カーチス・エマーソン・ルメイ (英語 えいご : Curtis Emerson LeMay 、カーティス・ルメイ [1] またはカーチス・E・ルメイ [2] 、1906年 ねん 11月15日 にち - 1990年 ねん 10月1日 にち )は、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の陸軍 りくぐん 軍人 ぐんじん 、空軍 くうぐん 軍人 ぐんじん 。最終 さいしゅう 階級 かいきゅう は空軍 くうぐん 大将 たいしょう 。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう は第 だい 20空軍 くうぐん 隷下 れいか の第 だい 21爆 ばく 撃 げき 集団 しゅうだん 司令 しれい 官 かん に赴任 ふにん し、東京 とうきょう 大 だい 空襲 くうしゅう を指揮 しき 。1957年 ねん 7月 がつ から1965年 ねん 2月 がつ まで第 だい 5代 だい 空軍 くうぐん 参謀 さんぼう 総長 そうちょう を務 つと め、在任 ざいにん 中 ちゅう はキューバ危機 きき の間 あいだ にキューバのミサイルサイトの爆 ばく 撃 げき を呼 よ びかけ、ベトナム戦争 せんそう の間 あいだ に持続 じぞく 的 てき な北 きた ベトナム爆 ばく 撃 げき キャンペーンを求 もと めた。
1906年 ねん 11月15日 にち にオハイオ州 しゅう コロンバス にて、放浪 ほうろう 者 しゃ の父 ちち と教師 きょうし の母 はは の間 あいだ に6人 にん 兄弟 きょうだい の長男 ちょうなん として誕生 たんじょう した。父親 ちちおや の先祖 せんぞ はフランス人 じん である。オハイオ州立 しゅうりつ 大学 だいがく 在学 ざいがく 中 ちゅう に陸軍 りくぐん の予備 よび 役 やく 将校 しょうこう 訓練 くんれん 課程 かてい (ROTC)を修了 しゅうりょう し、その後 ご は大学 だいがく を中退 ちゅうたい して国境警備隊 こっきょうけいびたい に入 はい る。
1929年 ねん 10月 がつ 12日 にち に陸軍 りくぐん 航空 こうくう 軍 ぐん 予備 よび 役 やく で少尉 しょうい を拝命 はいめい し、1930年 ねん 2月 がつ 1日 にち に正規 せいき 任官 にんかん された。ミシガン州 しゅう セルフリッジフィールドの第 だい 27戦闘 せんとう 飛行 ひこう 隊 たい に着任 ちゃくにん し、1935年 ねん 3月 がつ 12日 にち に中尉 ちゅうい となり、1937年 ねん 8月 がつ に爆 ばく 撃 げき 機 き に転 うたて 科 か するまでは戦闘 せんとう 機 き パイロットとして任務 にんむ に就 つ いた。1938年 ねん 3月 がつ に南 みなみ アメリカ へ向 む かうB-17 型 かた 機 き 初 はつ の編隊 へんたい 飛行 ひこう に参加 さんか した[3] 。1940年 ねん 1月 がつ 26日 にち に大尉 たいい 、1941年 ねん 3月 がつ 21日 にち に少佐 しょうさ に昇進 しょうしん する。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん [ 編集 へんしゅう ]
1941年 ねん 12月の真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき の後 のち にアメリカが第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん へ参戦 さんせん すると、1942年 ねん 1月 がつ 23日 にち に中佐 ちゅうさ になり、ルメイは南 みなみ 大西洋 たいせいよう ・アフリカ ・北大西洋 きたたいせいよう ・イギリス への空路 くうろ を開 ひら いた。6月17日 にち に大佐 たいさ に昇進 しょうしん する。10月に第 だい 305爆撃 ばくげき 隊 たい を組織 そしき ・訓練 くんれん し、ヨーロッパで戦闘 せんとう する部隊 ぶたい を指導 しどう した。ヨーロッパの作戦 さくせん でB-17の爆 ばく 撃 げき 隊 たい によるフォーメーションや爆 ばく 撃 げき 技術 ぎじゅつ を改良 かいりょう する。これらの基本 きほん 的 てき な手順 てじゅん や技術 ぎじゅつ は後 のち に太平洋 たいへいよう で活躍 かつやく するB-29 にも適用 てきよう された[3] 。1942年 ねん 9月から1943年 ねん 5月 がつ までイギリス において第 だい 8爆 ばく 撃 げき 軍団 ぐんだん 傘下 さんか で陸軍 りくぐん 航空 こうくう 軍 ぐん 大佐 たいさ として同隊 どうたい の指揮 しき を執 と り、のちに第 だい 4爆 ばく 撃 げき 航空 こうくう 団 だん を率 ひき い、1943年 ねん 9月 がつ に同 どう 航空 こうくう 団 だん が第 だい 3航空 こうくう 師団 しだん に再 さい 編成 へんせい されたときにはドイツ のレーゲンスブルク 爆 ばく 撃 げき の功績 こうせき により9月 がつ 28日 にち に准 じゅん 将 しょう に昇進 しょうしん し、その最初 さいしょ の司令 しれい となって1944年 ねん 3月3日 にち には少将 しょうしょう に昇進 しょうしん した。
