173行 ぎょう 目 め :
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*** 17日 にち - 戦死 せんし と認定 にんてい される。特旨 とくし をもって陸軍 りくぐん 大将 たいしょう に親任 しんにん される
*** 17日 にち - 戦死 せんし と認定 にんてい される。特旨 とくし をもって陸軍 りくぐん 大将 たいしょう に親任 しんにん される
*** 26日 にち - 日本 にっぽん 軍 ぐん 守備 しゅび 隊 たい 最後 さいご の組織 そしき 的 てき 総 そう 攻撃 こうげき を指揮 しき して戦死 せんし したとされる
*** 26日 にち - 日本 にっぽん 軍 ぐん 守備 しゅび 隊 たい 最後 さいご の組織 そしき 的 てき 総 そう 攻撃 こうげき を指揮 しき して戦死 せんし したとされる
* 1967年 ねん (昭和 しょうわ 42年 ねん )
==栄典 えいてん ==
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12月 つき 23
日 にち -
叙 じょ 勲一等 くんいっとう ・授旭日大綬章 あさひだいじゅしょう
* [[1940年 ねん ]](昭和 しょうわ 15年 ねん )[[11月10日 にち ]] - [[記念 きねん 章 あきら #賞 しょう 勲 くん 局 きょく 所管 しょかん の記念 きねん 章 あきら |紀元 きげん 二 に 千 せん 六 ろく 百 ひゃく 年 ねん 祝典 しゅくてん 記念 きねん 章 あきら ]]<ref>[{{NDLDC|2960955/23}} 『官報 かんぽう 』・付録 ふろく 1941年 ねん 11月14日 にち 辞令 じれい 二 に ] </ref>
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1967年 ねん (昭和 しょうわ 42年 ねん )12 月 つき 23
日 にち -
[[ 勲一等 くんいっとう 旭日大綬章 あさひだいじゅしょう ]]
== 著書 ちょしょ ==
== 著書 ちょしょ ==
栗林 くりばやし 忠 ただし 道 どう (くりばやし ただみち、1891年 ねん 〈明治 めいじ 24年 ねん 〉7月 がつ 7日 にち ‐ 1945年 ねん 〈昭和 しょうわ 20年 ねん 〉3月 がつ 26日 にち [ 1] [ 注釈 ちゅうしゃく 1] )は日本 にっぽん の陸軍 りくぐん 軍人 ぐんじん 。陸士 りくし 26期 き ・陸 りく 大 まさる 35期 き 次席 じせき 。最終 さいしゅう 階級 かいきゅう は陸軍 りくぐん 大将 たいしょう 。位階 いかい 勲等 くんとう は従 したがえ 四 よん 位 い 勲一等 くんいっとう (旭日大綬章 あさひだいじゅしょう )[ 注釈 ちゅうしゃく 2] 。長野 ながの 県 けん 埴科 はにしな 郡 ぐん 西条 さいじょう 村 むら (現 げん :長野 ながの 市 し 松代 まつだい 町 まち )出身 しゅっしん 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん (太平洋戦争 たいへいようせんそう /大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう )末期 まっき の硫黄 いおう 島 とう の戦 たたか い における、日本 にっぽん 軍 ぐん 守備 しゅび 隊 たい の最高 さいこう 指揮 しき 官 かん (小笠原 おがさわら 兵団 へいだん 長 ちょう 。小笠原 おがさわら 方面 ほうめん 陸海 りくかい 軍 ぐん 最高 さいこう 指揮 しき 官 かん )として知 し られる。
経歴 けいれき
戦国 せんごく 時代 じだい 以来 いらい の旧 きゅう 松代 まつだい 藩 はん 郷士 ごうし の家 いえ に生 う まれる。1911年 ねん (明治 めいじ 44年 ねん )、長野 ながの 県立 けんりつ 長野 ながの 中学校 ちゅうがっこう を卒業 そつぎょう (第 だい 11期 き )。在学 ざいがく 中 ちゅう は文才 ぶんさい に秀 ひい で、校友 こうゆう 誌 し には美文 びぶん が残 のこ されている。当初 とうしょ ジャーナリスト を志 こころざ し東亜 とうあ 同 どう 文書 ぶんしょ 院 いん を受験 じゅけん し合格 ごうかく していたが、恩師 おんし の薦 すす めもあり1912年 ねん (大正 たいしょう 元年 がんねん )12月1日 にち に陸軍 りくぐん 士官 しかん 学校 がっこう へ入校 にゅうこう 。陸軍 りくぐん 将校 しょうこう の主流 しゅりゅう である陸軍 りくぐん 幼年 ようねん 学校 がっこう 出身 しゅっしん (陸 りく 幼 よう 組 ぐみ )ではなく、中学校 ちゅうがっこう 出身 しゅっしん (中学 ちゅうがく 組 ぐみ )であった。長野 ながの 中学 ちゅうがく の4期 き 後輩 こうはい に今井 いまい 武夫 たけお 陸軍 りくぐん 少将 しょうしょう がいる。陸士 りくし 同期 どうき に、のちの硫黄 いおう 島 とう の戦 たたか いで混成 こんせい 第 だい 二 に 旅団 りょだん 長 ちょう に指名 しめい して呼 よ び寄 よ せた“歩兵 ほへい 戦 せん の神 かみ ”の異名 いみょう をもつ千田 せんだ 貞 さだ 季 き が、その他 た に田中 たなか 隆吉 りゅうきち 、影 かげ 佐 さ 禎 ただし 昭 あきら らがいた。
1914年 ねん (大正 たいしょう 3年 ねん )5月 がつ 28日 にち 、陸士 りくし 卒業 そつぎょう (第 だい 26期 き 、兵科 へいか :騎兵 きへい 、席次 せきじ :125番 ばん )、騎兵 きへい 第 だい 15連隊 れんたい 附 つけ となり、同年 どうねん 12月 がつ 25日 にち に陸軍 りくぐん 騎兵 きへい 少尉 しょうい 任官 にんかん 。1917年 ねん (大正 たいしょう 6年 ねん )10月 がつ から1918年 ねん (大正 たいしょう 7年 ねん )7月 がつ まで陸軍 りくぐん 騎兵 きへい 学校 がっこう 乙種 おつしゅ 学生 がくせい となり[ 4] 、馬術 ばじゅつ を専修 せんしゅう [ 5] 。1918年 ねん (大正 たいしょう 7年 ねん )7月 がつ に陸軍 りくぐん 騎兵 きへい 中尉 ちゅうい 。1920年 ねん (大正 たいしょう 9年 ねん )12月7日 にち 、陸軍 りくぐん 大 だい 学校 がっこう へ入校 にゅうこう 。1923年 ねん (大正 たいしょう 12年 ねん )8月 がつ 、陸軍 りくぐん 騎兵 きへい 大尉 たいい 。同年 どうねん 11月 がつ 29日 にち に陸 りく 大 だい を卒業 そつぎょう (第 だい 35期 き )、成績 せいせき 優等 ゆうとう (次席 じせき )により恩賜 おんし の軍刀 ぐんとう を拝受 はいじゅ [ 6] 。同年 どうねん 12月 がつ 、栗林 くりばやし 義 よし 井 い (よしゐ[ 7] )と結婚 けっこん [ 注釈 ちゅうしゃく 3] 。太郎 たろう ・洋子 ようこ ・たか子 こ の一 いち 男 なん 二女 じじょ を儲 もう ける。孫 まご に衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん の新藤 しんどう 義孝 よしたか がいる(たか子 こ の子 こ )[ 8] 。
北米 ほくべい 駐在 ちゅうざい ・騎兵 きへい 畑 はたけ
