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得撫郡 - Wikipedia

とくなでぐん

日本にっぽん北海道ほっかいどうせん島国しまぐに根室ねむろ支庁しちょうにあったぐん

とくなでぐん(うるっぷぐん)は、北海道ほっかいどうせん島国しまぐに根室ねむろ支庁しちょうにあったぐん

北海道ほっかいどうとくなでぐん位置いち発足ほっそく

人口じんこう46にん(1940ねん)、面積めんせき1,494km2[1]

当該とうがい地域ちいき領有りょうゆうけんかんする詳細しょうさい千島ちしま列島れっとう#領土りょうど問題もんだい参照さんしょう

ぐんいき

編集へんしゅう

1876ねん明治めいじ9ねん)から2010ねん平成へいせい22ねん)まで変更へんこうなし(ならじゅんきたから)。

  • きたとくなで水道すいどう(ブッソル海峡かいきょう新知しんちとうとくなでしまとのあいだ海峡かいきょうのうち、以島の北側きたがわとくなでぐん北限ほくげん最大さいだい水深すいしん2,200mと千島ちしま列島れっとうもっとふかい)
  • 猟虎らっこ水道すいどう(ラッコ水道すいどう以島と以南いなんとうとのあいだ海峡かいきょう
  • 猟虎らっことう(ラッコとう
  • 以南いなんとう(ブラト・チルポエフとう
  • みなみとくなで水道すいどう(ウルップ海峡かいきょう新知しんちとうとくなでしまとのあいだ海峡かいきょうのうち、以島の南側みなみがわふかさ200m[2]

