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あきら武谷たけやつとむしん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
あきら武谷たけや保彦やすひこから転送てんそう
あきら武谷たけや 保彦やすひこ
基礎きそ情報じょうほう
四股しこめい あかりたに きよしあきらたに 清之きよゆき輔 → あきらたに きよしあきら武谷たけや きよしあきら武谷たけや いわおよしようよう いちさとしあきら武谷たけや きよしあきら武谷たけや つとむしんあきら武谷たけや けんなおあきら武谷たけや つとむしんあきら武谷たけや すめらぎあつしあきら武谷たけや 保彦やすひこ
本名ほんみょう あかりたに きよし
愛称あいしょう 起重機きじゅうき[1]八頭身はっとうしん力士りきし七人しちにんさむらい
生年月日せいねんがっぴ (1937-04-29) 1937ねん4がつ29にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (2024-03-10) 2024ねん3がつ10日とおか(86さいぼつ
出身しゅっしん 北海道ほっかいどう阿寒あかんぐん阿寒あかんまちげん釧路くしろ
身長しんちょう 189cm
体重たいじゅう 113kg
BMI 31.63
所属しょぞく部屋へや 高島たかしま部屋へやよし葉山はやま道場どうじょう宮城野みやぎの部屋へや
得意とくいわざ ひだりよっつ、り、上手じょうず
成績せいせき
現在げんざい番付ばんづけ 引退いんたい
最高さいこう ひがし関脇せきわけ
生涯しょうがい戦歴せんれき 624しょう580はい6きゅう(88場所ばしょ
幕内まくうち戦歴せんれき 414しょう450はい6きゅう(58場所ばしょ
優勝ゆうしょう じょだん優勝ゆうしょう1かい
しょう 殊勲賞しゅくんしょう4かい
敢闘かんとうしょう4かい
データ
はつ土俵どひょう 1954ねん3がつ場所ばしょ[1]
入幕にゅうまく 1959ねん7がつ場所ばしょ[1]
引退いんたい 1969ねん11月場所ばしょ[1]
備考びこう
金星かなぼし3大鵬たいほう2佐田さだやま1個いっこ
2014ねん3月9にち現在げんざい

あきら武谷たけや つとむしん(みょうぶだに りきのぶ、1937ねん4がつ29にち - 2024ねん3がつ10日とおか)は、北海道ほっかいどう阿寒あかんぐん阿寒あかんまちげん北海道ほっかいどう釧路くしろ出身しゅっしんもと大相撲おおずもう力士りきし本名ほんみょうあかりたに きよし(みょうぶだに きよし)[1]最高さいこうひがし関脇せきわけ

来歴らいれき[編集へんしゅう]

1937ねん4がつ29にちに、北海道ほっかいどう阿寒あかんぐん阿寒あかんまちげん北海道ほっかいどう釧路くしろ)で開拓かいたく農家のうかいとないえ三男さんなんとしてまれる。

りのふか顔立かおだちと毛深けぶか筋骨きんこつ隆々りゅうりゅうとした体躯たいくから当時とうじ当地とうち数多かずおおのこっていたアイヌくとかんがえられている[2]浅草寺せんそうじうん形像けいぞうのモデルはあきら武谷たけやである[3]とされ、デイリー新潮しんちょうにも「いまも浅草あさくさたずねたら、わかあきら武谷たけや面影おもかげうことができる。」との記述きじゅつがある[4]

小学しょうがく6年生ねんせいすで身長しんちょうが176cmにたっしており、さらにちからつよかったことで両親りょうしんから家業かぎょう手伝てつだわされたが、きよし少年しょうねん家業かぎょう手伝てつだうのが大嫌だいきらいで、そのわりに次第しだい力士りきしこころざはじめるようになった。1953ねんのある羽黒山はぐろさん政司せいじよし葉山はやまじゅんいちぎょう地元じもと巡業じゅんぎょうさいに、よし葉山はやましたしかった郷里きょうりもとさんだん力士りきしとも宿舎しゅくしゃ訪問ほうもんし、ちゃんこ御馳走ごちそうになったことでよろこんで実家じっかもどり、両親りょうしん報告ほうこくして入門にゅうもんけた。しかし両親りょうしんからはだい反対はんたいされたことで対立たいりつしたが、かよっていたゆうべつ中学校ちゅうがっこう校長こうちょうが「絶対ぜったい大物おおものになるから、3ねん以内いないに(関取せきとり昇進しょうしん出来できなかったらかた善処ぜんしょする」と両親りょうしん説得せっとくし、高島たかしま部屋へや入門にゅうもん1954ねん3がつ場所ばしょはつ土俵どひょうんだ。角界かくかいりしたのは、長身ちょうしんぎて農作業のうさぎょうには不向ふむきであるという本人ほんにん判断はんだんもあった[5]

