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大和やまとうし

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大和やまとうし産地さんち「みつえ高原こうげん牧場ぼくじょう

大和やまとうし(やまとうし)は、奈良ならけん[1]飼育しいくされている黒毛くろげかずたねのうち、一定いってい基準きじゅんたした場合ばあい呼称こしょうゆるされる肉牛にくぎゅうおよびそのブランド牛肉ぎゅうにくである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

奈良ならけん東部とうぶ東山中ひがしやまなかばれる地域ちいき宇陀うだ山地さんち大和やまと高原こうげん)を中心ちゅうしんに、奈良なら県内けんないはぐくまれためいうしである。

県内けんないにはかつてより「はいばらにく」「宇陀うだうし」の名称めいしょう存在そんざいするが、2003ねん平成へいせい15ねん)、奈良ならけん大和やまとうし流通りゅうつう推進すいしん協議きょうぎかい設立せつりつされ、「大和やまとうし」の銘柄めいがらにより生産せいさん拡大かくだいはかられている。生産せいさん農家のうか食肉しょくにく業者ぎょうしゃ指定していしてうしいちとうごとに血統けっとうから飼料しりょう飼育しいく環境かんきょうなどすべての情報じょうほう集積しゅうせき管理かんりされ、流通りゅうつう経路けいろ明確めいかくにされている。どう協議きょうぎかい定期ていきてきに「大和やまとうし」の品質ひんしつきそ品評ひんぴょうかい大和やまとうし枝肉えだにく共励会きょうれいかい」を開催かいさいし、品質ひんしつ維持いじ向上こうじょうつとめている。

大和やまとうし血統けっとうくわえ、飼料しりょうですべてがまる」としょうし、やわらかく弾力だんりょくのある肉質にくしつと、小豆色あずきいろ赤身あかみにサシがはいった霜降しもふ特徴とくちょう

地元じもと奈良なら県内けんない大阪おおさか飲食いんしょくてんでは評価ひょうかているが、流通りゅうつうりょうがそれほどおおくないのでけんさんのブランドうしくらべて知名度ちめいどおとり、いまのところ比較的ひかくてきごろな値段ねだんべることができる。

定義ていぎ[編集へんしゅう]

以下いか規格きかく要件ようけんたした肉牛にくぎゅうを、生産せいさんしゃ販売はんばい業者ぎょうしゃらでつくる大和やまとうし流通りゅうつう推進すいしん協議きょうぎかい認定にんていする。

  1. 協議きょうぎかい認定にんていけた奈良なら県内けんない生産せいさん農家のうかで14かげつ以上いじょう飼育しいく
  2. 黒毛くろげしゅで、月齢げつれい30かげつ以上いじょうけいさん雌牛めうしまたは県内けんないまれ月齢げつれい28かげつ以上いじょう去勢きょせいうし
  3. 奈良ならけん食肉しょくにく流通りゅうつうセンターへ出荷しゅっかされたもの

そのうえで、日本にっぽん食肉しょくにく格付かくづけ協会きょうかい肉質にくしつ規格きかく3等級とうきゅう以上いじょうにくだけに「大和やまとうし証明しょうめいしょチケット」が貼付ちょうふされ、消費しょうひしゃ生産せいさんしゃ流通りゅうつう経路けいろひとし情報じょうほう店頭てんとう確認かくにんすることができる。

歴史れきし[編集へんしゅう]

大和やまとにおけるうし飼育しいくかんする史料しりょう[編集へんしゅう]

大和やまとこく現在げんざい奈良ならけん)では古代こだいからうし飼育しいくされていた。現代げんだいのように肉牛にくぎゅう乳牛にゅうぎゅう使役しえきうし明確めいかく品種ひんしゅかれていたのではなく、在来ざいらいうし目的もくてき使つかわれたとかんがえられる。大和やまとこくでのうし飼育しいくかかわるおも史料しりょうには以下いかのようなものがある。

