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森孝慈 - Wikipedia コンテンツにスキップ

森孝もりたか

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
もり たかし
名前なまえ
カタカナ モリ タカジ
ラテン文字もじ MORI Takaji
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
生年月日せいねんがっぴ 1943ねん11月24にち
大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく, 広島ひろしまけん福山ふくやま
ぼつ年月日ねんがっぴ (2011-07-17) 2011ねん7がつ17にち(67さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん, 東京とうきょう目黒めぐろ
身長しんちょう 173cm
体重たいじゅう 65kg
選手せんしゅ情報じょうほう
ポジション MFDF
ユース
1959-1961 日本の旗 修道しゅうどう高校こうこう
1962-1966 日本の旗 早稲田大学わせだだいがく
クラブ1
とし クラブ 出場しゅつじょう (得点とくてん)
1967-1977 日本の旗 三菱重工みつびしじゅうこう 146 (28)
通算つうさん 146 (28)
代表だいひょうれき
1966-1976[1] 日本の旗 日本にっぽん 56 (2)
監督かんとくれき
1981-1985 日本の旗 日本にっぽん
1992-1993 日本の旗 浦和うらわレッズ
1998 日本の旗 アビスパ福岡ふくおか
獲得かくとくメダル
男子だんし サッカー
オリンピック
どう 1968 サッカー
1. 国内こくないリーグせんかぎる。
■テンプレート■ノート 解説かいせつ■サッカー選手せんしゅpj

もり たかし(もり たかじ、1943ねん11月24にち - 2011ねん7がつ17にち)は、広島ひろしまけん福山ふくやま出身しゅっしんサッカー選手せんしゅ、サッカー指導しどうしゃ[出典しゅってん 1]現役げんえき時代じだいのポジションはミッドフィルダーサッカー日本にっぽん代表だいひょうとして56試合しあい出場しゅつじょうし、1968ねんメキシコシティオリンピックどうメダルを獲得かくとくした[出典しゅってん 2]

人物じんぶつ

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浦和うらわレッドダイヤモンズちち」「浦和うらわレッズみのおや」としょうされる[出典しゅってん 3]

実父じっぷ教師きょうし広島ひろしま県庁けんちょうおよび日本にっぽん体育たいいく協会きょうかい職員しょくいんで、原爆げんばく被災ひさい広島ひろしまうちよう衝撃しょうげきけ、まちをうろつく原爆げんばく孤児こじり、戦後せんご広島ひろしまわん似島にのしま似島にのしま学園がくえん設立せつりつしたことでられるもりかおる麿まろ[出典しゅってん 4]実兄じっけい日本にっぽんプロサッカーリーグ(Jリーグ)創設そうせつおおきな舵取かじとやくたしたもり健兒けんじ

来歴らいれき

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選手せんしゅ時代じだい

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福山ふくやま西にしまちまれる[出典しゅってん 5]ちちよし麿まろ似島にのしま学園がくえん創設そうせつともな一家いっか似島にのしま転居てんきょし、こう慈は2さいから中学ちゅうがく3ねんまで広島ひろしま似島にのしまそだち、小学校しょうがっこう4ねんからは毎日まいにちせんってしまがい広島ひろしま市立しりつ皆実みなみ小学校しょうがっこう通学つうがく中学ちゅうがく高校こうこう修道しゅうどうまな[出典しゅってん 6]高校こうこうからは学校がっこうちかくに一人ひとり下宿げしゅくした[出典しゅってん 7]うみきたえたおよぎをわれ中学ちゅうがく3年間ねんかん水泳すいえい在籍ざいせきちゅう3の卒業そつぎょう間際まぎわから親友しんゆう若山わかやままちひささそわれ本格ほんかくてきにサッカーをはじめる[出典しゅってん 8]成績せいせきつねにトップクラスで学級がっきゅう委員いいん[17]おんな生徒せいと人気にんきてきだったという。1956ねんちちよし麿まろくしている(詳細しょうさい似島にのしま学園がくえん参照さんしょう)。

修道しゅうどう高校こうこう2ねんまでは小城おぎとくたちらがいた広大こうだい付属ふぞく高校こうこう全盛期ぜんせいきたず、全国ぜんこく出場しゅつじょうはならなかったが、東洋工業とうようこうぎょうげんサンフレッチェ広島さんふれっちぇひろしま)とも練習れんしゅう試合しあいをしてもらいきたえられた[17]1961ねん修道しゅうどうだか3ねんには下村しもむら幸男ゆきお監督かんとくした国体こくたい優勝ゆうしょう決勝けっしょう1-0、浦和うらわ市立しりつ[5]さら同年どうねん高校こうこう選手権せんしゅけんで、釜本かまもと邦茂くにしげ二村にむら昭雄あきおらをようする山城やましろ高校こうこうやぶ優勝ゆうしょう当時とうじ高校こうこうぜんタイトル、高校こうこう2かん達成たっせいした[出典しゅってん 9]当時とうじのチームメイトには中村なかむらつとむ吉田よしだひろしらがおり、キャプテンをつとめた若山わかやままちひさのちJFAスポーツ医学いがく委員いいんとして日本にっぽん代表だいひょう医療いりょうスタッフとなる[出典しゅってん 10]

1962ねん早稲田大学わせだだいがくだいいち政治せいじ経済学部けいざいがくぶ自治じち行政ぎょうせい学科がっか入学にゅうがくし、ア式蹴球あしきしゅうきゅう入部にゅうぶいちねんからレギュラーを[出典しゅってん 11]松本まつもと育夫いくお野村のむら尊敬そんけい桑田くわた隆幸たかゆき大野おおのあつし二村にむら釜本かまもとらと早稲田わせだ黄金おうごん時代じだいつく[出典しゅってん 12]1964ねんだい43かい天皇杯てんのうはい全日本ぜんにほんサッカー選手権せんしゅけん大会たいかいでは日立ひたち本社ほんしゃげんかしわレイソル)を3-0でやぶり、早稲田わせだ26ねんぶりの天皇杯てんのうはい制覇せいは貢献こうけん1966ねん主将しゅしょうつと[2]だい46かい天皇杯てんのうはい決勝けっしょう東洋工業とうようこうぎょうげんサンフレッチェ広島さんふれっちぇひろしま)をやぶって優勝ゆうしょうした[7]。これは天皇てんのうはい最後さいご学生がくせい優勝ゆうしょうである。当時とうじ早稲田わせだ作戦さくせん選手せんしゅめていた[出典しゅってん 13]早稲田わせだ在学ざいがくちゅうの1964ねん東京とうきょうオリンピック全日本ぜんにほん日本にっぽん代表だいひょうメンバー)に選出せんしゅつされ、以後いご1976ねんまで日本にっぽん代表だいひょうとして活躍かつやく[2]