高島たかしま部屋へや入門にゅうもんしてからしばらくったあるよし葉山はやま現役げんえきちゅう設立せつりつした「よし葉山はやま道場どうじょう」(宮城野みやぎの部屋へや)へ移籍いせきした。中学ちゅうがく校長こうちょう両親りょうしん約束やくそくした「はつ土俵どひょうから3ねん」という約束やくそく期限きげんたっした1957ねん3がつ場所ばしょ両親りょうしんよし葉山はやま道場どうじょうおとずれて帰郷ききょうめいじるも、師匠ししょうよし葉山はやまが「横綱よこづなになったわたし関取せきとり昇進しょうしんめるまで4ねんかかりましたから。」と説得せっとくして1ねん猶予ゆうよ両親りょうしんもとめ、これにより続投ぞくとうゆるされた。11月場所ばしょしんじゅうりょう昇進しょうしんたし、1959ねん7がつ場所ばしょしん入幕にゅうまくたした。この場所ばしょは7しょう8はいし、1場所ばしょ陥落かんらくしたものの、3度目どめ入幕にゅうまく幕内まくうち定着ていちゃくした。よわさから取組とりくみ稽古けいこなどへの積極せっきょくせいけていたが、周囲しゅういからの忠告ちゅうこくけ、さらに部屋へやあたまとしての責任せきにんかんじるようになってからは自分じぶんにもわかものにもきびしくなった。

長身ちょうしんかしてひだりよっつからのり・上手じょうず人気にんきはくした。こしたかいのでおそかったが、師匠ししょうからははやつことよりもみぎ上手じょうずることだけを研究けんきゅうしろと指導しどうされた[6]。さらに上位じょうい力士りきしつよく、1961ねん9月場所ばしょでは場所ばしょ横綱よこづな昇進しょうしんする大鵬たいほう幸喜ゆきよし柏戸かしわどつよしとのりょう大関おおぜき優勝ゆうしょう決定けっていともえせんおこな[1]幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょうこそたせなかったものの敢闘かんとうしょう受賞じゅしょうする活躍かつやくせた[7]さんやくさんしょう受賞じゅしょう常連じょうれんとして大関おおぜき昇進しょうしん期待きたいされたが、ちょうどそのころどう系統けいとうさんやく以上いじょう番付ばんづけ力士りきし自身じしん以外いがいにいなかった[8]ため系統けいとうべつそうたりせいした不利ふりたされ[9]柏戸かしわどたいして優勝ゆうしょう決定けっていせんふくむ19せん全敗ぜんぱいまったたなかったり、昇進しょうしん目前もくぜんとした1965ねん3がつ場所ばしょ初日しょにちと2にち連続れんぞくしていさあし[10]として失速しっそくするなど、結局けっきょく昇進しょうしんゆめかなわなかった。それでも筋肉質きんにくしつ長身ちょうしんりのふかかお外国がいこくじん女性じょせい人気にんきがあった[1]

