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旅順りょじゅん攻囲こういせん

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旅順りょじゅん攻囲こういせん

203高地こうち
戦争せんそうにち戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1904ねん8がつ19にち - 1905ねん1がつ1にち
場所ばしょ旅順りょじゅんまんしゅう
結果けっか日本にっぽんぐん勝利しょうり、ロシアの降伏ごうぶくおよびロシア旅順りょじゅん艦隊かんたい戦闘せんとう機能きのう喪失そうしつ
交戦こうせん勢力せいりょく
大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく ロシアの旗 ロシア帝国ていこく
指導しどうしゃ指揮しきかん
乃木のぎ希典まれすけ ロシアの旗 アナトーリイ・ステッセリ
ロシアの旗 ロマン・コンドラチェンコ  
戦力せんりょく
やく51,000めい

だい一回いっかいそう攻撃こうげき

陸軍りくぐんやく44,000めい

海軍かいぐんやく12,000めい

そのやく7,000めい

籠城ろうじょうせん開始かいし

損害そんがい
戦死せんしやく15,400めい

戦傷せんしょうのべすうやく44,000めい

戦死せんしやく16,000めい

戦傷せんしょうのべすうやく30,000めい

にち戦争せんそう
だい3ぐん旅順りょじゅんへの前進ぜんしん
だい3ぐんによる旅順りょじゅん包囲ほうい
攻撃こうげき準備じゅんびちゅう日本にっぽんぐん
砲撃ほうげきによってしょうじた黄金おうごん山麓さんろく石油せきゆ火災かさい

旅順りょじゅん攻囲こういせん(りょじゅんこういせん、リュイシュンこういせん、英語えいご: siege of Port Arthur, ロシア: оборона Порт-Артура, 1904ねん明治めいじ37ねん8がつ19にち - 1905ねん明治めいじ38ねん1がつ1にち)とは、にち戦争せんそうにおいて、ロシア帝国ていこく旅順りょじゅん要塞ようさいを、日本にっぽんぐん攻略こうりゃく陥落かんらくさせたたたかいである。

背景はいけい

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ロシアは、1896ねんしん密約みつやくのち1898ねん遼東りゃおとん半島はんとう租借そしゃくし、旅順りょじゅんこう太平洋艦隊たいへいようかんたいだいいち太平洋艦隊たいへいようかんたい)の主力しゅりょく艦隊かんたい旅順りょじゅん艦隊かんたい)の根拠地こんきょちとし、港湾こうわんかこ山々やまやま本格ほんかくてき永久えいきゅう要塞ようさい建設けんせつしていた(旅順りょじゅん要塞ようさい)。

日本にっぽんは、予期よきされるにち戦争せんそう勝利しょうりするためには、日本にっぽん本土ほんど朝鮮半島ちょうせんはんとうおよびまんしゅうとのあいだ補給ほきゅう安全あんぜん確保かくほ必要ひつようであり、朝鮮半島ちょうせんはんとう周辺しゅうへん海域かいいき制海権せいかいけんさえるために旅順りょじゅん艦隊かんたい完全かんぜん無力むりょく不可欠ふかけつなしていた。また旅順りょじゅん要塞ようさいもったロシア陸軍りくぐん勢力せいりょく(2師団しだん)は、まんしゅう南部なんぶ予想よそうされる決戦けっせんいど日本にっぽんぐんまんしゅうぐん)の背後はいご(および補給ほきゅうにとって重要じゅうよう大連たいれんみなと)にたいする脅威きょういであり、ふうめもしくは無力むりょく必要ひつようだった。

このため戦前せんぜんより陸海りくかいぐん双方そうほう旅順りょじゅんへの対応たいおうさく検討けんとうされた。旅順りょじゅん艦隊かんたい完全かんぜん無力むりょくする方法ほうほうとして、大別たいべつして、旅順りょじゅん要塞ようさい陥落かんらくだい口径こうけいかんほう戦艦せんかん主砲しゅほう[ちゅう 1])による撃沈げきちん旅順りょじゅんこう永久えいきゅう封鎖ふうさかんがえられた[ちゅう 2]

海軍かいぐんがわ独力どくりょく旅順りょじゅん艦隊かんたい無力むりょくする方針ほうしんり、だいいち段階だんかい港外こうがい奇襲きしゅうだい段階だんかい港口こうこう封鎖ふうさ閉塞へいそく)、だいさん段階だんかい港外こうがいからの間接かんせつ射撃しゃげきによって港内こうない艦艇かんてい徐々じょじょ損傷そんしょうさせるという作戦さくせん計画けいかくてた。これにもとづき1903ねんなつには間接かんせつ射撃しゃげきのための試験しけん射撃しゃげきおこなった。

陸軍りくぐんがわ参謀さんぼう本部ほんぶまんしゅう攻勢こうせい作戦さくせん研究けんきゅうを1902ねんよりはじめ、そのなかで、旅順りょじゅんおさむじょう佐藤さとうこう次郎じろう少佐しょうさ担当たんとうした。1903ねん11がつごろ参謀さんぼう本部ほんぶない意見いけんは、兵力へいりょくだい部分ぶぶんりょう方面ほうめん北進ほくしんさせ予想よそうされるだい決戦けっせん集中しゅうちゅうさせ、旅順りょじゅん一部いちぶ兵力へいりょくによる封鎖ふうさ監視かんしめるべきとのかんがえが大勢おおぜいだったが、佐藤さとう少佐しょうさ攻略こうりゃく必要ひつようせい主張しゅちょう研究けんきゅうつづけられた[1]

1903ねん12月30にち陸海りくかいぐんあいだ開戦かいせんかんする協議きょうぎおこなわれた。「旅順りょじゅん港外こうがい停泊ていはくしている旅順りょじゅん艦隊かんたいたいする奇襲きしゅう優先ゆうせんすべき」との海軍かいぐんがわ主張しゅちょう[ちゅう 3]と「臨時りんじ韓国かんこく派遣はけんたい派遣はけん優先ゆうせんすべき」との陸軍りくぐんがわ主張しゅちょうとが対立たいりつしたが、陸軍りくぐんゆずって海軍かいぐんあん決着けっちゃくした。海軍かいぐん独力どくりょくによる旅順りょじゅん艦隊かんたいへの対処たいしょ言明げんめいしていたが[ちゅう 4]陸軍りくぐんはその旅順りょじゅんおさむじょう研究けんきゅうすすめ、1904ねん1がつ陸軍りくぐん参謀さんぼう本部ほんぶによる計画けいかくあんり、陸軍りくぐんしょう所要しょよう資材しざい照会しょうかいがなされた。

開戦かいせん海軍かいぐん港外こうがい奇襲きしゅう港口こうこう閉塞へいそく作戦さくせん実行じっこうしたが、不十分ふじゅうぶん結果けっかわり、旅順りょじゅん艦隊かんたい戦力せんりょく保全ほぜんされた。2がつまつごろからウラジオストク巡洋艦じゅんようかんたい活動かつどうはじめたが、だいさん艦隊かんたい対馬つしま防備ぼうびいたまま、海軍かいぐん主力しゅりょくによる港口こうこう閉塞へいそく目的もくてきとした作戦さくせんつづけられた。

陸軍りくぐんは3がつはいっても、封鎖ふうさ監視かんし十分じゅうぶんであるとのかんがえがまだのこっていたが、最終さいしゅうてきには、3月14にち、2師団しだんをもっておさむじょうおこな決定けっていくだした。作戦さくせん目的もくてきは「地上ちじょうより旅順りょじゅん要塞ようさい攻略こうりゃくし、北上ほくじょうする日本にっぽんぐん主力しゅりょく後方こうほう安定あんていする」とした[ちゅう 5]

海軍かいぐんだいかい閉塞へいそく作戦さくせん3月27にち実行じっこうしたが成功せいこうだった。しかし4がつはいっても海軍かいぐん独力どくりょくによる旅順りょじゅん艦隊かんたい無力むりょく固執こしつしており、4がつ6にち大山おおやまいわお参謀さんぼう総長そうちょう児玉こだま源太郎げんたろう次長じちょう海軍かいぐん軍令ぐんれい次長じちょう伊集院いじゅういん五郎ごろうとの合議ごうぎ議決ぎけつぶんに「陸軍りくぐん要塞ようさい攻略こうりゃくをすることは海軍かいぐん要請ようせいにあらず」という1ぶんがある[ちゅう 6]。また海軍かいぐんは12-13にち機雷きらい敷設ふせつした。4月わり以降いこうだい艦隊かんたいだいさん艦隊かんたいえ、旅順りょじゅん方面ほうめん海軍かいぐん戦力せんりょく減少げんしょうした。

ロシアは5月にバルト海ばるとかい所在しょざいする艦船かんせんぐん完成かんせいかんふくむ・バルチック艦隊かんたい)の極東きょくとう派遣はけん決定けってい発表はっぴょうした。もしもこれがいま健在けんざい旅順りょじゅん艦隊かんたい合流ごうりゅうすれば、日本にっぽん海軍かいぐんばいちか戦力せんりょくとなり、朝鮮半島ちょうせんはんとう周辺しゅうへんいき制海権せいかいけんはロシアがわうばわれ、まんしゅうでの戦争せんそう継続けいぞく絶望ぜつぼうてきになるとかんがえられた。5月3にちだいさんかい閉塞へいそく作戦さくせん実施じっしされたが、これも成功せいこうわった。5月9にちより、日本にっぽん海軍かいぐんは、旅順りょじゅん港口こうこうちかくに戦艦せんかんふく艦艇かんてい遊弋ゆうよくさせる直接ちょくせつ封鎖ふうささく転換てんかんしたが、主力しゅりょくかんかざるをなくなり増派ぞうは艦隊かんたいへの対応たいおうむずかしくなった。15にちには当時とうじ日本にっぽん海軍かいぐん保有ほゆうする戦艦せんかんの6せきのうち2せきさわかみなりによりうしなった[ちゅう 7]日本にっぽんぐんとしては増派ぞうは艦隊かんたい極東きょくとう到着とうちゃくするまえ旅順りょじゅん艦隊かんたい撃滅げきめつする必要ひつようせまられ、海軍かいぐんはこのころ陸軍りくぐん旅順りょじゅん参戦さんせん必要ひつようせいみとめざるをなくなった。

このような経緯けいいくわおさむじょう準備じゅんび複雑ふくざつなため、だい3ぐん編成へんせいおくれ、戦闘せんとう序列じょれつは5月29にち発令はつれいとなった。ぐん司令しれい東京とうきょう編成へんせいされ、司令しれいかんにはにちしん戦争せんそう旅順りょじゅん攻略こうりゃく参加さんかした乃木のぎ希典まれすけ大将たいしょうが、参謀さんぼうちょうには砲術ほうじゅつ専門せんもんである伊地知いじちみゆきかい少将しょうしょう任命にんめいされた。ぐん参謀さんぼうらには、開戦かいせん海外かいがい赴任ふにんさきから帰国きこくしてきたものくわわった[ちゅう 8]ぐん司令しれいは6がつ1にち本土ほんどち、8にち大連たいれん到着とうちゃくした。だい3ぐん主力しゅりょくとしては、すでにかねしゅうじょう攻略こうりゃくせんえて主戦しゅせんじょうされるまんしゅう南部なんぶ北進ほくしんするだい2ぐんから2師団しだんだい1師団しだんだい11師団しだん)が抽出ちゅうしゅつされてられた。

6がつ20日はつかまんしゅうぐんそう司令しれい)が設置せっちされ、だい3ぐんもそのしたはいった。だい3ぐん使命しめいは、すみやかに要塞ようさい陥落かんらくさせ、兵力へいりょく保全ほぜんしたままそのだい1・2ぐん合流ごうりゅうすることだった。

旅順りょじゅん要塞ようさい構造こうぞう

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旅順りょじゅんのこきよし時代じだい沿岸えんがん砲台ほうだい

旅順りょじゅん要塞ようさい構造こうぞうは、要塞ようさい防衛ぼうえいせんだいいち防衛ぼうえいせんだい防衛ぼうえいせん)、および前進ぜんしん陣地じんちから構成こうせいされる。

旅順りょじゅん元々もともと清国きよくに軍港ぐんこうで、ロシアが手中しゅちゅうおさめた時点じてんである程度ていどしょ設備せつびっていた。しかし防御ぼうぎょ施設しせつ旧式きゅうしき地形ちけい不利ふりてんつことを認識にんしき強化きょうか着手ちゃくしゅした。1901ねんより開始かいしされたこの工事こうじは、当初とうしょしもじゅつする203高地こうちだいやま標高ひょうこうやく180 m)もふくめた十分じゅうぶんひろ範囲はんい要塞ようさい防御ぼうぎょせん設置せっち守備しゅびへい2まん5せん常駐じょうちゅうさせる計画けいかくだった。しかし予算よさん不足ふそく防御ぼうぎょせん規模きぼ縮小しゅくしょうされ、常駐じょうちゅう守備しゅびへいも1まん3せん変更へんこうされた。この要塞ようさい防衛ぼうえいせん港湾こうわんちかすぎ、要塞ようさい包囲ほういしたてきぐん重砲じゅうほうは、防衛ぼうえいせんない砲台ほうだいからねらわれない安全あんぜん位置いちより港湾こうわん射程しゃていないおさめることができた。また地形ちけいじょうてきぐん防衛ぼうえいせんがいだいさんや203高地こうち南山なんざん坡山(通称つうしょう海鼠なまこさん標高ひょうこうやく200m、203高地こうちきた)などを占領せんりょうした場合ばあいは、港湾こうわん一部いちぶもしくは全域ぜんいきたま観測かんそくゆるした。そのため開戦かいせんにはそれら防衛ぼうえいせんがい前進ぜんしん陣地じんち前哨ぜんしょう陣地じんちもう防御ぼうぎょつとめたが本質ほんしつてき完全かんぜんではなかった。また完成かんせいは1909ねん予定よていだったので、1904ねんにち開戦かいせんにより完成かんせいのまま(完工かんこうやく40パーセント)戦争せんそう突入とつにゅうすることになった[2]。これら前哨ぜんしょう陣地じんちだい7師団しだんちょうロマン・コンドラチェンコ少将しょうしょう精力せいりょくてき強化きょうか工事こうじほどこされた[3]