大学だいがく卒業そつぎょう1967ねん日本にっぽんサッカーリーグ (JSL) の三菱重工みつびしじゅうこうげん浦和うらわレッドダイヤモンズ)へ入団にゅうだん[出典しゅってん 14]杉山すぎやま隆一りゅういち横山よこやま謙三けんぞうらととも主力しゅりょくとして活躍かつやく[5]1969ねんには当時とうじJSL4連覇れんぱちゅうだった東洋工業とうようこうぎょうやぶはつ優勝ゆうしょうげた。JSLでは通算つうさん146試合しあい出場しゅつじょう、28得点とくてん[2]。JSL1優勝ゆうしょう2かい天皇杯てんのうはい優勝ゆうしょう2かい年間ねんかん優秀ゆうしゅう11にんしょうを5かい受賞じゅしょう[2]。また日本にっぽん代表だいひょうでも、1967ねんメキシコオリンピック予選よせんまえから、おもストッパーとしてチームのなかちから選手せんしゅとなると、メキシコオリンピック予選よせんだい1せんから1968ねんのメキシコオリンピックほん大会たいかい1970 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選よせん1970ねんアジア競技きょうぎ大会たいかいにかけて国際こくさいAマッチ32試合しあい連続れんぞく出場しゅつじょう。これはメキシコ五輪ごりん世代せだいでは1記録きろくたる。

国際こくさいAマッチはけい55試合しあい出場しゅつじょう2得点とくてん記録きろくのこし、メキシコオリンピックではぜん試合しあいHBとして中盤ちゅうばんをリードし、どうメダルを獲得かくとくした[出典しゅってん 15]。メキシコ五輪ごりん主力しゅりょくけたのちは、1970年代ねんだい日本にっぽん代表だいひょう中盤ちゅうばん司令塔しれいとうとして釜本かまもとらとささえる[出典しゅってん 16]

日本にっぽん代表だいひょう監督かんとく

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知的ちてきなプレーぶりは指導しどうしゃきと、長沼ながぬまけん日本にっぽんサッカー協会きょうかい(JFA)幹部かんぶからはやくから見込みこまれ、引退いんたいはJFAの指導しどうしゃとしてエリートコースをあゆ[27]1979ねんかく競技きょうぎのオリンピック・メダリストを対象たいしょうにナショナル・コーチを育成いくせいしようという日本にっぽん体育たいいく協会きょうかいのプログラムからの助成じょせいけて、西にしドイツにコーチ留学りゅうがくおくされ[出典しゅってん 17]1.FCケルンヘネス・バイスバイラーリヌス・ミケルスらからいち年間ねんかん指導しどうほうまな[出典しゅってん 18][注釈ちゅうしゃく 1]1980ねん10月、日本にっぽん代表だいひょう監督かんとく渡辺わたなべただし病気びょうきたおれたため急遽きゅうきょもどされ、予定よていよりはや同年どうねん11がつ帰国きこくし、川淵かわぶち三郎さぶろう監督かんとくでコーチに就任しゅうにんした[出典しゅってん 19]川淵かわぶち強化きょうか部長ぶちょう兼任けんにん名目めいもくじょう監督かんとくであり、事実じじつじょうチームの指揮しきもりになった[出典しゅってん 20]1982 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選よせん敗退はいたいで、よく1981ねん4がつからは川淵かわぶちのち日本にっぽん代表だいひょう監督かんとく就任しゅうにん[出典しゅってん 21]、アマからプロへの端境期はざかいきだった1980年代ねんだいいち時代じだいきず[出典しゅってん 22]理論りろんひょうされ「日本にっぽんサッカーなおしのふだ[40]として期待きたいはかつてないものであった[出典しゅってん 23]。プロすすめる日産にっさん読売よみうり、アマにこだわる古河ふるかわ三菱みつびしなど出自しゅつじことなる混成こんせいぐんたくみにまとめげたほか[出典しゅってん 24]既成きせい概念がいねんにとらわれることなく、2リーグや大学だいがくリーグにもあしはこんで選手せんしゅをピックアップし、これまでにない革新かくしんてきなチームづくりをおこなった[5]。このころからテクニックにすぐれたあたらしい世代せだい台頭たいとうしたこともあって、そうした選手せんしゅたちを中心ちゅうしんに、パスをつなぐ攻撃こうげきてきなスタイルでロサンゼルスオリンピック予選よせんのぞんだ[出典しゅってん 25]。またそれまで勝利しょうりきゅうはおろか日当ひなたさえもなかった日本にっぽん代表だいひょうチームの報酬ほうしゅうきん宿泊しゅくはくホテルの改善かいぜんなどにも尽力じんりょくした[出典しゅってん 26]

1980年代ねんだい日本にっぽん企業きぎょうスポーツ全盛ぜんせいだった。いちはやくプロ契約けいやく制度せいど導入どうにゅうした読売よみうりクラブなどの一部いちぶ選手せんしゅのぞいて、だい多数たすう勤務きんむする会社かいしゃからの月給げっきゅう生計せいけいてるサラリーマン[44]であり、代表だいひょう合宿がっしゅくちゅうはいわゆる出張しゅっちょうなかには欠勤けっきんあつかいの選手せんしゅもいた[29]現役げんえきめれば、そのまま会社かいしゃつとめにはいるのがたりまえ時代じだいで、ふく主将しゅしょうながらひかえで出番でばんすくなかった岡田おかだ武史たけしが「もう、ええですわ」と、代表だいひょうにはばないでしいとってきたときにはみみうたがったが、岡田おかだ立場たちばもよくかるため、結局けっきょく慰留いりゅう出来できなかった[出典しゅってん 27]戸塚とつか哲也てつやなどは「代表だいひょうでプレーすることに魅力みりょくかんじない」と公言こうげんしていた[29]日本にっぽん体育たいいく協会きょうかい加盟かめいするいち競技きょうぎ団体だんたいだったJFAも現在げんざいのような潤沢じゅんたく運営うんえい資金しきんはなく、代表だいひょうのスタッフは、監督かんとくとコーチにドクターマッサージかくいちにんだけ[29]マネージャーもおらず、監督かんとく選手せんしゅパスポートあつめてチェックインなどもおこなっていた。代表だいひょう選手せんしゅ支払しはらわれるかね交通こうつうのみ。もり三菱みつびしから出向しゅっこうちゅうのアマの代表だいひょう監督かんとく[38]勿論もちろん報酬ほうしゅう[29]読売よみうりなどの契約けいやく選手せんしゅがクラブから出場しゅつじょうきゅう勝利しょうりきゅうにする一方いっぽうで、社員しゃいん選手せんしゅ臨時りんじ報酬ほうしゅうといえば、海外かいがい遠征えんせい会社かいしゃから餞別せんべつわたされる程度ていどだった[出典しゅってん 28]選手せんしゅあいだ格差かくさがあり、これでは人間にんげんてき信頼しんらいうことができない、ともりはJFAの当時とうじ専務せんむ理事りじ長沼ながぬまけんなん1982ねんから1にち3せんえん手当てあてが日本にっぽん代表だいひょうにつくようになり、よく1983ねんからは出場しゅつじょうした場合ばあいあるいは勝利しょうりした場合ばあいにボーナスがつくかたちになった[出典しゅってん 29]日本にっぽんのライバルである韓国かんこくでは1983ねんプロリーグはじまり、代表だいひょう選手せんしゅ金銭きんせんてき手当てあてがるようになっていた[注釈ちゅうしゃく 2]。そのことを日本にっぽん選手せんしゅっていたため、もり監督かんとくは「韓国かんこくとの待遇たいぐうをいいわけ出来できないかたちにしたかった」のだという[出典しゅってん 30]

