芹沢鴨せりざわかも

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芹澤鴨せりざわかもから転送てんそう

芹沢せりざわ かも(せりざわ かも、きゅう字体じたい芹澤せりざわ かも生年せいねん不明ふめい - 文久ぶんきゅう3ねん9月16にち1863ねん10月28にち〉)は、幕末ばくまつ水戸みとはん浪士ろうし壬生みぶ浪士ろうし新選しんせんぐみ)の初代しょだい筆頭ひっとう局長きょくちょう頭取とうどり)。芹沢鴨せりざわかも変名へんめいで、かつては下村しもむら 嗣次つぎ、嗣司、嗣治つぐじとも)と名乗なのっていたものと推定すいていされている。いみなひかりみきで、本姓ほんせい桓武かんむたいら繁盛はんじょうりゅうだいじょうとされるが、実際じっさい出自しゅつじ出生しゅっしょうねん諸説しょせつがあり、確定かくていされていない(後述こうじゅつ)。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

出自しゅつじなぞ[編集へんしゅう]

かもぜん半生はんせいについては不明ふめいなことがおおい。

常陸ひたちこく多賀たがぐん松井まついむらげん北茨城きたいばらき中郷町松井なかごうちょうまつい)の神官しんかん下村しもむらゆう実子じっしで、松井まついむら出生しゅっしょうわれる[1][2]石河いしかわみきおさむ明善あきよし)『石河いしかわ明善あきよし日記にっき』に「手綱たづなりょう松井まついむら神官しんかんろうはちせがれ ろうはち百姓ひゃくしょうより神官しんかん取立とりたてもの也」とあり下村しもむら嗣次は下村しもむらゆう次郎じろうはち)と親子おやこ関係かんけいであるとされている[1]。嗣次にはつねおやという子供こどもがいたとわれるが、下村しもむら位牌いはいにはゆう子供こどもしるされていた[3]婿養子むこようしとするせつもあるが根拠こんきょつかっていない。

島田しまだいさおの『英名えいめいろく』の末尾まつびにはかも名前なまえみぎよこに「またひだりみぎ衛門えもん」とあり、水戸みと藩士はんし芹沢せりざわ分家ぶんけ出身しゅっしんともいわれ、日置ひおきりゅうゆき弓術きゅうじゅつ名人めいじん[4]芹沢せりざわまた衛門えもん以幹のだとするせつ存在そんざいしている[5]同家どうけは以幹の次男じなんで、いだ芹沢せりざわ平蔵へいぞうみきぜんかもおなこうみき)の子供こどもたちであるまた衛門えもんこうみきじょ次郎じろうごうみき亀三郎かめさぶろうらのさんめいが、文久ぶんきゅう3ねん(1863ねん)3がつ伊藤いとう俊輔しゅんすけともなわれて上京じょうきょうしていた[6]

永倉ながくら新八しんぱちの「つねしゅう水戸みと郷士ごうし真壁まかべぐん芹沢せりざわむらさん[7]、「芹沢せりざわむら浪人ろうにん[8]という表現ひょうげんから、室町むろまち時代じだい行方ゆくえぐん芹沢せりざわむらげん茨城いばらきけん行方ゆくえ芹沢せりざわ)に定着ていちゃくした豪族ごうぞくで、江戸えど時代じだい初期しょきには戦功せんこうにより徳川とくがわ家康いえやすいのちによって行方ゆくえぐん富田とみたむらげん行方ゆくえ富田とみた)に知行ちぎょうひゃくせきあたえられ[9]のち水戸みとはん上席じょうせき郷士ごうし士分しぶん)となった芹沢せりざわ本家ほんけ出身しゅっしんで、芹沢せりざわそとさだみき三男さんなんとするせつがある[10]

しかし近年きんねん芹沢せりざわそとよんなん文政ぶんせい7ねん(1824ねん[11]もしくは文政ぶんせい9ねん(1826ねん[12]出生しゅっしょうで、しんちょうぐみはいり、のち天狗てんぐとうくわわってもと元年がんねん(1864ねん)8がつ16にち那珂湊なかみなと戦死せんしした長谷川はせがわ庄七しょうしちいみなけんひさ)の存在そんざい確認かくにんされた[11]かも生年せいねん天保てんぽう3ねん(1832ねん)とするせつ有力ゆうりょくであり、そと三男さんなんだとすれば計算けいさんわない。系譜けいふ宗門しゅうもん人別にんべつちょうなどの表記ひょうき仕方しかたから長谷川はせがわ庄七しょうしち芹沢せりざわさだみき三男さんなんだとするせつもある[13]

