斎藤さいとう茂吉しげよし

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斎藤さいとうさいとう 茂吉しげよしもきち
1952ねんごろ
誕生たんじょう 1882ねん明治めいじ15ねん5月14にち
山形やまがたけんみなみ村山むらやまぐん金瓶かなかめむら
げん山形やまがたけん上山かみのやま
死没しぼつ (1953-02-25) 1953ねん2がつ25にち(70さいぼつ
東京とうきょう新宿しんじゅく大京だいきょうまち
墓地ぼち 青山あおやま霊園れいえん
職業しょくぎょう 歌人かじん評論ひょうろん随想ずいそう精神せいしん
言語げんご 日本語にほんご
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
教育きょういく 医学いがく博士はかせ
最終さいしゅう学歴がくれき 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく医科いか大学だいがく卒業そつぎょう
活動かつどう期間きかん 1908ねん - 1953ねん
ジャンル 短歌たんか
随筆ずいひつ
文学ぶんがく活動かつどう アララギ
実相じっそうかんいれ
代表だいひょうさくあかこう』(1913ねん
おも受賞じゅしょうれき 学士がくしいんしょう柿本人麿かきのもとのひとまろ』(1940ねん
読売よみうり文学ぶんがくしょう詩歌しかしょう『ともしび』(1949ねん
文化ぶんか勲章くんしょう(1951ねん
文化ぶんか功労こうろうしゃ(1952ねん
子供こども 斎藤さいとうしげるふとし長男ちょうなん
きた杜夫もりお次男じなん
親族しんぞく 斎藤さいとう紀一きいち (養父ようふ)
斎藤さいとう輝子てるこつま
斎藤さいとう由香ゆか (まご)
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斎藤さいとう 茂吉しげよし(さいとう もきち、1882ねん明治めいじ15ねん5月14にち[ちゅう 1] - 1953ねん昭和しょうわ28ねん2がつ25にち)は、日本にっぽん歌人かじん精神せいしん伊藤いとう左千夫さちお門下もんか大正たいしょうから昭和しょうわ前期ぜんきにかけて活躍かつやくしたアララギ中心ちゅうしん人物じんぶつ日本にっぽん芸術げいじゅついん会員かいいん文化ぶんか功労こうろうしゃ文化ぶんか勲章くんしょう受章じゅしょうしゃ

精神せいしんとして、青山あおやまのう病院びょういん現在げんざい東京とうきょう都立とりつうめおか病院びょういん斎藤さいとう病院びょういん)の院長いんちょうつとめた。長男ちょうなん精神せいしん随筆ずいひつ斎藤さいとうしげるふとし次男じなん精神せいしん随筆ずいひつ小説しょうせつきた杜夫もりおまご随筆ずいひつ斎藤さいとう由香ゆか

概要がいよう[編集へんしゅう]

1882ねん明治めいじ15ねん)、山形やまがたけんみなみ村山むらやまぐん金瓶かなかめ(かなかめ)むらげん上山かみのやま金瓶かなかめ)の守谷もりや伝右でんね衛門えもん熊次郎くまじろうといくのあいだ三男さんなんとしてまれた。

守谷もりやには、茂吉しげよし尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこう卒業そつぎょう進学しんがくするだけの経済けいざいめん余裕よゆうく、茂吉しげよしは、画家がかになるかてら弟子でしりしようかとかんがえたが、東京とうきょう浅草あさくさ医院いいん開業かいぎょうするも跡継あとつぎのかった同郷どうきょう精神せいしん斎藤さいとう紀一きいちいえ養子ようし候補こうほとして厄介やっかいになることとなった。上京じょうきょうしたのはまん14さいときで、途中とちゅう仙台せんだい旅館りょかんでは菓子かしもなかまれてはじめてべ、「こんなうまいものがあるのか」とおもい、よる到着とうちゃくした東京とうきょう上野うえのえきでは、「こんなにあかるいよるがあるものだろうか」とおどろいたという[1]。1905ねん、23さい斎藤さいとう婿養子むこようしとして入籍にゅうせき当時とうじつまとなる輝子てるこは10さいであった。

医師いしとなったのち、31さいのときにいち次女じじょ輝子てるこ結婚けっこんして斎藤さいとう婿養子むこようしとなった。しかしながら東京とうきょうのおじょうさんそだちであった輝子てるこ派手はできで活発かっぱつ女性じょせいで、律儀りちぎ茂吉しげよしとは価値かちかん性格せいかくがあわず、輝子てるこ男性だんせい問題もんだいもあって、別居べっきょしていたこともある。

守谷もりや隣接りんせつする時宗じしゅう(のち浄土宗じょうどしゅう宝泉寺ほうせんじ檀家だんかであり、茂吉しげよしも40せい住職じゅうしょく佐原さわら窿応の薫陶くんとうけた。だいいち歌集かしゅうあかこう』の題名だいめいは「阿弥陀あみだけい」にちなんでいる。また時宗じしゅう大本山だいほんざん(のち浄土宗じょうどしゅう本山もとやま蓮華寺れんげじ49せい貫主かんしゅとなった晩年ばんねんの窿応をたずねている。養子ようしはいった斎藤さいとうは、皮肉ひにくにも、蓮華寺れんげじ一向ひたぶる抑圧よくあつするがわであった遊行ゆぎょう檀林だんりん日輪寺にちりんじ檀家だんかであった。茂吉しげよし分骨ぶんこつはか宝泉寺ほうせんじ境内けいだいのこされている。生前せいぜんみずかつくっていた戒名かいみょうは、一向ひたぶる法式ほうしきになっている。

創作そうさく活動かつどう[編集へんしゅう]

中学ちゅうがく時代じだい佐佐木ささき信綱のぶつなの『うたしおり』をんで短歌たんか世界せかいはいり、友人ゆうじんたちのすすめで創作そうさく開始かいしする。高校こうこう時代じだい正岡子規まさおかしき歌集かしゅうんでいたく感動かんどう歌人かじんこころざし、左千夫さちお弟子でしりした。

精神せいしんとしても活躍かつやくし、ドイツオーストリア留学りゅうがく青山あおやまのう病院びょういん院長いんちょうしょくはげかたわ旺盛おうせい創作そうさく活動かつどうおこなった。また、文才ぶんさいすぐれ、柿本人麻呂かきのもとのひとまろ源実朝みなもとのさねともらの研究けんきゅうしょや、『ドナウげん流行りゅうこう』『念珠ねんじゅしゅう』『わらわ馬山まやまぼう夜話やわ』などのすぐれた随筆ずいひつのこしており、その才能さいのう宇野うの浩二こうじ芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけたか評価ひょうかされた。芥川あくたがわ一番いちばん小説しょうせつかせたいのはだれかとかれたさいには、即座そくざ茂吉しげよししたという。1923ねんミュンヘン留学りゅうがくちゅうには長年ながねんあこがれの対象たいしょうであったエミール・クレペリン臨床りんしょう講義こうぎきにったさい握手あくしゅもとめたところ、東南とうなんアジア留学生りゅうがくせいとはにこやかに握手あくしゅをしたにもかかわらず、握手あくしゅ拒否きょひされ(西丸にしまる四方しほうは、大戦たいせんでの敵国てきこくであった日本にっぽんへの遺恨いこんらせた反応はんのう推理すいりしている[2])、その無念むねんおもいをうた随筆ずいひつのこした[3]

太平洋戦争たいへいようせんそうなか創作そうさく活動かつどう積極せっきょくてき戦争せんそう協力きょうりょくしていた。

生涯しょうがいぜん17さつ歌集かしゅう発表はっぴょうし、ぜん17,907しゅうたんだ。ただし、あくまでも精神せいしん本来ほんらい生業せいぎょうとする姿勢しせいくずさず、「うたごうあまりのすさび」としょうしていた。しかし、息子むすこきた杜夫もりおは「しんきゅうわりうたに、文学ぶんがくんでいたとおもう。」とし、茂吉しげよし性格せいかくじょう臨床りんしょうわず口説くぜつ療法りょうほうおもとする診察しんさつ苦手にがてであったとひょうしている。

