クロアチア(・ダルマチア)王国 おうこく
Regnum Croatiae (et Dalmatiae) (ラテン語 らてんご ) Kraljevina Hrvatska (i Dalmacija) (クロアチア語 ご )
1260年 ねん のクロアチア王国 おうこく とダルマチア王国 おうこく (深緑 しんりょく )
クロアチア王国 おうこく (クロアチアおうこく、ラテン語 らてんご : Regnum Croatiae ; クロアチア語 ご : Kraljevina Hrvatska , Hrvatsko kraljevstvo , Hrvatska zemlja )は、トルピミロヴィチ家 か (英語 えいご 版 ばん ) とスヴェトスラヴィチ家 か の王 おう による統治 とうち 時代 じだい と、国王 こくおう デメトリアス・ズヴォニミル の死 し による継承 けいしょう 危機 きき の後 のち の1102年 ねん に成立 せいりつ した、ハンガリー王国 おうこく との同君 どうくん 連合 れんごう (ハンガリー・クロアチア連合 れんごう 王国 おうこく )である[1] [2] 。1102年 ねん にハンガリー国王 こくおう カールマーン がビオグラード で「クロアチア・ダルマチア王 おう 」として戴冠 たいかん されると、その領域 りょういき はアールパード朝 あさ に引 ひ き継 つ がれた。1301年 ねん にアールパード朝 あさ の男系 だんけい 子孫 しそん が断絶 だんぜつ した後 のち はハンガリー・アンジュー朝 あさ の王 おう が王国 おうこく を支配 しはい した。その後 ご 、1242年 ねん にザグレブ を略奪 りゃくだつ したモンゴル との戦闘 せんとう 、ダルマチア 沿岸 えんがん 都市 とし の支配 しはい 権 けん をめぐるヴェネツィア との争 あらそ い、クロアチア貴族 きぞく の内戦 ないせん などがあった。この間 あいだ 、当時 とうじ クロアチアで最 もっと も強力 きょうりょく な王朝 おうちょう であったシュビッチ家 か (英語 えいご 版 ばん ) を代表 だいひょう するパヴァオ1世 せい シュビッチ・ブリビルスキ (英語 えいご 版 ばん ) など、さまざまな人物 じんぶつ が登場 とうじょう した。これらの有力 ゆうりょく 者 しゃ は、事実 じじつ 上 じょう 自分 じぶん の領地 りょうち に大 おお きな独立 どくりつ 性 せい を確保 かくほ することができた。16世紀 せいき のオスマン帝国 ていこく によるヨーロッパ侵攻 しんこう でクロアチアの領土 りょうど は大幅 おおはば に減少 げんしょう し、国 くに は弱体 じゃくたい 化 か し分裂 ぶんれつ した。ラヨシュ2世 せい が1526年 ねん のモハーチの戦 たたか い で戦死 せんし した後 のち 、しばらく王朝 おうちょう 間 あいだ の争 あらそ いが続 つづ き、やがて両 りょう 王位 おうい はオーストリアのハプスブルク家 か に移 うつ り、両 りょう 領地 りょうち はハプスブルク帝国 ていこく の一部 いちぶ となった。
カールマーンの戴冠 たいかん 式 しき の状況 じょうきょう や、その後 ご のクロアチア貴族 きぞく の地位 ちい は、14世紀 せいき に写本 しゃほん としてのみ残 のこ された「パクタ・コンヴェンタ (英語 えいご 版 ばん 、クロアチア語 ご 版 ばん ) 」に詳述 しょうじゅつ されている。この関係 かんけい の正確 せいかく な内容 ないよう は19世紀 せいき になってから議論 ぎろん されるようになったが、ハンガリーとの王朝 おうちょう 連合 れんごう の時代 じだい においても、サボル (クロアチア貴族 きぞく の議会 ぎかい )やバン (総督 そうとく )を通 つう じて、クロアチア独自 どくじ の国家 こっか 制度 せいど が維持 いじ された。それに加 くわ え、クロアチア貴族 きぞく は土地 とち と称号 しょうごう を保持 ほじ したままであった[3] [4] 。
複数 ふくすう 形 がた の「王国 おうこく 」(ラテン語 らてんご : regna )が使 つか われるようになった1359年 ねん まで、王国 おうこく の外交 がいこう 名 めい はクロアチア・ダルマチア王国 おうこく (ラテン語 らてんご : Regnum Croatiae et Dalmatiae )であった[5] [6] 。この名前 なまえ の変更 へんこう は、ラヨシュ1世 せい がヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく に勝利 しょうり し、ザダル条約 じょうやく (英語 えいご 版 ばん ) によってヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく がダルマチア沿岸 えんがん 都市 とし への影響 えいきょう 力 りょく を失 うしな った結果 けっか 起 お こった[5] 。しかし、1409年 ねん にヴェネツィアがダルマチア沿岸 えんがん を奪還 だっかん するまで、王国 おうこく は依然 いぜん としてクロアチア・ダルマチア王国 おうこく と呼 よ ばれることがほとんどであった。クロアチア語 ご での最 もっと も一般 いっぱん 的 てき な名称 めいしょう はHrvatska zemlja (「クロアチア人 じん の国 くに 」または「クロアチア人 じん の土地 とち 」)であった[7] [8] 。
グヴォズドの戦 たたか い (クロアチア語 ご 版 ばん ) 前 まえ のクロアチア王国 おうこく (1097年 ねん )
ドミタル・ズヴォニミル は、トルピミロヴィチ家 か (英語 えいご 版 ばん ) の分流 ぶんりゅう であるスヴェトスラヴィチ家 か 出身 しゅっしん のクロアチア王 おう である。彼 かれ はスラヴォニアのバン として始 はじ まり、クロアチア公 こう としてクレシミル4世 せい (英語 えいご 版 ばん ) に仕 つか えた。クレシミル4世 せい はズヴォニミルを後継 こうけい 者 しゃ とし、ズヴォニミルは1075年 ねん にクロアチア王位 おうい を継承 けいしょう することになる。1063年 ねん 、ズヴォニミルはアールパード朝 あさ のハンガリー人 じん ヘレンと結婚 けっこん した。ヘレンはハンガリー王女 おうじょ であり、ベーラ1世 せい の娘 むすめ で、ハンガリー国王 こくおう ラースロー1世 せい の妹 いもうと でもある。二人 ふたり の間 あいだ には息子 むすこ のラドバンがいたが、10代後半 こうはん または20代 だい 前半 ぜんはん で亡 な くなっている。1089年 ねん にズヴォニミルが亡 な くなると、トルピミロヴィチ家 か の最後 さいご のスティエパン2世 せい (英語 えいご 版 ばん ) が後 ご を継 つ いだ。スティエパン2世 せい の統治 とうち は比較的 ひかくてき 無力 むりょく で、2年 ねん 足 た らずで終 お わった。彼 かれ は人生 じんせい のほとんどをスプリト 近郊 きんこう の松林 まつばやし の下 した の聖 せい スティエパン修道院 しゅうどういん (クロアチア語 ご : Sv. Stjepan pod Borovima )で過 す ごした。スティエパン2世 せい は跡継 あとつ ぎを残 のこ すことなく、1091年 ねん 初 はじ めに亡 な くなった。この時 とき トルピミロヴィチ家 か の男子 だんし は生存 せいぞん しておらず、その後 ご まもなくクロアチアで内戦 ないせん と騒乱 そうらん が勃発 ぼっぱつ した[9] 。
ズヴォニミルの未亡人 みぼうじん ヘレンは、継承 けいしょう 危機 きき のクロアチアにおける権力 けんりょく の維持 いじ を試 こころ みた[10] 。ヘレンの周囲 しゅうい のクロアチア人 じん 貴族 きぞく 、おそらくグシッチ家 か (英語 えいご 版 ばん ) [11] および/もしくはラプチャン家 か (英語 えいご 版 ばん ) [10] のヴィニハは、ズヴォニミルの死後 しご 継承 けいしょう 権 けん を争 あらそ っていたが、ラースロー1世 せい にヘレンを助 たす けるように頼 たの み、彼 かれ が相続 そうぞく 権 けん を持 も っていたクロアチア王位 おうい をラースロー1世 せい に提供 ていきょう した。いくつかの資料 しりょう によると、ダルマチアの都市 とし のいくつかはラースロー1世 せい に支援 しえん を申 もう し出 で 、ペタル・グシッチはペタルde genere Cacautonem とともにハンガリーの宮廷 きゅうてい で「白 はく クロアチア人 じん 」(Creates Albi )と称 しょう していたという[11] [12] 。このように、ラースロー1世 せい のクロアチアに対 たい する軍事 ぐんじ 行動 こうどう は単 たん なる外国 がいこく の侵攻 しんこう ではなく[13] 、またクロアチア王位 おうい の征服 せいふく 者 しゃ としてではなく、世襲 せしゅう による後継 こうけい 者 しゃ としてのものであった[14] 。1091年 ねん 、ラースロー1世 せい はドラーヴァ川 がわ を渡 わた って敵 てき に遭遇 そうぐう することなくスラヴォニア 全土 ぜんど を征服 せいふく したが、鉄山 てつざん (グヴォズド山 さん )付近 ふきん で作戦 さくせん が中断 ちゅうだん された[15] 。クロアチア貴族 きぞく は分裂 ぶんれつ していたためにラースローの戦役 せんえき は成功 せいこう したが、クロアチア全土 ぜんど に彼 かれ の支配 しはい 権 けん を及 およ ぼすことはできなかった[11] [13] 。このとき、ハンガリー王国 おうこく はビュザンティオン から派遣 はけん によって送 おく られたと思 おも われるクマン に攻撃 こうげき され、ラースロー1世 せい はクロアチアでの戦役 せんえき からの撤退 てったい を強 し いられた[11] 。ラースローは甥 おい であるアルモス王子 おうじ (英語 えいご 版 ばん ) をクロアチア の統治 とうち 者 しゃ に任命 にんめい し、彼 かれ の新 あら たな権威 けんい の象徴 しょうちょう としてザグレブ教区 きょうく (英語 えいご 版 ばん ) を設立 せつりつ し、ハンガリーに戻 もど った。戦争 せんそう の最中 さいちゅう の1093年 ねん 、ペタル・スヴァチッチ (英語 えいご 版 ばん ) がクロアチアの封建 ほうけん 領主 りょうしゅ たちによって国王 こくおう に選出 せんしゅつ された。ペタルは権力 けんりょく 基盤 きばん をクニン に置 お いた。彼 かれ の統治 とうち は、アルモスとの国土 こくど 支配 しはい をめぐる争 あらそ いに発展 はってん したが、アルモスは支配 しはい を確立 かくりつ することができず、1095年 ねん にハンガリーへの撤退 てったい を強 し いられた[16] 。
