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ポール・エリュアール

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ポール・エリュアール
Paul Éluard
ポール・エリュアール(1945ねんごろ
ペンネーム モーリス・エルヴァン、ディディエ・デロッシュ、ジャン・デュ・オー、ブラン(おも地下ちか出版しゅっぱんで)
誕生たんじょう ウジェーヌ=エミーユ=ポール・グランデル
(1895-12-14) 1895ねん12月14にち
フランスの旗 フランスサン=ドニ (イル=ド=フランス地域ちいきけんセーヌ=サン=ドニけん)
死没しぼつ (1952-11-18) 1952ねん11月18にち(56さいぼつ
フランスの旗 フランスシャラントン=ル=ポン (イル=ド=フランス地域ちいきけんヴァル=ド=マルヌけん)
墓地ぼち ペール・ラシェーズ墓地ぼち
職業しょくぎょう 詩人しじん
文学ぶんがく活動かつどう ダダイスムシュルレアリスム
代表だいひょうさく自由じゆう」、「ゲルニカの勝利しょうり
苦悩くのう首都しゅと
原罪げんざい宿やどり』
自由じゆう
真実しんじつ
くるしみの武器ぶき
自然しぜんながフランス語ふらんすごばん』『平和へいわかお
配偶はいぐうしゃ ガラ・エリュアール・ダリ
ヌーシュ・エリュアールフランス語ふらんすごばん
ドミニク・ルモール
署名しょめい
公式こうしきサイト https://eluard.org/
ウィキポータル 文学ぶんがく
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ポール・エリュアールPaul Éluard1895ねん12月14にち - 1952ねん11月18にち)は、フランス詩人しじんブルトンアラゴンスーポーらとともにダダイスムシュルレアリスム牽引けんいん

ナチス・ドイツ占領せんりょう1942ねんに「わたしはまれてきた、きみをるために、きみの名前なまえぶために、自由じゆうと」とうたった自由じゆうフランス語ふらんすごばん」を発表はっぴょう英国えいこく空軍くうぐんからフランス全土ぜんどにばらかれ、絶望ぜつぼうおちいっていたフランス国民こくみんしん希望きぼうよみがえらせた。1943ねんにはレジスタンス詩人しじん22にんのアンソロジー『詩人しじんたちの名誉めいよフランス語ふらんすごばん』を編纂へんさんし、深夜しんや叢書そうしょから刊行かんこうゲルニカ爆撃ばくげき抗議こうぎするピカソの「ゲルニカ制作せいさくわせて「ゲルニカの勝利しょうり」を発表はっぴょうしたのをに、戦後せんご平和へいわ運動うんどう尽力じんりょく1951ねんばと女性じょせいかおかさねたピカソの石版せきばんにエリュアールがえた画集がしゅう平和へいわかお』が刊行かんこうされた。

背景はいけい

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ポール・エリュアールは1895ねん12月14にちパリ北郊ほっこうサン=ドニイル=ド=フランス地域ちいきけんセーヌ=サン=ドニけん)のジュール・ゲード大通おおどおフランス語ふらんすごばん46番地ばんち会計士かいけいしのクレマン=ウジェーヌ・グランデルと裁縫さいほうのジャンヌ=マリー・クーザンのウジェーヌ=エミーユ=ポール・グランデルとしてまれた[1]。「エリュアール」というせいは、かれが21さいのときに母方ははかた祖母そぼフェリシーの相続そうぞくじんとなったためである[2]ちちクレマン=ウジェーヌは社会しゃかい主義しゅぎもので、のち不動産ふどうさん会社かいしゃ設立せつりつした。エリュアールはサン=ドニ、いでオルネー=スー=ボワどうセーヌ=サン=ドニけん)の小学校しょうがっこうとおった。一家いっか1908ねんパリ10ルイ・ブランどおフランス語ふらんすごばんした。

ガラとの出会であ

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エリュアールはコルベール高等こうとう小学校しょうがっこう入学にゅうがくしたが、結核けっかくわずらい、1912ねん7がつ学業がくぎょう断念だんねんしてスイス療養りょうよう喀血かっけつこしたために滞在たいざい延長えんちょうし、1914ねん2がつまでダヴォスのクラヴァデル療養りょうようしょごした。ここでのち結婚けっこんするロシアまれのエレナ・イヴァノヴナ・ディアコノワに出会であった。教養きょうようゆたかで独立どくりつしんつよく、奔放ほんぽうなエレナにエリュアールはかれ、彼女かのじょガラガラ・エリュアール)とんだ[3]療養りょうようちゅうネルヴァルボードレールヴェルレーヌランボーロートレアモンアポリネールホイットマンなどをみ、詩作しさくはじめ、自費じひ出版しゅっぱんした[4]

1911ねんころのエリュアール

1914ねん8がつ、19さいのときにだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつ。12月に動員どういんされ、補助ほじょ部隊ぶたい配属はいぞくされた。まもなく、だい22衛生えいせい小隊しょうたいいで1916とし8がつから北部ほくぶソンムけんアルジクールフランス語ふらんすごばん野戦やせん病院びょういん転属てんぞくされた。ここで負傷ふしょうしゃくるしみと戦争せんそうおそろしさをたりにしたエリュアールは、厭戦えんせんかんから平和へいわ主義しゅぎ自由じゆう至上しじょう主義しゅぎ傾倒けいとうし、ミゲル・アルメレイダフランス語ふらんすごばん夭折ようせつ映画えいが監督かんとくジャン・ヴィゴちち)が編集へんしゅうちょうつとめる政府せいふ主義しゅぎ風刺ふうし新聞しんぶんボネ・ルージュフランス語ふらんすごばん』や『カナール・アンシェネ』(1915ねん創刊そうかん、フランス最古さいこ新聞しんぶん)をんだ。1916ねん12月に歩兵ほへいたいへの転属てんぞく希望きぼうだい95歩兵ほへい部隊ぶたい配属はいぞくされたが、病気びょうきのために入院にゅういん余儀よぎなくされた。退院たいいんふたた補助ほじょ部隊ぶたい配属はいぞくされ、終戦しゅうせんむかえた。このあいだ、1916ねん9がつにガラがわたりぼとけし、1917ねん2がつ21にち正式せいしき結婚けっこん1918ねん5がつ10日とおかむすめセシルがまれた[5][6][7]

エリュアールはすでに『だいいち詩集ししゅう』と(はじめて「ポール・エリュアール」の筆名ひつめい[8])『義務ぎむ』を自費じひ出版しゅっぱんしていたが、1917ねん友人ゆうじんのアリスティード=ジュール・ゴノンが経営けいえいする出版しゅっぱんしゃからアンドレ・デリニエールフランス語ふらんすごばん木版もくはんりの詩集ししゅう義務ぎむ不安ふあん』が刊行かんこうされた[9]よく18ねんには反戦はんせんしょう冊子さっし平和へいわのための詩編しへん』を印刷いんさつして多数たすう作家さっか郵送ゆうそうした[4]

ダダイスム

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プロヴェルブ創刊そうかん

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終戦しゅうせん直後ちょくごトリスタン・ツァラ、および1919ねん3がつにダダイスムの文芸ぶんげいリテラチュール (文学ぶんがく)』を創刊そうかんしたばかりのルイ・アラゴンアンドレ・ブルトンフィリップ・スーポー出会であい、ダダの運動うんどう参加さんかした。『リテラチュール』寄稿きこうするかたわら、みずから『プロヴェルブ (箴言しんげん)』創刊そうかん。1ねんほどの短命たんめい雑誌ざっしであったが、アラゴン、イサドラ・ダンカンジャン・アルプバンジャマン・ペレらが参加さんか[10]だい4ごう表紙ひょうしピカビアさくわかむすめ」とだいするあなけられるなど[11]、ダダイストの表現ひょうげんとなった。

ツァラ vs. ブルトン

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だが、1921ねんにははやくもトリスタン・ツァラとブルトンの対立たいりつあらわになり、のダダイストをんで相互そうごみぞふかめていった。同年どうねんはるに、かつてアナキスト耽美たんび主義しゅぎものとして青年せいねん知識ちしきじん深甚しんじん影響えいきょうあたえた文学ぶんがくしゃモーリス・バレス極右きょくうてき政治せいじ思想しそう傾倒けいとうしたことを批判ひはんして即興そっきょうげきバレス裁判さいばん」を上演じょうえんしたとき、ツァラは観客かんきゃくまえでブルトンをバレスみの卑劣ひれつかんあつかいをした(ピカビアはこの前日ぜんじつにダダからの離脱りだつ宣言せんげんしていた)。1922ねん1がつにブルトンが「現代げんだい精神せいしん綱領こうりょう決定けってい擁護ようごのための」パリ会議かいぎびかけたときにも、ツァラはこれを伝統でんとうへの回帰かいきだとして参加さんか拒否きょひした。ブルトンは立体りったい未来みらい、そしてダダを連続れんぞくてきながれとしてとらえ、これらを統合とうごうして、つぎあたらしい段階だんかいへと飛躍ひやくするための設定せっていしようとしていたのだが、先行せんこうするすべての文学ぶんがく運動うんどう完全かんぜん否定ひていし、まったくあたらしい独立どくりつした運動うんどうとしてダダをとらえていたツァラには、ブルトンの発想はっそう到底とうていれられるものではなく、結局けっきょく、この企画きかく実現じつげんなかった[12]

