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落語家 - Wikipedia

落語らくご

落語らくごえんじることを職業しょくぎょうとするひと
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落語らくご(らくごか)は、落語らくごえんじることを職業しょくぎょうとするひと戦前せんぜんは、寄席よせがおもな活動かつどう拠点きょてんで、グループをんで地方ちほう公演こうえんおこなっていたが、戦後せんごはその話術わじゅつかしテレビラジオ司会しかいぎょうパーソナリティなどをおこなうこともおおかった。はなし噺家はなしか咄家はなしか(はなしか)は、「落語らくご」のふる表現ひょうげんである[よう出典しゅってん]

代目だいめ三遊亭圓楽さんゆうていえんらく(1959ねん

落語らくごえんずるはなし大別たいべつして種類しゅるいある。

  1. としばなしはなし(はなし)のわりに「(「さげ」ともう)」があるはなし。「落語らくご」はこれに該当がいとうする。
  2. 人情噺にんじょうばなし親子おやこ夫婦ふうふなどの情愛じょうあいおもえがはなしはなしわりに「ち」がいこともある。

1.のとしばなしかたるため、「落語らくご」という表現ひょうげんまれたが、現在げんざいはいずれの場合ばあいも「落語らくご」とぶ。また「噺家はなしか」という呼称こしょうもほぼ同意どうい使つかわれており、落語らくごなかには「噺家はなしか」というかたこのものもいる[よう出典しゅってん]

江戸えど時代じだいには狂歌きょうか雑俳ざっぱいかかわる人々ひとびとなど素人しろうと咄家はなしか活躍かつやくしていたが、やがてがらすてい焉馬さんわらいていらくなどの職業しょくぎょう咄家はなしかたちがあらわれた[よう出典しゅってん]

身分みぶん制度せいど

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日本にっぽん法律ほうりつでは職業しょくぎょうとして落語らくごおこなうのには資格しかく必要ひつよういが、出演しゅつえんする興行こうぎょうおこな団体だんたいさだめる資格しかく必要ひつようになる場合ばあいがある。落語らくご協会きょうかいひとし団体だんたいでは「身分みぶん制度せいど」という仕組しくみをさだめている。以下いか記述きじゅつ身分みぶん制度せいどかんしてである。

江戸えど東京とうきょう落語らくご身分みぶん制度せいど

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その身分みぶん見習みならい、前座ぜんざ(ぜんざ)、ふた(ふたつめ、「」とも)、真打しんうち(しんうち)からなる。

見習みなら

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弟子入でしいりを志願しがんし、師匠ししょうから入門にゅうもん許可きょか落語らくごたまご入門にゅうもんしたあと、前座ぜんざめい名前なまえ)を師匠ししょうからもらい、前座ぜんざ登録とうろくをして、前座ぜんざとして楽屋がくやりするまでは見習みならぶ。正規せいき身分みぶん制度せいどにはもともと存在そんざいしないが、前座ぜんざかずおおいのでそれまでの待機たいきをする。おもに師匠ししょうたく師匠ししょう・その家族かぞくのために家事かじなどの下働したばたらき・雑用ざつようをする。やすみはない。むかし師匠ししょうたくみでまわりの世話せわをすることもふく修業しゅうぎょうであったが(いわゆる内弟子うちでし)、現在げんざいかよ弟子でしがほとんどであり、内弟子うちでし非常ひじょうめずらしい。みであれば家賃やちん食費しょくひもかからないが、自分じぶん自由じゆう時間じかんてないというデメリットもある。見習みならいと前座ぜんざは、落語らくご社会しゃかいではいち人前にんまえとみなされない。

仏教ぶっきょうにおける前座ぜんざ(まえざ)説教せっきょう語源ごげん前述ぜんじゅつの、師匠ししょうたく家事かじ雑用ざつようほかに、寄席よせでの仕事しごと前座ぜんざ修業しゅうぎょう)がせられる。寄席よせでの、太鼓たいこもの・めくりのれ・色物いろもの道具どうぐ用意ようい回収かいしゅうマイクのセッティング・ちゃみ・着物きもの管理かんりなど楽屋がくや寄席よせども毎日まいにち雑用ざつようをこなす(大阪おおさかでは、これらの仕事しごとのうち太鼓たいこ鳴物なりもの以外いがいは「お茶子ちゃこ」とばれる寄席よせ従業じゅうぎょういんによっておこなわれる)。寄席よせで「開口かいこういちばん」とばれる最初さいしょ一席いっせき受持うけも場合ばあいもあるが、あくまで勉強べんきょうためであるから通常つうじょう落語らくご家名かめい番組ばんぐみにもらない。また、出演しゅつえんりょうわりという)ももらえないが、わずかながら1にちあたり定額ていがく小遣こづかい(給金きゅうきん)がもらえる。

当日とうじつ寄席よせはたら前座ぜんざのうち、もっとも古株ふるかぶたて前座ぜんざ(たてぜんざ)とぶ。寄席よせ興行こうぎょう進行しんこうについての決定けっていけんつ、重要じゅうよう役回やくまわりである。楽屋がくや仕事しごとの(したの)前座ぜんざ指図さしずする。ネタとばり記録きろくするのもたて前座ぜんざ仕事しごとである。

へたり・もど前座ぜんざ
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かつての落語らくごかいでは、落語らくごが「ふた昇進しょうしんできるのにあえて前座ぜんざまる」ためのへたりという制度せいどがあった。へたりは前座ぜんざ同様どうよう下座げざ囃子はやし楽屋がくや雑務ざつむをこなすのにくわえ、歌舞伎かぶきでいう「頭取とうどり」のように、寄席よせ事務じむ担当たんとうする場合ばあいがあった。4代目だいめたちばなまどかたかし一旦いったんふた昇進しょうしんしたが、おややしなかねかせぐために、みずか前座ぜんざ降格こうかくした[1]。そのまま年齢ねんれいかさねることがおおかったことから、永久えいきゅう前座ぜんざあるいはまんねん前座ぜんざ[2]という異名いみょうもあった。

江戸えど落語らくごでは、昭和しょうわ30年代ねんだいまでへたりがすうにんいた。立川談志たてかわだんし著書ちょしょにおいて、たちばなえんぶく[2]および、「こぶせい」こと林家はやしや正吉まさきち[3]という2人ふたりの「まんねん前座ぜんざ」の存在そんざいについて証言しょうげんしている。

上方かみがたでは、「へたり」は寄席よせ囃子ばやしせんもんつとめるひと意味いみし、重宝ちょうほうされた。おもなへたりにはさんしょう小三しょうさん戎橋えびすばし松竹しょうちく)・かつら右之助うのすけせんにち劇場げきじょうきゅううめだ花月かげつ)・かつらぶんちょうせんにち劇場げきじょう)・かつらだんおさむ道頓堀どうとんぼりかく)・たちばなつばめ神戸こうべ松竹しょうちく)・2代目だいめさんしょうもん三郎さぶろうしん花月かげつ)などがいた。

またふた真打しんうち昇進しょうしんあきらふたた前座ぜんざもどることをもど前座ぜんざという。

現在げんざいはこのようなへたり、もど前座ぜんざになるものはまったくいないといってよい。ふた組織そしき移籍いせきしたことでその組織そしき前座ぜんざ修業しゅうぎょうをやりなお場合ばあい[注釈ちゅうしゃく 1]や、ふた廃業はいぎょうしたのち復帰ふっきし、再度さいど前座ぜんざから修業しゅぎょうなおすといった場合ばあいは、その落語らくごをへたりやもど前座ぜんざとはばない。

ふた

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前座ぜんざ真打しんうちあいだ前座ぜんざつづき、番目ばんめ高座こうざがるため「ふた」とばれる[注釈ちゅうしゃく 2][4]。かつての上方かみがた落語らくごでは中座ちゅうざ(なかざ)とんだ。

落語らくご社会しゃかいなかでようやくいち人前にんまえとみなされる。自分じぶん労力ろうりょく時間じかんすべ自分じぶんのためにだけ使つかうことがゆるされる。師匠ししょうたく雑用ざつよう寄席よせでの裏方うらかた仕事しごともしなくてよい[注釈ちゅうしゃく 3]以下いかのことがゆるされる。

  • 紋付もんつきること。
  • 番組ばんぐみ名前なまえす。
  • 自分じぶん手拭てぬぐい昇進しょうしん挨拶あいさつくばること。
  • 飲酒いんしゅ喫煙きつえん一門いちもんによる)
  • 自分じぶん落語らくごかい開催かいさいすること。
  • 自分じぶんでテレビ・ラジオ出演しゅつえん営業えいぎょうなどへのみをすること。また実際じっさい出演しゅつえんすること[注釈ちゅうしゃく 4]

正規せいき落語らくごとして、寄席よせ落語らくごをしてわりがもらえるようになる。しかし、定席じょうせきへの出演しゅつえん機会きかい大変たいへんかぎられているので、仕事しごと基本きほんてき自分じぶんさがしてこなければならなくなる。さもなくば本当ほんとう仕事しごとがない状態じょうたいとなる。つまり自営業じえいぎょうである。前座ぜんざでやってきた雑用ざつよう免除めんじょされるわりに小遣こづかいもなくなるので、経済けいざいてきにはくるしいとわれる。かつてはヨビばれる「仕事しごと」が存在そんざいした。これは、だいえんじ要員よういんとして寄席よせ出勤しゅっきんするというもので、いた落語らくごあなうずまらないとき高座こうざがれる。ただし平成へいせいはいって以降いこう真打しんうちのかず増大ぞうだいしたため、ふたのヨビ制度せいどは2024ねん現在げんざいほぼられない。

一部いちぶのぞいて、ふたまでは自身じしん師匠ししょう死去しきょした場合ばあいには、基本きほんてきべつ真打しんうち門下もんかうつることになっている[注釈ちゅうしゃく 5]

真打しんうち

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真打しんうちかたりは、「(蝋燭ろうそくの)しんつ」ことからてんじた。蝋燭ろうそく江戸えど時代じだい室内しつない照明しょうめいであり、それをつ=すのは最後さいごがる出番でばん落語らくごえんわってからである。つまり主任しゅにん(とり)のみがすことができる=しんてる。

真打しんうちは、そのとお寄席よせ主任しゅにん(とり)をつとめることができる資格しかくあたえられるほか、師匠ししょう敬称けいしょうばれる[注釈ちゅうしゃく 6]。また弟子でしをとることがゆるされる[注釈ちゅうしゃく 7]

真打しんうち昇進しょうしんさいにはかくせきにおいて特別とくべつ興行こうぎょうとなり、しん真打しんうち本人ほんにんがその芝居しばい主任しゅにんとなる。そして真打しんうち披露ひろうおこなわれ口上こうじょうべられる。これがなければ昇進しょうしんしたことにならない。つまり、真打しんうち昇進しょうしん興行こうぎょうとは不可分ふかぶんである。興行こうぎょうちゅうは、終演しゅうえん[疑問ぎもんてん]真打しんうち本人ほんにんぜん経費けいひはらかいはじまる。出費しゅっぴはかなりのもの(とく単独たんどくでの昇進しょうしん披露ひろう興行こうぎょう場合ばあい)になるが、反面はんめん、おだん芸人げいにんのスポンサー)からのご祝儀しゅうぎ見込みこめる。

在京ざいきょう落語らくご団体だんたいのうち、落語らくご協会きょうかい落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい円楽えんらく一門いちもんかい落語らくご立川たつかわりゅう出演しゅつえんはまれである)の真打しんうち昇進しょうしんしゃ合同ごうどう日本にほんテレビ演芸えんげい番組ばんぐみわらいてん』の前半ぜんはん演芸えんげいコーナーにおいて「真打しんうち昇進しょうしん披露ひろう口上こうじょう」に出演しゅつえんし、披露ひろう口上こうじょうべることが慣例かんれいとなっている。コロナのため、2020ねんから2023ねん7がつ2にちまでどう番組ばんぐみないでの昇進しょうしん披露ひろうおこなわれず[注釈ちゅうしゃく 8]、BSにっテレ『わらいてん特大とくだいごう』で記者きしゃ会見かいけんやパーティー・公演こうえんなどを紹介しょうかいするかたちとなっていた[6]

2022ねん6がつ真打しんうち昇進しょうしんしたさんゆうてい一太郎いちたろうろく代目だいめ三遊亭円楽さんゆうていえんらく長男ちょうなん)の場合ばあいは、声優せいゆうとしての活動かつどうおも落語らくごとしての活動かつどうはほとんどしていないという事情じじょうもあり「披露ひろうはやらない、ぬぐいや扇子せんすつくらない、祝儀しゅうぎももらわない」というかたちでの異例いれいかたちとなった[注釈ちゅうしゃく 9]

1980年代ねんだいなかばころから、落語らくご協会きょうかい落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかいともに、所属しょぞくする落語らくご半数はんすう以上いじょう真打しんうちめるようになり、制度せいどとしては形骸けいがいしているとの意見いけんもある。

問題もんだいてん

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戦後せんご真打しんうち昇進しょうしん制度せいどすうわった。しかしその選考せんこう基準きじゅん不明瞭ふめいりょうであるとする批判ひはん一貫いっかんしてある。これがひいては落語らくご内部ないぶ対立たいりつ原因げんいんとなっている。

真打しんうち制度せいどこうばんどういち協会きょうかいない落語らくごあいだ序列じょれつ)と密接みっせつ関係かんけいしている。真打しんうち昇進しょうしん順番じゅんばん、すなわち真打しんうち昇進しょうしんはやおそいによって真打しんうちたちのこうばん決定けっていされる。真打しんうち昇進しょうしん以降いこうは、経年けいねんにより人気にんき実力じつりょく変動へんどうすることがあっても、基本きほんてき順位じゅんいわらない[注釈ちゅうしゃく 10]

