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安田やすだのりあきら

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
安田やすだのりあきら Portal:陸上競技
選手せんしゅ情報じょうほう
フルネーム 安田やすだのりあきら
ラテン文字もじ Noriaki Yasuda
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
競技きょうぎ 陸上りくじょう競技きょうぎ
種目しゅもく 棒高跳ぼうたかとび
所属しょぞく 旭化成あさひかせい日刊にっかんスポーツ[1]
大学だいがく 東京教育大学とうきょうきょういくだいがくげん筑波大学つくばだいがく
生年月日せいねんがっぴ 1935ねん12月11にち
出身しゅっしん 大日本帝国の旗 日本にっぽん統治とうち台湾たいわん台北たいぺいけん樹林じゅりん鎮(げん新北しんきた樹林じゅりん
居住きょじゅう 日本の旗 日本にっぽん愛知あいちけん豊田とよだ保見ケ丘ほみがおか[2][3]
ぼつ年月日ねんがっぴ (2004-04-16) 2004ねん4がつ16にち(68さいぼつ
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん愛知あいちけん豊田とよだ[4]
身長しんちょう 171 cm[5]
体重たいじゅう 73 kg(1962ねん[1]
引退いんたい 1963ねん(28さい[6]
コーチ 中京大学ちゅうきょうだいがく[1]
オリンピック 4m20(1960 ローマ[7]
国内こくない大会たいかい決勝けっしょう 優勝ゆうしょう3かい日本にっぽん選手権せんしゅけん[8]
自己じこベスト
棒高跳ぼうたかとび 4m41(1962ねん[1]
獲得かくとくメダル
男子だんし陸上りくじょう競技きょうぎ
日本の旗 日本にっぽん
ユニバーシアード
きむ 1959 トリノ 棒高跳ぼうたかとび
アジア競技きょうぎ大会たいかい
きむ 1958 東京とうきょう 棒高跳ぼうたかとび
日本にっぽん選手権せんしゅけん
きむ 1957 神戸こうべ 棒高跳ぼうたかとび
きむ 1958 東京とうきょう 棒高跳ぼうたかとび
きむ 1960 東京とうきょう 棒高跳ぼうたかとび
ぎん 1959 東京とうきょう 棒高跳ぼうたかとび
日本にっぽんインカレ
きむ 1957 松本まつもと 棒高跳ぼうたかとび
きむ 1958 東京とうきょう 棒高跳ぼうたかとび
きむ 1959 岡山おかやま 棒高跳ぼうたかとび
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安田やすだ のりあきら(やすだ のりあき、1935ねん12月11にち - 2004ねん4がつ16にち)は、日本にっぽん陸上りくじょう競技きょうぎ選手せんしゅ指導しどうしゃ研究けんきゅうしゃ新聞しんぶん記者きしゃせんもん棒高跳ぼうたかとびもと日本にっぽん記録きろく保持ほじしゃ[1]中京大学ちゅうきょうだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ[2][3]日本にっぽん統治とうち時代じだい台湾たいわんまれ[9]鳥取とっとりけん出身しゅっしん[1][4]

安田やすだ現役げんえき時代じだい棒高跳ぼうたかとびポール進化しんかつづいていたころであり、たけスチールグラスファイバーの3しゅ競技きょうぎおこなった[1]

経歴けいれき

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生誕せいたんから小中学校しょうちゅうがっこう時代じだい(1935-1950)

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1935ねん昭和しょうわ10ねん)12月11にち日本にっぽん統治とうち台湾たいわん台北たいぺいけん樹林じゅりん鎮(げん新北しんきた樹林じゅりん)に安田やすだ7にん兄弟きょうだいの5番目ばんめとしてまれた[9]当時とうじ樹林じゅりん台北たいぺい郊外こうがいにある田舎いなかまちであり、ちち台湾たいわん国民こくみん学校がっこう校長こうちょうつとめ、自宅じたく学校がっこううらにあった[9]たかいところにのぼるのがきで、2さいころ学校がっこうといつたって10 mほどのたかさの屋根やねまでのぼり、ははをひやひやさせた経験けいけんがあるという[9]安田やすだスポーツきの一家いっかで、休日きゅうじつになると家族かぞくでさまざまなスポーツをたのしんだことから、安田やすだ少年しょうねん小学校しょうがっこう入学にゅうがくするまえから自然しぜん鉄棒てつぼうばこしたしんだ[9]

1946ねん昭和しょうわ21ねん)、小学しょうがく4ねん修了しゅうりょうをもって台湾たいわんから、5年生ねんせいから一家いっか故郷こきょう鳥取とっとりけん西伯さいはくぐん大篠津おおしのづむらげん米子よなご大篠津おおしのづまち)へうつった[9]大篠津おおしのづ国民こくみん学校がっこうげん米子よなご市立しりつ大篠津おおしのづ小学校しょうがっこう)では野球やきゅうきょうじ、ポジションは遊撃手ゆうげきしゅであった[9]ちかくがうみであったことからよくおよぎにき、逆立さかだ卓球たっきゅう得意とくいで、100m走高跳はしりたかとびぐん大会たいかい出場しゅつじょうしたことがあった[10]1948ねん昭和しょうわ23ねん)、美保みほ中学校ちゅうがっこう進学しんがくもスポーツねつおとろえず、バレーボール柔道じゅうどう野球やきゅう陸上りくじょう競技きょうぎ体操たいそう競技きょうぎなど様々さまざまなスポーツにれた[11]とく体操たいそう競技きょうぎ熱中ねっちゅうし、中学ちゅうがく3ねん体操たいそう入部にゅうぶしてあにから直接ちょくせつ指導しどうけ、大車輪だいしゃりんドイツばん英語えいごばん宙返ちゅうがえりなどのわざができるようになり、体操たいそう選手せんしゅになることを夢見ゆめみていた[11]

