(Translated by https://www.hiragana.jp/)
日本プロレス - Wikipedia コンテンツにスキップ

日本にっぽんプロレス

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去かこはんです。STBot~jawiki (会話かいわ | 投稿とうこう記録きろく) による 2007ねん8がつ24にち (金)きん 01:06個人こじん設定せってい設定せっていならUTC時点じてんはん (robot Adding: zh:日本にっぽん職業しょくぎょう摔角協會きょうかい)であり、現在げんざいはんとはおおきくことなる場合ばあいがあります。

日本にっぽんプロレス協会きょうかい(にほんプロレスきょうかい Japan Pro Wrestling Aliance 略称りゃくしょうJWA)は、日本にっぽんプロレス団体だんたい

大相撲おおずもう関脇せきわけからプロレスラー転向てんこうした力道山りきどうざん1953ねんに、興行こうぎょう興行こうぎょうかいのドンとばれた永田ながた貞雄さだおと、関東かんとう屈指くっし顔役かおやくである新田にった新作しんさく生井いくい一家かずや貸元かしもと関東かんとう国粋こくすいかいふく幹事かんじちょう子分こぶん、「新田にったぐみ組長くみちょう新田にった建設けんせつ経営けいえい明治めいじ社長しゃちょう経済けいざい事件じけん調停ちょうていにも活躍かつやく)の物心ぶっしん双方そうほう援助えんじょ後見こうけんによって設立せつりつした。 このさいスポンサーとして経済けいざいかいからは萩原はぎはら吉太郎よしたろう児玉こだましたしい企業きぎょうじんグループが後援こうえんをしている。

力道山りきどうざん1963ねんくなったのち協会きょうかい役員やくいん構成こうせいは、会長かいちょう児玉こだまほまれおっとふく会長かいちょう田岡たおか一雄かずおさん代目だいめ山口組やまぐちぐみ組長くみちょう)、町井まちい久之ひさゆき東声とうせいかい会長かいちょう)となっている。このため浜松はままつより西にし興行こうぎょう田岡たおか関東かんとう町井まちい東北とうほく以北いほく児玉こだま盟友めいゆうである岡村おかむらわれいち影響えいきょうにあったとされる。

一時期いちじき日本にっぽん唯一ゆいいつともえるプロレス団体だんたいであり、プロレスかいあたえた影響えいきょうはかれない。 力道山りきどうざん以後いごのプロレスかいにおいて双璧そうへきをなすことになるジャイアント馬場ばばのち全日本ぜんにほんプロレス創立そうりつ)とアントニオ猪木いのきのちしん日本にっぽんプロレス創立そうりつ)も、1960ねん9月30にち同時どうじデビューしている。

略歴りゃくれき

力道山りきどうざん時代じだい

相撲すもう廃業はいぎょう力道山りきどうざんはアメリカへわたり、帰国きこくプロレス興行こうぎょうはじめる。木村きむら政彦まさひこシャープ兄弟きょうだい対戦たいせんした試合しあいはテレビをつうじて全国ぜんこく中継ちゅうけいされ話題わだいぶ。当時とうじ日本にっぽんには木村きむら政彦まさひこの「国際こくさいプロレスだん」や山口やまぐち利夫としおの「全日本ぜんにほんプロレス協会きょうかい」などが存在そんざいしたが、この2めい直接ちょくせつ対決たいけつくだした力道山りきどうざん著名ちょめいとなると、競合きょうごう団体だんたい相次あいついで消滅しょうめつ日本にっぽんプロレスがほぼ唯一ゆいいつっていいプロレス団体だんたいとなった。また、1961ねんには常設じょうせつ会場かいじょうであるリキ・スポーツパレス完成かんせいしている。

BIの時代じだい

力道山りきどうざんゆたかとう遠藤えんどう幸吉こうきち吉村よしむら道明みちあきらによる合議ごうぎせいとなり、ゆたかとう社長しゃちょうとなるも、やがて放漫ほうまん経営けいえいにより追放ついほう処分しょぶんとなる。ゆたかとう猪木いのきいて東京とうきょうプロレス設立せつりつするも、経営けいえいかず短期間たんきかん挫折ざせつ。また、このとき国際こくさいプロレス発足ほっそくしている。