要塞ようさい配置はいち規模きぼ

  • ひがし正面しょうめん
白銀山しろがねやまひがし鶏冠山けいかんざんきたみなみ)、ばん龍山たつやまきたひがし西にし)、松樹まつきやまかく堡塁ほうるい中核ちゅうかくとし、もちだい標高ひょうこう185m)、永久えいきゅう砲台ほうだいきゅうかこえかべにちしん戦争せんそう要塞ようさい構造こうぞうぶつ)、臨時りんじ築城ちくじょう陣地じんちなどで連接れんせつ
  • きた正面しょうめん
椅子いすさんだいあんやま龍眼りゅうがん北方ほっぽうみず営南かたかく堡塁ほうるい中核ちゅうかくとし、砲台ほうだい野戦やせん築城ちくじょう陣地じんちなどで連接れんせつ
  • 西にし正面しょうめん
西にし太陽たいようみぞなどのかく堡塁ほうるい中核ちゅうかくとする。また203高地こうちあたまみぞさんだいいただきやまなどに野戦やせん陣地じんち新設しんせつ
  • 装備そうび火砲かほう
要塞ようさいほう350もん野砲やほう67もん海軍かいぐんほう186もん捕獲ほかくほう43もん合計ごうけい646もん。これを海上かいじょう正面しょうめんに124もん陸上りくじょう正面しょうめんに514もん予備よび8もん分配ぶんぱい
  • 機関きかんほう
海上かいじょうがわに62もん陸上りくじょうがわに47もん予備よび10もん合計ごうけい119もん

となっている[4]

防衛ぼうえいせんがい前進ぜんしん陣地じんちは、西方せいほうに203高地こうち近辺きんぺんしょ陣地じんち北方ほっぽうみず営近しょ陣地じんち東方とうほう大小だいしょうやましょ陣地じんち整備せいびしたが、完成かんせいだった。

要塞ようさいしゅ防御ぼうぎょせんコンクリート当時とうじ仏語ふつごのベトンとばれていた)で周囲しゅういかためた半永久はんえいきゅう堡塁ほうるい8中心ちゅうしん堡塁ほうるい9永久えいきゅう砲台ほうだい6かくめん堡4とそれをつな塹壕ざんごうからなりあらゆる方角ほうがくからの攻撃こうげきそなえ、だい防衛ぼうえいせんないもっと高台たかだいであるもちだいには砲台ほうだいつく支援しえん砲撃ほうげきおこなった。さらに突破とっぱされた場合ばあいそなえて堡塁ほうるい塹壕ざんごう砲台ほうだいつらねた小規模しょうきぼふくほう旅順りょじゅんきゅう市街しがいかこんでいた。海上かいじょう方面ほうめんも220もん火砲かほう砲台ほうだい配備はいびして艦船かんせん接近せっきん妨害ぼうがいするようになっていた[3]

ロシアぐんでは、この要塞ようさいふくめた地域ちいき一帯いったい防衛ぼうえいするロシア関東かんとうぐん新設しんせつされぐん司令しれいとしてアナトーリイ・ステッセリ中将ちゅうじょう旅順りょじゅん要塞ようさい司令しれいかんコンスタンチン・スミルノフ中将ちゅうじょう就任しゅうにんした。

にち戦争せんそう開戦かいせん旅順りょじゅん要塞ようさいには、ひがしシベリアだい7狙撃そげきへい師団しだん師団しだんちょうロマン・コンドラチェンコ少将しょうしょう)・ひがしシベリアだい7狙撃そげきへい師団しだん師団しだんちょうアレクサンドル・フォーク少将しょうしょう)・ひがしシベリアだい5狙撃そげきへい連隊れんたい要塞ようさいほう兵隊へいたい要塞ようさい工兵こうへいたいなど総勢そうぜい4まん4せんめい兵力へいりょく、436もん海岸かいがんほうのぞく)の火砲かほうがあった[5]

経過けいか

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前哨ぜんしょうせん

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日本にっぽん海軍かいぐんは、独力どくりょく旅順りょじゅん艦隊かんたい無力むりょくすることを断念だんねんし、1904ねん7がつ12にち伊東いとう祐亨すけゆき海軍かいぐん軍令ぐんれい部長ぶちょうから山縣やまがた有朋ありとも参謀さんぼう総長そうちょうに、旅順りょじゅん艦隊かんたい旅順りょじゅんこうよりすか壊滅かいめつさせるよう正式せいしき要請ようせいした。そのころだい三軍さんぐんは、6月26にちまでに旅順りょじゅん外延がいえんまで進出しんしゅつした。6月31にち大本営だいほんえいからも陸軍りくぐんたいして旅順りょじゅん要塞ようさい攻略こうりゃくいそぐよう通達つうたつていた。

しかし陸軍りくぐんは、旅順りょじゅん要塞ようさい攻略こうりゃくする方針ほうしんかためることがおくれたため、情報じょうほう収集しゅうしゅう準備じゅんび不足ふそくだった。ロシアぐん強化きょうかした要塞ようさい設備せつびかんする事前じぜん情報じょうほうはほとんどなくだい三軍さんぐんわたされた地図ちずには要塞ようさい防御ぼうぎょせんまえにある前進ぜんしん陣地じんち竜眼りゅうがん北方ほっぽう堡塁ほうるいみず営南かた堡塁ほうるい竜王りゅうおうびょうさん南山なんざん坡山、203高地こうちなど)がまった記載きさいされていなかった。防御ぼうぎょせんでも竜山たつやまひがし鶏冠山けいかんざんりょう堡塁ほうるい臨時りんじ築城ちくじょうくなど[6]誤記ごきおおかった。

こうしたなか要塞ようさい攻略こうりゃく主軸しゅじくをどの方向ほうこうからにするかが議題ぎだいとなった。戦前せんぜん図上ずじょう研究けんきゅうでは平坦へいたん地形ちけいおお西にし正面しょうめんからの攻略こうりゃく有利ゆうりであるとかんがえられていた[7]が、だい三軍さんぐん司令しれい大連たいれん上陸じょうりくまえ事前じぜん研究けんきゅうによりその方面ほうめんからの攻略こうりゃくにはてき陣地じんち多数たすう攻略こうりゃくしていく必要ひつようがあり、鉄道てつどう道路どうろもないのでおさむしろほうなどの部隊ぶたい展開てんかい時間じかんよう早期そうき攻略こうりゃくできないとかんが東北とうほく方面ほうめんしゅおさむ方針ほうしん変更へんこうした[8]。しかしあらたに参謀さんぼう本部ほんぶ次長じちょうとなった長岡ながおか外史がいしや、まんしゅうぐん参謀さんぼう井口いぐち省吾しょうごらが西方せいほうぬしおさむ支持しじ議論ぎろんとなる。ただし、このしゅおさむ選択せんたくはあくまで要塞ようさい攻略こうりゃく主軸しゅじくをどの方面ほうめんにするかのはなしであり、のちる203高地こうち攻略こうりゃくとはべつ議論ぎろんである[9]結局けっきょくこの議論ぎろんだい三軍さんぐん司令しれい現地げんち到着とうちゃくする7がつごろまでされる。そのころだい三軍さんぐんは、6月26にちまでに旅順りょじゅん外延がいえんまで進出しんしゅつしていた。7がつ3にち、コンドラチェンコ師団しだん一部いちぶ逆襲ぎゃくしゅうてんじるが塹壕ざんごうかまえる日本にっぽんぐん反撃はんげき撤退てったいした。

そのだい三軍さんぐんだい9師団しだん後備こうび歩兵ほへいだい1旅団りょだん相次あいついで合流ごうりゅう戦力せんりょく増強ぞうきょうされた。このあと乃木のぎ懸案けんあんだったしゅおさむ方面ほうめん要塞ようさい東北とうほく方面ほうめん決定けっていした。この理由りゆうには下記かきがあった[10]

  1. 要塞ようさい死命しめいせいするもちだい東北とうほく方面ほうめんにある。もちだいだい防衛ぼうえいせんないもっと標高ひょうこうたかく、その砲台ほうだいはロシアぐん支援しえん砲撃ほうげきようであり、旅順りょじゅんこうおよ市街地しがいちすべてを見渡みわたせる。
  2. 西方せいほうぬしおさむおこなうには敵前てきぜん曝露ばくろした平地ひらち移動いどうして危険きけん部隊ぶたい展開てんかいせざるをない
    1. 鉄道てつどうおさむしろほうなどのほう移動いどうできる道路どうろもないので砲兵ほうへい展開てんかいむずかしい
    2. 203高地こうち南山なんざん坡山などの前進ぜんしん陣地じんちおおくあり、それらを制圧せいあつ2km前進ぜんしんしたうえ要塞ようさい防御ぼうぎょせん攻略こうりゃく着手ちゃくしゅとなるので時間じかんかる

準備じゅんびととのえただい三軍さんぐん7がつ26にち旅順りょじゅん要塞ようさいしょ前進ぜんしん陣地じんちへの攻撃こうげき開始かいし[11][12]しゅ目標もくひょうはそのうちの東方とうほうだいやまとした。3日間にちかんつづいた戦闘せんとう日本にっぽんぐん2,800めい、ロシアぐん1,500めい死傷ししょうしゃし、30にちにロシアぐんだいやまから撤退てったいした。このころ乃木のぎは、きたるべきそう攻撃こうげき期日きじつ決断けつだんし、増援ぞうえん砲兵ほうへいたい準備じゅんびととの予定よていのち8がつ19にちとした[5]

8がつ7にち黒井くろい悌次ていじろう海軍かいぐん中佐ちゅうさひきいる海軍かいぐん陸戦りくせん重砲じゅうほうたいだいやま観測かんそくしょ設置せっち[ちゅう 9]旅順りょじゅんこうへ12センチほう間接かんせつ砲撃ほうげき開始かいし。9にち940ふん戦艦せんかんレトウィザン命中めいちゅうだんあたえ、浸水しんすい被害ひがいをもたらした[ちゅう 10]

8がつ10日とおか、ロシア旅順りょじゅん艦隊かんたいだいいち太平洋艦隊たいへいようかんたい)に被害ひがいはじめたことで、艦隊かんたい司令しれいヴィトゲフトは、極東きょくとう総督そうとくアレクセイエフ度重たびかさなるウラジオストクへの回航かいこう命令めいれいしたがい、旅順りょじゅんこう出撃しゅつげきした。これによって、海軍かいぐんがわ陸軍りくぐん要請ようせいした「旅順りょじゅん艦隊かんたい砲撃ほうげきによって旅順りょじゅんこうよりす」ことが達成たっせいされた。

しかし同日どうじつ黄海こうかい海戦かいせんでは、日本にっぽん連合れんごう艦隊かんたいは2わた旅順りょじゅん艦隊かんたい砲撃ほうげきせんおこな機会きかいつつも駆逐くちくかんの1せき沈没ちんぼつせしめることなく、薄暮はくぼいた見失みうしなった。旅順りょじゅん艦隊かんたい旅順りょじゅんこう帰還きかんした[ちゅう 11]

帰還きかんした艦艇かんていのほとんどは上部じょうぶ構造こうぞうおおきく破壊はかいされ、戦闘せんとうりょくをほぼ喪失そうしつし、旅順りょじゅんこう設備せつびでは修理しゅうりができない状況じょうきょうだった[13]もっと損害そんがい軽微けいびだった戦艦せんかんセヴァストポリだけは外洋がいよう航行こうこう可能かのうにまで修理しゅうりされた。帰還きかん艦艇かんていは、だいやまから観測かんそくされないよう、せまあさ湾内わんない東部とうぶ停泊ていはくさせた。

だい一回いっかいそう攻撃こうげき明治めいじ37ねん8がつ19にち-24にち

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そう攻撃こうげきまえだい三軍さんぐんぐん司令しれいやなぎじゅぼうから鳳凰山ほうおうざん東南とうなん高地こうち進出しんしゅつさせた[14]。さらにだん山子やまご東北とうほく高地こうち戦闘せんとう指揮しきしょもう戦闘せんとう状況じょうきょう逐一ちくいち把握はあくできるようにした[15]。ここは激戦げきせんとなったひがし鶏冠けいかん山保やまほるいから3キロという場所ばしょでしばしばてきだん見舞みまわれる場所ばしょであった。以降いこう攻囲こういせんおもにここで指揮しきられることになった。

8がつ18にち深夜しんやだい三軍さんぐん参加さんか兵力へいりょく5まん1せんめい火砲かほう380もんかく師団しだんは其々目標もくひょうとされる敵陣てきじん射程しゃていけんぎりぎりまで接近せっきんそう攻撃こうげきそなえた。

よく8がつ19にちかく正面しょうめんにおいて早朝そうちょうより準備じゅんび射撃しゃげきはじまる。当初とうしょはロシアがわ日本にっぽん砲兵ほうへい陣地じんち位置いち正確せいかく把握はあくできておらずはんげき散漫さんまんだったが、やがて本格ほんかくてきになり、このりょうぐんわせて500もん火砲かほうはげしい戦闘せんとうとなった[16]乃木のぎ午後ごご1そうだいみぞの236高地こうちのぼ戦況せんきょう視察しさつした。ロシアぐんではこの砲撃ほうげき松樹まつきやま龍山たつやまばん龍山たつやまひがし鶏冠山けいかんざんしょうあん白銀山しろがねやまもちだいかくるい砲台ほうだいだい損害そんがいており、ひがし鶏冠山けいかんざんだいるいでは弾薬だんやく爆発ばくはつ守備しゅびへい全滅ぜんめつし、龍山たつやまたもつるいでは主要しゅよう火砲かほうの6インチほうがすべて破壊はかいされた。こうした光景こうけいたりにして日本にっぽんぐん前線ぜんせん将兵しょうへい士気しきおおきくたかまったという[17]。2日間にちかん砲撃ほうげきせんののち、21にちだい三軍さんぐんそう攻撃こうげき開始かいしした。

だい1師団しだん攻撃こうげき

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そう攻撃こうげき開始かいし先立さきだつ19にち午前ごぜん6とも安治あわじのべ少将しょうしょうひきいる後備こうび歩兵ほへいだい1旅団りょだん(だい1師団しだん指揮しきとして右翼うよくたい形成けいせい)は目標もくひょうだいいただきやま攻撃こうげき開始かいしした。一部いちぶ敵前てきぜん至近しきん距離きょりせまったものの猛烈もうれつ反撃はんげき撃退げきたいされた。夜半やはんになり夜襲やしゅう仕掛しかけるも戦況せんきょう好転こうてんしなかった[18]20日はつかには歩兵ほへいだい旅団りょだん(旅団りょだんちょう中村なかむらさとし少将しょうしょう)基幹きかん左翼さよくたいみず営南かた高地こうちまでは順調じゅんちょうすすんだがここでてき抵抗ていこうにあい、それでもみず営の一部いちぶどう西にしみぞ猛攻もうこうすえ22にち占領せんりょう夜半やはんには93高地こうち夜襲やしゅう奪取だっしゅした。

けて21にち師団しだんちょう松村まつむらつとむほん中将ちゅうじょう司令しれい高崎山たかさきやまうつす。歩兵ほへいだい1旅団りょだん(旅団りょだんちょう山本やまもと信行のぶゆき少将しょうしょう)基幹きかん中央ちゅうおうたいだいいち師団しだん攻略こうりゃく目標もくひょうである南山なんざん坡山およびその北端ほくたん鉢巻山はちまきやまそう攻撃こうげき。22にちまでにさしたる抵抗ていこうもなく占領せんりょうするがまもなくはげしい逆襲ぎゃくしゅうおこなわれ白兵戦はくへいせん幾度いくどとなく展開てんかいされた[19]日本にっぽんがわ増援ぞうえんおくろうにも鉢巻山はちまきやまいたるにはてきてらみぞ北方ほっぽう陣地じんちふもととおらねばならず、占領せんりょう部隊ぶたいへの増援ぞうえん補給ほきゅう至難しなんだった。補給ほきゅうせん確保かくほ失敗しっぱい兵士へいしたちは匍匐ほふく前進ぜんしん弾薬だんやく糧食りょうしょくはこばなければならなかった[20]

