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きゅうななしき戦闘せんとう

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キ27から転送てんそう

中島なかじま キ27 きゅうななしき戦闘せんとう

明野陸軍飛行学校所属の九七式戦闘機乙型(キ27乙)

明野あけの陸軍りくぐん飛行ひこう学校がっこう所属しょぞくきゅうななしき戦闘せんとうおつがた(キ27おつ

きゅうななしき戦闘せんとう(きゅうななしきせんとうき)は、大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん戦闘せんとう番号ばんごう試作しさく名称めいしょう)はキ27略称りゃくしょう呼称こしょうきゅうななせんきゅうななしきせんなど。連合れんごうぐんのコードネームはNate(ネイト)。開発かいはつ中島なかじま飛行機ひこうき製造せいぞう中島なかじまおよび立川たちかわ飛行機ひこうき満州まんしゅう飛行機ひこうき

陸軍りくぐんはつていつばさ単葉たんよう戦闘せんとうとして、1940ねん昭和しょうわ15ねん前後ぜんこう主力しゅりょく戦闘せんとうとして使用しようされた。旋回せんかい性能せいのう非常ひじょうすぐれ、とく水平面すいへいめんでの格闘かくとうせん得意とくいとした。

開発かいはつ概要がいよう

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ノモンハン事件じけんにて出撃しゅつげきした飛行ひこうだい11戦隊せんたいだい1中隊ちゅうたいちょう島田しまだ健二けんじ中尉ちゅうい搭乗とうじょうきゅうななしき戦闘せんとうおつがた

1935ねん昭和しょうわ10ねん)、海軍かいぐんきゅうためし単座たんざ戦闘せんとう試作しさく、のちのきゅうろくしき艦上かんじょう戦闘せんとう)の成功せいこう刺激しげきされた陸軍りくぐんは、海軍かいぐん了解りょうかいのもとに、きゅうためしたんせん陸軍りくぐんよう改修かいしゅうさせた三菱重工業みつびしじゅうこうぎょうキ18審査しんさした。しかし、キ18はエンジン信頼しんらいせい不足ふそくなどを理由りゆう制式せいしき採用さいようにはいたらず、とりあえず川崎かわさき航空機こうくうきキ10きゅうしき戦闘せんとうとして制式せいしき採用さいようされた。しかし旧態きゅうたい依然いぜんたる複葉ふくようであるきゅうせんでは主力しゅりょく戦闘せんとうとしてのにんえないため、それにわる機体きたいとして1936ねん昭和しょうわ11ねん)4がつていつばさ単葉たんよう戦闘せんとう競争きょうそう試作しさく中島なかじま三菱みつびし川崎かわさきの3しゃ指示しじした[1]

これをけて中島なかじまキ27川崎かわさきキ28三菱みつびしキ33きゅうろくかんせん改造かいぞう)の競争きょうそうとなったが[1]さきのキ18の採用さいようにしこりがのこ三菱みつびし試作しさく提出ていしゅつはしたものの熱意ねついしめさなかった。このため1937ねん昭和しょうわ12ねん)2がつからはじまった審査しんさでは[2]水冷すいれいエンジン信頼しんらいせい不安ふあんのあるキ28をおさえてほん選定せんていされた。このあいだ盧溝橋ろこうきょう事件じけん発生はっせいしたため審査しんさいそ[3]、9月に終了しゅうりょう1937ねん昭和しょうわ12ねん皇紀こうき2597とし)にきゅうななしき戦闘せんとうとして制式せいしき採用さいようされた[4]

