斎藤 茂吉
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ジャンル |
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アララギ | |
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概要 [編集 ]
1882
創作 活動 [編集 ]
年譜 [編集 ]
- 1882
年 (明治 15年 ):5月14日 、山形 県 南 村山 郡 金瓶 村 (現 :上山 市 金瓶 )に出生 (戸籍 上 は届出 遅 れにより7月 27日 ) - 1896
年 (明治 29年 ):上山 尋常 高等 小学校 高等 科 卒業 。恩師 佐原 窿応の紹介 と東京 浅草 で開業 していた親戚 の医師 斎藤 紀一 の勧 めで医者 を志 す。8月父 に連 れられ上京 し斎藤 方 に寄寓 。9月東京 府 開成 中学校 (現 :開成 中学校 ・高等 学校 )に編入 - 1898
年 (明治 31年 ):同級生 に刺激 され、このころから歌 を詠 むようになる。幸田 露伴 、森 鷗外などを愛読 。特 に露伴 の影響 は大 きかった。 - 1901
年 (明治 34年 ):3月 開成 中学校 を卒業 。7月 第一高等学校 を受験 して失敗 、開成 中学校 補習 科 、正則 中学校 (現 :正則 学園 高等 学校 )に通 う。 - 1902
年 (明治 35年 ):第一高等学校 (現 :東京大学 教養 学部 )第 三 部 入学 - 1905
年 (明治 38年 ):正岡子規 遺稿 第 一 篇 『竹 の里 歌 』を読 み、歌 の師 を見出 す。第一高等学校 卒業 。東京 帝国 大学 医科 大学 に入学 。 - 1906
年 (明治 39年 ):伊藤 左千夫 の門下 となる - 1907
年 (明治 40年 ):古泉 千樫 と相識 る - 1908
年 (明治 41年 ):子規 派 の雑誌 「馬酔木 」廃刊 、かわって創刊 された「アララギ」に短歌 を発表 するようになる。同人 の中村 憲吉 、土屋 文明 と相識 る - 1909
年 (明治 42年 ):森 鴎外 の観 潮 楼 歌会 に初 めて出席 、与謝野 鉄幹 、北原 白秋 、石川 啄木 、上田 敏 、佐佐木 信綱 などの歌人 を知 る。チフスに罹 り卒業 を一 年 延期 。 - 1910
年 (明治 43年 ):東京 帝国 大学 医科 大学 (現 :東大 医学部 )医学 科 卒業 - 1911
年 (明治 44年 ):東大 医科 大学 副手 となり、精神病 学 を学 ぶかたわら付属 病院 に勤務 。7月より東京 府 巣鴨 病院 勤務 。授業 と診療 の生活 が始 まる。(死 に近 き狂人 を守 るはかなさに己 が身 すらを愛 (は)しとなげけり)この年 から大正 3年 まで「アララギ」の編集 を担当 。島木 赤彦 を知 る - 1912
年 (明治 45年 /大正 元年 ):学会 で「麻痺 性 痴呆 とワッセルマン反応 」の研究 報告 。東大 医科 大学 助手 となる - 1913
年 (大正 2年 ):4月 、連作 「おひろ」を「アララギ」に発表 。5月、生母 いく死去 。連作 「死 にたまふ母 」を発表 。7月、師 ・伊藤 左千夫 死去 。(ひた走 るわが道 暗 ししんしんと怺 へかねたるわが道 暗 し)10月 処女 歌集 「赤 光 」刊行 。歌壇 のみならず文壇 内外 に大 きな反響 を巻 き起 こす。 - 1914
年 (大正 3年 ):4月 、斎藤 紀一 の長女 、13歳 年下 の齋藤 輝子 (19歳 )と結婚 、斎藤 家 の婿養子 となる - 1917
年 (大正 6年 ):1月 、医科 大学 助手 、付属 病院 、巣鴨 病院 をすべて辞職 。官立 長崎 医学 専門 学校 (現在 の長崎大学 医学部 )精神病 科 第 2代 教授 (先輩 で文学 を通 じて交流 のあった石田 昇 のあとをうけたもの) - 1919
