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米ソ関係 - Wikipedia

べい関係かんけい

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとソビエト連邦れんぽうこくあいだ関係かんけい
まい関係かんけいから転送てんそう

べい関係かんけい(べいソかんけい、えい: United States–Soviet Union relations、: Советско-американские отношения)とは、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくソビエト連邦れんぽうとの両国りょうこく関係かんけいである。

べい関係かんけい
Soviet UnionとUnited Statesの位置を示した地図

ソビエト連邦れんぽう

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
ひだりから英国えいこく首相しゅしょうウィンストン・チャーチル米国べいこく大統領だいとうりょうフランクリン・D・ルーズベルトソ連それん最高さいこう指導しどうしゃヨシフ・スターリン。1945ねん4がつヤルタ会談かいだんにて。この会談かいだん結果けっかにより形成けいせいされた世界せかい秩序ちつじょは、以後いごはん世紀せいきわた維持いじされつづけ、1989ねん東欧とうおう革命かくめいとそのソ連それん解体かいたいによりようやく終焉しゅうえんがもたらされた。

べい関係かんけいは、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくロシア帝国ていこくとの関係かんけい歴史れきしぎ、1933ねん米国べいこくによるソ連それん承認しょうにんをもって完全かんぜん確立かくりつされた。また、冷戦れいせん終結しゅうけつの1992ねんはじまり現在げんざいまで継続けいぞくするロシア連邦れんぽう米国べいこくとの両国りょうこく関係かんけい前身ぜんしん相当そうとうする。べい関係かんけいおも不信ふしんかん敵意てきいもとづく緊張きんちょう関係かんけいによって規定きていされてきた経緯けいいがある。1941ねん6がつドイツによるソ連それん侵攻しんこうと、同年どうねん12がつ日本にっぽんによる真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきとにより、べい両国りょうこくはそれぞれともだい世界せかい大戦たいせん連合れんごうこくがわたたかうことになった。しかし、1945ねん連合れんごうこく勝利しょうりにより、枢軸すうじくこくたいする連合れんごうこくがわとしてのべい同盟どうめい終結しゅうけつむかえると、ソ連それん東欧とうおう諸国しょこく軍事ぐんじ占領せんりょうしたうえでこれらを衛星えいせい国家こっかとし、東側ひがしがわ勢力せいりょくけん形成けいせいこころみた。これにより、両国りょうこく関係かんけいには不信ふしんかん敵意てきいもとづく緊張きんちょう関係かんけい兆候ちょうこうあらわはじめ、やがて冷戦れいせんへと発展はってんしていった。冷戦れいせんは、短期間たんきかん緊張きんちょう緩和かんわ時期じきふくすうじゅうねんにわたる両国りょうこくあいだ緊張きんちょうした敵対てきたい関係かんけい時代じだいであり、1991ねんまつソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかいおよび今日きょうロシア連邦れんぽう成立せいりつのち終結しゅうけつした。

だい世界せかい大戦たいせんまえ (1917ねん - 1939ねん)

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臨時りんじ政府せいふ時代じだい

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アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく首脳しゅのうは、がつ革命かくめいニコライ2せい退位たいいけてもなお、あらたに成立せいりつしたロシア臨時りんじ政府せいふしたでの内紛ないふん関知かんちしておらず、ロシアは今後こんごすぐに民主みんしゅしたうえたいどく戦争せんそう連合れんごうこくがわとして貢献こうけんするだろうとおもんでいた[1]臨時りんじ政府せいふ樹立じゅりつちゅうペトログラード米国べいこく大使たいしデビッド・R・フランシス英語えいごばんは、「(革命かくめいは)我々われわれ支持しじ擁護ようごしてきた政府せいふ原則げんそく実質じっしつてき実現じつげんである。わたしっているのは支配しはいしゃ同意どういによる政府せいふのことである。我々われわれ承認しょうにんは、とく最初さいしょされた場合ばあいおどろくべき倫理りんりてき効果こうかをもたらすだろう。」として、米国べいこく政府せいふ首脳しゅのうただちにしん政府せいふ承認しょうにんするようもとめた。結局けっきょく米国べいこく政府せいふ臨時りんじ政府せいふを1917ねん3がつ22にち承認しょうにんし、これを承認しょうにんした最初さいしょ外国がいこく政府せいふとなった[2][1][3]。1週間しゅうかんたいどく宣戦せんせん布告ふこくもとめる議会ぎかい演説えんぜつさいに、米国べいこく大統領だいとうりょうウッドロウ・ウィルソンは「ここすう週間しゅうかんロシアでこっているワンダフルで心強こころづよ出来事できごとにより、べい国民こくみん全員ぜんいんが、将来しょうらい世界せかい平和へいわたいする希望きぼう確信かくしんくわわったとかんじているのではないだろうか。……名誉めいよ同盟どうめいにふさわしき仲間なかまがここにいる。」とべた[1][4]

誕生たんじょうしたての議会ぎかいせい民主みんしゅ主義しゅぎによるロシアが戦争せんそう貢献こうけんふたた活発かっぱつさせることを期待きたいして、ウィルソンはロシアしん政府せいふとの関係かんけい構築こうちくした。たいどく宣戦せんせん布告ふこく議会ぎかいもとめた翌日よくじつ、ウィルソンは総額そうがく3おく2500まんドルにもおよ貸付かしつけ開始かいしし、実際じっさいにその半分はんぶん使つかわれることとなった。くわえて、エリフ・ルートおよびアメリカ労働ろうどうそう同盟どうめいキリスト教きりすときょう青年せいねんかいインターナショナル・ハーベスター英語えいごばん代表だいひょうしゃからなる代表だいひょうだんをルート・ミッションとしてペトログラード派遣はけんし、米国べいこくがロシアに戦争せんそう関与かんようながすための手段しゅだん内容ないようについて交渉こうしょうおこなった[5]。しかし、代表だいひょうだん人選じんせん不適切ふてきせつであったこと、代表だいひょうだん関心かんしん欠如けつじょ、ペトログラード・ソビエト(一部いちぶのメンバーはロシアの戦争せんそう継続けいぞく反対はんたいしていた)のたす役割やくわり影響えいきょうりょく軽視けいしにより、結果けっかてき両国りょうこく関係かんけいにはほとんど利益りえきがもたらされることはかった。米国べいこく首脳しゅのうは、臨時りんじ政府せいふからは国内こくない状況じょうきょうについてこのましい報告ほうこくけていた一方いっぽうで、人民じんみんぐん身近みぢか接触せっしょくしていた米国べいこく領事館りょうじかんぐん関係かんけいしゃらからはたびたび臨時りんじ政府せいふによる報告ほうこく内容ないようについて疑念ぎねんつよう警告けいこくけていた。しかし結局けっきょくじゅうがつ革命かくめいによる臨時りんじ政府せいふ崩壊ほうかいは、米国べいこく政府せいふべい国民こくみんとの不意ふいかたちとなった[1][5][6]

ソビエト・ロシアの成立せいりつ

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協商きょうしょうこくのロシア内戦ないせんへの介入かいにゅうのなか、ウラジオストク行進こうしんする米国べいこく部隊ぶたい

