マックス・ジャコブ (Max Jacob フランス語 ふらんすご : [maks ʒakɔb] 、1876年 ねん 7月 がつ 12日 にち - 1944年 ねん 3月5日 にち )は、フランス の詩人 しじん ・小説 しょうせつ 家 か ・劇 げき 作家 さっか ・画家 がか ・美術 びじゅつ 評論 ひょうろん 家 か ・ホロコースト 犠牲 ぎせい 者 しゃ である。アポリネール とともにキュビスム を代表 だいひょう する特異 とくい な詩人 しじん 、ダダイスム ・シュルレアリスム の先駆 せんく 者 しゃ として新 あたら しい散文詩 さんぶんし を確立 かくりつ した。ピカソ 、モディリアーニ 、ジャン・コクトー をはじめとする前衛 ぜんえい 芸術 げいじゅつ 家 か ・文学 ぶんがく 者 しゃ と幅広 はばひろ く交流 こうりゅう し、膨大 ぼうだい な書簡 しょかん を遺 のこ した。アシュケナジム の家庭 かてい に生 う まれたが、2度 ど の見神 けんしん 体験 たいけん を経 へ た後 のち 、ピカソを代 だい 父 ちち としてカトリック の洗礼 せんれい を受 う けた。1921年 ねん から1928年 ねん まで、および1936年 ねん から1944年 ねん までサン=ブノワ=シュル=ロワール (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) (サントル=ヴァル・ド・ロワール地域 ちいき 圏 けん 、ロワレ県 けん )に隠棲 いんせい し、祈 いの り と制作 せいさく に専念 せんねん した。1944年 ねん にゲシュタポ に逮捕 たいほ され、ドランシー収容 しゅうよう 所 しょ で肺炎 はいえん のために死去 しきょ 。1949年 ねん に作曲 さっきょく 家 か のアンリ・ソーゲ を会長 かいちょう 、ピカソを名誉 めいよ 会長 かいちょう とする「マックス・ジャコブ友 とも の会 かい 」が結成 けっせい された。
マックス・ジャコブは1876年 ねん 7月 がつ 12日 にち 、ラザール・アレクサンドルとプリュダンス・アレクサンドル(旧姓 きゅうせい ジャコブ)の第 だい 四 よん 子 し マックス・ジャコブ・アレクサンドルとしてカンペール (ブルターニュ地域 ちいき 圏 けん 、フィニステール県 けん )に生 う まれた。
1867年 ねん のパリ万国博覧会 ばんこくはくらんかい に出展 しゅってん されたスケールの伝統 でんとう 的 てき な衣装 いしょう (制作 せいさく 者 しゃ 不明 ふめい )
祖父 そふ サミュエル・アレクサンドルは、ザールラント州 しゅう ノインキルヒェン に生 う まれたユダヤ人 じん である。したがってドイツ 国籍 こくせき であり、1888年 ねん にフランスで提出 ていしゅつ された外国 がいこく 人 じん 届 とどけ によると、生年 せいねん は1811年 ねん とされる。フランスに移住 いじゅう して商業 しょうぎょう を営 いとな み、ミルテ・レア・マイヤーと結婚 けっこん した[1] 。アレクサンドル夫妻 ふさい はフランス北部 ほくぶ を転々 てんてん とし、1846年 ねん にパリで長女 ちょうじょ ジュリーが生 う まれ、翌 よく 1847年 ねん にトゥールで長男 ちょうなん ラザール・ジャコブ(マックス・ジャコブの父 ちち )が生 う まれた。1850年 ねん にはロリアン (ブルターニュ)で二男 じなん モーリスが生 う まれた。一家 いっか がカンペールに移 うつ り住 す んだのは1858年 ねん 頃 ごろ とされる[1] [2] 。アレクサンドル家 か は仕立屋 したてや として大 おお きな成功 せいこう を収 おさ め、ブルターニュ地方 ちほう のスケール (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 、プロアレ (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 、ポン=ラベ などの伝統 でんとう 的 てき な衣装 いしょう を制作 せいさく して、1867年 ねん のパリ万国博覧会 ばんこくはくらんかい に出展 しゅってん するほどであった[1] 。
ラザール・ジャコブとモーリスは普 ひろし 仏 ふつ 戦争 せんそう (1870-71年 ねん )での勲功 くんこう により、1873年 ねん にフランス国籍 こくせき を与 あた えられた[2] 。ラザール・ジャコブは家業 かぎょう の仕立屋 したてや を引 ひ き継 つ ぎ、1971年 ねん にパリ生 う まれのプリュダンス・ジャコブと結婚 けっこん した。マックス・ジャコブは、姉 あね ジュリー・デルフィーヌ(1872年 ねん 生 う まれ)、兄 あに モーリス(1874年 ねん 生 う まれ)とガストン・ジャコブ(1875年 ねん 生 う まれ)、弟 おとうと ジャック・ジャコブ(1880年 ねん 生 う まれ)、妹 いもうと ミルテ・レア・ジャコブ(1884年 ねん 生 う まれ)とジュザンヌ(1887年 ねん 生 う まれ)の7人 にん 兄弟 きょうだい 姉妹 しまい である[1] 。
1888年 ねん に、アレクサンドル家 か はトゥール 行政 ぎょうせい 裁判所 さいばんしょ にジャコブへの改姓 かいせい を申請 しんせい し、許可 きょか を得 え た。これは、ロリアンに住 す み、共同 きょうどう で事業 じぎょう を営 いとな んでいたジャコブ家 か と社名 しゃめい を統一 とういつ するためであったとされる。これ以後 いご 、マックス・ジャコブ・アレクサンドルはマックス・ジャコブを名乗 なの ることになる(姓 せい の「ジャコブ」と重複 じゅうふく する名前 なまえ の「ジャコブ」は削除 さくじょ された)[1] [3] 。
マックス・ジャコブの自画 じが 像 ぞう (素描 そびょう 、1901年 ねん )
ジャコブ家 か はユダヤ教徒 きょうと として礼拝 れいはい などの儀式 ぎしき に参加 さんか するわけではなく、マックス自身 じしん はむしろカトリックに対 たい する憧 あこが れがあったが、特 とく に祖父 そふ サミュエルに教 おし えられたユダヤ文化 ぶんか やドイツ文化 ぶんか 、そしてブルターニュの風土 ふうど は後 ご の作品 さくひん に大 おお きな影響 えいきょう を及 およ ぼすことになる[2] 。
マックスは想像 そうぞう 力 りょく が豊 ゆた かな子 こ どもであったが、動作 どうさ が緩慢 かんまん で注意 ちゅうい 力 りょく が散漫 さんまん であったため両親 りょうしん が心配 しんぱい して、14歳 さい の頃 ころ にパリの著名 ちょめい な神経 しんけい 科 か 医 い ジャン=マルタン・シャルコー に相談 そうだん し、約 やく 1年 ねん にわたってパリ で療養 りょうよう することになった[4] 。カンペールに戻 もど った後 のち 、リセ では優秀 ゆうしゅう な学生 がくせい として教師 きょうし にも期待 きたい され、読書 どくしょ に耽 ふけ ると同時 どうじ に、特 とく に音楽 おんがく や絵画 かいが に深 ふか い関心 かんしん を寄 よ せた[2] 。1894年 ねん (18歳 さい )、優等 ゆうとう 賞 しょう を得 え てリセを卒業 そつぎょう し、バカロレア を取得 しゅとく 。植民 しょくみん 地 ち の行政 ぎょうせい 官 かん を養成 ようせい するパリの植民 しょくみん 地 ち 学校 がっこう (後 のち に国立 こくりつ 行政 ぎょうせい 学院 がくいん に併合 へいごう )に入学 にゅうがく 。だが、3年 ねん 後 ご に退学 たいがく してカンペールに戻 もど ったため、家族 かぞく を失望 しつぼう させた[5] [6] 。
