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栗林くりばやしただしどう」のはんあいだ差分さぶん

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*** 17にち - 戦死せんし認定にんていされる。特旨とくしをもって陸軍りくぐん大将たいしょう親任しんにんされる
*** 17にち - 戦死せんし認定にんていされる。特旨とくしをもって陸軍りくぐん大将たいしょう親任しんにんされる
*** 26にち - 日本にっぽんぐん守備しゅびたい最後さいご組織そしきてきそう攻撃こうげき指揮しきして戦死せんししたとされる
*** 26にち - 日本にっぽんぐん守備しゅびたい最後さいご組織そしきてきそう攻撃こうげき指揮しきして戦死せんししたとされる

* 1967ねん昭和しょうわ42ねん
==栄典えいてん==
** 12つき23にち - じょ勲一等くんいっとう・授旭日大綬章あさひだいじゅしょう
* [[1940ねん]](昭和しょうわ15ねん)[[11月10にち]] - [[記念きねんあきら#しょうくんきょく所管しょかん記念きねんあきら|紀元きげんせんろくひゃくねん祝典しゅくてん記念きねんあきら]]<ref>[{{NDLDC|2960955/23}} 『官報かんぽう』・付録ふろく 1941ねん11月14にち 辞令じれい] </ref>
* 1967ねん昭和しょうわ42ねん)12つき23にち - [[勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう]]


== 著書ちょしょ ==
== 著書ちょしょ ==

2019ねん8がつ21にち (水)すい 19:09時点じてんにおけるはん

栗林くりばやし ただしどう
陸軍りくぐん騎兵きへい大佐たいさ時代じだい栗林くりばやし
生誕せいたん 1891ねん7がつ7にち
日本の旗 日本にっぽん 長野ながのけん埴科はにしなぐん西条さいじょうむら
死没しぼつ (1945-03-26) 1945ねん3月26にち(53さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう小笠原諸島おがさわらしょとう硫黄島いおうじまむら硫黄いおうとう
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん
ぐんれき 大正たいしょう3ねん - 昭和しょうわ20ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 陸軍りくぐん大将たいしょう
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栗林くりばやし ただしどう(くりばやし ただみち、1891ねん明治めいじ24ねん〉7がつ7にち1945ねん昭和しょうわ20ねん〉3がつ26にち[1][注釈ちゅうしゃく 1])は日本にっぽん陸軍りくぐん軍人ぐんじん陸士りくし26りくまさる35次席じせき最終さいしゅう階級かいきゅう陸軍りくぐん大将たいしょう位階いかい勲等くんとうしたがえよん勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう[注釈ちゅうしゃく 2]長野ながのけん埴科はにしなぐん西条さいじょうむらげん長野ながの松代まつだいまち出身しゅっしん

だい世界せかい大戦たいせん太平洋戦争たいへいようせんそう/だい東亜とうあ戦争せんそう末期まっき硫黄いおうとうたたかにおける、日本にっぽんぐん守備しゅびたい最高さいこう指揮しきかん小笠原おがさわら兵団へいだんちょう小笠原おがさわら方面ほうめん陸海りくかいぐん最高さいこう指揮しきかん)としてられる。

経歴けいれき

戦国せんごく時代じだい以来いらいきゅう松代まつだいはん郷士ごうしいえまれる。1911ねん明治めいじ44ねん)、長野ながの県立けんりつ長野ながの中学校ちゅうがっこう卒業そつぎょうだい11)。在学ざいがくちゅう文才ぶんさいひいで、校友こうゆうには美文びぶんのこされている。当初とうしょジャーナリストこころざ東亜とうあどう文書ぶんしょいん受験じゅけん合格ごうかくしていたが、恩師おんしすすめもあり1912ねん大正たいしょう元年がんねん)12月1にち陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう入校にゅうこう陸軍りくぐん将校しょうこう主流しゅりゅうである陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう出身しゅっしんりくようぐみ)ではなく、中学校ちゅうがっこう出身しゅっしん中学ちゅうがくぐみ)であった。長野ながの中学ちゅうがくの4後輩こうはい今井いまい武夫たけお陸軍りくぐん少将しょうしょうがいる。陸士りくし同期どうきに、のちの硫黄いおうとうたたかいで混成こんせいだい旅団りょだんちょう指名しめいしてせた“歩兵ほへいせんかみ”の異名いみょうをもつ千田せんださだが、その田中たなか隆吉りゅうきちかげただしあきららがいた。

1914ねん大正たいしょう3ねん)5がつ28にち陸士りくし卒業そつぎょうだい26兵科へいか騎兵きへい席次せきじ:125ばん)、騎兵きへいだい15連隊れんたいつけとなり、同年どうねん12がつ25にち陸軍りくぐん騎兵きへい少尉しょうい任官にんかん1917ねん大正たいしょう6ねん)10がつから1918ねん大正たいしょう7ねん)7がつまで陸軍りくぐん騎兵きへい学校がっこう乙種おつしゅ学生がくせいとなり[4]馬術ばじゅつ専修せんしゅう[5]1918ねん大正たいしょう7ねん)7がつ陸軍りくぐん騎兵きへい中尉ちゅうい1920ねん大正たいしょう9ねん)12月7にち陸軍りくぐんだい学校がっこう入校にゅうこう1923ねん大正たいしょう12ねん)8がつ陸軍りくぐん騎兵きへい大尉たいい同年どうねん11がつ29にちりくだい卒業そつぎょうだい35)、成績せいせき優等ゆうとう次席じせき)により恩賜おんし軍刀ぐんとう拝受はいじゅ[6]同年どうねん12がつ栗林くりばやしよし(よしゐ[7])と結婚けっこん[注釈ちゅうしゃく 3]太郎たろう洋子ようこ・たかいちなん二女じじょもうける。まご衆議院しゅうぎいん議員ぎいん新藤しんどう義孝よしたかがいる(たか[8]

