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サン=ポル=ルー

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
サン=ポル=ルー
Saint-Pol-Roux
サン=ポル=ルー(1937ねん
ペンネーム サン=ポル=ルーのほか、サン=ポール・ド・ルー、ポール・ルー、サン=ポール=ルー、ダニエル・ハーコランド
誕生たんじょう ピエール=ポール・ルー
(1861-01-15) 1861ねん1がつ15にち
フランスの旗 フランスサン=タンリフランス語ふらんすごばんげんマルセイユ
死没しぼつ (1940-10-18) 1940ねん10月18にち(79さいぼつ
フランスの旗 フランスブレスト
(ブルターニュ地域ちいきけんフィニステールけん)
墓地ぼち カマレ=シュル=メール墓地ぼち
職業しょくぎょう 詩人しじんげき作家さっか
文学ぶんがく活動かつどう 象徴しょうちょう主義しゅぎ
代表だいひょうさく 散文詩さんぶんししゅう聖体せいたい行列ぎょうれつかり祭壇さいだん
戯曲ぎきょくかまをもつ貴婦人きふじん
公式こうしきサイト Société des amis de Saint-Pol-Roux
ウィキポータル 文学ぶんがく
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サン=ポル=ルーSaint-Pol-Roux1861ねん1がつ15にち - 1940ねん10月18にち)は、フランスプロヴァンス詩人しじん象徴しょうちょう主義しゅぎ詩人しじんげき作家さっか。イデオレアリスムにもとづく詩論しろん演劇えんげきろん提唱ていしょうシュルレアリスム先駆せんくしゃしょうされ、ブルトンアラゴンエリュアールらがオマージュささげた。ナチス・ドイツから暴行ぼうこうけ、発表はっぴょう原稿げんこう大半たいはん焼却しょうきゃくされ、失意しついのうちに死去しきょわすれられた作家さっかであったが、2010ねんごろからさい評価ひょうかされはじめた。代表だいひょうさくに、かれあいしたブルターニュちなぜん3かん散文詩さんぶんししゅう聖体せいたい行列ぎょうれつかり祭壇さいだん』、戯曲ぎきょく大作たいさくかまをもつ貴婦人きふじん』などがある。

背景はいけい[編集へんしゅう]

サン=ポル=ルーは、かわら製造せいぞうしょいとなむアレクシス・ルーと家政かせいマリー・ユフロジーヌ・リュートーのだいピエール=ポール・ルーとしてマルセイユ近郊きんこうサン=タンリフランス語ふらんすごばんげんマルセイユ16のサン=タンリがい)にまれた。あにジョゼフ=マリー(1859年生ねんせい)、おとうとヴァンサン=ジョゼフ=マリー(1862年生ねんせい)、アントワーヌ=ヴィクトル(1865年生ねんせい)、ジョゼフ=フェルナン(1867年生ねんせい)の5にん兄弟きょうだいである[1]。1869ねん6がつ父方ちちかた祖父そふジョゼフ・ルーが75さい死去しきょした。サン=ポル=ルーはのち祖父そふ」(『聖体せいたい行列ぎょうれつかり祭壇さいだんだい2かん所収しょしゅう)に「尋常じんじょうならざる人物じんぶつ」、「祖父そふむこともくこともほとんど出来できなかったが、聖書せいしょ予言よげんもの叙事詩じょじしてくる白髪はくはつ英雄えいゆうたちのように、イマージュで自己じこ表現ひょうげんをした」人物じんぶつであり、どものころのサン=ポル=ルーには「超自然ちょうしぜんてき存在そんざいえた」といており、土地とち人々ひとびと敬愛けいあいされた祖父そふはプロヴァンス詩人しじんサン=ポル=ルーにおおきな影響えいきょうおよぼしたとされる[2]

1872ねんあにジョゼフ=マリーとともに、リヨンフルヴィエールフランス語ふらんすごばんおかにあるカトリック寄宿きしゅく学校がっこうアンスティチュ・ノートル=ダム・デ・ミニムにはいり、通常つうじょう学科がっかのほか、ヴァイオリン素描そびょう英語えいごまなんだ[1]演劇えんげきなどで早熟そうじゅく才能さいのうしめし、1976ねんにサン=タンリにカトリック労働ろうどうしゃ団体だんたいが「フヌイユ(茴香ういきょう会館かいかん」という劇場げきじょうふく施設しせつ設立せつりつしたときに、ここで、当時とうじ15さいのピエール=ポール・ルーの処女しょじょさく巡礼じゅんれいしゃラファエロ』が上演じょうえんされ(1879ねん刊行かんこう)、1880ねんにはリヨンで若手わかて俳優はいゆうにより上演じょうえんされた(1880ねん刊行かんこう)。サン=ポル=ルーはまた、地元じもとげき作家さっかによる作品さくひん俳優はいゆうとして出演しゅつえんしたこともある[3]

リヨン文科ぶんか大学だいがく文学ぶんがく教授きょうじゅブノワ・ボーロン神父しんぷ師事しじして修辞しゅうじがくまなんだ。一時期いちじき学業がくぎょう中断ちゅうだんしたが、理由りゆうは、あまりにすぐれた文章ぶんしょういたために教師きょうしから剽窃ひょうせつではないかとうたがわれたからであったという。のちにサン=ポル=ルーは「ちかって、間違まちがいなくわたし文章ぶんしょうであり」、これは「批評ひひょう」というものとの最初さいしょ出会であいであったと述懐じゅっかいしている[4]

初期しょき執筆しっぴつ活動かつどう[編集へんしゅう]

1881ねんバカロレア取得しゅとくしたのちチュニジアで1年間ねんかん兵役へいえきつとめた。1882ねん10がつ法律ほうりつ勉強べんきょうのためにパリた。散文詩さんぶんし怪物かいぶつしょう悪魔あくま」(『聖体せいたい行列ぎょうれつかり祭壇さいだんだい2かんみち薔薇ばらとげ所収しょしゅう)では、故郷こきょうサン=タンリをのことが、「傲慢ごうまん鶏冠けいかん」をつけて「広大こうだい運命うんめい渦巻うずま坩堝るつぼ、パリへ」と表現ひょうげんされている。パリでは、当時とうじジャーナリストとして活躍かつやくしていた小説しょうせつげき作家さっかアンリ・ラヴダンフランス語ふらんすごばん[5]わたしたパリ5モンジュ広場ひろばフランス語ふらんすごばんのアパートにはいった[1]はやくもよく11月のプロヴァンス・クラブの結成けっせいしきパリ国立こくりつオペラ歌手かしゅマリー・アマンがサン=ポル=ルーの散文詩さんぶんし「ママン!」を朗読ろうどくし、好評こうひょうはくした。この作品さくひん翌年よくねんポール・オランドルフフランス語ふらんすごばん設立せつりつしたばかりの出版しゅっぱんしゃから刊行かんこうされた。