年 (大正 8年 ):歌論 集 「童 馬 漫語 」刊行 。長崎 を訪 れた芥川 龍之介 、菊池 寛 と知 り合 う - 1920
年 (大正 9年 ):「短歌 における写生 の説 」を「アララギ」に連載 。6月喀血 し県立 長崎 病院 に入院 、7月 退院 の後 九州 各地 に転地 療養 。 - 1921
年 (大正 10年 ):第 二 歌集 「あらたま」刊行 。医学 論文 「緊張 患者 のえるごぐらむニ就キテ」を完成 。10月、精神病 学 研究 のため欧州 留学 に出発 。11月1日 神戸 を出航 、香港 、シンガポール、マラッカ、コロンボ、スエズから陸路 カイロ往復 、マルセイユ、パリを経 て12月20日 ベルリンに到着 。 - 1922
年 (大正 11年 ):ウィーン大学 神経 学 研究所 に入 る。(ドウナウの流 れの寒 さ一 めんに雪 を浮 べて流 るるそのおと)11月論文 「植物 中枢 神経 のホルモンによる昂奮 性 について」完成 。 - 1923
年 (大正 12年 ):学位 論文 「麻痺 性 痴呆 者 の脳 図 」完成 。(誰 ひとり此処 にゐざれば論文 の頁 を閉ぢて涙 ぐみたり)イタリア旅行 を経 て7月 、ミュンヘン大学 に転学 。エミール・クレペリンの臨床 講義 を聴 きに行 き握手 を求 めたが拒否 される[3]。実父 守谷 伝 衛門 死去 。11月、アドルフ・ヒトラーのミュンヘン一揆 に遭遇 する。(行進 の歌 ごゑきこゆHitlerの演説 すでに果 てたるころか) - 1924
年 (大正 13年 ):5月「家 兎 の大脳皮質 における壊死 、軟化 及組織 化 に就ての実験 的 研究 」を完成 。兎 の脳 を解剖 し組織 を顕微鏡 で観察 し写生 するという地味 で根気 のいる作業 の日々 だった。10月、医学 博士 の学位 を得 て帰国 の途 に就 く。12月、青山 脳 病院 全焼 の電報 を船上 で受 け取 る。(もの呆 けしごとくになりし吾 と妻 と食卓 に少 しの蕎麦 を食 ひたり) - 1925
年 (大正 14年 ):1月 、帰国 。病院 の焼 け跡 に帰 るとヨーロッパで買 い集 めて送 った膨大 な書物 もすべて焼失 していた。(とどろきてすさまじき火 をものがたるをさなごのかうべわれは撫 でたり)同 病院 の再建 に奔走 [5] - 1926
年 (大正 15年 ):3月、共 に「アララギ」の編集 に携 わった島木 赤彦 死去 。4月、現 ・世田谷 区 松原 に青山 脳 病院 復興 。5月、再 び「アララギ」の編集 発行 人 となる。 - 1927
年 (昭和 2年 ):4月 、養父 紀一 が引退 し、青山 脳 病院 院長 の職 を継 ぐ[5]。5月、次男 宗吉 (北 杜夫 )誕生 。7月 芥川 龍之介 が茂吉 にもらっていた睡眠薬 を飲 み自殺 。大 きな衝撃 を受 ける。 - 1928
年 (昭和 3年 ):11月、養父 紀一 死去 、家督 は紀一 の実子 西洋 が相続 [6]。以後 病院 経営 はすべて茂吉 が負 うこととなった。(おしなべてつひに貧 しく生 きたりしものぐるひ等 はここに起臥 す) - 1929
年 (昭和 4年 ):11月、朝日新聞 社 機 コメット102号機 で東京 、箱根 等 の上空 を約 2時 間 飛翔 。(電信 隊 浄水 池 女子 大学 刑務所 射撃 場 塹壕 赤 羽 の鉄橋 隅田川 品川 湾 ) - 1930
年 (昭和 5年 ):10月、満 鉄 の招 きで満州 、北 支 方面 を2ヶ月 旅行 。 - 1931
年 (昭和 6年 ):「正岡 子規 」「明治 大正 和歌 史 」執筆 。 - 1932
年 (昭和 7年 ):「源実朝 」「近世 歌人 評伝 」執筆 。8月、次兄 富太郎 を訪 ね、北海道 旅行 。 - 1933
年 (昭和 8年 ):「柿本人麿 研究 」の執筆 開始 。以後 詳細 な評釈 に心血 を注 ぐのみならず実地 踏査 のため山陰 、四国 、大和 などをしばしば訪 れ、最終 的 に3000枚 の大作 となった。 - 1935
