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クロアチア王国 (1102年-1526年) - Wikipedia コンテンツにスキップ

クロアチア王国おうこく (1102ねん-1526ねん)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
クロアチア(・ダルマチア)王国おうこく
Regnum Croatiae (et Dalmatiae) (ラテン語らてんご)
Kraljevina Hrvatska (i Dalmacija) (クロアチア)
クロアチア王国 (925年-1102年) 1102ねん - 1526ねん クロアチア王国 (1527年-1868年)
クロアチアの国旗 クロアチアの国章
国旗こっきくにあきら
(14世紀せいき - 15世紀せいき[注釈ちゅうしゃく 1]
Coat of arms
くにあきら
(15世紀せいき後半こうはん - 16世紀せいき
クロアチアの位置
1260ねんのクロアチア王国おうこくとダルマチア王国おうこく深緑しんりょく
公用こうよう クロアチア
ハンガリー
ラテン語らてんご
宗教しゅうきょう カトリック
首都しゅと ビオグラード(1125ねんまで)
クニン(1522ねんまで)
国王こくおう
1102ねん - 1116ねん カールマーン
1516ねん - 1526ねんラヨシュ2せい
バン総督そうとく
1102ねん - 1105ねんウグラ
1522ねん - 1526ねんフェレンツ・バッチャーニーハンガリーばん
変遷へんせん
ビオグラードカールマーン戴冠たいかん 1102ねん
ザダル条約じょうやく英語えいごばん1358ねん2がつ18にち
クルバヴァのたたか英語えいごばん1493ねん9がつ9にち
クニン陥落かんらく1522ねん5がつ29にち
モハーチのたたか1526ねん8がつ29にち
通貨つうかFrizatik英語えいごばん(12世紀せいき - 13世紀せいき
Banovac英語えいごばん(1235ねん - 1384ねん
現在げんざいクロアチアの旗 クロアチア
ボスニア・ヘルツェゴビナの旗 ボスニア・ヘルツェゴビナ
クロアチア歴史れきし
クロアチア国章
この記事きじシリーズ一部いちぶです。

クロアチア ポータル

クロアチア王国おうこく(クロアチアおうこく、ラテン語らてんご: Regnum Croatiae; クロアチア: Kraljevina Hrvatska, Hrvatsko kraljevstvo, Hrvatska zemlja)は、トルピミロヴィチ英語えいごばんとスヴェトスラヴィチおうによる統治とうち時代じだいと、国王こくおうデメトリアス・ズヴォニミルによる継承けいしょう危機ききのちの1102ねん成立せいりつした、ハンガリー王国おうこくとの同君どうくん連合れんごうハンガリー・クロアチア連合れんごう王国おうこく)である[1][2]。1102ねんにハンガリー国王こくおうカールマーンビオグラードで「クロアチア・ダルマチアおう」として戴冠たいかんされると、その領域りょういきアールパードあさがれた。1301ねんにアールパードあさ男系だんけい子孫しそん断絶だんぜつしたのちハンガリー・アンジューあさおう王国おうこく支配しはいした。その、1242ねんザグレブ略奪りゃくだつしたモンゴルとの戦闘せんとうダルマチア沿岸えんがん都市とし支配しはいけんをめぐるヴェネツィアとのあらそい、クロアチア貴族きぞく内戦ないせんなどがあった。このあいだ当時とうじクロアチアでもっと強力きょうりょく王朝おうちょうであったシュビッチ英語えいごばん代表だいひょうするパヴァオ1せいシュビッチ・ブリビルスキ英語えいごばんなど、さまざまな人物じんぶつ登場とうじょうした。これらの有力ゆうりょくしゃは、事実じじつじょう自分じぶん領地りょうちおおきな独立どくりつせい確保かくほすることができた。16世紀せいきオスマン帝国ていこくによるヨーロッパ侵攻しんこうでクロアチアの領土りょうど大幅おおはば減少げんしょうし、くに弱体じゃくたい分裂ぶんれつした。ラヨシュ2せいが1526ねんモハーチのたたか戦死せんししたのち、しばらく王朝おうちょうあいだあらそいがつづき、やがてりょう王位おういはオーストリアのハプスブルクうつり、りょう領地りょうちハプスブルク帝国ていこく一部いちぶとなった。

カールマーンの戴冠たいかんしき状況じょうきょうや、そののクロアチア貴族きぞく地位ちいは、14世紀せいき写本しゃほんとしてのみのこされた「パクタ・コンヴェンタ英語えいごばんクロアチアばん」に詳述しょうじゅつされている。この関係かんけい正確せいかく内容ないようは19世紀せいきになってから議論ぎろんされるようになったが、ハンガリーとの王朝おうちょう連合れんごう時代じだいにおいても、サボル(クロアチア貴族きぞく議会ぎかい)やバン総督そうとく)をつうじて、クロアチア独自どくじ国家こっか制度せいど維持いじされた。それにくわえ、クロアチア貴族きぞく土地とち称号しょうごう保持ほじしたままであった[3][4]

名称めいしょう

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複数ふくすうがたの「王国おうこく」(ラテン語らてんご: regna)が使つかわれるようになった1359ねんまで、王国おうこく外交がいこうめいクロアチア・ダルマチア王国おうこくラテン語らてんご: Regnum Croatiae et Dalmatiae)であった[5][6]。この名前なまえ変更へんこうは、ラヨシュ1せいヴェネツィア共和きょうわこく勝利しょうりし、ザダル条約じょうやく英語えいごばんによってヴェネツィア共和きょうわこくがダルマチア沿岸えんがん都市としへの影響えいきょうりょくうしなった結果けっかこった[5]。しかし、1409ねんにヴェネツィアがダルマチア沿岸えんがん奪還だっかんするまで、王国おうこく依然いぜんとしてクロアチア・ダルマチア王国おうこくばれることがほとんどであった。クロアチアでのもっと一般いっぱんてき名称めいしょうHrvatska zemlja(「クロアチアじんくに」または「クロアチアじん土地とち」)であった[7][8]

背景はいけい

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継承けいしょう危機きき

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グヴォズドのたたかクロアチアばんまえクロアチア王国おうこく(1097ねん

ドミタル・ズヴォニミルは、トルピミロヴィチ英語えいごばん分流ぶんりゅうであるスヴェトスラヴィチ出身しゅっしんのクロアチアおうである。かれはスラヴォニアのバンとしてはじまり、クロアチアこうとしてクレシミル4せい英語えいごばんつかえた。クレシミル4せいはズヴォニミルを後継こうけいしゃとし、ズヴォニミルは1075ねんにクロアチア王位おうい継承けいしょうすることになる。1063ねん、ズヴォニミルはアールパードあさのハンガリーじんヘレンと結婚けっこんした。ヘレンはハンガリー王女おうじょであり、ベーラ1せいむすめで、ハンガリー国王こくおうラースロー1せいいもうとでもある。二人ふたりあいだには息子むすこのラドバンがいたが、10代後半こうはんまたは20だい前半ぜんはんくなっている。1089ねんにズヴォニミルがくなると、トルピミロヴィチ最後さいごスティエパン2せい英語えいごばんいだ。スティエパン2せい統治とうち比較的ひかくてき無力むりょくで、2ねんらずでわった。かれ人生じんせいのほとんどをスプリト近郊きんこう松林まつばやししたせいスティエパン修道院しゅうどういんクロアチア: Sv. Stjepan pod Borovima)でごした。スティエパン2せい跡継あとつぎをのこすことなく、1091ねんはじめにくなった。このときトルピミロヴィチ男子だんし生存せいぞんしておらず、そのまもなくクロアチアで内戦ないせん騒乱そうらん勃発ぼっぱつした[9]

