 的 てき 父親 ちちおや 最 さい 了解 りょうかい 兒 じ 子 こ 。父親 ちちおや 臨終 りんじゅう 既 すんで 然 しか 未 み 下 した 令 れい 分封 ぶんぽう 諸子 しょし ,那 な 還 かえ 有 ゆう 什麼 いんも 可 か 說 せつ 的 てき 呢?」趙 ちょう 高說 こうせつ :「並 なみ 非 ひ 如此,如今天下 でんか 的 てき 形勢 けいせい ,都 と 在 ざい 你、我 わが 和 わ 丞相 じょうしょう 李 り 斯的手 しゅ 裏 うら 掌握 しょうあく 着 ぎ ,希望 きぼう 你三思 さんし 。更 さら 何 なん 況 きょう 駕 が 馭群臣 ぐんしん 和 わ 向別 むこうべつ 人稱 にんしょう 臣 しん ,統治 とうち 別人 べつじん 和 わ 被 ひ 別人 べつじん 統治 とうち 能 のう 一 いち 樣 よう 嗎?」胡 えびす 亥 い 說 せつ :「廢 はい 長 ちょう 立 たて 幼 よう ,這是不義 ふぎ ;不 ふ 服從 ふくじゅう 父親 ちちおや 的 てき 詔 みことのり 命 いのち 而懼怕死亡 しぼう ,這是不孝 ふこう ;自己 じこ 的 てき 才能 さいのう 淺薄 せんばく 而依靠 もたれ 別 べつ 人的 じんてき 幫助勉強 べんきょう 登 のぼり 基 はじめ ,這是無能 むのう ,這三件事都是大逆不道的,天下 てんか 人 じん 也會不服 ふふく 我 わが ,我 わが 自 じ 受其害 がい ,國家 こっか 也會因 いん 此而滅亡 めつぼう 。」趙 ちょう 高說 こうせつ :「我 わが 聽說過 か 商 しょう 湯 ゆ 、周 しゅう 武 たけし 王 おう 殺 ころせ 死 し 他 た 們的君主 くんしゅ ,天下 てんか 人 じん 都 と 稱讚 しょうさん 他 た 們的行為 こうい 符合 ふごう 道義 どうぎ ,不能 ふのう 算 さん 是 ぜ 不忠 ふちゅう 。衛 まもる 出 で 公 おおやけ 為 ため 了 りょう 平 たいら 亂 らん ,出兵 しゅっぺい 欲 よく 殺 ころせ 他 た 的 てき 父親 ちちおや 蒯聵 ,而衛國 こく 人稱 にんしょう 頌他的 てき 功德 くどく ,孔子 こうし 記載 きさい 了 りょう 這件事 ごと ,不能 ふのう 算 さん 是 ぜ 不孝 ふこう 。更 さら 何 なん 況 きょう 成 なり 大事 だいじ 者 しゃ 不 ふ 拘 かかわ 小節 しょうせつ ,行 ぎょう 大德 だいとく 也用不着 ふちゃく 再三 さいさん 謙讓 けんじょう ,顧忌小節 しょうせつ 而忘記 き 大事 だいじ ,日 にち 後 ご 必生禍害 かがい ;關 せき 鍵 かぎ 時刻 じこく 猶豫 ゆうよ 不 ふ 決 けつ ,將來 しょうらい 一定 いってい 會 かい 後悔 こうかい ,希望 きぼう 你按我 が 說 せつ 的 てき 去 さ 做。」胡 えびす 亥 い 長嘆 ちょうたん 一聲 いっせい 說 せつ :「現在 げんざい 陛下 へいか 大 だい 行 ぎょう ,還 かえ 未發 みはつ 喪 も ,喪 も 禮 れい 也未結束 けっそく ,這樣怎麼去求 もとめ 丞相 じょうしょう 呢?」趙 ちょう 高說 こうせつ :「時間 じかん 啊時間 あいだ ,短 たん 到來 とうらい 不 ふ 及謀劃了。把 わ 餐點帶 たい 在 ざい 身上 しんじょう 不 ふ 吃 ども ,騎馬 きば 飛 ひ 奔,還 かえ 怕遲了 りょう 時間 じかん 呢!」
成功 せいこう 說 せつ 服 ふく 胡 えびす 亥 い 後 ご ,趙 ちょう 高 だか 指出 さしで 計 けい 劃要想 そう 成功 せいこう 必須 ひっす 得 え 到 いた 丞相 じょうしょう 李 り 斯的同意 どうい ,並 なみ 向 こう 胡 えびす 亥 い 推薦 すいせん 自己 じこ 親 おや 自前 じまえ 去 さ 說 せつ 服 ふく 李 り 斯。趙 ちょう 高 だか 對 たい 李 り 斯說:「陛下 へいか 駕 が 崩 くずれ ,遺 のこ 詔 みことのり 未 み 送出 そうしゅつ ,沒 ぼつ 人知 じんち 道 どう 這件事 ごと ,陛下 へいか 賜 たまもの 給 きゅう 扶蘇的 てき 詔書 しょうしょ 和 わ 符 ふ 璽都在 ざい 胡 えびす 亥 い 手 しゅ 裏 うら ,立 たて 誰 だれ 為 ため 太子 たいし 只 ただ 在 ざい 於你我 が 的 てき 一句 いっく 話 ばなし 而已,你看這件事 ごと 該怎麼辦?」李 り 斯說:「你怎麼能說 せつ 出 で 這種亡國 ぼうこく 的 てき 話 ばなし 呢?這不是 ぜ 你我做為人臣 じんしん 應 おう 當 とう 議論 ぎろん 的 てき 事 こと !」趙 ちょう 高說 こうせつ :「您和蒙 こうむ 恬相 そう 比 ひ ,誰 だれ 更 さら 有本 ありもと 事 ごと ?誰 だれ 的 てき 功勞 こうろう 更 さら 高 だか ?誰 だれ 的 てき 謀略 ぼうりゃく 深遠 しんえん 不 ふ 失 しつ 誤 あやま ?天下 てんか 百姓 ひゃくしょう 更 さら 擁 よう 戴誰?與 あずか 長子 ちょうし 扶蘇的 てき 關係 かんけい 誰 だれ 更 さら 好 こう ?」李 り 斯說:「在 ざい 這五個方面我都不如蒙恬,但 ただし 您為什麼 いんも 這樣苛求於我呢?」