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カーチス・ルメイ

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カーチス・ルメイ
Curtis LeMay
生誕せいたん (1906-11-15) 1906ねん11月15にち
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく オハイオしゅうコロンバス
死没しぼつ (1990-10-01) 1990ねん10月1にち(83さいぼつ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく カリフォルニアしゅうマーチ空軍くうぐん基地きち
所属しょぞく組織そしき アメリカ合衆国陸軍の旗 アメリカ陸軍りくぐん
アメリカ合衆国空軍の旗 アメリカ空軍くうぐん
ぐんれき 1929ねん10がつ - 1965ねん2がつ
最終さいしゅう階級かいきゅう 空軍くうぐん大将たいしょう
出身しゅっしんこう オハイオ州立しゅうりつ大学だいがく中退ちゅうたい
除隊じょたい ふく大統領だいとうりょう候補こうほ
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カーチス・エマーソン・ルメイ英語えいご: Curtis Emerson LeMayカーティス・ルメイ[1]またはカーチス・E・ルメイ[2]1906ねん11月15にち - 1990ねん10月1にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく陸軍りくぐん軍人ぐんじん空軍くうぐん軍人ぐんじん最終さいしゅう階級かいきゅう空軍くうぐん大将たいしょうだい世界せかい大戦たいせんちゅうだい20空軍くうぐん隷下れいかだい21ばくげき集団しゅうだん司令しれいかん赴任ふにんし、東京とうきょうだい空襲くうしゅう指揮しき。1957ねん7がつから1965ねん2がつまでだい5だい空軍くうぐん参謀さんぼう総長そうちょうつとめ、在任ざいにんちゅうキューバ危機ききあいだにキューバのミサイルサイトのばくげきびかけ、ベトナム戦争せんそうあいだ持続じぞくてききたベトナムばくげきキャンペーンをもとめた。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

1906ねん11月15にちオハイオしゅうコロンバスにて、放浪ほうろうしゃちち教師きょうしははあいだに6にん兄弟きょうだい長男ちょうなんとして誕生たんじょうした。父親ちちおや先祖せんぞはフランスじんである。オハイオ州立しゅうりつ大学だいがく在学ざいがくちゅう陸軍りくぐん予備よびやく将校しょうこう訓練くんれん課程かてい(ROTC)を修了しゅうりょうし、その大学だいがく中退ちゅうたいして国境警備隊こっきょうけいびたいはいる。

1929ねん10がつ12にち陸軍りくぐん航空こうくうぐん予備よびやく少尉しょうい拝命はいめいし、1930ねん2がつ1にち正規せいき任官にんかんされた。ミシガンしゅうセルフリッジフィールドのだい27戦闘せんとう飛行ひこうたい着任ちゃくにんし、1935ねん3がつ12にち中尉ちゅういとなり、1937ねん8がつばくげきうたてするまでは戦闘せんとうパイロットとして任務にんむいた。1938ねん3がつみなみアメリカかうB-17かたはつ編隊へんたい飛行ひこう参加さんかした[3]。1940ねん1がつ26にち大尉たいい、1941ねん3がつ21にち少佐しょうさ昇進しょうしんする。

だい世界せかい大戦たいせん[編集へんしゅう]

ヨーロッパ戦線せんせん[編集へんしゅう]

1941ねん12月の真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきのちにアメリカがだい世界せかい大戦たいせん参戦さんせんすると、1942ねん1がつ23にち中佐ちゅうさになり、ルメイはみなみ大西洋たいせいようアフリカ北大西洋きたたいせいようイギリスへの空路くうろひらいた。6月17にち大佐たいさ昇進しょうしんする。10月にだい305爆撃ばくげきたい組織そしき訓練くんれんし、ヨーロッパで戦闘せんとうする部隊ぶたい指導しどうした。ヨーロッパの作戦さくせんでB-17のばくげきたいによるフォーメーションやばくげき技術ぎじゅつ改良かいりょうする。これらの基本きほんてき手順てじゅん技術ぎじゅつのち太平洋たいへいよう活躍かつやくするB-29にも適用てきようされた[3]1942ねん9月から1943ねん5がつまでイギリスにおいてだい8ばくげき軍団ぐんだん傘下さんか陸軍りくぐん航空こうくうぐん大佐たいさとして同隊どうたい指揮しきり、のちにだい4ばくげき航空こうくうだんひきい、1943ねん9がつどう航空こうくうだんだい3航空こうくう師団しだんさい編成へんせいされたときにはドイツレーゲンスブルクばくげき功績こうせきにより9がつ28にちじゅんしょう昇進しょうしんし、その最初さいしょ司令しれいとなって1944ねん3月3にちには少将しょうしょう昇進しょうしんした。