かねてから力道山りきどうざん後継こうけいしゃされた馬場ばばがエースかくとなり、復活ふっかつしたインターナショナル王座おうざ連続れんぞく防衛ぼうえいする。また、東京とうきょうプロレスから復帰ふっきした猪木いのきとタッグをんだ。同期どうきデビュー同士どうしのタッグは「BIほう」とばれ、人気にんきはくした。力道山りきどうざん死去しきょ一時いちじ低迷ていめいした人気にんきは、また復活ふっかつした。

日本にっぽんプロレスはながらく日本にほんテレビ中継ちゅうけいしていたが、やがてNET(げん テレビ朝日てれびあさひ)が参入さんにゅう希望きぼうした。経営けいえいじん収入しゅうにゅうめんから歓迎かんげいしたが、先行せんこう日本にほんテレビに配慮はいりょして、「馬場ばばおよ坂口さかぐちせい試合しあい中継ちゅうけいしない」こととう条件じょうけんにして参入さんにゅうみとめ、2きょく放送ほうそう体制たいせいとなる。馬場ばば試合しあい中継ちゅうけいできないNETは猪木いのき主体しゅたい中継ちゅうけいみ、このことが馬場ばば猪木いのきそれぞれに派閥はばつつくり、2人ふたりあいだくきっかけともなった。

崩壊ほうかい

2きょく放送ほうそう体制たいせいとなって、経営けいえいつづ好調こうちょう維持いじしていたが、一部いちぶ幹部かんぶ横領おうりょうなどのうたがいがもたれはじめる。1971ねんに、これをうれえた馬場ばば猪木いのき選手せんしゅは、幹部かんぶ経営けいえい改善かいぜん要求ようきゅうきつける。しかしその結果けっか会社かいしゃりをはかったとして猪木いのき除名じょめいされた(くわしい経緯けいい上田うえだすけこう参照さんしょうのこと)。猪木いのきのちしん日本にっぽんプロレス創立そうりつする。

これにこまったのがNETである。その放送ほうそう中心ちゅうしんであった猪木いのき除名じょめいされたため、目玉めだまくなったNETは必然ひつぜんてき馬場ばば試合しあい中継ちゅうけい要求ようきゅうする。日本にっぽんプロレス幹部かんぶは、NET中継ちゅうけいをつなぎめるためにこれにおうじたが、これに日本にほんテレビがわ激怒げきど放送ほうそうった(当時とうじのプロレス中継ちゅうけい視聴しちょうりつたかかったため幹部かんぶたち馬場ばば試合しあいをNETで放送ほうそうしても、日本にほんテレビ自体じたいでの視聴しちょうりつたかかったので放送ほうそうことはないだろうと目論もくろんでいたらしい)。日本にほんテレビと関係かんけいふかかった馬場ばばは、日本にほんテレビとはなしち、これをうしたてにして独立どくりつ全日本ぜんにほんプロレス創立そうりつする。
こう番組ばんぐみで、長寿ちょうじゅめい刑事けいじドラマとなった「太陽たいようにほえろ!」は、もともとプロレス中継ちゅうけい終了しゅうりょう穴埋あなうめとして急遽きゅうきょ企画きかくされたものであり、当初とうしょ放送ほうそう予定よていは「13かい以上いじょう」だった)

興行こうぎょうまい看板かんばんうしなった日本にっぽんプロレスは一気いっき弱体じゃくたいすることになり、のこったスター選手せんしゅである坂口さかぐち1973ねん3がつしん日本にっぽんプロレスへ移籍いせきし、あわせてNETがしん日本にっぽんプロレスの中継ちゅうけい移行いこう看板かんばん選手せんしゅとテレビ中継ちゅうけいうしない、大木おおき金太郎きんたろう高千穂たかちほ明久あきひさげんザ・グレート・カブキ)をエースに起用きようするも、テレビ中継ちゅうけいによる放映ほうえいけんりょう喪失そうしつや、観客かんきゃく動員どういん激減げきげんしたことによる入場にゅうじょうりょう減収げんしゅうにより会社かいしゃ経営けいえいかなくなり、1973ねん4がつ20日はつか群馬ぐんまけん吉井よしいまち大会たいかい(「アイアン・クロー・シリーズ」最終さいしゅうせん)をもって興行こうぎょう休止きゅうし