戦後せんご騒動そうどう

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落語らくご協会きょうかい分裂ぶんれつ騒動そうどう
1978ねん昭和しょうわ53ねん)、ろく代目だいめさんゆうていえんせい落語らくご協会きょうかい理事りじかいにおいて、当時とうじ常任じょうにん理事りじであったさん代目だいめさんゆうていえんよん代目だいめさんゆうていきん代目だいめ春風しゅんぷうていやなぎあさ更迭こうてつ大量たいりょう真打しんうち昇進しょうしん反対はんたい動議どうぎ提出ていしゅつしたが棄却ききゃくされたことに起因きいんしており、このことがこう真打しんうち昇進しょうしん試験しけん制度せいど設立せつりつにつながる。結果けっかてきえんせい代目だいめ三遊亭圓楽さんゆうていえんらく中心ちゅうしんとする直弟子じきでし一門いちもん離脱りだつし「落語らくごさんゆう協会きょうかい」を創設そうせつした[注釈ちゅうしゃく 11]が、業界ぎょうかいない支持しじられず、東都とうと定席じょうせき寄席よせ4かしょからいずれもしとなった。結果けっかてきえんせい急死きゅうしにより落語らくごさんゆう協会きょうかい瓦解がかいし、圓楽えんらく一門いちもん(そのだい日本にっぽん落語らくごすみれかい」、円楽えんらく一門いちもんかい設立せつりつ以外いがい落語らくご協会きょうかい復帰ふっきした。
落語らくご立川たつかわりゅう創設そうせつ
上記じょうき落語らくご協会きょうかい分裂ぶんれつ騒動そうどうではえんせいらに呼応こおうするかたち離脱りだつ可能かのうせいもあったが、結局けっきょく落語らくご協会きょうかい残留ざんりゅうしたなな代目だいめ立川談志たてかわだんしであったが、1983ねん昭和しょうわ58ねん)に一門いちもんごと脱会だっかいし、立川たちかわりゅう創設そうせつ昇進しょうしん試験しけんをめぐり落語らくご協会きょうかい主流しゅりゅうだんこころざし一門いちもん対立たいりつしたことが理由りゆうとされる。この事件じけん試験しけん制度せいどによる改革かいかくけっして業界ぎょうかい全体ぜんたい満足まんぞくさせるものではないことを証明しょうめいした(これにともな昇進しょうしん試験しけん制度せいどは1987ねん最後さいご廃止はいしされ、現在げんざい年功序列ねんこうじょれつ基本きほんしつつ、一部いちぶすぐれたものについては抜擢ばってきでの真打しんうち昇進しょうしん運用うんようされている。真打しんうち#抜擢ばってき真打しんうち参照さんしょう)。なお、だんこころざし死没しぼつ(2011ねん家元いえもと制度せいど廃止はいしされて、だんこころざし惣領そうりょう弟子でしであるじゅう代目だいめ土橋どばしていさとうま代表だいひょうとする任意にんい団体だんたいとなっていたが、2024ねん6がつだんこころざし弟子でしである立川たちかわすけ代表だいひょうとする一般いっぱん社団しゃだん法人ほうじんとして組織そしきされた[7]

この2騒動そうどう真打しんうち制度せいど問題もんだいてんあきらかになった一方いっぽう地方ちほうでのホール落語らくご開催かいさい増加ぞうか団体だんたい所属しょぞくしないフリーランスの落語らくご登場とうじょうなど、落語らくごそのもののはばおおきくひろげることともなった。

上方かみがた大阪おおさか落語らくご身分みぶん制度せいど

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真打しんうち制度せいど戦前せんぜんには上方かみがたにも存在そんざいした。しかし、戦中せんちゅうから終戦しゅうせん直後ちょくご時期じきにおいて大阪おおさかでは落語らくごより漫才まんざいこのまれたこともあり、事実じじつじょう上方かみがた落語らくご崩壊ほうかいしていた時期じき消滅しょうめつした。その真打しんうち制度せいど上方かみがた落語らくご協会きょうかいで1977ねん昭和しょうわ52ねん)2がつ一時いちじ復活ふっかつして公表こうひょうもされた。

2012ねん現在げんざい制度せいどとして事実じじつじょう消滅しょうめつしている。内部ないぶ落語らくごランク(たとえば協会きょうかいのランク)も基準きじゅん年功序列ねんこうじょれつ)で決定けっていしている。また大阪おおさかでは、こうばん内部ないぶ存在そんざいしている(かつて真打しんうちのみいちかいだけ公表こうひょうもされた)ものの、現在げんざいでは外部がいぶには一切いっさい非公開ひこうかいとなっている。

当時とうじ会長かいちょう六代目笑福亭松鶴は「真打しんうちにふさわしいかどうかはお客様きゃくさまめること(であり、真打しんうち制度せいど胡坐こざをかいて落語らくごサイドが真打しんうちきゃくりするのはおかしい)」とっている[よう出典しゅってん]。その定席じょうせき天満てんま天神てんじん繁昌はんじょうてい開設かいせつに、真打しんうち制度せいど復活ふっかつ論議ろんぎされたが見送みおくられている。上方かみがた落語らくごならではの自由じゆう気風きふうそこねるというのが、真打しんうち制度せいど導入どうにゅう理由りゆうであった。このこともあり、おも上方かみがた落語らくご四天王してんのうまつづるさん代目だいめ桂米朝かつらべいちょう代目だいめかつら文枝ふみえさん代目だいめかつらはるだん)の弟子でしには、寄席よせやテレビなどではやくに知名度ちめいどをあげ、入門にゅうもんから7~10ねん程度ていど弟子でしものおおくいた[注釈ちゅうしゃく 12]。なお、上方かみがた落語らくごでは修業しゅうぎょう年季奉公ねんきぼうこうのシステムであり、年季ねんきとともにひとちとなる。真打しんうち代替だいたいとしてコンクールなどのかくしょう受賞じゅしょうがステイタスのひとつとなっており、受賞じゅしょう記念きねん定席じょうせきとなる天満てんま天神てんじん繁盛はんじょうていおよび神戸こうべ新開地しんかいち喜楽きらくかんで1週間しゅうかん主任しゅにんつとめる。

また、修業しゅうぎょうちゅう師匠ししょう死去しきょしても、べつ師匠ししょうもと移籍いせきするというようなことがない。代表だいひょうてきれいにはろく代目だいめまつづる最後さいご弟子でしわらいぶくてい鶴二つるじがおり、入門にゅうもんから1ねんたずに師匠ししょうまつづる死去しきょし、兄弟子あにでしにあたるわらいぶくてい松葉まつばおく・七代目笑福亭松鶴)らの指導しどうあおいだが、現在げんざいでも「まつづる弟子でし」として活動かつどうしている。ただし全員ぜんいんがそのかぎりではなく、東京とうきょうのようにもと師匠ししょう兄弟きょうだい弟子でしなどに移籍いせきする場合ばあいまれにある。後者こうしゃれいでは、代目だいめ林家はやしやしょうしみなどがいる。

真打しんうちこうばん問題もんだいは、上方かみがた落語らくご協会きょうかいでは東京とうきょうよりもナイーブな理由りゆう(ほとんど口喧嘩くちげんか)で大物おおもの脱退だったいしたことすらある[注釈ちゅうしゃく 13]

こうばん制度せいど真打しんうち制度せいど完全かんぜん実力じつりょく主義しゅぎでもないので、『急激きゅうげきれたひと』『わかときかられっになったひと』にたいする処遇しょぐうむずかしいというのも理由りゆうひとつである。真打しんうち昇進しょうしん真打しんうち昇進しょうしん披露ひろう興行こうぎょうはリンクさせるが、上方かみがた落語らくご協会きょうかい繁昌はんじょうてい)は(こうばん関係かんけいなく)「しょう」を落語らくご受賞じゅしょうさせそれと興行こうぎょうをリンクしている。東京とうきょう協会きょうかいでは幹部かんぶはないでえらぶが、上方かみがた落語らくご協会きょうかいでは協会きょうかいいんによる直接ちょくせつ選挙せんきょ正式せいしきには協会きょうかいいん互選ごせんにより会長かいちょう候補者こうほしゃ選出せんしゅつする選挙せんきょ[8])でえらぶ。

わらいぶくていひとしさとし上方かみがた落語らくご協会きょうかい会長かいちょう在職ざいしょくちゅうの2024ねん上方かみがた落語らくご活性かっせい目指めざし「真打しんうち」の代替だいたいとなるあらたなこころみとして、入門にゅうもんから15ねん程度ていど協会きょうかい所属しょぞく若手わかて中堅ちゅうけん落語らくご対象たいしょうとした「上方かみがた落語らくご噺家はなしか成人せいじんしき仮称かしょう)」を実施じっしすることとなった。2024年度ねんど対象たいしょうしゃかつらだん治郎じろうかつら和歌わかぽん、林家はやしや愛染あいぜんかつらぶくてんかつらさんの5めいで、同年どうねん9がつ愛染あいぜん皮切かわきりに前出ぜんしゅつ繁昌はんじょうてい神戸こうべ新開地しんかいち喜楽きらくかんで1週間しゅうかん主任しゅにん(トリ)をつとめる[9]

東京とうきょうながれをなかでも、名古屋なごやのぼりりゅうていきゅう名古屋なごや雷門かみなりもん一門いちもんのように、「かり真打しんうち名乗なのったとしてもいち門外もんがい落語らくごきゃくみとめてくれるかどうかわからない」という理由りゆうから真打しんうち制度せいど棚上たなあげする意向いこうしめしている一門いちもんもある[10][注釈ちゅうしゃく 14]

アマチュアの落語らくご

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大学だいがく落語らくご研究けんきゅうかい所属しょぞくする学生がくせいなどのほかにもアマチュア落語らくごむかしから存在そんざいし、これらの人々ひとびとはプロの落語らくご区別くべつするために「天狗てんぐれん」「落語らくご愛好あいこう」などとばれる。プロの落語らくご使つかわないちんごう屋号やごう名乗なのることがおおいが、指導しどうしているプロの落語らくご自身じしんちんごうあたえるケースもおおい。そのにも、地方ちほう落語らくごをベースにした独自どくじ活動かつどう主体しゅたいにしている、大分おおいたけん県南けんなん落語らくご組合くみあい宮城みやぎけん東方とうほう落語らくごなどのような社会しゃかいじん活動かつどうグループなどもある。

女性じょせい落語らくご

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昭和しょうわ後期こうきになるまで、正式せいしきにプロの落語らくご入門にゅうもん団体だんたい所属しょぞくする女性じょせい落語らくご存在そんざいしなかったが、1975ねん上方かみがた落語らくご代目だいめ乃五ろう代目だいめ五郎ごろう兵衛ひょうえ)に入門にゅうもんしたはつのプロの女性じょせい落語らくごとされる。当時とうじは「落語らくごおとこがやるもの」という観念かんねんつよく、ろうなんことわられたすえ入門にゅうもんしている[注釈ちゅうしゃく 15][11]

その江戸えど落語らくごでも落語らくご協会きょうかいでは1981ねんさん代目だいめさんゆうていえん入門にゅうもんした三遊亭歌さんゆうていか当時とうじ歌代うたしろ)がはつ女性じょせい落語らくごとなり、1993ねんには古今ここんていきくせんだいとともに女性じょせい落語らくごとしてはつ真打しんうち昇進しょうしんしている。きくせんだい当初とうしょは「おんな真打しんうち」として別枠べつわくであったが、2002ねんおんな真打しんうちわく撤廃てっぱいされ、通常つうじょう真打しんうちとして男性だんせい同列どうれつあつかわれるようになった。

落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかいは、1986ねんかつらみぎだん当時とうじ小文おぶみ)がじゅう代目だいめかつら文治ぶんじ入門にゅうもん、2000ねん真打しんうち昇進しょうしんはつどう協会きょうかい所属しょぞく女性じょせい真打しんうちとなった。

落語らくご立川たつかわりゅうは、2006ねん立川たちかわこはるが立川たちかわだんはる門下もんか入門にゅうもんしたのがはつであり[12]、2023ねん5がつ同派どうははつ女性じょせい真打しんうち昇進しょうしん同時どうじに「立川たちかわ小春こはるこころざし」に改名かいめい)した。

円楽えんらく一門いちもんかい設立せつりつ以来いらいながらく女性じょせい落語らくご在籍ざいせきしていなかったが、2022ねんさんゆうていりゅうたのしさんゆうていたつみが入門にゅうもん円楽えんらく一門いちもんかいでははつ女性じょせい落語らくごとなったが、同年どうねん正式せいしき前座ぜんざとなるまえ廃業はいぎょうしている。

2024ねん現在げんざいでは東西とうざいあわせて女性じょせい落語らくごは50めいえており[11]真打しんうち制度せいどのある江戸えど落語らくご3団体だんたいで17めい真打しんうち昇進しょうしんしている(落語らくご協会きょうかい11めい[注釈ちゅうしゃく 16]落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい5めい[注釈ちゅうしゃく 17]落語らくご立川たつかわりゅう1めい立川たちかわ小春こはるこころざし)。2024ねん5がつ現在げんざい)。現在げんざいでは落語らくご協会きょうかい理事りじ就任しゅうにんしており、きくせんだい女性じょせい落語らくごとしておな女性じょせい弟子でしである古今ここんてい駒子こまこはじめて真打しんうちそだて、同様どうよう女性じょせい弟子でしである弁財べんざいてい和泉いずみさんゆうていりつ真打しんうち昇進しょうしんさせた[13]。また、弁財べんざいてい和泉いずみおっと柳家やなぎやしょうはち)、春風しゅんぷうていいちはなおっと金原かなはらちんうまひさ)のよう落語らくご同士どうし結婚けっこんするケースもてきた。2024ねんには林家はやしやつるが(女性じょせい落語らくご現在げんざい共通きょうつうこうばんになって以降いこうでは)はつ抜擢ばってき真打しんうちとして昇進しょうしんしている[14][15]

