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日本特別掃海隊 - Wikipedia

日本にっぽん特別とくべつ掃海そうかいたい

日本にっぽん特別とくべつ掃海そうかいたい(にほんとくべつそうかいたい)は、朝鮮ちょうせん戦争せんそうさいに、国連こくれんぐん要求ようきゅうで、連合れんごう国軍こくぐん占領せんりょう日本にっぽん海上保安庁かいじょうほあんちょう派遣はけんした掃海そうかいたい特別とくべつ掃海そうかいたいとも。

海上保安庁かいじょうほあんちょうによる航路こうろけいひらく

編集へんしゅう

1945ねん8がつ15にち日本にっぽん降伏ごうぶくこうも、日本にっぽん近海きんかいには、大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん敷設ふせつしたかかり維機かみなり55,347と、アメリカ海軍かいぐん敷設ふせつした感応かんおう機雷きらい6,546のこっていた[1]。これらの機雷きらいによって日本にっぽん海上かいじょう交通こうつうはほとんど途絶とぜつしてしまい、食料しょくりょう輸入ゆにゅうまってしまっていた。これらをいちにちはや処理しょりし、日本にっぽん沿岸えんがん航路こうろひらいて船舶せんぱく安全あんぜん運航うんこうはかることは、終戦しゅうせん処理しょり作業さぎょうとして緊急きんきゅうかつ重大じゅうだい問題もんだいであった[2]

このため、戦時せんじちゅうからおこなわれていた海軍かいぐんによる航路こうろけいひらけ作業さぎょうは、降伏ごうぶくともなっていち中止ちゅうしされていたものの、9月18にちには海軍かいぐんしょう軍務ぐんむきょく掃海そうかい設置せっちされて、10月6にちより、アメリカ海軍かいぐん指令しれいけて再開さいかいされることになった。その海軍かいぐんしょうはいちょうとともにだい復員ふくいんしょう復員ふくいんちょう運輸省うんゆしょうへと所管しょかんえされていったが、1948ねん5がつ1にち運輸省うんゆしょう外局がいきょくとして海上保安庁かいじょうほあんちょう新設しんせつされると、こちらが所管しょかんするようになった。担当たんとう部署ぶしょは、当初とうしょ保安ほあんきょく掃海そうかいのち警備けいび救難きゅうなん掃海そうかいとなったのち、1950ねん6がつ1にちには独立どくりつ改編かいへんされて航路こうろけいひらけ本部ほんぶとなった[1]

朝鮮ちょうせん戦争せんそう機雷きらいせん

編集へんしゅう

連合れんごう国軍こくぐん占領せんりょう日本にっぽんでは、政府せいふ機関きかん連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい(GHQ/SCAP)の統制とうせいにあったことから、1950ねん6がつ朝鮮ちょうせん戦争せんそう開戦かいせんけて、海上保安庁かいじょうほあんちょう動員どういんされることになった。まず7がつ16にちより、佐世保させぼこうおよび横須賀よこすかこうにおけるほどこせ確認かくにん掃海そうかい開始かいしされた。これはゲリラてき機雷きらい敷設ふせつされることにたいする警戒けいかい措置そちであった[3]

一方いっぽう北朝鮮きたちょうせんぐんは、7がつ10日とおかよりソビエト連邦れんぽうせい機雷きらい入手にゅうしゅしており、ウラジオストックからの輸送ゆそう使つかわれていた鉄道てつどう破壊はかいされるまでにやく4,000入手にゅうしゅして、おそくとも8がつ1にちより、元山もとやまおよび鎮南うらにおいて機雷きらい敷設ふせつ開始かいしした。当初とうしょ国連こくれんぐん北朝鮮きたちょうせんぐん機雷きらいせん能力のうりょく軽視けいししていたが、9月4にちに鎮南浦みなみうら南西なんせい海域かいいきにおいてべい駆逐くちくかん機雷きらい発見はっけんしたのを皮切かわきりに報告ほうこく情報じょうほう相次あいつぎ、9月11にちアメリカ海軍かいぐんだい7艦隊かんたい司令しれいかんは、ぜん艦艇かんていたいし、北朝鮮きたちょうせん機雷きらいせん活動かつどう開始かいししたむね布告ふこくした[4]

9月15にち仁川にがわ上陸じょうりく作戦さくせん(クロムこう作戦さくせん Operation Chromite)では、かんほう射撃しゃげきのため進出しんしゅつした駆逐くちくかんかかり維機かみなり発見はっけんして処分しょぶんしたことはあったが、掃海そうかいていによる機雷きらい処分しょぶん成果せいかはなかった。しかし9月26にちから10月2にちまでの1 週間しゅうかんで、朝鮮半島ちょうせんはんとう東海岸ひがしかいがんではさわかみなりによって1せき沈没ちんぼつ、4せき大破たいはするという損害そんがいこうむり、機雷きらい脅威きょういおおきく見直みなおされることになった。しかし9がつまつ時点じてんで、国連こくれんぐん使用しようできる掃海そうかいていは、米国べいこく掃海そうかいてい21せきおよ日本にっぽん確認かくにん掃海そうかいたっている傭船ようせんちゅう日本にっぽん掃海そうかいてい12せきのみであった[4]

特別とくべつ掃海そうかいたい編成へんせい

編集へんしゅう

一方いっぽう国連こくれんぐん司令しれいかんマッカーサー元帥げんすいは、仁川にがわつづいて元山もとやまへの上陸じょうりく作戦さくせん(テイルボード作戦さくせん Operation Tail board)を計画けいかくしていたが、このようにたい機雷きらいせん部隊ぶたい貧弱ひんじゃくであるためにさきばしにされていた。このことから、10月2にち、アメリカ極東きょくとう海軍かいぐん参謀さんぼう副長ふくちょうアーレイ・バーク少将しょうしょうは、海上保安庁かいじょうほあんちょう大久保おおくぼ武雄たけお長官ちょうかんいちきゅう運輸うんゆ事務じむかん)を極東きょくとう海軍かいぐん司令しれいび、日本にっぽん掃海そうかいたい派遣はけん要請ようせいした。大久保おおくぼ長官ちょうかんただちに吉田よしだしげる首相しゅしょう報告ほうこくし、指示しじあおいだ[5]。このとき、すでべいぐん契約けいやくした日本にっぽんふね人員じんいん貨物かもつ輸送ゆそうおこなってはいたが、掃海そうかい作業さぎょうをする契約けいやくはなく、また戦争せんそう掃海そうかい作業さぎょうという戦闘せんとう行為こういを、軍隊ぐんたい機能きのういとなむことを禁止きんしされた海上保安庁かいじょうほあんちょうおこなうことへの違和感いわかんもあって[ちゅう 1]吉田よしだ首相しゅしょうとしては気乗きのりしなかったが、占領せんりょうという情勢じょうせいもあって、べいぐん希望きぼうどおりに掃海そうかいてい派遣はけんするようつたえた[4]