趙 ちょう 高說 こうせつ :「我 わが 在 ざい 秦 はた 宮 みや 管 かん 事 ごと 二 に 十 じゅう 多年 たねん ,還 かえ 未 み 曾見過 か 被 ひ 罷免 ひめん 的 てき 丞相 じょうしょう 功臣 こうしん 有 ゆう 封 ふう 爵能傳 でん 給下 きゅうした 一代 いちだい 的 てき ,結果 けっか 都 と 是 ぜ 以被殺 ころせ 而告終 おわり 。皇帝 こうてい 有 ゆう 二 に 十 じゅう 多 た 個 こ 兒 じ 子 こ ,長子 ちょうし 扶蘇剛毅 ごうき 而且勇武 ゆうぶ ,即位 そくい 之 の 後 のち 一定要用蒙恬擔任丞相,您最終 さいしゅう 也是不能 ふのう 懷 ふところ 揣着通 どおり 侯 こう 之 の 印 しるし 告 つげ 老 ろう 還 かえ 鄉 ごう 了 りょう 。我 わが 受皇帝 こうてい 之 の 命 いのち 教育 きょういく 胡 えびす 亥 い ,教 きょう 他 た 學習 がくしゅう 法律 ほうりつ 已 やめ 經 けい 有 ゆう 好 こう 幾 いく 年 ねん ,還 かえ 沒 ぼっ 見 み 過 か 他 た 有 ゆう 什麼 いんも 過失 かしつ 。他 た 慈悲 じひ 仁愛 じんあい 、誠實 せいじつ 厚 あつ 道 どう 、輕視 けいし 錢 ぜに 財 ざい 、尊重 そんちょう 士人 しじん 、心裏 しんり 聰明 そうめい 但 ただし 不善 ふぜん 言辭 げんじ 、竭盡禮節 れいせつ 尊重 そんちょう 賢 けん 士 し 。在 ざい 秦 はた 始 はじめ 皇 すめらぎ 的 てき 兒 じ 子中 こなか ,沒 ぼつ 人 じん 能 のう 趕得上 じょう 他 ほか ,可 か 以立為 ため 繼承 けいしょう 人 じん ,您考慮 こうりょ 一 いち 下 か 再 さい 決定 けってい 。」李 り 斯說:「我 わが 李 り 斯只執行 しっこう 皇帝 こうてい 的 てき 遺 のこ 詔 みことのり ,自己 じこ 的 てき 命運 めいうん 聽從 ちょうじゅう 上天 じょうてん 的 てき 安 やす 排 はい ,有 ゆう 什麼 いんも 可 か 考慮 こうりょ 決定 けってい 的 てき 呢?」趙 ちょう 高說 こうせつ :「看 み 似 に 平安 へいあん 卻可能 かのう 是 ぜ 危險 きけん 的 てき ,危險 きけん 又 また 可能 かのう 是 ぜ 平安 へいあん 的 てき 。在 ざい 安危 あんき 面前 めんぜん 不 ふ 早 はや 做決定 けってい ,又 また 怎麼能 のう 算 さん 是 ぜ 聖 ひじり 明 あきら 的 てき 人 じん 呢?」李 り 斯說:「我 わが 李 り 斯本是 ぜ 上 じょう 蔡街巷 ちまた 裏 うら 的 てき 平民 へいみん 百姓 ひゃくしょう ,承 うけたまわ 蒙 こうむ 皇帝 こうてい 提 ひさげ 拔,讓 ゆず 我 わが 擔任 たんにん 丞相 じょうしょう ,封 ふう 為 ため 通 つう 侯 こう ,子孫 しそん 都 と 能 のう 得 え 到 いた 尊 とうと 貴 とうと 的 てき 地位 ちい 和 かず 優 ゆう 厚 あつ 的 てき 待遇 たいぐう ,所以 ゆえん 皇帝 こうてい 才 ざい 把 わ 國家 こっか 安危 あんき 存亡 そんぼう 的 てき 重任 じゅうにん 交給了 りょう 我 わが ,我 わが 又 また 怎麼能 のう 辜負了 りょう 他 た 的 てき 重 じゅう 託 たく 呢?忠臣 ちゅうしん 不 ふ 因 いん 怕死而苟且從事 じゅうじ ,孝子 こうし 不 ふ 因 いん 過分 かぶん 操 みさお 勞 ろう 而損害 そんがい 健康 けんこう ,做臣子 しんし 的 てき 各 かく 守 もり 各 かく 的 てき 職分 しょくぶん 而已。請您不要 ふよう 再說 さいせつ 了 りょう ,不要 ふよう 讓 ゆず 我 わが 李 り 斯也跟着犯罪 はんざい 。」趙 ちょう 高說 こうせつ :「我 わが 聽說聖 せい 人並 ひとなみ 不 ふ 循規蹈矩,而是適應 てきおう 變化 へんか 、順應 じゅんのう 潮流 ちょうりゅう ,看 み 到 いた 苗 なえ 頭 あたま 就能預 あずか 知 ち 根本 こんぽん ,看 み 到 いた 動向 どうこう 就能預 あずか 知 ち 歸 き 宿 やど ,事物 じぶつ 的 てき 發展 はってん 規律 きりつ 本來 ほんらい 就是如此,哪裏有 ゆう 什麼 いんも 一成不變的道理呢?現 げん 如今天下 でんか 的 てき 權力 けんりょく 和 わ 命運 めいうん 都 と 掌握 しょうあく 在 ざい 胡 えびす 亥 い 手 しゅ 裏 うら ,我 わが 趙 ちょう 高 だか 能 のう 猜出他 た 的 てき 心 こころ 志 こころざし 。更 さら 何 なん 況 きょう 從 したがえ 外部 がいぶ 來 らい 制服 せいふく 內部就是逆 ぎゃく 亂 みだれ ,從 したがえ 下面 かめん 來 らい 制服 せいふく 上面 うわつら 就是反 はん 叛。所以 ゆえん 秋霜 しゅうそう 一降花草隨之凋落,冰消雪 ゆき 化 か 萬物 ばんぶつ 隨 ずい 之 の 重生 しぎょう ,這是自然 しぜん 界 かい 的 てき 必然 ひつぜん 規律 きりつ ,您怎麼連這些都 と 沒 ぼつ 看 み 到 いた 呢?」李 り 斯說:「我 わが 聽說晉 すすむ 獻 けんじ 公 こう 更 さら 換 かわ 太子 たいし ,晉 すすむ 國 こく 三 さん 代 だい 不 ふ 得 とく 安寧 あんねい ;齊 ひとし 桓公 かんこう 兄弟 きょうだい 爭奪 そうだつ 君 くん 位 い ,哥哥公子 こうし 糾被 ひ 殺 ころせ 死 し ;商 しょう 紂王殺 ころせ 死 し 比 ひ 干 ひ ,又 また 不 ふ 聽從 ちょうじゅう 箕 み 子 こ 、微 ほろ 子 こ 的 てき 勸 すすむ 諫,都城 みやこのじょう 夷 えびす 為 ため 廢墟 はいきょ ,隨 ずい 着 ぎ 危及社稷 しゃしょく 。