さかい高校こうこう旭化成あさひかせい時代じだい(1951-1956)

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1951ねん昭和しょうわ26ねん)、鳥取とっとり県立けんりつ境高等学校さかいこうとうがっこう進学しんがくすると意気揚々いきようよう体操たいそう入部にゅうぶしたが、野球やきゅうちかられる校風こうふうからのスポーツはあまりさかんではなく、体操たいそう器具きぐ不十分ふじゅうぶん指導しどうしゃもいなかった[11]。それにくわえて高校こうこう1ねんわりごろにはみずからの競技きょうぎりょく向上こうじょうしないことにあせりをいだくようになっていた[11]一方いっぽう走高跳はしりたかとび実力じつりょくわれて陸上りくじょう競技きょうぎ大会たいかいすけとして出場しゅつじょう高校こうこう2ねんの5がつ棒高跳ぼうたかとび出会であ[11]

当時とうじさかい高校こうこう陸上りくじょうには棒高跳ぼうたかとび鳥取とっとりけん高校こうこう記録きろく保持ほじしゃ記録きろくは3m20)がおり、安田やすだためしにポール素材そざいたけ[1])をりてやってみると、いきなり3mをマークし周囲しゅうい驚愕きょうがくさせた[11]即座そくざ陸上りくじょう正式せいしき入部にゅうぶすすめられたが体操たいそうへの未練みれんれず「すけ」をつづけ、中国ちゅうごく大会たいかいで3mをんで4入賞にゅうしょう全国ぜんこく高等こうとう学校がっこう総合そうごう体育たいいく大会たいかい(インターハイ)出場しゅつじょうけん獲得かくとくした[11]。インターハイ本番ほんばんでは3かい試技しぎをすべて失敗しっぱいし、記録きろくなしにわった[11]。しかしこれをきっかけに陸上りくじょうへのてん決意けついし、冬季とうき練習れんしゅうから本格ほんかくてき陸上りくじょう競技きょうぎはじめた[12]陸上りくじょう監督かんとくが「練習れんしゅうむしだった」とかたるほど熱心ねっしんだった[13]1953ねん昭和しょうわ28ねん)の高校こうこう3ねんには鳥取とっとりけん大会たいかい中国ちゅうごく大会たいかいともに3m30の鳥取とっとりけん高校こうこうしん記録きろく優勝ゆうしょうしインターハイにのぞんだが、前年ぜんねん同様どうようりきんでしまい3m20で予選よせんちであった[5]。このとしの10がつには自身じしん鳥取とっとりけん高校こうこうしん更新こうしんする3m60をマークした[5]。このころ安田やすだ体格たいかく体重たいじゅう59 kg胸囲きょうい90 cm、上腕じょうわんかこえ26 cmであった[13]

棒高跳ぼうたかとび記録きろく向上こうじょう体感たいかんするなか安田やすだ進路しんろまようが[5]家庭かてい事情じじょうもあり[5][1]1954ねん昭和しょうわ29ねん)、旭化成あさひかせい就職しゅうしょく宮崎みやざきけん延岡のべおか工場こうじょう配属はいぞくされる[1]旭化成あさひかせい陸上りくじょう所属しょぞくした社会しゃかいじん1ねんは3m70、2ねんは3m80と記録きろくばしていく一方いっぽうで、肉離にくばな神経痛しんけいつうなやまされた[5]。このころはまだ九州きゅうしゅうなかでも上位じょうい選手せんしゅというわけではなかった[1]が、りょう自室じしつ天井てんじょうに「日本一にっぽんいち」と大書たいしょして、出社しゅっしゃまえ懸垂けんすい100かい昼休ひるやす縄跳なわと深夜しんや腕立うでた100かい部分ぶぶん強化きょうかおこたらなかった[13]競技きょうぎ専念せんねんしたいおもいがつのり、ついに会社かいしゃめる決心けっしんをする[5]

東京教育大学とうきょうきょういくだいがく時代じだい(1956-1960)

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1956ねん昭和しょうわ31ねん)、きな運動うんどうができ体育たいいく勉強べんきょうができるという理由りゆう東京教育大学とうきょうきょういくだいがく体育たいいく学部がくぶげん筑波大学つくばだいがく体育たいいく専門せんもんがくぐん)に進学しんがくする[5]陸上りくじょう競技きょうぎ入部にゅうぶし、実業じつぎょうだん出身しゅっしん安田やすだ同期どうきなかでもきん存在そんざいであり、それまで1学年がくねん1にんしかいなかった女子じょし部員ぶいん安田やすだ世代せだいから複数ふくすうじん所属しょぞくするようになった[14]入学にゅうがく初年度しょねんど関東かんとうインカレは3m90で3入賞にゅうしょう[15]、このとし自己じこベストは3m92であった[5]東京教育大学とうきょうきょういくだいがく以下いか教育きょういくだい入学にゅうがくより器械体操きかいたいそう棒高跳ぼうたかとび技術ぎじゅつ向上こうじょうのために再開さいかいした[1]

1957ねん昭和しょうわ32ねん)、2年生ねんせいになると5がつ関東かんとうインカレは3m90で2、7がつ日本にっぽんインカレは4m05で優勝ゆうしょうし、10月の日本にっぽん選手権せんしゅけんも4m10でせいした[16]なつにはドイツ遠征えんせいかけ、ドイツじんすすめられるままにダンスおどったら翌日よくじつ大会たいかい自己じこしんして優勝ゆうしょうするという経験けいけんをしている[17]フランスパリひらかれた1957ねん世界せかい大学だいがく競技きょうぎ大会たいかい英語えいごばんにも出場しゅつじょう、4m15で4入賞にゅうしょうした[1]同年どうねん最終さいしゅうてきに4m20まで記録きろくばしている[5]