だい9師団しだん攻撃こうげき

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だい9師団しだんでも歩兵ほへいだい18旅団りょだん(旅団りょだんちょう平佐ひらさ良蔵りょうぞう少将しょうしょう)基幹きかん右翼うよくたいが19、20日はつか竜眼りゅうがん北方ほっぽうるい攻撃こうげき開始かいし。しかしこの方面ほうめん攻撃こうげきがわかくすような草木くさきもなく、付近ふきん砲台ほうだいから集中しゅうちゅう射撃しゃげきけてだい損害そんがいこうむ[21]

21にち左翼さよくたい歩兵ほへいだい6旅団りょだん旅団りょだんちょういち兵衛ひょうえ少将しょうしょう)がばん龍山たつやま南北なんぼく堡塁ほうるい攻撃こうげき開始かいし配下はいか歩兵ほへいだい7連隊れんたいでは3にん大隊だいたいちょうのうち2にん戦死せんしし、ついには連隊れんたいちょう大内おおうちまもるせい大佐たいさみずからが先陣せんじんをきって突撃とつげきするも、28はつもの銃弾じゅうだんびて戦死せんしするほど激戦げきせんとなった。いち少将しょうしょう歩兵ほへいだい35連隊れんたい増援ぞうえんおくるが失敗しっぱいし、先月せんげつ30にち戦傷せんしょう交代こうたいしたばかりの連隊れんたいちょうおり勝造かつぞう中佐ちゅうさ戦死せんししてしまう。このためいち夜陰やいんじょうじて攻撃こうげきする方法ほうほうえる[22]

22にち午前ごぜん0かくたい一斉いっせい夜襲やしゅうをかけるが、ロシアぐん探照灯たんしょうとう照明しょうめいだん周囲しゅういらし機関きかんじゅう乱射らんしゃしてそれをはばんだ。戦闘せんとうあかるくなってもつづ後備こうび歩兵ほへいだい8連隊れんたい増援ぞうえん午前ごぜん10ごろばんりゅう山東さんとう堡塁ほうるい占領せんりょうになんとか成功せいこう午後ごご8には西にし堡塁ほうるい占領せんりょうした。しかしこのあいだたたかつづけただい7連隊れんたいだい損害そんがいこうむり、確保かくほ残余ざんよ兵力へいりょく将校しょうこう以下いか71めいだった[23]。ともかくだい9師団しだんばん龍山たつやま東西とうざい堡塁ほうるい攻略こうりゃく成功せいこうし、ここはなか要塞ようさいだい防衛ぼうえいせんんだ要地ようちもちだいまではやく1kmだった[24]

だい11師団しだん攻撃こうげき

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だい11師団しだんちょう土屋つちや光春みつはる中将ちゅうじょう司令しれいだい山北さんぽくみねうつすが、てき銃撃じゅうげきけ、参謀さんぼう2めい戦死せんしした。

歩兵ほへいだい10旅団りょだん(旅団りょだんちょう:山中やまなかしん少将しょうしょう)はひがし鶏冠けいかん山北さんぽく堡塁ほうるいだい堡塁ほうるい攻撃こうげききた堡塁ほうるいほう直前ちょくぜんそとごうつかり、工兵こうへいたい犠牲ぎせいのもと、巨大きょだいそとごうじょう突入とつにゅうきずき、部隊ぶたい突入とつにゅうするが集中しゅうちゅう砲火ほうかび、突入とつにゅうたい隊長たいちょう本郷ほんごう少佐しょうさ以下いかおおくの死傷ししょうしゃをだし、そとごうおどんだたい全員ぜんいん戦死せんしした[25]だい堡塁ほうるいほう占領せんりょうには成功せいこうするも退却たいきゃくするロシアぐんはなったごうない弾薬だんやく引火いんか爆発ばくはつ、それががねとなる周囲しゅうい堡塁ほうるい砲台ほうだいから集中しゅうちゅう射撃しゃげき突入とつにゅうたい隊長たいちょう吉永よしなが少佐しょうさ以下いか死傷ししょうしゃ続出ぞくしゅつし、弾薬だんやくくなり残余ざんよへい40めいはやむ撤退てったい鉄条てつじょうもうすき援軍えんぐんをまった[26]わずか3あいだ占領せんりょうであった。

もちだいへの攻撃こうげき

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乃木のぎ占領せんりょうしたばん龍山たつやま堡塁ほうるい起点きてんとして、23にちもちだいへの攻撃こうげきめいじた。しかしばん龍山たつやま堡塁ほうるい占領せんりょうするだいきゅう師団しだん戦力せんりょく予備よび兵力へいりょくふくめてもやく1000めい激減げきげんしており、だい1師団しだんから歩兵ほへいだい15連隊れんたい(大隊だいたいかけ)を応援おうえんまわし、だい11師団しだんひがし鶏冠山けいかんざん堡塁ほうるいへの攻撃こうげき疲弊ひへいした歩兵ほへいだい10旅団りょだん(旅団りょだんちょう山中さんちゅう少将しょうしょう疲労ひろうたおれた土屋つちや師団しだんちょう代理だいり師団しだん本部ほんぶにおり、指揮しき歩兵ほへいだい44連隊れんたい石原いしはら大佐たいさる)を応援おうえんす。戦力せんりょくととのったかくたいは24にち午前ごぜん2より攻撃こうげき開始かいしする[27]

しかしこれらの突入とつにゅう情報じょうほう事前じぜん察知さっちしていたステッセル中将ちゅうじょう指示しじ準備じゅんびととのえていたロシアぐん反撃はんげきかくたい死傷ししょうしゃ続出ぞくしゅつした。午前ごぜん7最後さいご予備よび兵力へいりょく歩兵ほへいだい12連隊れんたいだいいち大隊だいたい投入とうにゅうされるが要塞ようさいからの砲撃ほうげきはげしく突撃とつげき延期えんきされた。

24にち午後ごご5乃木のぎそう攻撃こうげき中止ちゅうし指示しじした。だい一回いっかいそう攻撃こうげきばれたこの攻撃こうげき日本にっぽんぐん戦死せんし5,017めい負傷ふしょう10,843めいというだい損害そんがいこうむり、たいするロシアぐん被害ひがい戦死せんし1,500めい負傷ふしょう4,500めいだった。だい三軍さんぐんはほぼいち師団しだんぶん損害そんがいしたことになる[28]

このころからロシアぐんがわは、旅順りょじゅん港内こうない逼塞ひっそくした太平洋艦隊たいへいようかんたい海軍かいぐん将兵しょうへい複数ふくすう中隊ちゅうたい単位たんい陸戦りくせんたい編成へんせいし、艦船かんせん中小ちゅうしょう口径こうけいほう一部いちぶ陸揚りくあげして陸軍りくぐん部隊ぶたい増援ぞうえんはかった[ちゅう 12]

だいかいそう攻撃こうげき前半ぜんはんせん明治めいじ37ねん9がつ19にち-22にち

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正攻法せいこうほうへの変更へんこう

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だい三軍さんぐんだい一回いっかいそう攻撃こうげき歩兵ほへい突撃とつげきによる強襲きょうしゅうほうおこなったが、これは砲弾ほうだんすう不足ふそく十分じゅうぶん支援しえん砲撃ほうげきができないなかで、大本営だいほんえいからのすみやかなる早期そうき攻略こうりゃく要請ようせいこたえようとしたためであった。しかし要塞ようさいもちだい)にはたず兵力へいりょくだい損害そんがいこうむった。乃木のぎ攻撃こうげき方法ほうほう再考さいこうし、正攻法せいこうほうえるかんがえをかためた。これは占領せんりょうしたばん龍山たつやま東西とうざい堡塁ほうるいから要塞ようさい前面ぜんめんぎりぎりまで塹壕ざんごうすす進撃しんげき確保かくほし、歩兵ほへい進撃しんげきさい十分じゅうぶん支援しえん砲撃ほうげきおこな方式ほうしきであり、麾下きか参謀さんぼう調査ちょうさ地質ちしつ地形ちけい敵情てきじょうなど)や作戦さくせん立案りつあん指示しじした[29]。8月30にちぐん司令しれいかく師団しだん参謀さんぼうちょう工兵こうへい大隊だいたいちょうおさむじょう砲兵ほうへい司令しれい参謀さんぼうなどを招集しょうしゅうし、正攻法せいこうほうへの変更へんこうはか会議かいぎおこなった[30]。しかし前線ぜんせん部隊ぶたい意見いけん砲弾ほうだん不足ふそくなどを理由りゆう強襲きょうしゅうほう継続けいぞく主張しゅちょうつよかった。この会議かいぎは6あいだおよんだが、最終さいしゅうてきには乃木のぎ決断けつだん正攻法せいこうほう変更へんこうすることになり[31]、9月1にちよりロシアぐん近接きんせつするための塹壕ざんごう建設けんせつ開始かいしした[32]

ロシアがわばん龍山たつやま堡塁ほうるいうばわれたのは痛手いたでだった。8月30にちにロシアぐんはコンドラチェンコ少将しょうしょう独断どくだんによりばん竜山たつやまうばかえそうと攻撃こうげきおこなったが、日本にっぽんぐん反撃はんげき攻撃こうげき兵力へいりょくの3わりうしな失敗しっぱいした[33]

9月15にちだい三軍さんぐんたいごう建設けんせつ目途もくとち、兵員へいいん弾薬だんやく補充ほじゅうできた。17にちかく部隊ぶたい指示しじし、部分ぶぶんてき攻撃こうげきを19にち開始かいしするよう命令めいれいした。今回こんかいだい1師団しだんだい9師団しだん攻撃こうげき担当たんとうし、だい11師団しだん前面ぜんめんてき牽制けんせいになった[34]

だい1師団しだん攻撃こうげき

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19にち午前ごぜん845ふんおさむじょう砲兵ほうへいてき牽制けんせい砲撃ほうげき開始かいし午後ごご1には攻略こうりゃく目標もくひょうである龍眼りゅうがん北方ほっぽうみず営両堡塁ほうるい砲撃ほうげき集中しゅうちゅうした。午後ごご5ごろだい1師団しだん左翼さよくたい(歩兵ほへいだい2旅団りょだん)はみず営第1堡塁ほうるいへの突撃とつげき開始かいしした。しかしそとごう突破とっぱ手間取てまどだい損害そんがいこうむ[35]中央ちゅうおうたい(歩兵ほへいだい1旅団りょだん)は順調じゅんちょう進撃しんげきし、目標もくひょう南山なんざん坡山の北角きたずみ占領せんりょうする[36]右翼うよくたい(後備こうび歩兵ほへいだい1旅団りょだん)はこの攻撃こうげきより目標もくひょうくわえられた203高地こうち攻撃こうげきまかされる。しかしここもてきもうしゃびてだい損害そんがいこうむってしまう[37]

20日はつか苦戦くせんする左翼さよくたいだい9師団しだん龍眼りゅうがん北方ほっぽう堡塁ほうるい占領せんりょう成功せいこうしたという一報いっぽうはいる。奮起ふんきした同隊どうたいだい4堡塁ほうるい突撃とつげき敢行かんこうしこれを占領せんりょうさらおさむじょう砲兵ほうへいだい1堡塁ほうるい砲撃ほうげき開始かいしてき沈黙ちんもく午前ごぜん11にはみず営のぜん堡塁ほうるい日本にっぽんぐんちた。中央ちゅうおうたい山頂さんちょう白兵戦はくへいせんをしつつも午後ごご5には南山なんざん坡山を占領せんりょうした。

しかし203高地こうち攻略こうりゃく容易よういではなく、なんとか山頂さんちょう一角いっかく占領せんりょうしつつも直後ちょくごにロシアぐんだい逆襲ぎゃくしゅうはじまり、午前ごぜん5には山頂さんちょううばわれたばかりかだい2せんうばわれ後備こうび歩兵ほへいだい16連隊れんたいちょう負傷ふしょうした。そのだい1師団しだん師団しだん砲兵ほうへい総力そうりょくげて203高地こうち砲撃ほうげきし、前線ぜんせん幾度いくどとなく増援ぞうえんおくるも道中どうちゅう敵陣てきじんからの攻撃こうげき前線ぜんせん辿たどいたものはいなかった。突撃とつげきよく21にちおこなわれたが効果こうかがなく、結局けっきょく攻撃こうげき断念だんねんする。担当たんとうした右翼うよくたい残存ざんそん兵力へいりょくは310めいにまで激減げきげんしていた。

だい9師団しだん攻撃こうげき

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どう師団しだん右翼うよくたい(歩兵ほへいだい18旅団りょだん)の歩兵ほへいだい19連隊れんたい龍眼りゅうがん北方ほっぽう堡塁ほうるい正面しょうめんを、歩兵ほへいだい36連隊れんたいどう堡塁ほうるい咽喉いんこう背後はいご交通こうつうごうへの攻撃こうげきおこな[38]。しかしここでも要塞ようさいがわ反撃はんげきだい損害そんがいける。しかしよく20にちおさむじょう砲兵ほうへい支援しえん砲撃ほうげき開始かいしすると堡塁ほうるいまたた抵抗ていこうりょくうしない、午前ごぜん5には攻略こうりゃく成功せいこうする[39]

28センチ榴弾りゅうだんほう投入とうにゅう

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だい一回いっかいそう攻撃こうげき失敗しっぱいわったのち東京湾とうきょうわん要塞ようさいおよびげい要塞ようさい配備はいびされていた旧式きゅうしきたいかん攻撃こうげきようだったはちセンチ榴弾りゅうだんほう当時とうじじゅうはちせんちめーとるほうばれた)が戦線せんせん投入とうにゅうされることになった[ちゅう 13]通常つうじょうはコンクリートでほうほう台座だいざのこと)を固定こていしているため戦地せんち設置せっちするのは困難こんなんとされていたが、これら懸念けねん工兵こうへい努力どりょくによって克服こくふくされた。

はちセンチ榴弾りゅうだんほうは10月1にちきゅう市街地しがいち港湾こうわんたいして砲撃ほうげき開始かいし20日はつか占領せんりょうした南山みなみやま坡山を観測かんそくてんとして湾内わんない艦船かんせんにも命中めいちゅうだんあた損害そんがいをもたらした[40]。しかし艦隊かんたい自身じしん黄海こうかい海戦かいせんですでに戦力せんりょく喪失そうしつしており、この砲撃ほうげき劇的げきてき戦果せんかをもたらしたわけではなかったが[41]要塞ようさい攻撃こうげきにも効果こうかありと判断はんだんほうやしていき最終さいしゅうてきに18もん投入とうにゅうされた[42]

