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曹謹

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曹謹
曹謹

おおとりさん曹公びょうてき曹公神像しんぞう

だいきよし誥授朝議ちょうぎ大夫たいふすすむ授中大夫たいふしょう戴花翎臺灣たいわん淡水たんすいちょうどう
せきぬき 河南かなんかわ內縣いま沁陽
ぞく かんぞく
原名げんめい 曹瑾
ごう ふところ璞,さらふところしらきごうていあん
出生しゅっしょう いぬいたかしじゅうねんきゅうがつじゅうろくにち
(1787ねん11月5にち
河南かなんかわ內縣沁陽
逝世 みちこうじゅうきゅうねんうるうよんがつじゅうはちにち(1849ねん6がつ8にち)(62さい
河南かなんかわ內縣いま沁陽
はかそう かわ內縣城南しろみなみ關東かんとうつくり
配偶はいぐう おう淑人よしと
  • わらわ
おやぞく 祖父そふ:曹顯ぶく[註 1]
出身しゅっしん
經歷けいれき
  • ちょく隸正定府じょうふ
    • しょ平山ひらやまともけん よしみけいじゅうねん(1820ねん)-どうこう元年がんねん(1821ねん
  • ちょく隸定しゅう
    • しょきょくけん どうこうねん(1822ねん
  • ちょく隸深しゅう
    • しょにょうけん どうこうさんねん(1823ねん)-どうこうよんねん(1824ねん
  • ちょく隸河あいだ
    • しょやすし津知つちけん みちこうよんねん(1824ねんがつどうこうねん(1825ねん
  • ちょく隸廣たいら
    • けんけん どうこうねん(1825ねんじゅういちがつどうこうはちねん(1828ねん[註 5]
    • けんけん どうこうきゅうねん(1829ねん[註 6]
    • けんけん どうこうじゅうねん(1830ねんがつどうこうじゅうねん(1832ねんなながつ[註 7]
  • 遵化ちょく隸州
    • 豐潤ほうじゅんけん どうこうじゅうねんがつじゅうきゅうにち(1832ねん6がつ17にち)-どうこうじゅうねん(1832ねんなながつ[註 8]
  • 福建ふっけんのべたいら
    • しょはたらくけん どうこうじゅうよんねんじゅういちがつはちにち(1834ねん12月8にち)-どうこうじゅうねん(1835ねんがつ[註 9]
  • 福建ふっけんふくしゅう
    • しょ閩縣けん どうこうじゅうろくねんがつにち(1836ねん3がつ18にち)-どうこうじゅうろくねん(1836ねんきゅうがつ[註 10]
    • しょふくしゅう海防かいぼうどう どうこうじゅうろくねん(1836ねんはちがつどうこうじゅうろくねん(1836ねんじゅういちがつ
  • 福建ふっけん臺灣たいわん
    • おおとりやまけん どうこうじゅうななねんいちがつじゅうにち(1837ねん3がつ1にち)-どうこうじゅういちねんなながついちにち(1841ねん8がつ17にち
    • 淡水たんすいちょうどう どうこうじゅういちねんなながつじゅうろくにち(1841ねん9がつ11にち)-どうこうじゅうねん(1845ねんじゅうがつ[註 11]

曹謹(1787ねん11月5にち—1849ねん6がつ8にち[3]),原名げんめいふところのちさらめいさらふところしらきごうていあん清朝せいちょう政治せいじ人物じんぶつ河南かなんかわ沁陽にん歷任れきにんちょく福建ふっけん臺灣たいわん等地とうちけん擔任たんにん福建ふっけん臺灣たいわんおおとり山縣やまがたけん開鑿かいさくりょう曹公圳擔任たんにん淡水たんすいどうとき,曾率りょうへいごういさむ擊退げきたい英國えいこく船艦せんかん,此外かえゆう許多きょたせい績。こう遭英かた控訴こうそ臺灣たいわんみちおかせこうころせせん俘,だつはな,註銷しょますかんかい[4][5]みちこう廿にじゅうねん(1845ねんじゅうがついんびょう乞歸,かえしかい故里ふるさと,於家ちゅうとおることぶき63さい[6]。其事蹟じせき收入しゅうにゅう清史きよし稿こう》循吏でんちゅう[7]

