津波 つなみ の被害 ひがい を受 う けたアチェ
アチェ州 しゅう (アチェしゅう、インドネシア語 ご : Aceh )は、インドネシア の州 しゅう 。スマトラ島 すまとらとう 北端 ほくたん に位置 いち する。州都 しゅうと はバンダ・アチェ 。
アチェ州 しゅう は2001年 ねん までは「アチェ特別 とくべつ 州 しゅう 」、2002年 ねん から2009年 ねん までは「ナングロ・アチェ・ダルサラーム州 しゅう 」(Nanggröe Aceh Darussalam) と呼 よ ばれていた。
サムドラ・パサイ王国 おうこく やアチェ王国 おうこく の時代 じだい からイスラーム 教学 きょうがく の拠点 きょてん としての歴史 れきし があり、インドネシアの中 なか でもイスラーム信仰 しんこう が強 つよ い地域 ちいき である。古来 こらい から外部 がいぶ の支配 しはい 者 しゃ に対 たい する激 はげ しい抵抗 ていこう で知 し られ、オランダ とは長 なが いアチェ戦争 せんそう を戦 たたか い、現在 げんざい のインドネシア政府 せいふ に対 たい しても、自由 じゆう アチェ運動 うんどう が独立 どくりつ を要求 ようきゅう して長 なが い内戦 ないせん 状態 じょうたい にあったが、2004年 ねん 12月26日 にち に発生 はっせい したスマトラ島 すまとらとう 沖 おき 地震 じしん による大 だい 津波 つなみ でアチェが壊滅 かいめつ 的 てき な被害 ひがい を受 う けたことを機 き に休戦 きゅうせん 。2005年 ねん 8月 がつ 15日 にち に政府 せいふ との間 あいだ で和平 わへい 協定 きょうてい が結 むす ばれた。その後 ご 、独立 どくりつ 放棄 ほうき と武装 ぶそう 解除 かいじょ に応 おう じ、インドネシアの「州 しゅう 」であることに同意 どうい 。アチェ語 ご で国家 こっか を意味 いみ する「ナングロ」とアラビア語 ご でイスラーム教 きょう 的 てき な幸福 こうふく に満 み ちたという意味 いみ の「ダルサラーム」を削 けず ることとなり、2009年 ねん 4月 がつ の州 しゅう 知事 ちじ 令 れい で、正式 せいしき 名称 めいしょう が「アチェ州 しゅう 」に改 あらた められた。
北東 ほくとう 部 ぶ をはじめ石油 せきゆ 、天然 てんねん ガス など豊 ゆた かな天然 てんねん 資源 しげん に恵 めぐ まれるが、2004年 ねん 末 すえ のスマトラ島 すまとらとう 沖 おき 地震 じしん に伴 ともな う大 だい 津波 つなみ で州都 しゅうと バンダ・アチェ を含 ふく む西海岸 にしかいがん が甚大 じんだい な被害 ひがい を受 う けた。
スマトラ北端 ほくたん に位置 いち するアチェ州 しゅう は西 にし にインド洋 いんどよう 、北 きた にアンダマン海 かい 、東 ひがし にマラッカ海峡 かいきょう に面 めん し、南 みなみ は北 きた スマトラ州 しゅう (州都 しゅうと メダン )と接 せっ する。
オランダ領 りょう 東 ひがし インド 時代 じだい に民族 みんぞく 独立 どくりつ 運動 うんどう のスローガン となった「サバンからメラウケまで」にあるサバン は、アチェ州 しゅう に属 ぞく するウェ島 とう の中心 ちゅうしん 都市 とし である。
アチェ地方 ちほう は中央 ちゅうおう を走 はし るバリサン山脈 さんみゃく によって東西 とうざい に大 おお きく二分 にぶん され、その東側 ひがしがわ に肥沃 ひよく な低地 ていち 平野 へいや が広 ひろ がり、コメ の一大 いちだい 生産 せいさん 地 ち として人口 じんこう が集中 しゅうちゅう している。西側 にしがわ は狭小 きょうしょう に密林 みつりん が連 つら なると同時 どうじ に海岸 かいがん 線 せん が迫 せま り、居住 きょじゅう 人口 じんこう は少 すく ない。
