(Translated by https://www.hiragana.jp/)
三線 - Wikipedia コンテンツにスキップ

さんせん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
真壁まかべがた志多伯したはくひらきがねうつし)ほんかわ
日本にっぽん本土ほんどでは蛇皮線じゃびせんさんげん)はきよたのし楽器がっきとしてひろまった。1894年刊ねんかんあきらしんらくこれしおり』より。

さんせん(さんしん)は、弦楽器げんがっき一種いっしゅ日本にっぽん沖縄おきなわけん鹿児島かごしまけん奄美あまみ群島ぐんとうおももちいられる。

概要がいよう

[編集へんしゅう]

中国ちゅうごく福建ふっけんしょうまれた弦楽器げんがっきさんげん」を原型げんけいとするばち弦楽器げんがっきである。

日本にっぽん本土ほんど

[編集へんしゅう]

戦国せんごく時代じだいえいろく年間ねんかん琉球りゅうきゅう王国おうこく経由けいゆして日本にっぽん本土ほんどつたわり、三味線しゃみせん起源きげんひとつとなった。さんせんくらべて、本土ほんど三味線しゃみせんざおながく、中国ちゅうごくさんげんざおながさのわりにはどうちいさい。またオリジナルの中国ちゅうごくさんげんも、江戸えど時代じだい長崎ながさき舶した中国人ちゅうごくじんがもたらしたきよたのし(しんがく)とともに、あらためて日本にっぽん本土ほんど定着ていちゃくした。三味線しゃみせんねこいぬかわ使つかったので、中国ちゅうごくさんげん日本にっぽん本土ほんどでは俗称ぞくしょうで「蛇皮線じゃびせん」ともばれた。蛇皮線じゃびせんは、1894ねん勃発ぼっぱつしたにちしん戦争せんそうをきっかけにきよしらく衰退すいたいしたことで、日本にっぽん本土ほんどでは姿すがたした。

南西諸島なんせいしょとう

[編集へんしゅう]

15世紀せいき以降いこう琉球りゅうきゅう王国おうこく現在げんざい大東諸島だいとうしょとうのぞいた沖縄おきなわけんおよび鹿児島かごしまけん奄美あまみ群島ぐんとう)で独自どくじ発展はってんした。福建ふっけんしょうからは閩人さんじゅうろくせいらい琉(1392ねん~)によりもたらされたとの見方みかたもある。

さんせんおとどう部分ぶぶんへびニシキヘビ)のかわり、どうしりからざおさきてん)にけて3ほんつるわたして、つるいてらす。おも単音たんおんメロディ部分ぶぶん演奏えんそうする。助数詞じょすうしには「ほん」「ざお竿ざお(さお)」「ていちょう(ちょう)」とうもちいる。

沖縄おきなわけんでは楽譜がくふは「こうこうよん(くんくんしー)」という独特どくとくほうもちいる。これは、中国ちゅうごくさんげん楽譜がくふこうろくよん」(くるるんしー、と沖縄おきなわばれる)が原点げんてんとみられる。

沖縄おきなわ文化ぶんか琉球りゅうきゅう文化ぶんか)を象徴しょうちょうする存在そんざいひとつとしてられる。かつては琉球りゅうきゅう王国おうこく領内りょうないにおいて、宮中きゅうちゅうでの琉球りゅうきゅう舞踊ぶようもちいる琉球りゅうきゅう古典こてん音楽おんがくや、士族しぞく農民のうみんたちがうた民謡みんよう沖縄おきなわ民謡みんよう奄美あまみ民謡みんよう)のために男性だんせいさんせんいた。琉球りゅうきゅうおうは、美術びじゅつ工芸こうげいひん製作せいさくするかいすり(かいずり)たてまつしたさんせん職人しょくにんかかえていた[1]

今日きょうでは古典こてん音楽おんがく民謡みんようほかポップスやクラブミュージックなど様々さまざまなジャンルでもちいられ、演奏えんそうするアーティストも沖縄おきなわ音楽おんがく沖縄おきなわ文化ぶんかけんまらない。

沖縄おきなわけん近代きんだい以降いこう移民いみんさかんになったため、日本にっぽん本土ほんどうつひとハワイ南米なんべいブラジルボリビアなど海外かいがい移民いみんさき沖縄おきなわじんコミュニティーをとおして、琉球りゅうきゅう文化ぶんか圏外けんがいにもひろまった。日本にっぽん音楽おんがくかいではなが注目ちゅうもくされなかったが、だい世界せかい大戦たいせんまえに「安里あさとユンタ」(1934ねん録音ろくおん歌詞かし日本語にほんご標準ひょうじゅんの「しん民謡みんよう」)がラジオ放送ほうそう人気にんきはくしたり、1970年代ねんだい竹中たけなかろうらが沖縄おきなわ音楽おんがく紹介しょうかいしたりしたのち1990年代ねんだいの「沖縄おきなわブーム」の到来とうらいにより全国ぜんこくてきられるようになった。さんせん前面ぜんめんした楽曲がっきょくとしてはじめてのミリオンセラーはロックバンド・THE BOOMの「しまうた」(1992ねん全国ぜんこく発売はつばい)である。

2018ねん11月に経済けいざい産業さんぎょう大臣だいじん指定してい伝統でんとうてき工芸こうげいひん指定していされた。

沖縄おきなわ以外いがい南西諸島なんせいしょとうにも、それぞれ独自どくじさんせん存在そんざいする。 たとえば奄美あまみ群島ぐんとうの「奄美あまみさんせん」(あまみさんしん)は、つるばち(ばち)が沖縄おきなわさんせんちがうだけでなく、使用しよう楽譜がくふよこみっつのせん番号ばんごう使つか奄美あまみ独特どくとく楽譜がくふだったり(沖縄おきなわこうこうよん)、奏法そうほうもアップストロークがおもで(沖縄おきなわさんせんはダウンストローク)左手ひだりておさゆび中指なかゆび使つかわずにおこなう(沖縄おきなわさんせん薬指くすりゆび使つかわない)など、現地げんち演奏えんそうしゃからるとおおきなちがいがある。

呼称こしょう

[編集へんしゅう]

