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Tu-2 (航空機こうくうき)

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Tu-2 / Ту-2

モスクワ市中央区ヤキマンカ地区上空を飛行する Tu-2 (1945年6月23日撮影)

モスクワ中央ちゅうおうヤキマンカ地区ちく上空じょうくう飛行ひこうする
Tu-2 (1945ねん6月23にち撮影さつえい)

Tu-2Tupolev Tu-2 ティーユー2 / :Ту-2 トゥー・ドヴァー)は、ソ連それんトゥーパリェフ設計せっけいきょく開発かいはつし、赤色あかいろ空軍くうぐんなどで運用うんようされたばくげき

前線ぜんせん爆撃ばくげきとして開発かいはつはじめられたが、用途ようと変更へんこうにより基本きほん量産りょうさんがた急降下きゅうこうか爆撃ばくげきとなった。偵察ていさつとしても運用うんようされた。北大西洋きたたいせいよう条約じょうやく機構きこう(NATO)で使用しようされた「バット ("Bat")」は、「蝙蝠かわほり」の

概要がいよう

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Tu-2は、双発そうはつかたしき単葉たんようであった。垂直すいちょく安定あんていつばさには、水平すいへい尾翼びよく両端りょうたんかたむけた垂直すいちょく尾翼びよくけるそう尾翼びよく方式ほうしき採用さいようされていた。降着こうちゃく装置そうち完全かんぜんしきとされ、なめらかな機体きたい表面ひょうめん密閉みっぺいしき風防ふうぼうわせて空気くうき抵抗ていこう軽減けいげん実現じつげんされていた。

赤軍せきぐん新型しんがた爆撃ばくげき開発かいはつ

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ツポレフ設計せっけいきょく主任しゅにん技師ぎしアンドレーイ・トゥーポレフは、怠業たいぎょうつみ1937ねん10月、内務ないむ人民じんみん委員いいん(NKVD)により逮捕たいほ投獄とうごくされた。この時期じきおおくの設計せっけいしゃ同様どうよう不幸ふこうっており、トゥーポレフもその一人ひとりであった。1938ねんになると、世界せかい情勢じょうせいぜん世界せかい規模きぼでの戦争せんそうけて険悪けんあくなものになっていた。きたるべき大戦たいせんそなえ、ソ連それん政府せいふ労農ろうのう赤軍せきぐん早急そうきゅうなる近代きんだい必要ひつようであると結論けつろんけた。そのためには、まず航空こうくう戦力せんりょく増強ぞうきょう至急しきゅう課題かだいであるとされた。監獄かんごくれられていた設計せっけいしゃは、NKVDの管轄かんかつかれた「特別とくべつ技術ぎじゅつ」(Специальные технические Отделы)において新型しんがた航空機こうくうき開発かいはつおこなうようめいぜられた。名前なまえこそ技術ぎじゅつとなっているが、実情じつじょう常時じょうじ監視かんしかれており、牢獄ろうごく同義語どうぎごであった。「特別とくべつ技術ぎじゅつ」のロシアでの略称りゃくしょうは「STO」(СТОストー)であったが、これがロシアで「100」を意味いみする単語たんごсто」(ストー)とおなじであったことから、この部署ぶしょしたかれる分署ぶんしょには「100」番台ばんだい名称めいしょうあたえられることになった。

トゥーポレフは、分署ぶんしょ「103」においてこう高度こうど急降下きゅうこうか爆撃ばくげきPB(ПБ:「急降下きゅうこうか爆撃ばくげき」の略号りゃくごう)の開発かいはつ着手ちゃくしゅした。この機体きたいには航空機こうくうき「57」(Самолет «57»サマリョート・ピヂスャート・スィェーミ)という開発かいはつ名称めいしょうあたえられた。だい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつともな開発かいはつ要求ようきゅう変更へんこうされ、PBは前線ぜんせん爆撃ばくげきFB(ФБエーフ・ベー:「戦前せんぜん爆撃ばくげき」の略号りゃくごう)として開発かいはつ継続けいぞくされることとなった。FBにはあらたに航空機こうくうき「103」(Самолет «103»サマリョート・ストー・トリー)もしくは航空機こうくうき「58」(Самолет «58»サマリョート・ピヂスャート・ヴォースィェミ)という開発かいはつ名称めいしょうあたえられた。なお、航空機こうくうき「58」はトゥーポレフの名前なまえちなんでANT-58(АНТ-58)ともばれる。