気候 きこう は、1年 ねん を通 つう じて雨 あめ が降 ふ り、12月から3月 がつ の西風 せいふう と6月 がつ から9月 がつ の南東 なんとう 風 ふう によって雨季 うき と乾季 かんき を区別 くべつ している。
アチェ地方 ちほう には、アチェ人 じん 、ガヨ人 じん (英語 えいご 版 ばん ) 、アラス人 じん を始 はじ めとするマレー系 けい 諸 しょ 民族 みんぞく が住 す む。そのうち人口 じんこう の約 やく 90%を占 し めるアチェ人 じん は、一般 いっぱん にスンナ派 は の中 なか でもシャーフィイー学派 がくは に属 ぞく するムスリム であり、アチェ人 じん の村落 そんらく 集合 しゅうごう 体 たい の単位 たんい であるムキム (mukim) には少 すく なくとも一 ひと つのモスク がある。
アチェ地域 ちいき にはマレー系 けい 民族 みんぞく 以外 いがい にアラブ人 じん の子孫 しそん (ハドラミー )も多 おお い。またアチェ・ジャヤ (英語 えいご 版 ばん ) 地方 ちほう には青 あお い目 め と金髪 きんぱつ の白人 はくじん の子孫 しそん も住 す む。その起源 きげん はポルトガル 系 けい でもないだろう。アチェの習俗 しゅうぞく に従 したが って暮 く らしている。
アチェ地方 ちほう には、大 おお きく分 わ けて4つの言語 げんご (アチェ語 ご 、ガヨ・アラス語 ご 、アヌック・ジャメー語 ご 、タミアン語 ご )の他 ほか にも各地 かくち に方言 ほうげん があり、いずれもオストロネシア語族 ごぞく (ジャワ語 ご もこれに含 ふく まれる)に属 ぞく するとはいうものの、互 たが いに意思 いし を疎通 そつう することは難 むずか しい。
文字 もじ は、イスラーム のアチェ到来 とうらい とともにもたらされたジャウィ文字 もじ (ムラユ式 しき アラビア文字 もじ )を使用 しよう している。しかし、インドネシアの独立 どくりつ 後 ご 、国語 こくご と定 さだ められたインドネシア語 ご での教育 きょういく ・行政 ぎょうせい サービスが定着 ていちゃく するとともに、アチェでもジャウィ文字 もじ よりもラテン文字 もじ を使用 しよう する世代 せだい の割合 わりあい が急速 きゅうそく に高 たか まった。
ヒカヤット (インドネシア語 ご 版 ばん ) と呼 よ ばれるジャウィ文字 もじ のマレー語 ご で書 か かれた17世紀 せいき のアチェ王国 おうこく の歴史 れきし 、外交 がいこう 、国内 こくない の対立 たいりつ 、戦争 せんそう 、イスラーム教 きょう や住民 じゅうみん の生活 せいかつ などに関 かん する、1人 ひとり の人生 じんせい に主眼 しゅがん を置 お く独特 どくとく な説話 せつわ 集 しゅう が存在 そんざい する。2023年 ねん にインドネシア国内 こくない とオランダに散在 さんざい する3つの写本 しゃほん が世界 せかい の記憶 きおく に登録 とうろく された[ 3] 。