沖縄おきなわけんでは一般いっぱんに「さんしん」という。奄美あまみ群島ぐんとうにおいては「三味線しゃみせん」「蛇皮線じゃびせん」「ジャミセン」という。「さんしん」という呼称こしょうについては、起源きげんである三弦さんげんとの関係かんけい指摘してきされる。三弦さんげん福建ふっけんsamhian(サムヒエン)、北京ぺきん官話かんわではsānxiàn(サンシエン)とむ。山内やまうちもりあきらはサンセン(さんせん)からサミセンへ変化へんかしていったというせつとなえている。さんせんどう太鼓たいこ部分ぶぶんへびかわるため、三味線しゃみせんねこいぬかわる)と区別くべつするために、日本にっぽん本土ほんどふくめて「ジャビセン(蛇皮線じゃびせん)」「ジャミセン(へびあじせん)」とばれることもおおい。ただし、この呼称こしょう沖縄おきなわではきらわれるという[2]

ちいさなしま点在てんざいする南西諸島なんせいしょとうではしまごとに方言ほうげんおおきくことなるため、すうおおくの異称いしょうがある。統一とういつ名称めいしょうとして「さんせん(サンシン)」の言葉ことばひろ使つかわれている。

琉球りゅうきゅう処分しょぶん明治めいじ時代じだい沖縄おきなわ伝統でんとうてき地名ちめい人名じんめいを「日本にっぽんふうに」2文字もじ表記ひょうきする方法ほうほう流行りゅうこうした(みぎわ志良しろうみぎわりょう古波蔵こはぐらぞう神里かみさとげん神原かみはらなど)。三味線しゃみせんの「あじ」を同様どうよう省略しょうりゃくしてさんせんという呼称こしょうになったという俗説ぞくせつがある[だれ?]

方言ほうげんによる呼称こしょう抜粋ばっすい

[編集へんしゅう]

歴史れきし

[編集へんしゅう]

さんせん元々もともと中国ちゅうごく発祥はっしょうさんせん琉球りゅうきゅう時代じだい沖縄おきなわってったところ沖縄おきなわ文化ぶんかになったとえる。

起源きげん

[編集へんしゅう]

中国ちゅうごく大陸たいりくひがし南部なんぶ現在げんざい福建ふっけんしょう)の弦楽器げんがっきさんげん」を直接ちょくせつのルーツとする。琉球りゅうきゅう王国おうこく統一とういつ1429ねん中国ちゅうごく大陸たいりく東南とうなんアジアとの交易こうえきによりおおくの文物ぶんぶつれていた。伝承でんしょうでは久米くめさんじゅうろくせい帰化きか14世紀せいきすえ以前いぜんにはすでに琉球りゅうきゅうまれていたという[よう出典しゅってん]15世紀せいき後半こうはんにはなおおう士族しぞく教養きょうようのためにさんげん奨励しょうれいしていた。その日本にっぽんでいうえいろく年間ねんかん初頭しょとう1558ねんまたは1559ねん)に泉州せんしゅう現在げんざい大阪おおさか南部なんぶさかいへとつたわり、日本にっぽん本土ほんど三味線しゃみせん起源きげんとなった。

福建ふっけんしょうさんげん部位ぶい構造こうぞう素材そざいのいずれもさんせんとほぼおなじものだが、さんせんほうざおみじかく、どうひらべったく変化へんかした[11]

琉球りゅうきゅう王国おうこく時代じだい

[編集へんしゅう]

17世紀せいき初頭しょとうには琉球りゅうきゅう王国おうこくさんせんぬし(サンシンヌシドゥイ)という役職やくしょくもうけた。琉球りゅうきゅう王国おうこくは、きよしからおとずれるさつふう使せっぐうのために典礼てんれいさだめて盛大せいだい接待せったい式典しきてん挙行きょこうしていたが、そのための役職やくしょくであるおどり奉行ぶぎょう玉城たまきちょうかおる1719ねんのう歌舞伎かぶきなど日本にっぽん芸能げいのう参考さんこうにした組踊くみおどり創始そうしし、さんせんしま太鼓たいこ胡弓こきゅうといった沖縄おきなわ音楽おんがく琉球りゅうきゅう舞踊ぶよう発展はってんいしずえとなった。日本にっぽん芸能げいのうれられた背景はいけいには、日本にっぽん文化ぶんかへの造詣ぞうけいふかかった王国おうこく摂政せっしょうはねあさしゅう任期にんき1666ねん - 1673ねん)の影響えいきょううかがえる。

琉球りゅうきゅう舞踊ぶよう同様どうようさんせん男性だんせい楽器がっきとされてきた。そのため、調しらべつる男性だんせいようになっている。

へびがわ中国ちゅうごくとの貿易ぼうえきでもたらされた。いぬいたかし32ねん(1767ねん)の輸入ゆにゅうひんなかには5はりへびがわえる[12]王国おうこく時代じだい貴族きぞく士族しぞくといえども経済けいざいてきにはかならずしもめぐまれず、高価こうかへびがわったさんせん富裕ふゆうさの象徴しょうちょうであったとされる。裕福ゆうふく士族しぞく一本いっぽん原木げんぼくからちょうさんせん製作せいさくし「夫婦ふうふさんせん(ミートゥサンシン)」としょうしたり、うるしはこおさめて「かざさんせん」としょう丁重ていちょうゆかあいだかざったりする文化ぶんかがあった。へびがわとどかない庶民しょみん青年せいねんは、芭蕉ばしょうしぶかみって強化きょうかした渋紙しぶがみりのさんせん製作せいさくしてもうあそ(もうあしび)し、農作業のうさぎょうのち時間じかんたのしんでいた。

那覇なはつじ仲島なかじまなどの遊郭ゆうかくでは芸妓げいぎ遊女ゆうじょ座敷ざしきげいとしてうたさんせんにつけた。

近代きんだい

[編集へんしゅう]

19世紀せいき後半こうはん琉球りゅうきゅう処分しょぶん日本にっぽん施政しせいはいった明治めいじ時代じだい以降いこうには、様々さまざま流派りゅうは王朝おうちょう時代じだい楽曲がっきょく保存ほぞんさんせん普及ふきゅうつとめた。