1958ねん昭和しょうわ33ねん)は5月のアジア競技きょうぎ大会たいかい東京とうきょう)で4m20をんできんメダル獲得かくとくおなじく5がつ関東かんとうインカレを4m05で、7がつ日本にっぽんインカレを4m25で優勝ゆうしょうした[18]日本にっぽんインカレの成績せいせきは、当時とうじ日本にっぽん歴代れきだい4タイ記録たいきろくであった[1]。8月の日本にっぽん選手権せんしゅけんでは2であった[19]。このとし日本にっぽん学生がくせい陸上りくじょう競技きょうぎ連合れんごうが30周年しゅうねん記念きねん日本にっぽん学生がくせいたい米国べいこく対抗たいこう国際こくさい競技きょうぎかい日本にっぽん各地かくち開催かいさいしており、安田やすだ京都きょうと大会たいかいで4m27(当時とうじ日本にっぽん戦後せんご最高さいこう記録きろく)、福岡ふくおか大会たいかいで4m30と順調じゅんちょう記録きろくばし、9月14にち最終さいしゅうせんとなる小田原おだわら大会たいかい小田原おだわら城山じょうざん陸上りくじょう競技きょうぎじょう)にのぞんだ[1]安田やすだアメリカのロバート・チャールズと激戦げきせんひろげ、4m36の日本にっぽんしん記録きろく樹立じゅりつした[1]従来じゅうらい日本にっぽん記録きろく大江おおえ季雄すえおの4m35で、更新こうしんされたのは1cmだけだったが、21ねんぶりの日本にっぽん記録きろく更新こうしん会場かいじょう観衆かんしゅう興奮こうふん[1]日本にっぽん記録きろく目指めざしていた安田やすだよろこびのあまりねむれなかった[5]安田やすだどう記録きろくながら、試技しぎすう優勝ゆうしょうにしたチャールズは、安田やすだ自分じぶん使つかっていたグラスファイバーせいのポールをおくっている[1]。このとき安田やすだ大会たいかい使つかっていたのはスチールせいであり、日本人にっぽんじんはじめてグラスファイバーポールをにしたものとかんがえられる[1]。10月の日本にっぽん選手権せんしゅけんでは日本にっぽん記録きろくとどかなかったが4m20で2連勝れんしょうした[20]

1959ねん昭和しょうわ34ねん)、4年生ねんせいになると安田やすだ競技きょうぎ主将しゅしょう就任しゅうにんし、一致いっち団結だんけつして丸刈まるがにしたので、男子だんし部員ぶいん全員ぜんいん丸刈まるがりにせざるをなくなったという[21]。5月の関東かんとうインカレは4m10で3るわなかったが、7がつ日本にっぽんインカレでは前年ぜんねんおなじ4m25をんで3連覇れんぱし、日本にっぽんインカレの対校たいこう成績せいせき男女だんじょとも4であった[22]。9月にはイタリアトリノひらかれただい1かいユニバーシアード出場しゅつじょう[23]、4m35ではつ代金だいきんメダリストにかがやいている[1]。この大会たいかいには有力ゆうりょく選手せんしゅ多数たすう出場しゅつじょうしており、安田やすだ入賞にゅうしょうすら予想よそうされていなかったというが、闘志とうしめて平静へいせいよそおったのが選手せんしゅ刺激しげきせずにみ、勝利しょうりにつながったと述懐じゅっかいしている[24]教育きょういくだい卒業そつぎょうまえ安田やすだ体格たいかく体重たいじゅう73 kg、胸囲きょうい104 cm、上腕じょうわんかこえ34 cmに成長せいちょうしていた[13]

旭化成あさひかせい復帰ふっき新聞しんぶん記者きしゃへ(1960-1970)

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教育きょういくだい卒業そつぎょうした1960ねん昭和しょうわ35ねん)、安田やすだ旭化成あさひかせいもどり、静岡しずおかけん富士ふじ工場こうじょう配属はいぞくされた[1]富士ふじ工場こうじょうには教育きょういくだい競技きょうぎで2学年がくねん先輩せんぱい[25]だった大串おおぐし啓二けいじ勤務きんむしていた[26]同年どうねん出場しゅつじょうした東海とうかい選手権せんしゅけん[17]、スチールポールで自身じしん日本にっぽん記録きろくやぶる4m40をマークし、これが参加さんか標準ひょうじゅん記録きろくであったローマオリンピック日本にっぽん代表だいひょう獲得かくとくした[1]旭化成あさひかせい富士ふじ工場こうじょうからは安田やすだのほか、400mHだいくしハンマーとう岡本おかもとのぼる日本にっぽん代表だいひょう選出せんしゅつされ、3にん7がつ27にち富士ふじ市役所しやくしょ広場ひろば壮行そうこうかい出席しゅっせき市民しみんらに見送みおくられながら富士ふじえきからはまなってローマ出発しゅっぱつした[26]オリンピック当日とうじつは4m20を記録きろくしたが、結果けっか予選よせん敗退はいたいであった[7]