ジュール・ブルトンさく《ブルターニュのパルドンさい聖体せいたい行列ぎょうれつ》(1869ねん

1883ねんはじめてブルターニュ地方ちほうおとずれ、ヴァンヌ滞在たいざいした。このときの経験けいけんからのち戯曲ぎきょく農家のうか』を制作せいさくすることになるが、サン=ポル=ルーはこののちもたびたびブルターニュ地方ちほう滞在たいざいし、ブルターニュを題材だいざいとするおお発表はっぴょうしている(代表だいひょうさく聖体せいたい行列ぎょうれつかり祭壇さいだん』もブルターニュの伝統でんとうてき行事ぎょうじパルドンさいちなむものであり、1898ねんにはパリをってブルターニュのロスカンヴェル定住ていじゅうし、その風土ふうどふかろすことになる)。ヴァンヌからロンドンかった。『聖体せいたい行列ぎょうれつかり祭壇さいだんだい3かんうちなる妖精ようせいきょう所収しょしゅうの「ハイド・パーク」はこのときにかれたである。同年どうねんにオーギュスト・ギオ出版しゅっぱんしゃから刊行かんこうされたヴィクトル・ユーゴーささげる[6]詩劇しげき詩人しじん!』は、マルセイユの週刊しゅうかん書評しょひょうで「『ママン!』の作者さくしゃ魅力みりょくいたるところに散見さんけんされる」とひょうされ、バラード公爵こうしゃく夫人ふじんゆめ』はコメディー・フランセーズ女優じょゆうブランシュ・バレッタにその優雅ゆうがさをとなえられた。また、げき作家さっか俳優はいゆうフェリックス・ガリポーフランス語ふらんすごばんささげられた『奇妙きみょう』は最初さいしょどく演劇えんげきである。

象徴しょうちょう主義しゅぎ[編集へんしゅう]

散文詩さんぶんし[編集へんしゅう]

よく1884ねんにモンジュ広場ひろばのアパートをて、モンマルトルおかのふもと(パリ9)にした。サン=タンリのシャイヤン神父しんぷささげる「ゴルゴタのおか」(『ふるきもの』所収しょしゅう)を執筆しっぴつ象徴しょうちょう主義しゅぎ詩人しじんオーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダンからたか評価ひょうかた「ゴルゴタのおか」は、初期しょき重要じゅうよう詩作しさくひんであると同時どうじに、サン=ポル=ルーの演劇えんげきかんじょうでも重要じゅうようである。ゴルゴタのおか十字架じゅうじかにかけられるキリスト周囲しゅうい民衆みんしゅうあつまって「宇宙うちゅうてき悲劇ひげき」である受難じゅなん目撃もくげきするという、この求心力きゅうしんりょくのある同心円どうしんえん構造こうぞうは、サン=ポル=ルーのおおくの作品さくひん共通きょうつうする基本きほん構造こうぞうである[7]

サン=ポル=ルーが象徴しょうちょう主義しゅぎてき散文詩さんぶんしはじめたのはヴィリエ・ド・リラダンの影響えいきょうであり[2]ラザロ」をヴィリエ・ド・リラダンにささげているが、サン=ポル=ルーに「イル=エ=ヴィレーヌうた」をささげた法科ほうか大学だいがく同窓生どうそうせいジャン・アジャルベールフランス語ふらんすごばんもまた、象徴しょうちょう主義しゅぎ批評ひひょう作家さっかであった。サン=ポル=ルーはこのころステファヌ・マラルメ英語えいご教師きょうしをしていたリセ・フォンタヌ(1883ねんリセ・コンドルセ改名かいめい)の学生がくせいのち象徴しょうちょう主義しゅぎ作家さっかとしてられることになるエフライム・ミカエルフランス語ふらんすごばんピエール・キヤールフランス語ふらんすごばんルネ・ギルフランス語ふらんすごばんスチュアート・メリルフランス語ふらんすごばんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく出身しゅっしん)、ロドルフ・ダルザンフランス語ふらんすごばんアンドレ・フォンテナフランス語ふらんすごばんらの「フォンタヌ・グループ」と交友こうゆうふかめ、1886ねんにミカエル、キヤール、ダルザンらとともに文学ぶんがく雑誌ざっしプレイヤード(すばる』を創刊そうかんした。この雑誌ざっしだい7ごうをもって年内ねんないおわりかんとなったが、創刊そうかんごう序文じょぶんはマラルメとなら高踏こうとう詩人しじんテオドール・ド・バンヴィル執筆しっぴつし、ノーベル文学ぶんがくしょう受賞じゅしょう作家さっかメーテルリンク処女しょじょさく幼児ようじ虐殺ぎゃくさつ』が掲載けいさいされるなど、文学ぶんがく史上しじょう一定いってい評価ひょうか雑誌ざっしであり[8]、メーテルリンクとともにベルギーからわたりふつした作家さっかグレゴワール・ル・ロワ神秘しんぴ主義しゅぎ詩人しじんヴィクトール=エミール・ミシュレフランス語ふらんすごばん歴史れきし学者がくしゃカミーユ・ブロックフランス語ふらんすごばんらも寄稿きこうした。サン=ポル=ルーは「パン牧神ぼくしん)」、「イタキ宮殿きゅうでん乞食こじき姿すがたもどったオデュッセウス」、「牧歌ぼっか」、「たばあいだちょう人性じんせい」、「との出会であい」、ジャン・リシュパンフランス語ふらんすごばん[9]ささげる「贖罪しょくざい山羊やぎ」、アナトール・フランスささげる「知恵ちえ」など8へんせている。

1812ねんのメルキュール・ド・フランスのロゴ(現在げんざいのものとはことなる)

1890ねんから『メルキュール・ド・フランス寄稿きこうはじめた。1670年代ねんだいに『メルキュール・ガラン』として創刊そうかんされたこの雑誌ざっしは、1825ねんにいったん廃刊はいかんとなったが、1890ねん1がつ1にちに、アルフレッド・ヴァレットフランス語ふらんすごばんデカダン女性じょせい作家さっかラシルドフランス語ふらんすごばん[10]が、サン=ポル=ルーらの象徴しょうちょう主義しゅぎ詩人しじん中心ちゅうしんとするパリ6カフェ「ラ・メール・クラリス」の常連じょうれん作家さっかジャン・モレアスエルネスト・レイノーフランス語ふらんすごばんジュール・ルナールレミ・ド・グールモンルイ・デュミュールフランス語ふらんすごばんアルフレッド・ジャリアルベール・サマンフランス語ふらんすごばんアルベール・オーリエジュリアン・ルクレルクフランス語ふらんすごばんとともに象徴しょうちょう主義しゅぎ雑誌ざっし月刊げっかん)として再刊さいかんし、メルキュール・ド・フランス出版しゅっぱんしゃ創設そうせつされた。創刊そうかんごうにはピエール・キヤールにささげるサン=ポル=ルーの韻文いんぶんあかさかな」が掲載けいさいされた[11]以後いご、「アンジェリックのうた」、「狩猟しゅりょう」、ジョリス=カルル・ユイスマンスささげる「夜想曲やそうきょく」、「ぬすまれた葡萄ぶどう」、「幻想げんそう白鳥はくちょう」、「灰色はいいろとき」、「あいちょういのうた」、(「蜜蜂みつばちぶんはちぐんのようなかみをしたルルにささげる」とし、のちサラ・ベルナールささげられた)「サンタンヌ巡礼じゅんれいしゃ」など、のちにパリをってブルターニュ地方ちほうむようになってからも1917ねんごろまで『メルキュール・ド・フランス』継続けいぞくてき発表はっぴょうした。また、ぜん3かん散文詩さんぶんししゅう聖体せいたい行列ぎょうれつかり祭壇さいだん』(1893ねんおよび1901ねんから1907ねん刊行かんこうされた増補ぞうほ改訂かいていばん)、戯曲ぎきょくかまをもつ貴婦人きふじん』(1899ねん)などサン=ポル=ルーの代表だいひょうさくふく生前せいぜん作品さくひんおおくがメルキュール・ド・フランス出版しゅっぱんしゃから刊行かんこうされた。なお、サン=ポル=ルーはわすれられた作家さっかであったために没後ぼつごおおくの作品さくひん刊行かんこうされたが、そのほとんどがルネ・ルージュリーフランス語ふらんすごばんが1948ねん当時とうじほとんどられていなかったヴィクトル・セガレンマックス・ジャコブピエール・ルヴェルディロジェ=ジルベール・ルコントフランス語ふらんすごばんジョー・ブスケフランス語ふらんすごばんらの作家さっか紹介しょうかいするために創設そうせつしたルージュリー出版しゅっぱんしゃフランス語ふらんすごばんから刊行かんこうされている(「著書ちょしょ参照さんしょう)。

