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シンディ・ローパー - Wikipedia コンテンツにスキップ

シンディ・ローパー

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シンディ・ローパー
シンディ・ローパー(2023ねん
基本きほん情報じょうほう
出生しゅっしょうめい シンシア・アン・ステファニー・ローパー
生誕せいたん
学歴がくれき ノーザン・バーモント大学だいがく
ジャンル
職業しょくぎょう
担当たんとう楽器がっき
活動かつどう期間きかん 1978ねん -
レーベル
公式こうしきサイト Cyndi Lauper - Official Site
シンディ・ローパーのサイン

シンディ・ローパー英語えいご: Cyndi Lauper1953ねん6月22にち - ) は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくシンガーソングライター女優じょゆう本名ほんみょうは、シンシア・アン・ステファニー・ローパー(Cynthia Ann Stephanie Lauper)。アメリカなど英語えいごけんでのせい発音はつおんは「ラウパー」にちかい。

グラミーしょうエミーしょうトニーしょう受賞じゅしょう経験けいけんがある。おっとはデヴィッド・ソーントン[2]

略歴りゃくれき

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幼少ようしょう - 1980ねん

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1953ねん6がつ22にちニューヨークしゅうニューヨークブルックリンにおいて、スイスおよびドイツけいアメリカじんちちと、シチリアけいアメリカじんははとのあいだまれる。5さいとき両親りょうしん離婚りこん母親ははおやあねおとうとともにクィーンズ近郊きんこうのオゾン・パークへ移住いじゅう[3]

12さいときに、ギターのかたまなび、作詞さくしはじめる。学校がっこうではまわりになじめず、授業じゅぎょうけるかわりに、えがいたり、うたうたったりしてごす。17さいとき自分じぶんのおかれている環境かんきょう嫌気いやけがさし、高校こうこう退学たいがくしついに愛犬あいけんスパークルとともいえをでる[ちゅう 1]General Educational Developmentをパスし高校こうこう卒業そつぎょう認定にんてい資格しかくけ、en:Johnson State CollegeでArtのクラスの講義こうぎなどをけた。 そのあいだ生活せいかつのためウェイトレス、のモデル、競馬けいばじょう競走きょうそう調教ちょうきょう生理せいり運動うんどうやくホットウォーカー、空手からて教室きょうしつびこみとう様々さまざましょくにつきながら、アートスクールにかよったり、トロント北部ほくぶにあるもりでテントをり、スケッチをしながらごした。このころ、っていた男性だんせいからの提案ていあん名前なまえをCindyではなくCyndiとつづるようになる[4]。カナダを旅行りょこうしたのち、ニューヨークにもどる。

ロングアイランド出身しゅっしんのバンドDoc Westに加入かにゅうし、バックグラウンドシンガーとして活動かつどうするが、のちべつのバンドFlyerに加入かにゅうしリード・シンガーとしてはたらく。

1977ねんうたつづけることによってのど酷使こくししてしまい声帯せいたい損傷そんしょうけたためにこえなくなり、1年間ねんかん音楽おんがく活動かつどう休止きゅうしし、ヴォイス・トレーナー、ケイティ・アゲストラの指導しどうのもと、集中しゅうちゅうてきなヴォーカルトレーニングをけて、歌声うたごえもどす。

1978ねん、キーボードけんサックス・プレイヤーのジョン・テュリとい、意気投合いきとうごうし、自身じしんのバンドブルーエンジェル(Blue Angel)を結成けっせいする。

1980ねんポリドール・レコードより、アルバム『Blue Angel』でデビュー。おおくの評論ひょうろん絶賛ぜっさんされたにもかかわらず、ロカビリーサウンドが理解りかいされなかったり、商業しょうぎょうてき成功せいこうおさめられず、バンドはそのすぐに解散かいさん彼女かのじょ自己じこ破産はさん申請しんせいし、小売こうりてんはたらはじめ、生活せいかつのためにまたうたはじめる。

1983 - 1989ねん

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1985
USAフォー・アフリカ

ブルーエンジェル解散かいさん活動かつどうつづけていたころ恋人こいびとけんマネージャーとなるマネジメントぎょうのデビッド・ウルフとい、ウルフの紹介しょうかいて、ポートレート・レコードと契約けいやくむすぶ。

ポートレートレーベルのエクゼクティブ・プロデューサー、レニー・ペッツやプロデューサーのリック・チャートフ、のちザ・フーターズ結成けっせいするロブ・ハイマンの全面ぜんめんてき協力きょうりょくによって制作せいさくされたアルバムで1983ねんに『シーズ・ソー・アンユージュアル/She's So Unusual』でソロ・デビュー。

1984ねん、ファースト・シングルの「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」がヒット・チャートに急上昇きゅうじょうしょうしてだい2かがやき、セカンドシングルの「タイム・アフター・タイム」は全米ぜんべいだい1になり、サードシングルの「シー・バップ」はだい3、「オール・スルー・ザ・ナイト」がだい5とデビューアルバムから4きょく連続れんぞくトップ5りしたはつ女性じょせいソロ・アーティストとなった。「タイム・アフター・タイム」はマイルス・デイヴィスらにもカヴァーされるスタンダードとなる。

だい1かいMTVミュージック・ビデオ・アワードで最優秀さいゆうしゅう女性じょせい歌手かしゅしょう受賞じゅしょうし、ローリング・ストーンの1984年度ねんど最優秀さいゆうしゅう新人しんじんしょうなど数々かずかずしょうそうなめに。

映画えいがグーニーズ』のオリジナル・サウンドトラックに参加さんかし、シングル「グーニーズはグッド・イナフ」も全米ぜんべいだい10のヒットとなった。

プロモーションのために3がつはつ来日らいにちフジテレビ系列けいれつわらっていいとも!』とテレビ朝日てれびあさひ系列けいれつの『ベストヒットUSA』に出演しゅつえん

1985ねん、5まいのシングル「マネー・チェンジズ・エヴリシング」は全米ぜんべいだい27になり、だい12かいアメリカン・ミュージック・アワードでは最優秀さいゆうしゅう女性じょせいポップ・ロック・ヴォーカルしょう最優秀さいゆうしゅう女性じょせいポップ・ロック・ビデオ・アーティストしょうを、グラミーしょうでは最優秀さいゆうしゅう新人しんじんしょう最優秀さいゆうしゅうアルバム・パッケージしょう受賞じゅしょうUSAフォー・アフリカの『We Are The World』のレコーディングに参加さんか。とても印象深いんしょうぶか熱唱ねっしょう披露ひろうし、音楽おんがく監督かんとくのクインシー・ジョーンズに「アドリブれてもいい?」とたずね、かれよろこばせたという有名ゆうめいなエピソードものこしている。