最後 さいご のクロアチア王 おう の死 し (画 が : オトン・イヴェコヴィッチ )
ラースロー1世 せい は1095年 ねん に亡 な くなったが、彼 かれ の甥 おい であるカールマーン に軍事 ぐんじ 行動 こうどう を続 つづ けるよう任 まか せた。先代 せんだい のラースローと同様 どうよう 、カールマーンは征服 せいふく 者 しゃ ではなくクロアチア王国 おうこく の王位 おうい 継承 けいしょう 者 しゃ と見 み なされた[17] 。カールマーンは王位 おうい 主張 しゅちょう に圧力 あつりょく をかけるために軍隊 ぐんたい を編成 へんせい し、1097年 ねん にはペタル・スヴァチッチの軍隊 ぐんたい をグヴォズドの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) で破 やぶ り、ペタル・スヴァチッチは戦死 せんし した。クロアチアにはペタル・スヴァチッチのほかに強力 きょうりょく な指導 しどう 者 しゃ がおらず、ダルマチア は攻略 こうりゃく が困難 こんなん な城塞 じょうさい 都市 とし を多 おお く有 ゆう していたため、カールマーンとクロアチアの封建 ほうけん 貴族 きぞく の間 あいだ で和平 わへい 交渉 こうしょう が開始 かいし された。クロアチア人 じん 貴族 きぞく がカールマーンを国王 こくおう と認 みと めるまでに、さらに数 すう 年 ねん がかかった。1102年 ねん にカールマーンはビオグラード でクロアチア王 おう として戴冠 たいかん され、「ハンガリー、ダルマチア、クロアチアの王 おう 」の称号 しょうごう を名乗 なの った。カールマーンの戴冠 たいかん 式 しき の状況 じょうきょう のいくつかは、クロアチア人 じん 貴族 きぞく が彼 かれ を国王 こくおう として認 みと めたことにより、パクタ・コンヴェンタにまとめられた。この代 か わりに、合意 ごうい に署名 しょめい した12のクロアチア人 じん 貴族 きぞく は彼 かれ らの領地 りょうち や財産 ざいさん を保持 ほじ し、また租税 そぜい や年貢 ねんぐ の免除 めんじょ が認 みと められた。カールマーンの国境 こっきょう 線 せん が攻撃 こうげき を受 う けた場合 ばあい 、クロアチア貴族 きぞく は少 すく なくとも10の武装 ぶそう 騎兵 きへい をドラーヴァ川 がわ の向 む こうに派遣 はけん することを誓約 せいやく した[18] [19] 。パクタ・コンヴェンタ自体 じたい は1102年 ねん より後 のち に作成 さくせい された文書 ぶんしょ と考 かんが えられているが、クロアチア人 じん 貴族 きぞく とカールマーンの間 あいだ にパクタ・コンヴェンタと同種 どうしゅ の制約 せいやく を定 さだ めた合意 ごうい は存在 そんざい していたと考 かんが えられている[3] [13] [20] 。
ラテン語 らてんご で「Louis by the grace of God King of Hungary, Dalmatia, Croatia」と刻印 こくいん された、ラヨシュ2世 せい のコイン
継承 けいしょう 危機 きき の後 のち 、ハンガリー王 おう カールマーンがビオグラードで「クロアチアとダルマチアの王 おう 」として戴冠 たいかん を受 う け、1102年 ねん にクロアチア王冠 おうかん はハンガリーのアールパード家 か に渡 わた った。クロアチアとハンガリーの2つの王国 おうこく からなる王朝 おうちょう 連合 れんごう の正確 せいかく な定義 ていぎ について、19世紀 せいき に論争 ろんそう が起 お きた[21] 。2つの王国 おうこく は、クロアチア貴族 きぞく の選択 せんたく あるいはハンガリーの軍事 ぐんじ 力 りょく を基 もと にしてアールパード朝 あさ の統治 とうち 下 か で連合 れんごう されていた[22] 。クロアチアの歴史 れきし 家 か は2つの王国 おうこく の関係 かんけい を共通 きょうつう の王 おう を頂 いただ く同君 どうくん 連合 れんごう であると考 かんが え、ハンガリーの歴史 れきし 家 か の多 おお くもこの意見 いけん に同意 どうい しているが[13] [17] [23] [24] [25] [26] 、一方 いっぽう でセルビアの歴史 れきし 家 か と民族 みんぞく 主義 しゅぎ 的 てき な立場 たちば をとるハンガリーの歴史 れきし 家 か は、この関係 かんけい をハンガリーへの一種 いっしゅ の併合 へいごう と見 み なしている[21] [27] [28] 。ハンガリーが占領 せんりょう したという主張 しゅちょう は、19世紀 せいき のハンガリー民族 みんぞく 再興 さいこう の際 さい になされた[28] 。かつてのハンガリーの史学 しがく ではビオグラードで行 おこな われたカールマーンの戴冠 たいかん 式 しき が論争 ろんそう の対象 たいしょう とされ、クロアチアはカールマーンによって征服 せいふく されたとする意見 いけん が出 だ された。この種 たね の主張 しゅちょう は今日 きょう でも見 み られるが、カールマーンは、クロアチアとハンガリーの間 あいだ での緊張 きんちょう がなくなってからビオグラードで戴冠 たいかん されたと一般 いっぱん 的 てき には考 かんが えられている[29] 。今日 きょう 、ハンガリーの法制 ほうせい 史 し 学者 がくしゃ は1526年 ねん のラヨシュ2世 せい の死 し までのハンガリーとクロアチア・ダルマチアの関係 かんけい は同君 どうくん 連合 れんごう に極 きわ めて近 ちか いことを指摘 してき し[26] [30] 、イングランド とスコットランド の関係 かんけい にも例 たと えられている[31] [32] 。
Worldmark Encyclopedia of NationsとGrand Larousse encyclopédique (英語 えいご 版 ばん ) によると、クロアチアは1102年 ねん にハンガリーと同君 どうくん 連合 れんごう を結 むす び、それが1918年 ねん までのハンガリー・クロアチア関係 かんけい の基礎 きそ となったと記 しる されているが[1] [33] 、ブリタニカ百科 ひゃっか 事典 じてん では王朝 おうちょう 連合 れんごう として明記 めいき されている[3] 。アメリカ議会 ぎかい 図書館 としょかん の調査 ちょうさ によると、カールマーンはラースロー1世 せい の死後 しご 反対 はんたい 派 は を粉砕 ふんさい し、1102年 ねん にダルマチアとクロアチアの王位 おうい を勝 か ち取 と り、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 終了 しゅうりょう まで続 つづ くクロアチアとハンガリーの王位 おうい の結 むす びつきを築 きず いた[34] 。ハンガリー文化 ぶんか はクロアチア北部 ほくぶ に浸透 しんとう し、またクロアチア・ハンガリー国境 こっきょう は頻繁 ひんぱん に移動 いどう し、ハンガリーはクロアチアを属国 ぞっこく として扱 あつか った時 とき もあった。クロアチアには、独自 どくじ の地方 ちほう 総督 そうとく であるバン、特権 とっけん 的 てき な地主 じぬし 貴族 きぞく 、そして貴族 きぞく の会議 かいぎ であるサボル が存在 そんざい した[34] 。何人 なんにん かの歴史 れきし 家 か によると、クロアチアは11世紀 せいき 末 まつ と12世紀 せいき 初 はじ めにハンガリーの一部 いちぶ となったが[35] 、両国 りょうこく の関係 かんけい の実際 じっさい の性質 せいしつ は定義 ていぎ するのが難 むずか しいとされている[28] 。時 とき にはクロアチアは独立 どくりつ した代理人 だいりにん として、またある時 とき にはハンガリーの臣下 しんか として行動 こうどう したが[28] 、クロアチアは国内 こくない でかなり独立 どくりつ を保 たも っていた[28] 。国境 こっきょう 線 せん と同様 どうよう 、クロアチアの自治 じち の程度 ていど は数 すう 世紀 せいき にわたって変化 へんか してきた[36] 。
今日 きょう 、パクタ・コンヴェンタまたはQualiter(本文 ほんぶん に書 か かれてる最初 さいしょ の単語 たんご )と呼 よ ばれる協定 きょうてい と主張 しゅちょう されるものは、現代 げんだい のほとんどのクロアチア人 じん 歴史 れきし 家 か に14世紀 せいき に偽造 ぎぞう されたものだと見 み なされている。この文章 ぶんしょう によると、国王 こくおう カールマーンは12のクロアチア貴族 きぞく の長 ちょう と協定 きょうてい を結 むす び、カールマーンが貴族 きぞく の自治 じち と特権 とっけん を認 みと めた。1102年 ねん の公正 こうせい 証書 しょうしょ ではないが、それでも少 すく なくともハンガリーとクロアチアの関係 かんけい をほぼ同 おな じように規定 きてい した非 ひ 書面 しょめん での合意 ごうい が存在 そんざい し[3] [13] 、その合意 ごうい の内容 ないよう はクロアチア統治 とうち の実態 じったい と一致 いっち する点 てん が少 すく なからずあるのである[37] 。
クロアチアを描 えが いた最 もっと も古 ふる い地図 ちず の一 ひと つ(1154年 ねん 、ルッジェーロの書 しょ より)