FBの開発かいはつは、ペトリャコフミャスィーシチェフトマシェーヴィチなど他社たしゃとの競合きょうごうおこなわれた。分署ぶんしょ「100」では、ヴラジーミル・ペトリャコーフこう高度こうど戦闘せんとうVI(航空機こうくうき「100」)の開発かいはつおこなった。これは、のちに急降下きゅうこうか爆撃ばくげきPe-2として成功せいこうおさめた。分署ぶんしょ「102」では、ヴラジーミル・ミャスィーシチェフこう高度こうど爆撃ばくげきDVB(航空機こうくうき「103」)の開発かいはつおこなったが、成功せいこうおさめられなかった。

前線ぜんせん爆撃ばくげき完成かんせい

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1941ねん1がつには、最初さいしょ試作しさくとなる航空機こうくうき「103」(「58」)がはつ飛行ひこう実施じっしした。つづいて、2つめの試作しさくとなる航空機こうくうき「103U」(「59」)が完成かんせいし、工場こうじょう試験しけん好成績こうせいせき通過つうかした。航空機こうくうき「103U」は素晴すばらしい飛行ひこう性能せいのう発揮はっきした。この機体きたい量産りょうさんうつされることが決定けっていした。

どくせん開始かいしされると、監禁かんきんされていた設計せっけいしゃおおくは解放かいほうされ、前線ぜんせんからはなれた南西なんせいシベリアオムスク疎開そかいした。そのため、オムスクには急遽きゅうきょおおくの航空機こうくうき生産せいさん工場こうじょう建設けんせつされることとなった。

トゥーポレフも、このにおいて航空機こうくうき「103」と「103U」の完成かんせい作業さぎょういそいだ。機体きたい能力のうりょく向上こうじょうのため、あたらしい動力どうりょく機関きかんとして空冷くうれいしきM-82選択せんたくされた。このほしがたエンジン搭載とうさいした機体きたいは、航空機こうくうき「103V」(「60」)とばれた。

1941ねんあきになると、それまでA・A・アルハーンゲリスキイ記念きねん試作しさく設計せっけいきょくからアレクサンドル・アルハーンゲリスキイがトゥーポレフのもとにもどった。アルハーンゲリスキイは、かつてトゥーポレフのもとでSB(高速こうそく爆撃ばくげき)の開発かいはつおこなおおきな成功せいこうおさめ、独立どくりつには自身じしん設計せっけいきょく急降下きゅうこうか爆撃ばくげきAr-2開発かいはつした実績じっせきがあった。かれ参加さんかは、今回こんかい新型しんがた爆撃ばくげき方向ほうこうせいおおきな影響えいきょうおよぼすこととなった。

航空機こうくうき「103V」は1941ねん12月15にちはつ飛行ひこうたし、各種かくしゅ試験しけん完成かんせい作業さぎょういそがれた。

生産せいさん配備はいび

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航空機こうくうき「103V」が試験しけんおこなうと同時どうじに、工場こうじょうでは量産りょうさんがた生産せいさん開始かいしされた。量産りょうさん制式せいしき名称めいしょうTu-2とされた。量産りょうさん初号しょごう1942ねん2がつ完成かんせいし、年末ねんまつまでに80のTu-2が工場こうじょうた。しかし、これを以ってTu-2の生産せいさん中止ちゅうしされ、工場こうじょうヤコヴレフ設計せっけいきょく戦闘せんとう増産ぞうさんのために提供ていきょうされた。

クルスクのたたか1943ねんソ連それん政府せいふはTu-2の生産せいさん再開さいかい決定けっていした。このとし、ツポレフ設計せっけいきょく前線ぜんせんからとお移動いどう便びんわるいオムスクからすでにドイツぐん脅威きょういから解放かいほうされた首都しゅとモスクワもどっており、Tu-2の生産せいさんもモスクワでおこなわれることとなった。年末ねんまつまでTu-2の生産せいさんおこなわれたが、年末ねんまつにはだい規模きぼ改良かいりょうんだ発展はってんがたであるTu-2S完成かんせいした。Tu-2Sは1944ねんから大量たいりょう生産せいさんされ、戦後せんご生産せいさんは7年間ねんかんほど継続けいぞくされた。