デビューしてわずかな時間じかんで80年代ねんだい代表だいひょうするシンガーとなり、パワフルなヴォーカル、独自どくじのファッションせい話題わだいとなった。

1986ねん、2まいのオリジナル・アルバム『トゥルー・カラーズ/TRUE COLORS』を発表はっぴょう日本にっぽんではオリコン洋楽ようがくアルバムチャートで1986ねん9がつ15にちづけから6しゅう連続れんぞく1獲得かくとくした[5]。ファースト・シングル「トゥルー・カラーズ」は全米ぜんべいだい1を2しゅう連続れんぞく獲得かくとくし、セカンド・シングル「チェンジ・オブ・ハート」はだい3に、サード・シングルの「ホワッツ・ゴーイン・オン」はだい12記録きろくした。

1987ねん映画えいがバイブス秘宝ひほうなぞ』の撮影さつえいはいってから、スランプにおちいってしまい、私生活しせいかつではマネージャーでもあり婚約こんやくしゃともらしていたデヴィット・ウルフと別離べつり

1988ねんきゅうソ連それんおこなわれた『べいソ・ソングライター・サミット』に参加さんかしたことが転機てんきとなり、様々さまざま刺激しげきけてスランプをすきっかけとなり活力かつりょくもどし、ほとんど出来上できあがっていたニュー・アルバムを白紙はくしもどしてつくなおして、1989ねん、3まいのオリジナル・アルバム『ア・ナイト・トゥ・リメンバー/A NIGHT TO REMEMBER』を発表はっぴょう自身じしんはつ全曲ぜんきょくラヴ・ソングとなった。

ファーストシングル「なみだのオール・ナイト・ドライヴ/ I DROVE ALL NIGHT」は全米ぜんべいだい6記録きろくした。

1990 - 2000ねん

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1990ねん、デビューまえからおもうがままに、自由じゆう奔放ほんぽう活動かつどうしていたが、デビューしてからの商業しょうぎょうてき成功せいこう名声めいせいたことにより、レコード会社かいしゃまわりのスタッフからサウンドのめんから様々さまざまめん制限せいげんされ、創作そうさく活動かつどう自由じゆううしなっていたころふたた映画えいが出演しゅつえんをし、『マイアミ・ムーン/Off And Running』の撮影さつえいマイアミはじまる。

そんなころオノ・ヨーコからリバプールおこなわれる『ジョン・レノン生誕せいたん50周年しゅうねんコンサート』への参加さんか依頼いらいされ、「ヘイ・ブルドッグ」「労働ろうどう階級かいきゅう英雄えいゆう」をローパー自身じしんでアレンジし、バンドメンバーと演奏えんそうする。

さらにベルリンのかべ崩壊ほうかい記念きねんしてベルリンでおこなわれた、『ザ・ウォール・コンサート』に参加さんかしたり、湾岸わんがん戦争せんそう反対はんたいのためのプロジェクトにオノ・ヨーコやレニー・クラヴィッツいたるとも参加さんかする。

だい41かいNHK紅白こうはく歌合戦うたがっせんには中継ちゅうけいではなく来日らいにちして出演しゅつえん当日とうじつNHKホールのステージで歌唱かしょうしている。

1991ねん映画えいが共演きょうえんがきっかけで俳優はいゆうデヴィッド・ソーントンと11月に結婚けっこんする。

1992ねん、ミュージカル『タイクーン』のサウンド・トラックに参加さんかし、シングル「ワールド・イズ・ストーン/The World Is Stone」がヨーロッパ各国かっこくとくにフランスでは3かげつあいだトップ5ない記録きろくするなどだいヒットする。

1993ねん、フーターズのロブ・ハイマン、エリック・バジリアンやアリー・ウィリス、おっとのデビッド・ソーントンらのたすけをりて製作せいさくされた4まいのオリジナル・アルバム『ハット・フル・オブ・スターズ/HAT FULL OF STARS』を発表はっぴょう。ローパー自身じしん全曲ぜんきょくきょくづくりにたずさわり、アルバム・カバーやさらにビデオ監督かんとくまでプロデュースしてすべてを手掛てがけた。このアルバムはローパー自身じしんがやりたいことをつらぬとおし、しんじられるうたうたい、まわりのひとたちにもっと自分じぶん意見いけん提示ていじしてもいいことに気付きづき、妥協だきょうすることなく製作せいさくされた。自分じぶん真実しんじつかたったあたらしいアルバムを一人ひとりいちにんかせるために、アメリカでのクラブ・ツアーをおこない、おおきな話題わだいんだ。サンフランシスコのクラブのステージじょうで、商業しょうぎょうてき理由りゆうからはずされたという8ねん歳月さいげつ発表はっぴょうした「ア・パート・ヘイト」のことや自身じしん葛藤かっとう苦悩くのうあきらかにした。このとし年末ねんまつ来日らいにち公演こうえんおこないその、シンガポール・台湾たいわんまわる。

1994ねんはつのベスト・アルバム『グレイテスト・ヒッツ/TWELVE DEADLY CYNS...AND THEN SOME』を発表はっぴょうぜん世界せかいで400まんまい以上いじょうのセールスを記録きろくし、ワールド・ツアーも南米なんべい、ヨーロッパ、日本にっぽんおこなわれた。

1995ねん阪神はんしん淡路あわじ大震災だいしんさい被災ひさいしゃ寄付きふ。ツアーもつづきイギリス・オランダ・アメリカとおこなわれ、年末ねんまつさい来日らいにち公演こうえんおこなった。

オールスター爆笑ばくしょうものまね紅白こうはく歌合戦うたがっせん!!』(フジテレビ正月しょうがつ特番とくばん)でものまねタレント斉藤さいとうルミ子るみこがまねたときにご本人ほんにんとして専属せんぞくダンサーをれて登場とうじょう特別とくべつ出演しゅつえんし『Hey Now』を披露ひろうした。本人ほんにんによれば「正月しょうがつのパーティーがあるとかされた」とのこと。

1996ねん、5まいのオリジナル・アルバム『シスターズ・オブ・アヴァロン/SISTERS OF AVALON』を発表はっぴょう。4ねん連続れんぞくとなる年末ねんまつ来日らいにち公演こうえんおこなう。アルバムには上々じょうじょう颱風たいふう参加さんかしており、武道館ぶどうかん公演こうえんではりでライヴに参加さんかした。生田いくた神社じんじゃ神戸こうべ)の「震災しんさい復興ふっこう節分せつぶんさい」でまめまきおこなうために来日らいにち。しかし、まめまきは参拝さんぱいきゃく殺到さっとうしてわずか2ふん中止ちゅうしになる。

