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ヘンリー・キャヴェンディッシュ - Wikipedia

ヘンリー・キャヴェンディッシュ(Henry Cavendish、1731ねん10がつ10日とおか1810ねん2がつ24にち)は、イギリス自然しぜん哲学てつがくしゃ化学かがくしゃ物理ぶつり学者がくしゃ

ヘンリー・キャヴェンディッシュ
生誕せいたん (1731-10-10) 1731ねん10がつ10日とおか
フランス王国おうこく ニース
死没しぼつ 1810ねん2がつ24にち(1810-02-24)(78さいぼつ
イギリスの旗 イギリス イングランドの旗 イングランド ロンドン
国籍こくせき イギリスの旗 イギリス, フランスの旗 フランス
研究けんきゅう分野ぶんや 化学かがく物理ぶつりがく
出身しゅっしんこう ケンブリッジ大学けんぶりっじだいがく
おも業績ぎょうせき 水素すいそ発見はっけん
キャヴェンディッシュの実験じっけん
オームの法則ほうそく
クーロンの法則ほうそく
プロジェクト:人物じんぶつでん
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概要がいよう

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貴族きぞくいえまれそだち、ケンブリッジ大学けんぶりっじだいがくまなんだ。寡黙かもく人間にんげんきらいな性格せいかくであったことがられている。遺産いさんによる豊富ほうふ資金しきん背景はいけい研究けんきゅうみ、おおくの成果せいかのこした。

金属きんぞく強酸きょうさん反応はんのうによって水素すいそ発生はっせいすることを見出みいだした。電気でんき火花ひばな使つかった水素すいそ酸素さんそ反応はんのうによりみず生成せいせいすることを発見はっけんし、みず化合かごうぶつであることをしめした。この結果けっかフロギストンせつもとづいて解釈かいしゃくしている。

かれ死後しごには、生前せいぜん発表はっぴょうされたもののほかに、公開こうかい実験じっけん記録きろくがたくさんつかっている。そのなかには、ジョン・ドルトンジャック・シャルルによっても研究けんきゅうされた気体きたい蒸気じょうきあつねつ膨張ぼうちょうかんするものや、クーロンの法則ほうそくおよびオームの法則ほうそくといった電気でんきかんするものがふくまれる。これらの結果けっかはのちに同様どうよう実験じっけんをした化学かがくしゃにもたか評価ひょうかされた。(ただしこれらは、公開こうかいであったがゆえに、科学かがくかいへの影響えいきょうはほとんどなかった。「もし生前せいぜん公開こうかいされていたら」と、ひどくしまれた。)

ハンフリー・デービーはキャヴェンディッシュのさいし、かれアイザック・ニュートンして評価ひょうかした。19世紀せいきにはかれ遺稿いこう実験じっけん結果けっか出版しゅっぱんされ、かれかんしたキャヴェンディッシュ研究所けんきゅうじょ設立せつりつされている。

生涯しょうがい

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ぜん半生はんせい

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先祖せんぞんだサフォークしゅうキャベンディッシュむら風景ふうけい
 
祖父そふだい2だいデヴォンシャー公爵こうしゃくウィリアム

ヘンリーは他人たにんかかわるのを極度きょくどきら性格せいかくであったため、個人こじんてき生涯しょうがいについてはからないてんおおい。しかし、家系かけいについてはられている。ヘンリーの祖先そせんであるジョン・キャヴェンディッシュ英語えいごばんは1366ねんにエドワードさんせいにより英国えいこく首席しゅせき裁判官さいばんかん任命にんめいされ、その息子むすこはナイトの爵位しゃくい[1]。そしてそのキャヴェンディッシュデヴォンシャー公爵こうしゃく称号しょうごうた。

ヘンリーの父親ちちおやであるチャールズ・キャヴェンディッシュ英語えいごばんだいだいデヴォンシャーこうウィリアム息子むすこであり、政治せいじかたわ科学かがくしゃとしても著名ちょめいであった。最高さいこう最低さいてい温度おんど記録きろくする温度おんどけい制作せいさくやライデンびん使つかった電気でんき実験じっけんなどに業績ぎょうせきがあり、物理ぶつり関係かんけい研究けんきゅうおこなっていた[2]温度おんどけい研究けんきゅうで、科学かがく業績ぎょうせきのあった人物じんぶつおくられるコプリ・メダルを1757ねん受賞じゅしょうしている。

