『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日 にち 』は1852年 ねん に『革命 かくめい 』紙 し に掲載 けいさい された。
『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日 にち 』(ルイ・ボナパルトのブリュメール18にち、ドイツ語 ご : Der 18te Brumaire des Louis Bonaparte )は、カール・マルクス の著書 ちょしょ 。
本書 ほんしょ 『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日 にち 』は、1848年 ねん の二 に 月 がつ 革命 かくめい に始 はじ まるフランス第 だい 二 に 共和 きょうわ 政 せい における諸 しょ 階級 かいきゅう の政治 せいじ 闘争 とうそう がフランス皇帝 こうてい ナポレオン3世 せい のクーデター を成立 せいりつ させた過程 かてい について分析 ぶんせき した評論 ひょうろん で、「ボナパルティズム 」という言葉 ことば を世 よ の中 なか に定着 ていちゃく させた。
フランス第 だい 二 に 共和 きょうわ 政 せい の歴史 れきし は、自由 じゆう 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ が実現 じつげん していく歴史 れきし であった。
二 に 月 がつ 革命 かくめい によって成立 せいりつ した臨時 りんじ 政府 せいふ は、成人 せいじん 男子 だんし 選挙 せんきょ 権 けん にもとづく新 しん 選挙 せんきょ 法 ほう を公布 こうふ し、生存 せいぞん 権 けん ・労働 ろうどう 権 けん ・団結 だんけつ 権 けん などの市民 しみん 的 てき 諸 しょ 権利 けんり を承認 しょうにん したほか、言論 げんろん の自由 じゆう ・出版 しゅっぱん の自由 じゆう の保障 ほしょう を約束 やくそく し、10時 じ 間 あいだ 労働 ろうどう 制 せい を導入 どうにゅう して失業 しつぎょう 者 しゃ を雇用 こよう する国立 こくりつ 作業場 さぎょうば の設置 せっち を決定 けってい した[1] 。
しかし、フランス第 だい 二 に 共和 きょうわ 政 せい 下 か の民主 みんしゅ 主義 しゅぎ は保守 ほしゅ 派 は による批判 ひはん と攻撃 こうげき の中 なか で勢力 せいりょく を弱 よわ めて、やがて、ルイ・ナポレオン の大統領 だいとうりょう 当選 とうせん と1851年 ねん クーデターによって、わずか3年 ねん 9カ月 かげつ という短命 たんめい さでその歴史 れきし を閉 と じる[2] 。マルクスは唯物 ゆいぶつ 史観 しかん に基 もと づいてフランスの革命 かくめい と反 はん 革命 かくめい の展開 てんかい を考察 こうさつ し、フランス第 だい 二 に 帝政 ていせい 成立 せいりつ の歴史 れきし 的 てき 原因 げんいん を解明 かいめい した[3] 。
マルクスによる本書 ほんしょ の執筆 しっぴつ は、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ 同盟 どうめい の古 ふる くからの同志 どうし であったジョゼフ・ヴァイデマイヤー (英語 えいご 版 ばん ) から、1851年 ねん 12月2日 にち のクーデター に関 かん してニューヨークで発行 はっこう を計画 けいかく 中 ちゅう の週刊 しゅうかん 誌 し への寄稿 きこう を求 もと められたことに起因 きいん する[4] 。ヴァイデマイヤーはマルクスと同 おな い年 どし の友人 ゆうじん で、プロイセン軍 ぐん の士官 しかん であり、ジャーナリストであった。1846年 ねん にブリュッセルで設立 せつりつ された共産 きょうさん 主義 しゅぎ 通信 つうしん 委員 いいん 会 かい に参加 さんか し、正義 せいぎ 者 しゃ 同盟 どうめい から改称 かいしょう した共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ 同盟 どうめい にも参加 さんか した。1848年 ねん 革命 かくめい に参加 さんか し、翌年 よくねん 49年 ねん 『新 しん ドイツ新聞 しんぶん 』の編集 へんしゅう 者 しゃ となった。1851年 ねん にアメリカに亡命 ぼうめい した後 のち は新 しん 雑誌 ざっし 『革命 かくめい (ディ・レヴォルティオーン)』(独 どく : Die Revolution )の創刊 そうかん を目指 めざ して活動 かつどう し、マルクスに論文 ろんぶん の寄稿 きこう を依頼 いらい した[5] 。12月16日 にち 、マルクスはマンチェスターにいたエンゲルスに相談 そうだん を持 も ちかけたところ、エンゲルスから論文 ろんぶん を執筆 しっぴつ してみてはどうかという提案 ていあん がなされた。そのときの手紙 てがみ でエンゲルスは次 つぎ のように語 かた っている。
「
今日 きょう 昼 ひる に
受 う け
取 と ったヴァイデマイヤーの
手紙 てがみ を
