ウルサリ

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『ウルサリ』(テオドール・アマンさく

ウルサリルーマニア:Ursariブルガリア:урсари)とは、ロマのうち伝統でんとうてき動物どうぶつ調教ちょうきょう生業せいぎょうとする放浪ほうろうみんのこと。ルーマニアで「くま」を意味いみするウルスurs単数たんすうがた:ursar)に由来ゆらいし、「くま使づか」とやくすことがおおい。リチナラRichinara)とも。

元々もともとヒグマオナガザルへびもちいて大道芸だいどうげいおこないつつ[1]同族どうぞくこんかえしてきたが、だい部分ぶぶん1850年代ねんだい以降いこう定住ていじゅうするようになった。ブルガリアモルドバほかルーマニアでは40部族ぶぞくの1つと認知にんちされる[2]など、ロマ共同きょうどうたい重要じゅうよう役割やくわりたしている。また、セルビアオランダおよイタリアといった西欧せいおう諸国しょこくでも、居住きょじゅうしゃすくなくない。

ルーマニアやモルドバでもちいられるバルカン・ロマの1方言ほうげんも「ウルサリ」とばれているが[3][4]民族みんぞくてきにウルサリにぞくするもののほとんどが、ボヤーシュハンガリーけいロマ[5]同様どうように、ルーマニア母語ぼごとする[6]

ロマのうちシンティぞくするかそうでないかにかんしては、学術がくじゅつじょう見解けんかい一致いっちられない[7]2004ねんにルーマニアが347にんのロマを対象たいしょうとしてった調査ちょうさによると、150にんみずからをウルサリとこたえたという[8]

ブルガリアでくまさるあつかうルーマニア話者わしゃのロマは、「メチュカリ」(мечкари, mechkari) や「メイムナリ」(maymunari) あるいは「ウルサリ」とばれるが、ルーマニアのウルサリとはことなる集団しゅうだん、あるいはボヤーシュにぞくする一派いっぱとみなされたり[9]、もしくはイタリアでウルサリとされる人々ひとびと同族どうぞくとみなされることがある[10]

ルーマニアおよびブルガリアのドナウがわ沿岸えんがんむコシュニツァリ (Coşniţari) は、ウルサリにぞくする[11]一方いっぽうギリシャのメドヴェダラやスロバキアのリチュカラ、トルコイスタンブール地域ちいきのロマ・アイジデスなどは、職業しょくぎょうてん共通きょうつうしているがことなる言語げんご方言ほうげんはなしており、ウルサリとは做されない[4][12]

歴史れきし[編集へんしゅう]

初期しょき移動いどうおよ隷属れいぞく[編集へんしゅう]

おどくまとウルサリをえがいた印刷物いんさつぶつ1810ねんころヘッセンしゅうにて)

くま使づかいの集団しゅうだんは、はやくも12世紀せいきビザンティン帝国ていこくうち移動いどうしていたことられ、この時期じきギリシャの教会きょうかいほう学者がくしゃテオドーロス・バルサモンは、かれらをロマと関連かんれんのある集団しゅうだんとしてべている[6]。そのかれらはのロマ集団しゅうだんとひとまとめに「エジプトじん」とばれるようになった[6]

1840年代ねんだいから1850年代ねんだいにかけて廃止はいしされるまで、ドナウ公国こうこくモルダヴィアならびにワラキア)においては奴隷どれいであった。ただし、ボヤーシュ(きむ採掘さいくつおこなうズラタリ (Zlătari) をふくむ)やカルデラシュ金属きんぞく細工ざいく)、ロマの鍛冶屋かじや集団しゅうだん同様どうよう放浪ほうろう生活せいかつゆるされてはいた(許可きょかわりに、君主くんしゅ各種かくしゅ料金りょうきん支払しはら必要ひつようがあったが)[13][14]