1982ねんアジア競技きょうぎ大会たいかいではグループリーグで韓国かんこくはじめて国外こくがいやぶほかイランみなみイエメンにもち3せん全勝ぜんしょうでのベスト8進出しんしゅつ親善しんぜん試合しあいにおいてオランダのフェイエノールトやブラジルのコリンチャンス海外かいがい強豪きょうごうクラブをやぶ成果せいかせた[50]当時とうじ日本にっぽん代表だいひょう親善しんぜん試合しあい相手あいて海外かいがいのクラブチームとまっていた[注釈ちゅうしゃく 3]。しかし、親善しんぜん試合しあいだい活躍かつやく攻撃こうげきじく期待きたいされた尾崎おざき寿夫としおドイツ・ブンデスリーガビーレフェルト移籍いせきしたのがひびいた[29]当時とうじ国際こくさい試合しあいとき海外かいがい移籍いせきした日本人にっぽんじん選手せんしゅもどして代表だいひょうりさせるという発想はっそうはなく[出典しゅってん 31]尾崎おざき奥寺おくでら康彦やすひこなどを代表だいひょうぶことはなかった。試行錯誤しこうさくごすえフォワードじく空中くうちゅうせんつよはら博実ひろみえて柱谷はしらたに幸一こういちませて[48]所属しょぞくクラブで攻撃こうげきてきMFにコンバートされていた木村きむら和司かずし司令塔しれいとう[48]金田かねだみのるのち水沼みずぬま貴史たかし)をからませた日産にっさんぜい攻撃こうげきはしらにする布陣ふじんいどむが[出典しゅってん 32]肝心かんじんロサンゼルスオリンピック最終さいしゅう予選よせんでは連敗れんぱいかさ敗退はいたいした[出典しゅってん 33]当時とうじ日本にっぽん代表だいひょう情報じょうほう収集しゅうしゅう能力のうりょくひくく、初戦しょせん相手あいてであるタイ試合しあい映像えいぞうあつめることもできず[出典しゅってん 34]相手あいてチームについてなにらずに初戦しょせんのぞみ、タイのエース・ピヤポンハットトリックめられるなどで2-5の大敗たいはい(ピヤポン・ショック)。結局けっきょくこれがき4せん全敗ぜんぱいわった[出典しゅってん 35]大会たいかい直前ちょくぜんにそれまでいなかったベテランをくわえたことで、若手わかて中心ちゅうしん団結だんけつしていたチームのバランスがくずれてしまったともいわれる[出典しゅってん 36]

もり辞意じい表明ひょうめいしたが慰留いりゅうされ[50]1985ねん開催かいさいされた1986 FIFAワールドカップ・アジア予選よせんでは北朝鮮きたちょうせん代表だいひょう史上しじょうはじめて勝利しょうりし、平壌ぴょんやんきむ日成いるそん競技きょうぎじょう北朝鮮きたちょうせん代表だいひょうと"完全かんぜんアウェー"をたたかうなど1予選よせん、2予選よせん突破とっぱ[出典しゅってん 37]宮内みやうちさとし西村にしむら昭宏あきひろで、のち世界せかい主流しゅりゅうになるダブルボランチをいちはやれるなどで[出典しゅってん 38]日本にっぽんサッカーの歴史れきしじょうはじめてアジア最終さいしゅう予選よせん進出しんしゅつ[出典しゅってん 39]当時とうじのWはいでのアジアの出場しゅつじょうわくは「1」(ひがしアジアと西にしアジアで1わくずつ)[57]。この当時とうじ代表だいひょうチームは守備しゅび加藤かとうひさひだりサイドバックなみ敏史としふみみぎサイドバックの松木まつき安太郎やすたろう中盤ちゅうばん木村きむら和司かずし前線ぜんせんはら博実ひろみ水沼みずぬま貴史たかしら、職人しょくにん気質きしつ個性こせいようし、つよ結束けっそくりょくわせたことからもりファミリーばれた[出典しゅってん 40]北朝鮮きたちょうせんとのアウェーせんに、累積るいせき警告けいこく出場しゅつじょう停止ていしだった松木まつき安太郎やすたろうを「かれもチームの一員いちいんだから」と帯同たいどうさせた。感謝かんしゃふるえながらボールはこびなど下働したばたらきする松木まつき仲間なかまあたたかくつつんだ[17]

1985ねん10月26にち国立こくりつ競技きょうぎじょうでの韓国かんこく代表だいひょうとのアジア最終さいしゅう予選よせん初戦しょせんは、代表だいひょう試合しあいはじめて国立こくりつ満員まんいんになった[出典しゅってん 41]代表だいひょうせんにおきゃくはいるようになり、サッカー協会きょうかい収入しゅうにゅうえてきたのはこのころから[35]。テレビの実況じっきょう担当たんとうしたNHKアナウンサー山本やまもとひろしの「東京とうきょう千駄ヶ谷せんだがや国立こくりつ競技きょうぎじょうくもぞらこうに、メキシコのあおそらちかづいてきているようながします」というオープニングのめい台詞せりふでも有名ゆうめい試合しあいであるが[出典しゅってん 42]立錐りっすい余地よちもなくくされた62,000にんだい観衆かんしゅうと、スタンドにはためく無数むすうまる、かつて体験たいけんしたことのない異様いよう熱気ねっきは、皮肉ひにくにも日本にっぽん代表だいひょうイレブンに過剰かじょうなプレッシャーとなってはねかえった[出典しゅってん 43]。また、韓国かんこく代表だいひょう監督かんとく金正男キムジョンナムは、もり大学だいがく時代じだいからの20年来ねんらい親友しんゆうでもあり[5]冷静れいせい日本にっぽん代表だいひょう分析ぶんせきしていた[出典しゅってん 44]。「日本にっぽんぜん後半こうはん開始かいし25ふんぐらいまでにてんることがおおい。だからリスクをおかすことなく30ふんまではまもりをかためていく」と、きむ韓国かんこくイレブンにあたえたこの指示しじで、気味ぎみ試合しあいすすめる韓国かんこくたいして、ボール支配しはいりつ上回うわまわった日本にっぽんがペースをにぎっているかにおもわれたが、それは相手あいて仕組しくまれた巧妙こうみょうわなだった。効果こうかてき攻撃こうげきせないままに時間じかんぎ、前半ぜんはん30ふん韓国かんこくみぎからのセンタリング石神いしがみりょうくんがクリアしたキックがみじかく、そのキックミスをつけまれ先制せんせいてんうばわれると、韓国かんこくたいする長年ながねんのコンプレックスから選手せんしゅおおきく動揺どうようし41ふんふたたびミスから致命ちめいてきな2てんうばわれた[60]。このゴールの直後ちょくご木村きむら和司かずしフリーキックで1ゴールしたものの、1-2でホームでの敗戦はいせんきっするとソウルでのだい2せんも0-1でやぶれ、ワールドカップ出場しゅつじょうまであといちまでせまったが韓国かんこくやぶれた[出典しゅってん 45]。このときのチームは「ドーハの悲劇ひげき以前いぜんもっとワールドカップちかづいたチームであったとサンケイスポーツなどはほうじている[出典しゅってん 46]。この試合しあいいまにちかん両国りょうこくサッカーける伝説でんせつとしてかたがられている[出典しゅってん 47]

