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マックス・ジャコブ

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マックス・ジャコブ
Max Jacob
マックス・ジャコブ(カール・ヴァン・ヴェクテンによる肖像しょうぞう写真しゃしん、1934ねんアメリカ議会ぎかい図書館としょかんくら
誕生たんじょう マックス・ジャコブ・アレクサンドル(Max Jacob Alexandre)
(1876-07-12) 1876ねん7がつ12にち
フランスの旗 フランスカンペールブルターニュ地域ちいきけんフィニステールけん
死没しぼつ (1944-03-06) 1944ねん3月6にち(67さいぼつ
フランスの旗 フランスドランシーイル=ド=フランス地域ちいきけんセーヌ=サン=ドニけん
墓地ぼち サン=ブノワ=シュル=ロワールフランス語ふらんすごばん墓地ぼちサントル=ヴァル・ド・ロワール地域ちいきけんロワレけん
職業しょくぎょう 詩人しじん小説しょうせつげき作家さっか画家がか美術びじゅつ評論ひょうろん
言語げんご フランス語ふらんすご
教育きょういく 法学ほうがく学士がくし
活動かつどう期間きかん 1904ねん - 1939ねん
文学ぶんがく活動かつどう キュビスム
代表だいひょうさく骰子さいころとう
中央ちゅうおう実験じっけんしつ
『バラード』
マトレルさんさく
おも受賞じゅしょうれき レジオンドヌール勲章くんしょうシュヴァリエ
署名しょめい
ウィキポータル 文学ぶんがく
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マックス・ジャコブMax Jacob フランス語ふらんすご: [maks ʒakɔb]1876ねん7がつ12にち - 1944ねん3月5にち)は、フランス詩人しじん小説しょうせつげき作家さっか画家がか美術びじゅつ評論ひょうろんホロコースト犠牲ぎせいしゃである。アポリネールとともにキュビスム代表だいひょうする特異とくい詩人しじんダダイスムシュルレアリスム先駆せんくしゃとしてあたらしい散文詩さんぶんし確立かくりつした。ピカソモディリアーニジャン・コクトーをはじめとする前衛ぜんえい芸術げいじゅつ文学ぶんがくしゃ幅広はばひろ交流こうりゅうし、膨大ぼうだい書簡しょかんのこした。アシュケナジム家庭かていまれたが、2見神けんしん体験たいけんのち、ピカソをだいちちとしてカトリック洗礼せんれいけた。1921ねんから1928ねんまで、および1936ねんから1944ねんまでサン=ブノワ=シュル=ロワールフランス語ふらんすごばんサントル=ヴァル・ド・ロワール地域ちいきけんロワレけん)に隠棲いんせいし、いの制作せいさく専念せんねんした。1944ねんゲシュタポ逮捕たいほされ、ドランシー収容しゅうようしょ肺炎はいえんのために死去しきょ。1949ねん作曲さっきょくアンリ・ソーゲ会長かいちょう、ピカソを名誉めいよ会長かいちょうとする「マックス・ジャコブともかい」が結成けっせいされた。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

背景はいけい[編集へんしゅう]

マックス・ジャコブは1876ねん7がつ12にち、ラザール・アレクサンドルとプリュダンス・アレクサンドル(旧姓きゅうせいジャコブ)のだいよんマックス・ジャコブ・アレクサンドルとしてカンペールブルターニュ地域ちいきけんフィニステールけん)にまれた。

1867ねんのパリ万国博覧会ばんこくはくらんかい出展しゅってんされたスケールの伝統でんとうてき衣装いしょう制作せいさくしゃ不明ふめい

祖父そふサミュエル・アレクサンドルは、ザールラントしゅうノインキルヒェンまれたユダヤじんである。したがってドイツ国籍こくせきであり、1888ねんにフランスで提出ていしゅつされた外国がいこくじんとどけによると、生年せいねんは1811ねんとされる。フランスに移住いじゅうして商業しょうぎょういとなみ、ミルテ・レア・マイヤーと結婚けっこんした[1]。アレクサンドル夫妻ふさいはフランス北部ほくぶ転々てんてんとし、1846ねんにパリで長女ちょうじょジュリーがまれ、よく1847ねんにトゥールで長男ちょうなんラザール・ジャコブ(マックス・ジャコブのちち)がまれた。1850ねんにはロリアン(ブルターニュ)で二男じなんモーリスがまれた。一家いっかがカンペールにうつんだのは1858ねんごろとされる[1][2]。アレクサンドル仕立屋したてやとしておおきな成功せいこうおさめ、ブルターニュ地方ちほうスケールフランス語ふらんすごばんプロアレフランス語ふらんすごばんポン=ラベなどの伝統でんとうてき衣装いしょう制作せいさくして、1867ねんのパリ万国博覧会ばんこくはくらんかい出展しゅってんするほどであった[1]

ラザール・ジャコブとモーリスはひろしふつ戦争せんそう(1870-71ねん)での勲功くんこうにより、1873ねんにフランス国籍こくせきあたえられた[2]。ラザール・ジャコブは家業かぎょう仕立屋したてやぎ、1971ねんにパリまれのプリュダンス・ジャコブと結婚けっこんした。マックス・ジャコブは、あねジュリー・デルフィーヌ(1872ねんまれ)、あにモーリス(1874ねんまれ)とガストン・ジャコブ(1875ねんまれ)、おとうとジャック・ジャコブ(1880ねんまれ)、いもうとミルテ・レア・ジャコブ(1884ねんまれ)とジュザンヌ(1887ねんまれ)の7にん兄弟きょうだい姉妹しまいである[1]

1888ねんに、アレクサンドルトゥール行政ぎょうせい裁判所さいばんしょにジャコブへの改姓かいせい申請しんせいし、許可きょかた。これは、ロリアンにみ、共同きょうどう事業じぎょういとなんでいたジャコブ社名しゃめい統一とういつするためであったとされる。これ以後いご、マックス・ジャコブ・アレクサンドルはマックス・ジャコブを名乗なのることになる(せいの「ジャコブ」と重複じゅうふくする名前なまえの「ジャコブ」は削除さくじょされた)[1][3]

教育きょういく[編集へんしゅう]

マックス・ジャコブの自画じがぞう素描そびょう、1901ねん

ジャコブはユダヤ教徒きょうととして礼拝れいはいなどの儀式ぎしき参加さんかするわけではなく、マックス自身じしんはむしろカトリックにたいするあこがれがあったが、とく祖父そふサミュエルにおしえられたユダヤ文化ぶんかやドイツ文化ぶんか、そしてブルターニュの風土ふうど作品さくひんおおきな影響えいきょうおよぼすことになる[2]