クロアチア王国 おうこく は、西 にし をダルマチア海岸 かいがん (北 きた はクヴァルネル湾 わん の岬 みさき から南 みなみ はネレトヴァ河口 かこう まで)に、東 ひがし をヴルバス川 がわ とネレトヴァ川 がわ に、南 みなみ をネレトヴァ川下 かわしも 流 りゅう に、北 きた をグヴォズド山 さん とクパ川 がわ に囲 かこ まれていた[38] [39] 。ザックルミア (英語 えいご 版 ばん ) 西方 せいほう のダルマチアとネレトヴァの間 あいだ の土地 とち は、常 つね にクロアチアの領土 りょうど であったわけではなかった。「ダルマチア 」という言葉 ことば は、沿岸 えんがん のいくつかの都市 とし や島 しま を指 さ し、時 とき にはクロアチアの同義語 どうぎご としても使 つか われたが、15世紀 せいき のヴェネツィアの拡大 かくだい にともなってさらに内陸 ないりく 部 ぶ も指 さ すようになった。15世紀 せいき 後半 こうはん から16世紀 せいき 初頭 しょとう にかけてクロアチアの国境 こっきょう は北 きた に広 ひろ がり、ザグレブとその周辺 しゅうへん の地域 ちいき が領土 りょうど に含 ふく まれた[40] 。
クロアチアは、バン と呼 よ ばれる国王 こくおう の代理 だいり によって統治 とうち された。1196年 ねん にイムレ が王位 おうい を継承 けいしょう した後 のち 、1198年 ねん に弟 おとうと のアンドラーシュ2世 せい がクロアチア・ダルマチア公 こう となった。こうして1198年 ねん からクロアチアとスラヴォニアはクロアチア公 こう の支配 しはい 下 か に置 お かれた。クロアチア公 こう は現在 げんざい もクロアチア王国 おうこく として知 し られている公国 こうこく を半 はん 独立 どくりつ の支配 しはい 者 しゃ として統治 とうち した。公爵 こうしゃく の下 した には、普段 ふだん は大 だい 貴族 きぞく で、ある時 とき にはクロアチア系 けい やハンガリー系 けい であるバンが置 お かれた。バンの統治 とうち 下 か にある領土 りょうど が1225年 ねん にクロアチア・ダルマチアのバン、スラヴォニアのバンの2つに分割 ぶんかつ されるまで、1人 ひとり のバンがクロアチア全土 ぜんど を支配 しはい していた。1345年 ねん 以降 いこう は断続 だんぞく 的 てき に同 どう 一人物 いちじんぶつ が兼任 けんにん し、1476年 ねん には正式 せいしき に1つに統合 とうごう された。クロアチアの領土 りょうど は郡 ぐん (クロアチア語 ご : županije )に分割 ぶんかつ され、各 かく 郡 ぐん は伯爵 はくしゃく (župan )の下 した に置 お かれた。クロアチアの慣習 かんしゅう 法 ほう の下 もと で、クロアチアの伯爵 はくしゃく は1102年 ねん 以前 いぜん と同様 どうよう に、世襲 せしゅう 制 せい の地方 ちほう 貴族 きぞく であった[39] 。教会 きょうかい については、グヴォズド山 やま 以南 いなん のクロアチアはスプリト大司教 だいしきょう (英語 えいご 版 ばん ) の管轄 かんかつ 下 か にある一方 いっぽう で、スラヴォニアはカロツァ大司教 だいしきょう (英語 えいご 版 ばん ) の管轄 かんかつ 下 か にあった[41] 。
十字軍 じゅうじぐん のヴェネツィアによるザラ包囲 ほうい 戦 せん (1202年 ねん )
12世紀 せいき 末 まつ のクロアチア・ダルマチア王国 おうこく (薄 うすき 緑 みどり )
1107年 ねん 、国王 こくおう カールマーン はダルマチア の沿岸 えんがん にある旧 きゅう ビザンツ都市 とし の大 だい 部分 ぶぶん を支配 しはい した。これらの都市 とし は重要 じゅうよう であったため、この地域 ちいき をめぐってハンガリー人 じん やクロアチア人 じん はしばしばヴェネツィア やビザンツ帝国 ていこく と争 あらそ った[42] 。カールマーンの死後 しご の1116年 ねん 、ヴェネツィアはダルマチア沿岸 えんがん を攻撃 こうげき し、クロアチアのバンクレディンの軍 ぐん を破 やぶ ってビオグラード 、スプリト 、トロギル 、シベニク 、ザダル 、さらにいくつかの島 しま を奪 うば った。1117年 ねん 、カールマーンの後継 こうけい 者 しゃ であるイシュトヴァーン2世 せい は失 うしな った都市 とし の奪還 だっかん を試 こころ み、ヴェネツィア総督 そうとく (ドージェ )のオルデラフォ・ファリエロ (英語 えいご 版 ばん ) をザダル近郊 きんこう での戦 たたか いで破 やぶ ったものの、奪還 だっかん には失敗 しっぱい した。5年間 ねんかん の休戦 きゅうせん 協定 きょうてい が結 むす ばれ、現状 げんじょう 維持 いじ が確認 かくにん された。1124年 ねん にイシュトヴァーン2世 せい は再 ふたた びヴェネツィア領 りょう を攻撃 こうげき し、ビオグラード、スプリト、トロギル、シベネクを取 と り戻 もど したが、ザダルや他 た の島々 しまじま はヴェネツィアの支配 しはい に留 とど まったままだった。しかし、1125年 ねん に総督 そうとく ドメニコ・ミケーレ (英語 えいご 版 ばん ) はこれらの都市 とし を再 さい 征服 せいふく し、ビオグラードを壊滅 かいめつ させた。その後 ご の1131年 ねん 、ベーラ2世 せい がハンガリー王位 おうい を継承 けいしょう し、1133年 ねん にはザダル以外 いがい の失 うしな った都市 とし を奪還 だっかん した[43] [44] 。1167年 ねん にはボスニアだけでなくクルカ川 がわ 以南 いなん のクロアチアがビザンツ帝国 ていこく に征服 せいふく された。これらの地域 ちいき は、1180年 ねん にビザンツ皇帝 こうてい マヌエル1世 せい コムネノス が死去 しきょ するまでビザンツ帝国 ていこく の支配 しはい 下 か に置 お かれた。1180年 ねん 以降 いこう バンの統治 とうち する地域 ちいき は増 ふ えたものの、その領域 りょういき や活動 かつどう 範囲 はんい はまだ完全 かんぜん には定 さだ まっていなかった[45] 。
皇帝 こうてい マヌエル1世 せい コムネノスの死後 しご 、ビザンツ帝国 ていこく はもはやダルマチアで一貫 いっかん して影響 えいきょう 力 りょく を維持 いじ することができなくなった。やがてザダルはヴェネツィアに対 たい して反乱 はんらん を起 お こし、第 だい 4回 かい 十字軍 じゅうじぐん 中 なか 、イムレ が十字軍 じゅうじぐん への参加 さんか を誓 ちか ったにもかかわらず、総督 そうとく エンリコ・ダンドロ 率 ひき いるヴェネツィアと十字軍 じゅうじぐん がザダル(ザラ)を略奪 りゃくだつ した1202年 ねん まで、常 つね に戦場 せんじょう となった。これは十字軍 じゅうじぐん による最初 さいしょ のカトリック都市 とし への攻撃 こうげき となった。ヴェネツィアはこれを、後 のち にラテン帝国 ていこく を建 た てたさらに東 ひがし のコンスタンティノープル 方面 ほうめん への船賃 ふなちん の補償 ほしょう として要求 ようきゅう した[43] 。ヴェネツィアとの敵対 てきたい 関係 かんけい は1216年 ねん まで続 つづ いた。その当時 とうじ はアンドラーシュ2世 せい の統治 とうち 時代 じだい であり、彼 かれ はヴェネツィア艦隊 かんたい を利用 りよう して第 だい 5回 かい 十字軍 じゅうじぐん に参加 さんか した[46] 。
封建 ほうけん 制 せい と貴族 きぞく 間 あいだ の関係 かんけい [ 編集 へんしゅう ]
1288年 ねん にグラゴル文字 もじ で書 か かれたヴィノドール法典 ほうてん (英語 えいご 版 ばん )
12世紀 せいき の中世 ちゅうせい ヨーロッパで栄 さか え、ハンガリーとクロアチアにも広 ひろ がった封建 ほうけん 制 せい の影響 えいきょう の下 もと で、クロアチアでは強力 きょうりょく な貴族 きぞく の層 そう が形成 けいせい された[47] 。これらの貴族 きぞく のほとんどはかつての12貴族 きぞく (英語 えいご 版 ばん ) の子孫 しそん であった。クロアチアには、君主 くんしゅ によって作 つく られた貴族 きぞく や、王室 おうしつ への奉仕 ほうし に基 もと づく貴族 きぞく は存在 そんざい しなかった[48] 。これらの貴族 きぞく は郡 ぐん 全体 ぜんたい を支配 しはい し、また地方裁判所 ちほうさいばんしょ を主宰 しゅさい してその決定 けってい を執行 しっこう したので、地方 ちほう の住民 じゅうみん はいかなる国 くに の組織 そしき からも完全 かんぜん に切 き り離 はな されていた[49] 。12世紀 せいき と13世紀 せいき 初期 しょき のクロアチアで最 もっと も有力 ゆうりょく だった貴族 きぞく は、様々 さまざま に分家 ぶんけ してブリビルを拠点 きょてん にダルマチア内陸 ないりく 部 ぶ を支配 しはい したシュヴィッチ家 か (英語 えいご 版 ばん ) 、スラヴォニア西部 せいぶ とクパ川 がわ 右岸 うがん を支配 しはい したバボニッチ家 か (英語 えいご 版 ばん ) 、オミシュ (英語 えいご 版 ばん ) を拠点 きょてん にツェティナ川 がわ (英語 えいご 版 ばん ) とネレトヴァ川 がわ の間 あいだ を支配 しはい し、海賊 かいぞく 行為 こうい で知 し られていたカチッチ家 か (英語 えいご 版 ばん ) 、そしてクルク島 とう 、クヴァルネル、リカ北部 ほくぶ のモドルシュ (英語 えいご 版 ばん ) 郡 ぐん を支配 しはい したフランコパン家 か (英語 えいご 版 ばん ) (当時 とうじ はクルクの王子 おうじ )である。これらの主要 しゅよう な貴族 きぞく の他 ほか に、グシッチ家 か (英語 えいご 版 ばん ) 、クカル家 か (英語 えいご 版 ばん ) 、ラプチャン家 か (英語 えいご 版 ばん ) 、モゴロヴィッチ家 か (英語 えいご 版 ばん ) やトゥゴミリッチ家 か (英語 えいご 版 ばん ) などの有力 ゆうりょく ではない貴族 きぞく もいた[50] [51] 。
この期間 きかん 、そして第 だい 2回 かい 十字軍 じゅうじぐん (1145年 ねん -1149年 ねん )の結果 けっか 、テンプル騎士 きし 団 だん と聖 ひじり ヨハネ騎士 きし 団 だん はクロアチアにおけるかなりの資産 しさん や財産 ざいさん を手 て に入 い れた。ボスニアのバンボリッチ (英語 えいご 版 ばん ) によってキリスト教 きょう 十字軍 じゅうじぐん に有利 ゆうり な最初 さいしょ の交付 こうふ が行 おこな われた。12世紀 せいき 末 まつ までに、テンプル騎士 きし 団 だん はヴラナ (英語 えいご 版 ばん ) 、セニ 、ザグレブ近郊 きんこう のノヴァヴェス (英語 えいご 版 ばん ) などを所有 しょゆう していた[52] 。