同封 どうふう する……
金曜日 きんようび の
晩 ばん までにかれのところへ
論文 ろんぶん を
送 おく ってくれという
要求 ようきゅう はちと
無理 むり だ、―とくに
今 いま の
状態 じょうたい では。しかし、
今 いま こそ
人々 ひとびと はフランス
史 し について
論断 ろんだん とよりどころを
切 せつ に
求 もと めているのだ。そして、ここで
情勢 じょうせい について
何 なに かはっきりしたことをいうことができれば、それで
彼 かれ の
企画 きかく が
最初 さいしょ の
号 ごう で
成功 せいこう するということになろう。だが、
厄介 やっかい なのはそういうものを
書 か くということだ、そしていつものように
難 むずか しいことは
君 きみ に
任 まか せる。
僕 ぼく が
何 なに を
書 か くにしてもクラピュリンスキーのねらいうち(ボナパルトのクーデター)ではないことだけは
確 たし かだ。いずれにしてもそれについて
君 きみ は
彼 かれ に
外交 がいこう 的 てき に
退路 たいろ を
残 のこ した
画期的 かっきてき な
論文 ろんぶん を
書 か いてやることができる」
[6]
マルクスはエンゲルスの助言 じょげん で早速 さっそく 執筆 しっぴつ に取 と り掛 か かり、12月19日 にち 、ヴァイデマイヤーに第 だい 一 いち 章 しょう を送付 そうふ することを約束 やくそく した。この約束 やくそく は病気 びょうき のために果 は たされなかったが、明 あ けて1月 がつ 1日 にち に最初 さいしょ の原稿 げんこう が、2月 がつ 13日 にち に続 つづ きが送 おく られた。その間 あいだ 、ヴァイデマイヤーの週刊 しゅうかん 誌 し 発刊 はっかん の計画 けいかく は資金 しきん 面 めん の障害 しょうがい により挫折 ざせつ していたが、マルクスは諦 あきら めずに執筆 しっぴつ を続 つづ け、三 さん 月 がつ 中 ちゅう で全部 ぜんぶ の原稿 げんこう が送 おく られた。5月、ヴァイデマイヤーの不定期 ふていき 雑誌 ざっし 『革命 かくめい 』第 だい 一 いち 号 ごう に『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日 にち 』として公表 こうひょう されたのである[7] 。
本書 ほんしょ の内容 ないよう [ 編集 へんしゅう ]
基調 きちょう となる歴史 れきし 認識 にんしき [ 編集 へんしゅう ]
本書 ほんしょ の扱 あつか っている時期 じき は1848年 ねん の二 に 月 がつ 革命 かくめい から1851年 ねん 12月2日 にち のクーデター までを内容 ないよう としているが、これは1850年 ねん 3月 がつ までの時期 じき を扱 あつか った『フランスにおける階級 かいきゅう 闘争 とうそう 』 (英語 えいご 版 ばん ) も同 どう 時期 じき を扱 あつか っており、共 とも に1848年 ねん 革命 かくめい とその帰結 きけつ に関 かん するマルクスの歴史 れきし 観 かん を読 よ み取 と ることができる。この両 りょう 著 ちょ は、階級 かいきゅう 闘争 とうそう 史観 しかん を下敷 したじ きに革命 かくめい 後 ご の政治 せいじ 過程 かてい に評論 ひょうろん を加 くわ えるという基本 きほん 性格 せいかく を共有 きょうゆう しているため内容 ないよう 上 じょう の差異 さい はない。ただし、『階級 かいきゅう 闘争 とうそう 』では先 さき に待 ま ち受 う けているであろう展望 てんぼう を見据 みす えた見解 けんかい が提示 ていじ されている。これに対 たい して『ブリュメール18日 にち 』の場合 ばあい はルイ・ナポレオンのクーデターという革命 かくめい の結末 けつまつ 部分 ぶぶん を目撃 もくげき して執筆 しっぴつ されているという意味 いみ で「歴史 れきし の皮肉 ひにく 性 せい 」を強調 きょうちょう したものとなった[8] 。
本書 ほんしょ は非常 ひじょう に有名 ゆうめい な言葉 ことば に始 はじ まる。
「
ヘーゲル はどこかで、すべての
偉大 いだい な
世界 せかい 史 し 的 てき な
事実 じじつ と
世界 せかい 史 し 的 てき 人物 じんぶつ はいわば
二 に 度 ど 現 あらわ れる、と
述 の べている。
彼 かれ はこう
付 つ け
加 くわ えるのを
忘 わす れた。
一 いち 度目 どめ は
偉大 いだい な
悲劇 ひげき として、
二 に 度目 どめ はみじめな
笑劇 しょうげき として、と。
ダントン の
代 か わりにコシディエール、
ロベスピエール の
代 か わりにルイ・ブラン、1793~1795
年 ねん の
モンターニュ派 は の
代 か わりに1848~1851
年 ねん の
モンターニュ派 は 、
小男 こおとこ の
伍長 ごちょう と
彼 かれ の
元帥 げんすい の
円卓 えんたく の
騎士 きし 団 だん の
代 か わりに、
借金 しゃっきん を
抱 かか えた
中尉 ちゅうい を
手当 てあて たり
次第 しだい かき
集 あつ めて
引 ひ き
連 つ れたロンドンの
警官 けいかん !