わずか1てんという最少さいしょう得点とくてんでの敗戦はいせんではあったが、またもちからせつけられた。もりは「韓国かんこく日本にっぽんはプロでるかいかにきる」「韓国かんこくいつくには日本にっぽんにもプロをつくるしかない」などと明言めいげんした[出典しゅってん 48][注釈ちゅうしゃく 4]かくポジションにスペシャリストがいて完成かんせいたかかったこのチーム[68]敗戦はいせんによって、もりをはじめ日本にっぽんサッカーかい全体ぜんたいがプロ必要ひつようせい痛感つうかんしたものの、長沼ながぬまけん日本にっぽんサッカー協会きょうかい専務せんむ理事りじせまったもりのプロコーチとしての契約けいやく要求ようきゅうれられず[出典しゅってん 49][注釈ちゅうしゃく 5]当時とうじ韓国かんこくくにかかえてサッカーを強化きょうかしており[40]韓国かんこく代表だいひょう選手せんしゅたいして、Wはいアジア予選よせんに2おくウォン当時とうじ日本円にほんえんやく5,000まんえん[40]高級こうきゅう乗用車じょうようしゃボーナスけていたが[40]国立こくりつ競技きょうぎじょう満杯まんぱいにしたいちせんで、日本にっぽん代表だいひょう選手せんしゅったのは、弁当べんとう栄養えいよう補助ほじょしょうする1まんえんにもたないきむ[40]もりは「やりようによっては韓国かんこくてる」と、自身じしんでも手応てごたえをかんじていたため[40]協会きょうかい牛耳ぎゅうじ最高さいこう責任せきにんしゃ長沼ながぬま専務せんむ理事りじ岡野おかの俊一郎しゅんいちろう理事りじ選手せんしゅ強化きょうか環境かんきょう待遇たいぐう改善かいぜん強力きょうりょくもうれ、一応いちおう了解りょうかいけて1985ねん12月17にち自身じしん監督かんとく留任りゅうにん発表はっぴょうおこなったが[出典しゅってん 51]強化きょうか実質じっしつ責任せきにんしゃだった岡野おかの強化きょうか部長ぶちょうは、臨教審りんきょうしんのメンバーにもなっていそがしく[40]もり要求ようきゅうにん得意とくいとする"プロ意識いしき"と"アマチュア精神せいしん"を上手うま使つかけられらちかず、とうとう嫌気いやけして[出典しゅってん 52]1986ねん3月3にち辞任じにんした[出典しゅってん 53]。「もりかねしがっている」と批判ひはんする論調ろんちょう[41][注釈ちゅうしゃく 6]協会きょうかい微温びおんてき体質たいしついちせきとうじたこの行動こうどうが、Jリーグ創設そうせつという大河たいがいちてきになった[出典しゅってん 54]。またもりんだ改革かいかく今日きょう日本にっぽん代表だいひょうチームの原点げんてんがあるともいわれる[出典しゅってん 55]日本にっぽん代表だいひょう監督かんとくのプロ契約けいやくはじまったのは、もり退任たいにんから3ねん、1988ねん1がつ就任しゅうにんした横山よこやま謙三けんぞうから(年間ねんかん300まんえん[44]横山よこやまのプロ契約けいやく実際じっさいはセミプロ契約けいやく)を協会きょうかい要請ようせいしたのは三菱重工みつびしじゅうこう人事じんじ課長かちょうもどっていたもりという[46]。このときからようやくプロの指導しどうしゃ代表だいひょうチームを指揮しきするという慣例かんれいができた。

もりファミリーのメンバーは現在げんざい協会きょうかい幹部かんぶ指導しどうしゃとして活躍かつやくしているものおおいが、とてもなかいまとしに1あつまるという[出典しゅってん 56]

浦和うらわレッズ創設そうせつ

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その三菱重工みつびしじゅうこう人事じんじもどりサッカーふく部長ぶちょうけんそう監督かんとく1988ねんあに健兒けんじ木之本きのもときょうさんらとJSL活性かっせい委員いいんかいよく1989ねん、プロリーグ検討けんとう委員いいんかい、のちのJリーグ)を設立せつりつ[出典しゅってん 57]三菱重工みつびしじゅうこう社内しゃないのプロ担当たんとうしゃとしてサッカーのプロ参加さんか嘆願たんがん、サッカー三菱自動車工業みつびしじどうしゃこうぎょう以下いか三菱自工みつびしじこう移管いかん主体しゅたいてきかかわる[出典しゅってん 58]重工じゅうこう防衛庁ぼうえいちょう企業きぎょう相手あいて仕事しごとで、大衆たいしゅうにアピールするプロスポーツはやらないだろうと予想よそうし、前々まえまえから内々うちうちにファンとの接点せってんをつくりやすいこう移管いかん打診だしんしていた[出典しゅってん 59]三菱みつびし本社ほんしゃ内部ないぶでも「伝統でんとうあるサッカーつぶすな」の意向いこうつよく、こう移管いかんしびれる攻防こうぼうだったといわれる[5]社業しゃぎょうとしてドイツ事業じぎょうしょ駐在ちゅうざい決定けっていしていたが、三菱自工みつびしじこう清水しみず泰男やすお(のち浦和うらわレッズ社長しゃちょう)の要請ようせい1989ねん7がつ三菱自工みつびしじこう転籍てんせき[5]。サッカープロたいして、社内しゃない反応はんのうややかだったといわれるが、サッカーのプロげの中心ちゅうしん人物じんぶつとして東奔西走とうほんせいそうした[出典しゅってん 60]