演劇えんげき[編集へんしゅう]

1887ねん12月には3まく歌劇かげき『サバルカザンまたは魔法使まほうつかいの懲罰ちょうばつ』が故郷こきょうサン=タンリで上演じょうえんされた。作曲さっきょくはヴァンサン・フォス、演出えんしゅつ主演しゅえんはサン=ポル=ルーのあにジョゼフ・ルーであった。10かい連続れんぞく公演こうえんおこない、成功せいこうおさめたが、サン=ポル=ルーが執筆しっぴつした台本だいほん公開こうかいされたのはサン=ポル=ルーともかいの2015ねん10がつづけ紀要きようにおいてである。この歌劇かげき上演じょうえん、サン=ポル=ルーはおおくの戯曲ぎきょく発表はっぴょうした。とりわけ、大作たいさくかまをもつ貴婦人きふじん』をはじめたのは1890ねんのことであり、完成かんせいまで9ねん歳月さいげつようしている。これは、1895ねんからベルギーに移住いじゅうしてげた作品さくひんだが、上演じょうえんにはいたらなかった。『かまをもつ貴婦人きふじん刊行かんこうよく1900ねんには、作曲さっきょくギュスターヴ・シャルパンティエ草稿そうこうき、サン=ポル=ルーがこれを大幅おおはば改編かいへんしてげた『ルイーズ』がオペラ=コミック上演じょうえんされ、だい成功せいこうおさめた。ただし、サン=ポル=ルーによる台本だいほん執筆しっぴつ経緯けいいあきらかにされたのは、かれ没後ぼつご出版しゅっぱんされたテオフィル・ブリアンフランス語ふらんすごばん著書ちょしょによってである。著作ちょさくけんあらそいもあったが、サン=ポル=ルーとシャルパンティエの友情ゆうじょう影響えいきょうすることはなかったとされる[12][13][14]

制作せいさく(サル・ベルリオーズ、1907ねん

パリをはなれるまえの1893ねんから94ねんにかけては多作たさく時期じきであり、『聖体せいたい行列ぎょうれつかり祭壇さいだん』をメルキュール・ド・フランスしゃから出版しゅっぱんするほか、『しろ修道院しゅうどういんちょうくろたましい』、『人生じんせい時期じきのエピローグ』、『個人こじんからなる登場とうじょう人物じんぶつたち』などの戯曲ぎきょく発表はっぴょうしている。サン=ポル=ルーが演劇えんげき活動かつどう精力せいりょくてきむようになるのは1891ねん以降いこうのことである。契機けいきとなったのは、アンドレ・アントワーヌエミール・ゾラなどの自然しぜん主義しゅぎ演劇えんげき上演じょうえんするために1887ねん創設そうせつした自由じゆう劇場げきじょう対抗たいこうして、詩人しじんポール・フォールフランス語ふらんすごばんが1890ねんに18さい芸術げいじゅつげ、ヴェルレーヌジュール・ラフォルグ、レミ・ド・グールモン、メーテルリンクらの象徴しょうちょう主義しゅぎ演劇えんげきのほか、イプセンストリンドベリなど外国がいこくげき作家さっか作品さくひん積極せっきょくてき紹介しょうかいしたことである[15]芸術座げいじゅつざは1893ねんリュニエ=ポーフランス語ふらんすごばん制作せいさくフランス語ふらんすごばんがれ、はつ公演こうえんでメーテルリンクの『ペレアスとメリザンド』を初演しょえんするほか、1895ねんオスカー・ワイルドの『サロメ』、翌年よくねんにジャリの『ユビュおう』などを初演しょえんした[16]

1893ねんかれたサン=ポル=ルーの戯曲ぎきょく制作せいさくでの上演じょうえん検討けんとうされたが、これも上演じょうえんいたらなかった。1894ねんには戯曲ぎきょく個人こじんからなる登場とうじょう人物じんぶつたち』を発表はっぴょうした。これはダニエル・ハーコランドという筆名ひつめい刊行かんこうされ、「1858ねんまれのアメリカのモノドラマ作家さっか」という紹介しょうかいがあるうえに、表紙ひょうしには「アーサー=トーマス・シェフィールドにより英語えいごから翻訳ほんやく」とかれている[17]。ダニエル・ハーコランドもアーサー=トーマス・シェフィールドも架空かくう人物じんぶつであり、サン=ポル=ルー自身じしんがこれをいたことをみとめたのは18ねんのことであり、かれ戯曲ぎきょくはダニエル・ハーコランドの剽窃ひょうせつうたがいがあるとてられたからであった。かれはダニエル・ハーコランドとは「まぎれもなく自分じぶんのことである」としたうえで、当時とうじ外国がいこく芸術げいじゅつ作品さくひんばかりがもてはやされ、フランスの作家さっか軽視けいしされていたからであると説明せつめいした[18]。なお、こののち1914ねんに『個人こじんからなる登場とうじょう人物じんぶつたち』と『しろ修道院しゅうどういんちょうくろたましい』がイデアリストによって上演じょうえんされたが、個人こじんたくのサロンでの上演じょうえんという小規模しょうきぼなものであった[19]

イデオレアリスム - 詩論しろん演劇えんげきろん[編集へんしゅう]