ドイツ本土ほんどへのばくげきおもむ搭乗とうじょういんたいし「きみばくだん投下とうかし、そのことでなにかのおもいにさいなまれたとしよう。そんなときはきっと、なんトンもの瓦礫がれきがベッドにねむ子供こどもうえくずれてきたとか、身体中からたじゅうほのおつつまれ『ママ、ママ』とさけぶ3さい少女しょうじょかなしい視線しせんを、一瞬いっしゅんおもかべてしまっているにちがいない。正気しょうきたもち、国家こっかきみ希望きぼうする任務にんむまっとうしたいのなら、そんなものはわすれることだ」といいきかせたこともある[4]

てつのロバ」(頑固がんこしゃ)とばれ、訓練くんれん実戦じっせん生死せいしけるとしんじており、作戦さくせん作戦さくせんあいだ部下ぶか徹底的てっていてきにしごき、寡黙かもくおにのようにいかめしかったが、部下ぶかからは絶大ぜつだい信頼しんらいせられていた。

統計とうけいがくなどを駆使くしして効率こうりつてきばくげき作戦さくせん研究けんきゅうをしたハーバード大学だいがくロバート・マクナマラ助教授じょきょうじゅは、だい世界せかい大戦たいせんばくげき任務にんむにおけるたか任務にんむ中止ちゅうしりつかんする報告ほうこくしょに「指揮しきかん一人ひとりにカーティス・ルメイというB-24部隊ぶたい指揮しきする大佐たいさがいた。かれわたし戦中せんちゅう出会であったものなかもっとすぐれた戦闘せんとう指揮しきかんだった。 しかしルメイは異常いじょう好戦こうせんてきで、おおくのひと残忍ざんにんだとさえおもった。ルメイはばくげき空爆くうばく任務にんむ中断ちゅうだんりつかんする調査ちょうさで、たか中止ちゅうしりつ原因げんいん隊員たいいん撃墜げきついおそれてこじつけの理由りゆう任務にんむ放棄ほうきしているにぎないと結論けつろんづけたマクナマラの報告ほうこくしょけたのち命令めいれいした。『これからすべての任務にんむにおいて自分じぶん先陣せんじんばくげき搭乗とうじょうする。今後こんご出撃しゅつげきしたすべてのばくげき攻撃こうげき目標もくひょうまで到達とうたつする。これをげないものは全員ぜんいん軍法ぐんぽう会議かいぎにかけ処分しょぶんする』。任務にんむ中止ちゅうしりつまたた低下ていかした。かれはそういうるい指揮しきかんだった。」としるしている[5]

たいにちせん[編集へんしゅう]

空襲くうしゅうける東京とうきょう市街しがい(1945ねん5がつ25にち

1944ねんにルメイはポール・ティベッツたちからB-29の操縦そうじゅうほうまなんだ課程かていわりに「この飛行機ひこうき戦争せんそうてるぞ」と予言よげんしている[6]

1944ねん8がつ20日はつかイギリスりょうインド帝国ていこくカラグプル英語えいごばん司令しれいだい20ばくげき集団しゅうだん司令しれいかん赴任ふにんし、おな連合れんごうこくのイギリスや中華民国ちゅうかみんこく共同きょうどうおこなたいにち作戦さくせんとして、中華民国ちゅうかみんこく成都せいともうけられた基地きちからの八幡やはた製鉄せいてつしょばくげきたずさわった。ルメイは中国ちゅうごく北部ほくぶ実効じっこう支配しはいしていた毛沢東もうたくとう交渉こうしょうし、物資ぶっしえに中国ちゅうごく北部ほくぶ気象きしょう観測かんそくしょ設置せっちさせて定期ていきてき情報じょうほう提供ていきょうさせた。この情報じょうほう中国ちゅうごくからのばくげきやくち、ルメイはのちにマリアナにうつってからも毛沢東もうたくとうから情報じょうほうていた[7]蔣介せき実効じっこう支配しはいする中国ちゅうごく南部なんぶおなじようなB-29の飛行場ひこうじょう建設けんせつ毛沢東もうたくとうはルメイに提案ていあんしていた[8]

ルメイは精密せいみつばくげき技術ぎじゅつ改良かいりょうちから飛行機ひこうき工場こうじょう目標もくひょうにした昼間ひるま精密せいみつばくげき成果せいかげていった。1944ねん10がつ25にち大村おおむらだい21海軍かいぐん航空こうくうしょう目視もくし爆撃ばくげきさせその大半たいはん破壊はかいした。だい21ばくげき集団しゅうだん司令しれいヘイウッド・ハンセルがよくて14パーセントの精度せいどだったのにたいし、ルメイは41パーセントを目標もくひょう300メートル以内いないこう精度せいど投下とうかしている。またルメイはハンセルとちが兵站へいたんうえ難問なんもんにも対処たいしょしなければならなかったが、空襲くうしゅう成果せいか上回うわまわってまったくいいわけをせず、延期えんき問題もんだい解決かいけつしていった[9][10]