年譜ねんぷ[編集へんしゅう]

  • 1882ねん明治めいじ15ねん):5月14にち山形やまがたけんみなみ村山むらやまぐん金瓶かなかめむらげん上山かみのやま金瓶かなかめ)に出生しゅっしょう戸籍こせきじょう届出とどけでおくれにより7がつ27にち
  • 1896ねん明治めいじ29ねん):上山うえやま尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこう高等こうとう卒業そつぎょう恩師おんし佐原さわら窿応の紹介しょうかい東京とうきょう浅草あさくさ開業かいぎょうしていた親戚しんせき医師いし斎藤さいとう紀一きいちすすめで医者いしゃこころざす。8月ちちれられ上京じょうきょう斎藤さいとうかた寄寓きぐう。9月東京とうきょう開成かいせい中学校ちゅうがっこうげん開成かいせい中学校ちゅうがっこう高等こうとう学校がっこう)に編入へんにゅう
  • 1898ねん明治めいじ31ねん):同級生どうきゅうせい刺激しげきされ、このころからうたむようになる。幸田こうだ露伴ろはんもり鷗外などを愛読あいどくとく露伴ろはん影響えいきょうおおきかった。
  • 1901ねん明治めいじ34ねん):3がつ開成かいせい中学校ちゅうがっこう卒業そつぎょう。7がつ第一高等学校だいちこうとうがっこう受験じゅけんして失敗しっぱい開成かいせい中学校ちゅうがっこう補習ほしゅう正則せいそく中学校ちゅうがっこうげん正則せいそく学園がくえん高等こうとう学校がっこう)にかよう。
  • 1902ねん明治めいじ35ねん):第一高等学校だいちこうとうがっこうげん東京大学とうきょうだいがく教養きょうよう学部がくぶだいさん入学にゅうがく
  • 1905ねん明治めいじ38ねん):正岡子規まさおかしき遺稿いこうだいいちへんたけさと』をみ、うた見出みいだす。第一高等学校だいちこうとうがっこう卒業そつぎょう東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく医科いか大学だいがく入学にゅうがく
  • 1906ねん明治めいじ39ねん):伊藤いとう左千夫さちお門下もんかとなる
  • 1907ねん明治めいじ40ねん):古泉こいずみ千樫ちかし相識そうしき
  • 1908ねん明治めいじ41ねん):子規しき雑誌ざっし馬酔木あしび廃刊はいかん、かわって創刊そうかんされた「アララギ」に短歌たんか発表はっぴょうするようになる。同人どうじん中村なかむら憲吉けんきち土屋つちや文明ふみあき相識そうしき
  • 1909ねん明治めいじ42ねん):もり鴎外おうがいかんしおろう歌会うたかいはじめて出席しゅっせき与謝野よさの鉄幹てっかん北原きたはら白秋はくしゅう石川いしかわ啄木たくぼく上田うえださとし佐佐木ささき信綱のぶつななどの歌人かじんる。チフスにかか卒業そつぎょういちねん延期えんき
  • 1910ねん明治めいじ43ねん):東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく医科いか大学だいがくげん東大とうだい医学部いがくぶ医学いがく卒業そつぎょう
  • 1911ねん明治めいじ44ねん):東大とうだい医科いか大学だいがく副手ふくしゅとなり、精神病せいしんびょうがくまなぶかたわら付属ふぞく病院びょういん勤務きんむ。7月より東京とうきょう巣鴨すがも病院びょういん勤務きんむ授業じゅぎょう診療しんりょう生活せいかつはじまる。(ちか狂人きょうじんまもるはかなさにおのれすらをあい(は)しとなげけり)このとしから大正たいしょう3ねんまで「アララギ」の編集へんしゅう担当たんとう島木しまき赤彦あかひこ
  • 1912ねん明治めいじ45ねん/大正たいしょう元年がんねん):学会がっかいで「麻痺まひせい痴呆ちほうワッセルマン反応わっせるまんはんのう」の研究けんきゅう報告ほうこく東大とうだい医科いか大学だいがく助手じょしゅとなる
  • 1913ねん大正たいしょう2ねん):4がつ連作れんさく「おひろ」を「アララギ」に発表はっぴょう。5月、生母せいぼいく死去しきょ連作れんさくにたまふはは」を発表はっぴょう。7月、伊藤いとう左千夫さちお死去しきょ。(ひたはしるわがみちくらししんしんとこらえへかねたるわがみちくらし)10がつ処女しょじょ歌集かしゅうあかこう刊行かんこう歌壇かだんのみならず文壇ぶんだん内外ないがいおおきな反響はんきょうこす。
  • 1914ねん大正たいしょう3ねん):4がつ斎藤さいとう紀一きいち長女ちょうじょ、13さい年下としした齋藤さいとう輝子てるこ(19さい)と結婚けっこん斎藤さいとう婿養子むこようしとなる
  • 1917ねん大正たいしょう6ねん):1がつ医科いか大学だいがく助手じょしゅ付属ふぞく病院びょういん巣鴨すがも病院びょういんをすべて辞職じしょく官立かんりつ長崎ながさき医学いがく専門せんもん学校がっこう現在げんざい長崎大学ながさきだいがく医学部いがくぶ精神病せいしんびょうだい2だい教授きょうじゅ先輩せんぱい文学ぶんがくつうじて交流こうりゅうのあった石田いしだのぼるのあとをうけたもの)
  • 1919ねん大正たいしょう8ねん):歌論かろんしゅうわらわ漫語まんご刊行かんこう長崎ながさきおとずれた芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ菊池きくちひろし
  • 1920ねん大正たいしょう9ねん):「短歌たんかにおける写生しゃせいせつ」を「アララギ」に連載れんさい。6月喀血かっけつ県立けんりつ長崎ながさき病院びょういん入院にゅういん、7がつ退院たいいんのち九州きゅうしゅう各地かくち転地てんち療養りょうよう
  • 1921ねん大正たいしょう10ねん):だい歌集かしゅう「あらたま」刊行かんこう医学いがく論文ろんぶん緊張きんちょう患者かんじゃのえるごぐらむニ就キテ」を完成かんせい。10月、精神病せいしんびょうがく研究けんきゅうのため欧州おうしゅう留学りゅうがく出発しゅっぱつ。11月1にち神戸こうべ出航しゅっこう香港ほんこんシンガポールマラッカコロンボスエズから陸路りくろカイロ往復おうふくマルセイユパリて12月20にちベルリン到着とうちゃく
  • 1922ねん大正たいしょう11ねん):ウィーン大学だいがく神経しんけいがく研究所けんきゅうじょはいる。(ドウナウのながれのさむいちめんにゆきうかべてながれるるそのおと)11月論文ろんぶん植物しょくぶつ中枢ちゅうすう神経しんけいホルモンによる昂奮こうふんせいについて」完成かんせい
  • 1923ねん大正たいしょう12ねん):学位がくい論文ろんぶん麻痺まひせい痴呆ちほうもののう完成かんせい。(だれひとり此処ここらにゐざれば論文ろんぶんぺーじを閉ぢてなみだぐみたり)イタリア旅行りょこうて7がつミュンヘン大学だいがく転学てんがくエミール・クレペリン臨床りんしょう講義こうぎきに握手あくしゅもとめたが拒否きょひされる[3]実父じっぷ守谷もりやでん衛門えもん死去しきょ。11月、アドルフ・ヒトラーミュンヘン一揆いっき遭遇そうぐうする。(行進こうしんうたごゑきこゆHitlerの演説えんぜつすでにてたるころか)
  • 1924ねん大正たいしょう13ねん):5月「いえうさぎ大脳皮質だいのうひしつにおける壊死えし軟化なんか組織そしきに就ての実験じっけんてき研究けんきゅう」を完成かんせいうさぎのう解剖かいぼう組織そしき顕微鏡けんびきょう観察かんさつ写生しゃせいするという地味じみ根気こんきのいる作業さぎょう日々ひびだった。10月、医学いがく博士はかせ学位がくい帰国きこくく。12月、青山あおやまのう病院びょういん全焼ぜんしょう電報でんぽう船上せんじょうる。(ものけしごとくになりしわれつま食卓しょくたくすこしの蕎麦そばしょくひたり)