戯曲ぎきょく個人こじんからなる登場とうじょう人物じんぶつたち』(中筋なかすじともやく)または『個人こじんなか多数たすう人物じんぶつたち』(内田うちだひろしやく)は、サン=ポル=ルーの詩論しろん演劇えんげきろんじょう重要じゅうよう作品さくひんである。この作品さくひんは、「よろこびのとき」である「なま右側みぎがわ」から若者わかものと「くるしみのとき」である「実存じつぞん左側ひだりがわ」から老人ろうじんみずからの運命うんめい絶望ぜつぼうし、たがいに相手あいて運命うんめいうらやみ、わりをのぞむが、いざ女神めがみたちによってわりが完了かんりょうすると、またおな絶望ぜつぼうおちいり、とも急流きゅうりゅうげるという筋書すじがきである。これはサン=ポル=ルーのモノドラマろんもとづくものである。かれのモノドラマは一般いっぱんてき意味いみでのモノローグどく演劇えんげき)とことなり、人間にんげん内的ないてき自我じが諸相しょそう複数ふくすう俳優はいゆうえんじることで、主観しゅかんてき存在そんざいとしての人間にんげん客観きゃっかんされ、観客かんきゃくとの結合けつごうまれるとするニコライ・エヴレイノフ英語えいごばんのモノドラマろん[20]ちかいが、サン=ポル=ルーの場合ばあいは、「変幻へんげん自在じざいかみプロテウス」、「プリズム」をとおして世界せかい、「切子きりこめんうつるイマージュ」の総体そうたいとして「個人こじんなかぜん人間にんげんせい」を「実現じつげん(レアリゼ)」することが重要じゅうようになる[4]

フェリックス・ヴァロットンによるサン=ポル=ルー(レミ・ド・グールモンちょ仮面かめんしょ[21]だい2かん(1898ねん)に掲載けいさい

さらに、このようなかれ演劇えんげきろんは、かれ提唱ていしょうしたイデオレアリスムもとづいている。詩人しじんアンドレ・ロラン・ド・ルネヴィルフランス語ふらんすごばんは、プラトン観念論かんねんろんイデアろん)、ヘーゲル観念論かんねんろんジョゼファン・ペラダン薔薇ばらじゅうだん教義きょうぎなどとの関連かんれん、および詩論しろんとしては、ドイツ・ロマン主義しゅぎ詩人しじんノヴァーリス、フランス・ロマン主義しゅぎ詩人しじんジェラール・ド・ネルヴァル、アメリカ・ゴシック小説しょうせつエドガー・アラン・ポーとの語彙ごいうえ類似るいじ指摘してきする[22]。サン=ポル=ルーのイデーとは「破壊はかいされた原初げんしょ」であり、は「かみ姿すがた(フォルム)」である。したがって、「探究たんきゅうかみ探究たんきゅうにつながり、しめすことはかみしめすことであり」、詩人しじん役割やくわりはこの「かみ実現じつげん(レアリゼ)すること」であり、かみ創造そうぞうたいする「だい創造そうぞう」である[23]。サン=ポル=ルーのイデオレアリスムとはこの意味いみでの原初げんしょてきよしかみ全体ぜんたいぞう実現じつげん実在じつざいであり、さき演劇えんげきろんそくしてうなら、切子きりこめんうつるイマージュとしての人間にんげん内的ないてき自我じが諸相しょそうの「統合とうごう(サンテーズ)の統合とうごう」、「人間にんげんシンフォニー」である[23]。こうしたてんから、また、におけるディオニュソスてき隠喩いんゆから、サン=ポル=ルーはニーチェの『ツァラトゥストラ』の影響えいきょうにより生命せいめい主義しゅぎてき傾向けいこうふかめたという指摘してきもある[24]

サン=ポル=ルーはこうしたイデオレアリスムをイデオプラスティシー観念かんねん形象けいしょう)、五感ごかん理論りろん五感ごかんのすべてを表現ひょうげんし、すべてにうったえる演劇えんげき)、「言葉ことば管弦楽かんげんがく編成へんせい」、マニフィシスム壮麗そうれい主義しゅぎ)といった概念がいねんによって説明せつめいする。マニフィック(壮麗そうれいな、見事みごとな)という言葉ことばはもともとサン=ポル=ルーの口癖くちぐせであったが、このために友人ゆうじんたちから「壮麗そうれいしゃサン=ポル=ルー」またはたんに「壮麗そうれいしゃ」とばれるようになり、これをかれ自身じしんが「イデオレアリスムを敢然かんぜん実践じっせんする詩人しじん」の意味いみもちい、マニフィシスムはイデオレアリスムとほぼ同義どうぎほぐされている[4]。また、実現じつげん実在じつざいされるまえのイデーは「えず流動りゅうどうするゆめみず」などにられる「みず」として、実現じつげん実在じつざいされたものは「こおり」としてしばしば表現ひょうげんされる。こおりけてみずになる。サン=ポル=ルーのイデオレアリスムは観念かんねん物質ぶっしつ霊肉れいにく二元論にげんろんではなく、「生成せいせい」であり「あいのめくるめき」であり、「ある絶対ぜったいてきひかり無知むちあるいは無意識むいしきからすこしずつはっして、ついには徐々じょじょみずからを確認かくにんするにいたひかり」である[25]

シュルレアリスムの先駆せんくしゃ[編集へんしゅう]

サン=ポル=ルーの詩論しろんおよびは、シュルリアリストによってさい評価ひょうかされ、ルイ・アラゴンは、1925ねん5がつ9にちづけヌーヴェル・リテレールフランス語ふらんすごばん掲載けいさい記事きじ宿命しゅくめい発端ほったん」で、こうしたサン=ポル=ルーを「宿命しゅくめい螺旋らせんにとらわれている」と表現ひょうげんした[26]どうごう掲載けいさいポール・エリュアール記事きじ人間にんげん完成かんせい」では、つぎのようにひょうされている。

サン=ポル=ルーほど歓喜かんきち、また力強ちからづよ流出りゅうしゅつする変幻へんげん自在じざいなイマージュや、まばゆいばかりのイデーや、永遠えいえん持続じぞくする驚異きょうい体験たいけんしたひとはいない。生命せいめいのありとあらゆる変容へんよう、それももっとおもいがけない変容へんようをこうむったたましい、みずからの精神せいしん尋常じんじょうならざる民衆みんしゅうなかちまじり、みずからのゆめ完璧かんぺき世界せかいなか全身全霊ぜんしんぜんれい没入ぼつにゅうすることをおそれなかった一人ひとり人間にんげんがここにいる[26][2]

1925ねん5がつ9にちづけ『ヌーヴェル・リテレール』では、サン=ポル=ルーを先駆せんくしゃあおぐシュルレアリストらがかれにオマージュをささげた。アラゴン、エリュアールのほか、ロジェ・ヴィトラックフランス語ふらんすごばんの「サン=ポル=ルーにささげるいのり」、ロベール・デスノスの「メデューズごういかだ」、ミシェル・レリスの「本物ほんものサン=ポル=ルーへのオマージュ」、バンジャマン・ペレの「サン=ポル=ルーの肖像しょうぞう」、マックス・モリーズフランス語ふらんすごばんの「ほしかがやほおおとこ」、そしてアンドレ・ブルトンの「イマージュの巨匠きょしょう」が掲載けいさいされた[26]。ブルトンはサン=ポル=ルーを「いわゆる現代げんだい唯一ゆいいつ正当せいとう先駆せんくしゃ」と位置いちづけ、立体りったい未来みらい、シュルレアリスムがすべてかれ影響えいきょうけていると主張しゅちょうする。また、すでに発表はっぴょうしたシュルレアリスム宣言せんげんにおいては、シュルレアリスムという言葉ことばわりに、サン=ポル=ルーのイデオレアリスムという言葉ことばもちいてもよかったとすらべている[2]

