『ウルサリ』(テオドール・アマン 作 さく )
ウルサリ (ルーマニア語 ご :Ursari 、ブルガリア語 ご :урсари )とは、ロマ のうち伝統 でんとう 的 てき に動物 どうぶつ の調教 ちょうきょう を生業 せいぎょう とする放浪 ほうろう 民 みん のこと。ルーマニア語 ご で「熊 くま 」を意味 いみ するウルス (urs 、単数 たんすう 形 がた :ursar )に由来 ゆらい し、「熊 くま 使 づか い 」と訳 やく すことが多 おお い。リチナラ (Richinara )とも。
元々 もともと ヒグマ やオナガザル 、蛇 へび を用 もち いて大道芸 だいどうげい を行 おこな いつつ[1] 、同族 どうぞく 婚 こん を繰 く り返 かえ してきたが、大 だい 部分 ぶぶん は1850年代 ねんだい 以降 いこう 定住 ていじゅう するようになった。ブルガリア やモルドバ の他 ほか 、ルーマニア では40部族 ぶぞく の1つと認知 にんち される[2] など、ロマ共同 きょうどう 体 たい で重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たしている。また、セルビア やオランダ 及 およ びイタリア といった西欧 せいおう 諸国 しょこく でも、居住 きょじゅう 者 しゃ が少 すく なくない。
ルーマニアやモルドバで用 もち いられるバルカン・ロマ語 ご の1方言 ほうげん も「ウルサリ」と呼 よ ばれているが[3] [4] 、民族 みんぞく 的 てき にウルサリに属 ぞく する者 もの のほとんどが、ボヤーシュ (ハンガリー 系 けい ロマ[5] )同様 どうよう に、ルーマニア語 ご を母語 ぼご とする[6] 。
ロマのうちシンティ に属 ぞく するかそうでないかに関 かん しては、学術 がくじゅつ 上 じょう 見解 けんかい の一致 いっち が見 み られない[7] 。2004年 ねん にルーマニアが347人 にん のロマを対象 たいしょう として行 い った調査 ちょうさ によると、150人 にん が自 みずか らをウルサリと答 こた えたという[8] 。
ブルガリアで熊 くま や猿 さる を扱 あつか うルーマニア語 ご 話者 わしゃ のロマは、「メチュカリ」(мечкари , mechkari ) や「メイムナリ」(maymunari ) あるいは「ウルサリ」と呼 よ ばれるが、ルーマニアのウルサリとは異 こと なる集団 しゅうだん 、あるいはボヤーシュに属 ぞく する一派 いっぱ とみなされたり[9] 、もしくはイタリアでウルサリとされる人々 ひとびと と同族 どうぞく とみなされることがある[10] 。
ルーマニア及 およ びブルガリアのドナウ川 がわ 沿岸 えんがん 部 ぶ に住 す むコシュニツァリ (Coşniţari ) は、ウルサリに属 ぞく する[11] 。一方 いっぽう 、ギリシャ のメドヴェダラやスロバキア のリチュカラ、トルコ のイスタンブール 地域 ちいき のロマ・アイジデスなどは、職業 しょくぎょう の点 てん で共通 きょうつう しているが異 こと なる言語 げんご や方言 ほうげん を話 はな しており、ウルサリとは見 み 做されない[4] [12] 。
初期 しょき の移動 いどう 及 およ び隷属 れいぞく [ 編集 へんしゅう ]
踊 おど る熊 くま とウルサリを描 えが いた印刷物 いんさつぶつ (1810年 ねん 頃 ころ 、ヘッセン州 しゅう にて)
熊 くま 使 づか いの集団 しゅうだん は、早 はや くも12世紀 せいき にビザンティン帝国 ていこく 内 うち を移動 いどう していた事 こと で知 し られ、この時期 じき ギリシャの教会 きょうかい 法 ほう 学者 がくしゃ テオドーロス・バルサモン は、彼 かれ らをロマと関連 かんれん のある集団 しゅうだん として述 の べている[6] 。その後 ご 彼 かれ らは他 た のロマ集団 しゅうだん とひとまとめに「エジプト人 じん 」と呼 よ ばれるようになった[6] 。