1997ねん、11月に44さいにして長男ちょうなんデクラン・ワレスを出産しゅっさん念願ねんがんだった子供こどもさずかる。

1998ねん、クリスマス・ソングやクリスマスに関係かんけいしたきょくあつめたはつのシーズナル・アルバム『メリークリスマス…ハヴ・ア・ナイス・ライフ!/ Merry christmas...Have a nice life!』を発表はっぴょう。ジャケットにはおっとのデヴィット、ブックレットにはデクランとともうつっており、収録しゅうろくきょくの「New Year's Baby(First Lullaby)」には当時とうじ乳幼児にゅうようじであったデクランのこえ収録しゅうろくされている。このアルバムを最後さいごにソニー・レーベルとの契約けいやく一旦いったんわった。

1999ねん、『グラミーしょう Best Dance Recording部門ぶもんにノミネートされた「Disco Inferno」がJellybean Recordsから発売はつばいされクラブチャートでヒットし、シェールとともに3かげつはんおよだい規模きぼ北米ほくべいツアーにでる。またアメリカのTV番組ばんぐみMad About You」にさい出演しゅつえんしたり、クリストファー・ウォーケンと共演きょうえんした映画えいがThe Opportunists』の撮影さつえいはじまるひとし女優じょゆう活動かつどう精力せいりょくてきおこなう。

2000

2000ねん映画えいがThe Opportunists』が公開こうかいされ、かく方面ほうめんたか評価ひょうかける。またこのとし、ジョニ・ミッチェル・トリビュート・コンサートに出演しゅつえんしたり、シェリル・クロウハートデスティニーズ・チャイルドいたるともにガン撲滅ぼくめつのためのチャリティー・ライブ『Girls With Guitar Concert』に出演しゅつえんする。

2001ねん - 2015ねん

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2001ねん坂本さかもと龍一りゅういちびかけで地雷じらい撲滅ぼくめつのためのチャリティーレコード『Zero Landmine』におおくのミュージシャンととも参加さんかしたり、このとし9がつにアメリカでこった同時どうじ多発たはつテロのため、当初とうしょ予定よていより延期えんきされ、趣向しゅこう変更へんこう開催かいさいされた『ジョン・レノン・トリビュート・コンサート』に参加さんかし、セントラル・パークで、「Strawberry Fields Forever」をうたう。

ロブ・ハイマン、ジャン・パルスフォード、坂本さかもとりゅう一等いっとうとのきょう作曲さっきょく収録しゅうろくしたウィリアム・ウィットマンとの共同きょうどうプロデュースで7まいのオリジナルアルバム『SHINE』を完成かんせいさせ、なつEdel America Records(エデル・レコード)から発売はつばいされる予定よていであったが、発売はつばい直前ちょくぜんEdel America Records倒産とうさんし、アルバム発売はつばい中止ちゅうしされてしまう。

2002ねん、アルバム『SHINE』に収録しゅうろく予定よていであったきょくなかから、それまでライブやイベントとううたってきてファンのリアクションのかったきょく選曲せんきょく収録しゅうろくされた5きょくりのミニアルバムがOglio Records(オグリオ・レコード) から発売はつばいされる。また、ラスベガスでおこなわれたディーバーズ・ライブにスペシャルゲストとして出演しゅつえんし、シェールとデュエットを披露ひろうした。そのふたたびシェールとともに6かげつにもおよだい規模きぼ北米ほくべいツアーをおこない、べ100まんにん以上いじょう観客かんきゃく動員どういんすう記録きろくし、ローパーの以前いぜんわらないライヴパフォーマンスにかく方面ほうめんからおおきな賞賛しょうさんける。

またシェールとのツアーの合間あいまには、ソロライブをおこなったり、店頭てんとうでのサインかい&ミニライブをおこなうなど、原点げんてんもどった地道じみち活動かつどうおこない、『Shine EP』はマイナーレーベルからの発売はつばいにもかかわらず、こうセールスを記録きろくした。

2003ねん、ソロ・ツアーやミート・ローフとのジョイント・ツアーなど精力せいりょくてきにライブ活動かつどうおこなう。ソニーとさい契約けいやくむすび、幼少ようしょうころきながらしたしんでいた1940ねんから1960年代ねんだいきょくをカヴァーしたカヴァー・フル・アルバム『アット・ラスト/AT LAST』を発表はっぴょう。10月下旬げじゅんから、久々ひさびさだい規模きぼなソロ・ツアーがはじまり、大晦日おおみそかのニューヨークでは、タイムズ・スクエアでのニューイヤーズ・イブのイベントにも参加さんかする。

2004ねんしょ事情じじょう上記じょうき参照さんしょう)でおぞうりとなっていた7まいのオリジナル・アルバム『シャイン/SHINE』を日本にっぽん限定げんていで8まいのフル・アルバムとして発表はっぴょう。6月には8ねんぶりとなる日本にっぽんツアーが実現じつげんし、6都市としぜん8公演こうえんおこない、わらないパワフルなライブパフォーマンスを披露ひろうした。そのツアーはオーストラリア、ふたた北米ほくべいへと9がつまでつづけられる。2003ねんからつづけられた『At Last Tour』の地元じもとニューヨーク公演こうえんおさめた、ライヴDVD『Live...At Last』が発売はつばいされる。また、11月にオランダでおこなわれた『Night of the Proms』に参加さんか、12月にはノルウェーでおこなわれた『ノーベル平和へいわしょうコンサート』にも参加さんかした。翌年よくねんの2がつおこなわれたグラミーしょうでは、『At Last』に収録しゅうろくされた「Unchained Melody」が『Best Instrumental Composition Accompanying a Vocal部門ぶもんにノミネートされる。

2005ねんジェフ・ベックサラ・マクラクランシャギー、アニー・ディフランコ、ヴィヴィアン・グリーン、パフィーなど、おおくの豪華ごうかゲストをむかえて、過去かこのヒットきょく人気にんききょくみずからカヴァーしたセルフカヴァー・アルバム『ボディー・アコースティック/The Body Acoustic』を発表はっぴょう。 それにあわせて、プロモーション来日らいにちたし、様々さまざまなメディアに登場とうじょうし、東京とうきょう開催かいさいされた『GO LOHAS! 2005』のイベントでは、新作しんさくから3きょく披露ひろうした。 帰国きこく北米ほくべいツアーを開始かいしし、ツアーの合間あいまにはアメリカン・ミュージック・アワードのステージで、サラ・マクラクランと「Time After Time」をデュエットで披露ひろうした。

Lauper performing at the Gay Games VII, Wrigley Field, July 22, 2006

2006ねん、『THE THREEPENNY OPERA(三文さんもんオペラ)』(ベルトルト・ブレヒトさくクルト・ヴァイル作曲さっきょく)で娼婦しょうふ「ジェニー」やくブロードウェイ・ミュージカルデビューをたし、4がつから6がつまでSTUDIO 54にて出演しゅつえん。 6月におこなわれたトニーしょうでは、共演きょうえんしゃAlan Cummingとパフォーマンスを披露ひろうした。また、7がつには同性愛どうせいあいしゃのオリンピック『ゲイ・ゲームズ』閉会へいかいしき出演しゅつえんした。