騎兵 きへい 第 だい 15連隊 れんたい 中隊 ちゅうたい 長 ちょう 、騎兵 きへい 監 かん 部 ぶ 員 いん を経 へ て1927年 ねん (昭和 しょうわ 2年 ねん )、アメリカ に駐在 ちゅうざい 武官 ぶかん (在米 ざいべい 大使館 たいしかん 附 つけ )として駐在 ちゅうざい 、帰国 きこく 後 ご の1930年 ねん (昭和 しょうわ 5年 ねん )3月 がつ に陸軍 りくぐん 騎兵 きへい 少佐 しょうさ に進級 しんきゅう 、4月 がつ には陸軍 りくぐん 省 しょう 軍務 ぐんむ 局 きょく 課員 かいん 。1931年 ねん (昭和 しょうわ 6年 ねん )8月 がつ 、再度 さいど 北米 ほくべい のカナダ に駐在 ちゅうざい 武官 ぶかん (在 ざい 加 か 公使館 こうしかん 附 つけ )として駐在 ちゅうざい した。フランス ・ドイツ 志向 しこう の多 おお い当時 とうじ の陸軍 りくぐん 内 ない では少数 しょうすう 派 は であった「知 ち 米 まい 派 は 」であり、国際 こくさい 事情 じじょう にも明 あか るくのちの対 たい 米 べい 開戦 かいせん にも批判 ひはん 的 てき であった。
1933年 ねん (昭和 しょうわ 8年 ねん )8月 がつ 、陸軍 りくぐん 騎兵 きへい 中佐 ちゅうさ 、同年 どうねん 12月 がつ 30日 にち に陸軍 りくぐん 省 しょう 軍務 ぐんむ 局 きょく 馬 ば 政 せい 課 か 高級 こうきゅう 課員 かいん となりさらに1936年 ねん (昭和 しょうわ 11年 ねん )8月 がつ 1日 にち には騎兵 きへい 第 だい 7連隊 れんたい 長 ちょう に就任 しゅうにん する。1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )8月 がつ 2日 にち 、陸軍 りくぐん 騎兵 きへい 大佐 たいさ に進級 しんきゅう し陸軍 りくぐん 省 しょう 兵務 へいむ 局 きょく 馬 うま 政 まさし 課長 かちょう 。馬 うま 政 まさし 課長 かちょう 当時 とうじ の1938年 ねん (昭和 しょうわ 13年 ねん )には軍歌 ぐんか 『愛馬 あいば 進軍 しんぐん 歌 か 』の選定 せんてい に携 たずさ わっている。1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )3月 がつ 9日 にち 、陸軍 りくぐん 少将 しょうしょう に進級 しんきゅう し騎兵 きへい 第 だい 2旅団 りょだん 長 ちょう 、同年 どうねん 12月 がつ 2日 にち 、騎兵 きへい 第 だい 1旅団 りょだん 長 ちょう に就任 しゅうにん 。
太平洋戦争 たいへいようせんそう (大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう )
太平洋戦争 たいへいようせんそう (大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう )開戦 かいせん 目前 もくぜん の1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )9月 がつ 、第 だい 23軍 ぐん 参謀 さんぼう 長 ちょう に就任 しゅうにん 。第 だい 23軍 ぐん は緒戦 しょせん の南方 みなかた 作戦 さくせん においてイギリス 領 りょう 香港 ほんこん を攻略 こうりゃく することを任務 にんむ としており、12月8日 にち の開戦 かいせん 後 ご 、香港 ほんこん の戦 たたか い において18日間 にちかん でイギリス軍 ぐん を撃破 げきは して香港 ほんこん を制圧 せいあつ した。
1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )6月 がつ 、陸軍 りくぐん 中将 ちゅうじょう に進級 しんきゅう し、第 だい 23軍 ぐん 参謀 さんぼう 長 ちょう から留守 るす 近衛 このえ 第 だい 2師団 しだん 長 なが [ 注釈 ちゅうしゃく 4] に転 てん じる[ 5] 。1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )4月 がつ 、留守 るす 近衛 このえ 第 だい 2師団 しだん 長 ちょう から東部 とうぶ 軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ 附 ふ に転 てん じる[ 5] [ 注釈 ちゅうしゃく 5] 。栗林 くりばやし が東部 とうぶ 軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ 附 ふ となったのは、厨房 ちゅうぼう から失火 しっか を出 だ した責 せめ によるとされる[ 5] 。秦 はた 郁 いく 彦 は、厨房 ちゅうぼう から火事 かじ を出 だ した程度 ていど で留守 るす 師 し 団長 だんちょう を更迭 こうてつ されるとは考 かんが えにくい、第 だい 109師団 しだん 長 ちょう に親 おや 補 ほ する前提 ぜんてい での人事 じんじ であろう、という旨 むね を述 の べている[ 5] 。
硫黄 いおう 島 とう の戦 たたか い
硫黄 いおう 島 とう での戦闘 せんとう (1945年 ねん 2月 がつ 17日 にち )
1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )5月 がつ 27日 にち [ 3] 、小笠原 おがさわら 方面 ほうめん の防衛 ぼうえい のために新 あら たに編成 へんせい された第 だい 109師団 しだん 長 ちょう に親 おや 補 ほ された[ 5] 。6月8日 にち 、栗林 くりばやし は硫黄 いおう 島 とう に着任 ちゃくにん し、以後 いご 、1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )3月 がつ に戦死 せんし するまで硫黄 いおう 島 とう から一 いち 度 ど も出 で なかった[ 5] 。同年 どうねん 7月 がつ 1日 にち には大本営 だいほんえい 直轄 ちょっかつ 部隊 ぶたい として編成 へんせい された小笠原 おがさわら 兵団 へいだん 長 ちょう も兼任 けんにん 、海軍 かいぐん 部隊 ぶたい も指揮 しき 下 か におき「小笠原 おがさわら 方面 ほうめん 陸海 りくかい 軍 ぐん 最高 さいこう 指揮 しき 官 かん 」となる(硫黄 いおう 島 とう の戦 たたか い#小笠原 おがさわら 兵団 へいだん の編成 へんせい と編制 へんせい )。兵団 へいだん 司令 しれい 部 ぶ を設備 せつび の整 ととの った従来 じゅうらい の父島 ちちじま から、アメリカ軍 ぐん 上陸 じょうりく 後 ご には最前線 さいぜんせん になると考 かんが えられた硫黄 いおう 島 とう に移 うつ し、同島 どうとう 守備 しゅび の指揮 しき を執 と る。敵 てき 上陸 じょうりく 軍 ぐん の撃退 げきたい は不可能 ふかのう と考 かんが えていた栗林 くりばやし は、堅牢 けんろう な地下 ちか 陣地 じんち を構築 こうちく しての長期間 ちょうきかん の持久 じきゅう 戦 せん ・遊 ゆう 撃 げき 戦 せん (ゲリラ )を計画 けいかく ・着手 ちゃくしゅ する。水際 みずぎわ 陣地 じんち 構築 こうちく および同島 どうとう の千鳥 ちどり 飛行場 ひこうじょう 確保 かくほ に固執 こしつ する海軍 かいぐん の強硬 きょうこう な反対 はんたい を最後 さいご まで抑 おさ え、またアメリカ軍 ぐん 爆 ばく 撃 げき 機 き の空襲 くうしゅう にも耐 た え、上陸 じょうりく 直前 ちょくぜん までに全長 ぜんちょう 18kmにわたる坑道 こうどう および地下 ちか 陣地 じんち を建設 けんせつ した。その一方 いっぽう で隷下 れいか 将兵 しょうへい に対 たい しては陣地 じんち 撤退 てったい ・万歳 ばんざい 突撃 とつげき ・自決 じけつ を強 つよ く戒 いまし め、全 ぜん 将兵 しょうへい に配布 はいふ した『敢闘 かんとう ノ誓 ちかい 』や『膽 きも 兵 へい ノ戦闘 せんとう 心得 こころえ 』に代表 だいひょう されるように、あくまで陣地 じんち 防御 ぼうぎょ やゲリラ戦 せん をもっての長期 ちょうき 抵抗 ていこう を徹底 てってい させた(硫黄 いおう 島 とう の戦 たたか い#防衛 ぼうえい 戦術 せんじゅつ )。また、島民 とうみん はアメリカ軍 ぐん 上陸 じょうりく 以前 いぜん に本土 ほんど や父島 ちちじま に避難 ひなん (強制 きょうせい 疎開 そかい )させた。