生平おいだいら

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曹謹於いぬいたかしじゅうねんきゅうがつじゅうろくにち(1787ねん11月5にち出生しゅっしょう[8]成長せいちょう過程かてい鮮為人知じんちただ師友しゆう記載きさい」、「其母孀守」[註 12]二十歲はたち參加さんかふところけいてきわらわためしこうため河南かなんがくせいあわびかつらほしところしょうことなみたい往學使いん讀書どくしょ[2]よしみけいじゅうねん(1807ねん高中たかなかちょうしげる河南かなんさとためしかいもとただしれいかいためし屢屢くじけはい

よしみけい廿にじゅうねん(1817ねん)「だい」,曹謹れつ一等いっとう候補こうほけんくじぶんちょく[1]れきかんちょく平山ひらやまきょくにょうやすし等地とうちけん[註 13]しょにょうけん當地とうち正因まさよりすいひでりしょうつぎ,曹謹けい胥吏おやおとずれ查災じょうなみ受災情況じょうきょうきゅう救濟きゅうさい為當ためとうみん眾稱どうざいしょやすし津知つちけん整頓せいとん當地とうち治安ちあんあきら顧孤まずししゃとげちょく隸總とく蔣礪どうしょう[6]みちこうねん(1825ねんけんけん[7]にん內頗ゆうせい績,ひょうためけつごく如神,曾整おさむぶんびょうあずかしろ隍廟[6]みちこうじゅうねん(1832ねん),調しらべにん豐潤ほうじゅんけんにん解決かいけつ無賴ぶらい打算ださん趁當いんかけおさむ米價べいかこぼしあがとき囤積糧食りょうしょくてき事件じけんいんけんしつ察邪きょう在京ざいきょうあずか摯友棠階、おう鉁談論理ろんりがく修養しゅうよう身心しんしん[註 14]みちこうじゅうよんねん(1834ねん)捐復原ふくげんかん,揀發福建ふっけんゆだねしょはたらくけんまたよし平山ひらやまともけんにん內,しつ察邪きょうしょくしょはたらくけんどもはちじゅうにちはなれときみんさえぎみち挽留不可ふかすうけい[2]おく引見いんけんくだきゅう留任りゅうにんちょ仍以けんようはつかい福建ふっけん[6]。臨行ぜん摯友棠階すすむつとむ曹謹うん:「此番赴閩,えきとう堅持けんじ初志しょし,勿嫌清貧せいひん。」[2]

みちこうじゅうろくねん(1836ねんがつしょ閩縣けん,八月兼署福州府海防同知[6][2]初任しょにん曹謹めん見當けんとうてきぬのせい使ちょうよわい表示ひょうじ願事ねがいごと民事みんじきゅうおうせいもとめところ闕」。「けつごく催科」、「きょうおくちょう吏者」以體恤百姓ひゃくしょうてき財力ざいりょくものりょく當時とうじ閩縣あずかこうかん分別ふんべつ辨理べんり總督そうとく官署かんしょちゅう所用しょようてき磁器じきほうかんはないたり洋銀ようぎんいちせんえん,而閩けんただ僅僅きんきんはないちひゃくえん官署かんしょもんてきじんおさむなみ故意こいしょうしょかいてき磁器じき搗毀。曹謹いん而杖總督そうとく官署かんしょもんてき廚役。なみおやふところ器物きぶつたんよりどころ各種かくしゅわんてき樣式ようしきおやてい新任しんにん按察使ちょう澧中。みとめためろんこうかんしょ辦理はな多少たしょうぜにみとめため自己じこしょうつしてきたんよりどころ數量すうりょう,就足以供廚房ちゃ灶之ようなみうん:「わか必求且精,ただゆうこれ於民,卑職しょ敢出也。」いん而得いたりょう閩縣士民しみんてきしょう頌。ふくしゅうやな拱辰评价曹謹到:「おさむわれ閩,ゆう循聲,ためわれ邑近らいだい一廉いっかどのう吏。」[9][註 15]ふくしゅう大旱たいかん福建ふっけんじゅんなでもとしつらえだんもとむむかいはい鼓山つづみやまかまへん觀音かんのんいのりふくしゅうしょうじょう大小だいしょう官吏かんりざいまちじょう跪拜きはい迎接げいせつどく曹謹いちにん屹立きつりつはいみとめため這尊かまへん觀音かんのんかんかたまつてんてき神祇じんぎ所以ゆえん堅持けんじはい[2]