インドネシアで唯一 ゆいいつ [ 4] イスラム法 ほう (シャリーア )に基 もと づく州 しゅう 条例 じょうれい を制定 せいてい する自治 じち 権 けん が認 みと められており、飲酒 いんしゅ 、賭博 とばく 、売春 ばいしゅん などイスラム法 ほう に違反 いはん した者 もの はカーディー 裁判 さいばん によって裁 さば かれる。元来 がんらい 保守 ほしゅ 派 は イスラム教徒 きょうと の住民 じゅうみん が大半 たいはん を占 し めていることから、インドネシアの他 ほか の州 しゅう に比 くら べて厳 きび しいイスラム法 ほう が実施 じっし されている。
2009年 ねん にアチェ州 しゅう 議会 ぎかい でズィナー の罪 つみ に石 いし 打 う ち刑 けい を科 か す条例 じょうれい が可決 かけつ された[ 5] 。通常 つうじょう の警察 けいさつ のほか、シャリーア 警察 けいさつ が存在 そんざい し、「不道徳 ふどうとく 行為 こうい 」を行 おこな っている人 ひと はいないかをパトロールしている[ 6] 。
2015年 ねん 以降 いこう シャリーアの対象 たいしょう がムスリム 以外 いがい にも適用 てきよう されるようになり、キリスト教徒 きりすときょうと が酒 さけ を販売 はんばい したとして、鞭打 むちう ち に処 しょ されたこともある[ 7] 。
アチェ州 しゅう の市 し と県 けん
アチェ州 しゅう を構成 こうせい する地方 ちほう 行政 ぎょうせい 区画 くかく は以下 いか の通 とお り。便宜上 べんぎじょう 、5つの地区 ちく に分 わ けて列挙 れっきょ する。
大 だい アチェ県 けん (英語 えいご 版 ばん ) - (ジャンソー (英語 えいご 版 ばん ) )
バンダ・アチェ 市 し
サバン 市 し
シムル県 けん (英語 えいご 版 ばん ) - (シナバン (英語 えいご 版 ばん ) )
アチェ・シンキル県 けん (英語 えいご 版 ばん ) - (シンキル (英語 えいご 版 ばん ) )
ピディ県 けん (英語 えいご 版 ばん ) - (シグリ (英語 えいご 版 ばん ) )
ピディ・ジャヤ県 けん – (メウレウドゥ (英語 えいご 版 ばん ) )
ビルン県 けん (英語 えいご 版 ばん ) - (ビリューエン (英語 えいご 版 ばん ) )
バイトゥラマン グランド モスク 北 きた アチェ県 けん (英語 えいご 版 ばん ) - (ロッスコン (英語 えいご 版 ばん ) )
ロクスマウェ市 し
東 ひがし アチェ県 けん (英語 えいご 版 ばん ) - (イディ・ラユー (英語 えいご 版 ばん ) )
ランサ 市 し
アチェ・タミアン県 けん (英語 えいご 版 ばん ) - (カラン・バル (英語 えいご 版 ばん ) )
アチェ・ジャヤ県 けん (英語 えいご 版 ばん ) - (カラン (英語 えいご 版 ばん ) )
西 にし アチェ県 けん (英語 えいご 版 ばん ) - (ミューラボー (英語 えいご 版 ばん ) )
ナガン・ラヤ県 けん (英語 えいご 版 ばん ) - (スカ・マッムエ (英語 えいご 版 ばん ) )
南西 なんせい アチェ県 けん (英語 えいご 版 ばん ) - (ブランピディ (英語 えいご 版 ばん ) )
南 なん アチェ県 けん (英語 えいご 版 ばん ) - (タパチュアン (英語 えいご 版 ばん ) )
ベネル・ムリア県 けん (英語 えいご 版 ばん ) - (シンパン・ティガ・レデロン (英語 えいご 版 ばん ) )
中 ちゅう アチェ県 けん (英語 えいご 版 ばん ) - (タケンゴン (英語 えいご 版 ばん ) )
ガヨ・ルス県 けん (英語 えいご 版 ばん ) - (ブランケジェレン (英語 えいご 版 ばん ) )
東南 とうなん アチェ県 けん (英語 えいご 版 ばん ) - (コタチャネ (英語 えいご 版 ばん ) )