こうした奴隷どれいを「ライエシ」(lăieşi) とぶが、19世紀せいき前半ぜんはんまでには、国家こっか所有しょゆうのロマのほとんどが、私有しゆうのロマとは対照たいしょうてきにライエシとなる[11][13][15]。ライエシは毎年まいとし、ワラキアならびにモルダヴィアへ一定いってい金額きんがくおさめなければならず[14][15]当時とうじワラキアをおとずれていたフランス外交がいこうかんであるエドゥアール・アントワーヌ・トゥヴェネルは、これが20 - 30クルシュのぼると記述きじゅつ[15][14]

家族かぞく単位たんい構成こうせいこのむとする資料しりょうがあるものの[16]20世紀せいきにはのロマと同様どうようだい規模きぼ部族ぶぞく集団しゅうだんとなる[17]ルメリアおもむくカルデラシュに随行ずいこうすることふるくからあり、そのことがメチュカラ共同きょうどうたい誕生たんじょうつながった[9]

トゥヴェネルはウルサリの「悲惨ひさん境遇きょうぐう」をしるしており、ヒグマのあつかいをいにしながら、つぎのようにべている。

ぐまころつかまえて調教ちょうきょうし、がいあたえないようにしたヒグマをける。カルパティアのヒグマはノールのそれよりかなりちいさく、獰猛どうもうでもないため、比較的ひかくてき穏便おんびん調教ちょうきょうした。物好ものずきな農民のうみんくため、むら々をまわってはかずペラあつめていた[15]

またトゥヴェネルによると、「田舎いなかもの魔術まじゅつのせいにするほど獣医じゅうい技術ぎじゅつすぐれている」ことでもられた[15]くま使づかいにくわえ、野生やせい動物どうぶつ就中なかんづくぐま)の取引とりひき[11]さる飼育しいく調教ちょうきょうでも名高なだか[9][18]。このほか女性じょせいうらなにも従事じゅうじ[17][16]

解放かいほう[編集へんしゅう]

トランシルバニアのウルサリ(1869ねんエングレービング

1880年代ねんだいすえはいると、1855ねんにモルダヴィア国王こくおうグリオーレ・アレキサンドル・ギカした奴隷どれいせい廃止はいしした、歴史れきし政治せいじミハイル・コガルニセアヌつぎのように主張しゅちょうしている。

いまだジプシー集落しゅうらくむ(の)「ライエシ」ジプシーや、現在げんざい野獣やじゅう調教ちょうきょうをしながらも、その土地とちらすウルサリはともかく、それ以外いがいのジプシーのほぼすべては、おおくの民族みんぞく混交こんこうしている。そのため、浅黒あさぐろみなみアジアよう顔立かおだちや想像そうぞうりょくゆたかさによってでしか、見分みわけることができない[19]

ルーマニア王国おうこく成立せいりつもなお、ウルサリはとくブカレストバカウなどの地方ちほう都市としひらかれる、大道芸だいどうげい見本市みほんいちとの関連かんれんふか存在そんざいであった[17][20]

アレクサンドル・ヨアン・クザ治世ちせいはやくも、職業しょくぎょう音楽家おんがくかラウタリカルシャリ見世物みせもの小屋こやといった各種かくしゅ演芸えんげいちかられるようになる[20]。また、どう時期じきにはザブラギー (zavragii) とばれる、金属きんぞく製造せいぞうごう日雇ひやと労働ろうどうしゃとしても従事じゅうじ[11]

19世紀せいきすえになると、当時とうじ帝政ていせいロシア支配しはいにあったベッサラビアでも存在そんざい確認かくにんされるようになり、現地げんち住民じゅうみんは「シャトラシ」(şătraşi、「キャンプじょう人々ひとびと」の)とこと一般いっぱんてきとなった[11]

1850ねん以後いごほとんどがオーストリア・ハンガリー地域ちいきボスニア出身しゅっしんられる集団しゅうだん散発さんぱつてき西進せいしんきたブラバントしゅうなどオランダ各地かくちにもはじめて姿すがたあらわした。なお、同国どうこくには現在げんざい子孫しそん生活せいかつしている[21][22]

