前田まえだ光子みつこ

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前田まえだ 光子みつこ(まえだ みつこ、旧姓きゅうせい:安原やすはら1912ねん明治めいじ45ねん3月21にち - 1983ねん昭和しょうわ58ねん4がつ18にち)は、前田まえだ一歩はじめえん財団ざいだん創立そうりつしゃで、前田まえだ一歩はじめえんの3代目だいめえんぬしもと宝塚たからづか少女しょうじょ歌劇かげきだんげん宝塚歌劇団たからづかかげきだんゆきぐみむすめやく宝塚歌劇団たからづかかげきだん卒業生そつぎょうせい

宝塚歌劇団たからづかかげきだんざいだん芸名げいめいは、ぶん秀子ひでこ(ぶんや ひでこ)。義父ぎふ前田まえだ正名まさな

略歴りゃくれき人物じんぶつ[編集へんしゅう]

1912ねん栃木とちぎけん日光にっこうまれる。

1927ねん宝塚歌劇団たからづかかげきだん17期生きせい[1]として宝塚歌劇団たからづかかげきだん当時とうじは「寶塚たからづか少女しょうじょ歌劇かげきだん」)に入団にゅうだんする。同期生どうきせい梅香ばいこうふみ佐保さほ美代子みよこらがいる。

1928ねん4がつ宝塚たからづかだい劇場げきじょうにおいて、ゆきぐみ公演こうえん・レヴュウ『はるのをどり』[1]はつ舞台ぶたいむ。初舞台はつぶたいゆきぐみ配属はいぞくされる[1]

1932ねん同年どうねん4がつ1にちから30にちまでおこなわれたゆきぐみ公演こうえん木村きむら重成しげなりつま』『はるのをどり(七曜しちよう)』[1]への出演しゅつえん最後さいご宝塚歌劇団たからづかかげきだん退団たいだんする。光子こうし宝塚歌劇団たからづかかげきだん退団たいだんも、同期生どうきせい須磨すま磯子いそごとは長年ながねんわたって交流こうりゅうつづけており、須磨すまむすめもとタカラジェンヌのたてともみ光子こうしのことを「前田まえだのおばさま」とんで文通ぶんつうをしていたという[2]

1936ねん前田まえだ正名まさな次男じなん正次まさつぐ(まさじ)と結婚けっこんする。正次まさつぐとは25さいはなれていた。

1944ねん正次まさつぐとも阿寒湖畔あかんこはん移住いじゅうする。正次まさつぐ正名まさなからいだ前田まえだ一歩はじめえんの2代目だいめえんぬしとして、正名まさな意志いしぎ、森林しんりん保全ほぜんつとめた。正次まさつぐ病弱びょうじゃく東京とうきょうもど療養りょうようすることもおおかったため、光子こうし森林しんりん保全ほぜんささつづけた。

1957ねん正次まさつぐ死去しきょし、光子こうしこういで前田まえだ一歩はじめえんの3代目だいめえんぬしとなり、阿寒湖畔あかんこはん保全ほぜん邁進まいしんする。1949ねんごろからはじまったみなした1000ヘクタールの土地とちへの植林しょくりんは、失敗しっぱいかえしながら、1ヘクタールあたり2500ほん植林しょくりんし、1983ねんまでに250まんほん植林しょくりんおこなった。

また、地元じもとアイヌ土地とち一部いちぶ開放かいほうし、そこで木彫きぼりみせ作業場さぎょうばたせ、アイヌの自立じりつ支援しえんした。これはアイヌ部落ぶらくいしずえとなり、阿寒湖あかんこ観光かんこう目玉めだまのひとつとなった。そのため、アイヌからは「ハポ」(アイヌで「やさしいおかあさん」)とばれてしたわれた。

1982ねん朝日あさひ森林しんりん文化ぶんかしょう特別とくべつしょう受賞じゅしょう副賞ふくしょう本人ほんにん希望きぼうで、阿寒あかんもり撮影さつえいした航空こうくう写真しゃしんおくられた。

1983ねん4がつ正名まさなの「前田まえだ財産ざいさんはすべて公共こうきょう事業じぎょう財源ざいげんとす。」の家憲かけん体現たいげんすべく、私財しざいをなげうって「前田まえだ一歩はじめえん財団ざいだん」の設立せつりつたした14にち逝去せいきょ享年きょうねん71。「阿寒あかんはは」とばれ、阿寒あかんまちそうをもって荼毘だびされた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d 100ねん(人物じんぶつ) 2014, p. 14.
  2. ^ ともみ先生せんせいだてともみ)とゆきぐみ「Samourai-サムライ-のごえん - きゅう茶々ちゃちゃきち24 -着物きもの歌劇かげきとわんにゃんと-、2011ねん12月6にちづけ

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  • 前田まえだ一歩はじめえん財団ざいだん 阿寒あかん(ウェブマガジン カムイミンタラ)より
  • 監修かんしゅう著作ちょさくけんしゃ小林こばやし公一こういち宝塚歌劇たからづかかげき100ねん にじはし わたりつづけて(人物じんぶつへん)』阪急はんきゅうコミュニケーションズ、2014ねん4がつ1にちISBN 978-4-484-14601-0