年 (昭和 10年 ):「アララギ」に「童 馬山 房 夜話 」の連載 開始 。以後 10年 近 くほぼ毎号 休 まず執筆 する。 - 1937
年 (昭和 12年 ):帝国 芸術 院 会員 となる。日 中 戦争 勃発 以後 数 多 くの愛国 歌 を詠 むようになる。(直心 (ただごころ)こぞれる今 かいかづちの炎 と燃 えて打 ちてしやまむ) - 1938
年 (昭和 13年 ):「万葉 秀歌 」刊行 。文部省 の委嘱 により国民 歌 「国土 」を作 る。 - 1940
年 (昭和 15年 ):3月、歌集 「寒 雲 」刊行 。5月、『柿本人麿 』の業績 により帝国 学士 院 賞 受賞 。6月、1935,6年 (昭和 10,11年 )の歌 を集 めた歌集 「暁光 」を刊行 。 - 1942
年 (昭和 17年 ):2月 、1934,5年 (昭和 9,10年 )の歌 を収 めた歌集 「白桃 」を刊行 。「作歌 四 十 年 」執筆 。「伊藤 左千夫 」刊行 。 - 1943
年 (昭和 18年 ):歌集 「のぼり路 」刊行 。 - 1945
年 (昭和 20年 ):太平洋戦争 の悪化 による人員 や資材 不足 で経営 困難 となり病院 を東京 都 に移譲 し(後 の東京 都立 梅 ヶ丘 病院 )院長 職 を辞職 。4月、郷里 である山形 県 南 村山 郡 堀田 村 金瓶 (かなかめ)に疎開 [5]。5月、青山 脳 病院 および東京 の自宅 が、アメリカ軍 による東京 大 空襲 により全焼 。(のがれ来 し吾 を思 はばうしろぐらし心 は痛 し子 等 しほゆ) - 1946
年 (昭和 21年 ):2月 、山形 県 北村山 郡 大石田 町 に移 る[5]。(最上川 の上空 にして残 れるはいまだうつくしき虹 の断片 )8月 、歌集 「つゆじも」刊行 。1947年 (昭和 22年 )度 以降 1951年 (26年度 )迄 歌会 始 選者 。 - 1947
年 (昭和 22年 ):8月 、ウィーン留学 中 の歌 を収 めた「遠 遊 」を刊行 。11月、大石田 を引 き上 げ、東京 の世田谷 区 代田 に移 る[5] - 1948
年 (昭和 23年 ):朝日新聞 歌壇 選者 。ミュンヘン滞在 中 の歌 を収 めた「遍歴 」を刊行 。青山 脳 病院 院長 を引退 。 - 1949
年 (昭和 24年 ):金瓶 疎開 中 の歌 を収 めた「小園 」を刊行 。日本 芸術 会員 となる。8月、大石田 時代 の歌 を収 めた「白 き山 」を刊行 。 - 1950
年 (昭和 25年 ):1月 、歌集 「ともしび」(帰朝 後 から昭和 4年 までの歌 )刊行 。これにより第 1回 読売 文学 賞 詩歌 賞 受賞 。6月、1929・1930年 (昭和 4,5年 )の歌 を収 めた「たかはら」刊行 。11月、1930年 (昭和 5年 )の満州 旅行 の歌 を収 めた「連山 」を刊行 。同年 、新宿 区 大京 町 の新居 に移 る[5] - 1951
年 (昭和 26年 ):6月 、1932年 (昭和 7年 )の北海道 旅行 の歌 を収 めた「石泉 」刊行 。11月、文化 勲章 受章 。12月、1941,2年 (昭和 16,17年 )の歌 を収 めた「霜 」刊行 。 - 1952
年 (昭和 27年 ):「斎藤 茂吉 全集 」(岩波書店 )配本 開始 。全 56巻 は1957年 (昭和 32年 )に完結 。このころから痴呆 が進 み創作 活動 がとみに衰退 - 1953
年 (昭和 28年 ):2月 25日 、心臓 喘息 のため新宿 区 大京 町 の自宅 で死去 。同 26日 、東京大学 の病理 学 教室 において三宅 仁 教授 執刀 の下 、解剖 に付 せられる。 - 1953
年 (昭和 28年 ):3月2日 築地 本願寺 にて葬儀 および告別 式 。戒名 は自 ら作 っておいた「赤 光 院 仁 誉 遊 阿 暁 寂 清 居士 」。墓地 は青山 霊園 のほか、上山 市 金瓶 の宝泉寺 、大石田 町 の乗 舩寺にある。