ドイツ本土 ほんど への爆 ばく 撃 げき に赴 おもむ く搭乗 とうじょう 員 いん に対 たい し「君 きみ が爆 ばく 弾 だん を投下 とうか し、そのことで何 なに かの思 おも いに責 せ め苛 さいな まれたとしよう。そんなときはきっと、何 なん トンもの瓦礫 がれき がベッドに眠 ねむ る子供 こども の上 うえ に崩 くず れてきたとか、身体中 からたじゅう を炎 ほのお に包 つつ まれ『ママ、ママ』と泣 な き叫 さけ ぶ3歳 さい の少女 しょうじょ の悲 かな しい視線 しせん を、一瞬 いっしゅん 思 おも い浮 う かべてしまっているに違 ちが いない。正気 しょうき を保 たも ち、国家 こっか が君 きみ に希望 きぼう する任務 にんむ を全 まっと うしたいのなら、そんなものは忘 わす れることだ」とい聞 いき かせたこともある[4] 。
「鉄 てつ のロバ」(頑固 がんこ 者 しゃ )と呼 よ ばれ、訓練 くんれん が実戦 じっせん で生死 せいし を分 わ けると信 しん じており、作戦 さくせん と作戦 さくせん の間 あいだ に部下 ぶか を徹底的 てっていてき にしごき、寡黙 かもく で鬼 おに のように厳 いかめ しかったが、部下 ぶか からは絶大 ぜつだい な信頼 しんらい を寄 よ せられていた。
統計 とうけい 学 がく などを駆使 くし して効率 こうりつ 的 てき な爆 ばく 撃 げき 作戦 さくせん の研究 けんきゅう をしたハーバード大学 だいがく のロバート・マクナマラ 助教授 じょきょうじゅ は、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 時 じ の爆 ばく 撃 げき 任務 にんむ における高 たか い任務 にんむ 中止 ちゅうし 率 りつ に関 かん する報告 ほうこく 書 しょ に「指揮 しき 官 かん の一人 ひとり にカーティス・ルメイというB-24部隊 ぶたい を指揮 しき する大佐 たいさ がいた。彼 かれ は私 わたし が戦中 せんちゅう に出会 であ った者 もの の中 なか で最 もっと も優 すぐ れた戦闘 せんとう 指揮 しき 官 かん だった。 しかしルメイは異常 いじょう に好戦 こうせん 的 てき で、多 おお くの人 ひと が残忍 ざんにん だとさえ思 おも った。ルメイは爆 ばく 撃 げき 機 き の空爆 くうばく 任務 にんむ の中断 ちゅうだん 率 りつ に関 かん する調査 ちょうさ で、高 たか い中止 ちゅうし 率 りつ の原因 げんいん は隊員 たいいん が撃墜 げきつい を恐 おそ れてこじつけの理由 りゆう で任務 にんむ 放棄 ほうき しているに過 す ぎないと結論 けつろん づけたマクナマラの報告 ほうこく 書 しょ を受 う けた後 のち 、命令 めいれい を出 だ した。『これから全 すべ ての任務 にんむ において自分 じぶん が先陣 せんじん の爆 ばく 撃 げき 機 き に搭乗 とうじょう する。今後 こんご は出撃 しゅつげき した全 すべ ての爆 ばく 撃 げき 機 き が攻撃 こうげき 目標 もくひょう まで到達 とうたつ する。これを成 な し遂 と げないものは全員 ぜんいん 軍法 ぐんぽう 会議 かいぎ にかけ処分 しょぶん する』。任務 にんむ 中止 ちゅうし 率 りつ は瞬 またた く間 ま に低下 ていか した。彼 かれ はそういう類 るい の指揮 しき 官 かん だった。」と記 しる している[5] 。
空襲 くうしゅう を受 う ける東京 とうきょう 市街 しがい (1945年 ねん 5月 がつ 25日 にち )
1944年 ねん にルメイはポール・ティベッツ たちからB-29の操縦 そうじゅう 法 ほう を学 まな んだ課程 かてい の終 お わりに「この飛行機 ひこうき で戦争 せんそう に勝 か てるぞ」と予言 よげん している[6] 。
1944年 ねん 8月 がつ 20日 はつか にイギリス領 りょう インド帝国 ていこく のカラグプル (英語 えいご 版 ばん ) に司令 しれい 部 ぶ を置 お く第 だい 20爆 ばく 撃 げき 集団 しゅうだん 司令 しれい 官 かん に赴任 ふにん し、同 おな じ連合 れんごう 国 こく のイギリスや中華民国 ちゅうかみんこく と共同 きょうどう で行 おこな う対 たい 日 にち 作戦 さくせん として、中華民国 ちゅうかみんこく の成都 せいと に設 もう けられた基地 きち からの八幡 やはた 製鉄 せいてつ 所 しょ 爆 ばく 撃 げき に携 たずさ わった。ルメイは中国 ちゅうごく 北部 ほくぶ を実効 じっこう 支配 しはい していた毛沢東 もうたくとう と交渉 こうしょう し、物資 ぶっし と引 ひ き換 か えに中国 ちゅうごく 北部 ほくぶ に気象 きしょう 観測 かんそく 所 しょ を設置 せっち させて定期 ていき 的 てき に情報 じょうほう 提供 ていきょう させた。この情報 じょうほう は中国 ちゅうごく からの爆 ばく 撃 げき で役 やく に立 た ち、ルメイは後 のち にマリアナに移 うつ ってからも毛沢東 もうたくとう から情報 じょうほう を得 え ていた[7] 。蔣介石 せき の実効 じっこう 支配 しはい する中国 ちゅうごく 南部 なんぶ と同 おな じようなB-29の飛行場 ひこうじょう の建設 けんせつ も毛沢東 もうたくとう はルメイに提案 ていあん していた[8] 。
