(Translated by https://www.hiragana.jp/)
積川神社 - Wikipedia コンテンツにスキップ

積川つがわ神社じんじゃ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
積川つがわ神社じんじゃ
拝殿
拝殿はいでん鳥居とりい地図
所在地しょざいち 大阪おおさか岸和田きしわだ積川つがわまち350
位置いち 北緯ほくい3425ふん30.42びょう 東経とうけい13526ふん21.75びょう / 北緯ほくい34.4251167 東経とうけい135.4393750 / 34.4251167; 135.4393750
主祭しゅさいしん 生井いくいかみ
さかえしん
つな長井ながいしん
阿須あずなみしん
なみ岐神
社格しゃかくひとし 式内しきないしゃしょう
和泉いずみこく四宮しのみや
きゅう郷社ごうしゃ
創建そうけん たかしかみ天皇てんのう年間ねんかん
本殿ほんでん様式ようしき さんあいだしゃ流造ながれづくり
例祭れいさい 10月8にち
テンプレートを表示ひょうじ
本殿ほんでん

積川つがわ神社じんじゃ(つがわじんじゃ)は、大阪おおさか岸和田きしわだ積川つがわまちにある神社じんじゃ式内しきないしゃで、きゅう社格しゃかく郷社ごうしゃ和泉いずみこく四宮しのみや勅願ちょくがんしゃである。

祭神さいじん[編集へんしゅう]

  • 主祭しゅさいしん - 生井なまいしん(いくいのかみ)、さかえしん(さくいのかみ)、つな長井ながいしん(つながいのかみ)、阿須あずなみしん(あすはのかみ)、なみ岐神(はひきのかみ)。

総称そうしょうして一般いっぱんてきにはしんばれている。

歴史れきし[編集へんしゅう]

たかしかみ天皇てんのう御代みよ創立そうりつされたといわれ、延長えんちょう5ねん927ねん成立せいりつの『延喜えんぎしきかみめいちょうにも記載きさいされているいにしえしゃである。

さだかん6ねん864ねん)3がつしたがえよんさだかん15ねん873ねん)4がつにはしたがえよんじょうじょせられている。

大阪おおさか史蹟しせき名勝めいしょう天然記念物てんねんきねんぶつ』の岸和田きしわだ積川つがわ神社じんじゃこうには、「白河しらかわ上皇じょうこう熊野くまの御幸みゆきのとき、八木はちぼくきょう額原がくはらおいて、本社ほんしゃを遑(はるかカ)はいあらせられ、芝草しばくさみて、舞台ぶたいとなし、舞楽ぶがくそうせしめきゅうひしとき上皇じょうこうはた鳥居とりいかかげたる扁額へんがく筆蹟ひっせきつたなきをみそなはせられ、おやひつりて『せいいち 積川つがわ大明神だいみょうじん』のはち大書たいしょしてこれだいへさせきゅうひしといふ」というしゃでん紹介しょうかいされている。寛治かんじ4ねん1090ねん)の出来事できごとであるという。

えいれき元年がんねん1160ねん)10がつこう白河しらかわ上皇じょうこうによる熊野くまのからだ勧請かんじょうさいして、養和ようわ元年がんねん1181ねん)に積川つがわしゃこん熊野くまのしゃりょう諸国しょこく荘園しょうえん28箇所かしょひとつとして寄進きしんされた。

えいよろず元年がんねん1165ねん)の神祇官じんぎかんしょしゃ年貢ねんぐ注文ちゅうもんには、和泉いずみしゃ和泉いずみこく一宮いちのみや大鳥おおとり大社たいしゃ二宮にのみやいずみ穴師あなし神社じんじゃ三宮さんのみやせい神社じんじゃ)、四宮しのみや積川つがわ神社じんじゃ五宮ごのみやにち神社じんじゃ)のほかよんしゃとともに神祇官じんぎかん直属ちょくぞくして、その年貢ねんぐしんしゃとされ、和泉いずみ国近くにちかそう特産とくさんくし和泉いずみくし近木こぎくし)をおさめていたことがしるされている。

たてたもつ5ねん1217ねん)の後鳥羽上皇ごとばじょうこう女院にょいん両院りょういん御幸みゆきには、泉州せんしゅうたねせきかわ使つとめたものについての記述きじゅつがあり、熊野くまの御幸みゆき路次ろじかくしゃいん奉幣ほうへい使てられたことがしめされている。

天正てんしょう3ねん1575ねん)10がつ20日はつかには織田おだ信長のぶながより社領しゃりょう安堵あんどされている。このころには社領しゃりょうが600せきあったという。しかし、天正てんしょう13ねん1585ねん)に豊臣とよとみ秀吉ひでよしにより社領しゃりょう没収ぼっしゅうされた。