這三 さん 件 けん 事 こと 都 と 違背 いはい 天命 てんめい ,所以 ゆえん 才 ざい 落得宗廟 そうびょう 沒 ぼつ 人 じん 祭祀 さいし 。我 わが 李 り 斯怎麼能參與 さんよ 這種陰謀 いんぼう 呢?」趙 ちょう 高說 こうせつ :「上下 じょうげ 齊 ひとし 心 こころ 協力 きょうりょく ,事業 じぎょう 可 か 以長久 ちょうきゅう ;內外配合 はいごう 如一,就不會 かい 有 ゆう 什麼 いんも 差 さ 錯。您聽從 ちょうじゅう 我 が 的 てき 計 けい 策 さく ,就會長保 ながほ 封 ふう 侯 こう ,並 なみ 永世 えいせい 相傳 そうでん ,一定 いってい 有 ゆう 仙人 せんにん 王子 おうじ 喬 たかし 、赤松 あかまつ 子 こ 那 な 樣 さま 的 てき 長壽 ちょうじゅ ,孔子 こうし 、墨 ぼく 子 こ 那 な 樣 さま 的 てき 智慧 ちえ 。現在 げんざい 放棄 ほうき 這個機會 きかい 而不聽從 ちょうじゅう 我 が 的 てき 意見 いけん ,一定 いってい 會 かい 禍 か 及子孫 しそん ,足 そく 以令人心 じんしん 寒 かん 。善 ぜん 於為人 じん 處世 しょせい ,相 そう 機 き 而動的 てき 人 じん 是能 これよし 夠轉禍 か 為 ため 福 ぶく 的 てき ,您想想 そう 該怎麼辦吧。」李 り 斯仰天 ぎょうてん 長嘆 ちょうたん ,揮淚嘆息 たんそく 道 どう :「唉呀!偏 へん 偏 へん 遭逢亂世 らんせい ,既 すんで 然 しか 已 やめ 經 けい 不能 ふのう 以死盡忠 じんちゅう 了 りょう ,何處 どこ 將 はた 寄託 きたく 我 が 的 てき 命運 めいうん 呢?」在 ざい 趙 ちょう 高 だか 的 てき 威 い 逼利誘 さそえ 下 か ,李 り 斯贊同 どう 了 りょう 趙 ちょう 高和 こうわ 胡 えびす 亥 い 的 てき 計 けい 劃。趙 ちょう 高 だか 回報 かいほう 胡 えびす 亥 い 說 せつ :「我 わが 是 ぜ 奉 たてまつ 太子 たいし 您的命令 めいれい 去 さ 通知 つうち 丞相 じょうしょう 李 り 斯的,他 た 怎麼敢不服從 ふくじゅう 命令 めいれい 呢?」
趙 ちょう 高 だか 與 あずか 李 り 斯合謀 はかりごと 更改 こうかい 秦 はた 始 はじめ 皇 すめらぎ 的 てき 遺 のこ 詔 みことのり ,改 あらため 立 りつ 胡 えびす 亥 い 為 ため 太子 たいし ,又 また 派 は 使者 ししゃ 矯詔以戍邊 べ 無 む 功 こう 和 わ 誹謗 ひぼう 不孝 ふこう 的 てき 罪名 ざいめい 賜 たまもの 死 し 扶蘇;以為臣 しん 不忠 ふちゅう 的 てき 罪名 ざいめい 賜 たまもの 死 し 蒙 こうむ 恬,將兵 しょうへい 權 けん 交予副將 ふくしょう 王 おう 離 はなれ 。扶蘇得 え 到 いた 詔書 しょうしょ 後 ご 自殺 じさつ ,蒙 こうむ 恬不肯自殺 じさつ ,被 ひ 囚 しゅう 禁 きん 於陽 ひ 周 しゅう 。胡 えびす 亥 い 、李 り 斯、趙 ちょう 高 だか 三人得知消息後大喜,率 りつ 巡遊 じゅんゆう 部隊 ぶたい 從 したがえ 井 い 陘山經 けい 九原郡返回咸陽。因 よし 途中 とちゅう 路程 ろてい 較長遇 ぐう 到 いた 暑 あつ 季 き ,秦 はた 始 はじめ 皇 すめらぎ 的 てき 屍體 したい 開始 かいし 腐爛 ふらん 變 へん 臭 しゅう ,李 り 斯、趙 ちょう 高等 こうとう 命 いのち 隨從 ずいじゅう 官員 かんいん 每 ごと 車 しゃ 裝 そう 載 の 一 いち 石 せき 鮑魚 ほうぎょ ,來 らい 掩蓋 えんがい 屍體 したい 散發 さんぱつ 的 てき 臭氣 しゅうき 。巡遊 じゅんゆう 部隊 ぶたい 回 かい 到 いた 咸陽後 ご 為 ため 秦 はた 始 はじめ 皇 すめらぎ 發 はつ 喪 も ,胡 えびす 亥 い 正式 せいしき 登 のぼり 基 はじめ 為 ため 帝 みかど ,為 ため 秦 しん 二 に 世 せい 皇帝 こうてい ,趙 ちょう 高 こう 因 いん 功 こう 加 か 封 ふう 為 ため 郎 ろう 中 ちゅう 令 れい ,在 ざい 宮中 きゅうちゅう 輔佐 ほさ 皇帝 こうてい 。秦 しん 二世即位後又採納趙高的建議,仿效秦 はた 始 はじめ 皇 すめらぎ 巡遊 じゅんゆう 天下 でんか 、立 たて 碑 いしぶみ 刻 こく 石 せき ,威服 いふく 海 うみ 內。