だい世界せかい大戦たいせん末期まっきには沖縄おきなわはげしい戦火せんか見舞みまわれ(沖縄おきなわせん)、おおくのさんせん被害ひがいけた。製作せいさく250ねんさんせん琉球りゅうきゅう国王こくおう所有しょゆうさんせんほか、「ひらきがね(ケージョー)」と総称そうしょうされる名器めいきのうちすうちょう永遠えいえんうしなわれた。

現代げんだい

[編集へんしゅう]

沖縄おきなわせん沖縄おきなわアメリカぐん統治とうちしたかれた。べいぐん基地きちないのバーやコザ繁華はんかがいなどではアメリカへい相手あいてに、さんせんによるライブがさかんにもよおされた。基地きちながれていたアメリカのヒットきょくきかじってさんせんでコピーした登川のぼりかわまことひとしの『ペストパーキンママ』(1948ねん原曲げんきょくアル・デクスターピストル・パッキン・ママ』)などは当時とうじ沖縄おきなわ世相せそう反映はんえいしている。戦後せんご沖縄おきなわ大衆たいしゅう演劇えんげき中心ちゅうしん復興ふっこうし、古典こてん民謡みんようかく流派りゅうは大会たいかい開催かいさいしている。日本にっぽん民謡みんよう歌謡かようきょく節回ふしまわしをれたきょくやポップミュージックのきょくなかにもさんせんれられるようになったが、影響えいきょう沖縄おきなわ文化ぶんかけんとどまっていた。

南米なんべいボリビア移民いみんした沖縄おきなわけん出身しゅっしんまちオキナワ移住いじゅう(コロニア・オキナワ)やおなじく南米なんべいブラジル米国べいこくハワイ沖縄おきなわけい日系にっけいじんコミュニティでは、さんせんかれらのアイデンティティをしめすアイコンとなっている。

1972ねん沖縄おきなわアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくから日本にっぽん返還へんかんされたのち知名ちめい定男さだおひきいるネーネーズりんけんバンドなど一部いちぶ日本にっぽん本土ほんど音楽おんがくシーンでも活躍かつやくしたが、さんせん沖縄おきなわ音楽おんがく本格ほんかくてきられるようになるのは1990年代ねんだい沖縄おきなわブーム以降いこうである。1992ねんには山梨やまなしけん出身しゅっしん宮沢みやざわ和史かずしらのバンド・THE BOOMさんせん全面ぜんめんした琉球りゅうきゅう音階おんかいのポップスきょくしまうた』を発表はっぴょうし、150まんまいせまだいヒットとなった。1999ねん公開こうかい映画えいがナビィのこい』は沖縄おきなわをモチーフとした映画えいがとしては異例いれいのヒットを記録きろくし、2001ねん放映ほうえいされたNHK連続れんぞくテレビ小説しょうせつちゅらさん』で沖縄おきなわブームが不動ふどうとなったことで、趣味しゅみとしてさんせんはじめたり沖縄おきなわ音楽おんがくしたしむことが沖縄おきなわ文化ぶんかけん以外いがいにおいても一般いっぱんてきとなった。さんせん生産せいさんりょうえ、初心者しょしんしゃけのセットや教本きょうほんなども多数たすう発売はつばいされるようになった。一方いっぽうさんせん素材そざいとして理想りそうてきとされる黒檀こくたんはいりにくくなって価格かかく高騰こうとうし、しつわる素材そざい塗装とそうでごまかした粗悪そあくひん存在そんざいする。

2010ねん3月、沖縄おきなわ県内けんないさんせん職人しょくにん有志ゆうしつどい、さんせん製作せいさく技術ぎじゅつ向上こうじょう地域ちいきブランド後進こうしん育成いくせい品質ひんしつ保全ほぜん目的もくてきとした沖縄おきなわけんさんせん製作せいさく事業じぎょう協同きょうどう組合くみあい発足ほっそくした。

2021ねん現在げんざいさんせん沖縄おきなわけん伝統でんとう工芸こうげい指定していされ、7めい工芸こうげい認定にんていされている。鹿児島かごしまけんでは伝統でんとう工芸こうげいひん奄美あまみのサンシン奄美あまみ地方ちほう)として指定していされている。

かた種類しゅるい

[編集へんしゅう]

沖縄おきなわさんせん奄美あまみさんせんでは形状けいじょうことなる。本土ほんど三味線しゃみせん影響えいきょうをよりつよけた奄美あまみさんせん全体ぜんたいてきおおきい。

沖縄おきなわさんせんかた

[編集へんしゅう]

沖縄おきなわさんせんざお形状けいじょうから7種類しゅるいかた(かた)に分類ぶんるいされる。それぞれのかたもととなったさんせん存在そんざいし、名称めいしょうもととなったさんせん製作せいさくしゃかんしている。現在げんざい製作せいさくされているさんせんはすべてそれらの複製ふくせいである。かつては形状けいじょう差異さいについての認識にんしき曖昧あいまいだったが、琉球りゅうきゅうさんせん楽器がっき保存ほぞん育成いくせいかいらが定義ていぎ整理せいりした。そのため以前いぜんは、たとえばてん真壁まかべがた鳩胸はとむね与那城よなぐすくがたといった折衷せっちゅうがたさんせんおお出回でまわっていた。近年きんねんでは又吉またよし真栄しんえいによる「マテーシ千鳥ちどり」や「マテーシつるひさし」のように、あたらしいかたざお製作せいさくするこころみもなされている。