みちこうじゅうななねん(1837ねんいちがつじゅうろくにち,曹謹抵達おおとりさん擔任たんにんおおとり山縣やまがたともけんれいかねもん奇士きしはやしいつきうめため幕僚ばくりょううえにんはつくだりきよしそうれんかぶと[10]」,緊急きんきゅう招募ごういさむ,交由はやしいつきうめせめだんねりなみ且操ねりいたはん個月かげつ,捉到沈知事件じけんおおとり山賊さんぞくしゅりゅうあいせき大山おおやま。曹謹憂慮ゆうりょ埤頭じょうてき安危あんきざいはやしいつきうめてきぶんまわし建議けんぎおおとりさん新城しんじょうぞう築城ちくじょうろうろく砲臺ほうだい、濬濠みぞ,以增牆一せんさんひゃくよんじゅうたけ[9]みちこうじゅうはちねん(1838ねんきゅうがつじゅうにちたいおおとり山縣やまがた匪徒ひとちょうみつぐとうすうじゅうにんおこり謀反ぼうほん,搶擄殺人さつじんまた即時そくじ剿平。とき值鳳山平やまひらげんいぬいひでり幕僚ばくりょうはやしいつきうめ建議けんぎひらけ圳引しも淡水たんすいけい即今そっこんだかへいけいみず灌溉おおとりさん平原ひらばら高雄たかお平原へいげん),才能さいのうかいおおとりさんいぬいひでりてき問題もんだい[2]じゅうななねんあきどうこうじゅう八年冬鳳山水利完工,曹謹じょうてい臺灣たいわんどうじゅうきゅうねんはる臺灣たいわんどう姚瑩いのちくまいちほん巡視じゅんしおおとりさん水利すいりくま一本いっぽんおう百姓ひゃくしょうてき請求せいきゅう命名めいめいため曹公圳」,なみ撰文せんぶん〈曹公圳記〉。にん內又捐修おおとり山文やまぶんびょう,飭令かく鄉里きょうり設立せつりつ學習がくしゅうこうけい》、《小學しょうがく》;でん孩童如能こう誦給ようぜに月餅げっぺいなりわらわのうけんえきけい》、《しゅちゅう》,また分別ふんべつきゅう賞賜しょうしざいおおとりさん淡水たんすいこう推基そう教育きょういく,閩撫ひのとあきらそう曰:「海外かいがい讀書どくしょ此始」。幕僚ばくりょうじょりんじゅうめそとかえれい聘侯かんじん蔡徵はんだいけんおもこうおおとりただし書院しょいん[9]あわきたぶんかぶと學海がっかい書院しょいんいんため種種しゅじゅてき原因げんいん始終しじゅうのうたてしげるいちちょく拖到どうこうじゅうさんねん(1843ねん)曹謹捐俸ぞくなり。此外每月まいつきはついちじゅう五前往的明倫堂,せんこうひじりさとし教化きょうか百姓ひゃくしょうまたゆうこくあたい賤,農民のうみんてき生活せいかつ以為まましおさむおおとり山倉やまくら廒以貯藏ちょぞう[2]よしせい卓越たくえつみちこう廿にじゅうねん(1840ねんじゅういちがつじゅう一日奏升淡水同知[2]みちこう廿にじゅういちねん(1841ねん)七月初一卸任鳳山知縣。離任りにんまえおおとりさん北部ほくぶ大旱たいかんしょくとしみつぎせいていらん興隆こうりゅう里人さとびと)、せいてい宣治のぶはる赤山あかやまさとひと開鑿かいさくしん圳,宣治のぶはるせきろうなりやましやまいかわしょく其弟ぞうせいせんこうぞく成之しげゆきみちこう廿にじゅうよんねん(1844ねん完工かんこう,仍命名めいめい「曹公しん圳」[11]

