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妓生 - Wikipedia

妓生こしょう

朝鮮ちょうせん時代じだい以前いぜん朝鮮半島ちょうせんはんとういて、しょ外国がいこくからの使者ししゃ高官こうかん歓待かんたい宮中きゅうちゅうない宴会えんかいなどでらくわざ披露ひろうしたり、性的せいてき奉仕ほうしなどをするために準備じゅんびされた奴婢ぬひ身分みぶん女性じょせい

妓生こしょう(きしょう/キーセン、기생)とは、元来がんらい朝鮮ちょうせん時代じだい以前いぜん朝鮮ちょうせん半島はんとういて、しょ外国がいこくからの使者ししゃ高官こうかん歓待かんたい宮中きゅうちゅうない宴会えんかいなどでらくわざ披露ひろうしたり、性的せいてき奉仕ほうし[1][2][3]などをするために準備じゅんびされた奴婢ぬひ身分みぶん女性じょせい(婢)のことを意味いみする。

妓生こしょう
りゅうはこぶひろしえがいた妓生こしょう
各種かくしゅ表記ひょうき
ハングル 기생
漢字かんじ 妓生こしょう
発音はつおん キセン
日本語にほんごみ: きしょう
マ字まじ Gisaeng, Kisaeng
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妓生こしょう公演こうえん写真しゃしん
日本にっぽん統治とうち時代じだい妓生こしょう

きのえうま改革かいかく法的ほうてきには廃止はいしされたが、のち民間みんかん私娼ししょう宿やど(「キーセンハウス」など)の呼称こしょうとして残存ざんそんし、現在げんざいいたる。

概要がいよう

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妓生こしょう(1910)

こううららから朝鮮ちょうせん末期まっきまでやく1000年間ねんかんつねに2まん - 3まんめい妓生こしょうがおり、ちょう時代じだいにはかん婢としてかくけんごとに10 - 20めいぐんに30 - 40めいに70 - 80めいほどが常時じょうじかれていた[4]

その起源きげんには諸説しょせつありさだかでない。

巫女ふじょゆう女化おなばけせつ百済くだら揚水ようすいじゃくせつ

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すすむしゅう妓生こしょう剣舞けんぶ(さるじゅんぶくそうけんたいまい』)

妓生こしょううたおどりで遊興ゆうきょうげるのを生業せいぎょうとし、売春ばいしゅんするぱいさんぱい妓生こしょうとはばれていなかった[5]発生はっせいには諸説しょせつあり、しん巫女ふじょ遊女ゆうじょからはじまったとか高麗こうらい時代じだい百済くだら揚水ようすいじゃく歌舞かぶならわせたものともわれている[5]

中国ちゅうごく妓女ぎじょ妓生こしょう

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朝鮮ちょうせん妓生こしょう制度せいどは、中国ちゅうごく妓女ぎじょ制度せいどつたわったものといわれる[1]妓女ぎじょ制度せいどはもとは宮中きゅうちゅう医療いりょう歌舞かぶ担当たんとうするおんな卑として妓生こしょう (かん) を雇用こようする制度せいどであったが、のちに官吏かんり辺境へんきょう軍人ぐんじん性的せいてき奉仕ほうしねるようになった[1][2]

しんみなもとはなてん官女かんじょ

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宗教しゅうきょう民俗みんぞく学者がくしゃのう朝鮮ちょうせん解語かいごはな[6]』(1927ねん) によると、しんきょうおう37ねんに「みなもとはなたてまつる」とあり、みなもとはなはなろう (ファラン) とたいになっており、みなもとはな女性じょせいはなろう美少年びしょうねんがつとめ、これが妓生こしょうのはじまりであるとする[6][7]。また、しん時代じだいてん官女かんじょ妓生こしょうせい相当そうとうするといわれている。

のうも『高麗こうらい』にもとづき、百済くだらのこみん女性じょせいかざこう麗女れいじょらくならわせたことも起源きげんひとつとしている[6][8]。また、朝鮮ちょうせん後期こうき学者がくしゃちょう茶山ちゃやま (1762-1836) のせつでは妓生こしょう百済くだらのこみんやなぎたくみ末裔まつえい楊水じゃく (賤民せんみん[9]) らが流浪るろうしているのをこう麗人れいじん義民ぎみんおとこ奴婢ぬひおんなせき登録とうろく管理かんりしたことに由来ゆらいするともいう[10]

日本にっぽん傀儡かいらいとの関連かんれん

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柳田やなぎだ國男くにお妓生こしょう日本にっぽん傀儡かいらいどうかんがえたが、のちに撤回てっかいした[11]。その滝川たきがわ政次郎まさじろうなども同系どうけいせつ提唱ていしょうし、川村かわむらみなと性器せいき信仰しんこう妓生こしょう傀儡かいらい共通きょうつうすることなどから、渡来とらいせつ有力ゆうりょくとみている[12]

高麗こうらい妓生こしょうせい

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こううらら時代じだい (918ねん-1392ねん) に、中国ちゅうごく妓女ぎじょ制度せいどつたわり朝鮮ちょうせん妓生こしょう制度せいどになった[1][13]

かん (女官にょかん)・かんなか容姿ようしすぐれたもの選別せんべつし、歌舞かぶならわせおんなたのし (こう麗女れいじょらく) とした。こううらら政府せいふ直属ちょくぞくてのひら学院がくいん[10]設立せつりつし、かんらはそこに登録とうろくされ、歌舞かぶ医療いりょうなどの技芸ぎげい担当たんとうした。

辺境へんきょう軍人ぐんじん慰安いあんとして

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てのひら学院がくいん登録とうろくされた妓生こしょう次第しだい官僚かんりょう辺境へんきょう軍人ぐんじんへの性的せいてき奉仕ほうしねるようになった[1][2]

ちょう時代じだいにも妓生こしょう国境こっきょう守備しゅび将兵しょうへい慰安いあんとしても活用かつようされ、国境こっきょうろくヶ所かしょの「鎮」や、おんなしんぞく出没しゅつぼつする白頭山はくとうさん付近ふきんよんヶ所かしょの邑に派遣はけんされ、将兵しょうへい裁縫さいほう酒食しゅしょく相手あいて夜伽よとぎをし、士気しき鼓舞こぶした[14]

朝鮮ちょうせん妓生こしょう

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1904ねん妓生こしょう少女しょうじょたち

朝鮮ちょうせん時代じだい妓生こしょうおんならくのほかに宮中きゅうちゅうでの医療いりょうおこない、衣服いふく縫製ほうせいもしたので、くすりぼう妓生こしょうなおぼう妓生こしょうという名称めいしょうまれている[5]妓生こしょうは、かんぞくするかん (妓女ぎじょ・ソウルにつかえるみや地方ちほうさとかれる) と、私有しゆうぶつである妓生こしょう存在そんざいしたが、大半たいはんかんだったようである。妓生こしょうになる女性じょせいのほとんどは奴婢ぬひであるが、実家じっか没落ぼつらく一家いっか離散りさんまたは孤児こじとなったり、くずすなどしたりょうはんむすめなどが妓生こしょうになる場合ばあいおおかった。朝鮮ちょうせん妓生こしょうこううららおんならくをルーツにしており、宮中きゅうちゅうでの宴会えんかいもちいるためかんき、それを管理かんりするための役所やくしょ妓生こしょうちょう存在そんざいした。一般いっぱんてきに、妓生こしょうりょうはん相手あいてとするため、歌舞かぶ音曲おんぎょく学問がくもん詩歌しか鍼灸しんきゅうなどにつうじている必要ひつようがあった。また、華麗かれい衣服いふく豪華ごうか装飾そうしょくひん着用ちゃくようゆるされ、他国たこく高級こうきゅう娼婦しょうふ同様どうよう服飾ふくしょく流行りゅうこう先導せんどうする役目やくめもした。

