モンゴルけい民族みんぞく

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モンゴルけい民族みんぞく(Mongolic peoples)は、モンゴル語族ごぞく言語げんご母語ぼごとするしょ民族みんぞく総称そうしょうおも居住きょじゅういきモンゴル高原こうげん現在げんざいモンゴルこく中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく内モンゴル自治うちもんごるじちわせたものにほぼ一致いっちする地域ちいき)にバイカルきょうやすみね一帯いったいとバイカル~アルタイ山脈さんみゃく一帯いったいわせた地域ちいき中央ちゅうおうユーラシア)。

大雑把おおざっぱ人口じんこう内訳うちわけは、モンゴルこくに200まん中国ちゅうごく内モンゴル自治うちもんごるじちに400まん、ロシア・ブリヤート共和きょうわこくに20まんである。詳細しょうさいるとモンゴルこくでは人口じんこうやく253まん3100にんのうち95%(やく241まんにん)がモンゴルぞく(2004ねん統計とうけい年鑑ねんかん)であり、中国ちゅうごくにはやく1000まんにん内モンゴル自治うちもんごるじちやく400〜500まん、それ以外いがい中国ちゅうごくないやく500〜600まん)のモンゴルぞくがいる。

現在げんざいのモンゴルけい民族みんぞく[編集へんしゅう]

モンゴル諸語しょご分布ぶんぷ
  現在げんざいのモンゴルけい民族みんぞく居住きょじゅう地域ちいき
  13世紀せいき後半こうはんモンゴル帝国ていこく

分布ぶんぷ[編集へんしゅう]

モンゴルこくおよび中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくにおけるモンゴルぞく自治じち区域くいき

そとモンゴル(モンゴルこく[編集へんしゅう]

現在げんざいのモンゴルこくにあたる「そとこうむふる(がいもうこ)」とは、「うちこうむふる」とともにきよしあさ時代じだいにつけられたで、現在げんざい世界せかいてき使つかわれる用語ようごである(英語えいごでOuter Mongoliaとぶ)。しかし、清朝せいちょうがわからたこの呼称こしょうはモンゴルじんきらわれており、モンゴルじん自身じしんでは「きた(アル)モンゴル」としょうしている。また、モンゴルこくの8わりじゃくハルハぞくばれるモンゴルけい民族みんぞくめられているため、「ハルハ・モンゴル」ともばれる。モンゴルこく世界せかい唯一ゆいいつのモンゴルじん独立どくりつ国家こっかであり、人口じんこうは256まんにん(2005ねん)、そのうち8わりじゃくがハルハ・モンゴルぞくのこり2わりきょうにそのモンゴルけいテュルクけい民族みんぞくの16部族ぶぞく居住きょじゅうする。言語げんごはハルハ・モンゴル標準ひょうじゅんで、文字もじ1941ねん以来いらいキリル文字もじであるが、民主みんしゅ古来こらいたてモンゴル文字もじ復活ふっかつさせようといううごきがある。

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うちモンゴル(中国ちゅうごくないこうむ自治じち[編集へんしゅう]

現在げんざい中国ちゅうごくりょうである内モンゴル自治うちもんごるじちは、清朝せいちょう時代じだいに「うちこうむ(ないもうこ)」とばれ、もともとはモンゴル帝国ていこく北元きたもと)の中心ちゅうしんでチャハル・モンゴルの支配しはいいきであったが、17世紀せいききよし編入へんにゅうされて以降いこう中国ちゅうごくりょうとなっている。現在げんざいもなお「うちこうむいにしえ」とばれているが、上記じょうき理由りゆうからモンゴルじん自身じしんでは「みなみ(オボル)モンゴル」とばれている。人口じんこうはモンゴルこくそとモンゴルにたいし、モンゴルけいモンゴルぞくが1わりであり、のこり8わりかんぞくめられており、文化ぶんかてきかんすすみ、モンゴルほぐさないモンゴルぞくもいる。文字もじ伝統でんとうてきたてきモンゴル文字もじ使用しようする。

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その中国ちゅうごく領内りょうないのモンゴル[編集へんしゅう]

中国ちゅうごく新疆しんきょうウイグル自治じちのにはかつてオイラトジュンガル帝国ていこく子孫しそんであるオイラドぞく居住きょじゅうしており、ボルタラ・モンゴル自治じちしゅうバインゴリン・モンゴル自治じちしゅう行政ぎょうせい区画くかく存在そんざいする。やすしなつ甘粛かんせい地方ちほうにはイスラム教徒きょうとであるドンシャンぞくバオアンぞく居住きょじゅうしている。

