(Translated by https://www.hiragana.jp/)
リッカルド・ムーティ - Wikipedia コンテンツにスキップ

リッカルド・ムーティ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
リッカルド・ムーティ
Riccardo Muti
リッカルド・ムーティ
基本きほん情報じょうほう
生誕せいたん (1941-07-28) 1941ねん7がつ28にち(83さい
出身しゅっしん イタリア王国の旗 イタリア王国おうこくナポリ
学歴がくれき ミラノ音楽おんがくいん
ジャンル クラシック音楽おんがく
職業しょくぎょう 指揮しきしゃ
担当たんとう楽器がっき 指揮しき
活動かつどう期間きかん 1965ねんごろ -
レーベル EMIソニー・クラシカルPhilipsDG

リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti, 1941ねん7がつ28にち ナポリ - )は、イタリアじん指揮しきしゃシカゴ交響こうきょう楽団がくだん名誉めいよ音楽おんがく監督かんとくウィーン・フィルハーモニー管弦楽かんげんがくだん名誉めいよだんいん

人物じんぶつ来歴らいれき

[編集へんしゅう]

1941ねんまれ。

1967ねんに、若手わかて指揮しきしゃのためのグィード・カンテッリしょう受賞じゅしょう1972ねんからフィルハーモニア管弦楽かんげんがくだん定期ていきてき指揮しきし、オットー・クレンペラー以来いらい首席しゅせき指揮しきしゃ任命にんめいされる。1980ねんから1992ねんまでフィラデルフィア管弦楽かんげんがくだん音楽おんがく監督かんとく就任しゅうにんし、しばしばどう楽団がくだんひきいて世界せかいてき演奏えんそう旅行りょこうおこなった。フィラデルフィアかん制作せいさくしたレスピーギ作品さくひんロシア作品さくひんストラヴィンスキーチャイコフスキースクリャービン)、ブラームス交響曲こうきょうきょく録音ろくおんは、現在げんざいでも評価ひょうかたか[よう出典しゅってん]

1986ねんから2005ねんまでミラノ・スカラ座すからざ芸術げいじゅつ監督かんとくつとめる。1987ねんミラノ・スカラ座すからざ管弦楽かんげんがくだん首席しゅせき指揮しきしゃ任命にんめいされ、1988ねんにはどう楽団がくだんとともにヴィオッティ・ドーロしょう(Viotti d'Oro)を獲得かくとくどう楽団がくだんひきいてイタリア国内こくないから欧州おうしゅう各地かくちまで演奏えんそう活動かつどうつづけた。スカラ座すからざ辞任じにん特定とくてい監督かんとくポストには就任しゅうにんせず、客演きゃくえん指揮しきしゃとして活躍かつやく

2010ねん5月、シカゴ交響こうきょう楽団がくだん音楽おんがく監督かんとく就任しゅうにん

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽かんげんがくだんウィーン・フィルハーモニー管弦楽かんげんがくだんにも定期ていきてき客演きゃくえんしている。1971ねん以来いらいザルツブルク音楽おんがくさいにも定期ていきてき参加さんかし、オペラ演奏えんそうかい指揮しきしているが、とりわけ同地どうちではモーツァルト歌劇かげき指揮しき有名ゆうめいである。スカラ座すからざのほかにも、フィラデルフィアロンドンミュンヘンウィーン、ラヴェンナ音楽おんがくさいなどでオペラ公演こうえん指揮しきしてきた。

交友こうゆうは、小澤おざわ征爾せいじダニエル・バレンボイムズービン・メータマウリツィオ・ポリーニバルバラ・フリットリレナート・ブルゾンひとしならぶ。カルロス・クライバー数少かずすくない親友しんゆうでもあった。

レパートリー

[編集へんしゅう]