南風原はえばるがた(フェーバラー)
もっとふるかたであり、名工めいこう南風原はえばる」のさくつたえられている。ざお細身ほそみてん(チラ)はがりがすくなく扁平へんぺい野坂のさか(スンウリ)はおおきくがり、まる(ティアタイ)は半円はんえんである。まる鳩胸はとむね(ウトゥチカラ)の区別くべつがほとんどできない。こう音域おんいきおとであってもんだおとがでるように(トゥーイ)はがっている。南風原はえばるがたはさらに拝領はいりょう南風原はえばるがた(ハイリョウフェーバラー)・おう長親ながちか雲上うんじょうがた(オナガペーチン)にけられる。
知念ちねん大工だいくがた(チニンデーク)
初代しょだいさんせんぬしであった知念ちねん大工だいくさくとされる。ざおふとく、てんがりはおおきい。てん部分ぶぶんまる下部かぶから鳩胸はとむねにかけてほそったうまのように中央ちゅうおうがっているのがおおきな特徴とくちょうてん南風原はえばるがたくらべるとひろい。野坂のさかみじかく、まるまるみをびている。
久場くばはる殿どのがた(クバシュンデン)
久場くばはる殿どのさくとされている。沖縄おきなわさんせんではもっと大型おおがたで、てんがりがちいさくうすい。上部じょうぶから下方かほう次第しだいふとくなり、まる鳩胸はとむね区切くぎりがほとんど出来できない。どうないじくには三角形さんかっけいあながあり、一段いちだんだんけられている。両側りょうがわには碁盤ごばんのへそのようなみぞがある。しんだんきざまれている。かつてつじ界隈かいわい遊郭ゆうかくでは護身ごしんよう武具ぶぐ(棍)としてもちいられたという逸話いつわがある。
ひさほねがた(クバヌフニー)
おなじく久場くばはる殿どのさくとされる。よこからると蒲葵びろうほねていることからそのがついた。そう匹敵ひってきする美音びおんをもつとされる。久場くばはる殿どのとは対照たいしょうてきに、さんせんなかざおもっとほそい。まる鳩胸はとむね区切くぎりはほとんどない。
真壁まかべがた(マカビー)
名工めいこう真壁まかべさと之子ゆきこ」のさく均衡きんこうがとれたうつくしさから真壁まかべがたもっとおお製作せいさくされ、かつ人気にんきたかい。ひらきがねばれるさんせんすべてこのかた名工めいこうたちことなり、王国おうこく官職かんしょくにあった真壁まかべざおたいする情熱じょうねつ相当そうとうなもので、完成かんせいしたざおであっても納得なっとくのいかないものはたきぎとしてにくべたという伝承でんしょうがある。ざお細身ほそみてんちゅう絃からがり、いとぞう(チルマダイ)がみじかい。宇根うねおや雲上うんじょうがた(ウーニペーチン)もこのかたぞくする。こん市販しはんされているさんせんおおくは廉価れんかばんでもこのかたちをベースにしている。
ひらなか知念ちねんがた(ヒラナカチニン)
さんせんぬしであった知念ちねん弟子でしたいらなかさくざおほそめだが、鳩胸はとむねまるみがない。てんおおきく湾曲わんきょくしていて、中央ちゅうおうすこがってまるみをびている。知念ちねん大工だいく系統けいとうひともいるが、現在げんざい動向どうこうでは「たいらなか知念ちねんがたかたとしてさい検討けんとうする必要ひつようがある」という風潮ふうちょうのようである。
与那城よなぐすくがた(ユナー)
真壁まかべがたどう時代じだい与那城よなぐすくさくとされている。琉球りゅうきゅう古典こてん音楽おんがく演奏えんそうはこのかたこの傾向けいこうにある。このかたさらしょう与那よながた(クーユナー)、江戸えど与那よながた(エドユナー)、佐久さくがわ与那よながた(サクェカーユナー)、鴨口かもぐち与那よながた(カモグチユナー)にかれる。真壁まかべがたよりもざおあつく、つきざお野面のづらとが直角ちょっかくをなしているのがおおきな特徴とくちょうてんいとぞうさきからがり、はんあなはやや下方かほうけられている。いとぞうながく、鳩胸はとむねおおきめ。とく江戸えど与那よながたしんには大小だいしょう3つのあなけられている。後世こうせい自分じぶんよりもすぐれた名工めいこうあらわれたとき、修正しゅうせい余地よちあたえる意味いみあつくしたとわれている。めん与那よな(メントゥイユナー)ともばれる「与那城よなぐすく遺作いさく」ともばれた「通常つうじょう与那よな野面のづらてんがり付近ふきんから野坂のさかけて平均へいきんてきめんられ、はんあな真壁まかべがたようられたかのような名器めいき」も存在そんざいしたとの伝承でんしょう存在そんざいする。「修正しゅうせい余地よち意味いみ」の異説いせつとして「さんせん大工だいくでもった名工めいこう真壁まかべたいして、与那城よなぐすくが{あいだちがったざおづくりをしたときにはいつでも真壁まかべめんってください}との謙虚けんきょ心積こころづもりでたから」とはなしつたわっている。

奄美あまみさんせん

[編集へんしゅう]

わりさんせん

[編集へんしゅう]

さんせんには様々さまざま改良かいりょう楽器がっき存在そんざいする。

エレキさんせん
コンサートやライブでの使用しようのために、どう部分ぶぶんにマイクやピックアップ内蔵ないぞうしている。
パーランクーさんせん
エイサーもちいられるパーランクーにざおをつけたさんせん
ジャンボさんせん
うりずんむすめ使用しよう全長ぜんちょう6メートル。二人ふたりかりで演奏えんそう
ダブルネックさんせん
ざおほんいたさんせん
オキハワ
つるよんほんにし、フレットをけたさんせん

部位ぶい素材そざい

[編集へんしゅう]

ざお(ソー)

[編集へんしゅう]

さんせん音色ねいろ価値かちはそのざおまるといわれる。素材そざいとしてはカリン、ゆし紫檀したんしま黒檀こくたん(カマゴン)、黒檀こくたんなどがある。そのなかでも材質ざいしつおもくてかたく、年月としつき経過けいかしてもりやくるいのしょうじにくい黒檀こくたん黒木くろき=クルチ)が珍重ちんちょうされている。さんせんざおとして現在げんざいさい高級こうきゅうとされるのは八重山やえやまさん黒檀こくたん八重山やえやま黒木くろき=ヤイマクルチ)である(希少きしょうなために高価こうかになっているめんもあり、八重山やえやまさんであればかならおと保証ほしょうするという意味いみではない)。現在げんざいでは台湾たいわんフィリピンさん南方みなかた黒木くろき(カミゲン)やカマゴンとばれる種類しゅるい黒木くろき代用だいようとしておお使つかわれているが、これらも年々ねんねん出回でまわらなくなってきている。