じゅうがつ革命かくめいによりボリシェヴィキ政権せいけんうばうと、ウラジーミル・レーニンはロシアをだいいち世界せかい大戦たいせん戦線せんせんから撤退てったいさせた。これによって、ドイツは西部せいぶ戦線せんせん連合れんごう国軍こくぐん対峙たいじするべく軍備ぐんびさい配置はいちすることが可能かのうになった。同時どうじに、ロシアは個別こべつ和平わへいかんするさんこく協商きょうしょう規定きてい違反いはんしたものと連合れんごうこくがわによりなされることとなった[7]。ウィルソンはあらたにまれたロシア・ソビエト連邦れんぽう社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくした人権じんけん状況じょうきょう問題もんだいするようになり、しん政権せいけんによる好戦こうせんてきかみろん統制とうせい経済けいざい提唱ていしょうこととなえた。さらに、共産きょうさん主義しゅぎ革命かくめい西欧せいおうにまで波及はきゅうすることを懸念けねんし、じゅうよんじょう平和へいわ原則げんそく発表はっぴょうしたが、これには普遍ふへんてきなイデオロギーとは共産きょうさん主義しゅぎではなく自由じゆう民主みんしゅ主義しゅぎであるということをかかげる意図いとがあった[8][9]

一方いっぽうウィルソンは、あらたに誕生たんじょうした国家こっかロシア内戦ないせん終結しゅうけつ最終さいしゅうてきには自由じゆう市場いちば経済けいざいによる体制たいせいへと移行いこうするだろうし、またソビエト・ロシアに介入かいにゅうすることはかえってロシアを米国べいこく敵対てきたいさせることになるだろうともかんがえていた。同様どうように、きゅうロシア帝国ていこくのポーランド地域ちいきあらたに独立どくりつしたポーランドだい共和きょうわこく割譲かつじょうすべきと主張しゅちょうしていた一方いっぽうで、じゅうよんじょうによる戦争せんそう不干渉ふかんしょう政策せいさく提示ていじした。さら上院じょういん外交がいこう委員いいんかい委員いいんちょうヘンリー・カボット・ロッジふくむウィルソンの政敵せいてきおおくは、ウクライナ独立どくりつ達成たっせいされるべきだとかんがえていた。しかし結果けっかとして米国べいこくは、日本にっぽんのロシア支配しはい地域ちいきへの進出しんしゅつおそれたのもあり、チェコ軍団ぐんだん救出きゅうしゅつ名分めいぶんに、北方ほっぽうロシアおよびシベリア地域ちいき少数しょうすう部隊ぶたい派遣はけんすることとなった。米国べいこくしろぐんたい食料しょくりょう物資ぶっしなどの間接かんせつ援助えんじょおこなった[7][10][8]

1919ねんパリ講和こうわ会議かいぎにおいて、ウィルソンと英国えいこく首相しゅしょうデビッド・ロイド・ジョージは、フランス大統領だいとうりょうジョルジュ・クレマンソーイタリア外相がいしょうシドニー・ソンニーノ英語えいごばん反対はんたいがあったなかで、プリンキポ英語えいごばんでボリシェヴィキとしろぐん勢力せいりょくによる対話たいわおこなわせ、どう会議かいぎへのロシア共通きょうつう代表だいひょうだん結成けっせいさせようというかんがえをすすめた。ソビエト外務がいむ委員いいんかいは、レフ・トロツキーゲオルギー・チチェーリン指導しどうしたえいべい特使とくし丁重ていちょうむかえたが、やがて世界せかい革命かくめいにより一掃いっそうされるであろうふる資本しほん主義しゅぎ秩序ちつじょ構成こうせいされているとかんがえていた会議かいぎによる協定きょうてい同意どういするつもりはかった。1921ねんまでに、ボリシェヴィキがロシア内戦ないせん優勢ゆうせいとなり、ロマノフ一族いちぞく殺害さつがいし、「人民じんみんてき」となしたものたいして赤色あかいろテロおこない、ロシア負債ふさいたおし、世界せかい革命かくめいびかけるようになると、ロシアは世界せかいだい部分ぶぶんからもの国家こっかなされるようになった[8]くわえて両国りょうこくあいだには、ロシア内戦ないせん問題もんだい以前いぜんに、投資とうしさき国有こくゆうされたことに起因きいんする米国べいこく企業きぎょうによる損害そんがい賠償ばいしょう請求せいきゅうめぐ懸案けんあん存在そんざいした[11]

米国べいこくによるロシア飢饉ききん救援きゅうえんさく

編集へんしゅう
 
米国べいこく救援きゅうえんきょく活動かつどう。1922ねん、ロシアにて。

ハーバート・フーバーした戦後せんご欧州おうしゅうたいしては米国べいこく救援きゅうえんきょく英語えいごばん(ARA)をつうじてだい規模きぼ食糧しょくりょう援助えんじょ提供ていきょうされた。1921ねん、ソビエト政府せいふによる戦時せんじ共産きょうさん主義しゅぎ政策せいさくによってこされたロシア・ソビエト連邦れんぽう社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわ国内こくないでの壊滅かいめつてき飢餓きが対応たいおうするために、ARA欧州おうしゅう局長きょくちょうであったウォルター・ライマン・ブラウンはロシア人民じんみん外務がいむ委員いいんかいマクシム・リトヴィノフリガラトビア)で交渉こうしょう開始かいしした。同年どうねん8がつ21にち合意ごうい形成けいせいされ、12月30にちには追加ついか協定きょうていがブラウンと対外たいがい貿易ぼうえき人民じんみん委員いいんレオニード・クラーシンとのあいだむすばれた。米国べいこく議会ぎかいは、1921ねんロシア飢餓きが救済きゅうさいほう英語えいごばんもとづく救援きゅうえんやく2000まんドルを計上けいじょうした。フーバーはボリシェヴィキの思想しそうつよ嫌悪けんおしており、米国べいこくによる援助えんじょ西側にしがわ資本しほん主義しゅぎ社会しゃかい優位ゆういせい実証じっしょうすると同時どうじに、共産きょうさん主義しゅぎ蔓延まんえん抑制よくせいするのに役立やくだつだろうとかんがえていた[12][13]

ARAはピークには300にんあまりの米国べいこくじんと12まんにん以上いじょうのロシアじん雇用こようしながら、1にちたり1050まんにん食料しょくりょう提供ていきょうしていた。ロシアにおけるこの任務にんむ指揮しきにはウィリアム・N・ハスキル英語えいごばん大佐たいさたっていた。また、ARAの医療いりょう部門ぶもんは1921ねん11月から1923ねん6がつまで活動かつどうし、当時とうじロシアをおそっていた発疹ほっしんチフス流行りゅうこうへの対処たいしょ貢献こうけんした。ARAによる飢餓きが救援きゅうえん活動かつどうは、ロシアにおいてはきわめて小規模しょうきぼ存在そんざいであったメノナイトユダヤじんクエーカー教徒きょうとによっても並行へいこうしておこなわれた[14][15]

 
1921ねんのARAのポスター。

ARAによる活動かつどうは、レーニン政権せいけんのロシアが穀物こくもつ輸出ゆしゅつ再開さいかいしたことをけて、1923ねん6がつ15にちをもって終了しゅうりょうした[16]

初期しょき貿易ぼうえき関係かんけい

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米国べいこく外交がいこう政策せいさく主導しゅどうしゃらは、1922ねんにソビエト・ロシアによって建国けんこくされたソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく連邦れんぽう自国じこく価値かちかんにとって敵対てきたいてき存在そんざいになりるだろうということを確信かくしんしていた。共和党きょうわとう出身しゅっしん国務こくむ長官ちょうかんチャールズ・エヴァンス・ヒューズソ連それん承認しょうにん拒否きょひしたうえで、米国べいこく労働ろうどう組合くみあい指導しどうしゃらにたいしては「モスクワの支配しはいしゃ世界中せかいじゅう可能かのうであるかぎ既存きそん政府せいふ破壊はかいつづけるという本来ほんらい目的もくてき放棄ほうきしていない。」とげた[17]カルビン・クーリッジ政権せいけん国務こくむ長官ちょうかんフランク・ケロッグは、クレムリンしたにある国際こくさい機関きかんである共産きょうさん主義しゅぎインターナショナル(コミンテルン)が「既存きそん秩序ちつじょくつがえす」ために米国べいこくふく他国たこく政府せいふ転覆てんぷく積極せっきょくてき計画けいかくしていると警告けいこくした[18]