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ロシアりょうのモンゴル[編集へんしゅう]

ロシア連邦れんぽうブリヤート共和きょうわこくにはモンゴル北部ほくぶ方言ほうげんぞくするブリヤートはなブリヤートじんんでいる。自治じち共和きょうわこくそう人口じんこうは97まんにん2005ねん)であり、そのうちの半数はんすうロシアじんである。「ブリヤート」とはロシアふう発音はつおんで、もともとは「ボリヤド」という。ブリヤートじんは12~13世紀せいきごろ「もりみん(オイン・イルゲン)」とばれ、モンゴル北部ほくぶ森林地帯しんりんちたい狩猟しゅりょう牧畜ぼくちくいとなんでいた。1207ねんチンギス・カン長男ちょうなんジョチによってモンゴル帝国ていこく編入へんにゅうされて以来いらい、モンゴル民族みんぞくとなり、その影響えいきょうチベット仏教ぶっきょうひろまった。17世紀せいきよりロシアの侵入しんにゅうはじまり、1689ねんネルチンスク条約じょうやくによってロシアりょうとなる。1920ねんには赤軍せきぐんにより極東きょくとう共和きょうわこくてられ、まもなくソ連それんりょうとなり、1923ねんにはブリヤート・モンゴル自治じち共和きょうわこく編入へんにゅうされ、1958ねんには現在げんざいのブリヤート自治じち共和きょうわこく改称かいしょうされた。また、カスピ海かすぴかい北岸ほくがんカルムイク共和きょうわこくには上記じょうきのオイラドぞく同族どうぞくであるカルムイクじんむ。「カルムイク」とはヨーロッパがわからのであり、自称じしょうはやはり「オイラド」という。自治じち共和きょうわこく人口じんこうは29まんにんであるが、カルムイクじんはその半数はんすう以下いかである。カルムイクはモンゴル西部せいぶ方言ほうげんぞくし、文字もじはキリル文字もじたてきモンゴル文字もじ改良かいりょうしたトド文字もじ使用しようする。

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歴史れきし[編集へんしゅう]

ひがしえびす[編集へんしゅう]

中国ちゅうごく春秋しゅんじゅう戦国せんごく時代じだいからはただいにかけてうちモンゴル東部とうぶ満州まんしゅう西部せいぶんでいた遊牧民ゆうぼくみんぞくやまえびすなどとともにつばめきた位置いちし、それぞれ分散ぶんさんしてたにあいに居住きょじゅうしていた。はた始皇帝しこうてい中国ちゅうごく統一とういつしたころ、ひがしえびす北方ほっぽう強大きょうだいとなったが、匈奴きょうどおかせひたすらたん侵攻しんこうによりひがしえびすおうころされ、そのくにほろんだ。のちにひがしえびすのこりでがらす桓山にのがれた勢力せいりょくがらすとなり、鮮卑やまのがれた勢力せいりょく鮮卑となった。[5]

がらす桓・鮮卑[編集へんしゅう]

匈奴きょうどおかせひたすらたん于によってひがしえびす国家こっかほろぼされると、その残存ざんそん勢力せいりょくがらす桓山や鮮卑やまのがれたため、それぞれがらす桓、鮮卑とばれるようになる。がらす桓ははやくから匈奴きょうど臣下しんかとなっていたが、匈奴きょうどつぼ衍鞮たん(こえんていぜんう)(在位ざいい紀元前きげんぜん85ねん - 紀元前きげんぜん68ねん)の時代じだい以降いこう叛服はんぷくかえすようになり、こうかん時代じだいになるとその臣下しんかとなり、こうかん国境こっきょう警備けいびたるようになった。鮮卑も前漢ぜんかん時代じだい匈奴きょうどぞくしていたが、目立めだったうごきはせず、こうかん時代じだいになってからこうかんたいして叛服はんぷくかえすようになり、きた匈奴きょうど西にしはしのちのモンゴル高原こうげん占拠せんきょし、まゆみせきえんじゅ時代じだいにはだい帝国ていこくきずいた。まゆみせきえんじゅ死後しご部族ぶぞく分裂ぶんれつし、つぶせばつ慕容宇文うぶんだんといった勢力せいりょくまれ、えびすじゅうろくこく時代じだい南北なんぼくあさ時代じだいをもたらした。

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やわしか[編集へんしゅう]