翌 よく 1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )2月 がつ 16日 にち 、アメリカ軍 ぐん 艦艇 かんてい ・航空機 こうくうき は硫黄 いおう 島 とう に対 たい し猛烈 もうれつ な上陸 じょうりく 準備 じゅんび 砲 ほう 爆 ばく 撃 げき を行 おこな い、同月 どうげつ 19日 にち 9時 じ 、海兵 かいへい 隊 たい 第 だい 1波 は が上陸 じょうりく を開始 かいし (硫黄 いおう 島 とう の戦 たたか い#アメリカ軍 ぐん の上陸 じょうりく )。上陸 じょうりく 準備 じゅんび 砲 ほう 爆撃 ばくげき 時 じ に栗林 くりばやし の命令 めいれい を無視 むし し、応戦 おうせん 砲撃 ほうげき を行 おこな った(日本 にっぽん )海軍 かいぐん の海岸 かいがん 砲 ほう により擂鉢 すりばち 山 やま 火砲 かほう 陣地 じんち が露呈 ろてい し全滅 ぜんめつ するなど誤算 ごさん もあったものの、十分 じゅうぶん にアメリカ軍 ぐん 上陸 じょうりく 部隊 ぶたい を内陸 ないりく 部 ぶ に引 ひ き込 こ んだ日本 にっぽん 軍 ぐん 守備 しゅび 隊 たい は10時 じ 過 す ぎに一斉 いっせい 攻撃 こうげき を開始 かいし する。上陸 じょうりく 部隊 ぶたい 指揮 しき 官 かん のホーランド・スミス 海兵 かいへい 隊 たい 中将 ちゅうじょう は[ 5] 、その夜 よる 、前線 ぜんせん 部隊 ぶたい からの報告 ほうこく によって硫黄 いおう 島 とう 守備 しゅび 隊 たい が無謀 むぼう な突撃 とつげき をまったく行 おこ なわないことを知 し って驚 おどろ き、取材 しゅざい の記者 きしゃ たちに「誰 だれ かは知 し らんがこの戦 たたか いを指揮 しき している日本 にっぽん の将軍 しょうぐん は頭 あたま の切 き れるやつ(one smart bastard )だ」と語 かた った[ 12] 。
その後 ご も圧倒的 あっとうてき な劣勢 れっせい の中 なか 、アメリカ軍 ぐん の予想 よそう を遥 はる かに上回 うわまわ り粘 ねば り強 づよ く戦闘 せんとう を続 つづ け多大 ただい な損害 そんがい をアメリカに与 あた えたものの、3月7日 にち 、栗林 くりばやし は最後 さいご の戦 せん 訓電 くんでん 報 ほう となる「膽 きも 参 さん 電 でん 第 だい 三 さん 五 ご 一 いち 号 ごう 」 を大本営 だいほんえい 陸軍 りくぐん 部 ぶ 、および栗林 くりばやし の陸 りく 大 だい 在校 ざいこう 時 じ の兵学 へいがく 教官 きょうかん であり、騎兵 きへい 科 か の先輩 せんぱい でもある侍従 じじゅう 武官 ぶかん 長 ちょう の蓮沼 はすぬま 蕃 しげる 大将 たいしょう に打電 だでん 。さらに組織 そしき 的 てき 戦闘 せんとう の最 さい 末期 まっき となった16日 にち 16時 じ には、玉砕 ぎょくさい を意味 いみ する訣別 けつべつ 電報 でんぽう を大本営 だいほんえい に対 たい し打電 だでん (硫黄 いおう 島 とう の戦 たたか い#組織 そしき 的 てき 戦闘 せんとう の終結 しゅうけつ ・#訣別 けつべつ の電文 でんぶん )。
翌 よく 17日 にち 付 づけ で戦死 せんし と認定 にんてい され[ 5] [ 注釈 ちゅうしゃく 6] 、特旨 とくし により陸軍 りくぐん 大将 たいしょう に親任 しんにん された[ 2] 。陸軍 りくぐん 大臣 だいじん の杉山 すぎやま 元 はじめ ・元帥 げんすい は、内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん の小磯 こいそ 國昭 くにあき に送付 そうふ した文書 ぶんしょ に次 つぎ のように記 しる している[ 5] 。
第 だい 百 ひゃく 九 きゅう 師団 しだん 長 ちょう として
硫黄 いおう 島 とう に
在 あ りて
作戦 さくせん 指導 しどう に
任 にん じ
其 そ の
功績 こうせき 特 とく に
顕著 けんちょ なる
処 しょ 、
三 さん 月 がつ 十 じゅう 七 なな 日 にち 遂 つい に
戦死 せんし せる
者 もの に
有 ゆう 之 の 候 こう 条 じょう 、
同 どう 日付 ひづけ 発令 はつれい 相成 あいな 度 たび 候 こう — 杉山 すぎやま 元 はじめ 。出典 しゅってん では漢字 かんじ カナ表記 ひょうき 、[ 5]
太平洋戦争 たいへいようせんそう (大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう )において中将 ちゅうじょう の戦死 せんし 者 しゃ が増加 ぞうか したため、中将 ちゅうじょう で戦死 せんし した者 もの のうち、親 おや 補職 ほしょく (軍事 ぐんじ 参議 さんぎ 官 かん [ 10] 。陸軍 りくぐん では、陸軍 りくぐん 三 さん 長官 ちょうかん 、陸軍 りくぐん 航空 こうくう 総監 そうかん 、師団 しだん 長 ちょう 以上 いじょう の団 だん 隊 たい の長 なが 、侍従 じじゅう 武官 ぶかん 長 ちょう など[ 10] 。海軍 かいぐん では、海軍 かいぐん 大臣 だいじん 、軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう 、艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん 、鎮守 ちんじゅ 府 ふ 司令 しれい 長官 ちょうかん など[ 10] 。)2年 ねん 半 はん 以上 いじょう を経 へ ており、武功 ぶこう が特 とく に顕著 けんちょ な者 もの を陸海 りくかい 軍 ぐん 協議 きょうぎ の上 うえ で大将 たいしょう に親任 しんにん するという内規 ないき が作 つく られ、この内規 ないき により、陸軍 りくぐん で7名 めい (栗林 くりばやし を含 ふく む)[ 13] 、海軍 かいぐん で5名 めい が戦死 せんし 後 ご に大将 たいしょう に親任 しんにん された[ 14] 。
昭和 しょうわ 19年 ねん 5月 がつ 27日 にち に第 だい 109師団 しだん 長 ちょう に親 おや 補 ほ され、昭和 しょうわ 20年 ねん 3月 がつ 17日 にち に戦死 せんし と認定 にんてい された栗林 くりばやし は、上記 じょうき の内規 ないき の年限 ねんげん を満 み たさなかったが、特旨 とくし により大将 たいしょう に親任 しんにん された[ 14] 。
同日 どうじつ 、最後 さいご の総 そう 攻撃 こうげき を企図 きと した栗林 くりばやし は残存 ざんそん 部隊 ぶたい に対 たい し以下 いか の命令 めいれい を発 はっ した。
一 いち 、戦局 せんきょく ハ最後 さいご ノ関頭 かんとう ニ直面 ちょくめん セリ