秦 はた 二 に 世 せい 即位 そくい 後 ご ,法令 ほうれい 誅罰日 び 益 えき 殘酷 ざんこく ,群臣 ぐんしん 上下 じょうげ 人人 ひとびと 自 じ 危,想 そう 反 はん 叛的人 じん 很多。秦 しん 二 に 世 せい 又 また 建造 けんぞう 阿房宮 あぼうきゅう ,修築 しゅうちく 直道 なおみち 、馳 はせ 道 どう ,賦 ふ 稅 ぜい 越來 ごえく 越 こし 重 しげる ,戍徭沒 ぼつ 完 かん 沒 ぼつ 了 りょう 。於是從 したがえ 楚 すわえ 地 ち 征 せい 來 らい 戍邊的 てき 士卒 しそつ 陳 ちん 勝 まさる 、吳 ご 廣 ひろ 等 とう 人 ひと 就起來 らい 造反 ぞうはん ,起 おこり 兵 へい 於崤山 やま 以東 いとう ,傑 すぐる 俊 しゅん 蜂 はち 擁 よう 而起,自立 じりつ 為 ため 侯 こう 王 おう ,反 はん 叛秦朝 あさ ,他 た 們的軍隊 ぐんたい 一 いち 直 ちょく 攻 おさむ 到 いた 鴻 おおとり 門 もん 才 ざい 退去 たいきょ 。左 ひだり 丞相 じょうしょう 李 り 斯和右 みぎ 丞相 じょうしょう 馮去疾 やまし 、御 ご 史 し 大夫 たいふ 馮劫多 た 次 つぎ 想 そう 找機會 かい 進 しん 諫,但 ただし 二 に 世 せい 不 ふ 允許 いんきょ 。二世反倒責備李斯說:「我 わが 有 ゆう 個 こ 看 み 法 ほう ,是 ぜ 從 したがえ 韓 かん 非 ひ 那 な 裏 うら 聽來的 てき ,他 た 說 せつ 『堯 統治 とうち 天下 でんか ,殿堂 でんどう 只 ただ 不 ふ 過 か 三 さん 尺 しゃく 高 だか ,柞 なら 木 き 椽子直接 ちょくせつ 使用 しよう 而不加 か 砍削,茅 かや 草 くさ 做屋頂 いただき 而不加 か 修 おさむ 剪,即 そく 使 つかい 是 ぜ 旅 たび 店 てん 中 ちゅう 住 じゅう 宿 やど 的 てき 條件 じょうけん 也不會 かい 比 ひ 這更艱苦 かんく 的 てき 了 りょう 。冬 ふゆ 天 てん 穿 ほじ 鹿 しか 皮 がわ 襖 ふすま ,夏 なつ 天 たかし 穿 ほじ 麻布 まふ 衣 ころも ,粗 そ 米作 べいさく 飯 めし ,野菜 やさい 作 さく 湯 ゆ ,用土 ようど 罐 かん 吃 ども 飯 めし ,用土 ようど 缽喝水 すい ,即 そく 使 つかい 是 ぜ 看 み 門人 もんじん 的 てき 生活 せいかつ 也不會 かい 比 ひ 這更清 きよし 寒 かん 的 てき 了 りょう 。禹 鑿開龍 りゅう 門 もん ,開通 かいつう 大 だい 夏 なつ 水道 すいどう ,又 また 疏通 そつう 多 た 條 じょう 河 かわ 流 りゅう ,曲折 きょくせつ 地 ち 築 ちく 起 おこり 多 た 道 みち 堤防 ていぼう ,決 けつ 積水 せきすい 引導 いんどう 入海 いりうみ ,大腿 だいたい 上 じょう 沒 ぼつ 了 りょう 白 しろ 肉 にく ,小 しょう 腿 もも 上 じょう 沒 ぼつ 了 りょう 汗 あせ 毛 げ ,手 て 掌 てのひら 腳底都 と 結 むすぶ 滿了 まんりょう 厚 あつ 繭 まゆ ,面 めん 孔 あな 漆黑 しっこく ,最終 さいしゅう 還 かえ 累 るい 死 し 在外 ざいがい ,埋葬 まいそう 在 ざい 會 かい 稽山上 じょう ,即 そく 使 つかい 是 ぜ 奴隸 どれい 的 てき 勞苦 ろうく 也不會 かい 比 ひ 這更厲害了 りょう 』。然 しか 而把統治 とうち 天下 でんか 看 み 得 え 無 む 尚 なお 尊 とうと 貴 とうと 的 てき 人 じん ,其目的 もくてき 難 なん 道 どう 就是想 そう 操 みさお 心 しん 費 ひ 力 りょく ,住 じゅう 旅 たび 店 てん 一樣 いちよう 的 てき 宿舍 しゅくしゃ ,吃 ども 看 み 門人 もんじん 吃 ども 的 てき 食物 しょくもつ ,幹 みき 奴隸 どれい 幹 みき 的 てき 活計 かっけい 嗎?這些事 さじ 都 と 是 ぜ 才能 さいのう 低下 ていか 的 てき 人才 じんさい 努力 どりょく 去 さ 干 ひ 的 てき ,並 なみ 非 ひ 賢明 けんめい 的 てき 人 ひと 所 しょ 從事 じゅうじ 的 てき 。那 な 些賢明 けんめい 的 てき 人 じん 統治 とうち 天下 でんか 的 てき 時候 じこう ,只 ただ 是 これ 把 わ 天下 でんか 的 てき 一切都拿來滿足自己的欲望而已,這正是 これ 把 わ 統治 とうち 天下 でんか 看 み 得 え 無 む 尚 なお 尊 とうと 貴 とうと 的 てき 原因 げんいん 所在 しょざい 。人 ひと 們所說 せつ 的 てき 賢明 けんめい 之 これ 人 にん ,一定 いってい 能 のう 安定 あんてい 天下 でんか 、治 ち 理 り 萬民 ばんみん ,倘若連 れん 給 きゅう 自己 じこ 撈好處 しょ 都 と 不 ふ 會 かい ,又 また 怎麼能 のう 治 ち 理 り 天下 でんか 呢!所以 ゆえん 我 わが 才 ざい 想 そう 恣 ほしいまま 心 こころ 廣 こう 欲 よく ,永遠 えいえん 享有 きょうゆう 天下 でんか 而沒有 ゆう 禍害 かがい 。這該怎麼辦呢?」李 り 斯的兒 じ 子 こ 李 り 由 ゆかり 任 にん 三川 さんかわ 郡 ぐん 守 もり ,群 ぐん 起 おこり 造反 ぞうはん 的 てき 吳 ご 廣 ひろ 等 とう 人 じん 向 こう 西 にし 攻 おさむ 佔地盤 ばん ,任意 にんい 往來 おうらい ,李 り 由 ゆかり 不能 ふのう 阻止 そし 。章 あきら 邯在 ざい 擊 げき 敗 はい 並 なみ 驅逐 くちく 了 りょう 吳 ご 廣 ひろ 等 とう 人的 じんてき 軍隊 ぐんたい 之 の 後 のち ,派 は 到 いた 三川去調查的使者一個接着一個,並 なみ 責 せめ 備李斯身居 きょ 三公 みつきみ 之 これ 位 い ,為 ため 何 なん 讓 ゆずる 盜賊 とうぞく 猖狂到 いた 這種地步 ちほ 。李 り 斯很是 ぜ 害 がい 怕,又 また 看 み 重 じゅう 爵位 しゃくい 俸祿,不知 ふち 如何 いか 是 ぜ 好 このみ ,就曲意 い 阿 おもね 順 じゅん 秦 しん 二 に 世 せい 的 てき 心意 しんい ,想 そう 求 もとめ 得 え 寬容 かんよう ,便 びん 上書 うわがき 回答 かいとう 二 に 世 せい 說 せつ :