1962ねん昭和しょうわ37ねん)、日刊スポにっかんすぽツ新聞社つしんぶんしゃ転身てんしんし、運動うんどう記者きしゃ[13]をしながら競技きょうぎ続行ぞっこうした[1]。このときグラスファイバーポールに[1]静岡しずおか選手権せんしゅけん[17]自身じしん日本にっぽん記録きろくを1cm更新こうしんする4m41をて、生涯しょうがいベストとなった[1]。27さいであった[1]。10月の日本にっぽん選手権せんしゅけんでは4m30で5だった[27]1963ねん昭和しょうわ38ねん)、現役げんえき引退いんたいする[6]

現役げんえき引退いんたい戦前せんぜん活躍かつやくした西田にしだ修平しゅうへいかつして「棒高跳ぼうたかとびつよくするかい」を結成けっせい1966ねん昭和しょうわ41ねん)から「ぼうだかニッポン」の復活ふっかつ目指めざすべく室内しつない競技きょうぎかいとしすうかい開催かいさいした[1]。また同年どうねん教育きょういくだい競技きょうぎ監督かんとく関岡せきおか康雄やすお順天堂大学じゅんてんどうだいがく陸上りくじょう監督かんとく帖佐ちょうさ寛章ひろあき東京急行電鉄とうきょうきゅうこうでんてつ陸上りくじょう監督かんとく築地つきじこうらと協力きょうりょくしてだい1かいニッカンスポーツ・ナイター陸上りくじょう開催かいさいした[28]。ナイター陸上りくじょうスーパー陸上りくじょうゴールデングランプリ陸上りくじょうとして継続けいぞく開催かいさいされている[29]1969ねん昭和しょうわ44ねん3月13にちから3月26にちまで教育きょういくだい競技きょうぎ台湾たいわんしょう陸上りくじょう競技きょうぎ協会きょうかいから台湾たいわん招待しょうたいされ、安田やすだもコーチとして参加さんかした[6]。10さいまで台湾たいわんらした安田やすだは、久々ひさびさ台湾たいわん訪問ほうもんまってから2、3にち少年しょうねん時代じだいゆめるほどにたのしみにしてんだ[6]現地げんちでは戦後せんごはつ日本にっぽん陸上りくじょう関係かんけいしゃ訪問ほうもんとあってだい歓迎かんげいであり、教育きょういくだい競技きょうぎいちぎょうよしみよし台湾たいわんしょう選手権せんしゅけん参加さんかし、よしみよし高雄たかお台北たいぺいたいちゅうの4都市とし陸上りくじょう講習こうしゅうかい開催かいさいした[30]当時とうじ台湾たいわん陸上りくじょうかいは、世界せかいレベルの選手せんしゅすうめいいたが全体ぜんたいてきには日本にっぽんくらべておくれており、指導しどうじんはほぼ日本にっぽん統治とうち時代じだい選手せんしゅだった人々ひとびとめられていた[31]棒高跳ぼうたかとびはグラスファイバーポールが普及ふきゅうしておらず、選手権せんしゅけんでは前日ぜんじつった青竹あおだけ使つかっていた[32]安田やすだ引退いんたいから6ねん台湾たいわんしょう選手権せんしゅけん青竹あおだけポールで参加さんかし、3m70で2入賞にゅうしょうたした[31]

指導しどうしゃ晩年ばんねん(1970-2004)

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1970ねん昭和しょうわ45ねん)、中京大学ちゅうきょうだいがく教員きょういん転身てんしん[1]教授きょうじゅ就任しゅうにんした[2]中京ちゅうきょうだいでは陸上りくじょう競技きょうぎ監督かんとく部長ぶちょう歴任れきにんし、室伏むろふし広治ひろじらをそだてた[2]。また台湾たいわんまれのえんがあり、教育きょういくだい競技きょうぎ後輩こうはいでもあるちんぜんことぶき中京ちゅうきょうだい教員きょういんにスカウトし、ひねしたっておおくの台湾たいわんじん留学生りゅうがくせい陸上りくじょう競技きょうぎ選手せんしゅ)が中京ちゅうきょうだい留学りゅうがくするきっかけをつくった[33]ウィリー・バンクス中京ちゅうきょうだい特別とくべつ講師こうしとして教鞭きょうべんっていたころには、バンクスとしたしくまじわり、日本にっぽんしば事情じじょうつたえたことから、後年こうねんバンクスが天然てんねんしばちか人工芝じんこうしば「フィールドターフ」を日本にっぽんにもたらすことにつながった[34]

1979ねん昭和しょうわ54ねん)、アメリカからストレッチかえった豊田工業高等専門学校とよたこうぎょうこうとうせんもんがっこう教授きょうじゅ小栗おぐり達也たつやにストレッチをならい、授業じゅぎょうれたほか、みずか実践じっせん家族かぞく様子ようす読売新聞よみうりしんぶん写真しゃしんきで掲載けいさいされた[35]1983ねん昭和しょうわ58ねん)、フィンランドヘルシンキひらかれただい1かい世界せかい選手権せんしゅけんにコーチの1人ひとりとして日本にっぽん選手せんしゅだん帯同たいどう[36]1992ねん平成へいせい4ねん)にもバルセロナオリンピックでコーチとして日本にっぽん選手せんしゅだん随行ずいこうしている[37]