1990ねん9月、浦和うらわ青年せいねん会議かいぎしょ中心ちゅうしんになって「浦和うらわプロサッカー球団きゅうだんをつくろうかい」が発足ほっそく浦和うらわホンダ誘致ゆうち決定的けっていてきだった[出典しゅってん 61]三菱自工みつびしじこう社内しゃないてきにも「東京とうきょうフランチャイズで」という要請ようせいつよ[5]もりプロリーグ発足ほっそく準備じゅんびとして、理想りそうのホームグラウンドというならまずは国立こくりつ競技きょうぎじょう、それがだめなら駒沢こまざわ競技きょうぎじょう江戸川えどがわ陸上りくじょう競技きょうぎじょうあたりを中心ちゅうしんかんがえていたが、現実げんじつてきにはむずかしく、先方せんぽうからことわられる情況じょうきょうがずっとつづいていた[5]。しかし同年どうねん10がつ、ホンダが浦和うらわ誘致ゆうちことわったため、川淵かわぶち三郎さぶろう仲介ちゅうかいで「つくろうかい」のメンバーと11月、西にしおかサッカーじょうちかくのファミリーレストランすかいらーくう(もりはそれ以前いぜん浦和うらわ関係かんけいしゃなん接触せっしょくはあった)[出典しゅってん 62]当初とうしょから浦和うらわはリストアップしていたが、浦和うらわはホンダで決定的けっていてきだったためあきらめていた[出典しゅってん 63]わたりにふねのこのはなしに、こののちきゅうピッチに浦和うらわレッドダイヤモンズ創設そうせつJリーグりが決定けっていした[出典しゅってん 64]。その仕事しごと山積やまづみ、会社かいしゃとの調整ちょうせい作業さぎょう、および1991ねんあきからJリーグ専務せんむ理事りじあに健兒けんじ主宰しゅさいした「プロリーグ設立せつりつ準備じゅんびしつ」の選手せんしゅ委員いいんかい選手せんしゅ委員いいんかい専門せんもん部会ぶかい合同ごうどう委員いいんかい参加さんかするなどこなにした[出典しゅってん 65]三菱みつびしが1週間しゅうかんでも決定けっていまよっていたら、直後ちょくごフジタ工業こうぎょう湘南しょうなんベルマーレ)が浦和うらわホームへの名乗なのりをげた背景はいけいもあり[5]浦和うらわレッズの誕生たんじょうもなかったといわれる[5]。さらにスポンサーあつめから、スタジアム改修かいしゅうの16おくえん以上いじょう費用ひよう自治体じちたい政治せいじ[5]ひる説明せつめいまわり、よるはそのひとたちと毎日まいにち会食かいしょく[出典しゅってん 66]。プロのクラブとはなにか、だれ想像そうぞうがつかない時代じだい、みんなに応援おうえんされるかたちもと奔走ほんそうした[38]会社かいしゃ支援しえん母体ぼたいつくろうと1991ねんにオフィシャルサポーターズクラブを組織そしき[38]1992ねんのクラブすうは615だったが、よく1993ねんには5178にえた。その認定にんていしょいちまいいちまいもり丁寧ていねいにサインをしていたという[38]。ホーム浦和うらわ正式せいしきまり、こしえて準備じゅんびはじめるころには、もう1992ねんのナビスコカップはじまってしまう時期じきだった[5]もりはチームが東京とうきょう田町たまちからうつるはるかまえに、自宅じたく浦和うらわひとしもり人柄ひとがらさから出世しゅっせ街道かいどうあゆんでいた藤口ふじぐち光紀みつのり(のち浦和うらわレッズ社長しゃちょう)をはじめ、おおくの人物じんぶつがレッズ発足ほっそく参加さんかした[11]もりみずか先頭せんとうって、Jリーグの理念りねんである地元じもと密着みっちゃくしたクラブ、チームづくりに心血しんけつそそいだ[78]清水しみず泰男やすおは「もりちんがいなかったらいまのレッズはなかったとおもいます」とはなしており[出典しゅってん 67]、「いまのレッズはもりさんなくしてはありなかった」とむかし関係かんけいしゃだれもがかたっている[出典しゅってん 68]

1992ねんからレッズの初代しょだい監督かんとく就任しゅうにん[出典しゅってん 69]観客かんきゃくよろこばそうと[38]当時とうじクライフ監督かんとくひきいるFCバルセロナ採用さいようしていた3-4-3のちょう攻撃こうげきてきフォーメーションいど[85]、1992ねん天皇てんのうはい準決勝じゅんけっしょうまで進出しんしゅつした。しかしよく1993ねんにJリーグの公式こうしきせん開幕かいまくすると、システムが相手あいて研究けんきゅうされくしたこと補強ほきょう失敗しっぱい故障こしょうしゃ続出ぞくしゅつでサントリーシリーズ、ニコスシリーズともに最下位さいかいとなり、監督かんとく辞任じにんした[21]。シーズン終了しゅうりょう総括そうかつでは「3ねんぶんけた」とかたった[出典しゅってん 70]

ただ、もりは、けてもあいされた監督かんとくというよりは、けがむほどあいされた監督かんとくであったと浦和うらわフットボール通信つうしんひょう[5]、「もりさんのためならさけぶことができる」と浦和うらわレッズのサポーターがコメントしていたと日刊にっかんスポーツなどがほうじている[出典しゅってん 71]三菱自動車みつびしじどうしゃサッカー時代じだいから、浦和うらわレッズの職員しょくいんとしてさまざまな部署ぶしょわたあるいた村瀬むらせ佳代かよは「ボロけした試合しあいのあとに、サポーターがあつまっているおみせあしはこ監督かんとくなんていないじゃないですか(笑)。でも、もり監督かんとくは『こういうときこそくんだ』と。わたしなんかご一緒いっしょしたんですけど、サポーターのほうが『レッズは本当ほんとうにダメだよなぁ』とってんでいるところへ、もりさんは『ワシもはなしれてくれ』とはいっていくんですよ。当然とうぜん、サポーターもおどろきますよね。でもだんだん『ぼく監督かんとくじゃないけれど、こういう現状げんじょうがあるから、こうすればもっとてるようになるとおもう』と一生懸命いっしょうけんめいはなしてくれるわけです。そんなはなしもりさんはすごく丁寧ていねいいている。そして最後さいごには『つぎつぞ!』って、サポーターとひとつになってしまう。わたし記憶きおくでは、もりさんはサポーターからブーイングけることもなかったし、バスがかこまれることもなかった。あんなによわかったのに」などと証言しょうげんしている[76]けるほどにサポーターとのきずなつよまる不思議ふしぎ結果けっかは、もり人柄ひとがらこした現象げんしょうであった[38]じょうあつさがひときつけ、その美質びしつ浦和うらわレッズ発足ほっそく前後ぜんこうにも遺憾いかんなく発揮はっきされた[27]日刊にっかんスポーツや浦和うらわフットボール通信つうしんなどは、もりについてレッズ初代しょだい監督かんとくとしては成功せいこうしたとはがたいが、あたたかい人間味にんげんみがファンを魅了みりょうし、熱狂ねっきょうてきサポーターそだてたとほうじている[出典しゅってん 72]。ぶぎん地域ちいき経済けいざい研究所けんきゅうじょ武蔵野銀行むさしのぎんこう)は、浦和うらわレッズが熱狂ねっきょうてきサポーターをやした原因げんいんについて、開幕かいまく初年度しょねんどつづけるレッズを「てない、とにかくてない」「いつつのか」などと、日本人にっぽんじん独特どくとく判官はんがんびいきによる気質きしつによってマスメディアが上位じょういのチーム以上いじょうげたから。「出来できわるほど可愛かわいい」という状況じょうきょうとなることでよりあいされるチームとなった。もし5や6や、「ありきたりの成績せいせき」であったなら、あまり注目ちゅうもくもされなかったであろう、ひとしろんじている[82]