一方いっぽう英国えいこく共産きょうさん主義しゅぎ世界せかい各国かっこく政府せいふ転覆てんぷくこころみているという見方みかたをするのには消極しょうきょくてきで、むしろロシア負債ふさい問題もんだい苛立いらだちながらもロシアとの関係かんけいとく貿易ぼうえき関係かんけい再開さいかい率先そっせんてきんだ。米国べいこく民間みんかんでは、技術ぎじゅつてき側面そくめん中心ちゅうしんに、たい関係かんけいさい構築こうちくしていこうというこころみがあった[19]ヘンリー・フォード国際こくさい貿易ぼうえき戦争せんそう回避かいひのための最良さいりょう方法ほうほうであるとかんがえており、自身じしんフォード・モーターもちいてトラック生産せいさんし、ロシアにトラクターを輸出ゆしゅつした。建築けんちくであったアルバート・カーンソ連それん建設けんせつ産業さんぎょう全般ぜんぱん寄与きよしたほか一部いちぶ左翼さよくけい知識ちしきじんソ連それんたいして興味きょうみしめすようになった[20]。1930年代ねんだい以降いこうになると、米国べいこくおおくの活動かつどう知識ちしきじん米国べいこく共産党きょうさんとう党員とういん支持しじしゃとなり、ソ連それんへの支持しじあおった。また、アメリカ労働ろうどうそう同盟どうめい(AFL)は反共はんきょう主義しゅぎのベースとなったのにたいし、一部いちぶ左翼さよく分子ぶんし対抗たいこうして1930年代ねんだい後半こうはん産業さんぎょう団体だんたい会議かいぎ英語えいごばん(CIO)を結成けっせいするなど、米国べいこく労働ろうどう運動うんどうには分裂ぶんれつ傾向けいこうられた。米国べいこく共産党きょうさんとうはCIOにおいておおきな役割やくわりたしてきたが、1946ねん以降いこうメンバーの排斥はいせきはじまるようになると、米国べいこく労働ろうどうしゃ組織そしきはんてき傾向けいこうしめすようになった[21]

1924ねんにニューヨークを拠点きょてん設立せつりつされたアムトルグ貿易ぼうえき会社かいしゃは、以後いご1946ねんいたるまで計数けいすうひゃくまんドルの貿易ぼうえきあつかうなど、ソ連それんたいべい貿易ぼうえき管理かんりにおいて主要しゅよう役割やくわりたした[22][23]。アムトルグは、木材もくざい毛皮けがわ亜麻あまキャビアなどをふくソ連それんからのほぼすべての輸出ゆしゅつひんと、工業こうぎょう原料げんりょう産業さんぎょうよう機械きかいなどのすべての輸入ゆにゅうひんあつかった。さらに、米国べいこく企業きぎょうたいしてはたい貿易ぼうえき機会きかいかんする情報じょうほう仕入しいれ、ソ連それん企業きぎょうたいしては米国べいこく企業きぎょう技術ぎじゅつかんする情報じょうほうをもたらすという役目やくめになった[24][25]。アムトルグはソ連それんによる米国べいこくでのスパイ活動かつどうにも関与かんよしていた[26][27]

米国べいこくじん実業じつぎょうアーマンド・ハマーはレーニン政権せいけんソ連それんにおける鉛筆えんぴつ工場こうじょう建設けんせつ米国べいこくさん穀物こくもつたい輸出ゆしゅつたずさわった。さらに、アスベスト鉱山こうざん開発かいはつやウラル以東いとうにおける毛皮けがわ生産せいさん拡充かくじゅうにもんだ。レーニンによる戦時せんじ共産きょうさん主義しゅぎ政策せいさく失敗しっぱいし、ネップ開始かいしされると、ハマーはソ連それんと38の国際こくさい企業きぎょうとのあいだ仲介ちゅうかいたした[28]。レーニン死去しきょまえっていたフォードソン英語えいごばんトラクターの輸入ゆにゅう交渉こうしょうは、ソ連それん農業のうぎょう機械きかいおおきく寄与きよすることとなった[29][28]。そのスターリン権力けんりょく掌握しょうあくすると、ハマーはべいあいださらなる追加ついか協定きょうていのための交渉こうしょう仲介ちゅうかいになった[28]

歴史れきしハーヴェイ・クレール英語えいごばんは、「(ハマーは)1921ねんにレーニンと会談かいだんし、ソ連それんにおける鉛筆えんぴつ工業こうぎょう設置せっちゆるえに、欧米おうべい共産党きょうさんとう支援しえんするためのソ連それんによる資金しきん洗浄せんじょうになうことに同意どういした。」といているほか[30]おなじく歴史れきしエドワード・ジェイ・エプスタイン英語えいごばんは、「ハマーはモスクワから様々さまざまめんにおいて規格きかくがい待遇たいぐうけた。1932ねん米国べいこく帰国きこくには、ソ連それん政府せいふすうひゃくまんドルぶんにも相当そうとうする帝政ていせい時代じだい芸術げいじゅつひん国外こくがいすことをゆるした。」とべている[31]。ジャーナリストのアラン・ファーンハムは、「CIAやFBIがかれ本当ほんとう諜報ちょうほういんなのではないかとうたがうほど、ハマーはなんじゅうねんにもわたってロシアへの渡航とこうかえし、その指導しどうしゃらとっていた。」とべている[32]

1929ねんヘンリー・フォードは、ゴーリキーGAZによるソ連それんはつ自動車じどうしゃ工場こうじょう建設けんせつさいして9年間ねんかん技術ぎじゅつ支援しえんをロシアがわ提供ていきょうする協定きょうていむすんだ[33][34]。この工場こうじょうフォード・モデルAおよびモデルAAの生産せいさん予定よていしていた[34]同年どうねん8がつ23にちには、工場こうじょう建設けんせつかんして追加ついか協定きょうていがオースティンしゃとのあいだ締結ていけつされた[35]。この協定きょうていでは、ソ連それんがわ工場こうじょうプラント操業そうぎょう開始かいしから最初さいしょの4年間ねんかん生産せいさん用途ようとにフォードの車両しゃりょうやく3000まんドル相当そうとうぶん輸入ゆにゅうすることがめられ、以降いこう段階だんかいてきソ連それんせい装置そうち移行いこうしていくことになっていた。生産せいさん機材きざい設置せっち労働ろうどうしゃ訓練くんれんのためとしてフォードしゃ技術ぎじゅつしゃソ連それん派遣はけんされたほかソ連それんからはデトロイトディアボーンのフォードの工場こうじょうに100にん以上いじょう技術ぎじゅつしゃらが、そこでの製造せいぞうての手段しゅだん実際じっさいまなぶためとして派遣はけんされ、常駐じょうちゅうした[36][37]

米国べいこくによるソ連それん承認しょうにん

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マクシム・リトヴィノフソ連それん外相がいしょう (1930-1939)、ちゅうべいソ連それん大使たいし (1941-1943) をつとめた。