1897年 ねん にはパリに戻 もど って法学 ほうがく の学士 がくし 号 ごう を取得 しゅとく 。翌 よく 1898年 ねん から母方 ははかた の祖父 そふ レオン・ダヴィッドの名前 なまえ を使 つか って『ル・モニトゥール・デザール(Le Moniteur des arts 、芸術 げいじゅつ 指導 しどう 者 しゃ )』誌 し [7] に美術 びじゅつ 評論 ひょうろん を書 か き始 はじ めたが[8] 、一方 いっぽう で、生計 せいけい を立 た てるために建具 たてぐ 職人 しょくにん の助手 じょしゅ 、倉庫 そうこ の運搬 うんぱん ・出荷 しゅっか 係 がかり 、家庭 かてい 教師 きょうし などの職 しょく を転々 てんてん とした[9] 。
ピカソとの出会 であ い - モンマルトル「洗濯 せんたく 船 せん 」 [ 編集 へんしゅう ]
左 ひだり からモディリアーニ、マックス・ジャコブ、アンドレ・サルモン、マヌエル・オルティス・デ・サラテ (ジャン・コクトーによる撮影 さつえい 、モンパルナスにて、1916年 ねん 10月 がつ 11日 にち )
1901年 ねん 、画商 がしょう アンブロワーズ・ヴォラール の画廊 がろう で行 おこな われたパブロ・ピカソの初 はじ めての個展 こてん を見 み て、このスペイン の若 わか い画家 がか にすっかり魅 み せられた。マックス・ジャコブは後 のち にピカソ宛 あて の手紙 てがみ に、ピカソは「私 わたし にとって芸術 げいじゅつ の世界 せかい そのものであった」と書 か いている[10] 。翌 よく 1902年 ねん からピカソはマックス・ジャコブが住 す んでいたパリ11区 く ヴォルテール大通 おおどお り (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) のアパートに身 み を寄 よ せた[9] 。マックス・ジャコブとピカソはイタリア の画家 がか ・小説 しょうせつ 家 か のアルデンゴ・ソッフィチ (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) を介 かい して、文学 ぶんがく ・芸術 げいじゅつ 雑誌 ざっし 『ラ・プリューム (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 』に寄稿 きこう し[11] 、やがて、ソッフィチらのイタリアの画家 がか やスペインの画家 がか 、当時 とうじ まだ貧 まず しかった主 おも に外国 がいこく 人 じん の芸術 げいじゅつ 家 か が住 す んでいたモンマルトル の木造 もくぞう 家屋 かおく 「洗濯 せんたく 船 せん 」に入居 にゅうきょ した。暖房 だんぼう などの設備 せつび はなく、飲料 いんりょう 水 すい も水飲 みずの み場 じょう が1か所 しょ あるだけのアトリエ 10部屋 へや ほどのこの家屋 かおく を「洗濯 せんたく 船 せん 」と名付 なづ けたのはマックス・ジャコブであった。初 はじ めてこの建物 たてもの を見 み たときに、(通常 つうじょう は外 そと に干 ほ さない)洗濯 せんたく 物 ぶつ が干 ほ されていたため、セーヌ川 がわ に浮 う かぶ洗濯 せんたく 専用 せんよう の船 ふね を連想 れんそう したからであった[12] 。後 のち に彼 かれ は「洗濯 せんたく 船 せん 」を「絵画 かいが の中央 ちゅうおう 実験 じっけん 室 しつ 」と呼 よ んだ[13] (「中央 ちゅうおう 実験 じっけん 室 しつ 」は1922年 ねん 発表 はっぴょう の詩集 ししゅう の書名 しょめい にもなっている)。これは「洗濯 せんたく 船 せん 」がピカソやモディリアーニらの前衛 ぜんえい 画家 がか の活動 かつどう 拠点 きょてん となり、何 なに よりもピカソが1907年 ねん に『アビニヨンの娘 むすめ たち 』を描 えが いた場所 ばしょ 、すなわち、キュビスム が誕生 たんじょう した場所 ばしょ として知 し られることになったからである[14] 。
1904年 ねん に初 はじ めて著書 ちょしょ を自費 じひ 出版 しゅっぱん で発表 はっぴょう した。児童 じどう 文学 ぶんがく の短 たん 編集 へんしゅう 『カブール王 おう 一 いち 世 せい と見習 みなら いコックのゴーヴァンの物語 ものがたり 』である[15] 。同年 どうねん にはまた、子供 こども 向 む けの雑誌 ざっし 『今週 こんしゅう の読書 どくしょ 』に4回 かい にわたって連載 れんさい した短編 たんぺん を『太陽 たいよう の巨人 きょじん 』として発表 はっぴょう 。これは、アシェット出版 しゅっぱん 社 しゃ の子会社 こがいしゃ 「リブレリー・ジェネラル(総合 そうごう 書店 しょてん )」から刊行 かんこう された[16] 。
マックス・ジャコブ作 さく 《ギヨーム・アポリネールと彼 かれ のミューズ》(1910年 ねん )
モンマルトルで美術 びじゅつ 評論 ひょうろん 家 か のアンドレ・サルモン (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) に出会 であ い、ピカソを介 かい してアポリネールと親 した しくなった。「洗濯 せんたく 船 せん 」は、1908年 ねん にピカソの提案 ていあん で、マックス・ジャコブ、アポリネール、マリー・ローランサン らが当時 とうじ まだ評価 ひょうか されていなかった素朴 そぼく 派 は の画家 がか アンリ・ルソー を称 たた える会 かい を開催 かいさい したことでも知 し られるが[17] [18] 、翌 よく 1909年 ねん にルソーはアポリネールとローランサンをモデルに《詩人 しじん に霊感 れいかん を与 あた えるミューズ》(油彩 ゆさい )を描 えが き、これに対 たい してマックス・ジャコブもまた翌 よく 1910年 ねん に二人 ふたり を描 えが いた《ギヨーム・アポリネールと彼 かれ のミューズ》(淡彩 たんさい )を発表 はっぴょう した[19] 。また、フォーヴィスム やキュビスムの画家 がか を支持 しじ し、「ピカソの画商 がしょう 」として知 し られることになるドイツ 出身 しゅっしん の画商 がしょう ・美術 びじゅつ 評論 ひょうろん 家 か ダニエル=ヘンリー・カーンワイラー は、1907年 ねん 、23歳 さい のときに、パリ9区 く ヴィニヨン通 どお り (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 28番地 ばんち に画廊 がろう を開 ひら き[20] [21] 、マックス・ジャコブの「マトレル三 さん 部 ぶ 作 さく 」を出版 しゅっぱん するなど彼 かれ を支援 しえん した。
1908年 ねん から1909年 ねん にかけて、「洗濯 せんたく 船 せん 」を拠点 きょてん とする多 おお くのモンマルトルのボヘミアン 画家 がか ・作家 さっか と親交 しんこう を深 ふか めた。