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東洋工業とうようこうぎょうサッカー

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東洋工業とうようこうぎょうサッカー
原語げんご表記ひょうき マツダサッカークラブ
愛称あいしょう マツダSC
クラブカラー     あお   
創設そうせつねん 1938ねん
解散かいさん 1992ねんサンフレッチェ広島さんふれっちぇひろしまとして発展はってんてき解消かいしょう
ホームタウン 広島ひろしまけん
広島ひろしま/安芸あきぐん府中ふちゅうまち
ホームスタジアム 広島ひろしまスタジアム
ホームカラー
アウェイカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

東洋工業とうようこうぎょうサッカー(とうようこうぎょうサッカーぶ)は、かつて存在そんざいした日本にっぽんサッカークラブ。日本にっぽんプロサッカーリーグ加盟かめいするサンフレッチェ広島さんふれっちぇひろしまF.C前身ぜんしんとなったクラブである[1][2][3][4]

概要がいよう

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1938ねん東洋工業とうようこうぎょうげんマツダ)のサッカーとして創部そうぶ[1][2][4]1981ねんから「マツダサッカークラブ」と名称めいしょう変更へんこうした[2]日本にっぽんプロサッカーリーグ(Jリーグ)所属しょぞくサンフレッチェ広島さんふれっちぇひろしま前身ぜんしんとなったクラブである[1][2]本拠地ほんきょち広島ひろしまけん安芸あきぐん府中ふちゅうまち(マツダ本社ほんしゃ所在地しょざいち)。なお、現在げんざいマツダサッカークラブ(マツダSC)名前なまえ活動かつどうしているチームは、元々もともとこのクラブの2ぐんとして活動かつどうしていたチームである。

1949ねん実業じつぎょうだんチームとしてはじめて天皇杯てんのうはい全日本ぜんにほんサッカー選手権せんしゅけん大会たいかい出場しゅつじょう[1][2][5]1954ねんには実業じつぎょうだんとしてはじめて天皇杯てんのうはい決勝けっしょう進出しんしゅつ[1]1965ねんからはじまった日本にっぽんサッカーリーグ(JSL)には初年度しょねんどから参加さんか[2][4]、1960年代ねんだい全盛期ぜんせいき[2][5][6][7]よん連覇れんぱふく[1][8] JSL最多さいた優勝ゆうしょう5かい[1][2]天皇杯てんのうはいでは、後身こうしんのマツダSC/サンフレッチェ広島さんふれっちぇひろしまふくめ、2022ねんまでに歴代れきだい最多さいた71かいほん大会たいかい出場しゅつじょう回数かいすうほこ[5][6][9][10]通算つうさん最多さいたの127しょう[6][10]決勝けっしょう進出しんしゅつ歴代れきだい最多さいたの14かい[5][6][10] と、日本にっぽんサッカーのこ名門めいもんクラブのひとつ。

しょもと

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原爆投下前の市中心部。同心円の中心が爆心地。最下の広地が広島市役所でその右上の広地が広島一中(現在の国泰寺高)。1957年天皇杯はここで行われた。ちなみに戦後、爆心地のすぐ上付近に市民球場が建てられる。
原爆げんばく投下とうかまえ中心ちゅうしん同心円どうしんえん中心ちゅうしんばく心地ごこち最下さいか広地ひろち広島ひろしま市役所しやくしょでそのみぎじょう広地ひろち広島ひろしまいちちゅう現在げんざい国泰寺こくたいじだか)。1957ねん天皇杯てんのうはいはここでおこなわれた。ちなみに戦後せんごばく心地ごこちのすぐうえ付近ふきん市民しみん球場きゅうじょうてられる。
1988年の県営競技場[11]。左のラグビー場では行われていない。
1988ねん県営けんえい競技きょうぎじょう[11]ひだりラグビーじょうではおこなわれていない。
1988年のマツダ健保グラウンド[11]。
1988ねんのマツダ健保けんぽグラウンド[11]

略歴りゃくれき

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  • 1938ねん : 東洋工業とうようこうぎょう蹴球しゅうきゅうとして創部そうぶ
  • 1943ねん : 休部きゅうぶ
  • 1947ねん : 活動かつどう再開さいかい
  • 1949ねん : 実業じつぎょうだんチームとしてはじめて天皇杯てんのうはい全日本ぜんにほんサッカー選手権せんしゅけん大会たいかい出場しゅつじょう
  • 1954ねん : 実業じつぎょうだんチームとしてはつ天皇杯てんのうはい決勝けっしょう進出しんしゅつ
  • 1956ねん : 全日本ぜんにほん実業じつぎょうだんサッカー選手権せんしゅけん大会たいかいはつ優勝ゆうしょう
  • 1957ねん : 天皇杯てんのうはいじゅん優勝ゆうしょう
  • 1962ねん : 国民こくみん体育たいいく大会たいかい優勝ゆうしょう全国ぜんこく実業じつぎょうだん優勝ゆうしょう
  • 1965ねん : だい1かい日本にっぽんサッカーリーグ(JSL)に参加さんかはつ優勝ゆうしょう天皇杯てんのうはいはつ優勝ゆうしょう
  • 1966ねん : JSL優勝ゆうしょう天皇杯てんのうはいじゅん優勝ゆうしょう
  • 1967ねん : JSL優勝ゆうしょう天皇杯てんのうはい優勝ゆうしょう
  • 1968ねん : JSL優勝ゆうしょう・4連覇れんぱ(JSL最高さいこう記録きろく連続れんぞく優勝ゆうしょう回数かいすう
  • 1969ねん : 天皇杯てんのうはい優勝ゆうしょう、アジアクラブ選手権せんしゅけんげんAFCチャンピオンズリーグ)に日本にっぽんぜいとしてはつ出場しゅつじょうし3[2]
  • 1970ねん : JSLで5度目どめ優勝ゆうしょう(JSL最高さいこう優勝ゆうしょう回数かいすう記録きろく)、天皇杯てんのうはいじゅん優勝ゆうしょう
  • 1971ねん : 東洋工業とうようこうぎょうサッカー名称めいしょう変更へんこう
  • 1978ねん : 天皇杯てんのうはいじゅん優勝ゆうしょう
  • 1981ねん : マツダスポーツクラブ東洋工業とうようこうぎょうサッカー名称めいしょう変更へんこう
  • 1983ねん : JSL2降格こうかく
  • 1984ねん : マツダスポーツクラブサッカー名称めいしょう変更へんこう
  • 1985ねん : JSL1昇格しょうかく
  • 1986ねん : マツダサッカークラブに名称めいしょう変更へんこう
  • 1987ねん : 天皇杯てんのうはいじゅん優勝ゆうしょう
  • 1988ねん : JSL2降格こうかく
  • 1991ねん : JSL1昇格しょうかく

