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中島なかじまみゆきのオールナイトニッポン

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オールナイトニッポン > 中島なかじまみゆきのオールナイトニッポン
中島なかじまみゆきのオールナイトニッポン
ジャンル バラエティ
放送ほうそう方式ほうしき 生放送なまほうそう
放送ほうそう期間きかん 1979ねん4がつ2にち~1987ねん3がつ30にち
放送ほうそう時間じかん 月曜げつよう深夜しんや火曜かよう未明みめい)1:00~3:00
放送ほうそうきょく ニッポン放送にっぽんほうそう
ネットワーク NRN
パーソナリティ 中島なかじまみゆき
テンプレートを表示ひょうじ

中島なかじまみゆきのオールナイトニッポン(なかじまみゆきのオールナイトニッポン)は、ニッポン放送にっぽんほうそう深夜しんや番組ばんぐみオールナイトニッポン」の月曜げつよう11979ねん4がつ2にち1987ねん3月30にちまで放送ほうそうされていたラジオ番組ばんぐみ

概要がいよう

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歌唱かしょうせるりんとした印象いんしょうとは180ちがう、軽快けいかいあかるいかたくち好評こうひょうだった。内容ないよう登場とうじょう人物じんぶつのキャラクターによってこえしつえながらはがきをんでいた[1]。そして番組ばんぐみちゅうんでったはがきは中島なかじまみずか自宅じたくかえっていたという[1]

放送ほうそうまえ中島なかじまのイメージはそれまでの楽曲がっきょく影響えいきょうして、もと彼女かのじょらない一般人いっぱんじんからは「くらひと」とおもわれていた。このため初期しょきころどう番組ばんぐみいたリスナーたちから「これがあの中島なかじまみゆきか?」とおどろかれた[1]。それまでの歌唱かしょうせる表情ひょうじょうとはせい反対はんたいの「ガハハ」とわら中島なかじま意外いがいいちめん、お茶目ちゃめでありながらあたたかいかたりにリスナーたちは魅了みりょうされた。また、このキャラクターがリスナーにウケたことで、歌手かしゅ中島なかじまみゆきにとってあらたなファンそう獲得かくとくにもつながったという[1]

そのラジオの深夜しんや放送ほうそう黄金おうごんばれる1980年代ねんだいでも、とう番組ばんぐみニッポン放送にっぽんほうそう看板かんばん番組ばんぐみひとつとなった[1]中島なかじまがオールナイトニッポンを担当たんとうした8年間ねんかんは、終了しゅうりょう当時とうじのオールナイトニッポンとしては歴代れきだい3にあたり、女性じょせいパーソナリティでは「松任谷まつとうや由実ゆみのオールナイトニッポン」、「AKB48のオールナイトニッポン」にいで歴代れきだい3

中島なかじまとう番組ばんぐみ出演しゅつえんのきっかけ

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ほんさく放送ほうそうまえ1978ねんあき中島なかじま大阪おおさかMBSラジオの『MBSミュージックマガジン金曜日きんようびのパーソナリティを担当たんとうしていた。それを当時とうじニッポン放送にっぽんほうそう制作せいさく所属しょぞくしていたかめふち昭信あきのぶき、そのかたくちうたとのギャップに感銘かんめいけたことがとう番組ばんぐみへの起用きようのきっかけとされている[2][3]かめふちは「中島なかじま直接ちょくせつって依頼いらいした」と回顧かいこしているが、中島なかじま自身じしんはそのことをおぼえていないという[3]

ちなみに、中島なかじま自身じしん著書ちょしょつたわれ、あい -月曜げつようのスタジオから-』において、前任ぜんにんしゃ松山まつやま千春ちはるから電話でんわによって依頼いらいされたと記述きじゅつしている[注釈ちゅうしゃく 1]。なお、『ミュージックマガジン』の構成こうせい担当たんとうであった寺崎てらさきかなめを、とう番組ばんぐみでも構成こうせい起用きようしている[4]