ピカソ、アンドレ・サルモン、アポリネール、ローランサンのほか、画家 がか のユトリロ 、シュザンヌ・ヴァラドン 、ピエール・マック・オルラン (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 、モディリアーニ、キース・ヴァン・ドンゲン 、フアン・グリス 、ルイ・マルクーシ 、ジャック・ヴィヨン 、オットー・フロイントリッヒ 、アンリ・エダン (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 、アンリ・ローランス (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 、モーリス・ド・ヴラマンク 、アンドレ・ドラン 、ジョルジュ・ブラック 、ラウル・デュフィ 、作家 さっか のジュール・ロマン 、ジョルジュ・デュアメル 、ポール・フォール (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 、フランシス・カルコ (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 、ロラン・ドルジュレス (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 、アンドレ・ヴァルノ (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 、さらに俳優 はいゆう ・演出 えんしゅつ 家 か のシャルル・デュラン 、アリ・ボール (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) らと親 した しかったが[2] 、マックス・ジャコブは交友 こうゆう 関係 かんけい の広 ひろ さでも知 し られ、亡 な くなるまで毎日 まいにち のように手紙 てがみ を書 か き、膨大 ぼうだい な書簡 しょかん 集 しゅう を残 のこ している。当時 とうじ 、彼 かれ らは主 おも に「フレデ爺 じい さん」ことフレデリック・ジェラールが経営 けいえい するキャバレー 「オ・ラパン・アジル 」に集 あつ まった。前衛 ぜんえい 芸術 げいじゅつ ・文学 ぶんがく の拠点 きょてん がモンマルトルからモンパルナス に移 うつ る前 まえ の全盛期 ぜんせいき であった[22] 。
見神 けんしん 、洗礼 せんれい [ 編集 へんしゅう ]
マックス・ジャコブは2度 ど 、見神 けんしん 体験 たいけん をしている。哲学 てつがく 、神秘 しんぴ 思想 しそう 、占星術 せんせいじゅつ 、カバラ (ユダヤ教 きょう の神秘 しんぴ 思想 しそう )などに関 かん する多 おお くの著書 ちょしょ を読 よ んでいた影響 えいきょう も指摘 してき されるが[2] 、最初 さいしょ は1909年 ねん 9月 がつ 7日 にち であった。「洗濯 せんたく 船 せん 」に戻 もど ったとき、壁 かべ にキリスト が出現 しゅつげん した。その美 うつく しさに感動 かんどう した彼 かれ は、翌日 よくじつ 、近 ちか くのモンマルトル聖 ひじり ヨハネ教会 きょうかい (Église Saint-Jean de Montmartre )へ行 い って、司祭 しさい に洗礼 せんれい を受 う けたいと申 もう し出 で たが、当時 とうじ のモンマルトルのボヘミアンの退廃 たいはい 的 てき な暮 く らしを知 し っていた司祭 しさい は、この申 もう し出 で をあっさりと断 ことわ った。2度目 どめ は1914年 ねん 12月、映画 えいが 館 かん での見神 けんしん であった。もはや神 かみ の存在 そんざい を疑 うたが う余地 よち はないとして、1915年 ねん 2月 がつ 18日 にち にパリ6区 く ノートル=ダム・ド・シオン修道 しゅうどう 会 かい (Congrégation de Notre-Dame de Sion )で洗礼 せんれい を受 う けた。代 だい 父 ちち はピカソであり、洗礼 せんれい 名 めい はキプリアヌス である[8] 。キプリアヌスは「教会 きょうかい の外 そと に救 すく いなし」という言葉 ことば を残 のこ し、迫害 はくがい を受 う けて殉教 じゅんきょう したカルタゴ の聖人 せいじん である[23] 。ピカソはからかい半分 はんぶん に「フィアークル」という洗礼 せんれい 名 めい を提案 ていあん していた[8] 。フィアークルはアイルランド の隠者 いんじゃ で庭師 にわし と御者 ぎょしゃ の守護 しゅご 聖人 せいじん だが、この聖人 せいじん に因 ちな む宿泊 しゅくはく 施設 しせつ 「サン=フィアークル」がフランス語 ふらんすご で「辻 つじ 馬車 ばしゃ 」を意味 いみ する「フィアークル」の語源 ごげん であり、したがって通常 つうじょう はたんに「辻 つじ 馬車 ばしゃ 」を表 あら わす[24] [25] 。
1909年 ねん 頃 ごろ から故郷 こきょう のカンペールとパリを行 い き来 き しながら制作 せいさく を続 つづ けた。カンペールでは、同地 どうち の風土 ふうど を描 えが いた画家 がか でマックス・ジャコブの肖像 しょうぞう (カンペール美術館 びじゅつかん 蔵 くら )も何 なん 枚 まい か描 えが いているピエール・ド・ブレ (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) や[5] 、同様 どうよう にカンペールに関 かん する著書 ちょしょ で知 し られる作家 さっか ピエール・アリエ(Pierre Allier)[26] と親 した しく、俳優 はいゆう ノエル・ロクヴェール (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) の家族 かぞく がカンペールで結成 けっせい した劇団 げきだん ・サーカス 「ベネヴァン」の演目 えんもく を紹介 しょうかい する記事 きじ を発表 はっぴょう するなど、地元 じもと での文化 ぶんか 活動 かつどう にも貢献 こうけん した[2] 。また、1911年 ねん にはブルターニュを歌 うた った詩集 ししゅう 『海岸 かいがん ― ブルターニュの歌 うた 』を発表 はっぴょう し、晩年 ばんねん にピエール・アリエに勧 すす められて書 か いた「ブルターニュ風 ふう の」『ゲール人 じん モルヴァンの詩集 ししゅう 』は、ブルターニュの地 ち を愛 あい し、同地 どうち に隠棲 いんせい したサン=ポル=ルー に絶賛 ぜっさん された[27] 。
1911年 ねん から1914年 ねん にかけて聖 せい マトレルまたは修道 しゅうどう 士 し マトレルを主人公 しゅじんこう とする作品 さくひん を発表 はっぴょう した。小説 しょうせつ 『聖 せい マトレル』、詩集 ししゅう 『バルセロナ修道院 しゅうどういん で死 し んだ修道 しゅうどう 士 し マトレルの滑稽 こっけい で神秘 しんぴ 的 てき な作品 さくひん 』、戯曲 ぎきょく 『エルサレム攻囲 こうい 戦 せん ― 聖 せい マトレルの大 おお いなる神 かみ の誘惑 ゆうわく 』の三 さん 部 ぶ 作 さく である。いずれもカーンワイラーが出版 しゅっぱん し、『エルサレム攻囲 こうい 戦 せん 』はピカソによる挿絵 さしえ 入 はい りである。無意識 むいしき や夢 ゆめ 、幻覚 げんかく などの精神 せいしん 世界 せかい を描 えが くこれらの作品 さくひん はダダイスムやシュルレアリスムの先駆 さきが けであり、マックス・ジャコブの場合 ばあい はケルト のドルイド 信仰 しんこう に近 ちか い神秘 しんぴ 思想 しそう が特徴 とくちょう である[28] 。
骰子 さいころ 筒 とう - 新 あたら しい散文詩 さんぶんし [ 編集 へんしゅう ]
モディリアーニ作 さく 《マックス・ジャコブの肖像 しょうぞう 》(油彩 ゆさい 、1916年 ねん )
こうした精神 せいしん 世界 せかい の探求 たんきゅう が、1917年 ねん 発表 はっぴょう の散文詩 さんぶんし 集 しゅう 『骰子 さいころ 筒 とう (さいころづつ、Le Cornet à dés )』に結実 けつじつ する。「コルネ・ア・デ」とは、さいころ を入 い れて振 ふ って転 ころ がすときに使 つか う筒 つつ 、すなわち、「賽 さい 筒 とう 、賽 さい 及筒、ダイスカップ」である[29] 。ミシェル・レリス は1945年 ねん 刊行 かんこう のガリマール 版 はん の序文 じょぶん で、この書名 しょめい は、「限定 げんてい 的 てき なモノ」に「無限 むげん の偶然 ぐうぜん 、さいころ遊 あそ びを表 あら わすアラビア語 ご を語源 ごげん とする偶然 ぐうぜん 」が入 はい っているという「示唆 しさ に富 と んだ曖昧 あいまい さ」を表 あら わし、また、さいころは、キュビスムの絵画 かいが にたびたび描 えが かれると同時 どうじ に、古代 こだい ローマ の兵士 へいし がキリストの聖 せい 衣 ころも を手 て に入 い れるためにさいころで賭 か けをしたので、キリストの受難 じゅなん を連想 れんそう させる言葉 ことば でもある」と解説 かいせつ している[30] 。
