黒 くろ シャツ隊 たい (イタリア語 ご :camicie nere、英語 えいご :Blackshirts)は、イタリア・ファシズム を主導 しゅどう したファシスト党 とう の民兵 みんぺい 組織 そしき 。ファシスト党 とう の党首 とうしゅ で、王国 おうこく 宰相 さいしょう を務 つと めたベニート・ムッソリーニ によって党 とう の軍事 ぐんじ 部門 ぶもん として創設 そうせつ された。ファシスト党 とう の政権 せいけん 獲得 かくとく 後 ご は「国家 こっか 義勇軍 ぎゆうぐん (MVSN )」と改称 かいしょう され、陸海空 りくかいくう 軍 ぐん ・カラビニエリ (国家 こっか 警察 けいさつ 軍 ぐん )に次 つ ぐ「第 だい 5の軍 ぐん 」となった。更 さら に大戦 たいせん 前夜 ぜんや に兵員 へいいん 充足 じゅうそく の一環 いっかん として陸軍 りくぐん へ編入 へんにゅう され、各 かく 戦線 せんせん へ投入 とうにゅう された。
ファシズムやその関連 かんれん 思想 しそう を掲 かか げる団体 だんたい はこうした「党 とう の私兵 しへい 」を組織 そしき する際 さい 、その制服 せいふく として黒 くろ シャツ隊 たい を模倣 もほう して色 いろ 柄 がら のシャツを使用 しよう する伝統 でんとう ができた。ナチズムを奉 ほう じて成立 せいりつ したナチス の突撃 とつげき 隊 たい も、影響 えいきょう を受 う けた経緯 けいい から「褐色 かっしょく シャツ隊 たい 」(brownshirts)と呼称 こしょう された。
沿革 えんかく
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご の1919年 ねん 3月、ムッソリーニは、ファシスト党 とう の前身 ぜんしん であるイタリア戦闘 せんとう 者 しゃ ファッシ を設立 せつりつ した。戦闘 せんとう ファッシの中核 ちゅうかく は第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 時 じ の退役 たいえき 軍人 ぐんじん で、一種 いっしゅ の義勇 ぎゆう 兵 へい 的 てき 色彩 しきさい があった。彼 かれ らの制服 せいふく はイタリア陸軍 りくぐん がドイツ陸軍 りくぐん の突撃 とつげき 部隊 ぶたい を参考 さんこう にして創設 そうせつ したアルディーティ隊 たい の黒 くろ い軍服 ぐんぷく をそのまま流用 りゅうよう しており、かつてガリバルディ の千 せん 人 にん 隊 たい が服 ふく の色 いろ から「赤 あか シャツ隊 たい 」と通称 つうしょう されたのに倣 なら って「黒 くろ シャツ隊 たい 」という呼称 こしょう が定着 ていちゃく した[1] 。
黒 くろ シャツ隊 たい の隊員 たいいん は多 おお くの退役 たいえき 軍人 ぐんじん を中核 ちゅうかく としたが、農民 のうみん や運動 うんどう に共感 きょうかん した政治 せいじ 家 か 、それに反共 はんきょう 主義 しゅぎ を利益 りえき と見 み た小 しょう 地主 じぬし なども加 くわ わっていた。戦闘 せんとう ファッシが勢力 せいりょく を拡大 かくだい するにつれて、黒 くろ シャツ隊 たい はその私兵 しへい 部隊 ぶたい として大 おお きな騒乱 そうらん を起 お こしていくようになる。1921年 ねん 5月 がつ の総 そう 選挙 せんきょ でムッソリーニは賛同 さんどう 者 しゃ 35名 めい を当選 とうせん させ、同年 どうねん 11月 がつ に戦闘 せんとう 者 しゃ ファッシは「ファシスト党 とう 」に改組 かいそ された。黒 くろ シャツ隊 たい も1922年 ねん 10月 がつ 29日 にち のローマ進軍 しんぐん 時点 じてん で隊員 たいいん 数 すう 20万 まん 名 めい を数 かぞ えるほどに急 きゅう 成長 せいちょう を遂 と げ、幾 いく つかの連隊 れんたい に分 わ けられてそれぞれの部隊 ぶたい 旗 はた を保有 ほゆう した。
