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琉球国 - 维基百科,自由的百科全书

琉球りゅうきゅうこく

歷史れきし國家こっか

琉球りゅうきゅうこく琉球りゅうきゅう琉球りゅうきゅうこくるーちゅーくく Ruuchuu kuku ?にち语:りゅうきゅう こく Ryukyu Koku ?これ琉球りゅうきゅうぐんうえてきいち古代こだい王国おうこくだいいちしょう王朝おうちょうだいしょう王朝おうちょう两个朝代あさしろてき统称共有きょうゆう国号こくごう,也包括ほうかつさら早期そうきさんやま时代てき山南さんなん中山なかやま山北やまきたさん个王こくさく为其共同きょうどうてき对外自称じしょう)。

だい琉球りゅうきゅうこく
琉球りゅうきゅうこく
るーちゅーくく
1429ねん—1879ねん
琉球琉球王室紋章 [註 1]
琉球りゅうきゅう王室おうしつ紋章もんしょう
[註 1]
国歌こっか石投いしなぎうた[1]
王室おうしつ
地位ちいあきらきよしてきはん屬國ぞっこく[ひょう 1]
日本にっぽんてきれいせいこく[ひょう 2]
首都しゅとくびさといま霸市
常用じょうよう语言琉球りゅうきゅうにち
宗教しゅうきょう
佛教ぶっきょう儒教じゅきょう琉球りゅうきゅう本土ほんど宗教しゅうきょう道教どうきょう神道しんとうきょう
政府せいふ君主くんしゅせい
琉球りゅうきゅう君主くんしゅ 
• 1429ねん–1439ねん
なおともえこころざしくび
• 1477ねん–1526ねん
なおしん
• 1587ねん–1620ねん
なおやすし
• 1848ねん–1879ねん
なおやすしまつ
琉球りゅうきゅう攝政せっしょう 
• 1666ねん–1673ねん
こうぞうけんはねあさしゅう
ほう 
• 1751ねん–1752ねん
蔡温具志頭ぐしかみぶんわか
立法りっぽうつくえくびさとおうさんつかさかん
历史 
• 統一とういつ
1429ねん
1609ねん4がつ5にち
1872ねん
1879ねん3がつ11にち
めん
1571ねん—1609ねん[ひょう 3]3,454平方ひらかた公里くり
1609ねん以後いご[ひょう 3]2,223平方ひらかた公里くり
人口じんこう
• 1632ねん[ひょう 4]
108,958
• 1729ねん[ひょう 4]
173,969
• 1879ねん[ひょう 5]
286,787
前身ぜんしん
继承
北山きたやま王國おうこく
中山なかやま王國おうこく
南山みなみやま王國おうこく
大日本帝國だいにっぽんていこく
こんぞく 日本にっぽん
  1. ^ 明朝みょうちょうまとはん属国ぞっこく(1372ねん-1646ねん包括ほうかつ南明なんめい弘光ひろみつりゅうたけし政權せいけん)、清朝せいちょうまとはん属国ぞっこく(1646ねん-1879ねん)。
  2. ^ 江戶えど幕府ばくふ薩摩さつまはんてきつけいさお(1611ねん-1871ねん)、明治めいじ政府せいふてき琉球りゅうきゅうはん」(れいせいこく,1872ねん-1879ねん
  3. ^ 3.0 3.1 此為實際じっさい轄境,すうよりどころがかり推定すいてい。1609ねん以後いご奄美あまみ群島ぐんとう薩摩さつまはん统治。
  4. ^ 4.0 4.1 かずよりどころらいげん薩摩さつまはん文書ぶんしょ宗門しゅうもん手札しゅさつあらため》。出處しゅっしょ:《圖說ずせつ琉球りゅうきゅう王國おうこく》,高良こうら倉吉くらよし田名たな真之まさゆきへん河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ,1993ねん出版しゅっぱん
  5. ^ かずよりどころらいげん:《沖繩おきなわもんちゅう事典じてん》,宮里みやさと朝光ともみつ監修かんしゅう出版しゅっぱんしゃ,2001ねん出版しゅっぱん

琉球りゅうきゅうこくてき地理ちり位置いちざい臺灣たいわん九州きゅうしゅうこれ间,いん其特ことてき地理ちり位置いちうみきん政策せいさくしょめぐみ,以东北亚东南亚贸易的中てきちゅう转站ちょたたえ,贸易发达,ごうしょうまん国津くにつはり”。琉球りゅうきゅうこく曾向あきらきよし两代あさざい1609ねんてき慶長けいちょう琉球りゅうきゅうこれやく日本にっぽん九州きゅうしゅうてき萨摩はんざい琉球りゅうきゅう设置ざいばん奉行ぶぎょうしょ,监督琉球りゅうきゅうあずか明朝みょうちょうてきあさ贡贸えき并间せっ管理かんり内政ないせい使つかい琉球りゅうきゅう从此也向萨摩はんかずこう幕府ばくふ缴纳ねん贡。

1871ねん明治めいじ维新时期てき日本にっぽん中央ちゅうおう政府せいふ开始ざい全國ぜんこく實施じっし廢藩置縣はいはんちけん改革かいかく,废除りょう萨摩はん而设おけ鹿兒島かごしまけんどう时亦使琉球りゅうきゅう國作こくさくれいせいこく編入へんにゅう鹿兒島かごしまけん翌年よくねん琉球りゅうきゅうこくあらためしつらえため琉球りゅうきゅうはん。1879ねん3がつ11にち琉球りゅうきゅうはん废除設置せっち沖繩おきなわけん

國名こくめい

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琉球りゅうきゅう」這一國名源自中國古代文獻中提及的「ながれもとめこく」。歷史れきしじょうてきながれもとめこく究竟くっきょう琉球りゅうきゅう群島ぐんとうかえ台灣たいわんいたりいまなお定論ていろん明朝みんちょう時期じき稱呼しょうこ琉球りゅうきゅうこくためだい琉球りゅうきゅう」、台灣たいわんためしょう琉球りゅうきゅう」,以示區分くぶん[2]

琉球りゅうきゅうざい外交がいこうじょう使用しようてき正式せいしき國號こくごうため琉球りゅうきゅうこく」。ざい明朝みんちょう時期じき碑文ひぶんちゅう,該國使用しようだい琉球りゅうきゅうこくてき稱號しょうごうらい作為さくい自稱じしょういたり清朝せいちょうそく自稱じしょう琉球りゅうきゅうこく」。[3]

今日きょうてき日本にっぽん學者がくしゃしょう此國ため琉球りゅうきゅう王國おうこく」(にち语:琉球りゅうきゅう王国おうこくりゅうきゅうおうこく Ryūkyū ōkoku)。中國ちゅうごくしゃいんてきいち些學しゃごえたたえ琉球りゅうきゅう處分しょぶん以後いご日本にっぽん學者がくしゃざい開始かいし稱呼しょうこ其為「琉球りゅうきゅう王國おうこく」,其背きさき别有用心ようじんためりょうわりきれ古代こだい國家こっかあずかあきら清之きよゆきあいだてきはんぞく關係かんけい[4]

辖域

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しろ墙遗

琉球りゅうきゅうこく台灣たいわん岛和九州きゅうしゅう西南せいなん间的琉球りゅうきゅうぐんうえ,其历最大さいだいめん积大约为3600平方ひらかた公里くり相當そうとう臺東たいとうけん面積めんせき),西にし侧是中国ちゅうごくうみ,东侧太平洋たいへいよう最大さいだいてき岛屿沖繩おきなわほんめん积约1207.08平方ひらかた公里くり。其次奄美あまみだいめん积约712.38平方ひらかた公里くりざい薩摩さつま岛津于1609ねん发动琉球りゅうきゅうこれやくきさき琉球りゅうきゅうこくはた其北てき奄美あまみ群島ぐんとうわり让给りょう薩摩さつまはん

琉球りゅうきゅうこくてき都城みやこのじょうくびさとじょうざいこん沖繩おきなわけん霸市てき东郊。历代琉球りゅうきゅう国王こくおう及王ぞく居住きょじゅう处理せい务的くびさとじょうかず其他琉球りゅうきゅう文化ぶんか遗迹ざい2000ねんかむ联合こく教育きょういく科学かがく文化ぶんか组织てい世界せかい文化ぶんか遗产

历史

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とお時代じだい

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根據こんきょ霸市山下やましたほらじんのこてきはつ發現はつげん,距今さんまんせんねんてき舊石器時代きゅうせっきじだい晚期ばんきやめけいゆうさきみんざい此地ていきょ.

中古ちゅうこ世代せだい

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すえ语言学者がくしゃ琉球りゅうきゅう语与いにしえ语之间同げん词的分析ぶんせき以推测现だい琉球りゅうきゅうじん主要しゅようだい约7せい纪至11せい纪间从九州きゅうしゅう南下なんかてき弥生やよいじんてききさきだい

天孫てんそん王朝おうちょう

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中山なかやまかん》、《中山なかやま》、《たま》这三部琉球历史典籍都记录了琉球开国的神话。《中山なかやまかんたたえ天神てんじんおもね美久みくしも凡,ゆかり天帝てんてい赐予草木くさき土石どせき,做成岛屿。これきさきまたもとめ上天じょうてん赐予人口じんこう,于是天帝てんていはた其子おんな二人赐予阿摩美久,此にん结合せいさんなんじょ,长男てん孙氏建立こんりゅうりょうてん孙王あさ天孫てんそん王朝おうちょう共有きょうゆうじゅう國王こくおうれき17802ねんでんいたるだいじゅうだいおうおもえ金松かねまつけんおうため重臣じゅうしんいさむ殺害さつがい王朝おうちょう滅亡めつぼうしか而多すう學者がくしゃみとめため這是傳說でんせつなみ史實しじつ。现代历史がく认为,这一神话传说形成于16せい纪至17せい纪,琉球りゅうきゅうこく统治しゃしょう家族かぞくめん对按势力てきそう权企图,为加きょう其王权地而创づくりてきかみ话。

舜天王しゅんてんのうあさ

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すえ中山なかやまかんてき记载,天孫てんそん王朝おうちょうでん廿にじゅうせいくつがえほろび琉球りゅうきゅう大亂たいらん最後さいごよし浦添うらぞえ按司しゅんてん統一とういつ全國ぜんこくため舜天王しゅんてんのうただし流傳りゅうでんいたりいまてき舜天王しゅんてんのうみつる事跡じせきだつ神話しんわ傳說でんせつてき性質せいしつ舜天王しゅんてんのうあさのべ续了さんだいななじゅうねん。《中山なかやまかんしょう舜天王しゅんてんのうちょうてき开国きみしゅんてん日本にっぽん清和せいわ天皇てんのうこれみなもと为朝てき儿子。《中山なかやま谱》かず中国ちゅうごく清朝せいちょう学者がくしゃてきゆう关记录也のべ续了这一说法。ただし现代日本にっぽんかず中国ちゅうごくてき学者がくしゃ对此提出ていしゅつ质疑,认为琉球りゅうきゅう王室おうしつしょうげん为朝はた军为始祖しそてき做法,为了夸耀自己じこてき统,抬高按司出身しゅっしんてきしょう王族おうぞくてき地位ちい。《中山なかやまかんしょう舜天王しゅんてんのうちょうてきさん国王こくおう为舜てんしゅん马顺熙义本。义本「自称じしょう不德ふとく」,让位给えい

えい王朝おうちょう

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琉球りゅうきゅうかん修史しゅうししょ中山なかやまたたえもとぐん曾於そおいたりもとじゅうはちねん(1291ねんげんさだねん(1296ねん兩次りょうじ侵略しんりゃく琉球りゅうきゅうみなえいぐん擊退げきたい

ざいさんやま时代まえそと岛按あずか沖繩おきなわほん岛各按司间的关系平等びょうどうてきすえ带有しん色彩しきさいてき中山なかやま鉴》记载,えい在位ざいい时(1260ねんいたり1299ねん),だい岛(奄美あまみ大島おおしま)、古米こまい久米島くめじま)、马齿さんけいりょうあいだ群島ぐんとう等外とうがい岛“来朝らいちょうにゅう贡”,ただし这一朝贡关系只是按司之间的结盟关系,而且いただいよんだいおう玉城たまきおう时期,ずい沖繩おきなわほん岛进いれさんやま时代,便びんやめおとろえ落了。

さんやま时代

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さんやま时代,南山みなみやま中山なかやま北山きたやま三国的势力图

14せい纪,琉球りゅうきゅう南山みなみやま中山なかやま北山きたやまさんこくふん别位于冲绳本岛的南部なんぶ中部なかべかず北部ほくぶ,这个时期しょう为“三山みやま时代”。 さんこくちゅう,以中やま最强さいきょう北山きたやまさいじゃく

すえ琉球りゅうきゅう中山なかやまかん》以及中國ちゅうごくあかり实录かずちょう鲜半岛《あさ鲜王あさ实录てき记载,南山なんざん王国おうこく以大さと按司为中心ちゅうしん包括ほうかつ大里おおさと佐敷さしき知念ちねん玉城たまき具志ぐし头、ひがし风平、岛尻大里おおさと喜屋武きやん摩文仁まぶに真壁まかべ兼城かねぐすく、丰见,だい致疆いき相当そうとう于今冲绳岛南はしこく场川—与那原よなばるいち线以南いなんてき地域ちいき中山なかやま王国おうこく以首さと按司为中心ちゅうしん包括ほうかつ浦添うらぞえくびさと北谷きたや、读谷、越来ごえく中城なかしろ、胜连、具志川ぐしかわかくしろだい致疆いき为南いたりこく场川—与那原よなばるいち线,きたいたる仲泊なかどまり地峡ちきょう北山きたやま王国おうこく以今归仁按司为中心ちゅうしん包括ほうかつこん归仁、はねめいくに头、金武かなたけ伊江いえ伊平屋いへや伊是名いぜなとうじょうだい致疆いき为冲绳岛仲泊なかどまり地峡ちきょう以北いほくてき部分ぶぶん,以及附近ふきんてき伊江いえ岛和伊平屋いへや岛。

さん王国おうこく时代,南山みなみやま中山なかやま北山きたやま三国的势力主要集中在沖繩本岛本部及鄰近小島,并未发展いた北方ほっぽうてき奄美あまみぐんかず南方なんぽうてき宫古ぐん八重山やえやま群島ぐんとう

1372ねん明太めんたい杨载こう琉球りゅうきゅう三国发布诏谕,ちゅう山国やまぐに国王こくおう察度おとうとたい使明朝みんちょう。1383ねんきた山王さんのう怕尼しば和南わなみ山王さんのううけたまわ察度也相まましこう明朝みんちょう進貢しんこういたり此,北山きたやま中山なかやま南山なんざん三国开始向明朝朝贡,なり为明あさてきはん属国ぞっこく。1390ねん宮古島みやこじま酋長しゅうちょう與那よな霸勢あたまゆたかおや入貢にゅうこう中山ちゅうざんひさ八重山やえやま酋長しゅうちょう也前來朝らいちょうみつぎちゅう山王さんのう察度。为获とくづくり大型おおがたせんただてきわざ术,以避めん使者ししゃせんただ受到うみなみ危害きがい。1392ねん琉球りゅうきゅう接受せつじゅりょうしゅもとあきら派遣はけんてき福建ふっけんさんじゅうろくせいぜん造船ぞうせん航海こうかいてきわざ术者。

だいいちしょう王朝おうちょう

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1350ねん浦添うらぞえ按司察度だいえいだいろくだい世子せいし推举为中山王さんのう。1406ねん,察度おう世子せいしたけ佐敷さしき按司ともえこころざし推翻。ともえこころざし推舉其父おもえ紹为ちゅう山王さんのう。1416ねんともえこころざし征服せいふく北山きたやま。1429ねんともえこころざしまた征服せいふく南山なんざん形成けいせい统一てき琉球りゅうきゅうこく,以首さとじょう为王じょうせんとくとし间,明朝みんちょう琉球りゅうきゅうおうせい为尚しょうだいいちしょう王朝おうちょう”。根據こんきょ琉球りゅうきゅうあずか明朝みょうちょうてきはんぞく關係かんけい琉球りゅうきゅうごと一代国王都需要接受来自明王朝的册封。だいななだい国王こくおうなお德王とくおうあい继征ふくりょうかい喜界島きかいじま)、马齿さんけいりょうあいだ群島ぐんとう)、古米こまい久米島くめじまとう岛的按司势力。

だい约1400ねんいたり1550ねん间,琉球りゅうきゅうこく进入黄金おうごん时代,しょう业高发达,あずか福建ふっけん台湾たいわんあさ、东南亚和日本にっぽん本土ほんど进行贸易。15せい纪至16せい纪,大量たいりょうやまとうみぬすめ骚扰琉球りゅうきゅうぐん岛。琉球りゅうきゅうこくこうむ受巨だい损失,海上かいじょう贸易受到阻碍そがい。1450年代ねんだい們的國王こくおう明朝みんちょうたまものせいなおこれ琉球りゅうきゅう人才じんさいゆうせいこれぜんただ有名ゆうめい