羽子はご1ごうふん出土しゅつど うしがた埴輪はにわ
  • 奈良ならけん御所ごしょにある5世紀せいきごろ南郷なんごう遺跡いせきからうしほね出土しゅつどしている。奈良ならけん磯城しきぐん田原本たわらもとまちにある6世紀せいき前半ぜんはん羽子はご1ごうふんからはうしがた埴輪はにわ出土しゅつどし、1958ねん昭和しょうわ33ねん)にくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされた[4]。7世紀せいきちゅうごろに整備せいびされた古代こだいかんどうしもどう遺構いこうであるはちじょうきた遺跡いせき奈良ならけん天理てんり南六条みなみろくじょうまち大和郡山やまとこおりやま八条はちじょうまち)からはうまうしほねひろ範囲はんいから出土しゅつどしている[5]
  • 新撰しんせん姓氏せいしろく』(815ねん)には、650ねんしろ雉1ねん)の孝徳天皇こうとくてんのうときに、大陸たいりくからの渡来とらいじんぜん使ぬし(ぜんなのおみ、別名べつめいぶくつね)が孝徳天皇こうとくてんのう牛乳ぎゅうにゅうけんじてやく使つかいぬし(やまとのくすしのおみ)のせいたまわり、その子孫しそん典薬てんやくりょうにおいてちち長上ちょうじょう(ちちのおさのかみ)という職名しょくめいあたえられたという記録きろくがある。1008ねん寛弘かんこうねん)に成立せいりつした『政事せいじ要略ようりゃく』のなかに「みぎかん史記しきうんウ。文武ぶんぶ天皇てんのうよんねんじゅうがつ使つかいみやつこシム」という記述きじゅつがあり、700ねん文武ぶんぶ天皇てんのう4ねん)に乳製品にゅうせいひん」が日本にっぽんつくられていたことがわかる。 奈良なら長屋王ながやおうやしきあとから「牛乳ぎゅうにゅう」の文字もじしるされた木簡もっかんが、平城ひらじろみやあとから「」の文字もじ墨書ぼくしょされた土器どき出土しゅつどしている。[6]
  • 鎌倉かまくら時代じだい古今ここんめいうしえがあつめた絵巻えまき駿しゅんうし絵詞えことば』には、「池尻いけじり」「椙村」「岩波いわなみ」「松風まつかぜ」などのめいうしが「大和やまとうし」としてしるされている[7]。また、鎌倉かまくら末期まっきりょううしえがかれた「くにうしじゅう」に、「大和やまとうし」として「大和やまとうしほねふとく、皮膚ひふあつく、あたまおおきく、たけひくく、すべて前後ぜんこうおおきい。こしたいらでふとく、蹄は非常ひじょううすく、かくほそく、蹄は軟弱なんじゃくである。近年きんねん逸物いちもつおおい」という記述きじゅつがあり、大和やまとこくりょううし産出さんしゅつ10こくひとつにげられていた[8]。ただし、このころりょううしは、牛車うしぐるま牽引けんいん使つか目的もくてき基準きじゅん評価ひょうかされたものである。

大和やまとにおけるうし飼育しいくかんする文化ぶんかおよび民俗みんぞく[編集へんしゅう]