  • 1925ねん大正たいしょう14ねん):1がつ帰国きこく病院びょういんあとかえるとヨーロッパであつめておくった膨大ぼうだい書物しょもつもすべて焼失しょうしつしていた。(とどろきてすさまじきをものがたるをさなごのかうべわれはでたり) どう病院びょういん再建さいけん奔走ほんそう[5]
  • 1926ねん大正たいしょう15ねん):3月、ともに「アララギ」の編集へんしゅうたずさわった島木しまき赤彦あかひこ死去しきょ。4月、げん世田谷せたがや松原まつばら青山あおやまのう病院びょういん復興ふっこう。5月、ふたたび「アララギ」の編集へんしゅう発行はっこうじんとなる。
  • 1927ねん昭和しょうわ2ねん):4がつ養父やぶ紀一きいち引退いんたいし、青山あおやまのう病院びょういん院長いんちょうしょく[5]。5月、次男じなん宗吉そうきちきた杜夫もりお誕生たんじょう。7がつ芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ茂吉しげよしにもらっていた睡眠薬すいみんやく自殺じさつおおきな衝撃しょうげきける。
  • 1928ねん昭和しょうわ3ねん):11月、養父やぶ紀一きいち死去しきょ家督かとく紀一きいち実子じっし西洋せいよう相続そうぞく[6]以後いご病院びょういん経営けいえいはすべて茂吉しげよしうこととなった。(おしなべてつひにまずしくきたりしものぐるひとうはここに起臥きがす)
  • 1929ねん昭和しょうわ4ねん):11月、朝日新聞あさひしんぶんしゃコメット102号機ごうき東京とうきょう箱根はこねとう上空じょうくうやく2あいだ飛翔ひしょう。(電信でんしんたい浄水じょうすい女子じょし大学だいがく刑務所けいむしょ射撃しゃげきじょう塹壕ざんごうあか鉄橋てっきょう隅田川すみだがわ品川しながわわん
  • 1930ねん昭和しょうわ5ねん):10月、まんてつまねきで満州まんしゅうきたささえ方面ほうめんを2ヶ月かげつ旅行りょこう
  • 1931ねん昭和しょうわ6ねん):「正岡まさおか子規しき」「明治めいじ大正たいしょう和歌わか執筆しっぴつ
  • 1932ねん昭和しょうわ7ねん):「源実朝みなもとのさねとも」「近世きんせい歌人かじん評伝ひょうでん執筆しっぴつ。8月、次兄じけい富太郎とみたろうたずね、北海道ほっかいどう旅行りょこう
  • 1933ねん昭和しょうわ8ねん):「柿本人麿かきのもとのひとまろ研究けんきゅう」の執筆しっぴつ開始かいし以後いご詳細しょうさい評釈ひょうしゃく心血しんけつそそぐのみならず実地じっち踏査とうさのため山陰やまかげ四国しこく大和やまとなどをしばしばおとずれ、最終さいしゅうてきに3000まい大作たいさくとなった。
  • 1935ねん昭和しょうわ10ねん):「アララギ」に「わらわ馬山まやまぼう夜話やわ」の連載れんさい開始かいし以後いご10ねんちかくほぼ毎号まいごうやすまず執筆しっぴつする。
  • 1937ねん昭和しょうわ12ねん):帝国ていこく芸術げいじゅついん会員かいいんとなる。にちちゅう戦争せんそう勃発ぼっぱつ以後いごすうおおくの愛国あいこくむようになる。(直心ひたごころ(ただごころ)こぞれるこんかいかづちのえんえてちてしやまむ)
  • 1938ねん昭和しょうわ13ねん):「万葉まんよう秀歌しゅうか刊行かんこう文部省もんぶしょう委嘱いしょくにより国民こくみん国土こくど」をつくる。
  • 1940ねん昭和しょうわ15ねん):3月、歌集かしゅうかんくも刊行かんこう。5月、『柿本人麿かきのもとのひとまろ』の業績ぎょうせきにより帝国ていこく学士がくしいんしょう受賞じゅしょう。6月、1935,6ねん昭和しょうわ10,11ねん)のうたあつめた歌集かしゅう暁光ぎょうこう」を刊行かんこう
  • 1942ねん昭和しょうわ17ねん):2がつ、1934,5ねん昭和しょうわ9,10ねん)のうたおさめた歌集かしゅう白桃はくとう」を刊行かんこう。「作歌さっかよんじゅうねん執筆しっぴつ。「伊藤いとう左千夫さちお刊行かんこう
  • 1943ねん昭和しょうわ18ねん):歌集かしゅう「のぼり刊行かんこう
  • 1945ねん昭和しょうわ20ねん):太平洋戦争たいへいようせんそう悪化あっかによる人員じんいん資材しざい不足ふそく経営けいえい困難こんなんとなり病院びょういん東京とうきょう移譲いじょうし(東京とうきょう都立とりつうめおか病院びょういん院長いんちょうしょく辞職じしょく。4月、郷里きょうりである山形やまがたけんみなみ村山むらやまぐん堀田ほったむら金瓶かなかめ(かなかめ)に疎開そかい[5]。5月、青山あおやまのう病院びょういんおよび東京とうきょう自宅じたくが、アメリカぐんによる東京とうきょうだい空襲くうしゅうにより全焼ぜんしょう。(のがれきたわれおもはばうしろぐらししんいたひとしほゆ)
  • 1946ねん昭和しょうわ21ねん):2がつ山形やまがたけん北村山きたむらやまぐん大石田おおいしだまちうつ[5]。(最上川もがみがわ上空じょうくうにしてのこれるはいまだうつくしきにじ断片だんぺん)8がつ歌集かしゅう「つゆじも」刊行かんこう。1947ねん昭和しょうわ22ねん以降いこう1951ねん(26年度ねんどまで歌会うたかいはじめ選者せんじゃ
  • 1947ねん昭和しょうわ22ねん):8がつ、ウィーン留学りゅうがくちゅううたおさめた「とおゆう」を刊行かんこう。11月、大石田おおいしだげ、東京とうきょう世田谷せたがや代田しろたうつ[5]
  • 1948ねん昭和しょうわ23ねん):朝日新聞あさひしんぶん歌壇かだん選者せんじゃ。ミュンヘン滞在たいざいちゅううたおさめた「遍歴へんれき」を刊行かんこう青山あおやまのう病院びょういん院長いんちょう引退いんたい
  • 1949ねん昭和しょうわ24ねん):金瓶かなかめ疎開そかいちゅううたおさめた「小園こぞの」を刊行かんこう日本にっぽん芸術げいじゅつ会員かいいんとなる。8月、大石田おおいしだ時代じだいうたおさめた「しろやま」を刊行かんこう
  • 1950ねん昭和しょうわ25ねん):1がつ歌集かしゅう「ともしび」(帰朝きちょうから昭和しょうわ4ねんまでのうた刊行かんこう。これによりだい1かい読売よみうり文学ぶんがくしょう詩歌しかしょう受賞じゅしょう。6月、1929・1930ねん昭和しょうわ4,5ねん)のうたおさめた「たかはら」刊行かんこう。11月、1930ねん昭和しょうわ5ねん)の満州まんしゅう旅行りょこううたおさめた「連山れんざん」を刊行かんこう同年どうねん新宿しんじゅく大京だいきょうまち新居しんきょうつ[5]
  • 1951ねん昭和しょうわ26ねん):6がつ、1932ねん昭和しょうわ7ねん)の北海道ほっかいどう旅行りょこううたおさめた「石泉いしずみ刊行かんこう。11月、文化ぶんか勲章くんしょう受章じゅしょう。12月、1941,2ねん昭和しょうわ16,17ねん)のうたおさめた「しも刊行かんこう
  • 1952ねん昭和しょうわ27ねん):「斎藤さいとう茂吉しげよし全集ぜんしゅう」(岩波書店いわなみしょてん配本はいほん開始かいしぜん56かんは1957ねん昭和しょうわ32ねん)に完結かんけつ。このころから痴呆ちほうすす創作そうさく活動かつどうがとみに衰退すいたい
  • 1953ねん昭和しょうわ28ねん):2がつ25にち心臓しんぞう喘息ぜんそくのため新宿しんじゅく大京だいきょうまち自宅じたく死去しきょどう26にち東京大学とうきょうだいがく病理びょうりがく教室きょうしつにおいて三宅みやけひとし教授きょうじゅ執刀しっとうした解剖かいぼうせられる。
  • 1953ねん昭和しょうわ28ねん):3月2にち築地つきじ本願寺ほんがんじにて葬儀そうぎおよび告別こくべつしき戒名かいみょうみずかつくっておいた「あかこういんひとしほまれゆうおもねあかつきさびきよし居士こじ」。墓地ぼち青山あおやま霊園れいえんのほか、上山かみのやま金瓶かなかめ宝泉寺ほうせんじ大石田おおいしだまちじょう舩寺にある。