だいしょう王朝おうちょう

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あきらなりねん(1469ねん),琉球りゅうきゅう國王こくおう尚德なおのりくに內发生内しょうないらんおう世子せいし杀,だい一尚氏王朝灭亡。なりろくねん(1470ねん),伊是名島いぜなじま出身しゅっしんてき宫中てき锁侧かん管理かんり财务てき宫廷かん员)ないあいだ金丸かねまる群臣ぐんしん推举为君,改名かいめいなお,并于なりななねん(1471ねん)以“世子せいしてき份向明朝みんちょう报告“ちち丧”。なりはちねん(1472ねん),明朝みんちょう使臣ししんさつふうなお圆为おうしょうだいしょう王朝おうちょう”。

だい二尚氏王朝的第三代国王なおおう统治时期为琉だまてき黄金おうごん时期,貿易ぼうえき發達はったつ,且不斷ふだん對外たいがい擴張かくちょう。1500ねん弘治こうじじゅうさんねん),なおおう平定へいてい八重山やえやま群島ぐんとうてきとおわたるけいあかはちみだれ;1522ねんよしみやすし元年がんねんまた平定へいてい与那国よなぐにおにとらみだれ。1537ねんなお清王せいおうりつぐんきたおさむ奄美あまみ群島ぐんとう琉球りゅうきゅうこく终于はた势力扩张到せい琉球りゅうきゅうれつ岛,确定りょうきたおこり喜界きかい岛、奄美あまみだい岛,みなみいたる宫古、八重山やえやま群島ぐんとうてき疆界,そく琉球りゅうきゅう书中しょしょう三省みつよしさんじゅうろく岛」。

なおおう确立りょう琉球りゅうきゅうてきかん员品秩あさ制度せいど神官しんかん制度せいど、赋税制度せいど行政ぎょうせい划分,扩建りょうくびさとじょう,废除りょう殉葬习俗,召各按司赴首さと居住きょじゅう禁止きんし私人しじん拥有兵器へいきかたなかり),确立りょう琉球りゅうきゅうこくてき政治せいじ、经济体制たいせい,此后琉球りゅうきゅう进入稳定发展てき时期。ただしかたなかりれい也使とく琉球りゅうきゅう軍事ぐんじ實力じつりょくてき衰退すいたいため後來こうらい慶長けいちょう琉球りゅうきゅうこれやくちゅう琉球りゅうきゅう戰敗せんぱいうめりょうふくひつ

16世紀せいきゆかりうみとうてき原因げんいんしるべ日本にっぽん明朝みんちょうてき關係かんけい惡化あっかただとく通過つうか南方なんぽうてき薩摩さつまあずか琉球りゅうきゅう進行しんこう貿易ぼうえきあずか此同日本にっぽんせいしょ動亂どうらんてき戰國せんごく時代じだいもろ大名だいみょうきゅう需從擴張かくちょうちゅう利益りえきらい發展はってん自己じこてき經濟けいざい實力じつりょくはなれ日本にっぽん最近さいきん且又富有ふゆうてき琉球りゅうきゅうこくとげなりためりょう日本にっぽんてきくびせん。1589ねん琉球りゅうきゅう國王こくおうなおやすしむかい日本にっぽん派遣はけん謝恩しゃおん使だん祝賀しゅくが豐臣とよとみ秀吉ひでよし統一とういつ天下でんか豐臣とよとみ秀吉ひでよし发兵朝鮮ちょうせんこれまえ要求ようきゅう薩摩さつま琉球りゅうきゅう合計ごうけい提供ていきょういちまんせん軍兵ぐんびょうりょくよしため琉球りゅうきゅう明朝みんちょうはん屬國ぞっこくてき關係かんけい琉球りゅうきゅう选择りょう折中せっちゅう做法,はた此事通報つうほうきゅうりょう明朝みんちょう,并向豐臣とよとみ秀吉ひでよし提供ていきょうなな千人份的後勤物資和軍費支援。1603ねん德川とくがわ家康いえやす統一とういつ日本にっぽんなみ建立こんりゅう江戶えど幕府ばくふ琉球りゅうきゅうまたいんため拒絕きょぜつこう江戶えど幕府ばくふ派遣はけん謝恩しゃおん使だん而與德川とくがわ家康いえやす交惡。

ざい請示德川とくがわ家康いえやすなみ獲得かくとく允許いんきょこれ,1609ねんあきらまんれきさんじゅうななねん日本にっぽん慶長けいちょうじゅうよんねん),薩摩さつまはん藩主はんしゅ島津しまつ家久いえひさ派遣はけん樺山かばやまひさだか[5]ためそう大將たいしょう平田ひらたぞうむね[6]ためふく大將たいしょうりつへいさんせんにんふねいちひゃくせき绳枪ろくひゃくてい九州きゅうしゅう山川やまかわこうはつへい琉球りゅうきゅうひさ琉球りゅうきゅうそく戰敗せんぱいしゅさとじょう包圍ほういなおやすしおう归降,どう王子おうじ官員かんいんとういちひゃく余人よにん押至鹿兒島かごしま。這就歷史れきしじょうてき慶長けいちょう琉球りゅうきゅうこれやく」。ずいなおやすしおうどう島津しまつ家久いえひさぜん駿府すんぷじょうめん德川とくがわ家康いえやすまたぜん江戶城えどじょうめん征夷大將軍せいいたいしょうぐん德川とくがわ秀忠ひでただ。1611ねんなおやすしおうざい鹿兒島かごしまじょうせりあずか薩摩さつまはん簽訂《おきてじゅうじょう》(おきてじゅうヶ条かじょう),承認しょうにん薩摩さつまはんたい琉球りゅうきゅうてきひかえせいこれざい釋放しゃくほう歸國きこく

薩摩さつまはんおさむ琉球りゅうきゅうこくてき理由りゆうゆうさんてんいち江戶えど幕府ばくふかえしりょう漂流ひょうりゅういた日本にっぽんさかい內的琉球りゅうきゅう進貢しんこうせんただし琉球りゅうきゅう拒絕きょぜつこう日本にっぽん使つかい謝恩しゃおん琉球りゅうきゅう攻擊こうげき明朝みんちょう商人しょうにん赴日貿易ぼうえきてきせんせき,阻撓日本にっぽんあずか明朝みょうちょうあいだてき貿易ぼうえき(实际じょううみぬすめしょ为);さん琉球りゅうきゅうぼつゆうあし支援しえん豐臣とよとみ秀吉ひでよしきたせい朝鮮ちょうせんてきへい,而是よし薩摩さつまはんだいため墊付」りょう一半いっぱんただし琉球りゅうきゅう却「償還しょうかん」。實際じっさいじょう薩摩さつまはんためりょう藉著おさむ琉球りゅうきゅう所得しょとくらいてき利益りえきらいわたる該藩きょうじょおさむ朝鮮ちょうせん參加さんか關原せきはらこれせんてき軍費ぐんぴあずか損失そんしつ;而且此舉さら独占どくせんあかり琉之あいだてき貿易ぼうえき利益りえき。此外薩摩さつまはん也藉此軍事ぐんじ行動こうどうかい內部てき權力けんりょく鬥爭問題もんだい

すえたまとう史料しりょう记载:萨摩はんいれおかせ琉球りゅうきゅう派遣はけん奉行ぶぎょうじゅうよんにん隨從ずいじゅういちひゃくろくじゅうはちにん進駐しんちゅう琉球りゅうきゅう,测量分配ぶんぱい田地でんち,划清国界こっかい制定せいてい赋税。1611ねん陰曆いんれきよんがつ薩摩さつまはん往琉だまてき官員かんいんはた土地とちたけりょうかん畢,島津しまつ家久いえひさはた琉球りゅうきゅうてき領地りょうちげんせいためはちまんきゅうせんれいはちじゅうろくせき(其中國王こくおうてきくら入地いりじ限定げんていためまんせき),并將奄美あまみ五島ごしまそく喜界島きかいじま德之島とくのしま奄美あまみ大島おおしま沖永良部島おきのえらぶしま與論島よろんとう)劃歸薩摩さつまはん直轄ちょっかつ[7]奄美あまみ群島ぐんとう仍舊琉球りゅうきゅうこく名義めいぎじょうてき領土りょうどざい琉球りゅうきゅうかんかた史書ししょ中山なかやまちゅう,仍舊はた奄美あまみ群島ぐんとうれついれ琉球りゅうきゅう屬地ぞくちさんじゅうろくとうちゅう[8]ひろしかじてき使つかい琉球りゅうきゅう雜錄ざつろくちゅう,也將奄美あまみ群島ぐんとうれつ琉球りゅうきゅう國領こくりょう內,而且ひっさげいた琉球りゅうきゅうじん非常ひじょう忌諱ききひっさげいた奄美あまみ群島ぐんとう;另いちさつふう使しゅうのりしたがえ民間みんかん傳聞でんぶん得知とくち琉球りゅうきゅう割讓かつじょう北方ほっぽうてき島嶼とうしょきゅう日本にっぽん薩摩さつまはん[9]

薩摩さつまはんざい奄美あまみ群島ぐんとう仍舊沿襲琉球りゅうきゅうてき行政ぎょうせい區劃くかくあいだきり制度せいどなみはた此地作為さくい黑糖こくとうてき生產せいさん薩摩さつまはん也並こう江戶えど幕府ばくふ報告ほうこく其在琉球りゅうきゅう檢地けんちことちょくいた1634ねんざいはた此事報告ほうこくきゅう幕府ばくふ將軍しょうぐん德川とくがわ家光いえみつ[10]ただし薩摩さつまはん佔領てき奄美あまみ五島ごしまさんまんせんはちひゃくじゅうはちせきのり薩摩さつまはん藩主はんしゅ仍舊作為さくい琉球りゅうきゅう國領こくりょううえほう江戶えど幕府ばくふ[11][12]

ざい薩摩さつまはんてき规定琉球りゅうきゅう开始こう萨摩缴纳ねん贡,なみ授予萨摩いた琉球りゅうきゅうてきじん员官ひん职位。琉球りゅうきゅうこく內的おやあかり主戰しゅせんざい戰後せんご全部ぜんぶ罷免ひめん官職かんしょくさんつかさかんてい薩摩さつま斬首ざんしゅこうさとみずのり薩摩さつま扣作人質ひとじちゆかり親日しんにちてきもうおおとりただし池城いけのじょう親方おやかたあんよりゆき)、もうおおとりあさ讀谷よみたんさん親方おやかたもり韶)だい其三かん職務しょくむ

なお宁王きさきなお丰王じゅういちねん(1632ねん),琉球りゅうきゅうざい萨摩しょうらない岛屿建立こんりゅう馆舍,两国どう时派かん管理かんり来往らいおう贸易收税しゅうぜい。从此琉球りゅうきゅうこくなり臣服しんぷく于萨はんてき日本にっぽん地方ちほう政權せいけん薩摩さつまはんこう琉球りゅうきゅう派遣はけんかん员长驻琉球りゅうきゅう以监视琉だまてき举动,及至なお贞王じゅうねん(1693ねん),琉球りゅうきゅう“创定しゅうとまい、马齿两岛,大和やまと横目よこめ职两员,看守かんしゅ贡船往来おうらい”。

1654ねん琉球りゅうきゅうおう使臣ししんいた清朝せいちょう请求さつふうきよし顺治みかどふうなお质王琉球りゅうきゅうおう琉球りゅうきゅうこくただ表面ひょうめん上成うえなし为清あさてきはんぞくただし實際じっさいじょうたい萨摩はんしょうしん琉球りゅうきゅう與清ともきよちょうかんかた繼續けいぞく朝貢ちょうこう貿易ぼうえき,卻被實際じっさい宗主そうしゅ萨摩はん抽成いち。該藩也是幕府ばくふせん鎖國さこく以後いごただ一能以此變相方式獲得國際貿易收入的私藩,萨摩はんざいりょうひゃくねんてき幕末ばくまつ時代じだいのう夠有あし夠的資本しほんなりため倒幕とうばく運動うんどう主力しゅりょくしん而成ため維新いしん政府せいふてき主事しゅじしゃいちあずか此不關連かんれん

1847ねんきよしみちこうじゅうななねん日本にっぽんひろしよんねん),さいきさきいち琉球りゅうきゅう国王こくおうなおたいおう继位。1853ねん5がつ美國びくにかい军准しょう佩里てき舰队だい一次到达琉球。1854ねん3がつ,佩里ざい神奈川かながわじょうてき签订过程ちゅう要求ようきゅう日本にっぽん开放琉球りゅうきゅうてき霸港こう日方ひかたごえたたえ琉球りゅうきゅう独立どくりつ国家こっか,无权决定其港こう开放权。しか而佩さと却根すえざい琉球りゅうきゅうてき实际观察とく结论,这里实际じょう就是日本にっぽんてきいち部分ぶぶん[13]

1854ねん7がつ11にち,佩里あずか琉球りゅうきゅうこく政府せいふ漢文かんぶん英文えいぶん两种文字もじ签订开放霸港こうてきじょう约《琉美修好しゅうこう條約じょうやく》。琉球りゅうきゅう海上かいじょう贸易受到冲击。

くつがえほろび

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1871ねん日本にっぽんざい全國ぜんこく實施じっし廢藩置縣はいはんちけん琉球りゅうきゅうこくとうさくれいせいこく編入へんにゅう鹿兒島かごしまけん

1871ねん11月30にちきよしどう10ねん日本にっぽん明治めいじ4ねん),琉球りゅうきゅう宫古岛てき两艘进贡せんいたうえ年貢ねんぐはなれこう準備じゅんびかえしかい宮古島みやこじま中途ちゅうとぐう暴风漂流ひょうりゅう海上かいじょういちそうこう还,另いちそう漂到台灣たいわんばんかいそと西南せいなん海岸かいがんはちようわんいまへいひがしけん牡丹ぼたんきょうさかい內)。该船共有きょうゆうせん员69めい,其中3めい淹死,66めいとう陆。とう陆的せん员中,54めいかむはいわんぞく高士こうし佛社ぶっしゃ原住民げんじゅうみん杀死,ずいなみ牡丹ぼたんしゃ原住民げんじゅうみん馘首かくしゅそく宮古みやこ島民とうみん台灣たいわんぐうがい事件じけん。另12めい逃出,ざいおおとり山縣やまがた受到きよし政府せいふ护。

同年どうねん12がつ11にちまたゆう琉球りゅうきゅう八重山やえやまみんてき两艘进贡せん离开琉球りゅうきゅう开往清朝せいちょう中途ちゅうとぐう暴风,漂流ひょうりゅう海上かいじょういちそう下落げらく不明ふめい,另いちそう于12がつ28にち漂到台灣たいわん,45めいせん员同样受到凤山县令护。1872ねん2がつぜんきさき两批琉球りゅうきゅう难民57にんゆかり臺灣たいわん官員かんいんおくいたふくしゅうてき琉球りゅうきゅう,7がつ平安へいあんかいいた霸。同年どうねん4がつ日本にっぽん小田おだ县(いま岡山おかやまけん)县民4にん,也遇难漂到台湾たいわんとう台湾たいわん原住民げんじゅうみん搶奪ころもぶつ

1872ねん日本にっぽん废黜琉球りゅうきゅう国王こくおうなおやすし,结束りょう其与日本にっぽんてきあさ贡关けい,设置琉球りゅうきゅうはん并册ふうなおたい琉球りゅうきゅうはんおう正式せいしき灭亡琉球りゅうきゅう

1874ねん,值明治維新めいじいしんこうこく內情ぜい不穩ふおん日本にっぽんよく以外いがいこと轉移てんい內政問題もんだい,为替はいわんぞくてき原住民げんじゅうみん杀害てき54めい琉球りゅうきゅうじん复仇,とげ派兵はへいさん千六百名攻打台灣东南部的“たい蛮”,しょう牡丹ぼたんしゃ事件じけん

1875ねん7がつ24にち日本にっぽん明治めいじ政府せいふ派遣はけんない务大すすむ松田まつだ道之みちゆき赴琉だま琉球りゅうきゅう国王こくおう停止ていしこう清朝せいちょうあさ贡礼仪,だん绝与清朝せいちょうてき外交がいこう关系。松田まつだ道之みちゆき带来てき日本にっぽん政府せいふてき命令めいれい包括ほうかつ