ズヴォニミルの未亡人みぼうじんヘレンは、継承けいしょう危機ききのクロアチアにおける権力けんりょく維持いじこころみた[10]。ヘレンの周囲しゅういのクロアチアじん貴族きぞく、おそらくグシッチ英語えいごばん[11]および/もしくはラプチャン英語えいごばん[10]のヴィニハは、ズヴォニミルの死後しご継承けいしょうけんあらそっていたが、ラースロー1せいにヘレンをたすけるようにたのみ、かれ相続そうぞくけんっていたクロアチア王位おういをラースロー1せい提供ていきょうした。いくつかの資料しりょうによると、ダルマチアの都市としのいくつかはラースロー1せい支援しえんもう、ペタル・グシッチはペタルde genere Cacautonemとともにハンガリーの宮廷きゅうていで「はくクロアチアじん」(Creates Albi)としょうしていたという[11][12]。このように、ラースロー1せいのクロアチアにたいする軍事ぐんじ行動こうどうたんなる外国がいこく侵攻しんこうではなく[13]、またクロアチア王位おうい征服せいふくしゃとしてではなく、世襲せしゅうによる後継こうけいしゃとしてのものであった[14]。1091ねん、ラースロー1せいドラーヴァがわわたっててき遭遇そうぐうすることなくスラヴォニア全土ぜんど征服せいふくしたが、鉄山てつざん(グヴォズドさん付近ふきん作戦さくせん中断ちゅうだんされた[15]。クロアチア貴族きぞく分裂ぶんれつしていたためにラースローの戦役せんえき成功せいこうしたが、クロアチア全土ぜんどかれ支配しはいけんおよぼすことはできなかった[11][13]。このとき、ハンガリー王国おうこくビュザンティオンから派遣はけんによっておくられたとおもわれるクマン攻撃こうげきされ、ラースロー1せいはクロアチアでの戦役せんえきからの撤退てったいいられた[11]。ラースローはおいであるアルモス王子おうじ英語えいごばんクロアチア統治とうちしゃ任命にんめいし、かれあらたな権威けんい象徴しょうちょうとしてザグレブ教区きょうく英語えいごばん設立せつりつし、ハンガリーにもどった。戦争せんそう最中さいちゅうの1093ねんペタル・スヴァチッチ英語えいごばんがクロアチアの封建ほうけん領主りょうしゅたちによって国王こくおう選出せんしゅつされた。ペタルは権力けんりょく基盤きばんクニンいた。かれ統治とうちは、アルモスとの国土こくど支配しはいをめぐるあらそいに発展はってんしたが、アルモスは支配しはい確立かくりつすることができず、1095ねんにハンガリーへの撤退てったいいられた[16]

最後さいごのクロアチアおう: オトン・イヴェコヴィッチ

ラースロー1せいは1095ねんくなったが、かれおいであるカールマーン軍事ぐんじ行動こうどうつづけるようまかせた。先代せんだいのラースローと同様どうよう、カールマーンは征服せいふくしゃではなくクロアチア王国おうこく王位おうい継承けいしょうしゃなされた[17]。カールマーンは王位おうい主張しゅちょう圧力あつりょくをかけるために軍隊ぐんたい編成へんせいし、1097ねんにはペタル・スヴァチッチの軍隊ぐんたいグヴォズドのたたか英語えいごばんやぶり、ペタル・スヴァチッチは戦死せんしした。クロアチアにはペタル・スヴァチッチのほかに強力きょうりょく指導しどうしゃがおらず、ダルマチア攻略こうりゃく困難こんなん城塞じょうさい都市としおおゆうしていたため、カールマーンとクロアチアの封建ほうけん貴族きぞくあいだ和平わへい交渉こうしょう開始かいしされた。クロアチアじん貴族きぞくがカールマーンを国王こくおうみとめるまでに、さらにすうねんがかかった。1102ねんにカールマーンはビオグラードでクロアチアおうとして戴冠たいかんされ、「ハンガリー、ダルマチア、クロアチアのおう」の称号しょうごう名乗なのった。カールマーンの戴冠たいかんしき状況じょうきょうのいくつかは、クロアチアじん貴族きぞくかれ国王こくおうとしてみとめたことにより、パクタ・コンヴェンタにまとめられた。このわりに、合意ごうい署名しょめいした12のクロアチアじん貴族きぞくかれらの領地りょうち財産ざいさん保持ほじし、また租税そぜい年貢ねんぐ免除めんじょみとめられた。カールマーンの国境こっきょうせん攻撃こうげきけた場合ばあい、クロアチア貴族きぞくすくなくとも10の武装ぶそう騎兵きへいをドラーヴァがわこうに派遣はけんすることを誓約せいやくした[18][19]。パクタ・コンヴェンタ自体じたいは1102ねんよりのち作成さくせいされた文書ぶんしょかんがえられているが、クロアチアじん貴族きぞくとカールマーンのあいだにパクタ・コンヴェンタと同種どうしゅ制約せいやくさだめた合意ごうい存在そんざいしていたとかんがえられている[3][13][20]

歴史れきしてき背景はいけい

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ラテン語らてんごで「Louis by the grace of God King of Hungary, Dalmatia, Croatia」と刻印こくいんされた、ラヨシュ2せいのコイン

継承けいしょう危機ききのち、ハンガリーおうカールマーンがビオグラードで「クロアチアとダルマチアのおう」として戴冠たいかんけ、1102ねんにクロアチア王冠おうかんはハンガリーのアールパードわたった。クロアチアとハンガリーの2つの王国おうこくからなる王朝おうちょう連合れんごう正確せいかく定義ていぎについて、19世紀せいき論争ろんそうきた[21]。2つの王国おうこくは、クロアチア貴族きぞく選択せんたくあるいはハンガリーの軍事ぐんじりょくもとにしてアールパードあさ統治とうち連合れんごうされていた[22]。クロアチアの歴史れきしは2つの王国おうこく関係かんけい共通きょうつうおういただ同君どうくん連合れんごうであるとかんがえ、ハンガリーの歴史れきしおおくもこの意見いけん同意どういしているが[13][17][23][24][25][26]一方いっぽうでセルビアの歴史れきし民族みんぞく主義しゅぎてき立場たちばをとるハンガリーの歴史れきしは、この関係かんけいをハンガリーへの一種いっしゅ併合へいごうなしている[21][27][28]。ハンガリーが占領せんりょうしたという主張しゅちょうは、19世紀せいきのハンガリー民族みんぞく再興さいこうさいになされた[28]。かつてのハンガリーの史学しがくではビオグラードでおこなわれたカールマーンの戴冠たいかんしき論争ろんそう対象たいしょうとされ、クロアチアはカールマーンによって征服せいふくされたとする意見いけんされた。このたね主張しゅちょう今日きょうでもられるが、カールマーンは、クロアチアとハンガリーのあいだでの緊張きんちょうがなくなってからビオグラードで戴冠たいかんされたと一般いっぱんてきにはかんがえられている[29]今日きょう、ハンガリーの法制ほうせい学者がくしゃは1526ねんのラヨシュ2せいまでのハンガリーとクロアチア・ダルマチアの関係かんけい同君どうくん連合れんごうきわめてちかいことを指摘してき[26][30]イングランドスコットランド関係かんけいにもたとえられている[31][32]

Worldmark Encyclopedia of NationsとGrand Larousse encyclopédique英語えいごばんによると、クロアチアは1102ねんにハンガリーと同君どうくん連合れんごうむすび、それが1918ねんまでのハンガリー・クロアチア関係かんけい基礎きそとなったとしるされているが[1][33]ブリタニカ百科ひゃっか事典じてんでは王朝おうちょう連合れんごうとして明記めいきされている[3]アメリカ議会ぎかい図書館としょかん調査ちょうさによると、カールマーンはラースロー1せい死後しご反対はんたい粉砕ふんさいし、1102ねんにダルマチアとクロアチアの王位おういり、だいいち世界せかい大戦たいせん終了しゅうりょうまでつづくクロアチアとハンガリーの王位おういむすびつきをきずいた[34]。ハンガリー文化ぶんかはクロアチア北部ほくぶ浸透しんとうし、またクロアチア・ハンガリー国境こっきょう頻繁ひんぱん移動いどうし、ハンガリーはクロアチアを属国ぞっこくとしてあつかったときもあった。クロアチアには、独自どくじ地方ちほう総督そうとくであるバン、特権とっけんてき地主じぬし貴族きぞく、そして貴族きぞく会議かいぎであるサボル存在そんざいした[34]何人なんにんかの歴史れきしによると、クロアチアは11世紀せいきまつと12世紀せいきはじめにハンガリーの一部いちぶとなったが[35]両国りょうこく関係かんけい実際じっさい性質せいしつ定義ていぎするのがむずかしいとされている[28]ときにはクロアチアは独立どくりつした代理人だいりにんとして、またあるときにはハンガリーの臣下しんかとして行動こうどうしたが[28]、クロアチアは国内こくないでかなり独立どくりつたもっていた[28]国境こっきょうせん同様どうよう、クロアチアの自治じち程度ていどすう世紀せいきにわたって変化へんかしてきた[36]