これをけて、同日どうじつ1951ふん田村たむら航路こうろけいひらけ本部ほんぶちょうそう指揮しきかんとする特別とくべつ掃海そうかいたい編成へんせい海上保安庁かいじょうほあんちょうタナ43)、つづいて20にはこれにくわわる掃海そうかいてい(MS[ちゅう 2])および巡視じゅんしせん(PS)の下関しものせき集結しゅうけつ海上保安庁かいじょうほあんちょうタナ31)をしたれいする電報でんぽう打電だでんされた[7]。これは佐世保させぼ横須賀よこすかほどこせ確認かくにん掃海そうかい従事じゅうじしているていのぞ可動かどうていすべてであった[3]

10月4にちには、アメリカ極東きょくとう海軍かいぐん司令しれいかんから山崎やまざきたけし運輸うんゆ大臣だいじんたいし、CNFE/S81として正式せいしき命令めいれいくだされた。これは、バーク少将しょうしょうとの会合かいごうさいに、大久保おおくぼ長官ちょうかん正式せいしき文書ぶんしょでの命令めいれいもとめたためであった[ちゅう 3][5]

編成へんせい

編集へんしゅう

日本にっぽんがわでは特別とくべつ掃海そうかいたい、アメリカ海軍かいぐんではCTE95.66と呼称こしょうされていた[2][9]

  • そう指揮しきかん田村たむら久三きゅうぞう航路こうろけいひらけ本部ほんぶちょう一級いっきゅう運輸うんゆ事務じむかんもと海軍かいぐん大佐たいさ[10]海兵かいへいだい46), 「ゆうちどり座乗ざじょう
  • だい1掃海そうかいたい
    • 指揮しきかん山上やまかみひさし三雄みつおだい7管区かんく航路こうろけいひらけ部長ぶちょうきゅう運輸うんゆ事務じむかんもと海軍かいぐん中佐ちゅうさ[10]海兵かいへいだい55
    • 所属しょぞくてい:MS20, MS02, MS04, MS07, PS03[11]
  • だい2掃海そうかいたい
    • 指揮しきかん能勢のせ省吾しょうごだい5管区かんく航路こうろけいひらけ部長ぶちょうきゅう運輸うんゆ事務じむかんもと海軍かいぐん中佐ちゅうさ[10]海兵かいへいだい55
    • 所属しょぞくてい:MS03, MS06, MS14, MS17, PS02, PS04, PS08[11]
  • だい3掃海そうかいたい
    • 指揮しきかん石飛いしとび矼(だい9管区かんく航路こうろけいひらけ部長ぶちょうきゅう運輸うんゆ事務じむかんもと海軍かいぐん中佐ちゅうさ[10]海兵かいへいだい58
    • 所属しょぞくてい:MS24, MS19, MS01, MS05, MS16, PS02, PS04, PS08[11]
  • だい4掃海そうかいたい
    • 指揮しきかん萩原はぎはらみんよんだい2管区かんく航路こうろけいひらけ部長ぶちょうきゅう運輸うんゆ事務じむかんもと海軍かいぐん中佐ちゅうさ海兵かいへいだい60[11]
    • 所属しょぞくてい:MS25, MS22, MS30, MS10, MS11, MS12, MS57[11]
  • だい2次第しだい1掃海そうかいたい(11月15にち編成へんせい[3]
    • 指揮しきかん花田はなた賢司けんじさんきゅう運輸うんゆ事務じむかんもと海軍かいぐん大尉たいい海兵かいへいだい71[11]
    • 所属しょぞくてい:MS24, MS19, MS02, MS04, MS05, MS07, PS48[11]
  • だい2次第しだい2掃海そうかいたい(10がつ25にち編成へんせい[3]
    • 指揮しきかん石野いしの自彊じきょうさんきゅう運輸うんゆ事務じむかんもと海軍かいぐん大尉たいい海兵かいへいだい69[11]
    • 所属しょぞくてい:MS62, MS23, MS22, MS57, MS09, MS13, MS15, MS10, MS21, MS03, MS06, MS09, PS56[11]
  • だい5掃海そうかいたい(10がつ29にち編成へんせい[3]
    • 指揮しきかん大賀おおが良平りょうへいさんきゅう運輸うんゆ事務じむかんもと海軍かいぐん大尉たいい海兵かいへいだい71
    • 所属しょぞくてい:MS21, MS03, MS06, MS08, PS58[11]

出動しゅつどう準備じゅんび

編集へんしゅう

軍事ぐんじされた海上保安庁かいじょうほあんちょうが、しかも日本にっぽん関与かんよしない外国がいこくでの戦闘せんとう行為こうい従事じゅうじすることから、隊員たいいんあいだでも議論ぎろんしょうじた。ただし田村たむら本部ほんぶちょうからの最初さいしょ通達つうたつでは「朝鮮ちょうせん海峡かいきょうでの浮流ふりゅう機雷きらい掃海そうかい」とされており、また6にち午後ごご旗艦きかん「ゆうちどり」でおこなわれた指揮しきかん会議かいぎでは「38せんえない」と明言めいげんされたことでおおむね納得なっとくし、出動しゅつどう準備じゅんびすすめられることになった[2]

たいによっては、ていごとに参加さんか不参加ふさんかけつらせたこともあったが、いずれも参加さんかけっした[12]。また下関しものせき岸壁がんぺきでは、朝鮮ちょうせんへの派遣はけん納得なっとくできない乗員じょういん家族かぞくけつけてきて、乗員じょういん朝鮮ちょうせん派遣はけんおもいとどまるように懇願こんがんし、乗員じょういんていちょうたちの説得せっとくでやっとあきらめるという一幕ひとまくもあり[2]一部いちぶ乗員じょういん家庭かてい事情じじょうということで下船げせんした[4]