1933ねん時点じてんよりまえすでに、米国べいこく経済けいざいかいやメディアかいあいだではソ連それん国家こっか承認しょうにん政府せいふたいもとめるこえたかまっていた。米国べいこく政府せいふないには、ソ連それん帝政ていせいロシア時代じだい負債ふさいをいくらか返済へんさいし、また米国べいこく国内こくないにおける破壊はかい活動かつどう支援しえんしないことを約束やくそくすることをのぞきがあった。大統領だいとうりょうフランクリン・ルーズベルト側近そっきんヘンリー・モーゲンソウとロシア専門せんもんウィリアム・ブリット英語えいごばんとのたすけを国務省こくむしょうおさえてこと主導しゅどうけんにぎった[38][39]。ルーズベルトはソ連それん承認しょうにん是非ぜひについて世論せろん調査ちょうさ依頼いらいし(しかし当時とうじこれは実質じっしつてきには1100にん新聞しんぶん編集へんしゅうしゃ是非ぜひうことを意味いみしていた)、63パーセントがこれに賛成さんせいし、27パーセントが反対はんたいするという結果けっかた。当時とうじソ連それん宗教しゅうきょう関係かんけいしゃたいする迫害はくがい国家こっかぐるみでの教会きょうかい破壊はかい英語えいごばんおこなっており、これに起因きいんする米国べいこくないのカトリック指導しどうしゃらの反対はんたいるために、ルーズベルトは各々おのおの個別こべつ会談かいだんおこなった[40][41]。その、11月にルーズベルトはソ連それん外相がいしょうマクシム・リトヴィノフをワシントンにまねいて会談かいだんし、ソ連それんない米国べいこくじん労働ろうどうしゃたいする信教しんきょう自由じゆうめぐ問題もんだいについて合意ごういした。ソ連それんがわ米国べいこくたいする内政ないせい不干渉ふかんしょう如何いかなる政府せいふ機関きかん米国べいこく攻撃こうげきしたり武力ぶりょく政府せいふ転覆てんぷくしたりする活動かつどうおこなわないことなどを約束やくそくしたが、実際じっさいはこの約束やくそく尊重そんちょうするつもりはソ連それんがわにはかった。債務さいむめぐ問題もんだいについては解決かいけつ後日ごじつ延期えんきすることで合意ごういした。そして最終さいしゅうてき両国りょうこく関係かんけい正常せいじょうかんする合意ごうい発表はっぴょうされた[42][43][44]

しかし結局けっきょくこの過程かていなか債務さいむ問題もんだいかんしてはほとんど進展しんてんられず、通商つうしょう拡大かくだいにもたっしなかった。歴史れきしジャスタス・D・ドーネック英語えいごばんとマーク・A・ストーラーによれば、「両国りょうこくはすぐに協定きょうてい幻滅げんめつした」という[45]米国べいこくおおくの実業じつぎょうだい規模きぼ通商つうしょう拡大かくだいという効果こうか期待きたいしていたにもかかわらず、それは現実げんじつとはならず、ただ一方いっぽうてき米国べいこく技術ぎじゅつソ連それんわたるというだけであった[46]

ルーズベルトはブリットを1933ねんから1936ねんまでのあいだちゅうソ連それん大使たいし任命にんめいした。ブリットはべい関係かんけい今後こんごおおきな期待きたいせてモスクワにいたったが、ソ連それん指導しどうをよくよく観察かんさつすればするほどその全体ぜんたい主義しゅぎてき側面そくめん恐怖きょうふ政治せいじ表出ひょうしゅつされ、ブリットによる評価ひょうか次第しだい低下ていかしていった。最終さいしゅうてきにブリットは大使たいしとしての任期にんきえるまでにソ連それんたいする批判ひはんてき評価ひょうか形成けいせいし、その経験けいけんかれをその生涯しょうがいわたって反共はんきょう主義しゅぎしゃとしてあらしめた[47][48]

だい世界せかい大戦たいせん (1939ねん - 1945ねん)

編集へんしゅう
 
レンドリースとしておこなわれた米国べいこくによるソ連それんへの物資ぶっし調達ちょうたつあらわした地図ちず

1941ねん6がつにドイツがソ連それん侵攻しんこうする以前いぜんは、どく不可侵ふかしん条約じょうやくポーランド侵攻しんこうバルトさんこく侵攻しんこうソ連それんによるフィンランド侵攻しんこうなどにより、べいソのあいだでは緊張きんちょう関係かんけいつづき、1939ねん12月には、ソ連それん国際こくさい連盟れんめい追放ついほうされた。けれどもどくせん開始かいしすると、ソ連それん英国えいこく相互そうご援助えんじょ条約じょうやく締結ていけつするとともに、武器ぶき貸与たいよほうもとづく多大ただい援助えんじょ米国べいこくからけた。これによりべいあいだ緊張きんちょう緩和かんわし、かつての敵同士かたきどうしはドイツをはじめとする枢軸すうじくこくとのたたかいのなか団結だんけつするにいたった。

べいあいだ戦争せんそう協力きょうりょくは、連合れんごうこくあいだ協力きょうりょく関係かんけいくらべるといちじるしくすくないものであったが、それでも米国べいこくソ連それんたい一連いちれん貸与たいよ計画けいかくとおして大量たいりょう武器ぶき船舶せんぱく航空機こうくうき車両しゃりょう戦略せんりゃく物資ぶっし食料しょくりょう提供ていきょうした。べいソはたいどく戦争せんそうだけでなく、自国じこくのイデオロギーの影響えいきょう範囲はんい拡大かくだい志向しこうしていた。開戦かいせんまえに、大統領だいとうりょうであるハリー・S・トルーマンは、ドイツへいかロシアへいかどちらかがんでいれば、どちらがけていても自分じぶんには関係かんけいないとべた[49]

ドイツがっていればロシアをたすけ、ロシアがっていればドイツをたすければいい。それにより、かれらがたがいに可能かのうかぎおお死者ししゃすようにしなければならない。それでもわたしはどのような状況じょうきょうにおいてもヒトラー勝利しょうりだけはたくない。[50]

うえのトルーマンの発言はつげん引用いんようは、のち最後さいご部分ぶぶん省略しょうりゃくしたうえで、米国べいこく国家こっか破壊はかいしようとこころみている陰謀いんぼうの「証拠しょうこ」であるという、ソ連それんやそののロシア連邦れんぽうによるプロパガンダ定番ていばんとなった[51][52]

べい文化ぶんか協会きょうかい英語えいごばんは、ニコライ・リョーリフ名誉めいよ会長かいちょうとして1942ねん設立せつりつされたべいあいだ文化ぶんかてきむすきを促進そくしんするための組織そしきであった。翌年よくねん最初さいしょ年次ねんじ報告ほうこくしょ発行はっこうされたが、1947ねんにリョーリフが死去しきょして以降いこう活動かつどう下火したびとなった[53][54]

 
対面たいめんするべいぐんソ連それんぐんエルベのちか)。1945ねん4がつエルベがわ東岸とうがんにて。

ジープ・トラック40まんだい以上いじょう装甲車そうこうしゃ1まん2000りょう内戦ないせんしゃ7000りょうで、さらにそのうちM3ちゅう戦車せんしゃが1386りょう[55]M4ちゅう戦車せんしゃが4102りょう[56]航空機こうくうき1まん1400うちP-39が4719[57]A-20が3125[58])、食料しょくりょう175まんトンなどをふく一連いちれんのレンドリースをつうじた米国べいこくによる物資ぶっし調達ちょうたつ総額そうがく110おくドルにたっした[59]西半球にしはんきゅうからソ連それん輸出ゆしゅつされた軍需ぐんじゅひん車両しゃりょう工業こうぎょう製品せいひん食料しょくりょう合計ごうけいやく1750まんトンにものぼり、そのうち94パーセントは米国べいこくからのものであった。たいして、1942ねん1がつから1945ねん5がつまでのあいだ欧州おうしゅう大陸たいりくべいぐん供給きょうきゅうされたのが合計ごうけいやく2200まんトンである。べいぐん見識けんしきでは、ペルシア回廊かいろうつうじた物資ぶっし輸送ゆそうだけでも前線ぜんせんの60師団しだん維持いじするには十分じゅうぶんであると認識にんしきしていた[60][61]提供ていきょうされた物資ぶっしとう生産せいさんりょう当時とうじ米国べいこく国内こくないそう生産せいさんの53パーセントにもたっしたという[62]