私生活 [編集 ]
1914
しかしながら、
1933
この
性格 [編集 ]
- かなりの
食 いしん坊 であった。鰻 が大 好物 で、戦時 中 戦後 の物 不足 の時期 にも事前 に購入 して蓄 えていた鰻 の缶詰 を食 べていた[12]。味噌汁 の具 にも口 うるさく注文 し、家人 からネギもあるので入 れるかと聞 かれた時 は「うーむ。」としばらく熟考 するほど拘 った。終戦 直後 、疎開 先 で講演 を頼 まれお礼 に鰻 をご馳走 すると聞 いて、元来 講演 嫌 いなのに快諾 し、予定 時間 を超過 して話 し続 けた。 非常 な癇癪 持 ちであったが、患者 の前 では温厚 に振舞 っていた。その反動 で家族 には怒 りを露 わにすることも多 かった[13]。茂吉 が風邪 で寝 ていた時 、是非 ともお目 にかかりたいという来客 の希望 に激怒 し、病床 から起 き上 がって客 のもとに来 て「俺 が本当 に風邪 で寝 ているのがわからんのか。」と怒鳴 りつけた。あまりの剣幕 に客 が驚 いて帰 ったが、翌日 、その客 の土産 のカステラを食 べた茂吉 は「あんまり叱 るんじゃなかったな。」と反省 したという。癇癪 をおさえるためによく神田 の古書 店 に行 き、好 きな本 を物色 することで気 を紛 らわせた。だが、包装 のパラフィン紙 が上手 くケースに収 まらず再 び癇癪 を起 こして紙 を丸 めて捨 てたこともあった。根 に持 つタイプで、「病 雁 論争 」では自身 の作品 をこき下 ろした太田 水穂 に対 し「水穂 征伐 」なる反論 を書 き「僕 にかりそめにも刃向 かうごとき者 がゐたなら必 ず死 ぬ。水穂 もそろそろ要心 せよ。」「そんな低級 魯鈍 者 流 ではもはや僕 の論敵 にはなれぬ。」などと云 ったかなりどぎつい表現 を用 いて相手 に挑 んだことがあった。入院 患者 に頬 を平手打 ちされたとき、どのようにして仕返 ししてやろうか一人 妄想 にふけっていたと随筆 「瞬間 」に記 している。留学 時代 ミュンヘンでエミール・クレペリンに握手 を求 めて拒絶 されたことを晩年 まで恨 みに思 い、「毛唐 め!」と悪口 を言 い続 けていた。粘着 性 気質 で、ウイーン滞在 中 、偶然 にキスする男女 を見 つけ、あまりの長 さに「長 いなあ。実 に長 いなあ。」と独 り言 を言 いながら物陰 から一時 間近 くも覗 いていた。子供 のころ質素 倹約 を旨 とした農村 社会 の生活 をしていたので、物 を大事 にする傾向 が強 かった。妻 との旅行 中 、ドイツの山間 の駅 で絵葉書 を物色 中 に、汽車 が妻 を乗 せたまま出発 、慌 てた茂吉 は猛 スピードで追 いかけ辛 うじて飛 び乗 った。この時 もきちんと金 を払 って絵葉書 を買 ってから汽車 を追 いかけたという。
逸話 [編集 ]
代表 歌 [編集 ]
- 「
赤 光 」- はるばると
母 は戦 を思 ひたまふ桑 の木 の実 の熟 める畑 に(1905年 (明治 38年 )) 蚕 の部屋 に放 ちし蛍 あかねさす昼 なりしかば首 すぢあかし(1906年 (明治 39年 ))月 落 ちてさ夜 ほの暗 く未 だかも弥勒 は出 でず虫 鳴 けるかも(1907年 (明治 40年 ))高 ひかる日 の母 を恋 ひ地 の廻 り廻 り極 まりて天 新 たなり(1908年 (明治 41年 ))萱 ざうの小 さき萌 を見 てをれば胸 のあたりがうれしくなりぬ(1909年 (明治 42年 ))墓 はらのとほき森 よりほろほろと上 るけむりに行 かむとおもふ(1910年 (明治 43年 ))生 きてゐる汝 がすがたのありありと何 に今頃 見 えきたるかや(1911年 (明治 44年 ))- けだものは
食 もの恋 ひて啼 き居 たり何 といふやさしさぞこれは(1912年 (大正 元年 )) 啼 くこゑは悲 しけれども夕 鳥 は木 に眠 るなりわれは寝 なくに(1913年 (大正 2年 ))- みちのくの