スブルッサラム市 し (英語 えいご 版 ばん )
アチェ博物館 はくぶつかん に保管 ほかん されているノイスの碑文 ひぶん
インド洋 いんどよう に面 めん するアチェは東南 とうなん アジア で最 もっと も早 はや くイスラームを受容 じゅよう した地域 ちいき である(サムドラ・パサイ王国 おうこく )。15世紀 せいき 末 すえ にマジャパヒト王国 おうこく から独立 どくりつ したアチェ王国 おうこく はスマトラの胡椒 こしょう 貿易 ぼうえき を独占 どくせん し、オスマン帝国 ていこく と結 むす んで、ポルトガル の要塞 ようさい となったマラッカ をしばしば攻撃 こうげき した (en:Ottoman expedition to Aceh )。スルタン ・イスカンダル・ムダ (英語 えいご 版 ばん ) (在位 ざいい :1607年 ねん – 1636年 ねん )の時代 じだい に最盛 さいせい 期 き を迎 むか えたが、その後 ご 4人 にん の女王 じょおう が続 つづ いて衰 おとろ え、アラブ 系 けい 、ブギス 系 けい の王 おう を擁立 ようりつ した。
1824年 ねん にオランダとイギリス の間 あいだ で結 むす ばれた英 えい 蘭 らん 協約 きょうやく では、マラッカ海峡 かいきょう を挟 はさ む地域 ちいき の両者 りょうしゃ の勢力 せいりょく 圏 けん を確定 かくてい することになったが、ここではアチェの独立 どくりつ を尊重 そんちょう することが決 き められていた。
19世紀 せいき 中頃 なかごろ 、オランダが北 きた スマトラの現在 げんざい のメダン 周辺 しゅうへん のディリ地区 ちく にタバコ のプランテーション を開 ひら いたが、北 きた のアチェ王国 おうこく と南 みなみ のシアク王国 おうこく (英語 えいご 版 ばん ) が、この地域 ちいき の諸 しょ 王国 おうこく の宗主 そうしゅ 権 けん を主張 しゅちょう していた。シアク王国 おうこく は、1858年 ねん にオランダの保護 ほご 下 か に入 はい ったが、アチェは独立 どくりつ を保 たも っていたので、両者 りょうしゃ の対立 たいりつ は次第 しだい に深 ふか まっていった。
1873年 ねん オランダ植民 しょくみん 地 ち 政府 せいふ はアチェ王国 おうこく に宣戦 せんせん 布告 ふこく し、1874年 ねん ケラー将軍 しょうぐん 率 ひき いる軍隊 ぐんたい が沿海 えんかい 部 ぶ を制圧 せいあつ したが、内陸 ないりく 部 ぶ ではアチェ軍 ぐん のゲリラ的 てき 抵抗 ていこう が続 つづ き、ケラー将軍 しょうぐん を戦死 せんし させた。オランダの第 だい 二 に 次 じ 遠征 えんせい 軍 ぐん はスルタン の王宮 おうきゅう を占領 せんりょう することに成功 せいこう したが、スルタンは脱出 だっしゅつ して捕虜 ほりょ となるのを免 まぬか れた。その後 ご もアチェ軍 ぐん のゲリラ的 てき 抵抗 ていこう は果 は てしなく続 つづ き、オランダは1880年 ねん アチェ戦争 せんそう 終結 しゅうけつ を宣言 せんげん して、占領 せんりょう 地域 ちいき の防衛 ぼうえい に専念 せんねん した。1883年 ねん イギリス船 せん がアチェ軍 ぐん 支配 しはい 地域 ちいき に漂着 ひょうちゃく したため、戦争 せんそう が再開 さいかい され、1904年 ねん になってようやく完全 かんぜん 平定 へいてい された。この戦争 せんそう によるアチェ側 がわ の被害 ひがい は戦死 せんし 5万 まん から10万 まん 、負傷 ふしょう 100万 まん 以上 いじょう と推定 すいてい されている。オランダ側 がわ も総計 そうけい 1万 まん 以上 いじょう の死者 ししゃ を出 だ した。