番組ばんぐみエピソードなど

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だい1かい1979ねん4がつ2にち放送ほうそうは、当時とうじ放映ほうえいしていたTBSドラマ「たとえば、あい」の登場とうじょう人物じんぶつである九条くじょう冬子ふゆこかたりと、三橋みつはしよし智也ともやの「達者たっしゃでナ」の一節いっせつはじまった[5]いちきょく甲斐かいバンドの「東京とうきょう一夜いちや」。ちなみにこの放送ほうそうにおいて中島なかじまは、松山まつやま千春ちはるについて「臨月りんげつのため北海道ほっかいどうもどっておりますので、いいんでいただきたい」といじったトークをしていた[6]

ペンネームさいは、リスナー希望きぼうでエコーをかけること通例つうれいとなっており、「○○エコー希望きぼう」としょう様々さまざま種類しゅるいのエコーがかけられた。3つうに1つう割合わりあいで「エコー希望きぼう」とかれていた統計とうけいがあったという[7]番組ばんぐみない中島なかじまがリスナーのハガキの住所じゅうしょかれた表面ひょうめんから本題ほんだいかれた裏面りめんむためひっくりかえとき、そのおとをわざとマイクのまえこしていた[注釈ちゅうしゃく 2]

毎回まいかい最後さいごむハガキとエンディングきょくは、中島なかじま自身じしんがかなり吟味ぎんみしてえらんでいたという。一部いちぶのスタッフからは、「番組ばんぐみのエンディングをきれいにまとめるのはみゆきさんの美学びがく」ともわれていた[1]。ディレクターには事前じぜん中島なかじまえらんだエンディングきょくつたえられ、毎回まいかいきょくながさを計算けいさんれて本番ほんばんのぞんだ。本番ほんばんでは中島なかじま最後さいごのハガキをえる直前ちょくぜんにスタッフがきょくのイントロをながはじめ、きょく終了しゅうりょうからきっかり3びょう午前ごぜん3時報じほうるようにしていたという[1]

放送ほうそう期間きかんちゅういちだけ、中島なかじま最後さいごのハガキでなやみを相談そうだんしてきたリスナーの名前なまえだけ紹介しょうかいして内容ないようまなかったことがあるという[1]。そのとき中島なかじまは、「あなたのおなやみはわたしにはおおきすぎて簡単かんたんにはおこたえできません」とだけった。中島なかじま手紙てがみしてくれたリスナーに安易あんい助言じょげんをせず、正直しょうじき自分じぶん気持きもちをつたえたという[注釈ちゅうしゃく 3]

中島なかじま本業ほんぎょう歌手かしゅ活動かつどうとの

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スケジュールの都合つごうなどで中島なかじま公演こうえんさきからとう番組ばんぐみ生放送なまほうそうおこなったこともある。れいとして1981ねん1がつ6にちSTVラジオ1984ねん3月26にち南海放送なんかいほうそう1985ねん6月2にちラジオ沖縄おきなわ1986ねん4がつ4にちKBCラジオのそれぞれから、またそのすうかい地方ちほうきょくから放送ほうそうおこなった[8]

1986ねん全国ぜんこくコンサートツアーちゅう沖縄おきなわでの録音ろくおん放送ほうそうになったときには、このとしの4がつまでほん番組ばんぐみ直後ちょくご月曜げつよう2パーソナリティだった上柳うえやなぎ昌彦まさひこAD役割やくわりで、月曜げつようよる沖縄おきなわから東京とうきょうのニッポン放送ほうそうかえって録音ろくおんテープをとどけるなど収録しゅうろく手伝てつだいにったことがあった[1]

また1985ねん8がつ12にち公演こうえんのため、この録音ろくおん放送ほうそう予定よていだったが、この日本航空にほんこうくう123便びん墜落ついらく事故じこ発生はっせいし、中島なかじまがわもこの放送ほうそうをどうするか対応たいおうわれたが、報道ほうどう特別とくべつ番組ばんぐみわったため、録音ろくおんした放送ほうそうぞうになった[9]。これをふくめ、8ねん放送ほうそう期間きかんちゅう番組ばんぐみやすみになったのは2かいだけだった[1]。このは2通常つうじょうどお生放送なまほうそうだったために局内きょくないにいた上柳うえやなぎがそのまま4あいだ担当たんとうして搭乗とうじょうしゃ名前なまえなどをげた。