1909ねんごろのクロズリー・デ・リラ

1925ねん7がつ2にちにシュルレアリストらが(とくに20世紀せいき前半ぜんはんモンパルナス芸術げいじゅつ知識ちしきじんあつまるカフェとしてられていた)クロズリー・デ・リラ詩人しじんサン=ポル=ルーのための祝宴しゅくえんおこなった。サン=ポル=ルーはすでに64さいであった。このせきで、シュルレアリストらはポール・クローデル告発こくはつする公開こうかいじょう配布はいふ[27]、さらに、サン=ポル=ルーと同年代どうねんだいおっとアルフレッド・ヴァレットとともに『メルキュール・ド・フランス』を主宰しゅさいしていた作家さっかラシルドが、愛国心あいこくしんから「フランスじん女性じょせいがドイツじん男性だんせい結婚けっこんすることはけっしてないだろう」と発言はつげんした。これにたいして、ブルトンが憮然ぶぜんとした態度たいどで、(出席しゅっせきしゃ一人ひとりであるドイツじんの)「マックス・エルンスト失礼しつれいだ」と抗議こうぎ。「ドイツ万歳ばんざい」とさけごえがり、ミシェル・レリスが「フランス打倒だとうアブド・エル・クリム[28]万歳ばんざい」とさけんでまどからりるなど、だい混乱こんらんとなった[29][30][31]。サン=ポル=ルーはし、のちにこの事件じけん非難ひなんする「祝宴しゅくえんのアレゴリー」をき、シュルレアリストらと決別けつべつした。祝宴しゅくえん出席しゅっせきしなかったエリュアールにささげたこの文章ぶんしょう未完みかんである[26]

ブルターニュ隠棲いんせい[編集へんしゅう]

ペナドのはま(カマレ=シュル=メール)

1891ねん裁縫さいほうのアメリ=アンリエット・ベロルジェに出会であい、以後いご12年間ねんかんユニオン・リーブル関係かんけいのままよんをもうけた(アメリは1923ねん死去しきょ)。ベルギーに移住いじゅうしたのはだいいちクシリアンがまれた翌年よくねんのことであり、これは雑誌ざっし出版しゅっぱんなどによる債務さいむかさなったためとされる[32]。いったんパリにもどったが、まもなく、アパートをはらい、1898ねん7がつにブルターニュのさい西端せいたんクロゾン半島はんとうフランス語ふらんすごばんロスカンヴェルフィニステールけん)に藁葺わらぶ農家のうか購入こうにゅうして、1903ねんまでこのらした。1898ねんにはだいよん一人娘ひとりむすめのディヴィーヌがまれた。「ディヴィーヌの藁葺わらぶ農家のうか」と名付なづけたこのいえ手狭てぜまになり、ロスカンヴェルからみなみへ8キロほどのところにあるカマレ=シュル=メールうつみ、ペナドのはま見下みおろす高台たかだいにある漁師りょうしいえ購入こうにゅうし、異国いこくふうかん改装かいそうした。当初とうしょはブールトゥーてい名付なづけられたが、長男ちょうなんクシリアンがヴォクワフランス語ふらんすごばんムーズけん)の前線ぜんせん戦死せんしすると、クシリアンてい改名かいめいした。サン=ポル=ルーはこのかんおおくの作家さっか芸術げいじゅつむかれた。1923ねん9がつにはブルトンがおとずれ、エルンストとジャン・ムーラン常連じょうれんであった。

サン=ポル=ルーのクシリアンてい廃墟はいきょ

1940ねん6がつ23にちよる、ドイツへいかんしのみ、サン=ポル=ルーをなぐたおしたのち家政かせいローズを殺害さつがいし、むすめディヴィーヌに暴行ぼうこうくわえた。数日すうじつふたたびナチスが侵入しんにゅうし、家中かちゅうらしまわり、発表はっぴょう原稿げんこうだい部分ぶぶんやぶり、はらった。これはサン=ポル=ルーが1933ねん執筆しっぴつした記事きじ「キリストの嘆願たんがん」でナチス・ドイツのはんユダヤ主義しゅぎ批判ひはんしたことと関係かんけいがあるのではないかとかんがえられている[33]。この記事きじユダヤけいドイツじんアルベルト・アインシュタインささげられたものであり、1933ねんヒトラー内閣ないかく成立せいりつし、アインシュタインが亡命ぼうめいしたとしである。サン=ポル=ルーは事件じけんの4かげつの1940ねん10がつ18にちに、失意しついのうちにブレスト病院びょういん死去しきょした[34]享年きょうねん79さい

ドイツぐんはクシリアンてい没収ぼっしゅう占領せんりょうしたため、1944ねん連合れんごうぐんによって空爆くうばくされた。現在げんざいとう一部いちぶのこるのみで廃墟はいきょとなっている。サン=ポル=ルーともかい現在げんざい、クシリアンてい再建さいけんのために署名しょめい活動かつどうおこなっている[33]

オマージュ[編集へんしゅう]

ナチス・ドイツ占領せんりょう地下ちか出版しゅっぱん深夜しんや叢書そうしょ創刊そうかんしたヴェルコールは、だい1かん自著じちょうみ沈黙ちんもく』を「殺害さつがいされた詩人しじんサン=ポル=ルー」にささげた[35]。エリュアールは、たいどくレジスタンスに参加さんかして銃殺じゅうさつけいしょされたジャック・ドクールフランス語ふらんすごばんガルシア・ロルカ、そしてサン=ポル=ルーにささげる「批評ひひょう (II)」に「ガルシア・ロルカはころされた・・・サン・ポル・ルーはころされた、かれむすめみにじられた・・・ドクールはころされた」といている[36]。アラゴンは1945ねん発表はっぴょうした『サン=ポル=ルーまたは希望きぼう』で1940ねん6がつ23にちよる事件じけんからかれまでをえがき、ブルトンはサン=ポル=ルーにちょう「ファタ・モルガーナ(蜃気楼しんきろう)」をささげた。マックス=ポル・フーシェフランス語ふらんすごばんは、1942ねんかれ創刊そうかんした『フォンテーヌフランス語ふらんすごばん(いずみ)』で、「壮麗そうれいしゃ(サン=ポル=ルー)の殺害さつがい」の特集とくしゅうみ、トリスタン・ツァラは、『エトワール・ドュ・カルシ』の1945ねん2がつごうに「サン=ポル=ルー」とだいする記事きじ掲載けいさいした[35]

サン=ポル=ルーは、すでにブルターニュに隠棲いんせいしたころからわすれられた作家さっかであったが、2009ねんにレンヌ大学だいがくシンポジウムおこなわれ、論集ろんしゅう『サン=ポル=ルー ― 2つの世界せかいわたもり』が2011ねん刊行かんこうされた(所収しょしゅう論文ろんぶんはすべてオンラインで閲覧えつらん可能かのう)。2013ねんにはやく1,000ページのモノグラフひかりくら象徴しょうちょう ― サン=ポル=ルーのにおける神秘しんぴ』が出版しゅっぱんされた。サン=ポル=ルーともかいは2017ねんから紀要きよう刊行かんこうし、公式こうしきウェブサイトにおおくの資料しりょう掲載けいさいしている。