曹公びょうせいてき曹公圳
みちこうじゅうよんねん(1844ねんじゅうがつ淡水たんすいなでみんどう曹謹しょ頒示〈すすむちゅういずみ和睦わぼく〉(中港なかみなと慈裕みやくら

みちこう廿にじゅういちねん(1841ねんなながつじゅうろくにち。曹謹せっがえ范學つね擔任たんにん台灣たいわん淡水たんすいなでみんどう[12]於上にん該年きよし查戶こう組織そしきごういさむ隔年かくねんまた淡水たんすいちょうじょうそとちくりょう一圈土城以強化城池防禦。以艋舺たけ塹兩營防えびすてき營兵おごたて怠惰たいだきょ耗經つね鬧事。曹謹みとめため浪費ろうひ百姓ひゃくしょうてきあせぜにまた無能力むのうりょく保衛やすえ人民じんみん。於是上書うわがき臺灣たいわんどうみちいん姚瑩建議けんぎ以鄉いさみだいぼうえびすへい。遭姚瑩「いむ批駁飭」[2]鴉片あへん戰爭せんそう期間きかん,曹謹先後せんごりつへいごういさむ參與さんよ攻擊こうげきえいかんおさめしかたちごう(HMS Nerbudda,舊稱きゅうしょうHMS GoshawkえいHMS Goshawkあずかおもねおんごう(HMS Brig Ann),成功せいこうてき完成かんせい任務にんむみちこう廿にじゅうねん(1842ねんよんがつじゅう六日內閣奉上諭予以嘉勉,論功ろんこう以知ますようこれさらしょうはなしか而,ざい鴉片あへん戰爭せんそう結束けっそくてきみちこう廿にじゅうさんねん(1843ねんさんがついんため英國えいこくひかえつげ當時とうじ臺灣たいわん鎮道おかせこうころせ俘,曹謹だつはな翎,註銷しょますかんかい[7][1][5]

みちこう廿にじゅうよんねん(1844ねんはちがつはつろくにちあきら發生はっせい漳泉械鬥事件じけん」,曹謹听聞きさき详细やめ蔓延まんえんいたりよしみよしよし于担こころ械鬥逐漸蔓延まんえんいたり淡水たんすいたてこくそくゆびたけしいさむかずたけゆうげき安定あんていくにかくおびへいぶんちゅうもり淡水たんすいちょうかく要路ようろいむ查漳いずみ匪徒ひとなみ連夜れんやてき趕到あきらあずか淡水たんすいしょう臨的大甲おおかぶと一帶いったいちゅう紮,并安なで百姓ひゃくしょう事件じけんひらいきこれいた臺灣たいわんてきぞくぐん分類ぶんるい械鬥嚴重げんじゅう在中ざいちゅうこういまなえくりけんたけみなみ)慈裕みやりつちゅう壠泉漳和睦わぼく〉。希望きぼう漳、いずみ、粵人とうぞくぐんのう和睦わぼくしょうしょよし提出ていしゅつろん出身しゅっしんせきぬきためなにただよう居住きょじゅう臺灣たいわんてきじん,就是臺灣たいわんじん希望きぼう大家たいかのうぶん彼此ひし和睦わぼくしょうしょ[9]

こういんどうこうじゅうよん(1844ねんひらいき械鬥與緝捕うみとうこれこうしょう戴花翎,なみ以海疆知。於道こう廿にじゅうねん(1845ねんじゅうがつつげびょうかえしきょう於道こう廿にじゅうきゅうねんうるうよんがつじゅうはちにち(1849ねん6がつ8にち在家ありいえちゅうざい咸豐ねんろくがつじゅうよんにち(1852ねん8がつ9にちゆかり次子じし曹榕はたあずか同年どうねん逝世てき長子ちょうし曹檍やすそう故鄉こきょう城南しろみなみふんつくりこん河南かなん沁陽みなみもんがい東側ひがしがわ),なみよし摯友棠階せんうつし墓誌ぼしめい[1][4][7][6]