二 に 、兵団 へいだん ハ本 ほん 十 じゅう 七 なな 日 にち 夜 よる 、総 そう 攻撃 こうげき ヲ決行 けっこう シ敵 てき ヲ撃 げき 摧セントス
三 さん 、各 かく 部隊 ぶたい ハ本 ほん 夜 よる 正子 まさこ ヲ期 き シ各 かく 方面 ほうめん ノ敵 てき ヲ攻撃 こうげき 、最後 さいご ノ一 いち 兵 へい トナルモ飽ク迄 まで 決死 けっし 敢闘 かんとう スベシ 大 だい 君 くん {注 ちゅう :3語 ご 不明 ふめい }テ顧ミルヲ許 もと サズ
四 よん 、予 よ ハ常 つね ニ諸子 しょし ノ先頭 せんとう ニ在 ざい リ
17日 にち 以降 いこう 、栗林 くりばやし は米 べい 軍 ぐん の警戒 けいかい が緩 ゆる むのを辛抱強 しんぼうづよ く待 ま った[ 5] 。米 べい 軍 ぐん の警戒 けいかい に隙 すき が出 で た26日 にち 未明 みめい 、栗林 くりばやし は階級 かいきゅう 章 しょう を外 はず し、白 しろ 襷 たすき を肩 かた にかけ、抜刀 ばっとう して残存 ざんそん 将兵 しょうへい 400名 めい の先頭 せんとう に立 た ち、米 べい 軍 ぐん が占領 せんりょう している第 だい 1・第 だい 2飛行場 ひこうじょう に突入 とつにゅう した[ 5] 。栗林 くりばやし は進撃 しんげき 中 ちゅう に右 みぎ 大腿 だいたい 部 ぶ に重傷 じゅうしょう を負 お い、その場 ば で自決 じけつ したとされる[ 5] [ 注釈 ちゅうしゃく 7] 。満 まん 53歳 さい 没 ぼつ 。
戦後 せんご
死後 しご 、日米 にちべい の戦史 せんし 研究 けんきゅう 者 しゃ などからは高 たか い評価 ひょうか を得 え ていたが、硫黄 いおう 島 とう の戦 たたか いを除 のぞ くと軍 ぐん 参謀 さんぼう 長 ちょう や騎兵 きへい 旅団 りょだん 長 ちょう など軍人 ぐんじん としては目立 めだ ったエピソードも少 すく なく、局地 きょくち 戦 せん で戦死 せんし した指揮 しき 官 かん ということもあり、日本 にっぽん でも一般 いっぱん 的 てき な知名度 ちめいど は高 たか くなかったが、2005年 ねん (平成 へいせい 17年 ねん )に上梓 じょうし された梯 はしご 久美子 くみこ 『散 ち るぞ悲 かな しき 硫黄 いおう 島 とう 総 そう 指揮 しき 官 かん ・栗林 くりばやし 忠 ただし 道 どう 』、翌 よく 2006年 ねん (平成 へいせい 18年 ねん )に公開 こうかい されたハリウッド映画 えいが 『硫黄 いおう 島 とう からの手紙 てがみ 』により、一躍 いちやく その名 な が知 し られるようになった。
秦 はた 郁 いく 彦 は下記 かき のように述 の べている。
栗林 くりばやし は幼少 ようしょう の頃 ころ 、一時 いちじ 的 てき に養子 ようし に出 で ていたことがあり、養子 ようし に出 で ていた当時 とうじ の記録 きろく は長 なが らくの間 あいだ 不明 ふめい であったが、近年 きんねん 、生家 せいか から少年 しょうねん 時代 じだい の日 ひ 記帳 きちょう や成績 せいせき 表 ひょう などが発見 はっけん され、生後 せいご まもなく地元 じもと の士族 しぞく ・倉田 くらた 家 か へ養子 ようし に出 で ていた時期 じき など、これまで知 し られていなかった少年 しょうねん 期 き の詳細 しょうさい が明 あき らかになった。
墓所 はかしょ は長野 ながの 市 し 松代 まつだい の明徳 めいとく 寺 てら だが、遺骨 いこつ はない。栗林 くりばやし の長兄 ちょうけい が継 つ いだ長野 ながの 市 し 松代 まつだい の生家 せいか では、仏壇 ぶつだん に硫黄 いおう 島 とう の石 いし 、および、栗林 くりばやし が陣頭 じんとう 指揮 しき ・戦死 せんし した3月 がつ 26日 にち 未明 みめい の最後 さいご の総 そう 攻撃 こうげき に参加 さんか し、生還 せいかん を果 は たした陸軍 りくぐん 下士官 かしかん が、復員 ふくいん から間 あいだ もない1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )に栗林 くりばやし の妻 つま の義 ぎ 井 い に送 おく った手紙 てがみ (最後 さいご の総 そう 攻撃 こうげき の様子 ようす を詳細 しょうさい に記 しる す)を供 そな えていた[ 7] 。1967年 ねん (昭和 しょうわ 42年 ねん )、勲一等 くんいっとう に叙 じょ せられ旭日大綬章 あさひだいじゅしょう を受勲 じゅくん 。
アメリカ軍 ぐん 関係 かんけい 者 しゃ の評価 ひょうか
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく においては、硫黄 いおう 島 とう の戦 たたか いの報道 ほうどう がリアルタイムでなされていたこともあり、この戦闘 せんとう の状況 じょうきょう と栗林 くりばやし の知名度 ちめいど は高 たか い。特 とく に戦後 せんご 、軍事 ぐんじ 史 し 研究 けんきゅう 家 か やアメリカ軍 ぐん 軍人 ぐんじん に対 たい し、「太平洋戦争 たいへいようせんそう における日本 にっぽん 軍人 ぐんじん で優秀 ゆうしゅう な指揮 しき 官 かん は誰 だれ であるか」と質問 しつもん した際 さい 「栗林 くりばやし 将軍 しょうぐん (英 えい : General Kuribayashi )」と、栗林 くりばやし 忠 ただし 道 どう の名前 なまえ を挙 あ げる人物 じんぶつ が多 おお い。
戦闘 せんとう 自体 じたい は敗北 はいぼく に終 お わったものの、僅 わず か22平方 へいほう キロメートル (東京 とうきょう 都 と 北 きた 区 く 程度 ていど の面積 めんせき )に過 す ぎない硫黄 いおう 島 とう を、日本 にっぽん 軍 ぐん の3倍 ばい 以上 いじょう の兵力 へいりょく 、および絶対 ぜったい 的 てき な制海権 せいかいけん ・制空権 せいくうけん を持 も ち、予備 よび 兵力 へいりょく ・物量 ぶつりょう ・兵站 へいたん ・装備 そうび 全 すべ てにおいて、圧倒的 あっとうてき に優勢 ゆうせい であったアメリカ軍 ぐん の攻撃 こうげき に対 たい し、最後 さいご まで将兵 しょうへい の士気 しき を低下 ていか させずに、アメリカ軍 ぐん の予想 よそう を上回 うわまわ る1か月 げつ 半 はん も硫黄 いおう 島 とう を防衛 ぼうえい した指揮 しき 力 りょく は、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく では高 たか く評価 ひょうか されている。
従来 じゅうらい 、日本 にっぽん 軍 ぐん の島嶼 とうしょ 防衛 ぼうえい における「水際 みずぎわ 作戦 さくせん 」という方針 ほうしん を退 しりぞ け、長大 ちょうだい かつ堅牢 けんろう な地下 ちか 陣地 じんち を構築 こうちく したうえで、不用意 ふようい なバンザイ突撃 とつげき による玉砕 ぎょくさい を厳禁 げんきん し、部下 ぶか に徹底 てってい 抗戦 こうせん を指示 しじ した。その結果 けっか 、アメリカ軍 ぐん の死傷 ししょう 者 しゃ 総数 そうすう が、日本 にっぽん 軍 ぐん 守備 しゅび 隊 たい のそれを上回 うわまわ り、またM4 シャーマン中 ちゅう 戦車 せんしゃ やLVT 等 ひとし を多数 たすう 撃破 げきは ・擱坐 かくざ させるといった「物的 ぶってき 損害 そんがい を与 あた えること」にも成功 せいこう し、「勝者 しょうしゃ なき戦 たたか い」と評価 ひょうか された。