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

邦訳ほうやくは『世界せかい詩人しじん全集ぜんしゅうだい4かん』(河出かわで書房しょぼう、1954ねん所収しょしゅう「フランス詩篇しへん」の「サン・ポル・ルー」のみ。『ヴァレリー全集ぜんしゅう まき』(筑摩書房ちくましょぼう、1971ねん) に「『サン=ポル=ルーのはか』にせて」(松室まつむろ三郎さぶろうわけ) 所収しょしゅう

邦題ほうだいかり 原題げんだい 出版しゅっぱんしゃ印刷所いんさつしょ とし 解説かいせつ
筆名ひつめいサン=ポール・ド・ルー》
巡礼じゅんれいしゃラファエロ Raphaëlo le pèlerin Imprimerie de H. Olivier et C. Devilliers, Paris 1879 戯曲ぎきょく
巡礼じゅんれいしゃラファエロ Raphaëlo le pèlerin Librairie Pinet (Marseille), Librairie Josserand (Lyon) 1880 戯曲ぎきょく+プロローグ
筆名ひつめいポール・ルー》
ママン! Maman ! Ollendorff 1883 韻文いんぶん
新郎しんろう付添つきそいじん! Garçon d'honneur ! Ollendorff 1883 韻文いんぶん
詩人しじん! Le Poète ! Auguste Ghio 1883 詩劇しげき
奇妙きみょう Un drôle de mort Auguste Ghio 1884 戯曲ぎきょく寸劇すんげき
公爵こうしゃく夫人ふじんゆめ Rêve de duchesse Auguste Ghio 1884 物語ものがたり
農家のうか La Ferme Auguste Ghio 1886 戯曲ぎきょく
ラザロ Lazare Presses d’Alcan-Lévy 1886 韻文いんぶん
筆名ひつめいサン=ポール=ルー》
サバルカザンまたは魔法使まほうつかいの懲罰ちょうばつ Sabalkazin ou la punition du sorcier 歌劇かげき(2015ねん10がつにサン=ポル=ルーともかい紀要きようはつ掲載けいさい
贖罪しょくざい山羊やぎ Bouc émissaire Imprimerie de la Vie Moderne 1889
筆名ひつめいサン=ポル=ルー》
しろ修道院しゅうどういんちょうくろたましい L'âme noire du prieur blanc Mercure de France 1893 戯曲ぎきょく
聖体せいたい行列ぎょうれつかり祭壇さいだん Les Reposoirs de la procession Mercure de France 1893 散文詩さんぶんししゅう
人生じんせい時期じきのエピローグ L'Épilogue des saisons humaines Mercure de France 1893 戯曲ぎきょく
筆名ひつめいダニエル・ハーコランド》
個人こじんからなる登場とうじょう人物じんぶつたち(個人こじんなか多数たすう人物じんぶつたち) Les personnages de l’individu, monodrame L. Sauvaitre 1894 モノドラマ、「アーサー=トーマス・シェフィールド(架空かくう人物じんぶつ)により英語えいごから翻訳ほんやく
筆名ひつめいサン=ポル=ルー》
かまをもつ貴婦人きふじん La Dame à la faulx Mercure de France 1899 戯曲ぎきょく
聖体せいたい行列ぎょうれつかり祭壇さいだんだい1かんみち薔薇ばらとげ Les Reposoirs de la procession I : La Rose et les épines du chemin Mercure de France 1901 散文詩さんぶんししゅう
ふるきもの Anciennetés Mercure de France 1903 散文詩さんぶんししゅう
聖体せいたい行列ぎょうれつかり祭壇さいだんだい2かん孔雀くじゃくとおってばとからからすまで Les Reposoirs de la procession II : De la colombe au corbeau par le paon Mercure de France 1904 散文詩さんぶんししゅう
聖体せいたい行列ぎょうれつかり祭壇さいだんだい3かんうちなる妖精ようせいきょう Les Reposoirs de la procession III : Les Féeries intérieures Mercure de France 1907 散文詩さんぶんししゅう
カマレの最年長さいねんちょうしゃロザリー・ドルソ女史じょし弔辞ちょうじ Oraison funèbre de Madame Rosalie Dorso, doyenne de Camaret Imprimerie de A. Corcuff 1909 しょう冊子さっし
不死ふしのフランス La France immortelle Société anonyme de l’Union républicaine du Finistère 1914-1915 サン=ポル=ルーが創刊そうかんした週刊しゅうかん新聞しんぶん。ブレストで印刷いんさつ経営けいえいなんのため廃刊はいかん
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく兵士へいしへのオマージュ “God bless you, my boys !” (homage to the warriors of the United States of America) Imprimerie de la “Dépêche de Brest” 1919 英訳えいやく
カマレ=シュル=メールのしょう教区きょうく教会きょうかいのために Pour l’église paroissiale de Camaret-sur-mer 1926 しょう冊子さっし
ジャン・クラのはか Le tombeau de Jean Cras Imprimerie de la “Dépêche de Brest” 1932 しょう冊子さっし
遠出とおで La Randonnée 1932 雑誌ざっし掲載けいさい記事きじ
ひつじいの La Mort du berger André Broulet 1938
キリストの嘆願たんがん La supplique du Christ René Debresse 1939 アルベルト・アインシュタインささげる記事きじ
タイの船頭せんどうからカマレのきゃくへのびかけ Appel des canotiers du taï aux hôtes de Camaret Société centrale de sauvetage des naufragés 1939
没後ぼつご出版しゅっぱん
ブルターニュは宇宙うちゅう Bretagne est Univers André Broulet 1941 詩集ししゅうマチュラン・メウフランス語ふらんすごばん挿絵さしえ
サン=ポル=ルー詞華集しかしゅう Florilège Saint-Pol-Roux L'Amitié par le Livre 1943 詩集ししゅう、マチュラン・メウ挿絵さしえ
あたらしい詩人しじんのために « À l'usage des Poètes Nouveaux » Gallimard, Collection Blanche 1945 アンドレ・ロラン・ド・ルネヴィルフランス語ふらんすごばんちょ言葉ことば宇宙うちゅう (Univers de la parole)』所収しょしゅう
ふるきもの、聖体せいたい行列ぎょうれつかり祭壇さいだんからの選集せんしゅう Anciennetés suivi d’un choix des Reposoirs de la procession Seuil 1946 詩集ししゅう、ポール・エリュアール序言じょげん、アンドレ・ロラン・ド・ルネヴィル序文じょぶん
おびただしい帽子ぼうしこうむった老女ろうじょ L'Ancienne à la coiffe innombrable Éditions du Fleuve 1946
8がつ Août Louis Broder 1958 詩集ししゅうジョルジュ・ブラック挿絵さしえ