1221年 ねん 、スプリトの所有 しょゆう 権 けん をめぐってドマルド (英語 えいご 版 ばん ) (スプリト王子 おうじ かつツェティナ伯 はく )とシュビッチ家 か の間 あいだ で戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ した。ドマルドの家系 かけい は不明 ふめい だが、おそらくスナチッチ家 か かカチッチ家 か の出身 しゅっしん である。ドマルドはシベニクとクリス要塞 ようさい も領有 りょうゆう し、1209年 ねん にはヴェネチアからザダルを一時 いちじ 的 てき に奪 うば った。1221年 ねん 、スプリト市民 しみん はドマルドを追放 ついほう し、クニン近郊 きんこう のズヴォニグラード出身 しゅっしん のヴィシャン・シュビッチを王子 おうじ に選出 せんしゅつ した。シュビッチ家 か は勝利 しょうり を収 おさ めたが、そのメンバーであるグレゴリウス3世 せい (ハンガリー語 ご 版 ばん ) とヴィシャンの間 あいだ で再 ふたた び戦争 せんそう が始 はじ まった。グレゴリウスは勝利 しょうり してヴィシャンを処刑 しょけい し、また彼 かれ の土地 とち を手 て に入 い れ、シュビッチ家 か の中 なか での覇権 はけん を確保 かくほ した。しかしドマルドはまだクリスを所有 しょゆう しており、スプリト奪還 だっかん の野望 やぼう を抱 だ いていた。 戦争 せんそう の過程 かてい でドマルドはクリスを失 うしな い、カチッチ家 か と同盟 どうめい を結 むす んだ。1229年 ねん 、ドマルドはスプリトでグレゴリウスの代理 だいり をなんとか打 う ち破 やぶ り、スプリト王子 おうじ に再選 さいせん された。しかし、1231年 ねん までにグレゴリウスはスプリト王子 おうじ の地位 ちい に戻 もど った。グレゴリウスの死後 しご の1235年 ねん 、ドマルドは新 あたら しい状況 じょうきょう を利用 りよう して再 ふたた びスプリトを奪還 だっかん したが、2年 ねん 後 ご にグレゴリウスの息子 むすこ マルコ1世 せい に奪 うば われた。ドマルドとの戦争 せんそう は、ステプコ・シュビッチがクリスで彼 かれ を破 やぶ り、捕 とら えたことでようやく終結 しゅうけつ した[51] 。
国王 こくおう アンドラーシュ2世 せい に反抗 はんこう したハンガリー貴族 きぞく と異 こと なり、クロアチアとスラヴォニアは13世紀 せいき を通 つう じて地方 ちほう 貴族 きぞく の下 した で分権 ぶんけん 化 か が進 すす んだ。1222年 ねん 、国王 こくおう はハンガリー貴族 きぞく の特権 とっけん を規定 きてい し、免税 めんぜい や不 ふ 服従 ふくじゅう の権利 けんり を認 みと めた金 きむ 印 しるし 勅書 ちょくしょ の発行 はっこう を強 し いられた。クロアチア貴族 きぞく は、アンドラーシュ2世 せい が認 みと めた特権 とっけん を最大限 さいだいげん に享受 きょうじゅ した[51] 。
ベーラ4世 せい の統治 とうち 時代 じだい 、モンゴル民族 みんぞく (タタール )がキエフ と南 みなみ ロシア を征服 せいふく し、1241年 ねん にはハンガリーにも侵攻 しんこう した。1241年 ねん 4月 がつ 11日 にち にシャイオ川 がわ で行 おこな われたモヒの戦 たたか い で、モンゴルはハンガリー軍 ぐん を一掃 いっそう した[53] 。ベーラ4世 せい の弟 おとうと であるカールマーン は厳 きび しい負傷 ふしょう を負 お い、南方 なんぽう のクロアチアに連 つ れてかれたが、傷 きず が原因 げんいん となってそこで死亡 しぼう した。バトゥ は、クロアチアに逃 に げたベーラ4世 せい を追 お うために、10,000人 にん から20,000人 にん の軍隊 ぐんたい を備 そな えたいとこのカダアン・オグル を派遣 はけん した[54] 。
1242年 ねん 、モンゴル人 じん はドラーヴァ川 がわ を渡 わた り、スラヴォニアのポジェガ郡 ぐん (英語 えいご 版 ばん ) とクリジェヴツィ郡 ぐん (英語 えいご 版 ばん ) の略奪 りゃくだつ を始 はじ めた。彼 かれ らはチャズマ とザグレブ の町 まち を略奪 りゃくだつ し、ザグレブ大 だい 聖堂 せいどう は焼失 しょうしつ した[55] 。貴族 きぞく は、ベーラ4世 せい とともに南方 なんぽう のクリス要塞 ようさい (英語 えいご 版 ばん ) 、スプリト、トロギル、その周辺 しゅうへん の島々 しまじま に移動 いどう した[56] 。スプリト近郊 きんこう にいたモンゴルは、ベーラ4世 せい が隠 かく れていると考 かんが え、クリス (英語 えいご 版 ばん ) への攻撃 こうげき を開始 かいし した。しかし実際 じっさい にはベーラ4世 せい はトロギルにいた上 うえ 、モンゴルは要塞 ようさい の包囲 ほうい に失敗 しっぱい した[55] 。
すぐにカラコルム でオゴデイ が死 し んだという知 し らせが届 とど き、モンゴル人 じん は新 あたら しいハンの選挙 せんきょ に参加 さんか するために引 ひ き返 かえ した。ある集団 しゅうだん はゼタ (英語 えいご 版 ばん ) 、セルビア 、ブルガリア を通過 つうか して東 ひがし に戻 もど り、いずれも略奪 りゃくだつ をされた。また別 べつ の集団 しゅうだん はドゥブロヴニク 周辺 しゅうへん を略奪 りゃくだつ し、コトル の町 まち を焼 や き払 はら った[53] [56] 。
クロアチアではモンゴルが去 さ った後 のち 、土地 とち が荒廃 こうはい し、深刻 しんこく な飢饉 ききん が起 お こった。モンゴルの侵略 しんりゃく によって、要塞 ようさい 化 か された都市 とし でなければ防衛 ぼうえい できないことが明 あき らかになった。モンゴルはまだ東 ひがし ヨーロッパ の大 だい 部分 ぶぶん を押 お さえていたため、新 あたら しい要塞 ようさい の建設 けんせつ や既存 きそん の要塞 ようさい の補強 ほきょう ・修理 しゅうり など、防衛 ぼうえい システムの構築 こうちく を開始 かいし した[56] 。ガリッチ、リポヴァツ、オキッチ、カルニクなどの他 ほか にも、ザグレブ上空 じょうくう のメドヴェドニツァ山 やま には要塞 ようさい 都市 とし メドヴェドグラード (英語 えいご 版 ばん ) が建設 けんせつ された[56] 。1242年 ねん 11月16日 にち 、国王 こくおう はグラデツ (英語 えいご 版 ばん ) (現在 げんざい のザグレブの一部 いちぶ )の市民 しみん に対 たい して金 きむ 印 しるし 勅書 ちょくしょ を発行 はっこう し、自由 じゆう 都市 とし であることが宣言 せんげん された。貴族 きぞく は自分 じぶん の土地 とち に城 しろ を建 た て、軍隊 ぐんたい の規模 きぼ を大 おお きくすることが許 ゆる された。これにより、貴族 きぞく の独立 どくりつ 性 せい はさらに高 たか まった[41] 。
パヴァオ1世 せい シュビッチ・ブリビルスキ (英語 えいご 版 ばん ) の紋章 もんしょう 。"Paulus de Breberio banus Croatorum D[omi]n[u]s et Bosnae"(クロアチアのバンかつボスニア領主 りょうしゅ であるブリビールのパヴァオ)と記 しる されている。
モンゴルの侵攻 しんこう によって一時 いちじ 的 てき に貴族 きぞく 間 あいだ の内戦 ないせん が中断 ちゅうだん したが、1240年代 ねんだい 初頭 しょとう にモンゴルが去 さ った後 のち 、すぐにクロアチアでは内戦 ないせん が再開 さいかい した。戦争 せんそう の原因 げんいん はオストログ村 むら の領有 りょうゆう であった。この村 むら はスプリトとトロギルがともに領有 りょうゆう 権 けん を主張 しゅちょう し、1242年 ねん にはベーラ4世 せい がトロギルに特許 とっきょ を与 あた えた。トロギルは国王 こくおう とシュビッチ家 か 、その指導 しどう 者 しゃ であるステプコ・シュビッチの支援 しえん を受 う けた。一方 いっぽう でスプリトはカチッチ家 か (英語 えいご 版 ばん ) 、Hum (英語 えいご 版 ばん ) のアンドリュー、ボスニアのバンマテイ・ニノスラフ (英語 えいご 版 ばん ) と同盟 どうめい を結 むす んだ。1244年 ねん 、スプリトはニノスラフを王子 おうじ に選出 せんしゅつ し、同年 どうねん 、ニノスラフはトロギルへの攻撃 こうげき を開始 かいし したが、都市 とし を奪 うば うことはできなかった。ニノスラフがボスニアに戻 もど った後 のち 、スラヴォニアのバンデニス・テュリエ (英語 えいご 版 ばん ) 、ステプコ・シュビッチ、ダニエル・シュビッチが指揮 しき する大軍 たいぐん がスプリトに派遣 はけん され、スプリトは直 ただ ちに降伏 ごうぶく した。講和 こうわ 条約 じょうやく が1244年 ねん 7月 がつ 19日 にち に調印 ちょういん された。ベーラ4世 せい 率 ひき いる第 だい 2軍 ぐん はボスニアに侵入 しんにゅう し、1244年 ねん 7月 がつ 20日 はつか にマテイ・ニノスラフに和平 わへい 条約 じょうやく を結 むす ばせた。ダルマチアの沿岸 えんがん 都市 とし 間 あいだ の争 あらそ いを防 ふせ ぐため、ベーラ4世 せい はそれまで都市 とし が独自 どくじ に行 い っていた知事 ちじ の選挙 せんきょ をクロアチアのバンに移 うつ した。しかし、それまで沿岸 えんがん 部 ぶ のほとんどの都市 とし を統治 とうち していたシュビッチ家 か はこの決定 けってい に不満 ふまん を抱 だ いていた[57] [58] 。