マックスは想像そうぞうりょくゆたかなどもであったが、動作どうさ緩慢かんまん注意ちゅういりょく散漫さんまんであったため両親りょうしん心配しんぱいして、14さいころにパリの著名ちょめい神経しんけいジャン=マルタン・シャルコー相談そうだんし、やく1ねんにわたってパリ療養りょうようすることになった[4]。カンペールにもどったのちリセでは優秀ゆうしゅう学生がくせいとして教師きょうしにも期待きたいされ、読書どくしょふけると同時どうじに、とく音楽おんがく絵画かいがふか関心かんしんせた[2]。1894ねん(18さい)、優等ゆうとうしょうてリセを卒業そつぎょうし、バカロレア取得しゅとく植民しょくみん行政ぎょうせいかん養成ようせいするパリの植民しょくみん学校がっこうのち国立こくりつ行政ぎょうせい学院がくいん併合へいごう)に入学にゅうがく。だが、3ねん退学たいがくしてカンペールにもどったため、家族かぞく失望しつぼうさせた[5][6]

1897ねんにはパリにもどって法学ほうがく学士がくしごう取得しゅとくよく1898ねんから母方ははかた祖父そふレオン・ダヴィッドの名前なまえ使つかって『ル・モニトゥール・デザール(Le Moniteur des arts芸術げいじゅつ指導しどうしゃ)』[7]美術びじゅつ評論ひょうろんはじめたが[8]一方いっぽうで、生計せいけいてるために建具たてぐ職人しょくにん助手じょしゅ倉庫そうこ運搬うんぱん出荷しゅっかがかり家庭かてい教師きょうしなどのしょく転々てんてんとした[9]

ピカソとの出会であい - モンマルトル「洗濯せんたくせん[編集へんしゅう]

ひだりからモディリアーニ、マックス・ジャコブ、アンドレ・サルモン、マヌエル・オルティス・デ・サラテ(ジャン・コクトーによる撮影さつえい、モンパルナスにて、1916ねん10がつ11にち

1901ねん画商がしょうアンブロワーズ・ヴォラール画廊がろうおこなわれたパブロ・ピカソのはじめての個展こてんて、このスペインわか画家がかにすっかりせられた。マックス・ジャコブはのちにピカソあて手紙てがみに、ピカソは「わたしにとって芸術げいじゅつ世界せかいそのものであった」といている[10]よく1902ねんからピカソはマックス・ジャコブがんでいたパリ11ヴォルテール大通おおどおフランス語ふらんすごばんのアパートにせた[9]。マックス・ジャコブとピカソはイタリア画家がか小説しょうせつアルデンゴ・ソッフィチフランス語ふらんすごばんかいして、文学ぶんがく芸術げいじゅつ雑誌ざっしラ・プリュームフランス語ふらんすごばん』に寄稿きこう[11]、やがて、ソッフィチらのイタリアの画家がかやスペインの画家がか当時とうじまだまずしかったおも外国がいこくじん芸術げいじゅつんでいたモンマルトル木造もくぞう家屋かおく洗濯せんたくせん」に入居にゅうきょした。暖房だんぼうなどの設備せつびはなく、飲料いんりょうすい水飲みずのじょうが1かしょあるだけのアトリエ10部屋へやほどのこの家屋かおくを「洗濯せんたくせん」と名付なづけたのはマックス・ジャコブであった。はじめてこの建物たてものたときに、(通常つうじょうそとさない)洗濯せんたくぶつされていたため、セーヌがわかぶ洗濯せんたく専用せんようふね連想れんそうしたからであった[12]のちかれは「洗濯せんたくせん」を「絵画かいが中央ちゅうおう実験じっけんしつ」とんだ[13](「中央ちゅうおう実験じっけんしつ」は1922ねん発表はっぴょう詩集ししゅう書名しょめいにもなっている)。これは「洗濯せんたくせん」がピカソやモディリアーニらの前衛ぜんえい画家がか活動かつどう拠点きょてんとなり、なによりもピカソが1907ねんに『アビニヨンのむすめたち』をえがいた場所ばしょ、すなわち、キュビスム誕生たんじょうした場所ばしょとしてられることになったからである[14]

1904ねんはじめて著書ちょしょ自費じひ出版しゅっぱん発表はっぴょうした。児童じどう文学ぶんがくたん編集へんしゅう『カブールおういちせい見習みならいコックのゴーヴァンの物語ものがたり』である[15]同年どうねんにはまた、子供こどもけの雑誌ざっし今週こんしゅう読書どくしょ』に4かいにわたって連載れんさいした短編たんぺんを『太陽たいよう巨人きょじん』として発表はっぴょう。これは、アシェット出版しゅっぱんしゃ子会社こがいしゃ「リブレリー・ジェネラル(総合そうごう書店しょてん)」から刊行かんこうされた[16]

マックス・ジャコブさく《ギヨーム・アポリネールとかれのミューズ》(1910ねん

モンマルトルで美術びじゅつ評論ひょうろんアンドレ・サルモンフランス語ふらんすごばん出会であい、ピカソをかいしてアポリネールとしたしくなった。「洗濯せんたくせん」は、1908ねんにピカソの提案ていあんで、マックス・ジャコブ、アポリネール、マリー・ローランサンらが当時とうじまだ評価ひょうかされていなかった素朴そぼく画家がかアンリ・ルソーたたえるかい開催かいさいしたことでもられるが[17][18]よく1909ねんにルソーはアポリネールとローランサンをモデルに《詩人しじん霊感れいかんあたえるミューズ》(油彩ゆさい)をえがき、これにたいしてマックス・ジャコブもまたよく1910ねん二人ふたりえがいた《ギヨーム・アポリネールとかれのミューズ》(淡彩たんさい)を発表はっぴょうした[19]。また、フォーヴィスムやキュビスムの画家がか支持しじし、「ピカソの画商がしょう」としてられることになるドイツ出身しゅっしん画商がしょう美術びじゅつ評論ひょうろんダニエル=ヘンリー・カーンワイラーは、1907ねん、23さいのときに、パリ9ヴィニヨンどおフランス語ふらんすごばん28番地ばんち画廊がろうひら[20][21]、マックス・ジャコブの「マトレルさんさく」を出版しゅっぱんするなどかれ支援しえんした。