慶長けいちょう8ねん1603ねん)に豊臣とよとみ秀頼ひでより片桐かたぎり且元めいじて本殿ほんでん重要じゅうよう文化財ぶんかざい)のだい修理しゅうりおこなわれている。

寛永かんえい17ねん(1640ねん) に岡部おかべせんしょう高槻たかつきはんより岸和田きしわだはんにゅうふうしたさいみなみぐん岸和田きしわだ浜町はまちょうにあったいち鳥居とりいどうぐん額原がくはらむら移動いどうされる。

1873ねん明治めいじ6ねん)に郷社ごうしゃれっせられている。

1906ねん明治めいじ39ねん)8がつ14にち内務省ないむしょう神社じんじゃ宗教しゅうきょうりょう局長きょくちょう依命いめい通牒つうちょうによるいわゆる「神社じんじゃ合祀ごうし」で、泉南せんなんぐんやま直上ちょくじょうむらかく神社じんじゃ大字だいじ積川つがわ積川つがわ神社じんじゃ合祀ごうしせよとの方針ほうしんしめされたが、大字だいじ稲葉いなば井坂いさかくすのき太郎たろう反対はんたい運動うんどうによってこの合祀ごうし方針ほうしん断念だんねんさせ、大字だいじ包近かねちか楠本くすもと神社じんじゃ山直中やまだいなか中村なかむら神社じんじゃ稲葉いなば菅原すがわら神社じんじゃ現在げんざいいたるまでのこることとなった。これとはべつに、上述じょうじゅつの「神社じんじゃ合祀ごうし」で、1907ねん明治めいじ40ねん)11月9にち大字だいじ積川つがわないにあった八坂神社やさかじんじゃ菅原すがわら神社じんじゃしろひげしゃかく村社そんしゃ積川つがわ神社じんじゃうつされている。

1908ねん明治めいじ41ねん)1がつには神饌しんせん幣帛へいはくりょうきょうしんしゃ指定していされている。

本殿ほんでん1914ねん大正たいしょう3ねん)4がつ社寺しゃじ保存ほぞんほうもとづいて特別とくべつ保護ほご建造けんぞうぶつ指定していされ、1929ねん昭和しょうわ4ねん)には国宝こくほう保存ほぞんほう成立せいりつによって国宝こくほうとなった。現在げんざい1950ねん昭和しょうわ25ねん)の文化財ぶんかざい保護ほごほう施行しこうにより、重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている。

遙拝ようはいしょ[編集へんしゅう]

積川つがわ神社じんじゃ遙拝ようはいしょ
位置いち北緯ほくい3427ふん38.38びょう 東経とうけい13524ふん7.68びょう / 北緯ほくい34.4606611 東経とうけい135.4021333 / 34.4606611; 135.4021333

積川つがわ神社じんじゃ遥拝ようはいしょ大阪おおさか岸和田きしわだ小松里こまつりまちきたがくがくまち)のどう30号線ごうせん熊野くまの古道ふるみち沿いにある。積川つがわ神社じんじゃ牛滝川うしたきがわ沿って磯上いそかみまち付近ふきんまでにおよび、遠方えんぽう氏子うじこ積川つがわ神社じんじゃ参拝さんぱいできるよう、中間なかま地点ちてん付近ふきん遥拝ようはいしょもうけられた。

熊野くまの古道ふるみち沿いにあるため、熊野くまの参詣さんけいをする皇族こうぞく公家くげ勅願ちょくがんしゃである積川つがわ神社じんじゃ遥拝ようはいする(ぬかづく)場所ばしょにもなった。また、上述じょうじゅつ白河しらかわ上皇じょうこう扁額へんがくかれたのは寛治かんじ4ねん1090ねん)のことで、現在げんざいかかげられているものはその模写もしゃである。なお、これらのはなしから地名ちめいが「がく」になったという。

また、かつてきし和田わだはま御旅所おたびしょもうけられていたが、岸和田きしわだじょうした建設けんせつともない、当地とうちうつされている。

境内けいだい[編集へんしゅう]

末社まっしゃ[編集へんしゅう]

文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

重要じゅうよう文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

大阪おおさか指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

岸和田きしわだ指定してい天然記念物てんねんきねんぶつ[編集へんしゅう]

  • 積川つがわ神社じんじゃむく

その[編集へんしゅう]

  • 神輿しんよ - 淀殿よどどの奉納ほうのうといわれる。重要じゅうよう文化財ぶんかざい申請しんせいちゅう
  • いにしえきょう

祭事さいじ[編集へんしゅう]

  • 例祭れいさい 10がつ8にち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 積川つがわ神社じんじゃ由緒ゆいしょ

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]