2007ねん、6がつ多数たすうのアーティストたちと『True Colors 2007 Tour』をおこなう。ツアーの目的もくてき同性愛どうせいあいしゃ権利けんり擁護ようご推進すいしんのためのもので、チケット1まいにつき1ドルが『Human Rights Campaign』とだいされた人権じんけん擁護ようご活動かつどう寄付きふされた。5あいだにもおよだい規模きぼなショーは北米ほくべい16都市とし公演こうえんされてだい成功せいこうおさめ、参加さんかしたアーティストがきょく提供ていきょうした記念きねんばんのCDが発売はつばいされる。 また、8がつにはペット・ショップ・ボーイズシャギーひとしとともにシンガポールでおこなわれたSingfest参加さんかした。 どう8がつSUMMERSONIC 07 出演しゅつえんのために来日らいにち。11にち大阪おおさかまいしゅうサマーソニック特設とくせつ会場かいじょう、12にち千葉ちば幕張まくはりメッセにてわらないパワフルなライヴパフォーマンスをし、あらためてたか評価ひょうかあらたなファンをた。その東京とうきょう名古屋なごやおこなわれた単独たんどくライヴでは、東京とうきょうではセカンド・アンコールがこったりひとし両日りょうじつども大盛おおもりきょうわった。

2008

2008ねん5がつ14にちに9まいのオリジナル・アルバム『ブリング・ヤー・トゥー・ザ・ブリンク〜究極きゅうきょくガール/BRING YA TO THE BRINK』を発表はっぴょう。 オリジナル・アルバムとしては7ねんぶり、メジャーでレコーディングしたフル・オリジナル・アルバムとしては12ねんぶり。 TOYOTA MARK X ZiOのCFソングとしてOAされていた収録しゅうろくきょくの『セット・ユア・ハート/SET YOUR HEART』をはじめ、全曲ぜんきょく、ダンス・ミュージックとなっている。 アルバム発売はつばいわせて来日らいにちし、東京とうきょう まるうち まるビル1F MARUCUBEにてニュー・アルバム発売はつばい記念きねんライヴをし、新曲しんきょくふくめたすうきょく披露ひろうくつぎ、ステージからりて客席きゃくせきでパフォーマンスをしたりひとし、イベント当選とうせんしゃ仕事しごとがえりの人々ひとびとたのしませ、様々さまざまなメディアにも出演しゅつえんした。 2008ねん9がつCYNDI LAUPER JAPAN TOUR2008だいし、12ねんぶりの日本武道館にほんぶどうかん公演こうえんふくむ3都市としぜん4かい来日らいにち公演こうえんおこなわれる。その、ヨーロッパ、南米なんべいでのツアーをおこなう。

2011

2011ねん3がつ11にちきた日本にっぽんにおける東日本ひがしにっぽん大震災だいしんさい直後ちょくご日本にっぽんでのコンサートツアーのために来日らいにち彼女かのじょった飛行機ひこうき地震じしんによる閉鎖へいさのため成田空港なりたくうこうりられず、べいぐん横田よこた基地きち着陸ちゃくりくした)。海外かいがいミュージシャンが日本にっぽんでの公演こうえん中止ちゅうしして帰国きこくないし、来日らいにちをキャンセルし、レコード会社かいしゃからも帰国きこくするようにすすめら­れていたなか、2011ねん3がつ16にちから、予定よていどおりコンサートをおこなった。さら会場かいじょうでチャリティのための募金ぼきんけ、コンサートをチャリティイベントにした。

また、大阪おおさか滞在たいざい湯川ゆかわれいへ「こういうときこそ、日本にっぽんにくることが出来できて、わたし人生じんせいなかでも名誉めいよなことでした。ありがとう」とつづったメールをおくっている。

2012ねん6がつ18にちプロレス団体だんたいWWERAWにゲストホストとして登場とうじょう[6]過去かこには1985ねん開催かいさいされただい1かいレッスルマニアウェンディ・リヒターのセコンドとして出場しゅつじょうしている。同年どうねん、ミュージカル『キンキーブーツ』(原作げんさくは2005ねん公開こうかい同名どうめい映画えいが)の音楽おんがく担当たんとうだい67かいトニーしょうでオリジナル楽曲がっきょくしょう受賞じゅしょうした。

2013ねん8がつ10日とおか・11にちSUMMERSONIC 13出演しゅつえん10日とおか大阪おおさかまいしゅうサマーソニック特設とくせつ会場かいじょう、11にち千葉ちば幕張まくはりメッセのMOUNTAIN STAGEでパフォーマンスをおこなった。

2015ねん1がつ 1985ねん発売はつばいされたデビューアルバム『シーズ・ソー・アンユージュアル』の発売はつばい30周年しゅうねん記念きねんしたジャパンツアーシンディ・ローパー ~30周年しゅうねんアニヴァーサリー・セレブレーション ジャパン・ツアー2015開催かいさい武道館ぶどうかん公演こうえんふくぜん6都市とし公演こうえん

2016ねん - 現在げんざい

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2016ねん1がつ、ローパーは2016ねん5がつ6にちあたらしいアルバムをリリースすることを発表はっぴょうした。このアルバムは彼女かのじょ早期そうきカントリークラシックスの解釈かいしゃく構成こうせいされ、『Detour』とだいされた。この発表はっぴょうは、ハーラン・ハワードの「Heartaches by the Number」の彼女かのじょのバージョンのリリースと、Kelsea BalleriniとIngrid MichaelsonとのSkyville Liveでのパフォーマンスによって支持しじされた。また、2016ねん2がつ17にちには、ワンダ・ジャクソンの「Funnel of Love」の彼女かのじょのバージョンがリリースされた。

2016ねん2がつ、ローパーは『キンキー・ブーツ』の英国えいこくプロダクションへの貢献こうけんたいして、スティーブン・オレマスとともにオリビエしょうにノミネートされた。また、2017ねん1がつには、このプロダクションのアルバムがグラミーしょうのベストミュージカルシアターアルバムにノミネートされた。

2016ねん5がつ、ローパーはフランスのプロデューサー、ジャン=ミシェル・ジャールによる『Electronica 2: The Heart of Noise』の「Swipe to the Right」にフィーチャーされた。この『Electronica』プロジェクトのだい2だんアルバムは、電子でんし音楽おんがく関連かんれんするアーティストとのコラボレーションにもとづいている(Tangerine Dream、Moby、Pet Shop Boysなど)。

2017ねん1がつ、ローパーはAustin City Limitsのだい42シーズンに出演しゅつえんし、『Detour』からのカントリーチューンとともに、彼女かのじょのクラシックなきょくのいくつかを披露ひろうした。このエピソードはPBSで放送ほうそうされた。