1840年代 ねんだい から1850年代 ねんだい にかけて廃止 はいし されるまで、ドナウ公国 こうこく (モルダヴィア 並 なら びにワラキア )においては奴隷 どれい であった。ただし、ボヤーシュ(金 きむ の採掘 さいくつ を行 おこな うズラタリ (Zlătari ) を含 ふく む)やカルデラシュ (金属 きんぞく 細工 ざいく 師 し )、ロマの鍛冶屋 かじや 集団 しゅうだん と同様 どうよう 、放浪 ほうろう 生活 せいかつ が許 ゆる されてはいた(許可 きょか を得 え る代 か わりに、君主 くんしゅ へ各種 かくしゅ 料金 りょうきん を支払 しはら う必要 ひつよう があったが)[13] [14] 。
こうした奴隷 どれい を「ライエシ」(lăieşi ) と呼 よ ぶが、19世紀 せいき 前半 ぜんはん までには、国家 こっか 所有 しょゆう のロマの殆 ほとん どが、私有 しゆう のロマとは対照 たいしょう 的 てき にライエシとなる[11] [13] [15] 。ライエシは毎年 まいとし 、ワラキア並 なら びにモルダヴィアへ一定 いってい の金額 きんがく を納 おさ めなければならず[14] [15] 、当時 とうじ ワラキアを訪 おとず れていたフランス の外交 がいこう 官 かん であるエドゥアール・アントワーヌ・トゥヴェネル は、これが20 - 30クルシュ に上 のぼ ると記述 きじゅつ [15] [14] 。
家族 かぞく 単位 たんい の構成 こうせい を好 この むとする資料 しりょう があるものの[16] 、20世紀 せいき には他 た のロマと同様 どうよう 、大 だい 規模 きぼ な部族 ぶぞく 集団 しゅうだん となる[17] 。ルメリア へ赴 おもむ くカルデラシュに随行 ずいこう する事 こと が古 ふる くからあり、そのことがメチュカラ共同 きょうどう 体 たい の誕生 たんじょう に繋 つな がった[9] 。
トゥヴェネルはウルサリの「悲惨 ひさん な境遇 きょうぐう 」を記 しる しており、ヒグマの扱 あつか いを引 ひ き合 あ いに出 だ しながら、次 つぎ のように述 の べている。
子 こ 熊 ぐま の
頃 ころ に
捕 つか まえて
調教 ちょうきょう し、
害 がい を
与 あた えないようにしたヒグマを
追 お い
掛 か ける。
カルパティア のヒグマは
ノール のそれよりかなり
小 ちい さく、
獰猛 どうもう でもないため、
比較的 ひかくてき 穏便 おんびん に
調教 ちょうきょう した。
物好 ものず きな
農民 のうみん の
気 き を
惹 ひ くため、
村 むら 々を
回 まわ っては
数 かず ペラ を
集 あつ めていた
[15] 。
またトゥヴェネルによると、「田舎 いなか 者 もの が魔術 まじゅつ のせいにする程 ほど 、獣医 じゅうい 技術 ぎじゅつ に優 すぐ れている」事 こと でも知 し られた[15] 。熊 くま 使 づか いに加 くわ え、野生 やせい 動物 どうぶつ (就中 なかんづく 子 こ 熊 ぐま )の取引 とりひき [11] や猿 さる の飼育 しいく ・調教 ちょうきょう でも名高 なだか い[9] [18] 。この他 ほか 、女性 じょせい は占 うらな い にも従事 じゅうじ [17] [16] 。
トランシルバニア のウルサリ(1869年 ねん のエングレービング )
1880年代 ねんだい 末 すえ に入 はい ると、1855年 ねん にモルダヴィア国王 こくおう グリオーレ・アレキサンドル・ギカ の下 した で奴隷 どれい 制 せい を廃止 はいし した、歴史 れきし 家 か ・政治 せいじ 家 か のミハイル・コガルニセアヌ は次 つぎ のように主張 しゅちょう している。
未 いま だジプシー
集落 しゅうらく に
住 す む(
他 た の)「ライエシ」ジプシーや、
現在 げんざい 野獣 やじゅう の
調教 ちょうきょう をしながらも、その
土地 とち で
暮 く らすウルサリはともかく、それ
以外 いがい のジプシーのほぼ
全 すべ ては、
多 おお くの
民族 みんぞく が
混交 こんこう している。そのため、
浅黒 あさぐろ く
南 みなみ アジア様 よう の
顔立 かおだ ちや
想像 そうぞう 力 りょく の
豊 ゆた かさによってでしか、
見分 みわ けることができない
[19] 。