北米ほくべい駐在ちゅうざい騎兵きへいはたけ

騎兵きへいだい15連隊れんたい中隊ちゅうたいちょう騎兵きへいかんいん1927ねん昭和しょうわ2ねん)、アメリカ駐在ちゅうざい武官ぶかん在米ざいべい大使館たいしかんつけ)として駐在ちゅうざい帰国きこく1930ねん昭和しょうわ5ねん)3がつ陸軍りくぐん騎兵きへい少佐しょうさ進級しんきゅう、4がつには陸軍りくぐんしょう軍務ぐんむきょく課員かいん1931ねん昭和しょうわ6ねん)8がつ再度さいど北米ほくべいカナダ駐在ちゅうざい武官ぶかんざい公使館こうしかんつけ)として駐在ちゅうざいした。フランスドイツ志向しこうおお当時とうじ陸軍りくぐんないでは少数しょうすうであった「まい」であり、国際こくさい事情じじょうにもあかるくのちのたいべい開戦かいせんにも批判ひはんてきであった。

1933ねん昭和しょうわ8ねん)8がつ陸軍りくぐん騎兵きへい中佐ちゅうさ同年どうねん12がつ30にち陸軍りくぐんしょう軍務ぐんむきょくせい高級こうきゅう課員かいんとなりさらに1936ねん昭和しょうわ11ねん)8がつ1にちには騎兵きへいだい7連隊れんたいちょう就任しゅうにんする。1937ねん昭和しょうわ12ねん)8がつ2にち陸軍りくぐん騎兵きへい大佐たいさ進級しんきゅう陸軍りくぐんしょう兵務へいむきょくうままさし課長かちょううままさし課長かちょう当時とうじ1938ねん昭和しょうわ13ねん)には軍歌ぐんか愛馬あいば進軍しんぐん』の選定せんていたずさわっている。1940ねん昭和しょうわ15ねん)3がつ9にち陸軍りくぐん少将しょうしょう進級しんきゅう騎兵きへいだい2旅団りょだんちょう同年どうねん12がつ2にち騎兵きへいだい1旅団りょだんちょう就任しゅうにん

太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう

太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう開戦かいせん目前もくぜん1941ねん昭和しょうわ16ねん)9がつだい23ぐん参謀さんぼうちょう就任しゅうにんだい23ぐん緒戦しょせん南方みなかた作戦さくせんにおいてイギリスりょう香港ほんこん攻略こうりゃくすることを任務にんむとしており、12月8にち開戦かいせん香港ほんこんたたかにおいて18日間にちかんイギリスぐん撃破げきはして香港ほんこん制圧せいあつした。

1943ねん昭和しょうわ18ねん)6がつ陸軍りくぐん中将ちゅうじょう進級しんきゅうし、だい23ぐん参謀さんぼうちょうから留守るす近衛このえだい2師団しだんなが[注釈ちゅうしゃく 4]てんじる[5]1944ねん昭和しょうわ19ねん)4がつ留守るす近衛このえだい2師団しだんちょうから東部とうぶぐん司令しれいてんじる[5][注釈ちゅうしゃく 5]栗林くりばやし東部とうぶぐん司令しれいとなったのは、厨房ちゅうぼうから失火しっかしたせめによるとされる[5]はたいくは、厨房ちゅうぼうから火事かじした程度ていど留守るす団長だんちょう更迭こうてつされるとはかんがえにくい、だい109師団しだんちょうおやする前提ぜんていでの人事じんじであろう、というむねべている[5]

硫黄いおうとうたたか

硫黄いおうとうでの戦闘せんとう(1945ねん2がつ17にち

1944ねん昭和しょうわ19ねん)5がつ27にち[3]小笠原おがさわら方面ほうめん防衛ぼうえいのためにあらたに編成へんせいされただい109師団しだんちょうおやされた[5]。6月8にち栗林くりばやし硫黄いおうとう着任ちゃくにんし、以後いご、1945ねん昭和しょうわ20ねん)3がつ戦死せんしするまで硫黄いおうとうからいちなかった[5]同年どうねん7がつ1にちには大本営だいほんえい直轄ちょっかつ部隊ぶたいとして編成へんせいされた小笠原おがさわら兵団へいだんちょう兼任けんにん海軍かいぐん部隊ぶたい指揮しきにおき「小笠原おがさわら方面ほうめん陸海りくかいぐん最高さいこう指揮しきかん」となる(硫黄いおうとうたたかい#小笠原おがさわら兵団へいだん編成へんせい編制へんせい)。兵団へいだん司令しれい設備せつびととのった従来じゅうらい父島ちちじまから、アメリカぐん上陸じょうりくには最前線さいぜんせんになるとかんがえられた硫黄いおうとううつし、同島どうとう守備しゅび指揮しきる。てき上陸じょうりくぐん撃退げきたい不可能ふかのうかんがえていた栗林くりばやしは、堅牢けんろう地下ちか陣地じんち構築こうちくしての長期間ちょうきかん持久じきゅうせんゆうげきせんゲリラ)を計画けいかく着手ちゃくしゅする。水際みずぎわ陣地じんち構築こうちくおよび同島どうとう千鳥ちどり飛行場ひこうじょう確保かくほ固執こしつする海軍かいぐん強硬きょうこう反対はんたい最後さいごまでおさえ、またアメリカぐんばくげき空襲くうしゅうにもえ、上陸じょうりく直前ちょくぜんまでに全長ぜんちょう18kmにわたる坑道こうどうおよび地下ちか陣地じんち建設けんせつした。その一方いっぽう隷下れいか将兵しょうへいたいしては陣地じんち撤退てったい万歳ばんざい突撃とつげき自決じけつつよいましめ、ぜん将兵しょうへい配布はいふした『敢闘かんとうちかい』や『きもへい戦闘せんとう心得こころえ』に代表だいひょうされるように、あくまで陣地じんち防御ぼうぎょやゲリラせんをもっての長期ちょうき抵抗ていこう徹底てっていさせた(硫黄いおうとうたたかい#防衛ぼうえい戦術せんじゅつ)。また、島民とうみんはアメリカぐん上陸じょうりく以前いぜん本土ほんど父島ちちじま避難ひなん強制きょうせい疎開そかい)させた。

