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二宮にのみや尊徳そんとく

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二宮にのみや金次郎きんじろうから転送てんそう
 
二宮にのみや 尊徳そんとく
尊徳そんとく座像ざぞう岡本おかもとあきあきらさく報徳ほうとく博物館はくぶつかんぞう
時代じだい 江戸えど時代じだい
生誕せいたん 天明てんめい7ねん7がつ23にち1787ねん9月4にち
死没しぼつ 安政あんせい3ねん10がつ20日はつか1856ねん11月17にち
別名べつめい 通称つうしょう:きむ治郎じろう金次郎きんじろう)、ごう尊徳そんとく
戒名かいみょう まことあかりいんこうほまれ報徳ほうとく中正ちゅうせい居士こじ
墓所はかしょ 東京とうきょう文京ぶんきょう諏訪山すわやま吉祥寺きちじょうじ
官位かんい おくしたがえよん明治めいじ24ねん
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 大久保おおくぼ忠真ただざね徳川とくがわ家斉いえなり家慶いえよし
はん 相模さがみ小田原おだわらはん幕臣ばくしん
父母ちちはは ちち二宮にのみや利右衛門りえもん百姓ひゃくしょう
はは:よし(川久保かわくぼふとし兵衛ひょうえむすめ
兄弟きょうだい 尊徳そんとく金治郎きんじろう
友吉ゆうきち常五郎つねごろう)、富治郎とみじろう早世そうせい
つま しつ:きの(中島なかじまわたる三右衛門さんえもんむすめのち離縁りえん
後室こうしつ:なみ(岡田おかだみねみぎ衛門えもんむすめ
徳太郎とくたろう夭折ようせつ)、みことぎょう弥太郎やたろう)、ふみ(文子ふみこ富田とみたこうけいしつ
養子ようしりか川久保かわくぼふとし兵衛ひょうえむすめ
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二宮にのみや尊徳そんとく
人物じんぶつ情報じょうほう
生誕せいたん 天明てんめい7ねん7がつ23にち1787ねん9月4にち
相模さがみこく足柄上あしがらかみぐん栢山かやまむら
死没しぼつ 安政あんせい3ねん10がつ20日はつか1856ねん11月17にち
下野げやこく都賀つがぐん今市いまいちむら
配偶はいぐうしゃ きの、なみ
両親りょうしん ちち利右衛門りえもん
はは:よし
子供こども 徳太郎とくたろうみことぎょう、ふみ
学問がくもん
研究けんきゅう分野ぶんや 経世けいせい農政のうせい
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二宮にのみや 尊徳そんとく(にのみや そんとく)は、江戸えど時代じだい後期こうき経世けいせい農政のうせい思想家しそうかである。自筆じひつ文書ぶんしょではきむ治郎じろう(きんじろう)と署名しょめいしているれいおおいが、一般いっぱんには「金次郎きんじろう」と表記ひょうきされることがおお[1]。また、いみなの「尊徳そんとく」は正確せいかくには「たかのり」とむが、「そんとく」というみで定着ていちゃくしている[2]

経世済民けいせいさいみん目指めざして報徳ほうとく思想しそうとなえ、報徳ほうとく仕法しほうばれる農村のうそん復興ふっこう政策せいさく指導しどうした。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

相模さがみこく足柄上あしがらかみぐん栢山かやまむら現在げんざい神奈川かながわけん小田原おだわら栢山かやまかやま)に、百姓ひゃくしょう二宮にのみや利右衛門りえもん[注釈ちゅうしゃく 1]長男ちょうなんとしてまれる。はは曽我別所そがべっしょむら川久保かわくぼふとし兵衛ひょうえむすめこのみ(よし)。尊徳そんとくおとうとには二宮にのみや三郎さぶろう左衛門さえもん養子ようし友吉ゆうきち常五郎つねごろう)と富治郎とみじろうがいる。

尊徳そんとくは、まず堀之内ほりのうちむら中島なかじまわたる三右衛門さんえもんむすめ・きの(キノ)をつまとするが、離縁りえんいで20さいわかいが貞淑ていしゅく温良おんりょう飯泉いいずみむら岡田おかだみねみぎ衛門えもんむすめ・なみ(波子なみこ)をめとった。後者こうしゃ賢夫人けんぷじんしょうされる。子息しそくは、きのとのあいだ長男ちょうなん徳太郎とくたろうがいたが夭折ようせつしており、なみとのあいだに、嫡男ちゃくなんみことぎょう弥太郎やたろう)、長女ちょうじょふみ(富田とみたこうけいしつ)をもうける。

幼少ようしょう時代じだい[編集へんしゅう]

当時とうじ栢山かやまむら小田原おだわらはんりょうであった。ちち利右衛門りえもんは、養父やぶぎんみぎ衛門えもんから13せき田畑たはたやしきいでおり、当初とうしょゆたかだったが散財さんざいかさねていた。そこに、きむ治郎じろうが5さいとき寛政かんせい3ねん1791ねん)8がつ5にち南関東みなみかんとうおそった暴風ぼうふうで、付近ふきんながれる酒匂川さかわがわ坂口さかぐちつつみ決壊けっかいし、きむ治郎じろうひがし栢山かやま一帯いったい濁流だくりゅうながされてしまった。その影響えいきょうちち田畑たはた砂礫されきし、いえ流失りゅうしつした。開墾かいこん従事じゅうじして田畑たはたすうねん復旧ふっきゅうしたが、借財しゃくざいかかえて家計かけいひんする。