採用さいよう当時とうじきゅうななせんは、最大さいだい速度そくど上昇じょうしょうりょくユンカース Jumo 210エンジンを搭載とうさいするドイツメッサーシュミット Bf 109 B/C/D(Bがたは1936ねん11月にはつ飛行ひこうしたBf 109の最初さいしょ量産りょうさんがた、DかたまでおなじJumo 210系列けいれつエンジンを搭載とうさいし1937ねんおよび1938ねん当時とうじ主力しゅりょく)と遜色そんしょくなく、かつ旋回せんかい性能せいのうではこれを凌駕りょうがしていた高性能こうせいのうであった。しかしどう時期じき欧州おうしゅうではきゅうななせんことなり、設計せっけいめん将来しょうらいせいのあるBf 109(1938ねん12月にはこう出力しゅつりょくダイムラー・ベンツ DB 601かわそう高性能こうせいのうされたEがた登場とうじょう、さらにのちのGがたではDB 605再度さいどかわそう敗戦はいせんまで主力しゅりょく)、スーパーマリン スピットファイアホーカー ハリケーンなどが完成かんせいしており、きゅうななせん自体じたい限界げんかいかんじていた陸軍りくぐん高速こうそくじゅう武装ぶそうじゅう単座たんざ戦闘せんとう志向しこうつよめていくことになる[5]

陸軍りくぐん航空こうくう本部ほんぶは(きゅうななせん開発かいはつちゅう考案こうあんされた)昭和しょうわ12年度ねんど陸軍りくぐん航空こうくう兵器へいき研究けんきゅう方針ほうしんのっとって機関きかんじゅう搭載とうさいがた機関きかんほう搭載とうさいがたの2しゅ単座たんざ戦闘せんとう開発かいはつ模索もさくし、きゅうななせん採用さいようされた1937ねん12月に中島なかじまたいいちしゃ特命とくめいキ43試作しさく内示ないじを、よく1938ねん昭和しょうわ13ねん)にはキ44研究けんきゅう内示ないじおこなっている。昭和しょうわ13年度ねんど陸軍りくぐん航空こうくう兵器へいき研究けんきゅう方針ほうしんにはあらたに「けい単座たんざ戦闘せんとう」・「じゅう単座たんざ戦闘せんとう」の区分くぶん登場とうじょう、「けいせんけい単座たんざ戦闘せんとう)」は格闘かくとうせん性能せいのう重視じゅうし機関きかんじゅう装備そうびし、「じゅうせんじゅう単座たんざ戦闘せんとう)」は速度そくど重視じゅうし機関きかんほう装備そうびするものと定義ていぎされ、当時とうじ開発かいはつちゅうであったキ43は「けいせん」にキ44は「じゅうせん」となった(両機りょうきはのちに前者ぜんしゃ一式いっしき戦闘せんとうはやぶさ後者こうしゃしき戦闘せんとう鍾馗しょうきとなる)。区分くぶん明文化めいぶんかされた昭和しょうわ15年度ねんど陸軍りくぐん航空こうくう兵器へいき研究けんきゅう方針ほうしんにおいて、「じゅうせん」は高速こうそくじゅう武装ぶそう航続こうぞく距離きょり防弾ぼうだん装備そうびにもすぐたい戦闘せんとうたい爆撃ばくげきせんもちいる万能ばんのうたる本命ほんめいとなり、「けいせん」は格闘かくとうせん重視じゅうしぬしたい戦闘せんとうせんもちいる性能せいのう装備そうびめん妥協だきょうした補助ほじょ戦闘せんとうてきものとなっている[注釈ちゅうしゃく 1]

技術ぎじゅつてき特徴とくちょう

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テレビドラマ撮影さつえいのため製作せいさくされた、 所沢ところざわ航空こうくう発祥はっしょう記念きねんかん実物じつぶつだいレプリカ

中島なかじまは、きゅうせん競争きょうそう試作しさくさいていつばさ単葉たんようキ11提案ていあんしていたが、当時とうじとしても保守ほしゅてき複葉ふくよう採用さいようした川崎かわさきやぶれた。キ11は単葉たんようながら主翼しゅよく強度きょうど保持ほじため支線しせんめぐらし、斬新ざんしんさはいまいちであったが、キ27では抵抗ていこうだいちょうせん全廃ぜんぱいし、空気くうき力学りきがくてき洗練せんれんされた流麗りゅうれい外形がいけいとなった。