だい20空軍くうぐん隷下れいかだい21ばくげき集団しゅうだん司令しれいかん赴任ふにんした。アメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐん司令しれいかんヘンリー・アーノルドはルメイが中国ちゅうごくからおこなったたか精度せいど精密せいみつばくげきうでい、1944ねん11月13にち時点じてんでルメイの異動いどう検討けんとうしていた[10]。1944ねん12月9にち、ルメイにたいして「B-29ならどんな飛行機ひこうきげられなかったすばらしいばくげき遂行すいこうできるとおもっていたがあなたこそそれを実証じっしょうできる人間にんげんだ」と手紙てがみおくった。アーノルドは中国ちゅうごくからのばくげきをやめさせてルメイをマリアナに合流ごうりゅうさせると、1945ねん1がつ20日はつかにルメイを司令しれいかん任命にんめいした[ちゅう 1]

3がつ10日とおか東京とうきょうだい空襲くうしゅう指揮しきし、ルメイの独創どくそうせい進入しんにゅう高度こうど変更へんこうにあった。従来じゅうらい高度こうど8500メートルから9500メートルの昼間ひるまばくげきおこなっていたが、高度こうど1500メートルから3000メートルに変更へんこうした。理由りゆうはまず、ジェット気流きりゅうにより機体きたいすすまなかったり正確せいかくねらってもばくだんながされたりする影響えいきょうけることにより、エンジン負荷ふか軽減けいげん燃料ねんりょう節約せつやくおおくのばくだん積載せきさいできるばくげき命中めいちゅう精度せいどげられるなどの効果こうか期待きたいできる。また、低空ていくうであればくも影響えいきょうをあまりけずに地上ちじょう視認しにんできるため、作戦さくせん計画けいかくへの天候てんこう影響えいきょう減衰げんすい命中めいちゅう精度せいど上昇じょうしょう目標もくひょう地区ちくへの着弾ちゃくだん密度みつど上昇じょうしょう期待きたいできる。しかし低空ていくうではてき迎撃げいげき対空たいくうほうがあるため夜間やかん爆撃ばくげきにした。また機銃きじゅう弾薬だんやく機銃きじゅうしゅをB-29からのぞいちたりばくだんを200キロやせるようにした。また飛行ひこうほう低空ていくうたん直列ちょくれつにし先頭せんとう投下とうか誘導ゆうどう着弾ちゃくだん火炎かえんから後続こうぞく目標もくひょう地点ちてん把握はあくしやすいようにした。ルメイの変更へんこう乗員じょういん恐怖きょうふしたが、結果けっかてきにB-29の損害そんがい軽微けいびであった[13]誘導ゆうどうつとめたトム・パワー参謀さんぼうちょうは「まるでだい草原そうげん野火のびのようにひろがっている。地上ちじょう砲火ほうか散発さんぱつてき戦闘せんとうはんげきなし」と実況じっきょう報告ほうこくした。3あいだで、日本にっぽん死者ししゃ行方ゆくえ不明ふめいふくめ10まんにん以上いじょう被災ひさいしゃ100まんにん以上いじょうやく6平方へいほうマイルないで25まん家屋かおく焼失しょうしつした。一方いっぽう、ルメイの部隊ぶたいは325ちゅう14損失そんしつした[14]

ルメイが東京とうきょう空襲くうしゅう成功せいこうすると、3がつ10日とおかにアーノルドは「おめでとう。この任務にんむきみ部下ぶかはどんなことでもやってのける度胸どきょうがあることを証明しょうめいした」とメッセージをおく[15]。またルメイに「空軍くうぐん太平洋戦争たいへいようせんそう主要しゅよう貢献こうけんをなしうる機会きかいにした」と賛辞さんじおくった[16]戦後せんごのルメイは「我々われわれ東京とうきょういたとき、たくさんのおんな子供こどもころしていることをっていた。やらなければならなかったのだ。我々われわれ所業しょぎょう道徳どうとくせいについて憂慮ゆうりょすることは(中略ちゅうりゃく)ふざけるな」とかたった[17]

焦土しょうど作戦さくせん東京とうきょう大阪おおさか名古屋なごやなどの大都市だいとしはらったのちは、富山とやま郡山こおりやまなどの地方ちほう中小ちゅうしょう都市とし対象たいしょうとなった[ちゅう 2]。これらの空襲くうしゅう日本にっぽん国民こくみんふるがらせ、日本にっぽんがわから「鬼畜きちくルメイ」「皆殺みなごろしのルメイ」と渾名あだなされた[ちゅう 4]