なお、このように事情じじょう特殊とくしゅであったことから、特別とくべつ掃海そうかいたい参加さんかする隊員たいいんについて特殊とくしゅ勤務きんむ手当てあて増額ぞうがくされ、実質じっしつてき給与きゅうよ倍額ばいがくとなった。ただしこのような手当てあてがられていることをふくめて、隊員たいいんたちには事情じじょうがほとんどらされておらず、使命しめい目的もくてき曖昧あいまいなままで危険きけん業務ぎょうむくことになったことから、だい2掃海そうかいたい指揮しきかんであった能勢のせ省吾しょうごは、のちに「これらのことが伝達でんたつ説明せつめいされていたならば、あるいは全員ぜんいん使命しめいかん自覚じかくして、ちがった結果けっかんだかもからない」と述懐じゅっかいしている[2]

なお占領せんりょうには日章旗にっしょうき旭日きょくじつはた掲揚けいよう禁止きんしされていたことから、日本にっぽん船舶せんぱくはたしょうとしては、国際こくさい信号しんごうはたの「Eはた」のはし三角さんかくとした日本にっぽん商船しょうせん管理かんりきょく(SCAJAP)のはたわりに使用しようされ[13]船体せんたいからは海上保安庁かいじょうほあんちょうのマークもはずされた[6]

出動しゅつどう

編集へんしゅう

だい1掃海そうかいたいは10月7にち12だい2掃海そうかいたいよく8にち4、まただい3掃海そうかいたいは13にち1330ふんにそれぞれ下関しものせき出港しゅっこうし、朝鮮ちょうせん水域すいいきかった[7]

だい1掃海そうかいたい (山上さんじょうたい; うみしゅう)

編集へんしゅう

だい1掃海そうかいたい掃海そうかいてい4せき巡視じゅんしせん1せき構成こうせいされており、当初とうしょはMS22,02,04,11およびPS03で出発しゅっぱつしたが、MS22・11の機械きかい故障こしょうのため、それぞれMS20,07と交替こうたいした。10日とおか17仁川にがわわんがい予定よてい会合かいごう地点ちてん到着とうちゃく[7]えいべいふつとう各国かっこく艦艇かんてい連絡れんらくしたのち[14]即日そくじつうみしゅうおき移動いどうした[15]

11にちより、イギリス海軍かいぐんベイきゅうフリゲート「ホワイトサンド・ベイ」とともに、CTE95.10西海岸にしかいがん哨戒しょうかい任務にんむたい指揮しきかん英国えいこく)のもとで、うみしゅう航路こうろ掃海そうかい作業さぎょう従事じゅうじした[4]当初とうしょ英軍えいぐん監督かんとくきびしく、使役しえきされるというニュアンスがつよかったが、英軍えいぐん日本にっぽんがわ作業さぎょう精度せいどたかさをみとめ、また山上さんじょう指揮しきかん度々たびたびねばづよ英軍えいぐん交渉こうしょうし、乗員じょういん同士どうし交流こうりゅうふかまるにつれて、わだかまりは解消かいしょうされていった[15]

31にちまでにけい15機雷きらい処分しょぶんし、11月1にちうみしゅう出発しゅっぱつした。2にち午前ごぜん4だい4掃海そうかいたい萩原はぎはらたい; 郡山こおりやまM22 と合同ごうどう、MS20 と乗員じょういんえした。11月3にち夜半やはん午前ごぜん1)、下関しものせき帰投きとうし、 「ゆうちどり」に横付よこづ連絡れんらくした[14]

だい2掃海そうかいたい (能勢のせたい; 元山もとやま)

編集へんしゅう
MS-14がさわかみなりしたときの状況じょうきょう
磁気じき機雷きらいさわかみなり沈没ちんぼつしたYMS-516

だい2掃海そうかいたい掃海そうかいてい5せき巡視じゅんしせん3せきは、そう指揮しきかんである田村たむらそう指揮しきかん座乗ざじょうする「ゆうちどり」とともに、10月8にち16海上かいじょうでアメリカ海軍かいぐんかんから指示しじしょ受領じゅりょうしたのち、10日とおか午前ごぜん8元山もとやま港外こうがい到着とうちゃくした[16]

11にちより掃海そうかい作業さぎょう開始かいしし、まずは上陸じょうりく作戦さくせんさい国連こくれんぐん艦艇かんてい泊地はくちとする予定よてい海域かいいき掃海そうかい実施じっしした。そのよく12にちには永興りょうごわん進入しんにゅうして元山もとやまこう前面ぜんめん掃海そうかいおこなうことになり、まず吃水きっすいあさべい海軍かいぐんのAMSがた掃海そうかいてい掃海そうかい水域すいいき進入しんにゅうし、日本にっぽん掃海そうかいたいだい2掃海そうかいたい)は処分しょぶんていとしてこれにぞくこうすることになった。しかしべい掃海そうかいてい4せきのうち2せき相次あいついでさわかみなりして撃沈げきちんされたことで、作戦さくせん中止ちゅうしされて、日本にっぽん掃海そうかいてい後退こうたいした[2]

13にちからはふたた沖合おきあいでの泊地はくち掃海そうかいもどったが、戦況せんきょう変化へんかけてべいぐん予定よてい上陸じょうりく地点ちてん変更へんこうされたことにともない、日本にっぽん掃海そうかいたい任務にんむ変更へんこうされた。このあいだ泊地はくち水深すいしん80から100メートルで、日本にっぽん掃海そうかいてい投錨とうびょうできず、漂泊ひょうはくせざるをなかったが、漂泊ひょうはくちゅう波浪はろうにもまれ、機関きかんやすめるひまもなかったために乗員じょういんはへとへとにつかれ、機関きかんはがたがたの状況じょうきょうであった。その、17にちより、予定よてい上陸じょうりく地点ちてん前面ぜんめん海域かいいきにおいて、アメリカ掃海そうかいたい西にし半分はんぶんを、日本にっぽん掃海そうかいたいだい2掃海そうかいたい)がひがし半分はんぶん担当たんとうして掃海そうかい実施じっしすることになった[2]

17にち早朝そうちょうより日本にっぽん掃海そうかいたいだい2掃海そうかいたい)は行動こうどう開始かいしし、永興りょうごわん進入しんにゅうして、まずたいていでの磁気じき掃海そうかいおこなうこととした[2]。MS03とMS17をもってだい1小隊しょうたい、MS06とMS14をもってだい2小隊しょうたい編成へんせいし、PS02が処分しょぶんていとしてこれらにぞくこうした[17]