1908ねんから1909ねんにかけて、「洗濯せんたくせん」を拠点きょてんとするおおくのモンマルトルのボヘミアン画家がか作家さっか親交しんこうふかめた。ピカソ、アンドレ・サルモン、アポリネール、ローランサンのほか、画家がかユトリロシュザンヌ・ヴァラドンピエール・マック・オルランフランス語ふらんすごばん、モディリアーニ、キース・ヴァン・ドンゲンフアン・グリスルイ・マルクーシジャック・ヴィヨンオットー・フロイントリッヒアンリ・エダンフランス語ふらんすごばんアンリ・ローランスフランス語ふらんすごばんモーリス・ド・ヴラマンクアンドレ・ドランジョルジュ・ブラックラウル・デュフィ作家さっかジュール・ロマンジョルジュ・デュアメルポール・フォールフランス語ふらんすごばんフランシス・カルコフランス語ふらんすごばんロラン・ドルジュレスフランス語ふらんすごばんアンドレ・ヴァルノフランス語ふらんすごばん、さらに俳優はいゆう演出えんしゅつシャルル・デュランアリ・ボールフランス語ふらんすごばんらとしたしかったが[2]、マックス・ジャコブは交友こうゆう関係かんけいひろさでもられ、くなるまで毎日まいにちのように手紙てがみき、膨大ぼうだい書簡しょかんしゅうのこしている。当時とうじかれらはおもに「フレデじいさん」ことフレデリック・ジェラールが経営けいえいするキャバレーオ・ラパン・アジル」にあつまった。前衛ぜんえい芸術げいじゅつ文学ぶんがく拠点きょてんがモンマルトルからモンパルナスうつまえ全盛期ぜんせいきであった[22]

見神けんしん洗礼せんれい[編集へんしゅう]

マックス・ジャコブは2見神けんしん体験たいけんをしている。哲学てつがく神秘しんぴ思想しそう占星術せんせいじゅつカバラ(ユダヤきょう神秘しんぴ思想しそう)などにかんするおおくの著書ちょしょんでいた影響えいきょう指摘してきされるが[2]最初さいしょは1909ねん9がつ7にちであった。「洗濯せんたくせん」にもどったとき、かべキリスト出現しゅつげんした。そのうつくしさに感動かんどうしたかれは、翌日よくじつちかくのモンマルトルひじりヨハネ教会きょうかいÉglise Saint-Jean de Montmartre)へって、司祭しさい洗礼せんれいけたいともうたが、当時とうじのモンマルトルのボヘミアンの退廃たいはいてきらしをっていた司祭しさいは、このもうをあっさりとことわった。2度目どめは1914ねん12月、映画えいがかんでの見神けんしんであった。もはやかみ存在そんざいうたが余地よちはないとして、1915ねん2がつ18にちにパリ6ノートル=ダム・ド・シオン修道しゅうどうかいCongrégation de Notre-Dame de Sion)で洗礼せんれいけた。だいちちはピカソであり、洗礼せんれいめいキプリアヌスである[8]。キプリアヌスは「教会きょうかいそとすくいなし」という言葉ことばのこし、迫害はくがいけて殉教じゅんきょうしたカルタゴ聖人せいじんである[23]。ピカソはからかい半分はんぶんに「フィアークル」という洗礼せんれいめい提案ていあんしていた[8]。フィアークルはアイルランド隠者いんじゃ庭師にわし御者ぎょしゃ守護しゅご聖人せいじんだが、この聖人せいじんちな宿泊しゅくはく施設しせつ「サン=フィアークル」がフランス語ふらんすごで「つじ馬車ばしゃ」を意味いみする「フィアークル」の語源ごげんであり、したがって通常つうじょうはたんに「つじ馬車ばしゃ」をあらわす[24][25]

ブルターニュの風土ふうど[編集へんしゅう]

1909ねんごろから故郷こきょうのカンペールとパリをしながら制作せいさくつづけた。カンペールでは、同地どうち風土ふうどえがいた画家がかでマックス・ジャコブの肖像しょうぞうカンペール美術館びじゅつかんくら)もなんまいえがいているピエール・ド・ブレフランス語ふらんすごばん[5]同様どうようにカンペールにかんする著書ちょしょられる作家さっかピエール・アリエ(Pierre Allier)[26]したしく、俳優はいゆうノエル・ロクヴェールフランス語ふらんすごばん家族かぞくがカンペールで結成けっせいした劇団げきだんサーカス「ベネヴァン」の演目えんもく紹介しょうかいする記事きじ発表はっぴょうするなど、地元じもとでの文化ぶんか活動かつどうにも貢献こうけんした[2]。また、1911ねんにはブルターニュをうたった詩集ししゅう海岸かいがん ― ブルターニュのうた』を発表はっぴょうし、晩年ばんねんにピエール・アリエにすすめられていた「ブルターニュふうの」『ゲールじんモルヴァンの詩集ししゅう』は、ブルターニュのあいし、同地どうち隠棲いんせいしたサン=ポル=ルー絶賛ぜっさんされた[27]

1911ねんから1914ねんにかけてせいマトレルまたは修道しゅうどうマトレルを主人公しゅじんこうとする作品さくひん発表はっぴょうした。小説しょうせつせいマトレル』、詩集ししゅう『バルセロナ修道院しゅうどういんんだ修道しゅうどうマトレルの滑稽こっけい神秘しんぴてき作品さくひん』、戯曲ぎきょく『エルサレム攻囲こういせんせいマトレルのおおいなるかみ誘惑ゆうわく』のさんさくである。いずれもカーンワイラーが出版しゅっぱんし、『エルサレム攻囲こういせん』はピカソによる挿絵さしえはいりである。無意識むいしきゆめ幻覚げんかくなどの精神せいしん世界せかいえがくこれらの作品さくひんはダダイスムやシュルレアリスムの先駆さきがけであり、マックス・ジャコブの場合ばあいケルトドルイド信仰しんこうちか神秘しんぴ思想しそう特徴とくちょうである[28]

骰子さいころとう - あたらしい散文詩さんぶんし[編集へんしゅう]

モディリアーニさく《マックス・ジャコブの肖像しょうぞう》(油彩ゆさい、1916ねん

こうした精神せいしん世界せかい探求たんきゅうが、1917ねん発表はっぴょう散文詩さんぶんししゅう骰子さいころとう(さいころづつ、Le Cornet à dés)』に結実けつじつする。「コルネ・ア・デ」とは、さいころれてってころがすときに使つかつつ、すなわち、「さいとうさい及筒、ダイスカップ」である[29]ミシェル・レリスは1945ねん刊行かんこうガリマールはん序文じょぶんで、この書名しょめいは、「限定げんていてきなモノ」に「無限むげん偶然ぐうぜん、さいころあそびをあらわすアラビア語源ごげんとする偶然ぐうぜん」がはいっているという「示唆しさんだ曖昧あいまいさ」をあらわし、また、さいころは、キュビスムの絵画かいがにたびたびえがかれると同時どうじに、古代こだいローマ兵士へいしがキリストのせいころもれるためにさいころでけをしたので、キリストの受難じゅなん連想れんそうさせる言葉ことばでもある」と解説かいせつしている[30]