浅野 あさの 晃 あきら は、マックス・ジャコブをアポリネールとともに「立体 りったい 派 は (キュビスム)を代表 だいひょう する特異 とくい な詩人 しじん 」とし、詩 し におけるキュビスムを「旧来 きゅうらい の作詩 さくし 法 ほう から解放 かいほう された自由 じゆう な韻律 いんりつ と、口語 こうご ・俗語 ぞくご の使用 しよう によるイメージ の絶対 ぜったい 的 てき 自由 じゆう の確立 かくりつ 、つまり、〈新 あたら しい現実 げんじつ 〉の発見 はっけん を目標 もくひょう にしていた」、特 とく に、マックス・ジャコブの詩 し は、「鋭 するど い諷刺 ふうし につらぬかれ、愉快 ゆかい な嘲笑 ちょうしょう と洒脱 しゃだつ な洒落 しゃれ にみちあふれている」と評 ひょう している[31] 。
モディリアーニ作 さく 《マックス・ジャコブの肖像 しょうぞう 》(油彩 ゆさい 、1916年 ねん )
1913年 ねん のバカンス は、ピカソ、ブラック、フアン・グリスとともにスペインとの国境 こっきょう に近 ちか いセレ (ピレネー=ゾリアンタル県 けん )で過 す ごした。現在 げんざい セレ近代 きんだい 美術館 びじゅつかん (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) となっている建物 たてもの は、当時 とうじ 、「洗濯 せんたく 船 せん 」を拠点 きょてん とするイタリアやスペインの画家 がか (特 とく にキュビスト)がもう一 ひと つの拠点 きょてん とした場所 ばしょ であり、1916年 ねん 以降 いこう は、主 おも に「ラ・リューシュ 」を拠点 きょてん とするモンパルナスの前衛 ぜんえい 画家 がか 、特 とく にソ連 それん や中 ちゅう 東欧 とうおう での弾圧 だんあつ を逃 のが れてフランスに亡命 ぼうめい したユダヤ人 じん 画家 がか モイズ・キスリング 、シャイム・スーティン 、マルク・シャガール 、ピンクス・クレメーニュ (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) らが集 あつ まった[32] 。マックス・ジャコブとピカソはさらにピカソの故郷 こきょう スペインのフィゲラス を訪 おとず れた。とりわけ、カタルーニャ の民族 みんぞく 舞踏 ぶとう サルダーナ (スペイン語 ご 版 ばん ) に感動 かんどう したマックス・ジャコブは、詩集 ししゅう 『中央 ちゅうおう 実験 じっけん 室 しつ 』(1921年刊 ねんかん )所収 しょしゅう の詩 し 「サルダーナとテノーラ (スペイン語 ご 版 ばん ) の栄光 えいこう 」をピカソに捧 ささ げている[33] 。
前衛 ぜんえい 芸術 げいじゅつ ・文学 ぶんがく ・音楽 おんがく [ 編集 へんしゅう ]
1914年 ねん に第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ 。マックス・ジャコブは健康 けんこう 上 じょう の理由 りゆう により入隊 にゅうたい を拒否 きょひ されたが[2] 、パリに留 と まり、動員 どういん された友人 ゆうじん たちと頻繁 ひんぱん に手紙 てがみ のやり取 と りを続 つづ けた。1916年 ねん には骨董 こっとう 品 ひん 蒐集 しゅうしゅう 家 か ジョゼフ・アルトゥニアンに捧 ささ げる詩 し を掲載 けいさい した小 しょう 冊子 さっし 『連合 れんごう 国 こく はアルメニア にいる』を発表 はっぴょう した。アルトゥニアンはイズミル に生 う まれたアルメニア系 けい トルコ 人 ひと で、1908年 ねん にアルメニア人 じん 虐殺 ぎゃくさつ を逃 のが れて渡 わたり 仏 ふつ 。マックス・ジャコブだけでなく、他 た の「洗濯 せんたく 船 せん 」の芸術 げいじゅつ 家 か 、特 とく にピカソ、アポリネール、モディリアーニと親 した しかった。ジョルジュ・クレマンソー を介 かい してオーギュスト・ロダン と知 し り合 あ い、ロダンからの依頼 いらい で主 おも に古代 こだい エジプト の彫刻 ちょうこく を蒐集 しゅうしゅう し、現在 げんざい もロダン美術館 びじゅつかん にその一部 いちぶ が展示 てんじ されているが、2019年 ねん にアルトゥニアン・コレクション約 やく 400点 てん (総額 そうがく 100万 まん ユーロ)がすべてパリのアールキュリアル (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) で競売 きょうばい にかけられた。コレクションにはアルトゥニアンの肖像 しょうぞう などモディリアーニの素描 そびょう も数 すう 点 てん 含 ふく まれ、当時 とうじ 貧 まず しかったモディリアーニから二束三文 にそくさんもん で買 か い取 と ったものであったが、1920年 ねん に亡 な くなったモディリアーニの代 か わりにマックス・ジャコブが「モディリアーニが1917年 ねん に描 えが いたアルトゥニアンの肖像 しょうぞう であることを証明 しょうめい する」と、制作 せいさく の現場 げんば に立 た ち会 あ った者 もの として証言 しょうげん していた[34] [35] [36] [37] 。マックス・ジャコブの詩集 ししゅう 『連合 れんごう 国 こく はアルメニアにいる』は洗礼 せんれい 名 めい キプリアヌスのCを加 くわ えた「C・マックス・ジャコブ」の筆名 ひつめい で「アルメニアへのオマージュ」として制作 せいさく されたものであり、非売品 ひばいひん であったが、1922年 ねん に新 しん フランス評論 ひょうろん (NRF )出版 しゅっぱん 社 しゃ から刊行 かんこう されたマリー・ローランサンの版画 はんが 作品 さくひん 集 しゅう 『扇子 せんす 』に再 さい 収 おさむ され、初 はじ めて公表 こうひょう されることになった。この作品 さくひん 集 しゅう にはロジェ・アラール (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 、アンドレ・ブルトン 、フランシス・カルコの詩 し も掲載 けいさい された[38] 。
戦時 せんじ 中 なか とはいえ、パリでは前衛 ぜんえい 芸術 げいじゅつ 運動 うんどう が次々 つぎつぎ と起 お こっていた。マックス・ジャコブは1917年 ねん 3月 がつ にアポリネール、ピエール・ルヴェルディ とともに『南北 なんぼく 』誌 し を創刊 そうかん した。誌 し 名 めい は1910年 ねん にパリの2つの前衛 ぜんえい 芸術 げいじゅつ 家 か ・文学 ぶんがく 者 しゃ の活動 かつどう 拠点 きょてん モンマルトル(パリ北部 ほくぶ 、「洗濯 せんたく 船 せん 」)とモンパルナス(パリ南部 なんぶ 、「ラ・リューシュ」)をつなぐ地下鉄 ちかてつ が開通 かいつう したことに因 ちな んで命名 めいめい され、この2つの拠点 きょてん をつなぐことを意図 いと したものであった。発行 はっこう 部数 ぶすう は100~200部 ぶ と少 すく なかったが、1917年 ねん 3月 がつ 15日 にち から1918年 ねん 10月 がつ まで計 けい 16号 ごう 刊行 かんこう され、当初 とうしょ はキュビスムの雑誌 ざっし 、次 つ いでダダイスム、さらにシュルレアリスムの先駆 さきが けとされる前衛 ぜんえい 芸術 げいじゅつ ・文学 ぶんがく 雑誌 ざっし であった。