やわしかはもともと鮮卑つぶせばつぞくしていたが、つぶせばつ中国ちゅうごく移住いじゅうきたたかし)、こうしゃなどを吸収きゅうしゅうしてモンゴル高原こうげん勢力せいりょく拡大かくだいし、あせ(かがん)を中心ちゅうしんとする遊牧ゆうぼく帝国ていこくきずいた。やわらしかはたびたび中国ちゅうごく北部ほくぶつぶせばつ王朝おうちょうきたや、ぞくみんであるこうしゃなどと衝突しょうとつしたが、6世紀せいき中頃なかごろ鍛鉄たんてつ奴隷どれいである突厥によってくにうばわれてしまう。

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ちぎり・奚・まめ莫婁[編集へんしゅう]

ちぎり4世紀せいきから14世紀せいきにかけて、満州まんしゅうから中央ちゅうおうアジア地域ちいき存在そんざいしたはんのう半牧はんぼく民族みんぞくちぎりまめ莫婁しつ東部とうぶ鮮卑のながれをむとされており、その言語げんごおなじであるとされる。[8]

ちぎり10世紀せいき耶律阿保あぼのもとで国家こっか整備せいびし、王朝おうちょうりょう)をきずいた。1004ねんにはきたそう澶淵(せんえん)のめいむすび、きたそうからりょう莫大ばくだい財貨ざいか毎年まいとしおくられるようになると、経済けいざいりょくけたりょうひがしアジアから中央ちゅうおうアジアまで勢力せいりょくばした強国きょうこくとなった。しかしりょう上層じょうそう次第しだい堕落だらくし、内部ないぶこうそうはげしさをしたため、1125ねんおんなしんぞく王朝おうちょうきむ侵攻しんこうによりりょうほろぼされた。その余勢よせい中央ちゅうおうアジアにのが西にしりょう(カラ・キタイ)を建国けんこくした。

しつ韋(さんじゅうせいタタル)[編集へんしゅう]

しつ韋・ちぎりとも中国ちゅうごく史書ししょにはひがしえびす子孫しそんであるとか、鮮卑の子孫しそんであると記述きじゅつされており[9]しつ韋の一部族蒙兀室韋(こうむかわら)がのちのモンゴルであることから、これらの民族みんぞく系統けいとうはモンゴルけい推測すいそくされる。しかし、大室おおむろ韋などは「言葉ことばつうじない」とあることから[10]、すべてがモンゴルけいというわけではないといえる。

モンゴル[編集へんしゅう]

中国ちゅうごく歴史れきししょしつ一部いちぶぞくとして「こうむ兀室韋」[11]、「こうむかわら[12]という漢字かんじめいしるされたのがモンゴルの初出しょしゅつである。11世紀せいきになると、「もえいにしえこく」という表記ひょうきで『りょう』に登場とうじょうし、りょう帝国ていこく朝貢ちょうこうしていた[13]。このころのモンゴル部族ぶぞくバイカルほとりんであおり、そのころの指導しどうしゃトンビナイ・セチェンかんがえられる[14]1125ねんおんなしんぞくきむ帝国ていこくりょう帝国ていこくほろぼしたころ、モンゴルこく初代しょだいカンとなったのはトンビナイ・セチェンのカブル・カンであった。かれかねあさ朝貢ちょうこうしたさいつみおかしたり、タタルぞく抗争こうそうしたりしたため、つぎアンバガイ・カンときにそのうらみがかえってて、アンバガイ・カンはかねあさ処刑しょけいされた。そのいだクトラ・カンはアンバガイ・カンのかたきつべく、モンゴル諸氏しょしぞくひきいてかねあさり、てきぐんやぶって多数たすう略奪りゃくだつひんかえった。これによってかれはモンゴルの吟遊詩人ぎんゆうしじん熱愛ねつあいする英雄えいゆうとなった。クトラ・カンののち、モンゴルのカンは空位くういとなり、わってクトラ・カンのおいにあたるイェスゲイ・バアトルキヤン氏族しぞくとニルン諸氏しょしぞくをとりまとめた。[15]

モンゴル帝国ていこく[編集へんしゅう]

