あさ瀬川せかわ健次けんじ

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あさ瀬川せかわつよしから転送てんそう
あさ瀬川せかわ 健次けんじ
基礎きそ情報じょうほう
四股しこめい 亀山かめやま 健治けんじわか乃峯 健治けんじあさ瀬川せかわ 健次けんじあさ瀬川せかわ つよし
本名ほんみょう 亀山かめやま 健治けんじ
生年月日せいねんがっぴ 1942ねん5月4にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (2017-09-22) 2017ねん9月22にち(75さいぼつ
出身しゅっしん 大阪おおさか大阪おおさか浪速なにわ
身長しんちょう 177cm
体重たいじゅう 139kg
BMI 44.37
所属しょぞく部屋へや 荒磯あらいそ部屋へや伊勢いせはま部屋へや
得意とくいわざ ひだりよっつ、
成績せいせき
現在げんざい番付ばんづけ 引退いんたい
最高さいこう ひがし前頭まえがしら筆頭ひっとう
生涯しょうがい戦歴せんれき 493しょう471はい34きゅう(84場所ばしょ)
幕内まくうち戦歴せんれき 188しょう236はい11きゅう(29場所ばしょ)
優勝ゆうしょう 十両じゅうりょう優勝ゆうしょう2かい
幕下まくした優勝ゆうしょう2かい
しょう 技能ぎのうしょう1かい
データ
はつ土俵どひょう 1957ねん5月場所ばしょ
入幕にゅうまく 1964ねん3がつ場所ばしょ
引退いんたい 1971ねん5月場所ばしょ
引退いんたい 年寄としよりうらふう相撲すもう料理りょうりてん「ちゃんこ 浅瀬あさせがわ店主てんしゅ
備考びこう
金星かなぼし4柏戸かしわど2佐田さだやま1個いっこ大鵬たいほう1個いっこ
2013ねん8がつ29にち現在げんざい

あさ瀬川せかわ 健次けんじ(あさせがわ けんじ、1942ねん5月4にち - 2017ねん9月22にち)は、大阪おおさか大阪おおさか浪速なにわ出生しゅっしょう同府どうふ河内長野かわちながの出身しゅっしん伊勢いせはま部屋へや入門にゅうもん荒磯あらいそ部屋へや所属しょぞくした大相撲おおずもう力士りきし本名ほんみょう亀山かめやま 健治けんじ(かめやま けんじ)。現役げんえき時代じだい体格たいかく身長しんちょう177cm、体重たいじゅう139kg。最高さいこうひがし前頭まえがしら筆頭ひっとう1965ねん1がつ場所ばしょ1966ねん5月場所ばしょ)。得意とくいしゅひだりよっつ、り。

来歴らいれき人物じんぶつ[編集へんしゅう]

1942ねん現在げんざい大阪おおさか河内長野かわちながのにて誕生たんじょう実家じっかは、大阪おおさか市内しない食堂しょくどういとなんでおり、健治けんじはそんな家庭かてい次男じなんぼうであった。

中学校ちゅうがっこう在学ざいがくちゅうからだおおきいことをきつけたもと小結こむすびわか瀬川せかわ熱心ねっしん説得せっとくけて、荒磯あらいそ部屋へやへの入門にゅうもんめた。1957ねん5月場所ばしょにて、当時とうじ存在そんざいした自費じひ養成ようせい力士りきし制度せいど利用りようして15さいはつ土俵どひょう当初とうしょ四股しこめいは、本名ほんみょうおなじ「亀山かめやま」であった。

わか乃峯」を名乗なのってさんだんにいたころ成績せいせき不振ふしん理由りゆう廃業はいぎょう決意けついし、理髪りはつ学校がっこう卒業そつぎょうしたばかりのおとうとたのんで丁髷ちょんまげとしてしまったこともあったが、浅香山あさかやま親方おやかたもとわか瀬川せかわ)が必死ひっし説得せっとくおもとどまった。なお「淺瀬あさせがわ」の四股しこめいは、浅香山あさかやま名跡みょうせきと、かれ現役げんえき当時とうじ四股しこめいちなんだものである。

その幕下まくした優勝ゆうしょうするなど順調じゅんちょう出世しゅっせして、1962ねん11月場所ばしょじゅうりょう昇進しょうしん1964ねん3月、地元じもと大阪おおさか場所ばしょいて玉乃たまのとう(のちの横綱よこづなたまうみ)とともにしん入幕にゅうまくたした。