江戸えど落語らくごのうち、毎年まいとし1がつ新宿しんじゅく末廣すえひろていいちかいでは、昼夜ちゅうやつうじて落語らくご協会きょうかい所属しょぞく女性じょせい落語らくごがほぼ出演しゅつえんする「落協レディース」の特別とくべつ興行こうぎょう恒例こうれいとなっており、定席じょうせき以外いがいでも江戸えど落語らくご所属しょぞく団体だんたい横断おうだんのユニット「落語らくごガールズ」の落語らくごかいが2023ねん4がつまで定期ていきてき開催かいさいされていた[16]女性じょせい落語らくご所属しょぞくしゃ比較的ひかくてきおお落語らくご協会きょうかいでは、2023ねん3がつ上席じょうせき浅草あさくさ演芸えんげいホールよる興行こうぎょうで、ちょうはなろうももはな主任しゅにんとしゲスト[注釈ちゅうしゃく 18]ふくめたすべての演者えんじゃ女性じょせい芸人げいにん番組ばんぐみ編成へんせいとなる「ももぐみ」と名付なづけられた「江戸えど落語らくご定席じょうせきでははつ」の興行こうぎょうおこなわれた[17]。このこころみはよく2024ねん5がつせき浅草あさくさ演芸えんげいホールよる(「落語らくご協会きょうかいひゃくねん興行こうぎょうももぐみ」)でもおこなわれ、主任しゅにん日替ひがわり交代こうたい女性じょせい真打しんうち落語らくご10めい[注釈ちゅうしゃく 19]、ゲストわくとして上方かみがたから女性じょせい落語らくご[注釈ちゅうしゃく 20]日替ひがわりでかおけされた。

真打しんうち制度せいどのない上方かみがたでも複数ふくすう女性じょせい弟子でし入門にゅうもんさせ、そだてている[注釈ちゅうしゃく 21]。2021ねんNHK新人しんじん落語らくご大賞たいしょうでは、上方かみがた落語らくご協会きょうかい所属しょぞくかつら二葉ふたば女性じょせいとしてはじめて大賞たいしょう獲得かくとくした[19]

落語らくご所属しょぞく団体だんたい

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関東かんとう落語らくご

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このうち、前述ぜんじゅつ経緯けいいもあり、東都とうと寄席よせ定席じょうせき狭義きょうぎでは鈴本すずもと演芸えんげいじょう新宿しんじゅく末廣すえひろてい浅草あさくさ演芸えんげいホール池袋いけぶくろ演芸えんげいじょう)に出演しゅつえんできるのは、原則げんそくとして落語らくご協会きょうかい落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい鈴本すずもとげいきょう絶縁ぜつえんちゅうのため、出演しゅつえん不可ふか会員かいいんのみであるが、近年きんねんげいきょうについては円楽えんらく一門いちもんかい立川たちかわりゅう所属しょぞく噺家はなしか定席じょうせき興行こうぎょうかおけにくわわることがある(おも新宿しんじゅく末廣すえひろてい)。なお、いちかいなどの定席じょうせき興行こうぎょう以外いがい興行こうぎょうはこのかぎりではない(ただし、鈴本すずもといちかいなども落語らくご協会きょうかい以外いがいはほぼ出演しゅつえんできない)。

関西かんさい落語らくご

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関東かんとう団体だんたいあいだ移籍いせき

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所属しょぞくしていた協会きょうかいなんらかの理由りゆうべつ団体だんたい移籍いせきするケースも散見さんけんされる。おも前座ぜんざ落語らくご一度いちど廃業はいぎょうまたは破門はもんされ、そのあらためてべつ師匠ししょう門下もんかになるケースがおおいが、真打しんうち身分みぶんでありながら団体だんたい移籍いせきし、その団体だんたいでも真打しんうち身分みぶん活動かつどうするケースもすうれい存在そんざいする。師匠ししょうわるためにちんごうとそれにわせた高座こうざめい改名かいめいするケースもある。この場合ばあい移籍いせきさきこうばんあつかいがむずかしくなることから、一定いってい期間きかんじゅん会員かいいん」の身分みぶんであったり、こうばん真打しんうち序列じょれつ最下位さいかい、あるいは別枠べつわくにしたりして、一定いってい程度ていど経年けいねんによりこうばんれるケースがおおい。上記じょうき団体だんたい枠組わくぐみがかたまって以降いこう真打しんうち身分みぶんのまま、団体だんたい移籍いせきしたおもれい列挙れっきょする(落語らくご協会きょうかい分裂ぶんれつ騒動そうどう円楽えんらくとう結成けっせい落語らくご立川たつかわりゅう創設そうせつかかわるものは省略しょうりゃく)。

このほか、さんわらいていわらいさんのように、日本にっぽん芸術げいじゅつ協会きょうかい落語らくご協会きょうかい日本にっぽん芸術げいじゅつ協会きょうかい現在げんざい落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい)といちべつ団体だんたい移籍いせきしたものの、ふたたもと団体だんたいもどるケースもわずかながらられる。

諸派しょは無所属むしょぞく落語らくご

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一部いちぶのぞき、上記じょうき5団体だんたいぞくさないプロ落語らくご以下いかげる。いわゆる天狗てんぐれんでなく、プロとしての修業しゅうぎょうんだ経験けいけんのあるもの、かつ存命ぞんめい人物じんぶつ限定げんていする。ただし、すでした芸能人げいのうじんなどが副業ふくぎょう余興よきょうとして落語らくごもやる場合ばあい[注釈ちゅうしゃく 26]のぞく。

以下いか、◎しるしがついているものは「東西とうざい寄席よせ演芸えんげい年鑑ねんかん2」(2021ねん東京とうきょうかわらばんかん)に、◯がついているものは「東都とうと寄席よせ演芸えんげい年鑑ねんかん2」(2023ねん東京とうきょうかわらばんかん[20]名前なまえ顔写真かおじゃしん・プロフィールの掲載けいさいがあるものである。

上方かみがた落語らくご協会きょうかい離脱りだつしている落語らくご

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詳細しょうさい上方かみがた落語らくご協会きょうかいかく個人こじんこう参照さんしょうおももののみ。

きゅう2代目だいめ桂枝雀かつらしじゃく一門いちもんすずめ三郎さぶろう一門いちもんすずめまつきゅうすずめすずめはその上方かみがた落語らくご協会きょうかい復帰ふっき

その

名古屋なごや落語らくご

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大須おおす演芸えんげいじょう(2014ねん閉場へいじょう→2015ねん9がつ再開さいかい)を定席じょうせきとし、東海とうかい地区ちく中心ちゅうしん活動かつどうしている。

  • 雷門かみなりもんしょうぶく(2012ねん死去しきょ)(のぼりりゅうてい、なごや雷門かみなりもん一門いちもん[21](もとは東京とうきょう落語らくご雷門かみなりもん福助ふくすけ系譜けいふ)、 以下いかしょうぶく門下もんかである。なお、獅篭・幸福こうふく最初さいしょ入門にゅうもんしたのは東京とうきょう立川談志たてかわだんし門下もんかである。しょうぶく没後ぼつご、2020ねん4がつちんごうを「雷門かみなりもん」から「のぼりりゅうてい」に改名かいめいした。しょうぶく孫弟子まごでしにあたる獅鉄、幸吉こうきちかごとう、ゆりこめ(「のぼりりゅうてい改名かいめいはつ女性じょせい)の入門にゅうもん名古屋なごや落語らくご昭和しょうわ初期しょき以降いこう最多さいた人数にんずうとなった[22]
  • 立川たちかわわんだ落語らくご立川たつかわりゅう所属しょぞく真打しんうちだが、2022ねん10がつから拠点きょてん実家じっかのある名古屋なごやうつして活動かつどうしている。大須おおす演芸えんげいじょうには不定期ふていき出演しゅつえんしている。

仙台せんだい落語らくご

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落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい仙台せんだい事務所じむしょ所属しょぞく。2019ねん1がつより落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい客員きゃくいん東方とうほう落語らくご真打しんうち

  • ろくはなていゆうはな ※「東北とうほくべん落語らくご」として落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい所属しょぞく東西とうざい寄席よせ演芸えんげい年鑑ねんかん2には「客員きゃくいん」として名前なまえのみ掲載けいさいゆう

団体だんたいから独立どくりつしてプロ活動かつどうつづけるもの

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東京とうきょう

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上記じょうきなかで、さんゆうていはらしょう[28]神田かんだ連雀れんじゃくてい(プロの演芸えんげいのための定席じょうせき)に落語らくごとして、落語らくご立川たつかわりゅう広小路ひろこうじ寄席よせ色物いろものとして出演しゅつえんしている。

上方かみがた

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名古屋なごや

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鳥取とっとり

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  • ろく代目だいめかつら文吾ぶんご鳥取とっとりけん米子よなごもと・6代目だいめかつらしょう文吾ぶんご上方かみがた落語らくごからいてヘルスセンター就職しゅうしょく社員しゃいんとして勤務きんむしていたが、舞台ぶたいみずかがるなど、なにかしらげいはしていた。定年ていねん退職たいしょく、フルタイムのプロ落語らくご復帰ふっき[21]。2022ねん、6代目だいめかつら文吾ぶんご襲名しゅうめい

岡山おかやま

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沖縄おきなわ

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北海道ほっかいどう

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団体だんたい脱退だったいくなるまで業界ぎょうかい団体だんたいには所属しょぞくせずに活動かつどうしたもの

事実じじつじょうのレッスン・プロ

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  • パーポ明石あかし京都きょうとほか。落語らくごからバレエダンサーに転向てんこうするが、所属しょぞく劇団げきだんにて落語らくご講師こうしおこなう。)

首都しゅとけん中京ちゅうきょう関西かんさいけん以外いがい拠点きょてんうつした落語らくご

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上記じょうきもののぞく。また、吉本よしもとの「みます芸人げいにん」として地方ちほう赴任ふにんちゅうであるだけのもののぞく。

故人こじん

落語らくご叙位じょい叙勲じょくん人間にんげん国宝こくほう

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落語らくごとして長期ちょうきにわたり顕著けんちょ活動かつどうをみせたものたいして、日本国にっぽんこく政府せいふより叙勲じょくん褒章ほうしょう授与じゅよされたり、また近年きんねんでは文化財ぶんかざい保護ほご観点かんてんから、古典こてん芸能げいのう継承けいしょうする落語らくごたいし、文部もんぶ科学かがくしょうより「重要じゅうよう無形むけい文化財ぶんかざい各個かっこ認定にんてい保持ほじしゃ」(いわゆる「人間にんげん国宝こくほう」)に指定していされる落語らくごれいがある。また、顕著けんちょ実績じっせきのこした落語らくご死没しぼつしたときには日本国にっぽんこく政府せいふより位階いかいじょされることもある。

政治せいじになった落語らくご

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2021ねん時点じてん現役げんえき落語らくごかつ現職げんしょく議員ぎいんとしては以下いか人物じんぶつがいる。

このほか、林家はやしやとんでんひらた札幌さっぽろ市議会しぎかい議員ぎいん豊平とよひら選挙せんきょ選出せんしゅつ)を2003ねんから2015ねんまで3つとめた。さんゆうてい洋楽ようがく(2017ねん12月死去しきょ)も生前せいぜん函館はこだて議会ぎかい議員ぎいんつとめたことがあり、みち議会ぎかい議員ぎいん北斗ほくと議会ぎかい議員ぎいん選挙せんきょ立候補りっこうほしたがそれぞれ落選らくせんした。また、柳家やなぎやさん寿ことぶき(2020ねん6がつ死去しきょ)は2007ねん足立あだち議会ぎかい議員ぎいん選挙せんきょに、よん代目だいめかつらみぎおんなすけ筆名ひつめいの「梅田うめだうめすけ」名義めいぎ)は2023ねん浦安うらやす議会ぎかい議員ぎいん選挙せんきょに、入門にゅうもんまえわらいぶくていりょこのみ[注釈ちゅうしゃく 33]は2007ねん兵庫ひょうご県議会けんぎかい議員ぎいん選挙せんきょ宝塚たからづか選挙せんきょ)にそれぞれ立候補りっこうほしたが落選らくせんした。

まどさとろく代目だいめえんまど)、らんたけまどかたけ)、洋楽ようがく代目だいめ圓楽えんらく)はしくもろく代目だいめえんせい孫弟子まごでしであり、年代ねんだいとキャリアもどう世代せだいかつらさんはつ町議会ちょうぎかい議員ぎいんつとめた(市町村しちょうそん合併がっぺいともな失職しっしょく市議会しぎかい議員ぎいんとして当選とうせん)。

また、いなせはんなな(2023ねん5がつ死去しきょ)は、2003ねん4がつ山口やまぐち県議会けんぎかい議員ぎいん選挙せんきょ熊毛くまげぐん本名ほんみょう無所属むしょぞくでの立候補りっこうほ予定よていしていたが公示こうじ前日ぜんじつ体調たいちょう不良ふりょううった入院にゅういん出馬しゅつば断念だんねんしている。なお、議員ぎいん立候補りっこうほ経験けいけんのある落語らくごのうちとんでんたいらまどさと・らんたけはんなな立候補りっこうほ断念だんねん)の4にんは、1996ねん3がつ同時どうじ真打しんうち昇進しょうしんしている。

国政こくせいでは、立川談志たてかわだんし1971ねん昭和しょうわ46ねん)のだい9かい参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょ全国ぜんこく無所属むしょぞく立候補りっこうほ当選とうせん1969ねん昭和しょうわ44ねん)にも衆議院しゅうぎいん選挙せんきょきゅう東京とうきょうだい8無所属むしょぞく立候補りっこうほ落選らくせん)。2021ねんれい3ねん現在げんざいでは落語らくごかい唯一ゆいいつ国会こっかい議員ぎいん経験けいけんしゃであり、のちに自由民主党じゆうみんしゅとう入党にゅうとうし、1975ねん三木みき内閣ないかく沖縄おきなわ開発かいはつ政務次官せいむじかんつとめている(ただし、舌禍ぜっかにより在任ざいにん36にち辞任じにんしている)。