1967ねんごろまではみぎ上手じょうずるとちからたが、それ以降いこうはがっぷりよっつになってもつよくなくなり、そとらってやぶれることがえた[11]。1968ねん1がつ場所ばしょでははつ土俵どひょうから1000かい連続れんぞく出場しゅつじょう記録きろく達成たっせいしたことで協会きょうかいから特別とくべつ表彰ひょうしょうけた[1]1969ねん11月場所ばしょ最後さいご健康けんこうじょう理由りゆう現役げんえき引退いんたい[5]して年寄としより中村なかむら襲名しゅうめい宮城野みやぎの部屋へや部屋へや親方おやかたとして後進こうしん指導しどうたったほか、勝負しょうぶ審判しんぱんつとめた。しかしキリスト教きりすときょうけい新興しんこう宗教しゅうきょうエホバの証人しょうにん」に入信にゅうしんして以降いこうは、相撲すもう神道しんとう(エホバの証人しょうにんが「いつわりの宗教しゅうきょう」となしている宗教しゅうきょう)の影響えいきょうはなせず、信者しんじゃとして親方おやかたぎょう継続けいぞくできないとかんがえるようになり[5]1977ねん1がつ場所ばしょ最後さいご廃業はいぎょうした[5]。そのはビル清掃せいそうぎょうはたらきながら布教ふきょう活動かつどうおこなっていた[5]

幕内まくうち優勝ゆうしょう決定けっていせん出場しゅつじょう経験けいけんのある力士りきしなかで、引退いんたいまでに幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょういちたせなかった力士りきしは13にんいるが、このうち決定けっていせんふくすうかい出場しゅつじょうした経験けいけんつのはあきら武谷たけやそう羽黒はぐろ2人ふたりのみである。

大鵬たいほうへの国民こくみん栄誉えいよしょう授与じゅよ検討けんとうされていた2013ねん2がつ当時とうじ、「巨人きょじん大鵬たいほう卵焼たまごやき」の流行りゅうこうまれた1960年代ねんだい少年しょうねん時代じだいごした安倍晋三あべしんぞう個人こじんてき感情かんじょうとして、「卵焼たまごやきはきだったが、巨人きょじん大鵬たいほうもアンチだった。“大鵬たいほうキラー”とわれた関脇せきわけあきら武谷たけやたかほそくて、わたしもやせっぽちの子供こどもだったので応援おうえんしていた」と述懐じゅっかいした一方いっぽうで「アンチでも大鵬たいほうになる。大鵬たいほうとの取組とりくみあせにぎって応援おうえんしていた」とかした[12]

2024ねん3がつ10日とおか老衰ろうすいのため死去しきょ[13]。86さいぼつ

おも成績せいせき[編集へんしゅう]

  • 通算つうさん成績せいせき:624しょう580はい6きゅう 勝率しょうりつ.518
  • 幕内まくうち成績せいせき:414しょう450はい6きゅう 勝率しょうりつ.479
  • 現役げんえき在位ざいい:88場所ばしょ
  • 幕内まくうち在位ざいい:58場所ばしょ
  • さんやく在位ざいい:13場所ばしょ関脇せきわけ5場所ばしょ小結こむすび8場所ばしょ
  • 優勝ゆうしょう同点どうてん:2かい1961ねん9月場所ばしょ1965ねん9月場所ばしょ[1]
  • さんしょう:8かい[1]
    • 殊勲賞しゅくんしょう:4かい(1964ねん7がつ場所ばしょ、1964ねん11月場所ばしょ、1965ねん1がつ場所ばしょ、1965ねん11月場所ばしょ[1]
    • 敢闘かんとうしょう:4かい(1961ねん9がつ場所ばしょ、1964ねん9がつ場所ばしょ、1965ねん9がつ場所ばしょ、1967ねん1がつ場所ばしょ[1]
  • 雷電らいでんしょう:3かい(1961ねん9がつ場所ばしょ、1965ねん5がつ場所ばしょ、1965ねん9がつ場所ばしょ
  • 金星かなぼし:3大鵬たいほう2佐田さだやま1個いっこ
  • かくだん優勝ゆうしょう
    • じょだん優勝ゆうしょう:1かい(1955ねん3がつ場所ばしょ

場所ばしょべつ成績せいせき[編集へんしゅう]