ほんはつ採用さいようされたぜんえん直線ちょくせんつばさは、新任しんにん技師ぎしだった糸川いとかわ英夫ひでお発案はつあんによる。主翼しゅよくぜんえん後退こうたいかくが0でのちえん前進ぜんしんのみでテーパーし、つばさはしひねげのためしゅけたかる前進ぜんしんかくつ。ほん形式けいしきはその一式いっしきせんはやぶさ」(キ43)・しきせん鍾馗しょうき」(キ44)・よんしきせん疾風しっぷう(キ84)の、設計せっけい主務しゅむしゃ小山こやまによる一連いちれん中島なかじませい単座たんざ戦闘せんとう採用さいようされつづけた。プロペラ糸川いとかわおなじく新任しんにん技師ぎし佐貫さぬきまたおとこ日本にっぽん楽器がっき製造せいぞう)が担当たんとうした。剛性ごうせい向上こうじょう軽量けいりょうはかるため、とおけたもちいて左右さゆうつばさ一体いったい製造せいぞうした。そのうえ発動はつどう操縦そうじゅうせきふく胴体どうたい中央ちゅうおうせ、機体きたい後部こうぶをボルトめする機体きたい分割ぶんかつほう新規しんき開発かいはつされ、これは一式いっしきせんはやぶさ」といった中島なかじませい戦闘せんとうのみならず三菱みつびしせいれいしき艦上かんじょう戦闘せんとうなどをふくほん以降いこう日本にっぽん陸海りくかい軍機ぐんき標準ひょうじゅんてき技法ぎほうになっている[注釈ちゅうしゃく 2]。また、操縦そうじゅうせきうしろに胴体どうたいない燃料ねんりょうタンクをたないわりに、陸軍りくぐん単座たんざ戦闘せんとうとしてはじめて落下らっかタンク装備そうびした[6]非常ひじょう脱出だっしゅつ装置そうち装備そうびしている[7]

1937ねん当時とうじ列強れっきょう新鋭しんえいでは引込ひきこめあしすで主流しゅりゅうであったものの、えて保守ほしゅてき固定こていあし流線型りゅうせんけいスパッツ装備そうびうえ採用さいようされた。頑丈がんじょうかつ軽量けいりょう整地せいちへの離着陸りちゃくりく可能かのうだったが、中国ちゅうごく戦線せんせんではスパッツと車輪しゃりんあいだどろくさまるため、前線ぜんせんではカバーをはずして運用うんようする場合ばあいすくなくなかった。

武装ぶそうである2ていはちきゅうしき固定こてい機関きかんじゅう(7.7mm)の銃口じゅうこう機体きたい外面がいめん開口かいこうしていないが、これは空冷くうれいたんれつほしがたエンジンシリンダー隙間すきま銃身じゅうしん配置はいちし、カウリング中央ちゅうおう開口かいこうより射撃しゃげきするためである。

実戦じっせん

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1938ねんより、にちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん)にきゅうせん後続こうぞくとして実戦じっせん投入とうにゅうされ、中国ちゅうごく空軍くうぐん国民こくみん革命かくめいぐん)の戦闘せんとうあつだお活躍かつやくしている。1940ねんには「航空こうくう映画えいが」のはしりとして中国ちゅうごく戦線せんせんにおけるきゅうななせん活躍かつやくえがいた映画えいがもえゆる大空おおぞら』が公開こうかいほんさく帝国ていこく陸軍りくぐん全面ぜんめん協力きょうりょくにより実機じっききゅうななせんきゅうななしきじゅう爆撃ばくげき大量たいりょう動員どういんされており、きゅうななせん操縦そうじゅうせきにカメラを仕込しこてきやくきゅうせん相手あいてとする迫力はくりょく格闘かくとうせんシーンなどがある。かんこう飛行場ひこうじょうでしばしばおこなわれた陸海りくかい共同きょうどう模擬もぎ空戦くうせんでは、きゅうろくかんせんよりもきゅうななせんほう最大さいだい速度そくど上昇じょうしょうりょく格闘かくとうせん性能せいのうすべてでまさり、海軍かいぐん操縦そうじゅうしゃたちからうらやましがられたという。