トリスタン・ツァラ(1932ねん
アンリ・マニュエルフランス語ふらんすごばんによるアンドレ・ブルトンの肖像しょうぞう写真しゃしん(1927ねん

さらに、ブルトンは1922ねん3がつ2にち日刊にっかんコメディアフランス語ふらんすごばん』に「ダダ以後いご」とだいする記事きじ発表はっぴょうし、「ダダは勇名ゆうめいせていた時期じきもあるにはあったが、あとにはほとんど哀惜あいせきじょうしかのこさなかった。つにつれて、その絶対ぜったい権力けんりょく専横せんおうとがダダをがたいものにしてしまったからである」と、ツァラを批判ひはんした。ツァラはこれにたいする応酬おうしゅうとして『ひげえた心臓しんぞう創刊そうかんした。これは創刊そうかんごうをもっておわりかんとなったが、ツァラとブルトンとの対立たいりつ際立きわだたせることになった。『ひげえた心臓しんぞう作品さくひん掲載けいさいしたツァラはペレ、スーポー、マルセル・デュシャンジョルジュ・リブモン=デセーニュフランス語ふらんすごばんエリック・サティビセンテ・ウイドブロフランス語ふらんすごばん、そしてエリュアールらであった[13]。だが、1923ねん7がつ6にちにミシェル劇場げきじょうおこなわれた「ひげえた心臓しんぞうゆうべ」はダダイスムの終焉しゅうえんげる事件じけんとなった。ツァラのほか、ブルトン、アラゴン、ペレ、ロベール・デスノス、エリュアールらが参加さんかしたこの企画きかくで、ダダイストのピエール・ド・マッソフランス語ふらんすごばんが「ジッドんだ、ピカソはんだ」と宣言せんげんぶんげたとき、友人ゆうじんのピカソを侮辱ぶじょくしたことにはらてたブルトンらが舞台ぶたいがってド・マッソになぐりかかり、警察けいさつさわぎになった。既成きせい秩序ちつじょ破壊はかいとなえるダダが、最後さいご秩序ちつじょ維持いじにあたる公権力こうけんりょくうったえたのは決定的けっていてきであり[14][15]、これまでツァラを支持しじしていたエリュアールも、「ひげえた心臓しんぞうゆうべ」事件じけんかれ決別けつべつした。ツァラとブルトン根本こんぽんてきちがいは、やがて、すべてを破壊はかいし、無意味むいみするダダイスムと、無意味むいみ無意識むいしき重視じゅうしし、そこにあたらしい表現ひょうげん見出みいだそうとするシュルレアリスムのちがいとしてあらわれることになる[16]

エルンストとの出会であ

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エリュアールはこのあいだにダダの詩集ししゅう動物どうぶつたちとかれらの人間にんげんたち、人間にんげんたちとかれらの動物どうぶつたち』、『生活せいかつ必需ひつじゅひんゆめ結果けっか』を発表はっぴょうした。1921ねんマックス・エルンスト出会であい、よく22ねん8がつかれ不法ふほう入国にゅうこくたすけて自宅じたくむか[11]、ガラとの3にん生活せいかつはじまった。エルンストは『リテラチュール』同人どうじんたちを中心ちゅうしん大作たいさく友人ゆうじんたちのあつまり』をえがき、1923ねんアンデパンダンてん出品しゅっぴんした。にはエルンスト自身じしんのほか、エリュアール、アラゴン、ブルトン、スーポー、デスノス、ペレ、ジョルジョ・デ・キリコ、ジャン・アルプ、ジャン・ポーランルネ・クルヴェル、ガラ、そしてラファエロドストエフスキーえがかれている[17][18]

シュルレアリスム

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シュルレアリスム革命かくめい

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よく22ねんにエルンスト()とエリュアール()の共著きょうちょ死者ししゃ不幸ふこう』が刊行かんこうされた(二人ふたりはこののち1925ねんにもガラにささげる『沈黙ちんもく欠如けつじょに』を発表はっぴょう。エルンストは匿名とくめいでガラの多数たすう掲載けいさいしている)。だが、このとき、エリュアールはガラとの関係かんけいにおいて精神せいしんてき危機ききおちいり、1924ねん3がつ失踪しっそうげた。7かげつかけてオセアニアたびし、10月に帰国きこく。ブルトンにささげる詩集ししゅうなずにぬこと』を発表はっぴょうした。1924ねんは、パリ7グルネルどおフランス語ふらんすごばんにシュルレアリスム研究所けんきゅうじょ設立せつりつされ、シュルレアリスム宣言せんげん発表はっぴょうされたとしである。とりわけ、アナトール・フランス死去しきょしたときに共同きょうどう執筆しっぴつしたしょう冊子さっし死骸しがい』は、この権威けんいてき存在そんざいほうむり、えようとする最初さいしょ象徴しょうちょうてき行為こういであり、一大いちだいスキャンダルをこした[19]。エリュアールはこのしょう冊子さっしに「ありきたりの老人ろうじん」とだいする文章ぶんしょう掲載けいさいした。このほか、ブルトンの「埋葬まいそう拒否きょひ」、アラゴンの「すでに死者ししゃなぐたおしたか」、スーポーの「あいだちがい」、(のちたいどく協力きょうりょく転向てんこうすることになる)ピエール・ドリュ・ラ・ロシェルの「われわれはだまされない」などが掲載けいさいされた[20]

1924ねん12月1にち文芸ぶんげいシュルレアリスム革命かくめい』が創刊そうかんされ、エリュアールはアラゴン、ペレ、デスノスらとともに「シュルレアリスム作品さくひん」として掲載けいさいした。マン・レイ写真しゃしん、デ・キリコ、エルンスト、ピカソ、アンドレ・マッソンらの多数たすう掲載けいさいされた。表紙ひょうしには参加さんかしゃ全員ぜんいん写真しゃしんしたに「新人しんじんけん宣言せんげんとなるべきである」とかれている[21]出版しゅっぱんしゃはガリマール図書としょガリマール出版しゅっぱんしゃ前身ぜんしん)で、最初さいしょの4ごうはペレとピエール・ナヴィル編集へんしゅう以後いごはアラゴンが中心ちゅうしんとなって1929ねんまで5ねんにわたって自動じどう記述きじゅつ睡眠すいみん実験じっけんデペイズマンコラージュ無意識むいしきゆめ偶然ぐうぜん不条理ふじょうりなどシュルレアリスムの重要じゅうようなテーマをすべてげ、運動うんどうもっと重要じゅうよう雑誌ざっしひとつとなった[22]

共産きょうさん主義しゅぎへの傾倒けいとう

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クロズリー・デ・リラ(1909ねん

1925ねん7がつ2にちにシュルレアリストらが(とくに20世紀せいき前半ぜんはんにモンパルナスの芸術げいじゅつ知識ちしきじんあつまるカフェとしてられていた)クロズリー・デ・リラ詩人しじんサン=ポル=ルーのための祝宴しゅくえんおこなった。サン=ポル=ルーはすでに64さいであったが、自動じどう記述きじゅつ手法しゅほうをいちはやれ、シュルレアリストに先達せんだつあおがれた詩人しじんである。また、のちにアラゴン、デスノス、ヴェルコールらとたいどく抵抗ていこう運動うんどう牽引けんいんしたことでもられる[23]。このせきで、サン=ポル=ルーと同年代どうねんだいデカダン女性じょせい作家さっかラシルドフランス語ふらんすごばん[24]が、愛国心あいこくしんから「フランスじん女性じょせいがドイツじん男性だんせい結婚けっこんすることはけっしてないだろう」と発言はつげんしたとき、ミシェル・レリスが「フランス打倒だとう、(リーフ共和きょうわこく大統領だいとうりょうの)アブド・エル・クリム万歳ばんざい」とさけんでまどからりたこともシュルレアリスムを象徴しょうちょうする逸話いつわとしてのこっている[25]実際じっさい、このころアンリ・バルビュスが1919ねん発表はっぴょうした『クラルテ』[26]契機けいきとして共産きょうさん主義しゅぎ知識ちしきじんらがこした国際こくさいてき反戦はんせん平和へいわ運動うんどう機関きかん『クラルテ』にシュルレアリストが参加さんかするようになり、とりわけ、リーフ戦争せんそうでフランスが1925ねん7がつにリーフ共和きょうわこく宣戦せんせん布告ふこくしてモロッコ侵攻しんこうすると、バルビュスの反戦はんせんびかけに賛同さんどうしたシュルレアリストと『クラルテ』共産きょうさん主義しゅぎしゃがリーフ戦争せんそう反対はんたい声明せいめい共同きょうどう署名しょめいし、これを「まず革命かくめいを、そしてつね革命かくめいを」とだいして共産党きょうさんとう機関きかんリュマニテ掲載けいさいした。これは、シュルレアリストらにとって文学ぶんがく芸術げいじゅつ革命かくめい社会しゃかい革命かくめいへつなげようとするこころみであり、以後いご、エリュアール、アラゴン、デスノス、レリスらが次々つぎつぎと『クラルテ』執筆しっぴつした。エリュアールは「革命かくめいてき知性ちせい・サド侯爵こうしゃく」というコラムを3かいにわたって掲載けいさいした[27][1]