番組ばんぐみ終了しゅうりょう

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番組ばんぐみ終了しゅうりょう発表はっぴょうしたのは1987ねん2がつ23にち。「自分じぶん器用きようではない」として、音楽おんがくとラジオ両方りょうほうをやりつづけるのはむずかしく今後こんご音楽おんがく活動かつどう専念せんねんしたいという理由りゆうだった[1]同年どうねん3がつ30にち深夜しんや最終さいしゅうかいなかで「いくつものことをてきぱきはなせない。24あいだというかぎられた時間じかん音楽おんがくついやしたいとおもった」など番組ばんぐみ終了しゅうりょう理由りゆう説明せつめいした[1]

そしてこの番組ばんぐみ終了しゅうりょうやく20ふんまえというはやめの時間じかんにエンディングの提供ていきょうクレジットげられ、のこりを最後さいごのフリートークの時間じかんとしてかれた[10]。「中島なかじまみゆきは、今夜こんやでディスクジョッキーを中退ちゅうたいします。これからもずっと、あなたののぞんでいるとおりになってとはいのれないけれども、あなたにとって一番いちばんしあわせなほうくようにいのっています。“こう”せとは、“からし”いとうえについているちょっぴりのてんを“じゅう”にえると“こう”せになるんです。十分じゅうぶんからくて、はじめてひとしあわせになるんです。くじけないで頑張がんばってください。じゃ、いまからかぞえて10びょうに、わたし音楽おんがくはしります。10、9、8、7、6、5、4、3、2、1…。こんばんは、中島なかじまみゆきです。」とうラストメッセージ[11]と、ラストナンバー『白鳥はくちょううたこえる』(アルバム『36.5℃収録しゅうろくながれたのはミックスちがいのanother Mix version)で終了しゅうりょうした。

当日とうじつ、ニッポン放送ほうそうきょくしゃまえには1000にんすリスナーが全国ぜんこくからあつまり、リスナーたちもラストナンバーを合唱がっしょうして番組ばんぐみ見送みおくった。番組ばんぐみ終了しゅうりょうには中島なかじま玄関げんかんまえってリスナーにあいさつ[12]、そしてきょく玄関げんかんからかれたレッドカーペットうえりながら静々しずしずあるいて出迎でむかえのリムジン乗車じょうしゃきょくのちにした[1]。そして、裏番組うらばんぐみ渡辺わたなべ美里みさとのスーパーギャング』(TBSラジオ)もこのとき敬意けいいあらわしエールをおくかたち中島なかじまきょく時代じだい』をながした[12]

パーソナリティ

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放送ほうそう時間じかん

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おもなコーナー

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初期しょき

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  • 今日きょう元気げんきだ、おとこがうまい (1979ねん4がつ - )
    中島なかじまったりしゃべったりした男性だんせい有名人ゆうめいじんたちを、リスナーの投書とうしょまじえて色々いろいろ“お味見あじみ”していたコーナー。最初さいしょ世良せら公則まさのり&ツイスト谷村たにむら新司しんじNSPところジョージ松山まつやま千春ちはるの5くみ話題わだいからはじまった[6]
  • 中島なかじまみゆきのでっかいどー、北海道ほっかいどう (1979ねん4がつ - )
    北海道ほっかいどううつくしくてていこうというコーナー[13]
  • うわさのみゆき(1979ねん4がつ - )
    学校がっこうなどでがった中島なかじまうわさはなし内容ないようなどを募集ぼしゅうしていた[14]
  • ニューミュージック楽屋がくやばなし (1981ねんごろ - )[15]
  • なか無駄むだもの (1981ねん7がつ - )
  • 家族かぞく肖像しょうぞう (1981ねんごろ - )[15][16][注釈ちゅうしゃく 4]
    家族かぞくのユニークなエピソードを紹介しょうかい[1]
  • 大嫌だいきらいだ (1982ねん - 1985ねん1がつ[18]
    リスナーが不満ふまんかんじたことなどを投稿とうこう最後さいごは「○○なんかだいきらいだー」などといった台詞せりふめるのがおもで、この台詞ぜりふのところでエコーがかかった[1]
  • わたしはっている(1982ねんごろ[19]
  • 給食きゅうしょくですよ (1983ねん - )
  • 男子だんし禁制きんせい部屋へや[20]

