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近衛府このえふ

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みぎ近衛このえすすむかんから転送てんそう

近衛府このえふ(このえふ、こんえふ)は、れいそとかんのひとつ。和訓わくんは「おおきちかきまもり」・「ちかきまもりのつかさ」。唐名とうみょうは「羽林はばやし」。

概要がいよう

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近衛府このえふ左右さゆうがあり、長官ちょうかん大将たいしょう次官じかんちゅう少将しょうしょう判官ほうがんはたかんしゅてんはた曹という[1]。そのしたに、せい番長ばんちょう近衛このえ舎人とねりがあり、その各種かくしゅ職名しょくめいがあった[1]

兵仗ひょうじょうたいして禁中きんちゅう平安京へいあんきょうでは内裏だいり内郭ないかくせんもんうけたまわあかりもんかげあかりもんげんてるもん内側うちがわ)を警衛けいえいした。またあされつして威容いようととのえ、行幸ぎょうこうさいには前後ぜんご警備けいびし、皇族こうぞく高官こうかん警護けいご職掌しょくしょうとした。

平安へいあん時代じだい中期ちゅうき以降いこう朝政ちょうせい儀礼ぎれいともな幹部かんぶ名誉めいよしょく兵士へいし儀仗ぎじょうへいした。ろくまもる(ろくえふ。左右さゆう近衛府このえふ衛門えもん兵衛ひょうえ)のなかではもっと地位ちいたかかった。

天平てんぴょうたから3ねん759ねん)に設置せっちされた授刀まもる天平てんぺい神護かんご元年がんねん765ねん2がつ3にち近衛府このえふ改称かいしょうし、さらにこれとかみひさし5ねん728ねん設置せっちなかまもるとを大同だいどう2ねん807ねん)4がつ22にち改組かいそし、近衛府このえふひだり近衛府このえふ(さこんえふ)、なかまもるみぎ近衛府このえふ(うこんえふ)とした。前者ぜんしゃ大内裏だいだいり陽明ようめいもんきた後者こうしゃいんとみもんきたかれた。