樺太からふと千島ちしま交換こうかん条約じょうやくまでの沿革えんかく

編集へんしゅう
アイヌや和人わじん活動かつどう

ふるくから交易こうえきしなとして重要じゅうようラッコかわ特産とくさんであり、蝦夷えぞ管領かんりょう安東あんどうから室町むろまち幕府ばくふ将軍しょうぐんに、松前まさきから豊臣とよとみ秀吉ひでよし徳川とくがわ家康いえやすらにそれぞれ献上けんじょうされている。また、メナシクルのラッコ漁場ぎょじょうであり千島ちしまアイヌとの交易こうえきでもあった(沈黙ちんもく交易こうえき参照さんしょう)。 江戸えど時代じだいになると、正保まさやす元年がんねん、「正保しょうほう御国みくに絵図えず」が作成さくせいされたさい幕命ばくめいにより松前まさきはん提出ていしゅつしたはん領地りょうちには、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々しまじまえがかれていた。万治まんじ4ねん1661ねん伊勢いせこく飯高ひだかぐん松坂まつさか七郎しちろう兵衛ひょうえふねとくなでしま漂着ひょうちゃくしたが、蝦夷えぞアイヌ)のたすけで択捉えとろふ国後くなしりじゅうしゅうとう北海道ほっかいどう本島ほんとう)を寛文ひろふみ元年がんねん1662ねん)に江戸えどかえっている(『いきおいしゅうせん北海ほっかい漂着ひょうちゃく』)。元禄げんろく13ねん1700ねん)には、幕命ばくめいにより松前まさきはん千島ちしまかん察加ふく蝦夷えぞぜん松前まさきとうごうちょう作成さくせいし、 正徳まさのり5ねん(1715ねん)になると、松前まさき藩主はんしゅ幕府ばくふたいし「じゅうしゅうとうからふとしチュプカ諸島しょとうかん察加」は松前まさきはんりょう報告ほうこくたかられき4ねん1754ねん)、とくなでぐんいき松前まさきはんによってひらかれた家臣かしん知行ちぎょうクナシリ場所ばしょふくまれた。天明てんめい元年がんねん1781ねん)の『あか蝦夷えぞ風説ふうせつこう』や寛政かんせい3ねん1791ねん)の『海国かいこくへいだん』など北方ほっぽう警戒けいかいいた書物しょもつ影響えいきょう江戸えど幕府ばくふ主導しゅどう北方ほっぽう探検たんけんさかんになると、天明てんめい6ねん1786ねん)6がつ1にち請負うけおいやく山口やまぐち鉄五郎てつごろうアッケシおつめいイコトイなでしま渡航とこう協力きょうりょく依頼いらい竿ざお最上もがみ徳内とくない通詞つうじはやしみぎ衛門えもんらとよんそうふね分乗ぶんじょうなでしまモシリヤに上陸じょうりく。それからオホーツクかいきし調査ちょうさしま北端ほくたんから北西ほくせいにマカンルルとうたけ魯頓とう)がえたという。しかしアイヌにつよこばまれたため渡島ととう断念だんねんし、かえりは太平洋たいへいようきし調査ちょうさ結果けっか定住ていじゅうするものおらずメナシクルがラッコりょうるのみで、ロシアじん毛皮けがわもと近海きんかい来航らいこうすることがわかったという[4][5]寛政かんせい3ねん1790ねん)には請負うけおいやくとなった最上もがみ徳内とくない再度さいどとくなでしま調査ちょうさ[6]とおる元年がんねん1801ねん)6がつにはとみ山元やまもと十郎じゅうろう深山ふかやま宇平ふとし八王子はちおうじせんにん同心どうしんめい同行どうこう[7]とくなでしまわたりオカイワタラのおかに「天長地久てんちょうちきゅうだい日本にっぽん属島ぞくとう[8]標柱ひょうちゅうてている。さらにかれらは島内とうないのトウボでロシアじん新知しんちとうアイヌらと来島らいとう理由りゆうたずねたところ、ラッコりょうのためと返答へんとうがあり交易こうえき希望きぼうしていた。これにたい食料しょくりょうあた鎖国さこくなかのため交易こうえき国禁こっきんであるむねつたえたという。文化ぶんか3ねん1806ねん)3がつ択捉島えとろふとうから脱走だっそうした新知しんちぐんいきしょアイヌ有力ゆうりょくしゃマキセン・ケレーコツ(アイヌめい・シレイタ)らじゅうすうめいい、関屋せきや茂八郎もはちろう南部なんぶはん足軽あしがるたちとともにとくなでしま上陸じょうりくしたさい、ロシアじん帰国きこく確認かくにん同年どうねん4がつ25にち以降いこうつぎみぎ衛門えもんら6めいけいさちまる乗組のりくみいんたちが、漂着ひょうちゃくしたチュプカ諸島しょとううらないもりぐんほろむしろとう新知しんちぐんしょ和島わじま方面ほうめんからみなみ択捉えとろふ国後くなしりじゅうしゅう島方しまかためんかうさいっている。とおる3ねん1803ねん)には間宮まみや林蔵りんぞうとくなでしままでの地図ちず作製さくせいし、よく4ねん1がつから2がつにかけめぐみ登呂とろしゃ会所かいしょうん上屋うわやつめ松田まつだでん十郎じゅうろうとくなでしま巡視じゅんしした[9]文化ぶんか3ねん1806ねん以降いこうとくなでしま警固けいご対象たいしょうとなっていた(後述こうじゅつ)。