私生活しせいかつ[編集へんしゅう]

1914ねん大正たいしょう3ねん)4がつ養父ようふ斎藤さいとう紀一きいち長女ちょうじょで13さい年下としした当時とうじ19さいだった齋藤さいとう輝子てるこ結婚けっこん斎藤さいとう婿養子むこようしとなった。結婚けっこん2ねん1916ねん大正たいしょう5ねん)には、長男ちょうなんしげるふとし誕生たんじょうしている。

養父ようふ紀一きいち茂吉しげよし才能さいのうはやくから見抜みぬいており、愛娘まなむすめ輝子てるこに、婚約こんやくしゃ茂吉しげよしは「わっているが、きっとえらくなる。おまえ看護かんごのつもりでつかえなさい。」とさとしていたという。

しかしながら、性格せいかくそだち、価値かちかんちがいから、夫婦ふうふ関係かんけいかんばしくなかった[ちゅう 2]輝子てるこ茂吉しげよし体臭たいしゅうきらい、「おおくさい」と舌打したうちしてこれよがしに部屋へやたり、むすめひゃく育児いくじ放棄ほうきして映画えいがくなどし、これら輝子てるこ自分勝手じぶんがって行為こういには茂吉しげよし憤慨ふんがい、しばしば衝突しょうとつ家庭かていない暴力ぼうりょくおよぶことも度々どどであった。

欧州おうしゅう留学りゅうがくちゅう1924ねん大正たいしょう13ねん)7がつには現地げんち輝子てるこむかえ、ともにヨーロッパ各地かくち旅行りょこう(「をもちてるはしばみのしろしたがえひてくるつましょくはしむ」)、滞欧たいおうちゅう各地かくち美術びじゅつ作品さくひん実見じっけん詳細しょうさい描写びょうしゃ手帳てちょうしるしている。帰国きこく1925ねん大正たいしょう14ねん)2がつには長女ちょうじょひゃく1929ねん昭和しょうわ4ねん)10がつには次女じじょ昌子しょうじ誕生たんじょうした。次男じなん宗吉そうきち年譜ねんぷとおり。

1933ねん昭和しょうわ8ねん)、ダンス教師きょうし華族かぞく上流じょうりゅう階級かいきゅう婦人ふじんらとの不倫ふりん集団しゅうだん遊興ゆうきょうひろげていたとするスキャンダル、「ダンスホール事件じけん」が発生はっせいした。この事件じけんでは、逮捕たいほされたダンス教師きょうしいていた女性じょせいのひとりとして輝子てるこがいたことがだい新聞しんぶんをはじめとするメディアにほうじられ[ちゅう 3]実際じっさい輝子てるこ警察けいさつ取調とりしらべをけるなどにいたった。

この事件じけん結果けっか夫婦ふうふ以後いごやく10ねんほどにわたって別居べっきょすることになった。輝子てるこは、はは生家せいかがある秩父ちちぶや、茂吉しげよし実弟じってい高橋たかはし四郎しろう兵衛ひょうえ経営けいえいする山形やまがた上山うえやま旅館りょかん山城やましろ」にあづけられ、最終さいしゅうてきにはおもおとうと西洋せいようらととも松原まつばら青山あおやまのう病院びょういんほんいん生活せいかつ一方いっぽう茂吉しげよし青山あおやまぶんいんでの生活せいかつつづけた[7]。この事件じけんについて茂吉しげよしは、「精神せいしんてき負傷ふしょう」としるしている。

よく1934ねん昭和しょうわ9ねん)9がつ傷心しょうしん茂吉しげよし正岡子規まさおかしきさんじゅうさん回忌かいき歌会うたかい松山まつやま出身しゅっしん永井ながいふさ(1910年生ねんせい~1993ねんぼつ)と出会であう。ふさ前年ぜんねんにアララギに入会にゅうかいしたばかりの美貌びぼう未婚みこん女性じょせいであった。茂吉しげよしはふさ才能さいのうで、ふさ茂吉しげよし尊崇そんすうねんいだき、ほどなくにん師匠ししょう弟子でし間柄あいだがらえてふかなかになった。合作がっさくうたのこっている。「(茂吉しげよしひかりはなかみまもられもろともに(ふさ)あはれひとつのいきいきづく」[8]。さらに茂吉しげよし短歌たんかばかりでなく、青年せいねんのように赤裸々せきらら率直そっちょく恋文こいぶみおくっている。「ふささん! ふささんはなぜこんなにいい女体にょたいなのですか。なにともいへない、いい女体にょたいなのですか。」「銀座ぎんざなどでどんなひとにあひましてもからだ変化へんかこらないのに、お手紙てがみいちぎょうでもんでゐるうちにからだ変化へんかこつてまゐります。」[9]

茂吉しげよしとふさ逢瀬おうせだれられることつづけられていたが、さんねん、ふさ岡山おかやま医師いしとのえん談話だんわ茂吉しげよしへのおもいをとうとした。しかし翌年よくねん婚約こんやく破棄はきし、その生涯しょうがい独身どくしんつらぬいた[10]茂吉しげよしほどのひとあいされた以上いじょうひとあいれることはできない、というのがふさ信念しんねんであった[11]

輝子てることは太平洋戦争たいへいようせんそうなか茂吉しげよし故郷こきょう山形やまがた疎開そかいすることになったのを1945ねん昭和しょうわ20ねん)から同居どうきょ再開さいかいした。茂吉しげよしはふさうこともぶんをやりりすることもくなり、戦後せんご輝子てるこ晩年ばんねん茂吉しげよし献身けんしんてき看護かんごしていた。ふさ茂吉しげよしったのはテレビの報道ほうどうで、ということである。茂吉しげよしはふさに、自分じぶんからの手紙てがみえたらただちに焼却しょうきゃくするようねんしていたが、ふさいたのはごく一部いちぶで、120つう以上いじょう手紙てがみ大切たいせつ手元てもといていた。「先生せんせいって、たましいのぬけがらになったわたしながむなしい年月としつきながれました」[11]。そして茂吉しげよしじゅう周忌しゅうきに、雑誌ざっしじょう公開こうかいった。このこと茂吉しげよし遺族いぞくをはじめ世間せけんにも非常ひじょうおどろきをってむかえられた[8]晩年ばんねん輝子てるこは、80さいえても世界中せかいじゅう旅行りょこうし、エベレスト登山とざんにまでいどむような活発かっぱつ老後ろうごおくった。ふさ晩年ばんねん、「茂吉しげよしからけたあいのよろこびは一瞬いっしゅんのようにみじかかったのにはんして、そのがたかった苦悩くのうおもうと、よくぞきのびてきたとおもう」とかたっていた[9]

性格せいかく[編集へんしゅう]

