せい神社じんじゃ (和泉いずみ)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
せい神社じんじゃ

本殿ほんでんみぎおく)と拝殿はいでん
所在地しょざいち 大阪おおさか和泉いずみ王子おうじまち919
位置いち 北緯ほくい3430ふん04.4びょう 東経とうけい13526ふん49.0びょう / 北緯ほくい34.501222 東経とうけい135.446944 / 34.501222; 135.446944 (せい神社じんじゃ (和泉いずみ))座標ざひょう: 北緯ほくい3430ふん04.4びょう 東経とうけい13526ふん49.0びょう / 北緯ほくい34.501222 東経とうけい135.446944 / 34.501222; 135.446944 (せい神社じんじゃ (和泉いずみ))
主祭しゅさいしん ひじり大神おおがみ
社格しゃかくひとし 式内しきないしゃしょう
和泉いずみこく三宮さんのみや
きゅうしゃ
創建そうけん つて白鳳はくほう3ねん675ねん
本殿ほんでん様式ようしき 権現造ごんげんづくり
別名べつめい 信太しだ明神みょうじん
例祭れいさい 5がつ10日とおか
おも神事しんじ ちょうさい角力すもうさい
テンプレートを表示ひょうじ

せい神社じんじゃ(ひじりじんじゃ)は、大阪おおさか和泉いずみ王子おうじまちにある神社じんじゃ式内しきないしゃで、きゅう社格しゃかくしゃ和泉いずみこく三宮さんのみや。「信太しだ明神みょうじん」「篠田しのだしゃ」「信太しだきよししゃ」などともばれる。

祭神さいじん[編集へんしゅう]

  • ひじり大神おおがみ(ひじりのおおかみ)

ひじり大神おおがみは『古事記こじき』に「せいかみ」と登場とうじょうする大年おおとしかみ御子みこしんである。『和泉いずみ国大こくだいとり五社大明神并府中惣社八幡宮縁起』によると本地ほんじふつ地蔵じぞう菩薩ぼさつとなっている。

社家しゃけせつによれば以下いかの5はしら祭神さいじんだという。現在げんざいはいまつかみになっているらしい[よう出典しゅってん]

歴史れきし[編集へんしゅう]

本殿ほんでん

当社とうしゃには、神武じんむ天皇てんのう東征とうせいさい瓊々きねみこと当地とうちまつられたとする伝承でんしょうと、[よう出典しゅってん]白鳳はくほう3ねん675ねん)8がつ15にち天武天皇てんむてんのう勅願ちょくがんにより渡来とらい氏族しぞく信太しだくび(しのだのおびと)がせい大神おおがみまつったとする伝承でんしょうせつがある。さだかん元年がんねん859ねん)5がつ7にちかんしゃ指定していされ、同年どうねん8がつ13にちしたがえからしたがえよん神階しんかいける(『さんだい実録じつろく』)。延長えんちょう5ねん927ねん)に施行しこうされた『延喜えんぎしき』ではその「かみめいちょう」に記載きさいされている(式内しきないしゃ)。中世ちゅうせいの『和泉いずみ国神くにかみめいちょう』では神階しんかいが「せいいち」となっている。

鎌倉かまくら時代ときよには信太しだ代々だいだい神主かんぬししょくとなっていたが、南北なんぼくあさ時代じだい南朝なんちょうかたいたために、その信太しだ神主かんぬししょく地位ちいうしない、わってのべぶん5ねん1360ねん)には和田わだ蔵人くろうど神主かんぬししょくいている。南北なんぼくあさ時代じだいよりおな和泉いずみこく大鳥おおとり神社じんじゃいずみ穴師あなし神社じんじゃ積川つがわ神社じんじゃにち神社じんじゃとともに「しゃ大明神だいみょうじん」とばれるようになる。和泉いずみこく神社じんじゃの3番目ばんめ地位ちいめるが、「三宮さんのみや」の記述きじゅつ中世ちゅうせいにはない。

天正てんしょう3ねん1575ねん)に織田おだ信長のぶながより所領しょりょう1,100いし安堵あんどされるが、どう13ねん1585ねん)の豊臣とよとみ秀吉ひでよし根来ねごろ兵火へいかにあい、所領しょりょう没収ぼっしゅうされた。