しん入幕にゅうまく場所ばしょは6しょう9はいしにわり、1場所ばしょじゅうりょう陥落かんらくしたが、よく5がつ場所ばしょじゅうりょう優勝ゆうしょうげ1場所ばしょ幕内まくうちもどった。

その幕内まくうち上位じょうい定着ていちゃくし、おもこし相撲すもうでしばしば大物おおものってファンをかせた。大関おおぜき北葉きたばさんには4しょう2はいしている。大阪おおさか市内しないだしとあって出身しゅっしん浪速なにわ大阪おおさか府立ふりつ体育たいいく会館かいかんおこなわれる3がつ場所ばしょでの人気にんきとくたかく、1967ねん3がつ場所ばしょは5にち横綱よこづな大鵬たいほうを6かい挑戦ちょうせんはじめてやぶ連勝れんしょうを34でめる金星かなぼしげたときは、興奮こうふんあま父親ちちおや実家じっかから支度したく部屋へや祝福しゅくふくけつけるほど大変たいへんさわぎになったという。

ところが、こうした活躍かつやくにもかかわらずさんやくにはえんかった。とくに、1964ねん11月場所ばしょではひがし前頭まえがしら2まい横綱よこづな柏戸かしわどやぶり8しょう7はいたものの、よく場所ばしょではひがし3まいで9しょう6はい成績せいせきげたあおさと小結こむすび昇進しょうしんおなひがし2まいでまたも柏戸かしわどやぶり、8しょう7はいして唯一ゆいいつさんしょうとなる技能ぎのうしょう受賞じゅしょうした1966ねん3がつ場所ばしょでも、西にし3まいにいたどう部屋へや先輩せんぱい清國きよくにが9しょう6はい成績せいせきよく場所ばしょ小結こむすび昇進しょうしんした[1]。このりょう場所ばしょとも関脇せきわけ小結こむすびの4にんちゅう3にん記録きろくしており、淺瀬あさせがわさんやく昇進しょうしん最大さいだいのチャンスだったにもかかわらず不運ふうんいたといえる。なお、淺瀬あさせがわはいずれもつぎ場所ばしょではひがし前頭まえがしら筆頭ひっとうめられて1965ねん1がつ場所ばしょでは4しょう11はい大敗たいはい1966ねん5月場所ばしょではみぎひざ靱帯じんたいいた途中とちゅう休場きゅうじょうしてしまった。

そのひだりむし寄生きせいするという奇病きびょうひだり慢性まんせい化膿かのうしょう)にかか幕下まくしたにまでがったものの、1968ねん1がつ場所ばしょでは7せん全勝ぜんしょう幕下まくした優勝ゆうしょうたし、同年どうねん7がつ場所ばしょやく1ねんぶりに幕内まくうちかえあざやかなカムバックをせた。直後ちょくごじゅうりょうとの往復おうふくつづいたが、1969ねん9月場所ばしょではふたた幕内まくうち上位じょうい西前にしまえあたま2まい)まで番付ばんづけもどし、大関おおぜききた富士ふじやぶっている。同年どうねん7がつ場所ばしょ千秋楽せんしゅうらくでは、大関おおぜき清國きよくに優勝ゆうしょうパレードで旗手きしゅつとめた。

1970ねん9月場所ばしょ以降いこう幕内まくうちもどることなく、1971ねん5月場所ばしょひがしじゅうりょう9まいで2しょう13はい大敗たいはい場所ばしょでの幕下まくした陥落かんらく決定的けっていてきになったことをけてどう場所ばしょを以って引退いんたいした。