最後さいごまでのこった選手せんしゅおもに、身柄みがらあづけたかたち力道山りきどうざん百田ももた)をクッションにして、全日本ぜんにほんプロレスに移籍いせき合流ごうりゅう)。また、興行こうぎょう休止きゅうし一旦いったん途絶とだえたかたちとなった管理かんりタイトル(ユナイテッド・ナショナル選手権せんしゅけん(UNヘビーきゅう選手権せんしゅけんアジアヘビーきゅう選手権せんしゅけんアジアタッグ選手権せんしゅけん)も、しばらくの空白くうはく期間きかんて、「復活ふっかつ」というかたち全日本ぜんにほんプロレスへ継承けいしょうされた。

海外かいがい流出りゅうしゅつしていたインターナショナル・タッグ選手権せんしゅけんは、2ねん1975ねん馬場ばばジャンボ鶴田つるたくみ奪還だっかんして日本にっぽん定着ていちゃく。また、大木たいぼく保持ほじして母国ぼこく韓国かんこく国際こくさいプロレスのリングじょうでも独自どくじ防衛ぼうえい活動かつどうおこなってきたインターナショナル選手権せんしゅけん(インターナショナル・ヘビーきゅう選手権せんしゅけんは、1981ねん全日本ぜんにほんのタイトルとして「復活ふっかつ」した。