よく1945ねん昭和しょうわ20ねん)2がつ16にち、アメリカぐん艦艇かんてい航空機こうくうき硫黄いおうとうたい猛烈もうれつ上陸じょうりく準備じゅんびほうばくげきおこない、同月どうげつ19にち9海兵かいへいたいだい1上陸じょうりく開始かいし硫黄いおうとうたたかい#アメリカぐん上陸じょうりく)。上陸じょうりく準備じゅんびほう爆撃ばくげき栗林くりばやし命令めいれい無視むしし、応戦おうせん砲撃ほうげきおこなった(日本にっぽん海軍かいぐん海岸かいがんほうにより擂鉢すりばちやま火砲かほう陣地じんち露呈ろてい全滅ぜんめつするなど誤算ごさんもあったものの、十分じゅうぶんにアメリカぐん上陸じょうりく部隊ぶたい内陸ないりくんだ日本にっぽんぐん守備しゅびたいは10ぎに一斉いっせい攻撃こうげき開始かいしする。上陸じょうりく部隊ぶたい指揮しきかんホーランド・スミス海兵かいへいたい中将ちゅうじょう[5]、そのよる前線ぜんせん部隊ぶたいからの報告ほうこくによって硫黄いおうとう守備しゅびたい無謀むぼう突撃とつげきをまったくおこなわないことをっておどろき、取材しゅざい記者きしゃたちに「だれかはらんがこのたたかいを指揮しきしている日本にっぽん将軍しょうぐんあたまれるやつ(one smart bastard)だ」とかたった[12]

その圧倒的あっとうてき劣勢れっせいなか、アメリカぐん予想よそうはるかに上回うわまわねばづよ戦闘せんとうつづ多大ただい損害そんがいをアメリカにあたえたものの、3月7にち栗林くりばやし最後さいごせん訓電くんでんほうとなるきもさんでんだいさんいちごう大本営だいほんえい陸軍りくぐん、および栗林くりばやしりくだい在校ざいこう兵学へいがく教官きょうかんであり、騎兵きへい先輩せんぱいでもある侍従じじゅう武官ぶかんちょう蓮沼はすぬましげる大将たいしょう打電だでん。さらに組織そしきてき戦闘せんとうさい末期まっきとなった16にち16には、玉砕ぎょくさい意味いみする訣別けつべつ電報でんぽう大本営だいほんえいたい打電だでん硫黄いおうとうたたかい#組織そしきてき戦闘せんとう終結しゅうけつ#訣別けつべつ電文でんぶん)。

よく17にちづけ戦死せんし認定にんていされ[5][注釈ちゅうしゃく 6]特旨とくしにより陸軍りくぐん大将たいしょう親任しんにんされた[2]陸軍りくぐん大臣だいじん杉山すぎやまはじめ元帥げんすいは、内閣ないかく総理そうり大臣だいじん小磯こいそ國昭くにあき送付そうふした文書ぶんしょつぎのようにしるしている[5]

だいひゃくきゅう師団しだんちょうとして硫黄いおうとうりて作戦さくせん指導しどうにん功績こうせきとく顕著けんちょなるしょさんがつじゅうななにちつい戦死せんしせるものゆうこうじょうどう日付ひづけ発令はつれい相成あいなたびこう — 杉山すぎやまはじめ出典しゅってんでは漢字かんじカナ表記ひょうき[5]

太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう)において中将ちゅうじょう戦死せんししゃ増加ぞうかしたため、中将ちゅうじょう戦死せんししたもののうち、おや補職ほしょく軍事ぐんじ参議さんぎかん[10]陸軍りくぐんでは、陸軍りくぐんさん長官ちょうかん陸軍りくぐん航空こうくう総監そうかん師団しだんちょう以上いじょうだんたいなが侍従じじゅう武官ぶかんちょうなど[10]海軍かいぐんでは、海軍かいぐん大臣だいじん軍令ぐんれい総長そうちょう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん鎮守ちんじゅ司令しれい長官ちょうかんなど[10]。)2ねんはん以上いじょうており、武功ぶこうとく顕著けんちょもの陸海りくかいぐん協議きょうぎうえ大将たいしょう親任しんにんするという内規ないきつくられ、この内規ないきにより、陸軍りくぐんで7めい栗林くりばやしふくむ)[13]海軍かいぐんで5めい戦死せんし大将たいしょう親任しんにんされた[14]

昭和しょうわ19ねん5がつ27にちだい109師団しだんちょうおやされ、昭和しょうわ20ねん3がつ17にち戦死せんし認定にんていされた栗林くりばやしは、上記じょうき内規ないき年限ねんげんたさなかったが、特旨とくしにより大将たいしょう親任しんにんされた[14]

同日どうじつ最後さいごそう攻撃こうげき企図きとした栗林くりばやし残存ざんそん部隊ぶたいたい以下いか命令めいれいはっした。

  • いち戦局せんきょく最後さいご関頭かんとう直面ちょくめんセリ
  • 兵団へいだんほんじゅうななにちよるそう攻撃こうげき決行けっこうてきげき摧セントス
  • さんかく部隊ぶたいほんよる正子まさこかく方面ほうめんてき攻撃こうげき最後さいごいちへいトナルモ飽クまで決死けっし敢闘かんとうスベシ だいくんちゅう:3不明ふめい}テ顧ミルヲもとサズ
  • よんつね諸子しょし先頭せんとうざい