2018ねん3がつ、ローパーは『タイム・アフター・タイム』のきょう作者さくしゃであるロブ・ハイマンとともに、1988ねん映画えいが『ワーキング・ガール』のミュージカルばん楽曲がっきょく作曲さっきょくすることが発表はっぴょうされた。この映画えいがにはメラニー・グリフィスとシガニー・ウィーヴァーが出演しゅつえんした。彼女かのじょはハイマンと協力きょうりょくしたが、音楽おんがくを1980年代ねんだいのようにこえるものにしたかったとべている。ミュージカルはトニーしょう受賞じゅしょうしゃのクリストファー・アシュリーによって上演じょうえんされ、ミュージカルの開発かいはつプロダクションのプレミアは2021/2022シーズンに予定よていされていた。

Grandin Roadのために、ローパーは独自どくじに「Cyndi Lauper Loves Christmas」という彼女かのじょ自身じしんのクリスマスコレクションをデザインし、2018ねん9がつから利用りよう可能かのうにした。「わたしはいつもクリスマスがきで、それはわたしちいさなことで幸福こうふくつけることをおもさせてくれます」とローパーはべた。

彼女かのじょ年次ねんじのHome For The Holidaysコンサートは、ニューヨークのビーコンシアターで2018ねん12月8にち開催かいさいされた。

ローパーはテレビシリーズMagnum P.I.のリブートのエピソードで弁護士べんごしやくとしてゲスト出演しゅつえんしました。このエピソードは「Sudden Death」とだいされ、2018ねん10がつ22にち放送ほうそうされた。

2018ねん11月15にち、ローパーはビルボードのだい13かい年次ねんじ「ウィメン・イン・ミュージック」イベントでアイコンしょう受賞じゅしょうすることが発表はっぴょうされ、12月6にちにニューヨーク授与じゅよされた。ビルボードの編集へんしゅうディレクター、ジェイソン・リプシュッツは「世界中せかいじゅうがサインディ・ローパーのポップ音楽おんがくちから認識にんしきし、同様どうよう彼女かのじょ音楽おんがくえて不可欠ふかけつ才能さいのうかし、現代げんだい社会しゃかいにポジティブな変化へんかをもたらし、しんのアイコンになっています」とべた。

きょく「Together」は、2019ねん1がつ公開こうかいされたカナダのコンピューターアニメーション映画えいが『Racetime』にフィーチャーされた。もともとフランス語ふらんすごでDumasによってかれ、演奏えんそうされたこのきょくは、映画えいが英語えいごばんである『La Course des tuques』の英語えいご翻訳ほんやくをローパーが演奏えんそうした。

2019ねん6がつ26にち、ローパーはStonewall 50 – WorldPride NYC 2019のオープニングセレモニーでパフォーマンスをおこなった。ハリウッドボウル管弦楽かんげんがくだん伴奏ばんそうけ、トーマス・ウィルキンスが指揮しきをし、ローパーは2019ねん7がつ12にちと13にちにアイコニックなハリウッドボウルで2つのコンサートをおこなった。

2019ねん9がつ、ローパーがジェーン・リンチと共演きょうえんし、今日きょうの「ゴールデン・ガールズのようなもの」と形容けいようされるあたらしいNetflixコメディシリーズに出演しゅつえんすることが発表はっぴょうされた。なお2021ねん3がつ時点じてんで、このプロジェクトにかんする更新こうしん情報じょうほうい。

2020ねん1がつ26にち、ローパーはロサンゼルスで開催かいさいされただい62かいグラミーしょう授賞じゅしょうしきで、1980ねん映画えいが『Fame』のサウンドトラックからのきょく「I Sing the Body Electric」のコーラスをうたった。この授賞じゅしょうしきながらくグラミーしょうテレビプロデューサーをつとめたケン・アーリッヒへの送別そうべつ一環いっかんで、にベン・プラット、カミラ・カベロ、オリジナルの映画えいが出演しゅつえんしたデビー・アレンなどが出席しゅっせきした。

2020ねん4がつ23にち、ローパーは新型しんがたコロナウイルスのパンデミックによって経済けいざいてき困難こんなんかかえるLGBTQナイトライフの労働ろうどうしゃたいする資金しきん調達ちょうたつコンサートに参加さんかし、「True Colors」を披露ひろうした。このコンサートは、歴史れきしてきなグリニッジ・ヴィレッジのゲイバーであるStonewall Inn Gives Back営利えいり団体だんたいによって発起ほっきされ、出演しゅつえんアーティストにはケイト・ピアソン、Our Lady J、ルーファス・ウェインライト、ダレン・ヘイズなどがふくまれた

2020ねん11月、ローパーはもとトップテン「アメリカン・アイドル」ファイナリストのケイシー・エイブラムスと共演きょうえんし、きょく「Eve of Destruction」のカバーバージョンを制作せいさくした。

2021ねん11月、ローパーはShea Diamondのトラック「Blame it on Christmas」のゲストボーカルとしてフィーチャーされた。翌月よくげつには公式こうしきビデオがリリースされた。

Lauper speaking to reporters at the White House in 2022

ローパーは2022ねんのMusiCares Person of the Year Tribute Showでジョニ・ミッチェルをたたえるコンサートに出演しゅつえんした。

人物じんぶつ

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アーティストとして

  • ハイトーンで、たか肺活量はいかつりょうつ。地声じごえもハイトーンであかぼうのようなこえをしている。
  • デビュー当初とうしょは、古着ふるぎよう服装ふくそうと、のちに「ハリウッドメイク」とばれるメイクや「ハリウッドスマイル」とばれる上唇うわくちびるをめくり四角しかくくちをあける笑顔えがおせていた。
  • 多様たよう楽曲がっきょくうたいこなすことから「ななしょくこえ歌手かしゅ」としょうされる[7]
  • 奇抜きばつ髪型かみがたかみしょく特徴とくちょうで、黄色きいろ赤色あかいろしたかみしょく有名ゆうめいであり、一時期いちじき黄色きいろめたり、黄色おうしょくボブカットウィッグ使用しようしていた。楽曲がっきょくによっては赤色あかいろにもめていた。近年きんねんはシルバーやしろちかいろめている。このヘアスタイルはのち女性じょせいアーティストに多大ただいなる影響えいきょうあたえている。
  • デビューから現在げんざいまでわらない精力せいりょくてきアーティスト活動かつどう独自どくじファッションから「永遠えいえんのガール」としょうされている。

人物じんぶつぞう

  • ブレイク自身じしん環境かんきょう急激きゅうげきわったことへの戸惑とまどいと、つね注目ちゅうもくびることへのプレッシャーから孤独こどくかんさいなまれ、いち時期じききこもりがちになったこともある。自身じしんパーティーでも、周囲しゅういひとあつまればあつまるほど孤独こどくかんじ、ホテルの部屋へやじこもり、主役しゅやく不在ふざいといったこともあった[8]