天才 てんさい の
ブリュメール18日 にち の
代 か わりに
白痴 はくち のブリュメール18
日 にち !そしてブリュメール18
日 にち の
第 だい 二 に 版 はん が
出版 しゅっぱん された
状況 じょうきょう も、これと
同 おな じ
戯画 ぎが である。
一 いち 度目 どめ はフランスが
破産 はさん の
瀬戸際 せとぎわ にあったが、
今度 こんど はボナパルト
自身 じしん が
債務 さいむ 者 しゃ 留置 りゅうち 所 しょ に
入 はい る
瀬戸際 せとぎわ だった。……。
人間 にんげん は
自分 じぶん 自身 じしん の
歴史 れきし を
創 つく るが、しかし、
自発 じはつ 的 てき に、
自分 じぶん が
選 えら んだ
状況 じょうきょう の
下 した で
歴史 れきし を
創 つく るのではなく、すぐ
目 め の
前 まえ にある、
与 あた えられた、
過去 かこ から
受 う け
渡 わたし された
状況 じょうきょう の
下 した でそうする。すべての
死 し せる
世代 せだい の
伝統 でんとう が
悪夢 あくむ のように
生 い きているものの
思考 しこう にのしかかっている。そして、
生 い きている
者 もの たちは、
自分 じぶん 自身 じしん と
事態 じたい を
根本 こんぽん 的 てき に
変革 へんかく し、いままでになかったものを
創造 そうぞう する
仕事 しごと を
携 たずさ わっているように
見 み えるちょうどそのときでさえ、まさにそのような
革命 かくめい 的 てき 危機 きき の
時期 じき に、
不安 ふあん そうに
過去 かこ の
亡霊 ぼうれい を
呼 よ び
出 だ して
自分 じぶん のたちの
役 やく に
立 た てようとし、その
名前 なまえ 、
鬨 とき の
声 こえ 、
衣装 いしょう を
借用 しゃくよう して、これらの
由緒 ゆいしょ ある
衣装 いしょう に
身 み を
包 つつ み、
借 か り
物 もの の
言葉 ことば で、
新 あたら しい
世界 せかい 史 し の
場面 ばめん を
演 えん じようとしているのである。」
[9]
とりわけ、冒頭 ぼうとう 部分 ぶぶん が注目 ちゅうもく に値 あたい する。
「偉大 いだい な悲劇 ひげき 」が、1799年 ねん 11月9日 にち (共和 きょうわ 暦 れき 8年 ねん 霧 きり 月 がつ 18日 にち )、ナポレオン・ボナパルト がフランス革命 かくめい をクーデターで流産 りゅうざん させたことを意味 いみ しており、「みじめな笑劇 しょうげき 」が、その甥 おい のルイ・ボナパルトが、第 だい 二 に 共和 きょうわ 制 せい の下 した で民主 みんしゅ 的 てき に大統領 だいとうりょう に選出 せんしゅつ されながら、同 おな じく1851年 ねん 12月2日 にち にクーデターで共和 きょうわ 制 せい を流産 りゅうざん させ、大統領 だいとうりょう 権限 けんげん を大幅 おおはば に強化 きょうか した新 しん 憲法 けんぽう を制定 せいてい して独裁 どくさい 体制 たいせい を樹立 じゅりつ し、翌年 よくねん には国民 こくみん 投票 とうひょう を経 へ て皇帝 こうてい に即位 そくい し第 だい 二 に 帝政 ていせい を樹立 じゅりつ して、ナポレオン3世 せい と自 みずか らを称 しょう したことを意味 いみ している。この二 ふた つの事件 じけん は相互 そうご に直接的 ちょくせつてき には関係 かんけい ないが、マルクスの目 め から見 み れば、クーデタで共和 きょうわ 政 せい を崩壊 ほうかい させた点 てん では伯父 おじ と甥 おい とは歴史 れきし 的 てき に同 おな じ役割 やくわり を果 は たしたことになるから、「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日 にち 」という表現 ひょうげん には「大 おお きな皮肉 ひにく 」が込 こ められていることになる[10] 。
冒頭 ぼうとう に続 つづ く部分 ぶぶん からは「歴史 れきし は繰 く り返 かえ す」という点 てん を元 もと に、過去 かこ の歴史 れきし 的 てき 状況 じょうきょう を対比 たいひ させることにはルイ・ナポレオンのクーデターを「戯画 ぎが 」として読者 どくしゃ に印象 いんしょう 付 つ けようとするマルクスの意図 いと が込 こ められている。マルクスは、二 ふた つの革命 かくめい に登場 とうじょう した共和 きょうわ 派 は と反動 はんどう 勢力 せいりょく の相克 そうこく はフランス革命 かくめい をなぞったものと理解 りかい し、革命 かくめい の歴史 れきし 的 てき 成果 せいか を矮小 わいしょう 化 か させたと批判 ひはん した。