ヘンリーの母親ははおやのアン・グレイは初代しょだいケント公爵こうしゃくヘンリー・グレイの4じょであった。アンは病弱びょうじゃくであったため、ヘンリーは英国えいこくないではなく、療養りょうようさきニースでの出生しゅっしょうとなった。しかしアンは2ねんの1733ねん9がつ20日はつか二男じなんのフレデリック(1733-1812)をんだあとに死去しきょした。

ヘンリーは1742ねん当時とうじ貴族きぞく子供こども教育きょういく定評ていひょうのあったニューカム博士はかせ学校がっこう入学にゅうがくした。卒業そつぎょうの1749ねんには、18さいケンブリッジ大学けんぶりっじだいがくトリニティ・カレッジ入学にゅうがくした。大学だいがくでは物理ぶつりがく数学すうがくにおいてすぐれた成績せいせきおさめていたが[1]、そこでは学位がくいをとることなく、1753ねん退学たいがくした。退学たいがく理由りゆうあきらかにされていないが、学位がくい授与じゅよしきにおける宗教しゅうきょうじょう問題もんだい回避かいひしたためと推測すいそくされている[3]

退学たいがく、ロンドンに父親ちちおや住居じゅうきょ生活せいかつするようになった[4]。1760ねんから王立おうりつ協会きょうかい会員かいいんとなり[5]、1766ねん以降いこうどうかいにおいていくつかの論文ろんぶん発表はっぴょうしている。

後半こうはんせい

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ヘンリーの父親ちちおやおおくの財産ざいさん所有しょゆうしていたが、息子むすこ生活せいかつとしてあたえる金額きんがく年間ねんかん500ポンドにぎなかったので、ヘンリーはつつましい生活せいかつをしていた[6]。ところが1783ねん父親ちちおや死去しきょすると、長男ちょうなんであるヘンリーには多額たがく遺産いさんはいりこんだ。そのため以後いご生活せいかつ不自由ふじゆうすることなく研究けんきゅうめるようになった。ジョルジュ・キュヴィエジャン=バティスト・ビオによれば、父親ちちおや遺産いさん相続そうぞくするまえにも、インドざいをなした伯父おじから財産ざいさん相続そうぞくしたとされており、ビオによるとその金額きんがく年間ねんかん30まんポンドとされている[6][7]。さらにトマス・トムソンは、伯母おばがキャヴェンディッシュにおおくの財産ざいさんのこしたとべている[8]。そのためキャヴェンディッシュはちち生前せいぜんから巨額きょがくとみをもっていたという証言しょうげんもあるが、キャヴェンディッシュ系図けいずにはその伯父おじ伯母おば該当がいとうする人物じんぶつつけすことはできないため、その真偽しんぎさだかではない[9]結局けっきょくのところ、わからない、とうしかない。だが後述こうじゅつされるように、死亡しぼう時点じてん多額たがく財産ざいさん定期ていき収入しゅうにゅうがあったことは史実しじつである。

父親ちちおや死後しご、ヘンリー・キャヴェンディッシュはモンタギュー広場ひろばとガウアーがいかくにある屋敷やしきした[10]。さらに資料しりょうくための別邸べってい、および郊外こうがいのクラパムの別荘べっそう所有しょゆうした[11]別邸べってい図書館としょかんとして一般いっぱんにも開放かいほうした。またクラパムの別荘べっそうは、実験じっけんしつ工作こうさくしつとして使用しようした[12]

1810ねん2がつ24にち病床びょうしょうにあったヘンリー・キャヴェンディッシュは召使めしつかいをび、

わたしうことをよくきなさい。わたしはもうじきぬ。わたしんだら、いいかい、かならんでからだよ、ジョージ・キャヴェンディッシュきょう(キャヴェンディッシュのいとこ)のところへって、そのことをつたえなさい。わかったら、がってよろしい。」[13]

げた。その30ふんふたた召使めしつかいをし、さきほどの指示しじ内容ないよう復唱ふくしょうさせてから、ラベンダー香水こうすいってこさせた。さらにその30ふん召使めしつかいが様子ようす部屋へやはいると、キャヴェンディッシュはすでにいきっていた[13]