後期こうき

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  • 吾輩わがはいねこである (1985ねんごろ - )
  • ひとり上手じょうず (1985ねんごろ - )
    中島なかじまのシングルきょくひとり上手じょうず』にけ、“ひとり上手じょうず”だとおもった自画じが自賛じさんばなし他人たにんのひとり上手じょうずばなしなどを募集ぼしゅう[21]
  • めんねの日記にっき (1986ねんごろ - )
    あやまりたいはなしなどを募集ぼしゅう最後さいごに「ごめんね」の意味いみで「メンネ~」とけるのが通例つうれいだった[22]
  • 定刻ていこく逆襲ぎゃくしゅう (1986ねんごろ - )[23]
  • 有楽町ゆうらくちょうはは (1986ねんごろ - )[24]
  • ありソでなさソなもの[25]
  • なん意味いみもないハガキ[26]
  • あたいのメロディー[24]
  • おもえばとおくへたものだ[27]

ノベルティーグッズ

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ポロシャツ

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月光げっこう手鏡てかがみ

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  • 1984ねんあきの『月光げっこううたげコンサート記念きねん』で制作せいさくされた。

みゆきのあくしゅけん

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  • このけん使つかえば中島なかじまみゆき握手あくしゅしてもらえる[28]一部いちぶメディアでは、「このノベルティしさに、番組ばんぐみには毎週まいしゅう6,000つうものハガキがおくられてきた」ともわれている[1]

過去かこのゲスト

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1979ねん
1980ねん
1981ねん
1982ねん
1983ねん