ルメイは精密 せいみつ 爆 ばく 撃 げき の技術 ぎじゅつ 改良 かいりょう に力 ちから を入 い れ飛行機 ひこうき 工場 こうじょう を目標 もくひょう にした昼間 ひるま 精密 せいみつ 爆 ばく 撃 げき で成果 せいか を上 あ げていった。1944年 ねん 10月 がつ 25日 にち に大村 おおむら 第 だい 21海軍 かいぐん 航空 こうくう 廠 しょう を目視 もくし で爆撃 ばくげき させその大半 たいはん を破壊 はかい した。第 だい 21爆 ばく 撃 げき 集団 しゅうだん 司令 しれい ヘイウッド・ハンセル がよくて14パーセントの精度 せいど だったのに対 たい し、ルメイは41パーセントを目標 もくひょう 300メートル以内 いない の高 こう 精度 せいど で投下 とうか している。またルメイはハンセルと違 ちが い兵站 へいたん 上 うえ の難問 なんもん にも対処 たいしょ しなければならなかったが、空襲 くうしゅう 成果 せいか を上回 うわまわ って全 まった くい訳 いわけ をせず、延期 えんき も無 な く問題 もんだい を解決 かいけつ していった[9] [10] 。
第 だい 20空軍 くうぐん 隷下 れいか の第 だい 21爆 ばく 撃 げき 集団 しゅうだん 司令 しれい 官 かん に赴任 ふにん した。アメリカ陸軍 りくぐん 航空 こうくう 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん ヘンリー・アーノルド はルメイが中国 ちゅうごく から行 おこな った高 たか い精度 せいど の精密 せいみつ 爆 ばく 撃 げき の腕 うで を買 か い、1944年 ねん 11月13日 にち の時点 じてん でルメイの異動 いどう を検討 けんとう していた[10] 。1944年 ねん 12月9日 にち 、ルメイに対 たい して「B-29ならどんな飛行機 ひこうき も成 な し遂 と げられなかったすばらしい爆 ばく 撃 げき を遂行 すいこう できると思 おも っていたがあなたこそそれを実証 じっしょう できる人間 にんげん だ」と手紙 てがみ を送 おく った。アーノルドは中国 ちゅうごく からの爆 ばく 撃 げき をやめさせてルメイをマリアナに合流 ごうりゅう させると、1945年 ねん 1月 がつ 20日 はつか にルメイを司令 しれい 官 かん に任命 にんめい した[注 ちゅう 1] 。
3月 がつ 10日 とおか に東京 とうきょう 大 だい 空襲 くうしゅう を指揮 しき し、ルメイの独創 どくそう 性 せい は進入 しんにゅう 高度 こうど の変更 へんこう にあった。従来 じゅうらい は高度 こうど 8500メートルから9500メートルの昼間 ひるま 爆 ばく 撃 げき を行 おこな っていたが、高度 こうど 1500メートルから3000メートルに変更 へんこう した。理由 りゆう はまず、ジェット気流 きりゅう により機体 きたい が進 すす まなかったり正確 せいかく に狙 ねら っても爆 ばく 弾 だん が流 なが されたりする影響 えいきょう を避 さ けることにより、エンジン負荷 ふか 軽減 けいげん で燃料 ねんりょう を節約 せつやく し多 おお くの爆 ばく 弾 だん を積載 せきさい できる爆 ばく 撃 げき の命中 めいちゅう 精度 せいど が上 あ げられるなどの効果 こうか が期待 きたい できる。また、低空 ていくう であれば雲 くも の影響 えいきょう をあまり受 う けずに地上 ちじょう を視認 しにん できるため、作戦 さくせん 計画 けいかく への天候 てんこう の影響 えいきょう の減衰 げんすい ・命中 めいちゅう 精度 せいど の上昇 じょうしょう ・目標 もくひょう 地区 ちく への着弾 ちゃくだん 密度 みつど の上昇 じょうしょう が期待 きたい できる。しかし低空 ていくう では敵 てき の迎撃 げいげき 機 き ・対空 たいくう 砲 ほう があるため夜間 やかん 爆撃 ばくげき にした。また機銃 きじゅう ・弾薬 だんやく ・機銃 きじゅう 手 しゅ をB-29から取 と り除 のぞ き一 いち 機 き 当 あ たり爆 ばく 弾 だん を200キロ増 ふ やせるようにした。また飛行 ひこう 法 ほう を低空 ていくう 単 たん 直列 ちょくれつ にし先頭 せんとう の投下 とうか 誘導 ゆうどう 機 き の着弾 ちゃくだん 火炎 かえん から後続 こうぞく 機 き が目標 もくひょう 地点 ちてん を把握 はあく しやすいようにした。ルメイの変更 へんこう に乗員 じょういん は恐怖 きょうふ したが、結果 けっか 的 てき にB-29の損害 そんがい は軽微 けいび であった[13] 。誘導 ゆうどう 機 き を務 つと めたトム・パワー参謀 さんぼう 長 ちょう は「まるで大 だい 草原 そうげん の野火 のび のように燃 も え広 ひろ がっている。地上 ちじょう 砲火 ほうか は散発 さんぱつ 的 てき 。戦闘 せんとう 機 き の反 はん 撃 げき なし」と実況 じっきょう 報告 ほうこく した。3時 じ 間 あいだ で、日本 にっぽん は死者 ししゃ 行方 ゆくえ 不明 ふめい 含 ふく め10万 まん 人 にん 以上 いじょう 、被災 ひさい 者 しゃ 100万 まん 人 にん 以上 いじょう 、約 やく 6平方 へいほう マイル内 ない で25万 まん 戸 こ の家屋 かおく が焼失 しょうしつ した。一方 いっぽう 、ルメイの部隊 ぶたい は325機 き 中 ちゅう 14機 き を損失 そんしつ した[14] 。