サン=ポル=ルー傑作けっさくしゅう Saint-Pol-Roux Mercure de France, Collection « Les plus belles pages » 1966 詩集ししゅうアラン・ジュフロワフランス語ふらんすごばんへん
人間にんげんたから Le Trésor de l'homme Éditions Rougerie 1970 詩集ししゅうアンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ序文じょぶんジェラール・マセフランス語ふらんすごばんちょ粉々こなごなになったサン=ポル=ルーの作品さくひん所収しょしゅう
レポエティック La Répoétique Éditions Rougerie 1971 詩集ししゅう、レイモン・ダテイユ序文じょぶん、ジェラール・マセちょしん世界せかい所収しょしゅう。「レポエティック」は詩的してき言語げんごちた現実げんじつ(レアリテ)」の[37]
きているシネマ Cinéma vivant Éditions Rougerie 1972 詩集ししゅう、ジェラール・マセちょ太陽たいよう帝国ていこく所収しょしゅう
速度そくど Vitesse Éditions Rougerie 1973 断章だんしょうしゅう、ジェラール・マセちょわりなき定義ていぎ所収しょしゅう
未来みらい伝統でんとう Les Traditions de l'avenir Éditions Rougerie 1974
サン=ポル=ルー、ヴィクトル・セガレン往復おうふく書簡しょかん Saint-Pol-Roux - Victor Segalen, Correspondance Éditions Rougerie 1975 ヴィクトル・セガレンのむすめアニー・ジョリ=セガレン序文じょぶん
戦争せんそう変容へんよう La Transfiguration de la guerre Éditions Rougerie 1976 エジソンウッドロウ・ウィルソンかく英国えいこく初代しょだい海軍かいぐん大臣だいじんへの手紙てがみ所収しょしゅう
起源きげん Genèses Éditions Rougerie 1976
遠出とおで La Randonnée Éditions Rougerie 1977
壮麗そうれい芸術げいじゅつについて De l’Art Magnifique Éditions Rougerie 1978 応答おうとう」、「人間にんげんせい剥奪はくだつしょう協定きょうてい所収しょしゅう
かまをもつ貴婦人きふじん La Dame à la faulx Éditions Rougerie 1979 戯曲ぎきょく上演じょうえんのために執筆しっぴつされたもの。イヴ・サンドル序文じょぶん、「ジャック・ルーシェへの手紙てがみ所収しょしゅう
聖体せいたい行列ぎょうれつかり祭壇さいだんだい1かんみち薔薇ばらとげ Les Reposoirs de la procession I : La Rose et les épines du chemin Éditions Rougerie 1980 散文詩さんぶんししゅう、ジェラール・マセ序文じょぶん
聖体せいたい行列ぎょうれつかり祭壇さいだんだい2かん孔雀くじゃくとおってばとからからすまで Les Reposoirs de la procession II : De la colombe au corbeau par le paon Éditions Rougerie 1980 散文詩さんぶんししゅう
聖体せいたい行列ぎょうれつかり祭壇さいだんだい3かんないなる妖精ようせいきょう Les Reposoirs de la procession III : Les Féeries intérieures Éditions Rougerie 1981 散文詩さんぶんししゅうミシェル・デコーダンフランス語ふらんすごばん後書あとが
人間にんげん存在そんざい内在ないざいする悲劇ひげきせいだい1かん) - モノドラムしゅう演劇えんげきろん個人こじんからなる登場とうじょう人物じんぶつたち、人生じんせい時期じき、トリスタン人生じんせい Le Tragique dans l’homme I : Monodrames (dramaturgie - Les personnages de l’individu - Les saisons humaines - Tristan la Vie) Éditions Rougerie 1983 戯曲ぎきょくしゅう
人間にんげん存在そんざい内在ないざいする悲劇ひげきせいだい2かん) - モノドラムしゅうしろ修道院しゅうどういんちょうくろたましい見下みさてたやつ Le Tragique dans l’homme II : Monodrames (L’âme noire du prieur blanc - Le Fumier) Éditions Rougerie 1984 戯曲ぎきょくしゅうジャック・ゴルマフランス語ふらんすごばん後書あとが
銘板めいばん (1885-1895) - 散文さんぶん Tablettes (1885-1895). Vers et Prose Éditions Rougerie 1986 ジャック・ゴルマ、アリステール・ヴィットへん、ジャック・ゴルマ序文じょぶん
イデオリアリテ (1895-1914) - 散文さんぶん Idéoréalités (1895-1914). Vers et Prose Éditions Rougerie 1987 ジャック・ゴルマ、アリステール・ヴィットへん、ジャック・ゴルマ序文じょぶん
賛美さんび (1914-1930) - 散文さんぶん Glorifications (1914-1930). Vers et Prose Éditions Rougerie 1992 ジャック・ゴルマ、アリステール・ヴィットへん、ジャック・ゴルマ序文じょぶん
葡萄ぶどう収穫しゅうかく Vendanges Éditions Rougerie 1993 イヴ・サンドルへん、ジャック・ゴルマ、アリステール・ヴィット序文じょぶん
オクターヴ・ミルボーへの手紙てがみ Lettres à Octave Mirbeau À l’Écart 1994 ピエール・ミシェルフランス語ふらんすごばんへん限定げんていばん
ふるきもの Anciennetés Plein Chant 1995 原著げんちょファクシミリ、100限定げんてい
みち薔薇ばらとげ - 聖体せいたい行列ぎょうれつかり祭壇さいだんだい1かん La Rose et les épines du chemin (Les Reposoirs de la procession I) nrf, coll. “Poésie/Gallimard” 1997 散文詩さんぶんししゅう、ジャック・ゴルマ序文じょぶん
隠者いんじゃ頭陀袋ずだぶくろ La besace du solitaire Éditions Rougerie 2005 詩集ししゅう、ジャック・ゴルマ、アリステール・ヴィットへん、ルネ・ルージュリーちょ悲痛ひつう希望きぼう所収しょしゅう
手紙てがみ Lettres Éditions Fata Morgana 2008 、クリスティアン・カルデール挿絵さしえ、30限定げんてい画家がか作品さくひんしゅうとして)
だいがらすかご La volière Éditions Fata Morgana 2008 、アン・ウォーカー挿絵さしえ、18限定げんてい画家がか作品さくひんしゅうとして)
うみれんいのり Litanies de la mer Éditions Rougerie 2010 詩集ししゅう、ルネ・ルージュリーちょ言葉ことばだい聖堂せいどうのために」所収しょしゅう
蜥蜴とかげ礼拝れいはいどう La chapelle aux lézards Éditions Fata Morgana 2010 ロイック・ル・グルーメレックフランス語ふらんすごばん挿絵さしえ、30限定げんてい画家がか作品さくひんしゅうとして)
サバルカザンまたは魔法使まほうつかいの懲罰ちょうばつ Sabalkazin ou la punition du sorcier Bulletin des Amis de Saint-Pol-Roux 2015 3まく5じょう歌劇かげき