午後ごご321ふん掃海そうかいたいうららとう前面ぜんめん通過つうかしつつあったとき、もっとりくがんちかかったMS14がさわかみなりした。これらの掃海そうかいてい機関きかんがあるていがわ吃水きっすいふかく、この位置いちさわかみなりする傾向けいこうつよかったことから、掃海そうかいには極力きょくりょく遠隔えんかく操縦そうじゅうとして、乗員じょういんぜん甲板かんぱん集合しゅうごうするようにしていたが、ちょうどさわかみなりしたさいには中谷なかたにさか太郎たろう烹炊ちょう後部こうぶの烹炊しつりており、行方ゆくえ不明ふめいとなってしまった。その乗員じょういん22めいは、ただちにけつけたべいぐんLCVPによって救助きゅうじょされ[ちゅう 4]重軽傷じゅうけいしょうしゃ18めいであった[2][17]

夕刻ゆうこくだい2掃海そうかいたいかくていうららとう泊地はくち到着とうちゃくし、「ゆうちどり」に横付よこづけして集合しゅうごうした。上記じょうきのように元山もとやまおきでは夜間やかん漂泊ひょうはくしていたことから、門司もじ出港しゅっこうしてから 11にちはじめての投錨とうびょうであった[19]かくていちょうのあいだでは掃海そうかい作業さぎょうりと帰国きこく意見いけんたかまっていたことから、能勢のせ隊長たいちょうおよび田村たむらそう指揮しきかんは、妥協だきょうあんとして、まず小型こがた喫水きっすいあさいLCVPや交通こうつうてい先行せんこうして海面かいめんちかくの機雷きらい掃海そうかいしたのち掃海そうかいていすす方式ほうしきるよう、アメリカがわ進言しんげんすることとした[2]

翌朝よくあさはや田村たむらそう指揮しきかんべいぐん訪問ほうもんし、まず掃海そうかい部隊ぶたい(CTG95.6)指揮しきかんスポフォード大佐たいさ会見かいけんしたところ、大佐たいさ田村たむらそう指揮しきかん提案ていあん了解りょうかいし、てい貸与たいよする協定きょうてい成立せいりつした。しかしつづいて面会めんかいした水雷すいらい戦隊せんたい司令しれいかん前進ぜんしん任務にんむ部隊ぶたい指揮しきかんスミス(Allan E. Smith)少将しょうしょうは、すで上陸じょうりく予定よていからおくれている現状げんじょうで、小型こがたていによるしょう掃海そうかいおこな余裕よゆうはなく、また貸与たいよできるようなていもないとして、提案ていあん却下きゃっかした[2]田村たむらそう指揮しきかんふたたていちょうたちと協議きょうぎしたものの、計画けいかくどおりに掃海そうかい強行きょうこうすればさわかみなり必至ひっしであるとして、全員ぜんいんがこれを拒否きょひした。この返答へんとうをもってふたたびスミス少将しょうしょう協議きょうぎした田村たむらそう指揮しきかんは、「日本にっぽん掃海そうかいせん3せきは15ふん以内いない出港しゅっこうして内地ないちかえれ、しからずんば15ふん以内いない出港しゅっこうして掃海そうかいにかかれ、内地ないちかえ場合ばあい清水しみず燃料ねんりょう補給ほきゅうせんよりけよ」との返答へんとうけた[19][ちゅう 5])。

これをけて、能勢のせ隊長たいちょう指揮しきの3せき掃海そうかいてい日本にっぽんへの帰国きこく決意けついし、田村たむらそう指揮しきかんもこれをれた。当時とうじ、MS17は機関きかん整備せいびのため分解ぶんかいしており発動はつどうわなかったことから、MS03がこれを横抱よこだきにすることになり、18にち14永興りょうごわん出港しゅっこうした。このさい、「ゆうちどり」には同隊どうたい帰国きこくめいずるはた旒信ごうげられて、独断どくだんではなく命令めいれいによる帰国きこくというたいになった。同隊どうたいは、途中とちゅうだい3掃海そうかいたい石飛いしとびたい)とすれちがいつつ帰国きこくし、20日はつか下関しものせき到着とうちゃくした[2]

その能勢のせ隊長たいちょう鉄路てつろ海上保安庁かいじょうほあんちょう出頭しゅっとう[2]、またもとやまのこっていた田村たむらそう指揮しきかんも22にちにはべいぐん水上すいじょう飛行ひこうてい東京とうきょう帰投きとうして、こと顛末てんまつ海上保安庁かいじょうほあんちょう長官ちょうかん報告ほうこくした。同日どうじつ能勢のせたい帰投きとうについてGHQ公安こうあんきょく(Public Safety Division)と海上保安庁かいじょうほあんちょうとで会議かいぎがもたれ、結論けつろんとして、帰投きとう原因げんいんは「べい現地げんち指揮しきかん日本にっぽん特別とくべつ掃海そうかいたい隊員たいいんかれた立場たちばをよく認識にんしきせず、日本にっぽんがわのLCVPによる掃海そうかいもうたいしてなん処置しょちをしなかったことである」とされた[4]。ただしべい極東きょくとう海軍かいぐん司令しれいからの指令しれいにより、能勢のせ隊長たいちょうと3めいていちょうしょくわれることになった[2]

なお元山もとやまでは、10月18にちまでに近接きんせつ水路すいろから海岸かいがんいたかかり維機かみなり掃海そうかいはほぼ終了しゅうりょうしていた。ところがどうにち韓国かんこく海軍かいぐん掃海そうかいてい YMS516 が磁気じき機雷きらいさわかみなり沈没ちんぼつ乗員じょういん半数はんすううしなった。あらたに磁気じき機雷きらい脅威きょうい出現しゅつげんしたことで作戦さくせんおくれ、最終さいしゅうてき元山もとやま上陸じょうりく作戦さくせんは10月25にちとなった。結局けっきょくこの上陸じょうりく作戦さくせんは、韓国かんこく地上ちじょう部隊ぶたいが10月11にち元山もとやま解放かいほうしていたので、戦闘せんとう管理かんり輸送ゆそう上陸じょうりくとなった[19]

だい3掃海そうかいたい (石飛いしとびたい; 元山もとやま)

編集へんしゅう

だい3掃海そうかいたいは、10月17にち未明みめい030ふん、アメリカ海軍かいぐんアレン・M・サムナーきゅう駆逐くちくかんウォレス・L・リンド」の嚮導きょうどうのもとで下関しものせき出港しゅっこうしたが、荒天こうてんのため反転はんてんし、またかじ故障こしょうしたていた。その同日どうじつ18さい出港しゅっこうし、元山もとやまかった[21]途中とちゅう先発せんぱつしただい2掃海そうかいたい能勢のせたい帰国きこくしつつあることをらされ[22]、また洋上ようじょうでこれとすれちがった[2]