妓生こしょうせい存廃そんぱい論争ろんそう

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1392ねん朝鮮ちょうせん成立せいりつし、1410ねんには妓生こしょう廃止はいしろんがおこるが、反対はんたいろんのなかには妓生こしょう制度せいど廃止はいしすると官吏かんり一般いっぱん家庭かてい女子じょしおかことになるとの危惧きぐされた[1]山下やましたえいあいはこの妓生こしょう制度せいど存廃そんぱい論争ろんそうをみても、「その性的せいてき役割やくわりがうかがえる」とのべている[1]。4だい国王こくおうむねのときにも妓生こしょう廃止はいしろんがおこるが、臣下しんか妓生こしょう廃止はいしするとたてまつ使つかい (官吏かんり) が人妻ひとづま奪取だっしゅ犯罪はんざいはしると反論はんろんし、むねはこれをみとめ「たてまつ使つかいをもってらくとなす」として妓生こしょう制度せいど公認こうにんした[15]

妓生こしょうちょう

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平壌ぴょんやんにあった妓生こしょう学校がっこう

朝鮮ちょうせん政府せいふ妓生こしょうちょう設置せっちし、またソウルと平壌ぴょんやん妓生こしょう学校がっこう設立せつりつし、15さい〜20さい女子じょし妓生こしょう育成いくせいおこなった[10]

つばめさんくん妓生こしょう

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のうによれば、王朝おうちょう歴代れきだいおうくんのなかでは9だい国王こくおうなりむねとその長子ちょうしである10代国王こくおうつばめさんくん娼をこよなくあいした[16]

とりわけつばめさんくん暴君ぼうくん、もしくは暗君あんくんられ、後宮こうきゅう娼をたくさんれ、王妃おうひ邪魔じゃま場合ばあい処刑しょけいした[17]化粧けしょうをしていなかったり、衣服いふくよごれていた場合ばあい妓生こしょうつえはたきのばちあたえ、妊娠にんしんした妓生こしょう宮中きゅうちゅうから追放ついほうし、また妓生こしょうおっと調しらげてみな斬殺ざんさつした[17]

つばめさんくんめいてら刹円覚寺かくじつぶし、妓生こしょういんて、全国ぜんこくから女子じょしあつ大量たいりょう妓生こしょう育成いくせいした。つばめさんくん淫蕩いんとう相手あいてとなった女性じょせいまんにいたったともいわれ、晩年ばんねんにはけいかいろう付近ふきん万歳ばんざいさんつくり、山上さんじょうつきみやをつくり、妓生こしょう3000余人よにんかこわれた[17]つばめさんくん時代じだい妓生こしょう全盛ぜんせい (絶頂ぜっちょう) ともいわれる一方いっぽうでこれらはつばめさんくん淫蕩いんとう性格せいかく起因きいんするといわれており、妓生こしょう風紀ふうきみだれた。

運平うんぺいあおおんな

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つばめさんくんは、妓生こしょうを「泰平たいへいはこんでくる」という意味いみで「運平うんぺい (うんぴょん)」と改称かいしょうさせ、全国ぜんこくから美女びじょであれば人妻ひとづまであれわらわであれ強奪ごうだつし、「運上うんじょう」させるようめいじた[17]全国ぜんこくから未婚みこん処女しょじょを「あおおんな」とんでせんじょうさせたり、かくぐんの8さいから12さい美少女びしょうじょあつめ、いんしたとも記録きろくされ、『ちょう実録じつろく』では「おうしょくりょう区別くべつなし」としるしている[17]

妓生こしょう外交がいこう

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つばめさんくん時代じだいなどではおうじょいんふけったため、臣下しんか風俗ふうぞく紊乱びんらんであった[17]川村かわむらみなとはこの時代じだいを「畜妾、畜妓はたりまえのことであり、妓生こしょうの、妓生こしょうによる、妓生こしょうのための政治せいじというべきもの」で、朝鮮ちょうせんは「妓生こしょう政治せいじ妓生こしょう外交がいこう」をおこなっていたとひょうした[14]川村かわむらみなとは、現在げんざいきむ朝鮮ちょうせん(北朝鮮きたちょうせん)が全国ぜんこくから美女びじょあつめ「よろこぐみ」とんで、った女性じょせい要人ようじん夜伽よとぎきょうしていたことから、きむ正日じょんいるは「つばめさんくんなどの正統せいとう後継こうけいしゃ」とひょうしている[18]

みつぎおんな

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妓生こしょう外交がいこうてきにも使つかわれることがあり、中国ちゅうごくみつぎおんな (コンニョ) つまりみつものとして「輸出ゆしゅつ」された[14]高麗こうらい時代じだいにはそう使つかいやまたあききよし外交がいこうかんたいしても供与きょうよされた[14]

ちょう時代じだいでもなりむね辺境へんきょう娼妓しょうぎ国境こっきょう守備しゅび将兵しょうへい裁縫さいほうのためにいたものだが娼妓しょうぎ風俗ふうぞく紊乱びんらんをもたらしているために妓生こしょう制度せいど廃止はいししたらどうかと提案ていあんしたところ、臣下しんかは「中国ちゅうごく使臣ししんのためにおんならくもちいるため妓生こしょう必要ひつようです」と妓生こしょう外交がいこうてき有用ゆうようせいをもってごたえたため、なりむね満足まんぞくして妓生こしょう制度せいど公認こうにんしている[15]。これらは日本人にっぽんじん (倭人わじん) にたいしてもおこなわれ、1507ねんの『けんはつ日記にっき』にはやまとの「野人やじん」にもうつくしい妓生こしょうきょうしんしたと記録きろくされている[14]

川村かわむらみなとは、朝鮮ちょうせん中国ちゅうごく外交がいこうつね事大じだい主義しゅぎつらぬき、使臣ししんへの女色じょしょく供応きょうおう友好ゆうこう外交がいこうのための「安価あんか代価だいか (にえ) にほかならなかった」とし、また韓国かんこく併合へいごう以後いご総督そうとく政治せいじもこのような「妓生こしょうなくしてりたない国家こっか体制たいせい」をいだものであるとした[14]