1942ねんから1945ねんすえまでのあいだに1216のTu-2とその派生はせいがた生産せいさんされ、最終さいしゅうてき生産せいさんすうは2527となった。派生はせいがたなかでは、前線ぜんせん爆撃ばくげきがた偵察ていさつがた実用じつようされた。

実戦じっせん

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中国ちゅうごく人民じんみん解放かいほうぐんのTu-2

地上ちじょう部隊ぶたい支援しえんする用途ようと爆撃ばくげきである前線ぜんせん爆撃ばくげきとして開発かいはつされたTu-2は、その任務にんむ特性とくせいから実際じっさいには急降下きゅうこうか爆撃ばくげき任務にんむされることがおおかった。

だい世界せかい大戦たいせんにおけるTu-2の行動こうどう範囲はんいひろく、ナチス・ドイツたいする戦闘せんとうから日本にっぽんたいする戦争せんそうにまで、西にしベルリンからひがしまんしゅう樺太からふとにまでおよんだ。実戦じっせんには700から800参加さんかしたといわれる。

前線ぜんせんパイロットらは、それまでのSBやPe-2とくらべ、Tu-2の高性能こうせいのうりにおどろきをしめしたといわれる。Tu-2のばくだん搭載とうさいりょうおおきく、防禦ぼうぎょ火器かき強力きょうりょく乗員じょういん防禦ぼうぎょ装甲そうこうあつかった。また操縦そうじゅう特性とくせい良好りょうこうで、機体きたい構造こうぞう信頼しんらいせいたかかった。飛行ひこう特性とくせいなんがあり、機体きたい構造こうぞうにも欠陥けっかんかかえ、しばしば墜落ついらく事故じここしていたPe-2とくらべると、Tu-2の安全あんぜんせい際立きわだっていた。防御ぼうぎょりょくたかさは、Tu-2をしてソ連それんばくげきなかはじめて護衛ごえい戦闘せんとうなしでの作戦さくせん飛行ひこう可能かのうならしめた。

1942ねん9がつにはカリーニン戦線せんせんにて最初さいしょ損失そんしつたが、これは実際じっさいには作戦さくせんちゅう損失そんしつではなく飛行ひこう軍事ぐんじ試験しけん最中さいちゅう損失そんしつであった。

おおくのTu-2が、ソ連それんばくげき同様どうよう初期しょきには空中くうちゅう偵察ていさつ任務にんむにも使用しようされた。Tu-2は「ひとみ」(«зеница ока»ズィニーツァ・オーカ)とばれ、この任務にんむにおいてもたか実績じっせきのこした。1943ねんのクルスクのたたかいでは、18のTu-2がだい285爆撃ばくげき師団しだん前線ぜんせん偵察ていさつとして実戦じっせん参加さんかした。

Tu-2は、1944ねんには機体きたい防禦ぼうぎょ武装ぶそう更新こうしんけた。そして、だい334爆撃ばくげき師団しだん配備はいびされてフィンランド方面ほうめん派遣はけんされた。そこでは、Tu-2は要塞ようさい鉄道てつどう要衝ようしょう橋梁きょうりょうなどへの攻撃こうげきもちいられた。このなか師団しだんは1のTu-2もうしなわなかった。そのベラルーシ反攻はんこうバルト地方ちほうたたか参加さんか、1945ねん4がつ7にちには、Pe-2と合同ごうどうでドイツぐん陣地じんちかまえた都市としケーニヒスベルクを2あいだにわたって爆撃ばくげきした。4日間にちかんに、まちには4440 tのばくだん投下とうかされ、4がつ10日とおかには陥落かんらくした。ベルリンのたたかにおいては、だい6爆撃ばくげき軍団ぐんだんのTu-2がドイツ地上ちじょう部隊ぶたいたい決定的けっていてき打撃だげきあたえた。54のTu-2が、作戦さくせん初日しょにちですでに97 tのばくだん投下とうかした。

欧州おうしゅう戦線せんせん終結しゅうけつソ連それんたいにち参戦さんせんともない、だい6爆撃ばくげき軍団ぐんだん日本にっぽんたいする戦闘せんとうえられた。航空こうくう戦力せんりょく劣勢れっせい日本にっぽんぐんたいし、Tu-2やPe-2を主力しゅりょくとした赤軍せきぐん航空こうくう部隊ぶたい有利ゆうり作戦さくせん遂行すいこうした。