1942年 ねん オランダ領 りょう 東 ひがし インド 全域 ぜんいき を占領 せんりょう した日本 にっぽん 軍 ぐん をアチェ側 がわ は当初 とうしょ 解放 かいほう 軍 ぐん として歓迎 かんげい し日本 にっぽん 軍 ぐん も独立 どくりつ 運動 うんどう に着手 ちゃくしゅ した、のちの独立 どくりつ 運動 うんどう 時 じ に元 もと 日本 にっぽん 軍 ぐん がこの地 ち でオランダ軍 ぐん と戦闘 せんとう になり死亡 しぼう している。1949年 ねん インドネシア がオランダから独立 どくりつ すると、スカルノ 大統領 だいとうりょう の政府 せいふ はアチェを北 きた スマトラ州 しゅう に併合 へいごう 、アチェ人 じん はこれを外国 がいこく の占領 せんりょう とみなし抵抗 ていこう した。このため、インドネシア共和 きょうわ 国 こく 政府 せいふ は1959年 ねん アチェを特別 とくべつ 州 しゅう とし、高度 こうど な自治 じち を認 みと めたが、抵抗 ていこう 運動 うんどう はなお続 つづ いた。
アチェ・スマトラ国 こく の国旗 こっき
とりわけアチェ自治 じち 州 しゅう が埋蔵 まいぞう する石油 せきゆ や天然 てんねん ガス はインドネシア共和 きょうわ 国 こく 政府 せいふ と契約 けいやく した外国 がいこく 企業 きぎょう によって採掘 さいくつ が行 おこな われているため、これらの資源 しげん 収入 しゅうにゅう がインドネシア政府 せいふ に吸 す い上 あ げられ、アチェ側 がわ は地元 じもと に利益 りえき が還元 かんげん されないことへの不満 ふまん が強 つよ く、宗教 しゅうきょう 的 てき にもジャカルタ 政府 せいふ の世俗 せぞく 主義 しゅぎ 的 てき 政策 せいさく は保守 ほしゅ 的 てき なムスリム であるアチェ人 じん の反発 はんぱつ を引 ひ き起 お こした。このためアチェの分離 ぶんり 独立 どくりつ を要求 ようきゅう する自由 じゆう アチェ運動 うんどう が高潮 こうちょう した。旧 きゅう スハルト政権 せいけん 時代 じだい の1976年 ねん 12月4日 にち 、自由 じゆう アチェ運動 うんどう (GAM: Gerakan Aceh Merdeka) がピディ県 けん (英語 えいご 版 ばん ) の山中 さんちゅう でアチェ・スマトラ国 こく の独立 どくりつ を宣言 せんげん し、1979年 ねん にはスウェーデン に亡命 ぼうめい 政府 せいふ を樹立 じゅりつ している。政府 せいふ 軍 ぐん が鎮圧 ちんあつ 作戦 さくせん を展開 てんかい し、民間 みんかん 人 じん を含 ふく む1万 まん 5千 せん 人 にん が犠牲 ぎせい になったと言 い われている。
メガワティ 大統領 だいとうりょう の政府 せいふ は2002年 ねん アチェ特別 とくべつ 州 しゅう を「ナングロ・アチェ・ダルサラーム 」州 しゅう と改称 かいしょう し、アチェの特別 とくべつ な地位 ちい を認 みと めて自由 じゆう アチェ運動 うんどう と和平 わへい 協定 きょうてい を成立 せいりつ させたが、2003年 ねん に協定 きょうてい は破 やぶ れ、戒厳 かいげん 令 れい を布告 ふこく したインドネシア国軍 こくぐん との本格 ほんかく 的 てき 戦闘 せんとう に発展 はってん した。このような情勢 じょうせい のなかで2004年 ねん 末 すえ の津波 つなみ 大 だい 被害 ひがい が発生 はっせい したため、インドネシア政府 せいふ は一時 いちじ 的 てき 停戦 ていせん を宣言 せんげん したが、一部 いちぶ で戦闘 せんとう はなお継続 けいぞく した。