おも所属しょぞく選手せんしゅ

日本にほんテレビによるテレビ中継ちゅうけいがい

  • 1954ねん2がつ19にち、このより3日間にちかんにわたって蔵前くらまえ国技こくぎかんおこなわれた、日本にっぽんプロレス協会きょうかい旗揚はたあせんを 「力道山りきどうざん木村きむら政彦まさひこたいシャープ兄弟きょうだいプロレス実況じっきょう」として放送ほうそう
これが日本にほんテレビのはつ中継ちゅうけいとなった。以後いご不定期ふていきにプロレス中継ちゅうけい放送ほうそうする。
当初とうしょ定期ていきてき中継ちゅうけいわくはつくらず、主要しゅよう試合しあいのみを、特別とくべつわくもうけてなま中継ちゅうけいおこなうスタイルだった。提供ていきょうスポンサーもその都度つどわっていた。
上記じょうき先駆さきがけて、1954ねん2がつ16にちの19:45~20:15には、「プロ・レスリングのどころ」という番組ばんぐみ放送ほうそうした。当時とうじのテレビらんには「解説かいせつ伊集院いじゅういんひろし実演じつえん木村きむら政彦まさひこ力道山りきどうざん」〔原文げんぶんまま〕とあり、「プロレス映画えいが上映じょうえいし、力道山りきどうざん木村きむら選手せんしゅらによる解説かいせつおこなった」としゃにはある。)
  • 1957ねん6がつ15にち日本にほんテレビのみで「プロレス・ファイトメン・アワー」のタイトルで、しゅう1かい定期ていき番組ばんぐみ開始かいし
土曜日どようび17だいからの1あいだわくで、若手わかて選手せんしゅ育成いくせいと、スポーツとしてのプロレスの人気にんき高揚こうようをはかること目的もくてきとした。したがっておも放映ほうえいされたのは、東京とうきょう日本橋にほんばし浪花なにわまち日本にっぽんプロレス・センターでおこなわれる、若手わかて選手せんしゅ試合しあいや、力道山りきどうざんの「練習れんしゅう試合しあい」などであった。
この「ファイトメン・アワー」は当初とうしょ諸般しょはん事情じじょう提供ていきょうなしではじまったが、同年どうねん7がつだい3しゅうから三菱電機みつびしでんきがスポンサーにいた。
ただし、タイトルせんなどの主要しゅよう試合しあい相変あいかわらず、特別とくべつわくもうけての放映ほうえいというかたちをとった。おりから各地かくち民放みんぽうテレビが開局かいきょくはじめ、この特別とくべつわく中継ちゅうけい同時どうじネットする地方ちほうきょくはじめた。
(なお、大阪おおさかはつ民放みんぽうテレビ「大阪おおさかテレビ放送ほうそう」でも、1957ねんまつ自社じしゃ製作せいさくによる独自どくじのプロレス番組ばんぐみ「プロレスアワー」が開始かいしされている。つき1かいなま番組ばんぐみだった。)
  • 1958ねん8がつ29にち外国がいこくテレビ映画えいが「ディズニーランド」のだい1かいより、三菱電機みつびしでんき提供ていきょうによる金曜きんよう20だいわく三菱みつびしダイヤモンドアワー」が開始かいしされる。
翌週よくしゅうの9がつ5にち、これとおなわくで、蔵前くらまえ国技こくぎかんおこなわれた、力道山りきどうざん出場しゅつじょうの「国際こくさい試合しあいだい1にち」を中継ちゅうけい
これがだい1かいとなり、以降いこう、「プロレスリング中継ちゅうけい」のタイトル(ただし初期しょきは「テレビ中継ちゅうけい・プロレス国際こくさいだい試合しあい」)で、隔週かくしゅうでテレビ中継ちゅうけいおこなっていく。
ここに本格ほんかくてきに、定期ていき中継ちゅうけい番組ばんぐみ体制たいせいととのう。
当初とうしょ外国がいこくテレビ映画えいが「ディズニーランド」(前述ぜんじゅつ)との1しゅう交代こうたいでの放映ほうえい。またネットをふくめた放映ほうえいきょくは、日本にほんテレビ・読売よみうりテレビ西日本放送にしにっぽんほうそうテレビ西日本てれびにしにほんのわずかに4きょくのみだった。
  • 1961ねん8がつ25にち前述ぜんじゅつの 「ディズニーランド」を放映ほうえいするしゅうにおいて、金曜きんよう22だいわく(45分間ふんかん)を新設しんせつした。
初回しょかいは23:00~23:45、以後いごおもに22:30~23:15)
これで毎週まいしゅう「プロレスリング中継ちゅうけい」が放映ほうえいされるかたちとなった。
このわくは、開場かいじょうしたばかりのリキ・スポーツパレスでの試合しあい中心ちゅうしんにした、録画ろくが中継ちゅうけい主体しゅたい
録画ろくが中継ちゅうけいということからか、このわく新設しんせつに、「プロレスリング中継ちゅうけい」の時差じさネットをはじめた地方ちほうきょくもあった。
  • 1968ねん2がつ16にち、「ディズニーランド」がこの最後さいごに、「三菱みつびしダイヤモンドアワー」わく金曜きんよう20だいわく)から離脱りだつ
これにより、翌週よくしゅう2がつ23にちから、毎週まいしゅう金曜日きんようび20にプロレス中継ちゅうけい定着ていちゃく
(これにともない、どう2がつ16にちをもって、隔週かくしゅう金曜きんよう22だいわく廃止はいし。)
  • 1969ねん途中とちゅう正式せいしき年月日ねんがっぴしょう)、「プロレスリング中継ちゅうけい」から「日本にっぽんプロレス中継ちゅうけい」に番組ばんぐみタイトルを変更へんこう
  • 1972ねん4がつ1にち日本にほんテレビが東京とうきょう地裁ちさいに、ジャイアント馬場ばばのNETテレビ中継ちゅうけい試合しあいへの出場しゅつじょうきんずる仮処分かりしょぶん申請しんせい提出ていしゅつ
そのまえ日本にっぽんプロレスの取締役とりしまりやくかいにて、同年どうねん4がつ1にち以降いこう馬場ばばのNET中継ちゅうけい試合しあい出場しゅつじょうが、賛成さんせい10・反対はんたい1で可決かけつされていた(馬場ばば取締役とりしまりやくだったが、唯一ゆいいつ反対はんたいひょうとうじた=「BIの時代じだい」「崩壊ほうかい」のこう参照さんしょうのこと)。一方いっぽうNETは、4がつ3にち放送ほうそうの「ワールドプロレスリング」で『ジャイアント馬場ばばはつ登場とうじょう』と銘打めいうち、馬場ばば出場しゅつじょうした試合しあい放送ほうそうしてしまった。
その日本にほんテレビと日本にっぽんプロレスとのはないも、馬場ばば日本にほんテレビ独占どくせん契約けいやく解釈かいしゃくをめぐり、「継続けいぞくちゅう」とする日本にほんテレビと、「終了しゅうりょう」とする日本にっぽんプロレスとで、平行へいこうせんをたどった。いよいよ日本にほんテレビは、強硬きょうこう手段しゅだんをとるにいたる。
  • 1972ねん5がつ12にちだい14かいワールドだいリーグせん決勝けっしょうせん馬場ばばたいゴリラ・モンスーンせんほか、東京とうきょう体育館たいいくかん)をなま中継ちゅうけい
この3にち(5がつ15にち)に日本にほんテレビは記者きしゃ会見かいけんで、定期ていき中継ちゅうけいりを正式せいしき発表はっぴょうしたため、これが最後さいごの「日本にっぽんプロレス中継ちゅうけい」となる。
最終さいしゅうてきには全国ぜんこく31きょくネット、また番組ばんぐみスポンサーも、三菱電機みつびしでんきだけでなく、鈴木すずき自動車じどうしゃ久保田くぼた鉄工てっこういていた。
  • 1972ねん5がつ19にち、このより過去かこめい勝負しょうぶかえる「日本にっぽんプロレス選手権せんしゅけん特集とくしゅう」と銘打めいうった番組ばんぐみ開始かいし
  • 1972ねん7がつ14にち、「日本にっぽんプロレス選手権せんしゅけん特集とくしゅう」が、このをもってぜん9かい放送ほうそう終了しゅうりょう(これで一旦いったん日本にほんテレビからプロレス番組ばんぐみ消滅しょうめつ)。
翌週よくしゅう7がつ21にち開始かいし後継こうけい番組ばんぐみ太陽たいようにほえろ!」につないだ。
(なおNETでは7がつ28にちより、「日本にっぽんプロレス中継ちゅうけいあとの「かね8わく」に、「NET日本にっぽんプロレスリング中継ちゅうけい」という日本にっぽんプロレスの中継ちゅうけいわく新設しんせつした。)