ロシアじん活動かつどう

イワン・チョールヌイがロシアじんとしてはじめてとくなでしま(ウルップとうとくなでぐん)に到達とうたつ周辺しゅうへんのアイヌからヤサーク(毛皮けがわぜい)のてや過酷かこく労働ろうどうし、とくなでしま多数たすう女性じょせいあつめハーレムをつくった。しかし、1772ねん漁場ぎょじょううばわれラッコりょう妨害ぼうがいされた択捉えとろふアイヌ新知しんちぐんいきしょ和島わじまからのがれてきたしょアイヌが蜂起ほうきし、とくなでしまとマカンルルとうたけ魯頓とう)でプロトジャーコノフ商会しょうかいのロシアじん21めい討取うちとられのこりはカムチャツカ半島はんとう撤退てったいした。その1776ねんに、ロシアの毛皮けがわ商人しょうにんによる殖民しょくみんだんとくなでしま一時いちじてき居住きょじゅうしたが、7ねん1783ねん撤退てったいした。1780ねん6がつ地震じしん発生はっせい。その津波つなみ打上うちあげられたナターリアごううみもどすため、1784ねんコローミンが指揮しきするパーヴェルごう来航らいこう1795ねんなつ、グレゴリー・シェリホフはアレクセイごうでケレトフセ(ワシリー・ズヴェズダチェトフ)ら40めい入植にゅうしょくしゃ派遣はけん島内とうないのワニナウにアレクサンドラ移住いじゅう建設けんせつ。しかし農作物のうさくもつ栽培さいばいはほとんどうまくいかず、1797ねん窮状きゅうじょううったえるため14めいがカムチャツカにかったがシェリホフはすでに死亡しぼう救援きゅうえんなく、のこされたものたちの食料しょくりょう相変あいかわらずメナシクルとの交易こうえき依存いぞんしていた。幕吏ばくり富山とやま深山ふかやま調査ちょうさおとずれたさいおんな子供こどもふくめ17めいがいたという。しかし、1801ねん以降いこうメナシクルのとくなでしま渡航とこう新知しんちとう以北いほく千島ちしまアイヌの択捉えとろふとうへの渡航とこう禁止きんしされ、ケレトフセも病死びょうししロシアじん1805ねん帰国きこくした。 1806ねん文化ぶんか(フヴォストフ事件じけん)のさいとくなでしま襲撃しゅうげきまぬかれている。アヴォシごうとくなで樺太からふと攻撃こうげき出撃しゅつげきしたものの、指揮しきするダヴィドフは日本にっぽん北辺ほくへん襲撃しゅうげき反対はんたい攻撃こうげきしなかった。 1828ねんべい会社かいしゃがバイカルごうでロシアじん12めいアレウト49めい派遣はけんなでとう東岸とうがん小船こぶねわん上陸じょうりく建物たてもの建設けんせつ付近ふきんおかよんもん大砲たいほう設置せっち拠点きょてんとしたが、クリミア戦争せんそうなか1855ねん8がつえいふつ艦隊かんたいとくなでしま小船こぶねわん居住きょじゅう一時いちじてき占領せんりょう1868ねんべい会社かいしゃ廃止はいしされ居住きょじゅう活動かつどう停止ていし残留ざんりゅうアレウトたちは樺太からふと千島ちしま交換こうかん条約じょうやく猶予ゆうよ期間きかん満了まんりょう前年ぜんねん1877ねん)の移送いそうまでなでしまのこされた。

幕府ばくふによる直接ちょくせつ統治とうち

江戸えど時代じだい後期こうきとくなでぐんいきひがし蝦夷えぞぞくしていた。南下なんか政策せいさく強力きょうりょくすすめるロシア脅威きょういそなえ、寛政かんせい11ねん1799ねんとくなでぐんいきおおやけ御料ごりょうとされた。文化ぶんか3ねん1806ねん以降いこう幕吏ばくりたちが南部なんぶ津軽つがる足軽あしがる通辞つうじ番人ばんにん蝦夷えぞアイヌ)たちとともに毎年まいとしとくなでしま見回みまわりを実施じっし[7]。また文化ぶんか13ねん1816ねん)6がつには、ロシアせんパヴェルごうとくなでしまおき来航らいこううらないもりぐんいきはる古丹こたんとう漂着ひょうちゃくした永寿えいじゅまる乗員じょういん太平洋たいへいようじょう英国えいこくせん救助きゅうじょされたとくじょうまる小栗おぐり重吉しげよし音吉おときち半兵衛はんべえ漂流ひょうりゅうみんけい6めいをペトロパブロフスクから送還そうかん半兵衛はんべえ航海こうかいちゅう病気びょうき死亡しぼうしたがとくなでしま上陸じょうりくした5めい地元じもとアイヌの案内あんない択捉えとろふとうシベトロ番屋ばんやまで帰還きかん池田いけだひろしおや船長せんちょう日記にっき』)することができた[6]ゴローニン事件じけんのち幕府ばくふとくなでぐんいき立入禁止たちいりきんし緩衝かんしょう地帯ちたいにする予定よていであった。 文政ぶんせい4ねん1821ねんとくなでぐんいき松前まさきはんりょうふくしたが、安政あんせい元年がんねん1854ねんにち和親わしん条約じょうやく不平等ふびょうどう条約じょうやくのひとつ)によりとくなでしまはロシアりょうとされた。1875ねん11月樺太からふと千島ちしま交換こうかん条約じょうやくによってふたた日本にっぽんりょうとなったのちとくなでぐんかれる。北海道ほっかいどうせん島国しまぐにぞくした。