あきら武谷たけやつとむしん
いちがつ場所ばしょ
初場所はつばしょ東京とうきょう
さんがつ場所ばしょ
春場所はるばしょ大阪おおさか
五月ごがつ場所ばしょ
夏場所なつばしょ東京とうきょう
なながつ場所ばしょ
名古屋なごや場所ばしょ愛知あいち
九月場所くがつばしょ
秋場所あきばしょ東京とうきょう
十一月じゅういちがつ場所ばしょ
九州きゅうしゅう場所ばしょ福岡ふくおか
1954ねん
昭和しょうわ29ねん
x 西新にしじんじょ
3–0 
ひがしじょだん52まい
3–5 
x 西にしじょだん54まい
6–2 
x
1955ねん
昭和しょうわ30ねん
西にしじょだん21まい
3–5 
ひがしじょだん25まい
優勝ゆうしょう
8–0
西にしさんだん47まい
5–3 
x ひがしさんだん25まい
5–3 
x
1956ねん
昭和しょうわ31ねん
西にしさんだん7まい
7–1 
ひがし幕下まくした49まい
5–3 
ひがし幕下まくした42まい
6–2 
x ひがし幕下まくした32まい
6–2 
x
1957ねん
昭和しょうわ32ねん
ひがし幕下まくした20まい
4–4 
ひがし幕下まくした19まい
5–3 
ひがし幕下まくした13まい
6–2 
x ひがし幕下まくした3まい
5–3 
西にしじゅうりょう23まい
8–7 
1958ねん
昭和しょうわ33ねん
西にしじゅうりょう22まい
9–6 
ひがしじゅうりょう17まい
7–8 
西にしじゅうりょう18まい
11–4 
ひがしじゅうりょう8まい
8–7 
西にしじゅうりょう6まい
8–7 
ひがしじゅうりょう6まい
6–9 
1959ねん
昭和しょうわ34ねん
ひがしじゅうりょう9まい
9–6 
ひがしじゅうりょう6まい
11–4 
ひがしじゅうりょう3まい
10–5 
西前にしまえあたま18まい
7–8 
西にしじゅうりょう2まい
12–3 
ひがし前頭まえがしら12まい
6–9 
1960ねん
昭和しょうわ35ねん
ひがし前頭まえがしら15まい
5–10 
ひがしじゅうりょう2まい
6–9 
西にしじゅうりょう4まい
9–6 
西にしじゅうりょう筆頭ひっとう
9–6 
西にしじゅうりょう筆頭ひっとう
10–5 
ひがし前頭まえがしら13まい
8–7 
1961ねん
昭和しょうわ36ねん
ひがし前頭まえがしら10まい
8–7 
ひがし前頭まえがしら5まい
5–10 
ひがし前頭まえがしら9まい
7–8 
西前にしまえあたま10まい
9–6 
西前にしまえあたま4まい
12–3[14]
西にしちょういずる小結こむすび
6–9 
1962ねん
昭和しょうわ37ねん
ひがし前頭まえがしら4まい
6–9 
ひがし前頭まえがしら8まい
7–8 
ひがし前頭まえがしら7まい
9–6 
ひがし前頭まえがしら3まい
2–13 
西前にしまえあたま9まい
8–7 
西前にしまえあたま7まい
11–4 
1963ねん
昭和しょうわ38ねん
ひがし前頭まえがしら筆頭ひっとう
5–10 
西前にしまえあたま3まい
5–10 
西前にしまえあたま6まい
5–10 
西前にしまえあたま11まい
9–6 
西前にしまえあたま6まい
8–7 
西前にしまえあたま3まい
7–8 
1964ねん
昭和しょうわ39ねん
西前にしまえあたま4まい
8–7 
西にし小結こむすび
7–8 
西前にしまえあたま筆頭ひっとう
7–8
西前にしまえあたま筆頭ひっとう
8–7
こと
ひがし前頭まえがしら筆頭ひっとう
8–7
ひがし関脇せきわけ
8–7
こと
1965ねん
昭和しょうわ40ねん
ひがし関脇せきわけ
9–6
こと
ひがし関脇せきわけ
4–11 
ひがし前頭まえがしら4まい
11–4 
ひがし小結こむすび
4–11 
ひがし前頭まえがしら5まい
12–3[15]
西にしちょういずる小結こむすび
9–6
こと
1966ねん
昭和しょうわ41ねん
西にし小結こむすび
9–6 
西にし関脇せきわけ
7–8 
西にし小結こむすび
6–9 
西前にしまえあたま2まい
5–10 
ひがし前頭まえがしら5まい
5–10 
ひがし前頭まえがしら8まい
8–7 
1967ねん
昭和しょうわ42ねん
西前にしまえあたま4まい
11–4
ひがし小結こむすび
9–6 
ひがし関脇せきわけ
7–8 
ひがしちょういずる小結こむすび
7–8 
西前にしまえあたま筆頭ひっとう
7–8 
西前にしまえあたま筆頭ひっとう
5–10
1968ねん
昭和しょうわ43ねん
ひがし前頭まえがしら6まい
7–8 
西前にしまえあたま7まい
8–7 
西前にしまえあたま4まい
9–6 
ひがし前頭まえがしら2まい
4–8–3[16] 
ひがし前頭まえがしら7まい
11–4 
ひがし前頭まえがしら2まい
5–10 
1969ねん
昭和しょうわ44ねん
西前にしまえあたま5まい
6–9 
ひがし前頭まえがしら7まい
5–10 
西前にしまえあたま11まい
9–6 
ひがし前頭まえがしら7まい
7–8 
ひがし前頭まえがしら8まい
7–8 
西前にしまえあたま9まい
引退いんたい
0–12–3[17]
かくらん数字すうじは、「ち-け-休場きゅうじょう」をしめす。    優勝ゆうしょう 引退いんたい 休場きゅうじょう じゅうりょう 幕下まくした
さんしょう=敢闘かんとうしょうこと=殊勲賞しゅくんしょうわざ=技能ぎのうしょう     その=金星かなぼし
番付ばんづけ階級かいきゅう幕内まくうち - じゅうりょう - 幕下まくした - さんだん - じょだん - 序ノ口じょのくち
幕内まくうち序列じょれつ横綱よこづな - 大関おおぜき - 関脇せきわけ - 小結こむすび - 前頭まえがしら(「#数字すうじ」は各位かくいない序列じょれつ