1990ねん平成へいせい2ねん)にはマスターズ陸上りくじょう関心かんしんしめし、競技きょうぎへの参加さんか意欲いよくしめした[38]実際じっさい1993ねん平成へいせい5ねん)10がつ世界せかいベテランズ選手権せんしゅけん宮崎みやざきけん総合そうごう運動公園うんどうこうえん陸上りくじょう競技きょうぎじょう)に55さい以上いじょう出場しゅつじょうしたが、記録きろくなしにわった[39]日本にっぽん陸上りくじょう競技きょうぎ連盟れんめいでは1995ねん平成へいせい7ねん)から2000ねん平成へいせい12ねん)まで強化きょうか委員いいんちょうつと[3]1996ねんアトランタオリンピックではヘッドコーチ、2000ねんシドニーオリンピックでは日本にっぽん選手せんしゅだん本部ほんぶ役員やくいんつとめた[2]中京ちゅうきょうだいひらかれた室伏むろふし広治ひろじのシドニーオリンピック壮行そうこうかいでは「広治ひろじのフォームは世界一せかいいちなんですよ」と絶賛ぜっさんしていた[40]中京ちゅうきょうだい教授きょうじゅとしては1997ねん平成へいせい9ねん)に「ポールの材質ざいしつによる棒高跳ぼうたかとびの記録きろく変遷へんせん」という論文ろんぶん執筆しっぴつした[41]

晩年ばんねん筑波大学つくばだいがく陸上りくじょう競技きょうぎ世紀せいきえて』(2004ねん平成へいせい16ねん発行はっこう)への寄稿きこうもとめられたが、安田やすだ闘病とうびょうちゅうであったため、安田やすだ友人ゆうじん同期どうきであった大西おおにしあきらこころざし順天堂大学じゅんてんどうだいがく教授きょうじゅ)がわりに執筆しっぴつした[42]。2004ねん平成へいせい16ねん)4がつ16にち午後ごご356ふん[4]肝臓かんぞうがんのため[2][3][4]愛知あいちけん豊田とよだうち病院びょういん逝去せいきょ[4]、68さいであった[2][3][4]葬儀そうぎ4がつ19にち豊田とよだセレモニーホール豊田とよだ貴賓きひんかんいとなまれた[2][3]

競技きょうぎ姿勢しせい競技きょうぎかん

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幼少ようしょうからおおくのスポーツにしたしみ、なかでも体操たいそう競技きょうぎは、将来しょうらいゆめ体操たいそう選手せんしゅげるほど熱中ねっちゅうした[43]体操たいそう選手せんしゅになるゆめ高校こうこう時代じだい挫折ざせつするが、それまでの体操たいそう経験けいけん棒高跳ぼうたかとび技術ぎじゅつおおいに役立やくだったと述懐じゅっかいしている[5]具体ぐたいてきには鉄棒てつぼう車輪しゃりんけいわざ棒高跳ぼうたかとびのバーをえるときののこなしをスムーズにし、空中くうちゅう動作どうさ役立やくだったという[1]安田やすだがスチールポールを使つかって樹立じゅりつした4m40は、その選手せんしゅがこぞってグラスファイバーポールにえたため、金属きんぞくポールで記録きろくした日本にっぽん記録きろくとしてのこっている[13]安田やすだ目標もくひょうは4m50をえることであった[5]が、自己じこベストは4m41で達成たっせいすることはできなかった[1]

おおくの陸上りくじょう選手せんしゅ同様どうよう安田やすだ練習れんしゅう日誌にっしけていたが、その内容ないよう一味いちみちがった[1]。1にち詳細しょうさい食事しょくじ内容ないよう練習れんしゅういどんだバーのたかさと回数かいすうもとより、便びん状態じょうたい心拍しんぱくすう体重たいじゅう変化へんか試合しあいかずまでんでいた[1][44]さかい高校こうこう2ねんから引退いんたいするまでの12年間ねんかん日誌にっしつづけた[13]安田やすだ日誌にっしによれば現役げんえき時代じだい出場しゅつじょう試合しあいすうは145かいで、うち83かい優勝ゆうしょうするというたか勝率しょうりつたも[1][13]、6以内いないれなかったのは5かいだけだった[1][44]

競技きょうぎしゃ身体しんたい資本しほんである」とのかんがえから、食事しょくじだいいちかんが節制せっせい心掛こころがけた[17]。このため1990ねん平成へいせい2ねん)にった栄養えいようがくセミナーの授業じゅぎょうで、3ぶんの2の学生がくせい朝食ちょうしょくっていないという事実じじつおどろいたという[38]競技きょうぎはじめたころ試合しあい前日ぜんじつには緊張きんちょう睡眠すいみんが2、3あいだしかとれなかったが、ドイツでダンスをおどったらよくねむれた経験けいけんもとに、映画えいがるなどリラックスできれば多少たしょうねむれなくても大丈夫だいじょうぶという自信じしんいた[17]。なお、安田やすだにとってもっとうれしかったおもの1せんは、日本にっぽん記録きろく樹立じゅりつした大会たいかいではなく、ユニバーシアードでのきんメダルである[24][13]

選手せんしゅとしての安田やすだはどんな大会たいかいでも、まるで時計とけいはりのように正確せいかくに、自身じしん試技しぎの3人前にんまえ選手せんしゅがポールでバーの位置いちはかはじめるのと同時どうじからだうごかして緊張きんちょうおさえ、1人前にんまえ選手せんしゅ助走じょそう位置いちくとユニフォーム姿すがたでバーのした待機たいきはじめた[13]跳躍ちょうやくまでの動作どうさ時間じかんをかける選手せんしゅおおなかで、自身じしん出番でばんまわってきたらすぐられるように準備じゅんびしていた安田やすだ競技きょうぎ姿勢しせいは、審判しんぱんいんあいだでもこう評価ひょうかであったという[13]。あがりしょうであったため、教育きょういくだい競技きょうぎ入部にゅうぶしたころ主将しゅしょう飯塚いいづかさちじん試合しあいまえメモんでいたのにヒントをて、自身じしん欠点けってん競技きょうぎじょう注意ちゅうい事項じこういたメモを主要しゅよう大会たいかいんで、試技しぎごとに見返みかえしていた[13]