1984ねん
1985ねん
1986ねん
  • 1がつ13にち尾崎おざきゆたか
  • 2がつ17にち甲斐かいよしひろ
    アルバム「REPEAT & FADE」のプロモートをねてゲストり。たつとしおんな中島なかじま)ととしおとこ甲斐かい)の関係かんけいはなしなどを展開てんかい[30]
  • 2がつ24にち小泉こいずみ今日子きょうこ
  • 4がつ7にち三田みた寛子ひろこ
  • 6月2にち糸井いといしげるさと春風亭小朝しゅんぷうていこあさ
    コンサートツアー『番目ばんめぶし最終さいしゅうである沖縄おきなわにて、ラジオ沖縄おきなわ(JOXR)の協力きょうりょくもとなま放送ほうそうされたが、このかいは「はん生放送なまほうそうえる。当時とうじ週刊文春しゅうかんぶんしゅん連載れんさいちゅうの「糸井いといしげるさとまんりゅう(まんりゅう)コピーじゅく(家元いえもと:糸井いとい重里しげさと番頭ばんがしら:春風亭小朝しゅんぷうていこあさ)」とのコラボレーションであった。そのときのおだいは(糸井いといしげるさとが、独身どくしんである中島なかじまみゆきにわせて)「独身どくしんのすすめ」である。放送ほうそう時間じかんのほぼ半分はんぶんめ、オープニングのCMブレイクからかぞえて5かいのCMブレイクの「ひとり上手じょうず」コーナーにて「まんりゅうコピーじゅく」の部分ぶぶんは、糸井いといしげるさと春風亭小朝しゅんぷうていこあさ都合つごうにより東京とうきょうにて収録しゅうろくされ、ラジオ沖縄おきなわのミキシングコンソールのテープレヴュー(ぎゃくまわし)により録音ろくおん放送ほうそうであることかし「あー、はなしたかったー!」となげいていた。なお、オープニングで放送ほうそうスタッフとしてニッポン放送ほうそう(JOLF)のディレクターである入江いりえたのしとアナウンサーである上柳うえやなぎ昌彦まさひこ(そのとき皿回さらまわし(DJ))が沖縄おきなわりしており、入江いりえたのしのいじりは西表いりおもて(いりおもて)たのし(浜辺はまべはだをこんがりいたと暗喩あんゆおもわれる)、上柳うえやなぎ昌彦まさひこのいじりは、沖縄おきなわ恒例こうれい手拍子てびょうしである「あ、うえやなぎ! あソ~レ、うえやなぎ! よ~べばてくるうえやなぎ!」と手拍子てびょうしはやし、本人ほんにんがミキシングコンソールから「じんがいなくてね、も~おれがいないと...」と口上こうじょうべながらスタジオへ登場とうじょうした。そして、中島なかじまみゆき『専属せんぞく』カメラマンと認識にんしきされていた田村たむらひとし(たむら じん。通称つうしょう:たむじん)、ダブル構成こうせい(通称つうしょう:ポチとラスカル)、マネジャーのにん(通称つうしょう長老ちょうろうとししゃも)とう紹介しょうかいされ、「ひとり上手じょうず」のコーナーからは、げでぱらったツアーメンバーがスタジオに乱入らんにゅうした。エンディングではんだハガキの計量けいりょう大会たいかいおこなわれており、(「目方めかたでポン」とけたネーミングの企画きかくで、いち週間しゅうかんぶんのパーソナリティのんだハガキのそう重量じゅうりょうてるとうもの)てたリスナーには、豪華ごうか賞品しょうひんとして、当時とうじ高価こうかであったCDプレイヤー(想定そうていで6~8まんえんだい機種きしゅ)を20めい進呈しんていするとうものである。なお中島なかじまみゆきのかいでは73グラムであったが、「まんりゅうコピーじゅく」でまれたハガキの重量じゅうりょう加算かさんされず、ブーイングしていた。ちなみにオープニングCMブレイクきょくは、コンサートツアー『番目ばんめぶし』でうたわれていた新曲しんきょく「あたいの夏休なつやすみ」。エンディングのきょくは、アルバム『おかえりなさい』の「このそらべたら」である。
  • 6月23にち沢田さわだ研二けんじ
  • 7がつ14にち杉山すぎやま清貴きよたか
  • 7がつ28にちTHE ALFEE
  • 9月8にち渡辺わたなべ美里みさと
    当時とうじ裏番組うらばんぐみの『渡辺わたなべ美里みさとのスーパーギャング』(TBS)を担当たんとうちゅうであったが、中島なかじま直接ちょくせつTBSにみ、突然とつぜんといったかたちでスーパーギャングのスタジオにはいり、裏番組うらばんぐみ同士どうしりょう番組ばんぐみによるおな放送ほうそう実現じつげんした[1]
  • 11月10にち谷山たにやま浩子ひろこ
  • 12月1にち玉置たまき浩二こうじ
  • 12月22にち杉本すぎもと和世かずよ
1987ねん

レギュラー終了しゅうりょう復活ふっかつ

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1991ねん

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1991ねん10月14にちに「オールナイトニッポン」25周年しゅうねん記念きねん一環いっかんとして、特別とくべつ復活ふっかつ放送ほうそうおこなわれた(ほかにも、タモリビートたけしわらいぶくてい鶴光つるこうなど)。

おこなわれたコーナー

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  • Maybe
  • 大嫌だいきらいだ
  • ひとり上手じょうず
  • めんねの日記にっき
  • 家族かぞく肖像しょうぞう

2006ねん

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2006ねん12月15にちには「オールナイトニッポン」40周年しゅうねん記念きねんし、15ねんぶりに放送ほうそうおこなわれた。このとき上柳うえやなぎ当時とうじ平仮名ひらがなの「うえやなぎまさひこ」名義めいぎ)がパートナーとしてスタジオにはいった。中島なかじまは2ねんまえまで上柳うえやなぎと『中島なかじまみゆき ほのぼのしちゃうのね』に出演しゅつえんしていたが、ライブドアによるニッポン放送にっぽんほうそう買収ばいしゅう騒動そうどう勃発ぼっぱつしたさい中島なかじま同局どうきょくへの出演しゅつえん拒否きょひしたために、2005ねん以後いごニッポン放送にっぽんほうそうへの出演しゅつえん途絶とだえていた。