寛政かんせい9ねん1797ねん)、ちちびょうわずらう。きむ治郎じろう12さいとき酒匂川さかわがわ堤防ていぼう工事こうじ夫役ぶやくちちわってつとめるが、年少ねんしょうゆえはたらきがりないとうれい、みずかよる草鞋わらじつくって配布はいふしてけんじた。このころてられられていたおとうと友吉ゆうきちれずにてらからもどった。寛政かんせい12ねん1800ねん)、ちち病気びょうき悪化あっかし、9月にぼっする。ははよしがはたらくために前年ぜんねんまれた富治郎とみじろうひといえあづけるが、ちちりがひどくていえもどす。14さいきむ治郎じろうあさ早起はやおきして久野くのさんたきぎとり、よる草鞋わらじづくりをして、一家いっか4にん生計せいけいてた。

とおる2ねん1802ねん)、貧困ひんこんなかははくなった。まだおさな2人ふたりおとうとはは実家じっか川久保かわくぼあづけ、きむ治郎じろう祖父そふ伯父おじ[注釈ちゅうしゃく 1]まん兵衛ひょうえいえせることとなった。しかしこのとしにまた酒匂川さかわがわ氾濫はんらんし、きむ治郎じろう土地とち水害すいがいおそわれてすべて流失りゅうしつしてしまった。

きむ治郎じろう本家ほんけ祖父そふいえ農業のうぎょうはげみ、こなにしてはたらいたが、ケチなまん兵衛ひょうえきむ治郎じろうよる読書どくしょをするのを「燈油とうゆ無駄むだ使づかい」としてきらい、しばしば口汚くちぎたなののしられた。そこで金治郎きんじろうさくこうじ、堤防ていぼうアブラナえ、それで菜種油なたねあぶらって燈油とうゆとした。また、田植たうえのさいあまっててられたなえ用水ようすいほりえて、べいいちひょう収穫しゅうかくた。

文化ぶんか元年がんねん1804ねん)、ばん兵衛ひょうえいえはなれ、同村どうそん親族しんぞく岡部おかべ伊助いすけかた寄宿きしゅく。このとしこうひょうて、翌年よくねん親戚しんせき名主なぬし二宮にのみやなな左衛門さえもんかた寄宿きしゅく。さらにここでこうの20ひょうて、文化ぶんか3ねん1806ねん)にいえもどり、20さい生家せいか再興さいこう着手ちゃくしゅする。いえ修復しゅうふくし、しつ入田にゅうた一部いちぶもどし、田畑たはた小作こさくすなどして収入しゅうにゅう増加ぞうかはかった。しかし他方たほうで、おとうと富治郎とみじろうはこのころくなった。

生家せいか再興さいこう成功せいこうすると、きむ治郎じろう地主じぬし農園のうえん経営けいえいおこないながら自身じしん小田原おだわらて、武家ぶけ奉公人ほうこうにんとしてもはたらいた。また、このころまでに、身長しんちょうが6しゃくやく180センチきょう)をえていたという伝承でんしょうもある。体重たいじゅうは94kg[3] あったとわれている。小田原おだわら藩士はんし岩瀬いわせたすく兵衛ひょうえ槙島まきしまそうみぎ衛門えもんらにつかえた。

青年せいねん時代じだい[編集へんしゅう]

文化ぶんか5ねん1808ねん)、はは実家じっか川久保かわくぼ貧窮ひんきゅうするとこれを資金しきん援助えんじょし、翌年よくねんには二宮総本家伊右衛門跡の再興さいこう宣言せんげんし、基金ききんげた。そのころ小田原おだわらはんで1,200せき家老がろうをしている服部はっとり十郎じゅうろう兵衛ひょうえが、親族しんぞく助言じょげんにより、きむ治郎じろう服部はっとり家政かせいなおしを依頼いらいした。金次郎きんじろうねん計画けいかく節約せつやくでこれをすくうことを約束やくそくし、文化ぶんか11ねん1814ねん)に服部はっとり財務ざいむ整理せいりしてせんりょう負債ふさい償却しょうきゃくし、余剰よじょうきん300りょうおくったが、みずからはいちぜに報酬ほうしゅうらなかった。この評判ひょうばんによって小田原おだわらはんない名前なまえられるようになった。

文化ぶんか13ねん1816ねん)、前年ぜんねんいえもどった友吉ゆうきち常五郎つねごろう)をまん兵衛ひょうえ長男ちょうなん三郎さぶろう左衛門さえもん養子ようしとし、みずからも最初さいしょつまめとった。文政ぶんせい元年がんねん1818ねん)、藩主はんしゅ大久保おおくぼ忠真ただざね孝子こうし節婦せっぷ奇特きとくしゃ表彰ひょうしょうおこなったときに、そのなかきむ治郎じろうもあった。