母 のいのちを一目 見 ん一目 みんとぞただにいそげる 死 に近 き母 に添寢のしんしんと遠田 のかはづ天 に聞ゆる- のど
赤 き玄 鳥 (つばくらめ)ふたつ屋 梁 (はり)にゐて垂乳根 の母 は死 にたまふなり - どんよりと
空 は曇 りて居 りしとき二 たび空 を見 ざりけるかも - めんどりら
砂 浴 びゐたれひつそりと剃刀 研 人 (かみそりとぎ)は過 ぎ行 きにけり
- はるばると
- 「あらたま」
- あかあかと
一本 の道 とほりたりたまきはる我 が命 なりけり 夕 されば大根 の葉 に降 るしぐれいたく寂 しく降 りにけるかも(1914年 (大正 3年 ))朝 あけて船 より鳴 れる太 笛 のこだまは長 し並 みよろふ山 (1917年 (大正 6年 ))
- あかあかと
- 「つゆじも」
- あららぎのくれなゐの
実 を食 むときはちちはは恋 し信濃 路 にして
- あららぎのくれなゐの
- 「
遠 遊 」- Praterにひとり
来 たりて奇術 師 と蚤 戦争 と泣 く小 劇 と
- Praterにひとり
- 「
遍歴 」体 ぢゆうが空 (から)になりしごと楽 にして途中 靴墨 とマッチとを買 ふ
- 「ともしび」
家出 てわれは来 しとき渋谷 川 に卵 のからがながれ居 にけり
- 「たかはら」
- はかなごとわれは
思 へり今 までに食 ひたきものは大方 くひぬ(1929年 (昭和 4年 )) 電信 隊 浄水 池 女子 大学 刑務所 射撃 場 塹壕 赤 羽 の鉄橋 隅田川 品川 湾
- はかなごとわれは
- 「
連山 」機関 銃 の音 をはじめて聞 きたりし東北 兵 をわれは思 ほゆ(1930年 (昭和 5年 ))
- 「
石泉 」- おほつぴらに
軍服 を着 て侵入 し来 るものを何 と思 はねばならぬか(1932年 (昭和 7年 ))
- おほつぴらに
- 「
白桃 」新宿 のムーラン・ルージュのかたすみにゆふまぐれ居 て我 は泣 きけり(1934年 (昭和 9年 ))- ヒツトラのこゑ
聞 きしとき何 か悲 し前 行 したりし樂 も悲 しも 陸奥 をふたわけざまに聳 えたまふ蔵王 の山 の雲 の中 に立 つ
- 「
暁紅 」- ガレージへトラックひとつ
入 らむとす少 しためらひ入 りて行 きたり(1935年 (昭和 10年 ))
- ガレージへトラックひとつ
- 「
寒 雲 」歓喜天 の前 に行 きつつ唇 をのぞきなどしてしづかに帰 る(1937年 (昭和 12年 ))
- 「のぼり
路 」交尾 期 は大切 にしてもろもろの馬 ももろ人 も一心 となる(1939年 (昭和 14年 ))
- 「
霜 」肉体 に自浄 作用 のあることを吾 聞 きしより三 十 三 年 経 たり(1941年 (昭和 16年 ))楢 の花 垂 りて咲 けるが幽 かなる心 をわれに与 へてやまず(1942年 (昭和 17年 ))
- 「
小園 」- どしや
降 りの午後 になりつつものをいふことさへもなく木瓜 の実 煮 たり(1943年 (昭和 18年 )) 鈍痛 のごとき内在 を感 じたるけふの日頃 をいかに遣 らはむ(1944年 (昭和 19年 ))- この
雪 の中 にこもれる村 々にたたかひの世 のうづくがごとし(1945年 (昭和 20年 )) - このくにの
空 を飛 ぶとき悲 しめよ南 へむかふ雨夜 かりがね(1945年 (昭和 20年 )) 沈黙 のわれに見 よとぞ百 房 の黒 き葡萄 に雨 ふりそそぐ(今昔 秀歌 百 撰 78)
- どしや
- 「
白 き山 」水 すまし流 にむかひさかのぼる汝 がいきほひよ微 かなれども(1946年 (昭和 21年 ))最上川 逆 白波 のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも(1946年 (昭和 21年 ))勝 ちたりといふ放送 に興奮 し眠 られざりし吾 にあらずきや(1947年 (昭和 22年 ))
- 「つきかげ」
- たかむらの