政権 せいけん を獲得 かくとく したムッソリーニとファシスト党 とう は、黒 くろ シャツ隊 たい に対 たい する処遇 しょぐう を検討 けんとう しなければならなかった。これは後 ご のナチス政権 せいけん と突撃 とつげき 隊 たい の関係 かんけい に類似 るいじ するが、ナチスが突撃 とつげき 隊 たい を切 き り捨 す てたのに対 たい してファシスト党 とう は正式 せいしき な国家 こっか 機関 きかん として運用 うんよう する事 こと を約束 やくそく した。1923年 ねん 1月 がつ 14日 にち 、イタリアの国王 こくおう ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 せい は黒 くろ シャツ隊 たい を陸海空 りくかいくう 軍 ぐん ・警察 けいさつ 軍 ぐん と同 おな じく「王 おう の軍隊 ぐんたい 」として認 みと める宣言 せんげん を出 だ した。これを受 う けて1923年 ねん 2月 がつ 1日 にち にファシスト党 とう は黒 くろ シャツ隊 たい を国防 こくぼう 義勇軍 ぎゆうぐん (Milizia Volontaria per la Sicurezza Nazionale、MVSN )に改称 かいしょう 、「第 だい 5の軍 ぐん 」として国防省 こくぼうしょう 管理 かんり 下 か に置 お いた。
国防 こくぼう 義勇軍 ぎゆうぐん は主 おも に国外 こくがい 問題 もんだい を担当 たんとう する陸海空 りくかいくう 軍 ぐん 、国内 こくない 問題 もんだい を担当 たんとう する警察 けいさつ 軍 ぐん に対 たい して、青少年 せいしょうねん ・中高年 ちゅうこうねん といった正規 せいき 軍 ぐん の兵役 へいえき 年齢 ねんれい と合致 がっち しない層 そう を予備 よび 戦力 せんりょく として訓練 くんれん する事 こと を目的 もくてき とした。従 したが って従来 じゅうらい の退役 たいえき 兵 へい だけでなく単純 たんじゅん に党 とう 青年 せいねん 団 だん の少年 しょうねん 志願 しがん 兵 へい や中高年 ちゅうこうねん の民兵 みんぺい なども合流 ごうりゅう 、1936年 ねん までに14個 こ 師団 しだん ・133個 こ 連隊 れんたい を編成 へんせい した。
1939年 ねん 10月、資金 しきん 不足 ふそく から悪名 あくめい 高 たか い2個 こ 連隊 れんたい 制度 せいど (半 はん 師団 しだん )制度 せいど が常態 じょうたい 化 か していた陸軍 りくぐん に対 たい して、ムッソリーニは陸軍 りくぐん と国防省 こくぼうしょう の反対 はんたい を押 お し切 き って陸軍 りくぐん と国防 こくぼう 義勇軍 ぎゆうぐん の統合 とうごう を宣言 せんげん した。師団 しだん 規模 きぼ の部隊 ぶたい に関 かん してはそのまま「義勇 ぎゆう 師団 しだん 」の名称 めいしょう ・兵科 へいか で配属 はいぞく され、更 さら に戦力 せんりょく 不足 ふそく の師団 しだん には「義勇 ぎゆう 兵 へい 連隊 れんたい 」が補充 ほじゅう 兵 へい として配置 はいち された。しかし兵員 へいいん の質 しつ に問題 もんだい がある事 こと に加 くわ え、指揮 しき 系統 けいとう や装備 そうび の違 ちが いが完全 かんぜん には是正 ぜせい されなかった事 こと で義勇 ぎゆう 兵 へい の存在 そんざい はしばしば陸軍 りくぐん 内 ない の弱点 じゃくてん となった。この事 こと はスペイン派兵 はへい で正規 せいき 兵 へい からなる「リットリオ旅団 りょだん 」に比 くら べ、残 のこ りの義勇 ぎゆう 兵 へい からなる3個 こ 旅団 りょだん が戦意 せんい に問題 もんだい があることを露呈 ろてい した事 こと でも明 あき らかであった。
1943年 ねん 8月 がつ にムッソリーニが失脚 しっきゃく し、イタリアが連合 れんごう 国 こく に降伏 ごうぶく すると、国家 こっか 組織 そしき としての黒 くろ シャツ隊 たい も終焉 しゅうえん を迎 むか えた。その後 ご 、ムッソリーニがイタリア社会 しゃかい 共和 きょうわ 国 こく (RSI)を樹立 じゅりつ すると、国防 こくぼう 義勇軍 ぎゆうぐん は国家 こっか 警備 けいび 軍 ぐん (Guardia Nazionale Repubblicana、GNR )として再編 さいへん された。“M”を名称 めいしょう に冠 かん した野戦 やせん 部隊 ぶたい もGNRの一部 いちぶ として編成 へんせい され、中 なか には戦車 せんしゃ 師団 しだん や空挺 くうてい 部隊 ぶたい などもあった。また一部 いちぶ の旧 きゅう 黒 くろ シャツ隊員 たいいん が独自 どくじ に義勇 ぎゆう 兵 へい を組織 そしき してパルチザン と戦闘 せんとう を開始 かいし したので、1944年 ねん 6月 がつ にこれらの義勇軍 ぎゆうぐん もGNRの補助 ほじょ 部隊 ぶたい として正規 せいき 組織 そしき となり、「黒 くろ い旅団 りょだん 」(ブリガーデ・ネーレ)と呼 よ ばれた。