訣別 けつべつ の電文 でんぶん
戦局 せんきょく 最後 さいご ノ
関頭 かんとう ニ
直面 ちょくめん セリ
敵 てき 来 らい 攻 おさむ 以来 いらい 麾下 きか 将兵 しょうへい ノ敢闘 かんとう ハ真 ま ニ
鬼神 きじん ヲ哭シムルモノアリ
特 とく ニ
想像 そうぞう ヲ
越 えつ エタル量的 りょうてき 優勢 ゆうせい ヲ以テスル
陸海空 りくかいくう ヨリノ
攻撃 こうげき ニ
対 たい シ
宛然 えんぜん 徒手空拳 としゅくうけん ヲ以テ 克 かつ ク
健闘 けんとう ヲ
続 ぞく ケタルハ
小職 しょうしょく 自 じ ラ聊(いささ)カ悦 えつ ビトスル
所 しょ ナリ
然 しか レドモ 飽クナキ 敵 てき ノ猛攻 もうこう ニ相 しょう 次 じ デ斃レ 為 ため ニ御 ご 期待 きたい ニ反 はん シ 此ノ要地 ようち ヲ敵手 てきしゅ ニ委 い ヌル外 がい ナキニ至 いたり リシハ 小職 しょうしょく ノ誠 まこと ニ恐懼 きょうく ニ堪 こらえ ヘザル所 しょ ニシテ幾重 いくえ ニモ御 お 詫 わび 申 さる 上 じょう グ 今 こん ヤ弾丸 だんがん 尽 つき キ水 すい 涸レ 全員 ぜんいん 反撃 はんげき シ 最後 さいご ノ敢闘 かんとう ヲ行 くだり ハントスルニ方 かた (あた)リ 熟 じゅく 々(つらつら)皇 すめらぎ 恩 おん ヲ思 おもえ ヒ 粉骨砕身 ふんこつさいしん モ亦 また 悔イズ 特 とく ニ本島 ほんとう ヲ奪還 だっかん セザル限 げん リ 皇 すめらぎ 土 ど 永遠 えいえん ニ安 やす カラザルニ思 おもえ ヒ至 いたり リ 縦 たて ヒ魂魄 こんぱく トナルモ 誓 ちかい ツテ皇軍 こうぐん ノ捲土重来 けんどじゅうらい ノ魁 さきがけ タランコトヲ期 き ス 茲(ここ)ニ最後 さいご ノ関頭 かんとう ニ立 りつ チ 重 じゅう ネテ衷情 ちゅうじょう ヲ披瀝 ひれき スルト共 ども ニ 只管 ひたすら (ひたすら)皇国 こうこく ノ必勝 ひっしょう ト安泰 あんたい トヲ祈念 きねん シツツ 永 えい ヘニ御 ご 別 べつ レ申 さる シ上 じょう グ
尚 なお 父島 ちちじま 母島 ははじま 等 とう ニ就テハ 同地 どうち 麾下 きか 将兵 しょうへい 如何 いか ナル敵 てき ノ攻撃 こうげき ヲモ 断固 だんこ 破摧 はさい シ得 とく ルヲ確信 かくしん スルモ 何卒 なにとぞ 宜 よろし シク申 さる 上 じょう グ
終 おわり リニ左記 さき 〔注 ちゅう :原文 げんぶん は縦 たて 書 が き〕駄作 ださく 御 ご 笑覧 しょうらん ニ供 きょう ス 何卒 なにとぞ 玉 たま 斧 おの ヲ乞フ
国 くに の為 ため 重 おも き努 つとむ を 果 はた し得 とく で 矢 や 弾 だん 尽 つ き果 はて て 散 ち るぞ悲 かな しき[ 注釈 ちゅうしゃく 8]
仇討 あだうち たで 野辺 のべ には朽 く ちじ 吾 われ は又 また 七 なな 度 ど 生 うま れて 矛 ほこ を執 と らむぞ
醜 みにく 草 くさ (しこぐさ)の 島 しま に蔓 づる る 其 そ の時 とき の 皇国 こうこく の行手 ゆくて 一途 いっと に思 おも う
太字 ふとじ は大本営 だいほんえい により添削 てんさく された箇所 かしょ
(
新聞 しんぶん に掲載 けいさい された電文 でんぶん )
戦局 せんきょく 遂 つい に最後 さいご の関頭 かんとう に直面 ちょくめん せり
十 じゅう 七 なな 日 にち 夜半 やはん を期 き し小官 しょうかん 自 みずか ら陣頭 じんとう に立 た ち、皇国 こうこく の必勝 ひっしょう と安泰 あんたい とを祈念 きねん しつ、全員 ぜんいん 壮烈 そうれつ なる総 そう 攻撃 こうげき を敢行 かんこう す
敵 てき 来 らい 攻 おさむ 以来 いらい 想像 そうぞう に余 あま る物量 ぶつりょう 的 てき 優勢 ゆうせい を以 もっ て陸海空 りくかいくう よりする敵 てき の攻撃 こうげき に対 たい し克 かつ く健闘 けんとう を続 つづ けた事 こと は小職 しょうしょく の聊 いささ か自 みずか ら悦 よろこ びとする所 ところ にして部下 ぶか 将兵 しょうへい の勇戦 ゆうせん は真 しん に鬼神 きじん をも哭 な かしむるものあり
然 しか れども執拗 しつよう なる敵 てき の猛攻 もうこう に将兵 しょうへい 相次 あいつ いで斃れ為 ため に御 ご 期待 きたい に反 はん し、この要地 ようち を敵手 てきしゅ に委 ゆだ ねるのやむなきに至 いたり れるは誠 まこと に恐懼 きょうく に堪 た へず、幾重 いくえ にも御 ご 詫 わ び申 さる し上 じょう ぐ
特 とく に本島 ほんとう を奪還 だっかん せざる限 かぎ り皇 すめらぎ 土 ど 永遠 えいえん に安 やす からざるを思 おも ひ、たとひ魂魄 こんぱく となるも誓 ちかい つて皇軍 こうぐん の捲土重来 けんどじゅうらい の魁 さきがけ たらんことを期 き す、今 いま や弾 たま 尽 つ き水涸 みずが れ戦 たたか い残 のこ れる者 もの 全員 ぜんいん いよく最後 さいご の敢闘 かんとう を行 こう はんとするに方 ほう り熟 じゅく 々皇 すめらぎ 恩 おん の忝 かたじけな さ を思 おも ひ粉骨砕身 ふんこつさいしん 亦 また 悔ゆる所 ところ にあらず
茲に将兵 しょうへい 一同 いちどう と共 とも に謹 つつし んで聖寿 せいじゅ の万歳 ばんざい を奉唱 ほうしょう しつつ永 なが へ御 ご 別 わか れ申 さる 上 じょう ぐ
終 おわ りに左記 さき 駄作 ださく 、御 ご 笑覧 しょうらん に供 きょう す。
国 くに の為 ため 重 おも きつとめを果 は たし得 とく で 矢 や 弾 だん 尽 つ き果 は て散 ち るぞ口惜 くや し
仇討 あだうち たで 野辺 のべ には朽 く ちじ 吾 われ は又 また 七 なな 度 ど 生 うま れて 矛 ほこ を執 と らむぞ
醜 みにく 草 くさ (しこぐさ)の 島 しま に蔓 づる る 其 そ の時 とき の 皇国 こうこく の行手 ゆくて 一途 いっと に思 おも ふ
大本営 だいほんえい 発表 はっぴょう により、
新聞 しんぶん に
掲載 けいさい された
原文 げんぶん のまま。
下線 かせん は
大本営 だいほんえい により、
新 あら たに
加筆 かひつ された
所 ところ
逸話 いつわ
陸 りく 大 まさる 次席 じせき の秀才 しゅうさい であり、「太平洋戦争 たいへいようせんそう 屈指 くっし の名将 めいしょう [ 5] 」と讃 たた えられる優 すぐ れた軍人 ぐんじん であったが、同時 どうじ に良 よ き家庭 かてい 人 じん でもあり、北米 ほくべい 駐在 ちゅうざい 時代 じだい や硫黄 いおう 島 とう 着任 ちゃくにん 以降 いこう には、まめに家族 かぞく に手紙 てがみ を書 か き送 おく っている。アメリカ から書 か かれたものは、最初 さいしょ の子 こ どもである長男 ちょうなん ・太郎 たろう が幼 おさな かったため、栗林 くりばやし 直筆 じきひつ のイラストを入 い れた絵手紙 えてがみ になっている。硫黄 いおう 島 とう から次女 じじょ (「たこちゃん」と呼 よ んでいた)に送 おく った手紙 てがみ では、軍人 ぐんじん らしさが薄 うす く一人 ひとり の父親 ちちおや としての面 めん が強 つよ く出 で た内容 ないよう になっている。硫黄 いおう 島 とう 着任 ちゃくにん 直後 ちょくご に送 おく った手紙 てがみ には次 つぎ のようなものがある。実際 じっさい の手紙 てがみ は、防衛 ぼうえい 省 しょう に保管 ほかん されている。