17にち以降いこう栗林くりばやしべいぐん警戒けいかいゆるむのを辛抱強しんぼうづよった[5]べいぐん警戒けいかいすきた26にち未明みめい栗林くりばやし階級かいきゅうしょうはずし、しろたすきかたにかけ、抜刀ばっとうして残存ざんそん将兵しょうへい400めい先頭せんとうち、べいぐん占領せんりょうしているだい1・だい2飛行場ひこうじょう突入とつにゅうした[5]栗林くりばやし進撃しんげきちゅうみぎ大腿だいたい重傷じゅうしょうい、その自決じけつしたとされる[5][注釈ちゅうしゃく 7]まん53さいぼつ

戦後せんご

死後しご日米にちべい戦史せんし研究けんきゅうしゃなどからはたか評価ひょうかていたが、硫黄いおうとうたたかいをのぞくとぐん参謀さんぼうちょう騎兵きへい旅団りょだんちょうなど軍人ぐんじんとしては目立めだったエピソードもすくなく、局地きょくちせん戦死せんしした指揮しきかんということもあり、日本にっぽんでも一般いっぱんてき知名度ちめいどたかくなかったが、2005ねん平成へいせい17ねん)に上梓じょうしされたはしご久美子くみこるぞかなしき 硫黄いおうとうそう指揮しきかん栗林くりばやしただしどう』、よく2006ねん平成へいせい18ねん)に公開こうかいされたハリウッド映画えいが硫黄いおうとうからの手紙てがみ』により、一躍いちやくそのられるようになった。

はたいく下記かきのようにべている。

るぞかなしき』(はしご久美子くみこちょ)がベストセラーになり、映画えいが硫黄いおうとうからの手紙てがみ』もヒットして、栗林くりばやしただしどう日本にっぽんちゅうれわたりました。「太平洋戦争たいへいようせんそう最高さいこう名将めいしょう」という地位ちいをほぼ確立かくりつしたんじゃないですか。 — はたいく[5]

栗林くりばやし幼少ようしょうころ一時いちじてき養子ようしていたことがあり、養子ようしていた当時とうじ記録きろくながらくのあいだ不明ふめいであったが、近年きんねん生家せいかから少年しょうねん時代じだい記帳きちょう成績せいせきひょうなどが発見はっけんされ、生後せいごまもなく地元じもと士族しぞく倉田くらた養子ようしていた時期じきなど、これまでられていなかった少年しょうねん詳細しょうさいあきらかになった。

墓所はかしょ長野ながの松代まつだい明徳めいとくてらだが、遺骨いこつはない。栗林くりばやし長兄ちょうけいいだ長野ながの松代まつだい生家せいかでは、仏壇ぶつだん硫黄いおうとういし、および、栗林くりばやし陣頭じんとう指揮しき戦死せんしした3がつ26にち未明みめい最後さいごそう攻撃こうげき参加さんかし、生還せいかんたした陸軍りくぐん下士官かしかんが、復員ふくいんからあいだもない1946ねん昭和しょうわ21ねん)に栗林くりばやしつまおくった手紙てがみ最後さいごそう攻撃こうげき様子ようす詳細しょうさいしるす)をそなえていた[7]1967ねん昭和しょうわ42ねん)、勲一等くんいっとうじょせられ旭日大綬章あさひだいじゅしょう受勲じゅくん

アメリカぐん関係かんけいしゃ評価ひょうか

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくにおいては、硫黄いおうとうたたかいの報道ほうどうがリアルタイムでなされていたこともあり、この戦闘せんとう状況じょうきょう栗林くりばやし知名度ちめいどたかい。とく戦後せんご軍事ぐんじ研究けんきゅうやアメリカぐん軍人ぐんじんたいし、「太平洋戦争たいへいようせんそうにおける日本にっぽん軍人ぐんじん優秀ゆうしゅう指揮しきかんだれであるか」と質問しつもんしたさい栗林くりばやし将軍しょうぐんえい: General Kuribayashi)」と、栗林くりばやしただしどう名前なまえげる人物じんぶつおおい。

戦闘せんとう自体じたい敗北はいぼくわったものの、わずか22平方へいほうキロメートル東京とうきょうきた程度ていど面積めんせき)にぎない硫黄いおうとうを、日本にっぽんぐんの3ばい以上いじょう兵力へいりょく、および絶対ぜったいてき制海権せいかいけん制空権せいくうけんち、予備よび兵力へいりょく物量ぶつりょう兵站へいたん装備そうびすべてにおいて、圧倒的あっとうてき優勢ゆうせいであったアメリカぐん攻撃こうげきたいし、最後さいごまで将兵しょうへい士気しき低下ていかさせずに、アメリカぐん予想よそう上回うわまわる1かげつはん硫黄いおうとう防衛ぼうえいした指揮しきりょくは、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくではたか評価ひょうかされている。

従来じゅうらい日本にっぽんぐん島嶼とうしょ防衛ぼうえいにおける「水際みずぎわ作戦さくせん」という方針ほうしん退しりぞけ、長大ちょうだいかつ堅牢けんろう地下ちか陣地じんち構築こうちくしたうえで、不用意ふよういバンザイ突撃とつげきによる玉砕ぎょくさい厳禁げんきんし、部下ぶか徹底てってい抗戦こうせん指示しじした。その結果けっか、アメリカぐん死傷ししょうしゃ総数そうすうが、日本にっぽんぐん守備しゅびたいのそれを上回うわまわり、またM4 シャーマンちゅう戦車せんしゃLVTひとし多数たすう撃破げきは擱坐かくざさせるといった「物的ぶってき損害そんがいあたえること」にも成功せいこうし、「勝者しょうしゃなきたたかい」と評価ひょうかされた。