たいごう建設けんせつ再開さいかい砲弾ほうだん不足ふそく

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このたたかいでの損害そんがい日本にっぽんぐん戦死せんし924めい負傷ふしょう3,925めい。ロシアぐん戦死せんしやく600めい負傷ふしょうやく2,200めいだった[43]。 24にちよりかく部隊ぶたい攻撃こうげき目標もくひょうけてのたいごう建設けんせつ再開さいかいしたがてきちかづくにつれて相手あいてからの阻害そがい攻撃こうげきはげしくなり工事こうじ停滞ていたいする[44]。それでもかく師団しだん奮闘ふんとう突撃とつげき陣地じんち構築こうちくを18にちには完了かんりょうする[45]。これをけてだい三軍さんぐん再度さいどそう攻撃こうげき決断けつだんした。当時とうじは28センチ榴弾りゅうだんほう追加ついか送付そうふぶん準備じゅんび出来できる10がつ27にちごろそう攻撃こうげきかんがえていたが、かくほう砲弾ほうだん不足ふそく深刻しんこくしだしていた。乃木のぎ大本営だいほんえいに1もん300はつ補給ほきゅう要請ようせいした(ちなみに当時とうじ要塞ようさいとすさい必要ひつよう砲弾ほうだんすうは1もんにつき1000はつ基本きほんてきかずだった)が、補給ほきゅうけること出来できなかった[46]。また10がつ16にちにはロシアだい太平洋艦隊たいへいようかんたいがリバウこう出航しゅっこうしたことけ、乃木のぎ砲弾ほうだん不足ふそく承知しょうちだいそう攻撃こうげきおこなわざるをない状況じょうきょうにおかれた[47]

だいかいそう攻撃こうげき後半こうはんせん明治めいじ37ねん10がつ26にち-30にち

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10月18にちだい三軍さんぐん龍山たつやま堡塁ほうるいと、松樹まつきやま堡塁ほうるい同時どうじ攻略こうりゃく計画けいかくてた。双方そうほう堡塁ほうるい密接みっせつ関係かんけいり、攻撃こうげき区分くぶんではだい9師団しだん担当たんとうであったが戦力せんりょく余裕よゆうがなく、松樹まつきやま堡塁ほうるい攻撃こうげきだい1師団しだん担当たんとうすることにした[47]。 23にちだい三軍さんぐんかく参謀さんぼうちょう会議かいぎおこない、26にちそう攻撃こうげき決定けっていした。だい1師団しだん松樹まつきやま堡塁ほうるいだい9師団しだん龍山たつやま堡塁ほうるいばん龍山たつやま堡塁ほうるい東南とうなん独立どくりつ堡塁ほうるいだい11師団しだんひがし冠山かんざんかく堡塁ほうるい(ただ攻撃こうげきだい1・9りょう師団しだん攻撃こうげき成功せいこうしたのち)を攻撃こうげき目標もくひょうとする[48]。 この時点じてんでの主要しゅよう部隊ぶたい戦力せんりょく

  • だい1師団しだん 6869めい(将校しょうこうふくむ・以下いかどう)
  • だい9師団しだん 7277めい
  • だい11師団しだん 6940めい
  • 後備こうび歩兵ほへいだい1旅団りょだん 3636めい
  • 後備こうび歩兵ほへいだい4旅団りょだん 3368めい

であった[49]早朝そうちょうよりのおさむじょう砲兵ほうへいによる砲撃ほうげきのち、まずだい1師団しだんだい9師団しだん攻撃こうげき開始かいしした。

だい1師団しだん攻撃こうげき

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だい1師団しだんでは左翼さよくたい歩兵ほへいだい2連隊れんたいてきへいごう動揺どうようとら突入とつにゅうしこれを制圧せいあつ。ここから松樹まつきやま坑道こうどうすすむ開始かいしする[49]。ロシアがわ坑道こうどうり、爆薬ばくやく仕掛しかけて日本にっぽんがわ坑道こうどう破壊はかいするなどで抵抗ていこうした。29にちになるとロシアぐん逆襲ぎゃくしゅうてん午前ごぜん7へいごう奪取だっしゅされる。だい1師団しだんただちに逆襲ぎゃくしゅうてんじて午後ごご130ふんにはこれをうばかえ[50]

よく30にちおさむじょう砲兵ほうへい事前じぜん砲撃ほうげきのちだい2連隊れんたい松樹まつきやま堡塁ほうるいへの突撃とつげき開始かいしした。周囲しゅういからの砲火ほうかびながら連隊れんたい敵塁てきるい真下ましたまで進出しんしゅつするがそとごう突破とっぱ手間取てまどっているあいだだい損害そんがいこうむりやむなく撤退てったいする[51]。そのためそとごうがいがんからの坑道こうどう作業さぎょうはいるが攻撃こうげき準備じゅんび完了かんりょうまで期日きじつようすることになる[51]

だい9師団しだん攻撃こうげき

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だい9師団しだん右翼うよくたい歩兵ほへいだい19連隊れんたい龍山たつやま堡塁ほうるいはすつつみへいごう占領せんりょう坑道こうどうすすむ開始かいしする[49]さら左翼さよくたい歩兵ほへいだい7連隊れんたいばん龍山たつやまきた堡塁ほうるい突撃とつげきし、その1かく制圧せいあつする[51]龍山たつやま堡塁ほうるいでは松樹まつきやま同様どうようみどろの坑道こうどうせん展開てんかいされる。

30にち、まず右翼うよくたい龍山たつやま堡塁ほうるいそとごう破壊はかいりかかる。しかし敵塁てきるいからの集中しゅうちゅう射撃しゃげき松樹まつきやまからのがわぼう射撃しゃげきはばまれ占領せんりょう確保かくほするのがやっとであった[51]他方たほういち少将しょうしょう指揮しきする左翼さよくたいばんりゅう山東さんとう堡塁ほうるい東南とうなん独立どくりつ堡塁ほうるい(P堡塁ほうるい)への攻撃こうげき開始かいし午後ごご1工兵こうへいたい爆破ばくはした突撃とつげき使つかって歩兵ほへいだい35連隊れんたい突入とつにゅうわずか2ふん堡塁ほうるい制圧せいあつする[52]

しかし午後ごご1030ふんごろ、ロシアぐん逆襲ぎゃくしゅうてんじ、占領せんりょう部隊ぶたい将校しょうこう多数たすううしな退却たいきゃくした。堡塁ほうるいしたにいたいち少将しょうしょう退却たいきゃくほうけると予備よび1個いっこ中隊ちゅうたいみずかひきいて奪還だっかんかい、奪取だっしゅ成功せいこうした。いち少将しょうしょう勇猛ゆうもう活躍かつやくぶりから、のちにこの堡塁ほうるいは「いち堡塁ほうるい」と命名めいめいされる[52]

だい11師団しだん攻撃こうげき

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だい11師団しだん待機たいきしていたが松樹まつきやま龍山たつやま占領せんりょうがまだなので攻撃こうげきできずにいた。しかしすで攻撃こうげき準備じゅんびととのっており、このさい多少たしょう犠牲ぎせい覚悟かくごして突撃とつげきすべしという結論けつろんになり、30にちより攻撃こうげき開始かいしする[53]

30にち午後ごご1、まず右翼うよくたい歩兵ほへいだい22連隊れんたいひがし鶏冠けいかん山北さんぽく堡塁ほうるい攻撃こうげきしその1かく制圧せいあつ。しかしだい2堡塁ほうるいかった歩兵ほへいだい44連隊れんたい集中しゅうちゅう砲火ほうかびて壊滅かいめつする[52]

中央ちゅうおうたい歩兵ほへいだい12連隊れんたいだい1堡塁ほうるいかう。前面ぜんめんへいごうらしつつ進撃しんげき砲台ほうだい占領せんりょうした。しかし周囲しゅういからの射撃しゃげき被害ひがい続出ぞくしゅつし、戦線せんせん維持いじ困難こんなんになり退却たいきゃく余儀よぎなくされる[54]

31にちいま士気しき旺盛おうせい右翼うよくたいそとがんがわぼう制圧せいあつ。しかし血気けっきにはやる一部いちぶ部隊ぶたい砲兵ほうへい支援しえんたずに突撃とつげき壊滅かいめつ結局けっきょくだい11師団しだんひがし鶏冠山けいかんざん制圧せいあつできず、坑道こうどう作業さぎょう移行いこうしていく[55]

そう攻撃こうげき中止ちゅうし

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日本にっぽんぐん戦死せんし1,092めい負傷ふしょう2,782めい損害そんがいすが、ロシアぐん戦死せんし616めい負傷ふしょう4,453めい日本にっぽんぐん以上いじょう損害そんがいけた。乃木のぎかく師団しだん坑道こうどう作業さぎょうはいったこと作業さぎょう完了かんりょうまでには期日きじつ必要ひつよう判断はんだんそう攻撃こうげきった[56]

日本にっぽんぐん前半ぜんはんせん作戦さくせん目的もくてきは203高地こうち以外いがい達成たっせいした。しかし後半こうはん主要しゅよう防衛ぼうえいせんへの攻撃こうげきだい9師団しだんがP堡塁ほうるい占領せんりょうした以外いがい失敗しっぱい。このため日本にっぽんがわだいそう攻撃こうげき失敗しっぱいかんがえた。

だいさんかいそう攻撃こうげき明治めいじ37ねん11月26にち-12月6にち

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だいかいそう攻撃こうげき失敗しっぱいバルチック艦隊かんたい来航らいこう危機ききかんつのらせる海軍かいぐん失望しつぼうさせ、要塞ようさい攻略こうりゃくよりも艦隊かんたい殲滅せんめつ優先ゆうせんし、観測かんそく射撃しゃげきのための拠点きょてんるため203高地こうち攻略こうりゃくすべしという意見いけんてくるようになる[57]他方たほうだい三軍さんぐん上級じょうきゅう司令しれいであるまんしゅうぐん当初とうしょより要塞ようさい攻略こうりゃく優先ゆうせんする方針ほうしんえず、そのためにもちだいだいいち攻略こうりゃく目標もくひょうにすることをえなかった。またもちだい攻略こうりゃくへの寄与きよちいさい203高地こうち攻略こうりゃくには反対はんたいだった。だい三軍さんぐんかいそう攻撃こうげき失敗しっぱいしたとはいえ、ひがし鶏冠山けいかんざん堡塁ほうるい一部いちぶ同山どうさんだいいち堡塁ほうるいいち堡塁ほうるい占領せんりょうすることには成功せいこうし、東北とうほく正面しょうめん防衛ぼうえいせんをあといちくことが出来できたので、つづ要塞ようさい正面しょうめんおもおさむにするという立場たちばだった[58]

11月14にち、203だか地主じぬしおさむ固執こしつする参謀さんぼう本部ほんぶ御前ごぜん会議かいぎで「203だか地主じぬしおさむ」を決定けっていする[59]。しかしまんしゅうぐんそう司令しれいかん大山おおやまいわお元帥げんすいはこれをれなかった。大本営だいほんえいからの要旨ようしにある「旅順りょじゅん港内こうない俯瞰ふかん地点ちてん占領せんりょうし、港内こうない敵艦てきかん造兵ぞうへいしょうなどに打撃だげきあずかうることをのぞむ」で、203高地こうち直接ちょくせつ名指なざしして命令めいれいしていないことを逆手さかてり、「だい三軍さんぐん司令しれいかんをして、是迄これまで計画けいかくしたが鋭意えいい果敢かかん攻撃こうげき実行じっこうせしめ、旅順りょじゅん死命しめいせいるべき『もちだい』の高地こうち一挙いっきょ占領せんりょうせしむるの方針ほうしんをとるべし…」[60]。「203高地こうちとしても観測かんそくてんとして利用りようするだけでしかなく、ほうそなえて敵艦てきかんしずめるには長大ちょうだい期日きじつようし、目的もくてき達成たっせいできない」[61]。などと反論はんろんし、要塞ようさい東北とうほく方面ほうめん攻略こうりゃく立場たちばくずさなかった。そう参謀さんぼうちょう児玉こだま源太郎げんたろう大将たいしょうも、10がつまでの観測かんそく砲撃ほうげき旅順りょじゅん艦隊かんたい軍艦ぐんかん機能きのううしなわれたと判断はんだんして艦船かんせんへの砲撃ほうげき禁止きんしだい三軍さんぐんめいじた[62]。また海軍かいぐんのバルチック艦隊かんたい来航らいこう脅威きょうい必要ひつよう以上いじょう誇張こちょうし、海軍かいぐん都合つごうだけかんがえて海上かいじょう輸送ゆそう中止ちゅうししようとする一連いちれんうごきにたい抗議こうぎした[63]。こういった上層じょうそう意見いけんちがいは乃木のぎだい3ぐん混乱こんらんさせ、だいさんかいそう攻撃こうげきあんおおきく影響えいきょうあたえた。

11月中旬ちゅうじゅんばん竜山たつやまいちりょうるいから両側りょうがわ竜山たつやまひがし鶏冠けいかん山保やまほるい直下ちょっかまで塹壕ざんごうることに成功せいこうしさらに中腹ちゅうふくからトンネルを胸壁きょうへきそとがんがわぼう爆破ばくはすることを計画けいかく[64]そう攻撃こうげきは11月26にち決定けっていされた。また参謀さんぼう本部ほんぶ内地ないちのこっていた最後さいご現役げんえきへい師団しだん精鋭せいえいだい7師団しだん投入とうにゅう部隊ぶたいだい1、だい9師団しだんあいだ配置はいちそう予備よびとした[65]

かく師団しだん攻撃こうげき

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11月26にち松寿山しょうじゅさん堡塁ほうるい攻撃こうげきになだい1師団しだん左翼さよくたい午後ごご1よりそとごうより突撃とつげきした。しかしひそめていたロシアぐん奇襲きしゅう周囲しゅういからの集中しゅうちゅう砲火ほうかうちごうてきへい逆襲ぎゃくしゅう突撃とつげきしたへい壊滅かいめつ午後ごご250ふんにはそと斜面しゃめん退却たいきゃくするしかなかった[66]

だい9師団しだん午後ごご1より龍山たつやま堡塁ほうるい突撃とつげき開始かいしした。松寿山しょうじゅさん堡塁ほうるいなどからのがわしゃけてだい損害そんがいけたが突入とつにゅうつづけ、なんとか敵前てきぜん100mのすき到達とうたつするがそれ以上いじょう進撃しんげきできなかった[67]