「お父 とう さんは、お家 いえ に帰 かえ って、お母 かあ さんとたこちゃんを連 つ れて町 まち を歩 ある いている夢 ゆめ などを時々 ときどき 見 み ますが、それはなかなか出来 でき ない事 こと です。たこちゃん。お父 とう さんはたこちゃんが大 おお きくなって、お母 かあ さんの力 ちから になれる人 ひと になることばかりを思 おも っています。からだを丈夫 じょうぶ にし、勉強 べんきょう もし、お母 かあ さんの言 い いつけをよく守 まも り、お父 とう さんに安心 あんしん させるようにして下 くだ さい。戦地 せんち のお父 とう さんより」
年譜 ねんぷ
1911年 ねん (明治 めいじ 44年 ねん )
3月 - 長野 ながの 県立 けんりつ 長野 ながの 中学校 ちゅうがっこう 卒業 そつぎょう (第 だい 11期 き )
1914年 ねん (大正 たいしょう 3年 ねん ) - 陸軍 りくぐん 士官 しかん 学校 がっこう 卒業 そつぎょう (第 だい 26期 き )、見習 みならい 士官 しかん
12月 - 陸軍 りくぐん 騎兵 きへい 少尉 しょうい 任官 にんかん
1918年 ねん (大正 たいしょう 7年 ねん )
7月 がつ - 陸軍 りくぐん 騎兵 きへい 学校 がっこう 乙種 おつしゅ 学生 がくせい 卒業 そつぎょう 、陸軍 りくぐん 騎兵 きへい 中尉 ちゅうい
1923年 ねん (大正 たいしょう 12年 ねん )
8月 がつ - 陸軍 りくぐん 騎兵 きへい 大尉 たいい
11月 - 陸軍 りくぐん 大 だい 学校 がっこう 卒業 そつぎょう (第 だい 35期 き 、次席 じせき )恩賜 おんし の軍刀 ぐんとう を拝受 はいじゅ
12月 - 騎兵 きへい 第 だい 15連隊 れんたい 中隊 ちゅうたい 長 ちょう
1925年 ねん (大正 たいしょう 14年 ねん )
1927年 ねん (昭和 しょうわ 2年 ねん ) - 在米 ざいべい 大使館 たいしかん 駐在 ちゅうざい 武官 ぶかん 補佐 ほさ 官 かん 。軍事 ぐんじ 研究 けんきゅう のためハーバード大学 だいがく に学 まな ぶ
1930年 ねん (昭和 しょうわ 5年 ねん )
3月 - 陸軍 りくぐん 騎兵 きへい 少佐 しょうさ
4月 がつ - 陸軍 りくぐん 省 しょう 軍務 ぐんむ 局 きょく 課員 かいん
1931年 ねん (昭和 しょうわ 6年 ねん )
1933年 ねん (昭和 しょうわ 8年 ねん )
8月 がつ - 陸軍 りくぐん 騎兵 きへい 中佐 ちゅうさ
12月 - 陸軍 りくぐん 省 しょう 軍務 ぐんむ 局 きょく 馬 ば 政 せい 課 か 高級 こうきゅう 課員 かいん
1936年 ねん (昭和 しょうわ 11年 ねん )
8月 がつ - 騎兵 きへい 第 だい 7連隊 れんたい 長 ちょう
1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )
8月 がつ - 陸軍 りくぐん 騎兵 きへい 大佐 たいさ 、陸軍 りくぐん 省 しょう 兵務 へいむ 局 きょく 馬 ば 政 せい 課長 かちょう
1938年 ねん (昭和 しょうわ 13年 ねん ) - 軍歌 ぐんか 『愛馬 あいば 進軍 しんぐん 歌 か 』の選定 せんてい に携 たずさ わる
1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )
3月 - 陸軍 りくぐん 少将 しょうしょう 、騎兵 きへい 第 だい 2旅団 りょだん 長 ちょう
12月 - 騎兵 きへい 第 だい 1旅団 りょだん 長 ちょう
1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )
12月 - 第 だい 23軍 ぐん 参謀 さんぼう 長 ちょう として香港 ほんこん の戦 たたか いに従軍 じゅうぐん
1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )
6月 がつ - 陸軍 りくぐん 中将 ちゅうじょう 、留守 るす 近衛 このえ 第 だい 2師団 しだん 長 ちょう
1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )
4月 がつ - 東部 とうぶ 軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ 附 ふ
5月27日 にち - 第 だい 109師団 しだん 長 ちょう に親 おや 補 ほ される
7月 がつ 1日 にち - 小笠原 おがさわら 兵 へい 団長 だんちょう 兼任 けんにん
1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )
2月 がつ 16日 にち - 硫黄 いおう 島 とう の戦 たたか い開戦 かいせん
3月16日 にち - 大本営 だいほんえい に訣別 けつべつ 電報 でんぽう 打電 だでん
17日 にち - 戦死 せんし と認定 にんてい される。特旨 とくし をもって陸軍 りくぐん 大将 たいしょう に親任 しんにん される
26日 にち - 日本 にっぽん 軍 ぐん 守備 しゅび 隊 たい 最後 さいご の組織 そしき 的 てき 総 そう 攻撃 こうげき を指揮 しき して戦死 せんし したとされる
栄典 えいてん
著書 ちょしょ
『栗林 くりばやし 忠道 ちゅうどう 硫黄 いおう 島 とう からの手紙 てがみ 』文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 、2006年 ねん 8月 がつ 、ISBN 4163683704 、文春 ぶんしゅん 文庫 ぶんこ 、2009年 ねん 8月 がつ
『「玉砕 ぎょくさい 総 そう 指揮 しき 官 かん 」の絵手紙 えてがみ 』吉田 よしだ 津 つ 由子 ゆうこ 編 へん 、小学館 しょうがくかん 、2002年 ねん 4月 がつ 、ISBN 4094026762
栗林 くりばやし 忠 ただし 道 どう を演 えん じた人物 じんぶつ
脚注 きゃくちゅう
注釈 ちゅうしゃく
^ 栗林 くりばやし は1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )3月 がつ 17日 にち 付 づけ で戦死 せんし と認定 にんてい されたため[ 2] 、3月17日 にち 付 づけ で陸軍 りくぐん 大将 たいしょう に親任 しんにん され(戦死 せんし による)[ 1] 、栗林 くりばやし の後任 こうにん として立花 たちばな 芳夫 よしお 中将 ちゅうじょう が3月23日 にち 付 づけ で第 だい 109師団 しだん 長 ちょう に親 おや 補 ほ され[ 3] 、「秦 はた 郁 いく 彦 編 へん 『日本 にっぽん 陸海 りくかい 軍 ぐん 総合 そうごう 事典 じてん 』(第 だい 2版 はん )東京大学 とうきょうだいがく 出版 しゅっぱん 会 かい 、2005年 ねん 」61ページの「第 だい 1部 ぶ 主要 しゅよう 陸海 りくかい 軍人 ぐんじん の履歴 りれき -陸軍 りくぐん -栗林 くりばやし 忠 ただし 道 どう 」では栗林 くりばやし の出生 しゅっしょう および死去 しきょ 年月日 ねんがっぴ を「明 あかり 24・7・7 - 昭 あきら 20・3・17」と記載 きさい している。一方 いっぽう 、栗林 くりばやし の出生 しゅっしょう および死去 しきょ 年月日 ねんがっぴ を「明治 めいじ 24(1891)7・7生 せい - 昭和 しょうわ 20(1945)3・26没 ぼつ 」と記載 きさい している「半藤 はんどう 2013b , 位置 いち No. 3720/4133, 陸軍 りくぐん 大将 たいしょう 略歴 りゃくれき 〔昭和 しょうわ 期 き (昭和 しょうわ 十 じゅう 六 ろく 年 ねん から二 に 十 じゅう 年 ねん までに親任 しんにん )」は、【凡例 はんれい 】に「本 ほん 表 ひょう は秦 はた 郁 いく 彦編 へん 『日本 にっぽん 陸海 りくかい 軍 ぐん 総合 そうごう 事典 じてん 』記載 きさい の「主要 しゅよう 陸海 りくかい 軍人 ぐんじん の履歴 りれき 」を底本 ていほん とし各種 かくしゅ 文献 ぶんけん ・史料 しりょう を参照 さんしょう のうえ、加除 かじょ 、修正 しゅうせい して作成 さくせい している」と記 しる しており、『半藤 はんどう 2013b 』は半藤 はんどう 一利 かずとし ・横山 よこやま 恵一 けいいち ・秦 はた 郁 いく 彦 ・原 はら 剛 つよし の4名 めい の共著 きょうちょ である。