戦後せんごのルメイは日本にっぽんばくげき道徳どうとくてき考慮こうりょ影響えいきょうしたかと質問しつもんされ、「当時とうじ日本人にっぽんじんころすことについてたいしてなやみはしなかった。わたしあたまなやませていたのは戦争せんそうわらせることだった」「もし戦争せんそうやぶれていたらわたし戦争せんそう犯罪はんざいじんとしてさばかれていただろう。幸運こううんなことに我々われわれ勝者しょうしゃになった」「こたえは“イエス”だ。軍人ぐんじんだれでも自分じぶん行為こうい道徳どうとくてき側面そくめん多少たしょうかんがえるものだ。だが、戦争せんそうすべ道徳どうとくはんするものなのだ」とこたえた[19]。また自著じちょで「焼夷弾しょういだん空襲くうしゅうでの民間みんかんじん死傷ししょうしゃおもうと、わたししあわせな気分きぶんにはなれなかったが、とりわけ心配しんぱいしていたわけでもかった。わたし決心けっしんなんなまらせなかったのは、フィリピンなどで捕虜ほりょになったアメリカじん民間みんかんじん軍人ぐんじん両方りょうほう―を、日本人にっぽんじんがどんなふうにあつかったのかっていたからだ[20]」とべている。

日本にっぽん本土ほんど爆撃ばくげきかんして、ルメイは人道じんどうはんすることをりつつも戦争せんそうにおける必要ひつようせい優先ゆうせんし、現場げんば効果こうかてき戦術せんじゅつ考案こうあん実行じっこうした責任せきにんがある。しかしばくげきはアーノルドにめいじられた任務にんむであり、ルメイの役割やくわり誇大こだいかたられる傾向けいこうがある。ルメイの就任しゅうにんでB-29の攻撃こうげきほう夜間やかん中心ちゅうしんわったが、都市としばくげき枠組わくぐみは統合とうごう参謀さんぼう本部ほんぶ決定けってい焼夷弾しょういだん攻撃こうげき準備じゅんび東京とうきょう名古屋なごやでのハンセルによる差別さべつばくげき試行しこうなど、ルメイの就任しゅうにんまえからすすめられていた[21][22]

1945ねん5がつ原爆げんばく投下とうか部隊ぶたいであるだい509混成こんせい部隊ぶたい準備じゅんびえて、ルメイの部隊ぶたい移動いどうしてきた。ルメイは投下とうか部隊ぶたい要望ようぼうさい優先ゆうせん事項じこうとして便宜べんぎはかるように命令めいれいされていた。当時とうじのルメイは空襲くうしゅう絶対ぜったいてき自信じしんっていたため、日本にっぽんへの原子げんしばくだん投下とうか必要ひつようとはかんがえていなかった。指揮しきかんポール・ティベッツ大佐たいさ立案りつあんした原爆げんばく投下とうか命令めいれいしょ草案そうあんをもとに、8がつ2にちにティベッツらはルメイ司令しれい細目さいもく決定けっていおこなった。ルメイは「京都きょうとたいした軍事ぐんじてき目標もくひょうではない。神社じんじゃみたいなものがいっぱいあるだけだ。それに普通ふつう市民しみん爆撃ばくげきしてみたってなんやくにもちはしない。(中略ちゅうりゃくわんよ」と京都きょうとへの投下とうかには反対はんたいした。一方いっぽうおおくの軍隊ぐんたい軍需ぐんじゅ工場こうじょうがある広島ひろしまには賛成さんせいした[23]。そのルメイはティベッツが作成さくせいした草案そうあんをほぼそのまま命令めいれいしょだい13ごうとしてティベッツにわたした[24]

1945ねん8がつ15にち終戦しゅうせんとなり、9がつ20日はつか記者きしゃ会見かいけんでルメイは「戦争せんそうソ連それん参戦さんせんくても、原爆げんばくくても2週間しゅうかん以内いないわっていたでしょう。原爆げんばく投下とうか戦争せんそう終結しゅうけつとはなん関係かんけいありません。」とこたえている。しかし晩年ばんねんの1988ねんには著書ちょしょで「原爆げんばく使用しようせずに戦争せんそうわらせることができたとしても、わたし原爆げんばく投下とうか賢明けんめい決定けっていだったとおもいます。何故なぜなら原爆げんばく投下とうか降伏ごうぶく交渉こうしょうはやめたのです。」とかたり、原爆げんばく投下とうか上陸じょうりく作戦さくせんまえ日本にっぽん降伏ごうぶくさせ、ひゃくまんのアメリカへいいのちすくった(=ダウンフォール作戦さくせん決行けっこうせずにんだ)というアメリカ政府せいふ公式こうしき説明せつめい支持しじしている[25]終戦しゅうせん、ルメイは北海道ほっかいどうからシカゴまでノンストップ記録きろくでB-29を操縦そうじゅうして帰国きこくした[3]戦争せんそうわったため1946ねん6がつ22にちなぞらえしょう降格こうかくしている。

冷戦れいせん[編集へんしゅう]

