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イビチャ・オシム

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イビチャ・オシム
SKシュトゥルム・グラーツ監督かんとく時代じだい
(1999ねん
名前なまえ
本名ほんみょう イヴァン・オシム
愛称あいしょう イヴィツァ(イビチャ)、シュワーボ、(グルバビツァの)シュトラウス
ラテン文字もじ Ivica Osim
キリル文字もじ Ивица Осим
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき ボスニア・ヘルツェゴビナの旗 ボスニア・ヘルツェゴビナ
生年月日せいねんがっぴ (1941-05-06) 1941ねん5月6にち
出身しゅっしん クロアチアどく立国りっこくサラエヴォ
ぼつ年月日ねんがっぴ (2022-05-01) 2022ねん5月1にち(80さいぼつ
身長しんちょう 189cm
体重たいじゅう 108kg
選手せんしゅ情報じょうほう
ポジション FW
あし みぎ
クラブ1
とし クラブ 出場しゅつじょう (得点とくてん)
1959-1968 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ジェリェズニチャル 166 (56)
1968 オランダの旗 ズウォレ 2 (0)
1968-1970 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ジェリェズニチャル 54 (9)
1970-1972 フランスの旗 ストラスブール 58 (16)
1972-1975 フランスの旗 スダン 105 (16)
1975-1976 フランスの旗 ヴァランシエンヌ 30 (1)
1976-1978 フランスの旗 ストラスブール 32 (4)
代表だいひょうれき
1964-1969 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア 16 (8)
監督かんとくれき
1978-1986 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ジェリェズニチャル
1986-1992 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア
1991-1992 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 パルチザン・ベオグラード
1992-1994 ギリシャの旗 パナシナイコス
1994-2002 オーストリアの旗 シュトゥルム・グラーツ
2003-2006 日本の旗 ジェフ千葉ちば
2006-2007 日本の旗 日本にっぽん
1. 国内こくないリーグせんかぎる。
■テンプレート■ノート 解説かいせつ■サッカー選手せんしゅpj

イビチャ・オシム(Ivica Osim、Ивица Осим本名ほんみょうイヴァン・オシム, Ivan OsimИван Осим1941ねん5月6にち - 2022ねん5月1にち)は、ボスニア・ヘルツェゴビナサッカー選手せんしゅ、サッカー指導しどうしゃ愛称あいしょうシュワーボ。なお、より原音げんおん忠実ちゅうじつ表記ひょうきイヴィツァ[1]

きゅうユーゴスラビア代表だいひょう最後さいご監督かんとくであり、日本にっぽんでもジェフユナイテッド市原いちはら千葉ちば日本にっぽん代表だいひょう監督かんとく歴任れきにんするなど、世界せかい各国かっこく豊富ほうふ指導しどうれきつサッカー指導しどうしゃである。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

労働ろうどうしゃ居住きょじゅうであったグルバビツァでちちミハイリ、ははカタリーナのオシムいちなんいちじょ長子ちょうしとして出生しゅっしょうドイツじんく。ミュンヘン出身しゅっしん母方ははかた祖母そぼ影響えいきょう家庭かていないでの会話かいわドイツ中心ちゅうしんそだつ。居住きょじゅうでは娯楽ごらく物資ぶっしほとんほか住民じゅうみんたりったりの生活せいかつ必然ひつぜんてきにサッカーが子供こどもあそびとなりイビチャ少年しょうねん靴下くつしたまるめたものをボールに見立みたて路上ろじょうでゲームをしてあそび、本物ほんもののサッカーボールを叔母おばからおくられだい感激かんげきする。学校がっこう体育たいいく教師きょうしがサッカーきょうだったためれるまでサッカーにれ、14さいときジェーリョの入団にゅうだんテストけ、400にんちゅう20にんわくはいどうチームでプレー、しかしチームからは給料きゅうりょうわりに金券きんけん報酬ほうしゅうとして支払しはらわれていた。18さい高校こうこう卒業そつぎょう大学だいがく入学にゅうがく資格しかく取得しゅとく

学生がくせい時代じだい[編集へんしゅう]

18さいでジェリェズニチャルのトップチームでプレイ。東欧とうおう名門めいもんサラエヴォ大学だいがく理数りすうがく部数ぶすう学科がっか入学にゅうがく数学すうがく物理ぶつりがく哲学てつがくなどをまなび、数学すうがく学士がくし保有ほゆう運動うんどう勉学べんがくども成績せいせき優秀ゆうしゅうで、がつくと学内がくない数学すうがくのインストラクターてき立場たちばになり、家庭かてい教師きょうし真似事まねごとなどもして、金銭きんせんほとん発生はっせいしなかったものの、指導しどうさきから食事しょくじ馳走ちそうになり食費しょくひかせ、成績せいせき優秀ゆうしゅうしゃ奨学しょうがくきん生活せいかつしのいでいた。このころ電気でんき工学こうがく専攻せんこう中等ちゅうとう学校がっこうせいだった、のちつまとなるアシマに数学すうがくかりやすく丁寧ていねい指導しどう大学だいがくでは担当たんとう教授きょうじゅから研究けんきゅうしょくくことをすすめられるが、ばや経済けいざいてき自立じりつためにギムナジウムの数学すうがく教師きょうしへのしょく思案しあんするも大学だいがく3年生ねんせいころから試合しあい出場しゅつじょうきゅう鉄道てつどうこうだった父親ちちおやの3ばいにもなり「数学すうがくかサッカーか」とイビチャ青年せいねんおおいになやますことになる。、23さいにユーゴスラビア代表だいひょう選出せんしゅつ契機けいきとなり1964ねん東京とうきょうオリンピックでの試合しあいけた「本物ほんもの契約けいやくしょ」にサインし、これにおいて正式せいしきな「プロサッカー選手せんしゅ[2] となる。大学だいがく中退ちゅうたいしてプロサッカー選手せんしゅみち目指めざことになるが、息子むすこ医者いしゃかせたかったはは息子むすこ選択せんたく落胆らくたんする。

選手せんしゅ時代じだい[編集へんしゅう]

監督かんとく時代じだい[編集へんしゅう]