1939ねん昭和しょうわ14ねん)、日本にっぽんぐん赤軍せきぐんモンゴルで2わたってたたかったノモンハン事件じけんでは、赤軍せきぐん複葉ふくよう戦闘せんとうI-153単葉たんよう戦闘せんとうI-16空戦くうせんおこない、運動うんどうせい武器ぶきあか軍機ぐんきあつだおだい戦果せんかげ、日本にっぽんぐん戦線せんせん崩壊ほうかいソ連それん進軍しんぐんふせいだとわれた(おもだいいちノモンハン航空こうくうせん)。複葉ふくよう戦闘せんとうすららす旋回せんかいせいと、「そら狙撃そげきへい」とうたわれた射撃しゃげき安定あんていせい両立りょうりつんだ成果せいかであった。58撃墜げきつい報告ほうこくした飛行ひこうだい11戦隊せんたいだい1中隊ちゅうたい篠原しのはら弘道ひろみち准尉じゅんい筆頭ひっとうに、のちのB-29撃墜げきついおうかしいさむ曹長そうちょうや、陸軍りくぐん航空こうくう審査しんさ飛行ひこう実験じっけん実験じっけんたい)でよんしきせんテスト・パイロットつとめる岩橋いわはしゆずるさん大尉たいい多数たすうのエースを輩出はいしゅつした。

だいいちだいあわせたノモンハン航空こうくうせんにおける撃墜げきつい総数そうすう日本にっぽんがわ発表はっぴょうでは1,252であるが、ソ連それんぐんがわ記録きろくによるとじつ損害そんがいやく200からやく250ペレストロイカ以降いこう発表はっぴょうされた資料しりょうもとづくものであり、スターリン体制たいせい宣伝せんでん資料しりょうもとづいたものではない)。日本にっぽんぐんがわじつ損害そんがい大中おおなかやぶわせて157帰還きかんおよぜんそんは64、このうちきゅうななせんは51戦死せんしは53めい)である。日本にっぽんがわ損耗そんこうりつは60パーセントで、これらノモンハン航空こうくうせんせんくんとして陸軍りくぐんは、単機たんき空戦くうせんから編隊へんたい空戦くうせんへの移行いこう防弾ぼうだん装備そうび防火ぼうか燃料ねんりょうタンクと防弾ぼうだん鋼板こうはん)の必要ひつよう飛行ひこう部隊ぶたい地上ちじょう支援しえん部隊ぶたい空地くうち分離ぶんりならび、航空機こうくうき操縦そうじゅうしゃ有効ゆうこうせい消耗しょうもうせいり、かずそろえる必要ひつようせい痛感つうかんした。

ノモンハンでは上述じょうじゅつ篠原しのはら准尉じゅんいといったおおくのベテラン操縦そうじゅうしゃ戦死せんしし、その補充ほじゅう危惧きぐがもたれたが、おおきな戦果せんかのため士気しきたかかった。実際じっさいには、ノモンハン航空こうくうせん後期こうきだいノモンハン航空こうくうせん)にもなると、防弾ぼうだん鋼板こうはん追加ついか装備そうびしたI-16が従来じゅうらい格闘かくとうせんからゆうそくかしての一撃いちげき離脱りだつ戦法せんぽう切替きりかえたため、てきがすことがおおくなっており、またソ連それんがわスペイン内戦ないせん従軍じゅうぐんしていたベテラン操縦そうじゅうしゃ投入とうにゅうしてきたこともあり、戦果せんかだいいちノモンハン航空こうくう戦時せんじほどあがらなくなっていた。