また、芹沢せりざわ本家ほんけ菩提寺ぼだいじ法眼ほうげんてら過去かこちょうつま名前なまえしるされた芹沢せりざわへいふとしがいる[14]へいふとしそと次男じなん芹沢せりざわ兵部ひょうぶなりみきぼつ慶応けいおう4ねん(1868ねん芹沢せりざわ所属しょぞくしていた[15]人物じんぶつであり、文化ぶんか12ねん(1815ねん)から文政ぶんせい6ねん(1823ねん)のあいだまれたそと三男さんなんともわれている[14]

戸賀とがさき熊太郎くまたろうから神道しんとう無念むねんりゅう剣術けんじゅつまなび、免許皆伝めんきょかいでん師範代しはんだいつとめたとされる(諸説しょせつあり)。

玉造たまつくりぜい[編集へんしゅう]

下村しもむら嗣次は安政あんせい5ねん(1858ねん)よりはじまるつちのえうま密勅みっちょく返納へんのう阻止そし運動うんどう参加さんかし、万延まんえん元年がんねん(1860ねんごろ玉造たまつくりぜいはいったとかんがえられる。玉造たまつくりむら文武ぶんぶかんげん茨城いばらきけん行方ゆくえ玉造たまつくり)を拠点きょてんとして横浜よこはま攘夷じょうい決行けっこうするため、豪商ごうしょうまわり、資金しきんあつめに奔走ほんそうした。新見にいみにしきぜんとするせつもある新家しんや粂太ろう仲間なかまにいた[16]玉造たまつくりぜいは「無二無三むにむさん日本にっぽんたましい」「すすむおもえ尽忠じんちゅう」と大書たいしょしたのぼりかかげて調練ちょうれんおこなっていた[17]。嗣次は佐原さわらむらげん千葉ちばけん香取かとり佐原さわら)でりをおこない、名主なぬし伊能いのうけんすすむ鉄扇てっせん殴打おうだした[18]

しかし、つねそうあいだ水戸みとはんりょう天領てんりょういて強引ごういん手法しゅほう使つかって資金しきんてをおこなったことにより、代官だいかん佐々木ささき道太郎みちたろうから幕府ばくふ上申じょうしんおこなわれ[17]徳川とくがわ慶篤よしあつ武田たけだ耕雲斎こううんさい江戸えどせて、在府ざいふ家臣かしん議論ぎろんおこなった結果けっか文久ぶんきゅう元年がんねん1861ねん)2がつ9にち不法ふほうものどもをらえ、場合ばあいによってはててもかまわないという指令しれいくだされた[17]。これをけて、玉造たまつくりぜい主要しゅようメンバーであった大津おおつ彦五ろうらは玉造たまつくり退去たいきょして、たから幢院(げん東茨城ひがしいばらきぐんぐすくさとまち)にうつり、自訴じそおこなうが、評定ひょうじょうしょ拘引こういんされ[19]のち細谷ほそや新設しんせつされた牢屋ろうやうつされた[20]同時どうじ下村しもむら新家しんやらにも捕縛ほばくれいくだった[21]

同年どうねん3がつ28にち遊女ゆうじょいろはちいろきょう)と芹沢せりざわそとていにいたところを捕縛ほばくされ[22]同日どうじつよる赤沼あかぬまごくに嗣次は入牢にゅうろうした[23]。6月24にち水戸みとはんげきよりの武田たけだらの政務せいむ参与さんよめさせ、謹慎きんしんめいじ、厳罰げんばつ家老がろう復帰ふっきさせたことから[24]よく文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)9がつ16にちに「引廻うえ斬罪ざんざいこれしょ大赦たいしゃづけ於牢斬罪ざんざい梟首きょうしゅこと」との処分しょぶんけたことが判明はんめいしている[25]口述こうじゅつしょをききとった一人ひとり吉成よしなり勇太郎ゆうたろうがいた[25]

11月21にち武田たけだらが執政しっせい復帰ふっきし、厳罰げんばつ退しりぞけられた[26]、12月26にちには慶篤よしあつからつちのえうま密勅みっちょく受納じゅのうするむね藩中はんちゅう一等いっとうつたえ、政治せいじはん釈放しゃくほうおこなわれた[27]