日本にっぽんとのかかわり

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だい親日しんにちとしてられる。

社会しゃかい活動かつどう

  • 1995ねん阪神はんしん淡路あわじ大震災だいしんさい勃発ぼっぱつしたさい義援金ぎえんきん寄付きふしている[9]1996ねん2がつ3にち阪神はんしん淡路あわじ大震災だいしんさいチャリティーとしておこなわれた生田いくた神社じんじゃ震災しんさい復興ふっこう節分せつぶんさいにて「まめまき神事しんじ」に参加さんかした[10]
  • 日本にっぽん戦争せんそう悲話ひわかわいそうなぞう」のCDの英語えいごみを担当たんとうした。2008ねん8がつ13にち発売はつばい。「戦争せんそう動物どうぶつまでも不幸ふこうにする」というメッセージを社会しゃかいけて発信はっしんしている。
  • 2011ねん3月16にち来日らいにちコンサート終了しゅうりょう東日本ひがしにっぽん大震災だいしんさい被災ひさいしゃ支援しえんとして、観覧かんらんていた日本にっぽん芸能人げいのうじんとも募金ぼきんばこち、来場らいじょうした観客かんきゃくたちへ募金ぼきんつのった。
    • シンディが日本にっぽん到着とうちゃくしたのは3月11にち震災しんさい当日とうじつであり、成田空港なりたくうこう被災ひさいにより閉鎖へいさされたため横田よこた基地きちち、その都内とないだい渋滞じゅうたいまれ、ホテルに到着とうちゃくしたのは翌日よくじつ午前ごぜん3のことであった[9]
    • 来日らいにちしていたほか海外かいがいアーティストが公演こうえん中止ちゅうし帰国きこくするなかで、シンディもスタッフから帰国きこくうながされたが、予定よていどお公演こうえんおこなった。震災しんさい影響えいきょうにより日本にっぽん政府せいふからかく方面ほうめん節電せつでん要請ようせいされている状況じょうきょうだったため、公演こうえん照明しょうめい最低限さいていげんおさえられた。
    • 翌日よくじつの3がつ17にちにはCNNからの取材しゅざいけ、自身じしん見聞みききした範囲はんい日本にっぽん現状げんじょう窮状きゅうじょうつたえ、日本にっぽんへの支援しえん募金ぼきんなどの助力じょりょくもとめ、そのうったえはCNNの番組ばんぐみであるHLNつうじて、現地げんち時間じかんの2011ねん3がつ17にち世界せかい報道ほうどうされた。
    • 翌年よくねんの3がつ3にちにも来日らいにちし、NHKにて独占どくせんインタビューがおこなわれた。インタビューにて「わたしたちの滞在たいざい一時いちじてきなものです。でも日本にっぽんひとたちは毎日まいにちごしています。なにであれ、出来できることがしたかったのです。」「わたし日本にっぽん理由りゆうは『震災しんさいわすれていない』ということと、わたしるたびにおもしてしいからなのです。」とかたった。

日本人にっぽんじんとの親交しんこう

  • 1989ねん日本にっぽん番組ばんぐみよるのヒットスタジオ』に出演しゅつえんしたさい、かつてニューヨーク市内しないの『ミホ』という日本にっぽん料理りょうりレストランはたらいていたことがあったとべた。定職ていしょくもなく無為むい日々ひびごしていた時期じきに『ミホ』を経営けいえいしている鈴木すずきサクエという日本人にっぽんじん女性じょせい出会であい、「それじゃ駄目だめだから自分じぶんみせはたらきなさい」と勧誘かんゆうされたことがきっかげであった。鈴木すずきはシンディにかぎらず、シンディのバンド仲間なかまやアーティストのたまごといった若者わかものたちを自身じしんみせやとうなど、積極せっきょくてき支援しえんしていた。鈴木すずきはシンディに「いつかれるるから頑張がんばりなさい」と激励げきれいつづけていたという。この鈴木すずきとの出会であいがシンディを親日しんにちにさせるけとなった。
    • どう番組ばんぐみ企画きかくで、シンディには内密ないみつ鈴木すずき行方ゆくえ捜索そうさくした。結果けっか鈴木すずきはシンディの来日らいにちとは無関係むかんけいしょ事情じじょうにより偶然ぐうぜん日本にっぽん帰国きこくしており、鈴木すずきとシンディはスタジオにて再会さいかいたした。このときシンディは感極かんきわまり、うたまえなみだぐむという一幕ひとまくもあった。
  • オノ・ヨーコ親交しんこうがある。上述じょうじゅつの、高校こうこう退学たいがく愛犬あいけんスパークルとともいえさい手荷物てにもつなかにオノの著書ちょしょ『グレープフルーツ』があった。同書どうしょはシンディにとって「芸術げいじゅつつうじて人生じんせいためまどだった」とかたっている[9]
  • 1986ねん吉田よしだ拓郎たくろう安井やすいかずみに「ホイットニー・ヒューストンわせてあげるから」とさそわれ、アルバム『サマルカンド・ブルー』のレコーディングをニューヨークおこなったが、安井やすい実際じっさいれてきたのはシンディだったという逸話いつわがある[11]

日本語にほんご能力のうりょく

  • 上述じょうじゅつとおり、デビューまえ下積したづ時代じだいにニューヨークの日本にっぽん料理りょうりレストランでウェイトレスアルバイトをしていた。「いらっしゃいませ」と「ありがとうございました」がはじめておぼえた日本語にほんごである。
  • 同店どうてん寿司すし職人しょくにんから日本語にほんごおそわったことで自信じしんがつき、後年こうねん来日らいにち公演こうえんのステージではなしてみたところ、じつおそわった日本語にほんごすべあかちゃん言葉ことばだったこと判明はんめいした。レコード会社かいしゃからはダメしをけたが、一時いちじてき流行はやったとかたった[12]
  • そのほか「おとうさん・はい・すこし」や「おしぼり・寿司すし・さしみ・水割みずわり」など、レストランで使つかわれる言葉ことばや、「最高さいこう!」や「本当ほんとうねー!(I think so too)」「おやすみなさい」「頑張がんばって!」などの簡単かんたん日本語にほんごはなし、多少たしょう日本語にほんご理解りかいできる[13][14]