ルーマニア王国 おうこく 成立 せいりつ 後 ご もなお、ウルサリは特 とく にブカレスト やバカウ などの地方 ちほう 都市 とし で開 ひら かれる、大道芸 だいどうげい や見本市 みほんいち との関連 かんれん が深 ふか い存在 そんざい であった[17] [20] 。
アレクサンドル・ヨアン・クザ の治世 ちせい 下 か で早 はや くも、職業 しょくぎょう 音楽家 おんがくか のラウタリ やカルシャリ 、見世物 みせもの 小屋 こや といった各種 かくしゅ 演芸 えんげい に力 ちから を入 い れるようになる[20] 。また、同 どう 時期 じき にはザブラギー (zavragii ) と呼 よ ばれる、金属 きんぞく 製造 せいぞう 業 ごう の日雇 ひやと い労働 ろうどう 者 しゃ としても従事 じゅうじ [11] 。
19世紀 せいき 末 すえ になると、当時 とうじ 帝政 ていせい ロシア の支配 しはい 下 か にあったベッサラビア でも存在 そんざい が確認 かくにん されるようになり、現地 げんち 住民 じゅうみん は「シャトラシ」(şătraşi 、「キャンプ場 じょう に住 す む人々 ひとびと 」の意 い )と呼 よ ぶ事 こと が一般 いっぱん 的 てき となった[11] 。
1850年 ねん 以後 いご 、殆 ほとん どがオーストリア・ハンガリー 地域 ちいき やボスニア 出身 しゅっしん と見 み られる集団 しゅうだん が散発 さんぱつ 的 てき に西進 せいしん 、北 きた ブラバント州 しゅう などオランダ 各地 かくち にも初 はじ めて姿 すがた を現 あらわ した。なお、同国 どうこく には現在 げんざい も子孫 しそん が生活 せいかつ している[21] [22] 。
セルビア のクラグイェヴァツ 周辺 しゅうへん でも同様 どうよう の動 うご きがあり、こちらはイタリア北部 ほくぶ 及 およ び中部 ちゅうぶ に移動 いどう [10] 。オランダでは中央 ちゅうおう 政府 せいふ がロマの存在 そんざい に猛 もう 反発 はんぱつ 、「ジプシー」の烙印 らくいん を押 お すに至 いた った。一方 いっぽう 、地方 ちほう 政府 せいふ の反応 はんのう はより穏健 おんけん で、他 た の部族 ぶぞく はともかく、ウルサリだけは現地 げんち 社会 しゃかい に同化 どうか する事 こと を許 ゆる されたという[23] 。
やがて、他 た 部族 ぶぞく が骨 ほね 器 き や皮革 ひかく の製造 せいぞう 販売 はんばい を始 はじ める中 なか 、サーカス に参加 さんか するか[10] [12] ラウタリに関 かか わるようになる[11] [24] 。熊 くま はタンバリン に合 あ わせて踊 おど るよう調教 ちょうきょう されたり[12] [20] [24] 、直立 ちょくりつ 歩行 ほこう などを行 おこな うよう訓練 くんれん を受 う けたりした[12] [17] 。
しかし、調教 ちょうきょう の過程 かてい における鉄棒 てつぼう や鼻輪 はなわ の使用 しよう が動物 どうぶつ 福祉 ふくし の支持 しじ 者 しゃ から注意 ちゅうい を惹起 じゃっき 。1920年代 ねんだい 以降 いこう には早 はや くも批判 ひはん の対象 たいしょう となり[12] 、ドイツ では政府 せいふ がウルサリの商売 しょうばい を禁 きん じるに至 いた る。音楽 おんがく に合 あ わせ、子 こ 熊 ぐま の足 あし を燃 も やす訓練 くんれん も報告 ほうこく されている[25] 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 緒戦 しょせん 期 き には、鉄 てつ 衛 まもる 団 だん による弾圧 だんあつ の一環 いっかん として、ルーマニア軍閥 ぐんばつ 政府 せいふ のコンスタンティン・ペトロヴィチェスク 内相 ないしょう が、ウルサリに国内 こくない 市町村 しちょうそん での熊 くま 使 づか いを禁 きん じる政令 せいれい を裁可 さいか している[26] 。この措置 そち について公式 こうしき には「そのような活動 かつどう がチフス の蔓延 まんえん を助長 じょちょう させる」という説明 せつめい がなされている[26] 。