ざお原木げんぼくはよく「かせて」自然しぜん乾燥かんそうさせ、材質ざいしつめる必要ひつようがある。ざおつくるには最低さいていでも5ねんかせた素材そざい使つかう。職人しょくにんによっては、よくひびざおには黒木くろき使つかい、やわらかい音色ねいろもとめてあえてゆしざお使つかうといった工夫くふうおこなわれる。名高なだかさんせん名器めいきを「ひらきがね(ケージョー)」とぶが、そのうち富盛とみもりひらくがね(トムーイケージョー)のざおはゆし木製もくせいである。

音色ねいろ度外視どがいしすればざお素材そざい制限せいげんはなく、純金じゅんきんぎん、ガラス、アルミ、樹脂じゅしもちいたざお実際じっさい存在そんざいする。

どう(チーガ)

[編集へんしゅう]

どう部材ぶざいにはおもイヌマキ(チャーギ)やクスノキリュウガンもちいられる。高価こうかさんせんにはケヤキ、カリン、黒檀こくたんもちいられることもある。廉価れんかひんには東南とうなんアジアさんゴムノキなどももちいられる。このどう部材ぶざいインドニシキヘビへびがわるのが伝統でんとうてきさんせんどう製法せいほうである。

どうつるおと増幅ぞうふくさせる場所ばしょとなる重要じゅうよう部分ぶぶんとなる。かわ具合ぐあいつよさ)をみて、おとたかほうひょう反対はんたいがわうらとする。南風原はえばるがた真壁まかべがた小型こがたどう知念ちねん大工だいくがた与那城よなぐすくがた大型おおがたどうとされてはいるが、ちがいは曖昧あいまいである。

だい世界せかい大戦たいせん直後ちょくごアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくによる沖縄おきなわ統治とうちした物資ぶっしとぼしかった時代じだいには、コンビーフなどのかんどうもちいたカンカラさんせんや、うまかわ、セメントぶくろ落下傘らっかさん生地きじ(いずれもべいぐんぐん用品ようひんで、ヤミ出回でまわった)をったさんせん存在そんざいした。カンカラさんせん戦後せんご沖縄おきなわかた文脈ぶんみゃくではかせない存在そんざいでもあり、金武かなたけむら当時とうじ)の日本にっぽんへい捕虜ほりょ収容しゅうようしょつくられた楽曲がっきょく屋嘉やかぶし」などはカンカラさんせんうたうことにこだわる奏者そうしゃおおい。こうした経緯けいいから、20世紀せいきすえごろからは学校がっこう教育きょういくでもカンカラさんせん社会しゃかい音楽おんがく総合そうごうてき学習がくしゅう教材きょうざいとしてれられている。

野生やせいへびからのへびがわ採取さいしゅワシントン条約じょうやく抵触ていしょくする可能かのうせいがあるため、現在げんざいではビルマニシキヘビアミメニシキヘビ養殖ようしょくされ、さんせん使用しようされている。1954ねん昭和しょうわ29ねん発行はっこうの『琉球りゅうきゅう三味線しゃみせん寶鑑ほうかん[13]戦前せんぜん演奏えんそう風景ふうけいおさめた写真しゃしんからは、ボールパイソンボアクサリヘビハブマムシぞくする毒蛇どくへび仲間なかま)など、おおきなあつめのかわれるへびがわ使つかわれていた形跡けいせきうかがえる。

ほんばれるへびがわいちまいりは、うすかわをいっぱいにった状態じょうたいのままでは湿度しつど微細びさい変化へんかによってかわ伸縮しんしゅくするためけるおそれがある。そもそもさんせん製法せいほう沖縄おきなわけん風土ふうどわせたものであるため、けんがいではとく管理かんりむずかしい。そのため、管理かんりがしやすい「人工じんこうり(人工じんこうがわ)」(へびがわ模様もようのプリント素材そざいったもの)や、プリント素材そざいうえへびがわかさねてる「強化きょうかり(じゅうり)」も一般いっぱんてきである。人工じんこうりは環境かんきょう変化へんかつよ反面はんめんたかするどおとになりやすい特徴とくちょうがある。奄美あまみ群島ぐんとうでは徳之島とくのしま以南いなんなどをのぞ沖縄おきなわけんくらべてうすかわつよったさんせんこのんでもちいるひとおおいが、ばちさばきが荘重そうちょう傾向けいこうのある奄美あまみ大島おおしま南部なんぶではあつへびがわをよりつよことこのひとおおく、また沖永良部島おきのえらぶしま与論島よろんとうみなみ奄美あまみ地方ちほう民謡みんようではうすめのかわをややゆるるのがこのまれるなど、その地域ちいきにより傾向けいこうことなる。

古謝こじゃ美佐子みさこのようにごうがわ積極せっきょくてき利用りようする奏者そうしゃもおり、本土ほんど三味線しゃみせんくらごうがわへの抵抗ていこうかんうすい。とく海外かいがい公演こうえんもするもの場合ばあいへび皮製品かわせいひん出入国しゅつにゅうこく税関ぜいかん手続てつづきに苦労くろうしたり、ほんかわ気候きこうちがいで調子ちょうしわるくなりやすいためけられる。なお札幌さっぽろ豊平川とよひらがわさけ科学かがくかんにあるさけがわどう使用しようしたさんせんのように、どう素材そざいえたわりだねさんせんもある。

つる(チル)

[編集へんしゅう]

さんせんつるはそのとおり3ほんである。ふとつるかかえたときに上側うわがわ)からじゅんに「おとこ絃(ヲゥーヂル)」「ちゅう絃(ナカヂル)」「おんな絃(ミーヂル)」と呼称こしょうする。それぞれ三味線しゃみせんいちいといとさんいと相当そうとうする。素材そざい伝統でんとうてきには絹糸けんしひねったものであったが、おとのバランスをたもちにくく非常ひじょうれやすかったために今日きょうでは白色はくしょくのテトロンかナイロンせいつる普及ふきゅうしている。まれにエナメルせいつるもちいられるが、手触てざわりのわるさから一般いっぱんてきではない。奄美あまみ群島ぐんとうさんせんでは、黄色きいろ染色せんしょくしたナイロンせいほそつる大島おおしまつる(ウーシマヂル)」がもちいられる。大島おおしまつる黄色きいろなのは、かつておとりをあたえるためつる卵黄らんおうった名残なごりである。

胴巻どうまき(ティーガー)

[編集へんしゅう]