組織 そしき
組織 そしき としては基本 きほん 的 てき にイタリア王 おう を総 そう 司令 しれい 官 かん とする陸海空 りくかいくう ・警察 けいさつ 軍 ぐん (ただし、正規 せいき 軍 ぐん も後 のち に第 だい 一 いち 元帥 げんすい としてムッソリーニが統帥 とうすい 権 けん を得 え ている)に対 たい して、党 とう 私兵 しへい 部隊 ぶたい としての歴史 れきし からベニト・ムッソリーニを唯一 ゆいいつ の総 そう 司令 しれい 官 かん とする点 てん が特徴 とくちょう 的 てき であった。部隊 ぶたい 単位 たんい についてはサルデーニャ軍 ぐん 時代 じだい からの近代 きんだい 的 てき 呼称 こしょう を採用 さいよう している正規 せいき 軍 ぐん とは違 ちが い、古代 こだい ローマ の官職 かんしょく 名 めい などを用 もち いている。
部隊 ぶたい 単位 たんい
3個 こ スクァドラ = 1個 いっこ マニプルス
3個 こ マニプルス = 1個 いっこ ケントゥリオ
3個 こ ケントゥリオ = 1個 いっこ コホルス
3個 こ コホルス = 1個 いっこ レギオ
3個 こ レギオ = 1個 いっこ ゾーナ
階級 かいきゅう
創設 そうせつ 者 しゃ であるムッソリーニは「Comandante Generale」(総 そう 司令 しれい 官 かん )としての地位 ちい を兼任 けんにん していた。また盟友 めいゆう であるアドルフ・ヒトラー と会談 かいだん した際 さい 、彼 かれ に「Caporale Onorario」(名誉 めいよ 伍長 ごちょう )を新 あら たに創設 そうせつ して授与 じゅよ している。
国防 こくぼう 義勇軍 ぎゆうぐん 用 よう の軍装 ぐんそう を身 み につけるベニト・ムッソリーニ(ユーゴスラビア )
将官 しょうかん
将校 しょうこう
指揮 しき 官 かん (Console Comandante) = 大佐 たいさ
老 ろう 兵長 へいちょう (Primo Seniore) = 中佐 ちゅうさ
老兵 ろうへい (Seniore) = 少佐 しょうさ
百 ひゃく 人 にん 隊長 たいちょう (Centurion) = 大尉 たいい
上級 じょうきゅう 中隊 ちゅうたい 長 ちょう (Capomanipolo) = 中尉 ちゅうい
中隊 ちゅうたい 長 ちょう (Sottocapomanipolo) = 少尉 しょうい
予備 よび 中隊 ちゅうたい 長 ちょう (Aspirante Sottocapomanipolo) = 士官 しかん 候補 こうほ 生 せい
士官 しかん と兵 へい
補助 ほじょ 兵長 へいちょう (Primo Aiutante) = 上級 じょうきゅう 准尉 じゅんい
上級 じょうきゅう 補助 ほじょ 兵 へい (Aiutante Capo) = 准尉 じゅんい
補助 ほじょ 兵 へい (Aiutante) = 下級 かきゅう 准尉 じゅんい
上級 じょうきゅう 分隊 ぶんたい 長 ちょう (Primo Capo Squadra) = 曹長 そうちょう
分隊 ぶんたい 長 ちょう (Capo Squadra) = 軍曹 ぐんそう
副 ふく 分隊 ぶんたい 長 ちょう (Vicecapo Squadra) = 伍長 ごちょう
選抜 せんばつ 義勇 ぎゆう 兵 へい (Camicia Nera Scelta) = 一等 いっとう 兵 へい
義勇 ぎゆう 兵 へい (Camicia Nera) = 二等兵 にとうへい
戦闘 せんとう 序列 じょれつ