来日らいにちのエピソード

  • 上記じょうきにも記載きさいされているが、1990ねんにはNHK紅白こうはく歌合戦うたがっせんへの出演しゅつえんためだけに来日らいにちしている。当日とうじつNHKホールのステージにはかごって登場とうじょう和服わふくをアレンジした衣装いしょうにまとい、ヒットきょくなみだのオールナイト・ドライヴ - I Drove All Night」を歌唱かしょうした。これ以前いぜんにもNHK音楽おんがく番組ばんぐみふくすうかい出演しゅつえんしている。
  • 日本にっぽんには度々どど「おしのび」の旅行りょこうおとずれている。もっぱら移動いどう手段しゅだん新幹線しんかんせんで、むとすぐにビールもしくは日本酒にほんしゅスルメんで一杯いっぱいやりつつ、車窓しゃそうからの景色けしきながめるのがきとのことである[15]
  • 来日らいにち公演こうえんで、阪神はんしんタイガース在籍ざいせきしていたかけぬの雅之まさゆきのユニフォームを着用ちゃくようしたことがある。
  • 1995ねん、『ニュースステーション』に出演しゅつえんしたさいに、当時とうじ社会しゃかい現象げんしょうとなっていた女子高じょしこうせいの「ルーズソックス」にたいしてコメントをもとめられ「あのソックスは格好かっこういいし、いいじゃない?!」とスタッフの思惑おもわくせい反対はんたい発言はつげんをする。「あの年頃としごろ少女しょうじょたちは、自分じぶんなに特別とくべつ存在そんざいでありたいとねがい、同時どうじ一人ひとり突出とっしゅつする勇気ゆうきはまだない。そんな少女しょうじょたちが社会しゃかいにおいては特別とくべつ自分じぶん"たち"であるという主張しゅちょうとしてのルーズソックスなのではないだろうか」とつづけ、コメントの最後さいごに「でもだれなんおうとあのソックスは格好かっこういい!」とむすんだ。
  • ものまね王座おうざ決定けっていせん』に本人ほんにんとして登場とうじょう出演しゅつえんした理由りゆうを「正月しょうがつにとてもたのしいパーティーをやるといてたの。」とかたった。また、明石家あかしやさんまが「結婚けっこん前提ぜんていにおいしてもらえませんか?」と冗談じょうだんったところ「ごめんなさい。結婚けっこんしてるの。ちょっとおそかったわね。3ねんまえはどうしていたの?」とアドリブかえし、さんまが「結婚けっこんしてました。」とこたえると、通訳つうやくなしで理解りかいし、わらっていた。また、さんまがたまたまシンディとからだ歓喜かんきすると、さんまをげてちからこぶをつくってみせた。

日本にっぽんしょく

エピソード・その

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  • 1991ねん誕生たんじょう恋人こいびとけんマネージャーのデビッド・ウルフらすうにんのグループでNYマンハッタンのイーストビレッジにあるCANDYB1を数時間すうじかん誕生たんじょうパーティーをおこなった。CANDYB1は本店ほんてん福岡ふくおかにある日本人にっぽんじん経営けいえいなまバンド・カラオケバーで、このみせ選択せんたくしたのはシンディ本人ほんにんだったとわれている。
  • 2011ねん3がつ4にちアルゼンチンブエノス・アイレス空港くうこうで、フライト遅延ちえん欠航けっこう続出ぞくしゅつし、空港くうこうがわ抗議こうぎ殺到さっとう暴動ぼうどうにもなりかねない状況じょうきょうなか、たまたまそのにいたシンディはその状況じょうきょうをみかね[17]空港くうこうのアナウンスマイクを使つかい「Girls Just Wanna Have Fun」[18] をアカペラでうたした。突然とつぜん空港くうこうライヴにその乗客じょうきゃく乗務じょうむいんだいよろこびし、だい合唱がっしょうとなり、みんなの表情ひょうじょう一変いっぺんして歓喜かんき笑顔えがおになり乗客じょうきゃくたちのいかりをおさたのしませた。つづいて「True Colors」もアカペラでうたっている。うたっているさい周囲しゅういにいた乗客じょうきゃくたちが一斉いっせい携帯けいたい電話でんわやデジカメで撮影さつえいをしたが、シンディはにもめず、リズムをとりながらうたっていた。この動画どうが撮影さつえいした乗客じょうきゃくYouTubeにアップし、世界中せかいじゅうひろまった。
  • TBS『王様おうさまのブランチ』のゲストにむかえられたさいに、彼女かのじょうたってもらう交換こうかん条件じょうけんとして森山もりやま愛子あいこまえ童謡どうようあかとんぼ』を披露ひろうし、そのズバけた歌唱かしょうりょく完成かんせい感涙かんるいしたことがある。
  • 2024ねん記事きじにおいて長年ながねん沙汰ざたされたマドンナとの確執かくしつを、1980年代ねんだい2人ふたり対立たいりつあおった業界ぎょうかいによるつくばなしだとぜん否定ひてい。「『Like A Prayer』で彼女かのじょてすぐに『なんてこと、彼女かのじょ大好だいすき!』とおもい、それ以来いらいずっと大好だいすきです」とかたった[19]

ディスコグラフィ

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スタジオ・アルバム

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A Night to Remember

ベスト・アルバム

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  1. Twelve Deadly Cyns...and Then Some1994ねん
  2. The Essential Cyndi Lauper2003ねん
  3. The Body Acoustic2005ねん
  4. Mighty 80's2007ねん
  5. True Colors: The Best of Cyndi Lauper2009ねん
  6. Floor Remixes2009ねん
  7. Japanese Singles Collection -Greatest Hits-2019ねん