ホームスタジアム

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創部そうぶからJSL初期しょきごろまでは広島ひろしまうち高校こうこうグラウンドを使つかうことがおおかった。おも使用しようしていたのは交通こうつう便びんのよさからちゅう国泰寺こくたいじまち広島ひろしま県立けんりつ広島ひろしま国泰寺こくたいじ高等こうとう学校がっこうグラウンド。また1965ねんJSL最終さいしゅうぶし優勝ゆうしょうめた試合しあいは、みなみみどり広島大学ひろしまだいがく附属ふぞく高等こうとう学校がっこうグラウンドでおこなわれた。1966ねんJSL2ねん開幕かいまくせん広島ひろしま皆実みなみ高校こうこうグラウンドだった[12]

1960年代ねんだい海外かいがいクラブとの試合しあいJSL東西とうざい対抗たいこうせんちゅうもとまち広島ひろしま市民しみん球場きゅうじょうきゅう市民しみん球場きゅうじょう)でおこなったことがある[13]

1970年代ねんだい以降いこう西にし観音かんのん県営けんえい競技きょうぎじょうがホームスタジアムとなった。それにくわえて1980年代ねんだいには、くれ当時とうじマツダ福利ふくり厚生こうせい施設しせつであったマツダ健保けんぽグラウンド(げんくれ総合そうごうスポーツセンター)をもちいていたこともある。

ユニフォームカラー

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初期しょきしろこん、1970年代ねんだいあかベースのくろ縦縞たてじま、1980年代ねんだいはカンパニーカラーとおなあお

ちなみに、こんからあかへの変更へんこう東洋工業とうようこうぎょう関連かんれんチームである広島東洋ひろしまとうようカープおな移行いこうである。あお配色はいしょく現在げんざいマツダのシンボルチームであるマツダブルーズーマーズマツダ陸上りくじょう競技きょうぎでも採用さいようされていたが、陸上りくじょう競技きょうぎ2015ねんあかしろ配色はいしょく変更へんこうされた。後身こうしんサンフレッチェ広島さんふれっちぇひろしまでも当初とうしょはチームカラーをあおにするはなしもあった(詳細しょうさいサンフレッチェ広島さんふれっちぇひろしまF.C#チームめいおよびチームカラー参照さんしょう)。

歴史れきし

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1945年米軍作成の広島市地図。 東洋工業本社工場は最も右側の河川(猿猴川)河口部(Tōyō AirCraft Industry 表記)。赤波線"Bombed Area , Completely Destroyed"(全壊域)の外にあることから本社自体は被爆により被害はなかったと分かる。 ちなみに広大付属高は地図中央右下"Hiroshima College"表記、県営競技場は地図左下の縦長の土地(後の広島西飛行場)すぐ右上"ATHLATIC PARK"表記。
1945ねんべいぐん作成さくせい広島ひろしま地図ちず
東洋工業とうようこうぎょう本社ほんしゃ工場こうじょうもっと右側みぎがわ河川かせん猿猴えんこうかわ河口かこう(Tōyō AirCraft Industry 表記ひょうき)。あか波線はせん"Bombed Area , Completely Destroyed"(全壊ぜんかいいき)のそとにあることから本社ほんしゃ自体じたい被爆ひばくにより被害ひがいはなかったとかる。
ちなみに広大こうだい付属ふぞくだか地図ちず中央ちゅうおうみぎ"Hiroshima College"表記ひょうき県営けんえい競技きょうぎじょう地図ちず左下ひだりした縦長たてなが土地とち広島ひろしま西にし飛行場ひこうじょう)すぐ右上みぎうえ"ATHLATIC PARK"表記ひょうき

創設そうせつ

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戦前せんぜん広島ひろしま兵庫ひょうご東京とうきょうともに「サッカー御三家ごさんけ[ちゅう 1]ばれ[1][16]日本にっぽんサッカーの先進地せんしんちであった[1][17][18][19]。この環境かんきょうなかそだった山崎やまざき芳樹よしき1938ねん昭和しょうわ13ねん)に東洋工業とうようこうぎょうげんマツダ)へ入社にゅうしゃし、同好どうこうかい形式けいしき創部そうぶしたのが「東洋工業とうようこうぎょう蹴球しゅうきゅう」である[1][3][20]。しかしこの時代じだい、この地域ちいきのサッカーチームとしては海軍かいぐん工廠こうしょう圧倒的あっとうてきつよく、東洋工業とうようこうぎょう全国ぜんこく大会たいかいには1出場しゅつじょう出来できなかった[21]。この時期じきのタイトルとして、1941ねん昭和しょうわ16ねんだい8かい中国ちゅうごく実業じつぎょうだん蹴球しゅうきゅう大会たいかい決勝けっしょうたい広島ひろしま電気でんきげん中国電力ちゅうごくでんりょくせんにおいて4-0で勝利しょうり優勝ゆうしょうしたものがある[22]

1943ねん昭和しょうわ18ねん)、太平洋戦争たいへいようせんそう戦況せんきょうきびしくなったため休部きゅうぶする。1945ねん昭和しょうわ20ねん8がつ6にち広島ひろしまへの原子げんしばくだん投下とうかにより市内しない甚大じんだい被害ひがいけ、社員しゃいん被爆ひばくしている。なお、このクラブに所属しょぞくした選手せんしゅ徴兵ちょうへいおよび被爆ひばくじょうきょうなど戦中せんちゅう選手せんしゅ状況じょうきょう不明ふめいであるが、のち東洋工業とうようこうぎょう入団にゅうだんした選手せんしゅには被爆ひばくしゃ存在そんざいする。

戦後せんご復興ふっこう最中さいちゅう蹴球しゅうきゅう1947ねん昭和しょうわ22ねん)に再開さいかいする。以降いこうぜにむら健次けんじ小畑おばたみのる地元じもと出身しゅっしん有力ゆうりょく選手せんしゅ入団にゅうだん相次あいつぎ、当時とうじ主要しゅようタイトルである全日本ぜんにほん選手権せんしゅけん天皇杯てんのうはい前身ぜんしん)・全日本ぜんにほん実業じつぎょうだん国体こくたいつね優勝ゆうしょうあらそいをひろげる実業じつぎょうだん強豪きょうごうチームをつくげた。