その後 ご 数 すう 年 ねん の間 あいだ に、イオン・アントネスク 政権 せいけん 下 か でホロコースト 政策 せいさく の一環 いっかん として、トランスニストリア へ国外 こくがい 追放 ついほう となる(第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 期 き のルーマニア及 およ びポライモス も参照 さんしょう のこと)[2] [26] [27] 。
戦後 せんご 、熊 くま 使 づか いの禁止 きんし は東側 ひがしがわ 諸国 しょこく 一帯 いったい で立法 りっぽう 化 か [12] 、ルーマニア社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく ではウルサリが都市 とし への立 た ち入 い り禁止 きんし を命 めい じられている[17] 。また、ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジ 並 なら びにニコラエ・チャウシェスク 両 りょう 政権 せいけん 下 か で、放浪 ほうろう 民 みん のロマは定住 ていじゅう 政策 せいさく に服 ふく することとなった[2] [28] [29] (多 おお くはトランスニストリアからの帰還 きかん と同時 どうじ に再 さい 定住 ていじゅう したという[29] )。
社会 しゃかい 主義 しゅぎ 体制 たいせい 崩壊 ほうかい 以後 いご [ 編集 へんしゅう ]
熊 くま の衣装 いしょう を身 み に纏 まと う少年 しょうねん (ブカレストにて)
ルーマニア革命 かくめい 後 ご の1991年 ねん 4月 がつ から6月 がつ にかけて、ルーマニアジュルジュ県 けん 内 うち 各地 かくち のウルサリが襲撃 しゅうげき の対象 たいしょう となった。ウルサリたちは居住 きょじゅう 地 ち を追 お われ、家屋 かおく を焼 や かれた[28] [30] 。
発端 ほったん となった町 まち では、報復 ほうふく としてルーマニア人 じん 学生 がくせい のクリスティアン・メリントが殺害 さつがい されており、実行 じっこう 犯 はん の青年 せいねん が後 のち に懲役 ちょうえき 20年 ねん の刑 けい に処 しょ せられた[2] [28] [31] [32] 。
なお、アメリカ人 じん 作家 さっか のイザベル・フォンセーカ によると、家屋 かおく に火 ひ を放 はな ったのは大勢 おおぜい の地域 ちいき 住民 じゅうみん とされ、火 ひ が及 およ ぶよう家屋 かおく に繋 つな がる電線 でんせん を切断 せつだん して回 まわ るなど、計画 けいかく 性 せい が濃 こ いのではないかという[33] 。
こうした襲撃 しゅうげき 事件 じけん の根本 こんぽん は、嘗 かつ ての放浪 ほうろう 民 みん が社会 しゃかい 主義 しゅぎ 体制 たいせい 期 き に特権 とっけん 階級 かいきゅう であったという認識 にんしき [34] と並 なら んで、定住 ていじゅう 政策 せいさく の失敗 しっぱい にあるとする評論 ひょうろん 家 か は多 おお い[28] [34] 。
同時 どうじ に、ウルサリ絡 がら みの犯罪 はんざい 行為 こうい に関 かん しては、これとは別 べつ の報告 ほうこく もなされてきた。差別 さべつ 意識 いしき の払拭 ふっしょく が十分 じゅうぶん に成 な っていないという点 てん である。現 げん に、非 ひ ウルサリ系 けい ロマの家屋 かおく は、1991年 ねん の事件 じけん で対象 たいしょう となっていない[28] 。また、襲撃 しゅうげき に加 くわ わったのはルーマニア人 じん のみならず、古 ふる くから地域 ちいき 社会 しゃかい に溶 と け込 こ んでいる非 ひ ウルサリ系 けい ロマとも言 い われる[28] 。
土地 とち を追 お われたウルサリは、皆 みな 一旦 いったん ブカレストやジュルジュ に定住 ていじゅう し、1991年 ねん 5月 に帰還 きかん を果 は たすも、再 ふたた び地元 じもと 住民 じゅうみん により追 お い出 だ されてしまう[2] [28] 。当局 とうきょく はウルサリに退去 たいきょ したほうが良 よ いとの通告 つうこく をしたという[2] 。