戦後せんご航空こうくう資材しざい軍団ぐんだん司令しれい本部ほんぶ着任ちゃくにんし、国防総省こくぼうそうしょう初代しょだい研究けんきゅう開発かいはつ航空こうくうふく参謀さんぼうちょうつとめる[3]ばくげき開発かいはつ責任せきにんしゃとしてヴァルキリー計画けいかく指揮しきし、当時とうじ主力しゅりょくであるボーイングB-52ばくげきや、世界せかいはつちょう音速おんそく爆撃ばくげきであるコンベアB-58ばくげき後継こうけいとなるちょう音速おんそく爆撃ばくげき開発かいはつ指揮しきする。

1947ねん9がつ18にち陸軍りくぐん航空こうくうぐん正式せいしき独立どくりつし、アメリカ空軍くうぐん設立せつりつされた。10月にドイツのヴィースバーデンにあるアメリカぐん航空こうくうヨーロッパ本部ほんぶ現在げんざいざいヨーロッパアメリカ空軍くうぐん)の指揮しきかん拝命はいめいする。ベルリン封鎖ふうさ対抗たいこうする空中くうちゅう架橋かきょう作戦さくせん従事じゅうじし、1948ねん1がつ26にち中将ちゅうじょう昇進しょうしんする。こののち帰国きこくして2がつ19にち空軍くうぐんせきえて少将しょうしょうにんじられると、新設しんせつされる戦略せんりゃく空軍くうぐん想定そうていし、ネブラスカしゅうオファット空軍くうぐん基地きち本部ほんぶ設立せつりつする[3]

1948ねん10がつから1957ねん6がつまで戦略せんりゃく航空こうくう軍団ぐんだん司令しれいつとめた。1950ねん6がつ朝鮮ちょうせん戦争せんそうにおいてアメリカ空軍くうぐんおおきな役割やくわりたした。ルメイは「我々われわれ朝鮮ちょうせんきたでもみなみでもすべての都市とし炎上えんじょうさせた。我々われわれは100まん以上いじょう民間みんかんじんころすうひゃくまんにん以上いじょういえからはらった」とかたった[26]。1951ねん10がつ29にち大将たいしょう昇進しょうしんした。

1957ねん7がつ空軍くうぐんふく参謀さんぼうちょうとなり、同年どうねん11がつ11にちKC-135による給油きゅうゆ連続れんぞく飛行ひこう世界せかい記録きろく樹立じゅりつ指揮しきし、年度ねんど優秀ゆうしゅうパイロットにおくられるハーモン・トロフィー受賞じゅしょうしている。1961ねん7がつ空軍くうぐん参謀さんぼう総長そうちょうとなり、1965ねん2がつ空軍くうぐん退役たいえきするまでつとめた。

1962ねん10がつキューバ危機きき勃発ぼっぱつにルメイら空軍くうぐん首脳しゅのう圧倒的あっとうてき兵力へいりょくソ連それん屈服くっぷくさせることが可能かのうであると確信かくしんし、キューバ空爆くうばくケネディ大統領だいとうりょう提案ていあんしたが却下きゃっかされた。ソ連それんはキューバ危機きき時点じてんすでにキューバにかくミサイルすうじゅう配備はいびみであり、この提案ていあんだいさん世界せかい大戦たいせんまねきかねないものであった。

勲章くんしょう授与じゅよ[編集へんしゅう]

1964ねん全米ぜんべい航空こうくう協会きょうかいよりコリアー・トロフィー受賞じゅしょう同年どうねん12がつ7にちには日本にっぽん返還へんかんされたばかりの入間いるま基地きちきゅうジョンソン基地きち)で、勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょううらしげる航空こうくう幕僚ばくりょうちょうから授与じゅよされた[ちゅう 5]理由りゆう日本にっぽん航空こうくう自衛隊じえいたい育成いくせい協力きょうりょくがあったためである[27]。12月4にちだい1佐藤さとう内閣ないかく閣議かくぎ決定けっていされた[28]叙勲じょくんうらがルメイを航空こうくう自衛隊じえいたい創立そうりつ10周年しゅうねん式典しきてん招待しょうたいしたことを発端ほったんとした防衛庁ぼうえいちょう調査ちょうさ審査しんさもとづく国際こくさい慣例かんれいによる佐藤さとう内閣ないかく決定けっていであることがかされている[29]推薦すいせん小泉こいずみじゅん防衛庁ぼうえいちょう長官ちょうかん椎名しいな悦三郎えつさぶろう外務がいむ大臣だいじん連名れんめいおこなわれ[30]防衛庁ぼうえいちょうから佐藤さとう栄作えいさく首相しゅしょうしょうくんきょく叙勲じょくん適当てきとうであるという説明せつめいがあった[31]勲一等くんいっとう旭日きょくじつあきらという種類しゅるい選定せんてい大将たいしょうという階級かいきゅうから慣例かんれいもとづいたものである[32]