1926ねんすえからよく27ねんにかけてエリュアール、アラゴン、ブルトン、ペレ、ピエール・ユニックフランス語ふらんすごばん共産党きょうさんとう入党にゅうとうした。5にんはシュルレアリストの入党にゅうとうかんする誤解ごかいくために、「白日はくじつしたに」とだいするしょう冊子さっし作成さくせいし、シュルレアリストは共産党きょうさんとうにおいて特殊とくしゅ役割やくわりになうことになると主張しゅちょうしたが、ぎゃく誤解ごかいまねくことになった[28]

ヌーシュとの出会であ

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かってみぎはしがヌーシュ、左端ひだりはしがエリュアール(パリ解放かいほうときにスペインの友人ゆうじんたちと)

1927ねんにシュルレアリスムの詩集ししゅう苦悩くのう首都しゅと[29]1929ねんにはガラにささげる『あい[30]発表はっぴょうした。一方いっぽう、ガラはエルンストとおおやけうようになっていたが、エリュアールがベルギーのシュルレアリスム作家さっかカミーユ・ゲーマンスフランス語ふらんすごばんかいしてった画家がかサルバドール・ダリうために、ガラとともに1929ねんカダケスおとずれたとき、彼女かのじょはダリにかれ、1934ねん正式せいしき結婚けっこんした。エリュアールもまた、1930ねんにアルザスまれの女優じょゆうマリア・ベンツ出会であった。彼女かのじょもまたドラ・マール、リー・ミラー、ヴァランティーヌ・ユーゴーフランス語ふらんすごばんらとともにシュルレアリストのミューズとされる[31]。エリュアールは彼女かのじょヌーシュヌーシュ・エリュアールフランス語ふらんすごばん)とび、4ねん結婚けっこん1946ねん彼女かのじょ急死きゅうしするまで16年間ねんかんどもきた。

1930ねんにエリュアールはブルトンとの共著きょうちょ原罪げんざい宿やどり』を発表はっぴょうした。これは、シュルレアリスムの自動じどう記述きじゅつつづったものであり、神経しんけい衰弱すいじゃく疑似ぎじしょう実験じっけん強烈きょうれつ偏執狂へんしゅうきょう疑似ぎじしょう実験じっけん全身ぜんしん麻酔ますい疑似ぎじしょう実験じっけん表現ひょうげん錯乱さくらん疑似ぎじしょう実験じっけんはやはつせい痴呆ちほうしょう疑似ぎじしょう実験じっけんなどの内容ないようふく[32]部数ぶすうは2,000あわせて豪華ごうかばん111刊行かんこうされた。表紙ひょうしにはダリによるエロティックな掲載けいさいされている。カトリックの「原罪げんざい宿やど」は、聖母せいぼマリアの「処女しょじょ懐胎かいたい」と区別くべつされ、マリアがははアンナ胎内たいない宿やどったときから原罪げんざいまぬかれていたとする教義きょうぎであり、表紙ひょうし原案げんあんでは、ルルドの聖母せいぼ写真しゃしん使用しようし、頭部とうぶ周囲しゅういに「わたし原罪げんざい宿やどりである」とかれていた。カトリックの教義きょうぎ科学かがくせい批判ひはんする本書ほんしょは、ダリの掲載けいさいすることで、その意図いと明確めいかくしめすことになった[11]

アラゴンとの決別けつべつ共産党きょうさんとう離党りとう

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一方いっぽう、このころから共産党きょうさんとう組織そしきする活動かつどうにも参加さんかした。1931ねんパリ12ヴァンセンヌのもりちかくのポルト・ドレみやフランス語ふらんすごばん植民しょくみん博覧はくらんかいフランス語ふらんすごばん開催かいさいされた。共産党きょうさんとうはこれに抗議こうぎし、エリュアール、ブルトン、アラゴン、ユニック、ペレらのシュルレアリストは「植民しょくみん博物館はくぶつかんってはいけない」とだいするビラを配布はいふした[33]。また、1930ねんハルキウ開催かいさいされた国際こくさい革命かくめい作家さっか同盟どうめい (UIER) の大会たいかいに、1932ねん3がつにUIERのフランス支部しぶ革命かくめい作家さっか芸術げいじゅつ協会きょうかい (AEAR)」が設立せつりつされ、エリュアール、アラゴン、ブルトン、デスノス、ペレ、ルネ・シャール、エルンストらのシュルレアリストのほか、ロバート・キャパ、バルビュス、アンドレ・ジッドロマン・ロランウジェーヌ・ダビフランス語ふらんすごばんジャン・ゲーノジャン・ジオノアンドレ・マルローポール・ニザンらが参加さんかした[34]同年どうねん8がつには、バルビュスとロマン・ロランがびかけ、アムステルダム開催かいさいされたはん帝国ていこく主義しゅぎ戦争せんそう国際こくさい会議かいぎ出席しゅっせきした。この会議かいぎ参加さんかした知識ちしきじんは、さらにパリのサル・プレイエル拠点きょてんとするはんファシズム労働ろうどうしゃ運動うんどう合流ごうりゅうし、1933ねん反戦はんせんはんファシズムアムステルダム=プレイエル運動うんどうフランス語ふらんすごばん結成けっせいした。このとき、エリュアール、ブルトン、シャール、ロジェ・カイヨワイヴ・タンギーアンドレ・ティリオンフランス語ふらんすごばんらシュルレアリストは「反戦はんせん平和へいわではない」とだいするパンフレット配布はいふし、ナチズム脅威きょういまえにしてもなお戦争せんそう拒否きょひする平和へいわ主義しゅぎしゃ批判ひはんすると同時どうじに、闘争とうそう革命かくめいによる平和へいわ獲得かくとくうったえた[4][35]

一方いっぽう、ハルキウ会議かいぎ社会しゃかい主義しゅぎリアリズムてんじたアラゴンにたいして、シュルレアリストらは『とんだ道化どうけだ(アラゴン事件じけん終焉しゅうえん)』を発表はっぴょうしてかれ決別けつべつした[36]。これは、アラゴンがソ連それん滞在たいざいちゅういたちょう赤色あかいろ戦線せんせんフランス語ふらんすごばん」が掲載けいさいされた国際こくさい革命かくめい作家さっか同盟どうめい機関きかん世界せかい革命かくめい文学ぶんがく』のフランス語ふらんすごばんがパリで押収おうしゅうされ、よく1932ねん1がつ16にちに「無政府むせいふ主義しゅぎ宣伝せんでんのために」、「軍隊ぐんたい服従ふくじゅううながし、殺人さつじん教唆きょうさした」として告発こくはつされた事件じけんであり、シュルレアリストらはさっそく「裁判さいばん目的もくてきとした作品さくひん解釈かいしゃくこころみに抗議こうぎし、訴訟そしょう中止ちゅうし要求ようきゅうする」という声明せいめい発表はっぴょうし、アラゴン告発こくはつ抗議こうぎする署名しょめい運動うんどう開始かいし。たちまち、フランスだけでなく、ベルギードイツチェコスロバキアユーゴスラビアなどの知識ちしきじんから300にん以上いじょう署名しょめいあつまった[37]。だが、シュルレアリストらにとってアラゴンを支持しじすることとかれたいする評価ひょうかべつ問題もんだいであり、ブルトンは『貧困ひんこん[38]発表はっぴょうして「赤色あかいろ戦線せんせん」は「あたらしいみちひらくものではなく」、「状況じょうきょう」であり、「における後退こうたい」であると断言だんげん[37]。これにたいして、革命かくめい作家さっか芸術げいじゅつ協会きょうかいはアラゴンを支持しじし、アラゴンは『リュマニテ』に『貧困ひんこん』の内容ないよう否認ひにんするとするかこ記事きじ掲載けいさいした[28]。『とんだ道化どうけだ』はこのけん決着けっちゃくをつけるためにかれたものであり、エリュアールのほか、シャール、クルヴェル、ダリ、エルンスト、ペレ、タンギー、ティリオン、ツァラらが寄稿きこうしている(ブルトンは参加さんかしていない)。なかでもエリュアールはさらに「証明しょうめいしょ」とだいする文書ぶんしょ発表はっぴょうし、「かれ(アラゴン)がなま弁証法べんしょうほうぶもののためにどれほどくだらない矛盾むじゅんおかしてきたかが、いまようやくわかった」、「アラゴンは別人べつじんになった。もはやかれのことをおもすこともない」と、もっと辛辣しんらつ批判ひはんげかけている[28][39]

だが、共産党きょうさんとうたいどくレジスタンス・グループ国民こくみん戦線せんせんフランス語ふらんすごばん幹事かんじちょうつとめた共産きょうさん党員とういんピエール・ヴィヨンフランス語ふらんすごばんのちに『わがとも、わが同志どうし』につぎのようにいている。