それでもはなはだしい所業しょぎょうかえりみて、なお水戸みとはん下村しもむららの釈放しゃくほう躊躇ちゅうちょしていたが、よく文久ぶんきゅう3ねん1863ねん)1がつ初旬しょじゅんには新家しんやおなじく玉造たまつくりぜいかぶとそうかいらとともに嗣次は出獄しゅつごくすることをゆるされた[28]

芹沢鴨せりざわかもどう一人物いちじんぶつであれば、これ以後いごあらためたものとかんがえられる。近藤こんどういさむは「水府すいふ脱藩だっぱん下村しもむら嗣司ごとあらため芹沢鴨せりざわかもさるじん」とべている[29]

壬生みぶ浪士ろうし頭取とうどり[編集へんしゅう]

やく1かげつの2がつ5にち清河きよかわ八郎はちろう言論げんろん活動かつどうや、松平まつだいら忠敏ただとし周旋しゅうせんにより幕府ばくふ組織そしきした浪士ろうしぐみ新見にいみにしき平山ひらやま五郎ごろう野口のぐち健司けんじ平間ひらま重助しげすけひとしともな参加さんかし、ろく番組ばんぐみ小頭こがしら任命にんめいされた。そのさい江戸えど剣術けんじゅつ道場どうじょうためしまもるかん近藤こんどういさむ土方ひじかた歳三としぞう沖田おきた総司そうし山南さんなん敬助けいすけらもくわわり、京都きょうとまで行動こうどうをともにする。なお、この上洛じょうらく旅程りょてい本庄ほんじょう宿やどで、近藤こんどうらの手違てちがいにより芹沢せりざわ宿所しゅくしょ手配てはいされていなかったことにはらて、まちちゅう危険きけんだいかがりいたという逸話いつわ永倉ながくら新八しんぱちの『新選しんせんぐみ顛末てんまつ』より)がつたわるが、地元じもと記録きろく伝承でんしょういため信憑しんぴょうせいうすいとされる[30]

23にち京都きょうと到着とうちゃく芹沢せりざわ近藤こんどう一派いっぱとともに壬生みぶ郷士ごうし八木はちぼくげんすすむ屋敷やしき分宿ぶんしゅくした。そのころ将軍しょうぐん警固けいごのため上洛じょうらくした浪士ろうしぐみを、しん尊王そんのう攘夷じょうい先鋒せんぽうとするため、創設そうせつしゃである清河きよかわ八郎はちろうは、朝廷ちょうてい上奏じょうそうぶん提出ていしゅつして、浪士ろうしぐみ朝廷ちょうてい直属ちょくぞくにすることに成功せいこうした。29にちしんとくてら同志どうしあつ攘夷じょうい決行けっこうのため江戸えど帰還きかん宣言せんげんすると、芹沢せりざわ近藤こんどうはこれに反対はんたいし、京都きょうと残留ざんりゅうもう脱退だったい。このときに残留ざんりゅうめたのが芹沢せりざわ同志どうし5にん近藤こんどう同志どうし8にん合計ごうけい13にんだった。これに殿内とのうち義雄よしお根岸ねぎしともさんらも合流ごうりゅうする。

3がつ10日とおか芹沢せりざわ近藤こんどうら17にん(24にんともいう)の連名れんめい会津あいづはん嘆願たんがんしょ提出ていしゅつ会津あいづはんかれらを「あずかり」とすることをめる。芹沢せりざわらは八木はちぼくてい屯所とんしょとして(のち前川まえかわ南部なんぶにも寄宿きしゅく)この前後ぜんごより「壬生みぶ浪士ろうし」とばれはじめた。そのさい内部ないぶ抗争こうそうき、26にち殿内とのうち暗殺あんさつされ、根岸ねぎし同志どうしとともに離脱りだつすると、壬生みぶ浪士ろうし芹沢せりざわ近藤こんどう牛耳ぎゅうじることになった。のちに芹沢せりざわ近藤こんどう新見にいみ局長きょくちょうとなり、そのうちで芹沢せりざわ筆頭ひっとうとなった。