イェスゲイ・バアトルのテムジンは周辺しゅうへんしょぞくりまとめ、1206ねんチンギス・カン即位そくいし、イェケ・モンゴル・ウルス(だいモンゴルこく)を建国けんこくした。通常つうじょうこの政権せいけんモンゴル帝国ていこくぶ。モンゴル帝国ていこく14世紀せいきになると、ひがしアジアの元朝がんちょうみなみロシアのジョチ・ウルス西にしアジアのフレグ・ウルス(イルハンあさ)、中央ちゅうおうアジアのチャガタイ・ウルス(チャガタイ・ハンこく)の4こくかれ、一種いっしゅ世界せかい連邦れんぽう構成こうせいした。モンゴルけい民族みんぞくがユーラシア全土ぜんどひろまったのはこの時代じだいといってよい。

モンゴルとオイラト[編集へんしゅう]

元朝がんちょう1368ねんかん民族みんぞく明朝みょうちょう打倒だとうされると、モンゴル民族みんぞく中国ちゅうごくててモンゴル高原こうげん後退こうたいした。通常つうじょうこの政権せいけん北元きたもとぶ。しかし、モンゴルに支配しはいされていたかん民族みんぞく政権せいけんである明朝みんちょうでは「こうむいにしえ」とはばず「韃靼だったん」とんだ。北元きたもと政権せいけんではハーンおうみつる不安定ふあんていであり、クビライおうみつるであったり、アリクブケおうみつるであったりで、つねオイラト部族ぶぞくによる擁立ようりつ頻発ひんぱつした。一時いちじエセン・ハーンというオイラト部族ぶぞく出身しゅっしんしゃがハーンに即位そくいしたが、モンゴル部族ぶぞく出身しゅっしんダヤン・ハーン中興ちゅうこうによってオイラトは打倒うちたおされ、あらたなモンゴル帝国ていこくさい構築こうちくされた。[16]

ジュンガル帝国ていこく[編集へんしゅう]

17世紀せいき、ダヤン・ハーンの一族いちぞくによって打倒だとうされたオイラト部族ぶぞく連合れんごうはモンゴル西部せいぶジュンガル盆地ぼんちにおり、その盟主めいしゅドルベトで、ドルベト左翼さよくになっていたのが、ジュンガルであった。やがてオイラト部族ぶぞく連合れんごうはモンゴルのハルハやぶって独立どくりつたしたが、あらたなオイラト盟主めいしゅホシュート内乱ないらんがおこると、オイラトのトルグート内乱ないらんけてはるかヴォルガ河畔かはん避難ひなんし、これが現在げんざいカルムィクじんとなる。ホシュート内乱ないらん収束しゅうそくし、あらたな部族ぶぞくちょうになったのがグーシ・ハーンであった。かれチベット仏教ぶっきょうゲルク擁護ようごし、施主せしゅとして青海あおみ本拠ほんきょいた。これが青海あおみホショトとなり、現在げんざいオイラドぞくとなる。一方いっぽう盟主めいしゅがいなくなったオイラト本国ほんごくはジュンガル族長ぞくちょうバートル・ホンタイジまかされ、ジュンガルあらたな盟主めいしゅとなり、つぎガルダン・ハーンだいでモンゴルをやぶって最大さいだい版図はんと実現じつげんし、ジュンガル帝国ていこくべる政権せいけんきずく。1755ねん清朝せいちょう侵攻しんこうによりジュンガルの帝国ていこく崩壊ほうかいし、その支配しはいはいったが、天然痘てんねんとう流行りゅうこうによりジュンガルの移民いみんはほぼ全滅ぜんめつした。のち無人むじん地帯ちたいとなったイリ地方ちほうにヴォルガ河畔かはんから一部いちぶのトルグート帰還きかんした。これも現在げんざいのオイラドぞくとなる。[17]

清朝せいちょうそとモンゴル(ハルハ)とうちモンゴル(チャハル)[編集へんしゅう]

ダヤン・ハーンによってさい構築こうちくされたモンゴル帝国ていこく左翼さよくチャハルハルハウリヤンハイと、右翼うよくオルドストメトヨンシエブの6トゥメンにかれ、やがて現在げんざいのモンゴルこくたる地域ちいきにはハルハけいチェチェン・ハーントシェート・ハーンジャサクト・ハーンサイン・ノヤン形成けいせいされ、清朝せいちょう支配しはいはいると「そとこうむいにしえ」とばれた。現在げんざい内モンゴル自治うちもんごるじちたる地域ちいきにはジェリムめいジョソトめいジョーオダめいシリンゴルめいウランチャブめいイフ・ジョーめいアラシャン・オーロトエジネ・トルグートなどが形成けいせいされ、しんだいに「うちこうむいにしえ」とばれた。[18]