月亭つきていあさ参議院さんぎいん選挙せんきょに2かい立候補りっこうほだんこころざしおなじく1971ねん昭和しょうわ46ねんだい9かい参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょ全国ぜんこく無所属むしょぞく2001ねん平成へいせい13ねんだい19かい参議院さんぎいん議員ぎいん選挙せんきょ自由じゆう連合れんごう公認こうにん)していずれも落選らくせんしている。よんだいかつらしょう文枝ふみえも「かつらきん時代じだい2010ねん平成へいせい22ねんだい22かい参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょ比例ひれい代表だいひょう民主党みんしゅとう公認こうにん立候補りっこうほしたが落選らくせんした。

かつてプロ落語らくごだった著名ちょめいじん

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落語らくごから寄席よせ色物いろもの漫才まんざい漫談まんだんものまねコントなど)にてんじたケースをのぞく。またアマチュア落語らくごとして入門にゅうもんしたケース、すでした芸能人げいのうじんなどが落語らくごもやる場合ばあいのぞく。

親子おやこ落語らくご

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せい落語らくご)*順不同じゅんふどう太字ふとじ現役げんえき

祖父そふまご落語らくご

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義父ぎふ義子ぎし落語らくご

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養父ようふ養子ようし落語らくご

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日本語にほんご以外いがいでの落語らくごえんじる落語らくご

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日本語にほんご以外いがい言語げんご高座こうざつとめたプロの落語らくご正式せいしき入門にゅうもんしているもの

順不同じゅんふどう

なお、快楽かいらくていブラック(2代目だいめ父親ちちおや米国べいこくじんであるが、英語えいごはなせない。

代表だいひょうてき落語らくご

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明治めいじ以降いこうにおいて活躍かつやくした代表だいひょうてき落語らくごげる。その落語らくごについては落語らくご一覧いちらんCategory:落語らくご参照さんしょう