  1. 使用しよう日本にっぽん年号ねんごう,废止琉球りゅうきゅう对清ちょうちょう贡和庆贺きよしみかど即位そくい派遣はけん使者ししゃてき惯例,どう时也废除琉球りゅうきゅう国王こくおう更迭こうてつ接受せつじゅ清朝せいちょうさつふうてき惯例,以及琉球りゅうきゅうこんきさき与清ともきよちょうてき交涉こうしょうがいよし日本にっぽん外務省がいむしょうかん辖处ぶん,撤销ざいふくしゅうてき琉球りゅうきゅう馆,贸易业务ゆかり日本にっぽん领事馆管辖等。日本にっぽん政府せいふ还命れい琉球りゅうきゅうはんおう入朝にゅうちょう研究けんきゅう政治せいじりんかわ及兴けんほう
  2. はた琉球りゅうきゅう纳入日本にっぽんばん图,要求ようきゅう琉球りゅうきゅうかず中国ちゅうごくだん绝外交关けい

日本にっぽん政府せいふ派遣はけん松田まつだ道之みちゆきいた琉球りゅうきゅういん为此时明治めいじ政府せいふやめ经将琉球りゅうきゅう划归ない务府管理かんり。1875ねんてき这份命令めいれい直接ちょくせつ背景はいけい大久保おおくぼ利通としみちこう明治めいじ政府せいふ提出ていしゅつてき关于琉球りゅうきゅうてきけん议。1874ねんざい北京ぺきん签订かん北京ぺきんせんやくてき大久保おおくぼ利通としみちかい日本にっぽんきさき便びんこう明治めいじ政府せいふ提出ていしゅついまどおり过与清国きよくに谈判,かれうけたまわ认我せいはん为义举,并出银两抚恤受害难民,虽似あし表明ひょうめい琉球りゅうきゅうぞく于我こくばん图之实迹,ただし仍难说两こく分界ぶんかい业已判然はんぜん”,为将来しょうらい计,もち明治めいじ政府せいふつくえだん绝琉だまあずか中国ちゅうごく关系,ざい霸设おけ镇台ぶん营”。

琉球りゅうきゅう於1876ねん兩次りょうじ派遣はけん使者ししゃ東京とうきょう請求せいきゅう日本にっぽん同意どういかずきよしこく保持ほじ外交がいこう关系,日本にっぽん斷然だんぜん拒絕きょぜつ[14]琉球りゅうきゅうこくせり终止與清ともきよちょうてき外交がいこう关系。同年どうねん,记载琉球りゅうきゅうこく历史てき中山なかやま》、《たまてき编撰也被せり停止ていし

1879ねんきよしひかりいとぐちねん日本にっぽん明治めいじじゅうねん)3がつ11にち琉球りゅうきゅうはん廢除はいじょ編入へんにゅう鹿兒島かごしまけん。3月27にち日本にっぽん內務しょう書記官しょきかん松田まつだ道之みちゆきりつりょう41めい內務官員かんいん,165めい警部けいぶじゅん查隊熊本くまもと鎮台ちんだい分隊ぶんたいてき兩個りゃんこ中隊ちゅうたいいたり霸港むかいしょうたいおう傳達でんたつりょう廢除はいじょ琉球りゅうきゅうはんてき命令めいれい。3月30にち日本にっぽん天皇てんのう命令めいれいはたさいきさき一位琉球国王尚泰和他的儿子なおてんうつりきょいた东京,なおたいおうしょうびょう拒絕きょぜつぜん往。4月4にち日本にっぽんざい全国ぜんこく范围宣布せんぷ设立沖繩おきなわけん鍋島なべしまただしあきらため沖繩おきなわ縣知事けんちじ。5月27にちなおたいおうあずか其他王室おうしつ重要じゅうよう成員せいいんじょうすわ日本にっぽん東海とうかいまるごうはなれひらき霸港,ぜん東京とうきょうふうため侯爵こうしゃく

日本にっぽんしょう这段歷史れきししょうさく琉球りゅうきゅう處分しょぶん”。琉球りゅうきゅうはん設置せっちためだいいち琉球りゅうきゅう處分しょぶん”,廢藩置縣はいはんちけんためだい琉球りゅうきゅう處分しょぶん”。

1945ねんだい世界せかいだい结束,日本にっぽん接受せつじゅ开罗宣言せんげんかずなみいばらひろし宣言せんげん》无条件じょうけん投降とうこう日本にっぽん战败。戰後せんご日本にっぽんざいきゅう金山かなやまかずちゅう弃对あさ鲜半岛、たい澎列岛以及南すな西にしすな诸岛てきしゅ权,而琉球りゅうきゅうぐん岛等部分ぶぶん其他日本にっぽん领土则交美国びくに管理かんり。1971ねん簽訂《にち沖繩おきなわ協議きょうぎ》。1972ねん美国びくにしょう琉球りゅうきゅうぐん岛等かえし日本にっぽん沖繩おきなわけんふくけんしか而在2012ねんてき钓鱼岛风きさき部分ぶぶん中國ちゅうごく大陸たいりく學者がくしゃせんしょう:“あきらひらく宣言せんげんかずなみいばらひろし公告こうこく》,台灣たいわん及其附屬ふぞく諸島しょとう包括ほうかつ釣魚臺ちょうぎょだいれつ)、澎湖列島れっとうよう回歸かいき中國ちゅうごく日本にっぽんざい琉球りゅうきゅうぐん岛也ぼつゆうぬし权”,试图さい琉球りゅうきゅう归属问题[15][16]。其理由りゆうすえいばらひろし公告こうこくてきだいはちじょう,“《开罗宣言せんげんちゅうてき内容ないよう必须とく以实ほどこせ,并且日本にっぽんてきしゅ权须きりせいざい本州ほんしゅう北海道ほっかいどう九州きゅうしゅう四国しこく以及同盟どうめいこくしょ决定てき其他しょう岛之ない”,ただしよしだい国共こっきょうない迅速じんそくばく发,国民こくみん政府せいふあずかちゅう人民じんみん共和きょうわこく政府せいふ并未参与さんよきゅう金山かなやまかずてき起草きそう签订。ただ中正ちゅうせいざい开罗かいちゅう曾在罗斯ぶくてき屡次るじ询问いちこう表示ひょうじ:“すなお和美かずみ国共こっきょうどううらない琉球りゅうきゅう并根すえたくかん制度せいど进行共同きょうどう管理かんり[17][18]ただし战后并无にんなん成文せいぶんぶんけん支持しじ此种做法。

きよし政府せいふてき交涉こうしょう

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1876ねん琉球りゅうきゅうむらさきはばかんむかいいさおひろし陳情ちんじょう通事つうじはやしこうとうひと秘密ひみついたり中國ちゅうごく請求せいきゅう清朝せいちょう出面でづら干涉かんしょう琉球りゅうきゅう問題もんだいつぎねんきよし政府せいふ派出はしゅつだい一任いちにんちゅう公使こうしなに如璋なに如璋いたにんてきだいいちけんごと,就是ため日本にっぽん併吞琉球りゅうきゅう提出ていしゅつ抗議こうぎなみ要求ようきゅう本立ほんたてそく釋放しゃくほう琉球りゅうきゅう國王こくおうなおたいただし日本にっぽん表示ひょうじ拒絕きょぜつ。另一方面ほうめん日本にっぽん擔心受到にわか斯與清國きよくにりょう方面ほうめんてき夾擊きょうげき派出はしゅつ宍戶ししど擔任たんにんちゅう清國きよくに公使こうし希望きぼう與清ともきよちょう就琉だま問題もんだい進行しんこう交涉こうしょう

1879ねん6がつ12にち美国びくにぜん总统ゆうさと西にし斯·かく兰特及其ずい扬格J. R. Young和美かずみこく驻华ふく领事毕德かくW. N. Pethickざい天津てんしんかい中国ちゅうごく政府せいふ代表だいひょう鸿章鸿章要求ようきゅう琉球りゅうきゅう问题进行调停。かく兰特慷慨こうがいこたえ应。7月3にちかくらんとくいちぎょうじょうすわさとこうむとくごう」抵達橫濱よこはまなみ於7がつ22にちあずか日本にっぽんせいよう伊藤いとう博文ひろぶみ西鄉さいごう從道つぐみち舉行會談かいだんざい聽取ちょうしゅりょう日本にっぽん方面ほうめんてき意見いけんかくらん特認とくにんため日本にっぽん吞併琉球りゅうきゅう侵犯しんぱんりょう清國きよくにてき海上かいじょう貿易ぼうえき利益りえきため清國きよくに互市ごし障礙しょうがい」,表示ひょうじただゆう和平わへい談判だんぱんざい解決かいけつ琉球りゅうきゅう問題もんだいてき方法ほうほう。8がつ10日とおかかくらんとく會見かいけん明治天皇めいじてんのうみとめためわか日本にっぽん吞併琉球りゅうきゅうしょう斷絕だんぜつ清國きよくに與太よたたいら洋之ひろゆきどおりどう」,建議けんぎ日本にっぽんかれ太平洋たいへいよう廣闊こうかつ通路つうろ,如至此議,かれはたおううけたまわこれ」。ちゅうにち公使こうしなん如璋また發電はつでんほうきゅう總理そうり衙門しょうかくらんとく提出ていしゅつ琉球りゅうきゅうさんふん方案ほうあん」,そく包括ほうかつ沖繩おきなわほん岛在ないてき中部ちゅうぶかく岛归还琉だま,恢复琉球りゅうきゅうこくはた宫古及八重山以南各岛划归中国,しょう包括ほうかつ奄美あまみだいざい内的ないてき岛划归日本にっぽん總理そうり衙門表示ひょうじ贊同さんどうただし美國びくに方面ほうめん不承認ふしょうにん這是かくらんとく提議ていぎてき

日本にっぽんあずか中国ちゅうごく琉球りゅうきゅう问题てん开多磋商,一方いっぽうめんゆかり總理そうり衙門ざい京師けいしあずか宍戶ししど談判だんぱん;另一方面ほうめん鸿章あずか日本にっぽんちゅう天津てんしん領事りょうじ竹添たけぞえ進一郎しんいちろう談判だんぱんむかいいさおひろし受到鴻章こうしうてき庇護ひごはた一些談判內情透露給其他流亡清朝的琉球人。

日本にっぽん與清ともきよちょう同時どうじ感覺かんかく到來とうらいにわか斯的おびえ同時どうじにわか斯侵佔了鴻章こうしうとうじん主張しゅちょうれんこうにわかけい過多かた磋商これ,1880ねん4がつ4にち日本にっぽん方面ほうめん提出ていしゅつぶんしまあらためやくあん」,ひさきよし接受せつじゅ日本にっぽん拒絕きょぜつ引渡琉球りゅうきゅうおうなおやすしただしねがいわり宮古みやこ八重山やえやま兩島りょうしまきゅうきよし廷,ゆかりしん擁立ようりつこうとくひろしため琉球りゅうきゅうおうただし琉球りゅうきゅうこく官員かんいんさい三訴願表示二島土地贫瘠,无法生存せいぞんまん不可ふか接受せつじゅ條約じょうやく就要簽訂,はやしこう在京ざいきょう總理そうり衙門ぜん自殺じさつ表示ひょうじ抗議こうぎ

はやしこう自殺じさつ清朝せいちょう推翻りょう和議わぎ拒絕きょぜつざい谈判じょう约上签字,宍戶ししど璣憤而歸國きこく琉球りゅうきゅう问题长期搁置。琉球りゅうきゅうこく內分ため兩派りょうは一派いっぱおう逢源伊舍堂いしゃどうおや雲上うんじょうもりすぐる)、むかいよしみくん(內間おや雲上うんじょうあさじきため代表だいひょう支持しじ日本にっぽんてき統治とうち日本人にっぽんじんしょうため開化かいかとう」);另一もうまことりょう龜川かめかわ親方おやかたもりたけし)、毛有けありけい龜川かめかわ親方おやかたもりとうとう人為じんい代表だいひょう,盼望中國ちゅうごくてき援助えんじょ親日しんにちしょうため頑固がんことう[19])。まい逢節みなゆうだい支持しじ清朝せいちょうてき琉球りゅうきゅう士族しぞく穿ほじしる傳統でんとう禮服れいふくぜん往各てらびょう名義めいぎうえさいはい先王せんおう實際じっさいじょういのりもとめ中國ちゅうごく戰勝せんしょう日本にっぽん幫助琉球りゅうきゅうふくこく。眾多琉球りゅうきゅう士族しぞく支持しじ頑固がんことう」,松田まつだ道之みちゆきとく任命にんめいむかいたてさかえ大灣おおわん筑登あさこう)、許田きょだえき小樽おたるきん)、ひさだかもりまさしとう人為じんい探訪たんぼうじんあきらかい士族しぞくてき動向どうこう[20][21]

1894ねん中日ちゅうにちきのえうま戰爭せんそう期間きかんしんしんざいこうこころざしれいよしむら按司朝明あさけてきりょうしるべぜん往寺びょういのりもとめ清朝せいちょう戰勝せんしょう日本にっぽん[22]琉球りゅうきゅう各地かくち也盛でんはたゆう中國ちゅうごくてき黃色おうしょく艦隊かんたいまえらいおさむ霸,一時いちじ情勢じょうせい緊張きんちょうただしずいちょかぶとうま戰爭せんそう中國ちゅうごく戰敗せんぱい無力むりょくさいこう日本にっぽん提出ていしゅつ琉球りゅうきゅう一案いちあん日本にっぽんけん并琉だまとげなりじょうきょく部分ぶぶん琉球りゅうきゅう遗民てきふく國主こくしゅ义也就此熄滅。當年とうねん琉球りゅうきゅうじん斷髮だんぱつ就學しゅうがく比率ひりつみな大幅おおはばますだか。而少すう不滿ふまん日本にっぽん統治とうちてき琉球りゅうきゅうきゅう贵族官僚かんりょう以及久米くめむらてき福建ふっけんきさき選擇せんたく流亡りゅうぼう清朝せいちょうしょうさくだつ清人きよひと」)。

政治せいじ

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政治せいじ

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琉球りゅうきゅうてき政治せいじ构分为国おう及王ぞくくにしょう寨社さん个层

国王こくおうしも为王ぞく正妻せいさいため王妃おうひ側室そくしつぶんため夫人ふじんつまりょうとうとうちゅう本身ほんみおう嗣的嬪御またたたえためおもねまもるはは志良しろうれい,嫡王子おうじしょうちょく王子おうじ,庶王子おうじしょうわき王子おうじもうかきみため世子せいしもうかしょう世子せいし王女おうじょ及宗おんなふうおうぬしたい封地ほうち沐邑ゆうかんけんてきたたえため按司こころざしまろうどためおきなぬしおっと驸马てきていいち级称谓),宗室そうしつしょう按司国王こくおう世子せいし还没ゆういた古代こだい中国ちゅうごく中央ちゅうおう政府せいふてき正式せいしき任命にんめい代行だいこう国政こくせいのりしょうため攝政せっしょう」。

くにしょう一国的行政首脑,こくしょうよし国王こくおう任命にんめいざい琉球りゅうきゅうてき历史とうちゅうゆう很多从中国ちゅうごく迁过去てきじん担任たんにん过这个职くにしょう统辖てきかん员除りょうかく个岛屿的“寨社”てき长官ゆたかおや(酋长)そと,还管辖国家こっかつくえ构中てきかん职,包括ほうかつ使中国ちゅうごくてきあさ贡使”、“大夫たいふかん”、“长史かん”(ちょうかず充当じゅうとうこぼし译的“译官”、负责海事かいじてき通事つうじ”、“总管”,对内てきむらさきはばかん”、“ほう”、“つかさ贡”类的かん员。[23][24]需要じゅよう注意ちゅういてき,“长史”かず“长史かん”并不いち样,长史和国わこくしょう国家こっかてきだか级官员,而长史官しかん具体ぐたい负责某某ぼうぼう工作こうさくてきかん员。

按司琉球りゅうきゅうてき地方ちほう行政ぎょうせい单位,也是かく个岛屿所固有こゆうてきかん职。かく行政ぎょうせい區劃くかくてき长官袭,也是琉球りゅうきゅうてきだいてき贵族地方ちほう势力,曾经参与さんよ琉球りゅうきゅう国内こくないてきせい变。其他かん职有管理かんりけい罚的察度かん管理かんり外交がいこうてき耳目じもくかん管理かんり贸易てき霸官收税しゅうぜいかん员等。[25]

くらい

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以下いか为康熙四じゅうねん(1706ねんむらさききん大夫たいふ蔡铎、せい大夫たいふ蔡应みずせい大夫たいふほど顺则编纂《琉球りゅうきゅうこくちゅう山王さんのう官制かんせい所定しょていてきかん阶。