その

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1993ねん10月28にちおこなわれた1994 FIFAワールドカップ・アジア予選よせん日本にっぽん×イラクドーハの悲劇ひげき)のテレビ東京てれびとうきょうスタジオ解説かいせつつと[88]1995ねんから1997ねん横浜よこはまマリノスゼネラルマネージャー[出典しゅってん 73]、1995ねんには横浜よこはまマリノスは年間ねんかんチャンピオンにかがやいた。1998ねんアビスパ福岡ふくおか監督かんとく[出典しゅってん 74]1999ねんから2001ねんはアビスパ福岡ふくおかのフロントをつとめた[出典しゅってん 75]。2001ねんシーズンちゅうに、塚本つかもと高志たかし浦和うらわレッズ代表だいひょうから要請ようせい[5]2002ねんから浦和うらわGM就任しゅうにん[出典しゅってん 76]

社長しゃちょう犬飼いぬかいはじめあきら強化きょうか本部ほんぶちょう転任てんにんした中村なかむら修三しゅうぞうともにチームを改革かいかく[出典しゅってん 77]、3ねん計画けいかくでのハンス・オフト監督かんとく招聘しょうへいしチームを強化きょうか[注釈ちゅうしゃく 7]基礎きそづくり2ねんのち2004ねんギド・ブッフバルト監督かんとくゲルト・エンゲルスヘッドコーチを招聘しょうへい大型おおがた補強ほきょう敢行かんこう浦和うらわ悲願ひがんのJリーグステージはつ優勝ゆうしょう2005ねんだい85かい天皇杯てんのうはい2006ねんだい86かい天皇杯てんのうはい連覇れんぱをもたらし[出典しゅってん 78]今日きょうにつながるレッズのいしずえきずいた[出典しゅってん 79]。オフトやブッフバルト、闘莉王トゥーリオさんぬしらの獲得かくとく岡野おかの雅行まさゆきのレッズ復帰ふっきは、もりGM=中村なかむら強化きょうか本部ほんぶちょうコンビでおこない、犬飼いぬかい社長しゃちょう最終さいしゅう決定けっていくだしたもの[89]。また在任ざいにんちゅうユース、ジュニアユース改革かいかく着手ちゃくしゅ教育きょういくではなくプロ育成いくせい下部かぶ組織そしきとしてさいスタートさせた[出典しゅってん 80]2006ねん1がつ31にちをもってGMを退任たいにん[出典しゅってん 81][注釈ちゅうしゃく 8]

2006ねんだい3かい日本にっぽんサッカー殿堂でんどう委員いいんかい投票とうひょうにより掲額けいがくされ殿堂でんどうりをたす[出典しゅってん 82]

2008ねんからは神奈川かながわけん横浜よこはま本拠地ほんきょちとするクラブチーム横浜よこはまGSフットボール・クラブ顧問こもん[96]2010ねん発足ほっそくした日本にっぽんサッカーめいかい名誉めいよ会長かいちょうつとめた[注釈ちゅうしゃく 9]

2011ねん7がつ17にち腎盂じんうがんのため、駒沢こまざわオリンピック公園こうえん隣接りんせつする国立こくりつ病院びょういん東京とうきょう医療いりょうセンター東京とうきょう目黒めぐろ)で死去しきょ[出典しゅってん 83]。67さいぼつしくもその2011 FIFA女子じょしワールドカップ(ドイツ)でサッカー日本にっぽん女子じょし代表だいひょう(なでしこジャパン)アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくくだして優勝ゆうしょうしたでもあった[99]

2011ねん7がつ23にち埼玉さいたまスタジアム2002、7がつ24にちから31にちまで駒場こまばスタジアム献花けんかだいもうけると、のべ2000にんのファンがメッセージ、タオルマフラー、大好だいすきだったおさけなどとともにはなそなえにおとずれた[出典しゅってん 84]現役げんえき時代じだい攻撃こうげき守備しゅびをつなぐ「リンクマン」とばれる中盤ちゅうばん名手めいしゅひとひととをあたたかくむすびつける、かたもリンクマンであった[38]

エピソード

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  • 大学だいがく卒業そつぎょうもりあにのいる三菱重工みつびしじゅうこうりをめ、早稲田大学わせだだいがく同級どうきゅうである釜本かまもと邦茂くにしげと、とも三菱重工みつびしじゅうこう入社にゅうしゃし「また二人ふたりでやろう」と約束やくそくしていた。ところが関西かんさい在住ざいじゅう早大そうだいOBの川本かわもと泰三たいぞう賀川かがわひろしが「釜本かまもと関西かんさいもどってやれよ」とのような催促さいそくけ、無理むりやりれてかれたヤンマーディーゼル山岡やまおか浩二こうじろうサッカー部長ぶちょう熱弁ねつべんで、催眠さいみんじゅつのように入社にゅうしゃ承諾しょうだくしてしまった。東京とうきょうもどもりいヤンマー入社にゅうしゃらせると、もりは「サッカーやるんだからいいさ。ともかく日本にっぽんサッカーのためにがんばろうぜ」とだけかえした。「いつもグラウンドでもまずひとのことをかんがえるいいやつもり変心へんしんとがめたり、詮索せんさくしたりはしなかった」と釜本かまもとかたっている[101]

個人こじん成績せいせき

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国内こくない大会たいかい個人こじん成績せいせき
年度ねんどクラブ背番号せばんごうリーグ リーグせん リーグはいオープンはい 期間きかん通算つうさん
出場しゅつじょう得点とくてん 出場しゅつじょう得点とくてん出場しゅつじょう得点とくてん 出場しゅつじょう得点とくてん
日本にっぽん リーグせん JSLはい 天皇杯てんのうはい 期間きかん通算つうさん
1967 三菱みつびし JSL 14 3 -
1968 14 3 -
1969 14 2 -
1970 14 6 -
1971 10 1 -
1972 JSL1 14 0 -
1973 18 1
1974 18 8 -
1975 12 4 -
1976 18 0
1977 0 0
通算つうさん 日本にっぽん JSL1 146 28
そう通算つうさん 146 28