母国ぼこくイタリアの作曲さっきょく幅広はばひろげ、秘曲ひきょくおお紹介しょうかい録音ろくおん頻繁ひんぱんっている(EMI,SONY)。その一般いっぱんてきなレパートリーは手中しゅちゅうおさめ、とくにフィルハーモニア時代じだいやフィラデルフィア時代じだい膨大ぼうだい録音ろくおんのこした。近年きんねんはウィーン・フィルとシューベルト、モーツァルトを頻繁ひんぱんげては録音ろくおんをしている。2008ねん~はハイドン・イヤー企画きかくでハイドンの交響曲こうきょうきょく録音ろくおんしている(DG)。近年きんねん専属せんぞく録音ろくおん契約けいやくむすんでいないが、ドイツ・グラモフォンEMIからのリリースをしている。いままでに全集ぜんしゅうのこしたものとしては、ベートーヴェン交響こうきょうきょく(EMI,MUSICOM)、ブラームス交響こうきょうきょく(Philips)、シューマン交響こうきょうきょく(EMI,Philips)、シューベルト交響こうきょうきょく(EMI)、チャイコフスキー交響こうきょうきょく(EMI)、スクリャービン交響こうきょうきょく(EMI)などがある。ヴェルディのオペラのほとんどはEMIとSONYへ録音ろくおんしている。

ミラノ・スカラ座すからざでは、比較的ひかくてき無名むめい古典こてんのオペラ、たとえばケルビーニ歌劇かげきロドイスカ》や、スポンティーニ歌劇かげきヴェスタの巫女ふじょ La Vestale 》を上演じょうえん、その一方いっぽうスカラ座すからざ管弦楽かんげんがくだん指揮しきして、こんにち無名むめい20世紀せいきイタリアじんしん古典こてん主義しゅぎしゃフェルッチョ・ブゾーニアルフレード・カゼッラニーノ・ロータ)の作品さくひん録音ろくおんした。

ヴェルディプッチーニ有名ゆうめい作品さくひんについても、伝統でんとうてきおこなわれてきた改変かいへん(アリアのクライマックスでの高音こうおん挿入そうにゅう冗長じょうちょうかんがえられる部分ぶぶんのカットとう)にたいして批判ひはんてきであり、「演奏えんそうつね作曲さっきょくしゃによってかれたまま(come scritto)でなされなければならない」とのつよ信念しんねんをもち、自筆じひつ綿密めんみつ研究けんきゅうつうじてそれを実行じっこうしてきた。とくにSONYへ録音ろくおんした一連いちれん録音ろくおんでは、打楽器だがっきなど細部さいぶまで原典げんてんばん徹底てっていしてもちい、数少かずすくない演奏えんそうれいとしても貴重きちょう存在そんざいになっている[よう出典しゅってん]

ピアノ腕前うでまえにもすぐれ、僅少きんしょうではあるが録音ろくおんおこなっているほか、リサイタルの伴奏ばんそうおこなうこともある。「椿つばきひめ上演じょうえんさいにオーケストラのストライキが発生はっせいすると、一人ひとりでピアノをいてまで強行きょうこう上演じょうえんさせたという逸話いつわもある。

幼少ようしょう-青年せいねん時代じだい~ロンドン時代じだい

[編集へんしゅう]

当初とうしょピアニストとして研鑽けんさんみ、ロータにまねかれて、かれ校長こうちょうつとめるバーリ音楽おんがくいんすすんだ。そこで音楽おんがくいんオーケストラの公演こうえんがあり、予定よていされていた先輩せんぱい指揮しきしゃ病気びょうきになり急遽きゅうきょ欠席けっせきした。そこでロータはムーティを校長こうちょうしつびつけ、代役だいやくをやるように指示しじした。しかしムーティは不安ふあんいち辞去じきょしたものの、簡単かんたん拍子ひょうしかただけおそわって強引ごういんまかされてしまう[1]結果けっかとしては素晴すばらしい出来できになり、ムーティ本人ほんにん指揮しき興味きょうみはじめる。これがきっかけでロータにおんつよかんじ、度々たびたびかれきょくいまでもげている。勉強べんきょうむも生活せいかつくるしく、アルバイトにれつつ苦学くがくした。このときつまであるクリスティーナ(演出えんしゅつ)と出会であ[1]。そのグィード・カンテッリ指揮しきしゃコンクールで優勝ゆうしょうたし、イタリア国内こくない主要しゅよう楽団がくだん指揮しきする。1969ねんにはフィレンツェがつ音楽おんがくさい歌劇かげきじょう音楽おんがく監督かんとく抜擢ばってきされ、ながかかわっていく(現在げんざい度々たびたび客演きゃくえんしている)。