  • かなりのいしんぼうであった。うなぎだい好物こうぶつで、戦時せんじちゅう戦後せんごもの不足ふそく時期じきにも事前じぜん購入こうにゅうしてたくわえていたうなぎ缶詰かんづめべていた[12]味噌汁みそしるにもくちうるさく注文ちゅうもんし、家人かじんからネギもあるのでれるかとかれたときは「うーむ。」としばらく熟考じゅっこうするほどかかわった。終戦しゅうせん直後ちょくご疎開そかいさき講演こうえんたのまれおれいうなぎをご馳走ちそうするといて、元来がんらい講演こうえんきらいなのに快諾かいだくし、予定よてい時間じかん超過ちょうかしてはなつづけた。
  • 非常ひじょう癇癪かんしゃくちであったが、患者かんじゃまえでは温厚おんこう振舞ふるまっていた。その反動はんどう家族かぞくにはいかりをあらわにすることもおおかった[13]茂吉しげよし風邪かぜていたとき是非ぜひともおにかかりたいという来客らいきゃく希望きぼう激怒げきどし、病床びょうしょうからがってきゃくのもとにて「おれ本当ほんとう風邪かぜているのがわからんのか。」と怒鳴どなりつけた。あまりの剣幕けんまくきゃくおどろいてかえったが、翌日よくじつ、そのきゃく土産みやげカステラべた茂吉しげよしは「あんまりしかるんじゃなかったな。」と反省はんせいしたという。
  • 癇癪かんしゃくをおさえるためによく神田かんだ古書こしょてんき、きなほん物色ぶっしょくすることでまぎらわせた。だが、包装ほうそうのパラフィン上手うまくケースにおさまらずふたた癇癪かんしゃくこしてかみまるめててたこともあった。
  • つタイプで、「やまいかり論争ろんそう」では自身じしん作品さくひんをこきろした太田おおた水穂みずほたいし「水穂みずほ征伐せいばつ」なる反論はんろんき「ぼくにかりそめにも刃向はむかうごときものがゐたならかならぬ。水穂みずほもそろそろ要心ようじんせよ。」「そんな低級ていきゅう魯鈍ろどんしゃりゅうではもはやぼく論敵ろんてきにはなれぬ。」などとったかなりどぎつい表現ひょうげんもちいて相手あいていどんだことがあった。入院にゅういん患者かんじゃほお平手打ひらてうちされたとき、どのようにして仕返しかえししてやろうか一人ひとり妄想もうそうにふけっていたと随筆ずいひつ瞬間しゅんかん」にしるしている。留学りゅうがく時代じだいミュンヘンでエミール・クレペリン握手あくしゅもとめて拒絶きょぜつされたことを晩年ばんねんまでうらみにおもい、「毛唐けとうめ!」と悪口わるぐちつづけていた。
  • 粘着ねんちゃくせい気質きしつで、ウイーン滞在たいざいちゅう偶然ぐうぜんにキスする男女だんじょつけ、あまりのながさに「ながいなあ。じつながいなあ。」とひとごといながら物陰ものかげから一時いちじ間近まぢかくものぞいていた。
  • 子供こどものころ質素しっそ倹約けんやくむねとした農村のうそん社会しゃかい生活せいかつをしていたので、もの大事だいじにする傾向けいこうつよかった。つまとの旅行りょこうちゅう、ドイツの山間さんかんえき絵葉書えはがき物色ぶっしょくちゅうに、汽車きしゃつませたまま出発しゅっぱつあわてた茂吉しげよしもうスピードでいかけかろうじてった。このときもきちんとかねはらって絵葉書えはがきってから汽車きしゃいかけたという。

逸話いつわ[編集へんしゅう]

  • 戦時せんじちゅう戦意せんい高揚こうよう和歌わかおお作成さくせいしていたが、茂吉しげよし自身じしん狂信きょうしんてき国粋こくすい主義しゅぎしゃでもなく、戦争せんそう皇室こうしつかんしては平均へいきんてき日本人にっぽんじん感情かんじょうっていた。それでも昭和しょうわ天皇てんのうマッカーサー元帥げんすいとの有名ゆうめい会見かいけん写真しゃしん新聞しんぶん掲載けいさいされたときは、憤慨ふんがいし「ウヌ、マッカーサーの野郎やろう」と日記にっききしるしている。
  • 「もきち」という名前なまえ当時とうじとしても古臭ふるくさいイメージがあったため、養父ようふすすめにより「しげよし」とませていた時期じきがある。
  • 医者いしゃとしても、かなりのうでち、患者かんじゃにはやさしくせっして評判ひょうばんかった。ドイツ留学りゅうがく時代じだいから膨大ぼうだい精神せいしん医学いがくしょ購入こうにゅうし、論文ろんぶん著述ちょじゅつする計画けいかくであったが、これらのすで日本にっぽんおくとどけてあった書籍しょせき留学りゅうがくからの帰朝きちょう直前ちょくぜん青山あおやまのう病院びょういん火災かさいいてしまった。この火災かさい原因げんいん茂吉しげよし帰朝きちょういわもちつきののこであった。茂吉しげよしは、保険ほけん失効しっこう状態じょうたい全焼ぜんしょうという、ほぼゼロからの再起さいき病院びょういん全盛期ぜんせいき以上いじょう規模きぼにまで復興ふっこうさせ、経営けいえいしゃとしても尋常じんじょうでない手腕しゅわんしめしている。
  • 文学ぶんがく関係かんけいしゃでは永井ながい荷風かふう芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ宇野うの浩二こうじ診察しんさつけた。とく芥川あくたがわ神経しんけい衰弱すいじゃくから不眠症ふみんしょうには真剣しんけんせっし、さまざまな療養りょうようほう手紙てがみでアドバイスしたり、臭素しゅうそ加里かりアヘンチンキ、ドイツバイエルしゃせいのベロナール(バルビタール)などの睡眠薬すいみんやくほどこした。それだけに芥川あくたがわ睡眠薬すいみんやく自殺じさつ茂吉しげよしにはおおきな衝撃しょうげきで、日記にっきには、第一報だいいっぽうには「驚愕きょうがくたおせレンバカリニナリタレドモ」、通夜つやからの帰宅きたく「ソレデモナカナカネムレズ。芥川あくたがわかおエテ仕方しかたナイ」とそれぞれかれている。
  • 文人ぶんじんとの交友こうゆう関係かんけいとしては、歌人かじん吉井よしいいさむ交流こうりゅうがあったことがられている。国文学こくぶんがくしゃ細川ほそかわ光洋みつひろにより、茂吉しげよし吉井よしいてた葉書はがき発見はっけんされている[14]吉井よしいつま不倫ふりん騒動そうどうこしたため離婚りこんし、のちにおもいをせていたべつ女性じょせい再婚さいこんした[14]。そのさい茂吉しげよし吉井よしい再婚さいこん祝福しゅくふくしつつもうらやむかのようなうたみ、それを葉書はがきにしたため吉井よしいおくっていた[14]
  • 夜尿症やにょうしょう中学ちゅうがくまで寝小便ねしょうべんなおらなかった。息子むすこ斎藤さいとうしげるふとしやそのまごにまで遺伝いでんしていた。普段ふだん頻繁ひんぱん便意べんいなやまされ、疎開そかいちゅうには、バケツをりてようしていた。バケツには「極楽ごくらく」と名付なづけていたが、使用しよう、「あらえばいい。」とそのバケツに野菜やさいなどをれて周囲しゅういおどろかせた。
  • 学生がくせい時代じだいきた杜夫もりお宗吉そうきち)が短歌たんかつくって茂吉しげよし手紙てがみおくると、じゅうまるなどをつけて「ちちの『あかこう時代じだいうたている。勉学べんがくあいだすこつくってみるといい。」と批評ひひょうぶん返信へんしんしていた。だが、成績せいせきわるいことをると態度たいど一変いっぺんして「だい馬鹿者ばかもの短歌たんかなどすぐやめよ!」とはげしい言葉ことばつらねた手紙てがみおくり、そのきた文筆ぶんぴつ活動かつどうつづけるとると、「文学ぶんがくなぞ絶対ぜったいにやらせん。」とつづけていた[15]
  • 1933ねん昭和しょうわ8ねん)、うたともであった平福ひらふく百穂ひゃくすい秋田あきたけん横手よこてまち訪問ほうもんちゅう脳溢血のういっけつたおれる。茂吉しげよし一報いっぽうくと、東京とうきょうから横手よこてけつけて手当てあておこなっている[16]
  • 代表だいひょう[編集へんしゅう]