1943ねん8がつ10日とおかのワシントンの大統領だいとうりょう特別とくべつ補佐ほさかんハリー・ホプキンスあて覚書おぼえがきにはつぎのようにしるされている。

だい世界せかい大戦たいせんにおけるロシアの地位ちい支配しはいてきであり、枢軸すうじくこく敗北はいぼく見据みすえられるようになった決定的けっていてき要因よういんでもある。シチリアとうえいべい部隊ぶたいがドイツの2師団しだん対峙たいじしているなかで、ロシア戦線せんせんではドイツの200師団しだん対峙たいじしている。いつ連合れんごうこく大陸たいりくだい戦線せんせんこうが、それは間違まちがいなくロシア戦線せんせんおくれるだろう。かれらのすことが今後こんごにおいても主要しゅようなものとなろう。ロシアしには、枢軸すうじくこく欧州おうしゅうかすことができず、連合れんごうこく位置いち不安定ふあんていなものとなる。同様どうように、戦後せんご欧州おうしゅうにおけるロシアの地位ちい支配しはいてきなものとなるだろう。ドイツが粉砕ふんさいされたあかつきには、欧州おうしゅうにその強大きょうだい軍事ぐんじりょく対抗たいこうするちから存在そんざいしなくなる。[63]

冷戦れいせん (1947ねん - 1991ねん)

編集へんしゅう
冷戦れいせんにおけるべいすすきしょく勢力せいりょくけん関係かんけい
 
 
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
 
ソビエト連邦れんぽう

だい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつともない、両国りょうこくあいだにはふたた対立たいりつ時代じだいがもたらされることとなった。やぶれたドイツにわりソ連それん東欧とうおう各地かくち占領せんりょうして、その指導しどうしゃ知識ちしきそう粛清しゅくせいしたうえで、共産きょうさん主義しゅぎ傀儡かいらい政権せいけん樹立じゅりつし、これらの国々くにぐに実質じっしつてきソ連それん属国ぞっこくあるいは衛星えいせいこくえた[64]。このうごきにたいし、マーシャル・プランにより荒廃こうはいした大陸たいりく再建さいけん経済けいざい復興ふっこうすすめ、西欧せいおうにおいて経済けいざいてき政治せいじてきなリーダーシップの地位ちい確立かくりつしていた米国べいこくふく西側にしがわ自由じゆう市場いちば経済けいざい諸国しょこく懸念けねんかかえた[65]。かたわら、ソ連それんはこれらの衛星えいせい国家こっか賠償金ばいしょうきん要求ようきゅうしたり、たん搾取さくしゅしたりするなどし、これらの国々くにぐにのリソースを枯渇こかつさせることとなった[66]

 
中央ちゅうおう共産きょうさん主義しゅぎしめくにしょうられたハンガリーの国旗こっきはんソビエトの象徴しょうちょうとなった。

米国べいこくソ連それんはそれぞれことなる2つの経済けいざいてき政治せいじてきイデオロギーをすすめ、自国じこく陣営じんえい価値かちかんもとづいてたがいに国際こくさいてき影響えいきょうりょくきそった。この闘争とうそうは、一般いっぱんてき冷戦れいせん(れいせん、Cold War)としてられる、地政学ちせいがくてき、イデオロギーてき経済けいざいてき闘争とうそう関係かんけいであり、1947ねん3がつ12にちトルーマン・ドクトリンはじまり、1991ねん12月26にちソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかいいたるまでのやく45ねんちょうきにわたつづいた。ソ連それんは1949ねん最初さいしょかく実験じっけんおこない、これにより米国べいこく核兵器かくへいき独占どくせん時代じだいには終止符しゅうしふたれた。べいソは通常つうじょう兵器へいき核兵器かくへいき軍拡ぐんかく競争きょうそうソ連それん解体かいたいするまでひろつづけた。

 
対峙たいじするべいソの戦車せんしゃ。1961ねん、ベルリンにて。

ドイツ敗戦はいせん米国べいこくはマーシャル・プランにより西欧せいおう同盟どうめいこく経済けいざいてき支援しえんしようとこころみた。米国べいこくソ連それんたいしてもこの復興ふっこう計画けいかく拡張かくちょうしようとしたが、ソ連それんコメコン経済けいざい相互そうご援助えんじょ会議かいぎ)でこれに対抗たいこうした。コメコンは基本きほんてきにマーシャル・プランと同様どうよう政策せいさくったが、せんがはっきりとした復興ふっこう計画けいかくというよりむしろ経済けいざい協力きょうりょく協定きょうていのようなものであった。一方いっぽう米国べいこく西欧せいおう諸国しょこくむすきをつよめようとし、このうちもっと特筆とくひつすべきが、1949ねん実質じっしつてき防衛ぼうえい協定きょうていである北大西洋きたたいせいよう条約じょうやく機構きこう(NATO)の結成けっせいであった。ソ連それん陣営じんえいはこれに対抗たいこうして1955ねんワルシャワ条約じょうやく機構きこう(WTO)を結成けっせいしたが、この時点じてんですでにソ連それん東側ひがしがわ衛星えいせいこく全域ぜんいきたいしてぐん駐留ちゅうりゅうさせ、政治せいじてき支配しはいけんにぎっていたため、実質じっしつてき意味いみでこの協約きょうやくは「不要ふようなもの」であったとかんがえられている[67][68]名目めいもくじょうは「防衛ぼうえい協約きょうやくであったが、実際じっさいはむしろ東側ひがしがわ諸国しょこくにおけるソ連それん覇権はけん維持いじするためのものであり、WTOの協定きょうていもとづく唯一ゆいいつ軍事ぐんじ行動こうどうは、加盟かめいこく離脱りだつ阻止そしすることを目的もくてきとした軍事ぐんじ侵攻しんこうであった[69]。1961ねんソ連それん衛星えいせいこくひとつであるひがしドイツひがしベルリン市民しみん西にしドイツの一部いちぶである西にしベルリン逃亡とうぼうすることをふせぐためにベルリンのかべ建設けんせつした。そのような情勢じょうせいのなか、1963ねん米国べいこく大統領だいとうりょうジョン・F・ケネディ西にしベルリンをおとずれ、著名ちょめい反共はんきょうはん演説えんぜつである「Ich bin ein Berliner」の演説えんぜつおこなった[70][71]

冷戦れいせんにおいてはりょう陣営じんえいともスパイ活動かつどうたずさわった。ソ連それん国家こっか保安ほあん委員いいんかい(KGB)は国内こくない国外こくがい双方そうほうにおいて諜報ちょうほう活動かつどう従事じゅうじした。米国べいこく最初さいしょかく実験じっけんからわずか4ねんの1949ねんに、ソ連それん同様どうようかく実験じっけん成功せいこうさせたが、これには米国べいこくマンハッタン計画けいかくから重要じゅうよう情報じょうほう仕入しいれたソ連それん原子力げんしりょくスパイが関与かんよしていたとされる[72][73]。また、ソ連それん国内こくないにおける巨大きょだい情報じょうほう提供ていきょうネットワークは、反対はんたい分子ぶんし監視かんし利用りようされた[74][75]