後代 こうだい の王 おう は、町 まち に一定 いってい の特権 とっけん を与 あた えて自由 じゆう 都市 とし とし、地方 ちほう 貴族 きぞく の権威 けんい から切 き り離 はな すことで国王 こくおう の影響 えいきょう 力 りょく を回復 かいふく しようとした。ヴァラジュディン は1220年 ねん に、ヴコヴァル は1231年 ねん に、ヴィロヴィティツァ は1234年 ねん に国王 こくおう アンドラーシュ2世 せい から自由 じゆう 都市 とし の地位 ちい を与 あた えられた。また、 ペトリニャ は1240年 ねん に、グラデツ (英語 えいご 版 ばん ) (ザグレブ大司教 だいしきょう (英語 えいご 版 ばん ) の住 す むカプトル (英語 えいご 版 ばん ) を除 のぞ く)は1242年 ねん に、サモボル は1242年 ねん に、クリジェーブツィ (英語 えいご 版 ばん ) は1252年 ねん に、ヤストレバルスコ (英語 えいご 版 ばん ) は1257年 ねん に同 おな じ地位 ちい を獲得 かくとく した。自由 じゆう 都市 とし は自 みずか ら議会 ぎかい を選出 せんしゅつ し、統治 とうち 権 けん や裁判所 さいばんしょ を持 も ち、また自 みずか ら税金 ぜいきん を徴収 ちょうしゅう し、経済 けいざい や貿易 ぼうえき を管理 かんり した[57] 。
しかし、地方 ちほう 貴族 きぞく は引 ひ き続 つづ き力 ちから をつけていった。王権 おうけん の弱体 じゃくたい 化 か によりシュビッチ家 か は1270年代 ねんだい にトロギル、スプリト、シベニクを奪還 だっかん し、沿岸 えんがん 都市 とし でかつての地位 ちい を回復 かいふく した。1274年 ねん 、パヴァオ1世 せい (クロアチア語 ご : Pavao I Šubić Bribirski はシュビッチ家 か の当主 とうしゅ となり、すぐにクロアチアとダルマチアのバンとなった。一方 いっぽう 彼 かれ の兄弟 きょうだい はスプリトのムラデン1世 せい (英語 えいご 版 ばん ) とトロギルとシベニクのジュラジュ1世 せい (英語 えいご 版 ばん ) というように、ダルマチアの有力 ゆうりょく 都市 とし の王子 おうじ であった。1280年 ねん 、ヴェネツィアはカチッチ家 か の沿岸 えんがん 部 ぶ の領地 りょうち を攻撃 こうげき し、オミシュを占領 せんりょう した。パヴァオはカチッチ家 か の衰退 すいたい を利用 りよう し、ネレトヴァ川 がわ とツェティナ川 がわ の間 あいだ の本土 ほんど の領地 りょうち を奪 うば った[49] 。
ザダル のChest of Saint Simeon に描 えが かれたパヴァオ1世 せい
1290年 ねん 、ラースロー4世 せい が息子 むすこ を残 のこ さずに死亡 しぼう し、アールパード朝 あさ のアンドラーシュ3世 せい とハンガリー・アンジュー家 か のカルロ・マルテッロ との間 あいだ で継承 けいしょう 戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ した。クロアチアのバンパヴァオとクロアチア貴族 きぞく のほとんどはカルロ・マルテッロを支持 しじ し、ハンガリー貴族 きぞく のほとんどはアンドラーシュ3世 せい を支持 しじ した。バボニッチ家 か は当初 とうしょ カルロ・マルテッロ側 がわ についていたが、やがてアンドラーシュ3世 せい 側 がわ についた。クロアチア人 じん の支持 しじ を維持 いじ するため、カルロ・マルテッロの父 ちち であるカルロ1世 せい は、息子 むすこ の名 な でグヴォズド山 やま からネレトヴァ川 がわ までの全 ぜん 領土 りょうど をパヴァオに世襲 せしゅう として与 あた えた。こうしてバンの地位 ちい はシュビッチ家 か に世襲 せしゅう された一方 いっぽう で、地元 じもと のクロアチア貴族 きぞく はパヴァオとその子孫 しそん の家臣 かしん となった。これに対 たい し、アンドラーシュ3世 せい もパヴァオをクロアチアのバンとする勅 みことのり 令 れい を出 だ した。こうした支持 しじ の獲得 かくとく 競争 きょうそう と、内戦 ないせん 中 ちゅう に中央 ちゅうおう 権力 けんりょく が不在 ふざい となった結果 けっか 、シュビッチ家 か はクロアチアで最 もっと も強力 きょうりょく な一族 いちぞく となった[59] [60] 。
ザグレブでは、司教 しきょう の町 まち カプトル (英語 えいご 版 ばん ) がカルロ・マルテッロを、グラデツ (英語 えいご 版 ばん ) がアンドラーシュ3世 せい を支持 しじ し、この地域 ちいき で激 はげ しい戦闘 せんとう が繰 く り広 ひろ げられた。1295年 ねん にカルロ・マルテッロが亡 な くなると、王位 おうい 継承 けいしょう 権 けん は息子 むすこ のカーロイ1世 せい に移 うつ った。クロアチアとハンガリーの貴族 きぞく はやがてアンドラーシュ3世 せい を国王 こくおう として受 う け入 い れたが、1299年 ねん 、アンドラーシュに息子 むすこ がいなかったために叔父 おじ のアルベルティーノ・モロジーニを後継 こうけい 者 しゃ に指名 しめい すると、新 あら たな反乱 はんらん が始 はじ まった。パヴァオは弟 おとうと のジョージ1世 せい をローマに送 おく り、彼 かれ らの要求 ようきゅう をローマ教皇 きょうこう に認 みと めさせ、カーロイ1世 せい を1300年 ねん 8月 がつ にクロアチアに連 つ れてきた。その翌年 よくねん の1301年 ねん 1月 がつ にはアンドラーシュ3世 せい が死亡 しぼう し、アールパード朝 あさ は滅亡 めつぼう した。バンパヴァオはカーロイ1世 せい と共 とも にザグレブに行 い き、そこで王 おう として承認 しょうにん された。また、1301年 ねん 3月 がつ 、彼 かれ はエステルゴム で大 だい 主教 しゅきょう からハンガリー王 おう とクロアチア王 おう の仮 かり の王冠 おうかん を授 さづ けられた[59] [60] 。そのため、慣習 かんしゅう で求 もと められていたセーケシュフェヘールヴァール での聖 せい イシュトヴァーンの王冠 おうかん を使 つか った戴冠 たいかん は行 おこな われなかった。
パヴァオが継承 けいしょう 危機 きき 中 ちゅう に獲得 かくとく した特権 とっけん が認 みと められ、彼 かれ の家族 かぞく はバンの世襲 せしゅう 権 けん を得 え た。クロアチア貴族 きぞく はカーロイ1世 せい を承認 しょうにん したが、一部 いちぶ のハンガリー貴族 きぞく がこれを拒否 きょひ し、ボヘミア王 おう ヴァーツラフ2世 せい の息子 むすこ ヴァーツラフ を選 えら び、1301年 ねん にセーケシュフェヘールヴァールでハンガリー王 おう として戴冠 たいかん した。ハンガリーでは内戦 ないせん が続 つづ いたが、パヴァオの確固 かっこ たる権威 けんい のもとにあったクロアチアには影響 えいきょう がなかった[59] 。1299年 ねん にパヴァオはボスニアの支配 しはい 権 けん を獲得 かくとく し、その時 とき から「クロアチアのバン・ボスニアの領主 りょうしゅ (ラテン語 らてんご : Banus Croatorum Dominus et Bosnae )」という称号 しょうごう が与 あた えられた。彼 かれ は弟 おとうと のムラデン1世 せい にボスニアのバンの称号 しょうごう を与 あた えた。当時 とうじ 、パウロの権力 けんりょく はグヴォズドからネレトヴァまで、アドリア海 あどりあかい 沿岸 えんがん からボスナ川 がわ まで及 およ び、ザダルだけがその領域 りょういき 外 がい に残 のこ ってヴェネツィアの支配 しはい 下 か に置 お かれていた[61] 。しかし、1304年 ねん にムラデン1世 せい はボスニアで殺害 さつがい された。パヴァオは自身 じしん の権威 けんい の再 さい 確認 かくにん のためにボスニアに対 たい する戦闘 せんとう を行 おこな い、1305年 ねん から自 みずか らを「ボスニア全土 ぜんど の領主 りょうしゅ (ラテン語 らてんご : totius Bosniae dominus )」と称 しょう し、ボスニアのより多 おお くの土地 とち を支配 しはい 下 か に置 お いた。彼 かれ は2番目 ばんめ の息子 むすこ のムラデン2世 せい (英語 えいご 版 ばん ) をボスニアのバンに任命 にんめい し、1305年 ねん に彼 かれ の3番目 ばんめ の息子 むすこ のパヴァオ2世 せい (英語 えいご 版 ばん ) がスプリト王子 おうじ になった[62] 。
パヴァオ1世 せい は自 みずか ら硬貨 こうか を発行 はっこう し、事実 じじつ 上 じょう 独立 どくりつ した支配 しはい 者 しゃ であった。また、彼 かれ は1311年 ねん にザダルでヴェネツィアに対 たい して反乱 はんらん を起 お こし、成功 せいこう した。1312年 ねん 5月 がつ 1日 にち にパヴァオ1世 せい が亡 な くなり、息子 むすこ のムラデン2世 せい が後継 こうけい 者 しゃ となった後 のち もヴェネツィアとの戦争 せんそう は続 つづ いた。パヴァオ1世 せい の死後 しご 、ブリビル王子 おうじ は徐々 じょじょ に衰退 すいたい し始 はじ めた。最終 さいしゅう 的 てき にヴェネツィアは1313年 ねん にザダルの支配 しはい を回復 かいふく した[61] 。1322年 ねん にはクロアチアで別 べつ の内戦 ないせん が始 はじ まった。内戦 ないせん は、ムラデン2世 せい とその同盟 どうめい 軍 ぐん が彼 かれ の兄 あに パヴァオ2世 せい を含 ふく むクロアチア貴族 きぞく とスラヴォニアのバンヨハン・バボニッチ指揮 しき 下 か の沿岸 えんがん 都市 とし の連合 れんごう に敗 やぶ れたブリスカの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) で最高潮 さいこうちょう に達 たっ した。国王 こくおう によってクニンで開催 かいさい された会議 かいぎ では、ジョン・バボニッチがクロアチアとダルマチアのバンに指名 しめい され、シュビッチ家 か の世襲 せしゅう 統治 とうち は終了 しゅうりょう した。彼 かれ らの所有 しょゆう 地 ち は縮小 しゅくしょう され、ムラデン兄弟 きょうだい で分割 ぶんかつ された。パヴァオ2世 せい はブリビルとオストロヴィツァを、ジョージ2世 せい はクリス、スクラディン (英語 えいご 版 ばん ) 、オミシュを領有 りょうゆう した[63] 。