    • あかこう
      • はるばるとははせんおもひたまふくわめるはたけに(1905ねん明治めいじ38ねん))
      • かいこ部屋へやはなちしぼたるあかねさすひるなりしかばくびすぢあかし(1906ねん明治めいじ39ねん))
      • つきちてさよるほのぐらいまだかも弥勒みろくでずむしけるかも(1907ねん明治めいじ40ねん))
      • こうひかるははこいまわまわきわまりててんあらたなり(1908ねん明治めいじ41ねん))
      • かやざうのちいさきもえてをればむねのあたりがうれしくなりぬ(1909ねん明治めいじ42ねん))
      • はかはらのとほきもりよりほろほろとのぼるけむりにかむとおもふ(1910ねん明治めいじ43ねん))
      • きてゐるなんじがすがたのありありとなに今頃いまごろえきたるかや(1911ねん明治めいじ44ねん))
      • けだものはしょくものこいひてたりなにといふやさしさぞこれは(1912ねん大正たいしょう元年がんねん))
      • くこゑはかなしけれどもゆうとりねむるなりわれはなくに(1913ねん大正たいしょう2ねん))
      • みちのくのははのいのちを一目いちもく一目いちもくみんとぞただにいそげる
      • ちかははに添寢のしんしんと遠田えんだのかはづてんに聞ゆる
      • のどあかげんとり(つばくらめ)ふたつはり(はり)にゐて垂乳根たらちねははにたまふなり
      • どんよりとそらくもりてりしときたびそらざりけるかも
      • めんどりらすなよくびゐたれひつそりと剃刀かみそりけんじん(かみそりとぎ)はきにけり
    • 「あらたま」
      • あかあかと一本いっぽんみちとほりたりたまきはるいのちなりけり
      • ゆうされば大根だいこんるしぐれいたくさびしくりにけるかも(1914ねん大正たいしょう3ねん))
      • あさあけてふねよりれるふとしふえのこだまはながみよろふさん(1917ねん大正たいしょう6ねん))
    • 「つゆじも」
      • あららぎのくれなゐのむときはちちははこい信濃しなのにして
    • とおゆう
      • Praterにひとりたりて奇術きじゅつのみ戦争せんそうしょうげき
    • 遍歴へんれき
      • からだぢゆうがそら(から)になりしごとらくにして途中とちゅう靴墨くつづみとマッチとをかい
    • 「ともしび」
      • 家出いえでてわれはきたしとき渋谷しぶやがわたまごのからがながれきょにけり
    • 「たかはら」
      • はかなごとわれはおもへりいままでにしょくひたきものは大方おおかたくひぬ(1929ねん昭和しょうわ4ねん))
      • 電信でんしんたい浄水じょうすい女子じょし大学だいがく刑務所けいむしょ射撃しゃげきじょう塹壕ざんごうあか鉄橋てっきょう隅田川すみだがわ品川しながわわん
    • 連山れんざん
      • 機関きかんじゅうおとをはじめてきたりし東北とうほくへいをわれはおもえほゆ(1930ねん昭和しょうわ5ねん))
    • 石泉いしずみ
      • おほつぴらに軍服ぐんぷく侵入しんにゅうるものをなんおもはねばならぬか(1932ねん昭和しょうわ7ねん))
    • 白桃はくとう
      • 新宿しんじゅくのムーラン・ルージュのかたすみにゆふまぐれきけり(1934ねん昭和しょうわ9ねん))
      • ヒツトラのこゑきしときなにかなまえぎょうしたりしらくかなしも
      • 陸奥みちのくをふたわけざまにそびえたまふ蔵王ざおうやまくもなか
    • 暁紅ぎょうこう
      • ガレージへトラックひとついれらむとすすこしためらひりてきたり(1935ねん昭和しょうわ10ねん))
    • かんくも
      • 歓喜天かんぎてんまえきつつくちびるをのぞきなどしてしづかにかえる(1937ねん昭和しょうわ12ねん))
    • 「のぼり
      • 交尾こうび大切たいせつにしてもろもろのうまももろじん一心いっしんとなる(1939ねん昭和しょうわ14ねん))
    • しも
      • 肉体にくたい自浄じじょう作用さようのあることをわれきしよりさんじゅうさんねんたり(1941ねん昭和しょうわ16ねん))
      • ならはなたれりてさきけるがかすかなるしんをわれにあずかへてやまず(1942ねん昭和しょうわ17ねん))
    • 小園こぞの
      • どしやりの午後ごごになりつつものをいふことさへもなく木瓜ぼけじつたり(1943ねん昭和しょうわ18ねん))
      • 鈍痛どんつうのごとき内在ないざいかんじたるけふの日頃ひごろをいかにらはむ(1944ねん昭和しょうわ19ねん))
      • このゆきなかにこもれるむら々にたたかひののうづくがごとし(1945ねん昭和しょうわ20ねん))
      • このくにのそらぶときかなしめよみなみへむかふ雨夜あまよかりがね(1945ねん昭和しょうわ20ねん))
      • 沈黙ちんもくのわれによとぞひゃくぼうくろ葡萄ぶどうあめふりそそぐ(今昔こんじゃく秀歌しゅうかひゃくせん 78)
    • しろやま
      • みずすましりゅうにむかひさかのぼるなんじがいきほひよかすかなれども(1946ねん昭和しょうわ21ねん))
      • 最上川もがみがわぎゃく白波しらなみのたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも(1946ねん昭和しょうわ21ねん))
      • ちたりといふ放送ほうそう興奮こうふんねむられざりしわれにあらずきや(1947ねん昭和しょうわ22ねん))
    • 「つきかげ」
      • たかむらのなかににほへるいちありかきなるやといへば「おう」とこそいへ(1948ねん昭和しょうわ23ねん))
      • ときとしてベルリン郊外こうがいのワン・ゼエにもしんおよ老人ろうじん(おいびと)われは(1949ねん昭和しょうわ24ねん))
      • 円柱えんちゅうしたゆく僧侶そうりょまだわかくこれよりさききいろいろのことがあるらむ(1950ねん昭和しょうわ25ねん))
      • おぼろなるわれの意識いしきかなしみぬあかつきがたの地震じしん(なゐ)ふるふころ(1951ねん昭和しょうわ26ねん))
      • うめはなうすくれなゐにひろがりしその中心ちゅうしん(なかど)にてものさかえ(は)ゆるらし(1952ねん昭和しょうわ27ねん))

    著書ちょしょ[編集へんしゅう]

    全集ぜんしゅう[編集へんしゅう]

    • 斎藤さいとう茂吉しげよし全集ぜんしゅう』(ぜん56かん)、岩波書店いわなみしょてん昭和しょうわ26-32ねん
    • 斎藤さいとう茂吉しげよし全集ぜんしゅう』(新版しんぱんぜん36かん)、岩波書店いわなみしょてん、1973-76ねん

    歌集かしゅう[編集へんしゅう]