  • 1978ねん - 古巣ふるすジェリェズニチャルでコーチの仕事しごとはじめる。ユースチーム監督かんとく就任しゅうにん
  • 1979ねん - ジェリェズニチャル トップチームの監督かんとく昇格しょうかく
  • 1982ねん - 副業ふくぎょうてきにユーゴスラビア代表だいひょうチームのアシスタントコーチをつとめるようになる。チームはロサンゼルスオリンピックどうメダルを獲得かくとくした。
  • 1985ねん - ジェリェズニチャルの監督かんとくとしてUEFAカップ準決勝じゅんけっしょうまでこますすめるがやぶれ、決勝けっしょう進出しんしゅつのがす。
  • 1986ねん - ユーゴスラビア代表だいひょう監督かんとく就任しゅうにん
  • 1987ねん - 翌年よくねんおこなわれる欧州おうしゅう選手権せんしゅけん予選よせん最終さいしゅうせん、イングランド代表だいひょうに1-4で大敗たいはいほん大会たいかい出場しゅつじょうのがす。
  • 1990ねん - FIFAワールドカップイタリア大会たいかいでベスト8。このときの代表だいひょうメンバーにはストイコビッチサビチェビッチらがいた。大会たいかい代表だいひょう監督かんとくのままパルチザン・ベオグラード監督かんとく兼務けんむすることとなる。こののちユーゴスラビア分裂ぶんれつ決定的けっていてきとなる。
  • 1991ねん - 翌年よくねん欧州おうしゅう選手権せんしゅけん予選よせん通過つうかめていたが、このとしなつスロベニアクロアチア連邦れんぽうから離脱りだつ両国りょうこく選手せんしゅきでほん大会たいかいのぞむことになった。
  • 1992ねん -
    • 3月27にち - ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦れんぽう離脱りだつけて、ユーゴスラビアぐんサラエヴォ侵攻しんこう直前ちょくぜん仕事しごとのため次男じなんともなベオグラードおもむいたため戦火せんかまぬかれること出来できたが、夫人ふじん長女ちょうじょはサラエヴォを脱出だっしゅつすることが出来できなくなった。
    • 5月21にち - サラエヴォ侵攻しんこうとユーゴスラビア分裂ぶんれつ抗議こうぎする意味いみめ、パルチザンとユーゴスラビア代表だいひょう監督かんとくとも辞任じにん。こののち国連こくれん制裁せいさい決議けつぎけて欧州おうしゅうサッカー連盟れんめい(UEFA)国際こくさいサッカー連盟れんめい(FIFA)はユーゴスラビア代表だいひょうチームの国際こくさい大会たいかいからのしを決定けっていする。
  • 1992-1993ねん - ギリシャパナシナイコス指揮しきる。このあいだ戦火せんかのサラエヴォに夫人ふじん長女ちょうじょのこしてのギリシャ赴任ふにんであった。
  • 1993ねん - オーストリア・ブンデスリーガSKシュトゥルム・グラーツ監督かんとく就任しゅうにんよく1994ねん夫人ふじん長女ちょうじょとの再会さいかいたす。SKシュトゥルム・グラーツの監督かんとくとしてUEFAチャンピオンズリーグに3出場しゅつじょう
  • 2002ねん - SKシュトゥルム・グラーツ監督かんとく辞任じにん
  • 2003ねん - ジェフユナイテッド市原いちはら監督かんとく就任しゅうにん
  • 2005ねん - ジェフユナイテッド市原いちはら千葉ちばにてJリーグヤマザキナビスコカップ優勝ゆうしょう
  • 2006ねん - 日本にっぽん代表だいひょう監督かんとく就任しゅうにん推定すいてい年俸ねんぽうは9000まんえん)。
  • 2007ねん11月16にち - 千葉ちば県内けんない自宅じたくのう梗塞こうそくたおれ、千葉ちばけん浦安うらやすうちにある順天堂大学じゅんてんどうだいがく医学部いがくぶ附属ふぞく浦安うらやす病院びょういん緊急きんきゅう入院にゅういん[4]一時いちじ危篤きとく状態じょうたいおちいったが奇跡きせきてき一命いちめい意識いしき回復かいふく。しかし、監督かんとくつづけられる状況じょうきょうではなくなったため退任たいにんし、後任こうにんには岡田おかだ武史たけし就任しゅうにんした。これ以降いこうオシムは監督かんとくぎょうおこなっていない。
  • 2008ねん1がつ30にち - 国立こくりつ競技きょうぎじょうおこなわれた日本にっぽんたいボスニア・ヘルツェゴビナ試合しあい観戦かんせんし、入院にゅういんやく2ヶ月かげつぶりにおおやけあらわれた。
  • 2008ねん6がつ4にち - 日本にっぽんサッカー協会きょうかいとアドバイザー契約けいやく締結ていけつ[5]のう梗塞こうそく発症はっしょうしてからおよそ7ヶ月かげつぶりに会見かいけんおこなった。会見かいけんせきで「こうの世界せかいってもどってきました」とべるなど、オシムぶし健在けんざいであった。
  • 2008ねん12月 - 契約けいやく満了まんりょうともない、協会きょうかいアドバイザーを退任たいにん
  • 2009ねん1がつ4にち - オーストリアに帰国きこく
  • 2009ねん12月 - さい来日らいにちし、スカパー!中継ちゅうけいされた2010 FIFAワールドカップ みなみアフリカ大会たいかいわせ抽選ちゅうせんかい解説かいせつつとめた[6]
  • 2011ねん - 民族みんぞくべつに3つにかれているボスニア・ヘルツェゴビナのサッカー協会きょうかい統合とうごう拒否きょひしたために、同年どうねん4がつ1にちFIFAUEFAから資格しかく停止ていしされ、4がつにその解決かいけつのために設置せっちされた「正常せいじょう委員いいんかい」の委員いいんちょう就任しゅうにん[7]。5月に3にん並立へいりつしていた会長かいちょう一本いっぽんさせたことで、同月どうげつまつ資格しかく停止ていし解除かいじょされた。同国どうこく代表だいひょうは、2014ねんサッカーWはいブラジル大会たいかい本戦ほんせん進出しんしゅつたした(グループリーグで敗退はいたい)。
  • 2022ねん5がつ1にち自身じしん監督かんとくつとめたSKシュトゥルム・グラーツかれ逝去せいきょ発表はっぴょうした[8]。80さいぼつ[9][10]

監督かんとくとしての実績じっせき評価ひょうか[編集へんしゅう]

ユーゴスラビア代表だいひょう時代じだい[編集へんしゅう]

ユーゴスラビア紛争ふんそう終結しゅうけつもわだかまりののこきゅうユーゴスラビア構成こうせいしょ国家こっかないかく民族みんぞくあいだで、いまなおどの民族みんぞくからも尊敬そんけいあつ人物じんぶつ一人ひとりであるといわれている。これは数々かずかず困難こんなんえてユーゴスラビア代表だいひょう栄光えいこうをもたらした功績こうせきによるものである。

かれ代表だいひょう監督かんとく就任しゅうにんする直前ちょくぜんのユーゴスラビア代表だいひょうは、チトー逝去せいきょともなかく民族みんぞくナショナリズム勃興ぼっこう並行へいこうするようなかたちで、試合しあい開催かいさい場所ばしょによってチームの構成こうせいおおきくわる有様ありさまだった。つまり、ベオグラードで試合しあいをするさいにはセルビアじん中心ちゅうしん構成こうせいに、ザグレブ試合しあいをするときクロアチアじん中心ちゅうしん構成こうせいにといった具合ぐあいにである。こうした民族みんぞくてき配慮はいりょ排除はいじょしたうえで、「必要ひつようならば11にん全員ぜんいんコソボアルバニアじんそろえる」とってはばからなかった。完成かんせいしたチームはドラガン・ストイコビッチ、のちにスレチコ・カタネッツデヤン・サビチェビッチらがいた。

1990ねんワールドカップ当時とうじかく民族みんぞくのスターばかりをあつめた選手せんしゅ起用きようもとめるメディアにたいするてつけとして、初戦しょせん西にしドイツせんえてその要求ようきゅうどおりの起用きよう敗戦はいせんしてみせ、つぎ試合しあいでは本来ほんらいかんがえるチーム編成へんせい勝利しょうり最終さいしゅうてきには、準々じゅんじゅん決勝けっしょうマラドーナようするアルゼンチン相手あいてに1にんきながら120分間ふんかん失点しってんのドローのすえPKせんやぶれた。