シングル

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  1. You Make Loving Fun(1977ねん
  2. ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン - Girls Just Want to Have Fun(1983ねん
    • 発売はつばい当初とうしょ邦題ほうだいは「ハイ・スクールはダンステリア」だった。1994ねんに「Hey Now」としてさいレコーディングし、2005ねんには日本にっぽんPuffy Ami Yumi参加さんかして再々さいさいレコーディングしている。
  3. タイム・アフター・タイム - Time after Time(1984ねん
  4. シー・バップ - She Bop(1984ねん
  5. オール・スルー・ザ・ナイト - All Through the Night(1984ねん
  6. マネー・チェンジズ・エヴリシング - Money Changes Everything(1984ねん
  7. アイル・キス・ユー - I'll Kiss You(promo-only single)(1984ねん
  8. ホエン・ユーワー・マイン - When You Were Mine(1985ねん
  9. グーニーズはグッド・イナフ - The Goonies 'R' Good Enough (The Goonies: Original Motion Picture Soundtrack)(1985ねん
  10. トゥルー・カラーズ - True Colors(1986ねん
  11. チェンジ・オブ・ハート - Change of Heart(1986ねん
  12. ホワッツ・ゴーイン・オン - What's Going On(1987ねん
  13. ボーイ・ブルー - Boy Blue(1987ねん
  14. メイビー・ヒル・ノウ - Maybe He'll Know(1987ねん
  15. ホール・イン・マイ・ハート - Hole in My Heart (All the Way to China)(1988ねん
  16. なみだのオールナイト・ドライヴ - I Drove All Night(1989ねん
    • 元々もともとロイ・オービソンのためにかれたきょくで、ロイのレコーディングも1987ねんおこなわれていたが、シンディのバージョンがさきにリリースされた(ロイ・オービソンのバージョンはロイの死後しご、1992ねんにリリースされている)。2003ねんにはセリーヌ・ディオンがダンス・ポップアレンジでカバーしている。
  17. My First Night Without You(1989ねん
  18. Heading West(1989ねん
  19. A Night to Remember(1989ねん
  20. Primitive(1990ねん
  21. The World Is Stone (Tycoon: Various Artists)(1992ねん
  22. Who Let In The Rain(1993ねん
  23. サリーズ・ピジョンズ - Sally's Piegons(1993ねん
  24. That's What I Think(1993ねん
  25. Hat Full of Stars(1993ねん
  26. Hey Now (Girls Just Want To Have Fun)(1994ねん
  27. I'm Gonna Be Strong ('94 Version)(1994ねん
  28. Come On Home(1995ねん
  29. You Don't Know(1996ねん)* このPVには日本人にっぽんじんのベーシスト「Norihito Yanagawa」が参加さんかしている。
  30. Sisters of Avalon(1997ねん
  31. Ballad of Cleo and Joe(1997ねん
  32. Early Christmas Morning (Japan-only)(1998ねん
  33. Disco Infern (A Night at the Roxbury Soundtrack)-1999ねん
  34. Shine(2001ねん
  35. Walk on By(2003ねん
  36. Until You Come Back to Me (That's What I'm Gonna Do)(2004ねん
  37. Stay(2004ねん
  38. Time After Time (with Sarah McLachlan)(2005ねん
  39. Above the Clouds (with Jeff Beck)(2005ねん
  40. セット・ユア・ハート - Set Your Heart(2008ねん
  41. Same Ol' Story (2008ねん)
  42. Into the Nightlife (2008ねん)
  43. Funnel of Love (2016ねん)
  44. ホープ - Hope(2019ねん
  • In Paris(1987ねん
  • Twelve Deadly Cyns...And Then Some [Import](1994ねん
  • グレイテスト・ヒッツ(2003ねん
  • Live...At Last [Import](2004ねん
  • ライヴ・アット・ラスト (2009ねん)
  • To Memphis With Love [Import] (2011ねん)
  • メンフィスへあいめて (2011ねん)

Blue Angelのディスコグラフィ

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アルバム
  • ブルー・エンジェル - Blue Angel(1980ねん
シングル
  • I'm Gonna Be Strong(1980ねん
  • I Had a Love(1980ねん
  • Late(1980ねん
  • Fade(1980ねん

映画えいが

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NHK紅白こうはく歌合戦うたがっせん出場しゅつじょうれき

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年度ねんど/放送ほうそうかい かい 曲目きょくもく 出演しゅつえんじゅん 対戦たいせん相手あいて
1990ねん平成へいせい2ねん)/だい41かい はつ I Drove All Night 09/29 長渕ながぶちつよし
注意ちゅういてん
  • 出演しゅつえんじゅんは「出演しゅつえんじゅん/出場しゅつじょうしゃすう」であらわす。

日本にっぽん公演こうえん

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書籍しょせき

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  • 『トゥルー・カラーズ シンディ・ローパー自伝じでん』シンディ・ローパー (ちょ), ジャンシー・ダン (ちょ), 沼崎ぬまざき 敦子あつこ (翻訳ほんやく) 白夜書房びゃくやしょぼう 2013

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ の1988ねん転校てんこうかえした4こう高校こうこうのうち、ニューヨークしゅうリッチモンドにあるリッチモンド高校こうこうより名誉めいよ卒業生そつぎょうせいとしてみとめられることになり、卒業そつぎょうしきにも出席しゅっせきした。Back To School With Cyndi Lauper, 1988 -Girl just wants to have a diploma-

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f Erlewine, Stephen Thomas. “Cyndi Lauper | Biography & History”. AllMusic. All Media Group. 2021ねん4がつ26にち閲覧えつらん
  2. ^ シンディ・ローパーに経済けいざいなん過去かこ現在げんざい経済けいざいてきにも精神せいしんてきにも安定あんてい。 - ライブドアニュース
  3. ^ "Cyndi Lauper - and Lou Reed."
  4. ^ 『シンディ・ローパー自伝じでん』p.58(白夜書房びゃくやしょぼう
  5. ^ オリコンのデータ協力きょうりょくによる “全曲ぜんきょく、80年代ねんだい週間しゅうかんオリコンチャートNo.1” の洋楽ようがくコンピが登場とうじょう、ソニーミュージック、2017ねん8がつ8にち
  6. ^ WWE JAPAN.com 「シンディ・ローパー、27ねんぶりにWWE登場とうじょう!」
  7. ^ 2008ねん6がつごう日経にっけいエンタテインメント!」
  8. ^ 2005ねん11月19にちのCXテレビ『ぼくらの音楽おんがく2』放送ほうそうPE'Zとの対談たいだんにて[出典しゅってん無効むこう]
  9. ^ a b c 遅咲おそざきのスーパースター、シンディ・ローパー - Singalong Double SONS(2017ねん1がつ14にち掲載けいさい
  10. ^ 阪神はんしん大震災だいしんさいからいちねんはんなおした「生田いくた神社じんじゃ」の復興ふっこう長老ちょうろうってってる? イーアイデム(2019ねん1がつ17にち掲載けいさい
  11. ^ 吉田よしだ拓郎たくろうのオールナイトニッポンGOLD」2009ねん10がつ20日はつか放送ほうそう[出典しゅってん無効むこう]
  12. ^ 2008ねん5がつの『情報じょうほうプレゼンター とくダネ!出演しゅつえん[出典しゅってん無効むこう]
  13. ^ 1996ねん11月30にち日本にほんテレビ系列けいれつTHEよるもヒッパレ』の放送ほうそう、シンディ・ローパー、スペシャルメドレーのコーナーにて[出典しゅってん無効むこう]
  14. ^ 1984ねんフジテレビわらっていいとも!出演しゅつえん[出典しゅってん無効むこう]
  15. ^ 2005ねん11月19にちフジテレビぼくらの音楽おんがく2放送ほうそうPE'Zとの対談たいだんにて[出典しゅってん無効むこう]
  16. ^ 2005ねん11月19にちのフジテレビ『ぼくらの音楽おんがく2』放送ほうそう、PE'Zとの対談たいだんにて[出典しゅってん無効むこう]。1984ねん、フジテレビ『わらっていいとも』出演しゅつえん[出典しゅってん無効むこう]
  17. ^ ブエノス・アイレス空港くうこうカウンター
  18. ^ ブエノス・アイレス空港くうこう
  19. ^ シンディ・ローパー、マドンナとの確執かくしつは「対立たいりつあおるためのでっちげ」 VOGUE JAPAN 2024ねん10がつ28にち (2024ねん10がつ30にち閲覧えつらん)

外部がいぶリンク

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