引退いんたい年寄としよりうらふう襲名しゅうめいしたが、1975ねん1がつ場所ばしょかぎりで廃業はいぎょう

その東京とうきょう文京ぶんきょう本郷ほんごうで、相撲すもう料理りょうりみせ「ちゃんこ 浅瀬あさせがわ」を経営けいえいしていた。

2017ねん9がつ22にち心不全しんふぜんのため埼玉さいたまけん狭山さやま市内しない逝去せいきょ。75さいぼつ

次男じなんつよし也(たかや、1978ねん5月まれ)が1994ねんに、同門どうもん立浪たつなみ伊勢いせはま連合れんごう)の朝日山あさひやま部屋へや入門にゅうもん入門にゅうもん当時とうじの『大相撲おおずもう中継ちゅうけい』のしん弟子でし名鑑めいかんでは、「ちち最高さいこう前頭まえがしら筆頭ひっとうわったので、自分じぶんいちまいじょう小結こむすび)を目指めざしたい」と決意けついかたっていた。しかし、関取せきとりどころか、幕下まくしたにもがれず最高さいこうさんだん14まいまり2006ねん1がつ場所ばしょかぎりで引退いんたいした。そんな次男じなんであったが、みは父親ちちおやまったおなじ「浅瀬あさせがわ」の四股しこめいいでいた[2]

ユーモアあふれる人柄ひとがらられ、先述せんじゅつやまい入院にゅういんしたときも「なかむしうなんて、まったむしこうかんばなしだ」「じゅうまぶた整形せいけい手術しゅじゅつなんだよ」などとジョークをばしては周囲しゅういわらいをさそったという。

引退いんたい相撲すもう[編集へんしゅう]

引退いんたい相撲すもう1971ねん10月3にち蔵前くらまえ国技こくぎかんにておこなわれたが、ここで土俵入どひょうい披露ひろうした横綱よこづなたまうみ正洋まさひろはその8にち急逝きゅうせいし、これが生前せいぜんかれおおやけ姿すがたせた最後さいご場所ばしょとなった。

なお、そのとき断髪だんぱつしきとしたまげは、現在げんざい「ちゃんこ 浅瀬あさせがわ」の店内てんないかざられている。

おも成績せいせき記録きろく[編集へんしゅう]

  • 通算つうさん成績せいせき:493しょう471はい34きゅう 勝率しょうりつ.511
  • 幕内まくうち成績せいせき:188しょう236はい11きゅう 勝率しょうりつ.443
  • 現役げんえき在位ざいい:84場所ばしょ
  • 幕内まくうち在位ざいい:29場所ばしょ
  • さんしょう:1かい
    • 技能ぎのうしょう:1かい(1966ねん3がつ場所ばしょ
  • 金星かなぼし:4柏戸かしわど2佐田さだやま1個いっこ大鵬たいほう1個いっこ
  • かくだん優勝ゆうしょう
    • 十両じゅうりょう優勝ゆうしょう:2かい(1964ねん5がつ場所ばしょ、1969ねん3がつ場所ばしょ
    • 幕下まくした優勝ゆうしょう:2かい(1962ねん5がつ場所ばしょ、1968ねん1がつ場所ばしょ

場所ばしょべつ成績せいせき[編集へんしゅう]