マックス・ジャコブは毎回 まいかい 、詩 し や短編 たんぺん を掲載 けいさい した。「十字架 じゅうじか にかけられた者 もの の5つ目 め の傷口 きずぐち とニーチェ の『悲劇 ひげき 的 てき な知 ち 』」、「心理 しんり 的 てき 意識 いしき と十字架 じゅうじか にかけられた者 もの の5つ目 め の傷口 きずぐち 」、「演劇 えんげき と映画 えいが 」など詩的 してき な表現 ひょうげん による論考 ろんこう も発表 はっぴょう している[39] [40] 。『南北 なんぼく 』誌 し にはダダイスム、シュルレアリスムの運動 うんどう を牽引 けんいん することになるアンドレ・ブルトン、ルイ・アラゴン 、フィリップ・スーポー 、トリスタン・ツァラ も寄稿 きこう していたが、マックス・ジャコブは、1919年 ねん 2月 がつ にブルトン、アラゴン、スーポーによって創刊 そうかん され、ダダイスムの機関 きかん 誌 し となった『リテラチュール (文学 ぶんがく )』誌 し にも、《モナ・リザ 》盗難 とうなん の嫌疑 けんぎ をかけられたアポリネールを励 はげ まし支援 しえん するために、新 あたら しい活動 かつどう の場 ば として創刊 そうかん された『レ・ソワレ・ドゥ・パリ 』の第 だい 二 に シリーズ(アポリネールが主宰 しゅさい )にも寄稿 きこう するなど[41] 、多 おお くの前衛 ぜんえい 芸術 げいじゅつ 運動 うんどう に関 かか わっていた。
こうした活動 かつどう を通 つう じてマックス・ジャコブは多 おお くの若手 わかて を発掘 はっくつ した。1919年 ねん にまだ16歳 さい のレイモン・ラディゲ の詩 し を評価 ひょうか し、ジャン・コクトー に紹介 しょうかい した(コクトーは1923年 ねん のラディゲの早世 そうせい に深 ふか い精神 せいしん 的 てき 打撃 だげき を受 う けた)。絵画 かいが や文学 ぶんがく だけでなく音楽 おんがく でも、パリで活動 かつどう を始 はじ めたジャズ ・ミュージシャンを評価 ひょうか し、6人組 にんぐみ (フランシス・プーランク 、ジェルメーヌ・タイユフェール 、ルイ・デュレ 、ダリウス・ミヨー 、アルテュール・オネゲル 、ジョルジュ・オーリック )やピアニスト のマルセル・メイエ と夫 おっと で俳優 はいゆう のピエール・ベルタン (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) と親交 しんこう を深 ふか め、戯曲 ぎきょく 、オペラ 、オペラ・ブッフ を制作 せいさく するなど若 わか い音楽家 おんがくか を支援 しえん した。1922年 ねん には作曲 さっきょく 家 か ロラン=マニュエル のためにオペラ・ブッフ『イザベルとパンタロン』の台本 だいほん (リブレット )を書 か き、18区 く の劇場 げきじょう トリアノン・リリック(現 げん ル・トリアノン )で上演 じょうえん された[42] 。
ジャック=エミール・ブランシュ 作 さく 《マックス・ジャコブの肖像 しょうぞう の習作 しゅうさく 》(1921年 ねん )
1921年 ねん にパリの画廊 がろう でマックス・ジャコブのグワッシュ を中心 ちゅうしん とする個展 こてん が行 おこな われた。また、大戦 たいせん 中 ちゅう に休刊 きゅうかん となっていた『新 しん フランス評論 ひょうろん (NRF )』誌 し が、1919年 ねん 6月 がつ に新 しん 編集 へんしゅう 長 ちょう ジャック・リヴィエール のもとで活動 かつどう を再開 さいかい し、同誌 どうし の寄稿 きこう 者 しゃ で後 のち に編集 へんしゅう 長 ちょう を務 つと めることになるジャン・ポーラン の仲介 ちゅうかい により、以後 いご 、マックス・ジャコブの著書 ちょしょ は新 しん フランス評論 ひょうろん 出版 しゅっぱん 社 しゃ (ガリマール出版 しゅっぱん 社 しゃ )から刊行 かんこう されることになった[5] 。
最初 さいしょ の隠棲 いんせい [ 編集 へんしゅう ]
マックス・ジャコブは、カトリックの洗礼 せんれい を受 う けてから2度 ど 、サン=ブノワ=シュル=ロワール(ロワレ県 けん 、サントル=ヴァル・ド・ロワール地域 ちいき 圏 けん )に隠棲 いんせい した。パリから南 みなみ へ150キロほどのところにある同地 どうち にはサン=ブノワ=シュル=ロワール修道院 しゅうどういん (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) (フルリ修道院 しゅうどういん )があり、彼 かれ はここで祈 いの りと制作 せいさく に専念 せんねん する生活 せいかつ を送 おく った。最初 さいしょ の隠棲 いんせい は1921年 ねん から1928年 ねん まで、2度目 どめ は1936年 ねん からゲシュタポに逮捕 たいほ される1944年 ねん までである。隠棲 いんせい 中 ちゅう もカーンワーラー、コクトー、ピカソ、キスリング、サルモン、さらにロラン=マニュエル、ミシェル・レリス、アルマン・サラクルー 、マルセル・ジュアンドー (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 、ルネ・ランベール (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 、エリー・ラスコー (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) らにおびただしい数 かず の手紙 てがみ を書 か いた[2] 。
1925年 ねん の聖 ひじり 年 みのる にローマ を訪 おとず れ、イタリアを旅行 りょこう 。ブルターニュの友人 ゆうじん で(アルベール・カミュ の師 し として知 し られる)作家 さっか のジャン・グルニエ (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) [43] に再会 さいかい した。この機 き に再 ふたた びスペインを旅行 りょこう し、マドリード のプラド美術館 びじゅつかん 、次 つ いでトレド大 だい 聖堂 せいどう を訪 おとず れた。グルニエ宛 あて の手紙 てがみ でプラド美術館 びじゅつかん を「各 かく 画家 がか の名画 めいが があって世界 せかい で最 もっと も美 うつく しい美術館 びじゅつかん 」と称 とな え、トレド大 だい 聖堂 せいどう でエル・グレコ の絵画 かいが に出会 であ った感動 かんどう を伝 つた える一方 いっぽう 、マックス・ジャコブはかつてピカソとスペインを訪 おとず れたときとは逆 ぎゃく に、スペインの風土 ふうど や人々 ひとびと にはある種 しゅ の失望 しつぼう を表 あら わしている[33] 。
グルニエとはこれ以後 いご 頻繁 ひんぱん に会 あ い、彼 かれ を介 かい してサン=ブリユー (ブルターニュ地域 ちいき 圏 けん 、コート=ダルモール県 けん )で知 し り合 あ った同地 どうち 出身 しゅっしん のルイ・ギユー (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) を「本物 ほんもの の」小説 しょうせつ 家 か と称 とな え、また、同 おな じブルターニュのプロアレで同地 どうち の画家 がか ジャン・コル(Jean Colle)に出会 であ い、以後 いご 、生涯 しょうがい にわたって親交 しんこう を深 ふか めるなど、とりわけ、ブルターニュ出身 しゅっしん の作家 さっか ・画家 がか とのつながりが広 ひろ がった。1898年 ねん からブルターニュに隠棲 いんせい していたサン=ポル=ルーと頻繁 ひんぱん に手紙 てがみ のやり取 と りをし、彼 かれ にブルターニュを歌 うた った『ゲール人 じん モルヴァンの詩集 ししゅう 』を絶賛 ぜっさん されたのもこの頃 ころ である。