  • 奈良ならけん大和郡山やまとこおりやま池之内いけのうちまちにある「うしみや」のもりには、くろうし伝説でんせつのこされている[9]
  • 江戸えど時代じだいの1754ねんたかられき4ねん)から大和やまとこくかずら上郡かみごおり蛇穴さらぎむらげん御所ごしょ蛇穴さらぎ)には「蛇穴さらぎ牛市うしいちあいのぼ)」があり、「河内かわうち駒ヶ谷こまがたに牛市うしいちだいのぼ)」ととも畿内きないにおける大牛おおうしとして中国ちゅうごく地方ちほうからの「のぼうし」をれ、1913ねん大正たいしょう2ねん)までつづいた[10]
  • 農業のうぎょう機械きかいすすむまで、東山中ひがしやまなか奈良盆地ならぼんち気候きこうちがいによる農耕のうこう時期じき利用りようし、りょう地区ちく農家のうかあいだ役牛えきぎゅうりがおこなわれていた[11]
  • 奈良盆地ならぼんち大和やまととう民家みんかや、草地くさちゆたかで放牧ほうぼくさかんな東山中ひがしやまなか農家のうかいえなかにはうし部屋へやがあり、家族かぞく同然どうぜんうし文化ぶんか根付ねついていた[12]
  • 奈良なら県内けんない各地かくち神社じんじゃ豊作ほうさく祈念きねんしておこなわれる「おんだまつり」には、うし使つかった耕耘こううん様子ようす再現さいげんした所作しょさ数多かずおおつたわっている[13]
  • 葛城かつらぎ金剛山こんごうざんふもと宇陀うだぐん中心ちゅうしんとして、農村のうそんのおてら境内けいだいうし無事ぶじ息災そくさい祈念きねんする「うしたきさん」というおまつりがおこなわれ、農業のうぎょう機械きかいによってうし使つかわれなくなる以前いぜんには、かくかざり、きの頸輪、油単ゆたんすずけて正装せいそうしたくろうし近在きんざい農家のうかからあつまり、うし品評ひんぴょうかい様相ようそうていしていた[14]

近世きんせい大和やまとおよび近代きんだい奈良ならけんにおける食肉しょくにく歴史れきし[編集へんしゅう]

  • 1848ねんひろし4ねん)、『やすしごと』の記録きろくに「ななにち けがれのくらつくらするものれり 赤牛あかうししん鮮肉せんにくをくれたり 養生ようじょうのためしょくしみしに かもよりもあまし 烹過とかたし」とあり、奈良なら奉行ぶぎょう川路かわじ聖謨としあきら牛肉ぎゅうにくべていたことがしるされている[15][16]
  • 1864ねん元治もとはる元年がんねん)、かずら上郡かみごおり岩崎いわさきむらげん御所ごしょ)のさけ菓子かししょうが、牛肉ぎゅうにく小売こうりをしていた記録きろくのこっている[17]
  • 1872ねん明治めいじ5ねん)1がつ明治天皇めいじてんのう牛肉ぎゅうにくべ、肉食にくしょく禁止きんしかれると、同年どうねんはるには、奈良ならまち西寺林にしてらばやしまちうしてん開業かいぎょうした。奈良ならけんはつ新聞しんぶん日新にっしん記聞きぶん』(1872ねん5がつ発行はっこう)は、「奈良ならこと肉食にくしょくひたもちいゆるものかりしに 此頃だいにかわりておおくこれをしょく春来はるき西寺林にしてらばやしがい郡山こおりやま士卒しそつたいひとうしてんひら門前もんぜんに招旆(かんばん)抔(など)飄し 啖客のくつつねもんはま 昔時せきじふうと霄壌せり 開化かいかちょうさき肉食にくしょくよりはじまる」と、みせきゃくにぎわっていることをほうじている[18]
  • 初代しょだい県令けんれい四条しじょう隆平りゅうへい(1871ねん11月-1873ねん11月)は、但馬たじま丹後たんごうし80とう乳牛にゅうぎゅう若草山わかくさやま放牧ほうぼくした[19]
  • 1873ねん明治めいじ6ねん)11月、高市たかいちぐん八木やぎむらげん橿原かしはら八木やぎまち)のひと牛肉ぎゅうにく販売はんばいねが許可きょかされ、鑑札かんさつけている[20]
  • 1917ねん大正たいしょう6ねん)に奈良なら県内けんない飼育しいくされていたうしは1まん1763とう年間ねんかんほふ畜牛は4812とうであった[21]

「はいばらにく」と「宇陀うだうし[編集へんしゅう]

宇陀うだ地域ちいきでは、瀧口たきぐちはじめまつ榛原はいばらむらげん宇陀うだ)の私有地しゆうち畜産ちくさん設備せつび市場いちばつくるとともに、1886ねん明治めいじ19ねん精肉せいにくてんすき専門せんもんてん開業かいぎょうし、地域ちいきしょく文化ぶんか開拓かいたくしつつ畜産ちくさんぎょう食肉しょくにくぎょう発展はってんはかった。