ティーガーとは「がわ」の琉球りゅうきゅうみ。どうまわりにつける装飾そうしょくてき胴巻どうまきのこと。以前いぜん家紋かもんをあしらったシンプルなものがおおかったが、高度こうど経済けいざい成長せいちょういろ素材そざい、デザインにバリエーションがし、オリジナルせいやファッションせいんだティーガーがよくられるようになった。大正たいしょう時代じだいころまでは、どうせるためにちいさな面積めんせき金襴きんらんせい毛皮けがわせいのティーガーをいたが、現在げんざいではほとんどつくられない。

糸巻いとまき(カラクイ)

[編集へんしゅう]

つる具合ぐあい調節ちょうせつする糸巻いとまきをカラクイという。調しらべつるにより音階おんかい調節ちょうせつする。その形状けいじょうから、くびさとうめきく、カンプー、歯車はぐるまがたなどいくつかのデザインがある。素材そざいおも黒檀こくたん紫檀したんくろかきである。中国ちゅうごく楽器がっき糸巻いとまきをまねて、うしこつ、ラクトざい象牙ぞうげ、プラスチックなどで装飾そうしょくしたものがおおい。

こま(ウマ)

[編集へんしゅう]

こま(ウマ)をどうめんてるとつるはなれ、はじける状態じょうたいになる。ウマは前後ぜんご微妙びみょう傾斜けいしゃことなっており、がわざおけるとたおれにくい。素材そざいたけモウソウチク)やうしこつ一般いっぱんてきであるが、規定きていはない。ウマの素材そざいによって音色ねいろわる。職人しょくにんあいだではたけせいこまあぶらげる(あぶらせんじ加工かこうする)とこまになるとされる。夜間やかんなどおとひびかせられないときの練習れんしゅうのために、さんせんよう消音しょうおんこましのこましのびウマ)も存在そんざいする。

つめばち(チミ・バチ)

[編集へんしゅう]

かぶと(バチ)のこと。標準ひょうじゅんで「ツメ」ともいう。バチの材質ざいしつ水牛すいぎゅうかく高級こうきゅう上質じょうしつとされる。普及ふきゅうようにはエナメルせいのバチが一般いっぱんてき市販しはんされている。ただ、部位ぶいおなじく定義ていぎとくにないため、非常ひじょう様々さまざま素材そざいのバチが存在そんざいする。奄美あまみ群島ぐんとうでは細長ほそなが竹箆しっぺじょうのバチを使用しようして演奏えんそうする。

形状けいじょうはやや湾曲わんきょくし、先端せんたんけずって使用しようする。おおきさは5〜15センチほどで、おおまかな傾向けいこうとして古典こてん舞踊ぶようきょくには大型おおがたのツメを、民謡みんようやポップスには中型ちゅうがた小型こがた使つかうことがおおい。さんせん奏法そうほうはダウンストロークが基本きほんとなるため、ツメのしたがわ)はまるみをびている。「おん」(アップストローク)のさいには文字通もじどお先端せんたんつるに「けて」おとかたちになる。

かならずツメを使つかうというわけではなく、自分じぶん人差ひとさゆびつめで「爪弾つまびく」こともおおい。よなはとおるなど爪弾つまびくスタイルにこだわる奏者そうしゃもいる。早弾はやびきのきょくにはギターのピックをもちいることもよくある。

その部位ぶい名称めいしょう

[編集へんしゅう]
  • いとかけ(チルドゥミ)
  • 猿尾さるお(ミジアティ)
  • こころ(チーガタムチ)
  • こころあなじょう(ミジトゥイウイミー)
  • こころあな(ミジトゥイシチャミー)
  • つめがた(ウトゥアティ)
  • つまうら(ウトゥダマイ)
  • 野坂のさか(スンウリ)
  • 鳩胸はとむね(ウトゥチカラ)
  • (トゥーイ)
  • まる(ティーアタイ)
  • あわてん(ウトゥノクイ)
  • 歌口うたぐち(ウトゥガニ)
  • いとぞう(チルダマイ)
  • はんあな(カラクイミー)
  • てん(チラ)
  • つき(チラカマチ)
  • にじ(ウイチラムチネー)
  • ちちぶくろ(ミルクミミ)
  • どうひょう(チーガウムティ)
  • 胴裏どううら(チーガウラ)

元来がんらいざお表面ひょうめんくろうるしりされる。近年きんねんではウレタン塗装とそう主流しゅりゅうである。黒木くろき花梨かりんといった用材ようざいざお作製さくせいする場合ばあいには、その木目もくめ色合いろあいをかすために春慶塗しゅんけいぬり(スンチーヌイ)とばれる透明とうめいうるしりをほどこすことがおおい。また、奄美あまみ群島ぐんとうではりをほどこさないのままのざおこのひとおおい。

ひらきがね(ケージョー、ケージョウ)とは

[編集へんしゅう]

ざおがややほそく、みじかく、かわゆるめにられたかたつる絹糸けんし使つかう。ふと低音ていおんひびくため、琉球りゅうきゅう王朝おうちょう城門じょうもんける合図あいずかねおとていたことからこうばれた。後述こうじゅつのように「もりしまひらくかね」が現存げんそんしているほか、2000年代ねんだい復刻ふっこくされた[14]

ひらきがね由来ゆらいとなった、がたかれるかねおとは「ひらきせいがね」とばれた。ひらきがねしょうされている名器めいきすべては真壁まかべがたである。なおいえつたわるさんせんなかでも非常ひじょうしなとされていたさんせんぞくに「ひらけがね」や「じゅうひらけがね」とばれていたが、それがどのさんせんだったのかは文献ぶんけんによって諸説しょせつる。ひらけがねじゅんずるさんせんとしてじゅうすうていあり、戦後せんごはこれらのじゅんひらきがねふくめてひらきがねんでいる。ひらけがねのなかでも最高峰さいこうほうわれていたさかりとうもりしまひらきがねだい世界せかい大戦たいせんにより焼失しょうしつしたとつたえられていたが、戦後せんごなおいえもともどり、1982ねんなおひろしより沖縄おきなわ県立けんりつ博物館はくぶつかん寄贈きぞうされた。現在げんざい沖縄おきなわ県立けんりつ博物館はくぶつかん美術館びじゅつかんにて収容しゅうよう展示てんじされている。ちなみに、沖縄おきなわ県立けんりつ博物館はくぶつかん美術館びじゅつかんではさかりとうひらきがねしん部分ぶぶんに「もりしまひらくかね」という記載きさいがされているため「さかりとう」ではなく「もりしま」という表記ひょうき使用しようしている。ただし、戦後せんごながいあいだ行方ゆくえ不明ふめいだったてん考慮こうりょすると、から作為さくいてきくわえられた可能かのうせいや、その真偽しんぎについていまなお憶測おくそくえない。ひらきがねにはぞくしないが、まもるまる愛用あいようしたさんせんわれているとまりあやつめぞくめん勝連かつれん虎毛とらげ鴨口かもぐち与那城よなぐすく江戸えど与那城よなぐすくさんせん名器めいきとしてられている。