    以下いかうた制作せいさくねんじゅん配列はいれつしたもの。上梓じょうしねんとは順序じゅんじょちがうことに注意ちゅうい

    • 歌集かしゅうめい 制作せいさくねん発行はっこうしょ上梓じょうしねん
    • あかこう明治めいじ38 - 大正たいしょう2(東雲しののめどう書店しょてん、1913ねん大正たいしょう2ねん)10がつ
    • あらたま大正たいしょう2 - 6(春陽しゅんようどう、1921ねん大正たいしょう10ねん)1がつ
    • あさぼたる』?(改造かいぞうしゃ、1925ねん大正たいしょう14ねん)4がつ自選じせん歌集かしゅう
    • 『つゆじも』 大正たいしょう6 - 11(岩波書店いわなみしょてん、1946ねん昭和しょうわ21ねん)8がつ
    • とおゆう大正たいしょう11 - 12(岩波書店いわなみしょてん、1947ねん昭和しょうわ22ねん)8がつ
    • 遍歴へんれき大正たいしょう12 - 14(岩波書店いわなみしょてん、1948ねん昭和しょうわ23ねん)4がつ
    • 『ともしび』 大正たいしょう14 - 昭和しょうわ3(岩波書店いわなみしょてん、1950ねん昭和しょうわ25ねん)1がつ
    • 『たかはら』 昭和しょうわ4 - 5(岩波書店いわなみしょてん、1950ねん昭和しょうわ25ねん)6がつ
    • 連山れんざん昭和しょうわ5(岩波書店いわなみしょてん、1950ねん昭和しょうわ25ねん)11がつ
    • 石泉いしずみ昭和しょうわ6 - 7(岩波書店いわなみしょてん、1951ねん昭和しょうわ26ねん)6がつ
    • 白桃はくとう昭和しょうわ8 - 9(岩波書店いわなみしょてん、1942ねん昭和しょうわ17ねん)2がつ
    • 暁紅ぎょうこう昭和しょうわ10 - 11(岩波書店いわなみしょてん、1940ねん昭和しょうわ15ねん)6がつ
    • かんくも昭和しょうわ12 - 14(古今ここん書院しょいん、1940ねん昭和しょうわ15ねん)3がつ
    • 『のぼり昭和しょうわ14 - 15(岩波書店いわなみしょてん、1943ねん昭和しょうわ18ねん)11がつ
    • しも昭和しょうわ16 - 17(岩波書店いわなみしょてん、1951ねん昭和しょうわ26ねん)12がつ
    • 小園こぞの昭和しょうわ18 - 21(岩波書店いわなみしょてん、1949ねん昭和しょうわ24ねん)4がつ
    • しろやま昭和しょうわ21 - 22(岩波書店いわなみしょてん、1949ねん昭和しょうわ24ねん)8がつ
    • 『つきかげ』 昭和しょうわ23 - 27(岩波書店いわなみしょてん、1954ねん昭和しょうわ29ねん)2がつ遺作いさく

    歌論かろん随筆ずいひつ[編集へんしゅう]

    • 短歌たんかわたし鈔』(白日はくじつしゃ、1916ねん大正たいしょう5ねん)4がつ
    • ぞく短歌たんかわたし鈔』(岩波書店いわなみしょてん、1917ねん大正たいしょう6ねん)4がつ
    • わらわ漫語まんご』(春陽しゅんようどう、1919ねん大正たいしょう8ねん)8がつ
    • 金塊きんかいしゅうわたししょう』(春陽しゅんようどう、1926ねん大正たいしょう15ねん)4がつ
    • 短歌たんか写生しゃせいせつ』(鉄塔てっとう書院しょいん、1929ねん昭和しょうわ4ねん)4がつ
    • 念珠ねんじゅしゅう』(鉄塔てっとう書院しょいん、1930ねん昭和しょうわ5ねん)8がつ
    • 新選しんせん秀歌しゅうかひゃくしゅ』(改造かいぞう文庫ぶんこ、1933ねん昭和しょうわ8ねん)5がつ
    • 柿本人麿かきのもとのひとまろ総論そうろんへん)』(岩波書店いわなみしょてん、1934ねん昭和しょうわ9ねん)11がつ
    • 柿本人麿かきのもとのひとまろかもさんこう補注ほちゅうへん)』(岩波書店いわなみしょてん、1935ねん昭和しょうわ10ねん)10がつ
    • 柿本人麿かきのもとのひとまろ評釈ひょうしゃくへんまき うえ)』(岩波書店いわなみしょてん、1937ねん昭和しょうわ12ねん)5がつ
    • 万葉まんよう秀歌しゅうか上下じょうげ)』(岩波いわなみ新書しんしょ、1938ねん昭和しょうわ13ねん)11月)-※すう改版かいはんされ重刷じゅうさつ
    • 柿本人麿かきのもとのひとまろ評釈ひょうしゃくへんまき した)』(岩波書店いわなみしょてん、1939ねん昭和しょうわ14ねん)2がつ
    • 不断ふだんけい』(書物しょもつ展望てんぼうしゃ、1940ねん昭和しょうわ15ねん)4がつ
    • 高千穂峰たかちほのみね』(改造かいぞうしゃ、1940ねん昭和しょうわ15ねん)6がつ
    • 柿本人麿かきのもとのひとまろ雑纂ざっさんへん)』(岩波書店いわなみしょてん、1940ねん昭和しょうわ15ねん)12がつ
    • 伊藤いとう左千夫さちお』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1942ねん昭和しょうわ17ねん)8がつ
    • 源実朝みなもとのさねとも』(岩波書店いわなみしょてん、1943ねん昭和しょうわ18ねん)6がつ
    • 小歌こうたろん』(だいいち書房しょぼう、1943ねん昭和しょうわ18ねん)11がつ
    • わらわ馬山まやまぼう夜話やわだいいち』(八雲やくも書店しょてん、1944ねん昭和しょうわ19ねん)7がつ
    • わらわ馬山まやまぼう夜話やわだい』(八雲やくも書店しょてん、1944ねん昭和しょうわ19ねん)9がつ
    • 文学ぶんがく直路ちょくろ』(青磁せいじしゃ、1945ねん昭和しょうわ20ねん)4がつ
    • 短歌たんか一家言いっかげん』(斎藤さいとう書店しょてん、1947ねん昭和しょうわ22ねん)1がつ
    • 作歌さっかしょう』(よう書房しょぼう、1947ねん昭和しょうわ22ねん)4がつ
    • 万葉まんよううたさかい』(青磁せいじしゃ、1947ねん昭和しょうわ22ねん)4がつ
    • わらわうし漫語まんご』(斎藤さいとう書店しょてん、1947ねん昭和しょうわ22ねん)7がつ
    • 茂吉しげよし小文おぶみ』(朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1949ねん昭和しょうわ24ねん)2がつ
    • 島木しまき赤彦あかひこ』(角川書店かどかわしょてん、1949ねん昭和しょうわ24ねん)3がつ
    • 幸田こうだ露伴ろはん』(洗心せんしん書林しょりん、1949ねん昭和しょうわ24ねん)7がつ
    • 近世きんせい歌人かじん評伝ひょうでん』(よう書房しょぼう、1949ねん昭和しょうわ24ねん)9がつ
    • 明治めいじ大正たいしょう短歌たんか』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1950ねん昭和しょうわ25ねん)10がつ
    • ぞく明治めいじ大正たいしょう短歌たんか』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1951ねん昭和しょうわ26ねん)3がつ
    • 歌壇かだん夜叉やしゃ』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1951ねん昭和しょうわ26ねん)4がつ

    文庫ぶんこ[編集へんしゅう]