落語らくご四天王してんのう(らくごしてんのう)
とくすぐれた落語らくごを「四天王してんのう」として比喩ひゆされることがある。活躍かつやくした年代ねんだい拠点きょてんにより様々さまざま用法ようほうがある。人物じんぶつ詳細しょうさいかくリンクさき参照さんしょうこと
  1. 初代しょだい三遊亭圓朝さんゆうていえんちょう弟子でし初代しょだいさんゆうていえんさん.だいさんゆうていえんせいよん代目だいめさんゆうていえんせい代目だいめさんゆうていえんたちばな総称そうしょう圓朝えんちょう四天王してんのう)。
  2. 上方かみがた落語らくご明治めいじ活躍かつやくした初代しょだいかつらぶんすけかつら文左衛門ぶんざえもん代目だいめ月亭つきていあや初代しょだいかつらぶんだん総称そうしょう明治めいじ上方かみがた四天王してんのう
  3. 落語らくごむつみかい所属しょぞくしていたろく代目だいめ春風しゅんぷうてい柳橋やなぎばしはち代目だいめかつら文楽ぶんらく代目だいめかつらしょう文治ぶんじさん代目だいめ春風しゅんぷうていやなぎよしみ総称そうしょうむつみ四天王してんのう)。
  4. 当時とうじえかかっていた上方かみがた落語らくご復興ふっこう尽力じんりょくした、さん代目だいめ桂米朝かつらべいちょうさん代目だいめかつらはるだん六代目笑福亭松鶴代目だいめかつら文枝ふみえ総称そうしょう上方かみがた落語らくご四天王してんのう)。
  5. 1960年代ねんだいにテレビを中心ちゅうしんにしてこった演芸えんげいブームで台頭たいとうした、東京とうきょう当時とうじ若手わかて落語らくごであった7代目だいめ立川談志たてかわだんし代目だいめ三遊亭圓楽さんゆうていえんらくさん代目だいめ古今ここんていちょう代目だいめ春風しゅんぷうていやなぎあさ総称そうしょう東京とうきょう落語らくご四天王してんのう落語らくご評論ひょうろん川戸かわと貞吉さだきち代目だいめ春風しゅんぷうていやなぎあさはいして代目だいめがついええんきょうはち代目だいめたちばな圓蔵えんぞう)をくわえていた)。
初代しょだい三遊亭圓朝さんゆうていえんちょう(さんゆうていえんちょう)
江戸えど末期まっきから明治めいじにかけて活躍かつやくした落語らくご落語らくご筆記ひっき寄席よせ近代きんだい新作しんさく落語らくごなど、落語らくご近代きんだいくしたため「落語らくご中興ちゅうこう」としてあおがれ、現在げんざいも「圓朝えんちょう」や「圓朝えんちょうまつり」として法要ほうようやイベントにのこす。講談こうだんてき人情噺にんじょうばなし怪談かいだんばなし得意とくいとした。人情噺にんじょうばなしでは『塩原しおばら多助たすけ一代記いちだいき』『ぶんなな元結もとゆい(ぶんしちもっとい)』など、怪談かいだんばなしでは『牡丹ぼたん燈籠どうろう(ぼたんどうろう)』『けいるいふち(しんけいかさねがふち)』『乳房ちぶさえのき(ちぶさえのき)』などが代表だいひょうさくである。後述こうじゅつ林家はやしや彦六や後年こうねん桂歌丸かつらうたまる圓朝えんちょうさく怪談かいだんばなし得意とくいとしていた。
明治めいじ名士めいしであり、夏目なつめ漱石そうせき小説しょうせつなどにもえがかれた。はか谷中たになかにある。ちち初代しょだいたちばなまどか太郎たろう
代目だいめ古今ここんていこころざしなま(ここんていしんしょう)
きゅう旗本はたもと美濃部みのべ息子むすこだが、あそびがぎて勘当かんどうされ、げいこころざす。当初とうしょ落語らくごだけでなく講談こうだんもやっていたが、一向いっこうず、赤貧せきひん生活せいかつつづいた。当時とうじ様子ようすは『なめくじ艦隊かんたい』にくわしい。講談こうだんふく芸名げいめいを15かいえたことでも有名ゆうめい
戦争せんそうちゅうろく代目だいめさんゆうていえんせいとも満州まんしゅう巡業じゅんぎょうかけ、そのまま行方ゆくえ不明ふめい戦後せんご引揚ひきあげてから人気にんき落語らくごになる。十八番じゅうはちばんに『火焔かえん太鼓たいこ』、『唐茄子とうなす』など。ろく代目だいめさんゆうていえんせいをして「道場どうじょうならてるが、真剣しんけん立会たちあったらわたしられる」とわしめた。
破天荒はてんこう芸風げいふうでもあったが、1961ねんまつ脳出血のうしゅっけつたおれ、3かげつ昏睡こんすい半身不随はんしんふずいになりつつもやく1ねん復帰ふっきたしたが、豪快ごうかい芸風げいふうかげひそめこの時期じきさかいに「やまいまえ」「病後びょうご」と区切くぎことおおい。1968ねん最後さいご高座こうざからとおざかり、1973ねん9がつに83さい死去しきょした。
高座こうざって寝込ねこむなどエピソードもおおい。長男ちょうなんじゅう代目だいめ金原かなはらちんせい次男じなんさん代目だいめ古今ここんていちょうで、ともにちち弟子でしりしている。まごには女優じょゆうとなった池波いけなみ志乃しのがいる。
さん代目だいめさんゆうていきん(さんゆうていきんば)
大正たいしょうから昭和しょうわにかけて活躍かつやく禿あたま特徴とくちょうで「やかんの先生せんせい」ともばれた。
26さいわかさで真打しんうち昇進しょうしんし、古典こてん中心ちゅうしんちネタがおおく、博識はくしきまんにんけのわかりやすい落語らくご人気にんきあつめた。一方いっぽう評論ひょうろんからのけはよくなく、当時とうじ影響えいきょうりょくおおきかった久保田くぼた万太郎まんたろうやその弟子でしである安藤あんどう鶴夫つるおからは評価ひょうかされず、敵対てきたい関係かんけいとなっている。代表だいひょうてきなネタは『居酒屋いざかや』など。
東宝とうほう名人めいじんかい専属せんぞくであったため、定席じょうせき寄席よせ出演しゅつえんする機会きかいはなく、実質じっしつてきにフリーで活動かつどうしている。
趣味しゅみりで、そのことがもと晩年ばんねん列車れっしゃ事故じこ左足ひだりあしうしなったが、それでもしゃくだいあしかくしながら高座こうざつとめている。
1964ねん11月、肝硬変かんこうへんにより70さい死去しきょ弟子でしには人気にんきしゃとなったさんゆうてい小金こがねよん代目だいめきん代目だいめきんおきな)がおり、また、東京とうきょうだい空襲くうしゅう戦災せんさい孤児こじとなった知人ちじん中根なかね香葉子かよこ海老名えびな香葉子かよこ、のちの初代しょだい林家はやしや三平さんぺい夫人ふじん)を養女ようじょとしてっている。
はち代目だいめかつら文楽ぶんらく(かつらぶんらく)
はち代目だいめかつら文楽ぶんらく代目だいめ古今ここんていこころざしなまならんで昭和しょうわ落語らくごかいささえた。上野うえの西にし黒門くろもんまちげん東京とうきょう台東たいとう上野うえの1丁目ちょうめ)にまいがあったため、「黒門くろもんまち」ともばれた。はち代目だいめかつら文楽ぶんらく会長かいちょうであった落語らくご協会きょうかいきゅう西にし黒門くろもんまちにある。
はち代目だいめかつら文楽ぶんらくげい緻密ちみつで、演目えんもくすくなかったが絶品ぜっぴんとされた。げいたいしては自分じぶんにも他人たにんにもいかめしかった。本来ほんらいかつら文楽ぶんらくの「ろく代目だいめ」にたるが、はち末広すえひろがりで縁起えんぎがいいということで、勝手かってはち代目だいめ名乗なのった。代表だいひょうてき演目えんもくは『明烏あけがらす(あけがらす)』、『うなぎ幇間ほうかん(うなぎのたいこ)』など。
そのげいいちてんくるいもなくおこなわれるのが特徴とくちょうだったが、1971ねん昭和しょうわ46ねん国立こくりつしょう劇場げきじょうで『大仏だいぶつもち』を口演こうえんちゅう登場とうじょう人物じんぶつの「神谷かみや幸右衛門こうえもん」の名前なまえてこなくなり、「もう一度いちど勉強べんきょうなおしてまいります」と客席きゃくせきびて高座こうざりた。その高座こうざのぼることなく同年どうねん12がつぼっした。
さん代目だいめさんゆうていわらい(さんゆうていかしょう)
戦中せんちゅう前述ぜんじゅつさん代目だいめさんゆうていきん入門にゅうもんし、戦後せんご終戦しゅうせん直後ちょくごすさんだ世相せそう独特どくとく容貌ようぼう新作しんさく落語らくごあかるいわらいを提供ていきょうした。
寄席よせ活動かつどうからはなれていたきむ馬門まかどはなれて代目だいめさんゆうていえん門下もんか移籍いせきし、人形にんぎょうまち末廣すえひろ席亭せきてい知遇ちぐうるなど寄席よせでの活動かつどう評判ひょうばんた。戦後せんごまもなく真打しんうち昇進しょうしんし、元祖がんそ爆笑ばくしょうおう」「わらいの水爆すいばく」と異名いみょうて、おおくの劇場げきじょう満員まんいんにするなど一世いっせい風靡ふうびした。演目えんもく七五調しちごちょうの『うたわらい純情じゅんじょう詩集ししゅう』など抒情じょじょうふう新作しんさく落語らくごで、その初代しょだい林家はやしや三平さんぺいよん代目だいめかつら米丸よねまるなど新作しんさく目標もくひょうともなる存在そんざいでもあった。
人気にんき絶頂ぜっちょうであった1950ねん3がつ銀座ぎんざ松坂屋まつざかやまえ路上ろじょうべいぐんのジープにねられて32さい急逝きゅうせいした。真打しんうちとしての活動かつどうは2ねんはんわったが、うたわらい没後ぼつご親友しんゆうでもあったよん代目だいめやなぎていたのしが『らく綴方つづりかたきょうしつ』として芸風げいふうぎ、新作しんさくとしてブレイクした。
五代目古今亭今輔(ここんていいますけ)
昭和しょうわ初期しょきから中期ちゅうきにかけての新作しんさく落語らくごになで「新作しんさくげいきょう」としょうされる基礎きそつくった。当時とうじ評論ひょうろん久保田くぼた万太郎まんたろう安藤あんどう鶴夫つるお師弟してい影響えいきょうろく代目だいめさんゆうていえんせい後述こうじゅつ)などの古典こてん落語らくご礼賛らいさん風潮ふうちょう新作しんさく落語らくご評価ひょうかされず不遇ふぐうでもあったが、「古典こてん落語らくごも、できたときは新作しんさく落語らくごです」とのポリシーから、新作しんさく落語らくご創作そうさく普及ふきゅうつとめた。著名ちょめい作品さくひんとして『おばあさんさんだい』『青空あおぞらばあさん』などの『おばあさん落語らくご』シリーズでしたほか、柳家やなぎやかねろう名義めいぎゆうさきつとむ)がつくった人情噺にんじょうばなしふうの『ラーメン』や『バスガール』といった新作しんさくおもえんじた。また三遊亭圓朝さんゆうていえんちょうさく長編ちょうへん人情噺にんじょうばなし塩原しおばら多助たすけ一代記いちだいき』なども幅広はばひろえんじる。
1974ねんからは落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい2代目だいめ会長かいちょうとして、現在げんざいつづげいきょうない真打しんうち制度せいど基礎きそ確立かくりつにつとめた。1976ねん12月にがんのため78さい死去しきょした。
弟子でしとしてよん代目だいめかつら米丸よねまるさん代目だいめさんゆうていえんみぎくわえ、おなげいきょう所属しょぞく代目だいめ春風亭柳昇しゅんぷうていりゅうしょうよん代目だいめやなぎていたのしといった新作しんさく落語らくごつうじてげいきょうないがれていった。こん輔の弟子でしとして入門にゅうもんし、そのしょ事情じじょう兄弟子あにでし米丸よねまる門下もんかうつった古今ここんていいま桂歌丸かつらうたまる)も当初とうしょ新作しんさく落語らくごえんずる機会きかいもしばしばあり、本格ほんかくてき古典こてん落語らくご口演こうえん三遊亭圓朝さんゆうていえんちょうさくうずもれた作品さくひん発掘はっくつをライフワークにするのは壮年そうねん以降いこうとなっている。
初代しょだい林家はやしや三平さんぺい(はやしやさんぺい)
「よしこさーん」などの歌謡かようフレーズ、ギャグ駄洒落だじゃれれたスタイルで、高度こうど成長せいちょう一世いっせい風靡ふうびした落語らくご通称つうしょうは「根岸ねぎし師匠ししょう」。きゃくいじり絶妙ぜつみょうで、かれ寄席よせつね爆笑ばくしょううずであった。落語らくごとバラエティ番組ばんぐみ接点せってんひらいたタレントとしてもられる。
ちちなな代目だいめ林家はやしや正蔵しょうぞう)に落語らくごほどきをけるが、ちち死後しごはかつてちち弟子でしであったよん代目だいめがついええんきょうなな代目だいめたちばな圓蔵えんぞう)に師事しじする。
わかいころはげい未熟みじゅく指摘してきもあったが、大衆たいしゅう人気にんき絶大ぜつだいであった。円熟えんじゅくむかえた直後ちょくごの1979ねん正月しょうがつ脳溢血のういっけつたおれ、療養りょうよう同年どうねん10がつには奇跡きせき復帰ふっきたすが、そのやく1ねんの1980ねん9がつ肝臓かんぞうがんにより54さいわかさで死去しきょした。正蔵しょうぞう襲名しゅうめいついにかなわず、柳家やなぎやしょうさんつきいええんきょうなどの襲名しゅうめいのすすめも辞退じたい[30]生涯しょうがいひとめいとおした。代表だいひょうてき演目えんもくは『源平げんぺい盛衰せいすい』。
弟子でしとして惣領そうりょう弟子でし林家はやしやこんたいら(2020ねん12月死去しきょ)がさんひら死後しご一門いちもん牽引けんいんし、ギター漫談まんだん林家はやしやペーなどの色物いろもの芸人げいにんやタレントもおおかかえており、三平さんぺい一門いちもん落語らくご協会きょうかいでも一大いちだい勢力せいりょくとなっている。長男ちょうなんきゅう代目だいめ林家はやしや正蔵しょうぞうぜん:こぶへい)は存命ぞんめいちゅうさんたいらに(三平さんぺいはこんひら門下もんかうつる)、次男じなん代目だいめ三平さんぺいぜん:いったいら)は三平さんぺい死後しご、こんたいらにそれぞれ弟子でしりした。むすめもと女優じょゆう海老名えびなどり俳優はいゆうみね竜太りゅうた夫人ふじん)、泰葉やすは春風亭小朝しゅんぷうていこあさもと夫人ふじん)。まご林家はやしやたまたいら正蔵しょうぞう長男ちょうなん)、林家はやしやぽんひらた正蔵しょうぞう次男じなん)がおり、たまひらめ、ぽんひら兄弟きょうだいいずれもにんちちであるきゅう代目だいめ正蔵しょうぞう弟子でしりしている。
ろく代目だいめさんゆうていえんせい(さんゆうていえんしょう)
昭和しょうわ落語らくごかい代表だいひょうする人物じんぶつ一人ひとりで、通称つうしょう柏木かしわぎ師匠ししょう」。
もと子供こども義太夫ぎだゆう出身しゅっしんで、継父けいふ代目だいめさんゆうていえんせいつ。代目だいめえんせい師匠ししょうであるよん代目だいめたちばな圓蔵えんぞう門下もんかとなり、師匠ししょう継父けいふ優遇ゆうぐうされるも、どう名跡みょうせき襲名しゅうめいするまでなかなかなかった。戦後せんごラジオ東京とうきょうげん:TBSラジオ)と専属せんぞく契約けいやくむすぶと、人気にんき落語らくご一人ひとりとなる。NHKの連続れんぞくテレビ小説しょうせつおはなはん出演しゅつえんなど俳優はいゆうとしても活動かつどうした。
おも活動かつどう舞台ぶたいとしたのはホール落語らくごで、独演どくえんかいおおひらくなど、古典こてん落語らくご中心ちゅうしんとした本格ほんかくてき落語らくごとなる。また、メディアへの出演しゅつえんおお一方いっぽうで、『えんせいひゃくせき』などLPレコード収録しゅうろく積極せっきょくてきった。
その反面はんめん非常ひじょう圭角けいかくのある人物じんぶつでもあり、げいたいしての姿勢しせい自身じしんの「古典こてん落語らくご至上しじょう主義しゅぎ[注釈ちゅうしゃく 37]などもあり、はち代目だいめ林家はやしや正蔵しょうぞう林家はやしや彦六)やよん代目だいめすずしゃうまふうなど終生しゅうせいそりがわなかった人物じんぶつおおく、落語らくご協会きょうかい会長かいちょう在籍ざいせきには自身じしん真打しんうちたいするポリシーから真打しんうち昇進しょうしんほとんおこなわなかった。このため、ふた大量たいりょう滞留たいりゅうする結果けっかとなり、落語らくご協会きょうかい分裂ぶんれつ騒動そうどう伏線ふくせんになったとされる。
晩年ばんねんの1978ねん大量たいりょう真打しんうち昇進しょうしんめぐって代目だいめ柳家やなぎやさん執行しっこう対立たいりつし、代目だいめ三遊亭圓楽さんゆうていえんらく一門いちもんれ、落語らくご協会きょうかい離脱りだつし「落語らくごさんゆう協会きょうかい」を設立せつりつした(「落語らくご協会きょうかい分裂ぶんれつ騒動そうどう」)。しかし「さんゆう協会きょうかい」は江戸えどのすべての寄席よせからしをらい、ホール落語らくご中心ちゅうしんとして活動かつどうすることとなった。よく1979ねん9がつ3にち自身じしんの79さい誕生たんじょう高座こうざしょうはなし口演こうえん心筋梗塞しんきんこうそくたおれ、死去しきょ前述ぜんじゅつ騒動そうどう影響えいきょうもあり、これ以降いこうえんせい名跡みょうせき事実じじつじょう封印ふういん状態じょうたいとなっている。
林家はやしや彦六(はやしやひころく)(はち代目だいめ林家はやしや正蔵しょうぞう
通称つうしょう稲荷町いなりちょう師匠ししょう」。また「彦六の正蔵しょうぞう」ともわれる。海老名えびなよりいちだいかぎりの約束やくそくで「林家はやしや正蔵しょうぞう」の名跡みょうせきりて「8代目だいめ」として襲名しゅうめい三平さんぺい没後ぼつご正蔵しょうぞう名跡みょうせき返上へんじょうし「林家はやしや彦六」を襲名しゅうめいした。
古典こてん落語らくごとく怪談かいだんばなし芝居しばいばなしられ、芝居しばいばなしとくした独演どくえんかい岩波いわなみホール定期ていきてきひらいたり、記録きろく映画えいが多数たすうのこしている。
がったことが大嫌だいきらいな性格せいかくから「トンガリ」ともわれ、前出ぜんしゅつろく代目だいめえんせいとは終生しゅうせいそりがわなかった。また、自身じしんにまつわる様々さまざまなエピソードをのこしており、独特どくとく発声はっせいほう仕草しぐさ落語らくごから真似まねをされることもおおく、弟子でしである林家はやしやひさおうぎ初代しょだい林家はやしや久蔵きゅうぞう)によりエピソードをもとにしたばなしである『彦六でん』でネタにされている。
1982ねん1がつ、86さい死去しきょ弟子でしには前出ぜんしゅつひさおうぎ代目だいめ春風しゅんぷうていやなぎあさ代目だいめ圓楽えんらく門下もんか移籍いせきまえさんゆうていこうらく当時とうじ林家はやしや九蔵くぞう)らがおり、このほか「落語らくご協会きょうかい分裂ぶんれつ騒動そうどう」でえんせいから破門はもんされた春風しゅんぷうていいちやなぎもとさんゆうてい好生よしお)を客分きゃくぶんかく弟子でしとしてあずかっている。
代目だいめ柳家やなぎやさん(やなぎやこさん)
滑稽こっけいばなし得意とくいとし昭和中しょうわなか後期こうき中心ちゅうしん活躍かつやく通称つうしょう目白めじろ師匠ししょう」。とく蕎麦そばをすするげい有名ゆうめい落語らくごかいはつ重要じゅうよう無形むけい文化財ぶんかざい保持ほじしゃ人間にんげん国宝こくほう)に認定にんていされたことでもられる。前座ぜんざ時代じだいに「二・二六事件ににろくじけん」でクーデターがわ二等兵にとうへいとして参加さんかしていたことは有名ゆうめいである。
落語らくご協会きょうかい会長かいちょうとして1976ねんから24年間ねんかんにわたり在職ざいしょくし、真打しんうち制度せいど改革かいかく一方いっぽう前述ぜんじゅつの「落語らくご協会きょうかい分裂ぶんれつ騒動そうどう」や弟子でしであった立川談志たてかわだんし一門いちもん離脱りだつ落語らくご立川たつかわりゅう設立せつりつ)をこしている。
メディアやテレビCM出演しゅつえんおおく、永谷園ながたにえん即席そくせき味噌汁みそしるあさげ」や須藤すとう石材せきざいなどのCM出演しゅつえんながつとめた。