2004年 ねん 末 まつ にアチェ自治 じち 州 しゅう は最 もっと も深刻 しんこく な地震 じしん ・津波 つなみ 被害 ひがい を受 う けた。この被害 ひがい をきっかけにフィンランド で和平 わへい 交渉 こうしょう を開始 かいし した。自由 じゆう アチェ運動 うんどう (GAM) は独立 どくりつ 要求 ようきゅう を取 と り下 さ げ武装 ぶそう 解除 かいじょ にも応 おう じ、インドネシア政府 せいふ は軍 ぐん の撤退 てったい とアチェ州 しゅう での地方 ちほう 政党 せいとう 樹立 じゅりつ を認 みと め、和平 わへい 協定 きょうてい 合意 ごうい が実現 じつげん 。
2005年 ねん 8月 がつ 15日 にち 、フィンランドのヘルシンキ において自由 じゆう アチェ運動 うんどう とインドネシア政府 せいふ との間 あいだ で和平 わへい 協定 きょうてい であるヘルシンキ和平 わへい 合意 ごうい に調印 ちょういん した[ 8] 。
2006年 ねん 8月 がつ 15日 にち 、29年間 ねんかん にわたる武力 ぶりょく 紛争 ふんそう の終結 しゅうけつ から1周年 しゅうねん を迎 むか えた。州都 しゅうと バンダアチェでは祝賀 しゅくが 集会 しゅうかい が催 もよお された。一方 いっぽう で、自由 じゆう アチェ運動 うんどう とその支持 しじ 者 しゃ には2006年 ねん 7月 がつ にインドネシア国会 こっかい が採択 さいたく したアチェ自治 じち 政府 せいふ 法 ほう への強 つよ い不満 ふまん があり、バンダ・アチェ のモスク (イスラム教 いすらむきょう 礼拝 れいはい 所 しょ )前 まえ で約 やく 1万 まん 人 にん が参加 さんか して抗議 こうぎ 集会 しゅうかい とデモが行 おこな われた。自治 じち 政府 せいふ 法 ほう の下 した で2006年 ねん 12月11日 にち には州 しゅう 知事 ちじ などの自治体 じちたい 首長 しゅちょう の選挙 せんきょ が行 おこな われた。
テゥク・シャムスディン 「アチェの文化 ぶんか 」、クンチャラニングラット編 へん 、加藤 かとう 剛 つよし ・土屋 つちや 健治 けんじ ・白石 しらいし 隆 たかし 訳 わけ 『インドネシアの諸 しょ 民族 みんぞく と文化 ぶんか 』、めこん、1980年 ねん (原著 げんちょ 、Koentjaraningrat ed., Manusia dan Kebudayaan di Indonesia , Jakarta, Djambatan, 1971)
Tapol(著 ちょ )・南風 みなみかぜ 島 しま 渉 わたる (翻訳 ほんやく )『暗黒 あんこく のアチェ―インドネシア軍 ぐん による人権 じんけん 侵害 しんがい 』インドネシア民主 みんしゅ 化 か 支援 しえん ネットワーク、2001年 ねん
佐伯 さえき 奈津子 なつこ 『アチェの声 こえ 』コモンズ、2005年 ねん
豊田 とよだ 直巳 なおみ 『写真 しゃしん 集 しゅう 大津 おおつ 波 は アチェの子供 こども たち』第 だい 三 さん 書 しょ 館 かん 、2005年 ねん
藤谷 ふじたに 健 けん (文 ぶん )・アチェフォトジャーナリストクラブ『TSUNAMIをこえて―スマトラ沖 おき 地震 じしん とアチェの人 ひと びと』ポプラ社 ぽぷらしゃ 、2006年 ねん