フォーライフ・レコード

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1990年代ねんだい竣工しゅんこうしたレコーディングスタジオけん本社ほんしゃげん国立こくりつ音楽おんがくいん校舎こうしゃ
建物たてもの上部じょうぶこう名下みょうげにフォーライフ・レコードのシンボルマークがのこされている。

株式会社かぶしきがいしゃフォーライフ・レコード(FOR LIFE RECORDS)は、1975ねんから2001ねんまで存在そんざいした日本にっぽんレコード会社かいしゃ

当社とうしゃ設立せつりつは、現役げんえきミュージシャンがレコード会社かいしゃ設立せつりつするという、当時とうじおおきな社会しゃかいてき反響はんきょうんだJ-POPのこだい事件じけんであった[1][2][3][4][5][6]。2002ねん以降いこう新設しんせつ会社かいしゃフォーライフミュージックエンタテイメント事業じぎょう継承けいしょうしている。

概要がいよう[編集へんしゅう]

小室こむろひとし吉田よしだ拓郎たくろう井上いのうえ陽水ようすい泉谷いずみやしげるといった当時とうじ人気にんきフォークシンガー4にん1975ねん設立せつりつしたレコード会社かいしゃ[7][8][9]小室こむろ初代しょだい代表だいひょう取締役とりしまりやく社長しゃちょう後藤ごとうゆかりふく社長しゃちょう井上いのうえ吉田よしだ泉谷いずみや取締役とりしまりやく就任しゅうにん社名しゃめいの「ライフ」は吉田よしだ発案はつあんで「人生じんせい」という意味いみ[10][11]吉田よしだは「トゥーライフ」にしたかったが、みんなでわいわいやっているうちに「フォーライフ」になったという[11]

1975ねん2がつ26にちづけ報知ほうち新聞しんぶんいちめんに《100おくえんの"旗揚はたあげ"》というだい見出みだしで「井上いのうえ陽水ようすい 吉田よしだ拓郎たくろう レコード会社かいしゃ設立せつりつ」という記事きじ掲載けいさいされた[4][10]しんレコード会社かいしゃ順調じゅんちょう発足ほっそくすれば、井上いのうえ30すうおく吉田よしだ20すうおく小室こむろ参加さんか予想よそうされる泉谷いずみやほかのメンバーでわせて100おくえんそう売上うりあげだかほこることになり、一気いっき大手おおてレコード会社かいしゃかたならべられる一大いちだいレコード会社かいしゃ誕生たんじょうすることになる[4][12]。いわゆるスッパ記事きじたため、レコード業界ぎょうかい、マスコミは真相しんそうをつかむためにうえしたへのだい騒動そうどうとなり、社会しゃかいてき問題もんだいとしてひろがっていった[5]当時とうじはフォークがレコード業界ぎょうかいにおいておおきなちからっていたため業界ぎょうかいだい混乱こんらんとなった[5]

沿革えんかく[編集へんしゅう]

設立せつりつ経緯けいい[編集へんしゅう]

設立せつりつのきっかけは、当時とうじすでにCBS・ソニーげんソニー・ミュージックエンタテインメントない個人こじんレーベルをちレコーディングにおいてプロデュースというかたち権限けんげんあたえられていた吉田よしだが「そのさき営業えいぎょう宣伝せんでんにおける全権ぜんけんにぎりたい」とかんがえ、それにたい小室こむろ提案ていあんしたことだった[11][13]吉田よしだ1974ねん後藤ごとうゆかりとともにボブ・ディランのコンサートをるため渡米とべい、アメリカの音楽おんがく事情じじょうったという背景はいけいがあった[14]小室こむろ所属しょぞくしていたベルウッド・レコードニューミュージック方面ほうめん販売はんばい促進そくしんりょくよわさなどに不満ふまんがあった[4][12][13]吉田よしだ当時とうじのインタビューで「いまのレコード会社かいしゃ年功序列ねんこうじょれつてき組織そしきなかではプロデューサーとしてはなにもできない。おれたちのちからではくずせないかべがある。プロデューサーという価値かちかん会社かいしゃほうでもわかってない。日本にっぽんではプロデューサーの評価ひょうか全然ぜんぜんない。ミュージシャンだけでなくそれにたずさわった全部ぜんぶひと評価ひょうかされるシステムをつくりたい」とべている[11]大手おおてレコード会社かいしゃ意向いこう絶対ぜったいだった時代じだいに、ビジネス優先ゆうせん作品さくひんづくりから、アーティスト主導しゅどうによる作品さくひんづくりをしたいおもいがあった[15]