ルメイが東京 とうきょう の空襲 くうしゅう に成功 せいこう すると、3月 がつ 10日 とおか にアーノルドは「おめでとう。この任務 にんむ で君 きみ の部下 ぶか はどんなことでもやってのける度胸 どきょう があることを証明 しょうめい した」とメッセージを送 おく る[15] 。またルメイに「空軍 くうぐん は太平洋戦争 たいへいようせんそう に主要 しゅよう な貢献 こうけん をなしうる機会 きかい を手 て にした」と賛辞 さんじ を送 おく った[16] 。戦後 せんご のルメイは「我々 われわれ は東京 とうきょう を焼 や いたとき、たくさんの女 おんな ・子供 こども を殺 ころ していることを知 し っていた。やらなければならなかったのだ。我々 われわれ の所業 しょぎょう の道徳 どうとく 性 せい について憂慮 ゆうりょ することは(中略 ちゅうりゃく )ふざけるな」と語 かた った[17] 。
焦土 しょうど 作戦 さくせん は東京 とうきょう ・大阪 おおさか ・名古屋 なごや などの大都市 だいとし を焼 や き払 はら った後 のち は、富山 とやま 市 し ・郡山 こおりやま 市 し などの地方 ちほう の中小 ちゅうしょう 都市 とし も対象 たいしょう となった[注 ちゅう 2] 。これらの空襲 くうしゅう は日本 にっぽん 国民 こくみん を震 ふる え上 あ がらせ、日本 にっぽん 側 がわ から「鬼畜 きちく ルメイ」「皆殺 みなごろ しのルメイ」と渾名 あだな された[注 ちゅう 4] 。
戦後 せんご のルメイは日本 にっぽん 爆 ばく 撃 げき に道徳 どうとく 的 てき な考慮 こうりょ は影響 えいきょう したかと質問 しつもん され、「当時 とうじ 日本人 にっぽんじん を殺 ころ すことについて大 たい して悩 なや みはしなかった。私 わたし が頭 あたま を悩 なや ませていたのは戦争 せんそう を終 お わらせることだった」「もし戦争 せんそう に敗 やぶ れていたら私 わたし は戦争 せんそう 犯罪 はんざい 人 じん として裁 さば かれていただろう。幸運 こううん なことに我々 われわれ は勝者 しょうしゃ になった」「答 こた えは“イエス”だ。軍人 ぐんじん は誰 だれ でも自分 じぶん の行為 こうい の道徳 どうとく 的 てき 側面 そくめん を多少 たしょう は考 かんが えるものだ。だが、戦争 せんそう は全 すべ て道徳 どうとく に反 はん するものなのだ」と答 こた えた[19] 。また自著 じちょ で「焼夷弾 しょういだん 空襲 くうしゅう での民間 みんかん 人 じん の死傷 ししょう 者 しゃ を思 おも うと、私 わたし は幸 しあわ せな気分 きぶん にはなれなかったが、とりわけ心配 しんぱい していた訳 わけ でも無 な かった。私 わたし の決心 けっしん を何 なん ら鈍 なま らせなかったのは、フィリピンなどで捕虜 ほりょ になったアメリカ人 じん ―民間 みんかん 人 じん と軍人 ぐんじん の両方 りょうほう ―を、日本人 にっぽんじん がどんなふうに扱 あつか ったのか知 し っていたからだ[20] 」と述 の べている。
日本 にっぽん 本土 ほんど 爆撃 ばくげき に関 かん して、ルメイは人道 じんどう に反 はん することを知 し りつつも戦争 せんそう における必要 ひつよう 性 せい を優先 ゆうせん し、現場 げんば で効果 こうか 的 てき な戦術 せんじゅつ を考案 こうあん し実行 じっこう した責任 せきにん がある。しかし爆 ばく 撃 げき はアーノルドに命 めい じられた任務 にんむ であり、ルメイの役割 やくわり が誇大 こだい に語 かた られる傾向 けいこう がある。ルメイの就任 しゅうにん でB-29の攻撃 こうげき 法 ほう が夜間 やかん 中心 ちゅうしん に変 か わったが、都市 とし 爆 ばく 撃 げき の枠組 わくぐ みは統合 とうごう 参謀 さんぼう 本部 ほんぶ の決定 けってい ・焼夷弾 しょういだん 攻撃 こうげき の準備 じゅんび ・東京 とうきょう や名古屋 なごや でのハンセルによる無 む 差別 さべつ 爆 ばく 撃 げき の試行 しこう など、ルメイの就任 しゅうにん 前 まえ から進 すす められていた[21] [22] 。
1945年 ねん 5月 がつ に原爆 げんばく 投下 とうか 部隊 ぶたい である第 だい 509混成 こんせい 部隊 ぶたい が準備 じゅんび を終 お えて、ルメイの部隊 ぶたい に移動 いどう してきた。ルメイは投下 とうか 部隊 ぶたい の要望 ようぼう を最 さい 優先 ゆうせん 事項 じこう として便宜 べんぎ を図 はか るように命令 めいれい されていた。当時 とうじ のルメイは空襲 くうしゅう に絶対 ぜったい 的 てき な自信 じしん を持 も っていたため、日本 にっぽん への原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか が必要 ひつよう とは考 かんが えていなかった。指揮 しき 官 かん のポール・ティベッツ 大佐 たいさ が立案 りつあん した原爆 げんばく 投下 とうか 命令 めいれい 書 しょ 草案 そうあん をもとに、8月 がつ 2日 にち にティベッツらはルメイ司令 しれい 部 ぶ で細目 さいもく の決定 けってい を行 おこな った。ルメイは「京都 きょうと は大 たい した軍事 ぐんじ 的 てき 目標 もくひょう ではない。神社 じんじゃ みたいなものがいっぱいあるだけだ。それに普通 ふつう の市民 しみん を爆撃 ばくげき してみたって何 なん の役 やく にも立 た ちはしない。(中略 ちゅうりゃく )引 ひ き合 あ わんよ」と京都 きょうと 市 し への投下 とうか には反対 はんたい した。一方 いっぽう で多 おお くの軍隊 ぐんたい と軍需 ぐんじゅ 工場 こうじょう がある広島 ひろしま 市 し には賛成 さんせい した[23] 。その後 ご ルメイはティベッツが作成 さくせい した草案 そうあん をほぼそのまま命令 めいれい 書 しょ 第 だい 13号 ごう としてティベッツに渡 わた した[24] 。