江戸えど時代じだい初期しょき豊臣とよとみ秀頼ひでより片桐かたぎり且元奉行ぶぎょうとして各地かくち社寺しゃじ造営ぞうえいしたが、当社とうしゃ慶長けいちょう9ねん1604ねん)に再建さいけんされている。現存げんそんする当時とうじ社殿しゃでん本社ほんしゃ本殿ほんでん末社まっしゃさん神社じんじゃたき神社じんじゃ平岡ひらおか神社じんじゃ本殿ほんでん重要じゅうよう文化財ぶんかざいおよ大阪おおさか有形ゆうけい文化財ぶんかざい指定していされている。また神宮寺じんぐうじとして真言宗しんごんしゅうまんまついんがあり、五重塔ごじゅうのとうかねどうがあった。寛政かんせい8ねん1796ねん)には社家しゃけしゃそうあいだ紛争ふんそうこっている。

明治めいじになると、神仏しんぶつ分離ぶんりにより神宮寺じんぐうじまんまついん廃寺はいじとなった。1872ねん明治めいじ5ねん)に郷社ごうしゃれつかくし、1943ねん昭和しょうわ18ねん)3がつしゃ昇格しょうかくしている。

泉大津いずみおおつ助松すけまつまちからびる「中和泉なかいずみ街道かいどう」は「布引ぬのびきみち」ともばれ、助松すけまつはま上陸じょうりくした信太しだだい明神みょうじんが、せい神社じんじゃかうさいぬのいたことに由来ゆらいする。なお、「中和泉なかいずみ街道かいどう」のいしぶみは、紀州きしゅう街道かいどうとの交差点こうさてんっている。

境内けいだい[編集へんしゅう]

本殿ほんでん重要じゅうよう文化財ぶんかざい
末社まっしゃさん神社じんじゃみぎ)とたき神社じんじゃひだり)。ともに重要じゅうよう文化財ぶんかざい
末社まっしゃ平岡ひらおか神社じんじゃ本殿ほんでん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい

末社まっしゃ[編集へんしゅう]

  • さん神社じんじゃ重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 慶長けいちょう9ねん(1604ねん)に豊臣とよとみ秀頼ひでより片桐かたぎり且元を奉行ぶぎょうとして再建さいけん極彩色ごくさいしょく華麗かれい装飾そうしょく桃山ももやま時代じだい特徴とくちょうしめしている。社殿しゃでんさんあいだしゃ春日しゅんじつづくりひのきがわ葺である。さんあいだしゃ正面しょうめんばしらあいだが3あいだ)の春日しゅんじつづくり全国ぜんこくてきにもめずらしい。1873ねん明治めいじ6ねん)に現在地げんざいち遷座せんざ
  • たき神社じんじゃ重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 慶長けいちょう9ねん(1604ねん)に豊臣とよとみ秀頼ひでより片桐かたぎり且元を奉行ぶぎょうとして再建さいけん社殿しゃでんは一間社春日造檜皮葺。こうはいのき唐破風からはふつくる。1873ねん明治めいじ6ねん)に現在地げんざいち遷座せんざ
  • 平岡ひらおか神社じんじゃ大阪おおさか指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい) - 慶長けいちょう9ねん(1604ねん)に豊臣とよとみ秀頼ひでより片桐かたぎり且元を奉行ぶぎょうとして再建さいけん本殿ほんでんは一間社春日造檜皮葺。
  • 琴平ことひら神社じんじゃ - 祭神さいじん大物おおものぬしかみ
  • 厳島いつくしま神社じんじゃ - 祭神さいじん市杵島いきしまうりいのち
  • 稲荷塚いなりづか - 稲荷いなりしんまつ稲荷塚いなりづか数多かずおおくある。

文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

重要じゅうよう文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

  • 本殿ほんでん 宮殿きゅうでん 1
  • 末社まっしゃさん神社じんじゃ本殿ほんでん
  • 末社まっしゃたき神社じんじゃ本殿ほんでん

大阪おおさか指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

  • 末社まっしゃ平岡ひらおか神社じんじゃ本殿ほんでん

重要じゅうよう美術びじゅつひん[編集へんしゅう]

祭事さいじ[編集へんしゅう]

  • 例祭れいさい 5がつ10日とおか

交通こうつう[編集へんしゅう]

周囲しゅうい[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • せい神社じんじゃ由緒ゆいしょ

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]