25にち会津あいづ藩士はんし本多ほんだ四郎しろう小野おのはちすけ望月もちづき新平しんぺい諏訪すわ伝三郎でんざぶろう佐久間さくま悌二ていじ吉田よしだ源次郎げんじろう案内あんない壬生みぶおとずれ、芹沢せりざわらとはじめて面会めんかいたした[31]おどると浪士ろうしたちはべ、会津あいづ藩士はんしたちを見物けんぶつ招待しょうたいし、桟敷さじきうえ菓子かし土瓶どびんれた酒肴さけさかなった[31]浪士ろうしたちは会津あいづはんからの手当てあてきん同色どうしょく単衣物ひとえもの紋付もんつきに仕立したてたふく着用ちゃくようしていた[31]芹沢せりざわ本多ほんだらにたいしてきょう出立しゅったつした清河きよかわ八郎はちろうあて生国しょうごく庄内しょうない)からの手紙てがみたことをげ、留守るすちゅうなので開封かいふうしたところ、「如何いか」などがあったため、清河きよかわ国元くにもと出入でい禁止きんしになったことをった、とべた[31]

4がつ芹沢せりざわ近藤こんどう新見にいみらはだいさかくだって今橋いまはし平野屋ひらのや兵衛ひょうえからひゃくりょう借用しゃくようした。

5月24にち中山なかやま忠能ただやすやしき参上さんじょうした正親町おおぎまちこうただしはなしなかで、「有志ゆうし」として、今泉いまいずみ与一よいち太郎たろうとも言及げんきゅうされる[32]。「芹沢せりざわカモ」と表記ひょうきされており、名前なまえかた確定かくていされた史料しりょうでもある[32]よく25にちには、同志どうし全員ぜんいん筆頭ひっとうとして松平まつだいら容保かたもり攘夷じょうい実行じっこう上書うわがき提出ていしゅつした[33]

6月3にち芹沢せりざわ近藤こんどうら10にんが「不逞ふてい浪士ろうしまりのためふたた大坂おおさかくだった。途中とちゅう、すれちがった力士りきしみちゆずらなかったため、芹沢せりざわらは暴行ぼうこうくわえた。その行為こういおこった力士りきし仲間なかまけつけ乱闘らんとうとなり力士りきしがわ死傷ししょうしゃた。小野川おのがわ部屋へや年寄としよりびをれてことはおさまったが、大坂おおさか町奉行まちぶぎょうしょ与力よりき内山うちやま彦次郎ひこじろうがこれを問題もんだいにして近藤こんどうおこらせ、のちに新選しんせんぐみにより暗殺あんさつされている(内山うちやま暗殺あんさつしたものについては異説いせつもある)。

同月どうげつ水口みずぐちはん公用こうようかた壬生みぶ浪士ろうし乱暴らんぼうであると苦情くじょうったことが会津あいづはんとおして芹沢せりざわられ、激怒げきどした芹沢せりざわ永倉ながくら新八しんぱち井上いのうえ源三郎げんざぶろうらを水口みずぐち藩邸はんてい派遣はけんし、担当たんとうしゃ脅迫きょうはくして謝罪しゃざいさせ、証文しょうもんった。担当たんとうしゃ独断どくだんかれた証文しょうもんであったため、ことの露見ろけんおそれた公用こうようかたかえそうとひとかいして芹沢せりざわ説得せっとくし、芹沢せりざわ証文しょうもんかえすこととなり、しまげん角屋かくや宴会えんかいひらかれた。しかし酒乱しゅらん芹沢せりざわだいあばれをして店主てんしゅ角屋かくやいさおみぎ衛門えもんに7日間にちかん営業えいぎょう停止ていし一方いっぽうてきもうしつけている(角屋すみやでの暴挙ぼうきょ)。

8がつ13にち一条通いちじょうどおりかや町下まちした福大明神ふくだいみょうじんまち大和屋やまとや庄兵衛しょうべえたく壬生みぶ浪士ろうしちされた。西村にしむら兼文かねぶみ新選しんせんぐみ屯所とんしょいた西本願寺にしほんがんじ寺侍てらざむらい)の『新撰しんせんぐみ始末しまつ』や、筆者ひっしゃしょうの『新選しんせんぐみ浪士ろうし始末しまつ』は、この指揮しきしゃ芹沢せりざわだとしている[34][35]