だい11師団しだんひがし鶏冠けいかん山北さんぽく堡塁ほうるいむねとう2箇所かしょ爆薬ばくやく仕掛しか点火てんか。その歩兵ほへいだい22連隊れんたい突入とつにゅうした。しかしてき堡塁ほうるい破壊はかいわずかで白兵戦はくへいせんとなりおおくの犠牲ぎせいをだす。午後ごご140ふんには土屋つちや師団しだんちょう重傷じゅうしょう陣地じんち争奪そうだつ激化げきか占領せんりょう維持いじ出来できなかった[68]

しろたすきたい突入とつにゅう

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26にち夜半やはんだいさんかいそう攻撃こうげきにあたってとく編成へんせいされた特別とくべつ予備よびたい以下いかしろたすきたい」。3,113めいそう指揮しきかん歩兵ほへいだい2旅団りょだんちょう中村なかむらさとし少将しょうしょう)が攻撃こうげきおこなった。この部隊ぶたいは、夜間やかんてき味方みかた識別しきべつ目的もくてきとして全員ぜんいんしろたすき着用ちゃくようしていた[69]しろたすきたい午後ごご5薄暮はくぼなか行動こうどう開始かいし集結しゅうけつてんつきのぼるのをち、午後ごご830ふん目標もくひょううごした[70]

午後ごご850ふんしろたすきたい一斉いっせい突入とつにゅう開始かいしした。しかし目標もくひょう松樹まつきやまだい4砲台ほうだい西北せいほくかくには幾重いくえにもめぐらされた鉄条てつじょうもうがあり、その切断せつだん作業さぎょうちゅうがわより攻撃こうげきける。しろたすきたいはひるまず突入とつにゅうさんへいごう目指めざすが前方ぜんぽうめてあった地雷じらいにより前線ぜんせん部隊ぶたいはほとんど全滅ぜんめつ後続こうぞく部隊ぶたい奮戦ふんせんするが死傷ししょうしゃ相次あいつだい1せんへいごうまで後退こうたいする[71]

午後ごご1030ふんごろ指揮しきっていた中村なかむら少将しょうしょうてきだんけて負傷ふしょう、その同隊どうたいよく27にち午前ごぜん2ごろまで激戦げきせんひろげるも突破とっぱ不可能ふかのう判断はんだんされ、退却たいきゃくとなった[72]

この攻撃こうげき敵陣てきじん突破とっぱ失敗しっぱいし、この時点じてんでのだい三軍さんぐん損害そんがいやく7せんめいたっした。しかしまもるロシアがわ一時いちじ龍山たつやま堡塁ほうるい守備しゅびへいすうめいになり、松寿山しょうじゅさんだい4砲台ほうだい予備よび兵力へいりょくが10めいになるなど、もうすこしで突破とっぱゆるしてしまうような状況じょうきょうまれており[73]、ロシアがわにもしろたすきたい勇敢ゆうかんさに驚嘆きょうたんする記述きじゅつおおのこされている。

203高地こうちへのしゅおさむ変更へんこう

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11月27にち未明みめい乃木のぎ当初とうしょ攻撃こうげき計画けいかく頓挫とんざしたことで攻撃こうげき目標もくひょう要塞ようさい正面しょうめんから203高地こうち変更へんこうすることをかんがえ、てき味方みかた兵員へいいん消耗しょうもうせん決心けっしんをした。だい三軍さんぐん参謀さんぼう白井しらい二郎じろう少佐しょうさだい1師団しだんに203高地こうち攻撃こうげき打診だしんしたところ快諾かいだく[74]まんしゅうぐん司令しれいより派遣はけんされていた福島ふくしま安正やすまさ少将しょうしょうはこの意見いけん反対はんたいべ、あくまでも要塞ようさい東北とうほく方面ほうめん攻撃こうげき主張しゅちょうしたが、乃木のぎ判断はんだんで203高地こうちへの本格ほんかくてき攻撃こうげき決定けっていされる[75]

午前ごぜん10軍命ぐんめいれい東北とうほく方面ほうめん攻撃こうげき一時いちじ中止ちゅうしだい1師団しだん中核ちゅうかくとした203高地こうち攻撃こうげきおこなうことが下達かたつ午後ごご5には大本営だいほんえいまんしゅうぐんそう司令しれいにそのような主旨しゅし報告ほうこくおこな[76]指示しじけたおさむじょう砲兵ほうへい司令しれいただちに砲撃ほうげきを203高地こうち変更へんこうし、28センチ榴弾りゅうだんほうぜんほうをもって砲撃ほうげき開始かいしした[76]砲兵ほうへいだい2旅団りょだんは203高地こうち攻撃こうげきさいして妨害ぼうがい攻撃こうげきをするであろうてきかく砲台ほうだいへの砲撃ほうげき開始かいしした。たいするロシアぐんは203高地こうちに500めい、その北東ほくとうろうとらみぞさん標高ひょうこう177m)にせんめいへいはいし、万全ばんぜん体制たいせいをとっていた[77]

203高地こうち攻撃こうげき

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27にち午後ごご6、28センチ榴弾りゅうだんほう事前じぜん射撃しゃげきにより203高地こうち中腹ちゅうふくへいごう破壊はかい午後ごご620ふんだい1師団しだん右翼うよくたい後備こうび歩兵ほへいだい1旅団りょだん)、中央ちゅうおうたい歩兵ほへいだい1旅団りょだん)が突撃とつげき開始かいしした。てき砲台ほうだいおさむじょう砲兵ほうへいおよ師団しだん砲兵ほうへい制圧せいあつし、右翼うよくたい鉄条てつじょうもう排除はいじょしつつ前進ぜんしんし、一部いちぶは203高地こうち西南せいなんてきだい2せんへいごう左翼さよく奪取だっしゅした。さら前進ぜんしんつづけるも周囲しゅういからのてきだい口径こうけいほう援護えんご砲撃ほうげき損害そんがいこうむ[78]

中央ちゅうおうたいろうとらみぞさん突撃とつげき開始かいし山頂さんちょうへいごう一部いちぶうばうがよるになっててき逆襲ぎゃくしゅうにより撤退てったいした[78]

よく28にちだい1師団しだんふたた攻撃こうげき開始かいしした。右翼うよくたい後備こうび歩兵ほへいだい38連隊れんたい増援ぞうえんけ8ごろ突撃とつげき開始かいしだい2せんへいごううばうが死傷ししょうしゃ続出ぞくしゅつ現在地げんざいち確保かくほしらげいちはいになる[79]友安ともやす旅団りょだんちょう後備こうび歩兵ほへいだい16連隊れんたい増援ぞうえんまわし、1030ふん山頂さんちょう突撃とつげき頂上ちょうじょう制圧せいあつした。しかしさまロシアぐん逆襲ぎゃくしゅうにあい山頂さんちょう奪還だっかんされる[80]。それでも左翼さよくたいねばづよ攻撃こうげきつづけ、正午しょうごごろには西部せいぶ山頂さんちょうの1奪回だっかいてき逆襲ぎゃくしゅうそなえた[79]

一方いっぽう中央ちゅうおうたいは203高地こうち東北とうほくたいする攻撃こうげき意図いと攻撃こうげき準備じゅんびをしていたが、そのあいだてき攻撃こうげきけて歩兵ほへいだい1連隊れんたいちょう寺田てらだすずるい大佐たいさ重傷じゅうしょうい、まもなく戦死せんしする[81]。それでも旅団りょだんちょう馬場ばばいのちえい少将しょうしょうみずか指揮しき突撃とつげきかえすも効果こうかなく、一時いちじ東北とうほく山頂さんちょう占領せんりょうするも、てき奪還だっかんされた。

11月29にち午前ごぜん2だい1師団しだんより現在げんざい師団しだん兵力へいりょくでは203高地こうち攻略こうりゃくむずかしいむね連絡れんらくぐん司令しれいとど[82]、これをけて乃木のぎ予備よびだい7師団しだん投入とうにゅう決意けつい午前ごぜん3麾下きかかく部隊ぶたいまんしゅうぐんそう司令しれい大本営だいほんえいにそのむね連絡れんらくした。この直後ちょくごまんしゅうぐんより児玉こだまそう参謀さんぼうちょう旅順りょじゅんおもむむね連絡れんらくはい[83]

午前ごぜん7だい7師団しだんちょう大迫おおさこしょうさとし中将ちゅうじょう高崎山たかさきやまだい1師団しだん司令しれい到着とうちゃくし、203高地こうち攻撃こうげき指揮しきけん継承けいしょうした。大迫おおさこだい7師団しだんだい1師団しだん残存ざんそん兵力へいりょく攻撃こうげき部署ぶしょめる。

  • 203高地こうち攻撃こうげきとも安治あわじのべ後備こうび歩兵ほへいだい1旅団りょだんちょう少将しょうしょう指揮しき
    • 歩兵ほへいだい1連隊れんたい1.3大隊だいたい歩兵ほへいだい26連隊れんたい2大隊だいたい歩兵ほへいだい28連隊れんたい後備こうび歩兵ほへいだい15連隊れんたい1.3大隊だいたい後備こうび歩兵ほへいだい16連隊れんたい後備こうび歩兵ほへいだい38連隊れんたい2大隊だいたい工兵こうへい1個いっこ中隊ちゅうたい
  • ろうとらみぞさん攻撃こうげきたい吉田よしだ清一せいいちだい7師団しだん歩兵ほへいだい13旅団りょだんちょう少将しょうしょう指揮しき
    • 歩兵ほへいだい1連隊れんたい2大隊だいたい歩兵ほへいだい15連隊れんたい2大隊だいたい歩兵ほへいだい25連隊れんたい3大隊だいたい歩兵ほへいだい26連隊れんたい工兵こうへい1個いっこ大隊だいたいはん
  • 砲兵ほうへいたい兵頭ひょうどうまさほまれ野戦やせん砲兵ほうへいだい1連隊れんたいちょう大佐たいさ指揮しき
    • 野戦やせん砲兵ほうへいだい1連隊れんたい野戦やせん砲兵ほうへいだい7連隊れんたい野戦やせん重砲じゅうほうへいだい1連隊れんたい1大隊だいたい[84]

30にち午前ごぜん6おさむじょう砲兵ほうへい砲撃ほうげき開始かいし、まず歩兵ほへいだい28連隊れんたい山頂さんちょう東北とうほく突入とつにゅうだいさん攻撃こうげき陣地じんちまで前進ぜんしんするがてきもうしゃ釘付くぎづけにされる。西南せいなん山頂さんちょう後備こうび歩兵ほへいだい15.16連隊れんたいかうがこれもがわしゃけて損害そんがいこうむ攻撃こうげき断念だんねんする[85]

ろうとらみぞさん攻撃こうげき午前ごぜん10より開始かいしされ、午後ごご1まで幾度いくどとなく波状はじょう攻撃こうげきかえすがことごと撃退げきたいされる[86]

午後ごご450ふんだい1師団しだんちょうより攻撃こうげき再開さいかいいのちくだる。640ふん東北とうほく山頂さんちょう突入とつにゅうし、接戦せっせんのすえ一部いちぶ占領せんりょう成功せいこう。その一進一退いっしんいったい攻防こうぼう占領せんりょう一角いっかく死守ししゅすることに成功せいこうした。 午後ごご5には203高地こうち完全かんぜん占領せんりょうほうとどき、大本営だいほんえいまんしゅうぐんつたわるが誤報ごほうで、よく12がつ1にち午前ごぜん2にはてき奪還だっかんされる[87]

夜半やはん友安ともやす少将しょうしょう増援ぞうえん中隊ちゅうたいひきいて前線ぜんせんかうむねかく部隊ぶたい伝令でんれいすが、その任務にんむびていた副官ふっかん乃木のぎ保典やすのり少尉しょうい乃木のぎ希典まれすけ大将たいしょう次男じなん)は銃弾じゅうだんけて戦死せんしする[88]

12月1にち死傷ししょうしゃ収容しゅうよう態勢たいせいととのえるため、4にちまで攻撃こうげき延期えんきする[89]正午しょうごまんしゅうぐん司令しれいから旅順りょじゅんかった児玉こだまみつるしゅうぐんそう参謀さんぼうちょう到着とうちゃく。その途上とじょう、203高地こうち陥落かんらくほうけたがのち奪還だっかんされたことをった児玉こだま大山おおやまみつるしゅうぐんそう司令しれいかん電報でんぽうち、北方ほっぽう戦線せんせん移動いどうちゅうだい8師団しだん歩兵ほへいだい17連隊れんたい南下なんかさせるように要請ようせいした[90]

12月1にちから3日間にちかん攻撃こうげき準備じゅんびて、だい3ぐん攻撃こうげき部隊ぶたい整理せいり大砲たいほう陣地じんち変換へんかんおこなった[90]

12月4にち早朝そうちょうから203高地こうち攻撃こうげき開始かいしし、5にち9ぎより、だい7師団しだん歩兵ほへい27連隊れんたい死守ししゅしていた西南せいなん一角いっかく拠点きょてんだい7師団しだん残余ざんよだい1師団しだん一部いちぶ構成こうせいされた攻撃こうげきたい西南せいなんるい全域ぜんいき攻撃こうげきし10ぎには制圧せいあつした[91]

12月5にち1345ふんごろより態勢たいせいととの東北とうほく堡塁ほうるい攻撃こうげき開始かいしし、22にはロシアぐん撤退てったいし203高地こうち完全かんぜん占領せんりょうした。よく6にち乃木のぎ徒歩とほで203高地こうちのぼ将兵しょうへいねぎらうが、攻撃こうげきたいは900めいほど激減げきげんしていた[92]

12月5にちの203高地こうち陥落かんらく同地どうちもうけられた観測かんそくしょ利用りよう日本にっぽんがわ湾内わんない旅順りょじゅん艦隊かんたい残余ざんよ砲撃ほうげき開始かいしする。かくかんだい多数たすうはそれまでの海戦かいせん観測かんそく射撃しゃげき破壊はかいされ、要塞ようさい攻防こうぼうせん補充ほじゅうのため乗員じょういん搭載とうさい火砲かほう陸揚りくあげし戦力せんりょくうしなっていたが、日本にっぽんがわはこれらにたいしても28センチ榴弾りゅうだんほう砲弾ほうだんおくみ、旅順りょじゅん艦隊かんたい艦艇かんてい次々つぎつぎ被弾ひだんした。砲弾ほうだん戦艦せんかんかんそこつらぬけなかったが、おおくの艦艇かんてい自沈じちん処理しょりがなされた[ちゅう 14]。5にち戦艦せんかんポルターヴァ後部こうぶだん火薬かやく誘爆ゆうばくそこ翌日よくじつには戦艦せんかんレトヴィザンていし、8にちペレスヴェートポベーダりょう戦艦せんかん防護ぼうご巡洋艦じゅんようかんパラーダともちゃくそこした。9にちには装甲そうこう巡洋艦じゅんようかんバヤーン同様どうよう運命うんめいをたどった。大型おおがたかんのこったのはセヴァストーポリのみとなり[93]、8にち深夜しんや港外こうがい脱出だっしゅつした。