2002ねん5がつ、87さい死去しきょ面倒めんどうさから直弟子じきでしすうは30めい以上いじょう孫弟子まごでし曾孫そうそん弟子でしふくめると落語らくご協会きょうかいでは100めい以上いじょう勢力せいりょくほこ系譜けいふとなっている。また、代目だいめすずしゃうまふうじゅう代目だいめ柳家やなぎやしょう三治さんじ後述こうじゅつ)、よん代目だいめやなぎてい柳家やなぎやさんたかし一門いちもんから4にん落語らくご協会きょうかい会長かいちょうとなっている。実子じっしろく代目だいめ柳家やなぎやさんおい柳家やなぎや花緑はなみどりがおり、いずれも代目だいめさん門下もんかろく代目だいめさんは代目だいめ没後ぼつご兄弟子あにでしうまふう門下もんか移籍いせき)である。
さん代目だいめさんゆうていえん(さんゆうていえんか)
おも新作しんさく落語らくご得意とくいとし、初代しょだい林家はやしや三平さんぺいとともに「爆笑ばくしょう落語らくご」の分野ぶんや第一人者だいいちにんしゃとして活躍かつやくまえめいの「うたやつ」としてもられる。メディア出演しゅつえんおおかったが、えん襲名しゅうめい高座こうざへの出演しゅつえん比率ひりつたかくなる一方いっぽうで、1985ねんには日蓮宗にちれんしゅう僧侶そうりょとして得度とくどしている。
みずか吃音きつおんしゃであったことを逆手さかてり、新作しんさく落語らくご授業じゅぎょうちゅう通称つうしょうやまのあな)』で人気にんきはくした。また、浪曲ろうきょくきがこうじて木村きむらわかまもる入門にゅうもんして自作じさくの『浪曲ろうきょく社長しゃちょう』などに導入どうにゅうしている。『宮戸みやとがわ』などの古典こてん落語らくごえんじる一方いっぽうで、晩年ばんねん自叙伝じじょでんてきなネタであるばなしの『中沢なかざわ人々ひとびと』をえんじる機会きかいおおかった。
以前いぜん落語らくごかい常識じょうしきくつがえし、眼鏡めがね姿すがたでの高座こうざ出演しゅつえん江戸えど落語らくごでははじめて女性じょせい弟子でし三遊亭歌さんゆうていか)を真打しんうちそだげている。1996ねんから10年間ねんかん先述せんじゅつの5代目だいめ柳家やなぎやさんの後任こうにんとして落語らくご協会きょうかい会長かいちょうつとめた。2017ねん4がつ、88さい死去しきょ弟子でしには先述せんじゅつ角界かくかいから異色いしょく転身てんしんたしたさんゆうてい武蔵むさし色物いろもの三味線しゃみせん漫談まんだんおんな道楽どうらく)のだい立花たちばな家橘かきつこれすけなどがおり、そのなかよん代目だいめえん名跡みょうせき弟子でしさんゆうていかいが2019ねん3がつ襲名しゅうめいした。
代目だいめ春風亭柳昇しゅんぷうていりゅうしょう(しゅんぷうていりゅうしょう)
おも新作しんさく落語らくご得意とくいとし、よん代目だいめかつら米丸よねまるとともに、すで新作しんさく落語らくごせていたこん輔につづかたちで「新作しんさくげいきょう」の象徴しょうちょうともなった。桂歌丸かつらうたまる柳昇りゅうしょう落語らくご落語らくごになるきっかけとなった。
太平洋戦争たいへいようせんそう従軍じゅうぐん経験けいけんがあり、ゆびすうほん負傷ふしょうした。このことから使つかった表現ひょうげんおお古典こてん落語らくごより新作しんさく落語らくご比重ひじゅういて活動かつどうし、人気にんき落語らくごとなった。メディア出演しゅつえんおおく、フジテレビ『わらいタッグマッチ』の司会しかい人気にんきあつめ、自身じしんのネタでもある『与太郎よたろう戦記せんき』は書籍しょせき映画えいがされた。ゆうきまさみ漫画まんが究極きゅうきょく超人ちょうじんあ〜る』の春風しゅんぷう高校こうこう校長こうちょう柳昇りゅうしょう(やなぎのぼる)のモデルであり、どうさくのドラマCDでは本人ほんにんこえてている。
落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかいでの役職やくしょくふく会長かいちょうとどまったが、一方いっぽう後述こうじゅつよん代目だいめさんゆうていきん代目だいめきんおきな)とともに「日本にっぽん演芸えんげい連合れんごう」の理事りじちょうとして、国立こくりつ演芸えんげいじょう設立せつりつたずさわるなど、演芸えんげいかい地位ちい向上こうじょう発展はってんのためにも尽力じんりょくしている。
2003ねん6がつ、82さい死去しきょ弟子でし師匠ししょうおな新作しんさく落語らくご中心ちゅうしん活動かつどうするさん代目だいめむかしむかしちん桃太郎ももたろう対照たいしょうてき古典こてん落語らくご中心ちゅうしん活動かつどうする瀧川たきがわこいのぼる新作しんさく古典こてんともにじゅくしメディアでも活躍かつやくせ、げいきょう会長かいちょうとなった春風しゅんぷうていのぼりふとしらがいる。
桂歌丸かつらうたまる(かつらうたまる)
立川談志たてかわだんし代目だいめ三遊亭圓楽さんゆうていえんらくらとともに日本にほんテレビ『わらいてん』の放送ほうそう開始かいしからの出演しゅつえんしゃで、5代目だいめ司会しかいつとめた。
積極せっきょくてきなメディア出演しゅつえん一方いっぽうで、円熟えんじゅく以降いこう高座こうざでは古典こてん落語らくご中心ちゅうしんえんじ、後年こうねん初代しょだい三遊亭圓朝さんゆうていえんちょうさく怪談かいだんばなしなどの演目えんもくすたれたはなし発掘はっくつ積極せっきょくてきった。
入門にゅうもんは五代目古今亭今輔(前述ぜんじゅつ門下もんかであったが、新作しんさく中心ちゅうしん師匠ししょうとの芸風げいふう乖離かいりこうばん不満ふまんったこともあり、一時いちじ落語らくご廃業はいぎょう。そのおなこん輔門兄弟子あにでしであるよん代目だいめかつら米丸よねまる門下もんかとして復帰ふっきし、米丸よねまる一門いちもん惣領そうりょう弟子でしとなった。落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい会長かいちょうとして2004ねんから2018ねん死去しきょまで在職ざいしょくし、出身しゅっしん居住きょじゅうである横浜よこはまにある横浜よこはまにぎわいの2代目だいめ館長かんちょうつとめた。誕生たんじょうから死没しぼつまで横浜よこはま下町したまちてき地域ちいきである「真金まがねまち」でごしており、地域ちいき象徴しょうちょうとしてもあいされた存在そんざいであった。
晩年ばんねん度重たびかさなる病気びょうきとのたたかいで、「わらいてん司会しかいしゃ勇退ゆうたいしてからは高座こうざでの活動かつどうがメインとなったが、慢性まんせい閉塞へいそくせいはい疾患しっかん影響えいきょう酸素さんそ吸入きゅうにゅうかせない状態じょうたいとなっていた。2018ねん7がつ、81さい死去しきょ弟子でしかつらうたはるのほか4めいいる。
じゅう代目だいめ柳家やなぎやしょう三治さんじ(やなぎやこさんじ)
5代目だいめ柳家やなぎやさん門下もんかで、落語らくごとしては師匠ししょうゆずりの滑稽こっけいばなし中心ちゅうしんとした古典こてん落語らくごくわえ、おおくのネタを落語らくごとして活躍かつやく。2004ねん10がつには落語らくごではの5代目だいめさん、桂米朝かつらべいちょうつづく3にん重要じゅうよう無形むけい文化財ぶんかざい保持ほじしゃ人間にんげん国宝こくほう)に認定にんていされた。通称つうしょう高田馬場たかだのばば師匠ししょう」。
都立とりつ青山あおやま高校こうこう在学ざいがくちゅうから素人しろうと参加さんか演芸えんげい番組ばんぐみ出演しゅつえんし、高校こうこう卒業そつぎょう代目だいめしょうさんに入門にゅうもん。1969ねんに17にんきで真打しんうち昇進しょうしんし、じゅう代目だいめしょうさん襲名しゅうめいした。以降いこう死去しきょやなぎめいであるさんを襲名しゅうめいせず、しょうさんのままとおした。2010ねんから4年間ねんかん落語らくご協会きょうかい会長かいちょうつとめており、在任ざいにんちゅうすうめい抜擢ばってき真打しんうちおこなっている。
高座こうざではマクラにも定評ていひょうがあり「マクラのしょう三治さんじ」ともしょうされ、エッセイふうはなし全編ぜんぺんマクラだけの高座こうざ、さらには高座こうざにグランドピアノをれて自身じしん歌唱かしょうする演目えんもくもかけたことがある。またバイクや俳句はいくくさ野球やきゅう、オーディオ鑑賞かんしょうなど多趣味たしゅみでもられた。
2021ねん10がつ、81さい死去しきょ。リウマチをかかえながらもさい晩年ばんねんまで現役げんえきとして活動かつどうし、くなる5にちまえまで高座こうざがっていた。弟子でし柳家やなぎや喜多きたはち(2016ねん5がつ死去しきょ)、柳家やなぎやさんさんなどがいる。
さんゆうていえんたけ(さんゆうていえんじょう)
前出ぜんしゅつの6代目だいめさんゆうていえんせいななばん弟子でしで、おもに1980年代ねんだい以降いこう新作しんさく落語らくごになとして、落語らくごにもおおくの影響えいきょうあたえた。
もっともえん生存せいぞんいのち気難きむずかしい新作しんさく嫌悪けんお影響えいきょうもあり、古典こてん落語らくご中心ちゅうしん活動かつどうしていた。落語らくご協会きょうかい分裂ぶんれつ騒動そうどうではしたがって一時いちじ落語らくご協会きょうかいはなれたが、死去しきょによる解散かいさんにより落語らくご協会きょうかい復帰ふっき。このころから本格ほんかくてき新作しんさく落語らくごむようになり、SF小説しょうせつのような独特どくとく世界せかいかんつ「実験じっけん落語らくご」を創作そうさく柳家やなぎやしょうゑんゆめ月亭つきていきよし麿まろなどとともに渋谷しぶやジァン・ジァンなどで定期ていきてき落語らくごかいひらいて、あらたなファンそう獲得かくとくした。おも創作そうさく演目えんもくは『かなしみは埼玉さいたまけて』『こえたつ一代記いちだいき』『ぺたりこん』『グリコ少年しょうねん』など多数たすうある。
えんたけの「実験じっけん落語らくご」に影響えいきょうされた人物じんぶつとして、直弟子じきでしさんゆうてい白鳥はくちょうのほか、春風しゅんぷうていのぼりふとし柳家やなぎやたかし太郎たろう林家はやしや彦いちといった当時とうじ若手わかて落語らくごや、同様どうよう上方かみがた創作そうさく落語らくご頻繁ひんぱんつくっていたかつら三枝みえろく代目だいめかつら文枝ふみえ)などがおり、えんたけさく作品さくひんちネタにする落語らくごおおい。
多趣味たしゅみでもられ、狛犬こまいぬ研究けんきゅう草創そうそうからパソコンやコンピューターゲームにも精通せいつうし、連載れんさいっていた。著書ちょしょおおいが、そのなかで『乱心らんしん 落語らくご協会きょうかい分裂ぶんれつと、えんせいとその弟子でしたち』や『落語らくご通信つうしん簿』では暴露ばくろほんてき内容ないようどう業者ぎょうしゃ批判ひはんなどもふくまれており、物議ぶつぎかもしている。
晩年ばんねん急性きゅうせいかたまく血腫けっしゅわずら闘病とうびょうしていたが、2021ねん11月、76さい死去しきょ弟子でしには先述せんじゅつ白鳥はくちょう惣領そうりょう弟子でし町田まちだ市議会しぎかい議員ぎいんとしても活動かつどうするさんゆうていらんたけ新作しんさく古典こてん双方そうほうじゅく期待きたいされているさんゆうていてんどん、2024ねん抜擢ばってき真打しんうち昇進しょうしんしたさんゆうていわんたけえんたけ死後しごてんどん一門いちもんあずかり)がいる。
代目だいめさんゆうていきんおう(さんゆうていきんおう)(よん代目だいめさんゆうていきん
前出ぜんしゅつさん代目だいめさんゆうていきん弟子でしで、死後しごちょうきにわた名乗なのったよん代目だいめきん、またぜん小金こがねとしてられる。
テレビ放送ほうそう草創そうそうのNHK『わらさん人組にんぐみ』に講談こうだんいちりゅうひとしさだおおとり物真似ものまねさん代目だいめ江戸家えどや猫八ねこはちとともに出演しゅつえんし、テレビタレントとしても人気にんきた。一時期いちじきわらいてん』の大喜だいぎとぎメンバーでもあった。
きむうま襲名しゅうめい徐々じょじょ寄席よせでの活動かつどうにシフトするとともに、しゃがれごえかりやすいかたくち新作しんさく古典こてん落語らくご双方そうほうじゅくし、ネタすう屈指くっしほこった。またおも寄席よせ芸人げいにん団体だんたい集結しゅうけつして地位ちい向上こうじょう目指めざした「日本にっぽん演芸えんげい連合れんごう」の理事りじちょう会長かいちょうなどを歴任れきにんし、先述せんじゅつ柳昇りゅうしょうとともに国会こっかい議員ぎいんなどへ国立こくりつ演芸えんげいじょう設立せつりつけてのロビイングなどでも尽力じんりょくし、その結果けっか1979ねん国立こくりつ演芸えんげいじょう開場かいじょうするなど功績こうせきのこした。また、分裂ぶんれつ状態じょうたいにあった東京とうきょう講談こうだんさかいさい統一とういつ講談こうだん協会きょうかい結成けっせい)にも仲介ちゅうかいやくたした。このほか、毎年まいとしなつ恒例こうれい大喜だいぎとなっていた『住吉すみよしおど』の座長ざちょう古今ここんていちょう死去しきょぐなど、伝統でんとう芸能げいのう継承けいしょう後進こうしん育成いくせいにもつとめた。
2020ねんあきに「かね」の名跡みょうせき実子じっしである金時きんとき襲名しゅうめいし、自身じしん隠居いんきょめいである「きむおう」を代目だいめとして襲名しゅうめい。そのさい晩年ばんねんまで現役げんえきとして活動かつどうした。2022ねん8がつ、93さい死去しきょ戦中せんちゅう入門にゅうもんかられいまで活動かつどうし、江戸えど落語らくご芸歴げいれき最古さいこ落語らくごとなっていた。
ろく代目だいめ三遊亭円楽さんゆうていえんらく(さんゆうていえんらく)
東京とうきょう落語らくご四天王してんのう」の一人ひとりであった代目だいめ三遊亭圓楽さんゆうていえんらく直弟子じきでしとしてはばん弟子でしうつりもんふくめればこうばんじゅんに4番目ばんめ)となる。青山学院大学あおやまがくいんだいがく在学ざいがくから代目だいめ圓楽えんらくかばんちのバイトをつとめ、その正式せいしき入門にゅうもんだい師匠ししょうろく代目だいめさんゆうていえんせいから「らく太郎たろう」と名付なづけられ、ながらくその活動かつどうする。
日本にほんテレビ『わらいてん』にはアシスタントをて、ろく代目だいめさんゆうていえんまど降板こうばんとともにレギュラーに起用きようされ、以後いごくなるまで40年余ねんよにわたり出演しゅつえん大喜だいぎでは博識はくしき回答かいとうとともに「腹黒はらぐろキャラ」をりに、前出ぜんしゅつ歌丸うたまるとの罵倒ばとう合戦かっせん番組ばんぐみげた。『わらいてん以外いがいにもタレントとしてメディア出演しゅつえんおおかった。
落語らくご協会きょうかい分裂ぶんれつ騒動そうどう円楽えんらく一門いちもんかい旗揚はたあげには終始しゅうし一貫いっかんしてとともに行動こうどうする。2010ねん2がつろく代目だいめ圓楽えんらく円楽えんらく)を襲名しゅうめい本来ほんらい名跡みょうせき生前せいぜん贈与ぞうよとなる予定よていであったが、前年ぜんねん10がつ代目だいめくなったため、そろみはかなわなかった。
ろく代目だいめ襲名しゅうめい落語らくごかい東西とうざい交流こうりゅうにも尽力じんりょくし、自身じしんがプロデュースする「博多はかた天神てんじん落語らくごまつり」は初回しょかいの2007ねん以来いらい現在げんざいつづ東西とうざい落語らくご多数たすう集結しゅうけつする一大いちだいイベントに成長せいちょうしている。一方いっぽう寄席よせ出演しゅつえんできない円楽えんらく一門いちもんかい存在そんざいかんたかめるためにかく団体だんたいとの橋渡はしわたやくつとめ、落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかいへの合流ごうりゅうこころみたがかなわなかったことから、自身じしん落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい客員きゃくいんとして加入かにゅうしたほか新宿しんじゅく末廣すえひろていへの圓楽えんらく一門いちもん継続けいぞくてき出演しゅつえんへのきっかけをつくった。また、前出ぜんしゅつ騒動そうどう空中くうちゅう分解ぶんかいしたきゅうえんせい一門いちもん関係かんけい改善かいぜんにもつとつづけた。
晩年ばんねん同様どうよう闘病とうびょう連続れんぞくはいがん、さらにのう梗塞こうそくわずらった。一時いちじ高座こうざにも復帰ふっきしたが、2022ねん9がつ、72さい死去しきょ封印ふういん状態じょうたいにあったさんゆうていえんせい襲名しゅうめい名乗なのりをげた矢先やさきとなった。弟子でし惣領そうりょう弟子でしさんゆうていらくせいらのほか実子じっし声優せいゆうかい一太郎いちたろうさんゆうてい一太郎いちたろう)も門下もんか。また放送ほうそう作家さっか石田いしだあきらようとタレントの伊集院いじゅういんひかりりょうもと弟子でし廃業はいぎょう身内みうちとして交流こうりゅうつづけていた。
代目だいめ桂枝雀かつらしじゃく(かつらしじゃく)
上方かみがた落語らくご立役者たてやくしゃ神戸こうべ出身しゅっしん元々もともと実弟じっていマジカルたけし)と素人しろうと漫才まんざいでならしたが、大学だいがく落語らくご転向てんこうし、さん代目だいめ桂米朝かつらべいちょう入門にゅうもん師匠ししょうゆずりの古典こてん落語らくごえんじる。しかし古典こてん美学びがくきわめるより、わらいをもとめて精進しょうじん結果けっか、「爆笑ばくしょうおう」の異名いみょうる。その一方いっぽうで『貧乏神びんぼうがみ』『雨乞あまご源兵衛げんべえ』『茶漬ちゃづけえんま』『ロボットしずかちゃん』などしょう佐田さた定雄さだおさく新作しんさく落語らくごえんじることもおおく、英語えいごのレッスンをけて英語えいご落語らくごにも挑戦ちょうせんしている。また、本業ほんぎょう落語らくごのほか、タレント・俳優はいゆうとしても活躍かつやく
自身じしん持論じろんとして「緊張きんちょう緩和かんわ」によってわらいがこるとした。弟子でし妻子さいしにもめぐまれたが、晩年ばんねんげいなやんでうつびょうになった。円熟えんじゅくむかえる直前ちょくぜんの1999ねん4がつ自宅じたく首吊くびつ自殺じさつはかり、59さいわかさで死去しきょ
弟子でしさん代目だいめかつら南光なんこうさん代目だいめかつらすずめ三郎さぶろうらがおり、長子ちょうしかつらりょうばえだすずめ弟弟子おとうとでしである代目だいめかつらざこば(2024ねん死去しきょ)に入門にゅうもんしている。
三代目笑福亭仁鶴(しょうふくていにかく)
上方かみがた落語らくごささえた一人ひとりで、吉本興業よしもとこうぎょう所属しょぞくのテレビタレントとしても活躍かつやくした。
アマチュア時代じだいからすうおおくの素人しろうと参加さんか演芸えんげい番組ばんぐみ出演しゅつえんし、その6代目だいめわらいぶくていまつづる入門にゅうもんしたが、一門いちもん松竹しょうちく芸能げいのう所属しょぞくであったのにたいし、仁鶴にかく師匠ししょうすすめもあり吉本興業よしもとこうぎょう所属しょぞくし、くなるまで同社どうしゃ所属しょぞくタレント(2005ねん以降いこう吉本興業よしもとこうぎょう特別とくべつ顧問こもんにも就任しゅうにん)として活動かつどうした。このことから「吉本よしもと中興ちゅうこう」ともひょうされる。『ABCヤングリクエスト』『ヤングおー!おー!』『バラエティー生活せいかつわらい百科ひゃっか』『大阪おおさかほんわかテレビ』などおおくのメディア出演しゅつえんかかえ、「どんなんかな~」「四角しかく仁鶴にかくがまぁーるくおさめまっせぇ」といったフレーズが人気にんきんだ。つま吉本よしもとしん喜劇きげきでも活動かつどうしたえい隆子たかこ(2017ねん6がつ死別しべつ)。
本業ほんぎょう落語らくごでは師匠ししょうおしえもあり、バリトンボイスで的確てきかく描写びょうしゃりょくってじっくりとかせる正統せいとう噺家はなしかとして上方かみがた落語らくごかい重鎮じゅうちんとしても活躍かつやくした。
2017ねん以降いこう体調たいちょう不良ふりょうつづき、メディア・高座こうざからとおざかっていたが、2021ねん8がつ骨髄こつづい形成けいせい症候群しょうこうぐんのため84さい死去しきょ弟子でし上方かみがた落語らくご協会きょうかい会長かいちょう新作しんさく中心ちゅうしん活動かつどうするわらいぶくていひとしさとしらがいる。