ヘンリー・キャヴェンディッシュの遺体いたいダービー教会きょうかいないにあるキャヴェンディッシュ一族いちぞくはかほうむられた[14]。また、のこした遺産いさんとしては5まんポンドの預金よきんのほかに、毎年まいとし8000ポンドの収入しゅうにゅう保証ほしょうされた財源ざいげん運河うんががあった(当時とうじ中産ちゅうさん階級かいきゅう平均へいきん所得しょとくは200–800ポンド)。さらには額面がくめんにして115まん7000ポンドの公債こうさいがあり、英国えいこく最大さいだい公債こうさい所有しょゆうしゃであった[15]。これらの財産ざいさんおとうとのフレデリック・キャヴェンディッシュにより承継しょうけいされた[16]

人物じんぶつ

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寡黙かもくであり、また大変たいへん人間にんげんぎらいでほとんどだれとも言葉ことばわすことがなかったといわれる。他人たにん機会きかいは、王立おうりつ協会きょうかい会合かいごうなどにかぎられた。その会合かいごうでは、かれ機嫌きげんく、ちかくで他人たにん興味きょうみのあるはなしをしているときは、はなしくわわることがあった。しかしかれ直接ちょくせつはなしかけて、こたえがかえってくることはほとんどかった[17]。それにもかかわらず、キャヴェンディッシュのふか知識ちしきたか才能さいのう周囲しゅういひろられていた。ハンフリー・デービーは「ニュートンの以来いらい、キャヴェンディッシュのほどイギリスがおおきな損失そんしつこうむったことはない」とたたえている[18]。とはいえ、王立おうりつ協会きょうかい会合かいごうには毎週まいしゅうかさず出席しゅっせきし、50年間ねんかん会員かいいんでありつづけ、27年間ねんかんわたって協会きょうかい評議ひょうぎいんつとめている。

また、キャヴェンディッシュは女性じょせいきらい、うことを極力きょくりょくけた。女性じょせい使用人しようにん夕食ゆうしょく注文ちゅうもんをするときも、メニュー(基本きほんてきひつじにくしかべなかったが[19])をノートにき、ホールのテーブルのうえいてらせ、直接ちょくせつがおわせないようこころがけた。屋敷やしきないかれまえ姿すがたせてしまったために解雇かいこされた使用人しようにんもいた[20]。しかし一方いっぽうでは、あばれまわるうしわれている婦人ふじんを、散歩さんぽちゅうのキャヴェンディッシュがすくったというエピソードもつたえられている[21]

ビオが「キャヴェンディッシュは、科学かがくしゃなか一番いちばん金持かねもちであり、金持かねもちのなかもっと偉大いだい科学かがくしゃである」とかたっているように[10]、キャヴェンディッシュは莫大ばくだい資産しさんっていたが、政治せいじてき名誉めいよ経済けいざいてき成功せいこうのぞまず、生活せいかつ大変たいへん質素しっそであった。銀行ぎんこうへの預金よきんがくが8まんポンドをえたとき銀行ぎんこういんかれのもとをおとずれ、資金しきん投資とうし活用かつようするよう熱心ねっしんいたが、キャヴェンディッシュはみみをもたず「これ以上いじょうわたしわずらわせるようなことをすると預金よきん全部ぜんぶとす」とこたえた[22]。また、募金ぼきんもとめられたときは、ひと募金ぼきんがくのリストをて、一番いちばんおお金額きんがくおな金額きんがく寄付きふすることをつねとしていた。そのため募金ぼきんもとめるひとは、キャヴェンディッシュに自分じぶんのぞみのがくさせるため、うそのリストをせることもあった[23]科学かがく産業さんぎょうむすけることにたか関心かんしんっていたが、自分じぶんから商売しょうばい産業さんぎょうこすことはなかった。

生前せいぜん発表はっぴょうされた研究けんきゅう

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水素すいそ発見はっけん

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キャヴェンディッシュが使用しようした実験じっけん装置そうち

1766ねん論文ろんぶんで、亜鉛あえんてつスズ硫酸りゅうさんあるいは塩酸えんさんくわえると、可燃かねんせい気体きたい発生はっせいすると発表はっぴょうした。この気体きたいこそが水素すいそである。しかしキャヴェンディッシュはフロギストンせつ支持しじしていたため、この気体きたい金属きんぞくから発生はっせいしたフロギストンであるとかんがえた。さらにキャヴェンディッシュはこの気体きたい性質せいしつ調しらべ、これは通常つうじょう空気くうきくらべて11ぶんの1の質量しつりょうしかもたないと発表はっぴょうした(現在げんざい測定そくていでは、空気くうき水素すいそ分子ぶんし質量しつりょうやく14.4:1)。