ちょうせい犯罪はんざい法規ほうき

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他方たほう朝鮮ちょうせん時代じだいにはせいたいして厳格げんかく法規ほうき存在そんざいしていた。せい暴行ぼうこう事件じけんは「大明だいめいりつ」で「はん奸罪」の適用てきようけたが、強姦ごうかん未遂みすいつえ100かいさん千里せんり流刑りゅうけい強姦ごうかん絞首刑こうしゅけい近親きんしん強姦ごうかん斬首ざんしゅけいだった。ちゅうむね23 (1528) 10がつ宮人みやびとはくまご寡婦かふ強姦ごうかんしたさいちゅうむねが「常人じょうじん強姦ごうかんすることもただしくないのに、まして士族しぞくではないか」とって厳罰げんばつ指示しじしたように、支配しはいそうには一層いっそう厳格げんかくしょ要求ようきゅうされた。和姦わかん男女だんじょともつえ80かいだったので女性じょせい強姦ごうかんだと主張しゅちょうする場合ばあいおおかったが、この場合ばあい女性じょせい当初とうしょ意図いと判断はんだん基準きじゅんだった。

12ねん (1466)、せいよんひんまもるぐんさるどおりれいが、かん婢である古音こおんとくなんかいせい関係かんけいった。古音こおんとくは、「はじめはことわってこえしていた(はつこばめ而哭)」という理由りゆう無罪むざいとなり、さるどおりれいだけが処罰しょばつされたのがそのいちれいである。この事件じけんのように被害ひがい女性じょせい身分みぶん重要じゅうようではなかった。

妓女ぎじょ場合ばあいおなじだった。暴力ぼうりょくがなくても女性じょせい同意どういがなかったら強姦ごうかん処罰しょばつしたが、被害ひがい女性じょせい処罰しょばつのぞむかかは量刑りょうけい斟酌しんしゃく対象たいしょうではなかった。窃盗せっとう途中とちゅう強姦ごうかんまでした場合ばあい斬首ざんしゅけいであり、幼児ようじ強姦ごうかん例外れいがいなしに絞首刑こうしゅけい斬首ざんしゅけいだった。ただし、日本にっぽんでも江戸えど時代じだいの「姦通かんつうざい」がわらわ制度せいど遊郭ゆうかく制度せいどなかみちがあったように、様々さまざまみちつくられてった。

妓生こしょう身分みぶん

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こううららちょう時代じだい身分みぶん制度せいどでは、支配しはい階級かいきゅうりょうはん、そのしたちゅう庶階きゅう (ちゅうじん・吏属)、平民へいみん階級かいきゅうがあり、そのした賤民せんみん階級かいきゅうとしてのなな奴婢ぬひがあった[19]はやし鍾国によれば、なな賤とは商人しょうにんふねおっと獄卒ごくそつ・逓夫・僧侶そうりょ白丁はくちょうみこぞくのことをいい、これらは身分みぶんてき奴隷どれいではなかったのにたいして、奴婢ぬひ主人しゅじん財産ざいさんとして隷属れいぞくするものであったから、なな賤にはおよばない身分みぶんであった[19]

奴婢ぬひはさらにおおやけ賤とわたし賤があり、わたし賤は伝来でんらい婢、かい婢、でん婢の三種さんしゅがあり、下人げにんした[20]奴婢ぬひ売買ばいばい略奪りゃくだつ対象たいしょうであるだけでなく、借金しゃっきん担保たんぽであり、おくものとしても譲与じょうよされた[20]したがえははほうでは、奴婢ぬひ奴婢ぬひであり、したがってまた主人しゅじん財産ざいさんであり、自由じゆう売買ばいばいされた[20]。そのため、一度いちど奴婢ぬひちたら、代々だいだいその身分みぶんから離脱りだつできなかった[20]

かん卑としての妓生こしょう

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朝鮮ちょうせん時代じだい妓生こしょうおおくはかんだったが、身分みぶん賤民せんみんかんであった[10][21]朝鮮ちょうせん末期まっきには妓生こしょううちじん (みやおんな)、かん奴婢ぬひ、吏族、えきそつろうれい (獄卒ごくそつ)、有罪ゆうざい逃亡とうぼうしゃは「なな般公賤」とばれていた[9]

婢女 (女性じょせい奴婢ぬひ) はつつちょく (トンジキ) ともよばれ、下女げじょのことをいう。はやし鍾国によれば、朝鮮ちょうせんでは婢女は「事実じじつじょう家畜かちく」であり、売却ばいきゃく (人身じんしん売買ばいばい)、私刑しけいはもちろん、婢女を殺害さつがいしてもつみにはわれなかったとしている[22]。さらにはやしは「かんまつみずみぞかわにはしばしばながちないまま、ものにかっているとしごろのむすめたちの遺棄いき死体したいがあったといわれる。局部きょくぶいし棒切ぼうぎれをまれているのは、いうまでもなく主人しゅじん玩具おもちゃになったすえ奥方おくがたころされた不幸ふこう運命うんめい主人公しゅじんこうであった」ともべている[22]

りょうはんおおくのいえでの婢女はやつぼくとの結婚けっこんゆるされており、大臣だいじんたくの婢女は「婢のなかの婢は大官たいかん婢」ともうたわれたが、結婚けっこんゆるされなかった[22]はやし鍾国は、婢女が主人しゅじんせい玩具おもちゃになった背景はいけいには、朝鮮ちょうせん奴隷どれいせい身分みぶん制度せいどのほか、当時とうじの「りょうはん地位ちいたかいほど夫人ふじんのいるうち部屋へやくことを体面たいめんにかかわるものとかんがえられたので、手近てぢかにいる婢女にせいこうもとめるしかなかった」ためとし、わかくてうつくしいかん婢がわらわになることも普通ふつうで、地方ちほう官吏かんりのなかには平民へいみんむすめつみせてかん婢に身分みぶんとさせて目的もくてきをとげることもあったとしている[19]

ぼう妓生こしょうもりちょう妓生こしょう

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また、性的せいてき奉仕ほうし提供ていきょうするものをぼう妓生こしょうもりちょう妓生こしょうといったが、この奉仕ほうし享受きょうじゅできるのは監察かんさつ使くらこう使つかいなどの中央ちゅうおう政府せいふ派遣はけん特命とくめい官吏かんりりょうはん階級かいきゅうかぎられ、違反いはんするとばっせられた[10]

妓生こしょう種類しゅるい

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いちぱいぱいさんぱい・蝎甫 (カルボ)

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朝鮮ちょうせん時代じだい妓生こしょうは3つのランクにかれていた。最上さいじょうものいちぱい (イルペ)、つぎものぱい (イペ)、もっと下級かきゅうものさんぱい (サムペ) とんだ。

のうによると、遊女ゆうじょ総称そうしょうを蝎甫 (カルボ) といい、中国ちゅうごくにおいちゅうという[6][23]。蝎甫には、妓女ぎじょ (妓生こしょう) もふくまれるほか、いんつとむしゃ (ウングンジャ)、とうおおせはかりごと (タバンモリ)、はなむすめ遊女ゆうじょ (ファランユニョ)、おんなしゃどうぱいおんなてらどうぱい (ヨサダンペ)、いろ酒家しゅか (セクチュガ) がふくまれた>[23][24]