デタント: 雪解ゆきど

編集へんしゅう
 
ソ連それん首相しゅしょうアレクセイ・コスイギン米国べいこく大統領だいとうりょうリンドン・ジョンソン。1967ねん、グラスボロでの会談かいだんにて。

デタントふつ: Détente、緊張きんちょう緩和かんわ)は、米国べいこく大統領だいとうりょうリチャード・ニクソンとその側近そっきんヘンリー・キッシンジャーによる外交がいこう政策せいさくした、1969ねんはじまった。ニクソンらは共産きょうさん主義しゅぎふう政策せいさくわらせ、ソ連それん、そして中国ちゅうごく友好ゆうこうてき関係かんけいきずこうとこころみた。ちゅうソは当時とうじたがいにはげしく対立たいりつしており、ニクソンは各々おのおの相手あいて優位ゆういたせないように米国べいこく接近せっきんするだろうと予測よそくしていた。ニクソンはベトナム戦争せんそうにおけるきたベトナムたいする支援しえん停止ていしするという条件じょうけん提示ていじし、両国りょうこく結局けっきょくそれをれることとなった。ニクソンらは定期ていきてき首脳しゅのう会談かいだん軍備ぐんび管理かんりやそのこくあいだ協定きょうていめぐ交渉こうしょうなどをつうじて、ソ連それん政府せいふとの対話たいわ窓口まどぐち拡大かくだいすすめていった。ニクソンとソ連それん最高さいこう指導しどうしゃレオニード・ブレジネフは、1972ねんにモスクワで、1973ねんにワシントンで、1974ねんにモスクワとキエフとで首脳しゅのう会談かいだんおこない、両者りょうしゃ個人こじんあいだめんでも友人ゆうじんとなった[76][77]

この緊張きんちょう緩和かんわ時期じきにおいては、SALT I(だいいち戦略せんりゃく兵器へいき制限せいげん交渉こうしょう)やヘルシンキ宣言せんげんなどの条約じょうやく締結ていけつされた。SALT II(だい戦略せんりゃく兵器へいき制限せいげん交渉こうしょう)のでの議論ぎろんされたが、ソ連それんによるアフガニスタン侵攻しんこうにより米国べいこくがわ批准ひじゅん拒否きょひし、そのままえとなった。この時代じだいがどれほど両国りょうこくあいだ和平わへい意味いみしたかについては、今日きょうにおいても歴史れきしなか議論ぎろんがある[78][79]

 
米国べいこく大統領だいとうりょうジェラルド・フォードソ連それん最高さいこう指導しどうしゃレオニード・ブレジネフ、そしてヘンリー・キッシンジャー。1974ねんウラジオストクでの非公式ひこうしき会談かいだん

1962ねんキューバ危機ききけて、りょうちょう大国たいこくはワシントン=モスクワあいだ直通ちょくつうホットライン設置せっちして、緊急きんきゅう両国りょうこく首脳しゅのうすみやかに直接ちょくせつ対話たいわできるようにし、将来しょうらいこるであろう危機ききてき状況じょうきょうがそのまま両者りょうしゃ全面ぜんめん戦争せんそう発展はってんするリスクを削減さくげんできるようにした。べいあいだのデタントはそのたねかんがかた延長えんちょう位置いちづけることができる。1970年代ねんだい後半こうはんのSALT IIの交渉こうしょうは、SALT Iの成果せいかぎ、べいソによる軍縮ぐんしゅくへの道筋みちすじをさらに確実かくじつなものとした。ヘルシンキ宣言せんげんでは、ソ連それん欧州おうしゅうでの自由じゆう選挙せんきょみとめることを約束やくそくし、平和へいわ確保かくほ目的もくてきとしたソ連それんによるおおきな譲歩じょうほとなった。

ただ実態じったいとしては、アンドレイ・ヴィシンスキーなどのソビエト法学ほうがくしゃにより「ブルジョワ道徳どうとく」のいちれいなされたほう支配しはい自由じゆうけん裁判さいばんける権利けんり財産ざいさんけんなどの概念がいねんソ連それん政府せいふにより大幅おおはば抑制よくせいされた[80][81][82]ソ連それんは1973ねん市民しみんてきおよ政治せいじてき権利けんりかんする国際こくさい規約きやくや1975ねんのヘルシンキ宣言せんげんなど法的ほうてき拘束こうそくりょくのある人権じんけんほう署名しょめいをしていたが、それらのめは共産きょうさん主義しゅぎ体制たいせい一般いっぱん市民しみんあいだにはひろられることはなく、入手にゅうしゅ容易よういではなく、真剣しんけんめられることはかった[83]:117

アーマンド・ハマーなどのしんソビエトの実業じつぎょうはしばしば両国りょうこくあいだ通商つうしょう関係かんけい仲介ちゅうかいになった。作家さっかダニエル・ヤーギン自身じしん著書ちょしょ石油せきゆ世紀せいき』(The Prize、1991)にて「(ハマーは)最終さいしゅうてきに5にんソ連それん書記しょきちょうと7にん米国べいこく大統領だいとうりょうとのあいだ仲介ちゅうかいつとめた。」とべている[84]。ハマーはレーニン時代じだいの1920年代ねんだいからすでソ連それん広範こうはん領域りょういきでビジネス関係かんけいきずいていた[85][86]。1980ねんクリスチャン・サイエンス・モニターは、「スターリン政権せいけんにおいてはソ連それんとの通商つうしょう関係かんけい休止きゅうししたが、ハマーはおおかれすくなかれ独力どくりょく今日きょう西側にしがわ諸国しょこくソ連それんとの貿易ぼうえき関係かんけい基礎きそきずいた。」と評価ひょうかしている[85]。1981ねんニューヨーク・タイムズによれば、すでにこの時点じてんではハマーとブレジネフはたがいをファーストネームでうほどしたしくなっていたという[86]

緊張きんちょう関係かんけい推移すいい

編集へんしゅう
デタントにおける緊張きんちょう関係かんけい
編集へんしゅう

デタントにおいてもべいソのあいだ緊張きんちょうはしった時期じき存在そんざいした。ワルシャワ条約じょうやく機構きこう加盟かめいこくたいするソ連それん侵略しんりゃく共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけん保護ほご正当せいとうしたブレジネフ・ドクトリン[87]ちゅう対立たいりつにおけるべいちゅう接近せっきんなどがその要因よういんれいである。ちゅう対立たいりつ背景はいけいに、ニクソンは中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく訪問ほうもんしたが、それでもニクソンは外交がいこう関係かんけいじょうソ連それんとの緊張きんちょう緩和かんわ優先ゆうせん事項じこうひとつとした[88]。1973ねん、ニクソンはソ連それん貿易ぼうえきにおける最恵国さいけいこく待遇たいぐうあたえることを約束やくそくすると発表はっぴょうしたが[89]べい議会ぎかいジャクソン=バニク修正しゅうせい条項じょうこうをもってこれに反対はんたいした[90]米国べいこくながきにわたってソ連それんとの通商つうしょう政策せいさくたい外交がいこうとくに1980年代ねんだい以降いこうソ連それん人権じんけん政策せいさくむすけてきた。1974ねん通商つうしょうほううちのジャクソン=バニク修正しゅうせい条項じょうこうは、自由じゆう移民いみん制限せいげんする共産きょうさん国家こっかたい最恵国さいけいこく地位ちいみとめないというものであり、実際じっさいソ連それん自国じこくないユダヤじん国外こくがい移住いじゅう制限せいげん撤廃てっぱいこばんだため、この条項じょうこうもとづき大統領だいとうりょうソ連それん最恵国さいけいこく地位ちい適用てきようすることが出来できなくなった[91]