  • 1916ねん4がつ17にち琉球新報りゅうきゅうしんぽうしゃ記事きじより
    • さかりとう(ムリシマ)ひらきがね西平にしだいら(ニシンダ)ひらきがね湧川わくがわ(ワクガー)ひらきがね熱田あつた(アッタ)ひらきがね翁長おなが(ヲゥナガ)ひらきがね
  • 山内やまうちもりあきら琉球りゅうきゅう音楽おんがく芸能げいのう」ととみはらまもるきよし琉球りゅうきゅう音楽おんがくこう」より
    • さかりとうひらきがね西平にしだいらひらきがね湧川わくがわひらきがねしろ(グスク)ひらきがねやすしん太平たいへい(アマダンジャ/アマダンチャ)ひらきがね
  • 沖縄大おきなわだい百科ひゃっか事典じてん」のひらきがね項目こうもく又吉またよしさん)より
    • さかりとうひらきがね西平にしだいらひらきがね湧川わくがわひらきがねじょうひらくかねあんしん太平おうひらひらきがね西平にしだいら湧川わくがわわりに久田ひさた大宜味おおぎみれる場合ばあいもある)

じゅんひらきがねぞくするもの

  • 友寄ともより(トゥムシ)、豊平とよへい(トヨヒラ)、屋良部崎やらぶざき(ヤラブザキ)、前田まえだ翁長おなが熱田あつたとみ城間しろま(グスクマ)、松田まつだ富盛とみもり(トゥムイ)、安室あむろ(アムロ)、志多伯したはく(シタハク)

奏法そうほう

[編集へんしゅう]

沖縄おきなわけんでは基本きほんてきばちうえからしたろしてつる奏法そうほう(ダウンストローク)でかれる。奄美あまみ群島ぐんとうではしたからうえげる奏法そうほう(アップストローク)が多用たようされる。沖縄おきなわけんでは本土ほんど三味線しゃみせんことなり、ばちどうたたかない。奄美あまみ群島ぐんとうではたけせいばちどうたた奏法そうほうもある。楽譜がくふには勘所かんどころつぼ(チブドゥクル)とばれるつるさえるポジション、タイミング、かた文字もじあらわしたこうこうよん(クンクンシー)とばれるたてもちいられる。

もっと一般いっぱんてきな「ほん調子ちょうし」では C-F-C(おとこつる-ちゅうつる-おんなつる)で調しらべつるするが、がたとき奏者そうしゃ声域せいいきわせて全体ぜんたいおとだかげする。

流派りゅうは

[編集へんしゅう]

さんせん演奏えんそうには琉球りゅうきゅう王朝おうちょう宮廷きゅうてい音楽おんがくとして発達はったつした琉球りゅうきゅう古典こてん音楽おんがくと、庶民しょみんあいだうたがれてきた沖縄おきなわ民謡みんよう奄美あまみ群島ぐんとうしまうたとにおおきくけられる。つたえによれば、うたさんせんは「いんこねあがり」というものおもろ自作じさく即興そっきょうさんせんわせて伴奏ばんそうしていたのがはじまりとされる。むら々を放浪ほうろうしていたため、そのスタイルはひろれられた。ぞくにいうあかいぬ(アカインコ)は現在げんざいあかいぬ神社じんじゃあかけん子宮しきゅう (アカナクー) )が読谷よみたんむら楚辺そべにある。

琉球りゅうきゅう音楽おんがく 野村のむらりゅう始祖しそ先師せんし顕彰けんしょう」。沖縄おきなわけん那覇なは

たたえすい親方おやかたこと幸地こうちけんただし創設そうせつしたじん水流すいりゅうから、知念ちねん績高弟子でしであったやすとみせいもと野村のむらやすしちょうが、それぞれのながれをつたえるやすとみりゅう野村のむらりゅうおこす。両派りょうはおもちがいは、おもかぎやでふう代表だいひょうされる。ちなみに古典こてんという呼称こしょう近代きんだいはいって、その継承けいしょう保存ほぞんという意識いしきつよまることによってまれた。仲宗根なかそねさいわいは、楽曲がっきょく種類しゅるいによってだいふし(ウフブシ)やはしぶし(ファブシ)とばれていたものを総称そうしょうして古典こてんばれるようになったのがいつごろなのかハッキリしないとしながら、おおよそ大正たいしょうまつごろではないかと推測すいそくしている。

おも士族しぞく作法さほう教養きょうようであった難解なんかい古典こてん音楽おんがくことなり、もうあそいわいのせきなどでしたしまれた沖縄おきなわ民謡みんようは、当時とうじ流行りゅうこう地域ちいきうわさばなしうたはる男女だんじょあいだ愛憎あいぞう密接みっせつした内容ないよううたわれている。沖縄おきなわ本島ほんとう民謡みんようとはべつ宮古みやこ民謡みんよう八重山やえやま民謡みんようなどにけられる。

音楽おんがくだけにかぎったはなしではないが、琉球りゅうきゅう古典こてん音楽おんがく沖縄おきなわ民謡みんよう世界せかいでは、そのかんがかたちがいや諸々もろもろ事情じじょうから複数ふくすう団体だんたい会派かいはかれている。たとえば、琉球りゅうきゅう民謡みんよう協会きょうかいでは「新人しんじんしょう優秀ゆうしゅうしょう最高さいこうしょう教師きょうし師範しはん最高さいこう師範しはん」の段階だんかいけがあり「師範しはん免許めんきょ取得しゅとくすると教師きょうし指導しどうできる」とったように、その所属しょぞく団体だんたいによって会費かいひやコンクールの段階だんかいとうちがいがしょうじる。これは本土ほんど家元いえもとせい参考さんこうにしたもので、かよっている研究所けんきゅうじょ先生せんせい推薦すいせん受験じゅけんするシステムが一般いっぱんてき