朝鮮ちょうせん末期まっきには、さんぱい妓生こしょうばれるようになり[3]、これらのいちぱいぱいさんぱい区別くべつかなくなっていた。

いちぱい

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いちぱい (イルベ) 妓生こしょうは、妓生こしょう学校がっこう卒業そつぎょう宮中きゅうちゅう[3]宮中きゅうちゅうれたいちぱい妓生こしょう気位きぐらいたかく「妓生こしょう宰相さいしょう」ともばれた。また「うれうた売淫ばいいん」とよう貞節ていせつおもんじ、身体しんたいこといことをまえとしていたが、実際じっさいには国家こっか支給しきゅうする給料きゅうりょうくらべて支出ししゅつおおかったため、特定とくていりょうはんかこまれること資金しきんてき援助えんじょる「家畜かちく制度せいど」 (畜はやしなうと意味いみ) がみとめられていた。これは、事実じじつじょうわらわ制度せいどである。ただし、かこまれたいちぱい妓生こしょうとのあいだまれた子供こどもは、例外れいがいてき奴婢ぬひではなく良民りょうみんとしてぐうする制度せいどがあった。高麗こうらい朝鮮ちょうせんでは片方かたがたおや奴婢ぬひ賤民せんみん場合ばあいその奴婢ぬひとする制度せいどがあった。ただし、この制度せいど対象たいしょうとなるのは男子だんしのみで、女子じょし原則げんそくとして、母親ははおや同様どうよう妓生こしょうとなった。

また、宮中きゅうちゅうれなかったいちぱい妓生こしょう自宅じたくきゃくをとったりした[3]。また宮中きゅうちゅうはいったいちぱい妓生こしょうでも、30さいごろには退すさし、結婚けっこんしたり、うれしゅぎょう (実質じっしつてきには売春ばいしゅんぎょう) をいとなんだものもいた[3]

いちぱいには「くすりぼう妓生こしょう」 (おんな参照さんしょう[25]) や宮中きゅうちゅう衣服いふく関係かんけい担当たんとうした「はり婢」 (「なおぼう妓生こしょう」) もふくまれた。

ぱい (イベ) は、いんつとむしゃまたはかくれつとむといい、隠密おんみつ売春ばいしゅんぎょういとなんだ女性じょせいをさし、いちぱい妓生こしょうくずれがなったという[3]住宅じゅうたくがいなからしながらかくれて売春ばいしゅんするものおおかった。

さんぱい

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さんぱい (さんぱい妓生こしょう) は完全かんぜん娼婦しょうふであり、搭仰はかりごと (タバンモリ) ともいう[3]雑歌ぞうかうたって接客せっきゃくしたとされる。

近代きんだい以前いぜんきょうじょう散在さんざいしていたが、のちにほら (シドン) にあつめられ、仕事場しごとばしょうはなしつ (サンファシル) としょうして、朝鮮ちょうせん末期まっきには、さんぱい妓生こしょうばれるようになった[3]

はなむすめ遊女ゆうじょ

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はなむすめ遊女ゆうじょなりむね時代じだい成立せいりつし、はるなつ漁港ぎょこう収税しゅうぜい場所ばしょで、秋冬あきふゆ山寺やまでら僧坊そうぼう売春ばいしゅんおこなった[3]僧侶そうりょ手引てびきをして、女性じょせいあまとして僧坊そうぼうき、売春ばいしゅんぎょういとなんでいた[3]僧侶そうりょ仲介ちゅうかいしていた背景はいけいについて川村かわむらみなとは、ちょう時代じだいには儒教じゅきょうつよくなり、仏教ぶっきょう衰退すいたいし、僧侶そうりょ賤民せんみん地位ちいとされ、寄進きしんとう途絶とだえたためと指摘してきしている[3]

おんなしゃどうぱい

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おんなしゃどうぱい大道芸だいどうげいじん集団しゅうだんで、ひる広場ひろば (マダン) で曲芸きょくげい仮面かめんげき (トッポギ)、人形にんぎょうげき興行こうぎょうし、よる売春ばいしゅんおこなった[3]男性だんせいおとこてらどう (ナムサダン) といい、鶏姦けいかん相手あいてをした[3]女性じょせいおんなてらどう (ヨサダン) といい、売春ばいしゅんした[3]しゃどう (サダン) 集団しゅうだん本拠地ほんきょち安城あきあおりゅうてらだった[3]川村かわむらみなとおんなしゃどうぱい日本にっぽん傀儡かいらいているといっている[3]

いろ酒家しゅか

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いろ酒家しゅかとは日本にっぽんでいう飯盛めしもりおんな酌婦しゃくふで、旅館りょかんなどで売春ばいしゅんおこなった[3]うれしゅ売春ばいしゅん店舗てんぽをスルチビといい、近年きんねんでもバーやキャバレーにスルチプ・アガシ (酒場さかばおんな)、喫茶店きっさてん (チケット茶房さぼう) ではタバン・アガシ (茶房さぼうおんな)、現在げんざいでもサウナぼう (バン) (ソープランド) や「頽廃たいはい理髮りはつしょ」ともよばれる理髪りはつてんでミョンド・アガシ (カミソリむすめ) という女性じょせいがいる[3]

妓生こしょうぼう

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また、ソウルには妓生こしょうぼうばれるものがあった。しゅとして官庁かんちょう管理かんりもと営業えいぎょうをしていたが、遊廓ゆうかくており、かなり厳格げんかくなしきたりを以って運営うんえいされていた。しかし地方ちほうではさんぱいおおく、妓生こしょうぼうやそれにるいするものは存在そんざいしなかったとされる。

妓生こしょうせい崩壊ほうかい近代きんだい公娼こうしょうせいへの移行いこう

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朝鮮ちょうせん開国かいこく日本にっぽん遊郭ゆうかくぎょう進出しんしゅつ

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1876ねん朝鮮ちょうせん日本にっぽん開国かいこく要求ようきゅうけてにちちょう修好しゅうこう条規じょうき締結ていけつした開国かいこくして以降いこうは、釜山ぷさん元山もとやま日本人にっぽんじん居留きょりゅう形成けいせいされ、日本にっぽんしき遊廓ゆうかくなども開業かいぎょうしていった[13]日本にっぽん海外かいがいからの文化ぶんか流入りゅうにゅうにより、妓生こしょう制度せいどにも変化へんかられるようになった。日本にっぽん芸者げいしゃ遊廓ゆうかく制度せいどロシアなどから白人はくじんそと娼 (あまじん=カミンとぶ) などがはいみ、従来じゅうらい妓生こしょう制度せいど融合ゆうごうして区別くべつくなっていった。朝鮮ちょうせん末期まっきには妓生こしょう組合くみあいつくられているが、これにより、従来じゅうらいやとぬし必要ひつようとした妓生こしょう主人しゅじんたない生業せいぎょうおこなえるようになった。