小室こむろ吉田よしだ二人ふたりでやるつもりでおさけみながらはなしすすめていたが、吉田よしだが「おれ小室こむろさんの二人ふたりでやるんじゃかりやすくて面白おもしろくない。井上いのうえ陽水ようすいはいるんならやってもいい。あんた陽水ようすいしたしいならはなしてみてくれ」とわれた。小室こむろは、承諾しょうだくはしないだろうと予想よそうして井上いのうえはなしたら「参加さんかしたい」とわれた[10][16]井上いのうえはその理由りゆうについて「環境かんきょうえてみたかったこと」と「吉田よしだ拓郎たくろうちかいところにいるのも面白おもしろいとおもった」とこたえた[16][17]。この3にんはないをしてみたが、なにりない、もう一人ひとりどくのあるのがしいとなって吉田よしだ泉谷いずみやこえをかけ4にんになった[10][16]泉谷いずみやは「フォーライフは吉田よしだ拓郎たくろうという天才てんさいがつくったもの。オレはさそわれただけ」[18]、「おれがアメリカにあそびにってるあいだに、らないうちにまっていた」などとはなしている[19]吉田よしだ井上いのうえとも所属しょぞくのレコード会社かいしゃとちょうど契約けいやくれるいいタイミングだった[20]小室こむろ吉田よしだは、最初さいしょにベルウッド・レコードをめた三浦みうら光紀みつのりはなしちかけたが、三浦みうらのスタッフに拒否きょひされた[21]

当時とうじ音楽おんがく状況じょうきょう[編集へんしゅう]

戦後せんごからレコード会社かいしゃ主導しゅどう発展はってんして日本にっぽん音楽おんがくかいでは、アーティストがレコード会社かいしゃつということは非常ひじょう挑戦ちょうせんてきなことであった[22]歌手かしゅ・アーティストがきょく制作せいさくから広報こうほう営業えいぎょうまでつよ権限けんげんつことで、それまでの組織そしきがた業界ぎょうかいのシステムを根本こんぽんからくつがえしてしまうと、音楽おんがく業界ぎょうかい反感はんかんつよかった[23]当時とうじ音楽おんがく業界ぎょうかいはレコード会社かいしゃ権限けんげん圧倒的あっとうてきつよく、アーティストは契約けいやく"される"がわで、経営けいえいしゃはアーティストを選別せんべつれなくなるとてるという関係かんけいたりまえだった[24]自作じさく自演じえん中心ちゅうしんだったフォークとは無縁むえんのようでいて、とし3まいのアルバム契約けいやくしばりや、自身じしん意向いこうとは無縁むえんのシングルばんリリースなど、たいレコード会社かいしゃとのちから関係かんけい圧倒的あっとうてきにアーティストに不利ふりだった[6]吉田よしだがエレック時代じだい社員しゃいんあつかいのため給料きゅうりょうせいで、CBS・ソニーに移籍いせきしたさい莫大ばくだい印税いんぜいまれおどろき、アーティストの権利けんりについてはじめてかんがえたといわれる[6]

事態じたい憂慮ゆうりょした日本にっぽんレコード協会きょうかい定例ていれい理事りじかいひらき「吉田よしだ井上いのうえらのしんレコード会社かいしゃ販売はんばいけない」ことをもうわせ[4]かくレコード会社かいしゃにプレスも販売はんばいみとめないでくれと通達つうたつがまわった[25]海外かいがいではビートルズローリング・ストーンズレッド・ツェッペリンなど、当時とうじから自分じぶんのレコード会社かいしゃつアーティストはおおかったが、それらも自分じぶんたちが録音ろくおんしたものを既成きせいだいメーカーにるという制作せいさく会社かいしゃで、このときのような制作せいさくから販売はんばいまでするということではなかった[5]