歴史れきしじょうのモンゴルけい民族みんぞく[編集へんしゅう]

諸説しょせつあり、確証かくしょうはないが、わずかでもモンゴルけい民族みんぞくとされている民族みんぞく以下いかげる。

  • ひがしえびす近年きんねんは鮮卑(とくにひらけばつ)の言語げんごモンゴルけいであること[19][20]ひがしえびす時代じだい遺跡いせき遺物いぶつから鮮卑や烏丸からすま特徴とくちょうてき習俗しゅうぞく痕跡こんせき発見はっけんされていることから、ひがしえびすもモンゴルけいとみる解釈かいしゃく有力ゆうりょくされている[21]
  • 鮮卑ふるくは テュルクけいであるとするせつ[22]があったが、近年きんねんになって鮮卑(とくつぶせばつ)の言語げんご鮮卑モンゴルけいであるというせつ有力ゆうりょくとなっている[23]
  • がらす…『三国志さんごくし』や『こう漢書かんしょ』に「鮮卑の言語げんごがらすおなじである」とあることから、鮮卑の言語げんごがモンゴルけいだとすれば、がらす桓の言語げんごもモンゴルけいとなる[24]
  • やわしかあせめい研究けんきゅうにより、モンゴルけいであるとされている。[25]
  • ちぎり白鳥庫吉しらとりくらきち中国ちゅうごく史書ししょからちぎり抽出ちゅうしゅつし、これを当時とうじきたアジアしょ民族みんぞく言語げんご比較ひかくした結果けっか、ある単語たんごはモンゴル、またある単語たんごはツングースきえるとし、ちぎりはモンゴルとツングース混成こんせいであると推論すいろん現代げんだいでいえばソロンじんダフールじんかのどちらかに該当がいとうするとした。さらにソロンじんとダフールじん使用しようする数詞すうしと、中国ちゅうごく史書ししょなかから抽出ちゅうしゅつしたちぎり数詞すうしいちひゃく」のさん対照たいしょうさせて、それがダフールもっと近似きんじしているとした(1912ねん)。またロシアのニコラス・ポッペ研究けんきゅうによってダフールはモンゴル古形こけいをとどめるモンゴル一方いっぽうげんであることがあきらかにされた(1934ねん)。よって、ちぎりはモンゴル古形こけいをとどめるモンゴル一方いっぽうげんもっとちか言語げんごかんがえてよい。[26]
  • しつ中国ちゅうごく史書ししょによると、しつ韋の言語げんごくら莫奚ちぎりまめ莫婁おなじであることから[8]、モンゴルけいである可能かのうせいたかい。
  • 中国ちゅうごく史書ししょによると、しつ韋の言語げんごくら莫奚,ちぎりまめ莫婁とおなじであることから[8]、モンゴルけいである可能かのうせいたかい。
  • まめ莫婁中国ちゅうごく史書ししょによると、しつ韋の言語げんごくら莫奚,ちぎりまめ莫婁とおなじであることから[8]、モンゴルけいである可能かのうせいたかい。
  • きゅうせいタタル
  • がらすいにしえ
  • 阻卜
  • タタル
  • ケレイトラシードゥッディーンは『ジャーミ・ウッ・タワーリーフ(しゅう)』において、中央ちゅうおうユーラシア草原そうげん遊牧民ゆうぼくみんおおきくよっつに分類ぶんるいし、だいさんるい以前いぜん独立どくりつした首長しゅちょうっていたが、だいテュルク部族ぶぞくともだいよんモンゴルぞくともつながりはなく、しかし外観がいかん言語げんごかれらとちかいテュルク部族ぶぞく」にケレイトをふくめている。つまり、テュルクけいではあるが、モンゴルけいちか言語げんご、もしくはテュルクけいとモンゴルけい中間ちゅうかん位置いちする言語げんごであったと推測すいそくされる。そのため、ケレイトはテュルクけいともモンゴルけいともされている[27]
  • オイラト
  • エルクト・モンゴルぞく

遺伝子いでんし[編集へんしゅう]