中 ににほへる一 木 あり柿 なるやといへば「応 」とこそいへ(1948年 (昭和 23年 )) 時 としてベルリン郊外 のワン・ゼエにも心 の及 ぶ老人 (おいびと)われは(1949年 (昭和 24年 ))円柱 の下 ゆく僧侶 まだ若 くこれより先 きいろいろの事 があるらむ(1950年 (昭和 25年 ))- おぼろなるわれの
意識 を悲 しみぬあかつきがたの地震 (なゐ)ふるふころ(1951年 (昭和 26年 )) 梅 の花 うすくれなゐにひろがりしその中心 (なかど)にてもの栄 (は)ゆるらし(1952年 (昭和 27年 ))
- たかむらの
著書 [編集 ]
全集 [編集 ]
- 『
斎藤 茂吉 全集 』(全 56巻 )、岩波書店 、昭和 26-32年 - 『
斎藤 茂吉 全集 』(新版 ・全 36巻 )、岩波書店 、1973-76年
歌集 [編集 ]
歌集 名 制作 年 (発行 所 、上梓 年 )- 『
赤 光 』明治 38 -大正 2(東雲 堂 書店 、1913年 (大正 2年 )10月 ) - 『あらたま』
大正 2 - 6(春陽 堂 、1921年 (大正 10年 )1月 ) - 『
朝 の蛍 』?(改造 社 、1925年 (大正 14年 )4月 )自選 歌集 - 『つゆじも』
大正 6 - 11(岩波書店 、1946年 (昭和 21年 )8月 ) - 『
遠 遊 』大正 11 - 12(岩波書店 、1947年 (昭和 22年 )8月 ) - 『
遍歴 』大正 12 - 14(岩波書店 、1948年 (昭和 23年 )4月 ) - 『ともしび』
大正 14 -昭和 3(岩波書店 、1950年 (昭和 25年 )1月 ) - 『たかはら』
昭和 4 - 5(岩波書店 、1950年 (昭和 25年 )6月 ) - 『
連山 』昭和 5(岩波書店 、1950年 (昭和 25年 )11月 ) - 『
石泉 』昭和 6 - 7(岩波書店 、1951年 (昭和 26年 )6月 ) - 『
白桃 』昭和 8 - 9(岩波書店 、1942年 (昭和 17年 )2月 ) - 『
暁紅 』昭和 10 - 11(岩波書店 、1940年 (昭和 15年 )6月 ) - 『
寒 雲 』昭和 12 - 14(古今 書院 、1940年 (昭和 15年 )3月 ) - 『のぼり
路 』昭和 14 - 15(岩波書店 、1943年 (昭和 18年 )11月 ) - 『
霜 』昭和 16 - 17(岩波書店 、1951年 (昭和 26年 )12月 ) - 『
小園 』昭和 18 - 21(岩波書店 、1949年 (昭和 24年 )4月 ) - 『
白 き山 』昭和 21 - 22(岩波書店 、1949年 (昭和 24年 )8月 ) - 『つきかげ』
昭和 23 - 27(岩波書店 、1954年 (昭和 29年 )2月 )遺作
歌論 ・随筆 [編集 ]
- 『
短歌 私 鈔』(白日 社 、1916年 (大正 5年 )4月 ) - 『
続 短歌 私 鈔』(岩波書店 、1917年 (大正 6年 )4月 ) - 『
童 馬 漫語 』(春陽 堂 、1919年 (大正 8年 )8月 ) - 『
金塊 集 私 抄 』(春陽 堂 、1926年 (大正 15年 )4月 ) - 『
短歌 写生 の説 』(鉄塔 書院 、1929年 (昭和 4年 )4月 ) - 『
念珠 集 』(鉄塔 書院 、1930年 (昭和 5年 )8月 ) - 『
新選 秀歌 百 首 』(改造 文庫 、1933年 (昭和 8年 )5月 ) - 『
柿本人麿 (総論 篇 )』(岩波書店 、1934年 (昭和 9年 )11月 ) - 『
柿本人麿 (鴨 山 考 補注 篇 )』(岩波書店 、1935年 (昭和 10年 )10月 ) - 『
柿本人麿 (評釈 篇 巻 之 上 )』(岩波書店 、1937年 (昭和 12年 )5月 ) - 『
万葉 秀歌 (上下 )』(岩波 新書 、1938年 (昭和 13年 )11月)-※数 度 改版 され重刷 。 - 『
柿本人麿 (評釈 篇 巻 之 下 )』(岩波書店 、1939年 (昭和 14年 )2月 ) - 『