夫 おっと 賢主 けんしゅ 者 しゃ ,必且能 のう 全 ぜん 道 みち 而行督 とく 責 せめ 之 の 術 じゅつ 者 しゃ 也,督 とく 責 せめ 之 の ,則 のり 臣 しん 不 ふ 敢不竭能以徇其主矣。此臣主 ぬし 之 の 分 ぶん 定 じょう ,上下 じょうげ 之 の 義明 よしあき ,則 のり 天下 でんか 賢 けん 不肖 ふしょう 莫敢不盡 ふじん 心 こころ 竭任以徇其君矣。是 ぜ 故主 こしゅ 獨 どく 制 せい 於天下 か 而無所 しょ 制 せい 也。能 のう 窮 きゅう 樂 らく 之 の 極 ごく 矣,賢明 けんめい 之 の 主 しゅ 也,可 か 不 ふ 察焉。
故 こ 申 さる 子 こ 曰:「有 ゆう 天下 でんか 而不恣 ほしいまま 睢,命 いのち 之 の 曰以天下 でんか 為 ため 桎梏 しっこく 」者 しゃ ,無 む 他 た 焉,不能 ふのう 督 とく 責 せめ ,而顧以其身 み 勞 ろう 於天下之 したの 民 みん ,若 わか 堯,禹然,故 こ 謂 いい 之 の 「桎梏 しっこく 」也。夫 おっと 不能 ふのう 修 おさむ 申 さる 、韓 かん 之 の 明 あかり 術 じゅつ ,行 ぎょう 督 とく 責 せめ 之 の 道 みち ,專 せん 以天下 か 自適 じてき 也,而徒務 つとむ 苦 く 形 がた 勞 ろう 神 しん ,以身徇百姓 ひゃくしょう ,則 のり 是 ぜ 黔首之 の 役 やく ,非 ひ 畜天下 か 者 しゃ 也,何 なん 足 そく 貴 き 哉!夫 おっと 以人徇己,則 のり 己 おのれ 貴 き 而人賤;以己徇人,則 のり 己 おのれ 賤而人 じん 貴 とうと 。故 こ 徇人者 しゃ 賤,而人所 しょ 徇者貴 とうと ,自 じ 古 こ 及今,未 み 有 ゆう 不 ふ 然 しか 者 しゃ 也。凡古之 の 所為 しょい 尊 みこと 賢者 けんじゃ ,為 ため 其貴也;而所為 しょい 惡 わる 不 ふ 尚 なお 者 しゃ ,為 ため 其賤也。而堯、禹以身 み 徇天下 か 者 しゃ 也,因 いん 隨 ずい 而尊之 の ,則 のり 亦 また 失 しつ 所為 しょい 尊 みこと 賢 けん 之 の 心 こころ 矣,夫 おっと 可 か 謂 いい 大 だい 繆矣。謂 いい 之 の 為 ため 「桎梏 しっこく 」,不 ふ 亦 また 宜 むべ 乎?不能 ふのう 督 とく 責 せめ 之 の 過 か 也。
故 こ 韓 かん 子 こ 曰「慈母 じぼ 有 ゆう 敗 はい 子 こ 而嚴家 か 無 む 格 かく 虜 とりこ 」者 しゃ ,何 なに 也?則 すなわち 能 のう 罰 ばつ 之 の 加 か 焉必也。故 こ 商 しょう 君 くん 法 ほう ,刑 けい 棄灰於道者 しゃ 。夫 おっと 棄灰,薄 すすき 罪 ざい 也,而被刑 けい ,重罰 じゅうばつ 也。彼 かれ 唯 ただ 明主 めいしゅ 為 ため 能 のう 深 ふか 督 とく 輕 けい 罪 ざい 。夫 おっと 罪 ざい 輕 けい 且督深 ふか ,而況有 ゆう 重罪 じゅうざい 乎?故 こ 民 みん 不 ふ 敢犯也。是 ぜ 故 こ 韓 かん 子 こ 曰「布帛 ふはく 尋常 じんじょう ,庸 いさお 人 じん 不 ふ 釋 しゃく ,鑠金百 ひゃく 溢,盜 とう 跖不搏」者 しゃ ,非 ひ 庸 いさお 人 じん 之 の 心 こころ 重 じゅう ,尋常 じんじょう 之 の 利 り 深 ふか ,而盜跖之欲 ほし 淺 あさ 也;又 また 不 ふ 以盜跖之行 ぎょう ,為 ため 輕 けい 百 ひゃく 鎰之重也 しげや 。搏必隨 ずい 手 しゅ 刑 けい ,則 のり 盜 ぬすめ 跖不 ふ 搏百 ひゃく 鎰;而罰不 ふ 必行也,則 のり 庸 いさお 人 じん 不 ふ 釋 しゃく 尋常 じんじょう 。是 ぜ 故 こ 城 しろ 高 だか 五 ご 丈 たけ ,而樓季 き 不 ふ 輕 けい 犯 はん 也;泰山 たいざん 之 の 高 こう 百 ひゃく 仞,而跛牧 まき 其上。夫 おっと 樓 ろう 季 き 也而難 なん 五 ご 丈 たけ 之 の 限 かぎり ,豈 あに 跛 ちんば 也而易 えき 百 ひゃく 仞之高 だか 哉?峭塹之 の 勢 いきおい 異 い 也。明主 めいしゅ 聖王 せいおう 之 の 所以 ゆえん 能久 よしひさ 處 しょ 尊 みこと 位 い ,長 ちょう 執 と 重 じゅう 勢 いきおい ,而獨擅天下之 したの 利者 きけもの ,非 ひ 有 ゆう 異 い 道也 みちや ,能 のう 獨斷 どくだん 而審督 とく 責 せめ ,必深罰 ばつ ,故 こ 天下 てんか 不 ふ 敢犯也。今 こん 不 ふ 務 つとむ 所以 ゆえん 不犯 ふぼん ,而事慈母 じぼ 之 の 所以 ゆえん 敗 はい 子 こ 也,則 のり 亦 また 不 ふ 察於聖人 せいじん 之 これ 論 ろん 矣。夫 おっと 不能 ふのう 行 ぎょう 聖人 せいじん 之 の 術 じゅつ ,則 のり 舍 しゃ 為 ため 天下 でんか 役 やく 何事 なにごと 哉?可 か 不 ふ 哀 あい 邪 よこしま !