1312年 ねん 、ヴェネツィアによるザダル占領 せんりょう 直後 ちょくご のパヴァオ1世 せい の領域 りょういき (クロアチア・ボスニア・Hum)
シュビッチ家 か の衰退 すいたい 後 ご 、イワン・ネリピッチ (クロアチア語 ご 版 ばん ) がクロアチアの支配 しはい 者 しゃ となった。彼 かれ は王 おう 都 みやこ クニンを占領 せんりょう し、これによりヨハネ・バボニッチはバンの地位 ちい を追 お われ、ニコラス・フェルスーレンドヴァイ、後 のち にミクシュ・アコスが後継 こうけい に任命 にんめい されたが、彼 かれ の軍 ぐん は1326年 ねん にイワン・ネリピッチに敗 やぶ れた。こうして、リカとクルバヴァからツェティナ川 がわ に至 いた るクロアチア全土 ぜんど が、事実 じじつ 上 じょう 国王 こくおう の権威 けんい の外 そと に置 お かれることになった。ネリピッチはシュビッチ家 か と緊張 きんちょう 関係 かんけい にあり、頻繁 ひんぱん に対立 たいりつ していた。これらの争 あらそ いの中 なか でヴェネツィアは1327年 ねん にスプリトを、1329年 ねん にニンを支配 しはい 下 か に置 お き、ズルマニャ川 がわ からツェティナ河口 かこう に至 いた る沿岸 えんがん の大 だい 部分 ぶぶん を手 て に入 い れた。同時 どうじ に、ボスニアのバンスティエパン2世 せい (英語 えいご 版 ばん ) はイモツキ 、Duvno、Livno i Glamočだけでなくツェティナとネレトヴァの間 あいだ の領土 りょうど を併合 へいごう した。クロアチアの残 のこ りの地域 ちいき は、イワン・ネリピッチが1344年 ねん に亡 な くなるまで、クニンから独立 どくりつ して統治 とうち していた[63] [64] 。その後 ご 、ラヨシュ1世 せい はクロアチアの王権 おうけん を回復 かいふく し、1345年 ねん 末 まつ までにクロアチアを平定 へいてい した。ニコラス・ハホト (英語 えいご 版 ばん ) は、数 すう 十 じゅう 年 ねん ぶりに任命 にんめい された王室 おうしつ の役人 やくにん で、スラヴォニア、クロアチア、ダルマチアのバンを名乗 なの り、二 ふた つの地位 ちい を統合 とうごう してクロアチア領 りょう にも影響 えいきょう 力 りょく を広 ひろ げ、王室 おうしつ の権威 けんい を代表 だいひょう する存在 そんざい となった[65] 。
1345年 ねん 、ザダルは再 ふたた びヴェネツィアに対 たい して反乱 はんらん を起 お こしたが、長 なが い包囲 ほうい の後 のち 、1346年 ねん にヴェネツィアはこの都市 とし を再 ふたた び獲得 かくとく した。この反乱 はんらん への報復 ほうふく として、ヴェネツィアはザダルの防潮 ぼうちょう 堤 つつみ を破壊 はかい し、市民 しみん から武器 ぶき を没収 ぼっしゅう し、またヴェネツィア人 じん を町 まち の総督 そうとく として送 おく り込 こ んだ。国王 こくおう ラヨシュ1世 せい は1348年 ねん にヴェネツィアと8年間 ねんかん の平和 へいわ 条約 じょうやく を結 むす んだ。平和 へいわ 条約 じょうやく 終結 しゅうけつ 後 ご の1356年 ねん 、ラヨシュ1世 せい は事前 じぜん の宣戦 せんせん 布告 ふこく なしにヴェネツィアの領土 りょうど に侵攻 しんこう した。この時 とき クロアチア軍 ぐん はルドブレグ のバンJohn Csúzが率 ひき いていた。スプリト、トロギル、シベニクではすぐにヴェネツィアの総督 そうとく を追 お い出 だ したが、ザダルは短 みじか い包囲 ほうい の後 のち に陥落 かんらく した。ラヨシュ1世 せい が同 どう 時期 じき に北 きた イタリアでの戦 たたか いで成功 せいこう を収 おさ めたため、ヴェネツィアは1358年 ねん 2月 がつ 18日 にち にザダル条約 じょうやく (英語 えいご 版 ばん ) への調印 ちょういん を強 し いられた[66] 。
14世紀 せいき 半 なか ばのクロアチア
この条約 じょうやく により、ラヨシュ1世 せい は独立 どくりつ して行動 こうどう していたドゥブロヴニク(ラグーザ)を含 ふく む、ツレス島 とう からアルバニアのドゥラス に渡 わた るダルマチア全域 ぜんいき を支配 しはい 下 か においた。ヴェネツィアのドージェ (総督 そうとく )は、「クロアチア・ダルマチア公 こう 」という称号 しょうごう を放棄 ほうき しなければならなかった[66] 。この後 のち 、クロアチア全土 ぜんど は一 ひと つの行政 ぎょうせい 、そしてクロアチアとダルマチアのバンの権限 けんげん の下 した に統合 とうごう された。結果 けっか として、クロアチアの経済 けいざい は特 とく に東 ひがし アドリア海岸 かいがん の都市 とし において14世紀 せいき 後半 こうはん に繁栄 はんえい した。新 あたら しい王立 おうりつ 都市 とし が交易 こうえき 路上 ろじょう に設立 せつりつ され、より裕福 ゆうふく な商人 しょうにん が町 まち を支配 しはい するようになり、町 まち の新 あら たな様子 ようす が沿岸 えんがん と大陸 たいりく のクロアチアの間 あいだ の文化 ぶんか 的 てき 統合 とうごう の始 はじ まりを示 しめ した[67] 。
1382年 ねん にラヨシュ1世 せい が死 し んだ後 のち 、彼 かれ の妻 つま エリザベタ・コトロマニッチ は11歳 さい のマーリア の摂政 せっしょう を務 つと めた。エリザベタの即位 そくい は、ナポリ王 おう カルロ3世 せい を正統 せいとう な王位 おうい 継承 けいしょう 者 しゃ と考 かんが える一部 いちぶ の貴族 きぞく たちによって否定 ひてい された。クロアチアでは、ヴラナの司祭 しさい であったイヴァニシュ・パリジュナ (英語 えいご 版 ばん ) がエリザベタに最初 さいしょ に反対 はんたい した。彼 かれ は、主 おも にエリザベタの夫 おっと が行 おこな った中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 政策 せいさく に反対 はんたい していた。彼 かれ は1371年 ねん にボスニア国王 こくおう として戴冠 たいかん したスティエパン・トヴルトコ1世 せい (英語 えいご 版 ばん ) を伴 ともな っていた。イヴァニシュ・パリジュナは結局 けっきょく エリザベタの軍隊 ぐんたい に敗 やぶ れ、ボスニアに逃亡 とうぼう せざるを得 え なくなった。短 みじか い平和 へいわ な時代 じだい が続 つづ いた後 のち 、1385年 ねん にマクソーのバンであるジョン・ホルヴァートとその弟 おとうと でザグレブ首長 しゅちょう であるポール・ホルヴァートが率 ひき いるマーリア女王 じょおう とエリザベタ女王 じょおう に対 たい する新 あたら しい運動 うんどう が生 う まれた[68] 。
15世紀 せいき 初期 しょき のHrvoje Vukčićの領域 りょういき
この二人 ふたり の兄弟 きょうだい に、1385年 ねん にカルロ3世 せい によってクロアチア・ダルマチア・スラヴォニアのバンとなったイヴァニシュ・パリジュナが加 くわ わった。彼 かれ らは、1385年 ねん 末 まつ にマーリア女王 じょおう を退位 たいい させることでカルロ3世 せい を支援 しえん したが、エリザベタは直後 ちょくご の1386年 ねん 2月 がつ に彼 かれ を殺害 さつがい させた。ホルヴァート兄弟 きょうだい は、殺 ころ されたカルロ3世 せい (カーロイ2世 せい )の息子 むすこ ラディズラーオ に代 か わって、堂々 どうどう と反乱 はんらん を起 お こした。1386年 ねん 7月 がつ 25日 にち 、彼 かれ らはマーリア女王 じょおう 、エリザベタ女王 じょおう とその従者 じゅうしゃ をゴルジャニ (英語 えいご 版 ばん ) で襲 おそ い、女王 じょおう たちを捕 と らえた。マリアとその母 はは はザグレブ司教 しきょう のゴムネク城 じょう に投獄 とうごく され、監禁 かんきん された[69] 。エリザベタとマーリアはすぐにノヴィグラード城 じょう に送 おく られ、イヴァニシュ・パリジュナが新 あたら しい監守 かんしゅ となった。エリザベタは裁判 さいばん にかけられ、カーロイ殺害 さつがい を扇動 せんどう した罪 つみ で有罪 ゆうざい になった。1387年 ねん 1月 がつ 、マーリア女王 じょおう の夫 おっと であるルクセンブルク家 か のジグモンド が、女王 じょおう たちを救出 きゅうしゅつ するためにノヴィグラードに向 む かって進軍 しんぐん した。ジグムンドの接近 せっきん の知 し らせがノヴィグラードに届 とど くと、エリザベタはマーリアの面前 めんぜん で牢獄 ろうごく で絞殺 こうさつ された。そして1387年 ねん 3月 がつ 31日 にち 、セーケシュフェヘールヴァールでジグモンドが国王 こくおう に即位 そくい した[69] 。