1949ねん昭和しょうわ24ねん)、だい29かい全日本ぜんにほんサッカー選手権せんしゅけん大会たいかいにて実業じつぎょうだんチームとしてはつ出場しゅつじょう[2][ちゅう 2]たした(準決勝じゅんけっしょう敗退はいたい(1-7たい東大とうだいLB))。

1950年代ねんだい

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中川なかがわ達郎たつお
堀田ほった茂美しげみ
浜井はまい幸隆ゆきたか
黒木くろきいさお
小川おがわ輔治
1954ねん天皇杯てんのうはい決勝けっしょうメンバー。ピラミッド(2-3-2-3)システム[23]
画像がぞう外部がいぶリンク
ぜにむら軌跡きせき 野球やきゅうきた日系にっけい米国べいこくじん <1> 広島ひろしまおも - このなかに1950年代ねんだい主将しゅしょうつとめたぜにむら健次けんじ写真しゃしんがある。

1951ねん昭和しょうわ26ねん)、蹴球しゅうきゅう実業じつぎょうだんサッカーのトップクラスとなり会社かいしゃ看板かんばんとなったことから、山崎やまざき監督かんとく退しりぞ部長ぶちょうけんそう監督かんとく就任しゅうにんし、小畑おばた選手せんしゅ兼任けんにん監督かんとくとなった。小畑おばた自身じしん母校ぼこうである慶応大けいおうだいのサッカースタイルである、「素早すばやいパスサッカー」を東洋工業とうようこうぎょう導入どうにゅうした[24]

1954ねん昭和しょうわ29ねん)、だい34かい天皇杯てんのうはいにて実業じつぎょうだんとしてはじめて決勝けっしょう進出しんしゅつじゅん優勝ゆうしょう[2](3-5たい慶大けいだいBRB)。この決勝けっしょうPKせんのない時代じだい[3]だい4延長えんちょう3あいだにもおよ死闘しとうとなり、ぜにむら疲労ひろうのため意識いしき不明ふめいとなりたおれ、試合しあい満足まんぞくあるける選手せんしゅがいない状況じょうきょうにまでなるほど、日本にっぽんサッカーのこめい勝負しょうぶとなった[2][3][23][25][26]。この試合しあいける東洋工業とうようこうぎょう敢闘かんとうがその実業じつぎょうだんチーム台頭たいとう嚆矢こうしとなったもので、その意味いみでのエポックメーキングな試合しあいであった[27]。また当時とうじ東洋工業とうようこうぎょうは「バタンコ」とばれたさんりんトラック主力しゅりょくで、会社かいしゃめい浸透しんとうしておらず、この試合しあい東洋とうよう社名しゃめいたかめたといわれる[3]。これ以降いこう実業じつぎょうだん強化きょうかつとめ、天皇杯てんのうはい台頭たいとうはじめた。

1955ねん昭和しょうわ30ねん)、全日本ぜんにほん実業じつぎょうだんでまたもじゅん優勝ゆうしょう(0-2たい田辺製薬たなべせいやく)。1956ねん昭和しょうわ31ねん)、田辺製薬たなべせいやくの7連覇れんぱはばみついに全日本ぜんにほん実業じつぎょうだん優勝ゆうしょうしてはつ全国ぜんこくタイトルを獲得かくとくした(4-0)。1957ねん昭和しょうわ32ねん)もだい37かい天皇杯てんのうはい決勝けっしょう進出しんしゅつ広島ひろしま国泰寺こくたいじ高校こうこう決勝けっしょうせんおこなわれたがじゅん優勝ゆうしょう(1-2たい中大ちゅうだいクラブ)にわる。

大学だいがくリーグでの優秀ゆうしゅう選手せんしゅ中心ちゅうしんえらばれていたこの時代じだい全日本ぜんにほん(現在げんざいサッカー日本にっぽん代表だいひょう)において、上記じょうき活躍かつやくから東洋工業とうようこうぎょう選手せんしゅ選出せんしゅつされはじめ、1956ねんメルボルンオリンピック代表だいひょうには小沢おざわとおるひろし下村しもむら幸男ゆきお2人ふたりえらばれた。

このころになると地元じもとからたのまれて市内しない小中しょうちゅう高校こうこう指導しどうかけるようになる[2]。このとき指導しどうされた選手せんしゅが1960年代ねんだい後半こうはん黄金おうごんささえることとなる[2][ちゅう 3][21]

1960年代ねんだい

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1965ねんJSL初年度しょねんどメンバー。登録とうろくじょう4-2-4だが実際じっさい桑田くわたHBちか4-3-3[29]
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丹羽にわ洋介ようすけのインタビュー。1960年代ねんだい後半こうはん写真しゃしんがある。
16 日本にっぽんリーグ元年がんねん ~「広島ひろしまたましいふるいたせ 圧倒的あっとうてきつよさで覇者はしゃに~
17 リーグ4連覇れんぱ ~広島ひろしま選手せんしゅあつまる 王者おうじゃ褒美ほうび海外かいがいへ~
18 天皇杯てんのうはい優勝ゆうしょう ~3度目どめ賜杯しはい主将しゅしょうで 選手せんしゅとして有終ゆうしゅう

1962ねん昭和しょうわ37ねん)、国体こくたいはつ優勝ゆうしょうかざり(延長えんちょう2-1たいぜん大阪おおさか)、全日本ぜんにほん実業じつぎょうだん古河電工ふるかわでんこう(げん:ジェフユナイテッド市原いちはら千葉ちば)とりょうチーム優勝ゆうしょう。この活躍かつやくから同年どうねん小沢おざわ日本にっぽん年間ねんかん最優秀さいゆうしゅう選手せんしゅしょう受賞じゅしょうした。

1965ねん昭和しょうわ40ねん)からはじまった日本にっぽんサッカーリーグ(JSL)にスタートから8チームのひとつとして参加さんか小畑おばたそう監督かんとく(いわゆるゼネラルマネージャー)、下村しもむら監督かんとく登録とうろくメンバー25にんちゅう21にん広島ひろしまけん出身しゅっしんしゃかためられていた[8][17][ちゅう 4]きびしいトレーニングの結果けっか抜群ばつぐんのコンビネーションを縦横無尽じゅうおうむじんのパスワークで攻撃こうげきてきサッカーを展開てんかいとく攻守こうしゅえのはやさはチームとくらべ、ぐんいていた[ちゅう 5]