20日はつか午前ごぜん9同隊どうたい元山もとやま到着とうちゃくし、田村たむらそう指揮しきかん座乗ざじょうする「ゆうちどり」と合流ごうりゅうした。また能勢のせたい元山もとやま残留ざんりゅうしていたPS02・04・08をわせて指揮しきすることになった。上記じょうきのようにあらたに磁気じき機雷きらい脅威きょうい出現しゅつげんしていたことから、まず21にちから11月3にちにかけて、5しき掃海そうかいもちいて元山もとやまこう内外ないがい磁気じき掃海そうかい実施じっしした。またアメリカぐんが200トンがた曳船えいせん応急おうきゅう試航しこうせん改造かいぞうしたことから、掃海そうかいていがこれを曳航えいこうして、10月31にちから11月1にちまで試航しこうおこなった。これにつづいて、11月7にちから26にちまで、たいかんしきだい掃海そうかい3がたもちいて、うららとう東北とうほく掃海そうかい水路すいろ確認かくにんほどこせ掃海そうかいおこなった。これらの掃海そうかいにより、けい5機雷きらい拘束こうそくし、PS でいずれも銃撃じゅうげき処分しょぶんした。なお掃海そうかいした区域くいき磁気じき掃海そうかい泊地はくち 24平方へいほうキロ、航路こうろ 36.4平方へいほうキロ、かかり維機かみなり掃海そうかい泊地はくち 67.35平方へいほうキロ、航路こうろ2.75平方へいほうキロであった[21]

なおこのあいだ、PS43が同隊どうたい編入へんにゅうされており、どうていは11月4にち下関しものせき出発しゅっぱつして12にち元山もとやま到着とうちゃくした。一方いっぽう能勢のせたいから編入へんにゅうされたPS02・04・08は11月13にち元山もとやま出発しゅっぱつし、15にち下関しものせき到着とうちゃくした[21]

その石飛いしとびたいだい2次第しだい1掃海そうかいたい花田はなたたい交代こうたいして、11月26にち12元山もとやま出発しゅっぱつし、28にち午前ごぜん1030ふん下関しものせき帰投きとうした。ただしMS24・19・09は花田はなたたい編入へんにゅうされることになり、元山もとやま残留ざんりゅうした[21]

だい4掃海そうかいたい (萩原はぎはらたい; ぐんやま)

編集へんしゅう

だい4掃海そうかいたいは、下関しものせき集合しゅうごうしたのち、まず佐世保させぼ移動いどうして、同地どうちべい海軍かいぐん掃海そうかい部隊ぶたい指揮しきかんからぐんやま掃海そうかい指示しじする命令めいれいしょ受領じゅりょうして、10月17にちぐんやまけて出港しゅっこうした。同日どうじつ西風せいふうつよ朝鮮ちょうせん海峡かいきょうわたれなかったため五島列島ごとうれっとう北端ほくたん仮泊かはくし、よく18にちぐんやまけて出港しゅっこうした[23]

19にち早朝そうちょうぐんやま到着とうちゃくし、満潮まんちょうって、午前ごぜん11入港にゅうこうした。同隊どうたいは、TE95.7 韓国かんこく海軍かいぐん任務にんむたいべい指揮しきかん)に編入へんにゅうされ、韓国かんこく海軍かいぐん掃海そうかいていYMS-513ていちょう指揮しきけて掃海そうかいおこなうことになった[4]。このとき、韓国かんこく海軍かいぐん掃海そうかいていていちょうは「じつわたし掃海そうかいのことはなにらない。あなたに一切いっさいまかせる。ただし韓国かんこく司令しれいには、わたし命令めいれいでやったことに報告ほうこくさせてくれ」と告白こくはくし、萩原はぎはら指揮しきかんこころよ功績こうせきかんていちょうゆずった[23]。ただし掃海そうかい作業さぎょう報告ほうこくでは「おな海域かいいきたいし、ちがった作戦さくせん命令めいれい佐世保させぼだい3掃海そうかいたい司令しれい韓国かんこくせんYMS-513、えい海軍かいぐんフリゲート「モーコンベイ」およ日本にっぽんそう指揮しきかんからされ、我々われわれはどの命令めいれいをとるべきか判断はんだんまよわされた」、「ぜん作業さぎょう我々われわれまかされたら、我々われわれ自身じしんのペースでもっと容易ようい掃海そうかい作業さぎょう実施じっしできたとおもわれる」とべられており、指揮しき系統けいとう混乱こんらんと、実際じっさいには日本にっぽんがわかならずしも自主じしゅせい付与ふよされていなかったことがうかがえる[4]

萩原はぎはらたいは、ぐんやまこういた航路こうろたいし、かかり維機かみなりおよ磁気じき機雷きらい掃海そうかいおこなった。途中とちゅう、10月27にちにはMS30が座礁ざしょう沈没ちんぼつするという事件じけんがあった[21]

このあいだえい海軍かいぐんフリゲふりげト艦とかんちょう来訪らいほうして「マッカーサー司令しれい命令めいれいだ、鎮南うら掃海そうかいにあたれ」ともうれたのにたい[ちゅう 6]萩原はぎはら指揮しきかんっていたべいぐん指揮しきかん命令めいれいせ「田村たむらそう指揮しきかん命令めいれいがなければうごかぬ」とことわり、えい艦長かんちょうは「月給げっきゅうさんばいはらうからってくれ」といったが、萩原はぎはら指揮しきかんは「わたしくにのためはたらいているので、かねをかせぎにきたのではない」とっぱねたという挿話そうわがあった[23]

その、11月4にちにはぐんやまでの任務にんむ終了しゅうりょうしたが、萩原はぎはら指揮しきかん機関きかん不調ふちょうの2せきのみをれて帰国きこくすることになり、ほか4せき(MS10,12,22,57)はだい2次第しだい2掃海そうかいたい石野いしのたい編入へんにゅうされて、鎮南うら移動いどうして同地どうち掃海そうかいおこなうことになった[21]萩原はぎはら指揮しきかんがそのむねえい海軍かいぐんフリゲふりげト艦とかんちょうつたえたところ、えい艦長かんちょう謝意しゃいつたえるとともに、部下ぶか機関きかん士官しかん派遣はけんして機関きかん修理しゅうりしてくれた[23]

だい2次第しだい1掃海そうかいたい (花田はなたたい; 元山もとやま)