  • 1957ねん設立せつりつ - 琉球りゅうきゅう民謡みんよう協会きょうかい
  • 1976ねん設立せつりつ - 沖縄おきなわ民謡みんよう協会きょうかい
  • 1989ねん設立せつりつ - 琉球りゅうきゅう民謡みんよう保存ほぞんかい
  • 2002ねん設立せつりつ - 琉球りゅうきゅう民謡みんよう音楽おんがく協会きょうかい
  • 2004ねん設立せつりつ - 琉球りゅうきゅう國民こくみんうたい協会きょうかい
  • 1949ねん設立せつりつ - 八重山やえやま音楽おんがく安室あずちりゅう協和きょうわかい
  • 1958ねん設立せつりつ - 八重山やえやま音楽おんがく安室あずちりゅう保存ほぞんかい
  • 1970ねん設立せつりつ - 八重山音楽大浜用能流保存会
  • 1976ねん設立せつりつ - 八重山やえやま古典こてん民謡みんよう保存ほぞんかい
  • 1998ねん設立せつりつ - 八重山音楽安室流室山会
  • 宮古みやこ民謡みんよう協会きょうかい
  • みや民謡みんよう保存ほぞんかい
  • 宮古みやこ民謡みんよう保存ほぞん協会きょうかい
  • ざいおき宮古みやふる民謡みんよう協会きょうかい
  • 琉球りゅうきゅう民謡みんよう登川のぼりかわりゅう研究けんきゅう保存ほぞんかい

おも演奏えんそうしゃ

[編集へんしゅう]

琉球りゅうきゅう

[編集へんしゅう]

奄美あまみ

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ とうから】さんせん中国ちゅうごく起源きげん 琉球りゅうきゅう独自どくじ進化しんか大城おおしろまなぶ)『読売新聞よみうりしんぶん朝刊ちょうかん2018ねん1がつ24にち文化ぶんかめん
  2. ^ とうから】さんせん中国ちゅうごく起源きげん 琉球りゅうきゅう独自どくじ進化しんか大城おおしろまなぶ)『読売新聞よみうりしんぶん朝刊ちょうかん2018ねん1がつ24にち文化ぶんかめん
  3. ^ セントラル楽器がっき民謡みんよう企画きかく奄美あまみ民謡みんよう総覧そうらん』、小川おがわまなぶおっと指宿いぶすき正樹まさき指宿いぶすき邦彦くにひこ指宿いぶすき良彦よしひこへん南方みなかたしんしゃ
  4. ^ 岩本いわもと三味線しゃみせん教室きょうしつ岩本いわもといわ寿ことぶき、『奄美あまみ民謡みんよう入門にゅうもん三味線しゃみせん楽譜がくふだい1しゅう)』、2000ねん奄美あまみ、セントラル楽器がっき
  5. ^ 徳之島とくのしま民謡みんよう傑作けっさくしゅうワイド』:セントラル楽器がっき
  6. ^ やま民謡みんよう保存ほぞんかいやま民謡みんようしゅう」、鹿児島かごしまけん徳之島とくのしままちやま
  7. ^ 「セントラル楽器がっき徳之島とくのしま民謡みんよう傑作けっさくしゅうワイド収録しゅうろく一切いっさいふし
  8. ^ 公民館こうみんかん講座こうざとううた教室きょうしつ」、鹿児島かごしまけん徳之島とくのしままち
  9. ^ 川畑かわはたさきみん吉田よしだおさむさと共著きょうちょおきえいりょう民謡みんようしゅう三味線しゃみせんうた歌詞かし蛇皮線じゃびせん独習どくしゅうしょシリーズ2改定かいていばんおきえいりょう民謡みんよう協会きょうかい監修かんしゅう吉田よしだ蛇皮線じゃびせん楽譜がくふ研究所けんきゅうじょ
  10. ^ 与論よろん中央ちゅうおう公民館こうみんかん発行はっこう与論よろん中央ちゅうおう公民館こうみんかんサンシヌ講座こうざ楽譜がくふ初級しょきゅう中級ちゅうきゅうへん)』
  11. ^ さんせん歴史れきし - 沖縄おきなわけんさんせん製作せいさく事業じぎょう協同きょうどう組合くみあいさんげんさんせんならべた画像がぞうがある
  12. ^ 安里あさと沖縄おきなわけん歴史れきし』、195ぺーじ
  13. ^ 池宮いけみやてるしる沖縄おきなわ芸能げいのう保存ほぞんかい(1954)
  14. ^ 町田まちだ宗男むねお:さんせん 琉球りゅうきゅう音色ねいろひびけ◇王朝おうちょう時代じだいからつづもりしまなど「ひらきがね」を復刻ふっこく製作せいさく日本経済新聞にほんけいざいしんぶん朝刊ちょうかん2018ねん1がつ24にち文化ぶんかめん

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 安里あさとすすむ田名たな真之まさゆき真栄平まえひらぼうあきら西里にしざと喜行よしゆきゆたか見山みやま和行かずゆき高良こうら倉吉くらよしへん沖縄おきなわけん歴史れきし』(けん47)、山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2004ねん
  • 島袋しまぶくろ正雄まさお沖縄おきなわさんせん起源きげんかくかたについて」
  • おう耀華「中国ちゅうごく琉球りゅうきゅうさんげん音楽おんがく
  • とみはらまもるきよし琉球りゅうきゅう音楽おんがくこう
  • 宜保ぎぼ榮治郎えいじろうさんせんのはなし」
  • 山内やまうちもりあきら山内やまうちもりあきら著作ちょさくしゅう だいいちかん
  • 山内やまうちもりあきら琉球りゅうきゅう音楽おんがく芸能げいのう
  • 大城おおしろまなぶ だい385かい 博物館はくぶつかん文化ぶんか講座こうざさんせん沖縄おきなわひとたち」配布はいふ資料しりょう

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]