ななねん所収しょしゅう鈴木すずき丹下たんげ騒擾そうじょう日記にっき」によれば、はちがつじゅうはちにち政変せいへんさいして、御所ごしょ警備けいびのために近藤こんどうとともにたいひきいて出動しゅつどうするが、御門みかどかためていた会津あいづ藩士はんしたちは壬生みぶ浪士ろうしらなかったため、やりかまえてとおそうとしなかった。とおどおさぬと双方そうほう問答もんどうとなるなか芹沢せりざわ哄笑こうしょうしながらあゆたためはんへいやりきつけると、愛用あいよう鉄扇てっせんでそのやり悠々ゆうゆうあおいだという。会津あいづはんぐん奉行ぶぎょうけつけてそのおさめたが、芹沢せりざわ悠然ゆうぜんもんとおっていき、人々ひとびとかれ剛胆ごうたんさにおどろいたという。

この出動しゅつどう会津あいづはん壬生みぶ浪士ろうし新選しんせんぐみたいめいあたえたとされるが、確定かくていてき史料しりょう存在そんざいしない。

暗殺あんさつ[編集へんしゅう]

文久ぶんきゅう3ねん(1863ねん)9がつ芹沢せりざわ懸想けそうしていた吉田よしだ芸妓げいぎしょうとらはだゆるさなかったため、立腹りっぷくした芹沢せりざわ吉田よしだみ、みせ破壊はかいすると主人しゅじんおどして、しょうとらいの芸妓げいぎ鹿しかびつけばつとして2人ふたり断髪だんぱつさせる狼藉ろうぜきおこなっている[8]

これらの所業しょぎょうに、朝廷ちょうていから芹沢せりざわ逮捕たいほ命令めいれい[8]ことから、会津あいづはん芹沢せりざわところおけめいじたともわれる。

同年どうねん13にち芹沢せりざわ土方どかた沖田おきたらと水戸みと主君しゅくんすじである徳川とくがわ慶喜よしのぶ母方ははかたにあたる有栖川ありすがわみやいえおとずれ、壬生みぶ浪士ろうしの交名と、「警衛けいえいようがあれば何事なにごとかぎらずもうけてください」としるした書付かきつけわたした[36]

9月16にちあるいは18にち新選しんせんぐみ島原しまばら角屋すみや芸妓げいぎ総揚そうあげの宴会えんかいひらいた。芹沢せりざわ平山ひらやま五郎ごろう平間ひらま重助しげすけ土方どかたらとはやめに角屋かくや壬生みぶ八木はちぼくもどり、八木はちぼく再度さいど宴会えんかいもよおした。そのせき芹沢せりざわ愛妾あいしょううめ平山ひらやま馴染なじみの芸妓げいぎ桔梗ききょうよしさかえ平間ひらま馴染なじみのたがえいとさとっており、宴席えんせきおわるとすっかり泥酔でいすいした芹沢せりざわらはおんなたちと同衾どうきんした。

大雨おおあめ深夜しんや突然とつぜんすうにんおとこたちが芹沢せりざわている部屋へやり、同室どうしつていた平山ひらやま殺害さつがいし、芹沢せりざわりつけた。おどろいた芹沢せりざわきてかたなろうとするがかなわず、ぱだかのまま八木はちぼく親子おやこていた隣室りんしつむが、文机ふづくえにつまずいてころび、そこを刺客しかくたちがよってたかってずたずたにりつけた。このとき芹沢せりざわ八木はちぼく息子むすこいさむすけうえたおみ、刺客しかくたちはそこにりつけたため、かたな鉾先ほこさき寝相ねぞうわるかったいさむすけ右足みぎあしたり、怪我けがわせたという[37]

平山ひらやま死体したい胴体どうたいくびはなれており、芹沢せりざわ同衾どうきんしていたおうめえでくびられころされた。別室べっしつにいた平間ひらま逃亡とうぼうし、よしさかえいとさとなんのが姿すがたしたという。

新選しんせんぐみのこ聞』では、八木はちぼくげんすすむつままさ土方ひじかた歳三としぞう夜中よなかにしきりに様子ようすをうかがっているのを目撃もくげきしており、現場げんばには沖田おきた総司そうし原田はらだひだりすけたしかにおり、山南さんなん敬助けいすけもいたのではないかとしるしている。永倉ながくらの『浪士ろうし文久ぶんきゅう報国ほうこく記事きじ』によると暗殺あんさつ土方どかた沖田おきた藤堂とうどう平助へいすけ御倉おぐら伊勢いせたけしらが実行じっこうしたとある。西村にしむら兼文かねぶみ実行じっこうしゃ土方どかた沖田おきた山南さんなん原田はらだとしている。