1945年 ねん 8月 がつ 15日 にち に終戦 しゅうせん となり、9月 がつ 20日 はつか に記者 きしゃ 会見 かいけん でルメイは「戦争 せんそう はソ連 それん の参戦 さんせん が無 な くても、原爆 げんばく が無 な くても2週間 しゅうかん 以内 いない に終 お わっていたでしょう。原爆 げんばく 投下 とうか は戦争 せんそう 終結 しゅうけつ とは何 なん ら関係 かんけい ありません。」と答 こた えている。しかし晩年 ばんねん の1988年 ねん には著書 ちょしょ で「原爆 げんばく を使用 しよう せずに戦争 せんそう を終 お わらせることができたとしても、私 わたし は原爆 げんばく 投下 とうか は賢明 けんめい な決定 けってい だったと思 おも います。何故 なぜ なら原爆 げんばく 投下 とうか が降伏 ごうぶく 交渉 こうしょう を早 はや めたのです。」と語 かた り、原爆 げんばく 投下 とうか は上陸 じょうりく 作戦 さくせん 前 まえ に日本 にっぽん を降伏 ごうぶく させ、百 ひゃく 万 まん のアメリカ兵 へい の命 いのち を救 すく った(=ダウンフォール作戦 さくせん を決行 けっこう せずに済 す んだ)というアメリカ政府 せいふ の公式 こうしき 説明 せつめい を支持 しじ している[25] 。終戦 しゅうせん 後 ご 、ルメイは北海道 ほっかいどう からシカゴ までノンストップ記録 きろく でB-29を操縦 そうじゅう して帰国 きこく した[3] 。戦争 せんそう が終 お わったため1946年 ねん 6月 がつ 22日 にち に准 なぞらえ 将 しょう に降格 こうかく している。
戦後 せんご は航空 こうくう 資材 しざい 軍団 ぐんだん 司令 しれい 本部 ほんぶ に着任 ちゃくにん し、国防総省 こくぼうそうしょう で初代 しょだい の研究 けんきゅう 開発 かいはつ 航空 こうくう 副 ふく 参謀 さんぼう 長 ちょう を務 つと める[3] 。爆 ばく 撃 げき 機 き 開発 かいはつ の責任 せきにん 者 しゃ としてヴァルキリー計画 けいかく を指揮 しき し、当時 とうじ の主力 しゅりょく 機 き であるボーイングB-52 爆 ばく 撃 げき 機 き や、世界 せかい 初 はつ の超 ちょう 音速 おんそく 爆撃 ばくげき 機 き であるコンベア B-58 爆 ばく 撃 げき 機 き の後継 こうけい 機 き となる超 ちょう 音速 おんそく 爆撃 ばくげき 機 き の開発 かいはつ を指揮 しき する。
1947年 ねん 9月 がつ 18日 にち 、陸軍 りくぐん 航空 こうくう 軍 ぐん は正式 せいしき に独立 どくりつ し、アメリカ空軍 くうぐん が設立 せつりつ された。10月にドイツのヴィースバーデン にあるアメリカ軍 ぐん 航空 こうくう ヨーロッパ本部 ほんぶ (現在 げんざい の在 ざい ヨーロッパアメリカ空軍 くうぐん )の指揮 しき 官 かん を拝命 はいめい する。ベルリン封鎖 ふうさ に対抗 たいこう する空中 くうちゅう 架橋 かきょう 作戦 さくせん に従事 じゅうじ し、1948年 ねん 1月 がつ 26日 にち に中将 ちゅうじょう に昇進 しょうしん する。この後 のち 、帰国 きこく して2月 がつ 19日 にち に空軍 くうぐん に籍 せき を変 か えて少将 しょうしょう に任 にん じられると、新設 しんせつ される戦略 せんりゃく 空軍 くうぐん を想定 そうてい し、ネブラスカ州 しゅう オファット空軍 くうぐん 基地 きち 本部 ほんぶ を設立 せつりつ する[3] 。
1948年 ねん 10月 がつ から1957年 ねん 6月 がつ まで戦略 せんりゃく 航空 こうくう 軍団 ぐんだん 司令 しれい を務 つと めた。1950年 ねん 6月 がつ の朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう においてアメリカ空軍 くうぐん は大 おお きな役割 やくわり を果 は たした。ルメイは「我々 われわれ は朝鮮 ちょうせん の北 きた でも南 みなみ でも全 すべ ての都市 とし を炎上 えんじょう させた。我々 われわれ は100万 まん 以上 いじょう の民間 みんかん 人 じん を殺 ころ し数 すう 百 ひゃく 万 まん 人 にん 以上 いじょう を家 いえ から追 お い払 はら った」と語 かた った[26] 。1951年 ねん 10月 がつ 29日 にち に大将 たいしょう に昇進 しょうしん した。
1957年 ねん 7月 がつ に空軍 くうぐん 副 ふく 参謀 さんぼう 長 ちょう となり、同年 どうねん 11月 がつ 11日 にち にKC-135 による無 む 給油 きゅうゆ 連続 れんぞく 飛行 ひこう 世界 せかい 記録 きろく 樹立 じゅりつ を指揮 しき し、年度 ねんど 優秀 ゆうしゅう パイロットに贈 おく られるハーモン・トロフィー を受賞 じゅしょう している。1961年 ねん 7月 がつ に空軍 くうぐん 参謀 さんぼう 総長 そうちょう となり、1965年 ねん 2月 がつ に空軍 くうぐん を退役 たいえき するまで務 つと めた。