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく

編集へんしゅう
  1. ^ れいとして、立川たちかわだんこう門下もんか立川たちかわ吉幸よしゆきみゆきこれしん落語らくご立川たつかわりゅうふた昇進しょうしんしていたが、師匠ししょうだんこうとともに落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい移籍いせきしたさいは、よしみゆきは1年間ねんかんみゆきこれしんは2年間ねんかん前座ぜんざ修業しゅうぎょうあらためてされた。
  2. ^ 辞書じしょ掲載けいさいされているかたちではふただが、最近さいきんでは表記ひょうきされていることがおおい。この表記ひょうきについてはとくまりがく、ひとによっては仮名かめいちいさく場合ばあいもある。
  3. ^ ただし、2012ねん2がつ26にち放送ほうそうフジテレビだい日本にっぽんアカン警察けいさつ」で、ろく代目だいめ三遊亭円楽さんゆうていえんらくがゲスト出演しゅつえんしたさい円楽えんらく一門いちもんによる地方ちほう公演こうえん密着みっちゃく取材しゅざいVTRがあったが、円楽えんらく弟子でしさんゆうていらくだい当時とうじふたでありながらかばんちなどびと仕事しごとをしており、ケースバイケースになっている。
  4. ^ ただし、落語らくご時代じだい伊集院いじゅういんひかり当時とうじさんゆうていらくだい)、現役げんえき落語らくごではたちばな蔵之助くらのすけさんゆうていとむ春風しゅんぷうていのぼりふとしかつらたけまる古今ここんてい菊丸きくまるさんゆうていこう青年せいねんなどが前座ぜんざ身分みぶんでありながらテレビ・ラジオに出演しゅつえんしている。また、ミスiD2016ファイナリストに選出せんしゅつされた林家はやしやつるは、2015ねんなつ応募おうぼ前座ぜんざであった。
  5. ^ 例外れいがいとして、落語らくごさんゆう協会きょうかい所属しょぞくであったろく代目だいめさんゆうていえんせい死去しきょしたさいであったさんゆうていあさひせいさんゆうていえんりゅう)、さんゆうていうめせいなな代目だいめさんゆうていえんこのみ)などのれいげられる。えん生直きすぐもん前座ぜんざ弟子でしえんせい死去しきょけて落語らくご協会きょうかい復帰ふっきすることとなったが、どう時期じき落語らくご協会きょうかい復帰ふっきしたえんせい門下もんか真打しんうちかれらの兄弟子あにでしとなるまどかわたるなますけえんまどまどかたけ)の門下もんかなおことゆるされず、師匠ししょうがいない落語らくご協会きょうかいあずかりの身分みぶんとしてかれる異例いれい状態じょうたいとなった。「えんせい一門いちもん事実じじつじょう解体かいたい」ともえ「落語らくご協会きょうかい分裂ぶんれつ騒動そうどう」をこしたえんせい一門いちもんへの制裁せいさいとの見方みかたがある(詳細しょうさい)。
  6. ^ 基本きほんてき自身じしん師匠ししょう以外いがいでは、入門にゅうもん時点じてん真打しんうちだった兄弟子あにでしは〇〇師匠ししょう入門にゅうもん時点じてん以下いかだった兄弟子あにでし場合ばあいはその兄弟子あにでし真打しんうち昇進しょうしんも〇〇にいさんもしくは〇〇さんとばれる場合ばあいおおい。また、おな師匠ししょう兄弟きょうだい弟子でしでもうえほう兄弟子あにでししたほう弟弟子おとうとでし大幅おおはば年齢ねんれい経験けいけん年数ねんすうはなれていると、弟弟子おとうとでしはその兄弟子あにでしに〇〇師匠ししょうぶのが通例つうれいである。女流じょりゅう場合ばあい入門にゅうもん時点じてん以下いかだったあね弟子でし場合ばあいは〇〇おねえさんや〇〇ねえさんとばれる場合ばあいおおい。
  7. ^ 例外れいがいとして、初代しょだい林家はやしや三平さんぺい当時とうじふた身分みぶんであったにもかかわらず、林家はやしやちんひらた三平さんぺい真打しんうち昇進しょうしんどう時期じき廃業はいぎょうし、俳優はいゆう転向てんこうしている)や林家はやしやこんたいらなどを弟子でしにしている(林家はやしやこんたいら#来歴らいれき人物じんぶつ参照さんしょう)。初代しょだいさんひら夫人ふじん海老名えびな香葉子かよこによれば、こんたいらすでに「ばん弟子でし」であったという[5]
  8. ^ 地上波ちじょうはわらいてん真打しんうち昇進しょうしん披露ひろう口上こうじょう収録しゅうろく放送ほうそうされていないのは、落語らくご協会きょうかいは2020ねん3がつから2023ねん3がつ昇進しょうしんしゃまでのけい21にん落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかいは2020ねん2がつから2022ねん5がつ昇進しょうしんしゃまでのけい11にんやなぎていしょうらくのぞ成金なりきん(落語らくごユニット) メンバー全員ぜんいん春風しゅんぷうていのぼりきち)、円楽えんらく一門いちもんかいは2020ねん4がつと2022ねん6がつ昇進しょうしんしゃけい3にんさんゆうてい一太郎いちたろうじょ)、落語らくご立川たつかわりゅうは2020ねん4がつと2021ねん9がつ昇進しょうしんの2めい。なお、2019ねん9がつ真打しんうち昇進しょうしんしたやなぎていしょうらく(3代目だいめは、披露ひろう口上こうじょう収録しゅうろく当日とうじつ仕事しごとのため欠席けっせき録画ろくがコメントのみ、落語らくご協会きょうかい真打しんうちのみの口上こうじょうとなっている。
  9. ^ なお、一太郎いちたろう同時どうじ昇進しょうしんしたさんゆうていこう一郎いちろうさんゆうていこうらく門下もんか)は、パーティー・披露ひろう興行こうぎょうなどは通常つうじょうおなじように開催かいさいされたが、わらいてんでの紹介しょうかい口上こうじょうおこなわれていない。
  10. ^ 例外れいがいとして不祥事ふしょうじなどのペナルティにより、こうばんげられた実例じつれいがある。落語らくご協会きょうかい分裂ぶんれつ騒動そうどう旗揚はたあげした落語らくごさんゆう協会きょうかいでトップであったさんゆうていえんせい死去しきょしたことで事実じじつじょう崩壊ほうかいし、円楽えんらく一門いちもんのぞいて落語らくご協会きょうかい帰参きさんすることとなったが、このうちえんせい圓楽えんらくともさんゆう協会きょうかい中核ちゅうかくになっていたとされるろく代目だいめさんゆうていえんまどだけがこうばんを1まいげられたれいがある。
  11. ^ 当初とうしょなな代目だいめたちばな圓蔵えんぞう代目だいめがついええんきょうはち代目だいめたちばな圓蔵えんぞう一門いちもん古今ここんていちょう一門いちもん追従ついしょうして離脱りだつしたが、関係かんけいしゃなどの説得せっとくけて、さんゆう協会きょうかい旗揚はたあまえ脱退だったいして落語らくご協会きょうかい復帰ふっきした。
  12. ^ れいとして、わらいぶくてい鶴光つるこうはじめての弟子でしわらいぶくていがくこう)は入門にゅうもん8ねん笑福亭鶴瓶しょうふくていつるべはじめての弟子でしわらいぶくてい笑瓶しょうへい)は入門にゅうもん9ねん三代目笑福亭仁鶴はじめての弟子でしわらいぶくていひとしさとし)・代目だいめかつらはるちょうはじめての弟子でしかつらのぼるちょう)・代目だいめ桂枝雀かつらしじゃくはじめての弟子でしかつらおとおよびさん代目だいめかつら南光なんこう)はそれぞれ入門にゅうもん10ねんで、はじめての弟子でしっている。
  13. ^ れいとして、1994ねん当時とうじ協会きょうかい執行しっこう五郎ごろうら)と対立たいりつした代目だいめ桂枝雀かつらしじゃく一門いちもん協会きょうかい脱退だったいしたが、その収拾しゅうしゅうさくはなっていた席上せきじょう一人ひとり理事りじ発言はつげんがきっかけとなり、兄弟子あにでしえだすずめしたっていた代目だいめかつらざこば激怒げきどしてえだすずめ追従ついしょうするかたち協会きょうかい脱退だったいする事態じたいきている(本人ほんにん記事きじ参照さんしょう。10ねんの2004ねん協会きょうかい復帰ふっき)。
  14. ^ ただし、雷門かみなりもん獅篭(げんのぼりりゅうてい獅篭門下もんかに2018ねん入門にゅうもんした雷門かみなりもん獅鉄(げんのぼりりゅうてい獅鉄)、2021ねん入門にゅうもんしたのぼりりゅうていかご、2023ねん入門にゅうもんしたのぼりりゅうていかごとう休業きゅうぎょうちゅう)、獅篭の弟弟子おとうとでしであるのぼりりゅうてい幸福こうふくに2022ねん入門にゅうもんしたのぼりりゅうてい幸吉こうきちはそれぞれ「前座ぜんざ」となっているので、落語らくご身分みぶん制度せいど完全かんぜん否定ひていではない。なお、獅鉄については3ねん修業しゅうぎょうのちに2021ねん11月に「年季ねんきけ」となってその披露ひろう興行こうぎょうおこなわれており、江戸えど落語らくご上方かみがた落語らくご双方そうほう身分みぶん制度せいどをミックスさせているとえる。
  15. ^ ただし、入門にゅうもん以前いぜん春風しゅんぷうていわらいきょうろく代目だいめ春風しゅんぷうてい柳橋やなぎばし門下もんかもと東京とうきょうあんみつむすめ初代しょだいやなぎほくろ、「女子高じょしこうせい落語らくご」の肩書かたがき活動かつどう代目だいめ春風しゅんぷうてい梅橋うめばしとの結婚けっこんのため廃業はいぎょう)や林家はやしやパー初代しょだい林家はやしや三平さんぺい門下もんか林家はやしやペーつま)も「落語らくご」の肩書かたがき活動かつどうしていた時期じきがあり、厳密げんみつにいえば「女性じょせいはつ」ではなかったものの、本格ほんかくてき女性じょせいプロ落語らくごという観点かんてんでははつえる。
  16. ^ きくせんだいのほか、林家はやしやきくひめ川柳せんりゅうつくし林家はやしやぼたんやなぎていこみち古今ここんてい駒子こまこ弁財べんざいてい和泉いずみさんゆうていりつちょうはなろうももはな林家はやしやつるこうばんじゅん)。
  17. ^ かつらみぎだんたちばな杏奈あんな春風しゅんぷうてい鹿(2023ねん廃業はいぎょう)、さんゆうていあい雲龍うんりゅうちんはなこうばんじゅん)。落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい客員きゃくいんとなった東方とうほう落語らくご東北とうほくべん落語らくご真打しんうちろくはなていゆうはな落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい仙台せんだい事務所じむしょ所属しょぞくげいきょうとしてはさん代目だいめさんゆうていゆうさん門下もんか)もふくめると6めいになるが、落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかいとしてはゆうはなは「客員きゃくいんあつかいとなっている。
  18. ^ 落語らくご協会きょうかいとの関係かんけいふか講談こうだん協会きょうかい所属しょぞく女性じょせい講談こうだんいちりゅうひとしさだ寿ことぶき代目だいめ宝井たからいきんづるいちりゅうひとしさだきょう交互こうご出演しゅつえんした。
  19. ^ 出演しゅつえんじゅんももはなりつ、きくひめ駒子こまこ、ぼたん、こみち、きくせんだい和泉いずみ、つくし、真打しんうち昇進しょうしん披露ひろう興行こうぎょう期間きかんちゅうのつるのぞいて女性じょせい真打しんうち交代こうたい主任しゅにんつとめた。
  20. ^ かつら二葉ふたば月亭つきていはちむらさきかつらきくかつらおとめ、かつらぽんぽむすめ月亭つきてい天使てんし出演しゅつえんじゅん)。
  21. ^ 故人こじんとなった惣領そうりょう弟子でしみやび(2017ねん1がつ死去しきょ以外いがい、2023ねん現在げんざい門下もんか現役げんえき女性じょせい噺家はなしかしんむらさきみずもとかつらすずめ門下もんか)、なつめあきらかのえ一門いちもんプロフィールには掲載けいさい)がいる[18]
  22. ^ このほか、文生ふみお弟子でしかつらきん当時とうじげんかつらおうぎせい)がしたが移籍いせきした。
  23. ^ げいきょう入会にゅうかい時点じてん当時とうじこうばん真打しんうち最下位さいかいれつされた。
  24. ^ このほか、だんこう弟子でし立川たちかわ吉幸よしゆき立川たちかわみゆきこれしん(どちらも当時とうじ)がしたが移籍いせきしたが、よしみゆきみゆきこれしん一定いってい期間きかん前座ぜんざ修業しゅうぎょうされている。
  25. ^ 入会にゅうかいから2年間ねんかんじゅん会員かいいん、その2017ねん1がつ正会員せいかいいんとなるもこうばん別枠べつわくとされたが、2019ねん6がつより通常つうじょうこうばんれられた。
  26. ^ 風間かざま杜夫もりお森末もりすえ慎二しんじきんメダルてい慎二しんじ)、山田やまだ隆夫たかおすずしゃすずまる)、にしゃんたともちかテリー伊藤いとう林家はやしやテリたいら)、生島いくしまいさむてる田代たしろ沙織さおりちちかつらうたはる)、荻野おぎのアンナダイアン吉日きちじつなどのほか、かつて立川たちかわりゅうBコースとしてつらねていた高田たかだ文夫ふみお立川たちかわふじこころざしろう)、ビートたけし立川たちかわ錦之助きんのすけ/立川たちかわうめはる)、ミッキー・カーチス(ミッキーていカーチス)など。また、医師いしでもあった立川たちかわらくあさ(2021ねん死去しきょ)は、当初とうしょこころざしらくの客分きゃくぶん弟子でしであったが正式せいしき入門にゅうもん前座ぜんざから修業しゅぎょう真打しんうちになっている。
  27. ^ 本人ほんにん著書ちょしょ借金しゃっきん2000まんえん返済へんさい」(ISBN 9784893086396)と「快楽かいらくていブラックの放送ほうそう禁止きんし落語らくご大全たいぜん」(ISBN 9784862480217)に除名じょめいされた経緯けいい詳細しょうさいしるされている。
  28. ^ 瀧口たきぐち雅仁まさひと(オフィスぼんが)ちょ噺家はなしか根問ねどいISBN 978-4779112973 参照さんしょう。なぜ岡山おかやまかも記述きじゅつしてある。
  29. ^ はちじゅうはち」はべいちょう俳号はいごうであり、系譜けいふじょう初代しょだいべいちょうとなり、そうすけ代目だいめあつかいとなる。
  30. ^ じゅう代目だいめかつら文治ぶんじさん代目だいめさんゆうていえん代目だいめ三遊亭圓楽さんゆうていえんらく桂歌丸かつらうたまるなど。
  31. ^ はち代目だいめかつら文楽ぶんらく代目だいめ古今ここんていこころざしなまはち代目だいめ林家はやしや正蔵しょうぞう林家はやしや彦六)、ろく代目だいめさんゆうていえんせい春風亭柳昇しゅんぷうていりゅうしょうなど。
  32. ^ かつら三枝みえげんろく代目だいめかつら文枝ふみえ)、かつら文珍ぶんちん立川たちかわすけ春風亭小朝しゅんぷうていこあさなど。
  33. ^ ちち宝塚たからづか市長しちょう衆議院しゅうぎいん議員ぎいんなどをつとめた阪上さかうえよししゅう
  34. ^ 五代目笑福亭松鶴のじつまご
  35. ^ 廃業はいぎょう師匠ししょうであったろく代目だいめ三遊亭円楽さんゆうていえんらく身内みうちとして、落語らくごかいなどに出演しゅつえんすることがある。
  36. ^ タレント転向てんこうあらためて「落語らくご立川たつかわりゅうBコース」(だんこころざしみとめた著名ちょめいじんなどが加入かにゅうする)に入門にゅうもんしている。
  37. ^ もっとも、えんせい新作しんさく落語らくご完全かんぜんには否定ひていはしておらず、自身じしんろされた宇野うの信夫しのぶなどの作品さくひんをホールで口演こうえんもしている。