1971ねん巨匠きょしょうクレンペラーの後任こうにんとしてニュー・フィルハーモニア管弦楽かんげんがくだん(1977ねん以降いこうは「フィルハーモニア管弦楽かんげんがくだん」)の首席しゅせき指揮しきしゃ就任しゅうにんして以来いらい、ロンドンにはながかかわっている。EMIへの録音ろくおんもこのころからはじまっている。1979ねんにはどう楽団がくだん初代しょだい音楽おんがく監督かんとく就任しゅうにん。そのロンドン・フィルにも客演きゃくえん録音ろくおんおこなっている。フィルハーモニア退任たいにん毎年まいとしのようにタクトをるなど良好りょうこう関係かんけい維持いじしてきた。しかし一部いちぶメディアがはんムーティをかかげて過激かげき攻撃こうげきおこなった。これにがつき聴衆ちょうしゅう一部いちぶ激化げきか。2005ねんにはスカラ座すからざ共同きょうどう参画さんかくロイヤル・コヴェントガーデン歌劇かげきじょうはつ登場とうじょうする予定よていであったが、演出えんしゅつはげしく対立たいりつしてキャンセルする(演出えんしゅつはその失踪しっそうした)。これによりメディアがムーティ攻撃こうげきつよめ、翌年よくねんにフィルハーモニアかん登場とうじょうするも、その空白くうはくしょうじた。2009ねんにはしばらくぶりの客演きゃくえん予定よていった。

フィラデルフィア時代じだい

[編集へんしゅう]

引退いんたいかんがえていたユージン・オーマンディがムーティのコンサートにおとずれ、その驚異きょういてき才能さいのう一目惚ひとめぼれしてムーティ招聘しょうへいはたらきかける。その首席しゅせき指揮しきしゃ短期間たんきかんつとめ、正式せいしきにオーマンディの推挙すいきょにより1980ねん音楽おんがく監督かんとく就任しゅうにんする。就任しゅうにんはオーマンディがきずいた「フィラデルフィア・サウンド」を踏襲とうしゅうしつつも、オーマンディのしずかたいしてきわめて動的どうてき、ドラマティックであつ演奏えんそうひろげて聴衆ちょうしゅう楽員がくいん支持しじ[1]。EMIへの録音ろくおんさかんになり、オーマンディは私財しざいとうじてムーティのために録音ろくおん施設しせつ建設けんせつした。晩年ばんねんはPhilipsにも録音ろくおんおこない、ブラームスやプロコフィエフで演奏えんそうのこした。カラヤンが他界たかいして「ポスト・カラヤンあらそい」が勃発ぼっぱつしたとき、ムーティもその候補こうほがった。しかし早期そうき撤退てったい表明ひょうめいする。直後ちょくごの1992ねん激務げきむえられなくなったことを理由りゆうにフィラデルフィアを辞任じにんした。そのすうねん後任こうにんヴォルフガング・サヴァリッシュ活躍かつやくでフィラデルフィアは好調こうちょう維持いじしたが、つぎクリストフ・エッシェンバッハ時代じだい低迷ていめい、そこでムーティ復帰ふっきかかげてなん招聘しょうへいすが失敗しっぱい代替だいたいあん桂冠けいかん指揮しきしゃへの就任しゅうにん打診だしんするが辞去じきょされる。結果けっかとしてすう客演きゃくえんまり、その共演きょうえん予定よていたなくなった。2009ねん3がつ12にち、ムーティはフィラデルフィアの低迷ていめい心配しんぱいするコメントを発表はっぴょうした[2] が、ほどなくしてどう楽団がくだん破産はさんほう適用てきよう申請しんせいおこなった。

ミラノ・スカラ座すからざ時代じだい

[編集へんしゅう]