^ 栗林 くりばやし は金鵄勲章 きんしくんしょう を受章 じゅしょう していない[ 2] 。半藤 はんどう 一利 かずとし は「功 こう 一 いち 級 きゅう でもおかしくないのにね」と評 ひょう している[ 2] 。
^ 栗林 くりばやし 忠 ただし 道 どう の妻 つま である栗林 くりばやし 義 よし 井 い は、旧姓 きゅうせい も栗林 くりばやし であるが、二人 ふたり の間 あいだ に特 とく に血縁 けつえん 関係 かんけい はない[ 5] 。義 ぎ 井 い は川中島 かわなかじま 付近 ふきん (現 げん ・長野 ながの 市 し 氷鉋 ひょうほう [ 7] )の地主 じぬし の娘 むすめ [ 5] 。
^ 留守 るす 師団 しだん とは、内地 ないち 及 およ び朝鮮 ちょうせん を衛戍 えいじゅ 地 ち とする師団 しだん が戦地 せんち に動員 どういん された際 さい に、動員 どういん された師団 しだん の衛戍 えいじゅ 地 ち に、陸軍 りくぐん 動員 どういん 計画 けいかく 令 れい によって設置 せっち され、留守 るす ・補充 ほじゅう 業務 ぎょうむ などを行 おこな う師団 しだん [ 9] 。近衛 このえ 第 だい 2師団 しだん はスマトラ島 すまとらとう 方面 ほうめん に動員 どういん されていた。師団 しだん 長 ちょう は親 おや 補職 ほしょく であるが[ 10] 、留守 るす 師 し 団長 だんちょう は親 おや 補職 ほしょく ではない[ 11] 。
^ 1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )6月 がつ に栗林 くりばやし が留守 るす 近衛 このえ 第 だい 2師団 しだん 長 ちょう から東部 とうぶ 軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ 附 ふ に転 てん じた後 のち 、同年 どうねん 7月 がつ には留守 るす 近衛 このえ 第 だい 2師団 しだん を母体 ぼたい として近衛 このえ 第 だい 3師団 しだん が編成 へんせい されている。
^ 昭和 しょうわ 20年 ねん 3月 がつ 17日 にち 付 づけ で栗林 くりばやし の戦死 せんし が認定 にんてい されたことにより、父島 ちちじま にいた混成 こんせい 第 だい 1旅団 りょだん 長 ちょう の立花 たちばな 芳夫 よしお 陸軍 りくぐん 少将 しょうしょう が、3月23日 にち 付 づけ で陸軍 りくぐん 中将 ちゅうじょう に進級 しんきゅう し、栗林 くりばやし の後任 こうにん として第 だい 109師団 しだん 長 ちょう に補 ほ されている[ 5] 。
^ 大野 おおの 芳 かおる は、栗林 くりばやし がアメリカ軍 ぐん に降伏 ごうぶく しようとして部下 ぶか に斬殺 ざんさつ されたという説 せつ を唱 とな えた[ 15] が、梯 はしご 久美子 くみこ はこれを否定 ひてい している[ 16] 。
^ 新聞 しんぶん 発表 はっぴょう では、「悲 かな しき」の部分 ぶぶん を「口惜 くや し」と改竄 かいざん の上 うえ 、発表 はっぴょう された。
^ 長野 ながの 中学 ちゅうがく からのもう一人 ひとり の同期生 どうきせい は今井 いまい 武夫 たけお 陸軍 りくぐん 少将 しょうしょう である。
出典 しゅってん
^ a b 半藤 はんどう 2013b , 位置 いち No. 3720/4133, 陸軍 りくぐん 大将 たいしょう 略歴 りゃくれき 〔昭和 しょうわ 期 き (昭和 しょうわ 十 じゅう 六 ろく 年 ねん から二 に 十 じゅう 年 ねん までに親任 しんにん )
^ a b c d 半藤 はんどう 2013a , 位置 いち No. 85/119, 第 だい 一 いち 章 しょう 大将 たいしょう の誕生 たんじょう -ほとんどが金鵄勲章 きんしくんしょう 佩用 はいよう 者 しゃ
^ a b 秦 はた 2005 , pp. 370–382, 第 だい 2部 ぶ 陸海 りくかい 軍 ぐん 主要 しゅよう 職務 しょくむ の歴任 れきにん 者 しゃ 一覧 いちらん -III 陸軍 りくぐん -9.部隊 ぶたい /師団 しだん -A 師団 しだん
^ 秦 はた 2005 , p. 61, 第 だい 1部 ぶ 主要 しゅよう 陸海 りくかい 軍人 ぐんじん の履歴 りれき -陸軍 りくぐん -栗林 くりばやし 忠 ただし 道 どう
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 半藤 はんどう 2013b , 位置 いち No. 2860/3049, 第 だい 四 よん 章 しょう 戦没 せんぼつ した将軍 しょうぐん たち-栗林 くりばやし 忠道 ちゅうどう 太平洋戦争 たいへいようせんそう 屈指 くっし の名将 めいしょう
^ 秦 はた 2005 , pp. 545–611, 第 だい 3部 ぶ 陸海 りくかい 軍 ぐん 主要 しゅよう 学校 がっこう 卒業生 そつぎょうせい 一覧 いちらん -I 陸軍 りくぐん -1.陸軍 りくぐん 大 だい 学校 がっこう 卒業生 そつぎょうせい
^ a b c 梯 はしご 2013 , 位置 いち No. 407/423, ドキュメント1 栗林 くりばやし 忠 ただし 道 どう その死 し の真相 しんそう -栗林 くりばやし 家 か に保存 ほぞん された一 いち 通 つう の手紙 てがみ
^ “生 お い立 た ち~現在 げんざい | 新藤 しんどう 義孝 よしたか 公式 こうしき ウェブサイト ”. www.shindo.gr.jp . 新藤 しんどう 義孝 よしたか . 2018年 ねん 8月 がつ 9日 にち 時点 じてん のオリジナル よりアーカイブ。2018年 ねん 8月 がつ 9日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 秦 はた 2005 , p. 777, 第 だい 5部 ぶ 陸海 りくかい 軍 ぐん 用語 ようご の解説 かいせつ -る-留守 るす 師団 しだん
^ a b c d 秦 はた 2005 , p. 744, 第 だい 5部 ぶ 陸海 りくかい 軍 ぐん 用語 ようご の解説 かいせつ -し-親 おや 補職 ほしょく
^ “『留守 るす 師 し 団長 だんちょう 上奏 じょうそう に関 かん する件 けん 』 レファレンスコード C01001578700 ”. アジア歴史 れきし 資料 しりょう センター . 2018年 ねん 8月 がつ 20日 はつか 閲覧 えつらん 。
^ Derrick Wright , The Battle for Iwo Jima , Sutton Publishing , 2006. Page 80.