浅野あさのあきらは、マックス・ジャコブをアポリネールとともに「立体りったい(キュビスム)を代表だいひょうする特異とくい詩人しじん」とし、におけるキュビスムを「旧来きゅうらい作詩さくしほうから解放かいほうされた自由じゆう韻律いんりつと、口語こうご俗語ぞくご使用しようによるイメージ絶対ぜったいてき自由じゆう確立かくりつ、つまり、〈あたらしい現実げんじつ〉の発見はっけん目標もくひょうにしていた」、とくに、マックス・ジャコブのは、「するど諷刺ふうしにつらぬかれ、愉快ゆかい嘲笑ちょうしょう洒脱しゃだつ洒落しゃれにみちあふれている」とひょうしている[31]

モディリアーニさく《マックス・ジャコブの肖像しょうぞう》(油彩ゆさい、1916ねん

1913ねんバカンスは、ピカソ、ブラック、フアン・グリスとともにスペインとの国境こっきょうちかセレピレネー=ゾリアンタルけん)でごした。現在げんざいセレ近代きんだい美術館びじゅつかんフランス語ふらんすごばんとなっている建物たてものは、当時とうじ、「洗濯せんたくせん」を拠点きょてんとするイタリアやスペインの画家がかとくにキュビスト)がもうひとつの拠点きょてんとした場所ばしょであり、1916ねん以降いこうは、おもに「ラ・リューシュ」を拠点きょてんとするモンパルナスの前衛ぜんえい画家がかとくソ連それんちゅう東欧とうおうでの弾圧だんあつのがれてフランスに亡命ぼうめいしたユダヤじん画家がかモイズ・キスリングシャイム・スーティンマルク・シャガールピンクス・クレメーニュフランス語ふらんすごばんらがあつまった[32]。マックス・ジャコブとピカソはさらにピカソの故郷こきょうスペインのフィゲラスおとずれた。とりわけ、カタルーニャ民族みんぞく舞踏ぶとうサルダーナスペインばん感動かんどうしたマックス・ジャコブは、詩集ししゅう中央ちゅうおう実験じっけんしつ』(1921年刊ねんかん所収しょしゅう「サルダーナとテノーラスペインばん栄光えいこう」をピカソにささげている[33]

前衛ぜんえい芸術げいじゅつ文学ぶんがく音楽おんがく[編集へんしゅう]

1914ねんだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつ。マックス・ジャコブは健康けんこうじょう理由りゆうにより入隊にゅうたい拒否きょひされたが[2]、パリにまり、動員どういんされた友人ゆうじんたちと頻繁ひんぱん手紙てがみのやりりをつづけた。1916ねんには骨董こっとうひん蒐集しゅうしゅうジョゼフ・アルトゥニアンにささげる掲載けいさいしたしょう冊子さっし連合れんごうこくアルメニアにいる』を発表はっぴょうした。アルトゥニアンはイズミルまれたアルメニアけいトルコひとで、1908ねんアルメニアじん虐殺ぎゃくさつのがれてわたりふつ。マックス・ジャコブだけでなく、の「洗濯せんたくせん」の芸術げいじゅつとくにピカソ、アポリネール、モディリアーニとしたしかった。ジョルジュ・クレマンソーかいしてオーギュスト・ロダンい、ロダンからの依頼いらいおも古代こだいエジプト彫刻ちょうこく蒐集しゅうしゅうし、現在げんざいロダン美術館びじゅつかんにその一部いちぶ展示てんじされているが、2019ねんにアルトゥニアン・コレクションやく400てん総額そうがく100まんユーロ)がすべてパリのアールキュリアルフランス語ふらんすごばん競売きょうばいにかけられた。コレクションにはアルトゥニアンの肖像しょうぞうなどモディリアーニの素描そびょうすうてんふくまれ、当時とうじまずしかったモディリアーニから二束三文にそくさんもんったものであったが、1920ねんくなったモディリアーニのわりにマックス・ジャコブが「モディリアーニが1917ねんえがいたアルトゥニアンの肖像しょうぞうであることを証明しょうめいする」と、制作せいさく現場げんばったものとして証言しょうげんしていた[34][35][36][37]。マックス・ジャコブの詩集ししゅう連合れんごうこくはアルメニアにいる』は洗礼せんれいめいキプリアヌスのCをくわえた「C・マックス・ジャコブ」の筆名ひつめいで「アルメニアへのオマージュ」として制作せいさくされたものであり、非売品ひばいひんであったが、1922ねんしんフランス評論ひょうろんNRF出版しゅっぱんしゃから刊行かんこうされたマリー・ローランサンの版画はんが作品さくひんしゅう扇子せんす』にさいおさむされ、はじめて公表こうひょうされることになった。この作品さくひんしゅうにはロジェ・アラールフランス語ふらんすごばんアンドレ・ブルトン、フランシス・カルコの掲載けいさいされた[38]

戦時せんじなかとはいえ、パリでは前衛ぜんえい芸術げいじゅつ運動うんどう次々つぎつぎこっていた。マックス・ジャコブは1917ねん3がつにアポリネール、ピエール・ルヴェルディとともに『南北なんぼく創刊そうかんした。めいは1910ねんにパリの2つの前衛ぜんえい芸術げいじゅつ文学ぶんがくしゃ活動かつどう拠点きょてんモンマルトル(パリ北部ほくぶ、「洗濯せんたくせん」)とモンパルナス(パリ南部なんぶ、「ラ・リューシュ」)をつなぐ地下鉄ちかてつ開通かいつうしたことにちなんで命名めいめいされ、この2つの拠点きょてんをつなぐことを意図いとしたものであった。発行はっこう部数ぶすうは100~200すくなかったが、1917ねん3がつ15にちから1918ねん10がつまでけい16ごう刊行かんこうされ、当初とうしょはキュビスムの雑誌ざっしいでダダイスム、さらにシュルレアリスムの先駆さきがけとされる前衛ぜんえい芸術げいじゅつ文学ぶんがく雑誌ざっしであった。マックス・ジャコブは毎回まいかい短編たんぺん掲載けいさいした。「十字架じゅうじかにかけられたものの5つ傷口きずぐちニーチェの『悲劇ひげきてき』」、「心理しんりてき意識いしき十字架じゅうじかにかけられたものの5つ傷口きずぐち」、「演劇えんげき映画えいが」など詩的してき表現ひょうげんによる論考ろんこう発表はっぴょうしている[39][40]。『南北なんぼくにはダダイスム、シュルレアリスムの運動うんどう牽引けんいんすることになるアンドレ・ブルトン、ルイ・アラゴンフィリップ・スーポートリスタン・ツァラ寄稿きこうしていたが、マックス・ジャコブは、1919ねん2がつにブルトン、アラゴン、スーポーによって創刊そうかんされ、ダダイスムの機関きかんとなった『リテラチュール文学ぶんがく)』にも、《モナ・リザ盗難とうなん嫌疑けんぎをかけられたアポリネールをはげまし支援しえんするために、あたらしい活動かつどうとして創刊そうかんされた『レ・ソワレ・ドゥ・パリ』のだいシリーズ(アポリネールが主宰しゅさい)にも寄稿きこうするなど[41]おおくの前衛ぜんえい芸術げいじゅつ運動うんどうかかわっていた。