安田やすだライバル存在そんざい重要じゅうようせいいている[44]具体ぐたいれいとしてセルゲイ・ブブカまえロディオン・ガタウリンというライバルがあらわれたことで、一時いちじうしなわれていたブブカのやる復活ふっかつし、士気しきがったと指摘してきしている[44]安田やすだ本人ほんにんにとっては、大坪おおつぼまさしげんせい小倉こくら)や赤坂あかさかひろしさん存在そんざいおおきく、かれらの長所ちょうしょ短所たんしょから、自身じしんてるのは逆立さかだ器械体操きかいたいそうだと判断はんだんし、これらをトレーニングにれた[44]とく逆立さかだちは京都きょうとったさいおんいん石段いしだん逆立さかだちでくだったことがある[44]

安田やすだ日本にっぽん陸上りくじょう選手せんしゅ問題もんだいてんとして、基礎きそてきなトレーニングの不足ふそく目的もくてき意識いしき欠如けつじょ希薄きはくさ、ちいさいうちからの1つの競技きょうぎへの専心せんしん競技きょうぎ関心かんしんしめさない)、教育きょういくによる独創どくそうせいのなさをげている[38]

周囲しゅういからの評価ひょうか

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1936ねんベルリンオリンピックの陸上りくじょう競技きょうぎきんメダルを獲得かくとくした田島たじま直人なおと著書ちょしょ根性こんじょう記録きろく』のなか戦後せんご日本にっぽん陸上りくじょう選手せんしゅ苦言くげんていしたが、安田やすだかんしては「冷静れいせい沈着ちんちゃく試合しあい態度たいど西田にしだ大江おおえのそれにおとらぬものがあった」とめている[13]だい1かいユニバーシアードで監督かんとくつとめた釜本かまもと文男ふみおも「試合しあいじょうでの冷静れいせいかつ緻密ちみつ計算けいさんいま選手せんしゅにはられない」と賛辞さんじおくり、日本にっぽんインカレを観戦かんせんした河野こうの一郎いちろうは「安田やすだ試合しあい態度たいど現代げんだい選手せんしゅたちは見習みならうべきだ」とべ、安田やすだのライバルであった山崎やまざき国昭くにあきおなじく「見習みならうべき」とっている[13]

以上いじょうのように関係かんけいしゃからは冷静れいせい沈着ちんちゃく選手せんしゅおもわれていたが、本人ほんにん内向ないこうてきであがりしょうだとかたっている[13]実際じっさいこう2ではつ出場しゅつじょうしたインターハイでは、極度きょくど緊張きんちょうでポールをボックスでなく、そのさき砂場すなばすことを3かいかえし、ちゅうぶらりんになった姿すがた観衆かんしゅうわらわれるというはじをかいている[24]。またはつ国際こくさい大会たいかいであるパリの世界せかい大学だいがく競技きょうぎ大会たいかいでは、緊張きんちょうのあまり事前じぜんませたはずなのに尿意にょういもよおしトイレの位置いちたずねたが、係員かかりいん英語えいごドイツほぐさなかったためききだせず、モジモジしていたらようやくつたわったものの、わらわれてずかしいおもいをしている[24]

教育きょういくだい同期どうきだった大西おおにしあきらこころざし走高跳はしりたかとび専門せんもん)は大学だいがく時代じだい安田やすだについて、身長しんちょうはそれほどたかくないが胸板むないたあつあしながく、運動うんどう神経しんけい抜群ばつぐんであったとひょうしている[42]安田やすだ棒高跳ぼうたかとびせんもんであったものの、「あそび」でんだ走高跳はしりたかとび大西おおにし記録きろくしてしまった[42]当時とうじ主流しゅりゅうになりはじめていたベリーロール習得しゅうとく安田やすだほう大西おおにしよりはやく、大西おおにしくやしがらせた[21]つま景子けいこ教育きょういくだい出身しゅっしん学生がくせい時代じだい安田やすだをよくっており、「徹底てっていした練習れんしゅう生傷なまきずえなかった」とかたっている[1]

静岡しずおかけん湖西こせいでは長年ながねん安田やすだかんした「西田にしだ修平しゅうへい安田やすだのりあかり記念きねんしつない棒高跳ぼうたかとび湖西こせい大会たいかい」を開催かいさいし、日本にっぽんのトップレベルの選手せんしゅ招待しょうたいするだい規模きぼ室内しつない棒高跳ぼうたかとび大会たいかいになっていた[45]。しかしこの大会たいかい運営うんえい中心ちゅうしんをなしていた人物じんぶつ湖西こさい市議しぎ)が逮捕たいほされたため2018ねん平成へいせい30ねん大会たいかい中止ちゅうし[45]2019ねん平成へいせい31ねん)からは西田にしだ安田やすだろし「西部せいぶ室内しつない棒高跳ぼうたかとび記録きろくかい湖西こせい大会たいかい」として規模きぼ縮小しゅくしょう地元じもと選手せんしゅ育成いくせいじくあしうつした[46]