1986ねんクラウディオ・アバド後任こうにんとして音楽おんがく監督かんとく就任しゅうにんする。就任しゅうにんきわめて強力きょうりょく改革かいかくすす[よう出典しゅってん]スカラ座すからざ復権ふっけん復興ふっこう効果こうか[よう出典しゅってん]げた。カラヤン失敗しっぱい以来いらいかく指揮しきしゃ敬遠けいえんしていた「椿つばきひめ」をティツィアナ・ファブリチーニ起用きようにより上演じょうえんし、封印ふういんやぶったことは特筆とくひつあたいする。そのもEMIやSONYにおおくのオペラ録音ろくおんおこなって足跡あしあとのこす。ブーイング集団しゅうだん秩序ちつじょ維持いじのために場外じょうがいいやって物議ぶつぎかもすなど、一部いちぶ常連じょうれんきゃくらとの対立たいりつもあった[1] が、ムーティはスカラ座すからざ長期ちょうきにわたって君臨くんりんした。
しかし2005ねん3月16にちに、スカラ座すからざ管弦楽かんげんがくだんいん職員しょくいん投票とうひょうにより圧倒的あっとうてき多数たすう不信任ふしんにん表明ひょうめいされる。これは、スカラ座すからざそう支配人しはいにんカルロ・フォンターナとムーティとのいさかいがきっかけであり、さきんじる同年どうねん2がつにはフォンターナが免職めんしょくされる結果けっかとなっていた。ムーティは投票とうひょう先立さきだ演奏えんそうかいをキャンセルするが、フォンターナの支持しじしゃとのない亀裂きれつのためにその公演こうえんかない状態じょうたいだった。同年どうねん4がつ2にちスカラ座すからざ辞任じにんしたさい、ムーティは職員しょくいんからの「敵意てきい」を辞任じにん理由りゆうとしてげていた。ムーティがベルルスコーニ首相しゅしょうしたしい間柄あいだがらであるのにたいし、フォンターナは左派さはぞくする[3] ことから、このこうそう自体じたい芸術げいじゅつめんでのそれというより高度こうど政治せいじてきなものだったとの見方みかたもある。

フリー(客演きゃくえん)の期間きかん

[編集へんしゅう]

スカラ座すからざ辞任じにん特定とくてい監督かんとくポストには就任しゅうにんせず、客演きゃくえん指揮しきしゃとして活躍かつやく母国ぼこく音楽おんがくてき復興ふっこうこころみてケルビーニ管弦楽かんげんがくだん設立せつりつし、若手わかて音楽家おんがくか育成いくせい注力ちゅうりょくする。ウィーン・フィル、ケルビーニかん以外いがいとしに1ヵ月かげつ程度ていどいにとどまっている。現在げんざい客演きゃくえんさきはフィルハーモニア管弦楽かんげんがくだん、バイエルン放送ほうそうひびき、フィラデルフィアかん、フランス国立こくりつかん、ニューヨーク・フィル、フィレンツェがつ音楽おんがくさい歌劇かげきじょうだけだが、新規しんきとしてメトロポリタン歌劇かげきじょうローマ歌劇かげきじょう、シカゴひびき(2かい)などの客演きゃくえんまっており、北京ぺきん音楽おんがくさい東京とうきょうオペラのもり音楽おんがくさいPMFモスクワ音楽おんがくさいザルツブルク聖霊せいれい降臨こうりんさい音楽おんがくさいなどイベントへの参加さんかおおい。ルツェルン音楽おんがくさいへの出演しゅつえん協力きょうりょく表明ひょうめいし、周囲しゅういおどろかせた。ローマ歌劇かげきじょうたいしては定期ていきてき客演きゃくえん復興ふっこう活動かつどう参画さんかくすることが発表はっぴょうされた。まれ故郷こきょうナポリにあるサン・カルロ歌劇かげきじょう復興ふっこうにも尽力じんりょくし、母国ぼこく活性かっせいおおきく貢献こうけんしている。2010ねんにはフランクフルト州立しゅうりつ歌劇かげきじょうにも登場とうじょうする。

シカゴ交響こうきょう楽団がくだん音楽おんがく監督かんとく

[編集へんしゅう]

シカゴ交響こうきょう楽団がくだんやく30ねんというブランクがあるにもかかわらず、スカラ辞任じにん直後ちょくごのムーティにもうアタックをけ、客演きゃくえん要請ようせいしていた。客演きゃくえんはヨーロッパツアーをひきいるなど大切たいせつ業務ぎょうむ次々つぎつぎ依頼いらいした。その過程かていから「次期じき音楽おんがく監督かんとくか」と憶測おくそくった。2008ねん5がつ5にちシカゴ交響こうきょう楽団がくだん次期じき音楽おんがく監督かんとく就任しゅうにんすることが双方そうほうから発表はっぴょうされた。楽団がくだんのメンバーからおおくの手紙てがみ署名しょめいとどけられ、決心けっしんいたったという。任期にんきは2010ねんから5年間ねんかんとなるが、就任しゅうにんまえ事実じじつじょう活動かつどう(スポンサー対応たいおうやオーディションなど)を開始かいし。2009ねん1がつ就任しゅうにん直前ちょくぜんのコンサートになったが、人気にんき過熱かねつしてチケットは入手にゅうしゅ困難こんなんおちいりスポンサーを失望しつぼうさせた。そこでムーティは前例ぜんれいのない「スポンサー限定げんてい公開こうかいリハーサル」を実施じっしして難局なんきょくった。2010ねん5がつ、ムーティは正式せいしき音楽おんがく監督かんとく就任しゅうにん首席しゅせき指揮しきしゃベルナルト・ハイティンクもそのまま在任ざいにんしている。