ソ連それんによるアフガニスタン侵攻しんこう: デタントの終焉しゅうえん
編集へんしゅう

デタント政策せいさくは1979ねんだいイエメン戦争せんそう英語えいごばんふくソ連それん代理だいり戦争せんそう戦争せんそう介入かいにゅう増加ぞうかけて批判ひはんけるようになり[92]ソ連それんのアフガニスタン侵攻しんこうによりつい終焉しゅうえんむかえた。1980ねんモスクワオリンピックでは米国べいこく主導しゅどうにより66かこくがボイコットをおこなった。アフガニスタン紛争ふんそうで、米国べいこくパキスタンなどははん政府せいふ勢力せいりょく支援しえんした。米国べいこく大統領だいとうりょうジミー・カーターたい制裁せいさいとして穀物こくもつ禁輸きんゆ措置そち実施じっし[93]さらちゅう米国べいこく大使たいしトーマス・J・ワトソンをモスクワから[94]、ハイテク製品せいひんたい輸出ゆしゅつ停止ていし[93][95]ソ連それんからのアンモニア輸入ゆにゅう停止ていし措置そちした[96]。ただ、1980ねん当時とうじ論文ろんぶんによれば、穀物こくもつ禁輸きんゆ措置そちかんしてはソ連それんよりも米国べいこく農民のうみんたいする打撃だげきおおきかったという。米国べいこく以外いがい国々くにぐに自国じこく穀物こくもつソ連それん輸出ゆしゅつしたため、ソ連それん国内こくない穀物こくもつ備蓄びちく充足じゅうそくしていた[97]結局けっきょくレーガン政権せいけんの1981ねんになって輸出ゆしゅつ再開さいかいされた[93]1980ねん米国べいこく大統領だいとうりょう選挙せんきょにおいて、ロナルド・レーガン陣営じんえい選挙せんきょ運動うんどうはんデタントをおおきな基軸きじくとしていた[98]。レーガンは就任しゅうにん最初さいしょ会見かいけんで「デタントはソ連それんがその目的もくてき追求ついきゅうするための一方いっぽうてきなものであった。」とべた[99]。そのソ連それんによるポーランド民主みんしゅ運動うんどうたいする弾圧だんあつ[100][101]、SALT IIのまり[102]、1983ねんのNATOによる軍事ぐんじ演習えんしゅうなどにより、両国りょうこく関係かんけい悪化あっか一途いっとをたどっていった[103]

しん冷戦れいせん: 「あく帝国ていこく演説えんぜつ
編集へんしゅう

レーガン政権せいけん冷戦れいせんふたた激化げきかし、デタント政策せいさく転換てんかん加速かそくした[104]。レーガンはソ連それん米国べいこくたいして軍事ぐんじてき優位ゆういっていることを憂慮ゆうりょし、軍事ぐんじ支出ししゅつ拡大かくだいにより米国べいこく軍事ぐんじてき優位ゆういち、ソ連それん経済けいざい弱体じゃくたいさせることをねらった[105]。レーガンはべいぐんだい規模きぼ軍拡ぐんかく指示しじし、B-1爆撃ばくげきB-2爆撃ばくげき巡航じゅんこうミサイルピースキーパーミサイル600せき艦隊かんたい構想こうそう資金しきんけた[106]。さらに、ソ連それんによるSS-20ミサイル配備はいび対抗たいこうして、NATOによるパーシングミサイル西にしドイツ配備はいび主導しゅどうした[107]くわえてレーガンは倫理りんりてき側面そくめんからもソ連それん共産きょうさん主義しゅぎてき全体ぜんたい主義しゅぎつよ非難ひなんし、1983ねん演説えんぜつではソ連それんを「あく帝国ていこく」と表現ひょうげんした[108][109]

冷戦れいせん終結しゅうけつ (1989ねん - 1991ねん)

編集へんしゅう
 
夕食ゆうしょく会場かいじょうかうレーガン夫妻ふさいゴルバチョフ夫妻ふさい。1987ねん12月9にちちゅうべいソ連それん大使館たいしかんにて。
 
米国べいこくのロシア反共はんきょう雑誌ざっしAmerika英語えいごばん』。1987ねん米国べいこく建国けんこく200周年しゅうねんさいして。

ソ連それん経済けいざい疲弊ひへいとアフガニスタン紛争ふんそう泥沼どろぬま背景はいけいに、ソ連それんでは経済けいざい社会しゃかい自由じゆう目的もくてきとしたグラスノスチペレストロイカ政治せいじ改革かいかくかかげたミハイル・ゴルバチョフ台頭たいとうした。1989ねんマルタ会談かいだんべいりょう首脳しゅのう冷戦れいせん終結しゅうけつ宣言せんげんし、ソ連それんぐんはアフガニスタンから撤退てったいした[110]。1991ねん勃発ぼっぱつした湾岸わんがん戦争せんそうでは、べいソが一致いっちしてイラク対抗たいこうした。1991ねん7がつ31にちには、だいいち戦略せんりゃく兵器へいき削減さくげん条約じょうやく(START I)がブッシュとゴルバチョフとのあいだむすばれ署名しょめいおこなわれた。STARTは史上しじょう最大さいだいかつもっと複雑ふくざつ軍備ぐんび管理かんり条約じょうやく交渉こうしょうであり、最終さいしゅうてきに2001ねんまでに当時とうじ存在そんざいしていた戦略せんりゃく核兵器かくへいきのうち80パーセントが削減さくげんされるにいたった[111]

レーガンとゴルバチョフとによりべい関係かんけい緊張きんちょう緩和かんわふたたはかられたが、1989ねん米国べいこく大統領だいとうりょう就任しゅうにんしたブッシュは当初とうしょソ連それん意図いと懐疑かいぎてきだった[112]大統領だいとうりょう任期にんき1ねんのブッシュはレーガンによる緊張きんちょう緩和かんわさく中断ちゅうだんこころみた[113]。そのあいだ東欧とうおうソ連それん衛星えいせい諸国しょこくにおいては各地かくち共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけん支配しはい打倒だとうこころみがられた[114]共産きょうさん主義しゅぎ勢力せいりょく勝利しょうりした1989ねんポーランド議会ぎかい選挙せんきょにおいて、ブッシュは政権せいけんわたすよう共産党きょうさんとう指導しどうしゃらを説得せっとくするのに貢献こうけんした。やがて1989ねんにはすべての東欧とうおう衛星えいせい諸国しょこく共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけん崩壊ほうかいし、とくルーマニアでは暴力ぼうりょくてき過程かていをたどった。1989ねん市民しみん要求ようきゅうによりひがしドイツ政府せいふ国境こっきょう開放かいほう余儀よぎなくされ、ベルリンのかべ崩壊ほうかいした[115]。ゴルバチョフは一連いちれん出来事できごとにおいてソ連それんぐん派遣はけん拒否きょひし、実質じっしつてきにブレジネフ・ドクトリンは放棄ほうきされることとなった[116]米国べいこく一連いちれん東欧とうおう革命かくめい直接ちょくせつ関与かんよしていたわけではなかったが、ブッシュ政権せいけんとくソ連それん民主みんしゅ過程かていそこなうべきではないとかんがえたため、西側にしがわ勝利しょうりよろこ姿勢しせいせることはかった[117][118]