セルビアクラグイェヴァツ周辺しゅうへんでも同様どうよううごきがあり、こちらはイタリア北部ほくぶおよ中部ちゅうぶ移動いどう[10]。オランダでは中央ちゅうおう政府せいふがロマの存在そんざいもう反発はんぱつ、「ジプシー」の烙印らくいんすにいたった。一方いっぽう地方ちほう政府せいふ反応はんのうはより穏健おんけんで、部族ぶぞくはともかく、ウルサリだけは現地げんち社会しゃかい同化どうかすることゆるされたという[23]

ポライモス前後ぜんこう[編集へんしゅう]

やがて、部族ぶぞくほね皮革ひかく製造せいぞう販売はんばいはじめるなかサーカス参加さんかするか[10][12]ラウタリにかかわるようになる[11][24]くまタンバリンわせておどるよう調教ちょうきょうされたり[12][20][24]直立ちょくりつ歩行ほこうなどをおこなうよう訓練くんれんけたりした[12][17]

しかし、調教ちょうきょう過程かていにおける鉄棒てつぼう鼻輪はなわ使用しよう動物どうぶつ福祉ふくし支持しじしゃから注意ちゅうい惹起じゃっき1920年代ねんだい以降いこうにははやくも批判ひはん対象たいしょうとなり[12]ドイツでは政府せいふがウルサリの商売しょうばいきんじるにいたる。音楽おんがくわせ、ぐまあしやす訓練くんれん報告ほうこくされている[25]

だい世界せかい大戦たいせん緒戦しょせんには、てつまもるだんによる弾圧だんあつ一環いっかんとして、ルーマニア軍閥ぐんばつ政府せいふコンスタンティン・ペトロヴィチェスク内相ないしょうが、ウルサリに国内こくない市町村しちょうそんでのくま使づかいをきんじる政令せいれい裁可さいかしている[26]。この措置そちについて公式こうしきには「そのような活動かつどうチフス蔓延まんえん助長じょちょうさせる」という説明せつめいがなされている[26]

そのすうねんあいだに、イオン・アントネスク政権せいけんホロコースト政策せいさく一環いっかんとして、トランスニストリア国外こくがい追放ついほうとなる(だい世界せかい大戦たいせんのルーマニアおよポライモス参照さんしょうのこと)[2][26][27]

戦後せんごくま使づかいの禁止きんし東側ひがしがわ諸国しょこく一帯いったい立法りっぽう[12]ルーマニア社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくではウルサリが都市としへの禁止きんしめいじられている[17]。また、ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジならびにニコラエ・チャウシェスクりょう政権せいけんで、放浪ほうろうみんのロマは定住ていじゅう政策せいさくふくすることとなった[2][28][29]おおくはトランスニストリアからの帰還きかん同時どうじさい定住ていじゅうしたという[29])。

社会しゃかい主義しゅぎ体制たいせい崩壊ほうかい以後いご[編集へんしゅう]

くま衣装いしょうまと少年しょうねん(ブカレストにて)

ルーマニア革命かくめい1991ねん4がつから6がつにかけて、ルーマニアジュルジュけんうち各地かくちのウルサリが襲撃しゅうげき対象たいしょうとなった。ウルサリたちは居住きょじゅうわれ、家屋かおくかれた[28][30]

発端ほったんとなったまちでは、報復ほうふくとしてルーマニアじん学生がくせいのクリスティアン・メリントが殺害さつがいされており、実行じっこうはん青年せいねんのち懲役ちょうえき20ねんけいしょせられた[2][28][31][32]

なお、アメリカじん作家さっかイザベル・フォンセーカによると、家屋かおくはなったのは大勢おおぜい地域ちいき住民じゅうみんとされ、およぶよう家屋かおくつながる電線でんせん切断せつだんしてまわるなど、計画けいかくせいいのではないかという[33]

こうした襲撃しゅうげき事件じけん根本こんぽんは、かつての放浪ほうろうみん社会しゃかい主義しゅぎ体制たいせい特権とっけん階級かいきゅうであったという認識にんしき[34]ならんで、定住ていじゅう政策せいさく失敗しっぱいにあるとする評論ひょうろんおお[28][34]