樺太からふと千島ちしま交換こうかん条約じょうやく以降いこう沿革えんかく

編集へんしゅう
  • 明治めいじ9ねん1876ねん)1がつ14にち - とくなでぐん設置せっちされ、せん島国しまぐに所属しょぞくとなる[10]
  • 明治めいじ10ねん1877ねん) - 条約じょうやく附録ふろくしたがい、とくなでしまにあった千島ちしまアイヌの村落そんらくがロシアりょう移住いじゅうし、ぐんない無人むじんとなる[11]
  • 明治めいじ11ねん1878ねん)から明治めいじ13ねん1880ねん)にかけ、栖原すはらとくなでしま漁場ぎょじょう14 かしょひらいた[12]
  • 明治めいじ12ねん1879ねん7がつ23にち - こおり町村ちょうそん編制へんせいほう北海道ほっかいどうでの施行しこうにより、行政ぎょうせい区画くかくとしてのとくなでぐん発足ほっそく
  • 明治めいじ13ねん1880ねん)7がつ - 根室ねむろぐんそとはちぐん役所やくしょ根室ねむろ花咲はなさき野付のつけ標津しべつ目梨めなし国後くなしりとくなで新知しんちうらないもりぐん役所やくしょ)の管轄かんかつとなる。
  • 明治めいじ15ねん1882ねん2がつ8にち - はい使おけけんにより根室ねむろけん管轄かんかつとなる。
  • 明治めいじ18ねん1885ねん)1がつ - 根室ねむろぐんがいきゅうぐん役所やくしょ根室ねむろ花咲はなさき野付のっけ標津しべつ目梨めなし国後くなしりとくなで新知しんちうらないもり色丹しこたんぐん役所やくしょ)の管轄かんかつとなる。
  • 明治めいじ19ねん1886ねん
  • 明治めいじ30ねん1897ねん11月5にち - ぐん役所やくしょ廃止はいしされ、根室ねむろ支庁しちょう管轄かんかつとなる。
  • 大正たいしょう5ねん1916ねん) - ラッコ、オットセイほかの狩猟しゅりょう禁止きんしされ、農水省のうすいしょうによる越年えつねん新知しんちぐんあわせて6ヶ所かしょ13にん開始かいし[13]
  • 昭和しょうわ18ねん1943ねん) - とくなでしま北端ほくたんのカラスみさき飛行場ひこうじょう建設けんせつはじまる。
  • 昭和しょうわ20ねん1945ねん9月2にち - 日本にっぽん政府せいふ降伏ごうぶく文書ぶんしょ調印ちょういん同時どうじ一般いっぱん命令めいれいだい1ごうにより、ソ連それん占領せんりょうとなる。
  • 昭和しょうわ21ねん1946ねん
  • 昭和しょうわ27ねん1952ねん4がつ28にち - サンフランシスコ講和こうわ条約じょうやく領有りょうゆうけん放棄ほうき明記めいきされる。ただし、ソ連それん現在げんざいのロシア)は調印ちょういん現在げんざい平和へいわ条約じょうやく締結ていけつにち国境こっきょう画定かくてい
  • 平成へいせい22ねん2010ねん4がつ1にち - 「北海道ほっかいどう総合そうごう振興しんこうきょくおよ振興しんこうきょく設置せっちかんする条例じょうれい平成へいせい21ねん3がつ31にち公布こうふ)」[14]施行しこうきゅう条例じょうれいである北海道ほっかいどう支庁しちょう設置せっち条例じょうれい昭和しょうわ23ねん9がつ27にち 条例じょうれいだい44ごう)は、根室ねむろ支庁しちょう管轄かんかつ区域くいきを「野付のっけぐん標津しべつぐん目梨めなしぐん国後くなしりぐん色丹しこたんぐん択捉えとろふぐん紗那しゃなぐんしべぐんとくなでぐん新知しんちぐんうらないもりぐん」としていたが、北海道ほっかいどう総合そうごう振興しんこうきょくおよ振興しんこうきょく設置せっちかんする条例じょうれいは、根室ねむろ振興しんこうきょく管轄かんかつ区域くいきを「別海べっかいまち中標津なかしべつまち標津しべつまち羅臼らうすまち色丹しこたんむら国後くなしりぐんとまりむらとめよるべつむら留別りゅうべつむら紗那しゃなむらしべむら」とした。また「財務省ざいむしょう組織そしき規則きそく一部いちぶ改正かいせいする省令しょうれい平成へいせい21ねん10がつ26にち 財務省ざいむしょうれいだい67ごう)」[15]による財務省ざいむしょう組織そしき規則きそく改正かいせい税務署ぜいむしょ管轄かんかつ区域くいきさだめる別表べっぴょうだいきゅうから除外じょがい)された。これらの改正かいせいにより法令ほうれいじょう消滅しょうめつ[16]