ウィーン・フィルとの信頼しんらい関係かんけい

[編集へんしゅう]

もっとも親密しんみつなウィーン・フィルハーモニー管弦楽かんげんがくだんでは1973ねん以降いこうほぼ毎年まいとし指揮しきだいち、1996ねんにはウィーン音楽おんがく週間しゅうかん最終さいしゅう公演こうえんどう楽団がくだん指揮しきしたほか、極東きょくとうツアー(日本にっぽん韓国かんこく香港ほんこん)やドイツツアーのほか、1993ねん1997ねん2000ねん2004ねん2018ねん2021ねんニューイヤーコンサートでも指揮しきをとった。2005-2006シーズンは30かい以上いじょう指揮しきだいっている。ウィーン・フィルからはゴールドリングがおくられ、どう楽団がくだん中枢ちゅうすうメンバーで構成こうせいされるウィーン宮廷きゅうてい楽団がくだん初代しょだい名誉めいよ音楽おんがく監督かんとくつとめる。Wph専用せんよう(エアバス)に搭乗とうじょうゆるされる唯一ゆいいつ指揮しきしゃであり、カール・ベームヘルベルト・フォン・カラヤンなみ待遇たいぐうけている。創立そうりつ150周年しゅうねん記念きねんらくとも協会きょうかい125周年しゅうねん記念きねん 記念きねんコンサートでタクトをたくされている。1975ねんはつ来日らいにちはベームに帯同たいどうしてウィーン・フィルとたしており、その1999ねん、2005ねん、2008ねんと4かい来日らいにちかさねている。2011ねん7がつ28にち、ザルツブルク音楽おんがくさい開催かいさいちゅうに70さいむかえ、ウィーン・フィルより名誉めいよだんいん称号しょうごうおくられた。

ミュンヘンとの関係かんけい

[編集へんしゅう]

1979ねんバイエルン国立こくりつ歌劇かげきじょうはつ登場とうじょうし、ちょう一流いちりゅう歌手かしゅならべた「アイーダ」を上演じょうえん。この公演こうえんのリハーサルにおとずれたのがカルロス・クライバーであり、それ以来いらい親交しんこうつづく。そのおなじミュンヘン市内しない名門めいもん・バイエルン放送ほうそう交響こうきょう楽団がくだんにも登場とうじょうし、毎年まいとし客演きゃくえんかさねたりレコーディングもおこなう。バイエルン放送ほうそう交響こうきょう楽団がくだんロリン・マゼール任期にんき満了まんりょうともない、マゼールの意向いこうでムーティを音楽おんがく監督かんとく打診だしんする。しかしムーティがわから辞退じたいもうれがあり、後任こうにんマリス・ヤンソンスまる。こののちもバイエルンとは良好りょうこうかつ密接みっせつ関係かんけい維持いじしている。

ニューヨーク・フィルとの関係かんけい

[編集へんしゅう]

ニューヨーク・フィルはマゼールを音楽おんがく監督かんとくむかえてから、おなじくムーティの登場とうじょう回数かいすう大幅おおはばやしてゆく。マゼールは当初とうしょから契約けいやく更新こうしんをしないと明言めいげんしており、当初とうしょはムーティを後任こうにんとして推挙すいきょしていた(断念だんねんはバレンボイムを推挙すいきょした)。それをけてフィルハーモニックはムーティに就任しゅうにん再三さいさん打診だしんするも、固辞こじされる。わりにムーティは定期ていきてき客演きゃくえん約束やくそくし、2009-2010ねんはツアーをむなど首席しゅせき客演きゃくえん待遇たいぐうすすめること合意ごういされた。しかしムーティは2008ねんに、ニューヨークのライバルであるシカゴ交響こうきょう楽団がくだんへの就任しゅうにん表明ひょうめいする。これによりフィルハーモニックのザリン・メータ総裁そうさい失望しつぼうしめし、今後こんご関係かんけい断絶だんぜつをほのめかした。のち和解わかいたし、2009ねんのツアーは予定よていどお実施じっしされることになった。