文政ぶんせい2ねん1819ねん)、まれたばかりの長男ちょうなん夭折ようせつ家風かふうわぬという口実こうじつつまきのが離別りべつもうたので、離縁りえんした。翌年よくねん、34さいきむ治郎じろうは16さいのなみと再婚さいこんした。同年どうねん忠真ただざねおおやけ民間みんかん建議けんぎもとめたさいに、きむ治郎じろうみつぎまい領収りょうしゅう桝の改正かいせい建言けんげん。これが採用さいようされてりょう改正かいせいした。また小田原おだわら藩士はんしのための低利ていりじょかしほうおよ五常ごじょうこうこした。

文政ぶんせい4ねん1821ねん)、度目どめ伊勢いせもうからもどった金治郎きんじろうは、小田原おだわら藩主はんしゅ大久保おおくぼ分家ぶんけ宇津うつ旗本はたもと知行ちぎょうしょであった下野げやこく芳賀はがぐんさくらまち[注釈ちゅうしゃく 2]荒廃こうはいしているということで、その再興さいこう救済きゅうさい藩主はんしゅよりめいじられた。文政ぶんせい6ねん1823ねん)、金次郎きんじろう名主なぬし役柄やくがらこう5せきにん扶持ふち待遇たいぐう移動いどうりょうまい50ひょう仕度したくりょうまい200ひょう50きんきゅうされて、さくらまち移住いじゅうして再建さいけん着手ちゃくしゅした。

文政ぶんせい9ねん1826ねん)には宇津うつ家臣かしん横山よこやま周平しゅうへい同役どうやく勤番きんばんとなって江戸えどったため、金次郎きんじろう組頭くみがしらかく昇進しょうしんしてさくらまち主席しゅせきとなった。再建さいけん村民そんみん抵抗ていこうにあって難航なんこうしていたが、天保てんぽう2ねん1831ねん)にはせいまい426ひょうおさめる成果せいかげるにいたり、どう5ねんには1,330ひょう返納へんのうし、どう7ねんには封地ほうち4,000せき租900せきところ実収じっしゅう3,000せきにまでやしたので、ぶん支出ししゅつ限度げんど)を2,000せきさだめて再建さいけんげた。その方法ほうほう報徳ほうとく仕法しほうとしてほかはんとなる。ただしこれらの復興ふっこう政策せいさくかならずしも上手うまったというわけではなく、村人むらびとらに反感はんかんたれ、上司じょうしである豊田とよだただしさく妨害ぼうがいされたときは突然とつぜん行方ゆくえ不明ふめいになった。もなく成田山なりたやま断食だんじき修業しゅぎょうしていることが判明はんめいし、修業しゅうぎょうえてもどると村人むらびとらの反感はんかんもなくなっていたという。

晩年ばんねん[編集へんしゅう]

天保てんぽう3ねん1832ねん)にはさくらまちより三里さんりさき常陸ひたちこく真壁まかべぐん青木あおきむら旗本はたもと川副かわそえ勝三郎かつさぶろうより依頼いらいけて伝授でんじゅ天保てんぽう4ねん1833ねん)から天保てんぽう7ねん(1837ねん)にかけて天保てんぽうだい飢饉ききん関東かんとう被害ひがいをもたらす。天保てんぽう5ねん1834ねん)には谷田部やたべ細川ほそかわ家政かせい中村なかむらげんじゅんかいして改善かいぜん天保てんぽう7ねん(1836ねん)には下野げや烏山からすやまはん藩主はんしゅ大久保おおくぼ忠保ただやす)の財政ざいせい再建さいけんゆだねられ、窮民きゅうみん緊急きんきゅう救済きゅうさいから着手ちゃくしゅし、ついで荒地あれち開墾かいこん事業じぎょうんだ。

天保てんぽう7ねん1836ねん)、重病じゅうびょう忠真ただざねこうにより小田原おだわらばれ、功績こうせきしょうされるとともに、飢饉ききんにある小田原おだわら救済きゅうさいめいじられる。駿河するが相模さがみ伊豆いずさんしゅう救済きゅうさい緊急きんきゅうようするということでかねせんりょうあたえられる。金次郎きんじろう小田原おだわら家臣かしん協議きょうぎし、蔵米くらまい放出ほうしゅつしてむら々を救急きゅうきゅう

儒式の尊徳そんとくはか日光にっこう今市いまいち報徳ほうとく二宮にのみや神社じんじゃ
尊徳そんとくはか東京とうきょう文京ぶんきょう吉祥寺きちじょうじ

天保てんぽう9ねん1838ねん)、石川いしかわ下館しもだて所領しょりょう1まん3,000せきさんぶんいち減収げんしゅうしていたのを復興ふっこうし、3万金まんきん借金しゃっきん償却しょうきゃくして、ぶん度外どがい余剰よじょう500ひょうす。天保てんぽう11ねん1840ねん)、伊豆いず代官だいかん江川えがわまねきをけて、田方たがたぐん多田おおた弥次やじみぎ衛門えもん再興さいこう