だい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつも、Tu-2はながソ連それんぐんワルシャワ条約じょうやく機構きこうぐん主要しゅよう作戦さくせんでありつづけた。朝鮮ちょうせん戦争せんそうさいしては多数たすうのTu-2が中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく供与きょうよされ、実戦じっせん任務にんむ投入とうにゅうされた。また、機体きたい規模きぼ手頃てごろ性能せいのう安定あんていしていたことから、各種かくしゅ試験しけんとしても多数たすう使用しようされた。おおくの試作しさく製作せいさくされた。

Tu-2の後継こうけいとしては、ジェット機じぇっときIl-28Tu-16などが開発かいはつされた。


派生はせいがた

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ANT-103
ANT-58とも。AM-37えきひやエンジン装備そうびした。
Tu-2
開発かいはつ名称めいしょうANT-60。M-82空冷くうれいエンジンを装備そうびした。
Tu-2R
前線ぜんせん偵察ていさつがた。1942ねんはつ飛行ひこう当初とうしょはM-82Aエンジンなどを搭載とうさいしたが、最終さいしゅうてきにはより能力のうりょくたかいASh-82FNを搭載とうさいした。
Tu-2U
練習れんしゅうかた
Tu-2Sh
Tu-2RShRともばれた。57 mm対戦たいせんしゃほうRShR-57搭載とうさいしたシュトゥルモヴィークかた。1944ねんはつ飛行ひこう搭載とうさいほう完成かんせいにより開発かいはつ中止ちゅうし
Tu-1
開発かいはつ名称めいしょうANT-104Tu-2Pともばれた全天候ぜんてんこうおも迎撃げいげき戦闘せんとうかた。1944ねんはつ飛行ひこう。1,950馬力ばりきAM-43Vエンジンを搭載とうさいし、641 km/hのさい高速度こうそくど発揮はっきした。23 mm機関きかんほうNS-23主翼しゅよくないに2 もん、45 mm機関きかんほうNS-45機首きしゅに2 もん、12.7 mm機銃きじゅうUBT防禦ぼうぎょように2 もん搭載とうさい。また、捜索そうさくレーダー装備そうびした。
Tu-2M
開発かいはつ名称めいしょうANT-61Tu-2 ASh-83ともばれる。1900 馬力ばりきASh-83搭載とうさいする派生はせいがた。1945ねんはつ飛行ひこう。ASh-83空冷くうれいエンジンの失敗しっぱいにより制式せいしきされなかった。
Tu-2D
開発かいはつ名称めいしょうANT-62。ANT-103の長距離ちょうきょりがたANT-103-Dにもとづいて設計せっけいされた。1944ねんはつ飛行ひこう。1850 馬力ばりきのASh-82FNエンジンを搭載とうさいし、燃料ねんりょう搭載とうさいりょう増加ぞうかはかった結果けっか、2,790 kmの実用じつよう航続こうぞく距離きょり発揮はっきした。
Tu-2T
開発かいはつ名称めいしょうANT-62T。Tu-2Dをもと開発かいはつされた雷撃らいげきがたで、950 kgの45 cm魚雷ぎょらい2 はつ搭載とうさいできた。1945ねんはつ飛行ひこう
Tu-2 (716)
Tu-2のさい生産せいさんともない、仕様しよう標準ひょうじゅん目指めざして開発かいはつされた機体きたいだい716工場こうじょう開発かいはつされたことから「716」と通称つうしょうされた。ASh-82FNを装備そうび本格ほんかく生産せいさんはいったTu-2Sのまえ型式けいしき
Tu-2S
1,850 馬力ばりきのM-82FNエンジンを搭載とうさいした大戦たいせんちゅう主力しゅりょくがた。1943ねんはつ飛行ひこう。「S」はロシアで「標準ひょうじゅんがた」を意味いみする「стандартный тип」(スタンダールトヌィイ・チープ)に由来ゆらいする。