1989ねん12月、ブッシュとゴルバチョフは地中海ちちゅうかいマルタとう首脳しゅのう会談かいだんおこなった。ブッシュは任期にんきちゅうでのゴルバチョフとの協力きょうりょく関係かんけい構築こうちく模索もさくするとともに、ソ連それんない強硬きょうこう抑制よくせい期待きたいした[119]会談かいだん主要しゅよう議題ぎだいは、ドイツさい統一とういつ可能かのうせいについてであった[120]えいふつはドイツさい統一とういつ慎重しんちょう姿勢しせいせたが、ブッシュは西独せいどく首相しゅしょうヘルムート・コールともにこれをすすめた[121]。ゴルバチョフは統一とういつひがしドイツ地域ちいきにNATOぐん展開てんかいする可能かのうせいがあるというてんとくさい統一とういつについて懸念けねんしめしたが、前年ぜんねんまでの動乱どうらんによりゴルバチョフの権威けんい失墜しっついしつつあった[122]。ゴルバチョフはべいえいふつおよび東西とうざいドイツとのあいだで「2プラス4」会談かいだんおこなうことで同意どういし、1990ねん開始かいしされた。そこでの広範こうはん分野ぶんやでの交渉こうしょうすえ、ゴルバチョフは統一とういつのドイツがNATOの一員いちいんつづけることに同意どういした。ドイツ最終さいしゅう規定きてい条約じょうやく発効はっこうにより、ドイツは1990ねん10がつ正式せいしき統一とういつ実現じつげんした[123]

ソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかい

編集へんしゅう
 
ソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかい、15のくに分裂ぶんれつした。11ばんのピンクが最大さいだい構成こうせいこくであったロシア連邦れんぽう

ゴルバチョフは衛星えいせい諸国しょこく民主みんしゅ実質じっしつてき容認ようにんしたが、ソ連それん国内こくないでの分離ぶんり主義しゅぎ運動うんどう抑圧よくあつした[124]エストニアラトビアリトアニアバルトさんこくは1940年代ねんだいにスターリン政権せいけんのソビエトに占領せんりょう併合へいごうされ、そこでもと指導しどうしゃ処刑しょけい追放ついほう、ないし逃亡とうぼう余儀よぎなくされた経緯けいいがあった。そのすうじゅうまんにんのロシアじんがそこに移住いじゅうしたが、多数たすうめるにはいたらなかった。1990ねん3がつにリトアニア独立どくりつ宣言せんげん公表こうひょうされると、ゴルバチョフはリトアニアの独立どくりつみとめた場合ばあいソ連それん崩壊ほうかいする可能かのうせい危惧きぐしてつよ反対はんたいした。そもそも米国べいこくソ連それんによるバルトさんこく併合へいごういち容認ようにんしたことがかったため、これによりブッシュはむずかしい立場たちばかれることとなった。ブッシュはドイツさい統一とういつかんしてはゴルバチョフの協力きょうりょく必要ひつようとしており、かつソ連それん崩壊ほうかいによる核兵器かくへいき行方ゆくえ危惧きぐしていた。ブッシュ政権せいけんソ連それんによるリトアニア独立どくりつ運動うんどう抑圧よくあつたいしてははげしく抗議こうぎはせず、直接ちょくせつ介入かいにゅうする手段しゅだんらなかった[125]。ブッシュは1991ねんキーウおこなった演説えんぜつにおいて、これらの独立どくりつ運動うんどう念頭ねんとうに「自殺じさつてきなナショナリズム」について警鐘けいしょうらしたうえソ連それんからの離脱りだつともな混乱こんらん警告けいこくした。しかしこの演説えんぜつ国内外こくないがい弱腰よわごしであるとして「チキン・キエフ演説えんぜつ英語えいごばん」と批判ひはんされることになった[126]

 
ブッシュとゴルバチョフ。1990ねん、ヘルシンキでの会談かいだんにて。
 
モスクワのマクドナルドいちごうてん。1991ねん、モスクワのプーシキン広場ひろばにて撮影さつえい

1991ねん7がつ、ブッシュとゴルバチョフは1987ねんむすばれた中距離ちゅうきょりかく戦力せんりょく全廃ぜんぱい条約じょうやく(IMF)以降いこうはつとなる本格ほんかくてき軍縮ぐんしゅく条約じょうやくであるだいいち戦略せんりゃく兵器へいき削減さくげん条約じょうやく(START I)に署名しょめいした[127]両国りょうこく戦略せんりゃく核兵器かくへいきを30パーセント削減さくげんすることで同意どういするとともに、ソ連それん大陸たいりくあいだ弾道だんどうミサイルを50パーセント削減さくげんすることを約束やくそくした[128]。このころより、自由じゆうされたソ連それん経済けいざい米国べいこく企業きぎょう参入さんにゅうはじめるようになり、著名ちょめい米国べいこく企業きぎょうがロシアに店舗てんぽひらくようになった。とく著名ちょめいなのがマクドナルドで、ソ連それん市民しみん米国べいこくのファストフードを購入こうにゅうするために店舗てんぽだい行列ぎょうれつすとともに、おおきなカルチャーショックけた[129]ソ連それん国内こくない最初さいしょのマクドナルドは1990ねん1がつ31にちにモスクワのプーシキン広場ひろばロシアばん開店かいてんしたもので、やく3まん8000にんものきゃく長蛇ちょうだれつ数時間すうじかんならんでち、当時とうじ同社どうしゃ記録きろく更新こうしんした[130]。1991ねん8がつソ連それん共産党きょうさんとうない保守ほしゅがゴルバチョフにたいクーデター未遂みすいこすと、ゴルバチョフをはじめとするソ連それん中央ちゅうおう政府せいふ求心力きゅうしんりょくおおきく縮小しゅくしょうした[131]同月どうげつまつにゴルバチョフは共産党きょうさんとう書記しょきちょうしょくし、同時どうじロシア共和きょうわこく大統領だいとうりょうボリス・エリツィンソ連それん政府せいふ資産しさん没収ぼっしゅうめいじた。1991ねん12月25にち、ゴルバチョフはソ連それん大統領だいとうりょう辞任じにん発表はっぴょうし、翌日よくじつソビエト連邦れんぽう解体かいたいした[132]解体かいたいしたソビエト連邦れんぽうからは15かこく分離ぶんりしたが、そのうち面積めんせき人口じんこう最大さいだいであった(かつ、かつてのじゅうがつ革命かくめい世界せかいはつのソビエト国家こっかてた)ロシア連邦れんぽうが、財政ざいせいてき義務ぎむふく国連こくれん憲章けんしょうもとづくソビエト連邦れんぽうすべての権利けんり義務ぎむかか責任せきにん継承けいしょうした。ロシア連邦れんぽうはかつてのソ連それんとしての国連こくれん加盟かめいこく地位ちい安全あんぜん保障ほしょう理事りじかい常任じょうにん理事りじこくとしての地位ちい継承けいしょうし、くわえてかく備蓄びちく軍隊ぐんたい管理かんりいだ。ソ連それん国外こくがいソ連それん大使館たいしかんはロシア大使館たいしかんとなった[133]。1992ねん2がつ、ブッシュとエリツィンりょう大統領だいとうりょう会談かいだんし、「友情ゆうじょうとパートナーシップ」にもとづくしん時代じだい宣言せんげんした。1993ねん1がつには、START Iにつづだい戦略せんりゃく兵器へいき削減さくげん条約じょうやく(START II)によるさらなる核兵器かくへいき削減さくげん合意ごういたっした[134]

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
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