つくげた最後さいごのユーゴスラビア代表だいひょうは、1990ねんのワールドカップでは準々じゅんじゅん決勝けっしょう敗退はいたいしたものの、2ねん欧州おうしゅう選手権せんしゅけんでは優勝ゆうしょう候補こうほの1つになるであろうという評価ひょうかた。1991ねんにスロベニアとクロアチアが連邦れんぽう離脱りだつしたのちも、欧州おうしゅう選手権せんしゅけん出場しゅつじょうけた努力どりょくつづけられた。チームないにもかく民族みんぞくあいだ対立たいりつまれ、チームの団結だんけつ維持いじ多大ただい労力ろうりょく必要ひつようとした連邦れんぽう末期まっきにあってもその姿勢しせいわらなかったが、やがてくに解体かいたいわせてユーゴスラビア代表だいひょう崩壊ほうかいした。

SKシュトゥルム・グラーツ時代じだい[編集へんしゅう]

パナシナイコス退団たいだん表明ひょうめいすると、レアル・マドリードバイエルン・ミュンヘン代表だいひょう監督かんとくとしてクロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナとうへの就任しゅうにん要請ようせいがあったが、オシムはそのすべてをことわり、グラーツおもむいた。グラーツはオーストリアのだい2の都市としでありながらサッカーはどちらかといえば都市としおくれをっていた。

就任しゅうにん以前いぜんオーストリア・ブンデスリーガ中位ちゅういから下位かいあまんじていたSKシュトゥルム・グラーツだったが、オシムはこのクラブに規律きりつ戦術せんじゅつむ。積極せっきょくてき補強ほきょうさく若手わかて育成いくせいこうそうしてクラブは徐々じょじょ成績せいせきげていき、まもなく優勝ゆうしょう候補こうほ常連じょうれんとなった。就任しゅうにん2ねんとなる1995-96ねんシーズンにはリーグカップ優勝ゆうしょう、そして4ねんの1997-98ねんシーズンにはリーグ優勝ゆうしょうたした。このときのメンバーにはのちにジェフ千葉ちば移籍いせきすることとなるマリオ・ハース名古屋なごやグランパスエイトでプレーしたイヴィツァ・ヴァスティッチがいた。とくにクロアチア出身しゅっしんである後者こうしゃはオシムの指導しどう飛躍ひやくてき成長せいちょうげ、オーストリア・ブンデスリーガを代表だいひょうする選手せんしゅとなった。

SKシュトゥルム・グラーツでの名声めいせいかくたるものとしたのは、2000-01ねんシーズンのさん度目どめのチャンピオンズリーグへの挑戦ちょうせんである。SKシュトゥルム・グラーツは1リーグでレンジャーズガラタサライモナコどうくみはいり、これを首位しゅい通過つうか[11]。2リーグでバレンシアマンチェスター・ユナイテッドパナシナイコスどうくみとなる。このくみではバレンシアとマンチェスターユナイテッドにやぶれたものの(とくにホームでむかえたバレンシアせんは0-5の大敗たいはいであった)、パナシナイコスには2せんとも勝利しょうりした[12]決勝けっしょうトーナメント進出しんしゅつはならなかったが、この活躍かつやく評価ひょうかあたいするものであった。

しかし、念願ねんがんUEFAチャンピオンズリーグはつ出場しゅつじょうたすためにだい規模きぼなチーム補強ほきょうおこなわれ、数々かずかず代表だいひょう選手せんしゅ獲得かくとく、そのためにかかえきれいほど膨大ぼうだい人件じんけんかか財政難ざいせいなんおちいる。2001-02シーズン終了しゅうりょう二人三脚ににんさんきゃく名声めいせいきずいたはずのカリスマてきオーナー、ハンネス・カルトニックと対立たいりつしたかたちとなり、マスコミをつうじて卑劣ひれつ批判ひはんけた翌日よくじつ辞任じにん発表はっぴょうした。オシムは退任たいにん理由りゆうを「クラブオーナーからの名誉めいよ毀損きそん」としており、実際じっさいカルトニックとは給料きゅうりょう不払ふばらいなどの契約けいやく問題もんだいおよび名誉めいよ毀損きそん問題もんだい裁判さいばん沙汰ざたとなり、2004ねん12がつ最高裁さいこうさいより全面ぜんめん勝訴しょうそた。

ジェフ千葉ちば時代じだい[編集へんしゅう]

グラーツをったのちあたらしい挑戦ちょうせんとして来日らいにち肉体にくたいめんでは「はしちから」、精神せいしんめんでは「哲学てつがく」のめんてきアプローチ、「かしこはしる」「危険きけんなサッカー」をキーワードとした指導しどうで、ズデンコ・ベルデニック監督かんとく以降いこう危機きき低迷ていめいからだっしていたジェフ市原いちはらを、さらに改革かいかくした。

2003ねん当時とうじ21さい阿部あべ勇樹ゆうきをキャプテンに抜擢ばってき、1stステージではつ優勝ゆうしょう王手おうてまですすむ。しかし首位しゅい攻防こうぼうせんとなったアウェイ静岡しずおか2連戦れんせんで13せつジュビロ磐田じゅびろいわたせんけ、14せつ清水しみずエスパルスせんではプレッシャーによる大敗たいはいきっしたことにより、王手おうてをかけながらもはつ優勝ゆうしょうのがした。また2ndステージでは14せつ大分おおいたトリニータせんけたことにより、実質じっしつてき優勝ゆうしょう可能かのうせいうしなった。しかし1stステージ3・2ndステージ2年間ねんかん通算つうさん成績せいせき3とクラブ最高さいこう成績せいせき記録きろく

2004ねんちぇりゅう中西なかにしひさし放出ほうしゅつし、経験けいけん身体しんたいてきよわ若手わかて中心ちゅうしんとなり、戦力せんりょくダウンはけられないとられていた。また、このとし主力しゅりょく選手せんしゅ怪我けがかさなった。しかしながら結果けっかとしてタイトルはれなかったものの2ndステージでは2年間ねんかん通算つうさん成績せいせきは4前年ぜんねんとほぼ同等どうとう成績せいせきのこすことができた。資金しきん選手せんしゅそうとぼしいジェフにおいて、この好成績こうせいせきは、オシムの監督かんとく手腕しゅわんたかさによるものと評価ひょうかされている。

2005ねん、かつての主力しゅりょく選手せんしゅでもあった村井むらい慎二しんじちゃ隆行たかゆきサンドロマルキーニョスミリノビッチなどを放出ほうしゅつした。しかし、技術ぎじゅつすぐ攻守こうしゅ貢献こうけんするマリオ・ハースや、DFながらも攻撃こうげきてに多大ただい貢献こうけんをするイリアン・ストヤノフ補強ほきょうによって、そのあなめた。また、まき誠一郎せいいちろう日本にっぽん代表だいひょうはつ選出せんしゅつ水野みずのあきらじゅ水本みずもと裕貴ゆきが、ワールドユース出場しゅつじょうたすなど若手わかて成長せいちょうし、戦力せんりょく低下ていかまねかなかった。ヤマザキナビスコカップでは準決勝じゅんけっしょう浦和うらわレッズたおして決勝けっしょうせん進出しんしゅつ決勝けっしょうではガンバ大阪がんばおおさか延長えんちょう、PKせん激闘げきとうせいしチームにはつのタイトルをもたらした。

2006ねん以前いぜんから試験しけんてき採用さいようしていた2バックを実際じっさい使用しようしていたが、これはたん選手せんしゅ名鑑めいかんでDF登録とうろくされている選手せんしゅを2めいだけ起用きようしたにすぎない。対戦たいせん相手あいてかんて、当日とうじつのサッカーをめるということはかわっていなかった。シーズン途中とちゅうの7がつ日本にっぽん代表だいひょう監督かんとくへの就任しゅうにんまり、監督かんとく辞任じにんした。