2005年 ねん までに、ウルサリは嘗 かつ て彼 かれ らが居住 きょじゅう していた国有 こくゆう 地 ち に対 たい する権利 けんり 書 しょ を発行 はっこう するように求 もと めたが、当時 とうじ すでにこれらの権利 けんり 書 しょ は他 た の住民 じゅうみん に分配 ぶんぱい されつつあった。地方 ちほう 当局 とうきょく は訴 うった えを却下 きゃっか し、問題 もんだい の土地 とち の帰属 きぞく はまだ議論 ぎろん が続 つづ いているとした。また他 ほか にも購入 こうにゅう 可能 かのう な土地 とち はあると指摘 してき している[31] 。
このような熊 くま 使 づか いや大道芸 だいどうげい を圧迫 あっぱく する数々 かずかず の処置 しょち にもかかわらず、そうした芸 げい は旧 きゅう 東側 ひがしがわ 諸国 しょこく で今 いま も人気 にんき を博 はく している[25] 。かなり珍 めずら しくなったとは言 い え、現在 げんざい でも東欧 とうおう 各地 かくち でウルサリによる熊 くま 使 づか いを見 み る機会 きかい は少 すく なくない[9] [12] [25] 。
ロマの中 なか でもカルデラシュやロヴァリ 、ガボリ と同様 どうよう 、同族 どうぞく 婚 こん を行 おこな う[9] [11] [24] 。自 みずか らをヴラフ人 じん やルーマニア人 じん としたり、他 た のロマとは別 べつ と考 かんが えるメチュカラは多 おお い[9] 。
一般 いっぱん 的 てき にウルサリの共同 きょうどう 体 たい は、非 ひ ロマとの性的 せいてき 接触 せっしょく を禁 きん じ、見合 みあ い結婚 けっこん を推奨 すいしょう する傾向 けいこう にある[11] が、ボヤーシュの共同 きょうどう 体内 たいない 部 ぶ での近親 きんしん 婚 こん を認 みと めてきた[9] 。また、この習慣 しゅうかん は廃 すた れてきているものの、10代での結婚 けっこん が許 ゆる されている、数少 かずすく ないロマでもある[8] [11] [24] 。
多 おお くは古 ふる くから正教会 せいきょうかい (ルーマニア正教会 せいきょうかい またはブルガリア正教会 せいきょうかい の何 いず れか)に属 ぞく するが[9] [24] 、ペンテコステ派 は などプロテスタント 各派 かくは を信仰 しんこう [24] 。なお、セルビアやイタリアのウルサリはセルビア正教会 せいきょうかい の信徒 しんと であるケースが多 おお い[10] 。
守護 しゅご 聖人 せいじん アンデレ の聖名 せな 祝日 しゅくじつ である、正教会 せいきょうかい 暦 れき の11月30日 にち に当 あ たる2月 がつ 1日 にち 以降 いこう を、伝統 でんとう 的 てき に祭日 さいじつ としている[24] 。21世紀 せいき に入 はい り、新約 しんやく 聖書 せいしょ がバルカン・ロマ語 ご に順次 じゅんじ 翻訳 ほんやく [4] 。
ポール・ウェイランド・バートレット 作 さく 『ロマの熊 くま 使 づか い』(1888年 ねん 鋳造 ちゅうぞう )
験 けん 担 かつ ぎ として、熊 くま に纏 まつ わる様々 さまざま な信仰 しんこう や習慣 しゅうかん を維持 いじ 発展 はってん させてきた。例 たと えば、家畜 かちく を野良 のら 動物 どうぶつ から守 まも る意味 いみ を込 こ めて、民家 みんか の中庭 なかにわ に熊 くま を展示 てんじ したり、若者 わかもの の多産 たさん や悪霊 あくりょう 退散 たいさん を目的 もくてき に、熊 くま が人間 にんげん の背中 せなか を踏 ふ み付 つ けることを許 ゆる したりする、などである[11] [24] [35] 。
後者 こうしゃ の習慣 しゅうかん は、背部 はいぶ 痛 つう の民間 みんかん 療法 りょうほう と見 み 做すルーマニア人 じん の間 あいだ で、極 きわ めて人気 にんき が高 たか い。これを行 おこな うため、ウルサリを家 いえ に招 まね き入 い れる事 こと が復活 ふっかつ 祭 さい やクリスマス 、大晦日 おおみそか の風物詩 ふうぶつし となっている[17] [36] 。