幕内まくうち対戦たいせん成績せいせき[編集へんしゅう]

力士りきしめい かちすう 負数ふすう 力士りきしめい かちすう 負数ふすう 力士りきしめい かちすう 負数ふすう 力士りきしめい かちすう 負数ふすう
あおさと 11 10 あさあらし 1 0 朝岡あさおか 1 0 あさしお(米川よねかわ) 0 2
浅瀬あさせがわ 7 5 あさうみ 2 1 あさとう 0 3 あさひこく 0 3(1)
愛宕山あたごやま 0 1 天津てんしんふう 2 4 あら岐山きざん 2 1 いずみひろし 1 1
いち乃矢 1 0 いわふう 3 5 及川おいかわ 1 3 追風おいかぜやま 4 0
扇山おうぎやま 4 3 大瀬川おおせがわ 1(1) 0 だいあきら 3 6 おかさん 2(1) 0
小城おぎはな 11 5 さきがけ 1 3 海山みやま 2 0 うみ乃山 11 10(1)
ひらけたかしさん 13 2 柏戸かしわど 1(1) 18** かずあきら 1 0 きむ乃花 6 4
きたよう 3 3 きたはな 0 1 きた富士ふじ 14 12 北葉きたばさん 10 10
きみにしき 1 2 清國きよくに 10 9 しんぜいかわ 3 1 おに竜川りゅうがわ 2 1
麒麟児きりんじ 4 5 くにとう 1 0 ぐり家山いえやま 0 2 くろ獅子じし 2 0
黒姫山くろひめさん 1 1 こう鉄山てつざん 5 7 きんはま 0 2 きんさくら 5 12
逆鉾さかほこ 0 3 佐田さだやま 8 23 さわひかり 2 2 うしおにしき 3 3
信夫山しのぶやま 0 1 だいごう 7 11 大鵬たいほう 5 20* 大文字おおもじ 2 2
大雄たいゆう 7 5 大竜おおたつがわ 0 3 こうにしき 1 0 高見山たかみやま 4 5
たまあらし 2 4 玉乃たまのうみ 1 1 玉乃たまのとう 6 12 玉響たまゆら(新川しんかわ) 1 2
つねにしき 7 3 つるみね 4 7 出羽でわにしき 5 5 時津とぎつさん 2 1
どきにしき 0 1 どき葉山はやま 5 2 戸田とだ 2 0 とちひがし 4 4
とちいさむ 0 1 とちおうやま 5 3 とちうみ 4 15 とちひかり 8 11
とち富士ふじ 1 2 豊國ほうこく 9 6 鳴門なるとかい 1 2 成山なりやま 0 1
にしきよう 0 2 羽黒川はぐろがわ 5 4 羽黒山はぐろさん 3 3 長谷川はせがわ 8 5
花田はなた 1 0 はなこう 5 6 福田山ふくたやま 1 2 ぶくはな 9 2
ぼうにしき 3 3 富士ふじにしき 13 10 藤ノ川ふじのかわ 4 2 二子ふたごだけ 4 2
そうりゅう 0 2 ほしかぶと 0 1 前田川まえだがわ 9 3 まえやま 2 5
まつのぼる 2 4 三重みえうみ 1 0 みそぎおおとり 1 4 みやはな 1 0
豊山とよやま 9 21 きちおうやま 0 1 よしはな 6 5 龍虎りゅうこ 2 1
若杉山わかすぎやま 4 3 わか秩父ちちぶ 7 1 わか天龍てんりゅう 5 3 若浪わかのなみ 10 5
わか鳴門なると 1 1 わかうみ 5 3 わかこく 3 6 わか乃洲 1 0
若乃花わかのはな(初代しょだい) 0 1 わか羽黒はぐろ 6 1 若葉わかばさん 2 0 わか 1 4
わか前田まえだ 5 2 若見わかみさん 12 5
※カッコないかちすう負数ふすうなかめる不戦勝ふせんしょう不戦敗ふせんぱいかず