黒 くろ シャツ隊 たい 時代 じだい の兵員 へいいん は15個 こ の師団 しだん に分 わ けられた上 うえ で133個 こ の1個 いっこ 連隊 れんたい (3個 こ 大隊 だいたい から編成 へんせい )に分 わ けて配属 はいぞく され、またこれとは別 べつ に師団 しだん へ属 ぞく さない独立 どくりつ 連隊 れんたい が10個 こ 連隊 れんたい 存在 そんざい していた。1929年 ねん の組織 そしき 再編 さいへん で全 ぜん 部隊 ぶたい を統括 とうかつ する4つの方面 ほうめん 軍 ぐん (raggruppamenti)が上位 じょうい 部隊 ぶたい として創設 そうせつ されたのを除 のぞ けば1920年代 ねんだい はこうした制度 せいど が維持 いじ された。
大戦 たいせん 前後 ぜんこう の1936年 ねん に新 あら たな再編 さいへん が行 おこな われ、1個 いっこ 連隊 れんたい は2個 こ 大隊 だいたい 制 せい に変更 へんこう された。2個 こ 大隊 だいたい の内 うち 、片方 かたがた は党 とう 青年 せいねん 団 だん の青少年 せいしょうねん 兵 へい から集 あつ められ、もう片方 かたがた は古参 こさん の退役 たいえき 兵 へい や老年 ろうねん 召集 しょうしゅう 兵 へい から編成 へんせい されるという年齢 ねんれい 別 べつ の区分 くわ けが実施 じっし された。また党内 とうない の親衛 しんえい 部隊 ぶたい に相当 そうとう する統帥 とうすい 警備 けいび 大隊 だいたい 、本土 ほんど に編入 へんにゅう されたアルバニア方面 ほうめん の4個 こ 連隊 れんたい 、及 およ びアフリカ方面 ほうめん の7個 こ 連隊 れんたい が増設 ぞうせつ された。加 くわ えて警察 けいさつ 軍 ぐん の補佐 ほさ 役 やく として治安 ちあん 維持 いじ も新 あら たな任務 にんむ とされ、その為 ため の治安 ちあん 維持 いじ 部門 ぶもん が創設 そうせつ されている。
第 だい 1師団 しだん から第 だい 6師団 しだん までは第 だい 二 に 次 じ エチオピア戦争 せんそう に投入 とうにゅう され、第 だい 7師団 しだん は戦争 せんそう 途中 とちゅう で未 み 編成 へんせい に終 お わった。スペイン内戦 ないせん では一部 いちぶ 兵員 へいいん を抽出 ちゅうしゅつ して4個 こ 義勇 ぎゆう 兵 へい 師団 しだん の内 うち 3個 こ 旅団 りょだん を編成 へんせい (第 だい 4義勇 ぎゆう 旅団 りょだん 「リットリオ」は正規 せいき 軍 ぐん )したが、戦争 せんそう 中 ちゅう の戦力 せんりょく 消耗 しょうもう で現地 げんち 義勇 ぎゆう 兵 へい との混合 こんごう 部隊 ぶたい として再編 さいへん されている。1940年 ねん 時点 じてん で国家 こっか 義勇軍 ぎゆうぐん (黒 くろ シャツ隊 たい )は34万 まん 名 めい の兵員 へいいん を持 も ち、北 きた アフリカ戦線 せんせん に新 あたら しく編成 へんせい した第 だい 1師団 しだん ・第 だい 2師団 しだん ・第 だい 4師団 しだん を援軍 えんぐん として派遣 はけん 、これは英軍 えいぐん との戦闘 せんとう で壊滅 かいめつ した。戦争 せんそう 後半 こうはん には第 だい 4師団 しだん 「M」と第 だい 5師団 しだん 「アフリカ」が戦場 せんじょう に展開 てんかい した。
第 だい 二 に 次 じ エチオピア戦争 せんそう 時 じ
スペイン派遣 はけん 時 じ
治安 ちあん 部門 ぶもん
防空 ぼうくう ・沿岸 えんがん 警備 けいび 軍 ぐん
対空 たいくう 砲 ほう 部隊 ぶたい
沿岸 えんがん 砲 ほう 部隊 ぶたい
森林 しんりん 警備 けいび 軍 ぐん
国境 こっきょう 警備 けいび 軍 ぐん
交通 こうつう 警備 けいび 軍 ぐん
船舶 せんぱく 警備 けいび 軍 ぐん
通信 つうしん 警備 けいび 軍 ぐん
輸送 ゆそう 警備 けいび 軍 ぐん
学生 がくせい 召集 しょうしゅう 軍 ぐん
師団 しだん 編成 へんせい
1935年 ねん
師団 しだん 司令 しれい 部 ぶ
3個 こ 連隊 れんたい
1個 いっこ 機関 きかん 銃 じゅう 中隊 ちゅうたい (機関 きかん 銃 じゅう 12挺 てい )
2個 こ 義勇 ぎゆう 兵 へい 大隊 だいたい
1個 いっこ 砲兵 ほうへい 大隊 だいたい
1個 いっこ 工兵 こうへい 大隊 だいたい
2個 こ 予備 よび 大隊 だいたい
1個 いっこ 衛生 えいせい 部隊 ぶたい
1個 いっこ 食料 しょくりょう 部隊 ぶたい
1個 いっこ 馬 うま 輸送 ゆそう 部隊 ぶたい
1個 いっこ 機械 きかい 輸送 ゆそう 部隊 ぶたい