この実験じっけんにおいて、硫酸りゅうさん塩酸えんさんわりに硝酸しょうさん使用しようしても気体きたい発生はっせいすることをたしかめた。しかしこの気体きたい可燃かねんせいをもたなかった。この結果けっかについては、金属きんぞくからたフロギストンが、硝酸しょうさん結合けつごうすることで可燃かねんせいうしなうからだとかんがえた[24]

みず合成ごうせい

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1781ねんジョセフ・プリーストリー水素すいそ空気くうき電気でんき火花ひばな爆発ばくはつさせると容器ようきなか湿しめることに気付きづいた[25]。これをったキャヴェンディッシュは追試ついしつづけて、この反応はんのうではみずされ、反応はんのうさい体積たいせきが5ぶんの1だけ減少げんしょうすることをたしかめ、この結果けっかを1784ねん発表はっぴょうした。

この反応はんのう水素すいそ酸素さんそからみず合成ごうせいされたこと、すなわちみず単独たんどく元素げんそではなく化合かごうぶつであることを意味いみする。しかしキャヴェンディッシュはフロギストンせつ立場たちばから、

水素すいそ = みず + フロギストン

酸素さんそ = みず − フロギストン

かんがえ、この両者りょうしゃ反応はんのうしてみず生成せいせいされたと解釈かいしゃくした[26]

また水素すいそ窒素ちっそ当時とうじはフロギストン空気くうきばれていた)を電気でんき火花ひばな反応はんのうさせると、硝酸しょうさん生成せいせいすることも発見はっけんした。そして空気くうきちゅう窒素ちっそをこの方法ほうほうですべて反応はんのうさせ、さらに酸素さんそのぞくと、あとにはなにぶつとも反応はんのうしない少量しょうりょう気体きたいのこるとしるした[27]。この気体きたいは1世紀せいき以上いじょうあとの1894ねんジョン・ウィリアム・ストラットウィリアム・ラムゼーによってさい確認かくにんされ、ライナス・ポーリングによってアルゴンと名付なづけられた[28]

地球ちきゅう密度みつど測定そくてい

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「キャヴェンディッシュの実験じっけん」にもちいられた装置そうち

1797から1798ねんにかけて、いわゆる「キャヴェンディッシュの実験じっけん」をおこない、地球ちきゅう比重ひじゅう測定そくていし、その結果けっかを1798ねん発表はっぴょうした。後年こうねん科学かがくしゃは、この実験じっけん結果けっか万有引力ばんゆういんりょく法則ほうそくから万有引力ばんゆういんりょく定数ていすう算出さんしゅつできることに気付きづいた。キャヴェンディッシュ自身じしん万有引力ばんゆういんりょく定数ていすう算出さんしゅつしたわけではないが、今日きょうではこの実験じっけんは「地球ちきゅう密度みつど測定そくていした」というよりは「万有引力ばんゆういんりょく定数ていすう測定そくていした」ととらえられていることがおおい。

死後しご反響はんきょう

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存命ぞんめいちゅう王立おうりつ協会きょうかいの『フィロソフィカル・トランザクションズ』に18ほう論文ろんぶん発表はっぴょうしたにすぎないが、発表はっぴょう原稿げんこうなかにはのちにすぐれた実験じっけん記録きろくのこされた。それらの論文ろんぶん一部いちぶはじめて公表こうひょうされたのは1839ねんのことだった。このとし英国えいこく科学かがく振興しんこう協会きょうかい会長かいちょうのハーコートは、バーリントン伯爵はくしゃく英語えいごばん当時とうじ。1858ねんだい7だいデヴォンシャーこうとなる)がっていた遺稿いこうみ、そのうちの化学かがくねつかんする論文ろんぶん一部いちぶを「英国えいこく科学かがく振興しんこう協会きょうかい報告ほうこく」のなか発表はっぴょうした[29]

キャヴェンディッシュの遺稿いこうはその、バーリントンはくからウィリアム・スノー・ハリスきょう英語えいごばんがれた。ハリスはそのなか電気でんき研究けんきゅうかんして、キャヴェンディッシュがどう時代じだいあるいは後世こうせい科学かがくしゃ発見はっけん先取さきどりしていたことに気付きづおどろいた。また、ウィリアム・トムソンもハリスをつうじてその遺稿いこうみ、これらの原稿げんこう非常ひじょう価値かちがあるとひょうし、完全かんぜんかたちでの出版しゅっぱんのぞんだ[30]