天保てんぽう13ねん1842ねん)、幕府ばくふかかえられ、普請ふしんやくかくとなって印旛沼いんばぬま開拓かいたく利根川とねがわ利水りすいについてけん提案ていあんおこなったが、結局けっきょく、それは採用さいようされなかった。翌年よくねん幕府ばくふ直轄ちょっかつりょう天領てんりょう下総しもうさ大生郷おおのごうむら仕法しほうめいじられ、ひろし元年がんねん1844ねん)には日光にっこう山領やまりょう仕法しほうめいじられる。翌年よくねん下野しもの真岡もおか代官だいかん山内やまうちぞくとなって、真岡もおか移住いじゅう日光にっこう神領しんりょうまわって日光にっこう奉行ぶぎょう配下はいか仕法しほうほどこしていたが、3度目どめやまいはっし、安政あんせい3ねん1856ねん下野げやこく今市いまいちむら現在げんざい栃木とちぎけん日光にっこう)の報徳ほうとく役所やくしょにてぼっした。享年きょうねん70。

戒名かいみょうまことあかりいんたくみほまれ報徳ほうとく中正ちゅうせい居士こじ明治めいじ24ねん1891ねん)11月16にちしたがえよん追贈ついぞうされている[4]はか東京とうきょう文京ぶんきょう諏訪山すわやま吉祥寺きちじょうじ

逸話いつわ[編集へんしゅう]

尊徳そんとくかんしてはおおくの逸話いつわのこっている。事実じじつかどうか確認かくにんできないものもおおいが、伝記でんきなどにおお記述きじゅつされる代表だいひょうてき逸話いつわにはつぎのようなものがある。これらの逸話いつわおおくは、弟子でし富田とみたこうけいあらわした尊徳そんとく伝記でんき報徳ほうとく』を由来ゆらいとする。ただし、尊徳そんとく自身じしん幼少ようしょうころについてまったかたらなかったため、こうけい村人むらびとからいたはなししるしたにぎず、これらの逸話いつわについてはこうけい自身じしん信憑しんぴょうせい保証ほしょうできないとしている[5]

小田原おだわら時代ときよ[編集へんしゅう]

  • いち斗枡とます改良かいりょうし、はんない統一とういつ規格きかくさせた。役人やくにん不正ふせいます使つかってりょうをごまかし、差分さぶん横領おうりょうしていたのをこれでふせいだ。
  • 倹約けんやく奨励しょうれいし、かまどばんからあまったたきぎかねはらってもどした。

さくらまち時代じだい[編集へんしゅう]

  • ナスべたところ、まだなつまえなのにあきのナスのあじがしたことから、そのとし冷夏れいかになることを予測よそく村人むらびとたちに指示しじして冷害れいがいつよヒエ大量たいりょうえさせた。尊徳そんとく予測よそくしたとおりそのとし冷夏れいかとなり、天保てんぽうだい飢饉ききん発生はっせいしたが、さくらまちではヒエのたくわえが十分じゅうぶんにあったおかげで餓死がししゃなかったばかりか、余分よぶんのヒエを周辺しゅうへんむら々にもあたえることができたという[注釈ちゅうしゃく 3]
  • 開墾かいこんしてあいだもない田畑たはたは、既存きそん田畑たはたくらべて租税そぜい負担ふたんかるいことに注目ちゅうもくし、あたらしい田畑たはた開墾かいこん積極せっきょくてき奨励しょうれいした[注釈ちゅうしゃく 4]
  • 村人むらびとたちの開墾かいこん作業さぎょう見回みまわっていたとき一人ひとりおとこ村人むらびとなんばいはげしいいきおいで仕事しごとをしている様子ようすて、「そのようないきおいでいちにちちゅうはたらつづけられるはずがない。おまえ他人たにんているときだけ一生懸命いっしょうけんめいはたらりをして、かげではなまけているにちがいない」と怒鳴どなり、村人むらびとたちのまえおとこ不正ふせいきびしくしかったという。
  • その一方いっぽうで、年老としおいて無力むりょくながらも陰日向かげひなたなく真面目まじめはたらき、村人むらびとたちがやろうとしないかぶこす面倒めんどう作業さぎょう毎日まいにち地道じみちつづけてきた出稼でかせ老人ろうじんたいしては、開墾かいこん邪魔じゃまかぶかれ全部ぜんぶのぞいてくれたおかげで村人むらびとたちの作業さぎょう容易よういになり開墾かいこんがはかどったという理由りゆうから、通常つうじょう賃金ちんぎんのほかに慰労いろうきんとして15りょうもの大金たいきんあたえたという。
  • 成田なりたさんきこもっていたさい、そこで出会であった老婆ろうばおしえられ、小谷おたに三志さんし出会であい、「農民のうみん役人やくにん自分じぶんしたがわないと仕事しごとをはじめないとおもっておられるようですが、いちばん大切たいせつなのは復興ふっこうなのでは?」との小谷おたに言葉ことばで、まず役人やくにん村人むらびと改心かいしんさせようとした自分じぶん完全かんぜん主義しゅぎ無理むりがあるとさとり、説得せっとくより復興ふっこう作業さぎょうをまず開始かいししようと決心けっしんして、さくらまちかえったという[6]