且夫儉節仁義 じんぎ 之 の 人 ひと 立 りつ 於朝,則 のり 荒 あら 肆之樂 らく 輟矣;諫說論理 ろんり 之 の 臣 しん 間 あいだ 於側,則 のり 流 りゅう 漫之志 こころざし 詘矣;烈士 れっし 死 し 節 ぶし 之 これ 行 ぎょう 顯 あらわ 於世,則 のり 淫 いん 康之 やすゆき 虞 おそれ 廢 はい 矣。故 こ 明主 めいしゅ 能 のう 外 がい 此三者 しゃ ,而獨操 みさお 主 ぬし 術 じゅつ 以制聽從 ちょうじゅう 之 の 臣 しん ,而修其明法 ほう ,故 こ 身 み 尊 みこと 而勢重也 しげや 。凡賢主 けんしゅ 者 しゃ ,必將能 のう 拂 はらい 世 よ 磨 すり 俗 ぞく ,而廢其所惡 あく ,立 たて 其所欲 よく ,故 こ 生 なま 則 のり 有 ゆう 尊重 そんちょう 之 の 勢 いきおい ,死 し 則 そく 有 ゆう 賢明 けんめい 之 の 諡 おくりな 也。是 ぜ 以明君 くん 獨斷 どくだん ,故 こ 權 けん 不在 ふざい 臣 しん 也。然 しか 後 こう 能 のう 滅 めつ 仁義 じんぎ 之 の 塗 ぬり ,掩馳說 せつ 之 の 口 くち ,困 こま 烈士 れっし 之 これ 行 ぎょう ,塞 ふさが 聰 さと 掩明,內獨視聽 しちょう ,故 こ 外 そと 不可 ふか 傾 かたぶけ 以仁義烈 ぎれつ 士 し 之 これ 行 ぎょう ,而內不可 ふか 奪 だつ 以諫說 せつ 忿爭之 の 辯 べん 。故 こ 能 のう 犖然獨行 どっこう 恣 ほしいまま 睢之心 こころ 而莫之 の 敢逆。若 わか 此然後 ご 可 か 謂 いい 能 のう 明 あかり 申 さる 、韓 かん 之 の 術 じゅつ ,而修商 しょう 君 くん 之 の 法 ほう 。法 ほう 修 おさむ 術 じゅつ 明 あきら 而天下 か 亂 らん 者 しゃ ,未 み 之 これ 聞也。故 こ 曰「王道 おうどう 約 やく 而易操 みさお 」也。唯 ただ 明主 めいしゅ 為 ため 能行 よしゆき 之 これ 。若 わか 此則謂 いい 督 とく 責 せめ 之 の 誠 まこと ,則 のり 臣 しん 無 む 邪 よこしま ,臣 しん 無 む 邪 よこしま 則 そく 天下 てんか 安 やす ,天下 てんか 安則 やすのり 主 しゅ 嚴 いむ 尊 たかし ,主 しゅ 嚴 いむ 尊 たかし 則 のり 督 とく 責 せめ 必,督 とく 責 せめ 必則所 しょ 求 もとめ 得 え ,所 ところ 求 もとむ 得 とく 則 そく 國家 こっか 富 とみ ,國家 こっか 富 とみ 則 そく 君 くん 樂 らく 豐 ゆたか 。故 こ 督 とく 責 せめ 之 の 術 じゅつ 設 しつらえ ,則 のり 所 しょ 欲 ほし 無 む 不 ふ 得 とく 矣。群臣 ぐんしん 百姓救過不給,何 なん 變 へん 之 の 敢圖?若 わか 此則帝 みかど 道 どう 備,而可謂 いい 能 のう 明君 めいくん 臣 しん 之 の 術 じゅつ 矣。雖申、韓 かん 復 ふく 生 せい ,不能 ふのう 加 か 也。
這封答 こたえ 書 しょ 上奏 じょうそう 之 これ 後 ご ,秦 はた 二世看了非常高興。於是實行 じっこう 督 とく 責 せめ 愈 いよいよ 加 か 嚴 げん 厲,向 こう 百姓收稅越多越是賢明的官吏。秦 しん 二 に 世 せい 說 せつ :「像 ぞう 這樣才 ざい 可 か 稱 しょう 得 どく 上 じょう 善 ぜん 於督責 せめ 了 りょう 。」路上 ろじょう 的 てき 行人 こうじん ,有 ゆう 一半 いっぱん 是 ぜ 犯人 はんにん ,在 ざい 街 まち 市上 しじょう 每 ごと 天 てん 都 と 堆積 たいせき 着 ぎ 剛 つよし 殺 ころせ 死 し 的 てき 人的 じんてき 屍體 したい ,而且殺人 さつじん 越 えつ 多 た 的 てき 越 こし 是 ただし 忠臣 ちゅうしん 。秦 しん 二 に 世 せい 說 せつ :「像 ぞう 這樣才 ざい 可 か 稱 しょう 的 てき 上 じょう 實行 じっこう 督 とく 責 せめ 了 りょう 。」
起 おこり 初 はつ ,趙 ちょう 高 だか 的 てき 濫殺無辜 むこ 造成 ぞうせい 與 あずか 很多人 じん 結 ゆい 怨,他 た 害 がい 怕有人 じん 在 ざい 秦 しん 二世面前揭露他的罪行,於是以「天子 てんし 之 の 所以 ゆえん 尊 みこと 貴 とうと ,在 ざい 於大 おだい 臣 しん 只 ただ 能 のう 聽到他 た 的 てき 聲音 こわね ,而不能見 のみ 到 いた 他 た 的 てき 面容 めんよう ,所以 ゆえん 才 ざい 自稱 じしょう 為 ため 『朕 ちん 』」、「陛下 へいか 還 かえ 很年輕 けい ,未必 みひつ 什麼 いんも 事情 じじょう 都 と 懂」為 ため 由 よし 勸 すすむ 秦 しん 二 に 世 せい 不要 ふよう 上 じょう 朝 あさ ,以免將 はた 自己 じこ 的 てき 缺點 けってん 暴露 ばくろ 給 きゅう 大臣 だいじん ,使 つかい 皇帝 こうてい 顯 あらわ 得 え 不 ふ 夠聖明 あかり 。他 た 還 かえ 勸 すすむ 秦 しん 二 に 世 せい 深居 ふかい 宮中 きゅうちゅう ,與 あずか 他 た 和 わ 熟 じゅく 悉法律 ほうりつ 的 てき 侍 さむらい 中 ちゅう 們在一 いち 起 おこり ,等 とう 到 いた 公文 こうぶん 呈上 ていじょう 由 よし 他 た 們批奏 そう 決定 けってい ,這樣皇帝 こうてい 可 か 以縱情 じょう 享樂 きょうらく ,大臣 だいじん 們也不 ふ 敢把疑 うたぐ 難 がた 的 てき 事情 じじょう 呈 てい 報 ほう ,天下 てんか 的 てき 人 じん 就能稱 しょう 皇帝 こうてい 為 ため 聖 ひじり 明 あきら 之 の 主 しゅ 了 りょう 。秦 しん 二世正耽於聲色犬馬,懶 ものぐさ 於處理 しょり 政事 せいじ ,於是不 ふ 再 さい 上 うえ 朝 あさ ,趙 ちょう 高 こう 獨 どく 攬朝政 ちょうせい 。