 
キャヴェンディッシュ研究所けんきゅうじょ銘板めいばん

1867ねん、ハリスが死去しきょし、原稿げんこうはごく一部いちぶ出版しゅっぱんされたが、だい部分ぶぶんはそのままデヴォンシャーこうもともどった[31]。デヴォンシャーこうは1870ねんみずからの財産ざいさんでケンブリッジに実験じっけん物理ぶつりがく研究所けんきゅうじょつく計画けいかくて、その研究所けんきゅうじょ教授きょうじゅジェームズ・クラーク・マクスウェル依頼いらいした。マクスウェルはこれを受諾じゅだくし、1871ねん着任ちゃくにん、1874ねん研究所けんきゅうじょ建物たてもの竣工しゅんこうすると、初代しょだい所長しょちょうになった。この研究所けんきゅうじょはキャヴェンディッシュ研究所けんきゅうじょ命名めいめいされた。このときデヴォンシャーこうはマクスウェルに、キャヴェンディッシュの原稿げんこう手渡てわたした[32]

マクスウェルはこの原稿げんこう整理せいりしたうえで実験じっけん再現さいげんし、1879ねん『ヘンリー・キャヴェンディシュ電気でんきがくろん文集ぶんしゅう』として刊行かんこうした。キャヴェンディッシュのから69ねんされた同書どうしょにより、キャヴェンディッシュの電気でんきかんする研究けんきゅう内容ないよう全貌ぜんぼうはじめてあきらかになり、その研究けんきゅう先進せんしんせいひろられるようになった[33]

死後しご発表はっぴょうされた研究けんきゅう

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気体きたいかんする研究けんきゅう

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1777ねんから1779ねんに、蒸気じょうきあつをさまざまな温度おんど条件じょうけん測定そくていした。この実験じっけんは1805ねんにドルトンによってもおこなわれ、1830年代ねんだいまではドルトンの測定そくてい一般いっぱん使つかわれていた[34]。しかしドルトンは高温こうおんでは測定そくていをしていなかったため、測定そくてい結果けっかはキャヴェンディッシュのほうが正確せいかくだった[35]

また1779ねんから1780ねんに、いくつかの気体きたいねつ膨張ぼうちょうりつ測定そくていした。その結果けっか膨張ぼうちょうりつ気体きたい種類しゅるいによらず、温度おんど華氏かし1上昇じょうしょうするごとに体積たいせきが370ぶんの1だけ膨張ぼうちょうすることをしめした。これはシャルルの法則ほうそくであり、1787ねんにシャルルによって発見はっけんされ、ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックによって1802ねん発表はっぴょうされたため、キャヴェンディッシュはそれとは独立どくりつ発見はっけんしたことになる。

クーロンの法則ほうそく

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キャヴェンディッシュは、帯電たいでんさせていない金属きんぞくたま帯電たいでんさせた金属きんぞくたまつつみ、2つのたまあいだ伝導でんどうせいのある物質ぶっしつでつないで、外側そとがわたまから内側うちがわたまへと電気でんきながれる様子ようす観測かんそく測定そくていした。その結果けっか電気でんきりょくは2つのたま距離きょり2じょう反比例はんぴれいするのをたしかめた[36]。このことは1785ねんシャルル・ド・クーロンべつ方法ほうほう発見はっけんし、現在げんざいではクーロンの法則ほうそくばれている。キャヴェンディッシュはこの実験じっけんにおけるぎゃく2じょう法則ほうそくからのずれを50ぶんの1としたが、これは当時とうじ電位でんいけい感度かんどくなかったことによる制限せいげんである。のちにマクスウェルが、当時とうじ最新さいしん電位でんいけいであるトムソンがた象限しょうげん電位でんいけい使用しようしてキャヴェンディッシュとおな実験じっけんおこなったところ、その精度せいどを21600ぶんの1までたかめることができ、キャヴェンディッシュの実験じっけん方法ほうほうたしかさがあきらかになった[37]

