平井ひらい富三郎とみさぶろう

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平井ひらい 富三郎とみさぶろう(ひらい とみさぶろう、1906ねん12月13にち - 2003ねん5がつ20日はつか)は、日本にっぽん商工しょうこう官僚かんりょう経済けいざい審議庁しんぎちょう次長じちょう通商つうしょう産業さんぎょう事務次官じむじかんて、退官たいかんしん日本にっぽん製鐵せいてつげん日本にっぽん製鉄せいてつ社長しゃちょう東京とうきょうげん東京とうきょう出身しゅっしん。1973ねん藍綬らんじゅ褒章ほうしょう、1979ねん勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう受章じゅしょう。2003ねんのう梗塞こうそくのため死亡しぼう

来歴らいれき[編集へんしゅう]

旧制きゅうせい東京とうきょう高校こうこうげん東京大学とうきょうだいがく教育きょういく学部がくぶ附属ふぞく中等ちゅうとう教育きょういく学校がっこう)をて、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ卒業そつぎょう、1931ねん商工しょうこうしょうげん 経済けいざい産業さんぎょうしょう)へ入省にゅうしょう製鉄せいてつしょ書記しょき[1]同期どうきには、長村おさむら貞一さだいちジェトロふく理事りじちょう経済けいざい審議庁しんぎちょう次長じちょう特許庁とっきょちょう長官ちょうかん)、山地やまじ八郎はちろうなど。

だい世界せかい大戦たいせんの1949ねん石炭せきたんちょう管理かんり局長きょくちょうから商工しょうこうしょう化学かがく局長きょくちょう(1949ねん2がつ12にち - 同年どうねん5がつ24にち)に。以後いご通商産業省つうしょうさんぎょうしょう通商つうしょう振興しんこう局長きょくちょう(1949ねん5がつ25にち - 同年どうねん9がつ1にち)、経済けいざい安定あんてい本部ほんぶ官房かんぼうちょう(1949ねん9がつ1にち - 1952ねん7がつ31にち)、けいほんふく長官ちょうかん心得こころえ、1951ねん5がつ1にち - 1952ねん7がつ31にち)、経済けいざい審議庁しんぎちょう次長じちょう(1952ねん8がつ1にち - 1953ねん11月17にち)などをて、1953ねん11月17にち愛知あいち揆一通産つうさん大臣だいじんもとで、通商つうしょう産業さんぎょう事務次官じむじかん就任しゅうにん同年どうねん同月どうげつ官房かんぼうちょうにはいわたけ照彦てるひこ(のち中小企業庁ちゅうしょうきぎょうちょう長官ちょうかん)がいた。1955ねん11月25にち退官たいかんぞくきし信介しんすけ - 椎名しいな悦三郎えつさぶろう - 美濃部みのべ洋次ようじらの主流しゅりゅうラインである「産業さんぎょう」、「統制とうせい」につらなる。

1956ねん新日鉄しんにってつ前身ぜんしん八幡やはた製鐵せいてつ入社にゅうしゃし、八幡やはた製鐵せいてつしょちょうなどをて、新日鉄しんにってつ発足ほっそくふく社長しゃちょう就任しゅうにん。1973ねんより稲山いなやまよしみひろしのち社長しゃちょう就任しゅうにんし、統合とうごう新日鉄しんにってつ軌道きどうせるべく尽力じんりょくした。

また1976ねんから1987ねんあいだ日本にっぽんサッカー協会きょうかいだい5だい会長かいちょうつとめた。平井ひらい在任ざいにん期間きかんちゅう現在げんざいキリンカップ創設そうせつ当初とうしょはジャパンカップとばれた)、インターコンチネンタルカップ日本にっぽん誘致ゆうち(トヨタカップ)、協会きょうかい財政ざいせい基盤きばん強化きょうかなど、現在げんざい日本にっぽんサッカー隆盛りゅうせいつながる様々さまざま施策しさく実現じつげんした。この功績こうせきにより、日本にっぽんサッカー殿堂でんどう掲額けいがくされた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 日本にっぽん官僚かんりょうせい総合そうごう事典じてん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2001ねん11月発行はっこう、288ぺーじ

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]


先代せんだい
玉置たまき敬三けいぞう
通商つうしょう産業さんぎょう事務次官じむじかん
だい3だい: 1953ねん - 1955ねん
次代じだい
石原いしはら武夫たけお
先代せんだい
稲山いなやまよしみひろし
しん日本にっぽん製鐵せいてつ社長しゃちょう
だい2だい: 1973-1976
次代じだい
田坂たさかあきらけい