趙 ちょう 高 だか 獨 どく 攬朝政 ちょうせい 的 てき 行為 こうい 招致 しょうち 了 りょう 李 り 斯等大臣 だいじん 的 てき 不滿 ふまん ,趙 ちょう 高 こう 得知 とくち 後 ご 懷 ふところ 恨在心 しん ,假 かり 意 い 對 たい 李 り 斯說:「現在 げんざい 函 はこ 谷 たに 關 せき 以東 いとう 的 てき 盜賊 とうぞく 很多,而陛下 か 卻加緊遣發 はつ 勞役 ろうえき 修 おさむ 建 けん 阿房宮 あぼうきゅう ,搜 さがせ 集 しゅう 狗 いぬ 馬 ば 等 とう 沒 ぼつ 用 よう 的 てき 玩物,我 わが 想 そう 勸 すすむ 諫但因 いん 為 ため 我 が 的 てき 地位 ちい 卑賤,可 か 是 ぜ 您貴為 ため 丞相 じょうしょう 為 ため 何 なん 不 ふ 勸 すすむ 諫呢?」李 り 斯老早 さ 就想勸 すすむ 諫秦二 に 世 せい ,但 ただし 無 む 奈秦二世常居深宮之中,想 そう 勸 すすむ 諫苦於無人 じん 傳達 でんたつ ,沒 ぼつ 有 ゆう 面 めん 見 み 聖上 せいじょう 的 てき 機會 きかい 。趙 ちょう 高 だか 便 びん 在 ざい 李 り 斯面前 ぜん 推薦 すいせん 自己 じこ ,說 せつ 等 とう 皇帝 こうてい 一有空閒就立即通知他,可 か 以趁機 き 勸 すすむ 諫。趙 ちょう 高 だか 屢次趁秦二世在與美女玩樂的時候,派 は 人 じん 轉 うたて 告 つげ 李 り 斯說陛下 へいか 正 ただし 好 こう 有 ゆう 空閒 くうかん ,可 か 以進宮 みや 奏 そう 事 ごと 。李 り 斯於是 ぜ 就到宮門 きゅうもん 外 がい 求 もとめ 見 み ,搞得秦 しん 二 に 世 せい 大 だい 為 ため 掃興,趙 ちょう 高 だか 趁機向 こう 秦 しん 二世進讒言說李斯在朝廷外權利比皇帝還大,他 た 參與 さんよ 了 りょう 沙 すな 丘 おか 密謀 みつぼう 卻因為 ため 地位 ちい 待遇 たいぐう 沒 ぼつ 有 ゆう 得 え 到 いた 提 ひさげ 高 だか 而心生 せい 不滿 ふまん ,他 た 真正 しんせい 的 てき 願望 がんぼう 是 ぜ 想 そう 裂 きれ 土 ど 封 ふう 王 おう 。趙 ちょう 高 だか 又 また 誣陷擔任 たんにん 三川郡郡守的李斯的長子李由與楚地的陳 ちん 勝 まさる 等 とう 人 ひと 有 ゆう 舊交 きゅうこう ,當 とう 盜賊 とうぞく 經過 けいか 三川 さんかわ 郡 ぐん 時 じ ,李 り 由 ゆかり 只 ただ 是 ぜ 守 もり 城 じょう 而不出擊 しゅつげき ,又 また 說 せつ 他 た 們之間 あいだ 有 ゆう 書信 しょしん 往來 おうらい 。秦 しん 二世於是派人調查李由與關東起義軍勾結的情況。
李 り 斯得知 ち 秦 しん 二世派人調查自己的消息後急忙上書彈劾趙高,指出 さしで 趙 ちょう 高 だか 就是篡國弒君的 てき 子 こ 罕和 わ 田 た 常 つね ,秦 はた 二世看到奏書後不以為然,並 なみ 將 しょう 調 ちょう 查李斯的任務 にんむ 交予趙 ちょう 高 だか 。趙 ちょう 高 だか 將 はた 李 り 斯投入 とうにゅう 大牢 たいろう ,並 なみ 將 はた 其親屬 ぞく 賓客 ひんきゃく 全部 ぜんぶ 逮捕 たいほ ,又 また 派 は 人 じん 拷打李 り 斯近千 せん 下 か ,李 り 斯不堪 ふかん 酷刑 こっけい 被 ひ 迫 せり 招供。但 ただし 李 り 斯沒有 ゆう 自殺 じさつ ,他 た 還 かえ 想 そう 要 よう 通過 つうか 上書 うわがき 打 だ 動 どう 秦 しん 二 に 世 せい 。李 り 斯在獄中 ごくちゅう 上書 うわがき 說 せつ :
可 か 道 みち 其罪,足 そく 以死歟?臣 しん 為 ため 秦 しん 相 しょう 卅餘歲 とし 矣,逮秦之 の 陝而王 おう 之 の 約 やく 。始 はじめ 時 じ ,秦 はた 地方 ちほう 不 ふ 過 か 敷 じき 白 しろ 里 さと ,兵 へい 不 ふ 過 か 數 すう 萬 まん 人 にん 。臣 しん 謹悉意 い 壹 いち 智 さとし ,陰 かげ 行 ぎょう 謀 はかりごと 臣 しん ,齎之金玉 きんぎょく ,使 つかい 遊 ゆう 諸侯 しょこう 。而陰脩 おさむ 甲 かぶと 兵 へい ,兵 へい 飭鬥士 し ,尊 みこと 大臣 だいじん ,盈 みつる 其爵祿 しゃくろく 。故 こ 終 おわり 以脅韓 かん 而弱魏 ぎ ,又 また 破 やぶ 趙 ちょう 而夷燕 つばめ 代 だい ,平 たいら 齊 ひとし 楚 すわえ ,破 やぶ 屠 ほふ 其民,盡 つき 滅 めつ 其國而虜其王,立 たて 秦 しん 為 ため 天子 てんし 者 しゃ ,吾 われ 罪 ざい 一 いち 矣。地 ち 非 ひ 不足 ふそく 也,北 きた 馳 はせ 胡 えびす 幕 まく ,南 みなみ 入定 にゅうじょう 巴 ともえ 蜀 しょく ,入 にゅう 南海 なんかい ,擊 げき 大越 おおごえ ,非 ひ 欲 よく 有 ゆう 其王,以見秦 しん 之 の 彊 つよし 者 しゃ ,吾 われ 罪 ざい 二 に 矣。尊 みこと 大臣 だいじん ,盈 みつる 其爵祿 しゃくろく ,以固其身者 しゃ ,吾 われ 罪 ざい 三 さん 矣。更 さら 刻 こく 晝 ひる 斗 と 桶 おけ ,度量 どりょう 壹 いち ,文章 ぶんしょう 布 ぬの 之 の 天下 てんか ,以樹秦 しん 之 の 名 な 者 しゃ ,吾 われ 罪 ざい 四 よん 矣。立 たて 社稷 しゃしょく ,脩 おさむ 宗廟 そうびょう ,以明主 ぬし 之 の 賢者 けんじゃ ,吾 われ 罪 ざい 五 ご 矣。治 ち 馳 はせ 道 どう ,興 きょう 遊 ゆう 觀 かん ,以見王 おう 之 の 得 え 志 こころざし 者 しゃ ,吾 われ 罪 ざい 六 ろく 矣。緩 なる 刑罰 けいばつ 而薄賦 ふ 斂,以見主 ぬし 之 の 德 とく ,眾其惠 めぐみ ,故 こ 萬民 ばんみん 戴主,至 いたり 死 し 不 ふ 忘者,吾 われ 罪 ざい 七 なな 矣。若 わか 斯之爲 ため 人臣 じんしん 者 しゃ ,罪 つみ 足 あし 以死久 ひさ 矣。上 うえ 幸 みゆき 而盡其能力 りょく ,以至於今。願 ねがい 上 じょう 察視之 の !