あさ瀬川せかわ 健次けんじ
いちがつ場所ばしょ
初場所はつばしょ東京とうきょう
さんがつ場所ばしょ
春場所はるばしょ大阪おおさか
五月ごがつ場所ばしょ
夏場所なつばしょ東京とうきょう
なながつ場所ばしょ
名古屋なごや場所ばしょ愛知あいち
九月場所くがつばしょ
秋場所あきばしょ東京とうきょう
十一月じゅういちがつ場所ばしょ
九州きゅうしゅう場所ばしょ福岡ふくおか
1957ねん
昭和しょうわ32ねん
x x ぜん相撲すもう x 西にし序ノ口じょのくち11まい
5–3 
ひがしじょだん87まい
5–3 
1958ねん
昭和しょうわ33ねん
ひがしじょだん62まい
5–3 
西にしじょだん43まい
5–3 
ひがしじょだん17まい
4–4 
西にしじょだん14まい
2–6 
西にしじょだん26まい
5–3 
ひがしじょだん筆頭ひっとう
4–4 
1959ねん
昭和しょうわ34ねん
西にしさんだん104まい
4–4 
西にしさんだん93まい
0–0–8 
西にしじょだん14まい
5–3 
西にしさんだん100まい
6–2 
ひがしさんだん78まい
6–2 
西にしさんだん45まい
6–2 
1960ねん
昭和しょうわ35ねん
西にしさんだん17まい
3–5 
西にしさんだん19まい
6–2 
ひがし幕下まくした81まい
3–5 
西にしさんだん筆頭ひっとう
2–5 
ひがしさんだん16まい
2–5 
ひがしさんだん32まい
5–2 
1961ねん
昭和しょうわ36ねん
ひがしさんだん14まい
4–3 
ひがしさんだん5まい
6–1 
ひがし幕下まくした56まい
3–4 
西にし幕下まくした63まい
2–5 
西にし幕下まくした74まい
3–4 
西にし幕下まくした79まい
2–5 
1962ねん
昭和しょうわ37ねん
西にしさんだん8まい
6–1 
ひがし幕下まくした36まい
5–2 
ひがし幕下まくした47まい
優勝ゆうしょう
7–0
ひがし幕下まくした4まい
6–1 
西にし幕下まくした筆頭ひっとう
4–3 
西にしじゅうりょう18まい
8–7 
1963ねん
昭和しょうわ38ねん
ひがしじゅうりょう12まい
8–7 
ひがしじゅうりょう7まい
4–11 
西にしじゅうりょう15まい
11–4 
西にしじゅうりょう8まい
12–3 
ひがしじゅうりょう2まい
5–10 
西にしじゅうりょう6まい
9–6 
1964ねん
昭和しょうわ39ねん
ひがしじゅうりょう筆頭ひっとう
10–5 
西前にしまえあたま14まい
6–9 
西にしじゅうりょう3まい
優勝ゆうしょう
12–3
西前にしまえあたま13まい
10–5 
ひがし前頭まえがしら6まい
9–6 
ひがし前頭まえがしら2まい
8–7
1965ねん
昭和しょうわ40ねん
ひがし前頭まえがしら筆頭ひっとう
4–11 
ひがし前頭まえがしら6まい
9–6 
ひがし前頭まえがしら2まい
6–9 
ひがし前頭まえがしら4まい
8–7 
西前にしまえあたま3まい
4–11 
ひがし前頭まえがしら9まい
9–6 
1966ねん
昭和しょうわ41ねん
西前にしまえあたま4まい
9–6
ひがし前頭まえがしら2まい
8–7
わざ
ひがし前頭まえがしら筆頭ひっとう
0–4–11[3] 
西前にしまえあたま11まい
10–5 
ひがし前頭まえがしら4まい
3–12 
西前にしまえあたま9まい
7–8 
1967ねん
昭和しょうわ42ねん
ひがし前頭まえがしら11まい
11–4 
ひがし前頭まえがしら3まい
6–9
西前にしまえあたま6まい
1–14 
西にしじゅうりょう筆頭ひっとう
6–9 
ひがしじゅうりょう4まい
休場きゅうじょう
0–0–15
ひがし幕下まくした筆頭ひっとう
1–6 
1968ねん
昭和しょうわ43ねん
西にし幕下まくした19まい
優勝ゆうしょう
7–0
西にしじゅうりょう11まい
10–5 
ひがしじゅうりょう4まい
12–3 
ひがし前頭まえがしら10まい
6–9 
ひがしじゅうりょう筆頭ひっとう
10–5 
ひがし前頭まえがしら11まい
2–13 
1969ねん
昭和しょうわ44ねん
ひがしじゅうりょう7まい
9–6 
ひがしじゅうりょう3まい
優勝ゆうしょう
12–3
ひがし前頭まえがしら10まい
8–7 
ひがし前頭まえがしら8まい
9–6 
西前にしまえあたま2まい
3–12 
ひがし前頭まえがしら9まい
8–7 
1970ねん
昭和しょうわ45ねん
西前にしまえあたま4まい
6–9 
西前にしまえあたま6まい
9–6 
ひがし前頭まえがしら3まい
2–13 
ひがし前頭まえがしら12まい
7–8 
西にしじゅうりょう筆頭ひっとう
5–10 
西にしじゅうりょう6まい
5–10 
1971ねん
昭和しょうわ46ねん
西にしじゅうりょう12まい
9–6 
ひがしじゅうりょう8まい
7–8 
ひがしじゅうりょう9まい
引退いんたい
2–13–0
x x x
かくらん数字すうじは、「ち-け-休場きゅうじょう」をしめす。    優勝ゆうしょう 引退いんたい 休場きゅうじょう じゅうりょう 幕下まくした
さんしょう=敢闘かんとうしょうこと=殊勲賞しゅくんしょうわざ=技能ぎのうしょう     その=金星かなぼし
番付ばんづけ階級かいきゅう幕内まくうち - じゅうりょう - 幕下まくした - さんだん - じょだん - 序ノ口じょのくち
幕内まくうち序列じょれつ横綱よこづな - 大関おおぜき - 関脇せきわけ - 小結こむすび - 前頭まえがしら(「#数字すうじ」は各位かくいない序列じょれつ