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c Chronologie I : 1861-1885” (フランス語ふらんすご). Société des amis de Saint-Pol-Roux. 2019ねん9がつ17にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d 内田うちだひろし 1969.
  3. ^ Reynaud, Georges (2016-09-23). “Les années de formation de Saint-Pol-Roux (1861-1882). Expériences vécues et magnifiées”. In Le Han, Marie-Josette. Saint-Pol-Roux : Passeur entre deux mondes. Rennes: Presses universitaires de Rennes. pp. 23-35. ISBN 9782753547285. http://books.openedition.org/pur/38175 
  4. ^ a b c 内田うちだひろし 1971.
  5. ^ アンリ・ラヴダン”. コトバンク. 2019ねん9がつ17にち閲覧えつらん
  6. ^ サン=ポル=ルーのは、そのほとんどに献辞けんじ日付ひづけがある。
  7. ^ 内田うちだひろし 1968.
  8. ^ 金澤かなざわ忠信ただのぶキヤールとアルメニア」『香川大学かがわだいがく経済けいざい論叢ろんそうだい87かんだい1・2ごう香川大学かがわだいがく経済けいざい学会がっかい、2014ねん9がつ、43-56ぺーじISSN 0389-3030 
  9. ^ ジャン・リシュパン:俗語ぞくごもちいて下層かそう生活せいかつえがいた詩集ししゅう浮浪ふろうじんうた』でられるアルジェリアまれの異端いたん詩人しじんで、1908ねんアカデミー・フランセーズ会員かいいん選出せんしゅつされた(コトバンク)。
  10. ^ ラシルド”. コトバンク. 2019ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  11. ^ Mercure de France : série moderne / directeur Alfred Vallette” (フランス語ふらんすご). BnF Gallica. 2019ねん9がつ17にち閲覧えつらん
  12. ^ Théophile Briant (1989) (フランス語ふらんすご). Saint-Pol-Roux. Poètes d'aujourd'hui. Éditions Seghers. p. 230 
  13. ^ Besnier, Patrick (2016-09-23). “L’univers sonore de Saint-Pol-Roux”. In Le Han, Marie-Josette (フランス語ふらんすご). Saint-Pol-Roux : Passeur entre deux mondes. Rennes: Presses universitaires de Rennes. pp. 109-120. ISBN 9782753547285. http://books.openedition.org/pur/38187 
  14. ^ Chronologie IV : 1900-1905” (フランス語ふらんすご). Société des amis de Saint-Pol-Roux. 2019ねん9がつ17にち閲覧えつらん
  15. ^ ポール フォール”. コトバンク. 2019ねん9がつ17にち閲覧えつらん
  16. ^ 制作せいさく”. コトバンク. 2019ねん9がつ17にち閲覧えつらん
  17. ^ Notice bibliographique” (フランス語ふらんすご). Bnf. 2019ねん9がつ17にち閲覧えつらん
  18. ^ 中筋なかすじとも 2016.
  19. ^ Chronologie VI : 1911-1914” (フランス語ふらんすご). Société des amis de Saint-Pol-Roux. 2019ねん9がつ17にち閲覧えつらん
  20. ^ エフレイノフ”. コトバンク. 2019ねん9がつ17にち閲覧えつらん
  21. ^ 邦訳ほうやく仮面かめんしょ及川おいかわしげるわけ国書刊行会こくしょかんこうかい(フランス世紀せいきまつ文学ぶんがく叢書そうしょ)1984ねん
  22. ^ André Rolland de Renéville (1945) (フランス語ふらんすご). Univers de la parole. Collection Blanche. Gallimard 
  23. ^ a b Jules Huret (1891). “M. Saint-Pol-Roux-le-Magnifique” (フランス語ふらんすご). Enquête sur l’évolution littéraire. Bibliothèque-Charpentier. pp. 142-163. https://fr.wikisource.org/wiki/Enqu%C3%AAte_sur_l%E2%80%99%C3%A9volution_litt%C3%A9raire/Symbolistes_et_D%C3%A9cadents/M._Saint-Pol-Roux-le-Magnifique 
  24. ^ 1972.
  25. ^ 散文詩さんぶんしにじ」『聖体せいたい行列ぎょうれつかり祭壇さいだんだい1かん所収しょしゅう
  26. ^ a b c d Lugan, Mikaël (2016-09-23). “Le Magnifique et les surréalistes : un malentendu poétique ?”. In Le Han, Marie-Josette (フランス語ふらんすご). Saint-Pol-Roux : Passeur entre deux mondes. Rennes: Presses universitaires de Rennes. pp. 167-186. ISBN 9782753547285. http://books.openedition.org/pur/38193 
  27. ^ これは、ポール・クローデルが『コメディアフランス語ふらんすごばん質問しつもんこたえて、「シュルレアリストの文学ぶんがく活動かつどうしん意味いみでの創造そうぞうをもたらすものではなく、〈男色なんしょくてき意味いみしかもたない〉」と批判ひはんしたことにたいする告発こくはつである。山路やまじあきらドリュ・ラ・ロシェルとその20年代ねんだい」『明治大学めいじだいがく教養きょうよう論集ろんしゅうだい145かん、1981ねん1がつ31にち、4ぺーじ参照さんしょう
  28. ^ リーフ戦争せんそうでフランスが1925ねん7がつ宣戦せんせん布告ふこくしたリーフ共和きょうわこく大統領だいとうりょう
  29. ^ Philippe Sollers (2013ねん6がつ8にち). “Quand les surréalistes criaient : "A bas la France !"” (フランス語ふらんすご). L'Obs. 2019ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  30. ^ ミシェル・ヴィノック しる塚原つかはらふみ立花たちばな英裕ひでひろ築山つきやま和也かずや久保くぼ昭博あきひろ やく知識ちしきじん時代じだい ― バレス/ジッド/サルトル』紀伊國屋きのくにや書店しょてん、2007ねん 
  31. ^ たにあきらおや驚異きょうい」の概念がいねんをめぐって ― ブルトンからレリスへの架橋かきょう」『人文じんぶん論集ろんしゅうだい54かん早稲田大学わせだだいがくほう学会がっかい、2016ねん2がつ20日はつか、19-37ぺーじISSN 0441-4225 
  32. ^ Chronologie II : 1886-1893” (フランス語ふらんすご). Société des amis de Saint-Pol-Roux. 2019ねん9がつ17にち閲覧えつらん
  33. ^ a b Société des Amis de Saint-Pol-Roux. “Sauvons les ruines du Manoir de Cœcilian, demeure de Saint-Pol-Roux !” (フランス語ふらんすご). Change.org. 2019ねん9がつ17にち閲覧えつらん
  34. ^ Saint-Pol-Roux (1861-1940)” (フランス語ふらんすご). www.remydegourmont.org. 2019ねん9がつ17にち閲覧えつらん
  35. ^ a b Lugan, Mikaël (2016-07-12). Boisset, Emmanuel; Corno, Philippe. eds (フランス語ふらんすご). Que m'arrive-t-il ? : Littérature et événement. Rennes: Presses universitaires de Rennes. pp. 279-292. ISBN 9782753546332. http://books.openedition.org/pur/29818 
  36. ^ 大島おおしま博光ひろみつ『エリュアール』しん日本にっぽん新書しんしょ、1988ねん - 抜粋ばっすい英雄えいゆう殉難じゅんなんしゃ詩人しじんたちの名誉めいよ 3) 批評ひひょう (II)」(大島おおしま博光ひろみつ記念きねんかん公式こうしきウェブサイト)。
  37. ^ Le Han Marie-Josette (2004/1). “Saint-Pol-Roux (1861-1940). D'un liminaire à l'autre : fragments d'une poétique” (フランス語ふらんすご). Revue d'histoire littéraire de la France 104: 143-158. https://www.cairn.info/revue-d-histoire-litteraire-de-la-france-2004-1-page-143.htm. 

参考さんこう資料しりょう[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]