業界ぎょうかいすじ、ジャーナリストあいだでは"実現じつげんできそうもないゆめだよ"との見方みかた大方おおかたであったが、マスメディアの反響はんきょうあまりのおおきさに小室こむろ吉田よしだ井上いのうえの3にん今更いまさらくにけなくなり"意地いじでもやりこう"と結束けっそく[10][12]吉田よしだ友人ゆうじんなかには、プロダクションからるしげにものた。しかしおおくの若者わかもの、フォークファンは賛辞さんじおくった。2008ねん吉田よしだきょく全編ぜんぺんにわたって使用しようする映画えいが結婚けっこんしようよ』を監督かんとくした佐々部ささべきよしは「レコード会社かいしゃ喧嘩けんかった幕末ばくまつ志士ししみたいでカッコよかった」とべている[26]吉田よしだファンの重松しげまつきよしは、自身じしんを「フォーライフ世代せだい」とべている[27]

もっと問題もんだいとなったのはレコードのプレスと流通りゅうつうルートであった。それらは殆んど大手おおてレコード会社かいしゃっていたため業界ぎょうかいから圧力あつりょくをかけられ、やむなく人件じんけん日本にっぽんよりやすくなる韓国かんこくでのプレスや通信つうしん販売はんばいまで検討けんとう[10]。ただおおきな売上うりあげ予想よそうされるだけに手掛てがけたいというのがかくレコード会社かいしゃ本音ほんねではあった[4]。そこへ当時とうじポニーおよびキャニオンレコード(げんポニーキャニオン)の社長しゃちょうであった石田いしだ達郎たつおすくいのべ、プレス・販売元はんばいもとをキャニオンレコード[ちゅう 1]販売はんばい委託いたくをポニーがった[23][25][29]

会社かいしゃ発足ほっそく[編集へんしゅう]

1975ねん4がつ11にち高輪たかなわプリンスホテルしんレコード会社かいしゃ発足ほっそく記者きしゃ会見かいけん。この会見かいけんでは300にん報道陣ほうどうじんあつまり関心かんしんたかさをしめした[10][14]同年どうねん6がつ1にち小室こむろ吉田よしだ井上いのうえに、から参加さんかした泉谷いずみやのフォーク4にんしゅが「フォーライフ・レコード」を正式せいしき発足ほっそくさせた[5][12]。フォーライフ発足ほっそくキャッチコピーは、"わたしたちに音楽おんがくながれをえることができるでしょうか"だった[24]。フォーライフの設立せつりつ革命かくめいであり[24]サブカルチャーからメインカルチャーおどた"70年代ねんだいフォーク"のひとつの到達とうたつてんだった[24]。しかし、のアーティストはあまり参加さんかせず、野澤のざわ享司きょうじ[31]がセカンド・アルバムをリリースした程度ていどであった。業界ぎょうかい全体ぜんたい売上うりあげが184おくえんだった1975ねん初年度しょねんど売上うりあげだかは31おくえんたっした[29]よく1976ねん売上うりあげだか公称こうしょう41おく4せんまんえん実質じっしつ20おく7せんまんえんといわれた[1]

その[編集へんしゅう]

だい2・だい3のフォーライフの追随ついずい期待きたいしたが、そういったうごきはまったかった[10][32][33]世間せけんからは「たしていつまでいつまでつづくか」とややかなられた[34]