評価ひょうか[編集へんしゅう]

  • かつ海舟かいしゅう二宮にのみや尊徳そんとくには一度いちどったが、いたって正直しょうじきひとだったよ。全体ぜんたいあんな時勢じせいには、あんな人物じんぶつ沢山たくさん出来できるものだ。時勢じせいひとつくれいはおれはたしかにみたよ」[7]

子孫しそん[編集へんしゅう]

門人もんじん[編集へんしゅう]

  • 富田とみたこうけい - 陸奥みちのく相馬そうま中村なかむらはん齋藤さいとう富田とみた嘉隆よしたか次男じなん相馬そうま中村なかむら藩士はんし通称つうしょう久助きゅうすけ弘道こうどうにんときごうする。尊徳そんとくむすめ婿むこ文化ぶんか11ねん(1814ねんまれ。はん世継よつぎ相馬そうまたかしたね近侍きんじとなるがはん復興ふっこうこころざしのもと江戸えどる。天保てんぽう10ねん(1839ねん)6がつ1にち入門にゅうもん。4大門おおもんじん1人ひとりで、報徳ほうとく仕法しほうささえた。尊徳そんとく片腕かたうでとして活躍かつやくし、よしみなが5ねん(1852ねん)に尊徳そんとくむすめ文子ふみこ結婚けっこんするが、翌年よくねん出産しゅっさんかえった実家じっかにて母子ぼしともにくなった。日光にっこう仕法しほう相馬そうま仕法しほう従事じゅうじした。相馬そうま仕法しほう尊徳そんとく代理だいりとして、ひろし2ねん(1845ねん)から廃藩置県はいはんちけんまで領内りょうない226むらのうち101むら対象たいしょうおこな成果せいかた。維新いしんみことぎょう一家いっかとともに相馬そうま移住いじゅうした。明治めいじ2ねん(1869ねん)、相馬そうま中村なかむらはん家老がろう上席じょうせきおよび政治せいじ総裁そうさいとなった。廃藩置県はいはんちけんは、明治めいじ10ねん(1877ねん)にきょうふくしゃ設立せつりつ社長しゃちょうとなった。また、尊徳そんとくぼつ報徳ほうとく」「報徳ほうとくろん」をあらわした。明治めいじ23ねん(1890ねん)、77さいぼっする。二宮にのみやたかしぎょう次男じなんだかえい婿養子むこようしとした。
  • 大友おおとも亀太郎かめたろう - 旧幕きゅうばく府下ふか札幌さっぽろむら開拓かいたく指導しどう札幌さっぽろ開拓かいたく始祖しそばれた。
  • 岡田おかだ良一郎りょういちろう - 4大門おおもんじん1人ひとり
  • 斎藤さいとう高行たかゆき - 4大門おおもんじん1人ひとり富田とみたこうけいおい久米くめすけひろし2ねん(1845ねん)、入門にゅうもん相馬そうま仕法しほう後半こうはんこうけいわって指導しどうした。晩年ばんねん大原おおはらむらみなみ相馬そうま市原いちはらまち)に隠棲いんせい大原おおはら山人さんじんごうした。明治めいじ27ねん(1894ねん)6がつ、76さい中村なかむらにてぼっした。
  • 福住ふくずみただしけい - ひろ2ねん(1845ねん)に入門にゅうもん
  • 新妻にいづますけそう
  • 志賀しが直道なおみち - 志賀しが直哉なおや祖父そふ

崇敬すうけい記念きねん[編集へんしゅう]

二宮にのみや尊徳そんとくぞう小田原おだわら西大友にしおおども

神社じんじゃ[編集へんしゅう]

尊徳そんとくをまつる二宮にのみや神社じんじゃが、生地きじ小田原おだわら報徳ほうとく二宮にのみや神社じんじゃ)、終焉しゅうえん今市いまいち報徳ほうとく二宮にのみや神社じんじゃ)、仕法しほう栃木とちぎけん真岡しんおかさくらまち二宮にのみや神社じんじゃ)などにある。

報徳ほうとく二宮にのみや神社じんじゃ尊徳そんとくぞうには「経済けいざいなき道徳どうとく戯言ざれごとであり、道徳どうとくなき経済けいざい犯罪はんざいである」という言葉ことばかかげられている[8]

尊徳そんとくきむ治郎じろうぞう[編集へんしゅう]

報徳ほうとく二宮にのみや神社じんじゃない二宮にのみや金治郎きんじろうぞう
コンクリートせい二宮にのみや金治郎きんじろうぞう
日本銀行にっぽんぎんこうけんA1えんけん(有効ゆうこうけん)