(戦績せんせき)

  • 国立こくりつ地方ちほうスタジアム開催かいさいのぞくホームゲームでつよさをしめし、市原いちはら臨海りんかい競技きょうぎじょうで20試合しあい無敗むはい記録きろく (2003/4/12 (だい3せつ) ~2005/3/26 (ナビスコカップだい2せつ) まで) 。
  • 市原いちはら臨海りんかい競技きょうぎじょう・フクアリで開催かいさいされた60試合しあい (カップせんふくむ) の戦績せんせきは36しょう19ふん5はい
  • ホーム・アウェーすべての試合しあい (カップせんふくむ) でも2連敗れんぱいは3。3連敗れんぱいは1もなかった。

「ホーム連続れんぞくけなし試合しあい」の記録きろくは25試合しあい最高さいこう 浦和うらわ(2005-2007) ガンバ大阪がんばおおさか(2006-2007)

日本にっぽん代表だいひょう監督かんとく[編集へんしゅう]

通算つうさん20試合しあい12しょう5ふん3はい。2007ねんAFCアジアカップで4

(世代せだい交代こうたい)

(オール日本人にっぽんじんスタッフ)

大熊おおくま吉田よしだ加藤かとうの3にん監督かんとく・コーチとしてタッグをみ、過去かこ2大会たいかいのU20ワールドカップを経験けいけん。 「川島かわしま今野こんの世代せだい、「西川にしかわ本田ほんだ世代せだいるスタッフで、吉田よしだ加藤かとうは「はやし彰洋あきひろ内田うちだ篤人あつひと世代せだい担当たんとうした。

五輪ごりん代表だいひょうコーチには反町そりまち・オシムを江尻えじり篤彦あつひこ、A代表だいひょうコーチにはジェフ時代じだいのスタッフ小倉おぐら前田まえだ抜擢ばってきされた。

(代表だいひょうせん以外いがいでの活動かつどう)

  • スタッフミーティングやアンダー代表だいひょう視察しさつ活発かっぱつった。
  • Jリーグ監督かんとく会議かいぎ・クラブ担当たんとうしゃ会議かいぎ出席しゅっせき意見いけんわした。
  • Sきゅうコーチ養成ようせい講習こうしゅうかい講師こうしつとめた (2005ねん・2006ねん・2008ねん) 。
  • 2006ねん11月 - JFAアカデミー福島ふくしま訪問ほうもん講義こうぎおこなった。
  • 2006ねん12月 - 高校こうこうサッカー選手権せんしゅけん 国見くにみ-八千代やちよ尚志ひさし-おおとりしょう観戦かんせん
  • 2007ねん1がつ - 皇后こうごうはい決勝けっしょう観戦かんせん
  • 2007ねん1がつ - ガルフカップの現地げんち視察しさつ
  • 2007ねん3がつ - サッカー女子じょしワールドカップのプレーオフ観戦かんせん

親交しんこうのあった帝京ていきょう高校こうこう監督かんとくぬま貞雄さだお年末ねんまつ忘年会ぼうねんかいにて、オシムから高校こうこうサッカーのトーナメントの理不尽りふじんさを指摘してきされリーグせん導入どうにゅう提案ていあん活性かっせいのきっかけになったという (オシムが観戦かんせんした高校こうこうサッカー2試合しあいいずれもPKせん決着けっちゃくがついた) [13]

(国内こくない合宿がっしゅく)
代表だいひょうせんのないつきには国内こくない選手せんしゅのみで短期たんき合宿がっしゅくおこなった。これによりほぼ毎月まいつき代表だいひょうのトレーニング期間きかんもうけられた (日曜にちようのJ1の試合しあいつき水曜すいよう大学生だいがくせいとの練習れんしゅう試合しあいなどがおこなわれた。ガンバ大阪がんばおおさか広島ひろしまなど遠方えんぽう選手せんしゅはクラブにはやめにかえらせるなどの配慮はいりょられた) 。

監督かんとくとしての特徴とくちょう[編集へんしゅう]

人選じんせん[編集へんしゅう]

自身じしんのテーマである「かんがえてはしるサッカー」に運動うんどうりょう豊富ほうふ守備しゅび能力のうりょくたか献身けんしんてきなプレースタイルや、複数ふくすうのポジションをこなせる多様たようせいのあるユーティリティープレイヤーおおく、これらの選手せんしゅ上手うま使つかうパスやドリブルなどの技術ぎじゅつたか選手せんしゅ少数しょうすういる。このような選手せんしゅをオシムは「エレガントな選手せんしゅ」とんでいる。 日本にっぽん代表だいひょう監督かんとく就任しゅうにん当初とうしょ選手せんしゅ選考せんこうおも運動うんどうりょうなどはたりまえとして、知性ちせいのあるサッカーをっている選手せんしゅえらんだとべている。のちにそれらの選手せんしゅをベースにエレガントな選手せんしゅ、エゴイストな選手せんしゅなどをすこしずつ選考せんこう起用きようしていった。

練習れんしゅう方法ほうほう[編集へんしゅう]

様々さまざま練習れんしゅう方法ほうほうのアイディアをっており、選手せんしゅきさせないようつね工夫くふうしている。そのほとんどが実戦じっせん意識いしきした内容ないよう選手せんしゅ気付きづかない場合ばあいもある)で、実戦じっせんではまってることほうすくないとの理由りゆうからつねうごきながらプレーするものがほとんどである。また、はしるサッカーのイメージからか練習れんしゅうはしみなどをおおくやらせているイメージがあるようだが、実際じっさいはしみなどはせず練習れんしゅう自体じたいはしらないと成立せいりつしない内容ないようになっており、自然しぜん体力たいりょくきたえられている。

代表だいひょうてき練習れんしゅうとして多色たしょくビブス使つかいプレーに複雑ふくざつ制限せいげんすメニューなどがあり、れるまではルールや目的もくてき理解りかいむずかしいとされている。とく就任しゅうにん当初とうしょは、選手せんしゅばかりかコーチじん混乱こんらんして練習れんしゅうがスムーズにすすまない様子ようすがしばしば目撃もくげきされ、クラブですでに「オシムりゅう(ただし、この多色たしょくビブスによる練習れんしゅう自体じたいはオシム独自どくじのものではなく、おおくのくにおこなわれている)」にれていたジェフ千葉ちば選手せんしゅ指導しどうやくになった時期じきもあった[14]。オシムのもと練習れんしゅうをしてきた選手せんしゅたちからは、みなこうそろえてからだだけではなくあたまつかれるとわれている。

雑誌ざっしNumber」のインタビュー記事きじによるとバスケットボール関係かんけいしゃいもおおく、バスケットやハンドボール戦術せんじゅつ参考さんこうにしているともかたっている。2003ねんから2006ねんまでバスケット日本にっぽん代表だいひょうのヘッドコーチをつとめたクロアチアじんジェリコ・パブリセヴィッチとは親友しんゆうである。

中村なかむら俊輔しゅんすけのちかたったインタビューでは「わざとかなっていない練習れんしゅうをさせて、そのときのリアクションをる」「当時とうじ代表だいひょうチームは全員ぜんいん高校生こうこうせいのような雰囲気ふんいき」だったという[15]

レギュラーとひか[編集へんしゅう]