1928年 ねん 、パリでの活動 かつどう を再開 さいかい し、しばらく5区 く に住 す んだ後 のち 、17区 く のノレ通 どお り (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) に越 こ し、ここに6年 ねん 暮 く らした。マックス・ジャコブは、今度 こんど は画家 がか として身 み を立 た てようと考 かんが え、早 はや くも1930年 ねん には、同郷 どうきょう のピエール・コルや画商 がしょう ジャック=ポール・ボンジャン (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) の協力 きょうりょく を得 え て、パリとニューヨーク で個展 こてん が行 おこな われた[5] 。マックス・ジャコブが住 す んでいた地区 ちく には、作曲 さっきょく 家 か のアンリ・ソーゲ、インド学 がく ・音楽 おんがく 学 がく の専門 せんもん 家 か アラン・ダニエルー (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 、1928年 ねん にジャック・ボンジャンと、次 つ いで1930年 ねん にはピエール・コルとともに18区 く に画廊 がろう を構 かま えたクリスチャン・ディオール 、画家 がか のクリスチャン・ベラール (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) らの若 わか い芸術 げいじゅつ 家 か が多 おお く住 す み、かつてのモンマルトルのような活気 かっき があった。マックス・ジャコブは当時 とうじ まだ20代 だい であったソーゲのためにオペレッタ『ティツィアーノの愛 あい 』の台本 だいほん を書 か いて彼 かれ の活動 かつどう を支援 しえん した[44] 。
クリストファー・ウッド作 さく 《マックス・ジャコブの肖像 しょうぞう 》(1929年 ねん 、カンペール美術館 びじゅつかん 蔵 ぞう )
1929年 ねん にピエール・コルとともに車 くるま でブルターニュに向 む かう途中 とちゅう 、交通 こうつう 事故 じこ に遭 あ い、カンペールの家族 かぞく のもとで療養 りょうよう することになった。数 すう か月 げつ にわたるカンペール滞在 たいざい 中 ちゅう に、当時 とうじ 同地 どうち で活動 かつどう していた英国 えいこく 生 う まれの若 わか い画家 がか クリストファー・ウッド に出会 であ った。ウッドはこのとき、《マックス・ジャコブの肖像 しょうぞう 》(1929年 ねん 、カンペール美術館 びじゅつかん 蔵 ぞう )を描 えが いた。翌 よく 1930年 ねん にソールズベリー に戻 もど ったウッドが自殺 じさつ し、マックス・ジャコブは深 ふか い悲 かな しみに打 う ちひしがれた[5] 。
1933年 ねん にレジオンドヌール勲章 くんしょう シュバリエを受 う け[45] 、フランスの地方 ちほう や世界 せかい 各国 かっこく で講演 こうえん 会 かい を行 おこな った。1936年 ねん には再 ふたた びサン=ブノワ=シュル=ロワールに隠棲 いんせい し、以後 いご 、パリに戻 もど ることはなかったが、画家 がか のロジェ・トゥールーズ (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 、詩人 しじん のミシェル・マノル (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 、マルセル・ベアリュ (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 、ジャン・ブーイエール (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 、ルネ・ギー・カドゥー (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) など若 わか い才能 さいのう を次々 つぎつぎ と発掘 はっくつ した。ロジェ・トゥールーズもまた《マックス・ジャコブの肖像 しょうぞう 、または蘭 らん のある肖像 しょうぞう 》(カンペール美術館 びじゅつかん 蔵 ぞう )を描 えが いている。
1939年 ねん に第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ すると、ナチス・ドイツ によって反 はん ナチス的 てき な書物 しょもつ やユダヤ人 じん による出版 しゅっぱん が禁止 きんし され、厳 きび しい検閲 けんえつ が行 おこな われた。『新 しん フランス評論 ひょうろん 』も1940年 ねん 6月 がつ 1日 にち にいったん終 おわり 刊 かん となり、ポーランは編集 へんしゅう 長 ちょう を辞任 じにん し、対 たい 独 どく 協力 きょうりょく 派 は に転向 てんこう したピエール・ドリュ・ラ・ロシェル のもとに再刊 さいかん された。これは駐 ちゅう 仏 ふつ ドイツ大使 たいし オットー・アベッツ (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) の要請 ようせい によるものであり、アベッツは別途 べっと 、禁書 きんしょ 目録 もくろく 「オットー・リスト (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 」を発表 はっぴょう 。これは発禁 はっきん または書店 しょてん から回収 かいしゅう する842人 にん のユダヤ人 じん 作家 さっか ・反 はん ナチス作家 さっか (主 おも に共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 もの )の著書 ちょしょ 1,060冊 さつ の一覧 いちらん であり、マックス・ジャコブの最後 さいご の詩集 ししゅう 『バラード』(1938年 ねん 発表 はっぴょう )も含 ふく まれていた[46] 。
サン=ブノワ=シュル=ロワール修道院 しゅうどういん 近 ちか くを散歩 さんぽ するマックス・ジャコブ
1939年 ねん 、マックス・ジャコブは遺言 ゆいごん を作成 さくせい し、ピエール・コルを遺言 ゆいごん 執行 しっこう 者 しゃ に指定 してい した。ピエール・コルはマックス・ジャコブの著書 ちょしょ を集 あつ めてカンペール図書館 としょかん に寄贈 きぞう し、サン=ブノワ=シュル=ロワール墓地 ぼち にマックス・ジャコブの墓 はか を建 た てる手 て はずを整 ととの えた。マックス・ジャコブは同年 どうねん 、詩人 しじん エドモン・ジャベス 宛 あて の手紙 てがみ に、「私 わたし はこの世 よ を越 こ えた。殉教者 じゅんきょうしゃ となることを甘受 かんじゅ する」と書 か いている[47] 。
「この家 いえ に、1876年 ねん 7月 がつ 12日 にち にカンペールに生 う まれ、1944年 ねん 3月 がつ 5日 にち にドランシー収容 しゅうよう 所 しょ で死去 しきょ した詩人 しじん マックス・ジャコブが1939年 ねん から1944年 ねん まで住 す んでいた」と書 か かれた銘板 めいばん (サン=ブノワ=シュル=ロワール)
サン=ブノワ=シュル=ロワール墓地 ぼち のマックス・ジャコブの墓 はか