代表だいひょうれき

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出場しゅつじょう大会たいかいなど

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試合しあいすう

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日本にっぽん代表だいひょう国際こくさいAマッチ その期間きかん通算つうさん
とし出場しゅつじょう得点とくてん 出場しゅつじょう得点とくてん出場しゅつじょう得点とくてん
1965 0 0 2 0 2 0
1966 4 0 3 1 7 1
1967 5 1 16 0 21 1
1968 4 0 17 1 21 1
1969 4 0 17 1 21 1
1970 13 0 10 1 23 1
1971 3 0 11 0 14 0
1972 8 0 7 3 15 3
1973 1 1 3 0 4 1
1974 1 0 3 0 4 0
1975 9 0 7 1 16 1
1976 4 0 0 0 4 0
通算つうさん 56 2 96 8 152 10

出場しゅつじょう

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No. 開催かいさい 開催かいさい都市とし スタジアム 対戦たいせん相手あいて 結果けっか 監督かんとく 大会たいかい
1. 1966ねん12月16にち タイ王国の旗バンコク  シンガポール ○5-1 長沼ながぬまけん アジア大会たいかい
2. 1966ねん12月17にち タイ王国の旗バンコク  タイ ○5-1 アジア大会たいかい
3. 1966ねん12月18にち タイ王国の旗バンコク  イラン ●0-1 アジア大会たいかい
4. 1966ねん12月19にち タイ王国の旗バンコク  シンガポール ○2-0 アジア大会たいかい
5. 1967ねん09がつ27にち 日本の旗東京とうきょう 国立こくりつ霞ヶ丘かすみがおか競技きょうぎじょう陸上りくじょう競技きょうぎじょう  フィリピン ○15-0 オリンピック予選よせん
6. 1967ねん09がつ30にち 日本の旗東京とうきょう 国立こくりつ霞ヶ丘かすみがおか競技きょうぎじょう陸上りくじょう競技きょうぎじょう  チャイニーズタイペイ ○4-0 オリンピック予選よせん
7. 1967ねん10がつ03にち 日本の旗東京とうきょう 国立こくりつ霞ヶ丘かすみがおか競技きょうぎじょう陸上りくじょう競技きょうぎじょう  レバノン ○3-1 オリンピック予選よせん
8. 1967ねん10がつ07にち 日本の旗東京とうきょう 国立こくりつ霞ヶ丘かすみがおか競技きょうぎじょう陸上りくじょう競技きょうぎじょう  韓国かんこく △3-3 オリンピック予選よせん
9. 1967ねん10がつ10日とおか 日本の旗東京とうきょう 国立こくりつ霞ヶ丘かすみがおか競技きょうぎじょう陸上りくじょう競技きょうぎじょう  みなみベトナム ○1-0 オリンピック予選よせん
10. 1968ねん03がつ30にち オーストラリアの旗シドニー  オーストラリア △2-2 国際こくさい親善しんぜん試合しあい
11. 1968ねん03がつ31にち オーストラリアの旗メルボルン  オーストラリア ●1-3 国際こくさい親善しんぜん試合しあい
12. 1968ねん04がつ04にち オーストラリアの旗アデレード  オーストラリア ○3-1 国際こくさい親善しんぜん試合しあい
13. 1968ねん10がつ14にち メキシコの旗プエブラ  ナイジェリア ○3-1 オリンピック
14. 1969ねん10がつ10日とおか 大韓民国の旗ソウル  オーストラリア ●1-3 ワールドカップ予選よせん
15. 1969ねん10がつ12にち 大韓民国の旗ソウル  韓国かんこく △2-2 ワールドカップ予選よせん
16. 1969ねん10がつ16にち 大韓民国の旗ソウル  オーストラリア △1-1 ワールドカップ予選よせん
17. 1969ねん10がつ18にち 大韓民国の旗ソウル  韓国かんこく ●0-2 ワールドカップ予選よせん
18. 1970ねん07がつ31にち マレーシアの旗クアラルンプール  香港ほんこん ●1-2 岡野おかの俊一郎しゅんいちろう ムルデカ大会たいかい
19. 1970ねん08がつ02にち マレーシアの旗クアラルンプール  韓国かんこく △1-1 ムルデカ大会たいかい
20. 1970ねん08がつ04にち マレーシアの旗クアラルンプール  タイ △0-0 ムルデカ大会たいかい
21. 1970ねん08がつ08にち マレーシアの旗クアラルンプール  インドネシア ○4-3 ムルデカ大会たいかい
22. 1970ねん08がつ10日とおか マレーシアの旗クアラルンプール  シンガポール ○4-0 ムルデカ大会たいかい
23. 1970ねん08がつ16にち マレーシアの旗クアラルンプール  チャイニーズタイペイ ○3-2 ムルデカ大会たいかい
24. 1970ねん12がつ10日とおか タイ王国の旗バンコク  マレーシア ○1-0 アジア大会たいかい
25. 1970ねん12月12にち タイ王国の旗バンコク  クメール ○1-0 アジア大会たいかい
26. 1970ねん12月14にち タイ王国の旗バンコク  ビルマ ○2-1 アジア大会たいかい
27. 1970ねん12月16にち タイ王国の旗バンコク  インドネシア ○2-1 アジア大会たいかい
28. 1970ねん12月17にち タイ王国の旗バンコク  インド ○1-0 アジア大会たいかい
29. 1970ねん12月18にち タイ王国の旗バンコク  韓国かんこく ●1-2(延長えんちょう) アジア大会たいかい
30. 1970ねん12月19にち タイ王国の旗バンコク  インド ●0-1 アジア大会たいかい
31. 1971ねん07がつ28にち デンマークの旗コペンハーゲン  デンマーク ●2-3 国際こくさい親善しんぜん試合しあい
32. 1971ねん08がつ13にち アイスランドの旗レイキャビク  アイスランド ○2-0 国際こくさい親善しんぜん試合しあい
33. 1971ねん10がつ02にち 大韓民国の旗ソウル  韓国かんこく ●1-2 オリンピック予選よせん
34. 1972ねん07がつ12にち マレーシアの旗クアラルンプール  クメール ○4-1 長沼ながぬまけん ムルデカ大会たいかい
35. 1972ねん07がつ16にち マレーシアの旗イポー  スリランカ ○5-0 ムルデカ大会たいかい
36. 1972ねん07がつ18にち マレーシアの旗クアラルンプール  フィリピン ○5-1 ムルデカ大会たいかい
37. 1972ねん07がつ22にち マレーシアの旗クアラルンプール  マレーシア ●1-3 ムルデカ大会たいかい
38. 1972ねん07がつ26にち マレーシアの旗クアラルンプール  韓国かんこく ●0-3 ムルデカ大会たいかい
39. 1972ねん08がつ04にち シンガポールの旗シンガポール  フィリピン ○4-1 ペスタスカン大会たいかい
40. 1972ねん08がつ06にち シンガポールの旗シンガポール  インドネシア ●0-1 ペスタスカン大会たいかい
41. 1972ねん09がつ14にち 日本の旗東京とうきょう 国立こくりつ霞ヶ丘かすみがおか競技きょうぎじょう陸上りくじょう競技きょうぎじょう  韓国かんこく △2-2 にちかん定期ていきせん
42. 1973ねん05がつ20日はつか 大韓民国の旗ソウル  みなみベトナム ○4-0 ワールドカップ予選よせん
43. 1974ねん09がつ28にち 日本の旗東京とうきょう 国立こくりつ霞ヶ丘かすみがおか競技きょうぎじょう陸上りくじょう競技きょうぎじょう  韓国かんこく ○4-1 にちかん定期ていきせん
44. 1975ねん06がつ14にち 香港の旗香港ほんこん  香港ほんこん △0-0(PK3-4) アジアカップ予選よせん
45. 1975ねん06がつ17にち 香港の旗香港ほんこん  北朝鮮きたちょうせん ●0-1 アジアカップ予選よせん
46. 1975ねん06がつ21にち 香港の旗香港ほんこん  シンガポール ○2-1 アジアカップ予選よせん
47. 1975ねん06がつ23にち 香港の旗香港ほんこん  中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく ●1-2 アジアカップ予選よせん
48. 1975ねん07がつ30にち マレーシアの旗クアラルンプール  香港ほんこん ●0-2 ムルデカ大会たいかい
49. 1975ねん08がつ02にち マレーシアの旗クアラルンプール  マレーシア ●0-2 ムルデカ大会たいかい
50. 1975ねん08がつ09にち マレーシアの旗クアラルンプール  韓国かんこく ●1-3 ムルデカ大会たいかい
51. 1975ねん08がつ11にち マレーシアの旗クアラルンプール  タイ ○4-0 ムルデカ大会たいかい
52. 1975ねん08がつ14にち マレーシアの旗クアラルンプール  ビルマ ○2-0 ムルデカ大会たいかい
53. 1976ねん03がつ14にち 日本の旗東京とうきょう 国立こくりつ霞ヶ丘かすみがおか競技きょうぎじょう陸上りくじょう競技きょうぎじょう  フィリピン ○3-0 オリンピック予選よせん
54. 1976ねん03がつ21にち 日本の旗東京とうきょう 国立こくりつ霞ヶ丘かすみがおか競技きょうぎじょう陸上りくじょう競技きょうぎじょう  韓国かんこく ●0-2 オリンピック予選よせん
55. 1976ねん03がつ27にち 大韓民国の旗ソウル  韓国かんこく △2-2 オリンピック予選よせん
56. 1976ねん03がつ31にち 大韓民国の旗ソウル  イスラエル ●0-3 オリンピック予選よせん