クラウディオ・アバドとの関係かんけい

[編集へんしゅう]

クラウディオ・アバドとの犬猿けんえんなか有名ゆうめいであり、おたが名前なまえばないほど疎遠そえんであった。ことにムーティはアバドのことを「(スカラ座すからざの)前任ぜんにんしゃ」とんでいた時期じきもあった。盟友めいゆうのピアニスト・ポリーニ、バレンボイムや弟子でしダニエル・ハーディングらがよく二人ふたりあいだって和解わかい目指めざした。イタリア時代じだいからおたがきライバルであった反面はんめん、ポスト・カラヤンとしてあらそ完全かんぜん決裂けつれつしてしまう。アバドはベルリン・フィルをおそみずからの目指めざすカラーにげた[よう出典しゅってん]反面はんめんムーティはウィーン・フィルの事実じじつじょう常任じょうにん指揮しきしゃ待遇たいぐうになる[よう出典しゅってん]双方そうほうがポストをもたないあいだに、アバドよりムーティへ協力きょうりょく要請ようせいがあり、ルツェルン音楽おんがくさいへの出演しゅつえん協力きょうりょくいたる。また雑誌ざっしつうじておたが尊敬そんけいしあっていることをすなど、雪解ゆきどけへけて一気いっき加速かそくすすむ。アバドがパイオニアとしてんだ地域ちいき(オーケストラ)の後任こうにんとしてムーティがみ、成功せいこうおさめるれいおおく、そのでもなにかと因縁いんねんってもれない様相ようそうていす(スカラ座すからざ・ウィーン・ベルリン・ロンドン・シカゴ・ニューヨークなど)[1]

日本にっぽんとの関係かんけい

[編集へんしゅう]

1975ねんにカール・ベームに同行どうこうしてのウィーン ・フィルとのはつ来日らいにち以来いらい、たびたび来日らいにちしている。 長年ながねんにわたる日本にっぽんとイタリアあいだ文化ぶんか交流こうりゅう相互そうご理解りかい促進そくしん貢献こうけん評価ひょうかされ、平成へいせい28ねんはる叙勲じょくん褒章ほうしょうにおいて、旭日重光章きょくじつじゅうこうしょう受章じゅしょう。2018ねんにはだい30かい高松宮たかまつのみや殿下でんか記念きねん世界せかい文化ぶんかしょう[音楽おんがく部門ぶもん]を受賞じゅしょうしている。 2019ねんより東京とうきょうはる音楽おんがくさいで「イタリア・オペラ・アカデミー in 東京とうきょう」を開催かいさいどうアカデミーは、2015ねんにイタリアのラヴェンナでげられたプロジェクト。ムーティ自身じしんがこれまでの経験けいけん教師きょうしたちや過去かこ偉大いだい演奏えんそうしゃたちからけたおしえを、才能さいのうある世界中せかいじゅう若手わかて音楽家おんがくかつたえ、オペラ制作せいさくいた複雑ふくざつなすべての過程かていについても理解りかいふかめることを目的もくてきに、毎年まいとしなつにラヴェンナで開催かいさいされているもの。日本にっぽんでは3ねんわたって《リゴレット》(2019)、《マクベス》(2020)、《仮面かめん舞踏ぶとうかい》(2021)をげる予定よていだったが、《マクベス》は新型しんがたコロナウイルス感染かんせん拡大かくだい影響えいきょうで2021ねん延期えんきとなった。