この1965ねん昭和しょうわ40ねん)から1970ねん昭和しょうわ45ねん)がこのクラブの黄金おうごんである。JSLだい1かい大会たいかいを12しょう2け0はい無敗むはい優勝ゆうしょうだい1かい大会たいかいだい14せつたいヤンマーたたかえげん:セレッソ大阪せれっそおおさか)で記録きろくした11-0(桑田くわた:5・小城おぎ:4・松本まつもと:2)は、最多さいた得点とくてんおよ最多さいた得失点とくしってん11てんのJSL最高さいこう記録きろくだい2かい大会たいかいまで23連勝れんしょう記録きろくするなど[2]だい4かい大会たいかいまで不滅ふめつのリーグ4連覇れんぱ金字塔きんじとう樹立じゅりつ[1]だい6かい大会たいかい制覇せいはしたことによりJSL27かい歴史れきし最多さいたの5かい優勝ゆうしょうかざった[17]さら天皇てんのうはいでは、だい45かい大会たいかいはつ優勝ゆうしょうすると、6ねん決勝けっしょうに5進出しんしゅつし3優勝ゆうしょうかざった[ちゅう 6]。また国際こくさい舞台ぶたいでは、アジアクラブ選手権せんしゅけん1969日本にっぽんぜいとしてはつ出場しゅつじょうし3入賞にゅうしょうたした[2]

このときのメンバーのおおくは全日本ぜんにほん選出せんしゅつされ[31]、1968ねんメキシコオリンピックにも小城おぎとくたち桑原くわばららく松本まつもと育夫いくおの3にん代表だいひょう選手せんしゅおく日本にっぽんどうメダル獲得かくとくおおきく貢献こうけんした。

なお1950年代ねんだいから1960年代ねんだいにかけては"広島ひろしまサッカーの時代じだい"とってもよく[2][32]おおくの広島ひろしま出身しゅっしんしゃが、関西かんさい関東かんとうのサッカー強豪きょうごう大学だいがく全国ぜんこく実業じつぎょうだんすすみチームの中核ちゅうかくとなった[1][33]。1960年代ねんだい日本にっぽん蹴球しゅうきゅう協会きょうかい会長かいちょう野津のつけんおよび全日本ぜんにほん監督かんとく長沼ながぬまけん2人ふたりとも広島ひろしま出身しゅっしん[31]全日本ぜんにほんには東京とうきょう五輪ごりんメキシコ五輪ごりんといずれも最多さいたの5にん選手せんしゅおく[1][34]日本にっぽん代表だいひょうは「広島ひろしまべん共通きょうつう」とまでわれ[2][8][35]デットマール・クラマー広島ひろしまべん怒鳴どなったといわれる[36]さらに1965ねんJSLスタートの8チームちゅう4チームの監督かんとく広島ひろしま出身しゅっしん東洋とうよう下村しもむら八幡やはた寺西てらにしただしなり・ヤンマー古川ふるかわのうあきら三菱みつびし岡野おかの良定よしさだ[1][2]たとえば1968ねんのJSL登録とうろく選手せんしゅも2埼玉さいたまけん出身しゅっしん(22にん)をえる43にんもの広島ひろしまけん出身しゅっしん選手せんしゅ[2]、そのなか東洋工業とうようこうぎょう蹴球しゅうきゅう広島ひろしまサッカーの象徴しょうちょうてき存在そんざいであった[37]

この時代じだい東洋工業とうようこうぎょうめようと、チームのほとんどがスウィーパーくようになり、そこから1970年代ねんだいJSLはスウィーパーシステム流行りゅうこうへとかった[38][39]

1970年代ねんだい

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1978ねん天皇杯てんのうはい決勝けっしょうメンバー、括弧かっこ途中とちゅう交代こうたい出場しゅつじょう選手せんしゅ4-3-3スイーパーシステム。47News天皇杯てんのうはい特集とくしゅう参考さんこう

しかし1970年代ねんだいはいると、環境かんきょうめん整備せいびしたチームの台頭たいとうにより成績せいせき徐々じょじょ低下ていかしていった[1]。またJSL初期しょき抜群ばつぐんのコンビネーションをほこりリーグ随一ずいいち攻撃こうげきりょくだったFWじんが1970ねん前後ぜんこう相次あいついで退団たいだん引退いんたいしたことや、世界せかいてき戦術せんじゅつ流行りゅうこうながれに沿って、3トップから2トップに戦術せんじゅつ変更へんこうするものの、得点とくてんりょくびなかった。

1973ねん昭和しょうわ48ねんオイルショック発生はっせい親会社おやがいしゃである東洋工業とうようこうぎょう経営けいえい状態じょうたい悪化あっか[ちゅう 7]、サッカー運営うんえいにも影響えいきょうおよび、すう年間ねんかん新人しんじんまった採用さいよう出来できなかった。このオイルショックは東洋工業とうようこうぎょうのみならず広島ひろしま経済けいざいかいだい打撃だげきあたえ、広島ひろしまサッカーかいにも影響えいきょうおよぼしこれ以降いこう低迷ていめいつづけていく[1][40]

1977ねん昭和しょうわ52ねん)、黄金おうごん中心ちゅうしん選手せんしゅだった小城おぎ監督かんとく就任しゅうにん古田ふるたあつしりょう渡辺わたなべ由一ゆいち安原やすはら真一しんいちらの活躍かつやくで、同年どうねんのリーグせんでは一時いちじ優勝ゆうしょうあらそいにくわわるものの最終さいしゅうてきにリーグせん4よく1978ねん昭和しょうわ53ねんだい58かい天皇杯てんのうはいじゅん優勝ゆうしょう(0-1たい三菱重工みつびしじゅうこうげん:浦和うらわレッドダイヤモンズ))など一時いちじてきなおしに成功せいこうした。

しかし大卒だいそつそく戦力せんりょく選手せんしゅ獲得かくとくには、地方ちほうである広島ひろしまということや東洋工業とうようこうぎょう経営けいえい不振ふしんから後手ごてまわ[ちゅう 8]世代せだい交代こうたいすすまず、またどう時期じきはつ外国がいこくじん選手せんしゅである宗像むねかたマルコスのぞむ加入かにゅうさせたもののチームに馴染なじめなかったこともあり、これ以降いこう外国がいこくじん選手せんしゅ補強ほきょう消極しょうきょくてき姿勢しせいつづけたため、チームの強化きょうかおもうようにすすまなかった。