百姓ひゃくしょうてきふところおもえ

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高雄たかおおおとりさんてき曹公びょう

曹謹ぜんまち百姓ひゃくしょう百姓ひゃくしょう擁護ようご離任りにんはたらく、閩縣、おおとりさん淡水たんすいつかまつしん百姓ひゃくしょうさえぎみち泣送、わだちよじながえおおとりさんさらはなむけしゃいたりすうせんにん」,ごうしょう臺灣たいわん史上しじょう空前くうぜんしょゆうぶんかぶと書院しょいん學海がっかい書院しょいんかんほうりひさし詩集ししゅうひゃくことぶきろく》以歌頌其德政とくせい[2]あずかのち來任らいにん內操ろう致死ちしなみでんためしんたけじょう隍的曹士かつら並稱へいしょうため淡水たんすい前後ぜんこう曹」。[註 16][12] ひらきだい進士しんしていようすずとう曾經迭次稟請りんせいまつ曹謹、曹士かつらにゅうまつ淡水たんすいちょうめい宦祠,ただしひとしじゅんぎょう。咸豐ねん(1855ねん淡水たんすいてき士民しみん百姓ひゃくしょうさきはた兩人りょうにんにゅうまつ淡水たんすいちょうじょう內,あきらこころざし書院しょいん左側ひだりがわてきけいぎょうどう[註 17]咸豐ななねん(1857ねん),紳士しんしもとちょうえいとうはたまつどう曹謹、曹士かつらてきけいぎょうどう改稱かいしょうため德政とくせいほこら[16][註 18]。咸豐じゅうねん(1860ねんみなみ臺灣たいわんおおとりさん士民しみんざいおおとりただし書院しょいんあたまもん內左ほとりけん曹公ほこら祭祀さいし[11]どうろくねん(1867ねんちょうしんひね維英とう請曹謹與曹士かつらなみまつめい宦祠,じゅん[16]ひかりいとぐちねん(1876ねん福建ふっけんじゅんなでちょうにちあきら奏請そうせいはた曹謹いれまつ淡水たんすいちょうめい宦祠」[17]

にち時期じき,曹謹修築しゅうちくてき曹公圳等功績こうせきため臺灣たいわん總督そうとく兒玉こだま源太郎げんたろうところ肯定こうてい明治めいじさんねん(1900ねん兒玉こだま巡視じゅんしおおとりさんおおとりただし書院しょいんあらためためだいみなみ衛戍えいじゅ病院びょういんおおとり山分やまわけいん。「曹公ほこらやぶきゅう祭祀さいし中斷ちゅうだん兒玉こだまおうおおとりさん耆老てき請求せいきゅうとげ捐款贊助さんじょせいおさむなみ恢復かいふく曹公ほこらてき祭祀さいし明治めいじよんじゅうよんねん(1911ねんたいみなみちょう於鳳やま停車ていしゃじょういまおおとり山車だし附近ふきんけんしんてき曹公ほこらゆかり該廳土木どぼくがかり設計せっけい[18],曹公ほこら於該ねん8がつ10日とおか竣工しゅんこう,於11がつ1にち舉行落成らくせい大典たいてんあずか大祭たいさい原本げんぽん於農れき九月二十六日舉辦的祭典後來也改到11がつ1にち[3]明治めいじよんじゅうよんねん(1911ねんてき參拜さんぱいしゃだかたち2000じん[4]。此外臺灣たいわん總督そうとく佐久間さくまひだりうまふとしまたおくゆう「曹公ほこら」匾額[19]

大戰たいせんためねん曹謹,じょ在民ざいみんこくよんじゅうはちねん(1959ねんしつらえ曹公こくしょうがい,1971ねん高雄たかおのう水利すいりかいまたせいおさむ曹公ほこら後來こうらいざい1992ねんはやしえん警善どうでんたまみかどくだむねはた曹公ほこらますかくためびょうとげざい該年11がつ1にちはた曹公ほこらさらめいため曹公びょう並立へいりつ神像しんぞう祭祀さいし(此前僅供奉ぐぶ長生ちょうせい祿ろく[4],1999ねん11月1にち神像しんぞう曾在おおとりさん地區ちくめぐ[19]。而在1998ねん8がつ高雄たかおおおとりさんてきぶん工作こうさくしゃ與河よこうみなみしょう沁陽展開てんかい互動中華人民共和國ちゅうかじんみんきょうわこく方面ほうめん開始かいしゆう大量たいりょうせき於曹謹的文章ぶんしょう出現しゅつげん,此外近年きんねん修復しゅうふくりょう於1960年代ねんだい文化ぶんかだい革命かくめいちゅう遭到破壞はかいてき墳墓ふんぼ[20]。2003ねんりょうきしてき國立こくりつ國光こっこう劇團げきだんげきたい與河よこうみなみしょうていしゅうげきいん合作がっさく演出えんしゅつ《曹公外傳がいでん[21]