事件じけん長州ちょうしゅうはん仕業しわざとされ、9月18にち(18にち暗殺あんさつせつによれば20日はつか)に芹沢せりざわ平山ひらやま葬儀そうぎ神式しんしきのっと盛大せいだいおこなわれた。20日はつか近藤こんどう芹沢せりざわ平山ひらやまが「変死へんし」したことをしるした手紙てがみ郷里きょうり多摩たま佐藤さとう彦五ろうおくっている[38]

芹沢せりざわはか京都きょうと中京ちゅうきょう壬生寺みぶでらにある。

暗殺あんさつかんして[編集へんしゅう]

芹沢鴨せりざわかも暗殺あんさつについては墓碑ぼひもとづいて18にち通説つうせつとなっていたが、16にちあめであることと、いくつかの風説ふうせつしょもとづき、16にちせつ主流しゅりゅうとなっている。とはえ、まだ確固かっこたる史料しりょうはなく意見いけんかれている。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

  • 芹沢せりざわひととなりについては、子母澤しもざわひろしの「新選しんせんぐみさんさく(『新選しんせんぐみ始末しまつ』『新選しんせんぐみのこ』『新選しんせんぐみ物語ものがたり』)」にくわしいが、いずれもかなりの創作そうさくはいっているとされ、信憑しんぴょうせいにはける。
    • 芹沢せりざわたかくでっぷりふとっており、色白いろじろちいさかった。豪傑ごうけつはだ一廉ひとかど人物じんぶつで、つねに「盡忠じんちゅう報國ほうこく 芹澤鴨せりざわかも」ときざまれた鉄扇てっせんにしていた。酒豪しゅごうで、昼間ひるまからんでおり、っていないことはなかったとわれるほどであったという。
    • 数々かずかず乱暴らんぼう狼藉ろうぜき記録きろくから、創作そうさくではのつけられない凶暴きょうぼう悪漢あっかんのようにえがかれることがおおいが、会津あいづ藩主はんしゅ松平まつだいら容保かたもり嘆願たんがんさいに、八木はちぼくから紋付もんつきりることになったが、全員ぜんいんおな家紋かもんになってしまう(公式こうしきではかなり滑稽こっけい)ことを八木はちぼくげんすすむ心配しんぱいすると、芹沢せりざわはまったくかいせずわらっていたり、八木はちぼくからりた火鉢ひばちをこっそりかえしにさい火鉢ひばちかたなきずがあった(たいたちはっては八木はちぼく家財かざい手当てあてたり次第しだいためりの道具どうぐにしていた)のでただされると、「おれだ、おれだ」とあたまをかいてげてしまうなど陽気ようきでおどけたいちめんもあった。また、八木はちぼくむすめ夭折ようせつしたさいには、芹沢せりざわ近藤こんどう帳場ちょうばってすすんで葬儀そうぎ手伝てつだったり、暇潰ひまつぶしに面白おもしろ子供こどもたちにえがいてやるなど、かれていたという。
  • 北野きたの天満てんまみや藤田ふじた東湖とうこの「正気しょうき」と「述懐じゅっかい」として「霜雪そうせついろよくはなさきがけりてものちにおうめこう」といううたしるしたがくけんじたとする風説ふうせつ存在そんざいしている[39]
  • 田尻たじりたすく壬生寺みぶでらおとずれたさい当時とうじ芹沢せりざわ老女ろうじょがおり、かれ墓参はかまいりにたことをげると大変たいへんよろこんだというが、真偽しんぎさだかではない。(「史談しだんかい速記そっきろく」)。
  • えい六輔ろくすけ幕末ばくまつ素顔すがお 日本にっぽん外史がいし』(毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ・1970ねん)では芹沢せりざわ写真しゃしんとされるものが掲載けいさいされているが、別人べつじんのものである。また、同書どうしょでは沖田おきたとされる写真しゃしん収録しゅうろくされている(これも別人べつじん)。
  • あいがたなは「備後びんご三原みはらもり家正いえまさ」であるなどという言説げんせつ出回でまわっている[40]が、そのようなめいかたなは『日本にっぽんがたなめいかん』に記載きさい[41]実在じつざいしない。かり三原みはらただしとすれば、初代しょだいせいいちりは御物ぎょもつとしてきゅうぞうされ、よんだいせい最上もがみ大業物おおわざものくらいれつされるなど、皇室こうしつ将軍家しょうぐんけ大名だいみょうなどが秘蔵ひぞうする最上級さいじょうきゅうかたなであり、一介いっかい浪士ろうしぎない芹沢せりざわ入手にゅうしゅできたとはかんがえにくい。