訣別けつべつ電文でんぶん

 戦局せんきょく最後さいご関頭かんとう直面ちょくめんセリ てきらいおさむ以来いらい 麾下きか将兵しょうへい敢闘かんとう鬼神きじんヲ哭シムルモノアリ とく想像そうぞうえつエタル量的りょうてき優勢ゆうせいヲ以テスル陸海空りくかいくうヨリノ攻撃こうげきたいシ 宛然えんぜん徒手空拳としゅくうけんヲ以テ かつ健闘けんとうぞくケタルハ 小職しょうしょくラ聊(いささ)カえつビトスルしょナリ

  しかレドモ 飽クナキてき猛攻もうこうしょうデ斃レ ため期待きたいはんシ 此ノ要地ようち敵手てきしゅヌルがいナキニいたりリシハ 小職しょうしょくまこと恐懼きょうくこらえヘザルしょニシテ幾重いくえニモわびさるじょうグ こん弾丸だんがんつきすい涸レ 全員ぜんいん反撃はんげき 最後さいご敢闘かんとうくだりハントスルニかた(あた)リ じゅく々(つらつら)すめらぎおんおもえヒ 粉骨砕身ふんこつさいしんまた悔イズ とく本島ほんとう奪還だっかんセザルげんリ すめらぎ永遠えいえんやすカラザルニおもえいたりリ たて魂魄こんぱくトナルモ ちかいツテ皇軍こうぐん捲土重来けんどじゅうらいさきがけタランコトヲス 茲(ここ)ニ最後さいご関頭かんとうりつ じゅうネテ衷情ちゅうじょう披瀝ひれきスルトどもニ 只管ひたすら(ひたすら)皇国こうこく必勝ひっしょう安泰あんたいトヲ祈念きねんシツツ えいヘニべつさるじょう
  なお父島ちちじま母島ははじまとうニ就テハ 同地どうち麾下きか将兵しょうへい 如何いかナルてき攻撃こうげきヲモ 断固だんこ破摧はさいとくルヲ確信かくしんスルモ 何卒なにとぞよろしシクさるじょう
おわりリニ左記さきちゅう原文げんぶんたてき〕駄作ださく笑覧しょうらんきょうス 何卒なにとぞたまおのヲ乞フ

  • くにため おもつとむを はたとくで だんはてて るぞかなしき[注釈ちゅうしゃく 8]
  • 仇討あだうちたで 野辺のべにはちじ われまた ななうまれて ほこらむぞ
  • みにくくさ(しこぐさ)の しまづるる ときの 皇国こうこく行手ゆくて 一途いっとおも


    太字ふとじ大本営だいほんえいにより添削てんさくされた箇所かしょ
新聞しんぶん掲載けいさいされた電文でんぶん

戦局せんきょくつい最後さいご関頭かんとう直面ちょくめんせり
 じゅうななにち夜半やはん小官しょうかんみずか陣頭じんとうち、皇国こうこく必勝ひっしょう安泰あんたいとを祈念きねんしつ、全員ぜんいん壮烈そうれつなるそう攻撃こうげき敢行かんこう

 てきらいおさむ以来いらい想像そうぞうあま物量ぶつりょうてき優勢ゆうせいもっ陸海空りくかいくうよりするてき攻撃こうげきたいかつ健闘けんとうつづけたこと小職しょうしょくいささみずかよろこびとするところにして部下ぶか将兵しょうへい勇戦ゆうせんしん鬼神きじんをもかしむるものあり

 しかれども執拗しつようなるてき猛攻もうこう将兵しょうへい相次あいついで斃れため期待きたいはんし、この要地ようち敵手てきしゅゆだねるのやむなきにいたりれるはまこと恐懼きょうくへず、幾重いくえにもさるじょう
 とく本島ほんとう奪還だっかんせざるかぎすめらぎ永遠えいえんやすからざるをおもひ、たとひ魂魄こんぱくとなるもちかいつて皇軍こうぐん捲土重来けんどじゅうらいさきがけたらんことをす、いまたま水涸みずがたたかのこれるもの全員ぜんいんいよく最後さいご敢闘かんとうこうはんとするにほうじゅくすめらぎおんかたじけなおも粉骨砕身ふんこつさいしんまた悔ゆるところにあらず
 茲に将兵しょうへい一同いちどうともつつしんで聖寿せいじゅ万歳ばんざい奉唱ほうしょうしつつながわかさるじょう

 おわりに左記さき駄作ださく笑覧しょうらんきょうす。


  • くにためおもきつとめをたしとくで だんるぞ口惜くや
  • 仇討あだうちたで 野辺のべにはちじ われまた ななうまれて ほこらむぞ
  • みにくくさ(しこぐさ)の しまづるる ときの 皇国こうこく行手ゆくて 一途いっとおも


大本営だいほんえい発表はっぴょうにより、新聞しんぶん掲載けいさいされた原文げんぶんのまま。下線かせん大本営だいほんえいにより、あらたに加筆かひつされたところ

逸話いつわ

  • りくまさる次席じせき秀才しゅうさいであり、「太平洋戦争たいへいようせんそう屈指くっし名将めいしょう[5]」とたたえられるすぐれた軍人ぐんじんであったが、同時どうじ家庭かていじんでもあり、北米ほくべい駐在ちゅうざい時代じだい硫黄いおうとう着任ちゃくにん以降いこうには、まめに家族かぞく手紙てがみおくっている。アメリカからかれたものは、最初さいしょどもである長男ちょうなん太郎たろうおさなかったため、栗林くりばやし直筆じきひつのイラストをれた絵手紙えてがみになっている。硫黄いおうとうから次女じじょ(「たこちゃん」とんでいた)におくった手紙てがみでは、軍人ぐんじんらしさがうす一人ひとり父親ちちおやとしてのめんつよ内容ないようになっている。硫黄いおうとう着任ちゃくにん直後ちょくごおくった手紙てがみにはつぎのようなものがある。実際じっさい手紙てがみは、防衛ぼうえいしょう保管ほかんされている。
「おとうさんは、おいえかえって、おかあさんとたこちゃんをれてまちあるいているゆめなどを時々ときどきますが、それはなかなか出来できないことです。たこちゃん。おとうさんはたこちゃんがおおきくなって、おかあさんのちからになれるひとになることばかりをおもっています。からだを丈夫じょうぶにし、勉強べんきょうもし、おかあさんのいつけをよくまもり、おとうさんに安心あんしんさせるようにしてください。戦地せんちのおとうさんより」