また、地方ちほう妓生こしょうがソウルにはいみ、妓生こしょう形態けいたい激変げきへんし、日本にっぽん統治とうち時代じだい確立かくりつした公娼こうしょう制度せいどまれた。また、大韓たいかん帝国ていこく時代じだいまでは初潮しょちょうまえ少女しょうじょ妓生こしょうとすることもおおかったが、韓国かんこく併合へいごうのち少女しょうじょ妓生こしょうとすること禁止きんしされた。

かねいちつとむ金両基きんりょうきは、朝鮮ちょうせん都市とし公然こうぜん遊廓ゆうかく登場とうじょうしたのは日本人にっぽんじん登場とうじょう以来いらいことで、朝鮮ちょうせん各地かくちむすめ人身じんしん売買ばいばい公然こうぜん横行おうこうするようになったと主張しゅちょうしている [26][27][28]

日本にっぽん政府せいふによるまり

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1881ねん10がつには釜山ぷさんで「貸座敷かしざしきなみげい娼妓しょうぎ営業えいぎょう規則きそく」がさだめられ、元山もとやまでも「娼妓しょうぎ類似るいじ営業えいぎょう取締とりしまり」がおこなわれた[13]よく1882ねんには釜山ぷさん領事りょうじが「貸座敷かしざしきおよげい娼妓しょうぎかんする布達ふたつ」が発布はっぷされ、貸座敷かしざしき業者ぎょうしゃげい娼妓しょうぎには課税かぜいされ、げい娼妓しょうぎには営業えいぎょう鑑札かんさつ (営業えいぎょう許可きょかしょう) の取得しゅとく義務ぎむづけた[13]。1885ねんにはきょうじょう領事館りょうじかんたち売淫ばいいん取締とりしまり規則きそく」がされ、ソウルでの売春ばいしゅんぎょう禁止きんしされた[21]。しかし、にちしん戦争せんそうのちには料理りょうりてんでの芸妓げいぎ雇用こよう公認こうにん (営業えいぎょう許可きょかせい) され[21]、1902ねんには釜山ぷさん仁川にがわ、1903ねん元山もとやま、1904ねんにソウル、1905ねん鎮南うら遊廓ゆうかく形成けいせいされた[13]

にち戦争せんそう勝利しょうりによって日本にっぽん朝鮮ちょうせん保護ほごこくとして以降いこうはさらに日本にっぽん売春ばいしゅん業者ぎょうしゃ増加ぞうかした[21]。ソウル城内じょうのうちそうりんほらには新町しんまち遊廓ゆうかくつくられ、これは財源ざいげんともなった[13][21]

1906ねん統監とうかんかれるとともに居留民きょりゅうみんだんほう施行しこう営業えいぎょう取締とりしまり規則きそく各地かくちされて制度せいど整備せいびされていった[13]どう1906ねんには龍山たつやま桃山ももやま遊廓ゆうかく (のち弥生やよい遊廓ゆうかく) が開設かいせつした[21]日本人にっぽんじん居住きょじゅうられるきょうじょう新町しんまち釜山ぷさん緑町みどりちょう平壌ぴょんやんやなぎまち太田おおた春日かすがまちなどにはすうじゅうけんからすうひゃくけんかぞえる遊廓ゆうかくもうけられ、地方ちほうしょう都市としにもじゅうすうけんあおさくらのきつらねた[26]

妓生こしょう取締とりしまりれい

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日本人にっぽんじん売春ばいしゅん業者ぎょうしゃさかんになると同時どうじ朝鮮ちょうせんじん業者ぎょうしゃ増加ぞうかしていくなか、ソウル警務けいむちょう市内しない娼婦しょうふ営業えいぎょう禁止きんしした[13]。1908ねん9がつには警視庁けいしちょう妓生こしょう取締とりしまりれい娼妓しょうぎ取締とりしまりれいし、妓生こしょう当局とうきょく許可きょかせいにし、公娼こうしょうせいんだ[13]。1908ねん10がつ1にちには、取締とりしまり理由りゆうとして、売買ばいばいじん詐術さじゅつによって本意ほんいではなく従事じゅうじすることをふせぐためと説明せつめいされた[13]

日本にっぽん統治とうち公娼こうしょうせい

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1910ねん韓国かんこく併合へいごう以降いこう統監とうかん時代じだいよりも取締とりしまり強化きょうかされ、1916ねん3がつ31にちには朝鮮ちょうせん総督そうとく警務けいむ総監そうかんれいだい4ごう貸座敷かしざしき娼妓しょうぎ取締とりしまり規則きそく」 (同年どうねん5がつ1にち施行しこう) が公布こうふ朝鮮ちょうせん全土ぜんど公娼こうしょうせい実施じっしされ、日本人にっぽんじん朝鮮ちょうせんじん娼妓しょうぎともに年齢ねんれい下限かげん日本にっぽん内地ないちより1さいひくい17さい未満みまん設定せっていされた[21]

他方たほう併合へいごう初期しょきには日本にっぽんしきせい管理かんり政策せいさく徹底てっていできずに、また1910年代ねんだい前半ぜんはん女性じょせい売買ばいばい形態けいたいとしてはだました女性じょせいつまとしてりとばす事例じれいおおく、のちの1930年代ねんだいにみられるような誘拐ゆうかいして娼妓しょうぎとして事例じれいはまだすくなかった[21]当時とうじ新町しんまち桃山ももやまりょう遊廓ゆうかく堂々どうどうたる貸座敷かしざしき[21][29]であるのにたいして、「曖昧屋あいまいや」ともばれた私娼ししょうをおく小料理こりょうりてんはソウルに130けん散在さんざいしていた[21][29]だいいち世界せかい大戦たいせん前後ぜんごには戦争せんそう景気けいきで1915ねんから1920ねんにかけてきょうしろ花柳かりゅうかい全盛ぜんせいきわめた[21]朝鮮ちょうせんじん娼妓しょうぎも1913ねんには585にんであったが1919ねんには1314にん増加ぞうかしている[21]。1918ねんきょうじょう本町ほんちょう日本人にっぽんじん居留きょりゅうと鍾路しょ管内かんないでの臨検りんけんでは、戸籍こせき不明ふめいしゃや、13さい少女しょうじょなどが検挙けんきょされている[21]

妓生こしょう芸者げいしゃ

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山地さんち白雨はくうが1922ねん刊行かんこうした『かなしきくに』 (自由じゆう討究とうきゅうしゃ) では「妓生こしょう日本にっぽん芸者げいしゃ娼妓しょうぎひとつにしたやうなもので、娼妓しょうぎとしてはかくたかく、芸者げいしゃとしては、其目てきに添はぬしょがある」「其最目的もくてきは、枕席ちんせきして纏綿てんめんじょうをそそるしょにある」としるしている[30]

おなじ1922ねん刊行かんこうされたやなぎけんてら土左衛門どざえもん (正木まさきじゅんあきら)『朝鮮ちょうせん川柳せんりゅう』(川柳せんりゅうけん寺社じしゃ) では妓生こしょう朝鮮ちょうせんじん芸者げいしゃのことで京都きょうと芸者げいしゃのようだとし、蝎甫 (カルボ) は売春ばいしゅんであるとかれている[31]