芹沢鴨せりざわかもあつかった作品さくひん[編集へんしゅう]

漫画まんが
ねこねこ日本にっぽん』(著作ちょさくそにしけんじ実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ
鞍馬あんば天狗てんぐ』(そとその昌也まさや原作げんさく大佛だいぶつ次郎じろう
テレビアニメ
『ねこねこ日本にっぽん』(Eテレ
テレビドラマ
新選しんせんぐみ!』(NHK 2004ねん大河たいがドラマえんじ佐藤さとう浩市こういち
舞台ぶたい
TEAM NACSだい10かい公演こうえん LOOSER~うしなつづけてしまうアルバム』(2004ねんえんじ安田やすだあらわ

芹沢鴨せりざわかもえんじた人物じんぶつ[編集へんしゅう]

映画えいが[編集へんしゅう]

テレビドラマ[編集へんしゅう]

舞台ぶたい[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 茨城新聞いばらきしんぶん』2015ねん12月6にち 14めん新撰しんせんぐみ局長きょくちょう芹沢鴨せりざわかも 出身しゅっしん北茨城きたいばらきか 幕末ばくまつ日記にっきしん史料しりょう発見はっけん
  2. ^ 読売新聞よみうりしんぶん』2017ねん9がつ15にち 「芹沢鴨せりざわかも出身しゅっしん 「北茨城きたいばらきまれ」の新説しんせつ
  3. ^ 長久保ながくぼ片雲へんうん芹沢鴨せりざわかも北茨城きたいばらきとの接点せってん」『こうじん だい11ごう』、こうじんしゃ 2005ねん5がつ p81~89
  4. ^ 小野崎おのざき紀男のりお編著へんちょゆみ道人みちひとめいだい事典じてん』、日本にっぽん図書としょセンター 2003ねん5がつ p305
  5. ^ 古賀こが茂作しげさく芹沢鴨せりざわかも異聞いぶん」『新選しんせんぐみ組長くみちょう列伝れつでん』、新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ 2002ねん7がつ p200~205
  6. ^ 水戸みとはん史料しりょう へんぜん』、水戸みと徳川とくがわ p284~285
  7. ^ 永倉ながくら新八しんぱち新選しんせんぐみ顛末てんまつ』、しん人物じんぶつ文庫ぶんこ 2009ねん5がつ p84
  8. ^ a b c 永倉ながくら浪士ろうし文久ぶんきゅう報国ほうこく記事きじ
  9. ^ 芹澤せりざわ系図けいず」『系図けいず綜覧そうらん だいかん』、国書刊行会こくしょかんこうかい 1915ねん9がつ p47
  10. ^ 芹澤せりざわ かも(ひかりみき) 新選しんせんぐみつくったおとこ
  11. ^ a b 箱根はこねきの千也ちや新選しんせんぐみ芹澤鴨せりざわかも新見にいみにしき水戸みとはん浪士ろうし」『霊山りょうぜん歴史れきしかん紀要きよう 22ごう』、霊山りょうぜん歴史れきしかん 2015ねん5がつ p47
  12. ^  長谷川はせがわ庄七しょうしち内務省ないむしょう」『昭和しょうわ大礼たいれい贈位ぞうい書類しょるいだいさつ』、国立こくりつ公文書こうぶんしょかん
  13. ^ 海老澤えびさわただしこうみずのえさる戸籍こせき宗門しゅうもん人別にんべつあらためちょう芹沢せりざわ続柄つづきがら」『茨城いばらき民俗みんぞく 55ごう茨城いばらき民俗みんぞく学会がっかい、2016ねん12月 p69~77
  14. ^ a b 新選しんせんぐみ芹澤鴨せりざわかも新見にいみにしき水戸みとはん浪士ろうし」 p48~49
  15. ^ 慶応けいおうよんねん周辺しゅうへんむら騒動そうどうにつき東下ひがししもむら波崎はさき名主なぬし石橋いしばし彦兵衛ひこべえ願書がんしょ」『茨城いばらきけん史料しりょう 近世きんせい社会しゃかい経済けいざいへんIII』、茨城いばらきけん p578~582
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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  • 石井いしいあきらこく しる本間ほんまかおるさん へん日本にっぽんがたなめいかん』(さんはんろくさつ雄山閣ゆうざんかく、2000ねんISBN 978-4639100454 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]