義勇軍 ぎゆうぐん 師団 しだん は3個 こ 歩兵 ほへい 大隊 だいたい を保有 ほゆう したが中 ちゅう 機関 きかん 銃 じゅう (MMG)は配備 はいび されず、1個 いっこ 小隊 しょうたい に3挺 てい の軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう があるのみであった。また予備 よび 部隊 ぶたい については1個 いっこ 小隊 しょうたい につき、1挺 てい の軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう しか配備 はいび されていない[4] 。
1940年 ねん
師団 しだん 司令 しれい 部 ぶ
2個 こ 連隊 れんたい
3個 こ 大隊 だいたい
1個 いっこ 迫撃 はくげき 砲 ほう 部隊 ぶたい
1個 いっこ 対戦 たいせん 車 しゃ 部隊 ぶたい
1個 いっこ 機関 きかん 銃 じゅう 大隊 だいたい
1個 いっこ 砲兵 ほうへい 連隊 れんたい
2個 こ 砲兵 ほうへい 部隊 ぶたい (75mm/27)
1個 いっこ 砲兵 ほうへい 部隊 ぶたい (100mm/17)
2個 こ 対 たい 空砲 くうほう 部隊 ぶたい
1個 いっこ 工兵 こうへい 大隊 だいたい
1個 いっこ 衛生 えいせい 部隊 ぶたい
3個 こ 野戦 やせん 病院 びょういん
1個 いっこ 補給 ほきゅう 部隊 ぶたい
1個 いっこ 輸送 ゆそう 部隊 ぶたい t[5]
影響 えいきょう
ムッソリーニが創始 そうし したファシズムと共 とも に、それを主導 しゅどう する党 とう の私兵 しへい 部隊 ぶたい が色 いろ を揃 そろ えたシャツ で示威 じい 行動 こうどう をするという様式 ようしき は多 おお くのファシズム勢力 せいりょく に模倣 もほう された。
冒頭 ぼうとう に述 の べたナチの褐色 かっしょく シャツ隊 たい に限 かぎ らず、多 おお くの国 くに で時代 じだい を問 と わず様々 さまざま な色 いろ の「シャツ隊 たい 」が編成 へんせい され、制度 せいど の位置付 いちづ けや服装 ふくそう の様式 ようしき を模倣 もほう した組織 そしき も多 おお い。
原型 げんけい となった組織 そしき
模倣 もほう した組織 そしき
資料 しりょう
引用 いんよう
^ Bosworth, R.J.B, Mussolini's Italy: Life Under the Fascist Dictatorship, 1915-1945 , Penguin Books, 2005, P. 117
^ The Blackshirt Division Order of Battle comes from "Storia delle Unita Combattenti della MVSN 1923-1943" by Ettore Lucas and Giorgio de Vecchi, Giovanni Volpe Editore 1976 pages 63 to 116 plus errata.
^ Italian Army Infantry Regulation of 1939 (Page 472/473)I
^ The Blackshirts Division TO&E comes from an original document (order sheet "Ministero della Guerra, Comando del Corpo di Stato Maggiore - Ufficio Ordinamento e Mobilitazione . Prot.2076 del 18-06-1935").
^ The Blackshirts Division TO&E comes from an original document (order sheet "Ministero della Guerra, Comando del Corpo di Stato Maggiore - Ufficio Ordinamento e Mobilitazione. dated 1939").
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関連 かんれん 項目 こうもく
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