1962年 ねん 10月 がつ のキューバ危機 きき の勃発 ぼっぱつ 時 じ にルメイら空軍 くうぐん 首脳 しゅのう 部 ぶ は圧倒的 あっとうてき な兵力 へいりょく でソ連 それん を屈服 くっぷく させることが可能 かのう であると確信 かくしん し、キューバ 空爆 くうばく をケネディ 大統領 だいとうりょう に提案 ていあん したが却下 きゃっか された。ソ連 それん はキューバ危機 きき の時点 じてん で既 すで にキューバに核 かく ミサイル数 すう 十 じゅう 基 き を配備 はいび 済 ず みであり、この提案 ていあん は第 だい 三 さん 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん を招 まね きかねないものであった。
勲章 くんしょう の授与 じゅよ [ 編集 へんしゅう ]
1964年 ねん に全米 ぜんべい 航空 こうくう 協会 きょうかい よりコリアー・トロフィー を受賞 じゅしょう 。同年 どうねん 12月 がつ 7日 にち には日本 にっぽん に返還 へんかん されたばかりの入間 いるま 基地 きち (旧 きゅう ジョンソン基地 きち )で、勲一等 くんいっとう 旭日大綬章 あさひだいじゅしょう を浦 うら 茂 しげる 航空 こうくう 幕僚 ばくりょう 長 ちょう から授与 じゅよ された[注 ちゅう 5] 。理由 りゆう は日本 にっぽん の航空 こうくう 自衛隊 じえいたい 育成 いくせい に協力 きょうりょく があったためである[27] 。12月4日 にち の第 だい 1次 じ 佐藤 さとう 内閣 ないかく の閣議 かくぎ で決定 けってい された[28] 。叙勲 じょくん は浦 うら がルメイを航空 こうくう 自衛隊 じえいたい 創立 そうりつ 10周年 しゅうねん 式典 しきてん に招待 しょうたい したことを発端 ほったん とした防衛庁 ぼうえいちょう の調査 ちょうさ ・審査 しんさ に基 もと づく国際 こくさい 慣例 かんれい による佐藤 さとう 内閣 ないかく の決定 けってい であることが明 あ かされている[29] 。推薦 すいせん は小泉 こいずみ 純 じゅん 也防衛庁 ぼうえいちょう 長官 ちょうかん と椎名 しいな 悦三郎 えつさぶろう 外務 がいむ 大臣 だいじん の連名 れんめい で行 おこな われ[30] 、防衛庁 ぼうえいちょう から佐藤 さとう 栄作 えいさく 首相 しゅしょう ・賞 しょう 勲 くん 局 きょく へ叙勲 じょくん が適当 てきとう であるという説明 せつめい があった[31] 。勲一等 くんいっとう 旭日 きょくじつ 章 あきら という種類 しゅるい の選定 せんてい は大将 たいしょう という階級 かいきゅう から慣例 かんれい に基 もと づいたものである[32] 。
後年 こうねん に『NHK特集 とくしゅう 東京 とうきょう 大 だい 空襲 くうしゅう 』(1978年 ねん 3月 がつ 9日 にち 初回 しょかい 放送 ほうそう )でのNHK の取材 しゅざい で戦争 せんそう 責任 せきにん についての問 と いにルメイはその勲章 くんしょう を見 み せた。
昭和 しょうわ 天皇 てんのう の親授 しんじゅ 拒否 きょひ [ 編集 へんしゅう ]
勲一等 くんいっとう の授与 じゅよ は天皇 てんのう が直接 ちょくせつ 手渡 てわた す「親授 しんじゅ 」が通例 つうれい であるが、昭和 しょうわ 天皇 てんのう はこれを行 おこな わなかった[33] 。そのため、ルメイは国璽 こくじ が捺印 なついん された勲記 くんき を受 う け取 と っていない。 [要 よう 出典 しゅってん ]
ルメイが東京 とうきょう 大 だい 空襲 くうしゅう や原爆 げんばく 投下 とうか を行 おこな った部隊 ぶたい の指揮 しき 官 かん だったことから授与 じゅよ に対 たい して批判 ひはん も大 おお きく、現在 げんざい でも「勲章 くんしょう は返還 へんかん するべきである」と唱 とな える者 もの もいる。当時 とうじ は日本 にっぽん 社会党 しゃかいとう ・原水爆 げんすいばく 禁止 きんし 団体 だんたい ・被爆 ひばく 者 しゃ などから国民 こくみん 感情 かんじょう として納得 なっとく できないという声 こえ が上 あ がった[27] 。
国会 こっかい でも叙勲 じょくん に対 たい して疑問 ぎもん 視 し する声 こえ があった[34] 。東京 とうきょう 大 だい 空襲 くうしゅう や原爆 げんばく から叙勲 じょくん は不適切 ふてきせつ ではないかという質問 しつもん に佐藤 さとう は「今 いま はアメリカと友好 ゆうこう 関係 かんけい にあり、功績 こうせき があるならば過去 かこ は過去 かこ として功 こう に報 むく いるのが当然 とうぜん 、大国 たいこく の民 みん とはいつまでもとらわれず今後 こんご の関係 かんけい 、功績 こうせき を考 かんが えて処置 しょち していくべきもの。」と答 こた え、小泉 こいずみ は「功績 こうせき と戦時 せんじ の事情 じじょう は別個 べっこ に考 かんが えるもの。防衛庁 ぼうえいちょう の調査 ちょうさ でも当時 とうじ ルメイは原爆 げんばく 投下 とうか の直接 ちょくせつ 部隊 ぶたい の責任 せきにん 者 しゃ ではなく、原爆 げんばく 投下 とうか はトルーマン 大統領 だいとうりょう が直接 ちょくせつ 指揮 しき したものである。」と説明 せつめい しており、佐藤 さとう もそれらを理由 りゆう に決定 けってい を変 か える意思 いし は無 な いと表明 ひょうめい した[35] 。
ルメイは12月7日 にち に防衛庁 ぼうえいちょう で小泉 こいずみ を訪問 ほうもん 予定 よてい であったが[28] 、当日 とうじつ は三輪 みわ 良雄 よしお 事務次官 じむじかん が代理 だいり で面会 めんかい している[27] [注 ちゅう 6] 。