骨 ほね 器 き 製造 せいぞう 者 しゃ の間 あいだ では、贅沢 ぜいたく 品 ひん である熊 くま 脂 あぶら の利用 りよう が浸透 しんとう するようになった。製品 せいひん がより長持 ながも ちするためという[11] 。また、熊 くま 脂 あぶら がリウマチ や骨格 こっかく 異常 いじょう の治療 ちりょう 薬 くすり としても売 う られている他 ほか 、熊 くま の毛 け はお守 まも り として有名 ゆうめい [17] 。
熊 くま の調教 ちょうきょう は1990年代 ねんだい 以降 いこう 、動物 どうぶつ 愛護 あいご の観点 かんてん から再 ふたた び脚光 きゃっこう を浴 あ び、インターナショナル・ヘラルド・トリビューン 紙上 しじょう で批判 ひはん キャンペーンがなされた[37] 。スタラ・ザゴラ州 しゅう のウルサリの元 もと を訪 おとず れたイザベル・フォンセーカは、残忍 ざんにん な調教 ちょうきょう 法 ほう に言及 げんきゅう しつつ、熊 くま が一家 いっか の大黒柱 だいこくばしら である以上 いじょう 、適切 てきせつ な管理 かんり を行 おこな っているとも述 の べた[25] 。
作品 さくひん 中 ちゅう に熊 くま 使 づか いや動物 どうぶつ 達 たち を描 えが いた芸術 げいじゅつ 家 か は少 すく なくない。中 なか でも、ルーマニア人 じん 画家 がか ・グラフィックアーティスト のテオドール・アマン やアメリカ人 じん 彫刻 ちょうこく 家 か のポール・ウェイランド・バートレット は特 とく に知 し られる存在 そんざい となっている。なお、バートレットの作品 さくひん 『ロマの熊 くま 使 づか い』(1888年 ねん )は、ニューヨーク のメトロポリタン美術館 びじゅつかん に展示 てんじ 中 ちゅう 。
1850年代 ねんだい 以降 いこう 、ラウタリ文化 ぶんか の形成 けいせい に寄与 きよ してきた[11] 一方 いっぽう 、伝統 でんとう 音楽 おんがく も歴 れっき とした1つのジャンルとして生 い き残 のこ っている。電子 でんし 音楽 おんがく と融合 ゆうごう し、21世紀 せいき 初頭 しょとう のルーマニアでは音楽 おんがく グループシュカー・コレクティブ が人気 にんき を集 あつ めた[38] 。
熊 くま 使 づか いが用 もち いた聖歌 せいか は、以下 いか のように童謡 どうよう として今 いま も歌 うた い継 つ がれている。
Joacă, joacă Moş Martine,
Că-ţi dau pâine cu măsline![17]
踊 おど れ、踊 おど れ、老 ろう 少年 しょうねん マーティンよ
パン やオリーブ をくれてやろう!
以下 いか に掲 かか げるこのロング・バージョンは、バカウ県 けん のウルサリが未 いま だ歌 うた い継 つ いでいる。
Foaie verde pădureţ,
Urcă ursule pe băţ,
Urcă, urcă tot mai sus,
Că şi miere ţi-am adus.
Joacă, joacă Moş Martine,
Că-ţi dau miere de albine.
Joacă, joacă frumuşel,
Si păşeşte mărunţel.
Saltă, saltă cât mai sus,
Căci stăpânu' ţi s-a dus![17]
野生 やせい リンゴ の緑 みどり の葉 は
登 のぼ れ、杖 つえ の上 うえ の熊 くま よ
まだまだ高 たか く高 たか く登 のぼ れ
蜂蜜 はちみつ も持 も って来 き てやったから
踊 おど れ、踊 おど れ、老 ろう 少年 しょうねん マーティンよ
蜂蜜 はちみつ をくれてやるから
踊 おど れ、踊 おど れ、格好 かっこう 良 よ く
そしてステップを少 すこ し踏 ふ め
跳 と べ、跳 と べ、高 たか く、高 たか く
親方 おやかた が逃 に げ出 だ してしまうから!
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