この攻撃こうげきでの損害そんがい日本にっぽんぐん戦死せんし5,052めい負傷ふしょう11,884めい。ロシアぐん戦死せんし5,380めい負傷ふしょうしゃは12,000めいちかくにたっした。りょうぐんがこの攻防こうぼう兵力へいりょくおおきく消耗しょうもうした。203高地こうちからはロシア太平洋艦隊たいへいようかんたいのほぼ全滅ぜんめつ確認かくにんされ、児玉こだまは12月7にちまんしゅうぐん司令しれいもどった[92]

脱出だっしゅつして旅順りょじゅん港外こうがいにいた戦艦せんかんセヴァストポリ随伴ずいはん艦艇かんていたいしては、日本にっぽん海軍かいぐんは30せき水雷すいらいてい攻撃こうげきし、12月15にち深夜しんや攻撃こうげき同艦どうかんていし、航行こうこう不能ふのうとなった[94]

要塞ようさい東北とうほくめん突破とっぱとロシアぐん降伏ごうぶく

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みず営の会見かいけん乃木のぎ将軍しょうぐん降伏ごうぶくしたロシア将兵しょうへいへの帯剣たいけんゆるした

12月10にちだい11師団しだんによるひがし鶏冠けいかん山北さんぽく堡塁ほうるいへの攻撃こうげき開始かいし。15にち勲章くんしょう授与じゅよのため兵舎へいしゃおとずれていたコンドラチェンコ少将しょうしょうはちセンチ榴弾りゅうだんほう直撃ちょくげき戦死せんしした。

18にちには日本にっぽんぐん工兵こうへい胸壁きょうへきけた2トンの爆薬ばくやくによる爆破ばくは胸壁きょうへき崩壊ほうかい、ロシアぐんわずか150めい守備しゅびへいしかいなかったが反撃はんげきだい11師団しだん戦死せんし151めい負傷ふしょう699めいもの損害そんがい激戦げきせんすえ夜半やはん占領せんりょうした。ロシアがわは150めいちゅう92めい戦死せんしするという玉砕ぎょくさいちか抵抗ていこうだった[95]乃木のぎ司令しれい以降いこう胸壁きょうへき塹壕ざんごう完全かんぜん破壊はかいしてから突撃とつげきうつ方針ほうしんつづけた。

28にちにはだい9師団しだんによる竜山たつやま堡塁ほうるいへの攻撃こうげきはじまる[96]胸壁きょうへきを3トンじゃく爆薬ばくやく爆破ばくはし300めい守備しゅびへい半数はんすうめとなるがざんへいはげしく抵抗ていこう水兵すいへい増援ぞうえんもあり双方そうほう射撃しゃげきせんになる。しかし歩兵ほへいだい36連隊れんたい後方こうほうまわみ、それをたロシアぐん守備しゅびたい撤退てったいにより、29にち3つい占領せんりょうされた。だい9師団しだん戦死せんし237めい負傷ふしょう953めい損害そんがいこうむり、ロシアぐんも300めい以上いじょう死者ししゃした[97]

31にちだいいち師団しだんによる松樹まつきやま堡塁ほうるいへの攻撃こうげきはじまりロシアぐん守備しゅびへい208めいのうち坑道こうどう爆破ばくは半数はんすう死亡しぼう占拠せんきょした竜山たつやまたもつるいからの援護えんご射撃しゃげきもあり後方こうほう遮断しゃだんすることに成功せいこう、11降伏ごうぶくした。だいいち師団しだん戦死せんし18めい負傷ふしょう169めい損害そんがいこうむりロシアぐん生存せいぞんしゃは103めいだった[98]

1がつ1にち未明みめいより日本にっぽんぐん重要じゅうよう拠点きょてんであるとら頭山つむりやまもちだいへの攻撃こうげき開始かいしし、午後ごごになってもちだい占領せんりょうした。

ロシアぐんはそれまで203高地こうち攻防こうぼうなどで予備よび兵力へいりょく枯渇こかつし、コンドラチェンコ少将しょうしょう戦死せんししたなかでも抗戦こうせん意志いしてていなかった。しかし東北とうほくめん主要しゅようるいもちだい)がちたことで旅順りょじゅん要塞ようさい司令しれいかんステッセリはつい抗戦こうせん断念だんねんし、1がつ1にち16時半じはん日本にっぽんぐん降伏ごうぶくもうれた[99]

5にち旅順りょじゅん要塞ようさい司令しれいかんステッセリと乃木のぎ旅順りょじゅん近郊きんこうみず営で会見かいけんし、たがいの武勇ぶゆう防備ぼうびとない、ステッセリは乃木のぎ2人ふたり息子むすこ戦死せんしいたんだ。また、乃木のぎ降伏ごうぶくしたロシア将兵しょうへいへの帯剣たいけんゆるした。この様子ようすのち文部省もんぶしょう唱歌しょうかみず営の会見かいけん」としてひろうたわれたほか、 荒井あらい陸男むつおにより明治めいじ神宮じんぐう絵画かいがかん壁画へきがみず営の会見かいけん』が製作せいさくされ後世こうせいつたえられた[100]。 こうして旅順りょじゅん攻囲こういせん終了しゅうりょうした。日本にっぽんぐん投入とうにゅう兵力へいりょくべ13まんめい死傷ししょうしゃやく6まんめいたっした。

影響えいきょう

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旅順りょじゅん入城にゅうじょうする日本にっぽんぐん絵葉書えはがき
陥落かんらく旅順りょじゅんこう
戦艦せんかんレトウィザン被害ひがい状況じょうきょう

旅順りょじゅん要塞ようさい陥落かんらくにより旅順りょじゅん艦隊かんたい無力むりょくされた。

日本にっぽんぐん本格ほんかくてきおさむしろせん経験けいけんすくなかった。陸軍りくぐん全体ぜんたい近代きんだいせんでの要塞ようさいせん熟知じゅくちした人間にんげんすくなく、だい1かいそう攻撃こうげきでは空前くうぜんだい損害そんがいしょうじてしまった。要塞ようさい攻略こうりゃく必要ひつよう坑道こうどうせん教範きょうはん欠如けつじょかんしては、当時とうじ日本にっぽんだけでなく欧米おうべい列強れっきょうにおいて火力かりょく万能ばんのう主義しゅぎ時代じだいであったため、坑道こうどう戦術せんじゅつ自体じたい軽視けいしされていた。戦争せんそう直前ちょくぜん工兵こうへいかんであった上原うえはら勇作ゆうさく坑道こうどう教育きょういくにはあまり重視じゅうししておらず、むしろ前任ぜんにん矢吹やぶき秀一ひでかず工兵こうへいかん時代じだい非常ひじょう坑道こうどう教育きょういくちかられていた。旅順りょじゅんせんにおいては、矢吹やぶき工兵こうへいかん時代じだい記憶きおく辿たどっておさむじょう教程きょうてい作成さくせいした[101]戦後せんご明治めいじ39ねん坑道こうどう教範きょうはん作成さくせいされ、小倉おぐら駐屯ちゅうとんしていた工兵こうへいたいによって、はじめての坑道こうどうせん訓練くんれんてき味方みかたかれて実施じっしされた。

軽量けいりょうはかられたうえまいぶん500連発れんぱつ実用じつようせいたか機関きかんじゅうであるマキシム機関きかんじゅうは、この戦闘せんとう世界せかいはじめて本格ほんかくてき運用うんようされ威力いりょく発揮はっきした。機関きかんじゅう陣地じんちからの十字砲火じゅうじほうかたいし、従来じゅうらい歩兵ほへいによる突撃とつげき無力むりょくであることを実戦じっせん証明しょうめいした。この状況じょうきょう打開だかいする攻撃こうげきほうにち戦争せんそうしばらくはいだすことはできなかった。どう時代じだいのヨーロッパ各国かっこくでも、機関きかんじゅうをごく少数しょうすう配備はいびしていただけで運用うんようほう確立かくりつされていなかった。 当時とうじにちりょうぐん世界せかいてきても例外れいがいてき機関きかんじゅう大量たいりょう配備はいびしていたが、はやくから防衛ぼうえい兵器へいきとしての運用うんようかんがしたロシアぐんたいし、日本にっぽんぐんがわはあくまでも野戦やせん補助ほじょ兵器へいきとしてかんがえていたので、初期しょきには効果こうかてき運用うんようおこなわれていなかった。のち日本にっぽんがわもロシアがわ運用うんようほう応用おうようした。

旅順りょじゅん要塞ようさいでのせんくん欧州おうしゅう諸国しょこくにも積極せっきょくてき導入どうにゅうされ、要塞ようさい攻略こうりゃくようおさむしろほう開発かいはつおこなわれた。だいいち世界せかい大戦たいせん東部とうぶ戦線せんせんではドイツぐん旅順りょじゅん要塞ようさい攻略こうりゃくにちりょうぐんもちいたたいごう戦術せんじゅつ採用さいよう。1915ねん5がつ1にちから開始かいしされたマッケンゼン攻勢こうせいではロシアぐん要塞ようさい陣地じんちいち週間しゅうかん突破とっぱしロシアへい捕虜ほりょ14まんにんらえるだい戦果せんかをあげた[102]

1905ねん1がつボリシェヴィキ機関きかん『フペリョード』じょうウラジーミル・レーニンは、旅順りょじゅん失陥しっかんを「ロシア専制せんせい歴史れきしてき破局はきょく」と位置いちづけた[103]事実じじつ旅順りょじゅん失陥しっかんによって政府せいふ威信いしん低下ていかし、労働ろうどう争議そうぎきんじられ軍需ぐんじゅ産業さんぎょう増産ぞうさん酷使こくしされていたサンクトペテルブルク市民しみん不満ふまん噴出ふんしゅつさせた。1月22にちふゆ宮殿きゅうでんあつまった請願せいがんデモにたいして、ぐん発砲はっぽう多数たすう死者ししゃした日曜日にちようび事件じけん発生はっせいした。東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん事件じけん翌日よくじつ紙面しめんで、旅順りょじゅん失陥しっかん日曜日にちようび事件じけんおおきな原因げんいんとなったと論評ろんぴょうしている[104]首都しゅと発生はっせいした混乱こんらんゼネスト農民のうみん蜂起ほうきというかたちでロシア全土ぜんどひろがり、ロシアだいいち革命かくめい発展はってんした。

参加さんか兵力へいりょく

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日本にっぽんぐん

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だい3ぐん - ぐん司令しれいかん乃木のぎ希典まれすけ大将たいしょう

ロシアぐん

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出典しゅってんしお書房しょぼう光人みつひとしゃふうひゃくさん高地こうち船坂ふなさかひろしちょ p.81)

ロシア関東軍かんとうぐん - ぐん司令しれいかんアナトーリイ・ステッセリ中将ちゅうじょう

  • 関東軍かんとうぐん司令しれい
  • 旅順りょじゅん要塞ようさい司令しれい
  • ひがしシベリア狙撃そげきへいだい4師団しだん - 師団しだんちょうアレクサンドル・フォーク少将しょうしょう
    • 参謀さんぼうちょうドミトレフスキー中佐ちゅうさ
    • だいいち旅団りょだん司令しれいかけ
      • ひがしシベリア狙撃そげきへいだい13連隊れんたい- 連隊れんたいちょうセイフリン大佐たいさ
      • ひがしシベリア狙撃そげきへいだい14連隊れんたい- 連隊れんたいちょうサビッキー大佐たいさ
    • だい旅団りょだん- 旅団りょだんちょうナデイン少将しょうしょう
      • ひがしシベリア狙撃そげきへいだい15連隊れんたい- 連隊れんたいちょうグリヤズノフ大佐たいさ
      • ひがしシベリア狙撃そげきへいだい16連隊れんたい- 連隊れんたいちょうドウーニン大佐たいさ
    • ひがしシベリア砲兵ほうへいだい4旅団りょだん- 旅団りょだんちょうイルマン大佐たいさ
  • ひがしシベリア狙撃そげきへいだい7師団しだん - 師団しだんちょうロマン・コンドラチェンコ少将しょうしょう(1904/12〜)ナディン少将しょうしょう
    • 参謀さんぼうちょうナウメンコ中佐ちゅうさ
    • だいいち旅団りょだん- 旅団りょだんちょうゴルバトフスキー少将しょうしょう
      • ひがしシベリア狙撃そげきへいだい25連隊れんたい- 連隊れんたいちょうネウヤドムスキー大佐たいさ
      • ひがしシベリア狙撃そげきへいだい26連隊れんたい- 連隊れんたいちょうセミヨノフ大佐たいさ
    • だい旅団りょだん- 旅団りょだんちょうツェルビッキー少将しょうしょう
      • ひがしシベリア狙撃そげきへいだい27連隊れんたい- 連隊れんたいちょうペトルシア大佐たいさ
      • ひがしシベリア狙撃そげきへいだい28連隊れんたい- 連隊れんたいちょうムルマン大佐たいさ
    • 砲兵ほうへいだい7大隊だいたい- 大隊だいたいちょうメルマンダロフ大佐たいさ
    • ひがしシベリア狙撃そげきへいだい5連隊れんたい- 連隊れんたいちょうトレチャコフ[よう曖昧あいまい回避かいひ]大佐たいさ
  • ひがしシベリヤ狙撃そげきへいだい3補充ほじゅう大隊だいたい
  • ひがしシベリヤ狙撃そげきへいだい4補充ほじゅう大隊だいたい
  • ひがしシベリヤ狙撃そげきへいだい7補充ほじゅう大隊だいたい
  • こうくろりゅうぐん管区かんくまもるさかい兵隊へいたい
  • コザック騎兵きへいだい1大隊だいたい
  • コザック騎兵きへいだい2大隊だいたい
  • コザック騎兵きへいだい3大隊だいたい
  • 関東かんとう工兵こうへい中隊ちゅうたい
  • 旅順りょじゅん要塞ようさい地雷じらい中隊ちゅうたい
  • ウスリー鉄道てつどうへいだい1大隊だいたいだい4中隊ちゅうたい
  • 要塞ようさい電信でんしんたい

旅順りょじゅん攻囲こういせんかんする論点ろんてん

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203高地こうち

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203高地こうちから防戦ぼうせんちゅう旅順りょじゅんこう
1904ねん12月14にち
どう2006ねん1がつ
日本にっぽん陸軍りくぐんじゅうはちせんちめーとるほう
日本にっぽん海軍かいぐん陸戦りくせん重砲じゅうほうたいの15センチほう

203高地こうち要塞ようさいぬし防御ぼうぎょせん西方せいほう)の2km外側そとがわ位置いちしており、ここの防御ぼうぎょ施設しせつ前進ぜんしん陣地じんちとしてきずかれた。