不断 経 』(書物 展望 社 、1940年 (昭和 15年 )4月 ) - 『
高千穂峰 』(改造 社 、1940年 (昭和 15年 )6月 ) - 『
柿本人麿 (雑纂 篇 )』(岩波書店 、1940年 (昭和 15年 )12月 ) - 『
伊藤 左千夫 』(中央公論社 、1942年 (昭和 17年 )8月 ) - 『
源実朝 』(岩波書店 、1943年 (昭和 18年 )6月 ) - 『
小歌 論 』(第 一 書房 、1943年 (昭和 18年 )11月 ) - 『
童 馬山 房 夜話 第 一 』(八雲 書店 、1944年 (昭和 19年 )7月 ) - 『
童 馬山 房 夜話 第 二 』(八雲 書店 、1944年 (昭和 19年 )9月 ) - 『
文学 直路 』(青磁 社 、1945年 (昭和 20年 )4月 ) - 『
短歌 一家言 』(斎藤 書店 、1947年 (昭和 22年 )1月 ) - 『
作歌 実 語 抄 』(要 書房 、1947年 (昭和 22年 )4月 ) - 『
万葉 の歌 境 』(青磁 社 、1947年 (昭和 22年 )4月 ) - 『
童 牛 漫語 』(斎藤 書店 、1947年 (昭和 22年 )7月 ) - 『
茂吉 小文 』(朝日新聞社 、1949年 (昭和 24年 )2月 ) - 『
島木 赤彦 』(角川書店 、1949年 (昭和 24年 )3月 ) - 『
幸田 露伴 』(洗心 書林 、1949年 (昭和 24年 )7月 ) - 『
近世 歌人 評伝 』(要 書房 、1949年 (昭和 24年 )9月 ) - 『
明治 大正 短歌 史 』(中央公論社 、1950年 (昭和 25年 )10月 ) - 『
続 明治 大正 短歌 史 』(中央公論社 、1951年 (昭和 26年 )3月 ) - 『
歌壇 夜叉 語 』(中央公論社 、1951年 (昭和 26年 )4月 )
文庫 [編集 ]
- 『
斎藤 茂吉 歌集 』岩波 文庫 、1978年 (昭和 53年 )(改版 ) - 『
斎藤 茂吉 歌論 集 』柴 生田 稔 編 、岩波 文庫 、1978年 (昭和 53年 ) - 『
斎藤 茂吉 随筆 集 』阿川 弘之 ・北 杜夫 編 、岩波 文庫 、1986年 (昭和 61年 ) - 『
念珠 集 』講談社 文芸 文庫 、2004年 (平成 16年 ) - 『
島木 赤彦 /斎藤 茂吉 』近代 浪漫 派 文庫 19:新学社 、2006年 (平成 18年 ) - 『
赤 光 』新潮 文庫 、2010年 (平成 22年 )(改版 )
参考 文献 [編集 ]
北 杜夫 『青年 茂吉 ――「赤 光 」「あらたま」時代 』岩波書店 、のち岩波 現代 文庫 ISBN 4006020279北 杜夫 『壮年 茂吉 ――「つゆじも」〜「ともしび」時代 』岩波 現代 文庫 ISBN 4006020287北 杜夫 『茂吉 彷徨 ――「たかはら」〜「小園 」時代 』岩波 現代 文庫 ISBN 4006020295北 杜夫 『茂吉 晩年 ――「白 き山 」「つきかげ」時代 』岩波 現代 文庫 ISBN 4006020309北 杜夫 『楡 家 の人 びと』新潮社 、のち新潮 文庫 - 「アララギ
斎藤 茂吉 追悼 号 」(1953年 (昭和 28年 )10月 号 ) - 『
斎藤 茂吉 歌集 』岩波 文庫 ISBN 4003104420、山口 茂吉 ・柴 生田 稔 ・佐藤 佐太郎 編 - 『
斎藤 茂吉 歌論 集 』岩波 文庫 ISBN 4003104439、柴 生田 稔 編 中野 重治 『斎藤 茂吉 ノート』新版 ・ちくま学芸 文庫 ISBN 4-480-08180-1土屋 文明 編 『斎藤 茂吉 短歌 合評 』明治 書院 (上 ・下 ) 1985年 (昭和 60年 )佐藤 佐太郎 『斎藤 茂吉 秀歌 』(中央公論社 )斎藤 茂吉 秀歌 選 (寶 文 館 )、斎藤 茂吉 研究 (宝 文 館 )、斎藤 茂吉 言行 (角川書店 )童 馬山 房 隨 聞(岩波書店 )、茂吉 解説 (彌生 書房 )、茂吉 秀歌 (岩波 新書 上 ・下 )