コーナーへの投稿とうこうは、アルバムララバイSINGER』に封入ふうにゅうされた専用せんようはがきのみでけられたが、やく1まんつう投稿とうこうせられた。

オールナイトニッポンのジングルはレギュラー末期まっきの1987ねん当時とうじのものが使用しようされた。

おこなわれたコーナー

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  • 平仮名ひらがなよん重奏じゅうそう
  • 人生じんせいさけび「ただ○のためにだけ!!」
  • しゅ名人めいじん
  • みずのみゆきさん ベスト10
  • 「とろ」との遭遇そうぐう(ネタは募集ぼしゅうされたが、時間じかんりなくなったため放送ほうそうはされなかった)

2013ねん

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2013ねん2がつ23にち27-28オールナイトニッポン45あいだスペシャル一環いっかんとして放送ほうそうされ、番組ばんぐみないで、重大じゅうだい発表はっぴょうおこなわれ、2013ねん4がつからつき1かい日曜日にちようび27-29に「中島なかじまみゆきのオールナイトニッポンがつイチ」としてレギュラーが復活ふっかつすることになり、だい1かいは4がつ14にち放送ほうそう[31][32]。なお、リスナーからのコーナー投稿とうこう真夜中まよなか告白こくはく真夜中まよなかのつやばなし)は葉書はがきおこなわれた[33]

スタッフ

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番組ばんぐみ書籍しょせき

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  • 中島なかじまみゆきオールナイトニッポン へん『LOVE』扶桑社ふそうしゃ、1987ねん5がつ29にちISBN 9784893531360 

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 番組ばんぐみほん「LOVE」207ページにもこのむね記述きじゅつあり
  2. ^ 中島なかじまの『ANN』のすぐわく番組ばんぐみである『ANN』月曜げつようだいつとめた上柳うえやなぎ昌彦まさひこ後年こうねん、「おそらくみゆきさんは、『わたしはあなた(リスナー)のハガキをちゃんとっています』ということをつたえるためにおとをさせたのだとおもいます。彼女かのじょはファンのしんをつかむ天才てんさいぼく番組ばんぐみ(月曜げつようだい)ですぐ真似まねしました」と回想かいそうしている[1]
  3. ^ ヘビーリスナーだったしゅかわみなとじん(のち直木賞なおきしょう作家さっかとなった)は、当時とうじラジオをきながら「リスナーにここまで真剣しんけんうみゆきさんは、なんて誠実せいじつひとなのだろう」と感動かんどうしたとのこと[1]
  4. ^ のちに『ヒルビリー・バップスのオールナイトニッポン』(金曜きんよう2、1989ねん10がつ - 1990ねん3がつ)にて、本番ほんばんぐみのリスナーだったヒルビリー・バップスのメンバーの川上かわかみつよし希望きぼうでこのコーナーがリメイク放送ほうそうされていたことがある。このコーナーも、テーマきょくから中島なかじまこえによるタイトルコールまですべおなじに構成こうせいされていた[17]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 週刊しゅうかん現代げんだい 2021ねん11月27にちごう p.142 - 145「中島なかじまみゆきの『オールナイトニッポン』をかたろう」
  2. ^ 落合おちあい真司しんじ中島なかじまみゆきデータブック」あおゆみしゃかん、 p.49
  3. ^ a b 番組ばんぐみほん 1987, pp. 206–207.
  4. ^ a b 番組ばんぐみほん 1987, p. 43.
  5. ^ 番組ばんぐみほん 1987, p. 38.
  6. ^ a b 番組ばんぐみほん 1987, pp. 43–44.
  7. ^ 番組ばんぐみほん 1987, p. 133.
  8. ^ 番組ばんぐみほん 1987, pp. 88–92.
  9. ^ 番組ばんぐみほん 1987, pp. 210–212.
  10. ^ ラジオブロス(川野かわの将一しょういちちょイースト・プレスかん 2016ねん11月17にち発行はっこう)p.25 - 35「中島なかじまみゆきのオールナイトニッポン」
  11. ^ 番組ばんぐみほん 1987, pp. 30–31.
  12. ^ a b 月刊げっかんラジオパラダイス 1987ねん6がつごう 12ページ記事きじ
  13. ^ 番組ばんぐみほん 1987, pp. 45–47.
  14. ^ 番組ばんぐみほん 1987, pp. 48–49.
  15. ^ a b ラジオライフだい2かんだい2ごうさんさいブックス、1981ねん3がつ1にち、68ぺーじ 
  16. ^ 番組ばんぐみほん 1987, pp. 218–223.
  17. ^ ラジオパラダイス 1990ねん1がつごう 特集とくしゅう「ロッカーの本音ほんねはラジオでけ!!'90」p.15『ヒルビリー・バップスのオールナイトニッポン』のページ
  18. ^ 番組ばんぐみほん 1987, pp. 12, 224–229.
  19. ^ 番組ばんぐみほん 1987, pp. 157–160.
  20. ^ 番組ばんぐみほん 1987, p. 110.
  21. ^ 番組ばんぐみほん 1987, pp. 11, 109, 230–235.
  22. ^ 番組ばんぐみほん 1987, pp. 60–61.
  23. ^ 番組ばんぐみほん 1987, p. 8.
  24. ^ a b 番組ばんぐみほん 1987, p. 100.
  25. ^ 番組ばんぐみほん 1987, p. 9.
  26. ^ 番組ばんぐみほん 1987, pp. 20, 100.
  27. ^ 番組ばんぐみほん 1987, pp. 236–239.
  28. ^ 番組ばんぐみほん 1987, pp. 41–43.
  29. ^ 番組ばんぐみほん 1987, pp. 65–76.
  30. ^ 番組ばんぐみほん 1987, pp. 163–179.
  31. ^ ニッポン放送にっぽんほうそう広報こうほうしつ公式こうしきツイッター、2013ねん2がつ24にち発信はっしん
  32. ^ 中島なかじまみゆきスタッフ公式こうしきツイッター、2013ねん2がつ24にち発信はっしん
  33. ^ 中島なかじまみゆき公式こうしきサイトより
  34. ^ a b 番組ばんぐみほん 1987, p. 160.
  35. ^ 番組ばんぐみほん 1987, p. 92.