行政ぎょうせい

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全域ぜんいき千島ちしま列島れっとう中部ちゅうぶ島嶼とうしょ構成こうせいされ、町村ちょうそんせい施行しこうされなかったため所属しょぞく町村ちょうそんはない。2010ねんまで日本にっぽん一部いちぶ法令ほうれい名称めいしょうだけが残存ざんそんしていた。

ぐん全域ぜんいき農林省のうりんしょう養狐ようこ事業じぎょうおよび臘虎膃肭じゅうりょう取締とりしまりほうによる海獣かいじゅう保護ほご地域ちいき民間みんかんじん渡航とこう禁止きんしのため、定住ていじゅうしゃはなく農林省のうりんしょう関係かんけいしゃ少数しょうすう越年えつねんしていた。国勢調査こくせいちょうさでは昭和しょうわ15ねんの46めい最大さいだいとなっている。ただし、明治めいじ38ねん以降いこう徴発ちょうはつ物件ぶっけん一覧いちらんには1世帯せたい2めい定住ていじゅう確認かくにんされているうえ、どうほう施行しこうまえからの既得きとくけん択捉島えとろふとう漁民ぎょみんが4 - 10月の漁期ぎょき滞在たいざいしていたことから定期ていき航路こうろ存在そんざいしたが、施行しこう通年つうねん居住きょじゅう禁止きんしされていた。とくなでしま西部せいぶ床丹とこたん中心ちゅうしん集落しゅうらくで、東部とうぶにも見島みしまという拠点きょてんがあった。

千島ちしま列島れっとう亜寒帯あかんたい南端なんたんにあたり、植物しょくぶつがくうえ分布ぶんぷ境界きょうかいせん宮部みやべせん)の北側きたがわとなっている。

特記とっきなき場合ばあい根室ねむろ千島ちしま歴史れきし人名じんめい事典じてん』による[17]

根室ねむろぐんがいはちぐんちょう
だい 氏名しめい 就任しゅうにん年月日ねんがっぴ 退任たいにん年月日ねんがっぴ 備考びこう
1 和田わだただしなえ 明治めいじ13ねん(1880ねん)7がつ15にち 明治めいじ18ねん(1885ねん 花咲はなさきぐん一部いちぶから色丹しこたんぐん分立ぶんりつ
根室ねむろぐんがいきゅうぐんちょう
だい 氏名しめい 就任しゅうにん年月日ねんがっぴ 退任たいにん年月日ねんがっぴ 備考びこう
1 松下まつした兼清けんせい 明治めいじ18ねん(1885ねん 明治めいじ19ねん(1886ねん
2 広田ひろた千秋ちあき 明治めいじ19ねん(1886ねん)12月 明治めいじ22ねん(1889ねん
3 細川ほそかわあおい 明治めいじ22ねん(1889ねん)7がつ 明治めいじ23ねん(1890ねん)7がつ
4 高岡たかおか直吉なおきち 明治めいじ23ねん(1890ねん)8がつ11にち 明治めいじ28ねん(1895ねん)12月3にち
5 はやし悦郎えつろう 明治めいじ28ねん(1895ねん)12月18にち 明治めいじ30ねん(1897ねん)11月5にち 根室ねむろぐんがいきゅうぐん役所やくしょはい根室ねむろ支庁しちょうく。

人口じんこう

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国勢調査こくせいちょうさ結果けっかのうち、大正たいしょう14ねん - 昭和しょうわ10ねんのデータは、昭和しょうわ10ねん国勢調査こくせいちょうさ報告ほうこく[18]による。