1934ねんきょうじょう観光かんこう協会きょうかい朝鮮ちょうせん料理りょうり 宴会えんかいしおり』では「エロ方面ほうめんでは名物めいぶつ妓生こしょうがある。妓生こしょう朝鮮ちょうせん料理りょうりでも日本にっぽん料理りょうりでもぶことができる。もっと一流いちりゅう妓生こしょうさんよんにちまえから約束やくそくしてかないとなかちゅうられない」とあり、「猟奇りょうきてき方面ほうめんではカルボとうのがある。ようするにエロ・サービスをするおんなである」「カルボは売笑ばいしょう」であるとして、妓生こしょうとカルボとを区分くぶんしてかれていた[32]

1940ねん当時とうじ妓生こしょう実態じったい朝日新聞あさひしんぶん記者きしゃ調査ちょうさした内容ないようによると「妓生こしょう大半たいはん売笑ばいしょう売春ばいしゅん)」であることをルポタージュしている[33]

これより1945ねん日本にっぽん敗戦はいせんまでについては慰安いあん参照さんしょう

大韓民国だいかんみんこく妓生こしょう・キーセン

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韓国かんこくぐん慰安いあん

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大韓民国だいかんみんこく成立せいりつ朝鮮ちょうせん戦争せんそう勃発ぼっぱつし、戦火せんかくされた国土こくど復興ふっこうには莫大ばくだい費用ひよう必要ひつようになった。ぼく正煕せいき大統領だいとうりょうは、1965ねん日本にっぽんこく大韓民国だいかんみんこくとのあいだ基本きほん関係かんけいかんする条約じょうやく獲得かくとくした資金しきんもと復興ふっこうすすめ、ざい韓米かんべいぐんあらたな復興ふっこうへの資金しきんげんとして見出みいだした。当時とうじ駐留ちゅうりゅうまいぐんたいする風俗ふうぞくてんは、朝鮮ちょうせんヤクザばれる非合法ひごうほう犯罪はんざい組織そしき関与かんよしており、莫大ばくだい金額きんがく地下ちか流出りゅうしゅつしていた。これを一斉いっせい摘発てきはつし、あらたな国営こくえいの娼館制度せいどわりにえ、外貨がいか獲得かくとくおこなった。これが便宜べんぎてき国営こくえい妓生こしょうばれる制度せいどであり[よう出典しゅってん]さらなる外貨がいか獲得かくとく目指めざして、一時いちじベトナム戦争せんそうときなど海外かいがいにも派遣はけんされた[よう出典しゅってん]

「キーセン観光かんこう

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日本にっぽん復興ふっこうし、海外かいがい旅行りょこう再開さいかいされると、日本にっぽんからの観光かんこうきゃくたいしても、国営こくえい妓生こしょう使つかわれた。1990年代ねんだいまで、キーセン旅行りょこうばれるほど韓国かんこく旅行りょこう風俗ふうぞく旅行りょこう同等どうとう意味いみっていたのはこのためである。 日本交通公社にほんこうつうこうしゃげんJTB)や近畿日本きんきにっぽんツーリスト企画きかく旅行りょこうでは、羽田はたはつはくさんにちで35,000えん、「妓生こしょう」と見合みあいののち夕食ゆうしょくわるとホテルに「妓生こしょう」がた。よるまちたり、部屋へや駄弁だべんったりして、翌朝よくあさまで一緒いっしょにいて、30,000えん要求ようきゅうされた。

よるまち一人ひとりると、屈強くっきょう男性だんせい(ひと警察官けいさつかんという)が尾行びこうしてきた。おかげで、安心あんしんして横町よこちょう屋台やたいなどで、ソウルのよるたのしめた。きたままきざんだタコをべたり、ぐにできるオーダーメイドのシャツをったりして、ホテルにもどってベッドにはいるとボーイがドアをノックしてた。「おいちにんですか?おさびしくないですか?」ドアーのうえ回転かいてんまどには、当時とうじ日本にっぽんではやったジーンズのジャンパーなど羽織はおった2人ふたり女性じょせいがボーイのうしろで、かべからだせてひかえている。

深夜しんや2ぎまで、なんもボーイのノックがあった。ボーイにも歩合ぶあいはいるようであった。業者ぎょうしゃは、「妓生こしょう」とはわず、「ひめさま」とんでいた。

外国がいこくじんキーセン

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漢江かんこう奇跡きせきて、1980年代ねんだい韓国かんこく経済けいざい軌道きどうはじめると、国営こくえい妓生こしょう志望しぼうしゃ減少げんしょうした。不足ふそくめるかたち成長せいちょうした民間みんかん妓生こしょうでは、フィリピンインドネシアなどの東南とうなんアジアから女性じょせい誘致ゆうちするようになった。ソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかいこうは、ロシアじん女性じょせい誘致ゆうち対象たいしょうとなった。

だが、やがて外国がいこくじん娼婦しょうふたいする違法いほう行為こうい頻発ひんぱつし、一部いちぶ社会しゃかい問題もんだいする。そして2004ねんに、韓国かんこく議会ぎかいは、すべての売春ばいしゅん施設しせつ閉鎖へいさし、売春ばいしゅん行為こうい違法いほうとするほう改正かいせいおこなった。これによって、妓生こしょう大韓民国だいかんみんこくでは事実じじつじょう廃止はいしされた。

キーセン・ハウス

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ソウルのキーセン・ハウスでは「きよしくもかく」「大苑おおぞのかく」「三清さんきょうかく」の「3かく」が有名ゆうめいだった。伝統でんとうてきなキーセン・ハウスで唯一ゆいいつのこっていた「梧珍あん」 (오진암) [1] も、2010ねん閉店へいてんした[34]

朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく妓生こしょう

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朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこくにおいての妓生こしょう実態じったい不明ふめいである。ただし、朝鮮ちょうせん時代じだいかん類似るいじするものとしてよろこぐみ存在そんざいする。

また川村かわむらみなと現在げんざいきむ朝鮮ちょうせん (北朝鮮きたちょうせん) が全国ぜんこくから美女びじょあつめ「よろこぐみ」とんで、った女性じょせい要人ようじん夜伽よとぎきょうしていたことから、きむ正日じょんいるは「つばめさんくんなどの正統せいとう後継こうけいしゃ」とひょうしている[35]

妓生こしょう公娼こうしょうかんする議論ぎろん

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妓生こしょうから日本にっぽんによる公娼こうしょうせいにいたる成立せいりつ過程かていについては、日本にっぽんぐん慰安いあん問題もんだいとからんで議論ぎろんがなされている。なお、公娼こうしょう定義ていぎについては公娼こうしょう#概念がいねん大要たいよう参照さんしょう

自称じしょうもと日本にっぽんぐん慰安いあんであると名乗なの金学順きむはくすんぶんだまたまなどは、「朝鮮ちょうせん私娼ししょうまた公娼こうしょうため日本にっぽん私娼ししょうため妓生こしょう学校がっこうではなく、日本にっぽんぐんまた日本にっぽん政府せいふなどによる日本にっぽん公的こうてき機関きかんへの奉仕ほうし目的もくてきとした公娼こうしょうせい妓生こしょう学校がっこう入学にゅうがくおおやけ営業えいぎょうゆるされた娼婦しょうふとして、日本にっぽんおおやけ営業えいぎょう許可きょかるための妓生こしょうかんする知識ちしき技術ぎじゅつなどを習得しゅうとく卒業そつぎょうした」と証言しょうげんしている。