部隊ぶたいマークとして「あかわし」を機体きたい側面そくめんえがいた飛行ひこうだい64戦隊せんたいきゅうななせんおつがた(キ27おつ)。ノモンハン事件じけんにて

陸軍りくぐん上層じょうそうきゅうななせん自体じたい限界げんかいかんじており、新型しんがた戦闘せんとう開発かいはつ必須ひっすとされた[8]とく高度こうど7,000m以上いじょう飛翔ひしょうする赤軍せきぐんばくげきSBたいきゅうななせん無力むりょくであり、「頗ル遺憾いかんトスルしょナリ」とひょうされている[9]武装ぶそう威力いりょく不足ふそく指摘してきされている[10]。だが運用うんようがわである現場げんば操縦そうじゅうしゃおおくは、旋回せんかい性能せいのう格闘かくとうせんつよ戦闘せんとうによる制空権せいくうけん確保かくほ自信じしんち、太平洋戦争たいへいようせんそう初期しょきまで「けいせん万能ばんのう主義しゅぎ」などともわれるかんがかた支配しはいてきになった[11]。そのため、きゅうななせん採用さいよう同時どうじ開発かいはつはじまっていた後継こうけいキ43にも、きゅうななせん上回うわまわ運動うんどう性能せいのうもとめられ、空戦くうせんフラップまで装備そうびして性能せいのう追求ついきゅうしたものの、きゅうななせんにはおよばず、また要求ようきゅう仕様しようである最大さいだい速度そくど500km/hを達成たっせい出来できていなかったため、キ43の開発かいはつ長引ながびくことになってしまった。その一方いっぽうきゅうななせん徹底的てっていてき軽量けいりょうした実験じっけん製作せいさくされたが、「そらかえる」と渾名あだなされたあとえてしまった[12]。キ43の審査しんさ長引ながびいたが、戦略せんりゃく転換てんかんからきたるべきたいべいえいらん戦争せんそう南方みなかた作戦さくせん)の長距離ちょうきょり侵攻しんこう使つかえる「遠距離えんきょり戦闘せんとう」が必要ひつようになったため、太平洋戦争たいへいようせんそう直前ちょくぜん1941ねん昭和しょうわ16ねん)5がつにようやく制式せいしき採用さいようとなっている。

太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせん一式いっしき戦闘せんとう配備はいびおくれから、かずうえではきゅうななせんがなお陸軍りくぐん主力しゅりょく戦闘せんとうであった。きゅうななせんマレー作戦さくせん参加さんかする上陸じょうりく部隊ぶたいせた輸送ゆそう船団せんだん上空じょうくう掩護えんごおこなっているが、だい12飛行ひこうだんぞく飛行ひこうだい1戦隊せんたいくぼたに敏郎としお中尉ちゅういが、哨戒しょうかいちゅうイギリス空軍くうぐん飛行ひこうていカタリナ1撃墜げきついしている。これは太平洋戦争たいへいようせんそうにおける日本にっぽん軍機ぐんきはつ戦果せんかであるとともに、上陸じょうりく作戦さくせん成功せいこうおおきなかぎとなった。以後いご一式いっしきせん配備はいびすす1942ねん昭和しょうわ17ねんなかごろまできゅうななせん前線ぜんせん運用うんようつづけられた。

またほん空中くうちゅうでエンジン停止ていしして再始動さいしどうできない症状しょうじょうことがあり、エンジンひや片付かたづけられてたが、17ねん8がつまつだいひゃくろく教育きょういく飛行ひこう連隊れんたい村岡むらおか中隊ちゅうたい気化きか欠陥けっかん原因げんいんであることめ、ぜん改修かいしゅううえ航空こうくう本部ほんぶから表彰ひょうしょうされたという[13]