スポーツ記者きしゃとして

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スポーツニッポン時代じだい陸上りくじょう競技きょうぎ造詣ぞうけいふか記者きしゃとして、マスコミ取材しゅざいきらった依田よだ郁子いくこが「一目いちもくく」存在そんざいだったという[47]安田やすだ大学だいがく陸上りくじょう後輩こうはいでマネージャーをしていた男性だんせい依田よだ紹介しょうかいし、のち依田よだはその男性だんせい結婚けっこんした[47]。また円谷つぶらや幸吉こうきち相次あいつ故障こしょう環境かんきょう変化へんか低迷ていめいしていた1967ねんに『陸上りくじょう競技きょうぎマガジン』に寄稿きこうした文章ぶんしょうでは、円谷つぶらや1964ねん東京とうきょうオリンピック当時とうじ指導しどうしゃだった畠野はたの洋夫ひろおわかれたこともその原因げんいん指摘してきした[47]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai 力武りきたけ 2013, p. 162.
  2. ^ a b c d e f g h 安田やすだのりあきら中京ちゅうきょうだい名誉めいよ教授きょうじゅ死去しきょ ローマ五輪ごりん棒高跳ぼうたかと代表だいひょう読売新聞よみうりしんぶん2004ねん4がつ17にちづけ朝刊ちょうかん中部ちゅうぶばん社会しゃかいめん31ページ
  3. ^ a b c d e f 安田やすだのりあきらさん 68さい 死去しきょ=ローマ五輪ごりん陸上りくじょう棒高跳ぼうたかと代表だいひょう中京ちゅうきょうだい名誉めいよ教授きょうじゅ毎日新聞まいにちしんぶん2004ねん4がつ17にちづけ朝刊ちょうかん東京とうきょうばんスポーツめん21ページ
  4. ^ a b c d e f 安田やすだのりあきら死去しきょ/陸上りくじょう棒高跳ぼうたかとびローマ五輪ごりん代表だいひょう”. 四国しこく新聞しんぶん (2004ねん4がつ16にち). 2019ねん4がつ4にち閲覧えつらん
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m 安田やすだ 1958, p. 12.
  6. ^ a b c d 安田やすだ 1969, p. 63.
  7. ^ a b 世紀せいきえて〜茗渓陸上りくじょう競技きょうぎ101ねんあゆみ〜」編集へんしゅう委員いいんかい へん 2004, p. 281.
  8. ^ 世紀せいきえて〜茗渓陸上りくじょう競技きょうぎ101ねんあゆみ〜」編集へんしゅう委員いいんかい へん 2004, pp. 346–347.
  9. ^ a b c d e f g 安田やすだ 1958, p. 10.
  10. ^ 安田やすだ 1958, pp. 10–11.
  11. ^ a b c d e f g h 安田やすだ 1958, p. 11.
  12. ^ 安田やすだ 1958, pp. 11–12.
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m n o スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ 1968, p. 76.
  14. ^ 大西おおにし 2004, pp. 150–151.
  15. ^ 世紀せいきえて〜茗渓陸上りくじょう競技きょうぎ101ねんあゆみ〜」編集へんしゅう委員いいんかい へん 2004, p. 383.
  16. ^ 世紀せいきえて〜茗渓陸上りくじょう競技きょうぎ101ねんあゆみ〜」編集へんしゅう委員いいんかい へん 2004, p. 346, 362, 384.
  17. ^ a b c d e 安田やすだ 1962, p. 13.
  18. ^ 世紀せいきえて〜茗渓陸上りくじょう競技きょうぎ101ねんあゆみ〜」編集へんしゅう委員いいんかい へん 2004, p. 336, 362, 384.
  19. ^ 世紀せいきえて〜茗渓陸上りくじょう競技きょうぎ101ねんあゆみ〜」編集へんしゅう委員いいんかい へん 2004, p. 336.
  20. ^ 世紀せいきえて〜茗渓陸上りくじょう競技きょうぎ101ねんあゆみ〜」編集へんしゅう委員いいんかい へん 2004, p. 346.
  21. ^ a b 大西おおにし 2004, p. 151.
  22. ^ 世紀せいきえて〜茗渓陸上りくじょう競技きょうぎ101ねんあゆみ〜」編集へんしゅう委員いいんかい へん 2004, p. 362, 384.
  23. ^ 世紀せいきえて〜茗渓陸上りくじょう競技きょうぎ101ねんあゆみ〜」編集へんしゅう委員いいんかい へん 2004, p. 338.
  24. ^ a b c d 安田やすだ 1962, p. 12.
  25. ^ 世紀せいきえて〜茗渓陸上りくじょう競技きょうぎ101ねんあゆみ〜」編集へんしゅう委員いいんかい へん 2004, p. 425.
  26. ^ a b ローマのそらまる健闘けんとういの大串おおぐし岡本おかもと安田やすだ北野きたの4選手せんしゅ”. 広報こうほうふじ 昭和しょうわ35ねん8がつ1にち発行はっこう. 富士ふじ市役所しやくしょ (1960ねん8がつ1にち). 2019ねん4がつ3にち閲覧えつらん
  27. ^ 世紀せいきえて〜茗渓陸上りくじょう競技きょうぎ101ねんあゆみ〜」編集へんしゅう委員いいんかい へん 2004, p. 347.
  28. ^ 関岡せきおか 2004, pp. 46–47.
  29. ^ 関岡せきおか 2004, p. 47.
  30. ^ 安田やすだ 1969, pp. 63–64.
  31. ^ a b 安田やすだ 1969, p. 65.
  32. ^ 安田やすだ 1969, pp. 64–65.
  33. ^ 歴史れきし証言しょうげん「あのころ」 ちんちょん寿ひさしさん”. 学校がっこう法人ほうじん梅村うめむら学園がくえん. 2019ねん4がつ4にち閲覧えつらん
  34. ^ フィールドターフが日本にっぽん上陸じょうりくした理由りゆう(わけ)”. FieldTurf. 2019ねん4がつ4にち閲覧えつらん