オームの法則ほうそく

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1776ねんデンキナマズについての論文ろんぶんちゅうで、電気でんき伝導でんどう物質ぶっしつごとのちがいについて測定そくていしている。キャヴェンディッシュは電気でんき抵抗ていこうについての研究けんきゅうすすめ、1781ねんオームの法則ほうそく発見はっけんしている。実験じっけん方法ほうほう以下いかのとおりである。まず、ガラスかんなかしお溶液ようえきれる。そしてそのかんなかりょうはしから導線どうせんむ。つぎライデンびん電気でんき発生はっせいさせ、そのライデンびん片方かたがたれる。もう片方かたがたでガラスかんした導線どうせんつと、電流でんりゅうはライデンびんからキャヴェンディッシュのからだ経由けいゆしてガラス管内かんないしお溶液ようえきとおる。しお溶液ようえき電気でんきとおすが、電気でんき溶液ようえきちゅうとお距離きょりながいほど、抵抗ていこうおおきくなり、ながれる電流でんりゅうちいさくなる。この距離きょりはガラスかん導線どうせん位置いちえることで調整ちょうせいできる。

キャヴェンディッシュは複数ふくすうのガラスかんでこの実験じっけんかえおこない、オームの法則ほうそくにたどりいた。ゲオルク・オームがこの法則ほうそく発表はっぴょうしたのは1827ねんであるので、キャヴェンディッシュの発見はっけんはオームより46ねんさきんじていた[38]

電流でんりゅうながさいにわざわざキャヴェンディッシュ自身じしんからだ経由けいゆさせたのは、からだかんじるショックのおおきさで電流でんりゅうおおきさを見積みつもるためである(当時とうじけんりゅうけい発明はつめいされていなかった)。にもかかわらず、かれ溶液ようえきごとのちがいを雨水あまみず抵抗ていこう蒸留じょうりゅうすいの2.4ぶんの1、井戸水いどみず抵抗ていこう雨水あまみずの41ぶんの6、というふう数値すうちとして発表はっぴょうしている。このようにしてった実験じっけん結果けっかは、のちにけんりゅうけい使つかってった結果けっか遜色そんしょくなく、マクスウェルをおどろかせた[39]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b ニコル (1978), p. 5.
  2. ^ ニコル (1978), p. 7.
  3. ^ ピックオーバー (2001), p. 147.
  4. ^ 小山こやま (1991), pp. 13–14.
  5. ^ "Cavendish; Henry (1731 - 1810)". Record (英語えいご). The Royal Society. 2011ねん12月11にち閲覧えつらん
  6. ^ a b ニコル (1978), p. 11.
  7. ^ 小山こやま (1991), p. 15
  8. ^ 小山こやま (1991), p. 15.
  9. ^ 小山こやま (1991), pp. 15–16、ニコル (1978), pp. 11–12.
  10. ^ a b 小山こやま (1991), p. 17.
  11. ^ 小山こやま (1991), pp. 17–18.
  12. ^ 小山こやま (1991), pp. 16–17.
  13. ^ a b 小山こやま (1991), p. 23.
  14. ^ ニコル (1978), p. 32.
  15. ^ 小山こやま (1991), p. 16.
  16. ^ ニコル (1978), p. 31.
  17. ^ ニコル (1978), p. 21.
  18. ^ ピックオーバー (2001), p. 145.
  19. ^ ピックオーバー (2001), p. 154.
  20. ^ 小山こやま (1991), p. 22.
  21. ^ ニコル (1978), p. 22.
  22. ^ ニコル (1978), p. 24.
  23. ^ ニコル (1978), p. 23.
  24. ^ ニコル (1978), pp. 47–49.
  25. ^ ギリスピー (1971), p. 142.
  26. ^ ブロック (2003), p. 89.
  27. ^ ニコル (1978), p. 62.
  28. ^ ニコル (1978), pp. 62–63.
  29. ^ 小山こやま (1991), pp. 32–33.
  30. ^ 小山こやま (1991), p. 35.
  31. ^ 小山こやま (1991), pp. 35–36.
  32. ^ 小山こやま (1991), pp. 39–40.
  33. ^ 小山こやま (1991), pp. 41–43.
  34. ^ 小山こやま (1991), p. 34.
  35. ^ ニコル (1978), p. 71.
  36. ^ 小山こやま (1991), p. 43.
  37. ^ 小山こやま (1991), pp. 44–45.
  38. ^ 小山こやま (1991), pp. 46–47.
  39. ^ 小山こやま (1991), p. 46.

参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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