しな はつふうじ ふう かん 爵位しゃくい 备注
せい一品いっぴん ふうすすむふうろく大夫たいふ とくすすむふうろく大夫たいふ くにしょう もとほう きさきはしらこく勋位
いちひん えいろく大夫たいふ えいろく大夫たいふ もとほう
ぐんこう
邑侯
仅授王子おうじおうおとうとさい邑授いちぐんあるいち
せいひん 秉宪大夫たいふ 隆德たかのり大夫たいふ ほうつかさただしきょう
衔法つかさただしきょう
きょうさん员,おうしゅうと、勋戚担任たんにん,为国おうさんきょうてん曹司ぞうしれい曹司ぞうし农,にん曹司ぞうし吏。轮值于王宫中,ぐう大事だいじしゅう议,上之うえの于国しょう
由隆ゆたか大夫たいふ直接ちょくせつます为隆とく大夫たいふしゃしょう衔”
ひん 亲奉大夫たいふ りゅう大夫たいふ 衔法つかさただしきょう
むらさきはば亚卿
ぐんはく
邑伯
无定员
久米くめ协理かんしょうむらさききん大夫たいふいち员,“协理ほう”衔,めい“总理から荣司”,主持しゅうもちあさ贡礼仪
せいさんひん せんはい大夫たいふ 谒者耳目じもくかん きょう设四员,包括ほうかつ宾耳かん锁侧)、てん宾耳かんそう纸库)、つかさけい耳目じもくかん平等びょうどう侧)、かんはく耳目じもくかん泊地はくち头)
久米くめ协理かんたたえせい大夫たいふ,无定员
さんひん 进显大夫たいふ 衔谒しゃ 琉球りゅうきゅう语称“さる口座こうざ”,无定员,无职てのひら
せいよんひん せい大夫たいふ 赞议かん 谒者、ささえかんまいり政事せいじ久米くめ协理かんしょうちゅう大夫たいふ,无定员
よんひん 宫候大夫たいふ 察侍纪官 霸官にんひだりどうくび里人さとびとみぎどう霸人,分掌ぶんしょう钱粮。察侍纪官(座敷ざしき)无定员,无职てのひら
久米くめ协理かんしょう通事つうじ,无定员,专管あさ贡事
せいひん たてまつせん大夫たいふ 谒闼かん 谒闼かんとう职)じゅうにんくに书院谒闼かんさんにんにゅう值王宫
ひん きょうちょく大夫たいふ 衔谒闼理かん 无定员,无职てのひら
久米くめ协理かんしょう谒闼ふく通事つうじ,无定员,专管あさ贡事
せいろくひん うけたまわちょくろう 仪卫使 仪卫使(势头)きゅうにんてのひら仪仗及扈从
ろくひん 从务ろう
じょ德郎よしお
儒士授从务郎
吏授じょ德郎よしお势头)
せいななひん うけたまわことろう さと之子ゆきこ亲云じょう うけたまわことろう琉球りゅうきゅう语称“ぱいきん
久米くめ协理かんたたえふく通事つうじ,无定员,专管あさ贡事
ななひん 从职ろう
じょこうろう
筑登亲云じょう 儒士授从职郎,吏授じょこうろうおきてぱいきん
せいはちひん うち使つかいろう 赞度ない使 うち使つかいろう琉球りゅうきゅう语称“察度やつしめせ
はちひん うち使つかいろう
せいきゅうひん とうつかまつろう てんはん使 とうつかまつろう琉球りゅうきゅう语称“筑登”,ゆかりくびさととまりさん出身しゅっしんしゃ担任たんにん
きゅうひん とうつかまつろう とうつかまつろう琉球りゅうきゅう语称“筑登

琉球りゅうきゅうかん职分为正、从きゅうひん國王こくおうしょうしゅこころざしまえ」,其下てきおうおとうとおう叔、くにしょうみなしょうぼう王子おうじ”。王子おうじしも为各按司,们将手中しゅちゅうへい权上交国おう,聚居于首さとはるかひかえ其领每年まいとし派遣はけん一名官員到自己領地檢查當地事務。[23]王子おうじ、按司みな尊稱そんしょうため御殿ごてん」。

按司さいしたおうしゅうとほうむらさきはばかんしょうぼう亲方”。三品以下黄帽官称“ぼう亲云じょう”。親方おやかたかずゆう領地りょうちてきおや雲上うんじょう(讀作「ペークミー / Pekumi」)尊稱そんしょうため殿しんがり」。三品以下黄帽官无领地者,しょうぼうさと之子ゆきこ亲云じょう”、“ぼう筑登亲云じょう”。从ろくひんじょ德郎よしお、从ななひんじょこうろう,统称“ぼうおきて亲云じょう”。はちひん红帽かんしょうぼうさと之子ゆきこ”(领地方ちほうしゃしょうぼうさとぬし”)。九品くほんしょう筑登”,不入ふにゅう流者ながれものしょうぼう”。[23][24]ゆう領地りょうちてき官員かんいんため上級じょうきゅう士族しぞく領地りょうちてき官員かんいんそく一般いっぱん士族しぞく一般いっぱん士族しぞくしょうためおや雲上うんじょう」(發音はつおんため「ペーチン / Pechin」,あずかゆう領地りょうちてきおや雲上うんじょう發音はつおん不同ふどう)。

平民へいみんそくしょうため百姓ひゃくしょうざいくびさと霸、久米くめ泊村とまりむら居住きょじゅうてきしょうためまち百姓ひゃくしょう」;其他地方ちほうそくしょう田舍いなか百姓ひゃくしょう」。百姓亦可以通過一定途徑進陞為新參士族,這些新參しんざん士族しぞくしょうためじん」。[26][27]

おう行政ぎょうせい機構きこう

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おう行政ぎょうせい機構きこう
たから 國王こくおうあるじ
ひょう
じょう
ところ
御座ぎょざ 攝政せっしょう
さんつかさかん
しも御座ぎょざ ひょうじゅうにん
中央ちゅうおう政廳せいちょう もの奉行ぶぎょうしょ さるこうかた
用意よういかたぶつ奉行ぶぎょうしょ きゅう地方ちほうぶつ奉行ぶぎょうしょ 所帶じょたいかたぶつ奉行ぶぎょうしょ 平等びょうどうかた とまり地頭じとう 双紙ぞうし くさりこれがわ
もの奉行ぶぎょう もの奉行ぶぎょう もの奉行ぶぎょう 平等びょうどうこれがわ とまり地頭じとう 双紙ぞうし くさりこれがわ
吟味ぎんみやく 吟味ぎんみやく 吟味ぎんみやく 吟味ぎんみやく 吟味ぎんみやく 吟味ぎんみやく にちちょうおも にちちょうおも
やく
役所やくしょ
  • やま奉行ぶぎょうしょ
  • 砂糖さとうぞう
  • 用意よういぞう
  • だい台所だいどころ
  • 料理りょうり
  • 催促さいそくかた
  • ふねしゅぞう
  • 高所こうしょ
  • 勘定かんじょう
  • ようぶつ
  • きゅう
  • 救助きゅうじょぞう
  • 道具どうぐとう
  • 田地でんちかた
  • 納座のうざ
  • けんしゃかた
  • もろせいかた
  • 米藏よねぞう
  • 仕上しあげ
  • 宮古みやこぞう
  • ぜにぞう
  • かた
  • 蘇鉄そてつかた
  • かみ
  • はぜのきたれかた
  • 請地うけちかた
  • たまりょう殿どの
  • 寺社じしゃ
  • だい与座よざ
  • そう横目よこめ
  • とまり村方むらかた
  • 普請ふしん奉行ぶぎょうしょ
  • 鍛冶たんや奉行ぶぎょうしょ
  • わた奉行ぶぎょうしょ
  • そう与力よりき
  • した
  • 書院しょいん
  • おさむ殿どの
  • 小細工こざいく奉行ぶぎょうしょ
  • かいすり奉行ぶぎょうしょ
  • うまやかた
  • 系圖けいず
  • 久米くめ村方むらかた
  • 霸里ぬししょ
  • 国学こくがく
  • 久米くめむら明倫めいりんどう
  • くびさとさん平等びょうどう学校がっこうしょ
  • よんまち学校がっこうしょ
  • 泊村とまりむら学校がっこうしょ
  • くびさとかくむら学校がっこうしょ
  • 諸浦しょうらざいばん
  • あおひょうじゅうにん

評定ひょうじょうしょ

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評定ひょうじょうしょおう管理かんり國政こくせいてき最高さいこう機關きかん攝政せっしょうさんつかさかんてき辦公場所ばしょしょうため御座ぎょざあるうえ御座ぎょざ」,ひょうじゅうにんてき辦公場所ばしょそくしょうためしも御座ぎょざ」。[26]

攝政せっしょうまたたたえこくしょう相當そうとう中國ちゅうごくてき丞相じょうしょうかず日本にっぽんてき攝政せっしょう關白かんぱくため琉球りゅうきゅう朝廷ちょうていてき最高さいこう官職かんしょくただしあずか中國ちゅうごくてき丞相じょうしょう不同ふどうてき攝政せっしょう僅僅きんきんただこれきょしょく管理かんり國家こっかてき禮儀れいぎ往往おうおうぼつゆう實權じっけん歷史れきしじょうただゆうきくかくれこうぞうけん二人ふたり例外れいがい攝政せっしょうよし王族おうぞく王子おうじ、按司)だしにん

三司官又稱法司,きょ攝政せっしょうした琉球りゅうきゅう朝廷ちょうていてきさい高級こうきゅうべつ實權じっけん官員かんいん相當そうとう中國ちゅうごくてき三公みつきみさん。三司官共設有三人,よし親方おやかたちゅうせん舉產せいようゆうせん舉權しゃ包括ほうかつ琉球りゅうきゅうてき王族おうぞく和上わじょうそう士族しぞくどもりょうひゃく餘人よにん王族おうぞくそくただゆうせん舉權,ぼつゆうせん舉權。さんにん分別ふんべつ擔當たんとう用地ようちかたきゅう地方ちほう所帶じょたいかたさん職責しょくせき,其位階いかいため親方おやかたせい一品いっぴんいたりしたがえひん不等ふとう

ひょうじゅうにん攝政せっしょうさんつかさかんしたきょうよしじゅうにん組成そせい,其人いんためもの奉行ぶぎょうさんにん,其下次官じかんきゅうてき吟味ぎんみやくさんにんさるこうかた長官ちょうかんよんにん,其下次官じかんきゅうてき吟味ぎんみやくさんにんにちちょうおも兩人りょうにんひょうじゅう五人負責討論國政的重要議題,なみしょう討論とうろん結果けっか上申じょうしん於攝政和せいわさんつかさかんひょうじゅう五人亦稱十五人眾或奉行眾,相當そうとう中國ちゅうごく古代こだいてきろく日本にっぽん現代げんだいてき國務大臣こくむだいじん[28]

もの奉行ぶぎょうしょ

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もの奉行ぶぎょうしょ包括ほうかつ用意よういかたきゅう地方ちほう所帶じょたいかたさん個物こぶつ奉行ぶぎょうしょまい個物こぶつ奉行ぶぎょうしょかくしつらえゆうもの奉行ぶぎょう一人ひとりまい個物こぶつ奉行ぶぎょうざい三司官的監督下管理各自的物奉行所。もの奉行ぶぎょう相當そうとう於今にち中國ちゅうごくてき部長ぶちょうかず日本にっぽんてき大臣だいじん,其下しつらえゆう次官じかんきゅう吟味ぎんみやくもの奉行ぶぎょうかんかいため親方おやかたしたがえひん),吟味ぎんみやくかんかいためおや雲上うんじょうせいよんひん)。

用意よういかたぶつ奉行ぶぎょうしょ管理かんり國有こくゆう財產ざいさん保護ほご山川やまかわてき官廳かんちょう,其下管轄かんかつ有山ありやま奉行ぶぎょうしょ砂糖さとうぞう用意よういぞう大台おおだいしょ料理りょうり催促さいそくかたかく役所やくしょきゅう地方ちほうぶつ奉行ぶぎょうしょ管理かんりきゅうかん役人やくにん旅費りょひとう事務じむてき官廳かんちょう管轄かんかつせんしゅぞう高所こうしょ勘定かんじょうようぶつきゅう救助きゅうじょぞう道具どうぐとうかく役所やくしょ所帶じょたいかたぶつ奉行ぶぎょうしょため管理かんり租稅そぜい國庫こっこ出納すいとうとう事務じむてき官廳かんちょうした轄田地方ちほう納座のうざけんしゃかたしょせいかた米藏よねぞう仕上しあげ宮古みやこぞうぜにぞうかた蘇鐵そてつかたかみはぜのきたれかた請地うけちかたかく役所やくしょ[26]

さるこうかた

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さるこうかたゆびてき平等びょうどうかたとまり地頭じとう雙紙ぞうしくさりこれがわよん官廳かんちょうじょ平等びょうどうかたそと,其長官ちょうかんてき官職かんしょくめいあずか官廳かんちょうめいしょうどうかく長官ちょうかんしも設置せっち吟味ぎんみやくにちちょうおもさるこうかたてき長官ちょうかんまたたたえ耳目じもくかんかんかいためしん雲上うんじょうせいさんひん),もの奉行ぶぎょうこれ。其下次官じかんきゅうためおや雲上うんじょうせいよんひん)。

平等びょうどうかた司法しほう裁判所さいばんしょ警察けいさつしょ)以及せめ管理かんりくびさと土地とち山林さんりんてき官廳かんちょうまたたたえ平等びょうどうしょ。其長官ちょうかんたたえため平等びょうどうこれがわ。另外,平等びょうどうかたまたせめ警衛けいえい琉球りゅうきゅう王家おうけ陵墓りょうぼたまりょうとまり地頭じとうせめ管理かんり琉球りゅうきゅうだい貿易ぼうえき港口こうこうとまりむらてき戶籍こせき民事みんじ公安こうあん消防しょうぼう宗教しゅうきょう建設けんせつてき官廳かんちょう,其長官ちょうかんあずか官廳かんちょう同名どうめい管轄かんかつ寺社じしゃだい與座よざそう橫目よこめとまり村方むらかた普請ふしん奉行ぶぎょうしょ鍛冶たんや奉行ぶぎょうしょ、互奉行ぶぎょうしょそう與力よりきかく役所やくしょ雙紙ぞうし管理かんりせめ知行ちぎょう褒賞ほうしょう工藝こうげい及宮ちゅう事務じむてき官廳かんちょう長官ちょうかんめい管轄かんかつ書信しょしんおさむ殿どの小細工こざいく奉行ぶぎょうしょかいすり奉行ぶぎょうしょうまやかたかく役所やくしょくさりこれがわてのひら外交がいこう文教ぶんきょうとう事務じむてき官廳かんちょう長官ちょうかんめいしも轄御系圖けいず久米くめむらほう霸里ぬししょ國學こくがく久米くめむら明倫めいりんどうくびさとさん平等びょうどう學校がっこうしょよんまち學校がっこうしょ泊村とまりむら學校がっこうしょくびさとかくむら學校がっこうしょ諸浦しょうらざいばんかく役所やくしょ[26]

领地あずか俸禄

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琉球りゅうきゅうこくてき最高さいこう行政ぎょうせい區劃くかくためあいだきり王子おうじ、按司世襲せしゅう領有りょうゆうさい領地りょうち),該領其身份的不同ふどうしょうため王子おうじ地頭じとうある按司地頭じとうみつるしょう按司地頭じとう親方おやかた領有りょうゆういちあいだきりてきそう地頭じとう,也另一部分親方則領有一個村的わき地頭じとうおや雲上うんじょう領有りょうゆういちむらてきわき地頭じとう。一般士族的官員則沒有自己的領地。[29]

士族しぞく作為さくい琉球りゅうきゅうこくてき貴族きぞく階級かいきゅう各自かくじ有用ゆうよう漢語かんごせんうつしてきいん此被しょうためけいしゃ」。相對そうたい於士ぞく平民へいみんそくぼつ有家ありえしょうためけい」。いちはちななさんねん日本にっぽん明治めいじ政府せいふざい琉球りゅうきゅうこく設置せっちはんちょう以後いごたい琉球りゅうきゅうてき人口じんこう進行しんこう調ちょう查,發現はつげんけいしゃうらない琉球りゅうきゅうそう人口じんこうよんふんいち以上いじょう實際じっさいざいおう任官にんかんしょくしゃ僅占其中てきいちしょう部分ぶぶんだい部分ぶぶん士族しぞくすんでぼつゆう官職かんしょく也沒ゆう俸祿。[29]