同時どうじに、ウルサリがらみの犯罪はんざい行為こういかんしては、これとはべつ報告ほうこくもなされてきた。差別さべつ意識いしき払拭ふっしょく十分じゅうぶんっていないというてんである。げんに、ウルサリけいロマの家屋かおくは、1991ねん事件じけん対象たいしょうとなっていない[28]。また、襲撃しゅうげきくわわったのはルーマニアじんのみならず、ふるくから地域ちいき社会しゃかいんでいるウルサリけいロマともわれる[28]

土地とちわれたウルサリは、みな一旦いったんブカレストやジュルジュ定住ていじゅうし、1991ねん5月帰還きかんたすも、ふたた地元じもと住民じゅうみんによりされてしまう[2][28]当局とうきょくはウルサリに退去たいきょしたほうがいとの通告つうこくをしたという[2]

2005ねんまでに、ウルサリはかつかれらが居住きょじゅうしていた国有こくゆうたいする権利けんりしょ発行はっこうするようにもとめたが、当時とうじすでにこれらの権利けんりしょ住民じゅうみん分配ぶんぱいされつつあった。地方ちほう当局とうきょくうったえを却下きゃっかし、問題もんだい土地とち帰属きぞくはまだ議論ぎろんつづいているとした。またほかにも購入こうにゅう可能かのう土地とちはあると指摘してきしている[31]

このようなくま使づかいや大道芸だいどうげい圧迫あっぱくする数々かずかず処置しょちにもかかわらず、そうしたげいきゅう東側ひがしがわ諸国しょこくいま人気にんきはくしている[25]。かなりめずらしくなったとはえ、現在げんざいでも東欧とうおう各地かくちでウルサリによるくま使づかいを機会きかいすくなくない[9][12][25]

文化ぶんか[編集へんしゅう]

アイデンティティ[編集へんしゅう]

ロマのなかでもカルデラシュやロヴァリガボリ同様どうよう同族どうぞくこんおこな[9][11][24]みずからをヴラフじんやルーマニアじんとしたり、のロマとはべつかんがえるメチュカラはおお[9]

一般いっぱんてきにウルサリの共同きょうどうたいは、ロマとの性的せいてき接触せっしょくきんじ、見合みあ結婚けっこん推奨すいしょうする傾向けいこうにある[11]が、ボヤーシュの共同きょうどう体内たいないでの近親きんしんこんみとめてきた[9]。また、この習慣しゅうかんすたれてきているものの、10代での結婚けっこんゆるされている、数少かずすくないロマでもある[8][11][24]

おおくはふるくから正教会せいきょうかいルーマニア正教会せいきょうかいまたはブルガリア正教会せいきょうかいいずれか)にぞくするが[9][24]ペンテコステなどプロテスタント各派かくは信仰しんこう[24]。なお、セルビアやイタリアのウルサリはセルビア正教会せいきょうかい信徒しんとであるケースがおお[10]

守護しゅご聖人せいじんアンデレ聖名せな祝日しゅくじつである、正教会せいきょうかいれき11月30にちたる2がつ1にち以降いこうを、伝統でんとうてき祭日さいじつとしている[24]21世紀せいきはいり、新約しんやく聖書せいしょバルカン・ロマ順次じゅんじ翻訳ほんやく[4]

ウルサリとくま[編集へんしゅう]

ポール・ウェイランド・バートレットさく『ロマのくま使づかい』(1888ねん鋳造ちゅうぞう

けんかつとして、くままつわる様々さまざま信仰しんこう習慣しゅうかん維持いじ発展はってんさせてきた。たとえば、家畜かちく野良のら動物どうぶつからまも意味いみめて、民家みんか中庭なかにわくま展示てんじしたり、若者わかもの多産たさん悪霊あくりょう退散たいさん目的もくてきに、くま人間にんげん背中せなかけることをゆるしたりする、などである[11][24][35]

後者こうしゃ習慣しゅうかんは、背部はいぶつう民間みんかん療法りょうほう做すルーマニアじんあいだで、きわめて人気にんきたかい。これをおこなうため、ウルサリをいえまねれること復活ふっかつさいクリスマス大晦日おおみそか風物詩ふうぶつしとなっている[17][36]