発売はつばいタイトルがアイドル歌謡かようきょくロックバンド偏重へんちょうするようになると、創業そうぎょうメンバーに足並あしなみのみだれがしょうじる。

1977ねん3がつそう売上うりあげが8おくえんになったことで小室こむろわり吉田よしだ代表だいひょう取締役とりしまりやく社長しゃちょう就任しゅうにん[1][12]井上いのうえ泉谷いずみや吉田よしだ社長しゃちょう就任しゅうにん反対はんたいしたが[15]、「みんなの意見いけんいていたら3ヵ月かげつるレコードが1ねんかかる。フォーライフの再建さいけんおれしかない」と吉田よしだ社長しゃちょう就任しゅうにん[15]社長しゃちょう交代こうたい小室こむろ井上いのうえ泉谷いずみやの3にん経営けいえいからき、いちプロデューサーになり、吉田よしだのワンマン体制たいせいかれた[12][15]かくメディアは「経営けいえい不振ふしん内紛ないふん原因げんいん」とほうじた[1]吉田よしだ自身じしん音楽おんがく活動かつどう社長しゃちょうぎょう専念せんねん[15]大手おおてプロダクションやレコード会社かいしゃ社長しゃちょう接待せったいゴルフをしたりさけわした[15]吉田よしだのプロデュースで原田はらだ真二しんじがデビュー、おおきな利益りえきげたものの、その原田はらだ早々そうそう移籍いせきするなど、フォーライフがわねら方向ほうこうせいと、次世代じせだいアーティストの理想りそうとのあいだ乖離かいりてきた[6]吉田よしだ社長しゃちょうになり水谷みずたにゆたかなど歌謡かようきょくがけるようになったことにたいし、泉谷いずみやは、以前いぜんのフォーライフのかんがかたちがうと問題もんだい提起ていき同年どうねん7がつ13にち退社たいしゃ[18][35][36]つくしゅがわ理想りそうと、利益りえきさねばならぬレコード会社かいしゃ現実げんじつという問題もんだい直面ちょくめんすることになった[6]泉谷いずみやの3にんは10年間ねんかん仲違なかたがいがあり[19]泉谷いずみやは「フォークの裏切うらぎもの」のレッテルをられライブをやってもおきゃくはいらなくなり[19]、そのころ向田むかいだ邦子くにこからオファーがあったのが役者やくしゃ仕事しごとだった[19]1982ねん吉田よしだわり後藤ごとう社長しゃちょう就任しゅうにんした。販売はんばい流通りゅうつうの1990年代ねんだいにポニーキャニオンからはなれ、BMGジャパンげんアリオラジャパン)、SMEJげんソニー・ミュージックソリューションズ)に移管いかんした。

倒産とうさんしん会社かいしゃへの事業じぎょう譲渡じょうと[編集へんしゅう]

1990年代ねんだい前半ぜんはんZOOさねよしいさひとし楽曲がっきょくがスマッシュヒット、杏里あんりのアルバムがつづけに1セールスを記録きろくしたものの、1997ねんはいると、長渕ながぶちつよし長年ながねん在籍ざいせきした東芝とうしばEMIより電撃でんげき移籍いせきがあったが、1994ねんのフォーライフ・レコード移籍いせきにプライベートレーベルまでいた坂本さかもと龍一りゅういち前年ぜんねんPRIDE」でミリオンセラーとなった今井いまい美樹みき主力しゅりょくアーティストが相次あいつ他社たしゃ移籍いせきA&Rによる新人しんじんアーティスト売上うりあげ不振ふしん世田谷せたがや池尻いけじり銀行ぎんこう融資ゆうし竣工しゅんこうしたレコーディング・スタジオねた本社ほんしゃビルの返済へんさい負担ふたんから経営けいえい悪化あっか

1999ねん発売はつばい井上いのうえの『GOLDEN BEST』がダブルミリオンを記録きろく売上うりあげ井上いのうえおおきく依存いぞんする状況じょうきょうになった。1999ねん創業そうぎょう当時とうじから在籍ざいせきした吉田よしだ、2000ねんに1978ねんのデビューから在籍ざいせきした杏里あんり他社たしゃ移籍いせき。2001ねん9がつまつ原盤げんばんけんゆうすアーティストのベスト・アルバムPURE BEST」をレーベル主導しゅどう企画きかく、10タイトルを発売はつばい

2001ねん11月14にち、フォーライフ・レコードは臨時りんじ株主かぶぬし総会そうかい同日どうじつづけでの解散かいさん決議けつぎ本社ほんしゃ所在地しょざいち界隈かいわい地名ちめいかんした株式会社かぶしきがいしゃ三宿みしゅく産業さんぎょう社名しゃめい変更へんこう新設しんせつした株式会社かぶしきがいしゃフォーライフミュージックエンタテイメント(FLME)にたいしてレコード会社かいしゃとしての業務ぎょうむ資産しさんすべてを売却ばいきゃく譲渡じょうとした(後藤ごとうはFLME社長しゃちょうとして続投ぞくとうする一方いっぽう三宿みしゅく産業さんぎょう清算せいさんじんとなる)。同年どうねん12がつさん宿しゅく産業さんぎょう東京とうきょう地裁ちさい特別とくべつ清算せいさん申請しんせいし、よく2002ねん2がつ22にちづけ特別とくべつ清算せいさん開始かいし決定けってい2004ねん6月18にちづけ特別とくべつ清算せいさん終結しゅうけつ確定かくていし、清算せいさん完了かんりょう新旧しんきゅう分離ぶんりによる経営けいえい再建さいけんさくであるが、いまだこの手段しゅだん普及ふきゅうしていなかった。三宿みしゅく産業さんぎょう負債ふさい総額そうがくやく60おくえん本社ほんしゃは2003ねん国立こくりつ音楽おんがくいん買収ばいしゅう校舎こうしゃとして使用しようされている。