改名かいめいれき[編集へんしゅう]

  • あかりたに きよし(みょうぶだに きよし):1954ねん3がつ場所ばしょ - 1959ねん5がつ場所ばしょ、1959ねん11月場所ばしょ - 1961ねん3がつ場所ばしょ、1963ねん9がつ場所ばしょ - 1963ねん11月場所ばしょ
  • あかりたに 清之きよゆき輔( - せいのすけ):1959ねん7がつ場所ばしょ - 1959ねん9がつ場所ばしょ
  • あきら武谷たけや きよし( - きよし):1961ねん5がつ場所ばしょ - 1962ねん3がつ場所ばしょ
  • あきら武谷たけや いわお( - いわお):1962ねん5がつ場所ばしょ - 1962ねん11月場所ばしょ
  • よしようよう いちさとし(よしばなだ かずひろ):1963ねん1がつ場所ばしょ - 1963ねん7がつ場所ばしょ ※師匠ししょうの「よし葉山はやま」にあやかった四股しこめい[6]
  • あきら武谷たけや つとむしん( - りきのぶ):1964ねん1がつ場所ばしょ - 1965ねん1がつ場所ばしょ、1965ねん11月場所ばしょ - 1966ねん9がつ場所ばしょ
  • あきら武谷たけや けんなお( - のりたか):1965ねん3がつ場所ばしょ - 1965ねん9がつ場所ばしょ
  • あきら武谷たけや すめらぎあつし( - おおき):1966ねん11月場所ばしょ - 1968ねん3がつ場所ばしょ
  • あきら武谷たけや 保彦やすひこ( - やすひこ):1968ねん5がつ場所ばしょ - 1969ねん11月場所ばしょ引退いんたい