1960年 ねん から本格 ほんかく 化 か したベトナム戦争 せんそう では空軍 くうぐん 参謀 さんぼう 総長 そうちょう の任 にん にあり、「(北 きた )ベトナムを石器 せっき 時代 じだい に戻 もど してやる」と豪語 ごうご して北 きた 爆 ばく を推進 すいしん した。リンドン・B・ジョンソン 政権 せいけん 下 か で1965年 ねん 2月 がつ 7日 にち から北 きた 爆 ばく が開始 かいし された。
1965年 ねん 2月 がつ に退役 たいえき し、1968年 ねん にベトナム戦争 せんそう の推進 すいしん と人種 じんしゅ 差別 さべつ 的 てき 政策 せいさく を掲 かか げた大統領 だいとうりょう 候補 こうほ で、アラバマ州 しゅう のジョージ・ウォレス 前 ぜん 州 しゅう 知事 ちじ と共 とも に独立 どくりつ 党 とう の副 ふく 大統領 だいとうりょう 候補 こうほ として出馬 しゅつば するが落選 らくせん した。
1970年 ねん 12月14日 にち にテニアン島 とう の福祉 ふくし ・生活 せいかつ 向上 こうじょう への優 すぐ れた功績 こうせき でテニアン島民 とうみん から表彰状 ひょうしょうじょう を受賞 じゅしょう した[39] 。イギリスのチャーチル 首相 しゅしょう からもらった空軍 くうぐん 十 じゅう 字 じ 章 あきら (イギリス)(英語 えいご 版 ばん ) が自慢 じまん だった[40] 。
1990年 ねん 10月 がつ 1日 にち にカリフォルニア州 しゅう マーチ空軍 くうぐん 基地 きち にて、83歳 さい で死去 しきょ した。
1934年 ねん 6月 がつ にヘレン・メイトランドと結婚 けっこん し、1人 ひとり の子女 しじょ が誕生 たんじょう した。
^ 戦後 せんご 、前任 ぜんにん 者 しゃ のヘイウッド・ハンセル 准 じゅん 将 しょう はルメイとの交代 こうたい は精密 せいみつ 爆 ばく 撃 げき から無 む 差別 さべつ 爆 ばく 撃 げき への政策 せいさく 転換 てんかん の結果 けっか と話 はな したが、実際 じっさい はハンセルのころから無 む 差別 さべつ 爆 ばく 撃 げき の準備 じゅんび を進 すす めており、実験 じっけん 的 てき に実行 じっこう もしており、無 む 差別 さべつ 爆 ばく 撃 げき の方針 ほうしん についてルメイは基本 きほん 的 てき にハンセルの戦術 せんじゅつ を踏襲 とうしゅう している[11] 。一方 いっぽう 、1945年 ねん 1月 がつ 3日 にち アーノルドの参謀 さんぼう 総長 そうちょう で民家 みんか 焼 しょう 夷 えびす 攻撃 こうげき 論 ろん 者 しゃ のローリス・ノースタッド (英語 えいご 版 ばん ) 少将 しょうしょう の名古屋 なごや 空襲 くうしゅう で焼夷弾 しょういだん による無 む 差別 さべつ 攻撃 こうげき を命 めい じたにも拘 かかわ らず、ハンセルは従来 じゅうらい の工場 こうじょう 攻撃 こうげき に重点 じゅうてん を置 お き、焼夷弾 しょういだん 爆 ばく 撃 げき は一部 いちぶ の機体 きたい に試行 しこう 的 てき に実施 じっし させたに過 す ぎなかったことが、ルメイへの交替 こうたい を決心 けっしん させる契機 けいき となったという意見 いけん もある。ルメイも当初 とうしょ は工場 こうじょう 爆 ばく 撃 げき を主 おも とする考 かんが え方 かた に与 くみ する立場 たちば であったが、ノースタッドの命令 めいれい を忠実 ちゅうじつ に実行 じっこう する意思 いし は持 も っていた[12] 。
^ 富山 とやま 市 し 空襲 くうしゅう については中山 なかやま 伊佐男 いさお 著 ちょ 『ルメイ・最後 さいご の空襲 くうしゅう 』桂 かつら 書房 しょぼう に詳 くわ しい。青木 あおき 慶一 けいいち も同市 どうし が民家 みんか 焼失 しょうしつ 率 りつ で全国一 ぜんこくいち (99パーセント)となったことを指摘 してき している。
^ 服部 はっとり 卓 たく 四郎 しろう は著書 ちょしょ 『大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 全 ぜん 史 し 』第 だい 10章 しょう で「アメリカ空軍 くうぐん が鉄道 てつどう に対 たい する本格 ほんかく 的 てき 攻撃 こうげき を延引 えんいん したことは、日本 にっぽん のために真 しん に僥倖 ぎょうこう であった。巨大 きょだい な本土 ほんど 決戦 けっせん 兵力 へいりょく と、軍需 ぐんじゅ 品 ひん の展開 てんかい が出来 でき たのも、戦時 せんじ 産業 さんぎょう 活動 かつどう で国民 こくみん 生活 せいかつ を辛 かろ うじて支 ささ え得 え たのも、実 じつ にそのためであった。戦後 せんご になってからアメリカ爆 ばく 撃 げき 調査 ちょうさ 団 だん は、空軍 くうぐん のこの戦略 せんりゃく 的 てき 過失 かしつ を鋭 するど く指摘 してき している」と述 の べている。