妓生こしょうなど朝鮮ちょうせん伝統でんとう制度せいどは、日本にっぽんによる公娼こうしょうせいによって崩壊ほうかいしたとみなす見解けんかいがある。山下やましたえいあいは「朝鮮ちょうせん社会しゃかいにもむかしから様々さまざまかたち売買春ばいばいしゅん存在そんざいした。上流じょうりゅう階級かいきゅうでは高麗こうらい時代じだい中国ちゅうごくからつたわったといわれる妓女ぎじょ制度せいどがあり、日本にっぽんによって公娼こうしょう制度せいど導入どうにゅうされるまでつづいた」とべている[1]

また、妓生こしょうせい日本にっぽんによる公娼こうしょうせいとのちがいについて川田かわた文子ふみこは、妓生こしょうのほかに雑歌ぞうかをたしなむ娼女、流浪るろう芸能げいのう集団しゅうだんであったおんなしゃどうぱい (ヨサダンペ)、いろ酒家しゅか (セクチュガ) ではたら酌婦しゃくふなどの形態けいたいがあったが、特定とくていしゅう地域ちいきおおやけの管理かんりおこな公娼こうしょう制度せいどとはことなるものであるとした[24]。また、在日ざいにち朝鮮ちょうせんじん歴史れきし学者がくしゃきむ富子とみこりょう澄子すみこ[36]在日ざいにち韓国かんこくじん評論ひょうろん金両基きんりょうき[37]らは、妓生こしょう制度せいど売買春ばいばいしゅん制度せいどする公娼こうしょう制度せいどとはえないと主張しゅちょうしている。

金両基きんりょうきおおくの妓生こしょう売春ばいしゅんとは無縁むえんであり、漢詩かんしなどに名作めいさくのこしたいちぱい妓生こしょうのように文化ぶんかじんとしてみとめられたり、妓生こしょう純愛じゅんあいえがいた『春香はるかでん』のような文学ぶんがく題材だいざいとなっており[28]、70年代ねんだいから90年代ねんだいにかけておも日本人にっぽんじん旅行りょこうきゃく接待せったい使つかわれたキーセン観光かんこうはとはまったくちがうものであると反論はんろんした[28]

他方たほうで、川村かわむらみなとは「ちょう以前いぜん妓生こしょうと、近代きんだい以降いこうのキーセンとはちがうといういいかたがなされる。江戸えど吉原よしはら遊郭ゆうかくと、現代げんだい吉原よしわらのソープランドがいちがうように。しかし、その政治せいじてき社会しゃかいてき制度せいどてき支配しはい従属じゅうぞく構造こうぞうは、本質ほんしつてきには同一どういつである」とのべ[38]現代げんだいのソウルのわたるさと88番地ばんちミアリテキサスきよし凉里 588といった私娼窟ししょうくつにも「せい抑圧よくあつしながら、それを文化ぶんかという名前なまえ洗練せんれんさせていった妓生こしょう文化ぶんか根本こんぽんにあるものはここにもある」ともべている[39]

高名こうみょう妓生こしょう

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妓生こしょうのなかには絵画かいが高名こうみょうなものもいる。

朝鮮ちょうせん春画しゅんがのなかの妓生こしょう

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朝鮮ちょうせんには春画しゅんがはないとも一部いちぶでいわれてきたが、風俗ふうぞく画家がかさるじゅんぶくの「でん薫園くんえん」や、きむ弘道ひろみちの「よん季春きしゅん画帖がじょう」など性交せいこうせいおどけ場面ばめんえがいた春画しゅんが多数たすうあり、朝鮮ちょうせん春画しゅんが登場とうじょう人物じんぶつはほぼすべて妓生こしょうきゃくであった[40]川村かわむらみなとはこうしたエロティックアートのまなざしのなかで妓生こしょうだけが登場とうじょう人物じんぶつとなったてん朝鮮ちょうせん春画しゅんが特色とくしょくとしたうえで、その背景はいけい朝鮮ちょうせん儒教じゅきょうがあり、「たとえ虚構きょこう絵画かいがのなかであっても、みだらなことをおこない、せいしにし、露骨ろこつ痴態ちたいしめすのは妓生こしょうだけ」でなければならず、人妻ひとづままちむすめ大奥おおおくおんなたちが登場とうじょうしている江戸えど浮世絵うきよえ春画しゅんがこそ、秩序ちつじょ抑制よくせい限度げんどもない、放縦ほうしょう道徳どうとく不倫ふりん行為こうい勧奨かんしょうするものにならなかったのである。道徳どうとくてき春画しゅんが。これが朝鮮ちょうせん春画しゅんがあらわすもっともふさわしい言葉ことばかもれない」と指摘してきしている[41]

  • こううらら
    • むらさき雲仙うんぜん」「白蓮びゃくれん」「ななてんべに」「たまばんたまひとしろう改名かいめい掌中しょうちゅうたますわええい」「たまはだ」「せん咄」「はな羞」「小梅こうめ」「たま々」「真珠しんじゅ」「つばめそう」「碧玉へきぎょく」「どうじんべに」「つき娥」「ゆきうめ」「謪仙らい」「こう々」「まんねん歓」「おおとりいけれん[42]
  • 朝鮮ちょうせん
    • むらさきほらせんきょう薔薇ばらしゅうどうじんべにてつげんこんかいおおやけしゅう梅花ばいか谷山たにやまかつらせいごううめまど 扶安みこくもこうかい「瀟湘うめこうかいいち朶紅」錦山にしきやまぎんだいせんほししゅうせんつたなひろしじょうだいくもおおやけしゅうきむらんただしゅうとくだま成川なりかわたま棲仙」ひろししゅうまちじゅうらいみつひろしむすめひろしげん論介ろんすけひろししゅうまつ「暎山べにぜんしゅうおおとりひめせんじょうぶくかい」扶安せんあんたけし武貞たけさだかい平壌ぴょんやんだんじんちょう成川なりかわ「莫従」ぜんしゅういしかいきょうしろかち楊妃」光州こうしゅう定価ていか平壌ぴょんやんむらさき鸞字だましょうせん平壌ぴょんやん[42]
  • 日本にっぽん統治とうち時代じだい
    • きょうしろ
      • うめくれない」「一徳かずのり」「珊瑚珠さんごじゅ」「あやたま」「たません」「一枝いちえだべに」「瓊蘭」「雲仙うんぜん」「暎山」「みどりたま」「ぎんだま」「らんべに」「蟾紅」「桂香けいか」「またはる」「やまべに」「みどりかおり」「蓮花れんげ」「松子まつこ」「はちす[42]
    • 平壌ぴょんやん
      • はな中仙なかせん」「一枝いちえだはな」「ぎんべに」「真実しんじつ」「いちおうぎ」「はなおうぎ」「牡丹ぼたん」「山月やまつき[42]