前線ぜんせん運用うんよう退しりぞいたのちは、すぐれた操縦そうじゅうせい安定あんていせいからきゅうななしき練習れんしゅう戦闘せんとうおよび、きゅうななせんをベースにデチューンされたしき高等こうとう練習れんしゅうとして練習れんしゅうとなっている。またみじか整地せいち運用うんようできるため、連絡れんらく用途ようと内地ないち満州まんしゅう防空ぼうくう飛行ひこう戦隊せんたいといった後方こうほうせんきゅう部隊ぶたい本土ほんど防空ぼうくうせんおこなわれる大戦たいせんちゅう後期こうきには新鋭しんえい改変かいへん)などでもちいられた。ドーリットル空襲くうしゅうさいには、東京瓦斯とうきょうがす電気でんき工業こうぎょう横浜よこはま工場こうじょう防空ぼうくうするために配備はいびされていたほんB-25邀撃ようげきがったが、がしている。

末期まっきには機体きたい同様どうよう特攻とっこう転用てんようされ、おおくの若年じゃくねん操縦そうじゅうしゃ操縦そうじゅう容易よういきゅうななせんばくだん搭載とうさい出撃しゅつげきしている。しかし、ほんは250kgばくだん搭載とうさいするには軽量けいりょう小型こがた馬力ばりき不足ふそくであるため、操縦そうじゅう離陸りりくから飛行ひこうまで常時じょうじエンジンを最大さいだい出力しゅつりょくにしておく必要ひつようがあった。このため潤滑油じゅんかつゆけをこしてエンジンが停止ていしするなど故障こしょう頻発ひんぱつ出撃しゅつげき不能ふのう帰投きとう続出ぞくしゅつした。大刀洗たちあらい平和へいわ記念きねんかん現存げんそんする特攻とっこうであった機体きたいも、過積載かせきさいのため飛行ひこうちゅうエンジン不調ふちょうおちいり、博多湾はかたわん不時着ふじちゃくすい余儀よぎなくされた機体きたいであるといわれる。連合れんごうぐんによる損害そんがい記録きろく裏付うらづけれているきゅうななせんによる確実かくじつ特攻とっこう戦果せんかとしては、大戦たいせんさい末期まっきの7がつ26にちだい3教育きょういく飛行ひこうたい独立どくりつだい107教育きょういく飛行ひこうだん隷下れいか)にて編成へんせいされた七生しちしょう昭道あきみちたいきゅうななせん3徳永とくなが勇夫いさお曹長そうちょう山本やまもとげん曹長そうちょう大村おおむら俊郎としお伍長ごちょう)によるものがある。七生しちしょう昭道あきみちたいちょく掩機状態じょうたい護衛ごえい空母くうぼ2せきふくインド洋いんどよう方面ほうめんイギリス海軍かいぐん東洋とうよう艦隊かんたい攻撃こうげきした。ヘルキャット警戒けいかいもう突破とっぱし、1対空たいくう砲火ほうか撃墜げきついされるも、のこる2護衛ごえい空母くうぼアミール」と掃海そうかいてい「ヴェスタル」に突入とつにゅう、「ヴェスタル」は沈没ちんぼつした。一部いちぶ文献ぶんけんでは「アミール」も大破たいは修理しゅうりのため後退こうたい、とされている[14]。ただし、資料しりょうで「アミール」に損害そんがいがあったことは確認かくにんできない。

きゅうななせん満州まんしゅうこくタイ王国おうこく輸出ゆしゅつされている。タイ王国おうこくぐんでは、空中くうちゅうせんにおいてP-51損傷そんしょうあたえ、P-38 1撃墜げきついしたとされ、戦後せんごもアメリカせい戦闘せんとう配備はいびされるまで使用しようされた。また、外地がいち終戦しゅうせんむかえたきゅうななせん中華民国ちゅうかみんこくぐん国民こくみん革命かくめいぐん)、中国ちゅうごく人民じんみん解放かいほうぐんべにぐん)などに接収せっしゅうされて使用しようされている。