^ この点 てん は南北戦争 なんぼくせんそう 時 どき の海 うみ への進軍 しんぐん とその後 ご の北上 ほくじょう 進撃 しんげき でアメリカ連合 れんごう 国 こく の盟主 めいしゅ だったジョージア州 しゅう やサウスカロライナ州 しゅう を壊滅 かいめつ させ、南部 なんぶ 人 じん を震 ふる え上 あ がらせた、同 おな じオハイオ州 しゅう 出身 しゅっしん で北 きた 軍 ぐん のウィリアム・シャーマン の戦争 せんそう の考 かんが え方 かた を踏襲 とうしゅう している[18] [要 よう 文献 ぶんけん 特定 とくてい 詳細 しょうさい 情報 じょうほう ] 。ただし、陸上 りくじょう の物流 ぶつりゅう の主役 しゅやく であった国鉄 こくてつ を始 はじ めとする鉄道 てつどう 網 もう に対 たい してはルメイの他 た 陸軍 りくぐん 航空 こうくう 隊 たい が明確 めいかく に主 しゅ 目標 もくひょう に据 す えたことはほとんどなく、組織 そしき 的 てき な鉄道 てつどう 網 もう 攻撃 こうげき として実施 じっし したのは1945年 ねん 8月 がつ 15日 にち の岩国 いわくに 機関 きかん 区 く に対 たい する爆 ばく 撃 げき が唯一 ゆいいつ であった[注 ちゅう 3] 。また、第 だい 21爆 ばく 撃 げき 集団 しゅうだん は当時 とうじ 日本 にっぽん 国内 こくない で数 すう 地区 ちく に集中 しゅうちゅう していた炭田 たんでん への集中 しゅうちゅう 爆 ばく 撃 げき も実施 じっし しなかった[12] 。
^ 浦 うら は返礼 へんれい として翌年 よくねん アメリカ空軍 くうぐん からレジオン・オブ・メリット 勲章 くんしょう を授与 じゅよ されている。
^ この叙勲 じょくん は様々 さまざま な俗説 ぞくせつ を生 う み、アメリカの無 む 差別 さべつ 殺戮 さつりく に謝罪 しゃざい も賠償 ばいしょう も要求 ようきゅう しないことを形 かたち にしろとジョンソン大統領 だいとうりょう が要求 ようきゅう したとする説 せつ [36] [要 よう 文献 ぶんけん 特定 とくてい 詳細 しょうさい 情報 じょうほう ] 。橋本 はしもと 登美 とみ 三郎 さぶろう 官房 かんぼう 長官 ちょうかん が小泉 こいずみ 防衛 ぼうえい 長官 ちょうかん と叙勲 じょくん 決定 けってい を主導 しゅどう したとする説 せつ [37] 。池田 いけだ 勇人 はやと 前 ぜん 首相 しゅしょう が叙勲 じょくん 決定 けってい を行 おこな ったとする説 せつ 。元 もと 航空 こうくう 幕僚 ばくりょう 長 ちょう の源田 げんた 実 み 参議院 さんぎいん 議員 ぎいん が推薦 すいせん などを行 おこな ったとする説 せつ 。しかし推薦 すいせん ・選考 せんこう ・決定 けってい ・全 すべ ては行政 ぎょうせい (内閣 ないかく )で行 おこな われ、池田 いけだ や源田 げんた は参加 さんか していない[30] [38] 。
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^ ドキュメント原爆 げんばく 投下 とうか 1980 , p. 119
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^ 荒井 あらい 2008 , pp. 136–137
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^ 「昭和 しょうわ 39年 ねん 12月15日 にち 47回 かい 衆議院 しゅうぎいん 外務 がいむ 委員 いいん 会 かい 1号 ごう 総理府 そうりふ 事務 じむ 官 かん 賞 しょう 勲 くん 局長 きょくちょう 岩倉 いわくら 規夫 のりお 政府 せいふ 委員 いいん の答弁 とうべん 」、昭和 しょうわ 39年 ねん 12月07日 にち 47回 かい 衆議院 しゅうぎいん 予算 よさん 委員 いいん 会 かい 8号 ごう
^ 昭和 しょうわ 39年 ねん 12月15日 にち 47回 かい 衆議院 しゅうぎいん 外務 がいむ 委員 いいん 会 かい 1号 ごう 総理府 そうりふ 事務 じむ 官 かん 賞 しょう 勲 くん 局長 きょくちょう 岩倉 いわくら 規夫 のりお 政府 せいふ 委員 いいん の答弁 とうべん
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^ 昭和 しょうわ 39年 ねん 12月07日 にち 47回 かい 衆議院 しゅうぎいん 予算 よさん 委員 いいん 会 かい 8号 ごう
^ 高山 たかやま 正之 まさゆき 『変 へん 見 み 自在 じざい マッカーサーは慰安 いあん 婦 ふ がお好 す き』
^ 『軍縮 ぐんしゅく 問題 もんだい 資料 しりょう 』308号 ごう 2006年 ねん 7月 がつ 43頁 ぺーじ
^ 国立 こくりつ 公文書 こうぶんしょ 館 かん 「(外国 がいこく 人 じん 叙勲 じょくん )アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 空軍 くうぐん 大将 たいしょう カーチス・イー・ルメイへ勲一等 くんいっとう に叙 じょ し旭日大綬章 あさひだいじゅしょう を贈与 ぞうよ するについて」請求 せいきゅう 番号 ばんごう 分館 ぶんかん -01-039-00・平 ひら 3総 そう 00673100件 けん 名 めい 番号 ばんごう 007、作成 さくせい 部局 ぶきょく 賞 しょう 勲 くん 局 きょく 年月日 ねんがっぴ 昭和 しょうわ 39年 ねん 12月04日 にち
^ ドキュメント原爆 げんばく 投下 とうか 1980 , p. 465
^ ドキュメント原爆 げんばく 投下 とうか 1980 , p. 466
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