  35. ^ 「ストレッチ体操たいそう じょう かたからだやわらかく」読売新聞よみうりしんぶん1983ねん2がつ2にちづけ朝刊ちょうかん、12はん、29ページ
  36. ^ 伊藤いとうだいいちじん発表はっぴょう読売新聞よみうりしんぶん1983ねん6がつ14にちづけ朝刊ちょうかん、14はん、17ページ
  37. ^ 「バルセロナ五輪ごりん 陸上りくじょう日本にっぽん代表だいひょう33にんそろう 高野たかのら3にんは3連続れんぞく読売新聞よみうりしんぶん1992ねん6がつ16にちづけ朝刊ちょうかん東京とうきょうばんスポーツA、23ページ
  38. ^ a b c 安田やすだ 1990b, p. 90.
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  40. ^ こえ田守たもりひとし恩師おんしにメダルを」読売新聞よみうりしんぶん2004ねん5がつ22にちづけ朝刊ちょうかん中部ちゅうぶばん社会しゃかいめん、29ページ
  41. ^ けいぎょうたかしぶん (2019ねん1がつ8にち). “棒高跳ぼうたかとび記録きろく向上こうじょうなんこったのか?―グリップだかvsき―”. Rikupedia―陸上りくじょう競技きょうぎ理論りろん実際じっさい. 筑波大学つくばだいがく陸上りくじょう競技きょうぎ研究けんきゅうしつ. 2019ねん4がつ4にち閲覧えつらん
  42. ^ a b c 大西おおにし 2004, p. 150.
  43. ^ 安田やすだ 1958, pp. 10–12.
  44. ^ a b c d e f 安田やすだ 1990a, p. 194.
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  46. ^ そだて、棒高跳ぼうたかと選手せんしゅ 湖西こせいで77にん出場しゅつじょう記録きろくかい”. 静岡しずおか新聞しんぶん (2019ねん2がつ19にち). 2019ねん4がつ4にち閲覧えつらん
  47. ^ a b c 松下まつした茂典しげのり円谷つぶらや幸吉こうきち いのち手紙てがみ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、134-135ぺーじISBN 978-4-16-391102-1 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 安田やすだのりあきら「このでみた台湾たいわん陸上りくじょうかいかれらは日本にっぽんとの交流こうりゅうのぞんでいる―」『陸上りくじょう競技きょうぎマガジンだい19かんだい7ごうスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、1969ねん5がつ、63-65ぺーじ 
  • 安田やすだのりあきら「アスリート青春せいしゅんろく じょう」『陸上りくじょう競技きょうぎマガジン』だい40かんだい5ごうスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、1990ねん4がつ、194ぺーじ 
  • 安田やすだのりあきら「アスリート青春せいしゅんろく 」『陸上りくじょう競技きょうぎマガジン』だい40かんだい6ごうスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、1990ねん5がつ、90ぺーじ 
  • 力武りきたけ敏昌としまさ陸上りくじょうつわもの列伝れつでん 安田やすだ のりあきら」『月刊げっかん陸上りくじょう競技きょうぎだい47かんだい5ごう陸上りくじょう競技きょうぎしゃ講談社こうだんしゃ、2013ねん6がつ、162ぺーじ 
  • 世紀せいきえて〜茗渓陸上りくじょう競技きょうぎ101ねんあゆみ〜」編集へんしゅう委員いいんかい へん へん世紀せいきえて〜茗渓陸上りくじょう競技きょうぎ101ねんあゆみ〜』筑波大学つくばだいがく陸上りくじょう競技きょうぎ陸上りくじょう競技きょうぎ茗友かい、2004ねん3がつ25にち、443ぺーじ 全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:20600718
    • 大西おおにしあきらこころざし ちょとう時代じだい」、「世紀せいきえて〜茗渓陸上りくじょう競技きょうぎ101ねんあゆみ〜」編集へんしゅう委員いいんかい へん へん世紀せいきえて〜茗渓陸上りくじょう競技きょうぎ101ねんあゆみ〜』筑波大学つくばだいがく陸上りくじょう競技きょうぎ陸上りくじょう競技きょうぎ茗友かい、2004ねん3がつ25にち、150-151ぺーじ 
    • 佐藤さとう良男よしお ちょ東京教育大学とうきょうきょういくだいがく時代じだい昭和しょうわ24ねん〜38ねん) 〜保谷ほや活動かつどう前期ぜんき〜」、「世紀せいきえて〜茗渓陸上りくじょう競技きょうぎ101ねんあゆみ〜」編集へんしゅう委員いいんかい へん へん世紀せいきえて〜茗渓陸上りくじょう競技きょうぎ101ねんあゆみ〜』筑波大学つくばだいがく陸上りくじょう競技きょうぎ陸上りくじょう競技きょうぎ茗友かい、2004ねん3がつ25にち、37-44ぺーじ 
    • 関岡せきおか康雄やすお ちょ東京教育大学とうきょうきょういくだいがく時代じだい昭和しょうわ39ねん〜47ねん) 〜保谷ほや活動かつどう後期こうき〜」、「世紀せいきえて〜茗渓陸上りくじょう競技きょうぎ101ねんあゆみ〜」編集へんしゅう委員いいんかい へん へん世紀せいきえて〜茗渓陸上りくじょう競技きょうぎ101ねんあゆみ〜』筑波大学つくばだいがく陸上りくじょう競技きょうぎ陸上りくじょう競技きょうぎ茗友かい、2004ねん3がつ25にち、45-49ぺーじ 
  • 優勝ゆうしょう回数かいすう“83” 安田やすだのりあかりまき」『陸上りくじょう競技きょうぎマガジン』だい18かんだい7ごうスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、1968ねん6がつ、76ぺーじ 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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