年譜ねんぷ

  • 1911ねん明治めいじ44ねん
    • 3月 - 長野ながの県立けんりつ長野ながの中学校ちゅうがっこう卒業そつぎょうだい11
  • 1914ねん大正たいしょう3ねん) - 陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう卒業そつぎょうだい26)、見習みならい士官しかん
    • 12月 - 陸軍りくぐん騎兵きへい少尉しょうい任官にんかん
  • 1918ねん大正たいしょう7ねん
    • 7がつ - 陸軍りくぐん騎兵きへい学校がっこう乙種おつしゅ学生がくせい卒業そつぎょう陸軍りくぐん騎兵きへい中尉ちゅうい
  • 1923ねん大正たいしょう12ねん
    • 8がつ - 陸軍りくぐん騎兵きへい大尉たいい
    • 11月 - 陸軍りくぐんだい学校がっこう卒業そつぎょうだい35次席じせき恩賜おんし軍刀ぐんとう拝受はいじゅ
    • 12月 - 騎兵きへいだい15連隊れんたい中隊ちゅうたいちょう
  • 1925ねん大正たいしょう14ねん
    • 5月 - 騎兵きへいかん部員ぶいん
  • 1927ねん昭和しょうわ2ねん) - 在米ざいべい大使館たいしかん駐在ちゅうざい武官ぶかん補佐ほさかん軍事ぐんじ研究けんきゅうのためハーバード大学だいがくまな
  • 1930ねん昭和しょうわ5ねん
    • 3月 - 陸軍りくぐん騎兵きへい少佐しょうさ
    • 4がつ - 陸軍りくぐんしょう軍務ぐんむきょく課員かいん
  • 1931ねん昭和しょうわ6ねん
  • 1933ねん昭和しょうわ8ねん
    • 8がつ - 陸軍りくぐん騎兵きへい中佐ちゅうさ
    • 12月 - 陸軍りくぐんしょう軍務ぐんむきょくせい高級こうきゅう課員かいん
  • 1936ねん昭和しょうわ11ねん
    • 8がつ - 騎兵きへいだい7連隊れんたいちょう
  • 1937ねん昭和しょうわ12ねん
  • 8がつ - 陸軍りくぐん騎兵きへい大佐たいさ陸軍りくぐんしょう兵務へいむきょくせい課長かちょう
  • 1938ねん昭和しょうわ13ねん) - 軍歌ぐんか愛馬あいば進軍しんぐん』の選定せんていたずさわる
  • 1940ねん昭和しょうわ15ねん
    • 3月 - 陸軍りくぐん少将しょうしょう騎兵きへいだい2旅団りょだんちょう
    • 12月 - 騎兵きへいだい1旅団りょだんちょう
  • 1941ねん昭和しょうわ16ねん
    • 12月 - だい23ぐん参謀さんぼうちょうとして香港ほんこんたたかいに従軍じゅうぐん
  • 1943ねん昭和しょうわ18ねん
    • 6がつ - 陸軍りくぐん中将ちゅうじょう留守るす近衛このえだい2師団しだんちょう
  • 1944ねん昭和しょうわ19ねん
    • 4がつ - 東部とうぶぐん司令しれい
    • 5月27にち - だい109師団しだんちょうおやされる
    • 7がつ1にち - 小笠原おがさわらへい団長だんちょう兼任けんにん
  • 1945ねん昭和しょうわ20ねん
    • 2がつ16にち - 硫黄いおうとうたたか開戦かいせん
    • 3月16にち - 大本営だいほんえい訣別けつべつ電報でんぽう打電だでん
      • 17にち - 戦死せんし認定にんていされる。特旨とくしをもって陸軍りくぐん大将たいしょう親任しんにんされる
      • 26にち - 日本にっぽんぐん守備しゅびたい最後さいご組織そしきてきそう攻撃こうげき指揮しきして戦死せんししたとされる

栄典えいてん

著書ちょしょ

  • 栗林くりばやし忠道ちゅうどう 硫黄いおうとうからの手紙てがみ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2006ねん8がつISBN 4163683704文春ぶんしゅん文庫ぶんこ、2009ねん8がつ
  • 『「玉砕ぎょくさいそう指揮しきかん」の絵手紙えてがみ吉田よしだ由子ゆうこへん小学館しょうがくかん、2002ねん4がつISBN 4094026762