さらに、諸 しょ 勢力 せいりょく を率 ひき いる指導 しどう 者 しゃ たちを歴史 れきし という舞台 ぶたい で過去 かこ の台本 だいほん を演 えん じるコミカルなキャラクターとして描写 びょうしゃ しようとした[11] 。マルクスは革命 かくめい の矮小 わいしょう 化 か と同時 どうじ にナポレオンに対 たい しても矮小 わいしょう 化 か が生 しょう じたことを感 かん じ取 と り、「彼 かれ ら(フランス国民 こくみん )は昔 むかし のナポレオンのマンガ版 ばん を手 て に入 い れただけでなく、19世紀 せいき 半 なか ばにはそう見 み えるに違 ちが いないのだが、昔 むかし のナポレオン自身 じしん をマンガにしてしまった」と語 かた った[12] 。こうした歴史 れきし の結果 けっか に第 だい 一 いち 帝政 ていせい を模倣 もほう し平凡 へいぼん 化 か した第 だい 二 に 帝政 ていせい が始動 しどう したと描写 びょうしゃ している。
マルクスは第 だい 2版 はん へのマルクスの序文 じょぶん の中 なか でこの著作 ちょさく の特徴 とくちょう を、クーデターを青天 せいてん の霹靂 へきれき というべき不意打 ふいう ちだったと語 かた ったヴィクトル・ユゴー の『小 しょう ナポレオン』と二 に 月 がつ 革命 かくめい から生 しょう じた歴史 れきし 的 てき な不可避 ふかひ の帰結 きけつ であったと指摘 してき するプルードン の『クーデタ』とを比較 ひかく して、「私 わたし が証明 しょうめい しているのは逆 ぎゃく であって、フランスにおける階級 かいきゅう 闘争 とうそう というものが事態 じたい や情況 じょうきょう を作 つく り出 だ して、そのおかげで、平凡 へいぼん で馬鹿 ばか げた一人物 いちじんぶつ が主役 しゅやく を演 えん じることができるようになったということなのだ。」と述 の べている。マルクスは、1851年 ねん 12月2日 にち のクーデターがナポレオン・ボナパルトのクーデタの時 とき とは異 こと なり、ルイ・ボナパルトの能力 のうりょく や実力 じつりょく によって可能 かのう になったのではなく、フランスにおける階級 かいきゅう 闘争 とうそう の激化 げきか が左右 さゆう 両翼 りょうよく の諸 しょ 党派 とうは を共倒 ともだお れさせ、結果 けっか 的 てき にルイ・ナポレオンの台頭 たいとう とその後 ご のクーデターを可能 かのう にしたという点 てん を示 しめ そうとした[13] 。
また、上記 じょうき マルクスの叙述 じょじゅつ の後半 こうはん 部分 ぶぶん からは、歴史 れきし における社会 しゃかい 的 てき 条件 じょうけん づけの優位 ゆうい 性 せい を示唆 しさ している。革命 かくめい の歴史 れきし の記憶 きおく が強 つよ く作用 さよう してクーデターを可能 かのう にさせたのだと考 かんが え、ナポレオンのクーデターをフランスの革命 かくめい 史 し の伝統 でんとう が創 つく り出 だ した事件 じけん であると見 み ていることが読 よ み取 と れる。クーデターは個人 こじん 的 てき な自由 じゆう 意志 いし による行動 こうどう としてではなく、階級 かいきゅう 闘争 とうそう の激化 げきか 、革命 かくめい の前途 ぜんと への漠然 ばくぜん とした不安 ふあん 感 かん が人々 ひとびと を捕 とら え、かつて存在 そんざい した第 だい 一 いち 帝政 ていせい への軌跡 きせき についての追憶 ついおく から自由 じゆう の放棄 ほうき と独裁 どくさい への転落 てんらく という道 みち を歩 あゆ ませたのだと指摘 してき している。
「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日 にち 」
マルクス マルクス・エンゲルス エンゲルス 全集 ぜんしゅう ・著作 ちょさく 集 しゅう
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