ジグモンドの同盟 どうめい 者 しゃ Ivan Ⅴは、ヴェネツィア艦隊 かんたい の支援 しえん を得 え てノヴィグラード城 じょう を包囲 ほうい した。1387年 ねん 6月 がつ 4日 にち に彼 かれ らは城 しろ を占領 せんりょう し、幽閉 ゆうへい されていたマーリアを解放 かいほう した。彼女 かのじょ は死 し ぬまでジグムンドの共同 きょうどう 統治 とうち 者 しゃ であり続 つづ けたが、その影響 えいきょう 力 りょく は小 ちい さかった。一方 いっぽう 、ホルヴァート兄弟 きょうだい の同盟 どうめい 者 しゃ であるボスニア国王 こくおう トヴルトコ1世 せい (英語 えいご 版 ばん ) は、彼 かれ らをウソラ (英語 えいご 版 ばん ) の総督 そうとく に任命 にんめい した。ホルヴァート兄弟 きょうだい は、ボスニア大公 たいこう (英語 えいご 版 ばん ) フルヴォイエ・ヴクチッチ・フルヴァティニッチ (英語 えいご 版 ばん ) にも支援 しえん されていた。トヴルトコ1世 せい とその同盟 どうめい 軍 ぐん は1387年 ねん から1390年 ねん にかけてクロアチアとダルマチアの大 だい 部分 ぶぶん を獲得 かくとく し、ジグムンドがこれらを取 と り戻 もど そうと努 つと めたが失敗 しっぱい に終 お わった。1390年 ねん 、トヴルトコ1世 せい は「クロアチア・ダルマチア王 おう 」を名乗 なの り始 はじ め、フルヴォイエにダルマチアの領地 りょうち を与 あた えた。トヴルトコ1世 せい は1391年 ねん 3月 がつ に死亡 しぼう し、その数 すう 週間 しゅうかん 後 ご にはイヴァニシュ・パリジュナが死亡 しぼう した。国王 こくおう トヴルトコ1世 せい の死後 しご 、フルヴォイエはボスニアで最強 さいきょう の貴族 きぞく となった。同年 どうねん 、ラディズラーオは彼 かれ をダルマチア地方 ちほう の副官 ふっかん に任命 にんめい し[70] 、ブラチ島 とう 、フヴァル島 とう 、コルチュラ島 とう の領有 りょうゆう を認 みと め、スプリト公 こう 、後 のち にスプリト・ヘルツォーク の称号 しょうごう を与 あた えた[71] [70] [72] [73] 。
Ladislaus Viceroy in Croatia and Herzog of Split, Hrvoje Vukčić Hrvatinić , Grand Duke of Bosnia as depicted in Hrvoje's Missal (1404)
オスマン帝国 ていこく の拡大 かくだい とクロアチア(1500年 ねん )
1393年 ねん にトヴルトコ1世 せい の後継 こうけい 者 しゃ であるスティエパン・ダビシャ (英語 えいご 版 ばん ) がジグムンドと和平 わへい を結 むす ぶと、状況 じょうきょう は一変 いっぺん した。彼 かれ はトヴルトコが最近 さいきん 獲得 かくとく した領土 りょうど を返還 へんかん したが、1385年 ねん に征服 せいふく したボスニア西部 せいぶ の領土 りょうど を保持 ほじ することを許 ゆる された。また、フルヴォイエ・ヴクチッチも1393年 ねん に服従 ふくじゅう した。1394年 ねん 7月 がつ 、ジグムンドはボスニアのドボルを占領 せんりょう してジョン・ホルヴァートを捕 と らえ、ホルヴァートの反乱 はんらん を終結 しゅうけつ させた。マーリア女王 じょおう の命令 めいれい で、母 はは の死 し の復讐 ふくしゅう として、パリジュナはペーチ で拷問 ごうもん を受 う けて死 し んだ[37] 。
スティエパン・ダビシャの死後 しご 、その未亡人 みぼうじん イェレナ・グルバ (英語 えいご 版 ばん ) が女王 じょおう に選 えら ばれた。フルヴォイエ・ヴクチッチは再 ふたた び積極 せっきょく 的 てき にジグムンドに反対 はんたい し、ナポリのラディズラーオへの支持 しじ を表明 ひょうめい した。反抗 はんこう 的 てき な貴族 きぞく たちと和解 わかい するために、ジグムンドは1397年 ねん 2月 がつ 27日 にち にクロアチアのクリジェフチで会議 かいぎ を招集 しょうしゅう し、そこにラディズラーオからクロアチア副官 ふっかん に任命 にんめい されていたスティエパン2世 せい ラックフィを安全 あんぜん 策 さく で招 まね いた。この集会 しゅうかい で、ラックフィと甥 おい のアンドリュー、それを支持 しじ する貴族 きぞく が殺害 さつがい され、ラディズラーオの名前 なまえ で新 あら たな蜂起 ほうき が起 お こった。この蜂起 ほうき を主導 しゅどう したのはフルヴォイエ・ヴクチッチで、彼 かれ は非常 ひじょう に積極 せっきょく 的 てき な役割 やくわり を果 は たし、自 みずか らの権威 けんい を拡大 かくだい することができた。クリジェフチの議会 ぎかい は、後 のち に「血 ち まみれのクリジェフチのサボル(英語 えいご 版 ばん ) 」と呼 よ ばれるようになった[74] 。
1398年 ねん 、ジグムンドはボスニア王国 おうこく との戦闘 せんとう に失敗 しっぱい し、その後 ご ボスニアの新 しん 国王 こくおう スティエパン・オストヤ (英語 えいご 版 ばん ) とフルヴォイエが攻勢 こうせい に転 てん じた。ザダルは1401年 ねん にフルヴォイエに服従 ふくじゅう し、ツェティナ県 けん の大 だい 部分 ぶぶん を支配 しはい していたイヴァニシュ・ネリプチッチ (英語 えいご 版 ばん ) の援助 えんじょ により、フルヴォイエは1403年 ねん にスプリトを支配 しはい 下 か に置 お いた。この間 あいだ 、ジグムンドはフランコパン家 か の支持 しじ を失 うしな ったが、クルチャコヴィッチ家 か (英語 えいご 版 ばん ) (グシッチ家 か の分流 ぶんりゅう )、ベリスラヴィッチ家 か 、ズリンスキー家 か (英語 えいご 版 ばん ) の忠誠 ちゅうせい を維持 いじ した。しかし、ラディズラーオが消極 しょうきょく 的 てき でブダへの進出 しんしゅつ を躊躇 ちゅうちょ したため、ジグムンドは彼 かれ に敵対 てきたい していたすべての人々 ひとびと に恩赦 おんしゃ を与 あた えることにした。フランコパン家 か を含 ふく む多 おお くのハンガリーやクロアチアの貴族 きぞく はこれを受 う け入 い れ、ジグムンド側 がわ についた[75] 。
フルヴォイエ・ヴクチッチとの対立 たいりつ により、ボスニア貴族 きぞく は1404年 ねん にステファン・オストヤを追放 ついほう し、フルヴォイエの傀儡 かいらい としてトゥヴルトコ2世 せい (英語 えいご 版 ばん ) を王位 おうい に就 つ かせた。オストヤはハンガリーに逃 に げ、ジグムンドに味方 みかた した。フルヴォイエは、1408年 ねん にボスニア貴族 きぞく がドボルの戦 たたか いで大敗 たいはい するまで、何 なん 度 ど かのジグムンドの軍事 ぐんじ 介入 かいにゅう に耐 た えられた。1409年 ねん 1月 がつ 、フルヴォイエがジグムンドに降伏 ごうぶく し、オストヤがボスニア王位 おうい に復帰 ふっき したことが発表 はっぴょう された。これによって、ジギスムントはハンガリー、ボスニア、クロアチアでの騒乱 そうらん に終止符 しゅうしふ を打 う った[76] 。やがて1409年 ねん 、ラディズラーオはダルマチアにおける権利 けんり を10万 まん ドゥカーツでヴェネツィアに売却 ばいきゃく し、フィレンツェ共和 きょうわ 国 こく との戦争 せんそう で味方 みかた を得 え ようとした[77] 。
Petar Berislavić の記念 きねん 碑 ひ (トロギル )
クルバヴァの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) (1493年 ねん )
1453年 ねん にビザンツ帝国 ていこく を征服 せいふく した後 のち 、オスマン帝国 ていこく は急速 きゅうそく に西方 せいほう へ拡大 かくだい し、クロアチア王国 おうこく を脅 おど かした[78] 。1463年 ねん のボスニア王国 おうこく の陥落 かんらく に続 つづ き、国王 こくおう マーチャーシュ1世 せい はヤイツェ とスレブレニク (英語 えいご 版 ばん ) を設立 せつりつ することで防衛 ぼうえい を強化 きょうか した。オスマン帝国 ていこく は防衛 ぼうえい 線 せん を破 やぶ るのに苦戦 くせん したが、クロアチアや南 みなみ ハンガリーへの略奪 りゃくだつ を定期 ていき 的 てき に行 い った。1463年 ねん の略奪 りゃくだつ の最中 さいちゅう 、クロアチアのバンPavao Špirančićはセニで捕 と らえられた[79] 。オスマン帝国 ていこく は急速 きゅうそく に南方 なんぽう へ拡大 かくだい し、1482年 ねん にはヘルツェゴビナの大 だい 部分 ぶぶん とネレトヴァ渓谷 けいこく のクロアチアの拠点 きょてん を征服 せいふく した[80] 。
クロアチアのオスマン帝国 ていこく に対 たい する最初 さいしょ の主 おも な勝利 しょうり は、1478年 ねん 、Glina近郊 きんこう でCount Petar Zrinskiによって達成 たっせい された。1483年 ねん 、クロアチアのバンMatthias Geréb (英語 えいご 版 ばん ) とフランコパン家 か が率 ひき いた軍隊 ぐんたい は、現在 げんざい のノヴィ・グラード 近 ちか くで行 おこな われたウナの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) で、約 やく 7000人 にん のオスマン帝国 ていこく 騎兵 きへい (アキンジ )の部隊 ぶたい を破 やぶ った。同年 どうねん 平和 へいわ 条約 じょうやく が結 むす ばれ、クロアチアはオスマン帝国 ていこく による大 だい 規模 きぼ な略奪 りゃくだつ を免 まぬか れた。国境 こっきょう での戦闘 せんとう は続 つづ いたが、それほど激 はげ しいものではなかった[81] 。