琉球りゅうきゅう王室おうしつむね亲的おう叔、王子おうじおう孙、勋旧大臣だいじんみな授予いち(间切)ある为采大夫たいふ以下いか有功ゆうこうしゃ、“闽人さんじゅうろくせい袭者,みないちむら(县)为采よし王室おうしつむね亲受ふうさい邑者,其领俸禄袭,ゆかり长子继承。よしかん职爵受封しょく邑者,じょかんそく交还しょく邑。领地如出产米いちひゃくせき,则耕おっととめじゅうせき,领主おさむじゅうせきろくぬし所收しょしゅうじゅうせき米内よないゆうおおやけ费、杂派とうじゅうせき,实收さんじゅうせき。领主日常にちじょうしょ需的鸡、いのしばたきぎとうぶつよう时取折合おれあい为租まい抵充租赋。しょく邑采ひと需要じゅよう为领ぬしふく劳役,其人数にんずう视官秩为多寡たかくにしょうほうじゅうろくにんむらさききん大夫たいふじゅういちにんむらさきはばかんじゅうにんぼうかんよんにん,红帽かんにんみな每月まいつきさらがえ琉球りゅうきゅう实行领地はるか制度せいど,按司全部ぜんぶ集中しゅうちゅう居住きょじゅう于首さと,其领每年まいとしはたおさむなりおくいたり都城みやこのじょう[30]

くびさととまり职官年俸ねんぽう

  • くにしょう:领いちあるろくまいろくひゃくせき有功ゆうこうしゃろくまいいたりななひゃくせきはちひゃくせききゅうひゃくせきいたりいちせんせきやめ,终身ろく嗣子しし及嗣孙各赐禄まいさんひゃくせきさいいちいたり曾孙,りょうこう为差。
  • ほうさいいちろくまいよんひゃくせき,终身ろく嗣子しし及嗣孙各赐禄まいはちじゅうせきさいいちいたり曾孙,りょうこう为差。
  • くにしゅうとさいいちあるいち县,ろくまいはちじゅうせきいたりひゃくせきやめりょうこう赐之,终身ろく。视功大小だいしょう赐其孙禄まいさい
  • むらさきはばかんさいいちあるいち县,ろくまいさんじゅうせきいたりはちじゅうせきやめ,视功大小だいしょう赐之。终身ろく
  • つかさ宾、耳目じもくかんさいいちろくまいはちじゅうせきてんたからつかさけいかんはく耳目じもくかん并度ささえせいささえどうろくまいみなよんじゅうせき;赞议かんろくまいじゅうろくせき
  • 霸官:さいいち县,ろくまいはちじゅうせき
  • 遏闼かんろくまいじゅうせき

久米くめむらから营职かん年俸ねんぽう

  • むらさききん大夫たいふさいいち邑,ろくまいじゅうせきあるはちじゅうせきいちひゃくじゅうせき,视功大小だいしょう赐之。终身ろく嗣子しし赐采ろくまいじゅうあるよんじゅうせきいたり孙,りょうこう为差。
  • せい大夫たいふさいいち县,ろくじゅうせきあるさんじゅうせきりょうこう为差。赐禄しゃ,岁俸ささえ给禄まいじゅうせき
  • ちゅう大夫たいふさいいち县,岁俸ささえ给禄まいいちじゅうせき
  • 长史,さいいち县,ろくまいじゅうせき
  • 通事つうじ,俸米はちせきあるゆうさいある无采
  • ふく通事つうじ,俸米せき
  • 通事つうじ,俸米よんせき
  • 秀才しゅうさい,俸米せき
  • わか秀才しゅうさいいちせき久米くめ“闽人さんじゅうろくせい子弟していねんなな岁,为若秀才しゅうさいそく领俸まい)。

行政ぎょうせい

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1712ねん琉球りゅうきゅう輿こし

琉球りゅうきゅうてき統治とうち中心ちゅうしん沖繩おきなわとうせんとく年間ねんかんさんやま統一とういつ以後いご沖繩おきなわとう劃分ため國頭くにがみかた中頭なかがみかた島尻しまじりかたさん份,其所轄しょかつ地域ちいきだい致與さんやま時代じだいてき北山きたやま中山なかやま南山みなみやまさん王國おうこく相當そうとういん此有時候じこう也會以昔三個王國的名字來作為別稱。かた僅僅きんきんただきょきゅうてき行政ぎょうせい區劃くかく。「かたしもためあいだきり」,相當そうとう於今てき市町村しちょうそん。「あいだきりしもため基礎きそ行政ぎょうせい單位たんいむら」。

根據こんきょ琉球りゅうきゅう正史せいし中山なかやま記載きさい,「かたてき漢文かんぶんしょうため」,「あいだきりてき漢文かんぶんしょうためぐん」。[31]ただし清朝せいちょうさつふう副使ふくししゅうところちょてき琉球りゅうきゅうこくこころざしりゃくちゅう,卻將「かたしょうためしょう」、「あいだきりしょうため」。[32]

此外,琉球りゅうきゅうなおゆう所轄しょかつさんじゅうろく離島りとうじょう沖繩おきなわとうてきさんかた」,みつるしょうさんさんじゅうろくとう」。

根據こんきょ雍正ねん1724ねん編纂へんさん完成かんせいてき中山なかやま記載きさい當時とうじ琉球りゅうきゅう共有きょうゆうさんしゅうさんじゅうぐんさんじゅうろくとう

其中,上述じょうじゅつてきしゅうちゅうしゅさと三平等包括真和志之平等、南風みなみかぜ平等びょうどう西之にしの平等びょうどうよんまち包括ほうかつ西村にしむら東村あずまむら若狹わかさ町村ちょうそん泉崎いずみざきむらくびさとさん平等びょうどう霸、久米くめとまりため士族しぞく聚居,這些地區ちくぞく於間きり,也不かい分封ぶんぽう

此外值得いちひさげてきしゅうと德之島とくのしま)、よしろん與論島よろんとう)、えいりょうとう沖永良部島おきのえらぶしま)、ゆかりりょ與路島よこじま)、がらすやつ請島うけじま)、けいりょあさ加計呂麻島かけろまとう)、がらすあさ奄美あまみ大島おおしま)、かい喜界島きかいじま)這はち島嶼とうしょざい慶長けいちょう琉球りゅうきゅうこれやくこう雖然琉球りゅうきゅう名義めいぎじょうてき領土りょうど事實じじつじょう薩摩さつまはん佔據,ため薩摩さつまはんてきくら入地いりじ

軍事ぐんじ

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せき於早琉球りゅうきゅうてき軍事ぐんじ防禦ぼうぎょ體系たいけいざい史料しりょうちゅうぼつゆうにんなん記載きさいなおおう時代じだい琉球りゅうきゅうおうてき統治とうち開始かいしはしこう中央ちゅうおう集權しゅうけん。1522ねんなおおう頒行かたなかりれい沒收ぼっしゅう全國ぜんこくりょうてき兵器へいきはた統治とうち各地かくちてき按司遷到くびさとじょう居住きょじゅう。此後經過けいか1554ねんなお清王せいおうてき改革かいかく確立かくりつりょう琉球りゅうきゅうてき軍事ぐんじ體系たいけい——「・ヒキ制度せいど」。[33][34]

琉球りゅうきゅういち非武裝ひぶそう國家こっかぼつゆう設立せつりつ正規せいきてき軍隊ぐんたい。而根據こんきょくら・ヒキ制度せいど」,琉球りゅうきゅうおうざい沖繩おきなわ本島ほんとうちゅう南部なんぶ一帶いったい設立せつりつ有名ゆうめいさけべ「ヒキ」てきおうまもるたい和名わみょうさけべあいだきりぐんてき民間みんかん軍事ぐんじ組織そしき

「ヒキ」まもるたい在民ざいみんあいだ俗稱ぞくしょうくび里親さとおやぐん」(しよりおやいくさ),よし琉球りゅうきゅうおう直接ちょくせつ管轄かんかつてきまもるたいまい「ヒキ」まもるたいどもじゅう餘人よにんよしぜいあたまおや雲上うんじょういちめい擔任たんにん隊長たいちょう,筑殿おや雲上うんじょういちめい擔任たんにんふく隊長たいちょう,其他成員せいいんみやこゆかり家來けらいあかあたましろてきひら役人やくにん充當じゅうとう琉球りゅうきゅうそう共有きょうゆう十二支じゅうにし「ヒキ」まもるたいふんため丑日うしのひはんとりはん和巳かずみにちはんさんくみまいくみよん支隊したい,按照固定こていてきはん。「ヒキ」まもるたいてきさんはんぐみ分別ふんべつ隸屬れいぞく於名さけべくら」(こおり)てきさん機構きこう管轄かんかつ。其中丑日うしのひはんよしぼうくら」(ふみしつ其名)統轄とうかつとりはんよしみなみ統轄とうかつはんよしきた統轄とうかつ。這さん分別ふんべつよしさんめいほう管理かんり,而法てき直接ちょくせつ上司じょうし便びん琉球りゅうきゅう國王こくおう[35]根據こんきょ琉球りゅうきゅうこく由來ゆらいてき記載きさい,這十二支じゅうにし「ヒキ」てき名字みょうじ分別ふんべつためいきおいとみ(セイヤリトミ)、高富たかとみ(セダカトミ)、浮豐(ウキトヨミ)、しゃ國富こくふ(ジャクニトミ)、しま內富(シマウチトミ)、押明とみ(オシアケトミ)、いきおいおさむあらとみ(セヂアラトミ)、相應そうおうとみ(フサイトミ)、世持よもちとみ(ヨミチトミ)、くもとみ(クモコトミ)、とみ(ヨツギトミ)、あんまいとみ(アマエトミ)。[36]

三組衛隊輪流守衛首里城、霸港北岸ほくがん一帶いったい霸港南岸なんがんいたり豐見城とみぐすく一帶いったい。而那霸港南岸なんがんいたり豐見城とみぐすく一帶いったい,也由南部なんぶかくあいだきり組織そしきてき民兵みんぺいあいだきりぐんきょうじょ守衛しゅえい[37]「ヒキ」まもるたいあいだきりぐんてきそう人數にんずう大約たいやくざいすうせんにん左右さゆう[34]此外,琉球りゅうきゅう於1554ねんざい霸港てき南岸なんがん北岸ほくがん分別ふんべつ建造けんぞうりょう屋良やらもりじょう三重みえじょう這兩炮臺,憑藉天險てんけん拱衛ちょ霸港,避免該港遭受やまと寇的いれおかせ[38]

琉球りゅうきゅうおうかえざい今歸仁なきじんしろ設置せっち北山きたやま監守かんしゅいちしょく統轄とうかつすうひゃくにんてきまもるたいせめ守衛しゅえい沖繩おきなわ本島ほんとうてき北部ほくぶ

琉球りゅうきゅうてき軍事ぐんじ組織そしき基本きほんようらい維持いじ治安ちあん防禦ぼうぎょやまと寇的。じょりょうなお清王せいおうなおもとおう時代じだい曾動よう這些軍事ぐんじ組織そしき遠征えんせい奄美あまみ大島おおしまそと琉球りゅうきゅうぼつゆう對外たいがい用兵ようへい琉球りゅうきゅうてき軍事ぐんじ裝備そうび較差かくさ,1609ねん薩摩さつまいれおかせ琉球りゅうきゅうこれ薩摩さつまはんきよしてん琉球りゅうきゅうてき武器ぶき,竟然發現はつげん琉球りゅうきゅうただゆうひゃくちょうゆみさんひゃくていやりさん百領甲胄以及若干刀、ほこ

對外たいがい關係かんけい

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明朝みょうちょう时期てき琉球りゅうきゅうみなと,15いたり16せい东南亚さいしげる华的商港しょうこう

琉球りゅうきゅうこく東亞とうあてきすくなはん属国ぞっこく(如越みなみ朝鮮ちょうせんとう一樣いちよう,受中国ちゅうごく皇帝こうていあきらしん两朝)てきさつふうじざいめい义上むかいあきらきよし朝貢ちょうこう。1609ねん薩摩さつまはんいれおかせ,萨摩はん驻扎琉球りゅうきゅうざいばん奉行ぶぎょう于该こく,以监とく国政こくせい[39]琉球りゅうきゅうまた直接ちょくせつこう江戶えど幕府ばくふてき將軍しょうぐん朝貢ちょうこうしょうためうえ江戶えど”)。

ざい相当そうとう长的时期ない琉球りゅうきゅうあずかあさてき贸易关系也非常ひじょう频繁,仅次于中こく日本にっぽんじょ此以がい琉球りゅうきゅう还与しゅう國家こっか暹羅しゃむふつだいどろじゅんたちさんほとけひとしつま哇国もんこたえ滿まん剌加うらないじょうやすみなみりょそうとうくに[40]以及さらとおてきちゅう地区ちくいまみみともえはじめ斯坦とうくに)进行外交がいこう贸易往来おうらい[41]琉球りゅうきゅうこくあずか暹罗こくつま哇国进行过官かたぶん书“咨”てき交往。大約たいやくざい15いたり16世紀せいき期間きかん琉球りゅうきゅうこく通過つうかてんこう貿易ぼうえき獲得かくとく巨大きょだい利潤りじゅんなりためいち非常ひじょう富有ふゆうてき國家こっかしょうさくまん國津くにつはり」。ざいまん國津くにつはりかねてき銘文めいぶんうらなお泰久やすひさおう曾自ごうほこ耀「琉球りゅうきゅうこくしゃ南海なんかい勝地しょうち,而鍾さんかんこれしゅう;以大明だいめいため輔車,以日いきためくちびるざい中間ちゅうかん湧出ゆうしゅつよもぎ萊島也。」ただしざい1611ねんおきてじゅうじょうにちおきてじゅうじょう》簽訂これ琉球りゅうきゅうかんかた僅限於在薩摩さつまはんてき約束やくそくあずか中國ちゅうごくとうこく貿易ぼうえき財政ざいせい也隨おちいにゅうりょうこま窘的境地きょうち[42]

ざい近代きんだい,1860ねん以后,琉球りゅうきゅうあずか美国びくにほう国有こくゆう过官かた接触せっしょく,并签しょ琉美修好しゅうこう條約じょうやくとうじょう约。

经济

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海外かいがい贸易

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琉球りゅうきゅううま艦船かんせん

よし国土こくど疆域狭小きょうしょう琉球りゅうきゅう无法建立こんりゅう以农业为もと础的经济,ただのうどおり海外かいがい贸易らい获得财富。琉球りゅうきゅう仅与中国ちゅうごくてきむねはん关系从中国ちゅうごく获得大量たいりょうてきぶつ资供应,还发てんなり为锁国状こくじょう态下中国ちゅうごくてき海上かいじょう对外贸易“总代理だいり”。琉球りゅうきゅうてきせんただ往来おうらい霸与ふくしゅう间,还北上ほくじょう日本にっぽんあさ鲜,南下なんかやすみなみ吕宋暹罗亚齐つま滿まん剌加とうへんぬのせい南洋なんようぐん岛。琉球りゅうきゅう从这样的“转口贸易”中富なかとみひろしおこりらい[43]

琉球りゅうきゅう海外かいがい贸易てき大宗たいそう货物こう中国ちゅうごく日本にっぽんてきしろ银、漆器しっきかたな剑、へいかず扇子せんすはた中国ちゅうごく产的药材、瓷器、丝绸、铜钱转售到日本にっぽんあさ鲜,并将东南亚、印度いんどおもねひしげはくはん岛出产的さいうしかく苏木香料こうりょう、锡、とう象牙ぞうげ乳香にゅうこう龍涎香りゅうぜんこう销售到中国ちゅうごく日本にっぽんあさ鲜三こく[41]

ふくしゅう琉球りゅうきゅう主要しゅようてきざい华贸えき港口こうこう琉球りゅうきゅう商人しょうにんざいふくしゅう交易こうえきてき货物种类繁多はんたゆうかく种手こう业品、药、香料こうりょう、矿产、うみ产、纺织ひん及其珍奇ちんき货物。ふくしゅう还有じんだい售球しょう货”。琉球りゅうきゅう商人しょうにん福建ふっけん带走てき货物主要しゅようすえ瓷、漆器しっき丝绸さんだい类。

琉球りゅうきゅうこく中国ちゅうごくてきあさ贡贸えきざいかん初年しょねんやめじゅうふん发达。带到中国ちゅうごくてき货物有金ありかね银罐、きむ银粉くしげきむ缸酒うみどろ金彩きんさい围屏、どろ金扇きんせんどろ银扇、おうぎ、蕉布、苎布、红花、胡椒こしょう、苏木、腰刀こしがたながたな、枪、盔甲、马、くら、丝、绵、にし盘,额外增加ぞうかてきあさ贡之ぶつ无定额。1680ねんかんじゅうきゅうねん),琉球りゅうきゅうさいつぎ進貢しんこう皇帝こうていれいめん部分ぶぶん奢侈しゃしひん。以后てきあさ贡中,ただゆう马及じゅく硫磺、うみにし壳、红铜とうぶつ