ほね製造せいぞうしゃあいだでは、贅沢ぜいたくひんであるくまあぶら利用りよう浸透しんとうするようになった。製品せいひんがより長持ながもちするためという[11]。また、くまあぶらリウマチ骨格こっかく異常いじょう治療ちりょうくすりとしてもられているほかくままもとして有名ゆうめい[17]

くま調教ちょうきょう1990年代ねんだい以降いこう動物どうぶつ愛護あいご観点かんてんからふたた脚光きゃっこうび、インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙上しじょう批判ひはんキャンペーンがなされた[37]スタラ・ザゴラしゅうのウルサリのもとおとずれたイザベル・フォンセーカは、残忍ざんにん調教ちょうきょうほう言及げんきゅうしつつ、くま一家いっか大黒柱だいこくばしらである以上いじょう適切てきせつ管理かんりおこなっているともべた[25]

作品さくひんちゅうくま使づかいや動物どうぶつたちえがいた芸術げいじゅつすくなくない。なかでも、ルーマニアじん画家がかグラフィックアーティストテオドール・アマンやアメリカじん彫刻ちょうこくポール・ウェイランド・バートレットとくられる存在そんざいとなっている。なお、バートレットの作品さくひん『ロマのくま使づかい』(1888ねん)は、ニューヨークメトロポリタン美術館びじゅつかん展示てんじちゅう

音楽おんがく[編集へんしゅう]

1850年代ねんだい以降いこう、ラウタリ文化ぶんか形成けいせい寄与きよしてきた[11]一方いっぽう伝統でんとう音楽おんがくれっきとした1つのジャンルとしてのこっている。電子でんし音楽おんがく融合ゆうごうし、21世紀せいき初頭しょとうのルーマニアでは音楽おんがくグループシュカー・コレクティブ人気にんきあつめた[38]

くま使づかいがもちいた聖歌せいかは、以下いかのように童謡どうようとしていまうたがれている。

Joacă, joacă Moş Martine,
Că-ţi dau pâine cu măsline![17]

おどれ、おどれ、ろう少年しょうねんマーティンよ
パンオリーブをくれてやろう!

以下いかかかげるこのロング・バージョンは、バカウけんのウルサリがいまうたいでいる。

Foaie verde pădureţ,
Urcă ursule pe băţ,
Urcă, urcă tot mai sus,
Că şi miere ţi-am adus.
Joacă, joacă Moş Martine,
Că-ţi dau miere de albine.
Joacă, joacă frumuşel,
Si păşeşte mărunţel.
Saltă, saltă cât mai sus,
Căci stăpânu' ţi s-a dus![17]

野生やせいリンゴみどり
のぼれ、つえうえくま
まだまだたかたかのぼ
蜂蜜はちみつっててやったから
おどれ、おどれ、ろう少年しょうねんマーティンよ
蜂蜜はちみつをくれてやるから
おどれ、おどれ、格好かっこう
そしてステップをすこ
べ、べ、たかく、たか
親方おやかたしてしまうから!