今日きょう、パクタ・コンヴェンタまたはQualiter(本文ほんぶんかれてる最初さいしょ単語たんご)とばれる協定きょうてい主張しゅちょうされるものは、現代げんだいのほとんどのクロアチアじん歴史れきしに14世紀せいき偽造ぎぞうされたものだとなされている。この文章ぶんしょうによると、国王こくおうカールマーンは12のクロアチア貴族きぞくちょう協定きょうていむすび、カールマーンが貴族きぞく自治じち特権とっけんみとめた。1102ねん公正こうせい証書しょうしょではないが、それでもすくなくともハンガリーとクロアチアの関係かんけいをほぼおなじように規定きていした書面しょめんでの合意ごうい存在そんざい[3][13]、その合意ごうい内容ないようはクロアチア統治とうち実態じったい一致いっちするてんすくなからずあるのである[37]

地理ちり行政ぎょうせい組織そしき

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クロアチアをえがいたもっとふる地図ちずひとつ(1154ねんルッジェーロのしょより)

クロアチア王国おうこくは、西にしをダルマチア海岸かいがんきたクヴァルネルわんみさきからみなみはネレトヴァ河口かこうまで)に、ひがしヴルバスがわとネレトヴァがわに、みなみをネレトヴァ川下かわしもりゅうに、きたをグヴォズドさんクパがわかこまれていた[38][39]ザックルミア英語えいごばん西方せいほうのダルマチアとネレトヴァのあいだ土地とちは、つねにクロアチアの領土りょうどであったわけではなかった。「ダルマチア」という言葉ことばは、沿岸えんがんのいくつかの都市とししまし、ときにはクロアチアの同義語どうぎごとしても使つかわれたが、15世紀せいきのヴェネツィアの拡大かくだいにともなってさらに内陸ないりくすようになった。15世紀せいき後半こうはんから16世紀せいき初頭しょとうにかけてクロアチアの国境こっきょうきたひろがり、ザグレブとその周辺しゅうへん地域ちいき領土りょうどふくまれた[40]

クロアチアは、バンばれる国王こくおう代理だいりによって統治とうちされた。1196ねんイムレ王位おうい継承けいしょうしたのち、1198ねんおとうとアンドラーシュ2せいがクロアチア・ダルマチアこうとなった。こうして1198ねんからクロアチアとスラヴォニアはクロアチアこう支配しはいかれた。クロアチアこう現在げんざいもクロアチア王国おうこくとしてられている公国こうこくはん独立どくりつ支配しはいしゃとして統治とうちした。公爵こうしゃくしたには、普段ふだんだい貴族きぞくで、あるときにはクロアチアけいやハンガリーけいであるバンがかれた。バンの統治とうちにある領土りょうどが1225ねんにクロアチア・ダルマチアのバン、スラヴォニアのバンの2つに分割ぶんかつされるまで、1人ひとりのバンがクロアチア全土ぜんど支配しはいしていた。1345ねん以降いこう断続だんぞくてきどう一人物いちじんぶつ兼任けんにんし、1476ねんには正式せいしきに1つに統合とうごうされた。クロアチアの領土りょうどぐんクロアチア: županije)に分割ぶんかつされ、かくぐん伯爵はくしゃくžupan)のしたかれた。クロアチアの慣習かんしゅうほうもとで、クロアチアの伯爵はくしゃくは1102ねん以前いぜん同様どうように、世襲せしゅうせい地方ちほう貴族きぞくであった[39]教会きょうかいについては、グヴォズドやま以南いなんのクロアチアはスプリト大司教だいしきょう英語えいごばん管轄かんかつにある一方いっぽうで、スラヴォニアはカロツァ大司教だいしきょう英語えいごばん管轄かんかつにあった[41]

歴史れきし

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ヴェネツィア、ビザンツ帝国ていこくとの闘争とうそう

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十字軍じゅうじぐんのヴェネツィアによるザラ包囲ほういせん(1202ねん
12世紀せいきまつのクロアチア・ダルマチア王国おうこくうすきみどり

1107ねん国王こくおうカールマーンダルマチア沿岸えんがんにあるきゅうビザンツ都市としだい部分ぶぶん支配しはいした。これらの都市とし重要じゅうようであったため、この地域ちいきをめぐってハンガリーじんクロアチアじんはしばしばヴェネツィアビザンツ帝国ていこくあらそった[42]。カールマーンの死後しごの1116ねん、ヴェネツィアはダルマチア沿岸えんがん攻撃こうげきし、クロアチアのバンクレディンのぐんやぶってビオグラードスプリトトロギルシベニクザダル、さらにいくつかのしまうばった。1117ねん、カールマーンの後継こうけいしゃであるイシュトヴァーン2せいうしなった都市とし奪還だっかんこころみ、ヴェネツィア総督そうとくドージェ)のオルデラフォ・ファリエロ英語えいごばんをザダル近郊きんこうでのたたかいでやぶったものの、奪還だっかんには失敗しっぱいした。5年間ねんかん休戦きゅうせん協定きょうていむすばれ、現状げんじょう維持いじ確認かくにんされた。1124ねんにイシュトヴァーン2せいふたたびヴェネツィアりょう攻撃こうげきし、ビオグラード、スプリト、トロギル、シベネクをもどしたが、ザダルや島々しまじまはヴェネツィアの支配しはいとどまったままだった。しかし、1125ねん総督そうとくドメニコ・ミケーレ英語えいごばんはこれらの都市としさい征服せいふくし、ビオグラードを壊滅かいめつさせた。そのの1131ねんベーラ2せいがハンガリー王位おうい継承けいしょうし、1133ねんにはザダル以外いがいうしなった都市とし奪還だっかんした[43][44]。1167ねんにはボスニアだけでなくクルカがわ以南いなんのクロアチアがビザンツ帝国ていこく征服せいふくされた。これらの地域ちいきは、1180ねんにビザンツ皇帝こうていマヌエル1せいコムネノス死去しきょするまでビザンツ帝国ていこく支配しはいかれた。1180ねん以降いこうバンの統治とうちする地域ちいきえたものの、その領域りょういき活動かつどう範囲はんいはまだ完全かんぜんにはさだまっていなかった[45]

皇帝こうていマヌエル1せいコムネノスの死後しご、ビザンツ帝国ていこくはもはやダルマチアで一貫いっかんして影響えいきょうりょく維持いじすることができなくなった。やがてザダルはヴェネツィアにたいして反乱はんらんこし、だい4かい十字軍じゅうじぐんなかイムレ十字軍じゅうじぐんへの参加さんかちかったにもかかわらず、総督そうとくエンリコ・ダンドロひきいるヴェネツィアと十字軍じゅうじぐんがザダル(ザラ)を略奪りゃくだつした1202ねんまで、つね戦場せんじょうとなった。これは十字軍じゅうじぐんによる最初さいしょのカトリック都市としへの攻撃こうげきとなった。ヴェネツィアはこれを、のちラテン帝国ていこくてたさらにひがしコンスタンティノープル方面ほうめんへの船賃ふなちん補償ほしょうとして要求ようきゅうした[43]。ヴェネツィアとの敵対てきたい関係かんけいは1216ねんまでつづいた。その当時とうじアンドラーシュ2せい統治とうち時代じだいであり、かれはヴェネツィア艦隊かんたい利用りようしてだい5かい十字軍じゅうじぐん参加さんかした[46]

封建ほうけんせい貴族きぞくあいだ関係かんけい

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1288ねんグラゴル文字もじかれたヴィノドール法典ほうてん英語えいごばん

12世紀せいき中世ちゅうせいヨーロッパでさかえ、ハンガリーとクロアチアにもひろがった封建ほうけんせい影響えいきょうもとで、クロアチアでは強力きょうりょく貴族きぞくそう形成けいせいされた[47]。これらの貴族きぞくのほとんどはかつての12貴族きぞく英語えいごばん子孫しそんであった。クロアチアには、君主くんしゅによってつくられた貴族きぞくや、王室おうしつへの奉仕ほうしもとづく貴族きぞく存在そんざいしなかった[48]。これらの貴族きぞくぐん全体ぜんたい支配しはいし、また地方裁判所ちほうさいばんしょ主宰しゅさいしてその決定けってい執行しっこうしたので、地方ちほう住民じゅうみんはいかなるくに組織そしきからも完全かんぜんはなされていた[49]。12世紀せいきと13世紀せいき初期しょきのクロアチアでもっと有力ゆうりょくだった貴族きぞくは、様々さまざま分家ぶんけしてブリビルを拠点きょてんにダルマチア内陸ないりく支配しはいしたシュヴィッチ英語えいごばん、スラヴォニア西部せいぶクパがわ右岸うがん支配しはいしたバボニッチ英語えいごばんオミシュ英語えいごばん拠点きょてんツェティナがわ英語えいごばんネレトヴァがわあいだ支配しはいし、海賊かいぞく行為こういられていたカチッチ英語えいごばん、そしてクルクとう、クヴァルネル、リカ北部ほくぶモドルシュ英語えいごばんぐん支配しはいしたフランコパン英語えいごばん当時とうじはクルクの王子おうじ)である。これらの主要しゅよう貴族きぞくほかに、グシッチ英語えいごばんクカル英語えいごばんラプチャン英語えいごばんモゴロヴィッチ英語えいごばんトゥゴミリッチ英語えいごばんなどの有力ゆうりょくではない貴族きぞくもいた[50][51]