こうした活動かつどうつうじてマックス・ジャコブはおおくの若手わかて発掘はっくつした。1919ねんにまだ16さいレイモン・ラディゲ評価ひょうかし、ジャン・コクトー紹介しょうかいした(コクトーは1923ねんのラディゲの早世そうせいふか精神せいしんてき打撃だげきけた)。絵画かいが文学ぶんがくだけでなく音楽おんがくでも、パリで活動かつどうはじめたジャズ・ミュージシャンを評価ひょうかし、6人組にんぐみフランシス・プーランクジェルメーヌ・タイユフェールルイ・デュレダリウス・ミヨーアルテュール・オネゲルジョルジュ・オーリック)やピアニストマルセル・メイエおっと俳優はいゆうピエール・ベルタンフランス語ふらんすごばん親交しんこうふかめ、戯曲ぎきょくオペラオペラ・ブッフ制作せいさくするなどわか音楽家おんがくか支援しえんした。1922ねんには作曲さっきょくロラン=マニュエルのためにオペラ・ブッフ『イザベルとパンタロン』の台本だいほんリブレット)をき、18劇場げきじょうトリアノン・リリック(げんル・トリアノン)で上演じょうえんされた[42]

ジャック=エミール・ブランシュさく《マックス・ジャコブの肖像しょうぞう習作しゅうさく》(1921ねん

1921ねんにパリの画廊がろうでマックス・ジャコブのグワッシュ中心ちゅうしんとする個展こてんおこなわれた。また、大戦たいせんちゅう休刊きゅうかんとなっていた『しんフランス評論ひょうろん (NRF)』が、1919ねん6がつしん編集へんしゅうちょうジャック・リヴィエールのもとで活動かつどう再開さいかいし、同誌どうし寄稿きこうしゃのち編集へんしゅうちょうつとめることになるジャン・ポーラン仲介ちゅうかいにより、以後いご、マックス・ジャコブの著書ちょしょしんフランス評論ひょうろん出版しゅっぱんしゃ(ガリマール出版しゅっぱんしゃ)から刊行かんこうされることになった[5]

最初さいしょ隠棲いんせい[編集へんしゅう]

マックス・ジャコブは、カトリックの洗礼せんれいけてから2、サン=ブノワ=シュル=ロワール(ロワレけん、サントル=ヴァル・ド・ロワール地域ちいきけん)に隠棲いんせいした。パリからみなみへ150キロほどのところにある同地どうちにはサン=ブノワ=シュル=ロワール修道院しゅうどういんフランス語ふらんすごばん(フルリ修道院しゅうどういん)があり、かれはここでいのりと制作せいさく専念せんねんする生活せいかつおくった。最初さいしょ隠棲いんせいは1921ねんから1928ねんまで、2度目どめは1936ねんからゲシュタポに逮捕たいほされる1944ねんまでである。隠棲いんせいちゅうもカーンワーラー、コクトー、ピカソ、キスリング、サルモン、さらにロラン=マニュエル、ミシェル・レリス、アルマン・サラクルーマルセル・ジュアンドーフランス語ふらんすごばんルネ・ランベールフランス語ふらんすごばんエリー・ラスコーフランス語ふらんすごばんらにおびただしいかず手紙てがみいた[2]

1925ねんひじりみのるローマおとずれ、イタリアを旅行りょこう。ブルターニュの友人ゆうじんで(アルベール・カミュとしてられる)作家さっかジャン・グルニエフランス語ふらんすごばん[43]再会さいかいした。このふたたびスペインを旅行りょこうし、マドリードプラド美術館びじゅつかんいでトレドだい聖堂せいどうおとずれた。グルニエあて手紙てがみでプラド美術館びじゅつかんを「かく画家がか名画めいががあって世界せかいもっとうつくしい美術館びじゅつかん」ととなえ、トレドだい聖堂せいどうエル・グレコ絵画かいが出会であった感動かんどうつたえる一方いっぽう、マックス・ジャコブはかつてピカソとスペインをおとずれたときとはぎゃくに、スペインの風土ふうど人々ひとびとにはあるしゅ失望しつぼうあらわしている[33]

グルニエとはこれ以後いご頻繁ひんぱんい、かれかいしてサン=ブリユーブルターニュ地域ちいきけんコート=ダルモールけん)でった同地どうち出身しゅっしんルイ・ギユーフランス語ふらんすごばんを「本物ほんものの」小説しょうせつとなえ、また、おなじブルターニュのプロアレで同地どうち画家がかジャン・コル(Jean Colle)に出会であい、以後いご生涯しょうがいにわたって親交しんこうふかめるなど、とりわけ、ブルターニュ出身しゅっしん作家さっか画家がかとのつながりがひろがった。1898ねんからブルターニュに隠棲いんせいしていたサン=ポル=ルーと頻繁ひんぱん手紙てがみのやりりをし、かれにブルターニュをうたった『ゲールじんモルヴァンの詩集ししゅう』を絶賛ぜっさんされたのもこのころである。

ふたたびパリ[編集へんしゅう]

1928ねん、パリでの活動かつどう再開さいかいし、しばらく5んだのち17ノレどおフランス語ふらんすごばんし、ここに6ねんらした。マックス・ジャコブは、今度こんど画家がかとしててようとかんがえ、はやくも1930ねんには、同郷どうきょうのピエール・コルや画商がしょうジャック=ポール・ボンジャンフランス語ふらんすごばん協力きょうりょくて、パリとニューヨーク個展こてんおこなわれた[5]。マックス・ジャコブがんでいた地区ちくには、作曲さっきょくのアンリ・ソーゲ、インドがく音楽おんがくがく専門せんもんアラン・ダニエルーフランス語ふらんすごばん、1928ねんにジャック・ボンジャンと、いで1930ねんにはピエール・コルとともに18画廊がろうかまえたクリスチャン・ディオール画家がかクリスチャン・ベラールフランス語ふらんすごばんらのわか芸術げいじゅつおおみ、かつてのモンマルトルのような活気かっきがあった。マックス・ジャコブは当時とうじまだ20だいであったソーゲのためにオペレッタ『ティツィアーノのあい』の台本だいほんいてかれ活動かつどう支援しえんした[44]