ぜん日本にっぽん代表だいひょう監督かんとくジーコとの一番いちばん相違そういてんとしてげられることは、ジーコ時代じだいでは練習れんしゅうからひかえはビブスを着用ちゃくよう[16] していたが、オシム時代じだいでは先発せんぱつメンバーは試合しあいまえのロッカールームでコーチが直接ちょくせつ選手せんしゅつたえている。またひかえの選手せんしゅいにもくばり、就任しゅうにん当初とうしょからせいGK川口かわぐちのうかつモンテネグロせんなら﨑正つよしえたことへの質問しつもんたいし「なら﨑が好調こうちょうなのもあるが、川口かわぐちが(メンバーからはずされて)どんないをするのかたかった」とコメントしている(なお、オシムいわく、そのとき川口かわぐちいは「非常ひじょう立派りっぱだった」ので、つぎせんのコロンビアせん以降いこう川口かわぐち先発せんぱつ復帰ふっきしている)。

オシム語録ごろく[編集へんしゅう]

質問しつもんしゃ不用意ふよういに「はしるサッカー」について質問しつもんすると、オシムは「サッカーではしるのはたりまえです」とかえす。そうした場面ばめん多々たたられるように、試合しあいのオシムの記者きしゃ会見かいけん雑誌ざっし新聞しんぶんとうかたられるかれ言葉ことば非常ひじょうにウィットにんでおり、サッカーが哲学てつがくてきかたられる。ジェフ千葉ちば時代じだいに、それがサポーターあいだやサッカーかいばかりでなく、一般いっぱん教育きょういく現場げんばなどでも評判ひょうばんんだ。

試合しあい会見かいけんでは、質問しつもんしゃたんにからかわれている場面ばめんもまま見受みうけられ、オシムのコメントをストレートに紙面しめん掲載けいさいしてしまうと、その真意しんいつたれないことになる。また、(練習れんしゅうじょうのある)市原いちはらまで取材しゅざいかけた記者きしゃはんきでかえってきた、という逸話いつわ時々ときどき紙面しめん掲載けいさいされることがあったように、オシムは一部いちぶマスコミにとっては「インタビュアーかせ」の取材しゅざい相手あいてである。しかし、真摯しんし質問しつもんしゃたいするオシムの対応たいおうは、往々おうおうにして丁寧ていねいである。

スポーツジャーナリスト以外いがいへのこたえは温厚おんこうでありながら、非常ひじょう慎重しんちょうである。これはオシムが各所かくしょかたっているとおり、かつて経験けいけんしたユーゴスラビア内戦ないせん時期じき「マスコミが戦争せんそうはじめさせる」というさまけられてきたことに起因きいんするものである。

日本にっぽんよん大会たいかい連続れんぞくW杯だぶりゅーはい出場しゅつじょうのインタビューのさいには「特定とくてい選手せんしゅ報道ほうどうばかりしてはダメだ。選手せんしゅはたくさんいる。賛辞さんじばかりではなく批評ひひょうはしっかりすること」と日本にっぽんマスメディア報道ほうどうのありかたについて苦言くげんていしている。

オシムの日本にっぽん代表だいひょう監督かんとく就任しゅうにん以降いこう、その動向どうこうとともに「オシム語録ごろく」もさらにおおきな注目ちゅうもくあつめるようになった。

日本にっぽん育成いくせい年代ねんだい指導しどうほうかんし、現在げんざい施行しこうされているトーナメントせいをリーグせい移行いこうすべきだとかたったといわれている。理由りゆうはたったひとつのけという失敗しっぱい選手せんしゅたたか権利けんりうばうのは残酷ざんこく以外いがいのなにものでもないとのこと。日本にっぽん世界せかいたたかうべきにあたってだい問題もんだいひとつだと指摘してきする。

代表だいひょうてき語録ごろく[編集へんしゅう]

人物じんぶつ・エピソード[編集へんしゅう]

日本にっぽんとの関係かんけい[編集へんしゅう]

1964ねん、ユーゴスラビア代表だいひょう一員いちいんとして東京とうきょうオリンピック出場しゅつじょうのためはつ来日らいにちまれてはじめてるカラーテレビや近代きんだいてきだい都会とかい東京とうきょう感激かんげきした。ある合宿がっしゅくちかくの都市としをサイクリングしていたときらずの老婆ろうばからいきなりなしわれた。当時とうじ日本にっぽんでは外国がいこくじんはまだめずらしかったが、190センチもの大男おおおとここわがりもせずもてなす日本人にっぽんじんのホスピタリティにれ、親日しんにちになった[17]帰国きこく友人ゆうじんヨシップ・カタリンスキーに、「日本人にっぽんじん親切しんせつ誠実せいじつだ。とても歓迎かんげいされて、すぐにきなまちになった」と興奮こうふん気味ぎみかたっている。

1991ねん7がつ20日はつかキリンチャレンジカップまねかれたパルチザンの監督かんとくとして、27ねんぶりに来日らいにち日本にっぽん代表だいひょう相手あいて勝利しょうりおさめるが、1964ねん東京とうきょうオリンピック当時とうじくらべ、日本にっぽんのサッカーレベルの向上こうじょうおどろく。

2002ねん6がつ、FIFA技術ぎじゅつ委員いいんかいメンバーとしてにちかんワールドカップのため3度目どめ来日らいにち札幌さっぽろドームでのドイツたいサウジアラビア、宮城みやぎスタジアムでのメキシコたいエクアドルとスウェーデンたいアルゼンチンの3試合しあい観戦かんせん分析ぶんせきした。このとき技術ぎじゅつ委員いいんかいメンバーには、当時とうじジェフ千葉ちば監督かんとくであったベングロシュもいた。

オシムの影響えいきょう日本にっぽん興味きょうみった欧州おうしゅう選手せんしゅやサッカー関係かんけいしゃもいる。前述ぜんじゅつのカタリンスキーは、ボスニアでとしてられるまでになり、一時いちじちゅうにち大使たいし就任しゅうにん要請ようせいもあったとかたっている。

2010 FIFAワールドカップにおいてはスカパー!のオフィシャルコメンテーターとして、オーストリアのグラーツから出演しゅつえん、コメントしている。ちなみにこのころ日本にっぽんのマスコミに「日本にっぽん代表だいひょう評価ひょうか予想よそう」をたずねられたが、「きみたちは、オーストリアまでひまがあるなら、合宿がっしゅくけばいい」と一蹴いっしゅうした。

愛称あいしょう異名いみょうにまつわる逸話いつわ[編集へんしゅう]

一般いっぱんてきによく紹介しょうかいされるイビチャの名称めいしょう短縮たんしゅくがたで、正式せいしきめいは Ivan (キリル文字もじИван)、日本語にほんごみでは「イヴァン」である。ジェフ千葉ちばでの登録とうろくめいは「イビチャ・オシム」。(なお「イビチャ」の原語げんごによりちか日本語にほんご表記ひょうきは「イヴィツァ」)

選手せんしゅ時代じだいには「シュトラウス」の異名いみょうをとった。テクニックとその独特どくとくのリズム、ボールさばきがまるでヨハン・シュトラウス2せい作曲さっきょくしたワルツをおどっているかのように華麗かれいであったことを由来ゆらいとする(ちなみにドイツの「ヨハン」は、オシムの名前なまえであるひがしスラヴみなみスラヴ諸語しょごの「イヴァン」にたる(詳細しょうさいヨハネス項目こうもく参照さんしょう)。190cmの長身ちょうしんながら繊細せんさいなボールタッチをつパスの名手めいしゅとしてられ、ボールをったらはなさないともわれた。