たいてつおおとり山車だしまえてき命名めいめいため曹公きのねん曹謹[22]。曹公びょう也位於曹こう路上ろじょう

民間みんかん傳說でんせつ

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ざい臺灣たいわん高雄たかおおおとりさんてき赤山あかやま地區ちくゆう「曹公開こうかい圳與りゅうはは鬥法」あずか赤山あかやまいずる皇帝こうていてき傳說でんせつ前者ぜんしゃ大意たいいせつ曹謹ざいりゅうのどやま一帶發現挖好的圳路隔天會復原,後來こうらい發現はつげんりゅうははざい阻擾,なみ得知とくちはい牠的方法ほうほう,而後とげやぶりゅうははほうじゅつ完成かんせい工程こうていりゅうのどやまてき風水ふうすい也受到影響えいきょう後者こうしゃそく傳說でんせつざいりゅうのど山上やまかみゆう棵大じゅよりどころせつちょう一百根枝條後赤山地區便會出皇帝,ただしざいちょういた九十九根時被曹謹砍去一根枝條並將枝條燒毀,大樹たいじゅいん而枯,而赤山あかやま也無ほう皇帝こうてい[4]兩者りょうしゃ傳說でんせつひとしためきょうかんはい地理ちり[註 19]類型るいけいてき傳說でんせつ[4]