朝鮮ちょうせんつう过琉だまこう南洋なんようてき转口贸易也有やゆう发展,从南洋なんよう进口药物、香料こうりょうちんたま玳瑁たいまい珊瑚さんごとう奢侈しゃしひんざい琉球りゅうきゅう都城みやこのじょうくびさとじょうあさ鲜称为海うらだし现了专门航行こうこういたあさ鲜的琉球りゅうきゅう贸易せん琉球りゅうきゅうあずかあさ鲜的关系ざい政治せいじ经济方面かたもゆう发展,ただし经济てき作用さようだい政治せいじ作用さよういん为他们同属どうぞく明朝みょうちょうまとはんぞく

琉球りゅうきゅうあずか东南亚的经济关系互补てき作用さよう。16せい纪,兰、西にしはんきば葡萄ぶどうきばとうこくてき势力やめ经进にゅう东南亚,们的产品どおり过琉だま的中てきちゅう转站卖到あさ鲜、日本にっぽん,获得りょう丰厚てき润。ただし16せい纪末いたり17せい纪,ずい西方せいほう国家こっかあずか中国ちゅうごく建立こんりゅう直接的ちょくせつてき贸易联系,以及萨摩いれおかせ琉球りゅうきゅうてき转口贸易地位ちい趋于おとろえ落。此後,琉球りゅうきゅうてき財政ざいせいえき窘迫,ゆう甚至出現しゅつげんぜに接待せったいさつふう使而向薩摩さつまはんかしてき情況じょうきょう[44]

琉球りゅうきゅう國土こくどひんやせ農業のうぎょうなん發展はってんもたれてんこう貿易ぼうえき獲得かくとくしょ需物ひん。而且國家こっかつね鬧飢あらにん們以蘇鐵そてつ果實かじつためしょく所以ゆえんまたゆう蘇鐵そてつ地獄じごくあくしょうちょくいた1594ねん中国ちゅうごく福建ふっけん長樂ながらひと陈振龙ざい菲律まろうど偷運ばんいも引种福建ふっけん,1604ねん琉球りゅうきゅうじんこくそうかんまたふくしゅうはたばんいもなえ带回琉球りゅうきゅうゆかりあさ平衡へいこう儀間ぎま親方おやかたつねこうため种植。いたり人民じんみん死亡しぼうだいげんまた以番いもため主食しゅしょく[45][46]當時とうじただゆう國王こくおうかず貴族きぞく階層かいそうざい以吃まい

通貨つうか

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早期そうき琉球りゅうきゅうこくぼつゆう自己じこ鑄造ちゅうぞうてきぜにぬさ使用しよううみともえ作為さくい通貨つうか[47]根據こんきょあかり實錄じつろく記載きさい,1413ねん明成めいせい曾賜琉球りゅうきゅうこくちゅう山王さんのうなおおもえみなみ山王さんのうひろしおうたから及「永樂えいらく通寶つうほうぜに;1425ねんさつふうなおともえこころざしこれさいあかりせんむねまたたまもの琉球りゅうきゅう銅錢どうせん。此後,琉球りゅうきゅう開始かいし使用しよう明朝みんちょう鑄造ちゅうぞうてき銅錢どうせん作為さくい通貨つうか。1459ねん因明いんみょうあさしょたまもの銅錢どうせんざいこころざし魯布さとみだれちゅうしょう毀無そんなお泰久やすひさおうまたこう明朝みんちょう請賜銅錢どうせん[48]いたりょう1534ねんちんただし使琉球りゅうきゅういた琉球りゅうきゅうこくちゅう使用しよう日本にっぽんしょてき銅錢どうせん[47]而到りょうじょ葆光使琉球りゅうきゅうてき時候じこう發現はつげん其國ちゅう通行つうこう日本にっぽんてき寬永かんえい通寶つうほう,而明あさ初年しょねんしょてきひろしたけ通寶つうほうぜにきゅうざい琉球りゅうきゅう使用しよう[49]

事實じじつじょう琉球りゅうきゅうじょりょう使用しよう中國ちゅうごくかず日本にっぽんしょてき銅錢どうせんがい,也曾發行はっこう一些自己鑄造的銅錢。かなえもとひとしざいだし使琉球りゅうきゅう曾見いた琉球りゅうきゅう自己じこ鑄造ちゅうぞうてき銅錢どうせん[50][51]琉球りゅうきゅうてきかんかた史料しりょうたま記事きじのり記載きさい,1656ねんなおしつおういのちたいらあきらさちとうあいだおや雲上うんじょうじゅうひね)、薛禮きょう波倉なみぐら筑登しん雲上うんじょうおや利用りよう薩摩さつまはんてきはいぜに鑄造ちゅうぞう琉球りゅうきゅう自己じこてきぜにぬさ。這種ぜにぬさしょうさく鳩目はとめぜに俗稱ぞくしょうとうあいだぜに[52]質量しつりょうれつ容易ようい磨損まそん,僅限こくちゅう使用しよういたりいまやめそん

ざい如今てき古錢こせん市場いちばじょうきゅう以看いた一些琉球國早期自己鑄造的銅錢,れいなお泰久やすひさおうところてきだい通寶つうほう」、なお德王とくおうところてきだか通寶つうほう」、なおえんおう鑄造ちゅうぞうてき金圓きんえんたから」以及なおおうてき中山なかやま通寶つうほう」。[53]此外,かえゆういち日本にっぽんしょ鑄造ちゅうぞうてきただざい琉球りゅうきゅう發行はっこうてき銅錢どうせんれい如在日本にっぽん文久ぶんきゅう年間ねんかん薩摩さつまはん曾以救濟きゅうさい琉球りゅうきゅうてき名義めいぎざい琉球りゅうきゅうこく發行はっこう薩摩さつま鑄造ちゅうぞうてき琉球りゅうきゅう通寶つうほう」。[54]

法律ほうりつ

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琉球りゅうきゅう早期そうきてきりつほう比較ひかく簡單かんたん許多きょた刑罰けいばつかえ沿用琉球りゅうきゅう傳統でんとうてき習慣しゅうかん代替だいたい法律ほうりつ,這種習慣しゅうかん法被はっぴしょうため內法」。根據こんきょ中國ちゅうごく各位かくいさつふう使てき描述,りゃくいち

琉球りゅうきゅうこく刑罰けいばつてき傳統でんとう習慣しゅうかん分有ぶんゆう死刑しけいけいけいりょうたね。其中死刑しけいゆうしのげおそ斬首ざんしゅやりとげ三種さんしゅ刑罰けいばつ琉球りゅうきゅうてきしのげおそこれけいよう處決しょけつはんゆう謀反ぼうほんざいてきじんやりとげけいそくはた犯人はんにん捆在十字架型的木樁上,ようやりとげ心臟しんぞう致死ちししかこう梟首きょうしゅしめせ眾直いた樁倒掉為どめけいけいぶんためながれ曝日ばっざい正午しょうご時分じぶん太陽たいよう)、かせむち[55]

ざい琉球りゅうきゅう傳統でんとう刑罰けいばつちゅうはんつうかんつみしゃ男女だんじょ一同いちどうしょ[56]ざいだいしょう王朝おうちょう初期しょきたいとう竊罪處罰しょばつ十分嚴厲而且非常殘酷,さき剖開腹腔ふくこうしかのちわれはな砍去そうはた竊賊ころせ[57][58]いたりょう中期ちゅうきたいとう竊罪てき懲罰ちょうばつざいゆうしょげんけい依據いきょ犯人はんにん犯罪はんざい次數じすう分別ふんべつあらためためむちけい曝日,甚至流刑りゅうけいあるけい[55]

琉球りゅうきゅうみんかぜあつししらきいん此律ほう較為簡單かんたん,「國中くになかしつらえちょう聽訟これしょ」,まいとうぐういた犯罪はんざいことそく報知ほうちほうよしほうさいだつ其罪,[59]そく使つかいかんちょうてきおやぞくまた法論ほうろんざいとめじょうめん[56]

よし於這しゅりつ法會ほうえさんせいことどうけいこと輕重けいちょうひとしなん以剖けつてき現象げんしょういん此在1775ねんなおきよしおう命令めいれいうまこく與那原よなばる親方おやかたりょうのり)、むかいたかしすすむ久山くやま親方おやかたあさ)、うま克義かつよし幸地こうち親方おやかたりょうあつし)、蔡世あきら高島たかしま親方おやかたなんじあらわとうじんへんせん琉球りゅうきゅうりつ》,於1786ねんへんうつし完成かんせいなみ正式せいしき頒行。[60]なお灝王在位ざいいまた編纂へんさんりょうけいてんしんしゅうりつ》。

人口じんこう及身份構成こうせい

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琉球りゅうきゅうこくてき人口じんこう主要しゅよう集中しゅうちゅうざいくびさとさん平等びょうどうよんまち久米くめむらとまりむらよん地區ちく。這四個地區的士族分別被稱為首里士族、霸士ぞく久米くめ士族しぞく和泊わどまり士族しぞく,該地域ちいきてき百姓ひゃくしょうしょうためまち百姓ひゃくしょう」。其他地域ちいきてき人口じんこう較少,しょうため田舍いなか百姓ひゃくしょう」。

以下いか薩摩さつまはんたい琉球りゅうきゅう人口じんこうてき統計とうけい琉球りゅうきゅうてき人口じんこう統計とうけいよし薩摩さつまはんせめただしざい江戶えど幕府ばくふてき全國ぜんこく人口じんこう調ちょう查中琉球りゅうきゅうれつにゅう其中。值得いちひさげてき奄美あまみ群島ぐんとう作為さくい薩摩さつまはんてきくら入地いりじ單獨たんどく劃出進行しんこう統計とうけいてきただしよし於奄仍是琉球りゅうきゅう名義めいぎじょうてき領土りょうどれつ於下おしたひょうなか。另外,琉球りゅうきゅう逃人あたまぜいてき遺漏いろう人口じんこう非常ひじょう,1879ねん废藩设县これ沖繩おきなわ縣廳けんちょう於1920ねん進行しんこう人口じんこうひろし查,とくいたてき人口じんこうすうよりどころ激增げきぞうすうよりどころ於表まつ)。

琉球りゅうきゅう群島ぐんとう人口じんこう變遷へんせん[61][62]
おおやけれき 日本にっぽん年號ねんごう 中國ちゅうごく年號ねんごう 琉球りゅうきゅう本土ほんど 道之みちゆきとう奄美あまみ群島ぐんとう 琉球りゅうきゅう群島ぐんとう全域ぜんいき
合計ごうけい おとこ おんな 合計ごうけい おとこ おんな
1632ねん 寬永かんえいきゅうねん たかしただしねん 108,958 53,610 55,348
1636ねん 寬永かんえいじゅうさんねん たかしただしきゅうねん 111,669 54,496 57,173
1659ねん 萬治まんじねん 順治じゅんじじゅうろくねん 112,764 55,721 57,043
1665ねん 寬文ひろふみねん かんよんねん 110,241 54,188 56,053
1670ねん左右さゆう 寬文ひろふみ年中ねんじゅう かん熙初ねん 110,211 54,188 56,053 31,377 141,588
1672ねん 寬文ひろふみじゅうねん かんじゅういちねん 116,483 57,540 58,943
1677ねん のべたからねん かんじゅうろくねん 122,213 60,558 61,655
1684ねん 貞享ていきょう元年がんねん かんじゅうさんねん 129,995 64,235 65,760
1690ねん 元祿げんろくさんねん かんじゅうきゅうねん 128,567 63,430 65,137
1699ねん 元祿げんろくじゅうねん かんさんじゅうはちねん 141,187 69,195 71,992
1706ねん 寶永ほうえいさんねん かん熙四じゅうねん 155,108 76,026 79,082 49,472 25,051 24,421 204,580
1707ねん 寶永ほうえいよんねん かん熙四じゅうろくねん 155,261
1713ねん 正德まさのりさんねん かん熙五じゅうねん 157,760
1721ねん とおるろくねん かんろくじゅうねん 167,671 80,009 87,662
1729ねん とおるじゅうよんねん 雍正ななねん 173,969
1761ねん たかられきじゅういちねん いぬいたかしじゅうろくねん 188,530
1772ねん 明和めいわきゅうねん いぬい隆三りゅうぞうじゅうななねん 174,211
1800ねん 寬政かんせいじゅうねん よしみけいねん 155,650 74,593 230,243
1826ねん 文政ぶんせいきゅうねん みちこうろくねん 140,565 77,667 218,232
1852ねん よしみひさしねん 咸豐元年がんねん 132,678 85,125 217,803
1920ねん 大正たいしょうきゅうねん 中華民國ちゅうかみんこくきゅうねん 571,572
琉球りゅうきゅう群島ぐんとう構成こうせいてき變遷へんせん[61][62]
份、地域ちいき職業しょくぎょう 1677ねん

のべたからねん

1684ねん

貞享ていきょう元年がんねん

1706ねん

寶永ほうえいさんねん

1772ねん

明和めいわきゅうねん

1800ねん

寬政かんせいじゅうねん

1826ねん

文政ぶんせいきゅうねん

1852ねん

よしみながねん

琉球りゅうきゅう本土ほんど 122,213 129,995 155,108 174,211 155,650 140,565 132,678
   按司、親方おやかた 14,014 37,323 43,479 50,700 50,091
   家來けらい下人げにん 13,134 13,409 112,158 14,332 14,656
   寺社じしゃ 175 211 99 94
   在鄉ざいきょう 127,780 123,254 75,418 67,821
   入墨いれずみ流人るにん 5
   行脚あんぎゃ 14 13 16 16
道之みちゆきとう奄美あまみ群島ぐんとう 49,472 74,910 74,593 77,667 85,125
   鄉士ごうしかく 47 192 1,566
   寺社じしゃ 2 1
   在鄉ざいきょう 49,302 74,131 76,814 82,782
   流人るにん遠島えんとうしゃ赦免しゃめんきょ 170 719 660 777
   德之島とくのしま乞食こじき 11
琉球りゅうきゅう群島ぐんとう人口じんこう 204,580 249,121 230,243 218,232 217,803

ひと

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とうまえてきもといん研究けんきゅう顯示けんじ琉球りゅうきゅうじんてき等位とういもといんあずか繩文じょうもんじんおもねつとむじんさいため接近せっきん,而東亞とうあ大陸たいりく人口じんこうてきもといん貢獻こうけんそく較少[63][64][65][66][67][68][69]大約たいやくざい12世紀せいき左右さゆうてきしろ時代じだい琉球りゅうきゅう列島れっとうてき原住民げんじゅうみんざい開始かいしあずかそとぞく目前もくぜんみとめためしたがえ日本にっぽん列島れっとう過去かこてき移民いみんこん合成ごうせいためこんてんてき琉球りゅうきゅうじん[70]

根據こんきょ考古こうこ證據しょうこぜん時代じだいてき琉球りゅうきゅう群島ぐんとう北部ほくぶ奄美あまみ群島ぐんとう沖繩おきなわ群島ぐんとうあずか南部なんぶ宮古みやこ群島ぐんとう八重山やえやま群島ぐんとう人口じんこうてきぜんもといんぐみ差異さいせい相當そうとうあかりあらわ目前もくぜん遺傳いでんがくみとめため這是遺傳いでん漂變現象げんしょう而非あずか鄰近地區ちくてき人口じんこう混合こんごう[71]

传统文化ぶんか

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言及げんきゅう文字もじ

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琉球りゅうきゅう

琉球りゅうきゅう(ゆう沖繩おきなわ中央ちゅうおう方言ほうげん)これ琉球りゅうきゅうこくてき主要しゅようげんいち琉球りゅうきゅう诸语ぞく于日琉语けいあずか语有亲缘关系,两者みなげん于古语。ただしよし于与日本にっぽん本土ほんど长达すうせい纪的地理ちりへだた阂和分化ぶんかあずか语在こう头上やめ无法理解りかいざい琉球りゅうきゅうこく時代じだい琉球りゅうきゅうじん一般いっぱん使用しよう夾雜きょうざつゆう少量しょうりょう漢字かんじてき平假名ひらがな记录琉球りゅうきゅう著名ちょめいてき琉歌だいしゅうおもえ草紙ぞうし》(おもろさうしまた使用しよう平假名ひらがな記載きさいてき

東亞とうあてき其他國家こっかいちよう漢字かんじ也是琉球りゅうきゅうこくかんかた文字もじざい其與中國ちゅうごく朝鮮ちょうせんえつみなみてき外交がいこう往來おうらいちゅうみな使用しよう漢文かんぶん文言もんごんぶん琉球りゅうきゅう士族しぞくてき,也使用しよう漢字かんじ記載きさいあずかあきら清和せいわ日本にっぽん交往,往往おうおう通事つうじ”(こぼし译)いち非常ひじょう重要じゅうよう