後年こうねんに『NHK特集とくしゅう 東京とうきょうだい空襲くうしゅう』(1978ねん3がつ9にち 初回しょかい放送ほうそう)でのNHK取材しゅざい戦争せんそう責任せきにんについてのいにルメイはその勲章くんしょうせた。

昭和しょうわ天皇てんのう親授しんじゅ拒否きょひ[編集へんしゅう]

勲一等くんいっとう授与じゅよ天皇てんのう直接ちょくせつ手渡てわたす「親授しんじゅ」が通例つうれいであるが、昭和しょうわ天皇てんのうはこれをおこなわなかった[33]そのため、ルメイは国璽こくじ捺印なついんされた勲記くんきっていない。[よう出典しゅってん]

授与じゅよへの批判ひはん[編集へんしゅう]

ルメイが東京とうきょうだい空襲くうしゅう原爆げんばく投下とうかおこなった部隊ぶたい指揮しきかんだったことから授与じゅよたいして批判ひはんおおきく、現在げんざいでも「勲章くんしょう返還へんかんするべきである」ととなえるものもいる。当時とうじ日本にっぽん社会党しゃかいとう原水爆げんすいばく禁止きんし団体だんたい被爆ひばくしゃなどから国民こくみん感情かんじょうとして納得なっとくできないというこえがった[27]

国会こっかいでも叙勲じょくんたいして疑問ぎもんするこえがあった[34]東京とうきょうだい空襲くうしゅう原爆げんばくから叙勲じょくん不適切ふてきせつではないかという質問しつもん佐藤さとうは「いまはアメリカと友好ゆうこう関係かんけいにあり、功績こうせきがあるならば過去かこ過去かことしてこうむくいるのが当然とうぜん大国たいこくみんとはいつまでもとらわれず今後こんご関係かんけい功績こうせきかんがえて処置しょちしていくべきもの。」とこたえ、小泉こいずみは「功績こうせき戦時せんじ事情じじょう別個べっこかんがえるもの。防衛庁ぼうえいちょう調査ちょうさでも当時とうじルメイは原爆げんばく投下とうか直接ちょくせつ部隊ぶたい責任せきにんしゃではなく、原爆げんばく投下とうかトルーマン大統領だいとうりょう直接ちょくせつ指揮しきしたものである。」と説明せつめいしており、佐藤さとうもそれらを理由りゆう決定けっていえる意思いしいと表明ひょうめいした[35]

ルメイは12月7にち防衛庁ぼうえいちょう小泉こいずみ訪問ほうもん予定よていであったが[28]当日とうじつ三輪みわ良雄よしお事務次官じむじかん代理だいり面会めんかいしている[27][ちゅう 6]

その[編集へんしゅう]

1960ねんから本格ほんかくしたベトナム戦争せんそうでは空軍くうぐん参謀さんぼう総長そうちょうにんにあり、「(きた)ベトナムを石器せっき時代じだいもどしてやる」と豪語ごうごしてきたばく推進すいしんした。リンドン・B・ジョンソン政権せいけんで1965ねん2がつ7にちからきたばく開始かいしされた。

1965ねん2がつ退役たいえきし、1968ねんにベトナム戦争せんそう推進すいしん人種じんしゅ差別さべつてき政策せいさくかかげた大統領だいとうりょう候補こうほで、アラバマしゅうジョージ・ウォレスぜんしゅう知事ちじとも独立どくりつとうふく大統領だいとうりょう候補こうほとして出馬しゅつばするが落選らくせんした。

1970ねん12月14にちテニアンとう福祉ふくし生活せいかつ向上こうじょうへのすぐれた功績こうせきでテニアン島民とうみんから表彰状ひょうしょうじょう受賞じゅしょうした[39]。イギリスのチャーチル首相しゅしょうからもらった空軍くうぐんじゅうあきら (イギリス)英語えいごばん自慢じまんだった[40]

1990ねん10がつ1にちカリフォルニアしゅうマーチ空軍くうぐん基地きちにて、83さい死去しきょした。

家族かぞく[編集へんしゅう]