^ 山口 やまぐち 2005 , p. 744, 第 だい 一 いち 節 せつ 「陸軍 りくぐん 大将 たいしょう 」誕生 たんじょう の条件 じょうけん
^ a b 秦 はた 2005 , p. 749, 第 だい 5部 ぶ 陸海 りくかい 軍 ぐん 用語 ようご の解説 かいせつ -た-大将 たいしょう
^ 『SAPIO 』2006年 ねん 10月 がつ 25日 にち 号 ごう 、小学 しょうがく 館 かん 。[要 よう ページ番号 ばんごう ]
^ 「硫黄 いおう 島 とう 栗林 くりばやし 中将 ちゅうじょう 衝撃 しょうげき の最期 さいご 」『文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 』2007年 ねん 2月 がつ 号 ごう 、文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 。
^ “新藤 しんどう 前 ぜん 総務 そうむ 相 しょう :硫黄 いおう 島 とう 戦 せん 参加 さんか の元 もと 米 べい 中将 ちゅうじょう と握手 あくしゅ 米 まい 議場 ぎじょう で” . 毎日新聞 まいにちしんぶん . 毎日新聞社 まいにちしんぶんしゃ . (2015年 ねん 4月 がつ 30日 にち ). オリジナル の2015年 ねん 5月 がつ 2日 にち 時点 じてん におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150502220120/http://mainichi.jp/select/news/20150430k0000e010140000c.html 2017年 ねん 2月 がつ 26日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 『官報 かんぽう 』・付録 ふろく 1941年 ねん 11月14日 にち 辞令 じれい 二 に
参考 さんこう 文献 ぶんけん
関連 かんれん 資料 しりょう
舩坂弘 ひろし 『硫黄 いおう 島 とう ――ああ!栗林 くりばやし 兵団 へいだん 』 講談社 こうだんしゃ 、1968年 ねん 8月 がつ
陸戦 りくせん 史 し 研究 けんきゅう 普及 ふきゅう 会 かい 編 へん 『陸戦 りくせん 史 し 集 しゅう 15 硫黄 いおう 島 とう 作戦 さくせん 』 原 はら 書房 しょぼう 、1970年 ねん
児島 こじま 襄 じょう 『将軍 しょうぐん 突撃 とつげき せり――硫黄 いおう 島 とう 戦記 せんき 』 文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 、1970年 ねん
鳥居 とりい 民 みん 『小磯 こいそ 内閣 ないかく の倒壊 とうかい ――3月 がつ 20日 はつか 〜4月 がつ 4日 にち 』 草 くさ 思 おもえ 社 しゃ 、1987年 ねん 9月 がつ 、ISBN 4794202865
現代 げんだい タクティクス研究 けんきゅう 会 かい 『第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 将軍 しょうぐん ガイド』 新 しん 紀元 きげん 社 しゃ 、1994年 ねん 8月 がつ 、ISBN 4883172341
岡田 おかだ 益吉 ますきち 『日本 にっぽん 陸軍 りくぐん 英傑 えいけつ 伝 でん ――将軍 しょうぐん 暁 あかつき に死 し す』 光人 みつひと 社 しゃ 、1994年 ねん 8月 がつ 、ISBN 4769820577 、初版 しょはん 1972年 ねん 刊行 かんこう
R.F.ニューカム 、田中 たなか 至 いたる 訳 やく 『硫黄 いおう 島 とう ――太平洋戦争 たいへいようせんそう 死闘 しとう 記 き 』 光人 みつひと 社 しゃ 、1996年 ねん 2月 がつ 、ISBN 4769821131 、原著 げんちょ 1965年 ねん 刊行 かんこう
橋本 はしもと 衛 まもる ほか 『硫黄 いおう 島 とう 決戦 けっせん 』 光人 みつひと 社 しゃ 、2001年 ねん 8月 がつ 、ISBN 4769823177
堀江 ほりえ 芳孝 よしたか 『闘魂 とうこん 硫黄 いおう 島 とう ――小笠原 おがさわら 兵団 へいだん 参謀 さんぼう の回想 かいそう 』 光人 みつひと 社 しゃ 、2005年 ねん 3月 がつ 、ISBN 4769824491 、初版 しょはん 1965年 ねん 刊行 かんこう
梯 はしご 久美子 くみこ 『散 ち るぞ悲 かな しき――硫黄 いおう 島 とう 総 そう 指揮 しき 官 かん ・栗林 くりばやし 忠 ただし 道 どう 』 新潮社 しんちょうしゃ 、2005年 ねん 7月 がつ 、ISBN 4104774014 、新潮 しんちょう 文庫 ぶんこ 、2008年 ねん 8月 がつ
田中 たなか 恒夫 つねお ほか 『戦場 せんじょう の名言 めいげん ――指揮 しき 官 かん たちの決断 けつだん 』 草 くさ 思 おもえ 社 しゃ 、2006年 ねん 6月 がつ 、ISBN 479421507X
留守 るす 晴夫 はるお 『常 つね に諸子 しょし の先頭 せんとう に在 あ り――陸軍 りくぐん 中將 ちゅうじょう 栗林 くりばやし 忠 ただし 道 どう と硫黄 いおう 島 とう 戰 せん 』 慧文 けいぶん 社 しゃ 、2006年 ねん 7月 がつ 、ISBN 4905849489
柘植 つげ 久 ひさ 慶 けい 『栗林 くりばやし 忠 ただし 道 どう ――硫黄 いおう 島 とう の死闘 しとう を指揮 しき した名将 めいしょう 』 PHP研究所 けんきゅうじょ 、2006年 ねん 12月、ISBN 4569667430
川相 かわい 昌一 しょういち 『硫黄 いおう 島 とう 戦記 せんき ――玉砕 ぎょくさい の島 しま から生還 せいかん した一 いち 兵士 へいし の回想 かいそう 』 光人 みつひと 社 しゃ 、2007年 ねん 1月 がつ 、ISBN 4769813287
小室 こむろ 直樹 なおき 『硫黄 いおう 島 とう 栗林 くりばやし 忠道 ちゅうどう 大将 たいしょう の教訓 きょうくん 』 ワック、2007年 ねん 1月 がつ 、ISBN 9784898311028
別冊 べっさつ 宝島 たからじま 編集 へんしゅう 部 ぶ 『栗林 くりばやし 忠道 ちゅうどう 硫黄 いおう 島 とう の戦 たたか い』 宝島社 たからじましゃ 文庫 ぶんこ 、2007年 ねん 8月 がつ
今井 いまい 貞夫 さだお 、高橋 たかはし 久志 ひさし 監 かん 『幻 まぼろし の日 にち 中 ちゅう 和平 わへい 工作 こうさく 軍人 ぐんじん 今井 いまい 武夫 たけお の生涯 しょうがい 』 中央公論 ちゅうおうこうろん 事業 じぎょう 出版 しゅっぱん 、2007年 ねん 11月、ISBN 9784895142946
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