この期間きかん、そしてだい2かい十字軍じゅうじぐん(1145ねん-1149ねん)の結果けっかテンプル騎士きしだんひじりヨハネ騎士きしだんはクロアチアにおけるかなりの資産しさん財産ざいさんれた。ボスニアのバンボリッチ英語えいごばんによってキリストきょう十字軍じゅうじぐん有利ゆうり最初さいしょ交付こうふおこなわれた。12世紀せいきまつまでに、テンプル騎士きしだんヴラナ英語えいごばんセニ、ザグレブ近郊きんこうノヴァヴェス英語えいごばんなどを所有しょゆうしていた[52]

1221ねん、スプリトの所有しょゆうけんをめぐってドマルド英語えいごばん(スプリト王子おうじかつツェティナはく)とシュビッチあいだ戦争せんそう勃発ぼっぱつした。ドマルドの家系かけい不明ふめいだが、おそらくスナチッチかカチッチ出身しゅっしんである。ドマルドはシベニクとクリス要塞ようさい領有りょうゆうし、1209ねんにはヴェネチアからザダルを一時いちじてきうばった。1221ねん、スプリト市民しみんはドマルドを追放ついほうし、クニン近郊きんこうのズヴォニグラード出身しゅっしんのヴィシャン・シュビッチを王子おうじ選出せんしゅつした。シュビッチ勝利しょうりおさめたが、そのメンバーであるグレゴリウス3せいハンガリーばんとヴィシャンのあいだふたた戦争せんそうはじまった。グレゴリウスは勝利しょうりしてヴィシャンを処刑しょけいし、またかれ土地とちれ、シュビッチなかでの覇権はけん確保かくほした。しかしドマルドはまだクリスを所有しょゆうしており、スプリト奪還だっかん野望やぼういていた。 戦争せんそう過程かていでドマルドはクリスをうしない、カチッチ同盟どうめいむすんだ。1229ねん、ドマルドはスプリトでグレゴリウスの代理だいりをなんとかやぶり、スプリト王子おうじ再選さいせんされた。しかし、1231ねんまでにグレゴリウスはスプリト王子おうじ地位ちいもどった。グレゴリウスの死後しごの1235ねん、ドマルドはあたらしい状況じょうきょう利用りようしてふたたびスプリトを奪還だっかんしたが、2ねんにグレゴリウスの息子むすこマルコ1せいうばわれた。ドマルドとの戦争せんそうは、ステプコ・シュビッチがクリスでかれやぶり、とらえたことでようやく終結しゅうけつした[51]

国王こくおうアンドラーシュ2せい反抗はんこうしたハンガリー貴族きぞくことなり、クロアチアとスラヴォニアは13世紀せいきつうじて地方ちほう貴族きぞくした分権ぶんけんすすんだ。1222ねん国王こくおうはハンガリー貴族きぞく特権とっけん規定きていし、免税めんぜい服従ふくじゅう権利けんりみとめたきむしるし勅書ちょくしょ発行はっこういられた。クロアチア貴族きぞくは、アンドラーシュ2せいみとめた特権とっけん最大限さいだいげん享受きょうじゅした[51]

モンゴルの侵攻しんこう

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ベーラ4せい統治とうち時代じだいモンゴル民族みんぞくタタール)がキエフみなみロシア征服せいふくし、1241ねんにはハンガリーにも侵攻しんこうした。1241ねん4がつ11にちシャイオがわおこなわれたモヒのたたかで、モンゴルはハンガリーぐん一掃いっそうした[53]。ベーラ4せいおとうとであるカールマーンきびしい負傷ふしょうい、南方なんぽうのクロアチアにれてかれたが、きず原因げんいんとなってそこで死亡しぼうした。バトゥは、クロアチアにげたベーラ4せいうために、10,000にんから20,000にん軍隊ぐんたいそなえたいとこのカダアン・オグル派遣はけんした[54]

1242ねん、モンゴルじんドラーヴァがわわたり、スラヴォニアのポジェガぐん英語えいごばんクリジェヴツィぐん英語えいごばん略奪りゃくだつはじめた。かれらはチャズマザグレブまち略奪りゃくだつし、ザグレブだい聖堂せいどう焼失しょうしつした[55]貴族きぞくは、ベーラ4せいとともに南方なんぽうクリス要塞ようさい英語えいごばん、スプリト、トロギル、その周辺しゅうへん島々しまじま移動いどうした[56]。スプリト近郊きんこうにいたモンゴルは、ベーラ4せいかくれているとかんがえ、クリス英語えいごばんへの攻撃こうげき開始かいしした。しかし実際じっさいにはベーラ4せいはトロギルにいたうえ、モンゴルは要塞ようさい包囲ほうい失敗しっぱいした[55]

すぐにカラコルムオゴデイんだというらせがとどき、モンゴルじんあたらしいハンの選挙せんきょ参加さんかするためにかえした。ある集団しゅうだんゼタ英語えいごばんセルビアブルガリア通過つうかしてひがしもどり、いずれも略奪りゃくだつをされた。またべつ集団しゅうだんドゥブロヴニク周辺しゅうへん略奪りゃくだつし、コトルまちはらった[53][56]

クロアチアではモンゴルがったのち土地とち荒廃こうはいし、深刻しんこく飢饉ききんこった。モンゴルの侵略しんりゃくによって、要塞ようさいされた都市としでなければ防衛ぼうえいできないことがあきらかになった。モンゴルはまだひがしヨーロッパだい部分ぶぶんさえていたため、あたらしい要塞ようさい建設けんせつ既存きそん要塞ようさい補強ほきょう修理しゅうりなど、防衛ぼうえいシステムの構築こうちく開始かいしした[56]。ガリッチ、リポヴァツ、オキッチ、カルニクなどのほかにも、ザグレブ上空じょうくうのメドヴェドニツァやまには要塞ようさい都市としメドヴェドグラード英語えいごばん建設けんせつされた[56]。1242ねん11月16にち国王こくおうグラデツ英語えいごばん現在げんざいのザグレブの一部いちぶ)の市民しみんたいしてきむしるし勅書ちょくしょ発行はっこうし、自由じゆう都市としであることが宣言せんげんされた。貴族きぞく自分じぶん土地とちしろて、軍隊ぐんたい規模きぼおおきくすることがゆるされた。これにより、貴族きぞく独立どくりつせいはさらにたかまった[41]

13世紀せいき内戦ないせん

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パヴァオ1せいシュビッチ・ブリビルスキ英語えいごばん紋章もんしょう。"Paulus de Breberio banus Croatorum D[omi]n[u]s et Bosnae"(クロアチアのバンかつボスニア領主りょうしゅであるブリビールのパヴァオ)としるされている。

モンゴルの侵攻しんこうによって一時いちじてき貴族きぞくあいだ内戦ないせん中断ちゅうだんしたが、1240年代ねんだい初頭しょとうにモンゴルがったのち、すぐにクロアチアでは内戦ないせん再開さいかいした。戦争せんそう原因げんいんはオストログむら領有りょうゆうであった。このむらはスプリトとトロギルがともに領有りょうゆうけん主張しゅちょうし、1242ねんにはベーラ4せいがトロギルに特許とっきょあたえた。トロギルは国王こくおうとシュビッチ、その指導しどうしゃであるステプコ・シュビッチの支援しえんけた。一方いっぽうでスプリトはカチッチ英語えいごばんHum英語えいごばんのアンドリュー、ボスニアのバンマテイ・ニノスラフ英語えいごばん同盟どうめいむすんだ。1244ねん、スプリトはニノスラフを王子おうじ選出せんしゅつし、同年どうねん、ニノスラフはトロギルへの攻撃こうげき開始かいししたが、都市としうばうことはできなかった。ニノスラフがボスニアにもどったのち、スラヴォニアのバンデニス・テュリエ英語えいごばん、ステプコ・シュビッチ、ダニエル・シュビッチが指揮しきする大軍たいぐんがスプリトに派遣はけんされ、スプリトはただちに降伏ごうぶくした。講和こうわ条約じょうやくが1244ねん7がつ19にち調印ちょういんされた。ベーラ4せいひきいるだい2ぐんはボスニアに侵入しんにゅうし、1244ねん7がつ20日はつかにマテイ・ニノスラフに和平わへい条約じょうやくむすばせた。ダルマチアの沿岸えんがん都市としあいだあらそいをふせぐため、ベーラ4せいはそれまで都市とし独自どくじっていた知事ちじ選挙せんきょをクロアチアのバンにうつした。しかし、それまで沿岸えんがんのほとんどの都市とし統治とうちしていたシュビッチはこの決定けってい不満ふまんいていた[57][58]