内部ないぶ官職かんしょく

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大将たいしょう
四等官しとうかん長官ちょうかん(カミ)に相当そうとうする。けんかんはない。左右さゆうかく1めいひだり近衛このえ大将たいしょうみぎ近衛このえ大将たいしょう[2])。それぞれ「ひだり大将たいしょう」・「みぎ大将たいしょう」とりゃくす。羽林はばやし大将軍だいしょうぐん親衛しんえい大将軍だいしょうぐんとらきば大将軍だいしょうぐん幕府ばくふ幕下まくしたといった唐名とうみょうぶこともある。
天平てんぺい神護かんご元年がんねん765ねん)2がつ3にち設置せっち当初とうしょせいさん官位かんい相当そうとうだったが、のべれき12ねん793ねん)にしたがえよんじょう官位かんい相当そうとう降格こうかくした。のべれき18ねん799ねん)4がつ27にちしたがえさん相当そうとう昇叙しょうじょ定着ていちゃくした。ふるくは参議さんぎ以上いじょう兼務けんむであったが、平安へいあん時代じだい中期ちゅうき以後いごには左大臣さだいじん以下いかけん大納言だいなごん以上いじょう兼任けんにんじょうせいとなり、大納言だいなごんまさ重職じゅうしょくられるようになった(ただし、摂関せっかん嫡男ちゃくなんなどがけん中納言ちゅうなごん大将たいしょう兼任けんにんするれいもよくられた)。うまりょうかん兼任けんにんすることもある。
  • 近衛このえ大将たいしょう辞令じれい宣旨せんじ)のれい:「日光にっこう東照宮とうしょうぐう文書ぶんしょ
    したがえくだりけん大納言だいなごんみなもと朝臣あそん家康いえやす
    したがえ二位行權大納言源朝臣敦通宣
    たてまつ みことのりけんじんむべれい兼任けんにんひだり近衞このえ大將たいしょうしゃ
    天正てんしょうじゅうねんじゅうがつ廿にじゅうはちにち 掃部あたまけんだいそと造酒ぞうしゅただし中原なかはら朝臣あそんれんたてまつ
  • 訓読くんどくぶん
    したがえ二位行権大納言源朝臣家康
    したがえ二位行権大納言源朝臣敦通、
    みことのりたてまつるに、けんひとよろしくひだり近衛このえ大将たいしょう兼任けんにんせしむべししゃ
    天正てんしょう15ねん(1587ねん)12月28にち 掃部あたまけんだいそと造酒ぞうしゅせい中原なかはら朝臣あそんれんたてまつ
    したがえ二位行権大納言源朝臣家康とは徳川とくがわ家康いえやすしたがえ二位行権大納言源朝臣敦通とは久我くがあつしどおり、掃部あたまけんだいそと造酒ぞうしゅせい中原なかはら朝臣あそんかどとは押小路おしこうじれんのことである。
中将ちゅうじょう
四等官しとうかん次官じかん(スケ)に相当そうとうする。少将しょうしょうも「スケ」であるので「おお(だい)いスケ」とばれた。左右さゆうかく1 ~ 4めい。それぞれ「ひだり中将ちゅうじょう」・「みぎ中将ちゅうじょう」とりゃくす。親衛しんえいちゅうろうはた親衛しんえい将軍しょうぐん羽林はばやし将軍しょうぐんといった唐名とうみょうのほか、つぎ少将しょうしょうとあわせて「三笠山みかさやま」・「つぎしょう」という別名べつめいがある。
天平てんぺい神護かんご元年がんねん765ねん)2がつ3にち設置せっち以来いらいしたがえよん官位かんい相当そうとう当初とうしょは1めいだったが、てんちょう年間ねんかんにはけんかんが1めいかれるようになり、10世紀せいきすえまでにはせいかん2めいけんかん1めいけい3にんとなり、11世紀せいき後半こうはんには左右さゆうかく4めいとされた。12世紀せいき後半こうはんになるとさらに人数にんずう増加ぞうかするようになり、こう白河しらかわ院政いんせいにはかく6 ~ 7めい在籍ざいせきするれいられるようになる[3]のちには正員せいいんかれず、けんかんのみとなる。中将ちゅうじょう蔵人くろうどあたまされると「あたま中将ちゅうじょう」とばれ、近衛このえ中将ちゅうじょう兼任けんにんする参議さんぎは「宰相さいしょう中将ちゅうじょう」とばれる。中納言ちゅうなごんけん中納言ちゅうなごん中将ちゅうじょう兼任けんにんしている場合ばあいは「中納言ちゅうなごん中将ちゅうじょう」という。参議さんぎよん中将ちゅうじょうさんじょされ「中将ちゅうじょう如元」とされたものは「さん中将ちゅうじょう」とばれ、さん中将ちゅうじょう参議さんぎのままじょされた場合ばあいには「中将ちゅうじょう」とばれる。摂関せっかん嫡男ちゃくなんなどがのまま中将ちゅうじょうになるれいもあり、「中将ちゅうじょう」とばれた。
少将しょうしょう
四等官しとうかん次官じかん(スケ)に相当そうとうするが、中将ちゅうじょうの「おお(だい)いスケ」にたいし「すな(しょう)いスケ」とばれた。左右さゆうかく2 ~ 4めい。それぞれ「ひだり少将しょうしょう」・「みぎ少将しょうしょう」とりゃくす。羽林はばやしろうはた親衛しんえいろうはた羽林はばやしちゅうろうはたしょうとら賁中ろうしょうといった唐名とうみょうがある。
天平てんぺい神護かんご元年がんねん765ねん)2がつ3にち設置せっち以来いらいせい官位かんい相当そうとう当初とうしょは1めいだったがのち増員ぞういんされ、てんおう元年がんねん781ねん)6がつ1にち員外いんがい近衛このえ少将しょうしょう廃止はいしされたさい定員ていいん2めいとなる。その9世紀せいきなかばにはけんかん設置せっちされてせいかん2めいけんかん1めいけい3にんとなり、11世紀せいきはじめには左右さゆうかく4にん在籍ざいせきするれいられるようになった。12世紀せいき後半こうはんになるとさらに人数にんずう増加ぞうかするようになり、こう白河しらかわ院政いんせいにはかく7 ~ 8めい在籍ざいせきするれいられるようになる[3]のちには正員せいいんかれず、けんかんのみとなる。中将ちゅうじょうとほぼおな職掌しょくしょう蔵人くろうどつとめる少将しょうしょうは「蔵人くろうど少将しょうしょう」とばれた。少将しょうしょうよんじょされたさい少将しょうしょうめず「少将しょうしょう如元」とされた場合ばあいなど、よん位階いかいでこのかんつとめるものは「よん少将しょうしょう」とばれた。れいすくないがさんじょされても少将しょうしょうのままでいる場合ばあいは「さん少将しょうしょう」としょうした(平安へいあん時代じだいでは藤原ふじわら道長みちなが藤原ふじわら頼通よりみち藤原ふじわらただし藤原ふじわらはじめの4めいさん少将しょうしょう経験けいけんしている)。位階いかいでこのかん場合ばあいもあったとされるが、平安へいあん時代じだいにおいてはそのれい皆無かいむであり[4][3]鎌倉かまくら時代ときよせいさんみぎ少将しょうしょう藤原ふじわらきょううけたまわひさし3ねん1221ねん)1がつ5にちしたがえじょされたのがはつれいである[5]
近衛このえ中将ちゅうじょう少将しょうしょうはともに四等官しとうかん次官じかんにあたるために、近衛このえはた(このえのじしょう)ともしょうした。近衛このえしょう天皇てんのう親衛隊しんえいたい幹部かんぶであり、公卿くぎょうへの昇進しょうしんコース侍従じじゅう兵衛ひょうえ近衛このえ少将しょうしょう近衛このえ中将ちゅうじょうしょうべんちゅうべん場合ばあいも) → 参議さんぎ昇進しょうしん典型てんけいてき)に位置いちしたため、上流じょうりゅう貴族きぞく子弟してい殿上人てんじょうびとおおにんじられた。9世紀せいきなかばまでは叙爵じょしゃくけてとなった近衛このえすすむかん少将しょうしょう昇進しょうしんする事例じれいもあったが、以降いこうつぎはた以上いじょう将監しょうげん以下いか明確めいかく身分みぶん確立かくりつし、はたかん叙爵じょしゃくけたのち受領じゅりょうてんじるようになる[6]10世紀せいきすえから11世紀せいきには藤原ふじわら忠平ちゅうへいりゅう宇多うたはじめ醍醐だいごはじめ村上むらかみはじめなど「公達きんだち」とされる家格かかく上流じょうりゅう貴族きぞく子弟していでほぼめられた。鳥羽とば院政いんせい以降いこうには藤原ふじわらあらわりゅうどうつうけん信西しんぜいりゅう桓武かんむたいら忠盛ただもりりゅうなど本来ほんらいは「しょ大夫たいふ」の家格かかくであるいん近臣きんしん家出いえでしゃからも近衛このえしょうにんじられるものあらわれるようになった。うけたまわとく2ねん1098ねん)に左右さゆう近衛このえしょう定員ていいん合計ごうけいかく8めいとされたが、院政いんせい後半こうはんとく白河しらかわ院政いんせい)には実際じっさい在籍ざいせきする人数にんずう増大ぞうだいし、安元やすもと元年がんねん1175ねん)にはしょう合計ごうけい左右さゆうわせて28にんれい出現しゅつげんする[3]堂上どうじょう出身しゅっしんしゃ公卿くぎょうとなるもの侍従じじゅう兵衛ひょうえ近衛このえしょう歴任れきにんするれいおおく、摂家せっけ清華せいか大臣だいじん羽林はばやし家格かかくもの近衛このえしょう公卿くぎょうのぼった。