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だい1掃海そうかいたいだい2)は11月15にちしん編成へんせいされて、11月20にち15下関しものせき唐戸からと出港しゅっこう、22にち1530ふん元山もとやま到着とうちゃくした。上記じょうきのように、先行せんこうして同地どうち活動かつどうしていただい3掃海そうかいたい石飛いしとびたいから掃海そうかいてい3せき(MS24,19,05)の編入へんにゅうけて、24にちより掃海そうかい開始かいしした[24]

冬季とうき作業さぎょうとしては天候てんこうめぐまれたものの、氷点下ひょうてんか極寒ごっかんと、わんがい巨大きょだいなうねりとで、作業さぎょうには困難こんなんともなった。ただし能勢のせたい教訓きょうくんからか、作業さぎょう内容ないようは、すんで掃面のほどこせ掃海そうかい試航しこう掃海そうかいなど、安全あんぜん海面かいめん掃海そうかいてられており、また自主じしゅせい付与ふよされていたこともあって、現地げんちまいぐんとの折衝せっしょうきわめて順調じゅんちょう経過けいかした。12月3にちまでに所定しょてい作業さぎょう完了かんりょうして、同月どうげつ4にち午前ごぜん6元山もとやま出港しゅっこう、6にち下関しものせき唐戸からと無事ぶじ帰投きとうした。使用しよう掃海そうかいは、たいかんしきだい掃海そうかい3がたで、航路こうろ25.2平方へいほうキロの清掃せいそう完了かんりょう処分しょぶん機雷きらいはなかった[24]

だい2次第しだい2掃海そうかいたい (石野いしのたい; 鎮南うら)

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だい2掃海そうかいたいだい2)は10月25にちしん編成へんせいされて、11月3にち15下関しものせき唐戸からと出港しゅっこうした。途中とちゅうで、上記じょうきのようにぐんやま活動かつどうしていただい4掃海そうかいたい萩原はぎはらたいから残置ざんちされていた掃海そうかいてい4せき(MS10,12,22,57)と合流ごうりゅうし(手続てつづじょう編入へんにゅうは2にち)、7にち1345ふんに鎮南うら到着とうちゃくした[25]

当時とうじ同地どうちではギアリングきゅう駆逐くちくかんフォレスト・ロイヤル」を旗艦きかんとして、アーチャー(Stephen M. Archer)中佐ちゅうさ指揮しきかんとするTE95.69鎮南うら掃海そうかい任務にんむたい編成へんせいされており、石野いしのたいはこれに編入へんにゅうされて、8にちより掃海そうかい開始かいしした[4][25]

同地どうちでは、元山もとやま能勢のせたい提案ていあんしたようにLCVPによる事前じぜん掃海そうかい導入どうにゅうされており、まずべい海軍かいぐん水中すいちゅう処分しょぶんたい機雷きらい捜索そうさく拘束こうそくし、いでLCVPによるりゃく掃をおこない、その日本にっぽん掃海そうかいていにより精密せいみつ掃海そうかい実施じっしするという手順てじゅんすすめられた[4][26]

その、15にち12にはだい5掃海そうかいたい大賀たいがたいが鎮南うら到着とうちゃくし、17にちけで石野いしのたい編入へんにゅうされた。これにより、石野いしのたいは、朝鮮ちょうせん水域すいいきにおける一番いちばんおおきな掃海そうかい部隊ぶたいとなった。また同日どうじつには、試航しこうせんとして泰昭やすあきまる同地どうち到着とうちゃくしたが、このさい野菜やさいるい日本人にっぽんじんこのみの貯蔵ちょぞうひんるいんできており、とく野菜やさいるい現地げんちべいぐんでも不足ふそく気味ぎみ補給ほきゅうけられていなかったことから、生気せいきもどすことができた[25][26]

20日はつかには鎮南うら掃海そうかい完了かんりょう発表はっぴょうされた。協同きょうどうして掃海そうかい作業さぎょうおこなっていた連合れんごうぐん掃海そうかいていはアーチャー中佐ちゅうさとともにやすしゅうへと転進てんしんしていったが、同地どうち安全あんぜん確保かくほできていなかったことから、石野いしのたいのみが鎮南うらのこされて、すんで掃海そうかい水道すいどうないほどこせ掃海そうかいおこなっていた[26]

26にち石野いしのたいは「カーミック艦長かんちょう指揮しきはいることになった。28にちきゅうだい5掃海そうかいたい大賀たいがたい)は石野いしのたいから分離ぶんりされてだい4掃海そうかいたいだい2)として改編かいへんされることになり、30にち12、鎮南うら出港しゅっこうかいしゅうむかっていった。また30にちには、試航しこうえた泰昭やすあきまる佐世保させぼ帰投きとうしていったほか、石野いしのたいは「トンプソン艦長かんちょう指揮しきはいることになった[25]

当時とうじ陸上りくじょうでは中国ちゅうごく人民じんみん志願しがんぐん介入かいにゅうによって国連こくれんぐん後退こうたいいられており、鎮南うら危険きけんになってきていたことから、12月2にち、アーチャー中佐ちゅうさより、石野いしのたい日本にっぽん本土ほんどげるように指示しじがあり、同日どうじつ1530ふん、鎮南うら出港しゅっこうした。よく3にちには平壌ぴょんやんから国連こくれんぐん撤退てったいしており、きわどいタイミングでの帰還きかんであった[26]

4にちには、アーチャー中佐ちゅうさより、帰国きこくさいして大賀たいがたい合流ごうりゅうするように指示しじがあったものの、荒天こうてんのためにたせず[26]、7にち午前ごぜん11下関しものせき帰投きとうした[25]

だい5→だい2次第しだい4掃海そうかいたい (大賀たいがたい; 鎮南うらうみしゅう)

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だい5掃海そうかいたいは10月25にちしん編成へんせいされて、11月7にち15下関しものせき唐戸からと出港しゅっこうした。この回航かいこうにあたり、すで帰還きかんしていただい1・4掃海そうかいたいから情報じょうほう聴取ちょうしゅ収集しゅうしゅうするとともに、浴槽よくそう生鮮せいせん食料しょくりょうひん貯蔵庫ちょぞうこ新設しんせつなどの準備じゅんびおこなった[27]

回航かいこうちゅうにMS21の機械きかい故障こしょうし、PS56でこれを曳航えいこうしたものの曳索が切断せつだん、また吹雪ふぶきなかでMS06を見失みうしなっていち遭難そうなん判断はんだんされるなど、冬季とうき悪天候あくてんこうのためにおおくの困難こんなんしょうじたが、偶然ぐうぜん遭遇そうぐうしたイギリス巡洋艦じゅんようかんやアメリカ駆逐くちくかん誘導ゆうどうけて、15にち1230ふん、鎮南うら到着とうちゃくした[27]