ざいあかりきよし時代じだい琉球りゅうきゅうこく不斷ふだんこう南京なんきん北京ぺきんてき國子くにこかん以及ふくしゅうてき琉球りゅうきゅうかん派遣はけん留學生りゅうがくせい學習がくしゅう中國ちゅうごくてきげん根據こんきょたいとめそんらいてき琉球りゅうきゅうじん使用しようてき官話かんわほんてき研究けんきゅう顯示けんじ琉球りゅうきゅうじんしょ學習がくしゅうてき官話かんわざいかたりおんじょう受到りょう閩東ゆう其是ふくしゅうはなしてき影響えいきょう嚴格げんかくせつふくしゅうてき官話かんわ”。[72]

當時とうじ琉球りゅうきゅうこくざい外交がいこう場合ばあいかんかた文書ぶんしょじょうみな使用しよう漢文かんぶん文言もんごん文書ぶんしょうつしただたい日本にっぽんてき外交がいこう文書ぶんしょそく使用しよう候文そうろうぶん。而当てき琉球りゅうきゅう文獻ぶんけんのり藉助日本にっぽんてき假名かめい進行しんこう書寫しょしゃじょりょう漢字かんじそと琉球りゅうきゅうまたようゆうそうてきそくたま。此外,根據こんきょ日本にっぽんそうじんふくろちゅうてき琉球りゅうきゅう神道しんとう記載きさい琉球りゅうきゅう歷史れきしじょう曾經いちしゅよう於占ぼくてき琉球りゅうきゅう」,きょう17[73]根據こんきょ琉球りゅうきゅう民間みんかん傳說でんせつ,此字がかり天神てんじん所傳しょでんはら本有ほんゆういちひゃく後來こうらい僅存17[74]

琉球りゅうきゅうこく內的行政ぎょうせい文書ぶんしょしょうため辭令じれいしょ早期そうきてき辭令じれいしょ大量たいりょう使用しよう假名かめいらい書寫しょしゃ。1609ねん薩摩さつまいれおかせ琉球りゅうきゅう以後いご,受日本にっぽん影響えいきょう開始かいし逐漸使用しよう漢字かんじ假名がな混用こんようぶん書寫しょしゃ後來こうらいざいこうぞうけん改革かいかくちゅうまたあらためため大量たいりょう使用しよう漢字かんじ書寫しょしゃざい清朝せいちょうさつふう使じょ葆光ところちょてき中山なかやまつたえしんろくちゅうひっさげいた琉球りゅうきゅう國有こくゆう一種與中國不同的字母——魯花琉球りゅうきゅうじん使用しよう夾雜きょうざつゆう少量しょうりょう漢字かんじてき魯花」作為さくいかんかた公文書こうぶんしょよう以發佈政れいじょ葆光みとめため魯花可能かのう日本にっぽん字母じぼ」(假名かめい),あるもの漢字かんじ簡化てききりおん標記ひょうき[75]しか根據こんきょ中山なかやまつたえしんろくしょてき魯花ひょう可知かち魯花就是てき假名かめい根據こんきょ現存げんそんてき琉球りゅうきゅう公文こうぶんしょまた可知かち,其公文書ぶんしょてき文體ぶんたいそく日本語にほんごてき候文そうろうぶん[72]

 
琉球りゅうきゅう國王こくおう日本にっぽん薩摩さつま守護しゅご島津しまつたてひさてき國書こくしょ(1471ねん

じょたい日本にっぽんがい琉球りゅうきゅうおう對外たいがい文書ぶんしょ使用しよう漢文かんぶん文言もんごん文書ぶんしょうつしてき(对萨はんよう汉字假名がな混用こんようぶん)。だい二尚氏王朝末期琉球王府與西方國家所簽訂的通商條約,また使用しよう漢文かんぶん文言もんごん文書ぶんしょうつし

宫廷文化ぶんか

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琉球りゅうきゅう主要しゅよう受到中國ちゅうごく日本にっぽんりょうたね文化ぶんかてき影響えいきょうただし琉球りゅうきゅう文化ぶんかどうしゅう边的民族みんぞくてき文化ぶんか,如大和やまとぞくあさ鲜族臺灣たいわん原住民げんじゅうみん汉族とうゆう一定いってい别,形成けいせい独特どくとくてき文化ぶんか

 
琉球りゅうきゅう宫廷おん御座ぎょざたのし

ざい1537ねんいたり1623ねんあいだなお清王せいおういたりなおゆたかおう統治とうち期間きかん),琉球りゅうきゅう編纂へんさんりょう琉球りゅうきゅう歷史れきしじょうだい一部いちぶ琉歌しゅうおもろさうし》。「おもろ」ざい琉球りゅうきゅうちゅうてき意思いし。《おもろさうし》よしおう組織そしき編纂へんさん收錄しゅうろくりょう琉歌1554しゅ

17世紀せいき期間きかん短詩たんしがたてき抒情じょじょう歌謠かよう琉歌盛行せいこう。琉歌さい常見つねみてき樣式ようしき8,8,8,6てき30おと形式けいしきあずか和歌わか相似そうじ著名ちょめいてき琉歌歌人かじんゆうだか惣慶そけいおや雲上うんじょう忠義ちゅうぎ)、平敷屋へしきやさと之子ゆきこちょうさとしこう受祐玉城たまき親方おやかたあさかおる)、うまこく與那原よなばる親方おやかたりょうのり)、こうくにめずらし本部ほんぶ按司あさすくい)、むかいすぐる東風平こちひらちょうまもる[76]とうじん許多きょた琉歌歌人かじんまた擅長於漢詩かんし和歌わかてき創作そうさくまた吉屋よしやづるあずか恩納おんななべやく生活せいかつざいなおきよしおう時代じだい二人ふたり併稱へいしょうため琉歌てき女流じょりゅう雙璧そうへき」。

琉球りゅうきゅうこくてきまいげきしょうため琉球りゅうきゅう舞踊ぶよう琉球りゅうきゅう舞踊ぶよう起源きげん歡迎かんげい中國ちゅうごくさつふう使てき宮廷きゅうていまい踴「御冠おかんむりせんおどり」。御冠おかんむりせんおどりてきまいしゃみなため琉球りゅうきゅうてき士族しぞく子弟してい琉球りゅうきゅう處分しょぶんためりょうあずか明治めいじ以後いごてき舞踊ぶよう區別くべつ宮廷きゅうてい舞踊ぶようしょうため古典こてん舞踊ぶよう古典こてん舞踊ぶよう包括ほうかつ老人ろうじんおどりわか眾踴さいおどりおんなおどりぐみひとし。1719ねんざいさつふうなおけいおうこれさい時任ときとうおどり奉行ぶぎょういちしょくてきこう受祐(玉城たまきちょうかおる),參考さんこうりょう日本にっぽんてき藝能げいのう創立そうりつりょう琉球りゅうきゅう特有とくゆうてきまいげきくみ[77][78]

1879ねん琉球りゅうきゅう日本にっぽん兼併けんぺい士族しぞく階層かいそう趨於沒落ぼつらく古典こてん舞踊ぶようちゅうてきざつ流入りゅうにゅう民間みんかん民間みんかん舞踊ぶよう誕生たんじょう日本にっぽん昭和しょうわ時期じき舞踊ぶよう開始かいし結合けつごう現代げんだい流行りゅうこう音樂おんがく元素げんそ

古代こだい琉球りゅうきゅうてき宮廷きゅうてい音樂おんがく包括ほうかつりょう在室ざいしつ演奏えんそうてき御座ぎょざたのし和室わしつがい演奏えんそうてき路次ろじたのし主要しゅようざい迎接げいせつ中國ちゅうごくさつふう使ためさつふう使おもてえんじ;另外,ざい琉球りゅうきゅう使者ししゃうえ江戶えどときまたかいため日本にっぽん薩摩さつまはん藩主はんしゅ江戶えど幕府ばくふ將軍しょうぐんひょうえんじ琉球りゅうきゅう古典こてん音樂おんがくゆかりなついさおいさお幸地こうち親方おやかたけんちゅう創立そうりつざい當時とうじ攝政せっしょうこうぞうけんてき大力だいりきせんしるべ琉球りゅうきゅう古典こてん音樂おんがくとく以廣泛傳播でんぱざいなついさおいさお幸地こうちけんただしこれ,其弟子でしさいつて弟子でし澤岻たくし良澤りょうたくもう澤岻たくしおやくも上安かみやすたかし)、こう日長ひなが新里にいさと親方おやかたあさじゅう)、しょう世安よやすあきら喜名きなおや雲上うんじょうめいせんまたたたえあきら喜名きな聞覺)、こうぜん屋嘉やかおや雲上うんじょうあさよせ)、むかいひさし豐原とよはらちょうてん)、うたけいぎょう知念ちねん績高)とうじん繼承けいしょうなみ發展はってんなりため琉球りゅうきゅう音樂おんがくてきいち流派りゅうは——たたえ水流すいりゅううたけいぎょうてき弟子でし丕顯安富祖やふそただしもと)、もうぶんあげ野村のむらやすしちょうまた以改すすむ創立そうりつりょう琉球りゅうきゅう音樂おんがくてきしん流派りゅうは安富祖やふそりゅう野村のむらりゅう[79][80][81]目前もくぜんざいよん琉球りゅうきゅう音樂おんがく流派りゅうはちゅう聞覺りゅうやめしょうほろび;另外兩個りゃんこ流派りゅうはたたえ水流すいりゅう和野わのむらりゅう於1972ねん12月28にちかむ沖繩おきなわけん指定していため無形むけい文化財ぶんかざい

たけ

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ざい古代こだい琉球りゅうきゅういく所有しょゆう金屬きんぞく製品せいひん以當さく兵器へいきらい使用しようれい如劍、やり長刀ちょうとうまんじ釵(ヌンティ,ゆかり漁夫ぎょふてきまた發展はってん而成)、山刀やまがたなぼうつえかい一種いっしゅ漁具ぎょぐ)、かまくわそうふしさんせつひとし。甚至かみたぶさじょう戴的かんざし掃地ようてき掃帚也被とうさく兵器へいきらいよう[82]

 
琉球りゅうきゅう武器ぶき

琉球りゅうきゅうさいこうため人知じんちてき武術ぶじゅつ就是琉球りゅうきゅうしゅまたたたえからあるとうしゅこぶし空手からてどうてき原型げんけい現今げんこんだい部分ぶぶん學者がくしゃみとめため琉球りゅうきゅうしゅゆかり中國ちゅうごく武術ぶじゅつざい琉球りゅうきゅう發展はってん而成てき[83]中國ちゅうごく武術ぶじゅつよし閩人さんじゅう六姓帶往琉球,結合けつごうりょう琉球りゅうきゅう當地とうちいち些格鬥技術ぎじゅつ發展はってんなり琉球りゅうきゅう特有とくゆうてき武術ぶじゅつしゅ後來こうらいとうしゅ發展はってんなりりょう現代げんだいてき空手からてどうこうぶん真壁まかべちょうあらわ)、久川ひさかわひろしたけしげるたち松村まつむらはじめ棍)とう琉球りゅうきゅう武術ぶじゅつ,其中有ちゅううしょうひと曾經はい福建ふっけん武術ぶじゅつためゆうてき甚至どお福建ふっけんふくしゅう切磋せっさ武藝ぶげい

外来がいらいかげ

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琉球りゅうきゅうじん欢在放置ほうちふう獅爺ぞうざい交通こうつうようみちてきみちこう放置ほうちいし敢当[84]饮食方面ほうめん琉球りゅうきゅうじん欢喝めいさけべ泡盛あわもりてきさけかかりしたがえたいこくでんいれてきふけ餾米しゅどもあぶらてきさいさかなどもいのしし蹄,这些习俗受到ふくしゅう文化ぶんかてき影響えいきょう形成けいせいてきあずか日本にっぽん本土ほんどゆう一定いっていぶん别。而琉球りゅうきゅうじん使用しよう日本にっぽん北海道ほっかいどうさんてき昆布こぶ海草かいそうてきいちしゅ),のり受到日本にっぽん本土ほんど文化ぶんかてき影響えいきょう

 
琉球りゅうきゅうこく特有とくゆう樂器がっきさんせん

琉球りゅうきゅうじん使用しよういちしゅめいさけべさんせんてき特有とくゆう古典こてん樂器がっき。三線的原形是从福建传入的さんげんゆかり閩人さんじゅうろくせいおび往琉だま發展はってんなりためさんせん。此後,さんせん於16世紀せいき左右さゆうでんにゅう日本にっぽん九州きゅうしゅう形成けいせい日本にっぽん特有とくゆう樂器がっき三味線しゃみせん

琉球りゅうきゅうてき工藝こうげい受福けんてき影響えいきょう,其染織せんしょく技法ぎほうため紅型びんがた漆器しっきため琉球りゅうきゅう漆器しっきふくしゅう漆器しっきゆう一定いってい关联),とう瓷器ため壺屋つぼやしょう

醫學いがく技術ぎじゅつ

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琉球りゅうきゅうてき醫學いがく受到福建ふっけんてき影響えいきょうよし琉球りゅうきゅう鄰近福建ふっけんしょうしょう日本にっぽん醫師いし通過つうか琉球りゅうきゅうぜん往福しゅうがくゆう醫師いしいんふう不順ふじゅん停留ていりゅうざいりょう琉球りゅうきゅう。如,日本にっぽん越前えちぜんてき名醫めいい山崎やまざききゅう擔任たんにんりょうなおやすしおうてき侍醫じい。這些日本にっぽん醫師いしまたたい琉球りゅうきゅう醫學いがく作出さくしゅつりょう一定いってい貢獻こうけん

ざい琉球りゅうきゅう歷史れきしじょうまた曾湧現出げんしゅついち些著めいてき醫學いがく,其中しょう曾前往中國ちゅうごく學習がくしゅう。1688ねん琉球りゅうきゅう進貢しんこう使者ししゃあきら高嶺たかね德明のりあきざいふくしゅう學習がくしゅうりょう治療ちりょううさぎくちびるてき方法ほうほうなみたい回國かいこくちゅうためおうまごなおえき治療ちりょうりょううさぎくちびる[85][86]1604ねん中國ちゅうごくてき本草ほんぞう綱目こうもくでんにゅう琉球りゅうきゅうかず日本にっぽん。該書たい琉球りゅうきゅう醫學いがくさんせい深遠しんえん影響えいきょうただし本草ほんぞう綱目こうもくちゅう存在そんざいますあやまいん此在1781ねんつぎこころざしぜん潛心せんしん收集しゅうしゅう琉球りゅうきゅう各地かくちてき植物しょくぶつせいなり攜帶部分ぶぶん植物しょくぶつぜん往清あさてき福建ふっけん京師けいし等地とうち,咨詢りょう許多きょたやくこうやくのう,於1785ねん編成へんせいりょう醫學いがく著作ちょさく質問しつもん本草ほんぞうなみ於清あさ出版しゅっぱん。該書來傳らいでんにゅう日本にっぽんたてそく受到こくあい蘭學らんがくかず醫學いがくてき薩摩さつまはん藩主はんしゅ島津しまつ重豪しげひでまとしょう識。1837ねん,《質問しつもん本草ほんぞうざい薩摩さつまはん出版しゅっぱんなみたい日本にっぽん醫學いがくゆうちょ深遠しんえん影響えいきょう[87]琉球りゅうきゅうこくてきさむらいあたまりょ繼續けいぞく渡嘉敷とかしきちかし雲上うんじょうどおりひろし),曾於そお1817ねん1824年間ねんかん兩度りょうどぜん往清あさてき京師けいししたがえ於醫がくちょうかきちょうえいきよしなみ於1832ねんちょなり琉球りゅうきゅうしょく療法りょうほうてき重要じゅうよう指導しどうしょ御膳ごぜん本草ほんぞう》。

此外,根據こんきょたま記載きさい,1763ねん晏孟とく赴閩學習がくしゅう口腔こうくう醫術いじゅつてい明良あきよし湊川みなとがわおや雲上うんじょう曾於そお1679ねん赴閩學習がくしゅうかわ骨相こっそうほう衡達いさむ(1749ねん)、まつひらくてる(1777ねん)、りょおおとりただし(1824ねん)、まつ景林けいりん(1828ねんとうじん,曾先後前うしろまえ往福けん學習がくしゅう內科、外科げか醫術いじゅつ。1848ねんいた閩的進貢しんこう使だんまた曾在ふくしゅう學習がくしゅう防疫ぼうえきてんぎょう痘痂)これほう[88][89]。此外,かえゆうまつけいまきむかい英國えいこくでんきょうはくとくれい學習がくしゅう安全あんぜんあずかぼう天花てんげてき牛痘ぎゅうとう接種せっしゅほう

やくざい1787ねん左右さゆう琉球りゅうきゅう士族しぞく安里あさとしゅうさちこう人稱にんしょう安里あんり製作せいさくりょういち飛行ひこうざい霸東みなみすう公里くりしょてき津嘉山つかざん一帶いったい成功せいこう飛行ひこう[90]