愛称あいしょうの1つに「シュワーボ」(「ドイツ野郎やろう」の) がある。オシムによればこれは少年しょうねん時代じだいからのもので、当時とうじ自身じしんブロンドかみさら父方ちちかた祖父母そふぼがドイツけいで、家族かぞくがドイツ使つかいこなしていたことなどが由来ゆらいだという。プロになってからもかれのルーツへの敬意けいいひょうする意味いみで、そしてしたしい間柄あいだがらひとからはいまでもばれることがある。なお、オシムがパルチザンの監督かんとく辞任じにんしたさい選手せんしゅをはじめおおくの関係かんけいしゃが「シュワーボ!オスタニ (のこれ) !」とさけんでわかれをしんだ。祖父そふはスロベニアのマリボル近郊きんこう出身しゅっしんで、そのルーツはドイツのシュワーベン地方ちほう祖母そぼミュンヘン出身しゅっしんのドイツじん

その[編集へんしゅう]

趣味しゅみ料理りょうり相撲すもう観戦かんせん (きんおうしゅうのファン) 、カードゲーム (レミ、ラミー一種いっしゅ) 。「もしサッカー選手せんしゅ監督かんとくになっていなかったら数学すうがく教授きょうじゅになっていたかもしれない。ただ、その場合ばあいはユーゴスラビア内戦ないせん時期じき無事ぶじごせなかったかもしれない」とかたっていた。

自身じしんについて「いまうマルチカルチャーな環境かんきょうそだった」という。父方ちちかた祖父母そふぼはドイツけいで、母方ははかた祖父そふポーランドじん祖母そぼチェコじんである。少年しょうねん時代じだいから所属しょぞくしたジェリェズニチャルも、ボスニアにしょ民族みんぞく一緒いっしょくたにプレーしている環境かんきょうであった。なお、オシムはユーゴスラビア分裂ぶんれつ民族みんぞく分類ぶんるいでは「クロアチアじん」であるが、本人ほんにんはそういう区分くぶんきらっていた。

母語ぼごセルビア・クロアチアきゅうユーゴスラビアじんわせると「ややボスニアなまりがある」という)のほか、ドイツフランス語ふらんすごさら英語えいごはなせる。記者きしゃ会見かいけん母語ぼごだが、それ以外いがいでは英語えいごなどを使つかうこともあった。

心臓しんぞうわるい。健康けんこうためあせをかこうと、どんなにあつくても長袖ながそでていた。

監督かんとく就任しゅうにんしたクラブチームすべてにカップせんのタイトルをもたらした。

日本にっぽんでの親友しんゆうはユーゴスラビア代表だいひょう監督かんとく時代じだいから親交しんこうがある祖母井うばがい秀隆ひでたか(ジェフ千葉ちば在籍ざいせきGMげんVONDS市原いちはら代表だいひょう取締役とりしまりやくけんGM)で、視察しさつなどのさい送迎そうげいしてもらうほどであった。祖母井うばがいによると、記者きしゃ会見かいけんまえファンデーションみたいなものはだととのえているところをた、という[18]

PKせんについては「監督かんとくちからおよばない、運命うんめい偶然ぐうぜんゆだねるものである」として批判ひはんてき立場たちばをとっていた。ユーゴスラビア監督かんとく時代じだい、1990ねんワールドカップのアルゼンチンせんがPKせん突入とつにゅうしたさい、それを見届みとどけることなくロッカーにがってしまったが、結果けっか最初さいしょのキッカーだったストイコビッチがゴールバーにててしまうなど5にんちゅう3にんはず敗戦はいせん。ジェフ千葉ちば時代じだい、2005ねんのナビスコカップ決勝けっしょうでも同様どうように、PKせんさいはロッカーにがった。このときは勝利しょうりわったものの、試合しあいのインタビューで「PKせんにいいおもい」とかたっている。2007ねんアジアカップ決勝けっしょうトーナメント準々じゅんじゅん決勝けっしょうでのPKせん突入とつにゅうも、オシムはキッカーをめたのちやはりロッカールームにもどってしまった。そのロッカールームにテレビカメラがはいり、心配しんぱいそうな表情ひょうじょうかべたたずむ様子ようすうつした。

日本にっぽんてからさかなきになり、自宅じたく付近ふきんにはきつけの魚屋さかなやもあった。さかなにはこだわりがあり、かならスーパーではなく魚屋さかなやってくる。日本酒にほんしゅたしなんでいた[17]祖母井うばがい秀隆ひでたかによると、サッカーをはなれて一番いちばんたのしんでいたのは料理りょうりジェフ千葉ちば時代じだい練習れんしゅうわるとチームのジャージたまま浦安うらやす食材しょくざいしにっていた。腕前うでまえはなかなかのもので、トマトソース使つかったイタリアンなどが得意とくいだった[19]

かねにはこだわりがい。ものにはさつしか使つかわず、日本にっぽんたばかりのころは「おりはっておいてくれ」とっていた。日本にっぽんにはチップ習慣しゅうかんく、この行為こうい失礼しつれいになることもあるとってからは、しょうぜに貯金ちょきんばこあつはじめ、まると母国ぼこくボスニア子供こどもたち寄付きふしていた。また、自分じぶん契約けいやくしょとおしたことく、祖母井うばがい秀隆ひでたかがオシムのいえおとずれると、契約けいやくしょ自宅じたくテレビうえふうらずにきっぱなしだった。こまった祖母井うばがいがオシムの息子むすこアマルたのんで開封かいふうしてもらい、二人ふたりで「今期こんきはナビスコはいったからこれぐらいにしないと失礼しつれいになるかな」などとはない、苦労くろうして金額きんがくめて契約けいやくしょ手渡てわたすと、とう本人ほんにん金額きんがくずにサインをしていた[19]くわえて、(後年こうねんにおいては) 複数ふくすうねん契約けいやくこのまず、1ねん (1シーズン) ごと帰国きこくしてしまうため、とくにジェフ千葉ちばでは毎年まいとしのように「今季こんきかぎりでは…」とチーム関係かんけいしゃきもやした。

母国ぼこくチャリティー活動かつどうおこなっている。だい電車でんしゃぎら[20]報道ほうどうされたこともあるが、実父じっぷ鉄道てつどういん自身じしん鉄道てつどう会社かいしゃのプロチームに所属しょぞくしていたことからかんがえても電車でんしゃぎらいとはかんがえられない。脳卒中のうそっちゅうから快復かいふく意識いしきもどったのちアイスクリームれされ「つめたくないかい?」と気遣きづかわれた返事へんじに「つめたくなければアイスクリームではない」とい、相変あいかわらずのオシムぶし披露ひろうした。

2009ねん1がつ、オーストリアへの帰国きこくさい成田なりた国際こくさい空港くうこうには代表だいひょう監督かんとく就任しゅうにんまえ指揮しきったジェフ千葉ちばのサポーターらがやく300にんや、ジェフ時代じだいおしである阿部あべ勇樹ゆうきなどもけつけた。オシムは「わたし人生じんせいなかかぞえるほどしかいたことがないが、そのいちかいになるかも」とコメント。出国しゅっこく間際まぎわまで日本にっぽんのサッカーについて、メディアや関係かんけいしゃ熱弁ねつべんった。