1490年 ねん 、マーチャーシュ1世 せい の死 し とともに休戦 きゅうせん が終了 しゅうりょう した。1491年 ねん にオスマン帝国 ていこく の軽 けい 騎兵 きへい 1万 まん 人 にん がウナ川 かわ を渡 わた り、カルニオラ に進出 しんしゅつ しが、その帰 かえ り道 みち にヴルパイルの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) で敗 やぶ れた。2年 ねん 後 ご 、クロアチアの新 あら たなバンエメリク・デレンチン (英語 えいご 版 ばん ) とフランコパン家 か の間 あいだ で戦争 せんそう が始 はじ まった。当初 とうしょ はフランコパン家 か の方 ほう が優勢 ゆうせい でセニ を包囲 ほうい し始 はじ めたが、バン・デレンチン率 ひき いる軍隊 ぐんたい が派遣 はけん され、包囲 ほうい は解除 かいじょ された。しかし、カルニオラ襲撃 しゅうげき からクロアチアを通 とお って戻 もど ってきたハディム・ヤクプ・パシャ(ボスニア県 けん (英語 えいご 版 ばん ) のベイ)率 ひき いるオスマン帝国 ていこく 軍 ぐん の来襲 らいしゅう により、講和 こうわ を強 し いられた。クロアチア貴族 きぞく は約 やく 1万 まん 人 にん の兵士 へいし を集 あつ め、野戦 やせん でオスマン帝国 ていこく 軍 ぐん を迎 むか えると決 き めたが、待 ま ち伏 ぶ せの方 ほう が良 よ いと主張 しゅちょう する者 もの もいた。1493年 ねん 9月 がつ 9日 にち 、クロアチア軍 ぐん はリカ地方 ちほう のウドビナ (英語 えいご 版 ばん ) 付近 ふきん でオスマン帝国 ていこく 軍 ぐん を迎 むか え撃 う ち、クルバヴァの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) で大敗 たいはい を喫 きっ した[78] 。クロアチアを破 やぶ ったことは大 おお きかったものの、オスマン帝国 ていこく はその結果 けっか として領土 りょうど を獲得 かくとく することはなかった[82] 。戦災 せんさい 地 ち から来 き たクロアチア人 じん は徐々 じょじょ に安全 あんぜん な地域 ちいき に移動 いどう し始 はじ め、一部 いちぶ の難民 なんみん はクロアチア国外 こくがい に逃 のが れてブルゲンラント 、南 みなみ ハンガリー、イタリア沿岸 えんがん 部 ぶ などに移動 いどう した[83] 。
1513年 ねん 8月 がつ 16日 にち 、1513年 ねん 8月 がつ 16日 にち 、バンペタル・ベリスラヴィッチ (英語 えいご 版 ばん ) は、ウナ川 がわ でのドゥビツァの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) で7000人 にん のオスマン帝国 ていこく 軍 ぐん を破 やぶ った[84] 。1514年 ねん 2月 がつ 、オスマン帝国 ていこく は10,000人 にん の兵士 へいし でクニンを包囲 ほうい して町 まち 周辺 しゅうへん を燃 も やしたが、攻略 こうりゃく には失敗 しっぱい し、500人 にん の軍隊 ぐんたい を失 うしな った[85] 。1519年 ねん 、オスマン帝国 ていこく との戦争 せんそう でクロアチア人 じん 兵士 へいし が大 おお きく貢献 こうけん したことにちなみ、ローマ教皇 きょうこう レオ10世 せい はクロアチアを「キリスト教 きりすときょう 世界 せかい の防壁 ぼうへき (antemurale christianitatis )」と呼 よ んだ[86] 。ペタル・ベリスラヴィッチは、1520年 ねん 5月 がつ 20日 はつか のプジェシェヴィツァの戦 たたか いで待 ま ち伏 ぶ せにあい戦死 せんし するまで、7年間 ねんかん オスマン帝国 ていこく と絶 た え間 ま ない戦闘 せんとう を続 つづ けた[87] 。1513年 ねん と1514年 ねん の二 に 度 ど の失敗 しっぱい の後 のち 、ガジ・フスレフ・ベグ (英語 えいご 版 ばん ) 率 ひき いるオスマン帝国 ていこく 軍 ぐん はクニンを最終 さいしゅう 的 てき に包囲 ほうい し、1522年 ねん 5月 がつ 29日 にち に攻略 こうりゃく した。オスマン帝国 ていこく は何 なん 度 ど もクリスを包囲 ほうい したが、セニ の隊長 たいちょう でありクリスの王子 おうじ でもあったペタル・クルジッチ (英語 えいご 版 ばん ) が、約 やく 25年間 ねんかん クリス要塞 ようさい を守 まも り続 つづ けた[88] 。
1526年 ねん 4月 がつ 23日 にち 、スルタンスレイマン1世 せい は8万 まん の正規 せいき 軍 ぐん と大勢 おおぜい の非 ひ 正規 せいき 補助 ほじょ 軍 ぐん を率 ひき いてイスタンブール を出発 しゅっぱつ し、ハンガリーへの侵攻 しんこう を開始 かいし した。スレイマンは7月 がつ 2日 にち にサヴァ川 がわ に到達 とうたつ し、2週間 しゅうかん の包囲 ほうい の後 のち 、7月 がつ 27日 にち にペトロヴァラディン を、8月 がつ 8日 にち にイロク を占領 せんりょう した。8月23日 にち までに彼 かれ の軍隊 ぐんたい は抵抗 ていこう を受 う けることなくオシイェク でドラーヴァ川 がわ を渡 わた った。同日 どうじつ 、ラヨシュ2世 せい は約 やく 25,000人 にん の軍勢 ぐんぜい でモハーチ に到着 とうちゃく した。クリストファー・フランコパン伯爵 はくしゃく の5千 せん 人 にん の軍隊 ぐんたい は、戦場 せんじょう への到着 とうちゃく が間 ま に合 あ わなかった。8月29日 にち 、ハンガリー軍 ぐん はモハーチ南方 なんぽう の平原 へいげん でオスマン帝国 ていこく を迎 むか え撃 う ったが、2時 じ 間 あいだ 足 た らずで敗退 はいたい した。1526年 ねん のモハーチの戦 たたか い は、ラヨシュ2世 せい の死 し によってヤギェウォ朝 あさ の支配 しはい が終 お わったという点 てん で重要 じゅうよう な出来事 できごと であった。この敗北 はいぼく はキリスト教 きりすときょう の軍隊 ぐんたい にオスマン帝国 ていこく を阻止 そし する力 ちから がなかったことを示 しめ すものであり、オスマン帝国 ていこく は何 なに 世紀 せいき にもわたって大 おお きな脅威 きょうい であり続 つづ けた[89] 。
1527年 ねん 1月 がつ 1日 にち のツェティン憲章 けんしょう
ラヨシュ2世 せい は数々 かずかず の称号 しょうごう の中 なか でもクロアチアの王冠 おうかん を所有 しょゆう していたが、彼 かれ は跡継 あとつ ぎを残 のこ さなかった。1526年 ねん 11月 がつ 10日 とおか の会議 かいぎ で、ハンガリー議会 ぎかい の大 だい 多数 たすう はサポヤイ・ヤーノシュ を国王 こくおう に選出 せんしゅつ したが、ハンガリーの別 べつ の議会 ぎかい は1526年 ねん 12月16日 にち にポジョニ の残党 ざんとう 議会 ぎかい でハプスブルク家 か のオーストリア大公 たいこう フェルディナント1世 せい を選出 せんしゅつ した。大公 たいこう はサポヤイに対抗 たいこう するためクロアチアの選挙 せんきょ に関心 かんしん を持 も ち、同時 どうじ にオスマン帝国 ていこく の西方 せいほう 拡大 かくだい という激動 げきどう の時代 じだい に、クロアチアを保護 ほご することを約束 やくそく した。1526年 ねん 12月31日 にち 、クロアチア貴族 きぞく が集 あつ まり作戦 さくせん を話 はな し合 あ い、新 あら たな指導 しどう 者 しゃ を選 えら んだ。この会議 かいぎ は、ツェティングラードのツェティン城 じょう (英語 えいご 版 ばん ) 下 した にあるフランシスコ会 かい 修道院 しゅうどういん で行 おこな われた。1527年 ねん 1月 がつ 1日 にち 、クロアチア議会 ぎかい はツェティンで開 ひら かれた会議 かいぎ で、全会 ぜんかい 一致 いっち でフェルディナント1世 せい をクロアチア王 おう に選出 せんしゅつ した。フェルディナント1世 せい を選出 せんしゅつ する憲章 けんしょう は、6人 にん のクロアチア貴族 きぞく と4人 にん の大公 たいこう の代理人 だいりにん の印鑑 いんかん で確認 かくにん された。1527年 ねん 1月 がつ 6日 にち 、スラヴォニア貴族 きぞく はサポヤイ側 がわ についた[90] 。
クロアチアの歴史 れきし 叙述 じょじゅつ では、ハプスブルク帝国 ていこく の版図 はんと に入 はい ることはサボルの自由 じゆう な選択 せんたく の結果 けっか だと主張 しゅちょう されている[28] 。国王 こくおう の死 し 、2人 ふたり の選出 せんしゅつ された統治 とうち 者 しゃ 、オスマン帝国 ていこく による征服 せいふく 、そして結果 けっか としてのハンガリーの3分割 ぶんかつ というモハーチの戦 たたか い 後 ご の政治 せいじ 状況 じょうきょう は、中世 ちゅうせい の関係 かんけい 性 せい 全体 ぜんたい を変 か えた。フェルディナント派 は とサポヤイ派 は の間 あいだ で内戦 ないせん が起 お こったが、間 ま もなくフェルディナント派 は に有利 ゆうり な協定 きょうてい が結 むす ばれ、両 りょう 王位 おうい は再 ふたた びハプスブルク家 か に統合 とうごう されることになった。これは表向 おもてむ きにはクロアチア・ハンガリー連合 れんごう 王国 おうこく の復活 ふっかつ を意味 いみ するが、2国 こく 間 あいだ の関係 かんけい は永久 えいきゅう に変化 へんか した[91] 。
最初 さいしょ のクロアチアの国 くに 章 あきら は12世紀 せいき 後半 こうはん に遡 さかのぼ る。当時 とうじ の国 くに 章 あきら は、クロアチア公 こう アンドラーシュ2世 せい が鋳造 ちゅうぞう したクロアチアのフリザティックに見 み られる三日月 みかづき の上 うえ に6角 かく の星 ほし が描 えが かれたものである。14,15世紀 せいき には、青 あお い盾 たて (元々 もともと は赤 あか い盾 たて )に3頭 とう の王冠 おうかん を被 こうむ ったライオンを載 の せた現在 げんざい のダルマチア紋章 もんしょう がクロアチア王国 おうこく の国 くに 章 しょう として使 つか われ、当時 とうじ の多 おお くの紋章 もんしょう (Gelre Armorial, Constance Council Armorial, Wernigerode Armorial)に載 の っている。また、マティアス・コルヴィヌス の大判 おおばん やラヨシュ1世 せい の大 だい 紋章 もんしょう など、王 おう のコインや印章 いんしょう にも配置 はいち されていた。市松 いちまつ 模様 もよう は15世紀 せいき 後半 こうはん に使 つか われるようになり、16世紀 せいき 初頭 しょとう (1525年 ねん )にはクロアチアで公式 こうしき に使用 しよう されるようになった。そのほとんどが、銀 ぎん と赤 あか の正方形 せいほうけい が5つ連 つら なったものである[92] 。また、モハーチの戦 たたか い では軍旗 ぐんき としてクロアチアを表 あらわ した[93] 。
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