妓生こしょうかんする作品さくひん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g h 山下やましたえいあい朝鮮ちょうせんにおける公娼こうしょう制度せいど実施じっしいんさだだまへん朝鮮ちょうせんじん女性じょせいがみた「慰安いあん問題もんだい」』さんいち新書しんしょ,1992ねん, p. 131.
  2. ^ a b c 梨花りか女子じょし大学だいがく韓国かんこく女性じょせい編纂へんさん委員いいんかい韓国かんこく女性じょせい』1,なしだい出版しゅっぱん、1978ねん, pp. 519-520
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 川村かわむらみなと妓生こしょう』, pp. 44-51
  4. ^ 妓生こしょう 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん だい2はんコトバンク
  5. ^ a b c 責任せきにん編集へんしゅう佐藤さとうつぎだか歴史れきしがく辞典じてん8』, pp. 136-137、中村なかむら欣哉きんや (この部分ぶぶん)、2001ねん初版しょはん
  6. ^ a b c d のう朝鮮ちょうせん解語かいごはな東洋とうよう書院しょいん、1927ねん。「のう全集ぜんしゅう2」韓国かんこくがく研究所けんきゅうじょ
  7. ^ 川村かわむらみなと妓生こしょう』, p. 20
  8. ^ 川村かわむらみなと妓生こしょう』p. 21
  9. ^ a b 野村のむら伸一しんいち: 賤民せんみん」の文化ぶんか序説じょせつ朝鮮半島ちょうせんはんとう差別さべつみん (補遺ほい) (2008ねん野村のむら賤民せんみん」の文化ぶんか序説じょせつ (『いくつもの日本にっぽん5』岩波書店いわなみしょてん、2003ねん所収しょしゅう) をていしたもの) 2012ねん11月15にち閲覧えつらん
  10. ^ a b c d e ぼくあやいとぐち「〈朝鮮ちょうせん歴史れきし民俗みんぞくたび妓生こしょう (1)」朝鮮ちょうせん新報しんぽう 2004.10.30
  11. ^ 川村かわむらみなと妓生こしょう』, p. 23
  12. ^ 妓生こしょう』, p. 28
  13. ^ a b c d e f g h i j 山下やましたえいあい朝鮮ちょうせんにおける公娼こうしょう制度せいど実施じっしいんさだだま編著へんちょ朝鮮ちょうせんじん女性じょせいがみた慰安いあん問題もんだいさんいち新書しんしょ,1992.
  14. ^ a b c d e f 川村かわむらみなと妓生こしょう作品社さくひんしゃ、2001ねん, pp. 40-43
  15. ^ a b 川村かわむらみなと妓生こしょう』, p. 34
  16. ^ 川村かわむらみなと妓生こしょう』, p. 33
  17. ^ a b c d e f 川村かわむらみなと妓生こしょう』, pp. 35-38
  18. ^ 川村かわむらみなと妓生こしょう作品社さくひんしゃ、2001ねん、p.38-39
  19. ^ a b c はやし鍾国『ソウル城下じょうか漢江かんこうながれる』 (平凡社へいぼんしゃ1987ねん), pp. 148-149
  20. ^ a b c d 『ソウル城下じょうか漢江かんこうながれる』 (平凡社へいぼんしゃ1987ねん), pp. 150-151
  21. ^ a b c d e f g h i j k l m 藤永ふじながたけし植民しょくみん朝鮮ちょうせんにおける公娼こうしょう制度せいど確立かくりつ過程かてい―1910年代ねんだいのソウルを中心ちゅうしんに―京都大学きょうとだいがく大学院だいがくいん文学ぶんがく研究けんきゅう文学部ぶんがくぶ現代げんだい文化ぶんかがくけいじゅう世紀せいきへんじゅう世紀せいき研究けんきゅうだい5ごう、2004ねん12月
  22. ^ a b c 『ソウル城下じょうか漢江かんこうながれる』 (平凡社へいぼんしゃ1987ねん), p.147
  23. ^ a b 川村かわむらみなと妓生こしょう』, p. 43
  24. ^ a b 川田かわた文子ふみこ戦争せんそうせい明石書店あかししょてん,1995ねん。p76-77
  25. ^ 朝鮮ちょうせんおんな制度せいどなりむねの冶世の末期まっきより、徐々じょじょおんな妓生こしょう区別くべつ曖昧あいまいになり、朝鮮ちょうせん後期こうきにはいちぱい妓生こしょう宮中きゅうちゅう内外ないがいでの医療いりょう行為こういおこなっていた。
  26. ^ a b 天皇てんのう朝鮮ちょうせんじん総督そうとく金一きんいちつとむちょ, p. 38
  27. ^ にちかん歴史れきし論争ろんそう-海峡かいきょうえられるか』, p. 86, 櫻井さくらいよしこ、金両基きんりょうき中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ
  28. ^ a b c にちかん歴史れきし論争ろんそう-海峡かいきょうえられるか』p95、櫻井さくらいよしこ、金両基きんりょうき中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ
  29. ^ a b 朝鮮ちょうせん新聞しんぶん』1911ねん4がつ19にち記事きじ
  30. ^ 川村かわむらみなと妓生こしょう作品社さくひんしゃ, p. 117
  31. ^ 川村かわむらみなと妓生こしょう』, p. 165
  32. ^ 川村かわむらみなと妓生こしょう』, p. 181
  33. ^ 朝鮮ちょうせん朝日あさひ 1940ねん9がつ11にち
  34. ^ キーセン・ハウスの盛衰せいすい 韓国かんこく情緒じょうちょかせぬ存在そんざい アーカイブ 2010ねん8がつ23にち - ウェイバックマシン産経新聞さんけいしんぶん外信がいしんコラム】ソウルからヨボセヨ (黒田くろだ勝弘かつひろ) 2010/08/21
  35. ^ 川村かわむらみなと妓生こしょう作品社さくひんしゃ、2001ねん, pp.38-39
  36. ^ 従軍じゅうぐん慰安いあん問題もんだいウリヨソンネットワーク『もっとりたい「慰安いあん問題もんだいせい民族みんぞく視点してんからー』きむ富子とみこりょう澄子すみこちょ明石書店あかししょてん、1995ねん、p26
  37. ^ にちかん歴史れきし論争ろんそう-海峡かいきょうえられるか』, p. 86、櫻井さくらいよしこ、金両基きんりょうき中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ
  38. ^ 妓生こしょう作品社さくひんしゃ, p. 12
  39. ^ 妓生こしょう作品社さくひんしゃ, p. 14
  40. ^ 川村かわむらみなと妓生こしょう』, pp. 112-113
  41. ^ 川村かわむらみなと妓生こしょう』, p. 113
  42. ^ a b c d 朝鮮ちょうせん姓名せいめい氏族しぞくかんする研究けんきゅう調査ちょうさ 朝鮮ちょうせん総督そうとく府中ふちゅうくるるいん 1934ねん

参考さんこう資料しりょう

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関連かんれん項目こうもく

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