モンゴルけい民族みんぞくにはY染色せんしょくたいハプログループC2系統けいとうこう頻度ひんど観察かんさつされる[28]モンゴル民族みんぞく 52%[29]-54%[30]ダウールぞく 31%[30]など)。また、ハプログループN (Y染色せんしょくたい)なか頻度ひんどられる(ブリヤートじん 34.5% (20.2%,[31]25.0%,[32]30.9%,[33]48.0%[34])、モンゴル民族みんぞく 11%[30][32][33][35][36][37]カルムイクじん 10.4%[37][38])。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 金岡かなおか 2000,p24‐25
  2. ^ 金岡かなおか 2000,p25‐27
  3. ^ 金岡かなおか 2000,p27
  4. ^ 金岡かなおか 2000,p28‐29
  5. ^ 史記しき匈奴きょうど列伝れつでん
  6. ^ 三国志さんごくし烏丸からすま鮮卑とうでん、『すすむしょ
  7. ^ しょ列伝れつでんだいきゅうじゅういち、『きた列伝れつでんだいはちじゅうろく
  8. ^ a b c d しょ列伝れつでんだいはちじゅうはち、『きた列伝れつでんだいはちじゅう
  9. ^ ずいしょ』『きた』『しんとうしょ』『しんだい
  10. ^ ずいしょ列伝れつでんだいよんじゅうきゅう 北狄ほくてきまた西北せいほくすう千里せんり至大しだいしつ韋,徑路けいろ險阻けんそげん不通ふつう。」,『きた列伝れつでんだいはちじゅうまた西北せいほくすう千里せんり至大しだいしつ韋,徑路けいろ險阻けんそ言語げんご不通ふつう。」
  11. ^ きゅうとうしょ列伝れつでんだいいちひゃくよんじゅうきゅう 北狄ほくてき
  12. ^ しんとうしょ列伝れつでんだいいちひゃくよんじゅうよん 北狄ほくてき
  13. ^ りょう本紀ほんぎだいじゅうよん みちむねよん
  14. ^ 宮脇みやわき 2002,p66
  15. ^ 村上むらかみ 1970
  16. ^ 岡田おかだ 2004
  17. ^ 宮脇みやわき 2002,p188-213
  18. ^ 宮脇みやわき 2002,p223
  19. ^ Pullyblank(1962)やLigeti(1970)によると、鮮卑特徴とくちょうモンゴルであるという。《『騎馬きば民族みんぞく1』p9 ちゅう15、p218 ちゅう2》
  20. ^ L.Ligeti(Le Tabghatch,un dialecte de la langue Sien-pi,1970)は、鮮卑つぶせ跋語ばつごはモンゴル特徴とくちょうゆうし、テュルク特徴とくちょうとは相容あいいれないと強調きょうちょうする。《内田うちだ 1975,p4》
  21. ^ 東北とうほく古代こだい民族みんぞく研究けんきゅうろんもう
  22. ^ Boodberg (1936)Bazin (1950) は、ひがしえびす子孫しそんである鮮卑ぞくとくひらけばつ言語げんごturkish ないし proto-turkish original であるとした。《『騎馬きば民族みんぞく1』p9 ちゅう15、p218 ちゅう2》
  23. ^ Pullyblank (1962)Ligeti (1970) によると、鮮卑とくひらけ跋語ばつご)の特徴とくちょうモンゴルであるという。《『騎馬きば民族みんぞく1』p9 ちゅう15、p218 ちゅう2》
  24. ^ 三国志さんごくし』鮮卑でんおう沈『しょ』)「其言習俗しゅうぞくあずか烏丸からすまどう。」、『こう漢書かんしょ』鮮卑でん「其言習俗しゅうぞくあずかがらす桓同。」
  25. ^ 騎馬きば民族みんぞく1』p217
  26. ^ 島田しまだ 2014ねん,p99-100
  27. ^ 宮脇みやわき 2002,p138
  28. ^ 崎谷さきやみつる『DNA・考古こうこ言語げんご学際がくさい研究けんきゅうしめしん日本にっぽん列島れっとう』(つとむまこと出版しゅっぱん 2009ねん
  29. ^ Karafet T, Xu L, Du R et al. (September 2001). "Paternal population history of East Asia: sources, patterns, and microevolutionary processes". Am. J. Hum. Genet. 69 (3): 615–28. doi:10.1086/323299. PMC 1235490. PMID 11481588.
  30. ^ a b c Yali Xue, Tatiana Zerjal, Weidong Bao, Suling Zhu, Qunfang Shu, Jiujin Xu, Ruofu Du, Songbin Fu, Pu Li, Matthew E. Hurles, Huanming Yang, and Chris Tyler-Smith, "Male Demography in East Asia: A North–South Contrast in Human Population Expansion Times." Genetics 172: 2431–2439 (April 2006). doi:10.1534/genetics.105.054270
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参考さんこう資料しりょう[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]