クリストファー・ウッドさく《マックス・ジャコブの肖像しょうぞう》(1929ねん、カンペール美術館びじゅつかんぞう

1929ねんにピエール・コルとともにくるまでブルターニュにかう途中とちゅう交通こうつう事故じこい、カンペールの家族かぞくのもとで療養りょうようすることになった。すうげつにわたるカンペール滞在たいざいちゅうに、当時とうじ同地どうち活動かつどうしていた英国えいこくまれのわか画家がかクリストファー・ウッド出会であった。ウッドはこのとき、《マックス・ジャコブの肖像しょうぞう》(1929ねん、カンペール美術館びじゅつかんぞう)をえがいた。よく1930ねんソールズベリーもどったウッドが自殺じさつし、マックス・ジャコブはふかかなしみにちひしがれた[5]

2度目どめ隠棲いんせい[編集へんしゅう]

1933ねんレジオンドヌール勲章くんしょうシュバリエを[45]、フランスの地方ちほう世界せかい各国かっこく講演こうえんかいおこなった。1936ねんにはふたたびサン=ブノワ=シュル=ロワールに隠棲いんせいし、以後いご、パリにもどることはなかったが、画家がかロジェ・トゥールーズフランス語ふらんすごばん詩人しじんミシェル・マノルフランス語ふらんすごばんマルセル・ベアリュフランス語ふらんすごばんジャン・ブーイエールフランス語ふらんすごばんルネ・ギー・カドゥーフランス語ふらんすごばんなどわか才能さいのう次々つぎつぎ発掘はっくつした。ロジェ・トゥールーズもまた《マックス・ジャコブの肖像しょうぞう、またはらんのある肖像しょうぞう》(カンペール美術館びじゅつかんぞう)をえがいている。

1939ねんだい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつすると、ナチス・ドイツによってはんナチスてき書物しょもつユダヤじんによる出版しゅっぱん禁止きんしされ、きびしい検閲けんえつおこなわれた。『しんフランス評論ひょうろん』も1940ねん6がつ1にちにいったんおわりかんとなり、ポーランは編集へんしゅうちょう辞任じにんし、たいどく協力きょうりょく転向てんこうしたピエール・ドリュ・ラ・ロシェルのもとに再刊さいかんされた。これはちゅうふつドイツ大使たいしオットー・アベッツフランス語ふらんすごばん要請ようせいによるものであり、アベッツは別途べっと禁書きんしょ目録もくろくオットー・リストフランス語ふらんすごばん」を発表はっぴょう。これは発禁はっきんまたは書店しょてんから回収かいしゅうする842にんのユダヤじん作家さっかはんナチス作家さっかおも共産きょうさん主義しゅぎもの)の著書ちょしょ1,060さつ一覧いちらんであり、マックス・ジャコブの最後さいご詩集ししゅう『バラード』(1938ねん発表はっぴょう)もふくまれていた[46]

サン=ブノワ=シュル=ロワール修道院しゅうどういんちかくを散歩さんぽするマックス・ジャコブ

1939ねん、マックス・ジャコブは遺言ゆいごん作成さくせいし、ピエール・コルを遺言ゆいごん執行しっこうしゃ指定していした。ピエール・コルはマックス・ジャコブの著書ちょしょあつめてカンペール図書館としょかん寄贈きぞうし、サン=ブノワ=シュル=ロワール墓地ぼちにマックス・ジャコブのはかてるはずをととのえた。マックス・ジャコブは同年どうねん詩人しじんエドモン・ジャベスあて手紙てがみに、「わたしはこのえた。殉教者じゅんきょうしゃとなることを甘受かんじゅする」といている[47]

「このいえに、1876ねん7がつ12にちにカンペールにまれ、1944ねん3がつ5にちにドランシー収容しゅうようしょ死去しきょした詩人しじんマックス・ジャコブが1939ねんから1944ねんまでんでいた」とかれた銘板めいばん(サン=ブノワ=シュル=ロワール)
サン=ブノワ=シュル=ロワール墓地ぼちのマックス・ジャコブのはか

1942ねんにカンペールでサロンをひらいていた医師いしオーギュスタン・テュセフランス語ふらんすごばんのもとにマックス・ジャコブの友人ゆうじんサン=ポル=ルー、薬剤師やくざいし聖職せいしょくしゃジャン・レオナルディフランス語ふらんすごばん作家さっかルイ=フェルディナン・セリーヌレジスタンス運動うんどういえジャン・ムーランなどがあつまっていた。同年どうねん6がつにはヴィシー政権せいけんによりユダヤじん財産ざいさん没収ぼっしゅうされ、ダビデのほし着用ちゃくよう義務ぎむされた。12月にあにガストンがカンペールで逮捕たいほされ、よく43ねん2がつ16にちアウシュヴィッツ強制きょうせい移送いそうされた。マックス・ジャコブは、おおくの友人ゆうじんから自宅じたくにかくまう、自由じゆう地域ちいきフランス語ふらんすごばんへの逃亡とうぼう手伝てつだう、偽造ぎぞう身分みぶん証明しょうめいしょれるといったもうけたが、すべて拒否きょひし、みずからを「ユダヤじん両親りょうしん祖父母そふぼをもつ」フランスじんとして登録とうろくした[2]

1944ねん1がついもうとのミルテ=レアがパリでゲシュタポに逮捕たいほされ、ドランシー収容しゅうようしょおくられた。2月24にち、マックス・ジャコブも逮捕たいほされてオルレアン刑務所けいむしょ収容しゅうようされ、4にち囚人しゅうじん番号ばんごう15872としてドランシー収容しゅうようしょおくられた。ミルテ=レアをさがしたが、彼女かのじょはすでにアウシュヴィッツに移送いそうされ、到着とうちゃくまもなくガスしつおくられていた[2]

死去しきょ没後ぼつご[編集へんしゅう]

1944ねん3がつ6にち、マックス・ジャコブは肺炎はいえんによりドランシー収容しゅうようしょ死去しきょした。享年きょうねん67さい。イヴリー墓地ぼち共同きょうどう墓穴ぼけつ埋葬まいそうされたが、戦後せんご1949ねん3がつ5にちに、正式せいしき葬儀そうぎおこなわれたのちかれ遺骨いこつはサン=ブノワ=シュル=ロワールにうつされ、同地どうち墓地ぼち埋葬まいそうされた。1960ねん11月17にち、「フランスのためにす」と正式せいしき認定にんていされ、戸籍こせき記載きさいされた。この認定にんてい通常つうじょう家族かぞくによる申請しんせいもとづいておこなわれるが、マックス・ジャコブには家族かぞくがなかったため、オルレアン市長しちょうわりに申請しんせいしたものであった[48]