栗林くりばやしただしどうえんじた人物じんぶつ

脚注きゃくちゅう

注釈ちゅうしゃく

  1. ^ 栗林くりばやしは1945ねん昭和しょうわ20ねん)3がつ17にちづけ戦死せんし認定にんていされたため[2]、3月17にちづけ陸軍りくぐん大将たいしょう親任しんにんされ(戦死せんしによる)[1]栗林くりばやし後任こうにんとして立花たちばな芳夫よしお中将ちゅうじょうが3月23にちづけだい109師団しだんちょうおやされ[3]、「はたいく へん日本にっぽん陸海りくかいぐん総合そうごう事典じてん』(だい2はん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2005ねん」61ページの「だい1 主要しゅよう陸海りくかい軍人ぐんじん履歴りれき-陸軍りくぐん-栗林くりばやしただしどう」では栗林くりばやし出生しゅっしょうおよび死去しきょ年月日ねんがっぴを「あかり24・7・7 - あきら20・3・17」と記載きさいしている。一方いっぽう栗林くりばやし出生しゅっしょうおよび死去しきょ年月日ねんがっぴを「明治めいじ24(1891)7・7せい - 昭和しょうわ20(1945)3・26ぼつ」と記載きさいしている「半藤はんどう 2013b, 位置いちNo. 3720/4133, 陸軍りくぐん大将たいしょう略歴りゃくれき昭和しょうわ昭和しょうわじゅうろくねんからじゅうねんまでに親任しんにん)」は、【凡例はんれい】に「ほんひょうはたいくへん日本にっぽん陸海りくかいぐん総合そうごう事典じてん記載きさいの「主要しゅよう陸海りくかい軍人ぐんじん履歴りれき」を底本ていほんとし各種かくしゅ文献ぶんけん史料しりょう参照さんしょうのうえ、加除かじょ修正しゅうせいして作成さくせいしている」としるしており、『半藤はんどう 2013b』は半藤はんどう一利かずとし横山よこやま恵一けいいちはたいくはらつよしの4めい共著きょうちょである。
  2. ^ 栗林くりばやし金鵄勲章きんしくんしょう受章じゅしょうしていない[2]半藤はんどう一利かずとしは「こういちきゅうでもおかしくないのにね」とひょうしている[2]
  3. ^ 栗林くりばやしただしどうつまである栗林くりばやしよしは、旧姓きゅうせい栗林くりばやしであるが、二人ふたりあいだとく血縁けつえん関係かんけいはない[5]川中島かわなかじま付近ふきんげん長野ながの氷鉋ひょうほう[7])の地主じぬしむすめ[5]
  4. ^ 留守るす師団しだんとは、内地ないちおよ朝鮮ちょうせん衛戍えいじゅとする師団しだん戦地せんち動員どういんされたさいに、動員どういんされた師団しだん衛戍えいじゅに、陸軍りくぐん動員どういん計画けいかくれいによって設置せっちされ、留守るす補充ほじゅう業務ぎょうむなどをおこな師団しだん[9]近衛このえだい2師団しだんスマトラ島すまとらとう方面ほうめん動員どういんされていた。師団しだんちょうおや補職ほしょくであるが[10]留守るす団長だんちょうおや補職ほしょくではない[11]
  5. ^ 1944ねん昭和しょうわ19ねん)6がつ栗林くりばやし留守るす近衛このえだい2師団しだんちょうから東部とうぶぐん司令しれいてんじたのち同年どうねん7がつには留守るす近衛このえだい2師団しだん母体ぼたいとして近衛このえだい3師団しだん編成へんせいされている。
  6. ^ 昭和しょうわ20ねん3がつ17にちづけ栗林くりばやし戦死せんし認定にんていされたことにより、父島ちちじまにいた混成こんせいだい1旅団りょだんちょう立花たちばな芳夫よしお陸軍りくぐん少将しょうしょうが、3月23にちづけ陸軍りくぐん中将ちゅうじょう進級しんきゅうし、栗林くりばやし後任こうにんとしてだい109師団しだんちょうされている[5]
  7. ^ 大野おおのかおるは、栗林くりばやしがアメリカぐん降伏ごうぶくしようとして部下ぶか斬殺ざんさつされたというせつとなえた[15]が、はしご久美子くみこはこれを否定ひていしている[16]
  8. ^ 新聞しんぶん発表はっぴょうでは、「かなしき」の部分ぶぶんを「口惜くやし」と改竄かいざんうえ発表はっぴょうされた。
  9. ^ 長野ながの中学ちゅうがくからのもう一人ひとり同期生どうきせい今井いまい武夫たけお陸軍りくぐん少将しょうしょうである。