フォーライフ・レコード時代じだいきゅうばん楽曲がっきょく廃盤はいばんすみタイトルをふくめ、ぜん事業じぎょう承継しょうけいしたFLMEから発売はつばい企画きかく継続けいぞくされている。

フォーライフ・レコード設立せつりつ影響えいきょう[編集へんしゅう]

設立せつりつまでの経緯けいいとしてフォークけいアーティストたちの"権利けんりビジネスの目覚めざめ"という見方みかたがある[29]。1974ねん吉田よしだ楽曲がっきょく提供ていきょうしたもり進一しんいちの「襟裳岬えりもみさき」がだいヒットして以降いこう、ニューミュージックけいアーティストが歌謡かようきょく歌手かしゅ楽曲がっきょく提供ていきょうする事例じれいえたが、ソングライターであることが、場合ばあいによってはシンガーである以上いじょう利益りえきをもたらす。そうした権利けんり目覚めざめたアーティストたちの帰結きけつとしてまれたのが、アーティスト主導しゅどうのレコード会社かいしゃ・フォーライフ・レコードだったのである[29]

フォーライフの最大さいだい功績こうせきは、アーティストたちがプロデューサーてき権限けんげんつよめ、自身じしん権利けんり主張しゅちょう保護ほごする契機けいきとなったことである[6]。フォーライフ設立せつりつ以降いこうおおきな産業さんぎょうとなったニューミュージックの利権りけんうた著作ちょさくけんめぐり、アーティストあるいはプロダクション主導しゅどうがたのレコード会社かいしゃ続々ぞくぞく設立せつりつ[6]作曲さっきょくだった村井むらい邦彦くにひこが1977ねんアルファレコード、1978ねんにはEPIC・ソニー(げんエピックレコードジャパン)、SMSレコード[ちゅう 2]ケンウッド・レコードなど。これらはいずれも大手おおてレコード会社かいしゃ大手おおてプロダクションが設立せつりつしたもので、現役げんえきアーティストが設立せつりつしたものではないが、1978ねんから1979ねんにかけさだまさしフリーフライト井上いのうえ堯之のウォーター・レコード、加藤かとう和彦かずひこ内田うちだ裕也ゆうやのカメリア・レコードなど、配給はいきゅう宣伝せんでん大手おおておこない、制作せいさくだけを手掛てがけるレコード会社かいしゃ設立せつりつされた。日本にっぽんのコンサートイベンター、ヤング・ジャパンポリグラム提携ていけいしてポリスター設立せつりつするなどレコード会社かいしゃ設立せつりつラッシュとなった[38][39]

このころから大手おおてプロダクションから独立どくりつするタレント、マネージャー、社員しゃいん相次あいつぎ、個人こじん事務所じむしょあたらしい芸能げいのうプロダクション設立せつりつされた[ちゅう 3]

富澤とみざわ一誠いっせいは「フォーク・ニューミュージックは、1977ねんまでは吉田よしだ拓郎たくろう井上いのうえ陽水ようすいにリードされ、つねにその影響えいきょうにある時代じだいつづいていたが、1977ねん泉谷いずみやしげるが退社たいしゃ、フォーライフの一角いっかくくずれ、圧力あつりょくよわまった間隙かんげきをついてあたらしい音楽おんがくせいった新人しんじんしてた。時代じだいそのものがガラリとわってしまった」とべている[41]

ヤング・ギター」は、吉田よしだ強力きょうりょく応援おうえんしたことでられるが[42]初代しょだい編集へんしゅうちょう山本やまもと隆士たかしは「メジャーでできないことをやろうというのがフォーライフだった。それがたしてずっとつづいたかというと、結局けっきょく分裂ぶんれつしてしまったけど、でもメジャーの体制たいせいもフォーライフの登場とうじょうによってえられたのかなとおもう」などとべている[43]小室こむろは1991ねんのインタビューで「フォーライフがいまでもつづいていることの意義いぎがあるとしたら、それは代目だいめ社長しゃちょう吉田よしだ功績こうせきおおきいんじゃないかとおもう」とべている[44]