SDB
Tu-2Sから開発かいはつされた高速こうそく昼間ひるま爆撃ばくげきがた。1943ねん製作せいさくされた初号しょごう開発かいはつ名称めいしょうANT-63ばれ、1944ねん製作せいさくされた試作しさく2号機ごうきANT-63PまたはANT-63-2ばれた。試作しさく2号機ごうきでは、1,885馬力ばりきAM-39Fえきひやエンジンが搭載とうさいされた。
Tu-2F
開発かいはつ名称めいしょうANT-64前線ぜんせん偵察ていさつがた
Tu-2G
高速こうそく輸送ゆそうかた降下こうか部隊ぶたい展開てんかいもちいられ、GAZ-67Bトラック搭載とうさいできた。
Tu-2「パラヴァン」
2製作せいさくされた試験しけん。阻塞気球ききゅうのワイヤー切断せつだんようカッターと破壊はかい装置そうち装備そうびしていた。
Tu-2DB
開発かいはつ名称めいしょうANT-65。1950 馬力ばりきAM-44TKえきひやエンジンを搭載とうさいし、2,570 kmの航続こうぞく距離きょり発揮はっきした。1946ねんはつ飛行ひこう
Tu-2D (67)
開発かいはつ名称めいしょうANT-67。ANT-62の派生はせいがた。1,900馬力ばりきACh-30BFディーゼルエンジン搭載とうさいする長距離ちょうきょり爆撃ばくげきとして開発かいはつされた。航続こうぞく距離きょりは6,000 kmとなった。1946ねんはつ飛行ひこう
Tu-2N
ジェットエンジン搭載とうさい試験しけんおこなった機体きたいRD-500RD-45試験しけんされた。
Tu-6
Tu-2Rの後継こうけいとして開発かいはつされた前線ぜんせん偵察ていさつがた。1946ねんはつ飛行ひこう
Tu-2 (1947)
1947ねんから生産せいさんされた急降下きゅうこうか爆撃ばくげき戦後せんごがたで、イルクーツクイルクーツク航空機こうくうき工場こうじょうで218製造せいぞうされた。Tu-2Sとくらべ、性能せいのうめん若干じゃっかん向上こうじょうられる。
Tu-8
開発かいはつ名称めいしょうANT-69。1947ねんはつ飛行ひこう。しかし、同年どうねんにTu-8より航続こうぞく距離きょりなが兵器へいき搭載とうさいりょうおおきいTu-4実用じつよう成功せいこうしたこと、また設計せっけいきょくあたらしいジェット爆撃ばくげき開発かいはつおこなわなければならなかったことにより、量産りょうさん中止ちゅうしされた。
Tu-10
開発かいはつ名称めいしょうANT-68一時いちじTu-4ばれたこともあった。1945ねんはつ飛行ひこう。SDBの試験しけん結果けっかもと開発かいはつされた高速こうそく急降下きゅうこうか爆撃ばくげき。AM-39FN2えきひやエンジンを搭載とうさいし、尾翼びよく新型しんがたのものが装備そうびされた。性能せいのう上々じょうじょうのもので、だい82工場こうじょうで50製造せいぞうされた。新型しんがたとしては、ソ連それん生産せいさんされた最後さいごのレシプロ爆撃ばくげきとなった。
Tu-28
Tu-8の派生はせいがたで、前線ぜんせん偵察ていさつとして開発かいはつされた。
Tu-2K
試験しけん。2 製作せいさくされ、射出しゃしゅつ座席ざせき試験しけんもちいられた。
UTB-2
1946ねんから1947ねんにかけて製作せいさくされたTu-2の教育きょういく訓練くんれん爆撃ばくげきかたスホーイ設計せっけいきょくによって開発かいはつされた。700 馬力ばりきASh-21エンジンを搭載とうさいした。
Tu-10
開発かいはつ名称めいしょうANT-72およANT-73ニーン1ジェットエンジンを搭載とうさいした。
Tu-18
開発かいはつ名称めいしょうANT-77。RD-45ジェットエンジンを搭載とうさいした。