ある、わたしたち(ヴィヨンとポール・エリュアール)はむかしのこと、シュルレアリスム宣言せんげんころのことをはなしていた。ポールはシュルレアリスト・グループの分裂ぶんれつや、かれがアラゴンと意見いけんことにしたことをおもし、うしなわれた歳月さいげつにたいする悔恨かいこんいろをうかべてった。──「あのときただしかったのはルイ(・アラゴン)だ」(大島おおしま博光ひろみつわけ[40]

二人ふたりは10ねん再会さいかいして、とも文筆ぶんぴつ活動かつどうによるたいどく抵抗ていこう運動うんどう展開てんかいすることになる。

1933ねん7がつ、エリュアールは共産党きょうさんとう離党りとう。さらに、ブルトンが革命かくめい作家さっか芸術げいじゅつ協会きょうかい除名じょめいされたのをけて、エリュアールも脱会だっかいした。エリュアールは、アクション・フランセーズなどの右派うは極右きょくう勢力せいりょくがナチスによるドイツ制覇せいは連動れんどうして民衆みんしゅう扇動せんどうしてこした1934ねん2がつ6にち危機きき抗議こうぎする左派さはびかけに参加さんかした。これは人民戦線じんみんせんせん結成けっせいにつながる運動うんどうであり、1930年代ねんだいには左派さは知識ちしきじんによるはんファシズム団体だんたい複数ふくすう結成けっせいされたが、これらはおも共産党きょうさんとう主導しゅどうする団体だんたいであり、離党りとうのエリュアールはこれらの活動かつどうかかわっていない。実際じっさい1935ねん6がつにパリで開催かいさいされだい1かい文化ぶんか擁護ようご国際こくさい作家さっか会議かいぎフランス語ふらんすごばんでは、アラゴンがソ連それん代表だいひょうイリヤ・エレンブルグ協力きょうりょく事務じむきょくつとめ、ソ連それんからはエレンブルグのほかイサーク・バーベリ、ドイツからはハインリヒ・マンベルトルト・ブレヒトアンナ・ゼーガースオーストリアからローベルト・ムージル英国えいこくからオルダス・ハクスリーらが参加さんかしたが[41]、エレンブルグと対立たいりつしたブルトンがどう会議かいぎから追放ついほうされ、このことが間接かんせつてき原因げんいんとなって結核けっかくわずらっていたクルヴェルが自殺じさつするなどおおくの問題もんだいかさなった[42]。さらに、ブルトンのわりにかれ演説えんぜつ原稿げんこうげたエリュアールは、「ふつ相互そうご援助えんじょ条約じょうやくフランス語ふらんすごばん締結ていけつおよびふつ文化ぶんか協力きょうりょく反対はんたいした」と誤解ごかいされた。この結果けっかコミンテルンおよびスターリンソ連それん支持しじする共産きょうさん主義しゅぎしゃらとシュルレアリストらの決別けつべつ決定的けっていてきなものとなった[4]

ピカソとのともさく・ブルトンとの決別けつべつ

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1934ねんはじめにピカソてん一環いっかんとしてスペイン一連いちれん講演こうえんおこない、6がつにはロンドン開催かいさいされた国際こくさいシュルレアリスムてん講演こうえんスペイン内戦ないせん勃発ぼっぱつすると共和きょうわ人民戦線じんみんせんせん政府せいふ)を支持しじしてふたた共産党きょうさんとうちかづき、このため、同年どうねん9がつにブルトンが発表はっぴょうしたモスクワ裁判さいばん抗議こうぎする声明せいめいには署名しょめいしなかった。同年どうねん12がつには共産党きょうさんとう機関きかん『リュマニテ』にエリュアールの掲載けいさいされている[4]1938ねん3がつゲルニカ爆撃ばくげき抗議こうぎする「ゲルニカの勝利しょうり」をふく詩集ししゅう自然しぜんながれ』を発表はっぴょうした。「ゲルニカの勝利しょうり」はピカソの「ゲルニカ」制作せいさくわせてかれたであり、同年どうねん4がつ発表はっぴょうした連帯れんたい」にはピカソのほかおおくの画家がか挿絵さしえれ、スペイン共和きょうわ支援しえんのためのしょう冊子さっしとして販売はんばいされた。これ以後いご、『民衆みんしゅう薔薇ばら』から「ひとりの地平ちへいからまんにん地平ちへいへ」とエリュアールのたいするピカソの影響えいきょうはますますつよくなっていく[43]同年どうねん12がつにはルイ・パロフランス語ふらんすごばんとのともやくフェデリコ・ガルシーア・ロルカ「サルバドール・ダリ頌」を発表はっぴょうした。

一方いっぽう、ブルトンとは1938ねん1がつから2がつにかけてパリのボザール画廊がろう国際こくさいシュルレアリスムてん共催きょうさいしたが、ブルトンがレフ・トロツキー作成さくせいした独立どくりつ革命かくめい芸術げいじゅつ国際こくさい連盟れんめい結成けっせいけたマニフェストには署名しょめいしなかった。これをにん決別けつべつした[44]

だい大戦たいせん

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自由じゆう (Liberté)

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わたしまれてきた、きみをるために、きみの名前なまえぶために、自由じゆうと」- エリュアールがくなったシャラントン=ル=ポンにある銘板めいばん

1939ねん9月、だい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつ。エリュアールは陸軍りくぐん中尉ちゅういとしてミニエールフランス語ふらんすごばんロワレけん)の経理けいり配属はいぞくされたが、よく1940ねん6月22にちどくふつ休戦きゅうせん協定きょうてい締結ていけつサン=シュルピス=ラ=ポワントフランス語ふらんすごばん復員ふくいんし、パリにもどった。スペイン内戦ないせん共和きょうわ支持しじしたエリュアールは、ふたたび、今度こんど文筆ぶんぴつ活動かつどうによってナチスの言論げんろん思想しそう弾圧だんあつ抵抗ていこうする運動うんどう展開てんかいした。1942ねん詩人しじんマックス=ポル・フーシュフランス語ふらんすごばんがナチス・ドイツによる検閲けんえつのがれるためにアルジェ創刊そうかんした『フォンテーヌフランス語ふらんすごばん (いずみ)』にエリュアールのもっと有名ゆうめい自由じゆう」が掲載けいさいされた。「わたしまれてきた、きみをるために、きみの名前なまえぶために、自由じゆう」でむすばれるこのは、占領せんりょうぐんによる弾圧だんあつ恐怖きょうふによって絶望ぜつぼうおちいっていたフランス国民こくみんしん希望きぼうよみがえらせた。マキ英国えいこく空軍くうぐんからこのをフランス全土ぜんどにばらいた[45]

アラゴンとの再会さいかい - 地下ちか出版しゅっぱん

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エリュアールは「自由じゆう」をふく詩集ししゅう真実しんじつ』、『戦争せんそうちゅう恋愛れんあいななへん』をフォンテーヌ出版しゅっぱんしゃから偽名ぎめい刊行かんこうした。ピエール・セゲルスフランス語ふらんすごばんもまたエリュアールの『無意識むいしき意図いとした』を南部なんぶ自由じゆう地帯ちたい印刷いんさつし、配布はいふした。1942ねんにエリュアールはふたた共産党きょうさんとう入党にゅうとうし、どうとう主導しゅどう全国ぜんこく作家さっか委員いいんかいフランス語ふらんすごばん北部ほくぶ地帯ちたい結成けっせいするために、たいどく協力きょうりょく拒否きょひしている作家さっか詩人しじんたちと連絡れんらくり、その糾合きゅうごうつとめた。全国ぜんこく作家さっか委員いいんかいはすでにアラゴン、エルザ・トリオレ、ジャン・ポーランらによって南部なんぶ自由じゆう地帯ちたい結成けっせいされ、アラゴンが代表だいひょうつとめ、ジャン・カスークロード・アヴリーヌルイ=マルタン・ショフィエフランス語ふらんすごばんらが参加さんかしていた。当時とうじニース活動かつどうしていたアラゴンは、南部なんぶ地帯ちたい北部ほくぶ地帯ちたいにおける全国ぜんこく作家さっか委員いいんかい活動かつどう統一とういつ強化きょうかするために、1943ねんはじめにパリにてエリュアールとはなうことにした。偽造ぎぞう通行つうこうしょうってエルザとともにリヨンえきいたアラゴンを、エリュアールはヌーシュとともに出迎でむかえた。10ねんぶりの再会さいかいであった。アラゴンは、「人々ひとびとらすかぜは、1930年代ねんだい我々われわれあいだいた。この歴史れきし我々われわれ歴史れきしまらず(大文字おおもじきの)「歴史れきし」だった。我々われわれはなしたものは、ついに、永久えいきゅうに、ふたた我々われわれむすびつけたのだ」といている[46]

一方いっぽう当時とうじ挿絵さしえ画家がかであったジャン・ブリュレル(ヴェルコール)と作家さっかピエール・ド・レスキュールフランス語ふらんすごばん地下ちか出版しゅっぱんしゃ深夜しんや叢書そうしょ創設そうせつ。エリュアールはエディット・トマフランス語ふらんすごばんかいしてかれらにい、1943ねん抵抗ていこう詩人しじん22にんアンソロジー詩人しじんたちの名誉めいよフランス語ふらんすごばん』を編纂へんさんし、深夜しんや叢書そうしょから刊行かんこうした。アラゴン(筆名ひつめいジャック・デスタン)は「フランスの起床きしょうラッパ」、「責苦せめくのなかでうたったもののバラード」、「薔薇ばら木犀もくせいそう」などの掲載けいさいした。エリュアールは偽名ぎめいで「ナチのうた」、「てき素晴すばらしき正義せいぎ」、「勇気ゆうき」を掲載けいさいするほか、署名しょめいいた序文じょぶんで、つぎのようにうったえた。