なお、フォーライフ設立せつりつから1990年代ねんだいなかばまでの状況じょうきょう小室こむろひとし吉田よしだ拓郎たくろう楽曲がっきょくきみってからというものボクは」にまとめられている。

ディスコグラフィ[編集へんしゅう]

シングル(7インチEP)[編集へんしゅう]

アルバム(12インチLP)[編集へんしゅう]

2001ねん時点じてん所属しょぞく・リリースをしていたアーティスト[編集へんしゅう]

くだり[編集へんしゅう]

こう[編集へんしゅう]

ぎょう[編集へんしゅう]

こう[編集へんしゅう]

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こう[編集へんしゅう]

ぎょう[編集へんしゅう]

かつて所属しょぞくしていたアーティスト[編集へんしゅう]

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こう[編集へんしゅう]

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くだり以降いこう[編集へんしゅう]

販売元はんばいもと[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 実際じっさいのカッティングとプレスは東洋とうよう化成かせい委託いたくしていた[28]
  2. ^ 1970ねん渡辺わたなべプロダクションがアメリカのワーナー・ブラザース合弁ごうべん設立せつりつしたワーナー・パイオニア(げんワーナーミュージック・ジャパン)を、1978ねん渡辺わたなべプロダクションが資本しほん撤退てったいし、あらたにトリオげんJVCケンウッド)と西武百貨店せいぶひゃっかてんの3しゃ設立せつりつしたレコード会社かいしゃ[37]
  3. ^ タレントにとっては大手おおて芸能げいのうプロダクションに所属しょぞくしているほう有利ゆうりだが、人気にんき仕事しごとさえあれば個人こじん事務所じむしょ設立せつりつしたほう利益りえきになる。とく原盤げんばん制作せいさくけんにぎることが可能かのうとなったニューミュージックの歌手かしゅたちは、テレビに出演しゅつえんしなくても利益りえきがるため、大手おおて芸能げいのうプロの所属しょぞく必要ひつようとせず個人こじん事務所じむしょ設立せつりつした[40]
  4. ^ 正式せいしきなデビューはほんレーベルから。実質じっしつのデビューシングルは1993ねんにBMGルームスから発売はつばいした「あなたがわからない」。
  5. ^ 1975ねんだいいちかいフォーライフ・レコード新人しんじんオーディションに合格ごうかく、1977ねん8がつ25にちに「かる気持きもちで」でデビュー予定よていだったが見本みほんばんだけつくられただけでデビューはしていない。1978ねん音楽おんがく制作せいさくプロダクションビーイング設立せつりつし、音楽おんがくプロデューサーとして活躍かつやく。フォーライフではザ・モータースポーツ・ミュージック、ムッシュかまやつ、田中たなか律子りつこのプロデュース。1984ねんには井上いのうえ陽水ようすいのシングル「かなしき恋人こいびと」をパインジュースのかん名義めいぎ楽曲がっきょく提供ていきょうしている。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  38. ^ 日本にっぽんのフォーク&ロックこころざしはどこへ―、1982ねん9がつ田川たがわただしちょ音楽之友社おんがくのともしゃ、p178-181
  39. ^ ゆめのあがり―ニューミュージックの仕掛しかけじんたち―、p137-139
  40. ^ 芸能げいのうビジネスをつくったおとこ-渡辺わたなべプロとその時代じだい新潮社しんちょうしゃ、176-177
  41. ^ 谷岡たにおか雅樹まさきりゅう漂泊ひょうはく1983 このまどからぁ、なんにもえねえなあ』、さんいち書房しょぼう、2013ねん、p165 ISBN 978-4-380-13900-0
  42. ^ 吉田よしだ拓郎たくろう これが青春せいしゅん |シンコーミュージック・エンタテイメント
  43. ^ 日本にっぽんのフォーク完全かんぜん読本とくほん』、p197
  44. ^ 村田むらた久夫ひさお小島こじまさとしへん小室こむろひとしインタビュー」『日本にっぽんのポピュラーかたる―時代じだいうつした51にん証言しょうげんシンコーミュージック、1999ねん10がつ14にち、84-87ぺーじISBN 4-401-613-40-6 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]