1949ねん3がつ5にちに「マックス・ジャコブともかい」が結成けっせいされた。初代しょだい名誉めいよ会長かいちょうはピカソ、理事りじ会員かいいんはオルレアン司教しきょうクールクー猊下げいか、アルベール・フルロー教会きょうかい参事さんじ会員かいいん芸術げいじゅつ仲間なかまポール・クローデルアカデミー・フランセーズ会員かいいん)、ジャン・カスージャン・フォランフランス語ふらんすごばん、ルイ・ギユー、ジュリアン・ラノエフランス語ふらんすごばんモーリス・モレルフランス語ふらんすごばん、アンドレ・サルモン、ジャン・ポーラン、アンリ・ソーゲ、おとうとのジャック・ジャコブであった。ソーゲは会長かいちょう兼任けんにんした[49]

作品さくひん[編集へんしゅう]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

初版しょはんのみしめす。おおくの著書ちょしょがそのガリマールしゃから再刊さいかんされている。

詩集ししゅう[編集へんしゅう]

邦題ほうだいためしやく 原題げんだい 書誌しょし情報じょうほう
海岸かいがん ― ブルターニュのうた La Côte. Chants bretons 1911(自費じひ出版しゅっぱん
『バルセロナ修道院しゅうどういんんだ修道しゅうどうマトレルの滑稽こっけい神秘しんぴてき作品さくひん Les Œuvres burlesques et mystiques de Frère Matorel, mort au couvent de Barcelone Kahnweiler, 1912(マトレルさんさく
骰子さいころとう Le Cornet à dés 1917(自費じひ出版しゅっぱん
連合れんごうこくはアルメニアにいる』 Les Alliés sont en Arménie 1918(アルメニアへのオマージュ、しょう冊子さっし非売品ひばいひん
中央ちゅうおう実験じっけんしつ Le Laboratoire central Au Sans-Pareil, 1922
地獄じごく幻影げんえい Visions infernales Gallimard, 1924
薔薇色ばらいろ水着みずぎ悔悛かいしゅんしゃたち』 Les Pénitents en maillots roses Le Sagittaire / Simon Kra, 1925
水底みなそこ Fond de l'eau Les Cahiers libres, 1927
堂々どうどうたる犠牲ぎせい Sacrifice impérial Les Frères Émile Paul, 1929
きし Rivage Les Cahiers libres, 1931
『バラード』 Ballades René Debresse, 1939
最後さいご散文詩さんぶんし韻文いんぶん Derniers poèmes en vers et en prose Gallimard, 1945
きよんだおとこ L'Homme de cristal La Table ronde, 1946
『ゲールじんモルヴァンの詩集ししゅう Poèmes de Morven le Gaëlique Gallimard, 1953

たん編集へんしゅう[編集へんしゅう]

邦題ほうだいためしやく 原題げんだい 書誌しょし情報じょうほう
『カブールおういちせい見習みならいコックのゴーヴァンの物語ものがたり Histoire du roi Kaboul Ier et du marmiton Gauwain Alcide Picard & Kaan, 1904(児童じどう文学ぶんがく
太陽たいよう巨人きょじん Le Géant du Soleil Librairie générale, 1904(児童じどう文学ぶんがく
『ボイオティア』 Le Roi de Béotie Gallimard, 1921(児童じどう文学ぶんがく
らないで、おじょうさん、またはP. T. Tのあやまち』 Ne coupez pas, Mademoiselle, ou les Erreurs des P. T. T. Kahnweiler, 1921(哲学てつがくてきコント)
『ウルカヌスのかんむり La Couronne de Vulcain Kahnweiler, 1923(児童じどう文学ぶんがく

小説しょうせつ[編集へんしゅう]

邦題ほうだいためしやく 原題げんだい 書誌しょし情報じょうほう
せいマトレル』 Saint Matorel Kahnweiler, 1911(マトレルさんさく
種子しゅし植物しょくぶつ Le Phanérogame 1918(自費じひ出版しゅっぱん
『シネマトマ』 Cinématoma La Sirène, 1920
くろ書斎しょさい Le Cabinet noir Gallimard, 1922(書簡しょかん小説しょうせつ
『フィリビュートまたはかね時計とけい Filibuth ou la Montre en or Gallimard, 1922
生身なまみ人間にんげんかがみぞう人間にんげん L'Homme de chair et l'Homme reflet Le Sagittaire / Simon Kra, 1924
『フランスそののブルジョワ』 Bourgeois de France et d'ailleurs Gallimard, 1932

戯曲ぎきょく音楽おんがく作品さくひん台本だいほんとう[編集へんしゅう]

邦題ほうだいためしやく 原題げんだい 書誌しょし情報じょうほう
『エルサレム攻囲こういせんせいマトレルのおおいなるかみ誘惑ゆうわく Le Siège de Jérusalem‚ grande tentation céleste de Frère Matorel Kahnweiler, 1914.(マトレルさんさく、ピカソによる挿絵さしえ
『イザベルとパンタロン』 Isabelle et Pantalon 1919(オペラ・ブッフ台本だいほん、ロラン=マニュエルによる作曲さっきょく
『アルルカンの背中せなか Dos d'Arlequin Le Sagittaire / Simon Kra, 1921
『ブーシャバルの Le Terrain Bouchaballe Les Frères Émile Paul, 1922
『ティツィアーノのあい Un amour de Titien 1928(オペレッタ、アンリ・ソーゲによる作曲さっきょく

そのフランシス・プーランクがマックス・ジャコブのきょくけて発表はっぴょうしている[50]

評論ひょうろん随筆ずいひつ[編集へんしゅう]

邦題ほうだいためしやく 原題げんだい 書誌しょし情報じょうほう
『タルチュフの擁護ようご La Défense de Tartuffe Société littéraire de France, 1919
ほう Art Poétique Les Frères Émile Paul, 1922
『ブルジョワジーの絵画かいが Tableau de la Bourgeoisie Gallimard, 1929(歴史れきしがく社会しゃかいがくてき評論ひょうろん著者ちょしゃによる多数たすう石版せきばん素描そびょう
作品さくひんしゅう Morceaux choisis Gallimard, 1936
宗教しゅうきょう瞑想めいそう Méditations religieuses La Table ronde, 1945
占星術せんせいじゅつかがみ Miroir d'astrologie Gallimard, 1949(共著きょうちょ

書簡しょかんしゅう[編集へんしゅう]