得点とくてんすう

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# 年月日ねんがっぴ 開催かいさい 対戦たいせんこく スコア 結果けっか 試合しあい概要がいよう
1 1967ねん10がつ3にち 日本にっぽん東京とうきょう レバノンの旗 レバノン 3-1 勝利しょうり メキシコ五輪ごりん予選よせん
2 1973ねん5がつ20日はつか 大韓民国だいかんみんこくソウル ベトナム共和国の旗 みなみベトナム 4-0 勝利しょうり 1974 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選よせん

監督かんとく成績せいせき

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年度ねんど 所属しょぞく クラブ リーグせん カップせん
順位じゅんい 試合しあい かちてん 勝利しょうり 引分ひきわけ 敗戦はいせん ナビスコはい 天皇杯てんのうはい
1992 J 浦和うらわ - 5 ベスト4
1993 10 36 - 8 - 28 予選よせんリーグ 2回戦かいせん
1998 福岡ふくおか 18 34 21 8 - 26 予選よせんリーグ 4回戦かいせん

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 留学りゅうがくちゅうにバイスバイラーがニューヨーク・コスモスへ。つぎがカールハインツ・ヘダゴット、さんにんリヌス・ミケルスいちねんあいだ監督かんとくが3にんわった[33]
  2. ^ 韓国かんこくは1984ねん7がつ31にち編成へんせいされた代表だいひょうチームから、監督かんとく100まんウォン、コーチ80まんウォン、選手せんしゅには50まんウォンの手当てあて毎月まいつき支給しきゅうされた(400ウォンが100えん時代じだい[49]
  3. ^ 対戦たいせん相手あいて代表だいひょうチームを原則げんそくとする不文ふぶんりつ出来上できあがったのは、1994ねん加茂かもあまね監督かんとく以降いこう[51]
  4. ^ 「そういうシステムにしていくしかない」と強化きょうか部会ぶかいなにかでしたら『東京とうきょうスポーツ』が"もり監督かんとく金銭きんせん要求ようきゅう"とだい見出みだしでいた[67]
  5. ^ もり自身じしん三菱重工みつびしじゅうこうからの出向しゅっこうで、当時とうじはこれが普通ふつうだったが、もりだい企業きぎょうのエリート社員しゃいんって「日本にっぽん代表だいひょう監督かんとく協会きょうかい専任せんにんにしてしい」と当時とうじとしてはかなり大胆だいたん要求ようきゅうをした(無償むしょうでは家族かぞくやしなえないため協会きょうかいとのプロ契約けいやく意味いみする)[出典しゅってん 50]。これにたいして長沼ながぬま専務せんむ理事りじは「日本にっぽん代表だいひょうチームの監督かんとく専任せんにんにするのは、日本にっぽん現状げんじょうでは無理むり。これは勝負しょうぶ世界せかいだから、その監督かんとくがいつまでもつづけることができるとはかぎらない。失敗しっぱいしたときには、めてもらわなくてはならない。めた監督かんとくを、つぎ協会きょうかい職員しょくいんとしてかかんでおくりきは、スポーツ団体だんたいにはない…だから日本にっぽん現状げんじょうでは、企業きぎょう勤務きんむしているひと出向しゅっこうしてもらって、できればその期間きかんだけは監督かんとく専念せんねんしてもらい、監督かんとくをやめたら、もとの仕事しごと復帰ふっきできるみちつくっておくのがいい」と回答かいとうした[69]
  6. ^ 実際じっさい辞任じにんしたわけではなく、続投ぞくとう打診だしんされ返事へんじってもらっていたら、いつのまにかめることになっていたともりはなしている[71]
  7. ^ もりとオフトは選手せんしゅ情報じょうほう提供ていきょうしたりしたなかだった[5]
  8. ^ 当時とうじ犬飼いぬかいはじめあきら社長しゃちょうにより、横山よこやま謙三けんぞう取締役とりしまりやく当時とうじ)ととも退任たいにんさせられたとされる[94]
  9. ^ 金田かねだみのり会長かいちょう就任しゅうにんもりたのみにったら、身体しんたいわるいのに「よっしゃ、やったろ」とけてくれたという[97]

出典しゅってん

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  1. ^ a b もり たかし慈”. サッカー日本にっぽん代表だいひょうデータベース. http://www.jfootball-db.com/players_ma/takaji_mori.html 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 掲額けいがくしゃ 森孝もりたか慈 MORI Takaji日本にっぽんサッカー殿堂でんどう
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 浦和うらわレッドダイヤモンズ公式こうしきサイト| 11.07.17 訃報ふほう
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出典しゅってん(リンク)

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参考さんこう文献ぶんけん・ウェブサイト

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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