これらの要因よういんにより、1980年代ねんだいはいるとチームの弱体じゃくたい深刻しんこく[1][ちゅう 9]なものになる。

1980年代ねんだい

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1987ねん天皇杯てんのうはい決勝けっしょうメンバー、括弧かっこ途中とちゅう交代こうたい出場しゅつじょう選手せんしゅ。4-4-2システム。47News天皇杯てんのうはい特集とくしゅう参考さんこう

1981ねん昭和しょうわ56ねん)、マツダスポーツクラブ(マツダSC)に名称めいしょう変更へんこう同年どうねん黄金おうごん選手せんしゅ一人ひとりであった二村にむら昭雄あきお監督かんとく就任しゅうにんするが低迷ていめい阻止そしすること出来できず、よく1983ねん昭和しょうわ57ねんいち度目どめのJSL2降格こうかくをすることになった。

そこで1984ねん昭和しょうわ58ねん)、今西いまにし和男かずお監督かんとく就任しゅうにんし、古豪こごう復活ふっかつさせるべく改革かいかくす。それまで日本人にっぽんじん選手せんしゅ日系にっけいじん選手せんしゅのみで構成こうせいされた純血じゅんけつ主義しゅぎ伝統でんとうやぶり、オランダからハンス・オフトをコーチに、ディド・ハーフナーGKコーチ(選手せんしゅ兼任けんにん)に招聘しょうへい[2]、オフトが実質じっしつてき監督かんとくとして現場げんば全権ぜんけん掌握しょうあくし、今西いまにし名目めいもくじょう監督かんとくであるが実際じっさいはゼネラルマネージャー業務ぎょうむおこなうことになった[43][44]。オフトは伝統でんとうあるチームの再建さいけん興味きょうみちオファーをけたが、チーム状況じょうきょう最悪さいあくであった[43]選手せんしゅたちには技術ぎじゅつ体力たいりょく以前いぜんメンタル問題もんだいがあるとし、意識いしき改革かいかくうながことからはじめた[43]。そして2ねんから「シンキング・フットボール」を合言葉あいことば戦術せんじゅつてき役割やくわりことこまかく教育きょういくはじめた[43]

また、大卒だいそつそく戦力せんりょく選手せんしゅ獲得かくとくおもうようにらなかった[ちゅう 10]過去かこ経験けいけんから、2ぐんであるマツダSC東洋とうよう強化きょうかし、高卒こうそつ選手せんしゅ育成いくせいつとめた[ちゅう 11]

オフトのした組織そしきてき訓練くんれんされたチームは1985ねん昭和しょうわ60ねんJSL1昇格しょうかくどう年度ねんど天皇杯てんのうはいベスト4進出しんしゅつ1986ねん昭和しょうわ61ねん)、マツダサッカークラブに名称めいしょう変更へんこう昇格しょうかく初年度しょねんどのJSL1で7健闘けんとう1987ねん昭和しょうわ62ねん)オフトが正式せいしき監督かんとくとなり、しんじふじ克義かつよししんじふじ健仁けんじ)・さるさわしげる高橋たかはし真一郎しんいちろう地元じもと選手せんしゅ奮闘ふんとうもあり、どう年度ねんど天皇杯てんのうはいじゅん優勝ゆうしょう(0-2読売よみうりクラブげん:東京とうきょうヴェルディ)するが、どう年度ねんどのJSLでは不振ふしんつづ度目どめの2降格こうかくとなった。この責任せきにんりオフトは辞任じにんした[44]

1988ねん昭和しょうわ63ねん)、今西いまにしビル・フォルケスをコーチとして招聘しょうへいし、オフトの役割やくわりだった実質じっしつてき監督かんとくとしていた[45]。フォルケスは母国ぼこく戦術せんじゅつふる戦術せんじゅつでもあるキック・アンド・ラッシュ戦術せんじゅつもちいたが、オフト時代じだいのアプローチとわったこともあり一部いちぶ選手せんしゅには不評ふひょうだった[45]1989ねん平成へいせい元年がんねん)、当時とうじ2. ブンデスリーガでプレーしていたもと日本にっぽん代表だいひょう風間かざまはちひろし獲得かくとくする。マツダSC東洋とうよう育成いくせいした選手せんしゅたち成長せいちょうもあって1991ねん平成へいせい3ねん)にJSL1復帰ふっき日本にっぽんリーグ最後さいごとしとなった1991-92シーズンフジタ(げん:湘南しょうなんベルマーレ)から移籍いせき加入かにゅうした高木たかぎ琢也たくや活躍かつやくもあり、6面目めんぼくたもった。

その

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1992ねん日本にっぽんプロサッカーリーグ(Jリーグ)創設そうせつともない、このチームを母体ぼたいとしてサンフレッチェ広島さんふれっちぇひろしま誕生たんじょうする[1][2][31]。これにともない、2ぐん(サテライト)あつかいだったマツダSC東洋とうよう新生しんせいマツダSC」として中国ちゅうごく社会しゃかいじんサッカーリーグ登録とうろく[46]、サンフレッチェとプロ契約けいやくできなかった選手せんしゅなどがどうチームに所属しょぞくした。

OBのおおくは現在げんざいもサッカー指導しどうしゃゼネラルマネージャー・アドバイザーとうとして日本にっぽんサッカーかい貢献こうけんしている[47]

また2012ねんのJ1ではサンフレッチェが優勝ゆうしょうしたことにより東洋工業とうようこうぎょう最後さいごにJSLで優勝ゆうしょうした1970ねんから42ねんぶりのトップカテゴリでのリーグ優勝ゆうしょう、さらに2013ねんのJ1では1968ねん以来いらい45ねんぶりに連覇れんぱ達成たっせいした。