到着とうちゃく指揮しき系統けいとう統一とういつのため、上記じょうきのようにだい5掃海そうかいたい編制へんせいいて、掃海そうかいてい(MS)はだい2次第しだい2掃海そうかいたい石野いしのたい)のだい3小隊しょうたいに、PS56はとく真水まみず燃料ねんりょう補給ほきゅうせんに、だい5掃海そうかいたい指揮しきかんおよ指揮しきかんは、だい2掃海そうかいたい指揮しきかん合併がっぺいされた[27]

その、28にちには大賀たいがたいふたた石野いしのたいから分離ぶんりされて、今度こんどだい2次第しだい4掃海そうかいたいとして再編さいへんされることになった。30にち12に鎮南うら出港しゅっこうして、えい海軍かいぐんフリゲート「モーコンベイ」の指揮しきうみしゅう移動いどう[3]、12月1にちより同地どうちでの掃海そうかい開始かいししたが[27]同地どうちでの作業さぎょうちゅう、MS06の推進すいしんじく切断せつだんするという事故じこ発生はっせいした[3]上記じょうきのような戦況せんきょう悪化あっかもあって、6にち作業さぎょう終了しゅうりょうし、うみしゅう出港しゅっこうした。荒天こうてんのなかで自力じりき航行こうこう不能ふのうなMS06を曳航えいこうする必要ひつようがあり、回航かいこうには困難こんなんともなったが、途中とちゅう壱岐いき仮泊かはくして、11にち1030ふん下関しものせき唐戸からと到着とうちゃくした[3][27]

掃海そうかい作業さぎょう終了しゅうりょう

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12月15にち、アメリカ極東きょくとう海軍かいぐんは、文書ぶんしょをもって掃海そうかい作業さぎょう終了しゅうりょう指示しじするとともに、べい極東きょくとう海軍かいぐん司令しれいかんからの感謝かんしゃつたえた。これにより日本にっぽん特別とくべつ掃海そうかいたい編成へんせい正式せいしきかれ、かくていは、それぞれの母港ぼこうへと帰投きとうした[4]

成果せいかとその

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特別とくべつ掃海そうかいたいは、元山もとやま仁川にがわうみしゅうぐんやまおよび鎮南うらとうで2ヶ月かげつ以上いじょうにわたって掃海そうかい作業さぎょうたり、300キロにのぼる水路すいろと600平方へいほうキロの泊地はくちけいひらけした[28]

特別とくべつ掃海そうかいたい処分しょぶんした機雷きらいは29ぎなかったが[3]国連こくれんぐんからはおおきく評価ひょうかされており、たとえばべい太平洋艦隊たいへいようかんたい報告ほうこくでは「掃海そうかいてい作戦さくせん成功せいこうおおきく貢献こうけんした」とべられている[4]当時とうじ国連こくれんぐんたい機雷きらいせん能力のうりょくおおきく低下ていかし、とく元山もとやまでは機雷きらいせんのために上陸じょうりく作戦さくせん大幅おおはば遅延ちえんして作戦さくせんとしての意義いぎおおきくそこなってしまっており、スミス少将しょうしょうは「この海域かいいきにおけるせいうみうしなってしまった」とまで慨嘆がいたんしていた[19]。このため、日本にっぽん特別とくべつ掃海そうかいたい掃海そうかい活動かつどうは、国連こくれんぐん元山もとやま上陸じょうりく作戦さくせん、鎮南うらからの撤退てったい作戦さくせんおよ上記じょうき港湾こうわん使用しようしての後方こうほう支援しえん作戦さくせんとう必要ひつよう不可欠ふかけつであった[4]

この成果せいかたいし、まず12月7にち極東きょくとう海軍かいぐん司令しれいかんターナー・ジョイ中将ちゅうじょう英語えいごばんから大久保おおくぼ長官ちょうかんたい掃海そうかい隊員たいいんらへの賛辞さんじおくられており、「ウェルダン、てんれ、まことによくやってくださいました」と最上級さいじょうきゅう称賛しょうさんめくくられた。つづいて1951ねん1がつ26にちには、運輸うんゆ大臣だいじんから特別とくべつ掃海そうかいたいたいして表彰ひょうしょうおこなわれた[28]

しかしながら、特別とくべつ掃海そうかいたい派遣はけん日本国にっぽんこく憲法けんぽうだい9じょう違反いはんするとの批判ひはん場合ばあい講和こうわ条約じょうやく締結ていけつ問題もんだい悪影響あくえいきょうおよぼすことをおそれて、政府せいふはこの派遣はけんそのものを秘密ひみつあつかいとした[4]唯一ゆいいつ殉職じゅんしょくしゃである中谷なかたに烹炊ちょう遺族いぞくにはアメリカからやく400まんえん現在げんざいやく3200まんえん相当そうとう)が支給しきゅうされたが、これには極秘ごくひ任務にんむ口止くちどめの意味合いみあいもふくまれていたという[29]日本にっぽん国内こくないでの航路こうろけいひらけ作業さぎょうでもおおくの殉職じゅんしょくしゃていたことから、1952ねんにはこれらの業績ぎょうせき後世こうせいつたえるため、金刀比羅宮ことひらぐう掃海そうかい殉職じゅんしょくしゃ顕彰けんしょう建立こんりゅうされ、中谷なかたに烹炊ちょう名前なまえきざまれているが、特別とくべつ掃海そうかいたい派遣はけんちゅう殉職じゅんしょくであることはらされなかった。その大久保おおくぼもと長官ちょうかんたちの運動うんどうもあって、殉職じゅんしょく29ねんた1979ねんあき戦没せんぼつしゃ叙勲じょくんくんはちとう白色はくしょくきりあきらおくられたが、これも新聞しんぶん発表はっぴょうおこなわれなかった[4]

なお、国連こくれんぐん指示しじしたがわず帰投きとうした能勢のせ事務じむかんは1951ねん1がつ運輸うんゆ事務じむかん退職たいしょくすることとなるが、1952ねん7がつ海上かいじょう保安ほあんかんとして採用さいようされ、同年どうねん8がつ西部せいぶ航路こうろけいひらけたい司令しれいにんじられる。そのは、海上かいじょう自衛隊じえいたい入隊にゅうたい横須賀よこすか地方ちほう総監そうかんふく総監そうかんとう歴任れきにんし、1959ねん退官たいかんする。また、だい5掃海そうかいたい指揮しきかん大賀おおが良平りょうへい運輸うんゆ事務じむかんは、その海上かいじょう警備けいび隊員たいいん警備けいびかん海上かいじょう自衛じえいかんすすみ、1977ねん海上かいじょう幕僚ばくりょうちょうとなる[30]