ほん高地こうちから地形ちけいじょう旅順りょじゅん港内こうない全域ぜんいき展望てんぼうできるということはロシアがわ開戦かいせんまえから承知しょうちしていたが、予算よさん不足ふそく規模きぼ縮小しゅくしょうされたこともあり要塞ようさい防御ぼうぎょせんにはまれなかった[3]開戦かいせんは、コンドラチェンコ少将しょうしょうにより補強ほきょうされ、そう攻撃こうげき開始かいしまでにかなりの防御ぼうぎょゆうするまでになってはいた[105]。しかしのロシアぐん陣地じんちからも距離きょりがあり戦闘せんとうちゅうには兵力へいりょく投入とうにゅう移動いどうにも危険きけんともなうので従来じゅうらいどお前進ぜんしん陣地じんちとして運用うんようする予定よていだった。

しかしながら戦闘せんとうてロシアぐん方針ほうしん変更へんこうして203高地こうち固守こしゅするようになり予備よび兵力へいりょく次々つぎつぎとここにんでいった。日本にっぽんぐんにとって、この攻防こうぼうせんることによりロシアぐん予備よび兵力へいりょく消耗しょうもう目的もくてきたした[106]

203高地こうち攻防こうぼうせん終局しゅうきょく、ロシアがわ抵抗ていこうりょくいちじるしく減衰げんすいしており、12月中旬ちゅうじゅんよりおこなわれた東北とうほくめんしゅ防御ぼうぎょせんじょう攻防こうぼうせんでは主要しゅようさんるいもちだいという重要じゅうよう拠点きょてんつづけに陥落かんらくした。要塞ようさい司令しれいかんステッセリが降伏ごうぶく決断けつだんした理由りゆうは、予備よび兵力へいりょく消耗しょうもうしたことにより戦線せんせんささえられなくなったためである[ちゅう 15]

203高地こうち攻防こうぼうせんについては、様々さまざま見解けんかいかたられている。とくに203高地こうち観測かんそくしょとしての価値かち重視じゅうしする見解けんかいおおい。ほん防御ぼうぎょせんそとから旅順りょじゅん港内こうないのロシア艦艇かんてい砲撃ほうげきする場合ばあい観測かんそくしょとしてほん高地こうち最適さいてき場所ばしょであり、攻略こうりゃく早期そうきおこなわれるべきだったとするものである。だが、だい三軍さんぐん作戦さくせん目的もくてき要塞ようさい攻略こうりゃくであり旅順りょじゅん艦隊かんたい殲滅せんめつではなかった[8]実際じっさいにもそう攻撃こうげき開始かいし時点じてんだい三軍さんぐん配備はいびされていた重砲じゅうほう最大さいだいで15センチ榴弾りゅうだんほうであり、戦艦せんかん命中めいちゅうしてもだい打撃だげきあたえる能力のうりょくっていなかった[107]

大本営だいほんえいは203高地こうちへの攻撃こうげき要求ようきゅうつづけた[ちゅう 16]大山おおやまそう司令しれい児玉こだまそう参謀さんぼうちょうはそれぞれ大本営だいほんえい山県やまがた参謀さんぼう総長そうちょう電報でんぽうおくり203だか地主じぬしおさむ同意どういつたえた[108]

だい1かいそう攻撃こうげきではだい3ぐんは203高地こうちおも目標もくひょうとはしなかった。海軍かいぐんからこの時点じてんで203高地こうち攻略こうりゃく要請ようせいがあったと小説しょうせつなどでえがかれることもおお[109]実際じっさいには、この時点じてんで203高地こうち攻略こうりゃくろんじられたことはなかった[110]平坦へいたん移動いどうちゅうてき姿すがたさら被害ひがい危険きけんがあったので却下きゃっかされた[111]

陸軍りくぐんがわ重砲じゅうほうは15センチ榴弾りゅうだんほう16もんと12センチ榴弾りゅうだんほう28もんだが、最大さいだいの15センチ榴弾りゅうだんほうもこれは海軍かいぐん艦載かんさいほうより砲身ほうしんみじか初速しょそくひく艦船かんせんへの攻撃こうげきりょくおと[107]

乃木のぎ希典まれすけ

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だい3ぐん司令しれいかん 乃木のぎ希典まれすけ

伊地知いじちみゆきかいだい3ぐん参謀さんぼうちょう犬猿けんえんなかであった井口いぐち省吾しょうごまんしゅうぐん参謀さんぼう陸軍りくぐんだい学校がっこうちょうを6ねんはん(1906ねん明治めいじ39ねん)2がつ-1912ねん大正たいしょう元年がんねん)11がつつとめていた時期じき入校にゅうこう優等ゆうとう卒業そつぎょう(1909ねん明治めいじ42ねん)-1912ねん大正たいしょう元年がんねん))したたに寿夫としおが、のちりく大兵だいひょうがく教官きょうかんとなったさいにち戦争せんそう政戦せいせんりゃく機密きみつ戦史せんしあらわした。ぞくに「たに戦史せんし[ちゅう 17]ばれる。

太平洋戦争たいへいようせんそう昭和しょうわ40年代ねんだいに「たに戦史せんし」が『機密きみつにち戦史せんし』とだいしてはら書房しょぼうから刊行かんこうされた[112]

福島ふくしま県立けんりつ図書館としょかん佐藤さとう文庫ぶんこには「稿本こうほんにち戦史せんし仮称かしょう[ちゅう 18])」の旅順りょじゅんせん関連かんれん部分ぶぶん所蔵しょぞうされている。戦史せんし研究けんきゅう長南ちょうなん政義まさよしが、大庭おおば二郎じろう日記にっき活用かつようし、また白井しらい参謀さんぼう井上いのうえ参謀さんぼう回想かいそうろくなどを駆使くしした論考ろんこう長南ちょうなん 2011b長南ちょうなん 2012)を発表はっぴょうしている。

だい3ぐんではおおくの死傷ししょうしゃしたにもかかわらず、最後さいごまで指揮しきみだれや士気しき低下ていかられなかったという[ちゅう 19]当時とうじ従軍じゅうぐん記者きしゃ、スタンレー・ウォシュバン(Stanley Washburn、1878-1950)の指摘してきでは、203高地こうち重要じゅうようせい指摘してきだい7師団しだん集中しゅうちゅうてき投入とうにゅうする方向ほうこうだい三軍さんぐんぐんをまとめたのは乃木のぎであったとしている[113]

だい三軍さんぐん司令しれい

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無能むのうろんおも根拠こんきょには以下いかのものがある。

  1. 単純たんじゅん正面しょうめん攻撃こうげきかえしたこと。
  2. 兵力へいりょく逐次ちくじ投入とうにゅう分散ぶんさんという禁忌きんきかえしたこと。
  3. そう攻撃こうげき情報じょうほうがロシアがわれていて、つね万全ばんぜん迎撃げいげきゆるしたこと。
  4. 旅順りょじゅん攻略こうりゃく目的もくてきはロシア旅順りょじゅん艦隊かんたい陸上りくじょうからの砲撃ほうげき壊滅かいめつさせることであったにもかかわらず、要塞ようさい本体ほんたい攻略こうりゃく固執こしつ無駄むだ損害そんがいしたこと。
  5. 初期しょき段階だんかいでは、ロシアぐんは203高地こうち重要じゅうようせい認識にんしきしておらず防備ぼうび比較的ひかくてき手薄てうすであった。拠点きょてんくらべて簡単かんたん占領せんりょうできたにもかかわらず、兵力へいりょく集中しゅうちゅうさせず、ロシアぐんが203高地こうち重要じゅうようせい認識にんしき要塞ようさいしたため、多数たすう死傷ししょうしゃしたこと。
  6. 児玉こだま源太郎げんたろう現場げんば指揮しきり、目標もくひょうを203高地こうち変更へんこうし、作戦さくせん変更へんこうおこない、4にちで203高地こうち奪取だっしゅ成功せいこうしたこと。

などべられているが、最近さいきんではしん資料しりょう発見はっけん当事とうじしゃであるだい三軍さんぐん関係かんけいしゃ証言しょうげん記録きろくなどから、上記じょうきてんたいして

  1. だいいちそう攻撃こうげき以降いこう攻撃こうげきほう強襲きょうしゅうほうから塹壕ざんごうすすんで友軍ゆうぐん損害そんがいおさえる正攻法せいこうほうえている[114]北東ほくとう方面ほうめんも203高地こうちのある北西ほくせい方面ほうめん同等どうとう防御ぼうぎょ機能きのうっている[115]
  2. 旅順りょじゅん攻略こうりゃく目的もくてきが「艦隊かんたい撃滅げきめつ目的もくてきだった」というのはあやま[116]。まただいいちそう攻撃こうげき時点じてんだい三軍さんぐん重砲じゅうほうにそのような能力のうりょくはない[107]まんしゅうぐんほう上級じょうきゅう司令しれいである以上いじょう責任せきにんだいである[117]
  3. 203高地こうちだいぐん南山なんざん攻略こうりゃく戦後せんごから防御ぼうぎょ強化きょうか工事こうじはじめられている[118]だいいちそう攻撃こうげき時点じてんだい三軍さんぐんの12センチ榴弾りゅうだんほう砲撃ほうげきえうる強固きょうこさをっていた(おさむじょう砲兵ほうへい司令しれい参謀さんぼう佐藤さとうこう次郎じろう中佐ちゅうさだん[105])、守備しゅび兵力へいりょくも9がつ時点じてんで613めいだった203高地こうちは12月の最終さいしゅう攻撃こうげきで516めいである[119]要塞ようさい北西ほくせい方面ほうめん鉄道てつどうもなく主要しゅよう道路どうろもないので部隊ぶたい転換てんかんむずかしい[120]
  4. 同士討どうしうち覚悟かくご連続れんぞく砲撃ほうげきはすでにおさむじょう砲兵ほうへい司令しれいによっておこなわれていた[117]、と反論はんろんされている。

ほかにも、陸軍りくぐん手本てほんにしたふつどくりょう陸軍りくぐんからして要塞ようさい攻略こうりゃく基本きほん奇襲きしゅう強襲きょうしゅう基本きほんとしている[121]

ぐん中枢ちゅうすう問題もんだい

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命令めいれい系統けいとう問題もんだい
にち開戦かいせん現地げんち陸軍りくぐんそう司令しれいとして設置せっちされ、それまでの大本営だいほんえい首脳しゅのう参謀さんぼう総長そうちょう副長ふくちょう)が指揮しきたったまんしゅうぐんそう司令しれい方針ほうしんと、その東京とうきょう大本営だいほんえい方針ほうしんとに乖離かいりしょうじ、大本営だいほんえい乃木のぎだい三軍さんぐん直接ちょくせつ通達つうたつしたことがあったという軍令ぐんれいじょう構造こうぞうてき問題もんだいがあり、だい三軍さんぐん作戦さくせん影響えいきょうあたつづけた[ちゅう 20]御前ごぜん会議かいぎて11月なかばころにようやく、『旅順りょじゅん攻撃こうげきおも目標もくひょうとしつつも、陥落かんらくさせることが不可能ふかのう場合ばあい港内こうない俯瞰ふかんできる位置いち確保かくほして、艦船かんせん造兵ぞうへいしょう攻撃こうげきくわえる』という方針ほうしんまんしゅうぐんそう司令しれい大山おおやま司令しれいかん)と大本営だいほんえいあいだ調整ちょうせいいた[112]
補給ほきゅう問題もんだい
軍政ぐんせいがわ砲弾ほうだん備蓄びちく見積みつもりあまさが責任せきにんとしておおきいこと指摘してきされている[122]

児玉こだま源太郎げんたろう

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まんしゅうぐんそう参謀さんぼうちょう 児玉こだま源太郎げんたろう

日本にっぽんぐんが203高地こうち攻略こうりゃくしたのは児玉こだま源太郎げんたろう旅順りょじゅん到着とうちゃくした4にちであった。これを、児玉こだま功績こうせきによってわずか4日間にちかん攻略こうりゃくされたと機密きみつにち戦史せんし紹介しょうかいされた。ただし、あやまりもおおいと別宮べつみやだんろう長南ちょうなん政義まさよしはらつよしなどが書籍しょせき発表はっぴょうしている[123]

児玉こだま正攻法せいこうほう途中とちゅう段階だんかい大本営だいほんえい海軍かいぐんかされ実施じっししただいそう攻撃こうげきには反対はんたいで、準備じゅんび完全かんぜんととのえたうえでの東北とうほく方面ほうめん攻略こうりゃく指示しじしていた。そのためには海軍かいぐん要請ようせいする203高地こうち攻略こうりゃく弾薬だんやく節約せつやくてんから反対はんたいだった[124]

だい三軍さんぐんだいさんそう攻撃こうげきさいそう攻撃こうげき途上とじょう作戦さくせん変更へんこうして203高地こうち攻略こうりゃく決意けついしたさいには、まんしゅうぐんそう司令しれい反対はんたいし、そう司令しれいから派遣はけんされていた参謀さんぼう副長ふくちょう福島ふくしま安正やすまさ少将しょうしょうだい三軍さんぐん白井しらい参謀さんぼう説得せっとくしている[125]

だい三軍さんぐん参謀さんぼうはほとんどが来訪らいほう当日とうじつ児玉こだまっておらず電話でんわ連絡れんらくませている[ちゅう 21]児玉こだま戦闘せんとう視察しさつだい三軍さんぐん参謀さんぼう叱責しっせきしたとされるはなし事実じじつではない[126]

児玉こだま予備よび兵力へいりょくとしておかれていた12センチ榴弾りゅうだんほう15もんと9センチ臼砲きゅうほう12もんを、203高地こうちちか高崎山たかさきやまうつ高地こうちとはべつ目標もくひょうたいして攻撃こうげきするよう指示しじした[126]おさむじょう砲兵ほうへい司令しれい判断はんだんだい三軍さんぐん司令しれい把握はあくしていた[127][126]

近年きんねんだい三軍さんぐん司令しれいがわ史料しりょうから、児玉こだま旅順りょじゅん実際じっさいだい三軍さんぐん作戦さくせん指示しじあたえていたことを指摘してきする研究けんきゅうあたらしくされている[128][129]。 203高地こうちめにおける児玉こだま関与かんよすくなかったという見解けんかいもあるが、これにはんする意見いけんはたいくが『さん高地こうちめ「乃木のぎ児玉こだま対決たいけつシーン」の検証けんしょう[130]なか提示ていじしている。

長岡ながおか外史がいし

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長岡ながおか外史がいし回顧かいころく」をまと[ちゅう 22]、そのなか旅順りょじゅん攻略こうりゃくせんについての感想かんそうのこしている。

203高地こうちについては「9がつ中旬ちゅうじゅんまでは山腹さんぷくわずかのへいごうがあるのみにて、てきはここになんらの設備せつびをももうけなかった」とべ、これを根拠こんきょとして「ゆえに9がつ22にちだいいち師団しだん攻撃こうげきにおいてこんひといき奮発ふんぱつすれば完全かんぜん占領せんりょうはずであった」との見解けんかいべている。この長岡ながおか見解けんかい否定ひていする意見いけんもある[131]