邦題ほうだいためしやく 原題げんだい 書誌しょし情報じょうほう
『あるわか詩人しじんへの助言じょげん、ある学生がくせいへの助言じょげん Conseils à un jeune poète suivis de Conseils à un étudiant Gallimard, 1945
『ギヨーム・アポリネールあて刊行かんこう書簡しょかん Lettres inédites du poète à Guillaume Apollinaire Seghers, 1946
『ジャン・コクトーあて書簡しょかん選集せんしゅう 1919-1944』 Choix de lettres à Jean Cocteau. 1919-1944 Librairie Paul Morihien, 1949
『フランソワ・ガルニエ往復おうふく書簡しょかんだいIまき)カンペール・パリ(1876-1921)』 François Garnier, Correspondance, tome I "Quimper-Paris : 1876-1921" Éditions de Paris, 1953
『フランソワ・ガルニエ往復おうふく書簡しょかんだいIIまき)サン=ブノワ=シュル=ロワール(1921-1924)』 François Garnier, Correspondance, tome II "Saint-Benoit-sur-Loire : 1921-1924" Éditions de Paris, 1956
『サラクルーあて書簡しょかん(1923ねん8がつ - 1926ねん1がつ)』 Lettres aux Salacrou. Août 1923 - janvier 1926 Gallimard, 1958
ルネ・ヴィラールフランス語ふらんすごばんあて書簡しょかん名言めいげんしゅう Lettres à René Villard suivies du Cahier des Maximes Rougerie, 1978
リアーヌ・ド・プジーあて書簡しょかん Lettres à Liane de Pougy Plon, 1980
『ミシェル・マノルあて書簡しょかん Lettres à Michel Manoll Rougerie, 1985
ニーノ・フランク往復おうふく書簡しょかん Correspondance avec Nino Franck Peter Lang, 1989
友情ゆうじょうシャルル・ゴルドブラフランス語ふらんすごばんあて書簡しょかん L'Amitié - Lettres à Charles Goldblat Le Castor astral, 1994
『マックス・ジャコブ、ジャン・コクトー往復おうふく書簡しょかん 1917-1944』 Max Jacob, Jean Cocteau : correspondance 1917-1944 Paris Méditerranée, 2000
『ジャン・ポーランあて書簡しょかん Lettres à Jean Paulhan Paris Méditerranée, 2005
リオネル・フロックフランス語ふらんすごばんあて書簡しょかん Lettres à Lionel Floch Apogée, 2006
友情ゆうじょう愛情あいじょう書簡しょかんしゅう Les Amitiés & les Amours : correspondances L'Arganier, 2005 - 2006(ぜん3かん
ルイ・ギヨームフランス語ふらんすごばんあて書簡しょかん Lettres à Louis Guillaume La Part Commune, 2007
『あるわかおとこへの手紙てがみ 1941-1944』 Lettres à un jeune homme 1941-1944 Bartillat, 2009
『マックス・ジャコブ、アンドレ・サルモン 1905-1944』 Max Jacob-André Salmon, 1905-1944 Gallimard, 2009
『マックス・ジャコブがく ― 6にん友人ゆうじんへの手紙てがみシャルル・ウルモンフランス語ふらんすごばん、ルイ・ヴァイヤン、ジャン・カスー、ルネ・イシェフランス語ふらんすごばん、ルイ・デュムーラン、マルセル・メティヴィエ)』 Max Jacob écrit. Lettres à six amis. Charles Oulmont, Louis Vaillant, Jean Cassou, René Iché, Louis Dumoulin, Marcel Métivier Presses universitaires de Rennes (PUR), 2015

邦訳ほうやく[編集へんしゅう]

マックス・ジャコブの訳詩やくし掲載けいさいされているその著書ちょしょ

  • 堀口ほりぐち大學だいがく月下げっか一群いちぐん訳詩やくししゅうだいいち書房しょぼう、1925ねん
  • 堀口ほりぐち大學だいがく『キユピドのえびら抒情じょじょうやく詩集ししゅう太白たいはくしゃ、1930ねん
  • ほり辰雄たつお全集ぜんしゅう だい6かん新潮社しんちょうしゃ、1955ねん
  • 窪田くぼた般彌『なげきぶしふう墓碑銘ぼひめい書肆しょし山田やまだ、1981ねん
  • 浅野あさのあきら『フランス詩集ししゅう白鳳はくほうしゃ、1986ねん

絵画かいが[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e Archives municipales de Quimper. “Les ancêtres de Max Jacob à travers les fonds d'archives de la ville de Quimper” (フランス語ふらんすご). www.quimper.bzh. Ville de Quimper. 2020ねん2がつ16にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f g h i j k Hélène Henry. “Biobibliographie de Max Jacob” (フランス語ふらんすご). www.max-jacob.com. Association les Amis de Max Jacob. 2020ねん2がつ16にち閲覧えつらん
  3. ^ RANNOU, François (2017). “Le nom se mêle au pont de l’Enfer (méditation d’un lecteur)” (フランス語ふらんすご). Les Cahiers Max Jacob (Les Amis de Max Jacob) 17/18: 363-366. https://www.cahiersmaxjacob.org/cmj17-18/hommag.pdf. 
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  5. ^ a b c d e Yvon Le Bras, Fabienne Ruellan. “Max Jacob (1876-1944)” (フランス語ふらんすご). Musée des beaux-arts de Quimper. 2020ねん2がつ16にち閲覧えつらん
  6. ^ Max Jacob” (フランス語ふらんすご). www.abbaye-fleury.com. Abbaye de Fleury. 2020ねん2がつ16にち閲覧えつらん
  7. ^ Notice de périodique - Moniteur des arts (Paris. 1858)” (フランス語ふらんすご). Bibliothèque nationale de France. 2020ねん2がつ16にち閲覧えつらん
  8. ^ a b c Fhima Catherine (2002/1). “Max Jacob ou la symbiose des identités paradoxales” (フランス語ふらんすご). Archives Juives 35: 77-101. doi:10.3917/aj.351.0077. https://www.cairn.info/revue-archives-juives1-2002-1-page-77.htm#. 
  9. ^ a b Sur les pas des ecrivains : Max JACOB” (フランス語ふらんすご). www.terresdecrivains.com. 2020ねん2がつ16にち閲覧えつらん
  10. ^ Lachaud Martine (1994ねん7がつ21にち). “Histoire d'une amitié” (フランス語ふらんすご). LExpress.fr. L'Express. 2020ねん2がつ16にち閲覧えつらん
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  13. ^ Le Bateau Lavoir - Histoires de Montmartre Montmartre-Guide.com” (フランス語ふらんすご). Montmartre-Guide.com. 2020ねん2がつ16にち閲覧えつらん
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参考さんこう資料しりょう[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]