朝鮮半島ちょうせんはんとう反応はんのう

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1950ねん10月、北朝鮮きたちょうせん外相がいしょうぼくけんひさしは「国連こくれんぐん日本にっぽんへい参戦さんせんしている」と非難ひなんおこない、同様どうようにソビエト連邦れんぽうも「アメリカが日本にっぽんへい参加さんかさせている」として国際こくさい連合れんごう総会そうかい非難ひなんおこなった[31]1951ねん4がつ承晩しょうばん韓国かんこく大統領だいとうりょうは、やまとかん駐屯ちゅうとん韓国かんこくぐん部隊ぶたいつぎのような演説えんぜつおこなった。

最近さいきん国連こくれんぐんなかに、日本にっぽん軍兵ぐんびょうはいっているとのうわさがあるが、その真否しんぴはどうであれ、万一まんいち今後こんご日本にっぽんがわれわれをたすけるという理由りゆうで、韓国かんこく出兵しゅっぺいするとしたら、われわれは共産きょうさんぐんたたかっている銃身じゅうしんまわして、日本にっぽんぐんたたかうことになる[32][33]

一方いっぽう日本にっぽんがわ朝鮮半島ちょうせんはんとうでのたいにち感情かんじょう考慮こうりょして、なるべく掃海そうかい隊員たいいん上陸じょうりくさせないよう指示しじしていた。しかしあるとき、やむをえない事情じじょう元山もとやま上陸じょうりくしたさい現地げんちへい日本人にっぽんじんとすぐに見破みやぶられてかこまれ、いただされたという。そこで隊員たいいん正直しょうじき理由りゆうはなすと、流暢りゅうちょう日本語にほんごで「おー、そうか、ご苦労くろうさんです。どうですいちはい」と歓迎かんげいされたという[34]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 1945ねん9月2にち連合れんごうこく最高さいこう司令しれいかん指令しれいだい2ごうには、太平洋戦争たいへいようせんそうなか機雷きらい除去じょきょすることを目的もくてきとして「日本にっぽん帝国ていこく大本営だいほんえい一切いっさい掃海そうかいてい所定しょてい武装ぶそう解除かいじょ措置そち実行じっこうし、所要しょよう燃料ねんりょう補給ほきゅうし、掃海そうかい任務にんむ利用りようごと保存ほぞんすべし。日本にっぽんこくおよび朝鮮ちょうせん水域すいいきにおける水中すいちゅう機雷きらい連合れんごうこく最高さいこう司令しれいかん指定してい海軍かいぐん代表だいひょうしゃにより指示しじせらるるところしたが除去じょきょせらるべし」とあり、連合れんごう国軍こくぐん命令めいれいにより海上保安庁かいじょうほあんちょう朝鮮ちょうせん水域すいいきにおいて掃海そうかい作業さぎょう実施じっしする法的ほうてき根拠こんきょ一応いちおう存在そんざいしていた[5][4]
  2. ^ Mine Sweeperの頭文字かしらもじ[6]
  3. ^ 日本にっぽん共産党きょうさんとう吉岡よしおかよしのり質問しつもんたいする日本国にっぽんこく政府せいふ中曽根なかそね政権せいけん)の回答かいとうにおいても、掃海そうかい部隊ぶたい派遣はけん米国べいこく極東きょくとう海軍かいぐん司令しれいかん指令しれいしたがっておこなわれたとされている[8]
  4. ^ 公式こうしきの『MS14ごうさわかみなり報告ほうこく』では、僚艇であるMS06ごうつうせんにより7めい収容しゅうようされたと報告ほうこくされているが、実際じっさいにはこのつうせんには真水まみずめられていたため、これをいて海面かいめんろすまでに時間じかんようし、また海面かいめん状況じょうきょうわるかったため、つうせんでの救助きゅうじょ断念だんねんされた。このようにつうせんみずられていたのは、もともととくかた掃海そうかいてい真水まみずタンクの容量ようりょうちいさかったうえに、元山もとやまおきべい海軍かいぐん補給ほきゅうかん「ルーズベルト」から補給ほきゅうけたさい真水まみず補給ほきゅう問題もんだいがあったためであった[18]
  5. ^ 1978ねん11月に能勢のせ隊長たいちょう当時とうじ状況じょうきょう述懐じゅっかいきした防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ資料しりょう朝鮮ちょうせん戦争せんそう出動しゅつどうした日本にっぽん特別とくべつ掃海そうかいたい」では、べいぐんから「15ふん以内いないなければ砲撃ほうげきする」と通達つうたつされたとされ、もとMS03乗務じょうむいんも「べいぐんはやかえらんとつぞとってる[20]」とていちょうからいたと証言しょうげんしている。ただし海上保安庁かいじょうほあんちょう帰国きこく直後ちょくごどう隊長たいちょうから事情じじょう聴取ちょうしゅしたさいには砲撃ほうげきおどしについては言及げんきゅうされておらず、また文脈ぶんみゃくからも、スミス少将しょうしょう田村たむらそう指揮しきかんとの協議きょうぎで"Fire"という言葉ことば使つかわれたとすれば、「砲撃ほうげき」ではなく「解雇かいこ」の意味いみ使つかわれたとかんがえるのが自然しぜんであるむねみず交会では指摘してきされている。当時とうじべいぐんでは、日本にっぽん掃海そうかいていについては「契約けいやくもとづく労務ろうむうえ」として理解りかいされていた。また平間ひらま洋一よういちは、雇用こよう(Hire)を解雇かいこするといういいまわしのなかで Hireを Fire(砲撃ほうげき)と誤聞ごぶんしたのではないかと推測すいそくしているが、みず交会では、単純たんじゅんに Fire を「砲撃ほうげき」と誤訳ごやくしたとかんがえるほうが自然しぜんであろうと指摘してきしている[2][19]
  6. ^ 10月21にちべいだい8ぐん平壌ぴょんやん占領せんりょう宣言せんげんした。さらに西部せいぶ海岸かいがん方面ほうめんにおける作戦さくせん進展しんてんともない、元山もとやま同様どうよう濃密のうみつ機雷きらい敷設ふせつされている鎮南うら使用しよう可能かのうにすることが喫緊きっきん課題かだいとなっていた[4]

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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