1942年 ねん にカンペールでサロンを開 ひら いていた医師 いし オーギュスタン・テュセ (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) のもとにマックス・ジャコブの友人 ゆうじん サン=ポル=ルー、薬剤師 やくざいし ・聖職 せいしょく 者 しゃ のジャン・レオナルディ (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 、作家 さっか ルイ=フェルディナン・セリーヌ 、レジスタンス運動 うんどう 家 いえ ジャン・ムーラン などが集 あつ まっていた。同年 どうねん 6月 がつ にはヴィシー政権 せいけん によりユダヤ人 じん の財産 ざいさん が没収 ぼっしゅう され、ダビデの星 ほし の着用 ちゃくよう が義務 ぎむ 化 か された。12月に兄 あに ガストンがカンペールで逮捕 たいほ され、翌 よく 43年 ねん 2月 がつ 16日 にち にアウシュヴィッツ へ強制 きょうせい 移送 いそう された。マックス・ジャコブは、多 おお くの友人 ゆうじん から自宅 じたく にかくまう、自由 じゆう 地域 ちいき (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) への逃亡 とうぼう を手伝 てつだ う、偽造 ぎぞう の身分 みぶん 証明 しょうめい 書 しょ を手 て に入 い れるといった申 もう し出 で を受 う けたが、すべて拒否 きょひ し、自 みずか らを「ユダヤ人 じん の両親 りょうしん と祖父母 そふぼ をもつ」フランス人 じん として登録 とうろく した[2] 。
1944年 ねん 1月 がつ 、妹 いもうと のミルテ=レアがパリでゲシュタポに逮捕 たいほ され、ドランシー収容 しゅうよう 所 しょ に送 おく られた。2月24日 にち 、マックス・ジャコブも逮捕 たいほ されてオルレアン 刑務所 けいむしょ に収容 しゅうよう され、4日 にち 後 ご に囚人 しゅうじん 番号 ばんごう 15872としてドランシー収容 しゅうよう 所 しょ に送 おく られた。ミルテ=レアを探 さが したが、彼女 かのじょ はすでにアウシュヴィッツに移送 いそう され、到着 とうちゃく 後 ご まもなくガス室 しつ に送 おく られていた[2] 。
1944年 ねん 3月 がつ 6日 にち 、マックス・ジャコブは肺炎 はいえん によりドランシー収容 しゅうよう 所 しょ で死去 しきょ した。享年 きょうねん 67歳 さい 。イヴリー墓地 ぼち の共同 きょうどう 墓穴 ぼけつ に埋葬 まいそう されたが、戦後 せんご 1949年 ねん 3月 がつ 5日 にち に、正式 せいしき な葬儀 そうぎ が執 と り行 おこな われた後 のち 、彼 かれ の遺骨 いこつ はサン=ブノワ=シュル=ロワールに移 うつ され、同地 どうち の墓地 ぼち に埋葬 まいそう された。1960年 ねん 11月17日 にち 、「フランスのために死 し す」と正式 せいしき に認定 にんてい され、戸籍 こせき に記載 きさい された。この認定 にんてい は通常 つうじょう 家族 かぞく による申請 しんせい に基 もと づいて行 おこな われるが、マックス・ジャコブには家族 かぞく がなかったため、オルレアン市長 しちょう が代 か わりに申請 しんせい したものであった[48] 。
1949年 ねん 3月 がつ 5日 にち に「マックス・ジャコブ友 とも の会 かい 」が結成 けっせい された。初代 しょだい 名誉 めいよ 会長 かいちょう はピカソ、理事 りじ 会員 かいいん はオルレアン司教 しきょう クールクー猊下 げいか 、アルベール・フルロー教会 きょうかい 参事 さんじ 会員 かいいん 、芸術 げいじゅつ 家 か 仲間 なかま のポール・クローデル (アカデミー・フランセーズ 会員 かいいん )、ジャン・カスー 、ジャン・フォラン (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 、ルイ・ギユー、ジュリアン・ラノエ (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 、モーリス・モレル (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 、アンドレ・サルモン、ジャン・ポーラン、アンリ・ソーゲ、弟 おとうと のジャック・ジャコブであった。ソーゲは会長 かいちょう を兼任 けんにん した[49] 。
初版 しょはん のみ示 しめ す。多 おお くの著書 ちょしょ がその後 ご ガリマール社 しゃ から再刊 さいかん されている。
邦題 ほうだい (試 ためし 訳 やく )
原題 げんだい
書誌 しょし 情報 じょうほう
『海岸 かいがん ― ブルターニュの歌 うた 』
La Côte. Chants bretons
1911(自費 じひ 出版 しゅっぱん )
『バルセロナ修道院 しゅうどういん で死 し んだ修道 しゅうどう 士 し マトレルの滑稽 こっけい で神秘 しんぴ 的 てき な作品 さくひん 』
Les Œuvres burlesques et mystiques de Frère Matorel, mort au couvent de Barcelone
Kahnweiler, 1912(マトレル三 さん 部 ぶ 作 さく )
『骰子 さいころ 筒 とう 』
Le Cornet à dés
1917(自費 じひ 出版 しゅっぱん )
『連合 れんごう 国 こく はアルメニアにいる』
Les Alliés sont en Arménie
1918(アルメニアへのオマージュ、小 しょう 冊子 さっし 、非売品 ひばいひん )
『中央 ちゅうおう 実験 じっけん 室 しつ 』
Le Laboratoire central
Au Sans-Pareil, 1922
『地獄 じごく の幻影 げんえい 』
Visions infernales
Gallimard, 1924
『薔薇色 ばらいろ の水着 みずぎ の悔悛 かいしゅん 者 しゃ たち』
Les Pénitents en maillots roses
Le Sagittaire / Simon Kra, 1925
『水底 みなそこ 』
Fond de l'eau
Les Cahiers libres, 1927
『堂々 どうどう たる犠牲 ぎせい 』
Sacrifice impérial
Les Frères Émile Paul, 1929
『岸 きし 』
Rivage
Les Cahiers libres, 1931
『バラード』
Ballades
René Debresse, 1939
『最後 さいご の散文詩 さんぶんし ・韻文 いんぶん 詩 し 』
Derniers poèmes en vers et en prose
Gallimard, 1945
『清 きよ く澄 す んだ男 おとこ 』
L'Homme de cristal
La Table ronde, 1946
『ゲール人 じん モルヴァンの詩集 ししゅう 』
Poèmes de Morven le Gaëlique
Gallimard, 1953
邦題 ほうだい (試 ためし 訳 やく )
原題 げんだい
書誌 しょし 情報 じょうほう
『カブール王 おう 一 いち 世 せい と見習 みなら いコックのゴーヴァンの物語 ものがたり 』
Histoire du roi Kaboul Ier et du marmiton Gauwain
Alcide Picard & Kaan, 1904(児童 じどう 文学 ぶんがく )
『太陽 たいよう の巨人 きょじん 』
Le Géant du Soleil
Librairie générale, 1904(児童 じどう 文学 ぶんがく )
『ボイオティア』
Le Roi de Béotie
Gallimard, 1921(児童 じどう 文学 ぶんがく )
『切 き らないで、お嬢 じょう さん、またはP. T. Tの過 あやま ち』
Ne coupez pas, Mademoiselle, ou les Erreurs des P. T. T.