アメリカ人民じんみん鼓舞こぶされたホイットマン武器ぶきれとびかけたユーゴーパリ・コミューンから霊感れいかんあたえられたランボー、みずからもふるち、ひとをもふるいたせたマヤコフスキー・・・広大こうだい見地けんちった詩人しじんたちは行動こうどうへとみちびかれたのだ・・・闘争とうそうこそが詩人しじんたちにちからあたえることができる(大島おおしま博光ひろみつやく[47]

1943ねん11月からよく44ねん2がつまで南仏なんふつロゼールけんサンタルバン=シュル=リマニョル精神せいしん病院びょういん医師いしリュシアン・ボナフェフランス語ふらんすごばんのもとにかくした。『詩人しじんたちの名誉めいよ』が民衆みんしゅう共感きょうかんび、たちまちすうはんかさねたため、ふたたびパリにて、5月にだい2ごう欧州おうしゅうへん」を刊行かんこうした。エリュアールは上記じょうきのほか、『くるしみの武器ぶき』、『ドイツぐん集合しゅうごうにて』などの詩集ししゅうをモーリス・エルヴァン、ジャン・デュ・オーの偽名ぎめい地下ちか出版しゅっぱんした。また、作曲さっきょくフランシス・プーランクは1943ねんにエリュアールのによるカンタータ人間にんげんかお」を作曲さっきょくした。

戦後せんご

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戦後せんごの2年間ねんかんはエリュアールがもっと精力せいりょくてき執筆しっぴつ活動かつどうおこなった時期じきであり、『ながあい反射はんしゃ』、『とだえざる』、『持続じぞくすることへのきびしいのぞみ』などの詩集ししゅう発表はっぴょうした。1946ねん1がつにはロマン・ロランらが1923ねん創刊そうかんした『ユーロープ (欧州おうしゅう)』編集へんしゅう委員いいんつとめるほか、チェコスロバキアイタリアミラノローマ)、ユーゴスラビアギリシャなどで講演こうえんおこなった。1946ねん11月28にち、ヌーシュが脳卒中のうそっちゅう急死きゅうし享年きょうねん40さい。エリュアールは絶望ぜつぼうおちいった。よく47ねんにヌーシュ追悼ついとう詩集ししゅうときあふれる』(筆名ひつめいディディエ・デロッシュ)および『記憶きおくすべき肉体にくたい』(筆名ひつめいブラン)を発表はっぴょうした。

1948ねん8がつポーランドヴロツワフ知識ちしきじん世界せかい平和へいわ会議かいぎ開催かいさいされ、エリュアールは、ピカソ、フェルナン・レジェイレーヌ・ジョリオ=キュリーとともに参加さんか世界せかい平和へいわ評議ひょうぎかい結成けっせいされ、ピカソのばと平和へいわ運動うんどう象徴しょうちょうとなった[48]よく49ねん4がつにパリで開催かいさいされた平和へいわ擁護ようご世界せかい大会たいかい世界せかい平和へいわ評議ひょうぎかい代表だいひょうとして参加さんかした。

ペール・ラシェーズ墓地ぼちのポール・エリュアールのはか

エリュアールは、1949ねん再度さいどギリシャをおとずれた。今回こんかいド・ゴール内閣ないかく食糧しょくりょうしょうつとめた平和へいわ評議ひょうぎかい議長ぎちょうイヴ・ファルジュフランス語ふらんすごばん[49]とともにマケドニア山岳さんがく地帯ちたい、グラモスさん根拠地こんきょちパルチザン英語えいごばん部隊ぶたい見舞みまうためであった[50]同年どうねん9がつ世界せかい平和へいわ評議ひょうぎかい代表だいひょうとしてメキシコで開催かいさいされた大会たいかい参加さんかし、ここで、最後さいご詩集ししゅう不死鳥ふしちょう』をささげることになるドミニク・ルモール出会であった。『不死鳥ふしちょう所収しょしゅうにエリュアールは、「人間にんげんうまれついている、たがいに共鳴きょうめいするように、たがいに理解りかいうように、あいうように・・・きみがやってきて孤独こどくやぶった」(大島おおしま博光ひろみつやく)といた[51]二人ふたり1951ねん結婚けっこんした。

1950ねんに『ワルシャワ・ゲットー殉難じゅんなんしゃ闘士とうしささげる』を発表はっぴょう。ドミニクとチェコスロバキア、ハンガリーブルガリアソ連それんおとずれ、ソ連それんではふつ協会きょうかい代表だいひょうとしてメーデー祭典さいてん参加さんかした。1951ねん10がつにピカソとの共著きょうちょ平和へいわかお』が刊行かんこうされた。ばと女性じょせいかおかさねたピカソの石版せきばん29さくのそれぞれにエリュアールがいた画集がしゅうである[52]

1952ねん2がつジュネーヴで「状況じょうきょう」にかんする講演こうえんおこない、2がつまつから3がつはじめにかけてモスクワおこなわれたヴィクトル・ユーゴー生誕せいたん150ねんさいニコライ・ゴーゴリ没後ぼつご100ねんさいした。9月に狭心症きょうしんしょう発作ほっさこした。11月18にち再度さいど発作ほっさこして死去しきょ享年きょうねん56さいペール・ラシェーズ墓地ぼち埋葬まいそうされた。