後代こうだいおうは、まち一定いってい特権とっけんあたえて自由じゆう都市としとし、地方ちほう貴族きぞく権威けんいからはなすことで国王こくおう影響えいきょうりょく回復かいふくしようとした。ヴァラジュディンは1220ねんに、ヴコヴァルは1231ねんに、ヴィロヴィティツァは1234ねん国王こくおうアンドラーシュ2せいから自由じゆう都市とし地位ちいあたえられた。また、 ペトリニャは1240ねんに、グラデツ英語えいごばんザグレブ大司教だいしきょう英語えいごばんカプトル英語えいごばんのぞく)は1242ねんに、サモボルは1242ねんに、クリジェーブツィ英語えいごばんは1252ねんに、ヤストレバルスコ英語えいごばんは1257ねんおな地位ちい獲得かくとくした。自由じゆう都市としみずか議会ぎかい選出せんしゅつし、統治とうちけん裁判所さいばんしょち、またみずか税金ぜいきん徴収ちょうしゅうし、経済けいざい貿易ぼうえき管理かんりした[57]

しかし、地方ちほう貴族きぞくつづちからをつけていった。王権おうけん弱体じゃくたいによりシュビッチは1270年代ねんだいにトロギル、スプリト、シベニクを奪還だっかんし、沿岸えんがん都市としでかつての地位ちい回復かいふくした。1274ねん、パヴァオ1せいクロアチア: Pavao I Šubić Bribirskiはシュビッチ当主とうしゅとなり、すぐにクロアチアとダルマチアのバンとなった。一方いっぽうかれ兄弟きょうだいはスプリトのムラデン1せい英語えいごばんとトロギルとシベニクのジュラジュ1せい英語えいごばんというように、ダルマチアの有力ゆうりょく都市とし王子おうじであった。1280ねん、ヴェネツィアはカチッチ沿岸えんがん領地りょうち攻撃こうげきし、オミシュを占領せんりょうした。パヴァオはカチッチ衰退すいたい利用りようし、ネレトヴァがわとツェティナがわあいだ本土ほんど領地りょうちうばった[49]

王朝おうちょう闘争とうそうとシュビッチ

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ザダルChest of Saint Simeonえがかれたパヴァオ1せい

1290ねんラースロー4せい息子むすこのこさずに死亡しぼうし、アールパードあさアンドラーシュ3せいハンガリー・アンジューカルロ・マルテッロとのあいだ継承けいしょう戦争せんそう勃発ぼっぱつした。クロアチアのバンパヴァオとクロアチア貴族きぞくのほとんどはカルロ・マルテッロを支持しじし、ハンガリー貴族きぞくのほとんどはアンドラーシュ3せい支持しじした。バボニッチ当初とうしょカルロ・マルテッロがわについていたが、やがてアンドラーシュ3せいがわについた。クロアチアじん支持しじ維持いじするため、カルロ・マルテッロのちちであるカルロ1せいは、息子むすこでグヴォズドやまからネレトヴァがわまでのぜん領土りょうどをパヴァオに世襲せしゅうとしてあたえた。こうしてバンの地位ちいはシュビッチ世襲せしゅうされた一方いっぽうで、地元じもとのクロアチア貴族きぞくはパヴァオとその子孫しそん家臣かしんとなった。これにたいし、アンドラーシュ3せいもパヴァオをクロアチアのバンとするみことのりれいした。こうした支持しじ獲得かくとく競争きょうそうと、内戦ないせんちゅう中央ちゅうおう権力けんりょく不在ふざいとなった結果けっか、シュビッチはクロアチアでもっと強力きょうりょく一族いちぞくとなった[59][60]

ザグレブでは、司教しきょうまちカプトル英語えいごばんがカルロ・マルテッロを、グラデツ英語えいごばんがアンドラーシュ3せい支持しじし、この地域ちいきはげしい戦闘せんとうひろげられた。1295ねんにカルロ・マルテッロがくなると、王位おうい継承けいしょうけん息子むすこカーロイ1せいうつった。クロアチアとハンガリーの貴族きぞくはやがてアンドラーシュ3せい国王こくおうとしてれたが、1299ねん、アンドラーシュに息子むすこがいなかったために叔父おじのアルベルティーノ・モロジーニを後継こうけいしゃ指名しめいすると、あらたな反乱はんらんはじまった。パヴァオはおとうとのジョージ1せいをローマにおくり、かれらの要求ようきゅうをローマ教皇きょうこうみとめさせ、カーロイ1せいを1300ねん8がつにクロアチアにれてきた。その翌年よくねんの1301ねん1がつにはアンドラーシュ3せい死亡しぼうし、アールパードあさ滅亡めつぼうした。バンパヴァオはカーロイ1せいともにザグレブにき、そこでおうとして承認しょうにんされた。また、1301ねん3がつかれエステルゴムだい主教しゅきょうからハンガリーおうとクロアチアおうかり王冠おうかんさづけられた[59][60]。そのため、慣習かんしゅうもとめられていたセーケシュフェヘールヴァールでのせいイシュトヴァーンの王冠おうかん使つかった戴冠たいかんおこなわれなかった。

パヴァオが継承けいしょう危機ききちゅう獲得かくとくした特権とっけんみとめられ、かれ家族かぞくはバンの世襲せしゅうけんた。クロアチア貴族きぞくはカーロイ1せい承認しょうにんしたが、一部いちぶのハンガリー貴族きぞくがこれを拒否きょひし、ボヘミアおうヴァーツラフ2せい息子むすこヴァーツラフえらび、1301ねんにセーケシュフェヘールヴァールでハンガリーおうとして戴冠たいかんした。ハンガリーでは内戦ないせんつづいたが、パヴァオの確固かっこたる権威けんいのもとにあったクロアチアには影響えいきょうがなかった[59]。1299ねんにパヴァオはボスニアの支配しはいけん獲得かくとくし、そのときから「クロアチアのバン・ボスニアの領主りょうしゅラテン語らてんご: Banus Croatorum Dominus et Bosnae)」という称号しょうごうあたえられた。かれおとうとのムラデン1せいにボスニアのバンの称号しょうごうあたえた。当時とうじ、パウロの権力けんりょくはグヴォズドからネレトヴァまで、アドリア海あどりあかい沿岸えんがんからボスナがわまでおよび、ザダルだけがその領域りょういきがいのこってヴェネツィアの支配しはいかれていた[61]。しかし、1304ねんにムラデン1せいはボスニアで殺害さつがいされた。パヴァオは自身じしん権威けんいさい確認かくにんのためにボスニアにたいする戦闘せんとうおこない、1305ねんからみずからを「ボスニア全土ぜんど領主りょうしゅラテン語らてんご: totius Bosniae dominus)」としょうし、ボスニアのよりおおくの土地とち支配しはいいた。かれは2番目ばんめ息子むすこムラデン2せい英語えいごばんをボスニアのバンに任命にんめいし、1305ねんかれの3番目ばんめ息子むすこパヴァオ2せい英語えいごばんがスプリト王子おうじになった[62]

パヴァオ1せいみずか硬貨こうか発行はっこうし、事実じじつじょう独立どくりつした支配しはいしゃであった。また、かれは1311ねんにザダルでヴェネツィアにたいして反乱はんらんこし、成功せいこうした。1312ねん5がつ1にちにパヴァオ1せいくなり、息子むすこのムラデン2せい後継こうけいしゃとなったのちもヴェネツィアとの戦争せんそうつづいた。パヴァオ1せい死後しご、ブリビル王子おうじ徐々じょじょ衰退すいたいはじめた。最終さいしゅうてきにヴェネツィアは1313ねんにザダルの支配しはい回復かいふくした[61]。1322ねんにはクロアチアでべつ内戦ないせんはじまった。内戦ないせんは、ムラデン2せいとその同盟どうめいぐんかれあにパヴァオ2せいふくむクロアチア貴族きぞくとスラヴォニアのバンヨハン・バボニッチ指揮しき沿岸えんがん都市とし連合れんごうやぶれたブリスカのたたか英語えいごばん最高潮さいこうちょうたっした。国王こくおうによってクニンで開催かいさいされた会議かいぎでは、ジョン・バボニッチがクロアチアとダルマチアのバンに指名しめいされ、シュビッチ世襲せしゅう統治とうち終了しゅうりょうした。かれらの所有しょゆう縮小しゅくしょうされ、ムラデン兄弟きょうだい分割ぶんかつされた。パヴァオ2せいはブリビルとオストロヴィツァを、ジョージ2せいはクリス、スクラディン英語えいごばん、オミシュを領有りょうゆうした[63]