出典しゅってん

編集へんしゅう
  1. ^ 関山せきやま和夫かずお落語らくごめい人伝ひとづて[よう追加ついか記述きじゅつ]
  2. ^ a b 立川談志たてかわだんしだんこころざし楽屋がくやばなし』(文春ぶんしゅん文庫ぶんこ、1990ねん)pp.43-45, pp.185-186
  3. ^ 立川談志たてかわだんしだんこころざし楽屋がくやばなし』(文春ぶんしゅん文庫ぶんこ、1990ねん)pp.189-190
  4. ^ 落語らくご階級かいきゅう”. 落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい. 2018ねん6がつ18にち閲覧えつらん
  5. ^ 海老名えびな香葉子かよこさん、こんたいらさんのおも手紙てがみに「天国てんごく師匠ししょう!とってあまえていることとおもいます」 - サンスポ 2020ねん12月22にち
  6. ^ このとき出演しゅつえんしたしん真打しんうちは、(落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかいかつらしょうまるやなぎていあかりたのし春風しゅんぷうていよしよしみ、(代目だいめ円楽えんらく一門いちもんかいさんゆうていとむあらたにしきわらいてい満堂まんどう、(落語らくご立川たつかわりゅう立川たちかわこはるあらた立川たちかわ小春こはるこころざし
  7. ^ 落語らくご立川たつかわりゅう」が一般いっぱん社団しゃだん法人ほうじんに 代表だいひょうすけ”. 中日新聞ちゅうにちしんぶん (2024ねん6がつ18にち). 2024ねん6がつ19にち閲覧えつらん
  8. ^ 次期じき上方かみがた落語らくご協会きょうかい会長かいちょうわらいぶくていひとしさとしさん…かつら文枝ふみえさんの後任こうにん大事だいじ継承けいしょうしたい」 - 産経さんけいニュース 20218ねん4がつ26にち
  9. ^ 上方かみがた落語らくご噺家はなしか成人せいじんしき公演こうえん入門にゅうもんから15ねんとなる落語らくご対象たいしょう 真打しんうち制度せいど導入どうにゅう継続けいぞく審議しんぎ - 日刊にっかんスポーツ 2024ねん3がつ25にち
  10. ^ らくだの寝床ねどこ東海とうかいらくご事情じじょう「なごや雷門かみなりもん淘汰とうた進化しんかか(愛知あいち - まいまいクラブ・2012ねん5がつ10日とおか
  11. ^ a b 日本にっぽんはつ女性じょせい落語らくご きゃくに「おんな落語らくごやるなんて気持きもわるい」 - 週刊しゅうかん女性じょせいPRIME 2016ねん3がつ20日はつか
  12. ^ だんこころざし一門いちもんはつ女性じょせい立川たちかわこはる」がえた男尊女卑だんそんじょひかべ”. smart FLASH. 光文社こうぶんしゃ (2019ねん10がつ8にち). 2019ねん10がつ8にち閲覧えつらん
  13. ^ 落語らくご協会きょうかいの5にんしん真打しんうちが抱負ほうふ 150にん門出かどでいわ - スポーツ報知ほうち 2018ねん8がつ29にち
  14. ^ れい6ねん はる 真打しんうち昇進しょうしん決定けってい - 一般いっぱん社団しゃだん法人ほうじん 落語らくご協会きょうかい 2023ねん4がつ1にち
  15. ^ 落語らくご協会きょうかい、12ねんぶりばってき真打しんうち 次世代じせだいホープの林家はやしやつるさんゆうていわんたけ来年らいねんがつ昇進しょうしん - スポーツ報知ほうち 2023ねん4がつ1にち
  16. ^ 結成けっせい2ねんはん女性じょせい落語らくごグループ「落語らくごガールズ」の団結だんけつのパワー - 鶴田つるたさとし - ろん 2020ねん6がつ7にち
  17. ^ 【PRESS RELEASE】浅草あさくさ演芸えんげいホールで「ももぐみ公演こうえん開催かいさい 主任しゅにん寄席よせのプリンセス・ちょうはなろうももはな 東洋とうよう興業こうぎょう株式会社かぶしきがいしゃのプレスリリース - PR TIMES 2023ねん1がつ26にち
  18. ^ 一門いちもん - 公式こうしきサイト
  19. ^ 『NHK新人しんじん落語らくご大賞たいしょうかつら二葉ふたば女性じょせいはつ栄冠えいかん 歴史れきしえ「ものすごくうれしい」 - ORICON NEWS 2021ねん11月23にち
  20. ^ 寄席よせ演芸えんげい年鑑ねんかんは、2023年版ねんばんは「東都とうと」のため上方かみがた芸人げいにん記載きさいい。
  21. ^ a b 瀧口たきぐち雅仁まさひと (2007). 噺家はなしか根問ねどい 雷門かみなりもんしょうぶくかつらしょう文吾ぶんご. いろどりりゅうしゃ. pp. 11-100. ISBN 9784779112973 
  22. ^ のぼりりゅうてい一門いちもんあたらしいふう 名古屋なごや落語らくご史上しじょう最多さいた - 読売新聞よみうりしんぶんオンライン 2021ねん9がつ23にち
  23. ^ 東都とうと寄席よせ演芸えんげい年鑑ねんかん 「さんゆうていはらしょう」のこう. 東京とうきょうかわらばん. (平成へいせい31ねん1がつ1にち). p. 236. "「フリーの演芸えんげい 落語らくご」の項目こうもく掲載けいさいされている。" 
  24. ^ 渡辺わたなべ美紀みき. “林家はやしやきなこ 「入門にゅうもん経緯けいい”. 10ばいつたわるはなかた 渡辺わたなべ美紀みき. 2020ねん9がつ18にち閲覧えつらん
  25. ^ 映画えいがふた物語ものがたり」(林家はやしやしんひら監督かんとく)に、落語らくご協会きょうかい事務じむいんやくとして出演しゅつえんしている。
  26. ^ 佐藤さとう友美ゆみ へん東京とうきょうかわらばん 2023ねん7がつごう いちぎょう情報じょうほう東京とうきょうかわらばん、2023ねん6がつ28にち、114ぺーじISBN 9784910085357 
  27. ^ 2022ねん落語らくご協会きょうかいしゃらくさい動画どうが出演しゅつえんしている。
  28. ^ はるしんメンバー発表はっぴょう”. 神田かんだ連雀れんじゃくてい. ameba blog (2019ねん3がつ1にち). 2019ねん5がつ5にち閲覧えつらん。 “<フリー>さんゆうていはらしょう(ドキュメンタリー落語らくご)”
  29. ^ 宮原みやはら勝彦かつひこ (2020ねん7がつ29にち). “「ふた落語らくご北九州きたきゅうしゅう拠点きょてん 「古里ふるさとでファンやせ」師匠ししょう後押あとおし”. 西日本にしにほん新聞しんぶん. https://www.nishinippon.co.jp/item/n/630345/ 
  30. ^ 5代目だいめ柳家やなぎやさん 『咄もけん自然体しぜんたい[よう追加ついか記述きじゅつ]

関連かんれん項目こうもく

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