2022ねん12月、日本経済新聞にほんけいざいしんぶんの「わたし履歴りれきしょ」に、1ヶ月かげつ、ムーティの記事きじ連載れんさいされた。

エピソード 

[編集へんしゅう]
  • 同僚どうりょう指揮しきしゃきわめて辛辣しんらつセルジュ・チェリビダッケをして、「おそろしく無知むちだが」という前提ぜんていだが「才能さいのうがある」とみとめさせた。チェリビダッケが才能さいのうみとめたのはムーティだけである[1]
  • ウィーン・フィルからおりのヴィオラ首席しゅせき奏者そうしゃいてスカラへ入団にゅうだんさせた(のちにウィーンにもどる)[よう出典しゅってん]
  • 専属せんぞくのカメラマンがまれ指揮しきしゃであり、写真しゃしんしゅう出版しゅっぱんされている。そのほか公式こうしきサイトではその写真しゃしん公開こうかいしている。
  • 近年きんねん視力しりょくおとろえ(白内障はくないしょう)がはげしくメガネをけている。サインなどファンサービスにはおうじるが、視力しりょく悪化あっかしたとき説明せつめいおこなったうえ写真しゃしん撮影さつえいっている。
  • 2011ねん2がつ3にち、シカゴ交響こうきょう楽団がくだんとのリハーサルちゅううしなって指揮しきだいからステージに転落てんらく顔面がんめんほね顎骨がっこつ骨折こっせつした(治療ちりょう復帰ふっき)。そのさい心臓しんぞうにペースメーカーをめていることがあきらかになった。
  • メディアや過激かげき聴衆ちょうしゅうからはよく「まるで帝王ていおうだ」と批判ひはん対象たいしょうになる。実際じっさいにムーティと決裂けつれつした相手あいては、演出えんしゅつフランコ・ゼフィレッリロベルト・アラーニャなどおお存在そんざいする。後日ごじつ対立たいりつしたゼフィレッリは「しんのマエストロは妥協だきょうせず、気難きむずかしい性格せいかくになるものだ」とフォローした[4]。アラーニャも後日ごじつ歌手かしゅ限界げんかい挑戦ちょうせんさせる、きわめて要求ようきゅうきびしい指揮しきしゃだ」とコメントした。実際じっさい芸術げいじゅつじょう対立たいりつがあった場合ばあい基本きほんてきにはムーティのほうからさきっている。
  • インフルエンザにかりやすく、12~2がつにキャンセルがえる傾向けいこうにある。[よう出典しゅってん]
  • ジョークのおお指揮しきしゃで、リハーサルや記者きしゃ会見かいけんでもしばしばもちいる。心臓しんぞう調子ちょうし記者きしゃから質問しつもんされたとき、「問題もんだい心臓しんぞうではなくあたまだ」と自虐じぎゃくてきかえした。[よう出典しゅってん]
  • くるま運転うんてんにはかなり自信じしんがあり、相当そうとうのスピードをすことをみとめている。車種しゃしゅはイタリアしゃではなくメルセデス・ベンツこのんでいるとのこと[よう出典しゅってん]

文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 『リッカルドムーティ自伝じでん はじめに音楽おんがく それから言葉ことば田口たぐち道子みちこやく音楽之友社おんがくのともしゃ、2013ねん
  • 『リッカルド・ムーティ、イタリアのしん ヴェルディをかたる』田口たぐち道子みちこやく音楽之友社おんがくのともしゃ、2014ねん
  • 『リッカルド・ムーティ スカラ座すからざでの10ねん 写真しゃしんしゅうアルファベータブックス、1998ねん
シルヴィア・レッリ/ロベルト・マゾッティ:写真しゃしん秋山あきやま美津子みつこやく

受賞じゅしょうれき

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b c d e f ノーマン・レブレヒト『巨匠きょしょう神話しんわ河津かわづ一哉かずやよこ道彦みちひこわけ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1996ねん
  2. ^ The Philadelphia Inquirerべい)、Il Tempo
  3. ^ "Dumbing down row at La Scala" the Guardianえい)2003ねん9がつ16にちづけ記事きじ
  4. ^ Il Messaggero2009ねん3がつ20にちごう

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]
先代せんだい
ヴィットリオ・グイ
フィレンツェがつ音楽おんがくさい
首席しゅせき指揮しきしゃ
1969ねん - 1982ねんごろ
次代じだい
ズービン・メータ
先代せんだい
ウィーン宮廷きゅうてい楽団がくだん
初代しょだい名誉めいよ音楽おんがく監督かんとく
2000ねん -
次代じだい
-
先代せんだい
ケルビーニ管弦楽かんげんがくだん
創設そうせつしゃ音楽おんがく監督かんとく
2004ねん - 
次代じだい
-