    参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

    • きた杜夫もりお青年せいねん茂吉しげよし――「あかこう」「あらたま」時代じだい岩波書店いわなみしょてん、のち岩波いわなみ現代げんだい文庫ぶんこ ISBN 4006020279
    • きた杜夫もりお壮年そうねん茂吉しげよし――「つゆじも」〜「ともしび」時代じだい岩波いわなみ現代げんだい文庫ぶんこ ISBN 4006020287
    • きた杜夫もりお茂吉しげよし彷徨ほうこう――「たかはら」〜「小園こぞの時代じだい岩波いわなみ現代げんだい文庫ぶんこ ISBN 4006020295
    • きた杜夫もりお茂吉しげよし晩年ばんねん――「しろやま」「つきかげ」時代じだい岩波いわなみ現代げんだい文庫ぶんこ ISBN 4006020309
    • きた杜夫もりおにれひとびと新潮社しんちょうしゃ、のち新潮しんちょう文庫ぶんこ
    • 「アララギ 斎藤さいとう茂吉しげよし追悼ついとうごう」(1953ねん昭和しょうわ28ねん)10がつごう
    • 斎藤さいとう茂吉しげよし歌集かしゅう岩波いわなみ文庫ぶんこ ISBN 4003104420山口やまぐち茂吉しげよししば生田いくたみのる佐藤さとう佐太郎さたろうへん
    • 斎藤さいとう茂吉しげよし歌論かろんしゅう岩波いわなみ文庫ぶんこ ISBN 4003104439しば生田いくたみのるへん
    • 中野なかの重治しげはる斎藤さいとう茂吉しげよしノート』 新版しんぱんちくま学芸がくげい文庫ぶんこ ISBN 4-480-08180-1
    • 土屋つちや文明ふみあきへん斎藤さいとう茂吉しげよし短歌たんか合評がっぴょう明治めいじ書院しょいんうえした) 1985ねん昭和しょうわ60ねん
    • 佐藤さとう佐太郎さたろう斎藤さいとう茂吉しげよし秀歌しゅうか』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ
      • 斎藤さいとう茂吉しげよし秀歌しゅうかせんたからぶんかん)、斎藤さいとう茂吉しげよし研究けんきゅうたからぶんかん)、斎藤さいとう茂吉しげよし言行げんこう角川書店かどかわしょてん
      • わらわ馬山まやまぼうずい聞(岩波書店いわなみしょてん)、茂吉しげよし解説かいせつ彌生やよい書房しょぼう)、茂吉しげよし秀歌しゅうか岩波いわなみ新書しんしょ じょうした
    • 岡井おかいたかし斎藤さいとう茂吉しげよし中野なかの重治しげはる砂子屋さごや書房しょぼう 1993ねん平成へいせい5ねん
    • 塚本つかもと邦雄くにお茂吉しげよし秀歌しゅうかぜん5さつかく文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、のち講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ
      • 茂吉しげよし秀歌しゅうかあかこうひゃくしゅ」、「茂吉しげよし秀歌しゅうか『あらたま』ひゃくしゅ」、「茂吉しげよし秀歌しゅうか『つゆじも』『とおゆう』『遍歴へんれき』『ともしび』『たかはら』『連山れんざん』『石泉いしずみひゃくしゅ
      • 茂吉しげよし秀歌しゅうか白桃はくとう』『暁紅ぎょうこう』『かんくも』『のぼりひゃくしゅ」、「茂吉しげよし秀歌しゅうかしも』『小園こぞの』『しろやま』『つきかげ』ひゃくしゅ
    • 秋葉あきば四郎しろうしんろん 歌人かじん茂吉しげよし』(角川書店かどかわしょてん
      • 歌人かじん茂吉しげよし 人間にんげん茂吉しげよし』(NHK出版しゅっぱん)、『茂吉しげよし まぼろし歌集かしゅうまんぐん』』(岩波書店いわなみしょてん
    • 高橋たかはしりょう斎藤さいとう茂吉しげよしからの系譜けいふ文芸ぶんげいしゃ、2021ねんれい3ねん

    伝記でんき文献ぶんけん[編集へんしゅう]

    • 斎藤さいとうしげるふとし茂吉しげよし体臭たいしゅう岩波書店いわなみしょてん、1964ねん昭和しょうわ39ねん)、復刊ふっかん1982ねんほか
      • 岩波いわなみ現代げんだい文庫ぶんこ改訂かいていばん)、2000ねん平成へいせい12ねん
      • 斎藤さいとうしげるふとしきた杜夫もりお『このちちにして 素顔すがお斎藤さいとう茂吉しげよし講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ、1980ねん昭和しょうわ55ねん
      • 斎藤さいとうしげるふとし回想かいそうちち茂吉しげよし はは輝子てるこ中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1993ねん平成へいせい5ねん)/中公ちゅうこう文庫ぶんこ、1997ねん平成へいせい9ねん
    • しば生田いくたみのる斎藤さいとう茂吉しげよしでん新潮社しんちょうしゃただしつづけ)、1979ねん昭和しょうわ54ねん)‐ 1981ねん昭和しょうわ56ねん
    • 品田しなだえついち斎藤さいとう茂吉しげよし あかあかと一本いっぽんみちとほりたり』 ミネルみねるァ書房ぁしょぼう日本にっぽん評伝ひょうでんせん〉、2010ねん平成へいせい22ねん
    • 小泉こいずみ博明ひろあき斎藤さいとう茂吉しげよし なやめる精神病せいしんびょう眼差まなざし』 ミネルみねるァ書房ぁしょぼうひと文化ぶんか探究たんきゅう〉、2016ねん平成へいせい28ねん

    関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

    脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

    注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

    1. ^ 戸籍こせきじょう明治めいじ15ねん7がつ27にち
    2. ^ このことは茂吉しげよし日記にっき次男じなん宗吉そうきちきた杜夫もりお)やまご由香ゆか証言しょうげんにものこっている
    3. ^ この不良ふりょうダンス教師きょうしをめぐる有閑ゆうかんおんなぐんなかには青山あおやまぼう病院びょういんちょう医学いがく博士はかせ夫人ふじんなどのもあげられ、みにく数々かずかず場面ばめん係官かかりかんまえさらしている 『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ8ねん11月8にち

    出典しゅってん[編集へんしゅう]

    1. ^ 斎藤さいとうしげるふとしあかいレンガ」『医学いがく芸術げいじゅつ昭和しょうわ57ねん10がつごう 斎藤さいとう茂吉しげよし生誕せいたんひゃくねん 坪井つぼい医院いいん千代田ちよだ神田和泉かんだいずみまち1)のウェブサイトへの転載てんさい平成へいせい23ねん11月3にち閲覧えつらん
    2. ^ 精神せいしん医学いがく古典こてんむ』みすず書房しょぼう,1989ねん、212ページ
    3. ^ a b 斉藤さいとうしげるふとし精神せいしん待合室まちあいしつ中公ちゅうこう文庫ぶんこ 1978ねん3がつ発刊はっかん
    4. ^ 官報かんぽうだい2449ごう、「叙任じょにん及辞れい」1920ねん9がつ30にち
    5. ^ a b c d e f 斎藤さいとう茂吉しげよしりゃく年譜ねんぷ財団ざいだん法人ほうじん 斎藤さいとう茂吉しげよし記念きねんかん
    6. ^ 人事じんじ興信録こうしんろく14はんじょうサ75-76
    7. ^ 山上やまかみ次郎じろう 文芸春秋ぶんげいしゅんじゅう p359
    8. ^ a b 「あはれひとつのいきいきづく」(永井ながいふさ)【漱石そうせき明治めいじじんのことば356】サライjp
    9. ^ a b 玉井たまい崇夫たかお茂吉しげよし観音かんのんさま-歌人かじん 永井ながいふさ」『文芸ぶんげい研究けんきゅうだい96ごう明治大学めいじだいがく文芸ぶんげい研究けんきゅうかい、2005ねん、119-126ぺーじISSN 03895882NAID 120001439682 
    10. ^ 永遠えいえん少年しょうねん!? 近代きんだい代表だいひょうする歌人かじん斎藤さいとう茂吉しげよし、そのつまうつくしき愛人あいじん 日本にっぽん気象きしょう協会きょうかい
    11. ^ a b 斎藤さいとう茂吉しげよし永井ながいふさあい四国しこくなるをとめこいしも~”. 愛媛えひめCATV. 2019ねん10がつ14にち閲覧えつらん
    12. ^ 齋藤さいとう茂吉しげよし全集ぜんしゅうだいさんじゅういちかん p.540およびp.681(岩波書店いわなみしょてん
    13. ^ きた杜夫もりお『どくどるマンボウあお春記はるき
    14. ^ a b c 共同きょうどう斎藤さいとう茂吉しげよしのはがき24つう発見はっけん――吉井よしいいさむ再婚さいこんうらやむ」『斎藤さいとう茂吉しげよしのはがき24つう発見はっけん 吉井よしいいさむ再婚さいこんうらやむ ― スポニチ Sponichi Annex 社会しゃかいスポすぽツニッポン新聞社つにっぽんしんぶんしゃ2014ねん4がつ30にち
    15. ^ きた杜夫もりお「マンボウ最後さいごだいバクチ」新潮社しんちょうしゃ
    16. ^ 日本にっぽん画壇がだん重鎮じゅうちん死去しきょ東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ8ねん10がつ31にち(『昭和しょうわニュース事典じてんだい4かん 昭和しょうわ8ねん-昭和しょうわ9ねん本編ほんぺんp603 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん

    外部がいぶリンク[編集へんしゅう]