Kahnweiler, 1921(哲学 てつがく 的 てき コント)
『ウルカヌスの冠 かんむり 』
La Couronne de Vulcain
Kahnweiler, 1923(児童 じどう 文学 ぶんがく )
邦題 ほうだい (試 ためし 訳 やく )
原題 げんだい
書誌 しょし 情報 じょうほう
『聖 せい マトレル』
Saint Matorel
Kahnweiler, 1911(マトレル三 さん 部 ぶ 作 さく )
『種子 しゅし 植物 しょくぶつ 』
Le Phanérogame
1918(自費 じひ 出版 しゅっぱん )
『シネマトマ』
Cinématoma
La Sirène, 1920
『黒 くろ い書斎 しょさい 』
Le Cabinet noir
Gallimard, 1922(書簡 しょかん 小説 しょうせつ )
『フィリビュートまたは金 かね 時計 とけい 』
Filibuth ou la Montre en or
Gallimard, 1922
『生身 なまみ の人間 にんげん と鏡 かがみ 像 ぞう の人間 にんげん 』
L'Homme de chair et l'Homme reflet
Le Sagittaire / Simon Kra, 1924
『フランスその他 た のブルジョワ』
Bourgeois de France et d'ailleurs
Gallimard, 1932
戯曲 ぎきょく ・音楽 おんがく 作品 さくひん の台本 だいほん 等 とう [ 編集 へんしゅう ]
邦題 ほうだい (試 ためし 訳 やく )
原題 げんだい
書誌 しょし 情報 じょうほう
『エルサレム攻囲 こうい 戦 せん ― 聖 せい マトレルの大 おお いなる神 かみ の誘惑 ゆうわく 』
Le Siège de Jérusalem‚ grande tentation céleste de Frère Matorel
Kahnweiler, 1914.(マトレル三 さん 部 ぶ 作 さく 、ピカソによる挿絵 さしえ )
『イザベルとパンタロン』
Isabelle et Pantalon
1919(オペラ・ブッフ台本 だいほん 、ロラン=マニュエルによる作曲 さっきょく )
『アルルカンの背中 せなか 』
Dos d'Arlequin
Le Sagittaire / Simon Kra, 1921
『ブーシャバルの地 ち 』
Le Terrain Bouchaballe
Les Frères Émile Paul, 1922
『ティツィアーノの愛 あい 』
Un amour de Titien
1928(オペレッタ、アンリ・ソーゲによる作曲 さっきょく )
その他 た 、フランシス・プーランク がマックス・ジャコブの詩 し に曲 きょく を付 つ けて発表 はっぴょう している[50] 。
評論 ひょうろん ・随筆 ずいひつ [ 編集 へんしゅう ]
邦題 ほうだい (試 ためし 訳 やく )
原題 げんだい
書誌 しょし 情報 じょうほう
『タルチュフの擁護 ようご 』
La Défense de Tartuffe
Société littéraire de France, 1919
『詩 し 法 ほう 』
Art Poétique
Les Frères Émile Paul, 1922
『ブルジョワジーの絵画 かいが 』
Tableau de la Bourgeoisie
Gallimard, 1929(歴史 れきし 学 がく ・社会 しゃかい 学 がく 的 てき 評論 ひょうろん に著者 ちょしゃ による多数 たすう の石版 せきばん 画 が ・素描 そびょう )
『作品 さくひん 集 しゅう 』
Morceaux choisis
Gallimard, 1936
『宗教 しゅうきょう 瞑想 めいそう 』
Méditations religieuses
La Table ronde, 1945
『占星術 せんせいじゅつ の鏡 かがみ 』
Miroir d'astrologie
Gallimard, 1949(共著 きょうちょ )
邦題 ほうだい (試 ためし 訳 やく )
原題 げんだい
書誌 しょし 情報 じょうほう
『ある若 わか い詩人 しじん への助言 じょげん 、ある学生 がくせい への助言 じょげん 』
Conseils à un jeune poète suivis de Conseils à un étudiant
Gallimard, 1945
『ギヨーム・アポリネール宛 あて の未 み 刊行 かんこう 書簡 しょかん 』
Lettres inédites du poète à Guillaume Apollinaire
Seghers, 1946
『ジャン・コクトー宛 あて の書簡 しょかん 選集 せんしゅう 1919-1944』
Choix de lettres à Jean Cocteau. 1919-1944
Librairie Paul Morihien, 1949
『フランソワ・ガルニエ往復 おうふく 書簡 しょかん (第 だい I巻 まき )カンペール・パリ(1876-1921)』
François Garnier, Correspondance, tome I "Quimper-Paris : 1876-1921"
Éditions de Paris, 1953
『フランソワ・ガルニエ往復 おうふく 書簡 しょかん (第 だい II巻 まき )サン=ブノワ=シュル=ロワール(1921-1924)』
François Garnier, Correspondance, tome II "Saint-Benoit-sur-Loire : 1921-1924"
Éditions de Paris, 1956
『サラクルー宛 あて の書簡 しょかん (1923年 ねん 8月 がつ - 1926年 ねん 1月 がつ )』
Lettres aux Salacrou. Août 1923 - janvier 1926
Gallimard, 1958
『ルネ・ヴィラール (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 』宛 あて の書簡 しょかん 、名言 めいげん 集 しゅう 』
Lettres à René Villard suivies du Cahier des Maximes
Rougerie, 1978
『リアーヌ・ド・プジー 宛 あて の書簡 しょかん 』
Lettres à Liane de Pougy
Plon, 1980
『ミシェル・マノル宛 あて の書簡 しょかん 』
Lettres à Michel Manoll
Rougerie, 1985
『ニーノ・フランク 往復 おうふく 書簡 しょかん 』
Correspondance avec Nino Franck
Peter Lang, 1989
『友情 ゆうじょう ― シャルル・ゴルドブラ (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 宛 あて の書簡 しょかん 』
L'Amitié - Lettres à Charles Goldblat
Le Castor astral, 1994
『マックス・ジャコブ、ジャン・コクトー往復 おうふく 書簡 しょかん 1917-1944』
Max Jacob, Jean Cocteau : correspondance 1917-1944
Paris Méditerranée, 2000
『ジャン・ポーラン宛 あて の書簡 しょかん 』
Lettres à Jean Paulhan
Paris Méditerranée, 2005
『リオネル・フロック (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 宛 あて の書簡 しょかん 』
Lettres à Lionel Floch
Apogée, 2006
『友情 ゆうじょう と愛情 あいじょう ― 書簡 しょかん 集 しゅう 』
Les Amitiés & les Amours : correspondances
L'Arganier, 2005 - 2006(全 ぜん 3巻 かん )
『ルイ・ギヨーム (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 宛 あて の書簡 しょかん 』
Lettres à Louis Guillaume
La Part Commune, 2007
『ある若 わか い男 おとこ への手紙 てがみ 1941-1944』
Lettres à un jeune homme 1941-1944
Bartillat, 2009
『マックス・ジャコブ、アンドレ・サルモン 1905-1944』
Max Jacob-André Salmon, 1905-1944
Gallimard, 2009
『マックス・ジャコブが書 か く ― 6人 にん の友人 ゆうじん への手紙 てがみ (シャルル・ウルモン (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 、ルイ・ヴァイヤン、ジャン・カスー、ルネ・イシェ (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 、ルイ・デュムーラン、マルセル・メティヴィエ)』
Max Jacob écrit. Lettres à six amis. Charles Oulmont, Louis Vaillant, Jean Cassou, René Iché, Louis Dumoulin, Marcel Métivier
Presses universitaires de Rennes (PUR), 2015
マックス・ジャコブの訳詩 やくし が掲載 けいさい されているその他 た の著書 ちょしょ
堀口 ほりぐち 大學 だいがく 『月下 げっか の一群 いちぐん ― 訳詩 やくし 集 しゅう 』第 だい 一 いち 書房 しょぼう 、1925年 ねん
堀口 ほりぐち 大學 だいがく 『キユピドの箙 えびら ― 抒情 じょじょう 訳 やく 詩集 ししゅう 』太白 たいはく 社 しゃ 、1930年 ねん
『堀 ほり 辰雄 たつお 全集 ぜんしゅう 第 だい 6巻 かん 』新潮社 しんちょうしゃ 、1955年 ねん
窪田 くぼた 般彌 『なげきぶし風 ふう の墓碑銘 ぼひめい 』書肆 しょし 山田 やまだ 、1981年 ねん
浅野 あさの 晃 あきら 『フランス詩集 ししゅう 』白鳳 はくほう 社 しゃ 、1986年 ねん
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Hélène Henry, Bio-bibliographie de Max Jacob - Association les Amis de Max Jacob
Archives municipales de Quimper, Les ancêtres de Max Jacob à travers les fonds d'archives de la ville de Quimper , Ville de Quimper (カンペール市 し )
LES CAHIERS MAX JACOB (Revue des Amis de Max Jacob) - Les Amis de Max Jacob
Yvon Le Bras et Fabienne Ruellan, Max Jacob (1876-1944) - Musée des beaux-arts de Quimper (カンペール美術館 びじゅつかん )
Fhima Catherine (2002), Max Jacob ou la symbiose des identités paradoxales , Archives Juives , Vol. 35
Marie-Claire Durand Guiziou, MAX JACOB ET L'ESPAGNE , LES CAHIERS MAX JACOB , n°8
フランス語 ふらんすご 版 ばん ウィキソースに
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引用 いんよう 句集 くしゅう があります。
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