  • 大正たいしょう9ねん - 国勢調査こくせいちょうさ 33にんおとこ32にんおんな1にん)、世帯せたいすう6[19]
  • 大正たいしょう14ねん - 国勢調査こくせいちょうさ 20にん
  • 昭和しょうわ5ねん - 国勢調査こくせいちょうさ 13にん
  • 昭和しょうわ10ねん - 国勢調査こくせいちょうさ 29にんおとこ23にんおんな6にん)、うち常住じょうじゅう人口じんこう16にん
  • 昭和しょうわ15ねん - 国勢調査こくせいちょうさ 46にんおとこ41にんおんな5にん)、世帯せたいすう8[20]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ International Kuril Island Project(IKIP、国際こくさい千島ちしま調査ちょうさ英文えいぶん”. University of Washington Fish Collection or the respective authors. 2010ねん9がつ5にち閲覧えつらん
  2. ^ ウルップ海峡かいきょうにおけるみずかたまり流速りゅうそく構造こうぞうらんりゅう混合こんごう観測かんそく 日本にっぽん海洋かいよう学会がっかい大会たいかい講演こうえん要旨ようししゅう(2008.03.14)
  3. ^ Пролив Фриза ロシアばんwiki
  4. ^ 蝦夷えぞ拾遺しゅうい
  5. ^ 蝦夷えぞ草紙ぞうし
  6. ^ a b 北海道ほっかいどう歴史れきしがわかるほん ISBN 978-4906740314
  7. ^ a b 千島ちしま列島れっとうをめぐる日本にっぽんとロシア 秋月あきづき俊幸としゆき ISBN 978-4832933866
  8. ^ 天長地久てんちょうちきゅうとは老子ろうし7しょうからの言葉ことばで「てんながひさし」という、永遠えいえん不変ふへん天長節てんちょうせつ地久節ちきゅうせつはこれから。
  9. ^ 池添いけぞえ博彦ひろひこ、「きた蝦夷えぞ紀行きこうしょく文化ぶんかこう きたえびすだんについて」『帯広大谷短期大学おびひろおおたにたんきだいがく紀要きよう』 1995ねん 32かん p.33-48, doi:10.20682/oojc.32.0_33, 帯広大谷短期大学おびひろおおたにたんきだいがく
  10. ^ 法令ほうれい全書ぜんしょだい11さつ(明治めいじ9ねん) 近代きんだいデジタルライブラリー 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん
  11. ^ 根室ねむろがいきゅうぐん役所やくしょ統計とうけいがいひょう 経歴けいれき デジタルアーカイブ 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん
  12. ^ 田島たじまけい也、「近世きんせい明治めいじ初期しょき北海道ほっかいどう樺太からふと千島ちしまうみ操業そうぎょうした紀州きしゅう漁民ぎょみん商人しょうにん」『知多半島ちたはんとう歴史れきし現在げんざい(16) 』 2015ねん 19かん, 日本福祉大学にほんふくしだいがく知多半島ちたはんとう総合そうごう研究所けんきゅうじょ
  13. ^ 報知ほうち新聞しんぶん 1934.6.19-30 神戸大学こうべだいがく 電子でんし図書館としょかんシステム
  14. ^ [https://www.pref.hokkaido.lg.jp/ss/cks/shichou/sichoutowa.html 北海道ほっかいどう総合そうごう振興しんこうきょくおよ振興しんこうきょく設置せっちかんする条例じょうれい 支庁しちょうとは? 北海道ほっかいどう
  15. ^ 財務省ざいむしょう組織そしき規則きそく平成へいせいじゅうさんねん財務省ざいむしょうれいだいいちごう”. e-Gov法令ほうれい検索けんさく. 総務そうむしょう行政ぎょうせい管理かんりきょく (2019ねん7がつ12にち). 2020ねん1がつ6にち閲覧えつらん。 “2019ねん7がつ16にち施行しこうぶん
  16. ^ ただし地方ちほう自治じちほう259じょう告示こくじされていない。
  17. ^ 根室ねむろ・千島歴史人名事典編集委員会 2002, 364ぺーじ.
  18. ^ 市町村しちょうそんべつ人口じんこう 01北海道ほっかいどう昭和しょうわ10ねん国勢調査こくせいちょうさ 政府せいふ統計とうけい総合そうごう窓口まどぐち
  19. ^ 世帯せたいすう及人いん市町村しちょうそん 01北海道ほっかいどう 大正たいしょう9ねん国勢調査こくせいちょうさ 政府せいふ統計とうけい総合そうごう窓口まどぐち
  20. ^ 世帯せたいおよび男女だんじょべつ人口じんこうぜん人口じんこう)-全国ぜんこく道府県どうふけんぐん市区しく町村ちょうそん 昭和しょうわ15ねん国勢調査こくせいちょうさ 政府せいふ統計とうけい総合そうごう窓口まどぐち

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 根室ねむろ・千島歴史人名事典編集委員会 へん根室ねむろ千島ちしま歴史れきし人名じんめい事典じてん根室ねむろ千島ちしま歴史れきし人名じんめい事典じてん刊行かんこうかい、2002ねん 

外部がいぶリンク

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関連かんれん項目こうもく

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