各地かくち小学校しょうがっこうなどにおおてられた、たきぎ背負せおいながらほんんである姿すがた(「たきぎ読書どくしょ」とばれる)にかんする記述きじゅつは、明治めいじ14ねん1881ねん発行はっこうの『報徳ほうとく』が初出しょしゅつである。そこには「大学だいがくしょふところにして、途中とちゅうあゆみなからしょうし、すこしおこたらず。」とある。この「しょふところにして」を、「懐中かいちゅう」か「むねまえって」と解釈かいしゃくするかは判断はんだんまようところだが、きむ治郎じろうぞうでは後者こうしゃ解釈かいしゃくされている。ただし先述せんじゅつのように『報徳ほうとく』の尊徳そんとく幼少ようしょう記述きじゅつ信憑しんぴょうせいうすく、このような姿すがた実際じっさいあるいていたという事実じじつがあったかは疑問ぎもんのこる。

報徳ほうとく』をもとにした幸田こうだ露伴ろはんちょの『二宮にのみや尊徳そんとくおう』(1891ねん10がつ)の挿絵さしえ小林こばやし永興りょうご)で、はじめて「たきぎ読書どくしょ」の挿絵さしえ使つかわれた。ただし、これ以前いぜんからすでにこの図様ずようちか少年しょうねんぞう存在そんざいしていた。きむ治郎じろう肖像しょうぞうのルーツは中国ちゅうごくの「しゅかいしん」にあり、これが狩野かの伝統でんとうてき画題がだいとして代々だいだいつたわり、その末裔まつえい永興りょうごもこれを参考さんこうにしたと想定そうていされる[9][10]確認かくにんされている最初さいしょのこの姿すがたぞうは、明治めいじ43ねん1910ねん)に岡崎おかざきゆきごえ東京とうきょう彫工ちょうこうかい出品しゅっぴんしたものである。明治めいじ37ねん(1904ねん以降いこう国定こくてい教科書きょうかしょ修身しゅうしん象徴しょうちょうとして尊徳そんとくげられるようになった。小学しょうがく唱歌しょうかにも『二宮にのみや金次郎きんじろう』というきょくがある。しかし、修身しゅうしん国定こくてい教科書きょうかしょにはきむ治郎じろう逸話いつわげられたものの、「たきぎ読書どくしょ」はいち掲載けいさいされていない[11]。 「たきぎ読書どくしょ」がひろまったのは売薬ばいやく版画はんが引札ひきふだ子供こどもけの伝記でんきるいによる[12]

これらの学校がっこう教育きょういくや、地方ちほう自治じちにおける国家こっか指導しどうに「金治郎きんじろう」が利用りようされた経緯けいいには、尊徳そんとく実践じっせんした自助じじょてき農政のうせいをモデルとして、自主じしゅてき国家こっか献身けんしん奉公ほうこうする国民こくみん育成いくせい目的もくてきとした統合とうごう政策せいさく展開てんかいがあった。この「金治郎きんじろう」の政治せいじ利用りようは、山縣やまがた有朋ありとも中心ちゅうしんとする人脈じんみゃくによっておこなわれていた。とく平田東ひらたひがしすけ岡田おかだ良平りょうへい一木いちき喜徳郎きとくろうらによる指導しどうおおきかった[13]

小学校しょうがっこう校庭こうていなどにられる「金治郎きんじろうぞう」は、かれらの政策せいさくによって展開てんかいされた社会しゃかい環境かんきょう前提ぜんていとして、国家こっか政策せいさく論理ろんり同調どうちょうすることで営業えいぎょう活動かつどうおこなった石材せきざい業者ぎょうしゃ石工せっこうらによって普及ふきゅうしたとされる。小学校しょうがっこうてられた「金治郎きんじろうぞう」で最古さいこのものは、大正たいしょう13ねん1924ねん)、愛知あいちけん前芝まえしば村立そんりつ前芝まえしば高等こうとう尋常じんじょう小学校しょうがっこうげん豊橋とよはし市立しりつ前芝まえしば小学校しょうがっこう)にてられたものである。その昭和しょうわ初期しょき地元民じもとみん卒業生そつぎょうせい寄付きふによって各地かくち小学校しょうがっこうぞうおおてられた。立像りつぞうおおきさは1メートルとされ、子供こどもたちに1メートルのながさを実感じっかんさせるのに一役ひとやくったともいわれる。実際じっさいのところは、立像りつぞうはきっかり1メートルではないことがおおい。これは、昭和しょうわ15ねん1940ねんごろ量産りょうさんされた特定とくていぞうかんする逸話いつわ一人ひとりあるきしたものとかんがえられる。

このぞう戦後せんごGHQ指令しれいにより廃棄はいきされたといわれることがあるが、二宮にのみや尊徳そんとく占領せんりょう昭和しょうわ21ねん1946ねん)に日本銀行にっぽんぎんこうけん(1えんけん)の肖像しょうぞう採用さいようされていることからも、ぞう減少げんしょうとGHQはとく関係かんけいはない。戦前せんぜんぞう青銅せいどうせいのものがおおいが、ほとんどがだい世界せかい大戦たいせんなか金属きんぞく供出きょうしゅつによって撤去てっきょされたため、混同こんどうされたものとかんがえられる。