1919ねん大正たいしょう8ねん)の宇陀うだぐん畜産ちくさん組合くみあい設立せつりつつづき、1923ねん大正たいしょう12ねん)に榛原はいばら常設じょうせつ家畜かちく市場いちば開設かいせつされて、伊那いなむらげん宇陀うだ)を中心ちゅうしん和牛わぎゅう繁殖はんしょくさかんになった。 1930ねん昭和しょうわ5ねんごろ伊那いなむら森本もりもとひさしみやつこらが和牛わぎゅう振興しんこう奔走ほんそうし、農耕のうこうようおすうし種牛たねうしとし、農業のうぎょう使役しえききょうしつつうし生産せいさんにより利益りえきはかるため、但馬たじまうし導入どうにゅうして増産ぞうさんした。1936ねん昭和しょうわ11ねん)、美方みかたぐん村岡むらおか市場いちばから購入こうにゅうした「こふくごう」という雌牛めうしきわめて優良ゆうりょうで、このうし中心ちゅうしん改良かいりょうしゅ宇陀うだうし」「ふく系統けいとううし」「ふくづる」が育成いくせいされ、「はいばらにく」「宇陀うだうし」の名称めいしょう市場いちば流通りゅうつうした。知名度ちめいどたかめた「大和やまと宇陀うだうし」のうし生産せいさんのため、1940ねん昭和しょうわ15ねん)には宇陀うだぐん神戸こうべむらげん宇陀うだ大宇陀おおうだ下竹しもたけ)に奈良ならけん種畜しゅちくじょうげん奈良ならけん畜産ちくさん技術ぎじゅつセンター)が創設そうせつされ、ピークの1942ねん昭和しょうわ17ねん)には2800とううし生産せいさん1200とう)が宇陀うだぐんない飼育しいくされていた。戦後せんごはやや減少げんしょうしたものの、1950ねん昭和しょうわ25ねん)に「ほん系統けいとううし造成ぞうせい組合くみあい」が組織そしきされてづるうし育成いくせい系統けいとう保持ほじつとめていたが、自給じきゅう飼料しりょう基盤きばんとした畜産ちくさんには限界げんかいがあり、また農業のうぎょう機械きかいともな役牛えきぎゅう必要ひつようがなくなったため次第しだいかずっていった[22]

大和やまとうし」ブランドの確立かくりつ[編集へんしゅう]