1312ねん、ヴェネツィアによるザダル占領せんりょう直後ちょくごのパヴァオ1せい領域りょういき(クロアチア・ボスニア・Hum)

シュビッチ衰退すいたいイワン・ネリピッチクロアチアばんがクロアチアの支配しはいしゃとなった。かれおうみやこクニンを占領せんりょうし、これによりヨハネ・バボニッチはバンの地位ちいわれ、ニコラス・フェルスーレンドヴァイ、のちにミクシュ・アコスが後継こうけい任命にんめいされたが、かれぐんは1326ねんにイワン・ネリピッチにやぶれた。こうして、リカとクルバヴァからツェティナがわいたるクロアチア全土ぜんどが、事実じじつじょう国王こくおう権威けんいそとかれることになった。ネリピッチはシュビッチ緊張きんちょう関係かんけいにあり、頻繁ひんぱん対立たいりつしていた。これらのあらそいのなかでヴェネツィアは1327ねんにスプリトを、1329ねんにニンを支配しはいき、ズルマニャがわからツェティナ河口かこういた沿岸えんがんだい部分ぶぶんれた。同時どうじに、ボスニアのバンスティエパン2せい英語えいごばんイモツキ、Duvno、Livno i Glamočだけでなくツェティナとネレトヴァのあいだ領土りょうど併合へいごうした。クロアチアののこりの地域ちいきは、イワン・ネリピッチが1344ねんくなるまで、クニンから独立どくりつして統治とうちしていた[63][64]。その、ラヨシュ1せいはクロアチアの王権おうけん回復かいふくし、1345ねんまつまでにクロアチアを平定へいていした。ニコラス・ハホト英語えいごばんは、すうじゅうねんぶりに任命にんめいされた王室おうしつ役人やくにんで、スラヴォニア、クロアチア、ダルマチアのバンを名乗なのり、ふたつの地位ちい統合とうごうしてクロアチアりょうにも影響えいきょうりょくひろげ、王室おうしつ権威けんい代表だいひょうする存在そんざいとなった[65]

ダルマチアの領土りょうど変動へんどう

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1345ねん、ザダルはふたたびヴェネツィアにたいして反乱はんらんこしたが、なが包囲ほういのち、1346ねんにヴェネツィアはこの都市としふたた獲得かくとくした。この反乱はんらんへの報復ほうふくとして、ヴェネツィアはザダルの防潮ぼうちょうつつみ破壊はかいし、市民しみんから武器ぶき没収ぼっしゅうし、またヴェネツィアじんまち総督そうとくとしておくんだ。国王こくおうラヨシュ1せいは1348ねんにヴェネツィアと8年間ねんかん平和へいわ条約じょうやくむすんだ。平和へいわ条約じょうやく終結しゅうけつの1356ねんラヨシュ1せい事前じぜん宣戦せんせん布告ふこくなしにヴェネツィアの領土りょうど侵攻しんこうした。このときクロアチアぐんルドブレグのバンJohn Csúzがひきいていた。スプリト、トロギル、シベニクではすぐにヴェネツィアの総督そうとくしたが、ザダルはみじか包囲ほういのち陥落かんらくした。ラヨシュ1せいどう時期じききたイタリアでのたたかいで成功せいこうおさめたため、ヴェネツィアは1358ねん2がつ18にちザダル条約じょうやく英語えいごばんへの調印ちょういんいられた[66]

14世紀せいきなかばのクロアチア

この条約じょうやくにより、ラヨシュ1せい独立どくりつして行動こうどうしていたドゥブロヴニク(ラグーザ)をふくむ、ツレスとうからアルバニアのドゥラスわたるダルマチア全域ぜんいき支配しはいにおいた。ヴェネツィアのドージェ総督そうとく)は、「クロアチア・ダルマチアこう」という称号しょうごう放棄ほうきしなければならなかった[66]。こののち、クロアチア全土ぜんどひとつの行政ぎょうせい、そしてクロアチアとダルマチアのバンの権限けんげんした統合とうごうされた。結果けっかとして、クロアチアの経済けいざいとくひがしアドリア海岸かいがん都市としにおいて14世紀せいき後半こうはん繁栄はんえいした。あたらしい王立おうりつ都市とし交易こうえき路上ろじょう設立せつりつされ、より裕福ゆうふく商人しょうにんまち支配しはいするようになり、まちあらたな様子ようす沿岸えんがん大陸たいりくのクロアチアのあいだ文化ぶんかてき統合とうごうはじまりをしめした[67]

はん宮廷きゅうてい運動うんどう

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1382ねんにラヨシュ1せいんだのちかれつまエリザベタ・コトロマニッチは11さいマーリア摂政せっしょうつとめた。エリザベタの即位そくいは、ナポリおうカルロ3せい正統せいとう王位おうい継承けいしょうしゃかんがえる一部いちぶ貴族きぞくたちによって否定ひていされた。クロアチアでは、ヴラナの司祭しさいであったイヴァニシュ・パリジュナ英語えいごばんがエリザベタに最初さいしょ反対はんたいした。かれは、おもにエリザベタのおっとおこなった中央ちゅうおう集権しゅうけん政策せいさく反対はんたいしていた。かれは1371ねんボスニア国王こくおうとして戴冠たいかんしたスティエパン・トヴルトコ1せい英語えいごばんともなっていた。イヴァニシュ・パリジュナは結局けっきょくエリザベタの軍隊ぐんたいやぶれ、ボスニアに逃亡とうぼうせざるをなくなった。みじか平和へいわ時代じだいつづいたのち、1385ねんにマクソーのバンであるジョン・ホルヴァートとそのおとうとでザグレブ首長しゅちょうであるポール・ホルヴァートがひきいるマーリア女王じょおうとエリザベタ女王じょおうたいするあたらしい運動うんどうまれた[68]

15世紀せいき初期しょきのHrvoje Vukčićの領域りょういき

この二人ふたり兄弟きょうだいに、1385ねんにカルロ3せいによってクロアチア・ダルマチア・スラヴォニアのバンとなったイヴァニシュ・パリジュナがくわわった。かれらは、1385ねんまつにマーリア女王じょおう退位たいいさせることでカルロ3せい支援しえんしたが、エリザベタは直後ちょくごの1386ねん2がつかれ殺害さつがいさせた。ホルヴァート兄弟きょうだいは、ころされたカルロ3せい(カーロイ2せい)の息子むすこラディズラーオわって、堂々どうどう反乱はんらんこした。1386ねん7がつ25にちかれらはマーリア女王じょおう、エリザベタ女王じょおうとその従者じゅうしゃゴルジャニ英語えいごばんおそい、女王じょおうたちをらえた。マリアとそのはははザグレブ司教しきょうのゴムネクじょう投獄とうごくされ、監禁かんきんされた[69]。エリザベタとマーリアはすぐにノヴィグラードじょうおくられ、イヴァニシュ・パリジュナがあたらしい監守かんしゅとなった。エリザベタは裁判さいばんにかけられ、カーロイ殺害さつがい扇動せんどうしたつみ有罪ゆうざいになった。1387ねん1がつ、マーリア女王じょおうおっとであるルクセンブルクジグモンドが、女王じょおうたちを救出きゅうしゅつするためにノヴィグラードにかって進軍しんぐんした。ジグムンドの接近せっきんらせがノヴィグラードにとどくと、エリザベタはマーリアの面前めんぜん牢獄ろうごく絞殺こうさつされた。そして1387ねん3がつ31にち、セーケシュフェヘールヴァールでジグモンドが国王こくおう即位そくいした[69]