金属きんぞく供出きょうしゅつさいして、教育きょういくてき配慮はいりょとして、教師きょうし児童じどう立会たちあいのしたぞうにたすきをかけて壮行そうこうしき挙行きょこうし、戦地せんちおくしたり、撤収てっしゅう台座だいざに「二宮にのみや尊徳そんとく先生せんせい銅像どうぞうだい東亜とうあ戦争せんそうノタメ応召おうしょう」のさつてられたこともあった[14][注釈ちゅうしゃく 5]

半藤はんどう一利かずとしは、ぞう金属きんぞく供出きょうしゅつされるまえ時期じきに、銅像どうぞうほんかれている内容ないよう調しらべたことがある。かく学校がっこうによってきざまれた文字もじことなり、「忠孝ちゅうこう」の文字もじ、または『論語ろんご』や『教育きょういく勅語ちょくご』の一節いっせつきざまれるもの、あるいは白紙はくしのものまであったとしるしている[15]

石像せきぞうはその時代じだいのこった。また、のこった台座だいざうえに、あらたに銅像どうぞうやコンクリートぞうなどがつくられることもあった。ぞうのようにたきぎ背負せおったままほんんであるいたという事実じじつ確認かくにんできないことと、児童じどうぞう真似まねをしてほんみながら道路どうろあるくと交通こうつう安全あんぜんじょう問題もんだいがあることから、1970年代ねんだい以降いこう徐々じょじょ撤去てっきょされ、ぞうかず減少げんしょう傾向けいこうにあるほか、「現在げんざい児童じどう教育きょういく方針ほうしんわない」などの理由りゆうで、破損はそんしても補修ほしゅう難色なんしょくしめ教育きょういく委員いいんかいもある[16]岐阜ぎふ歴史れきし博物館はくぶつかん調しらべによると、市内しない小学校しょうがっこうの55.1%に「二宮にのみや金治郎きんじろうぞう」が存在そんざいし(2001ねん現在げんざい)、近隣きんりん市町村しちょうそんふくめると、58.5%の小学校しょうがっこうに「二宮にのみや金治郎きんじろうぞう」が存在そんざいする。また、平成へいせい15ねん2003ねん)に小田原おだわらえき改築かいちくされ橋上はしかみされたさい、デッキに尊徳そんとくぞうあたらしくてられた。

2010年代ねんだいはいってあるきスマホ危険きけんせい社会しゃかい問題もんだいになったが、この問題もんだいけて「いまいちいちえんかい」が2016ねん日光にっこう市立しりつ南原なんばら小学校しょうがっこう寄贈きぞうした石像せきぞう立像りつぞうではなく座像ざぞうとなっている[17]

なお、学校がっこう怪談かいだんでは、「二宮にのみや金治郎きんじろうぞう」が夜中よなか校庭こうていまわるというはなし典型てんけいてきかたられている。

二宮にのみや尊徳そんとく生家せいか

記念きねんかん[編集へんしゅう]

尊徳そんとく記念きねんかん神奈川かながわけん小田原おだわら栢山かやまにある。隣接りんせつして二宮にのみや尊徳そんとく生家せいかがある。整備せいびには真珠しんじゅ養殖ようしょくられる御木本みきもと幸吉こうきち支援しえんした[18]。また小田原おだわら南町みなみまち公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん報徳ほうとく福運ふくうんしゃ運営うんえいする報徳ほうとく博物館はくぶつかんがある[19]栃木とちぎけん真岡しんおかにも二宮にのみや尊徳そんとく資料しりょうかんがある[20]

顕彰けんしょう[編集へんしゅう]

荒廃こうはいしたむら再建さいけんした尊徳そんとく偉業いぎょうたたえて、茨城いばらきけん桜川さくらかわ真壁まかべまちきゅう青木あおきむら)に顕彰けんしょうてられている。

唱歌しょうか歌謡かようきょく[編集へんしゅう]

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

漫画まんが
小説しょうせつ

えんじた人物じんぶつ[編集へんしゅう]

史料しりょう[編集へんしゅう]