大会たいかい成績せいせき

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天皇杯てんのうはい

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とし 所属しょぞく 順位じゅんい かちてん かち ぶん まけ 得点とくてん 失点しってん JSLカップ 監督かんとく
1965 JSL 優勝ゆうしょう 26 12 2 0 44 9 - 下村しもむら幸男ゆきお
1966 優勝ゆうしょう 25 12 1 1 43 6
1967 優勝ゆうしょう 22 10 2 2 37 16
1968 優勝ゆうしょう 21 10 1 3 31 11
1969 2 21 10 1 3 31 10
1970 優勝ゆうしょう 23 11 1 2 33 5
1971 6 10 3 4 7 11 17 大橋おおはし謙三けんぞう
1972 JSL1 3 16 7 2 5 20 13
1973 8 14 4 6 8 16 28 予選よせん敗退はいたい
1974 6 18 6 6 6 20 25 -
1975 8 12 4 4 10 20 29
1976 8 15 5 5 8 16 20 ベスト16 松本まつもと育夫いくお
1977 4 42 9 2PKかち 2PKはい 5 38 20 GL敗退はいたい 小城おぎとくたち
1978 6 34 7 3PKかち 0PKはい 8 23 34 GL敗退はいたい
1979 6 33 5 4PKかち 5PKはい 4 20 19 ベスト16
1980 7 15 6 3 9 22 26 ベスト16
1981 8 13 4 5 9 15 27 2回戦かいせん敗退はいたい 二村にむら昭雄あきお
1982 8 14 5 4 9 14 24 2回戦かいせん敗退はいたい
1983 10 12 5 2 11 15 31 2回戦かいせん敗退はいたい
1984 JSL2 6 18 7 4 7 24 20 ベスト16 今西いまにし和男かずお
1985 JSL2西にし _ 12 5 2 3 14 10 1回戦かいせん敗退はいたい
JSL2上位じょうい 2 11 3 5 2 13 10
1986-87 JSL1 7 23 6 11 5 17 17 1回戦かいせん敗退はいたい
1987-88 11 13 2 9 11 8 18 2回戦かいせん敗退はいたい ハンス・オフト
1988-89 JSL2西にし _ 22 9 4 1 24 6 ベスト16 今西いまにし和男かずお
(1991-1992はそう監督かんとく
JSL2上位じょうい 5 14 5 4 5 16 9
1989-90 JSL2 3 67 20 7 3 62 20 2回戦かいせん敗退はいたい
1990-91 2 74 24 2 4 76 17 ベスト16
1991-92 JSL1 6 27 7 6 9 30 23 ベスト4

国際こくさい試合しあい

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開催かいさいねん 月日つきひ 大会たいかいめい 対戦たいせん相手あいて 開催かいさい スコア 勝敗しょうはい
1969ねん 1がつ15にち アジアクラブ
選手権せんしゅけん1969
グループ
Bリーグ
イスラエルの旗 マッカビ・テルアビブFC バンコクタイ 2-3 敗北はいぼく
1がつ17にち イランの旗 ペルセポリスFC 1-0 勝利しょうり
1がつ21にち 香港の旗 きゅうりゅうバス 1-0 勝利しょうり
1がつ24にち マレーシアの旗 ペラFA 1-0 勝利しょうり
1がつ28にち 準決勝じゅんけっしょう 大韓民国の旗 0-2 敗北はいぼく
1がつ30にち 3決定けっていせん インドの旗 マイソールしゅう選抜せんばつ 2-0 勝利しょうり

タイトル・表彰ひょうしょう

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歴代れきだい監督かんとく

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下記かき国籍こくせきのうち日本人にっぽんじん国旗こっき表記ひょうき省略しょうりゃくする

名前なまえ 国籍こくせき 任期にんき おもなタイトル 備考びこう
山崎やまざき芳樹よしき 1938 - 1950 1943ねんから1946ねんまで休部きゅうぶ
小畑おばたみのる 1951 - 1963 全日本ぜんにほん実業じつぎょうだん:1956・1962
国体こくたい:1962
下村しもむら幸男ゆきお 1964 - 1970 JSL:1965・1966・1967・1968・1970
天皇てんのうはい:1965・1967・1969
1969アジアクラブ選手権せんしゅけん出場しゅつじょう
大橋おおはし謙三けんぞう 1971 - 1975 1971ねん全日本ぜんにほんユース監督かんとく兼務けんむ
松本まつもと育夫いくお 1976 1976ねん全日本ぜんにほんユース監督かんとく兼務けんむ
小城おぎとくたち 1977 - 1980
二村にむら昭雄あきお 1981 - 1983 ドイツの旗クラウツンコーチ1983ねん8がつから9がつ
今西いまにし和男かずお 1984 - 1987 オランダの旗オフトコーチ1984ねんから1987ねん
ハンス・オフト オランダの旗 1987 - 1988
今西いまにし和男かずお 1988 - 1992 イングランドの旗ビルコーチ1988ねんから1991ねん
ただし今西いまにしは1991-1992ねんそう監督かんとく名義めいぎ
  • 初期しょき山崎やまざき小畑おばた選手せんしゅ兼任けんにん監督かんとくおこなっていたが、小畑おばた途中とちゅうから監督かんとく専業せんぎょうとなっている。
  • 1970年代ねんだい大橋おおはし松本まつもと年代ねんだいべつ代表だいひょう監督かんとく兼務けんむおこなっており、その大橋おおはし東洋工業とうようこうぎょう松本まつもと年代ねんだいべつ代表だいひょう監督かんとく専任せんにんとなった。
  • はじめての外国がいこくせきスタッフは、1983ねんなつ中断ちゅうだん時期じき短期たんき来日らいにちしたクラウツン。以降いこう外国がいこくせきスタッフがはいっていたが、そのうち正式せいしき監督かんとくしょくとなったのはオフトのみ。
  • 1984ねん以降いこう名目めいもくじょう今西いまにし監督かんとくとして登録とうろくされていたが、実際じっさい外国がいこくじんコーチが監督かんとくとして現場げんば指導しどうおよび指揮しきをしていた[44][45]。なお、1991-92シーズンはフォルケスが日本にっぽんはなれたこともあり今西いまにしそう監督かんとく名義めいぎ現場げんば指揮しきしている。

歴代れきだい選手せんしゅ

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所属しょぞくぜん選手せんしゅではなく、名前なまえのわかっているものを記載きさいしている。Category:東洋工業とうようこうぎょうサッカー選手せんしゅ参照さんしょう太字ふとじ国際こくさいAマッチ出場しゅつじょう選手せんしゅ日本人にっぽんじん国籍こくせきらん省略しょうりゃくJFA 公認こうにんSきゅうコーチライセンス取得しゅとくしゃはSきゅうらんに○。 ポジションらん意味いみ以下いかとおり。