しょもと

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三面さんめん
制式せいしき名称めいしょう きゅうななしき戦闘せんとう
試作しさく名称めいしょう キ27
全幅ぜんぷく 11.31m
全長ぜんちょう 7.53m
ぜんこう 3.28m
つばさ面積めんせき 18.56m²
つばさめん荷重かじゅう 96.44kg/m²
自重じちょう 1,110kg
正規せいき全備ぜんび重量じゅうりょう 1,790kg
発動はつどう ハ1おつはなれのぼり610馬力ばりき)1
最高さいこう速度そくど 470km/h(高度こうど3,500m)
上昇じょうしょうりょく 5,000mまで5ふん22びょう
航続こうぞく距離きょり 627km
武装ぶそう 胴体どうたい前部ぜんぶ 7.7mmはちきゅうしき固定こてい機関きかんじゅう2もん携行けいこうだんすうかく500はつ
ばくそう 25kgばくだん4はつ
生産せいさんすう 3,386

各種かくしゅ形式けいしき

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きゅうななせんおつがた(キ27おつ
かぶとがた(キ27かぶと
キャノピーがファストバックがた初期しょきせい造型ぞうけい
おつがた(キ27おつ
キャノピーが水滴すいてきがたなか後期こうきせい造型ぞうけい
しき高等こうとう練習れんしゅう(キ79)
エンジンをえて練習れんしゅうとしたもの。
K-1
1943ねん昭和しょうわ18ねん)に立川たちかわ飛行機ひこうききゅうななせんもと製作せいさくした木製もくせいそうりゅうつばさ実験じっけん[15]

現存げんそんする機体きたい

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大刀洗たちあらい平和へいわ記念きねんかんきゅうななせんおつがた(キ27おつ

1945ねん4がつ特攻とっこう出撃しゅつげき命令めいれいけ、満州まんしゅうかららん飛行場ひこうじょうかっていたがエンジン不調ふちょうのため、博多湾はかたわんうち不時着ふじちゃくをした機体きたいが1のみ現存げんそんする。

51ねん1996ねん平成へいせい8ねん)9がつに、博多湾はかたわん工事こうじ現場げんば発見はっけんされた。調査ちょうさ結果けっか機内きないのこされていたものから鳥取とっとりけん出身しゅっしん渡辺わたなべ利廣としひろ少尉しょうい搭乗とうじょうしていたことがわかった。

かれ不時着ふじちゃく漁船ぎょせんたすけられたのちらん飛行場ひこうじょうかい、べつきゅうななしき戦闘せんとう搭乗とうじょう沖縄おきなわ方面ほうめん特攻とっこう出撃しゅつげき戦死せんしした。機体きたい復元ふくげんされて現在げんざい筑前ちくぜん町立ちょうりつ大刀洗たちあらい平和へいわ記念きねんかん展示てんじされている。発見はっけん車輪しゃりん破損はそんしていたが、復元ふくげんにあたり漫画まんが松本まつもとれい所持しょじしていたものが寄贈きぞうされている[16]

に、実機じっきではないが、らん飛行場ひこうじょうの掩体ごうあときゅうななしき戦闘せんとう実物じつぶつだいレプリカが展示てんじされている[17]。また、過去かこには所沢ところざわ航空こうくう発祥はっしょう記念きねんかんにてテレビドラマ『つまんだ特攻とっこうへい』の撮影さつえいさいして製作せいさくされたレプリカが展示てんじされていた[18]