著書ちょしょ

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書名しょめい 原著げんちょ とし 備考びこう
だいいち詩集ししゅう Premiers poèmes 1913 自費じひ出版しゅっぱん
義務ぎむ Le Devoir 1916 応召おうしょうちゅうの17しょう詩集ししゅうはじめて筆名ひつめい「ポール・エリュアール」を使用しよう自費じひ出版しゅっぱん
義務ぎむ不安ふあん Le Devoir et l'Inquiétude 1917 厭戦えんせん叙情詩じょじょうししゅうアンドレ・デリニエールフランス語ふらんすごばん木版もくはんり。
友人ゆうじんゴノンの出版しゅっぱんしゃから刊行かんこう
平和へいわのための詩篇しへん Poèmes pour la paix 1918 反戦はんせん詩集ししゅうしょう冊子さっし
動物どうぶつたちとかれらの人間にんげんたち、人間にんげんたちとかれらの動物どうぶつたち』 Les animaux et leurs hommes, les hommes et leurs animaux 1920 ダダイスム詩集ししゅう
生活せいかつ必需ひつじゅひんゆめ結果けっか Les Nécessités de la vie et les conséquences des rêves 1921 ダダイスム詩集ししゅう
死者ししゃ不幸ふこう Les Malheurs des immortels 1922 詩集ししゅうマックス・エルンスト)との共著きょうちょ
反復はんぷく Répétitions 1922 詩集ししゅう、マックス・エルンスト()との共著きょうちょ
なずにぬこと』 Mourir de ne pas mourir 1924 詩集ししゅうアンドレ・ブルトン献呈けんてい
沈黙ちんもく欠如けつじょに』 Au défaut du silence 1925 詩集ししゅう、マックス・エルンストの匿名とくめい挿画そうが
当世風とうせいふう箴言しんげん152』 152 proverbes mis au goût du jour 1925 バンジャマン・ペレとの共著きょうちょ
苦悩くのう首都しゅと Capitale de la Douleur 1926 シュルレアリスム詩集ししゅう
『ある人生じんせい裏面りめんまたは人間にんげんのピラミッド』 Les Dessous d'une vie ou la Pyramide humaine 1926 散文詩さんぶんししゅう
擁護ようご Défense de savoir 1928 シュルリアリスム詩集ししゅう
あい L'Amour la Poésie 1929 詩集ししゅうガラ献呈けんてい
工事こうじちゅう徐行じょこう Ralentir travaux 1930 詩集ししゅう、ブルトン、ルネ・シャール共著きょうちょ
処女しょじょ懐胎かいたい』(『原罪げんざい宿やどり』) L'Immaculée conception 1930 散文詩さんぶんししゅう、ブルトンと共著きょうちょサルバドール・ダリ表紙ひょうし豪華ごうかばんあり。
『あらゆる試練しれんえて』 À toute épreuve 1930 シュルリアリスム詩集ししゅうのちにジョアン・ミロの挿絵さしえりのはん刊行かんこう
ねむれ』 Dors 1931 詩集ししゅうしょう冊子さっし
直接ちょくせつせい La Vie immédiate 1932 詩集ししゅう
てきみずのように』 Comme deux gouttes d'eau 1933 シュルリアリスム詩集ししゅう
民衆みんしゅう薔薇ばら La rose publique 1934 詩集ししゅうしんフランス批評ひひょう出版しゅっぱんしゃから刊行かんこう
『たやすいこと』 Facile 1935 詩集ししゅうマン・レイ写真しゃしん
二人ふたり夜々よよ Nuits partagées 1935 詩集ししゅう
手摺てすり La Barre d'appui 1936 詩集ししゅうピカソエッチング
ゆたかなひとみ Les Yeux fertiles 1936 詩集ししゅうギィ・レヴィ・マーノフランス語ふらんすごばんによる装幀そうてい出版しゅっぱん
かんするノート』 Notes sur la poésie 1936 評論ひょうろん、ブルトンと共著きょうちょ。ギィ・レヴィ・マーノによる装幀そうてい出版しゅっぱん
自由じゆう Les Mains libres 1937 画集がしゅう、マン・レイと共著きょうちょ。ニューシュに献呈けんてい
専心せんしん Appliquée 1937 画集がしゅうヴァランティーヌ・ユーゴーフランス語ふらんすごばん共著きょうちょ
明証めいしょう L'évidence poétique 1937 詩集ししゅう、ギィ・レヴィ・マーノによる装幀そうてい出版しゅっぱん
自然しぜんながフランス語ふらんすごばん Cours naturel 1938 詩集ししゅう、「ゲルニカの勝利しょうり所収しょしゅう
『シュルレアリスム簡約かんやく辞典じてん Dictionnaire abrégé du surréalisme 1938 辞典じてん、ブルトンと共著きょうちょ
『メデューサ』 Médieuses 1939 画集がしゅう、ヴァランティーヌ・ユーゴーと共著きょうちょ
完全かんぜんうた Chanson 1939 詩集ししゅう、エルンストのいし版画はんがきのはんも。
せる』 Donner à voir 1939 ガリマール出版しゅっぱんしゃ刊行かんこう作品さくひんしゅう
ひらかれたほんI ― 1938-1940』 Le Livre ouvert I 1938-1940 1941 詩集ししゅう
くだざか Sur les pentes inférieures 1941 詩集ししゅうジャン・ポーラン序文じょぶん
ひらかれたほんII ― 1939-1941』 Le Livre ouvert II 1939-1941 1942 詩集ししゅう
真実しんじつ Poésie et vérité 1942 1942 レジスタンス詩集ししゅう、「自由じゆう所収しょしゅう。アルジェのフォンテーヌ出版しゅっぱんしゃから刊行かんこう
無意識むいしき意図いとした Poésie involontaire et poésie intentionnelle 1942 レジスタンス詩集ししゅう、ピエール・セゲルが印刷いんさつ配布はいふ
戦時せんじ恋愛れんあいななへん Les sept poèmes d'amour en guerre 1943 レジスタンス詩集ししゅう、ジャン・デュ・オーの偽名ぎめいでアルジェのフォンテーヌ出版しゅっぱんしゃから刊行かんこう南部なんぶ自由じゆう地帯ちたいサン=フルール印刷いんさつ
詩人しじんたちの名誉めいよ L'Honneur des poètes 1943 レジスタンス詩人しじん22にんのアンソロジー
きるにあたいする人々ひとびと Dignes de vivre 1944 レジスタンス詩集ししゅうジャン・フォートリエ挿絵さしえ
寝台しんだい食卓しょくたく Le Lit la table 1944 レジスタンス詩集ししゅう、ジュネーヴで出版しゅっぱん
くるしみの武器ぶき Les armes de la douleur 1944 レジスタンス詩集ししゅう南仏なんふつトゥールーズ)の全国ぜんこく作家さっか委員いいんかい知識ちしきじんセンター出版しゅっぱん
『ドイツぐん集合しゅうごうにて』 Au rendez-vous allemand[53] 1944 レジスタンス詩集ししゅう
『パブロ・ピカソへ』 À Pablo Picasso 1944 ピカソろん、ピカソ
浮気うわき裁縫さいほうおんなたち』 Lingères légères 1945 詩集ししゅう、ピエール・セゲルスが印刷いんさつ配布はいふ
かげ分身ぶんしんたち』 Doubles d'ombres 1945 詩集ししゅう、アンドレ・ボーダンの挿画そうが
ながあい反射はんしゃ Une longue réflexion amoureuse 1945 詩集ししゅう
『とだえざる Poésie ininterrompue 1946 詩集ししゅう
つづけることへのかたくななねがい』 Le Dur désir de durer 1946 詩集ししゅう
ときあふれる』 Le Temps déborde 1947 ヌーシュ追悼ついとう詩集ししゅう、ディディエ・デロッシュの筆名ひつめいで。
記憶きおくすべき肉体にくたい Corps mémorable 1947 ヌーシュ追悼ついとう詩集ししゅう、ブランの筆名ひつめいで。
内側うちがわで』 À l'intérieur de la vue 1947 画集がしゅう、エルンストと共著きょうちょ
る』 Voir 1948 詩集ししゅう
動物どうぶつ Le bestiaire 1948 画集がしゅうロジェ・シャステルフランス語ふらんすごばん
政治せいじ詩篇しへん Poémes politiques 1948 詩集ししゅうルイ・アラゴン序文じょぶん
まんにんのための Poèmes pour tous 1948 詩集ししゅう
『レダ』 Léda 1949 画集がしゅうテオドール・ジェリコー挿画そうが
『ギリシャ、わが理知りち薔薇ばら Gréce ma rose de raison 1949 詩集ししゅう
道徳どうとくおしえ』 Une leçon de morale 1949 詩集ししゅう
『ワルシャワ・ゲットーの殉難じゅんなんしゃ闘士とうしささげる Hommage aux martyrs et aux combattants du ghetto de Varsovie 1950 詩集ししゅう
『すべてをかたること』 Pouvoir tout dire 1951 詩集ししゅう
平和へいわかお Le Visage de la paix 1951 画集がしゅう、ピカソの石版せきばん
『わたげちゃん』 Grain-d'aile 1951 童話どうわ
不死鳥ふしちょう Le Phénix 1952 画集がしゅう、ヴァランティーヌ・ユーゴーの。ドミニック・ルモールに献呈けんてい
芸術げいじゅつ論集ろんしゅうI』 Anthologie des écrits sur l'art I 1952 評論ひょうろん邦訳ほうやく芸術げいじゅつ論集ろんしゅう参照さんしょう
大道だいどう小道こみち Les sentiers et les routes de la poésie 1952 放送ほうそう原稿げんこう
没後ぼつご出版しゅっぱん
芸術げいじゅつ論集ろんしゅうII』 Anthologie des écrits sur l'art II 1953 評論ひょうろん邦訳ほうやく芸術げいじゅつ論集ろんしゅう参照さんしょう
『とだえざるII』 Poésie ininterrompue II 1953 詩集ししゅう
けむり Œil de fumée 1953 詩集ししゅう
芸術げいじゅつ論集ろんしゅうIII』 Anthologie des écrits sur l'art III 1954 評論ひょうろん邦訳ほうやく芸術げいじゅつ論集ろんしゅう参照さんしょう
わかころ手紙てがみ発表はっぴょう Lettres de jeunesse avec poèmes inédits 1962 書簡しょかん
最後さいごあい Derniers poèmes d'amour 1963 詩集ししゅう
詩人しじんとそのかげ Le poète et son ombre 1964 しょう冊子さっし発表はっぴょうされた作品さくひん限定げんていばんなどを編纂へんさん
ながあい反射はんしゃ Une longue réfléxion amoureuse 1966 詩集ししゅう
全集ぜんしゅうぜん2かん Œuvres complètes 1968 プレイヤード叢書そうしょガリマール出版しゅっぱんしゃ
ジョー・ブスケフランス語ふらんすごばんへの手紙てがみ Lettres à Joë Bousquet 1973 書簡しょかんフランス合同ごうどう出版しゅっぱんフランス語ふらんすごばん(アラゴンが創設そうせつした共産党きょうさんとう出版しゅっぱんきょく
『ガラへの手紙てがみ Lettres à Gala (1924-1948) 1984 書簡しょかん
『ポール・エリュアール=ジャン・ポーラン往復おうふく書簡しょかん Paul Éluard & Jean Paulhan, Correspondance 1919-1944 2003 書簡しょかんクレール・ポーラン出版しゅっぱんしゃフランス語ふらんすごばん(ジャン・ポーランの孫娘まごむすめ創設そうせつした出版しゅっぱんしゃ