直売ちょくばいてんならぶ「大和やまとうし

2000ねん平成へいせい12ねん)に、県内けんない生産せいさんしゃ食肉しょくにく関係かんけいしゃ銘柄めいがらうし懇談こんだんかいげ、2003ねん平成へいせい15ねん)3がつ20日はつかには奈良ならけん大和やまとうし流通りゅうつう推進すいしん協議きょうぎかい設立せつりつされて、「地元じもとひと地元じもとそだてられた歴史れきしある良質りょうしつ牛肉ぎゅうにく提供ていきょうしたい」という関係かんけいしゃつよおもいで「大和やまとうし」のブランドが確立かくりつされた。奈良ならけん肉牛にくぎゅうの70%以上いじょう宇陀うだ地域ちいき飼養しようされており、うしについては、みつえ高原こうげん牧場ぼくじょう宇陀うだぐん御杖みつえむら)を中心ちゅうしん生産せいさんはかられている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 奈良ならけんきゅう国名こくめい大和やまとこく由来ゆらいする。略語りゃくごのみの場合ばあい日本にっぽんさんうし意味いみする和牛わぎゅうとなる。
  2. ^ 坂本さかもと太郎たろう日本書紀にほんしょき(1)』 岩波書店いわなみしょてん、1994ねん9がつ16にちISBN 978-4003000410
  3. ^ 斎部広成いんべのひろなりせん 古語こご拾遺しゅうい 807ねん
  4. ^ 唐古からこかぎ考古学こうこがくミュージアム ひゃくねん以上いじょうまえつかったうしがた埴輪はにわ 『ミュージアムコレクション 50』、2009ねん1がつ
  5. ^ しもどうはちじょうきた遺跡いせき発掘はっくつ調査ちょうさ現地げんち説明せつめいかい資料しりょう 奈良なら県立けんりつ橿原考古学研究所かしはらこうこがくけんきゅうしょ、2011ねん12月18にち
  6. ^ うずもれたちち利用りようだい14かい企画きかくてん ミルクの夜明よあけ』 うし博物館はくぶつかん、2003ねん7がつ
  7. ^ 駿しゅんうし絵詞えことば
  8. ^ 今川いまがわ和彦かずひこ くにうしじゅう農学部のうがくぶ図書館としょかん所蔵しょぞう資料しりょうからる「農学のうがく教育きょういくながれ」』 東京大学とうきょうだいがく農学部のうがくぶ図書館としょかん、2000ねん平成へいせい12ねん)3がつ27にち
  9. ^ うしみや『まんが日本にっぽんむかしばなし~データベース~』 2015ねん8がつ7にち閲覧えつらん
  10. ^ 御所ごしょ編纂へんさん委員いいんかい御所ごしょ御所ごせ市役所しやくしょ、1965ねん3がつ10日とおか
  11. ^ 堀井ほりい甚一じんいちろう, 堀内ほりうち義隆よしたか、「大和やまと高原こうげん役牛えきぎゅう移動いどうちゃぎょう」『人文じんぶん地理ちり』 1958ねん 10かん 2ごう p.129-132, doi:10.4200/jjhg1948.10.129, 人文じんぶん地理ちり学会がっかい
  12. ^ 奈良ならけん農林のうりん畜産ちくさん季刊きかん 畜産ちくさんだより』だい6ごう社団しゃだん法人ほうじん奈良ならけん畜産ちくさんかい、1977ねん9がつ
  13. ^ エグモント(Eggermont, I.) 地球ちきゅう一周いっしゅう旅行りょこう日本にっぽん(Voyage autour du globe. Japon)』 1900ねん
  14. ^ しょう山方やまがたげん 『ひづめのあとうしのきた)』 1983ねん
  15. ^ 大塚おおつか武松たけまつ へん 川路かわじ聖謨としあきら文書ぶんしょ だいさん 日本にっぽん史籍しせき協会きょうかい、1932-33ねん、372ぺーじ
  16. ^ 吉田よしだ栄治郎えいじろう 奈良なら奉行ぶぎょう川路かわじ聖謨としあきら幕末ばくまつ大和やまと差別さべつみん 奈良なら県立けんりつ同和どうわ問題もんだい関係かんけい史料しりょうセンター『研究けんきゅう紀要きようだい12ごう、2006ねん3がつ、39ぺーじ
  17. ^ のびしょうじ [1]大阪おおさか部落ぶらく通信つうしん』33ごう部落ぶらく解放かいほう人権じんけん研究所けんきゅうじょ、2003ねん8がつ
  18. ^ 日新にっしん記聞きぶんだい1ごう日新にっしんしゃ、1872ねん5がつ
  19. ^ 奈良ならけん 青山あおやま四方しほうにめぐれるくに奈良ならけん誕生たんじょう物語ものがたり-』 奈良ならけん、1987ねん11月。
  20. ^ 牛肉ぎゅうにく販売はんばい許可きょかについて召喚しょうかんじょう』 (天理大学てんりだいがく附属ふぞく天理てんり図書館としょかん文書ぶんしょ) 1873ねん明治めいじ6ねん)11月。
  21. ^ 大正たいしょうろくねん奈良ならけん産業さんぎょう要覧ようらん奈良ならけん、1918ねん12月15にち、18ぺーじ
  22. ^ 奈良ならけん農林のうりん畜産ちくさん季刊きかん 畜産ちくさんだより』だい12ごうだい13ごう社団しゃだん法人ほうじん奈良ならけん畜産ちくさんかい、1980ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]