2009ねん4がつ18にち・19にち放送ほうそうされた『江川えがわ×堀尾ほりおのSUPERうるぐす』にて、オシムのオーストリアにある自宅じたくにて日本にっぽん代表だいひょうかんするインタビューをけた(自宅じたくには日本にっぽんかんする小物こものかれていたスペースもうつされた)。その自宅じたくにあるテレビにはサッカー専門せんもんチャンネルが150もあり、各国かっこくのリーグの試合しあいくまなくているという。そのさい一番いちばんきな日本人にっぽんじん選手せんしゅは?」とのいに、ジェフ時代じだいおしである水野みずのあきらじゅをあげて「かれ日本人にっぽんじん選手せんしゅっていないものをっていた。すべての場面ばめんでトライしてリスクもおかせていた」とかたった。一方いっぽうでわざわざオーストリアまであしはこんだ取材しゅざいスタッフに、ジョークをまじえた辛口からくち歓迎かんげいした。

2022ねん11月20にちに、げんジェフ千葉ちば選手せんしゅのチーム「OSIM JEF LEGEND」と、もと日本にっぽん代表だいひょうのチーム「OSIM JAPAN LEGEND」によるイビチャ・オシムの追悼ついとう試合しあい開催かいさいされ、オシムチルドレン選手せんしゅたち一堂いちどうかいした[21][22]

受賞じゅしょう表彰ひょうしょう[編集へんしゅう]

  • 1968ねんユーロ選手権せんしゅけんベストイレブン選出せんしゅつ
  • 1999ねん発表はっぴょうのストラスブール20世紀せいきベストイレブンに選出せんしゅつ 参考さんこう
  • サッカー専門せんもんフランス・フットボール2011ねん発表はっぴょう歴代れきだいリーグ・アン外国がいこくせき選手せんしゅTOP50にランクイン 参考さんこう

(25にランクイン。1もとボスニア代表だいひょう監督かんとくスシッチ、7もと日本にっぽん代表だいひょう監督かんとくハリルホジッチ。)

  • オーストリア最大さいだい日刊にっかん「クローネンツァイトゥング」によるファン投票とうひょうで4最優秀さいゆうしゅう監督かんとく受賞じゅしょう 参考さんこう
  • オーストリアのサッカー選手せんしゅ投票とうひょう最優秀さいゆうしゅう監督かんとくに1 参考さんこう

(自国じこく出身しゅっしん監督かんとく以外いがいではげんレヴァークーゼン監督かんとくロガー・シュミット、げんシュツットガルト監督かんとくフーブ・ステフェンスらが受賞じゅしょうしている)

  • 2009ねん1がつシュトルムグラーツ100周年しゅうねん祝賀しゅくがパーティーにて"世紀せいきのトレーナー"として表彰ひょうしょうされた
  • 2003ねんJリーグ監督かんとく特別とくべつしょうえらばれる
  • 2005ねんJリーグ功労こうろう特別とくべつしょうえらばれる
  • 2005ねんJリーグオールスターJ-EASTのサポーター投票とうひょう1
  • 2016ねん11月 旭日きょくじつしょう綬章じゅしょう受章じゅしょう[23]

監督かんとく成績せいせき[編集へんしゅう]

クラブ 就任しゅうにん 退任たいにん 記録きろく
試合しあい かち ぶん はい 勝率しょうりつ %
ジェリェズニチャル 1978ねん 1986ねん 301 118 81 102 039.20
ユーゴスラビア代表だいひょう 1986ねん 1992ねん 51 27 10 14 052.94
パルチザン・ベオグラード 1991ねん 1992ねん 42 29 5 8 069.05
パナシナイコス 1992ねん 1994ねん 69 45 11 13 065.22
シュトゥルム・グラーツ 1994ねん 2002ねん 376 203 80 93 053.99
ジェフ千葉ちば 2003ねん 2006ねん 106 49 35 22 046.23
日本にっぽん代表だいひょう 2006ねん 2007ねん 20 12 5 3 060.00
合計ごうけい 997 501 230 266 050.25

CM出演しゅつえん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

  • 祖母井うばがい秀隆ひでたか - ジェフ千葉ちばのゼネラルマネージャー時代じだい監督かんとくにオシムを招聘しょうへいした。
  • アマル・オシム - 長男ちょうなん。ジェフ千葉ちば時代じだい父親ちちおやもとでコーチをつとめる。オシムの日本にっぽん代表だいひょう監督かんとく就任しゅうにんは、千葉ちば監督かんとくぎょういだ。
  • ジョゼフ・ベングロシュ - 2002ねんにちかんWCにおいてともにFIFA技術ぎじゅつ委員いいんとしてはたらき、友好ゆうこうふかめる。その、ジェフ千葉ちば後任こうにん監督かんとくにオシムを推薦すいせんする。
  • イヴァン・チャブリノヴィッチ - きゅうユーゴ代表だいひょう監督かんとく時代じだいのアシスタントコーチ。のち鳥栖とすフューチャーズ監督かんとくつとめた。
  • ズデンコ・ベルデニック - きゅうユーゴ時代じだい友人ゆうじん一人ひとり。ベングロッシュが監督かんとく退任たいにんしたのち祖母井うばがい後任こうにん監督かんとくとしてオシムを紹介しょうかいした。日本にっぽんでの指導しどう経験けいけんをオシムにつたえるなどしてオシムをたすけた。また祖母井うばがいとオシムのあいだつ。
  • ゼムノビッチ・ズドラブコ - パルチザン時代じだいにBチームの監督かんとくつとめ、のち日本にっぽん再会さいかい日本にっぽん代表だいひょう監督かんとく時代じだい数々かずかず助言じょげんけるなどして「オシムジャパンの参謀さんぼう」とばれた。
  • ミハイロ・ペトロヴィッチ - シュトゥルム・グラーツ時代じだいにコーチをつとめ、オシムがったのちのグラーツで監督かんとく就任しゅうにん現在げんざい師弟してい関係かんけいにある。
  • ドラガン・ストイコビッチ - きゅうユーゴ代表だいひょう時代じだい、オシム指揮しきもと内戦ないせんれるチームを主将しゅしょうとして牽引けんいん活躍かつやくした。現在げんざいでも師弟してい関係かんけいにあり、かれ自身じしん同様どうよう親日しんにちである。
  • スレチコ・カタネッツ - きゅうユーゴ代表だいひょう時代じだい主力しゅりょくとして活躍かつやくしたスロベニアけい選手せんしゅ引退いんたいはオシムをならい、きゅうユーゴ諸国しょこく(マケドニア、スロベニア)の代表だいひょう監督かんとくとして指揮しきる。
  • ランコ・ポポヴィッチ - パルチザンやグラーツ時代じだいにオシムのもとでプレーする。オシムがったのちのグラーツではペトロヴィッチをささえるコーチをつとめた。
  • ボバン・バブンスキー - オシム指揮しききゅうユーゴ代表だいひょうはつ選出せんしゅつされたマケドニアけい選手せんしゅ一人ひとり。その分離ぶんり独立どくりつした母国ぼこく代表だいひょう主将しゅしょう指導しどうしゃとして活躍かつやくする。
  • ブルーノ・メツ - ふつ1USヴァランシエンヌでの選手せんしゅ時代じだいのチームメイト。オシムを教授きょうじゅあお[25]
  • 千田せんだよし - 日本にっぽん代表だいひょう監督かんとく時代じだい、オシムの通訳つうやくつとめた。
  • 間瀬ませ秀一ひでかず - ジェフ千葉ちば時代じだい、オシムの通訳つうやくつとめた。のちブラウブリッツ秋田あきた愛媛えひめFC監督かんとく
  • 長束ながつかきょうぎょう - オシムの著作ちょさく翻訳ほんやくしたクロアチア在住ざいじゅうのスポーツライター。インタビューの通訳つうやくなどもつとめる。
  • サッカーユーゴスラビア代表だいひょう
  • Jリーグ監督かんとく経験けいけんしゃ
  • ヤドランカ - きゅうユーゴスラビア(げんボスニア・ヘルツェゴビナ)サラエヴォ出身しゅっしん歌手かしゅ。1980ねんごろから30年来ねんらい友人ゆうじんで、オシム夫妻ふさい親交しんこうがある[26]
  • ベリミル・ザエッチ - パナシナイコスFCのGMとしてオシムを監督かんとく招聘しょうへいえい1ポーツマスGM時代じだいにオシム招聘しょうへいうごきがあった。ディナモ・ザグレブのGMをながつとめる。
  • ハインツ・シルヒャー - RCストラスブールでのチームメイト。SKシュトゥルム・グラーツのGMとしてオシムを監督かんとく招聘しょうへい現在げんざいはアヤックスのスカウト部門ぶもん
  • ホルスト・ヘルト - オシムひきいるシュトゥルム・グラーツでプレー。32さいのベテランとしてスーパーサブで活躍かつやくした。現在げんざいのシャルケGM。
  • ヤン=ピーター・マルテンス - オシムひきいるシュトゥルム・グラーツでプレー。現在げんざいはシャルケのチームマネジャー。
  • ジュゼッペ・ジャンニーニ - もとイタリア代表だいひょう。32さいでオシムひきいるシュトゥルム・グラーツへ移籍いせき。10ばんとしてプレー。
  • ミリャン・ミリャニッチ - オシムがユーゴスラビア代表だいひょう監督かんとく時代じだいのユーゴスラビアサッカー連盟れんめい会長かいちょう
  • 小倉おぐらつとむ - ジェフ千葉ちば時代じだい日本にっぽん代表だいひょう時代じだいのコーチ。現在げんざい横浜よこはまF・マリノスのスポーティングダイレクター。
  • 江尻えじり篤彦あつひこ - ジェフ千葉ちば時代じだいのコーチ。
  • 岸本きしもとひろしみぎ - ジェフ千葉ちば時代じだいのGKコーチ。
  • 松本まつもと良一りょういち - ジェフ千葉ちば時代じだいのフィジカルコーチ。
  • 井上いのうえ卓也たくや (サッカー指導しどうしゃ) - ジェフ千葉ちば時代じだいのコーチ。現在げんざいはシンガポールU-18監督かんとく
  • ちぇりゅう(チェ・ヨンス) - ジェフ千葉ちば時代じだい選手せんしゅ現在げんざいはFCソウル監督かんとく
  • 前田まえだひろし - ジェフ千葉ちば時代じだい日本にっぽん代表だいひょう時代じだいのトレーナー。