スペック

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三面さんめん
  • はつ飛行ひこう:1941ねん
  • つばさはば:18.86 m
  • 全長ぜんちょう:13.80 m
  • 全高ぜんこう:4.13 m
  • つばさ面積めんせき:48.52 m2
  • 空虚くうきょ重量じゅうりょう:7,601 kg
  • 通常つうじょう離陸りりく重量じゅうりょう:10,538 kg
  • 最大さいだい離陸りりく重量じゅうりょう:11,768 kg
  • 発動はつどうシュヴェツォーフ設計せっけいきょくせいASh-82空冷くうれいエンジン ×2
  • 出力しゅつりょく:1,850 馬力ばりき ×2
  • 最高さいこう速度そくど(地表ちひょう高度こうど):444 km/h
  • 最高さいこう速度そくど:521 km/h
  • 実用じつよう航続こうぞく距離きょり:2,020 km
  • 上昇じょうしょうりつ:490 m/min
  • 実用じつよう飛行ひこう上限じょうげん高度こうど:9,000 m
  • 乗員じょういん:4 めい
  • 武装ぶそう
    • 固定こてい武装ぶそう:20 mm機関きかんほうShVAK ×2、7.62 mm機銃きじゅうShKAS ×3、12.7 mm機銃きじゅうUBT ×1
    • ロケットだんRS-132 ×10
    • ばくだん搭載とうさいりょう通常つうじょう1,000 kg、最大さいだい2,000 kg、積載せきさい3,000 kg
  • はつ飛行ひこう:1943ねん
  • つばさはば:18.86 m
  • 全長ぜんちょう:13.80 m
  • 全高ぜんこう:4.55 m
  • つばさ面積めんせき:48.80 m2
  • 空虚くうきょ重量じゅうりょう:7,474 kg
  • 通常つうじょう離陸りりく重量じゅうりょう:10,360 kg
  • 最大さいだい離陸りりく重量じゅうりょう:11,360 kg
  • 発動はつどう:シュヴェツォーフ設計せっけいきょくせいASh-82FN空冷くうれいエンジン ×2
  • 出力しゅつりょく:1,850 馬力ばりき ×2
  • 最高さいこう速度そくど(地表ちひょう高度こうど):482 km/h
  • 最高さいこう速度そくど:547 km/h
  • 実用じつよう航続こうぞく距離きょり:2,100 km
  • 上昇じょうしょうりつ:526 m/min
  • 実用じつよう飛行ひこう上限じょうげん高度こうど:9,500 m
  • 乗員じょういん:4 めい
  • 武装ぶそう
    • 固定こてい武装ぶそう:20 mm機関きかんほうShVAK ×2、12.7 mm機銃きじゅうUBT ×2
    • ばくだん搭載とうさいりょう通常つうじょう1,000 kg、最大さいだい2,000 kg、積載せきさい3,000 kg

運用うんようしゃ

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現存げんそんする機体きたい

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型名かためい     番号ばんごう  機体きたい写真しゃしん     所在地しょざいち 所有しょゆうしゃ 公開こうかいじょうきょう 状態じょうたい 備考びこう
Tu-2 写真しゃしん 中国ちゅうごく 北京ぺきん 北京ぺきん航空こうくうこうてん博物館はくぶつかん[1] 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ
Tu-2S ‘44792’ 写真しゃしん 中国ちゅうごく 北京ぺきん 中国ちゅうごく人民じんみん革命かくめい軍事ぐんじ博物館はくぶつかん 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ
Tu-2S 写真しゃしん 中国ちゅうごく 北京ぺきん 中国ちゅうごく空軍くうぐん航空こうくう博物館はくぶつかん 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ 2015ねんころまで展示てんじされていた「0462」ごう同一どういつのものとおもわれる。
Tu-2 ‘20’ 中国ちゅうごく 北京ぺきん 中国ちゅうごく空軍くうぐん航空こうくう博物館はくぶつかん 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ
Tu-2S 中国ちゅうごく 北京ぺきん 中国ちゅうごく空軍くうぐん航空こうくう博物館はくぶつかん 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ
Tu-2T ‘27’ ブルガリア プロヴディフしゅう 航空こうくう博物館はくぶつかん[2] 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ [3]
Tu-2S ポーランド マウォポルスカけん クラクフ・ポーランド航空こうくう博物館はくぶつかん 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ
Tu-2S ‘8’ ポーランド マゾフシェけん ポーランドぐん博物館はくぶつかん 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ
Tu-2S ‘103’ ロシア モスクワしゅう 連邦れんぽう文化ぶんか芸術げいじゅつ研究所けんきゅうじょ中央ちゅうおう空軍くうぐん博物館はくぶつかん 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ きゅう塗装とそう
Tu-2 ロシア モスクワ 勝利しょうりつばさ記憶きおく軍事ぐんじ財団ざいだん 非公開ひこうかい 修復しゅうふくちゅう もともとウォー・イーグルス航空こうくう博物館はくぶつかん所有しょゆうしていた機体きたいノヴォシビルスク国立こくりつ総合大学そうごうだいがく協力きょうりょくのもと修復しゅうふく作業さぎょうおこなわれている。きゅう塗装とそう1きゅう塗装とそう2
Tu-2 写真しゃしん アメリカ フロリダしゅう ファンタジー・オヴ・フライト 公開こうかい 保管ほかんちゅう

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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