邦訳ほうやく

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書名しょめい 訳者やくしゃ共著きょうちょしゃとう 出版しゅっぱんしゃ刊行かんこうねん
Les petites justes 北園きたぞの克衛かつえわけ ラベ書店しょてん、1933ねん
童貞どうていおんな受胎じゅたい』(書誌しょし情報じょうほう目次もくじ アンドレ・ブルトン共著きょうちょ山中さんちゅうなまわけ ボン書店しょてん、1936ねん
思考しこう表裏ひょうり アンドレ・ブルトン共著きょうちょ堀口ほりぐち大學だいがくわけ 臼井うすい書房しょぼう、1968ねん; あきらもりしゃ、1974ねん; 閏月じゅんげつしゃ、2011ねん
くるしみの武器ぶき ― エリュアール詩集ししゅう』(書誌しょし情報じょうほう目次もくじ 世界せかい抵抗ていこうせん刊行かんこうかい 大月書店おおつきしょてん世界せかい抵抗ていこうせん2)、1951ねん
『エリュアール詩集ししゅう』(書誌しょし情報じょうほう目次もくじ ルイ・パロオへん加藤かとう周一しゅういちわけ つくもとしゃ世界せかい現代げんだい叢書そうしょ5)1952ねん
状況じょうきょう詩論しろん』(書誌しょし情報じょうほう目次もくじ 江原えばらじゅん木島きしまはじめともやく 未來社みらいしゃ、1954ねん
まんにんのための』(書誌しょし情報じょうほう目次もくじ 安東あんどう次男つぐおわけ 青木あおき書店しょてん、1954ねん
芸術げいじゅつ論集ろんしゅうだい1かんのみえる兄弟きょうだいたち)(書誌しょし情報じょうほう目次もくじ 江原えばらじゅんかんさとしほしどもやく 未來社みらいしゃ、1955ねん
芸術げいじゅつ論集ろんしゅうだい2かんひかり倫理りんり)(書誌しょし情報じょうほう目次もくじ 江原えばらじゅんかんさとしほしどもやく 未來社みらいしゃ、1958ねん
現代げんだいフランス詩人しじんしゅう 大岡おおおかしんわけ13へん所収しょしゅう ユリイカ、1955ねん
記憶きおくすべき肉体にくたい詩集ししゅう』(書誌しょし情報じょうほう目次もくじ 根岸ねぎし良一りょういちやく 国文こくぶんしゃ(ピポー叢書そうしょ)、1955ねん
『ピカソ』(書誌しょし情報じょうほう目次もくじ パブロ・ピカソ木島きしまはじめわけ 筑摩書房ちくましょぼう、1955ねん
現代げんだい世界せかいせん
(『三笠みかさばん 現代げんだい世界せかい文学ぶんがく全集ぜんしゅうだい27かん)
大島おおしま博光ひろみつわけ11へん所収しょしゅう 三笠みかさ書房しょぼう、1955ねん
寝台しんだいテーブル ― 詩集ししゅう』(書誌しょし情報じょうほう目次もくじ 根岸ねぎし良一りょういちやく 国文こくぶんしゃ(ピポー叢書そうしょ)、1956ねん
『エリュアールせん』(書誌しょし情報じょうほう目次もくじ 大島おおしま博光ひろみつやく みどり書房しょぼう、1956ねん
『シュルレアリスム辞典じてん アンドレ・ブルトン共編きょうへん ユリイカ、1958ねん
『エリュアール詩集ししゅう』(書誌しょし情報じょうほう目次もくじ 嶋岡しまおかわけへん 飯塚いいづか書店しょてん世界せかい現代げんだい詩集ししゅう10)、1964ねん
処女しょじょ懐胎かいたい』(書誌しょし情報じょうほう目次もくじ アンドレ・ブルトン共著きょうちょ服部はっとり伸六しんろくやく 思潮しちょうしゃ、1963ねん、1971ねん、1994ねん
『エリュアール詩集ししゅう 山崎やまざき栄治えいじわけ 弥生やよい書房しょぼう世界せかい59)、1968ねん、1979ねんおか鹿之助しかのすけ装画そうが 1991ねん
あい ― ポール・エリュアール後期こうき恋愛れんあい詩集ししゅう 高村たかむらさとしわけ 勁草書房しょぼう、1969ねん新装しんそうばん 1985ねん
『エリュアール詩集ししゅうChoix de poems 1917-1952』(書誌しょし情報じょうほう目次もくじ 安東あんどう次男つぐおやく 思潮しちょうしゃ、1969ねん
世界せかいめい詩集ししゅう20』 安東あんどう次男つぐおやくあいすなわち所収しょしゅう 平凡社へいぼんしゃ、1969ねん
『シュルレアリスム簡約かんやく辞典じてん アンドレ・ブルトン共編きょうへん江原えばらじゅんへんやく 現代げんだい思潮しちょうしゃ、1971ねん
自由じゆうだい大戦たいせん詩集ししゅうぜん2かん 高村たかむらさとしへんやく 北洋ほくようしゃ、1972ねん
『エリュアール選集せんしゅう1』(書誌しょし情報じょうほう目次もくじ
『エリュアール選集せんしゅう2』(書誌しょし情報じょうほう目次もくじ
嶋岡しまおか晨訳 飯塚いいづか書店しょてん、1972ねん
『シュルレアリスムの発展はってん ハーバート・リードへん小海こかい永二えいじわけ明証めいしょう所収しょしゅう 国文こくぶんしゃ(セリ・シュルレアリスム4)、1972ねん
『エリュアール詩集ししゅう 佐藤さとういわおわけ 旺文社おうぶんしゃ文庫ぶんこ、1975ねん
世界せかい文学ぶんがく全集ぜんしゅう78』 佐藤さとういわおやく詩集ししゅう所収しょしゅう 講談社こうだんしゃ、1975ねん
『(ポール・エリュアールとマックス・エルンストによってあばかれた) かみ々の不幸ふこう 高村たかむらさとしやく ペヨトル工房こうぼう、1982ねん
『わたげちゃん』 ジャクリーヌ・デュエムフランス語ふらんすごばん薩摩さつまちゅうわけ いたりこうしゃ、1982ねん
『エリュアール詩集ししゅう 薩摩さつまちゅうやく ほるぷ出版しゅっぱん、1983ねん
『ポール・エリュアール詩集ししゅう 高村たかむらさとしへんやく 土曜どよう美術びじゅつしゃ出版しゅっぱん販売はんばい / 世界せかい現代げんだい詩文しぶん4、1983ねん
『ゆたかなひとみ後期こうきシュルレアリスム詩集ししゅう 高村たかむらさとしへんやく 勁草書房しょぼう、1986ねん
『とだえざる 高村たかむらさとしやく おおとり書房しょぼう、1987ねん
『エリュアール詩集ししゅう 宇佐美うさみひとしへんやく 小沢おざわ書店しょてん / 双書そうしょ 20世紀せいき詩人しじん12、1994ねん
『Liberté 自由じゆうあい平和へいわうたう』 クロード ゴワランこやま峰子みねこわけ 朔北さくほくしゃ、2001ねん
恋愛れんあい L'amour』 アンドレ・ブルトン共著きょうちょ寺村てらむら摩耶まややく宇野うの喜良きよし(+CD、須山すやましんれい エクリ、2006ねん
『grain-d'aile ― グランデール』 オードリー・フォンドゥカヴ須山すやまみのるやく エクリ、2009ねん
伴奏ばんそう混声こんせい合唱がっしょうのためのポール・エリュアールのみっつの (楽譜がくふ) 信長のぶながたかとみ作曲さっきょく安東あんどう次男つぐお木島きしまはじめどもやく カワイ出版しゅっぱん、2016ねん