岡井 隆 『斎藤 茂吉 と中野 重治 』砂子屋 書房 1993年 (平成 5年 )塚本 邦雄 『茂吉 秀歌 』全 5冊 、各 ・文藝春秋 、のち講談社 学術 文庫 - 「
茂吉 秀歌 『赤 光 』百 首 」、「茂吉 秀歌 『あらたま』百 首 」、「茂吉 秀歌 『つゆじも』『遠 遊 』『遍歴 』『ともしび』『たかはら』『連山 』『石泉 』百 首 」 - 「
茂吉 秀歌 『白桃 』『暁紅 』『寒 雲 』『のぼり路 』百 首 」、「茂吉 秀歌 『霜 』『小園 』『白 き山 』『つきかげ』百 首 」
- 「
秋葉 四郎 『新 論 歌人 茂吉 』(角川書店 )- 『
歌人 茂吉 人間 茂吉 』(NHK出版 )、『茂吉 幻 の歌集 『萬 軍 』』(岩波書店 )
- 『
高橋 良 『斎藤 茂吉 からの系譜 』文芸 社 、2021年 (令 和 3年 )
伝記 文献 [編集 ]
斎藤 茂 太 『茂吉 の体臭 』岩波書店 、1964年 (昭和 39年 )、復刊 1982年 ほか柴 生田 稔 『斎藤 茂吉 伝 』新潮社 (正 ・続 )、1979年 (昭和 54年 )‐ 1981年 (昭和 56年 )品田 悦 一 『斎藤 茂吉 あかあかと一本 の道 とほりたり』ミネル ヴァ書房 〈日本 評伝 選 〉、2010年 (平成 22年 )小泉 博明 『斎藤 茂吉 悩 める精神病 医 の眼差 し』ミネル ヴァ書房 〈人 と文化 の探究 〉、2016年 (平成 28年 )
関連 項目 [編集 ]
脚注 [編集 ]
注釈 [編集 ]
出典 [編集 ]
- ^
斎藤 茂 太 「赤 いレンガ」『医学 芸術 』昭和 57年 10月 号 斎藤 茂吉 生誕 百 年 坪井 医院 (千代田 区 神田和泉 町 1)のウェブサイトへの転載 、平成 23年 11月3日 閲覧 - ^ 『
精神 医学 の古典 を読 む』みすず書房 ,1989年 、212ページ - ^ a b
斉藤 茂 太 『精神 科 の待合室 』中公 文庫 1978年 3月 発刊 - ^ 『
官報 』第 2449号 、「叙任 及辞令 」1920年 9月 30日 。 - ^ a b c d e f 「
斎藤 茂吉 略 年譜 」財団 法人 斎藤 茂吉 記念 館 - ^
人事 興信録 14版 上 サ75-76 - ^
山上 次郎 文芸春秋 p359 - ^ a b 「あはれひとつの
息 を息 づく」(永井 ふさ子 )【漱石 と明治 人 のことば356】サライjp - ^ a b
玉井 崇夫 「茂吉 の観音 さま-歌人 永井 ふさ子 」『文芸 研究 』第 96号 、明治大学 文芸 研究 会 、2005年 、119-126頁 、ISSN 03895882、NAID 120001439682。 - ^
永遠 の少年 !?近代 を代表 する歌人 ・斎藤 茂吉 、その妻 と美 しき愛人 日本 気象 協会 - ^ a b “
斎藤 茂吉 と永井 ふさ子 の愛 ~四国 なるをとめ恋 しも~”.愛媛 CATV. 2019年 10月 14日 閲覧 。 - ^
齋藤 茂吉 全集 第 三 十 一 巻 p.540およびp.681(岩波書店 ) - ^
北 杜夫 『どくどるマンボウ青 春記 』 - ^ a b c
共同 「斎藤 茂吉 のはがき24通 発見 ――吉井 勇 の再婚 うらやむ」『斎藤 茂吉 のはがき24通 発見 吉井 勇 の再婚 うらやむ ― スポニチ Sponichi Annex社会 』スポ ーツニッポン新聞社 、2014年 4月 30日 。 - ^
北 杜夫 「マンボウ最後 の大 バクチ」新潮社 - ^
日本 画壇 の重鎮 、死去 『東京 朝日新聞 』昭和 8年 10月 31日 (『昭和 ニュース事典 第 4巻 昭和 8年 -昭和 9年 』本編 p603昭和 ニュース事典 編纂 委員 会 毎日 コミュニケーションズ刊 1994年 )
外部 リンク[編集 ]
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