1934ねん6がつにヘレン・メイトランドと結婚けっこんし、1人ひとり子女しじょ誕生たんじょうした。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 戦後せんご前任ぜんにんしゃヘイウッド・ハンセルじゅんしょうはルメイとの交代こうたい精密せいみつばくげきから差別さべつばくげきへの政策せいさく転換てんかん結果けっかはなしたが、実際じっさいはハンセルのころから差別さべつばくげき準備じゅんびすすめており、実験じっけんてき実行じっこうもしており、差別さべつばくげき方針ほうしんについてルメイは基本きほんてきにハンセルの戦術せんじゅつ踏襲とうしゅうしている[11]一方いっぽう、1945ねん1がつ3にちアーノルドの参謀さんぼう総長そうちょう民家みんかしょうえびす攻撃こうげきろんしゃローリス・ノースタッド英語えいごばん少将しょうしょう名古屋なごや空襲くうしゅう焼夷弾しょういだんによる差別さべつ攻撃こうげきめいじたにもかかわらず、ハンセルは従来じゅうらい工場こうじょう攻撃こうげき重点じゅうてんき、焼夷弾しょういだんばくげき一部いちぶ機体きたい試行しこうてき実施じっしさせたにぎなかったことが、ルメイへの交替こうたい決心けっしんさせる契機けいきとなったという意見いけんもある。ルメイも当初とうしょ工場こうじょうばくげきおもとするかんがかたくみする立場たちばであったが、ノースタッドの命令めいれい忠実ちゅうじつ実行じっこうする意思いしっていた[12]
  2. ^ 富山とやま空襲くうしゅうについては中山なかやま伊佐男いさおちょ『ルメイ・最後さいご空襲くうしゅうかつら書房しょぼうくわしい。青木あおき慶一けいいち同市どうし民家みんか焼失しょうしつりつ全国一ぜんこくいち(99パーセント)となったことを指摘してきしている。
  3. ^ 服部はっとりたく四郎しろう著書ちょしょだい東亜とうあ戦争せんそうぜんだい10しょうで「アメリカ空軍くうぐん鉄道てつどうたいする本格ほんかくてき攻撃こうげき延引えんいんしたことは、日本にっぽんのためにしん僥倖ぎょうこうであった。巨大きょだい本土ほんど決戦けっせん兵力へいりょくと、軍需ぐんじゅひん展開てんかい出来できたのも、戦時せんじ産業さんぎょう活動かつどう国民こくみん生活せいかつかろうじてささたのも、じつにそのためであった。戦後せんごになってからアメリカばくげき調査ちょうさだんは、空軍くうぐんのこの戦略せんりゃくてき過失かしつするど指摘してきしている」とべている。
  4. ^ このてん南北戦争なんぼくせんそうどきうみへの進軍しんぐんその北上ほくじょう進撃しんげきアメリカ連合れんごうこく盟主めいしゅだったジョージアしゅうサウスカロライナしゅう壊滅かいめつさせ、南部なんぶじんふるがらせた、おなオハイオしゅう出身しゅっしんきたぐんウィリアム・シャーマン戦争せんそうかんがかた踏襲とうしゅうしている[18][よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]。ただし、陸上りくじょう物流ぶつりゅう主役しゅやくであった国鉄こくてつはじめとする鉄道てつどうもうたいしてはルメイの陸軍りくぐん航空こうくうたい明確めいかくしゅ目標もくひょうえたことはほとんどなく、組織そしきてき鉄道てつどうもう攻撃こうげきとして実施じっししたのは1945ねん8がつ15にち岩国いわくに機関きかんたいするばくげき唯一ゆいいつであった[ちゅう 3]。また、だい21ばくげき集団しゅうだん当時とうじ日本にっぽん国内こくないすう地区ちく集中しゅうちゅうしていた炭田たんでんへの集中しゅうちゅうばくげき実施じっししなかった[12]
  5. ^ うら返礼へんれいとして翌年よくねんアメリカ空軍くうぐんからレジオン・オブ・メリット勲章くんしょう授与じゅよされている。
  6. ^ この叙勲じょくん様々さまざま俗説ぞくせつみ、アメリカの差別さべつ殺戮さつりく謝罪しゃざい賠償ばいしょう要求ようきゅうしないことをかたちにしろとジョンソン大統領だいとうりょう要求ようきゅうしたとするせつ[36][よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]橋本はしもと登美とみ三郎さぶろう官房かんぼう長官ちょうかん小泉こいずみ防衛ぼうえい長官ちょうかん叙勲じょくん決定けってい主導しゅどうしたとするせつ[37]池田いけだ勇人はやとぜん首相しゅしょう叙勲じょくん決定けっていおこなったとするせつもと航空こうくう幕僚ばくりょうちょう源田げんた参議院さんぎいん議員ぎいん推薦すいせんなどをおこなったとするせつ。しかし推薦すいせん選考せんこう決定けっていすべては行政ぎょうせい内閣ないかく)でおこなわれ、池田いけだ源田げんた参加さんかしていない[30][38]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 木下きのした昌明まさあき. “ドイツ映画えいが『ドレスデン、運命うんめい』「だい空襲くうしゅう」―62ねん経過けいかして 日本にっぽんで「訴訟そしょう」ドイツで「映画えいが”. 木下きのした昌明まさあき映画えいが部屋へやだい22かい. レイバーネット公式こうしきホームページ. 2021ねん8がつ3にち閲覧えつらん
  2. ^ ちょうそら要塞ようさい B29爆撃ばくげき 写真しゃしん特集とくしゅう」『時事じじドットコム』時事通信社じじつうしんしゃ2024ねん6がつ10日とおか閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e Air Force Link: Curtis Emerson LeMay”. 2012ねん12月12にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2013ねん6がつ19にち閲覧えつらん アメリカ空軍くうぐん公式こうしきサイト