宗教しゅうきょう

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琉球りゅうきゅう人的じんてき宗教しゅうきょう信仰しんこう包括ほうかつ琉球りゅうきゅう神道しんとう日本にっぽん神道しんとう佛教ぶっきょう道教どうきょうまた有人ゆうじん尊崇そんすう基督きりすと宗教しゅうきょう

琉球りゅうきゅう神道しんとう琉球りゅうきゅうじん固有こゆうてき宗教しゅうきょう信仰しんこう包括ほうかつ祖先そせん崇拜すうはい御嶽おんたけ信仰しんこう来訪らいほうしん信仰しんこう龍宮りゅうぐう信仰しんこう東方とうほう信仰しんこういもうとしん信仰しんこう根據こんきょ琉球りゅうきゅう神道しんとうてき說法せっぽう龍宮りゅうぐうざい大海たいかいてき彼岸ひがん大地だいち豐饒ほうじょうあずか生命せいめいてき根源こんげん人死ひとじに,其靈だましいはたわたりいたる龍宮りゅうぐうなりため其肉おやてき守護神しゅごじん守護神しゅごじん定期ていきかいいた其生まえてき居住きょじゅういのり禱人あいだてき豐饒ほうじょう與平よへいやすよし此像中國人ちゅうごくじんいちよう琉球りゅうきゅうじんまたたい逝去せいきょてき祖先そせんじゅうふん尊敬そんけいしつらえぱい以祭琉球りゅうきゅうじんたい天然てんねんてき山川やまかわ泉水せんすい森林しんりん格外かくがい崇敬すうけいため御嶽おんたけ信仰しんこう琉球りゅうきゅうじんたい御嶽おんたけてき信仰しんこうどう福建ふっけんじん古代こだい日本にっぽんたい土地とちしんめぐみ须神)てき信仰しんこう相似そうじ[91]

琉球りゅうきゅうじん尊敬そんけい女性じょせいまた信仰しんこういもうとしん祭司さいしみこただのうよし女性じょせいとうにんたたえためしゅくおんな民間みんかん靈媒れいばい[92]いん此早しゅくおんなてき勢力せいりょく很大,甚至おびえいた國王こくおうてき統治とうち地位ちい[93]なおおう即位そくい實行じっこう祭政さいせい一致いっち政策せいさくたいしゅくおんな制度せいど進行しんこうりょう改革かいかくはたしゅくおんなおけ於國おうてき統治とうちした

ざいだいしょう王朝おうちょう時期じきくびさとじょうしつらえゆう聞得大君おおきみ御殿ごてんくびさと殿どの真壁まかべ殿どの殿どのしょうため一本いっぽんしゃさん末社まっしゃ」。聞得大君おおきみ御殿ごてんくびさとみぎわ良次りょうじまち支配しはい全國ぜんこく各地かくち末社まっしゃてきしゅくおんな殿どの內。

聞得大君おおきみため王國おうこく高級こうきゅうしんおんなさんじゅうさんくんこれしゅよし國王こくおう任命にんめいてきさい高級こうきゅうしんおんな,其宗きょう地位ちいきょ國王こくおうした。聞得大君おおきみゆかりぜん王妃おうひとう王族おうぞく女性じょせいちゅう選出せんしゅつなみ就職しゅうしょく。聞得大君おおきみ御殿ごてんてき神體しんたいつかまつこころざし御前ごぜん」、「缽之御前ごぜん」、「金之かねゆきこころざし御前ごぜん」,ため國家こっか安泰あんたい海路かいろ安全あんぜん、五穀豐登等祈禱。[94][92]

日本にっぽん文化ぶんかてき影響えいきょう琉球りゅうきゅうじんまた信仰しんこう日本にっぽん神道しんとうなおかねぶくおう在位ざいい期間きかん,於若狹わかさまち建立こんりゅうてんあきら大神おおがみてき神社じんじゃ,此為史書ししょ上所かみところ記載きさいてき琉球りゅうきゅうだいいち神社じんじゃ[95]ざい沖繩おきなわ本島ほんとう,曾建ゆうなみ上宮かみみやおきみや識名しきなみや普天ふてん間宮まみや末吉すえきちみや八幡宮はちまんぐう天久あめくみや金武かなたけみやはち神社じんじゃそく琉球りゅうきゅうはちしゃ」。其中,八幡宮はちまんぐうまつ八幡はちまん大神おおがみ,其他ななしゃまつ熊野くまの權現ごんげんなみ上宮かみみやしょうため琉球りゅうきゅうだいいち神社じんじゃ

やくざいえいおう時期じき(13世紀せいき),そうじんぜんかん漂泊ひょうはくいたり霸。えいおう尊信そんしんぜんかん,於浦添うらぞえじょう以西いせい建立こんりゅう極樂寺ごくらくじ相傳そうでん此為琉球りゅうきゅう佛教ぶっきょうはじめ[96]よりどころ中山なかやまつたえしんろく記載きさい琉球りゅうきゅう人的じんてき佛教ぶっきょうぶんため臨濟宗りんざいしゅう真言宗しんごんしゅうりょうたね[97]此後,察度おう年間ねんかん日本にっぽんそうじんたよおも法印ほういんらい琉,於波上山かみのやま建立こんりゅう護國寺ごこくじ[98]なお泰久やすひさおう時期じき日本にっぽん京都きょうと高僧こうそうあくたかくれらい琉。あくたかくれ琉球りゅうきゅう臨濟宗りんざいしゅうてき開山かいさん鼻祖びそ,於1492ねん創建そうけん圓覺寺えんかくじ[99]圓覺寺えんかくじため琉球りゅうきゅうだいいち巨刹きょさつ繁榮はんえいいちただし不幸ふこう於1944ねん沖繩おきなわとう戰役せんえきちゅう毀於戰火せんか昔日せきじつ琉球りゅうきゅう歷代れきだい國王こくおうてき肖像しょうぞうみな供奉ぐぶ於圓覺寺かくじ內。[100]ざいだいしょう王朝おうちょう時期じき圓覺寺えんかくじ天王寺てんのうじ天界てんかいてら併稱へいしょうため三大寺さんだいじ。此外,霸的たかしもとてら昔日せきじつまた十分じゅうぶん有名ゆうめい

琉球りゅうきゅうじんまた信仰しんこう道教どうきょうせき琉球りゅうきゅうじんなん開始かいし尊崇そんすう道教どうきょう歷史れきしじょうぼつ有明ありあけぶん記載きさいじょ葆光1719ねんさつふうなおけいおうてき副使ふくし,其所ちょてき中山なかやまつたえしんろくちゅう記載きさい琉球りゅうきゅうじんゆうまつりまつり掃墓てき習俗しゅうぞく[101][102]證明しょうめいざい18世紀せいきぜん琉球りゅうきゅうじんやめ開始かいし信仰しんこう道教どうきょう清朝せいちょうてきさつふう使ちょうまなぶれいのりたたえざい琉球りゅうきゅうこく存在そんざいゆうさんきよし殿どの[103]ざい後來こうらいゆかり於與ちゅう國交こっこう往日おうじつえき頻繁ひんぱん,受中國ちゅうごく福建ふっけん一帶いったいすいしゅてき影響えいきょう道教どうきょうあずか琉球りゅうきゅうてきいち些民あいだ信仰しんこうしょう結合けつごうざい婦女ふじょあいだこう傳播でんぱしょ如對ふくしゅう地區ちくてき拿公拿婆臨水夫人ふじんちん尚書しょうしょ,以及いずみ地區ちくてきしんとう航海こうかいしんてき信仰しんこうそうまましぶく建水けんすいしゅたいいたりょう琉球りゅうきゅう[104]琉球りゅうきゅうじんてき媽祖信仰しんこうそくよし明朝みんちょう初年しょねんてき閩人さんじゅう六姓帶到琉球的。[105]琉球りゅうきゅうこく共有きょうゆう上下じょうげりょうてんみや。其中,上天じょうてんみやざい久米くめむらしもてんみやざい霸港てき天使てんしかん附近ふきん[106]琉球りゅうきゅうてき道教どうきょうしん蔡姑ばばまた受到琉球りゅうきゅう人的じんてき尊崇そんすう

1622ねん琉球りゅうきゅう歷史れきしじょうてきだいいちつてきょうすわ南蠻なんばんせんらいいた八重山やえやまざい當地とうち進行しんこうでんきょうよし當時とうじ日本にっぽん江戶えど幕府ばくふ實行じっこう禁教きんきょう政策せいさく作為さくいいさおこくてき琉球りゅうきゅうとくしたれい禁教きんきょう要求ようきゅう琉球りゅうきゅうみん眾對傳播でんぱ信仰しんこう基督きりすと宗教しゅうきょうてきじん進行しんこうけん舉揭はつ。這一禁教行動一直持續到了19世紀せいき中葉ちゅうよう。1844ねんほうこくでんきょう主教しゅきょうすわほうこく海軍かいぐんてき軍艦ぐんかんらいいた琉球りゅうきゅう要求ようきゅう自由じゆうでんきょうざい軍艦ぐんかんてき壓力あつりょくなおそだておうせり同意どういりょうでんきょうてき要求ようきゅう。1846ねん,另一位匈牙利籍的傳教士はくとくれいすわ英國えいこく軍艦ぐんかんらいいた琉球りゅうきゅうざい琉球りゅうきゅうおうてき許可きょかざい護國寺ごこくじ居住きょじゅうなみ進行しんこうでんきょうはくとくれいざい琉球りゅうきゅう期間きかん學會がっかいりょう琉球りゅうきゅう使用しよう琉球りゅうきゅう翻譯ほんやくりょう新約しんやくてき福音ふくいんしょ後來こうらい香港ほんこん出版しゅっぱん。這為基督きりすと宗教しゅうきょうざい琉球りゅうきゅうてき傳播でんぱおこりいたりょう重要じゅうよう推動作用さよう[107]

注釋ちゅうしゃく

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  1. ^ しょうためひだりもんみなもと日本にっぽんなかてきともえ纹」

参考さんこう文献ぶんけん

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引用いんよう

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  8. ^ 中山なかやま·首卷しゅかん》:「さんじゅうろくとう……しゅうとぞくさけべ德島とくしま】、よしろんぞくさけべ與論よろん】、えいりょうぞくどう】、よしりょぞくさけべあずかりょ】、がらすやつぞくさけべ沖野おきの】、けいりょあさぞくさけべかきあいだ】、がらすあさぞくさけべ大島おおしま】、かいぞくさけべおにかい】。」
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  75. ^ 中山なかやまつたえしんろく·まきろく》:「琉球りゅうきゅう字母じぼよんじゅうゆうななめい魯花,舜天王しゅんてんのうはじめせいあるうんそく日本にっぽん字母じぼあるうん中國人ちゅうごくじん省筆しょうひつえきあかつきしゃ教之のりゆきためきり音色ねいろ本字ほんじ也。……ほん國文こくぶんうつりちゅうまたさんよう中國ちゅうごくいち上下じょうげみな國字こくじ也。」
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  77. ^ こうせい邊土名へんとな)·じゅうせいあさかおる》:かんひろしじゅうななねんつちのえいぬうるうはちがつじゅうろくにちためさつふう天使てんし宴席えんせきじょきょうごとたてまつうまためおど奉行ぶぎょう翌年よくねんおのれなつさつふう天使てんし賁臨ひりん中秋ちゅうしゅうえんあきられいさくおど自重じちょうえんたてまついのち掇取本國ほんごく往古おうこ故事こじ,以備おどけせきたまこく故事こじさく戯者たわけものしたがえ此始矣。
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  91. ^ じょ葆光《中山なかやまつたえしんろく》204ぺーじ:「國中くになか凡叢こうむみつたんかきよんしゅうゆう小門おかど內拒しゃみなめいだけ,如中こく土地とちしんそんむらみなゆう。」
  92. ^ 92.0 92.1 ちんただし使つかい琉球りゅうきゅうろくだい58ぺーじ:「ぞくかしこしんかみみな以婦人為じんいしかばね,凡經二夫者則不尸矣。……おもんみ守護しゅご斯土,以國おう敬之たかゆき,而國じんかしここれ也。」
  93. ^ しゃ必震,《中國ちゅうごくあずか琉球りゅうきゅう》,113いたり114ぺーじ
  94. ^ 夏子なつこ使つかい琉球りゅうきゅうろく》256ぺーじいたり257ぺーじ:「國中くになか敬神けいしん神有かみあり女王じょおうしゃ,乃王むねあねいもうとぞくよしかみせん以相だいせんかみげんおくにゅうおんな王宮おうきゅうとげ倏然靈異れいい,雖適はいしゃまたさいごう焉。おもんみこくとう播種はしゅさきいちにちおうまい其宮はい灶,女王じょおう以酒觴之;あまりまたあい也。五穀ごこくなり女王じょおう渡海とかいいたりあなたち佳山かやま成熟せいじゅくしゃすう嚼之,かくやま乃敢穫。わか女王じょおう嘗而さきしゃしょくたて斃。」
  95. ^ 中山なかやま·まき·なおかねぶくおう》:本年ほんねんけいたいねん),使つかい請封。とき以那霸阻うみ往來おうらい不便ふべんいのちこくしょうふところちくちょうにじつつみ。(安里あさとはしいたるよしみあさきょう曰長にじつつみちく畢,ふところかえしすなおけん神社じんじゃ并寺,めい其寺曰長壽ちょうじゅ。(しゃ及寺俱今そん
  96. ^ 中山なかやま·まきさん·えいおう》:かんじゅん年間ねんかん王命おうめい輔臣けんてら于浦添城西にしめい曰「極樂ごくらく」。さきいちそうめいぜんかん不知ふち何處どこにんぶね飄至霸。王命おうめい構精しゃ浦添うらぞえめい極樂寺ごくらくじれいぜんかん禪師ぜんじきょ焉。我國わがくにふつそうはじめ也。(歷年れきねん久遠くおんてらすんであら壞,こんそん焉)
  97. ^ じょ葆光《中山なかやまつたえしんろく》217ぺーじ:「くに道士どうししゃくゆう臨濟宗りんざいしゅう真言しんごんきょうしゅ
  98. ^ 中山なかやま·まきさん·察度おう》:本年ほんねんひろしじゅうななねんはちがつじゅういちにち護國寺ごこくじ開山かいさん住僧じゅうそうよりゆきじゅう法印ほういん入滅にゅうめつぶたよりゆきじゅう,乃日本人にっぽんじん也。なんねんいたりこく,以建てら於波上山かみのやまこん不可ふかこうしかひろしじゅうななねんよりゆきじゅう入滅にゅうめつのり乃朝すえある明朝みょうちょうはつ。其至こく也無うたぐ焉。
  99. ^ 中山なかやま·まきろく·なおおう》:(弘治こうじねんみずのえ王命おうめい輔臣創建そうけん圓覺寺えんかくじさんねん而成)なみ荒神こうじんどうのべろうそうあくたかくれため開山かいさん住持じゅうじ
  100. ^ 中山なかやま·まきろく·なおおう》:(弘治こうじななねんきのえとら王命おうめい輔臣構宗廟そうびょう於圓覺寺かくじ方丈ほうじょう右側みぎがわいいあきらどう。(たてまつ正統せいとうあきらきよししょ神主かんぬし而祭焉。)
  101. ^ じょ葆光《中山なかやまつたえしんろく》219ぺーじいたり221ぺーじ
  102. ^ しゃ必震《中國ちゅうごくあずか琉球りゅうきゅう》117いたり118ぺーじ
  103. ^ ちょうまなぶれい中山なかやまおさむりゃくだい14ぺーじ:「霸之東北とうほく三里さんりゆうさんきよし殿どの
  104. ^ しゃ必震,《中國ちゅうごくあずか琉球りゅうきゅう》,だい71ぺーじ
  105. ^ たま》,角川書店かどかわしょてん出版しゅっぱんだい169ぺーじ:(永樂えいらくじゅうねん)「むかし閩人うつり居中きょちゅうやましゃ創立そうりつてんきさきびょうほこらためどういのりぶく。」
  106. ^ 中山なかやまつたえしんろく》44いたり45ぺーじ:「琉球りゅうきゅうてんみや有二ゆうじいちざい霸,曰下てんみや天使てんしかんひがしもんみなみむこう。……上天じょうてんみやざい久米くめむら。」
  107. ^ [19世紀せいき琉球りゅうきゅう伝道でんどうしたえい宣教せんきょう. [2010-07-18]. (原始げんし内容ないようそん于2021-02-11).  19世紀せいき琉球りゅうきゅう伝道でんどうしたえい宣教せんきょう]

らいみなもと

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 新元しんもと/まき253》,出自しゅつじ柯劭忞新元しんもと
 清史きよし稿こう/まき526》,出自しゅつじちょうなんじたつみ清史きよし稿こう
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