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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月曜げつよう1
ぜん担当たんとう
中島なかじまみゆきのオールナイトニッポン
月曜げつよう 25:00 - 27:00
担当たんとう
1983ねんオールナイトニッポンパーソナリティ
曜日ようび 1がつ 2がつ 3がつ 4がつ 5月 6がつ 7がつ 8がつ 9月 10月 11月 12月
月曜げつよう 中島なかじまみゆき
火曜かよう 坂崎さかざき幸之助こうのすけ 高橋たかはし幸宏ゆきひろ
水曜すいよう タモリ 野村のむら義男よしお
木曜もくよう ビートたけし
金曜きんよう 山口やまぐち良一りょういち
土曜どよう わらいぶくてい鶴光つるこう
1984ねんオールナイトニッポンパーソナリティ
曜日ようび 1がつ 2がつ 3がつ 4がつ 5月 6がつ 7がつ 8がつ 9月 10月 11月 12月
月曜げつよう 中島なかじまみゆき
火曜かよう 桑田くわた佳祐けいすけ
水曜すいよう 野村のむら義男よしお THE ALFEE
木曜もくよう ビートたけし
金曜きんよう 山口やまぐち良一りょういち
土曜どよう わらいぶくてい鶴光つるこう
1985ねんオールナイトニッポンパーソナリティ
曜日ようび 1がつ 2がつ 3がつ 4がつ 5月 6がつ 7がつ 8がつ 9月 10月 11月 12月
月曜げつよう 中島なかじまみゆき
火曜かよう 桑田くわた佳祐けいすけ とんねるず
水曜すいよう THE ALFEE 小峯こみね隆生たかお
木曜もくよう ビートたけし
金曜きんよう 山口やまぐち良一りょういち サンプラザ中野なかの
土曜どよう わらいぶくてい鶴光つるこう ABブラザーズ