登場とうじょう作品さくひん

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映画えいが
テレビドラマ
漫画まんが・アニメ
  • 戦場せんじょうまんがシリーズ
    シリーズのなかいちへん、「死神しにがみ羽音はおと」に登場とうじょう主人公しゅじんこう海軍かいぐんパイロットだが、不時着ふじちゃく陸軍りくぐん基地きちったさいに「もう搭乗とうじょういんないから、ってかえれ」とたくされる。
  • 荒野あらののコトブキ飛行ひこうたい
    ラハマの自警じけいだん使用しよう。ラハマの貴重きちょう戦力せんりょくとして奮戦ふんせんするが、てきほうがパイロットの腕前うでまえ性能せいのうてきかくじょうのために撃墜げきついされている。
ゲーム
  • War Thunder
    プレイヤーとしておつがた使用しよう可能かのう
  • 荒野あらののコトブキ飛行ひこうたい 大空おおぞらのテイクオフガールズ!
    「ハルカゼ飛行ひこうたいだい1しょうにおいて、まだハルカゼ飛行ひこうたいが「ハルカゼ予備よびたい」とばれていたころ使用しようされていた。また、あらたなキャラクターを獲得かくとくしたさい初期しょき機体きたいとしてきゅうななしきいてくる。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 1941ねん昭和しょうわ16ねんまつには中島なかじまたいし「じゅうせん」の発展はってんがたとしてキ84内示ないじおこなわれ、これはのちによんしき戦闘せんとう疾風しっぷうとして採用さいよう、これは速度そくど武装ぶそう防弾ぼうだん航続こうぞく距離きょり運動うんどうせい操縦そうじゅうせい生産せいさんせいすぐれた万能ばんのうとなっている。昭和しょうわ18年度ねんど陸軍りくぐん航空こうくう兵器へいき研究けんきゅう方針ほうしんでは「けいせんじゅうせん」の区分くぶん廃止はいしされ、妥協だきょう産物さんぶつである「けいせん」は「じゅうせん」に併呑へいどんされ「近距離きんきょり戦闘せんとうこんせん)」となっている(どう年度ねんど方針ほうしんでは「こんせん」のほかに「遠距離えんきょり戦闘せんとうとおせん)」・「こう高度こうど戦闘せんとうこうせん)」・「夜間やかん戦闘せんとう夜戦やせん)」の区分くぶん登場とうじょう)。
  2. ^ さんしきせん飛燕ひえんひとし川崎かわさきせい戦闘せんとうのぞく。

出典しゅってん

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  1. ^ a b #かり制式せいしき制定せいていけんp.20
  2. ^ #かり制式せいしき制定せいていけんpp.20-21
  3. ^ #かり制式せいしき制定せいていけんp.21
  4. ^ #かり制式せいしき制定せいていけんpp.21-22
  5. ^ #青木あおき回想かいそう85-86ぺーじ
  6. ^ #かり制式せいしき制定せいていけんpp.8、14
  7. ^ #かり制式せいしき制定せいていけんp.15
  8. ^ #ノモンハン意見いけんp.3
  9. ^ #ノモンハン意見いけんpp.4,8
  10. ^ #ノモンハン意見いけんp.10
  11. ^ #ノモンハン意見いけんp.6
  12. ^ #青木あおき回想かいそう110ぺーじ
  13. ^ 光人みつひとしゃ 陸軍りくぐん特攻とっこう記録きろく 村岡むらおか英夫ひでお P70~74
  14. ^ 梅本うめもとひろし 『ビルマ航空こうくうせんしただい日本にっぽん絵画かいが、2002ねん12月、p.446
  15. ^ 野沢のざわただし日本航空にほんこうくうそうあつまり 立川たちかわ陸軍りくぐん航空こうくう工廠こうしょうまんにちこくへん出版しゅっぱん協同きょうどうしゃ、1980ねん、84 - 86ぺーじ全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:80027840
  16. ^ 大刀洗たちあらい平和へいわ記念きねんかん10周年しゅうねん企画きかくてんスタート 松本まつもとれいさん原画げんが えがろし作品さくひんも 筑前ちくぜんまち /福岡ふくおか」『毎日新聞まいにちしんぶん』2019ねん10がつ2にち2023ねん12月4にち閲覧えつらん
  17. ^ 2020年度ねんど 今日きょう平和へいわ会館かいかん”. らん特攻とっこう平和へいわ会館かいかん (2020ねん12月7にち). 2024ねん6がつ23にち閲覧えつらん
  18. ^ 所沢ところざわ航空こうくう記念きねんかん、4がつ19にちから「陸軍りくぐん きゅうななしき戦闘せんとう実物じつぶつだいレプリカを展示てんじ”. FlyTeam ニュース. クロゴ (2016ねん4がつ16にち). 2024ねん6がつ23にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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