近代きんだいデジタルライブラリー

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 利右衛門りえもんは、ばん兵衛ひょうえ次男じなんであり、ばん兵衛ひょうえおとうとであるぎんみぎ衛門えもん養子ようしになった。ぎんみぎ衛門えもん次男じなんぼうながら若干じゃっかん土地とちからこして中農ちゅうのうまでになった人物じんぶつばん兵衛ひょうえきむ治郎じろう祖父そふであるが、本家ほんけ分家ぶんけとのちがいがあり、本家ほんけ立場たちばからは伯父おじである。
  2. ^ 現在げんざい栃木とちぎけん真岡しんおか、なお合併がっぺいまえ二宮にのみやまち町名ちょうめい由来ゆらい尊徳そんとくである。
  3. ^ 実際じっさいには冷害れいがいすうねんまえからヒエの作付さくづけ準備じゅんびさせていたことがかっている。尊徳そんとく飢饉ききんそなえて一人ひとりたりひょうやく300kg)ずつの割合わりあいでヒエをたくわえるよう村人むらびとたちに指示しじしていたという。
  4. ^ 当時とうじ日本にっぽんでは、田畑たはた開墾かいこん積極せっきょくてき奨励しょうれいするため、あたらしく開墾かいこんした田畑たはたについては一定いってい期間きかん一般いっぱんには3 - 5ねん程度ていど)にわたって年貢ねんぐ免除めんじょもしくは大幅おおはば軽減けいげんする制度せいどがあった。この制度せいどぞくに「鍬下くわした年季ねんき(くわしたねんき)」とばれた。
  5. ^ 妹尾せのお河童かっぱの『少年しょうねんH』に校長こうちょう先生せんせい訓示くんじで「いよいよ二宮にのみや金次郎きんじろうさんの銅像どうぞう出征しゅっせいすることになりました。銅像どうぞうてきをうつための大砲たいほうたまになるのです。今日きょうみなさんは、下校げこうするとき金次郎きんじろうさんにおわかれしてください」という場面ばめんがある。山中さんちゅうらの指摘してきでは時代じだいすこはやいという。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 大藤おおふじおさむ人物じんぶつ叢書そうしょ 二宮にのみや尊徳そんとく吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2015ねん5がつ、2ぺーじISBN 9784642052740 
  2. ^ 大藤おおふじおさむ人物じんぶつ叢書そうしょ 二宮にのみや尊徳そんとく吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2015ねん5がつ、3ぺーじISBN 9784642052740 
  3. ^ 小林こばやしおもんみちょ二宮にのみや尊徳そんとく -ざい生命せいめいとくかすにあり-』ミネルみねるァ書房ぁしょぼう、22ページ。
  4. ^ 田尻たじりたすく へん贈位ぞうい諸賢しょけんでん 増補ぞうほばん じょう』(近藤こんどう出版しゅっぱんしゃ、1975ねん特旨とくし贈位ぞうい年表ねんぴょう p.4
  5. ^ 岩井いわい(2010)、pp.31-32。
  6. ^ 日本にっぽん博学はくがく倶楽部くらぶちょ[図説ずせつ]歴史れきしの「決定的けっていてき瞬間しゅんかん」(愛蔵あいぞうばん電子でんし書籍しょせきばん 株式会社かぶしきがいしゃPHP研究所けんきゅうじょ 2013ねん だい3しょうcolumn
  7. ^ 海舟かいしゅう全集ぜんしゅう だいじゅうかん
  8. ^ 道徳どうとく経済けいざい原理げんり 融合ゆうごうを」日本にっぽん潜在せんざいりょく2、経済けいざい教室きょうしつ日本経済新聞にほんけいざいしんぶん、2014/04/11
  9. ^ 岩井いわい茂樹しげき二宮にのみや金次郎きんじろうたきぎ読書どくしょ源流げんりゅうこう」『日本にっぽん研究けんきゅうだい36しゅう大学だいがく共同きょうどう利用りよう機関きかん法人ほうじん 人間にんげん文化ぶんか研究けんきゅう機構きこう国際こくさい日本にっぽん文化ぶんか研究けんきゅうセンター、2007ねん9がつ28にち、pp.7-46。
  10. ^ 岩井いわい(2010)、pp.200-201。
  11. ^ 井上いのうえ章一しょういち 『ノスタルジック・アイドル 二宮にのみや金次郎きんじろう新宿しんじゅく書房しょぼう、1989ねん、pp.32-33。
  12. ^ 岩井いわい(2010)、pp.142-161。
  13. ^ 伊勢いせ弘志ひろし国民こくみん統制とうせい政策せいさくにおける銅像どうぞう社会しゃかい校庭こうていに「二宮にのみや金次郎きんじろうぞう」がつまで―」『駿台すんだい史学しがくだい140ごう、2010ねん8がつ
  14. ^ 平瀬ひらせあやふとし、「戦時せんじ学校がっこうから次々つぎつぎえた「二宮にのみや金治郎きんじろうぞう」」(銅像どうぞうはつらいよじゅうせん 4)、日本経済新聞にほんけいざいしんぶん、2013ねん12月18にち
  15. ^ 半藤はんどう一利かずとし歴史れきしに「なにを」まなぶのか』 ちくまプリマー新書しんしょ 2017ねん ISBN 978-4-480-68987-0 pp.79 - 80.
  16. ^ 二宮にのみや金次郎きんじろうぞう:勤勉きんべん精神せいしんいまむかし各地かくち撤去てっきょ相次あいつ
  17. ^ あるきながらは危険きけんなので・・・金次郎きんじろうも「座像ざぞう」に 日光にっこう南原なんばらしょう除幕じょまくしき 下野げや新聞しんぶん、2016ねん3がつ3にち閲覧えつらん
  18. ^ 御木本みきもと幸吉こうきち二宮にのみや尊徳そんとく顕彰けんしょう公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん大倉おおくら精神せいしん文化ぶんか研究所けんきゅうじょ
  19. ^ 報徳ほうとく博物館はくぶつかん 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん報徳ほうとく福運ふくうんしゃ
  20. ^ 二宮にのみや尊徳そんとく資料しりょうかん 真岡しんおか公式こうしきサイト

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]