はたかん(しょうげん)
左右さゆうかく1めい ~ 10めい四等官しとうかん判官ほうがん(ジョウ)に相当そうとうする。まいりぐん親衛しんえいぐんちょう吏、親衛しんえいこうじょうろくごとといった唐名とうみょうがある。
天平てんぺい神護かんご元年がんねん765ねん)2がつ3にち近衛府このえふ設置せっちとともにしたがえろくじょう官位かんい相当そうとう現場げんば指揮しきかん護衛ごえい警護けいご体制たいせいてる。近衛このえすすむかんろく蔵人くろうど式部しきぶすすむみんすすむそとふみ衛門えもんじょうなどと同様どうよう正月しょうがつ叙位じょい叙爵じょしゃくわくがあり、毎年まいとし1めいずつしたがえじょされた(めぐ)。でこの官職かんしょくくと「左近さこん大夫たいふ(さこんのたいふ)はたかん」・「右近うこん大夫たいふ(うこんのたいふ)はたかん」、りゃくして「左近さこん大夫たいふ」・「右近うこん大夫たいふ」としょうされた。
はた曹(しょうそう)
左右さゆうかく4めい ~ 20めい四等官しとうかんしゅてん(サカン)に相当そうとうする。
天平てんぺい神護かんご元年がんねん765ねん)2がつ3にち近衛府このえふ設置せっちとともに、したがえなな官位かんい相当そうとう現場げんば指揮しきかんはたかん指揮しきのもと、配下はいか人数にんずう直接ちょくせつ指揮しきする。
せい(ふしょう)
左右さゆうかく6めい
番長ばんちょう(ばんちょう:つがいのおさ)
左右さゆうかく6めい行幸ぎょうこう高官こうかん外出がいしゅつ警護けいごさい騎乗きじょう許可きょかされ、前駆ぜんくする。
近衛このえ舎人とねり
かく300めい

そのにも役職やくしょくり。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 栃木とちぎけん 通史つうしへん2 1980, p. 553.
  2. ^ かたはそれぞれ、さこんえのだいしょう、うこんえのだいしょう。
  3. ^ a b c d 近衛府このえふ補任ほにん』(つづけぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかい
  4. ^ 公卿くぎょう補任ほにん
  5. ^ 公卿くぎょう補任ほにん
  6. ^ 佐々木ささきめぐみかい ちょ「『しょう右記うき』にみる摂関せっかん近衛府このえふ政務せいむ運営うんえい」、笹山ささやま晴生はるお先生せんせい還暦かんれき記念きねんかい へん日本にっぽん律令制りつりょうせい論集ろんしゅうした吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1993ねん /所収しょしゅう:佐々木ささきめぐみかい日本にっぽん古代こだいかん政務せいむ吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2018ねん、193 - 194・221ぺーじISBN 978-4-642-04652-7 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 栃木とちぎけんへんさん委員いいんかい へん栃木とちぎけん通史つうしへん2・古代こだい栃木とちぎけん、1980ねん3がつ31にちNDLJP:9641938 (よう登録とうろく)

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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