ジグモンドの同盟どうめいしゃIvan Ⅴは、ヴェネツィア艦隊かんたい支援しえんてノヴィグラードじょう包囲ほういした。1387ねん6がつ4にちかれらはしろ占領せんりょうし、幽閉ゆうへいされていたマーリアを解放かいほうした。彼女かのじょぬまでジグムンドの共同きょうどう統治とうちしゃでありつづけたが、その影響えいきょうりょくちいさかった。一方いっぽう、ホルヴァート兄弟きょうだい同盟どうめいしゃであるボスニア国王こくおうトヴルトコ1せい英語えいごばんは、かれらをウソラ英語えいごばん総督そうとく任命にんめいした。ホルヴァート兄弟きょうだいは、ボスニア大公たいこう英語えいごばんフルヴォイエ・ヴクチッチ・フルヴァティニッチ英語えいごばんにも支援しえんされていた。トヴルトコ1せいとその同盟どうめいぐんは1387ねんから1390ねんにかけてクロアチアとダルマチアのだい部分ぶぶん獲得かくとくし、ジグムンドがこれらをもどそうとつとめたが失敗しっぱいわった。1390ねん、トヴルトコ1せいは「クロアチア・ダルマチアおう」を名乗なのはじめ、フルヴォイエにダルマチアの領地りょうちあたえた。トヴルトコ1せいは1391ねん3がつ死亡しぼうし、そのすう週間しゅうかんにはイヴァニシュ・パリジュナが死亡しぼうした。国王こくおうトヴルトコ1せい死後しご、フルヴォイエはボスニアで最強さいきょう貴族きぞくとなった。同年どうねん、ラディズラーオはかれをダルマチア地方ちほう副官ふっかん任命にんめい[70]、ブラチとう、フヴァルとう、コルチュラとう領有りょうゆうみとめ、スプリトこうのちにスプリト・ヘルツォーク称号しょうごうあたえた[71][70][72][73]

Ladislaus Viceroy in Croatia and Herzog of Split, Hrvoje Vukčić Hrvatinić, Grand Duke of Bosnia as depicted in Hrvoje's Missal (1404)
オスマン帝国ていこく拡大かくだいとクロアチア(1500ねん

1393ねんにトヴルトコ1せい後継こうけいしゃであるスティエパン・ダビシャ英語えいごばんがジグムンドと和平わへいむすぶと、状況じょうきょう一変いっぺんした。かれはトヴルトコが最近さいきん獲得かくとくした領土りょうど返還へんかんしたが、1385ねん征服せいふくしたボスニア西部せいぶ領土りょうど保持ほじすることをゆるされた。また、フルヴォイエ・ヴクチッチも1393ねん服従ふくじゅうした。1394ねん7がつ、ジグムンドはボスニアのドボルを占領せんりょうしてジョン・ホルヴァートをらえ、ホルヴァートの反乱はんらん終結しゅうけつさせた。マーリア女王じょおう命令めいれいで、はは復讐ふくしゅうとして、パリジュナはペーチ拷問ごうもんけてんだ[37]

スティエパン・ダビシャの死後しご、その未亡人みぼうじんイェレナ・グルバ英語えいごばん女王じょおうえらばれた。フルヴォイエ・ヴクチッチはふたた積極せっきょくてきにジグムンドに反対はんたいし、ナポリのラディズラーオへの支持しじ表明ひょうめいした。反抗はんこうてき貴族きぞくたちと和解わかいするために、ジグムンドは1397ねん2がつ27にちにクロアチアのクリジェフチで会議かいぎ招集しょうしゅうし、そこにラディズラーオからクロアチア副官ふっかん任命にんめいされていたスティエパン2せいラックフィを安全あんぜんさくまねいた。この集会しゅうかいで、ラックフィとおいのアンドリュー、それを支持しじする貴族きぞく殺害さつがいされ、ラディズラーオの名前なまえあらたな蜂起ほうきこった。この蜂起ほうき主導しゅどうしたのはフルヴォイエ・ヴクチッチで、かれ非常ひじょう積極せっきょくてき役割やくわりたし、みずからの権威けんい拡大かくだいすることができた。クリジェフチの議会ぎかいは、のちに「まみれのクリジェフチのサボル英語えいごばん」とばれるようになった[74]

1398ねん、ジグムンドはボスニア王国おうこくとの戦闘せんとう失敗しっぱいし、そのボスニアのしん国王こくおうスティエパン・オストヤ英語えいごばんとフルヴォイエが攻勢こうせいてんじた。ザダルは1401ねんにフルヴォイエに服従ふくじゅうし、ツェティナけんだい部分ぶぶん支配しはいしていたイヴァニシュ・ネリプチッチ英語えいごばん援助えんじょにより、フルヴォイエは1403ねんにスプリトを支配しはいいた。このあいだ、ジグムンドはフランコパン支持しじうしなったが、クルチャコヴィッチ英語えいごばん(グシッチ分流ぶんりゅう)、ベリスラヴィッチズリンスキー英語えいごばん忠誠ちゅうせい維持いじした。しかし、ラディズラーオが消極しょうきょくてきでブダへの進出しんしゅつ躊躇ちゅうちょしたため、ジグムンドはかれ敵対てきたいしていたすべての人々ひとびと恩赦おんしゃあたえることにした。フランコパンふくおおくのハンガリーやクロアチアの貴族きぞくはこれをれ、ジグムンドがわについた[75]

フルヴォイエ・ヴクチッチとの対立たいりつにより、ボスニア貴族きぞくは1404ねんにステファン・オストヤを追放ついほうし、フルヴォイエの傀儡かいらいとしてトゥヴルトコ2せい英語えいごばん王位おういかせた。オストヤはハンガリーにげ、ジグムンドに味方みかたした。フルヴォイエは、1408ねんにボスニア貴族きぞくがドボルのたたかいで大敗たいはいするまで、なんかのジグムンドの軍事ぐんじ介入かいにゅうえられた。1409ねん1がつ、フルヴォイエがジグムンドに降伏ごうぶくし、オストヤがボスニア王位おうい復帰ふっきしたことが発表はっぴょうされた。これによって、ジギスムントはハンガリー、ボスニア、クロアチアでの騒乱そうらん終止符しゅうしふった[76]。やがて1409ねん、ラディズラーオはダルマチアにおける権利けんりを10まんドゥカーツでヴェネツィアに売却ばいきゃくし、フィレンツェ共和きょうわこくとの戦争せんそう味方みかたようとした[77]

オスマン帝国ていこくとの戦争せんそう

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Petar Berislavić記念きねんトロギル
クルバヴァのたたか英語えいごばん(1493ねん

1453ねんビザンツ帝国ていこく征服せいふくしたのちオスマン帝国ていこく急速きゅうそく西方せいほう拡大かくだいし、クロアチア王国おうこくおどかした[78]。1463ねんボスニア王国おうこく陥落かんらくつづき、国王こくおうマーチャーシュ1せいヤイツェスレブレニク英語えいごばん設立せつりつすることで防衛ぼうえい強化きょうかした。オスマン帝国ていこく防衛ぼうえいせんやぶるのに苦戦くせんしたが、クロアチアやみなみハンガリーへの略奪りゃくだつ定期ていきてきった。1463ねん略奪りゃくだつ最中さいちゅう、クロアチアのバンPavao Špirančićはセニでらえられた[79]。オスマン帝国ていこく急速きゅうそく南方なんぽう拡大かくだいし、1482ねんにはヘルツェゴビナのだい部分ぶぶんとネレトヴァ渓谷けいこくのクロアチアの拠点きょてん征服せいふくした[80]

クロアチアのオスマン帝国ていこくたいする最初さいしょおも勝利しょうりは、1478ねん、Glina近郊きんこうでCount Petar Zrinskiによって達成たっせいされた。1483ねん、クロアチアのバンMatthias Geréb英語えいごばんとフランコパンひきいた軍隊ぐんたいは、現在げんざいノヴィ・グラードちかくでおこなわれたウナのたたか英語えいごばんで、やく7000にんのオスマン帝国ていこく騎兵きへいアキンジ)の部隊ぶたいやぶった。同年どうねん平和へいわ条約じょうやくむすばれ、クロアチアはオスマン帝国ていこくによるだい規模きぼ略奪りゃくだつまぬかれた。国境こっきょうでの戦闘せんとうつづいたが、それほどはげしいものではなかった[81]