相關そうかん文物ぶんぶつけいてん

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  • 中國ちゅうごく大陸たいりく
    • 曹謹(曹瑾):よりどころ棠階てきすめらぎきよし誥授朝議ちょうぎ大夫たいふすすむ授中大夫たいふしょう戴花翎即かい疆知ぜん淡水たんすいどうちょうしげるかいもとふところしらき曹公墓誌ぼしめい:「咸豐ねんろくがつじゅうよんにちそうおおやけ於南くるわがい塋之。」文化ぶんかだい革命かくめい,沁陽じょう南關なんかん附近ふきんてき墳墓ふんぼ完全かんぜん受到破壞はかい,曹謹また同樣どうよう[2]。沁陽政府せいふ三次在沁陽城南關東邊重建曹謹墓,最後さいごいちざい2013ねん10がつ26にち完工かんこう開幕かいまくめいためふところしらきえんそく曹謹[23]こんため河南かなんしょう文物ぶんぶつ保護ほご單位たんい(3-200)[24]
    • すめらぎきよし誥授朝議ちょうぎ大夫たいふすすむ授中大夫たいふしょう戴花翎即かい疆知ぜん淡水たんすいどうちょうしげるかいもとふところしらき曹公墓誌ぼしめい〉:原本げんぽん鑲嵌ざい河南かなんしょう沁陽博物館はくぶつかんかわ內石えん」內,一塊ひとかたまり篆蓋,かたまりせき棠階撰文せんぶんちょう調ちょうもと篆蓋、もうひろしじゅんしょ[25]。此碑ばらうめざい曹謹內中,ざい1984ねん進行しんこう沁陽文物ぶんぶつひろし查時發現はつげん於城南關なんかん附近ふきん皮革ひかく工廠こうしょう內,作為さくいあらいがわ、捶皮てき工作こうさくだい[26]。2013ねん10がつあらため鑲嵌ざいふところしらきえん」內[23]
  • 臺灣たいわん
曹公圳きゅう圳頭
おおとりただし書院しょいんうたぐげん曹公ほこら
    • 曹公圳:灌溉範圍はんい包括ほうかつこん高雄たかおおおとりさんはやしそのだいりょう大樹たいきひとしたけ大社たいしゃとりまつ鼓山つづみやまひだり營區、くすのきあずささんみん、苓雅ぜん鎮區、小港こみなと[27],其中曹公圳舊圳頭やめれつため高雄たかお歷史れきし建築けんちく。曹公圳新圳頭,位置いちざいきゅう圳頭北方ほっぽうひゃくおおやけじゃくこんため工廠こうしょうがい[2]
    • 曹公びょうくらいこう雄市ゆういちおおとりやま曹公路上ろじょう
    • おおとりただし書院しょいんくらい高雄たかおおおとりさん書院しょいん內仍とめゆう當時とうじてき曹公ほこら相關そうかんてき建築けんちく目前もくぜんざいあたまもん左側ひだりがわひさしいた「曹公ほこらいんもん」,而另ゆうせつ法認ほうにんため書院しょいん內仍保有ほゆう曹公ほこらてき建築けんちく[28]:20ただしゆう學者がくしゃひね怡霖よりどころおおとり山縣やまがたさいおとずれさつ:「曹公圳碑。ざいおおとりただし書院しょいん曹公ほこらひがしかべ。」みとめためげん曹公ほこらおうすわ北朝ほくちょうみなみあずか建築けんちくすわこう不同ふどう建築けんちくおう曹公ほこら
    • おおとりさん新城しんじょう城門じょうもん及礮だい:曹謹けんてきおおとり山城やましろもん望樓ぼうろう六座僅存小東門(どうひがし便びんもん)及東もんもんがく半截はんせつ)、ぐんみなみだいいち關門かんもんがくおおとりさん新城しんじょう礮臺五座現存訓風礮臺、きよし瀾礮だい平成へいせい礮臺さんむかいおん礮臺僅存もんがく[2]
    • ちゅう壠泉漳和睦わぼく〉:みちこうじゅうよんねん(1844ねんあきらけん發生はっせい漳泉械鬥事件じけんこれ。曹謹ためすすむ臺灣たいわんぞくぐん和睦わぼくしょうしょざい中港なかみなと慈裕みやだてちゅう壠泉漳和睦わぼく〉(いしぶみざい今日きょうなえぐりちくみなみ鎮慈ひろしみや內)[2]
    • 學海がっかい書院しょいんみちこうじゅうななねん(1837ねんどう婁雲けん未成みせいみちこうじゅうさんねん(1843ねん)曹謹捐俸ぞくなり最初さいしょ命名めいめいためぶんかぶと書院しょいん」。みちこうじゅうななねん(1847ねん)閩浙總督そうとくりゅういん巡視じゅんし台灣たいわんけい艋舺おう當地とうちしん改名かいめいため學海がっかい書院しょいん」,にち時期じき轉賣てんばいへんためだか祠堂しどう[2]