  • GK:ゴールキーパー
  • FB:フルバック、CB:センターバック、SB:サイドバック
  • HB:ハーフバック、MF:ミッドフィルダー
  • FW:フォワード
名前なまえ 国籍こくせき ポジション 在籍ざいせき Sきゅう 備考びこう
山崎やまざき芳樹よしき 1938 - 1950 監督かんとく兼任けんにん
ぜにむら健次けんじ FW 1948 - ? 健次けんじ健三けんぞうけんよんぜにむら3兄弟きょうだい長男ちょうなん
小畑おばたみのる FW 1949 - ? 一時いちじ監督かんとく兼任けんにん
芳野よしのみつるおとこ FB ? - ?
下村しもむら幸男ゆきお GK 1952 - 1961 メルボルン五輪ごりん出場しゅつじょう
樽谷たるや恵三けいぞう FW 1953 - ?
重松しげまつ良典よしのり FW 1954 - ?
小沢おざわとおるひろし HB、FB 1955 - 1967 メルボルン五輪ごりん出場しゅつじょう
1962ねんフットボーラーオブザイヤー
北島きたじま秀夫ひでお HB 1955 - ?
田中たなか雍和 FW ? - ?
大橋おおはし謙三けんぞう HB ? - 1967 田辺製薬たなべせいやくから移籍いせき
沼野ぬまのひろし HB 1956 - ?  藤枝ふじえだひがし高校こうこうOB 静岡しずおかけん焼津やいづいわししま出身しゅっしん
株式会社かぶしきがいしゃジャパ代表だいひょう 享年きょうねん63
石井いしい義信よしのぶ HB 1957 - 1968 藤和不動産とうわふどうさん移籍いせき
小原おはらまさる 1957 - ?
大島おおしま治男はるお FW 1958 - ?
桑原くわばら弘之ひろゆき FB 1960 - 1970 桑原くわばららくあに
川西かわにし武彦たけひこ FW 1961 - 1966
ふね本幸ほんこう GK 1961 - 1975
中村なかむらつとむ FW 1962 - 1966 早稲田大学わせだだいがく進学しんがく
丹羽にわ洋介ようすけ FB 1963 - 1971
今西いまにし和男かずお FB、HB 1963 - 1969
おかひかり龍三りゅうぞう FW 1963 - 1970
松本まつもと育夫いくお FW 1964 - 1971 メキシコ五輪ごりん出場しゅつじょう
桑田くわた隆幸たかゆき FW、HB 1965 - 1969
小城おぎとくたち FW、HB、FB 1965 - 1976 メキシコ五輪ごりん出場しゅつじょう
1965・1970ねんフットボーラーオブザイヤー
桑原くわばららく FW 1965 - 1972 メキシコ五輪ごりん出場しゅつじょう
桑原くわばら弘之ひろゆきおとうと
上橋かみばし とおる FW 1966 - ?
吉田よしだひろし HB 1966 - ?
大野おおのあつし FB 1967 - ?
国枝くにえだつよし FB 1967 - ?
谷本たにもと圀之 FW、HB 1968 - ?
川野かわのあつし HB、FB 1968 - 1976
佐伯さえき一彦かずひこ HB 1968 - ?
小滝こたきつよし FB、CB 1968 - ? つよし春男はるおいさむはじめ小滝こだき3兄弟きょうだい長男ちょうなん
小原おはら秀男ひでお FW、HB、FB 1969 - 1981
小滝こたき春男はるお FB、SB 1971 - 1981 つよし春男はるおいさみいち小滝こだき3兄弟きょうだい次男じなん
高田たかだ豊治とよじ HB、CB 1971 - 1978
堀口ほりぐち照幸てるゆき HB 1971 - 1977
安原やすはら真一しんいち FW 1971 - 1981
宮崎みやざきあきらいにしえ HB ? - 1981
古田ふるたあつしりょう HB、CB 1975 - 1984
野曽のそはら芳彦よしひこ GK 1975 - ?
渡辺わたなべ由一ゆいち HB 1977 - ?
山出やまで FW ? - 1982
中野なかの重富しげとみ FW ? - 1984
河内かわうち勝幸かつゆき HB 1978 - ?
宗像むねかたマルコスのぞむ ブラジルの旗 1980 - 1982
高橋たかはし真一郎しんいちろう FW 1980 - 1992
中村なかむら重和しげかず SB、MF 1981 - 1989
さるさわしげる FW、MF 1982 - 1991
小林こばやし伸二しんじ FW 1983 - 1990
今川いまがわ正浩まさひろ FW 1983 - ?
木村きむら孝洋たかひろ MF 1983 - 1988
しんじふじ健仁けんじ CB 1983 - 1990 旧名きゅうめい克義かつよし三菱みつびし移籍いせき
在籍ざいせき息子むすこしんじふじ健太けんた生誕せいたん
上原うえはら洋史ひろし MF 1983 - ?
山田やまだたかし SB 1983 - ? 引退いんたい息子むすこ山田やまだ直輝なおき生誕せいたん
松田まつだひろし CB 1984 - 1992
望月もちづきはじめよりゆき GK 1984 - 1988
佐藤さとう康之やすゆき SB、CB 1984 - 1992
織田おだ秀和ひでかず MF 1984 - ?
ディド・ハーフナー オランダの旗 GK 1986 - 1988 読売よみうり移籍いせきのち日本にっぽん帰化きか
在籍ざいせき息子むすこハーフナー・マイク生誕せいたん
ハーフナー・ニッキ移籍いせき生誕せいたん
しまたく FW 1986 - 1992
横内よこうちあきらてん MF 1986 - 1992
前川まえかわ和也かずや GK 1986 - 1992 前川まえかわまゆずみはサンフレ時代じだい生誕せいたん
山西さんせい博文ひろぶみ SB、CB 1986 - 1992
クレック・ノーリー イングランドの旗 FW 1987 - 1988
ロン・ヤンス オランダの旗 MF 1987 - 1988
ちぇけいうえ 大韓民国の旗 CB 1987 - 1988
森保もりやすはじめ MF 1987 - 1992 在籍ざいせき息子むすこ森保もりやすしょうたいら生誕せいたん
河村かわむらたかし FW、MF 1987 - 1991 横浜よこはまFに移籍いせき
幸田こうだすすむ MF、SB 1988 - 1992
和泉いずみ茂徳しげのり SB、CB 1988 - 1992 マツダSC東洋とうようのみ
むしたに泰典やすのり CB 1988 - 1992
イアン・グリフィス イングランドの旗 FW 1989 - 1990
デヴィッド・ホジソン イングランドの旗 MF 1989 - 1990
アラン・アーバイン スコットランドの旗 FW 1989 - 1990
トニー・ヘンリー イングランドの旗 SB、MF 1989 - 1991
風間かざまはちひろし MF 1989 - 1992 在籍ざいせき息子むすこ風間かざまひろしのぞみ生誕せいたん
風間かざまひろしはサンフレ時代じだい生誕せいたん
平田ひらた英治えいじ FW 1989 - 1992
河野こうの和正かずまさ GK 1989 - 1992
かた野坂のさか知宏ともひろ SB 1990 - 1992
月岡つきおか利明としあき SB 1990 - 1992 マツダSC東洋とうようのみ
ダニエル・カリッチマン アメリカ合衆国の旗 CB 1991 - 1992
ユリウス・ベーリック チェコスロバキアの旗 CB 1991 - 1992
ユーリー・カビル チェコスロバキアの旗 MF 1991 - 1992
上野うえのてんひろし MF 1991 - 1992 全日空ぜんにっくうから移籍いせき
吉田よしだ安孝やすたか CB 1991 - 1992 田辺製薬たなべせいやくから移籍いせき
亀田かめだ明広あきひろ FW 1991 - 1992 NTT関東かんとうから移籍いせき浦和うらわ移籍いせき
高木たかぎ琢也たくや FW 1991 - 1992 フジタから移籍いせき
高木たかぎとしわたる移籍いせき生誕せいたん
森山もりやま佳郎よしお SB 1991 - 1992
柳本やなぎもと啓成よしなり SB 1991 - 1992 マツダSC東洋とうようのみ
ふえ真人しんじん FW 1991 - 1992 マツダSC東洋とうようのみ
もり秀昭ひであき CB、SB 1991 - 1992 マツダSC東洋とうようのみ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 一般いっぱんにサッカー御三家ごさんけといえば広島ひろしま静岡しずおか埼玉さいたまのほうが著名ちょめいであるが[2][4][8][14]、これは戦後せんごからばれだしたものであり、それ以前いぜん東京とうきょう兵庫ひょうご神戸こうべ)・広島ひろしま御三家ごさんけばれていた[15]
  2. ^ 九州きゅうしゅう地方ちほう代表だいひょうにちてつおなじく実業じつぎょうだんとしてはつ出場しゅつじょう
  3. ^ 東洋工業とうようこうぎょう現役げんえき選手せんしゅ正式せいしきにサッカー教室きょうしつはじめたのは1965ねんから[28]。これがのちのマツダサッカースクールや今日きょうサンフレッチェ広島さんふれっちぇひろしまF.Cの育成いくせい組織そしきがれていく。
  4. ^ のこり4にんは、栃木とちぎ2人ふたり小沢おざわ松本まつもと)、長崎ながさき1人ひとり小原おはら)、静岡しずおか1人ひとり沼野ぬまの)。
  5. ^ 2000年代ねんだい後半こうはんからイビチャ・オシムらが推奨すいしょうする「かんがえてはしるサッカー」が注目ちゅうもくされているが、かれらはそれを実践じっせんしていた[30]
  6. ^ だい46かい大会たいかい1966ねん1がつ14にちおこなわれた早稲田大学わせだだいがくとの決勝けっしょうせんは、国立こくりつ競技きょうぎじょうはじめて決勝けっしょうおこなわれた大会たいかいであり、学生がくせい最後さいご優勝ゆうしょうした大会たいかいでもある(2-3たい早稲田大わせだだい)。
  7. ^ オイルショックまえまでのマツダは世界せかいはつとなる自動車じどうしゃ搭載とうさいようロータリーエンジン開発かいはつ成功せいこうし、圧倒的あっとうてきなシェアをほこトヨタ日産にっさんついそうしていた。
  8. ^ の1980年代ねんだい、サッカー部長ぶちょう就任しゅうにんした今西いまにし和男かずおは、チームとくらべて初任しょにんきゅうがあったためと分析ぶんせきしている[41]
  9. ^ 1980ねんはるのキャンプ広島ひろしま県立けんりつ五日市いつかいち高等こうとう学校がっこうとの練習れんしゅう試合しあいおこない、主力しゅりょくメンバーをさなかったとはいえ1-3でけてしまった[42]。またこれはニュースとして『中国ちゅうごく新聞しんぶん紙面しめんあつかわれた。
  10. ^ とくけんこう出身しゅっしん金田かねだみのる木村きむら和司かずしらがかえってなかったとき広島ひろしまのサッカー関係かんけいしゃ落胆らくたんおおきかった。
  11. ^ 詳細しょうさいサンフレッチェ広島さんふれっちぇひろしまF.Cの育成いくせい組織そしき#前史ぜんし参照さんしょう