幕内まくうち対戦たいせん成績せいせき[編集へんしゅう]

力士りきしめい かちすう 負数ふすう 力士りきしめい かちすう 負数ふすう 力士りきしめい かちすう 負数ふすう 力士りきしめい かちすう 負数ふすう
あおさと 7 5 あさとう 1 1 あさひこく 4 1 天津てんしんふう 1 0
荒波あらなみ 3 0 いわふう 1 0 宇多川うたがわ 0 1 追風おいかぜやま 2 0
扇山おうぎやま 0 2 だい位山くらいやま 1 0 小城おぎはな 0 2 さきがけ 1 2
うみ乃山 5 6 柏戸かしわど 2 3 きむ乃花 2 2 きたくに 3 0
きたはな 0 2 きた富士ふじ 2 8 北葉きたばさん 4 2 きみにしき 2 1
黒姫山くろひめさん 1 3 こう鉄山てつざん 3 3 きんさくら 1 9 佐田さだやま 1 8
さわひかり 2 0 にしきよう 3 0 だい麒麟きりん 3 1 だいごう 6 6
だいしん 4 0 大雪おおゆき 1 1 大鵬たいほう 1 7 大文字おおもじ 1 1
大雄たいゆう 4 7 大竜おおたつがわ 4 0 花田はなた 0 1 高見山たかみやま 3 1
玉乃たまのとう 4 9(1) つねにしき 2 0 どき葉山はやま 1 4 とちひがし 1 4
とちいさむ 1 1 とちおうやま 4 7 とちうみ 0 4 とちひかり 2(1) 3
とち富士ふじ 1 1 豊國ほうこく 5 2 戸田とだ 3 6 羽黒山はぐろさん 3 0
長谷川はせがわ 3 2 はなこう 5 3 廣川ひろかわ 2 2 ぶくはな 4 8
ぼうにしき 2 2 富士ふじにしき 2 5 藤ノ川ふじのかわ 1 3 二子ふたごだけ 2 5
前田川まえだがわ 1 2 ぜん乃山 1 4 ぞう位山くらいやま 2 0 三重みえうみ 1 1
みそぎおおとり 2 2 あきら武谷たけや 5 7 陸奥むつあらし 0 5 豊山とよやま 1 7
きちおうやま 1 0 よしはな 3 3 龍虎りゅうこ 1 4 若杉山わかすぎやま 4 2
わか秩父ちちぶ 5 3 わか天龍てんりゅう 5 6 若浪わかのなみ 8 7 わか鳴門なると 4 2
わかこく 0 1 わか乃洲 3 2 わか羽黒はぐろ 0 3 わか 2 3
若見わかみさん 2 1
※カッコないかちすう負数ふすうなかめる不戦勝ふせんしょう不戦敗ふせんぱいかず

改名かいめいれき[編集へんしゅう]

  • 亀山かめやま 健治けんじ(かめやま けんじ)1957ねん5がつ場所ばしょ-1959ねん3がつ場所ばしょ
  • わか乃峯 健治けんじ(わかのみね -)1959ねん5がつ場所ばしょ-1961ねん9がつ場所ばしょ
  • あさ瀬川せかわ 健次けんじ(あさせがわ けんじ)1961ねん11月場所ばしょ-1967ねん11月場所ばしょ
  • あさ瀬川せかわ つよし也(あさせがわ たけや)1968ねん1がつ場所ばしょ-1971ねん5がつ場所ばしょ

年寄としより変遷へんせん[編集へんしゅう]

  • うらかぜ つよし也(うらかぜ たけや)1971ねん5がつ-1975ねん1がつ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ この不運ふうんについては「あのときおれしのけてさんやくになったからこそ、清國きよくにさんは大関おおぜきになれたのだ。部屋へやものとしてよろこほかい。」と本人ほんにん完全かんぜんれている。
  2. ^ あさ瀬川せかわ つよし力士りきし情報じょうほう
  3. ^ みぎひざ靱帯じんたい損傷そんしょうにより4にちから途中とちゅう休場きゅうじょう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]