28サンチ榴弾りゅうだんほう旅順りょじゅん送付そうふについて、自己じこ関与かんよおおきかったことをべているが、8がつ21にちそう攻撃こうげき失敗しっぱいののち、寺内てらうち正毅まさき陸軍りくぐん大臣だいじんはかねてより要塞ようさい攻撃こうげきどうほう使用しようすべきと主張しゅちょうしていた有坂ありさか成章しげあき技術ぎじゅつ審査しんさ部長ぶちょうまねいて25〜26にち意見いけんいたのち採用さいようすることを決断けつだんし、参謀さんぼう本部ほんぶ山縣やまがた参謀さんぼう総長そうちょう協議きょうぎし、すでに鎮海わん移設いせつするための工事こうじ開始かいししていたどうほう6もん旅順りょじゅんおくることを決定けっていしたというのが実際じっさいうごきである[132][133]。しかし長岡ながおか談話だんわによると、参謀さんぼう本部ほんぶがわ長岡ながおか参謀さんぼう次長じちょうが、そう攻撃こうげき失敗しっぱいののちにどうほう旅順りょじゅん要塞ようさい攻撃こうげきもちいるべきという有坂ありさか少将しょうしょう意見いけんいて同意どういし、そののち陸軍りくぐん大臣だいじん説得せっとくかい同意どうい[ちゅう 23]と、まったくちがった経緯けいいであったように記述きじゅつしている。これらの見解けんかいについては現在げんざい検証けんしょう研究けんきゅう調査ちょうさつづいている。

21世紀せいき以降いこう研究けんきゅう

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旅順りょじゅん攻囲こういせんについての考察こうさつ研究けんきゅうは、資料しりょう発見はっけん公開こうかい活用かつようにより、21世紀せいきはいってもつづいている。近年きんねんにおいては、

  • 福井ふくい雄三ゆうぞうさかうえくも』にえがかれなかった戦争せんそう現実げんじつ」『中央公論ちゅうおうこうろんだい119かんだい2ごう、2004ねん2がつ、61-72ぺーじ 
  • 長南ちょうなん政義まさよしだい三軍さんぐん参謀さんぼうたちの旅順りょじゅん攻囲こういせん~「大庭おおば二郎じろう中佐ちゅうさ日記にっき」を中心ちゅうしんとしただい三軍さんぐん関係かんけいしゃ史料しりょうによる旅順りょじゅん攻囲こういせんさい検討けんとう~」『國學院こくがくいん法研ほうけん論叢ろんそうだい39ごう國學院大學こくがくいんだいがく、2012ねん 
  • ゲームジャーナル編集へんしゅう へんさかうえくも5つの疑問ぎもん並木なみき書房しょぼう、2011ねんISBN 978-4890632848 
  • 総力そうりょく特集とくしゅうさん高地こうち真実しんじつ-「旅順りょじゅん要塞ようさい」を陥落かんらくさせたおとこたち-」『月刊げっかん 歴史れきし街道かいどう』、PHP研究所けんきゅうじょ、2011ねん11月、ASIN B005OASI28 

といった文献ぶんけん発表はっぴょうされている。また、

といった書籍しょせき刊行かんこうされている。

逸話いつわ

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  • ロシアぐん敗因はいいんとして、ビタミンC不足ふそく原因げんいん壊血病かいけつびょうによる戦意せんい喪失そうしつ一因いちいんとしてげられている。旅順りょじゅん要塞ようさいない備蓄びちく食料しょくりょうには大豆だいずなどの穀物こくもつるいおおく、野菜やさいるいすくなかった。一方いっぽう日本にっぽん陸軍りくぐん戦時せんじへいしょくにちしん戦争せんそうおなじくしろ米飯べいはん精白せいはくまい6ごう)であったこともあり、脚気かっけだい流行りゅうこうしていた
  • 明治めいじさんじゅうななはちねんにち戦役せんえき給養きゅうよう」によれば、だい三軍さんぐんでは8がつごろから脚気かっけ対策たいさくのため麦飯むぎめしもしくはじゅうやきめん麭(かんパン)の配給はいきゅうはじまっている。しかし慢性まんせいてき補給ほきゅう不足ふそくおちいっていた日本にっぽんぐん結局けっきょく必要ひつようりょうたすことはできなかった。
  • 与謝野よさの晶子あきこは、旅順りょじゅん包囲ほういぐんなかおとうとさんろうなげ内容ないようの『きみにたまふことなかれ』を1904ねん9がつに『明星みょうじょう』で発表はっぴょうした。しかし実際じっさいにはおとうとだい4師団しだん所属しょぞくであり、旅順りょじゅん攻囲こういせんには参加さんかしていない。

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ もしくはてっかぶとせいすぐれただい口径こうけい要塞ようさいほう
  2. ^ 戦後せんご判明はんめいしたが、旅順りょじゅん艦隊かんたい黄海こうかい海戦かいせんによりほぼ無力むりょくされていた。
  3. ^ 海軍かいぐんがわだいいち段階だんかい奇襲きしゅう)の機密きみつ保持ほじ重視じゅうしして、30にちはじめてこの構想こうそう陸軍りくぐんらせた。
  4. ^ 事前じぜん調整ちょうせい段階だんかいから陸軍りくぐん後援こうえん要求ようきゅうしないむねをしばしば口外こうがいした大本営だいほんえい海軍かいぐん幕僚ばくりょうもいたとつたえられる。
  5. ^ 小説しょうせつ映画えいが、ドラマの影響えいきょうだい三軍さんぐん作戦さくせん目的もくてきを「旅順りょじゅん艦隊かんたい無力むりょく」とかんがえるひとおおいが、それは海軍かいぐん単独たんどくでの旅順りょじゅん艦隊かんたい無力むりょく失敗しっぱいして陸軍りくぐん協力きょうりょく要請ようせいしてきた6がつ以降いこうについた付帯ふたい目的もくてきであり、だい三軍さんぐん作戦さくせん目的もくてき終始しゅうし旅順りょじゅん要塞ようさい攻略こうりゃくであった。これは旅順りょじゅん要塞ようさいとせば、そこにもる旅順りょじゅん艦隊かんたい降伏ごうぶく脱出だっしゅつ自沈じちんかをえらぶしかなく、海軍かいぐん要望ようぼうこたえることができるが、旅順りょじゅん艦隊かんたい壊滅かいめつ優先ゆうせんしても、要塞ようさい自体じたいのこって抵抗ていこうつづける(だい三軍さんぐん旅順りょじゅん釘付くぎづけにするだけでクロパトキンのロシアぐん援護えんごになるし、だい三軍さんぐん北上ほくじょうすればこれを追撃ついげきしたり、日本にっぽんぐん後方こうほう拠点きょてん大連たいれん攻撃こうげきしたりできる)ので陸軍りくぐん自体じたい目的もくてき達成たっせいできないからである。
  6. ^ (長南ちょうなん 2011b, p. 132)より。ほかにもどうページには期日きじつ不明ふめいながら軍令ぐんれい参謀さんぼう山下やました源太郎げんたろうの「(陸軍りくぐんの)上陸じょうりく直後ちょくご海軍かいぐん旅順りょじゅん陸上りくじょう攻撃こうげき要求ようきゅうせざるべし」との発言はつげんがあったといい、なるべく陸軍りくぐん援助えんじょなく独力どくりょくにて旅順りょじゅんおとしいれんとする野心やしんがあった。
  7. ^ さわかみなり沈没ちんぼつしたのは戦艦せんかん初瀬はつせ」「八島やじま」。海軍かいぐん戦死せんししゃのいなかった「八島やしま」の沈没ちんぼつ秘匿ひとくし、「初瀬はつせ」1せき沈没ちんぼつとして発表はっぴょうした。
  8. ^ 当時とうじ先端せんたん知識ちしきまなんでいた人材じんざいとくにドイツで要塞ようさいせんまなんでいた井上いのうえ幾太郎いくたろう参謀さんぼうとしてくわわったことは、旅順りょじゅんなんせん打開だかいおおきく貢献こうけんした。
  9. ^ 海軍かいぐん陸戦りくせん重砲じゅうほうたい中隊ちゅうたいちょうだった永野ながの修身しゅうしんは、海軍かいぐんではそれほどなじみのなかった観測かんそくもちいる間接かんせつ射撃しゃげき実現じつげん貢献こうけんした。
  10. ^ 戦艦せんかんふくほうなので、戦艦せんかん命中めいちゅうしてもあたえる被害ひがい軽微けいびだった。
  11. ^ 一部いちぶ損傷そんしょう艦船かんせんはドイツの租借そしゃくであった山東さんとう半島はんとうんだが、同盟どうめいこくであったドイツはこれら艦船かんせん武装ぶそう解除かいじょおこなった
  12. ^ 8がつに、戦艦せんかん巡洋艦じゅんようかんなどの大型おおがたかん1かんごとに1個いっこ中隊ちゅうたい編成へんせいし、要塞ようさい地区ちくごとの陸軍りくぐん部隊ぶたい指揮しき派遣はけんした。陸上りくじょう戦闘せんとうでの消耗しょうもうはげしく、その増援ぞうえんかえされ、人員じんいんめんでも艦船かんせん行動こうどう能力のうりょく次第しだいそこなわれていった。
  13. ^ 撤去てっきょ決定けってい明治めいじ37ねん8がつ5にち当初とうしょは鎮海わん対馬つしま移設いせつすることを予定よていしていた (げん 2002, p. 530)。
  14. ^ 陥落かんらくおこなわれたちゃくそこロシア艦艇かんていへの命中めいちゅうだんのの効果こうか調しらべる調査ちょうさ陸軍りくぐんしょう軍務ぐんむきょく砲兵ほうへい石光いしみつしんしんらが実施じっし命中めいちゅうした28センチ榴弾りゅうだんほう砲弾ほうだん経年けいねん劣化れっかにより装填そうてん火薬かやく信管しんかん不良ふりょうがあり不発ふはつおおかった。また鋳鉄ちゅうてつせい砲弾ほうだん鋼鉄こうてつかん砲撃ほうげきには強度きょうど不足ふそくで、かんそこまでけているものは皆無かいむで、調査ちょうさ報告ほうこくけて陸軍りくぐんしょう技術ぎじゅつ審査しんさ部長ぶちょう有坂ありさか成章しげあき砲弾ほうだん全面ぜんめん変更へんこう指示しじしている。また海軍かいぐんがわ調査ちょうさでもおおくのかんはキングストンべんひらいており、自沈じちん処理しょりがなされていたと報告ほうこくされている
  15. ^ 要塞ようさいには降伏ごうぶく兵員へいいん1まん6せんにん砲弾ほうだん8まんはつ銃弾じゅうだん200まんはつのこっていたとされる。スミノルフ中将ちゅうじょう、ゴルバトフスキー少将しょうしょう首脳しゅのうじんおおくは徹底てってい抗戦こうせん主張しゅちょうしたが、ステッセリはほぼ独断どくだん降服こうふく決定けっていした。そのため、戦後せんごきびしく糾弾きゅうだんされ(大江おおえ志乃しのおっと世界せかいとしてのにち戦争せんそう」ほか)軍法ぐんぽう会議かいぎ死刑しけい宣告せんこくされた。
  16. ^ 11月14にち御前ごぜん会議かいぎにおいて203高地こうち奪取だっしゅ裁可さいかむねまんしゅうぐんたい伝達でんたつ。11月19にち乃木のぎあて親書しんしょで203高地こうち占領せんりょう要請ようせい。11月22にち勅語ちょくご乃木のぎたい伝達でんたつ
  17. ^ 大正たいしょう14ねん陸軍りくぐんだい学校がっこう調整ちょうせいぜんじゅうかんじゅういちしょうにおよぶ大著たいちょである。 表題ひょうだいには「にち戦史せんし講義こうぎ摘要てきようろく」とかれている。
  18. ^ 文芸春秋ぶんげいしゅんじゅう2010ねん12月臨時りんじ増刊ぞうかんごうにて軍事ぐんじ研究けんきゅう別所べっしょ芳幸よしゆき紹介しょうかいした。
  19. ^ 現場げんばではだい1かいそう攻撃こうげき傷兵しょうへいみずからをきずつけて戦線せんせん退こうとするへい)が多発たはつし、だい2かいそう攻撃こうげきまえの9がつ25にちけで傷兵しょうへい後方こうほう送還そうかんすることを一事いちじ見合みあわせるよう通達つうたつている。(鶴田つるたただし次郎じろうにち戦役せんえき従軍じゅうぐん日誌にっし』)
  20. ^ 大本営だいほんえいは「旅順りょじゅん攻略こうりゃくし、雨期うきまえには鳳凰ほうおうじょうせん進出しんしゅつする」というようなことをべており、旅順りょじゅん要塞ようさい防御ぼうぎょりょく実際じっさいより軽視けいししており、おさむじょう準備じゅんび省略しょうりゃくして、西方せいほうから奇襲きしゅうして陥落かんらくさせるという方針ほうしんであった。一方いっぽう乃木のぎ大本営だいほんえい参謀さんぼうたいし「おさむじょう計画けいかく順序じゅんじょ省略しょうりゃくし、奇策きさくもちまたちからおさむつとむむるごときは全局ぜんきょく利害りがいかんがみ、責任せきにんもっ決行けっこうするをず」とべ、おさむじょう準備じゅんびおこなったうえだい1かいそう攻撃こうげきおこなったが、おびただしい死傷ししょうしゃ結果けっかとなった。(沼田ぬまた 2004たに 2004
  21. ^ 奈良なら武次たけつぐ少佐しょうさ(当時とうじおさむじょう砲兵ほうへい司令しれい所属しょぞく)の回想かいそう(歴史れきしぐんぞう 2011, p. 70)。
  22. ^ 長岡ながおか外史がいし関係かんけい文書ぶんしょ 回顧かいころくへん長岡ながおか外史がいし文書ぶんしょ研究けんきゅうかい)」によれば、大正たいしょう12〜15ねんごろ執筆しっぴつ作業さぎょうをしたと推定すいていされている
  23. ^ 長岡ながおか外史がいし関係かんけい文書ぶんしょ 回顧かいころくへん長岡ながおか外史がいし文書ぶんしょ研究けんきゅうかい)」より。『機密きみつにち戦史せんし[112]』もこの長岡ながおか談話だんわもと記述きじゅつされている。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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史料しりょう
書籍しょせき
雑誌ざっし・ムック

論文ろんぶん

  • 長南ちょうなん政義まさよしだい三軍さんぐん参謀さんぼうたちの旅順りょじゅん攻囲こういせん~「大庭おおば二郎じろう中佐ちゅうさ日記にっき」を中心ちゅうしんとしただい三軍さんぐん関係かんけいしゃ史料しりょうによる旅順りょじゅん攻囲こういせんさい検討けんとう~」『國學院こくがくいん法研ほうけん論叢ろんそうだい39ごう國學院大學こくがくいんだいがく、2012ねん 

外部がいぶリンク

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