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 関口せきぐち義人よしひと『ジプシーをたずねて』岩波いわなみ新書しんしょ2011ねん1がつ、p.50 - 51
  2. ^ a b c d e f (ルーマニア Centrul de Documentare şi Informare despre Minorităţile din Europa de Sud-Est, Romii din România, at the Erdélyi Magyar Adatbank, retrieved June 25, 2007
  3. ^ Balkan Romani at Ethnologue.com, retrieved June 23, 2007
  4. ^ a b c "Roma – Sub Ethnic Groups", at Rombase, retrieved June 23, 2007
  5. ^ 関口せきぐち義人よしひと図説ずせつジプシー』河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ2012ねん5月、p.59
  6. ^ a b c Angus M. Fraser, The Gypsies, Blackwell Publishing, Oxford, 1995, p.45-48, 226. ISBN 0-631-19605-6
  7. ^ Lucassen, p.84, 86, 90
  8. ^ a b (ルーマニア Mihai Surdu, Sarcina şi căsătoria timpurie în cazul tinerelor roma, at UNICEF Romania, retrieved June 24, 2007
  9. ^ a b c d e f g h Elena Marushiakova, Vesselin Popov, "Ethnosocial Structure of the Roma of Bulgaria", in The Patrin Web Journal: Romani Culture and History, retrieved June 24, 2007
  10. ^ a b c d (イタリア Scheda progetto per l'impiego di volontari in Servizio Civile in Italia. Pijats Romanò, at the Centro Servizi per il Volontariato, retrieved June 24, 2007
  11. ^ a b c d e f g h i j k l (ルーマニア Delia Grigore, Curs de antropologie şi folclor rrom, hosted by Romanothan, retrieved June 24, 2007
  12. ^ a b c d e f g "Carneys and Street Artists", at Rombase, retrieved June 23, 2007
  13. ^ a b Neagu Djuvara, Între Orient şi Occident. Ţările române la începutul epocii moderne, Humanitas publishing house, Bucharest, 1995, p.267-269. ISBN 973-28-0523-4
  14. ^ a b c (ルーマニア Emmanuelle Pons, De la robie la asimilare, p.18-19, at the Erdélyi Magyar Adatbank, retrieved June 23, 2007
  15. ^ a b c d e Édouard Antoine Thouvenel, La Hongrie et la Valachie, Arthus Betrand, Paris, 1840, p.242-243
  16. ^ a b Henry Baerlein (ed.), Romanian Oasis: A Further Anthology on Romania and Her People, Frederick Muller Ltd., London, 1948, p.202
  17. ^ a b c d e f g h i (ルーマニア Eugen Şendrea, "Distracţii de tîrgoveţi", in Ziarul de Bacău, May 26, 2007; retrieved June 24, 2007
  18. ^ Fonseca, p.181
  19. ^ (ルーマニア Mihail Kogălniceanu, Dezrobirea ţiganilor, ştergerea privilegiilor boiereşti, emanciparea ţăranilor (wikisource)
  20. ^ a b c Constantin C. Giurescu, Istoria Bucureştilor. Din cele mai vechi timpuri pînă în zilele noastre, Editura Pentru Literatură, Bucharest, 1966, p.380. OCLC 1279610
  21. ^ Lucassen, p.81-82, 89
  22. ^ Nikola Rašić, Romanies in Netherlands, at the KPC Groep, retrieved June 23, 2007
  23. ^ Lucassen, p.82, 83
  24. ^ a b c d e f g h Improving Education for Roma Children, hosted by the Center Education 2000+, retrieved June 23, 2007
  25. ^ a b c d Fonseca, p.182
  26. ^ a b c (ルーマニア Petre Petcuţ, Samudaripenul (Holocaustul) rromilor în România, at Idee Communication, retrieved June 24, 2007
  27. ^ Fonseca, p.149
  28. ^ a b c d e f g (ルーマニア Margareta Fleşner, Ioaneta Vintileanu, "Conflictele locale din judeţul Giurgiu şi implicarea forţelor de poliţie", in Ioaneta Vintileanu, Gábor Ádám, Poliţia şi comunităţile multiculturale din România, hosted by Centrul de Resurse pentru Diversitate Etnoculturală, retrieved June 25, 2007
  29. ^ a b Fonseca, p.150
  30. ^ Fonseca, p.148-155
  31. ^ a b (ルーマニア Magda Bărăscu, "Romii din Bolintin vînează fondurile UE", in Evenimentul Zilei, April 20, 2005, hosted by Euractiv.ro; retrieved June 25, 2007
  32. ^ Fonseca, p.150-151
  33. ^ Fonseca, p.152
  34. ^ a b Fonseca, p.154
  35. ^ călcá in Alexandru Ciorănescu, Dicţionarul etimologic român, Universidad de la Laguna, Tenerife, 1958-1966; retrieved September 11, 2007
  36. ^ (ルーマニア Costin Anghel, "Vechi datini populare", in Jurnalul Naţional, March 6, 2006; retrieved June 24, 2007
  37. ^ Fonseca, p.180
  38. ^ Shukar Collective site, retrieved June 23, 2007

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]