まいり

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註釋ちゅうしゃく

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  1. ^ 曹顯ぶく廷,きよしまておくすすむこうろう[1]
  2. ^ 曹鎮,じょうとおきよし國子くにこかんふとし學生がくせい[1]
  3. ^ 曹檍,やくなまみちこうじゅうななねん(1837ねんあるこれ出生しゅっしょう,於咸豐ねんがつはついち(1852ねん6がつ18にちあずか父親ちちおや一同いちどうそう[1]
  4. ^ 曹榕,蓉,やくなま於道こうじゅうねん(1940ねん),めとつまはらそつねんしょう[1]
  5. ^ みちこうねんじゅういちがつ揀選。八年丁本生母憂去職。[2]
  6. ^ 九年丁母憂服闕赴省。[2]
  7. ^ 五月ごがつだい[2]
  8. ^ 五月ごがつじゅうきゅうにち調ちょう。七月因威縣失察邪教去職。[2]
  9. ^ 平山ひらやましつ察邪きょうしょく[2]
  10. ^ 八月兼署福州府海防同知。[2]
  11. ^ 引疾しょく[2]
  12. ^ ちんひさし左海さかい全集ぜんしゅうじゅうしゅ》,《絳跗どう詩集ししゅうまきおくかわ內曹せいふところしらきかいもと(謹)しゅ〉。註載:「ふところ璞早」。そうべにからももさんぼう詩鈔ししょう》〈みなみぎょうくさ〉。ゆう〈聞曹ふところしらき(謹)、あわびけんかのえたてしゅ慨然がいぜんゆうおくけんていほどくも芬庶つね恩澤おんたく)〉。ちゅううん:「曹子きたどうゆう可憐かれんなみ註云:「其母孀守。」[2]
  13. ^ よしみけい廿にじゅうねん(1820ねんしょ平山ひらやまともけん,於道こうねん(1822ねんしょきょくけん隔年かくねんしょにょうけんみちこうよんねん(1824ねんがつしょやすし津知つちけん[6]
  14. ^ みちこうじゅうさんねん(1833ねんちょういたる冬至とうじのうれきじゅういちがつじゅうにち)。棠階あずかおう鉁、佩齋、靳蔗しゅうひとしりょうなぎさとう河南かなんてき同鄉どうきょう友人ゆうじんともぐみ仿湯あきらてき「雎州こころざし學會がっかいてきかいやく組成そせいせめぜんかい」以談ろん理學りがく相互そうごとぎ礪。「せめぜんかい後來こうらい加入かにゅうやまとじん實際じっさい曹謹なみ正式せいしき加入かにゅうせめぜんかい[2]
  15. ^ はらいずるふくしゅうやな拱辰《池上いけがみ草堂そうどう筆記ひっき》〈曹循吏〉また勸戒かんかいろくるいへんひょう註》おうゆうそうざいひょう註:「地方ちほうかんぜんうけたまわ上司じょうししゃ,必不能ふのうつきこころ民事みんじのうつきこころ民事みんじしゃ,必不能ふのううけたまわたてまつ上司じょうし。此事如冰ずみりょうあいいれ古今ここんこうかん大抵たいてい如斯。」[2]
  16. ^ どうもと年來ねんらいだいてきはやしつよしざい淡水たんすいむかえかみきょく〉及〈じゅうおさむ德政とくせいほこらひさげ及曹かつら死後しごためしんたけじょう隍。よし於曹謹、曹士かつら兩人りょうにん任期にんき相近すけちか同樣どうようあいみん如子、且嫉あく如仇、また同姓どうせい曹;しんたけみん眾耆ろうつねしょう兩人りょうにん事蹟じせきしょうこん。曹謹後來こうらい也逐ややだい曹士かつら傳說でんせつためしんたけじょう隍的ぬしかく[13]。另有せつしんたけ都城みやこのじょう可能かのうためおおとりてい拱辰[14]
  17. ^ ひらきだい進士しんしていようすずゆうおつ(咸豐ねん),たてまつ曹懷しらき司馬しば(謹)、曹馥どう司馬しばかつらぐりおもまつけいぎょうどうていあきらけいとき霖)捐金ためさいひん以誌。」[15]
  18. ^ 德政とくせいほこら後來こうらいまたまつどう袁秉よし、薛志あきら、婁雲、まきつねとうろく淡水たんすいどうこれまたふえまつ台北たいぺいはやしたちいずみしんたけけんいくかいほうかげりょうつくりはいまつけんじたかしいん租貢せいえびす焯猷、かんせいかくはじめ嘏兩せいぱい。」[17]
  19. ^ ざい臺灣たいわん類似るいじてき傳說でんせつかえゆうちゅう臺灣たいわんてき楊本けんはい地理ちりあずかみなみ臺灣たいわんてき公子こうしはい地理ちり」,いたり中國ちゅうごく閩南地區ちく也有やゆう明太めんたいしゅもとあきらいのち江夏えなつこうしゅういさおきょうだんつき天下でんかりゅうみゃくてき傳說でんせつ[4]

參考さんこう文獻ぶんけん

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かん
前任ぜんにん
福建ふっけんしょう臺灣たいわんおおとり山縣やまがたともけん
みちこうじゅうななねんいちがつじゅうにちどうこうじゅういちねんなながついちにち
(1837ねん3がつ1にち-1841ねん8がつ17にち
つぎにん
はくつるけい
前任ぜんにん
范學つね
福建ふっけんしょう臺灣たいわん淡水たんすいなでみんどう
みちこうじゅういちねんなながつじゅうろくにちどうこうじゅうねん
(1841ねん9がつ11にち-1845ねん
つぎにん
ふみひそか