なお、金曜きんよう20わく中継ちゅうけいかんしては、70年代ねんだい以降いこうの「ワールドプロレスリング」「全日本ぜんにほんプロレス中継ちゅうけい」などにみられるような、地方ちほうきょくでの時差じさネットがなく、「全国ぜんこく同一どういつ放送ほうそう」だった。ただし、以下いかのような例外れいがいもあった。

日本にほんテレビNETねっとテレビとのクロスネットきょくであった同局どうきょくは、編成へんせい都合つごうのため、1968ねん10がつ~12がつの3ヶ月かげつあいだのみ、日曜にちよう16:00~16:56のわく移動いどうさせた。
ほん放送ほうそうより2にちおくれの放映ほうえいであった。なおこのあいだ金曜きんよう20わくは、NETねっとテレビの「もと浪人ろうにん月影つきかげ兵庫ひょうご」を、6にちおくれで時差じさネットした。
1960年代ねんだい前期ぜんきは、火曜かよう20からの放送ほうそうだった。 後年こうねん金曜きんよう20移動いどう

日本にほんテレビによる中継ちゅうけい番組ばんぐみネットきょく

地方ちほうにおいて民放みんぽうテレビが続々ぞくぞく開局かいきょくした、1950年代ねんだい後半こうはんから1960年代ねんだい前半ぜんはんにかけては、日本にほんテレビラジオ東京とうきょうテレビ(げん 東京放送とうきょうほうそうりょうきょくが、いまでいうネットワークを形成けいせいはじめた時期じきでもあり、かく地方ちほう民放みんぽうテレビの先発せんぱつきょくおおくは、日本にほんテレビとラジオ東京とうきょうテレビとの、どちらと番組ばんぐみネット関係かんけいむのかという選択せんたくせまられた。

そんななかで日本にほんテレビとのネット関係かんけい選択せんたくしたきょくは、そのおおくが、プロ野球やきゅうやプロレスなど、人気にんきたかいスポーツ中継ちゅうけいつよいというてんのひとつになった、としゃしるしている(すでにラジオ東京とうきょうテレビとのネットワークをんでいたきょくでも、「プロレスリング中継ちゅうけい」を同時どうじネットしたところもあった。)。「プロレスリング中継ちゅうけい」は、日本にっぽん民放みんぽうのネットワークの形成けいせいにまで、貢献こうけんしたコンテンツだったともえる。

関連かんれんする放送ほうそう番組ばんぐみ