関連かんれん情報じょうほう[編集へんしゅう]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

たんちょ[編集へんしゅう]

共著きょうちょ[編集へんしゅう]

関連かんれん書籍しょせき[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ おどるうさぎ@大阪おおさかY. “セルビアの文字もじ発音はつおんいちくちメモ”. 2009ねん5がつ29にち閲覧えつらん
  2. ^ 当時とうじのオリンピックはプロ選手せんしゅ参加さんかみとめていないので「ステート・アマ」という定義ていぎになる。
  3. ^ FIFAによる試合しあい記録きろくのち日本にっぽんサッカー協会きょうかい会長かいちょうとしてオシムを代表だいひょう監督かんとく選出せんしゅつする川渕かわぶち三郎さぶろう出場しゅつじょうしていた。
  4. ^ 日本にっぽん代表だいひょう・オシム監督かんとくのう梗塞こうそくたおれる
  5. ^ イビチャ・オシムとアドバイザー契約けいやく締結ていけつ
  6. ^ オシム辛口からくちひとてばサプライズ」”. スポニチ (2009ねん12月6にち). 2021ねん7がつ4にち閲覧えつらん
  7. ^ オシム母国ぼこく協会きょうかい委員いいんかい座長ざちょう就任しゅうにん (日刊にっかんスポーツ 2011ねん4がつ22にち)
  8. ^ Creative2. “もと日本にっぽん代表だいひょう監督かんとくのイビチャ・オシム死去しきょ もと所属しょぞくクラブが追悼ついとう声明せいめい「サッカーをはるかにえた影響えいきょうりょくっていた」”. 2022ねん5がつ1にち閲覧えつらん
  9. ^ 毎日新聞まいにちしんぶん. “イビチャ・オシムさん死去しきょ 80さい サッカーもと日本にっぽん代表だいひょう監督かんとく”. 2022ねん5がつ1にち閲覧えつらん
  10. ^ イビチャ・オシム死去しきょ サッカー日本にっぽん代表だいひょうもと監督かんとく 80さい”. NHKスポーツ (2022ねん5がつ1にち). 2022ねん5がつ1にち閲覧えつらん
  11. ^ [1]
  12. ^ [2]
  13. ^ ぬま貞雄さだお 生涯しょうがいゆめもとめ だい5かい 高校こうこう選手権せんしゅけんのリーグせん導入どうにゅう 2007ねん11月
  14. ^ 日本にっぽん代表だいひょう たい イエメン代表だいひょう】8/14練習れんしゅうレポート”. 2007ねん6がつ18にち閲覧えつらん J's GOAL、2006ねん8がつ14にちづけ
  15. ^ サッカーキング中村なかむら俊輔しゅんすけ横浜よこはまF・マリノス)「もっと上手うまくなりたい」 2013ねん5がつ24にち
  16. ^ スポニチ Sponichi Annex サッカー 連載れんさい チームがひとつに…ひかぐみも「たたかっている」
  17. ^ a b オシム監督かんとく手腕しゅわん評判ひょうばん私生活しせいかつ”. 2006ねん8がつ29にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2007ねん6がつ18にち閲覧えつらん ゲンダイネット日刊現代にっかんげんだい、2006ねん7がつ-8がつ
  18. ^ 読売新聞よみうりしんぶん2007ねん11月6にち朝刊ちょうかん
  19. ^ a b 読売新聞よみうりしんぶん2007ねん11月6にち朝刊ちょうかん
  20. ^ 電車でんしゃイヤ”オシム監督かんとくドタキャン [リンク]
  21. ^ 11月20日はつか)オシムもと監督かんとく追悼ついとう試合しあい ありがとう イビチャ・オシム ジェフユナイテッド市原いちはら千葉ちば 公式こうしきウェブサイト”. ジェフユナイテッド市原いちはら千葉ちば. 2022ねん11月20にち閲覧えつらん
  22. ^ “オシムさん追悼ついとう試合しあい千葉ちばOBまき誠一郎せいいちろうさんあいさつ「サッカーをオシムさんをあいつづけて」 ”. 日刊にっかんスポーツ. (2022ねん11月20にち). https://www.nikkansports.com/soccer/news/202211200001010.html 2022ねん11月24にち閲覧えつらん 
  23. ^ 江田えだもと参院さんいん議長ぎちょうきりはなだい綬章じゅしょう=ファイティング原田はらださん旭日きょくじつしょう綬章じゅしょう 時事じじドットコム 2016ねん11月3にち アーカイブ 2016ねん11月3にち - ウェイバックマシン
  24. ^ オシムの言葉ことば”. 広告こうこく作品さくひんアーカイブ. ACジャパン. 2022ねん3がつ7にち閲覧えつらん
  25. ^ 『メツ監督かんとく不敵ふてき一撃いちげき日本にっぽん退化たいか」』 スポーツ報知ほうち2008ねん11月19にちづけ
  26. ^ JADRANKA BLOG2010ねん10がつ25にち

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]