  4. ^ E.バートレット・カー『戦略せんりゃく東京とうきょう大空おおぞらばく いちきゅうよんねんさんがつじゅうにち真実しんじつ光人みつひとしゃ、1994ねん[ようページ番号ばんごう]ぺーじISBN 4-7698-0699-X 
  5. ^ ドキュメンタリーをったエロール・モリス英語えいごばん監督かんとくによる引用いんようThe Fog of War: Eleven Lessons from the Life of Robert S. McNamara, Documentary Film, 2003「One of the commanders was Curtis LeMay-Colonel in command of a B-24 group. He was the finest combat commander of any service I came across in war. But he was extraordinarily belligerent, many thought brutal. He got the report. He issued an order. He said, 'I will be in the lead plane on every mission. Any plane that takes off will go over the target, or the crew will be court-martialed.' The abort rate dropped overnight. Now that's the kind of commander he was.」
  6. ^ ドキュメント原爆げんばく投下とうか 1980, p. 119
  7. ^ ドキュメント原爆げんばく投下とうか 1980, p. 124
  8. ^ Haulman, Chapter Over the Hump to Matterhorn p.5
  9. ^ 荒井あらい 2008, p. 128
  10. ^ a b ドキュメント東京とうきょうだい空襲くうしゅう 2012, p. 136
  11. ^ 荒井あらい 2008, pp. 128–129
  12. ^ a b 青木あおき慶一けいいち国鉄こくてつ運賃うんちん問題もんだいいち考察こうさつ」『政策せいさく月報げっぽう』、自由民主党じゆうみんしゅとう、1966ねん4がつdoi:10.11501/1385433ISSN 0582-4400 服部はっとりたく四郎しろうだい東亜とうあ戦争せんそうぜんだい10しょう参照さんしょうしてべられている。)
  13. ^ 荒井あらい 2008, pp. 136–137
  14. ^ ドキュメント原爆げんばく投下とうか 1980, pp. 151–152
  15. ^ ドキュメント東京とうきょうだい空襲くうしゅう 2012, p. 142
  16. ^ 荒井あらい 2008, p. 136
  17. ^ 荒井あらい 2008, p. 139
  18. ^ ロナルド・シェイファーちょ深田ふかた民生たみお翻訳ほんやく「アメリカの日本にっぽん空襲くうしゅうにモラルはあったか―戦略せんりゃくばくげき道義どうぎてき問題もんだいくさおもえしゃ
  19. ^ 鬼塚おにづか英昭ひであき原爆げんばく秘密ひみつ国内こくないへん昭和しょうわ天皇てんのうっていた)、なりかぶと書房しょぼう、2008ねん、117ぺーじISBN 978-4-88086-233-0 
  20. ^ カーチス・E.ルメイ、ビル・イェーン『ちょうそら要塞ようさい B-29』朝日あさひソノラマしん戦史せんしシリーズ 37〉、1991ねん[ようページ番号ばんごう]ぺーじISBN 4-257-17237-1 
  21. ^ 荒井あらい 2008, pp. 136, 139
  22. ^ ドキュメント東京とうきょうだい空襲くうしゅう 2012, pp. 62–63
  23. ^ ドキュメント原爆げんばく投下とうか 1980, pp. 368–369
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  25. ^ 鈴木すずき敏明としあき原爆げんばく正当せいとうのアメリカと「従軍じゅうぐん慰安いあん謝罪しゃざい日本にっぽんてんてんしゃ、2006ねん、17ぺーじISBN 4-88656-291-4 
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  30. ^ a b 総理府そうりふしょうくんきょく監修かんしゅう栄典えいてん事務じむ手続てつづだい4改定かいていばん』96-97ぺーじ
  31. ^ 昭和しょうわ39ねん12月15にち47かい衆議院しゅうぎいん 外務がいむ委員いいんかい 1ごう 総理府そうりふ事務じむかんしょうくん局長きょくちょう岩倉いわくら規夫のりお政府せいふ委員いいん答弁とうべん」、昭和しょうわ39ねん12月07にち47かい 衆議院しゅうぎいん 予算よさん委員いいんかい 8ごう
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  39. ^ ドキュメント原爆げんばく投下とうか 1980, p. 465
  40. ^ ドキュメント原爆げんばく投下とうか 1980, p. 466

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

ぐんしょく
先代せんだい
トーマス・D・ホワイト
アメリカ空軍くうぐん参謀さんぼう総長そうちょう
だい5だい:1961ねん7がつ1にち - 1965ねん6がつ30にち
次代じだい
ジョン・P・マコーネル英語えいごばん