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b Luc Decaunes (1982) (フランス語ふらんすご). Paul Éluard : l'amour, la révolte, le rêve. Balland 
  2. ^ Paul ÉLUARD : poèmes, biographie, oeuvres et recueils” (フランス語ふらんすご). www.unjourunpoeme.fr. 2019ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  3. ^ Flora Eveno (2017ねん1がつ24にち). “Gala Dali : femme libre et muse surréaliste” (フランス語ふらんすご). RTBF Culture. 2019ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c d e Nicole Racine. “ÉLUARD Paul (GRINDEL Eugène, Émile, Paul dit) Pseudonymes : Didier Desroches, Brun, Jean du Haut, Maurice Hervent” (フランス語ふらんすご). maitron-en-ligne.univ-paris1.fr. Maitron. 2019ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  5. ^ ポール・エリュアールの一人娘ひとりむすめであり、2016ねん8がつ10日とおかくなるまで「ポール・エリュアールともかい」の会長かいちょうつとめた(公式こうしきウェブサイト参照さんしょう)。
  6. ^ Cécile Eluard” (フランス語ふらんすご). Paul Eluard. 2019ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  7. ^ Bertrand de Saint Vincent (2014ねん3がつ24にち). “Cécile Éluard, une enfance surréaliste”. FIGARO. 2019ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  8. ^ Paul Eluard (Intro) - aLaLettre”. www.alalettre.com. 2019ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  9. ^ Le devoir et l'inquiétude, poèmes suivis de Le rire d'un autre” (フランス語ふらんすご). edition-originale.com. Librairie Le Feu Follet. 2019ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  10. ^ Proverbe [REVUE]” (フランス語ふらんすご). Centre Pompidou (ポンピドゥー・センター). 2019ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  11. ^ a b c 松岡まつおか茂雄しげおシュルレアリストたちのはんカトリシズムと、ダリの《聖心せいしん》―アンドレ・ブルトンへの「痙攣けいれん」がダリに家族かぞくとの断絶だんぜつをもたらした」『美術びじゅつ論集ろんしゅうだい9かん神戸大学こうべだいがく美術びじゅつ研究けんきゅうかい、2018ねん7がつ11にち、94-125ぺーじ 
  12. ^ 川上かわかみつとむアラゴンの『現代げんだい文学ぶんがく草案そうあん』について」『たていのちかん経済けいざいがくだい46かん立命館大学りつめいかんだいがく経済学部けいざいがくぶ、1997ねん、85-106ぺーじ 
  13. ^ le Coeur à barbe”. www.dadart.com. Dada et dadaïsme. 2019ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  14. ^ Ca barbe, dada !” (フランス語ふらんすご). www.odyssee-culture.com. L'Odyssée - Un équipement culturel de l'Agglo du Pays de Dreux. 2019ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  15. ^ 塚原つかはらふみトリスタン・ツァラのられざる軌跡きせき : ダダから「実験じっけんゆめ」へ : 『種子しゅし表皮ひょうひ』をくために」『人文じんぶん論集ろんしゅうだい57かん早稲田大学わせだだいがくほう学会がっかい、2018ねん、226-180ぺーじ 
  16. ^ Carassus, Émilien (1985). “De quelques surréalistes et du «Procès Barrés» Lettres inédites de Louis Aragon et de Pierre Drieu la Rochelle à Maurice Barrés” (フランス語ふらんすご). Littératures 13 (1): 151–168. doi:10.3406/litts.1985.1370. https://www.persee.fr/doc/litts_0563-9751_1985_num_13_1_1370. 
  17. ^ Au Rendez-vous des amis” (フランス語ふらんすご). actu.fr (2016ねん4がつ20日はつか). 2019ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  18. ^ Au rendez-vous des amis” (フランス語ふらんすご). Larousse. 2019ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  19. ^ うた邦弘くにひろジョルジュ・バタイユにおける形態けいたい弁証法べんしょうほう : 雑誌ざっし『ドキュマン』における「人間にんげん姿すがた」『美学びがく芸術げいじゅつがく論集ろんしゅうだい3かん神戸大学こうべだいがく文学部ぶんがくぶ芸術げいじゅつがく研究けんきゅうしつ、2007ねん3がつ、18-40ぺーじ 
  20. ^ DADA -- Proverbe. Feuille Mensuelle. Collection de 5 numros. Paris: Paul Eluard, 1920-1921. In-8 (213 x 135mm). Broch. Contributions de Pret, Eluard, Aragon, Picabia, Tzara, et d'autres crivains.” (英語えいご). www.christies.com. Christie's (クリスティーズ). 2019ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  21. ^ LA RÉVOLUTION SURRÉALISTE - 1er Décembre 1924 (No.1)” (フランス語ふらんすご). BnF Gallica (フランス国立こくりつ図書館としょかん). 2019ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  22. ^ 《シュルレアリスム革命かくめい”. コトバンク. 2019ねん9がつ6にち閲覧えつらん
  23. ^ サン・ポル・ルー”. コトバンク. 2019ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  24. ^ ラシルド”. コトバンク. 2019ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  25. ^ Philippe Sollers (2013ねん6がつ8にち). “Quand les surréalistes criaient : "A bas la France !"” (フランス語ふらんすご). L'Obs. 2019ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  26. ^ アンリ・バルビュス『クラルテ』(小牧こまき近江おうみ佐々木ささき孝丸たかまるともやくくさむらぶんかく、1923ねん) 参照さんしょう
  27. ^ 嶋岡しまおかわけエリュアール選集せんしゅう1』(飯塚いいづか書店しょてん、1972ねん) 所収しょしゅう
  28. ^ a b c Nicole Racine. “ARAGON Louis” (フランス語ふらんすご). maitron-en-ligne.univ-paris1.fr. Maitron. 2019ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  29. ^ 安東あんどう次男つぐおわけまんにんのための』(青木あおき書店しょてん、1954ねん)、嶋岡しまおか晨訳へん『エリュアール詩集ししゅう』(飯塚いいづか書店しょてん、1964ねん) 所収しょしゅう
  30. ^ 嶋岡しまおか晨訳へん『エリュアール詩集ししゅう』(飯塚いいづか書店しょてん、1964ねん)、嶋岡しまおか晨訳『エリュアール選集せんしゅう1』(飯塚いいづか書店しょてん、1972ねん) 所収しょしゅう
  31. ^ Anne Reverseau (2016ねん12月29にち). “Muse du Surréalisme, Nusch Eluard entrera dans le domaine public en 2017” (フランス語ふらんすご). www.actualitte.com. 2019ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  32. ^ ポール・エリュアール、アンドレ・ブルトン共著きょうちょ処女しょじょ懐胎かいたい』(服部はっとり伸六しんろくやく思潮しちょうしゃ、1994ねん) 参照さんしょう
  33. ^ ジョルジュ・サドゥールフランス語ふらんすごばんのほか、シュルレアリストのイヴ・タンギー、ルネ・シャール、ジョルジュ・マルキーヌフランス語ふらんすごばん、アンドレ・ティリオン、ルネ・クルヴェルマキシム・アレクサンドルフランス語ふらんすごばん署名しょめいした(ポンピドゥー・センターカンディンスキー図書館としょかん資料しりょう)。
  34. ^ Association des écrivains et artistes révolutionnaires. France” (フランス語ふらんすご). Bnf. 2019ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  35. ^ Aurélien Soucheyre (2019ねん8がつ23にち). “PAUL ÉLUARD FAIRE FACE AUえーゆーX BÂTISSEURS DE RUINES” (フランス語ふらんすご). L'Humanité (リュマニテ). 2019ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  36. ^ Paillasse! (Fin de "l'affaire Aragon")” (フランス語ふらんすご). parismuseescollections.paris.fr. Paris Musées. 2019ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  37. ^ a b 大島おおしま博光ひろみつ『アラゴン』しん日本にっぽん新書しんしょ、1990ねん - 抜粋ばっすい赤色あかいろ戦線せんせん』・アラゴン事件じけんした」(大島おおしま博光ひろみつ記念きねんかん公式こうしきウェブサイト)。
  38. ^ Misère de la poésie - « L'Affaire Aragon » devant l'opinion publique” (フランス語ふらんすご). andrebreton.fr. 2019ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  39. ^ Certificat” (フランス語ふらんすご). andrebreton.fr. 2019-0911閲覧えつらん
  40. ^ 大島おおしま博光ひろみつ『エリュアール』しん日本にっぽん新書しんしょ、1988ねん - 抜粋ばっすいポール・エリュアール Paul Éluard」(大島おおしま博光ひろみつ記念きねんかん公式こうしきウェブサイト)
  41. ^ 文化ぶんか擁護ようご国際こくさい作家さっか会議かいぎ”. コトバンク. 2019ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  42. ^ ミシェル・ヴィノック しる塚原つかはらふみ立花たちばな英裕ひでひろ築山つきやま和也かずや久保くぼ昭博あきひろ やく知識ちしきじん時代じだい ― バレス/ジッド/サルトル』紀伊國屋きのくにや書店しょてん、2007ねん 
  43. ^ 大島おおしま博光ひろみつ『エリュアール』しん日本にっぽん新書しんしょ、1988ねん - 抜粋ばっすいエリュアール「ゲルニカの勝利しょうり」(大島おおしま博光ひろみつ記念きねんかん公式こうしきウェブサイト)
  44. ^ Nicole Racine, Carole Reynaud-Paligot. “BRETON André, Robert” (フランス語ふらんすご). maitron-en-ligne.univ-paris1.fr. Maitron. 2019ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  45. ^ 大島おおしま博光ひろみつ『エリュアール』しん日本にっぽん新書しんしょ、1988ねん - 抜粋ばっすいポール・エリュアール Paul Éluard - エリュアール「自由じゆう」(大島おおしま博光ひろみつ記念きねんかん公式こうしきウェブサイト)
  46. ^ 大島おおしま博光ひろみつ『エリュアール』しん日本にっぽん新書しんしょ、1988ねん - 抜粋ばっすいポール・エリュアール Paul Éluard - アラゴンとの再会さいかい」(大島おおしま博光ひろみつ記念きねんかん公式こうしきウェブサイト)
  47. ^ 大島おおしま博光ひろみつ『エリュアール』しん日本にっぽん新書しんしょ、1988ねん - 抜粋ばっすい英雄えいゆう殉難じゅんなんしゃ詩人しじんたちの名誉めいよ」(大島おおしま博光ひろみつ記念きねんかん公式こうしきウェブサイト)。
  48. ^ 大島おおしま博光ひろみつエリュアール・ノート (13)『道徳どうとくおしえ』・ギリシャ・平和へいわかおうえ」『民主みんしゅ文学ぶんがく』1988ねん8がつごう
  49. ^ イヴ ファルジュ”. コトバンク. 2019ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  50. ^ 大島おおしま博光ひろみつエリュアール・ノート (13)『道徳どうとくおしえ』・ギリシャ・平和へいわかおなか」『民主みんしゅ文学ぶんがく』1988ねん8がつごう
  51. ^ 大島おおしま博光ひろみつエリュアール・ノート (13)『道徳どうとくおしえ』・ギリシャ・平和へいわかおした」『民主みんしゅ文学ぶんがく』1988ねん8がつごう
  52. ^ 大島おおしま博光ひろみつ『エリュアール』しん日本にっぽん新書しんしょ、1988ねん - 抜粋ばっすいピカソ/エリュアール「平和へいわかお」(大島おおしま博光ひろみつ記念きねんかん公式こうしきウェブサイト)
  53. ^ Au rendez-vous allemand” (フランス語ふらんすご). www.leseditionsdeminuit.fr. Les Éditions de Minuit. 2020ねん4がつ9にち閲覧えつらん

参考さんこう資料しりょう

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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