出典しゅってん

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  4. ^ a b c d 森谷もりたに達也たつや (2023ねん2がつ23にち). 広島ひろしまのサッカー1 サンフレ 蹴球しゅうきゅうねつ結晶けっしょう. 読売新聞よみうりしんぶんオンライン (読売新聞社よみうりしんぶんしゃ). オリジナルの2023ねん3がつ9にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20230309131803/https://www.yomiuri.co.jp/local/hiroshima/feature/CO047372/20230223-OYTAT50034/ 2023ねん4がつ19にち閲覧えつらん 
  5. ^ a b c d 天皇てんのうはいたたかってきた広島ひろしま歴史れきし。その歴史れきしえるときた。”. タグマ! SIGMACLUBweb. ガードかなさる (2022ねん6がつ16にち). 2022ねん10がつ15にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2022ねん10がつ29にち閲覧えつらん
  6. ^ a b c d 中国ちゅうごく新聞しんぶん』2013ねん12月31にちづけ朝刊ちょうかん13めん
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参考さんこう資料しりょう

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書籍しょせき
  • 日本にっぽんサッカーリーグぜん日本にっぽんサッカーリーグかん
  • 広島ひろしまスポーツ(財)ざいだんほうじん広島ひろしまけん体育たいいく協会きょうかい 1984ねん5月刊げっかん
  • 栄光えいこう足跡あしあと 広島ひろしまサッカー85ねん(財)ざいだんほうじん広島ひろしまけんサッカー協会きょうかい 2010ねん6月刊げっかん
  • 『イレブンよ あつ大地だいちけろ』勝沢かつさわよう テレハウス 1986ねん1月刊げっかん ISBN 492474803X
  • 『ぽいち 森保もりやすいち自伝じでん雑草ざっそうたましいむねに』(森保もりやすはじめ西岡にしおか明彦あきひこ共著きょうちょフロムワン 2004ねん2月刊げっかん ISBN 4757210159
  • 週刊しゅうかんサッカーマガジン』各号かくごう
  • 週刊しゅうかんサッカーダイジェスト』各号かくごう
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関連かんれん項目こうもく

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