出典しゅってん

  1. ^ a b 半藤はんどう 2013b, 位置いちNo. 3720/4133, 陸軍りくぐん大将たいしょう略歴りゃくれき昭和しょうわ昭和しょうわじゅうろくねんからじゅうねんまでに親任しんにん
  2. ^ a b c d 半藤はんどう 2013a, 位置いちNo. 85/119, だいいちしょう 大将たいしょう誕生たんじょう-ほとんどが金鵄勲章きんしくんしょう佩用はいようしゃ
  3. ^ a b はた 2005, pp. 370–382, だい2 陸海りくかいぐん主要しゅよう職務しょくむ歴任れきにんしゃ一覧いちらん-III 陸軍りくぐん-9.部隊ぶたい師団しだん-A 師団しだん
  4. ^ はた 2005, p. 61, だい1 主要しゅよう陸海りくかい軍人ぐんじん履歴りれき-陸軍りくぐん-栗林くりばやしただしどう
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 半藤はんどう 2013b, 位置いちNo. 2860/3049, だいよんしょう 戦没せんぼつした将軍しょうぐんたち-栗林くりばやし忠道ちゅうどう 太平洋戦争たいへいようせんそう屈指くっし名将めいしょう
  6. ^ はた 2005, pp. 545–611, だい3 陸海りくかいぐん主要しゅよう学校がっこう卒業生そつぎょうせい一覧いちらん-I 陸軍りくぐん-1.陸軍りくぐんだい学校がっこう卒業生そつぎょうせい
  7. ^ a b c はしご 2013, 位置いちNo. 407/423, ドキュメント1 栗林くりばやしただしどう その真相しんそう-栗林くりばやし保存ほぞんされたいちつう手紙てがみ
  8. ^ ち~現在げんざい | 新藤しんどう義孝よしたか公式こうしきウェブサイト”. www.shindo.gr.jp. 新藤しんどう義孝よしたか. 2018ねん8がつ9にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2018ねん8がつ9にち閲覧えつらん
  9. ^ はた 2005, p. 777, だい5 陸海りくかいぐん用語ようご解説かいせつ-る-留守るす師団しだん
  10. ^ a b c d はた 2005, p. 744, だい5 陸海りくかいぐん用語ようご解説かいせつ-し-おや補職ほしょく
  11. ^ 留守るす団長だんちょう上奏じょうそうかんするけん』 レファレンスコード C01001578700”. アジア歴史れきし資料しりょうセンター. 2018ねん8がつ20日はつか閲覧えつらん
  12. ^ Derrick Wright, The Battle for Iwo Jima, Sutton Publishing, 2006. Page 80.
  13. ^ 山口やまぐち 2005, p. 744, だいいちせつ陸軍りくぐん大将たいしょう誕生たんじょう条件じょうけん
  14. ^ a b はた 2005, p. 749, だい5 陸海りくかいぐん用語ようご解説かいせつ-た-大将たいしょう
  15. ^ SAPIO』2006ねん10がつ25にちごう小学しょうがくかん[ようページ番号ばんごう]
  16. ^ 硫黄いおうとう 栗林くりばやし中将ちゅうじょう衝撃しょうげき最期さいご」『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』2007ねん2がつごう文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう
  17. ^ 新藤しんどうぜん総務そうむしょう:硫黄いおうとうせん参加さんかもとべい中将ちゅうじょう握手あくしゅ まい議場ぎじょうで”. 毎日新聞まいにちしんぶん. 毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ. (2015ねん4がつ30にち). オリジナルの2015ねん5がつ2にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150502220120/http://mainichi.jp/select/news/20150430k0000e010140000c.html 2017ねん2がつ26にち閲覧えつらん 
  18. ^ 官報かんぽう』・付録ふろく 1941ねん11月14にち 辞令じれい

参考さんこう文献ぶんけん

関連かんれん資料しりょう

  • 舩坂ひろし硫黄いおうとう――ああ!栗林くりばやし兵団へいだん講談社こうだんしゃ、1968ねん8がつ
  • 陸戦りくせん研究けんきゅう普及ふきゅうかいへん陸戦りくせんしゅう15 硫黄いおうとう作戦さくせんはら書房しょぼう、1970ねん
  • 児島こじまじょう将軍しょうぐん突撃とつげきせり――硫黄いおうとう戦記せんき文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1970ねん
  • 鳥居とりいみん小磯こいそ内閣ないかく倒壊とうかい――3がつ20日はつか〜4がつ4にちくさおもえしゃ、1987ねん9がつISBN 4794202865
  • 現代げんだいタクティクス研究けんきゅうかいだい世界せかい大戦たいせん将軍しょうぐんガイド』 しん紀元きげんしゃ、1994ねん8がつISBN 4883172341
  • 岡田おかだ益吉ますきち日本にっぽん陸軍りくぐん英傑えいけつでん――将軍しょうぐんあかつきす』 光人みつひとしゃ、1994ねん8がつISBN 4769820577初版しょはん1972ねん刊行かんこう
  • R.F.ニューカム 、田中たなかいたるやく硫黄いおうとう――太平洋戦争たいへいようせんそう死闘しとう光人みつひとしゃ、1996ねん2がつISBN 4769821131原著げんちょ1965ねん刊行かんこう
  • 橋本はしもとまもるほか 『硫黄いおうとう決戦けっせん光人みつひとしゃ、2001ねん8がつISBN 4769823177
  • 堀江ほりえ芳孝よしたか闘魂とうこん 硫黄いおうとう――小笠原おがさわら兵団へいだん参謀さんぼう回想かいそう光人みつひとしゃ、2005ねん3がつISBN 4769824491初版しょはん1965ねん刊行かんこう
  • はしご久美子くみこるぞかなしき――硫黄いおうとうそう指揮しきかん栗林くりばやしただしどう新潮社しんちょうしゃ、2005ねん7がつISBN 4104774014新潮しんちょう文庫ぶんこ、2008ねん8がつ
  • 田中たなか恒夫つねおほか 『戦場せんじょう名言めいげん――指揮しきかんたちの決断けつだんくさおもえしゃ、2006ねん6がつISBN 479421507X
  • 留守るす晴夫はるおつね諸子しょし先頭せんとうり――陸軍りくぐん中將ちゅうじょう栗林くりばやしただしどう硫黄いおうとうせん慧文けいぶんしゃ、2006ねん7がつISBN 4905849489
  • 柘植つげひさけい栗林くりばやしただしどう――硫黄いおうとう死闘しとう指揮しきした名将めいしょうPHP研究所けんきゅうじょ、2006ねん12月、ISBN 4569667430
  • 川相かわい昌一しょういち硫黄いおうとう戦記せんき――玉砕ぎょくさいしまから生還せいかんしたいち兵士へいし回想かいそう光人みつひとしゃ、2007ねん1がつISBN 4769813287
  • 小室こむろ直樹なおき硫黄いおうとう栗林くりばやし忠道ちゅうどう大将たいしょう教訓きょうくん』 ワック、2007ねん1がつISBN 9784898311028
  • 別冊べっさつ宝島たからじま編集へんしゅう栗林くりばやし忠道ちゅうどう硫黄いおうとうたたかい』 宝島社たからじましゃ文庫ぶんこ、2007ねん8がつ
  • 今井いまい貞夫さだお高橋たかはし久志ひさしかんまぼろしにちちゅう和平わへい工作こうさく 軍人ぐんじん今井いまい武夫たけお生涯しょうがい中央公論ちゅうおうこうろん事業じぎょう出版しゅっぱん、2007ねん11月、ISBN 9784895142946

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