11もの改名かいめいれきなかで「よしようよう」を名乗なのっていた時期じき(1963ねん1がつ場所ばしょ - 同年どうねん7がつ場所ばしょ)をのぞいた10すべ本名ほんみょうおなみで、その10改名かいめいれきでも「あきらたけたに」または「あきらたに」と一文字ひともじちがいにぎない。改名かいめいれき大半たいはん本名ほんみょうじゅんずるという意味いみでは、本名ほんみょう力士りきしひとつの資料しりょうになりるとかんがえられる。また、「11もの改名かいめい」は星岩ほしいわ涛祐(9)を上回うわまわるが、あきら武谷たけや場合ばあい上記じょうきべた「よしようよう以外いがいすべ名前なまえ、または本名ほんみょうあきらだに)から「あきら武谷たけや」と一文字ひともじ変更へんこうした程度ていどで、このことから一般いっぱんにはあきら武谷たけや改名かいめいれき幕内まくうち経験けいけんしゃ最多さいた改名かいめい記録きろくとしてみとめられていない。2013ねん現在げんざいでも最多さいた改名かいめい記録きろく星岩ほしいわ涛祐の9である。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l ベースボールマガジンしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(4) 立浪たつなみ部屋へや』p28
  2. ^ あきらだに」は、富山とやまけん魚津うおづにルーツをもつ名字みょうじおもわれる[1]実際じっさい富山とやまけん魚津うおづ大字だいじ金山谷かなやまだにあかりだにという地区ちく存在そんざいする[2]
  3. ^ 瞬間しゅんかんメタル タケタリーナ山口やまぐちの「このくちじょくち”. 相撲すもう情報じょうほうTSUNA. 2024ねん3がつ11にち閲覧えつらん
  4. ^ 小林こばやし信也しんや (2022ねん11月20にち). “し”でられ、人生じんせい宗教しゅうきょうにささげた力士りきしあきら武谷たけや 「エホバのご意志いしると…」相撲すもうあきらめた理由りゆう”. デイリー新潮しんちょう. 2024ねん3がつ11にち閲覧えつらん
  5. ^ a b c d e 人間にんげん起重機きじゅうき”は聖書せいしょたかげる (「ざめよ!」1983ねん9がつ8にちごう”. ものみのとうオンライン・ライブラリ. 2022ねん8がつ21にち閲覧えつらん
  6. ^ a b ベースボールマガジンしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(4) 立浪たつなみ部屋へや』p68-69
  7. ^ 大鵬たいほうとは1964ねんから1967ねんにかけて健闘けんとうし、通算つうさん5しょう20はいおおきくしているものの、最高さいこう関脇せきわけ以下いかで5しょうしているのはあきら武谷たけやぼうにしきかちいにしえだけである。
  8. ^ 宮城野みやぎの部屋へや立浪たつなみ一門いちもんぞくしてはいたが、系統けいとうことなるので立浪たつなみ部屋へや力士りきしとも対戦たいせんする
  9. ^ 雑誌ざっし相撲すもう別冊べっさつ菊花きっかごう 創業そうぎょう70周年しゅうねん特別とくべつ企画きかくシリーズ(3)かしわほう時代じだい やわら大鵬たいほう つよし柏戸かしわど――大型おおがた横綱よこづなたちの君臨くんりん(ベースボールマガジンしゃ、2016ねん) p68
  10. ^ 大相撲おおずもうジャーナル』2017ねん12がつごうp115
  11. ^ 雑誌ざっし相撲すもう別冊べっさつ菊花きっかごう 創業そうぎょう70周年しゅうねん特別とくべつ企画きかくシリーズ(3)かしわほう時代じだい やわら大鵬たいほう つよし柏戸かしわど――大型おおがた横綱よこづなたちの君臨くんりん(ベースボールマガジンしゃ、2016ねん) p88-91
  12. ^ じつはアンチ大鵬たいほうだった…安倍あべ首相しゅしょうも「国民こくみん栄誉えいよしょうあたいする」 Sponichi Annex 2013ねん2がつ1にち 06:00
  13. ^ もと関脇せきわけあきら武谷たけや死去しきょ つりが得意とくいの「起重機きじゅうき 2024ねん3がつ10にち 共同通信社きょうどうつうしんしゃ閲覧えつらん
  14. ^ 大鵬たいほう柏戸かしわど優勝ゆうしょう決定けっていせん
  15. ^ 佐田さだやま柏戸かしわど優勝ゆうしょう決定けっていせん
  16. ^ ひだりだい10~11肋骨あばらぼね亀裂きれつ骨折こっせつにより12にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  17. ^ 腰痛ようつう多発たはつせい関節かんせつつうにより12にちから途中とちゅう休場きゅうじょう


関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]