李 り 斯的奏 そう 書 しょ 呈上 ていじょう 之 これ 後 ご ,趙 ちょう 高 こう 讓 ゆずる 獄吏 ごくり 丟在一 いち 邊 へん 不 ふ 上 うえ 報 むくい ,恨恨地 ち 說 せつ :「囚 しゅう 犯 はん 怎能給 きゅう 皇帝 こうてい 上書 うわがき ?」趙 ちょう 高 だか 又 また 派 は 他 た 的 てき 門 もん 客 きゃく 十多人假扮成秦二世委派的御史、謁者 和 かず 侍 さむらい 中 ちゅう ,輪 わ 流 りゅう 覆審 ふくしん 李 り 斯。當 とう 李 り 斯想翻 こぼし 供 きょう 時 じ ,趙 ちょう 高 だか 就讓人 じん 嚴刑 げんけい 拷打。後來 こうらい 秦 しん 二世果然派人去驗證李斯的口供,李 り 斯還以為是 ぜ 趙 ちょう 高 だか 的 てき 陰謀 いんぼう ,不 ふ 敢再翻 こぼし 供 きょう ,在 ざい 供 きょう 詞 し 上 じょう 承認 しょうにん 了 りょう 自己 じこ 的 てき 罪狀 ざいじょう 。趙 ちょう 高 だか 將 はた 判決 はんけつ 書 しょ 呈 てい 給 きゅう 秦 しん 二 に 世 せい ,秦 はた 二世很高興地說:「沒 ぼつ 有 ゆう 趙 ちょう 君 くん ,我 わが 幾 いく 乎被丞相 じょうしょう 出 で 賣 うり 了 りょう 。」等 ひとし 到 いた 秦 しん 二 に 世 せい 所 しょ 派 は 使者 ししゃ 到達 とうたつ 三川 さんかわ 郡 ぐん 調 しらべ 查李斯的長子 ちょうし 李 り 由 ゆかり 時 とき ,他 た 已 やめ 經 けい 被 ひ 項羽 こうう 殺 ころせ 死 し 。當 とう 使者 ししゃ 返 かえし 回 かい 時 じ ,趙 ちょう 高 だか 就捏造 ねつぞう 了 りょう 一整套李由謀反的罪狀。
前 ぜん 208年 ねん 7月 がつ ,李 り 斯被判 ばん 處 しょ 受五 ご 刑 けい ,在 ざい 雲 くも 陽 ひ 街 がい 市 し 腰 こし 斬 き 。李 り 斯臨死 し 前回 ぜんかい 頭 あたま 對 たい 排 はい 行 ぎょう 中間 ちゅうかん 的 てき 兒 じ 子 こ 說 せつ :「我 わが 想 そう 和 わ 你再牽着黃 き 狗 いぬ 一同出上蔡東門去打獵追逐狡兔,這又怎麼能 のう 辦得到 いた 呢?」然 しか 後 ご 與 あずか 其子抱 だき 頭 あたま 大 だい 哭,李 り 斯父子 ふし 隨 ずい 後 ご 被 ひ 殺 ころせ ,同時 どうじ 被 ひ 誅滅 ちゅうめつ 三 さん 族 ぞく 。民間 みんかん 流傳 りゅうでん 李 り 斯死前 ぜん 後悔 こうかい 說 せつ ,「吾 われ 昔 むかし 與 あずか 韓 かん 非 ひ 同 どう 游 ゆう 荀卿門下 もんか ,而殺韓 かん 非 ひ ,今 こん 若 わか 此,豈 あに 非 ひ 天 てん 乎!」
《泰山 たいざん 刻 こく 石 せき 》、《瑯邪臺 だい 刻 こく 石 せき 》、《嶧山刻 こく 石 せき 》、《會 かい 稽刻石 せき 》等 とう 。
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在 ざい 維基文庫 ぶんこ 閱讀此作者 しゃ 作品 さくひん ( 在 ざい 維基共 ども 享 とおる 資源 しげん 閱覽影像 えいぞう )
《史記 しき /卷 まき 087 》,出自 しゅつじ 司馬 しば 遷 《史記 しき 》
《史記 しき ·李 り 斯列傳 でん 》
Chén Zhāoróng (陳 ちん 昭 あきら 容 よう 2003)秦 はた 系 けい 文字 もじ 研究 けんきゅう ﹕從 したがえ 漢字 かんじ 史 し 的 てき 角度 かくど 考察 こうさつ Research on the Qín (Ch'in) Lineage of Writing: An Examination from the Perspective of the History of Chinese Writing.中央 ちゅうおう 研究 けんきゅう 院 いん 歷史 れきし 語 ご 言 げん 研究所 けんきゅうじょ 專 せん 刊 かん Academia Sinica, Institute of History and Philology Monograph. ISBN 957-671-995-X .
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