1490ねん、マーチャーシュ1せいとともに休戦きゅうせん終了しゅうりょうした。1491ねんにオスマン帝国ていこくけい騎兵きへい1まんにんがウナかわわたり、カルニオラ進出しんしゅつしが、そのかえみちヴルパイルのたたか英語えいごばんやぶれた。2ねん、クロアチアのあらたなバンエメリク・デレンチン英語えいごばんとフランコパンあいだ戦争せんそうはじまった。当初とうしょはフランコパンほう優勢ゆうせいセニ包囲ほういはじめたが、バン・デレンチンひきいる軍隊ぐんたい派遣はけんされ、包囲ほうい解除かいじょされた。しかし、カルニオラ襲撃しゅうげきからクロアチアをとおってもどってきたハディム・ヤクプ・パシャ(ボスニアけん英語えいごばんのベイ)ひきいるオスマン帝国ていこくぐん来襲らいしゅうにより、講和こうわいられた。クロアチア貴族きぞくやく1まんにん兵士へいしあつめ、野戦やせんでオスマン帝国ていこくぐんむかえるとめたが、せのほういと主張しゅちょうするものもいた。1493ねん9がつ9にち、クロアチアぐんはリカ地方ちほうウドビナ英語えいごばん付近ふきんでオスマン帝国ていこくぐんむかち、クルバヴァのたたか英語えいごばん大敗たいはいきっした[78]。クロアチアをやぶったことはおおきかったものの、オスマン帝国ていこくはその結果けっかとして領土りょうど獲得かくとくすることはなかった[82]戦災せんさいからたクロアチアじん徐々じょじょ安全あんぜん地域ちいき移動いどうはじめ、一部いちぶ難民なんみんはクロアチア国外こくがいのがれてブルゲンラントみなみハンガリー、イタリア沿岸えんがんなどに移動いどうした[83]

1513ねん8がつ16にち、1513ねん8がつ16にち、バンペタル・ベリスラヴィッチ英語えいごばんは、ウナがわでのドゥビツァのたたか英語えいごばんで7000にんのオスマン帝国ていこくぐんやぶった[84]。1514ねん2がつ、オスマン帝国ていこくは10,000にん兵士へいしでクニンを包囲ほういしてまち周辺しゅうへんやしたが、攻略こうりゃくには失敗しっぱいし、500にん軍隊ぐんたいうしなった[85]。1519ねん、オスマン帝国ていこくとの戦争せんそうでクロアチアじん兵士へいしおおきく貢献こうけんしたことにちなみ、ローマ教皇きょうこうレオ10せいはクロアチアを「キリスト教きりすときょう世界せかい防壁ぼうへきantemurale christianitatis)」とんだ[86]。ペタル・ベリスラヴィッチは、1520ねん5がつ20日はつかのプジェシェヴィツァのたたかいでせにあい戦死せんしするまで、7年間ねんかんオスマン帝国ていこくない戦闘せんとうつづけた[87]。1513ねんと1514ねん失敗しっぱいのちガジ・フスレフ・ベグ英語えいごばんひきいるオスマン帝国ていこくぐんはクニンを最終さいしゅうてき包囲ほういし、1522ねん5がつ29にち攻略こうりゃくした。オスマン帝国ていこくなんもクリスを包囲ほういしたが、セニ隊長たいちょうでありクリスの王子おうじでもあったペタル・クルジッチ英語えいごばんが、やく25年間ねんかんクリス要塞ようさいまもつづけた[88]

1526ねん4がつ23にち、スルタンスレイマン1せいは8まん正規せいきぐん大勢おおぜい正規せいき補助ほじょぐんひきいてイスタンブール出発しゅっぱつし、ハンガリーへの侵攻しんこう開始かいしした。スレイマンは7がつ2にちサヴァがわ到達とうたつし、2週間しゅうかん包囲ほういのち、7がつ27にちペトロヴァラディンを、8がつ8にちイロク占領せんりょうした。8月23にちまでにかれ軍隊ぐんたい抵抗ていこうけることなくオシイェクでドラーヴァがわわたった。同日どうじつラヨシュ2せいやく25,000にん軍勢ぐんぜいモハーチ到着とうちゃくした。クリストファー・フランコパン伯爵はくしゃくの5せんにん軍隊ぐんたいは、戦場せんじょうへの到着とうちゃくわなかった。8月29にち、ハンガリーぐんはモハーチ南方なんぽう平原へいげんでオスマン帝国ていこくむかったが、2あいだらずで敗退はいたいした。1526ねんモハーチのたたかは、ラヨシュ2せいによってヤギェウォあさ支配しはいわったというてん重要じゅうよう出来事できごとであった。この敗北はいぼくキリスト教きりすときょう軍隊ぐんたいにオスマン帝国ていこく阻止そしするちからがなかったことをしめすものであり、オスマン帝国ていこくなに世紀せいきにもわたっておおきな脅威きょういでありつづけた[89]

ツェティングラード議会ぎかい(1527ねん

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1527ねん1がつ1にちのツェティン憲章けんしょう

ラヨシュ2せい数々かずかず称号しょうごうなかでもクロアチアの王冠おうかん所有しょゆうしていたが、かれ跡継あとつぎをのこさなかった。1526ねん11がつ10日とおか会議かいぎで、ハンガリー議会ぎかいだい多数たすうサポヤイ・ヤーノシュ国王こくおう選出せんしゅつしたが、ハンガリーのべつ議会ぎかいは1526ねん12月16にちポジョニ残党ざんとう議会ぎかいハプスブルクのオーストリア大公たいこうフェルディナント1せい選出せんしゅつした。大公たいこうはサポヤイに対抗たいこうするためクロアチアの選挙せんきょ関心かんしんち、同時どうじにオスマン帝国ていこく西方せいほう拡大かくだいという激動げきどう時代じだいに、クロアチアを保護ほごすることを約束やくそくした。1526ねん12月31にち、クロアチア貴族きぞくあつまり作戦さくせんはない、あらたな指導しどうしゃえらんだ。この会議かいぎは、ツェティングラードのツェティンじょう英語えいごばんしたにあるフランシスコかい修道院しゅうどういんおこなわれた。1527ねん1がつ1にち、クロアチア議会ぎかいはツェティンでひらかれた会議かいぎで、全会ぜんかい一致いっちでフェルディナント1せいをクロアチアおう選出せんしゅつした。フェルディナント1せい選出せんしゅつする憲章けんしょうは、6にんのクロアチア貴族きぞくと4にん大公たいこう代理人だいりにん印鑑いんかん確認かくにんされた。1527ねん1がつ6にち、スラヴォニア貴族きぞくはサポヤイがわについた[90]

クロアチアの歴史れきし叙述じょじゅつでは、ハプスブルク帝国ていこく版図はんとはいることはサボルの自由じゆう選択せんたく結果けっかだと主張しゅちょうされている[28]国王こくおう2人ふたり選出せんしゅつされた統治とうちしゃ、オスマン帝国ていこくによる征服せいふく、そして結果けっかとしてのハンガリーの3分割ぶんかつというモハーチのたたか政治せいじ状況じょうきょうは、中世ちゅうせい関係かんけいせい全体ぜんたいえた。フェルディナントとサポヤイあいだ内戦ないせんこったが、もなくフェルディナント有利ゆうり協定きょうていむすばれ、りょう王位おういふたたびハプスブルク統合とうごうされることになった。これは表向おもてむきにはクロアチア・ハンガリー連合れんごう王国おうこく復活ふっかつ意味いみするが、2こくあいだ関係かんけい永久えいきゅう変化へんかした[91]

くにあきら

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最初さいしょのクロアチアのくにあきらは12世紀せいき後半こうはんさかのぼる。当時とうじくにあきらは、クロアチアこうアンドラーシュ2せい鋳造ちゅうぞうしたクロアチアのフリザティックにられる三日月みかづきうえに6かくほしえがかれたものである。14,15世紀せいきには、あおたて元々もともとあかたて)に3とう王冠おうかんこうむったライオンをせた現在げんざいのダルマチア紋章もんしょうがクロアチア王国おうこくくにしょうとして使つかわれ、当時とうじおおくの紋章もんしょう(Gelre Armorial, Constance Council Armorial, Wernigerode Armorial)にっている。また、マティアス・コルヴィヌス大判おおばんラヨシュ1せいだい紋章もんしょうなど、おうのコインや印章いんしょうにも配置はいちされていた。市松いちまつ模様もようは15世紀せいき後半こうはん使つかわれるようになり、16世紀せいき初頭しょとう(1525ねん)にはクロアチアで公式こうしき使用しようされるようになった。そのほとんどが、ぎんあか正方形せいほうけいが5つつらなったものである[92]。また、モハーチのたたかでは軍旗ぐんきとしてクロアチアをあらわした[93]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ のちにダルマチアで使用しようされた。

出典しゅってん

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  92. ^ Ferdo Šišić - Povijest Hrvata, pregled povijesti hrvatskog naroda 600. - 1526., p. 262-263
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関連かんれん項目こうもく

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