宮崎 県立 都城 泉ヶ丘 高等 学校 ・附属 中学校
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1899 | |
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D145220260114 C145220250010 ( | (|
45130E | |
〒885-0033 | |
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概要
[設置 課程 ・学科 (高等 学校 )全 日 制 課程 2学科 普通 科 (5クラス)理数 科 (2クラス)
全 日 制 課程 普通 科 では2年 次 から、理数 科 では3年 次 から文系 コースと理系 コースにクラス編成 。
定時 制 課程 2学科 普通 科 商業 科
校訓 - 「
質実 剛健 」
校章 旧 職員 による図案 。校 名 の「泉 」・「丘 」・「高 」の文字 と円 ・波 模様 を組 み合 わせたものとなっている。なお中学校 の校章 は「高 」の文字 の代 わりに「中 」の文字 となっている。
校歌 作詞 は長嶺 宏 、作曲 は石田 良男 による。歌詞 は3番 まであり、各 番 に校 名 の「泉ヶ丘 」が登場 する。
授業 編成 と進路 選択 (全 日 制 課程 )午前 7時 45分 より開始 される課外 授業 を含 め1日 8時限 授業 。部 活動 引退 後 の3年 次 には夕方 にも課外 授業 が組 まれる。また、全 学年 とも夏期 休暇 ・冬期 休暇 ・春期 休暇 にも課外 授業 が組 まれる。- 9
割 以上 の生徒 が国公立 大学 をはじめとする上級 学校 へ進学 する。
同窓会 - 「
義友 会 」(ぎゆうかい)と称 する。
沿革
[旧制 中学校 (男子校 )時代
- 1899
年 (明治 32年 ) - 1901
年 (明治 34年 )9月1日 - 「宮崎 県立 都城 中学校 」に改称 (県 の後 に「立 」が付 される)。 - 1902
年 (明治 35年 )2月 -雨天 体操 場 が完成 。 - 1903
年 (明治 36年 )3月 -校舎 を増築 。寄宿舎 が完成 。 - 1904
年 (明治 37年 )4月 1日 -制服 を制定 (夏 は霜降 り[1]で、冬 は紺色 の洋服 )。 - 1907
年 (明治 40年 )4月 1日 -小学校 令 の改正 により、入学 資格 が尋常 小学校 を卒業 した12歳 以上 の男子 に改 められる。 - 1918
年 (大正 8年 )5月 15日 -開校 20周年 を記念 して校歌 を制定 (作詞 :妹尾 良彦 、作曲 :高野 駒雄 )。 - 1930
年 (昭和 5年 ) - 1935
年 (昭和 10年 )5月30日 -同年 11月 に行 われる陸軍 特別 大 演習 の大本営 に指定 。同年 11月 10日 から12日 にかけて昭和 天皇 の行在所 (宿泊 所 )となる[2]。 - 1938
年 (昭和 13年 )4月 1日 -制服 と制帽 を変更 (薄 緑色 (国防 色 )となる)。 - 1941
年 (昭和 16年 )4月 1日 -国民 学校 令 の施行 により、入学 資格 が国民 学校 初等 科 を卒業 した12歳 以上 の男子 に改 められる。 - 1943
年 (昭和 18年 )4月 1日 -中等 学校 令 の施行 により、この時 の入学 生 から修業 年限 が4年 (現在 の中 1から高 1に相当 )となる。 - 1944
年 (昭和 19年 ) - 1945
年 (昭和 20年 )8月 6日 -空襲 により校舎 のほぼすべてを焼失 。 - 1946
年 (昭和 21年 )- この
年 -校舎 が復旧 。 - 4
月 1日 -修業 年限 が5年 となる(ただし4年 修了 時点 で卒業 することもできた)。
- この
- 1947
年 (昭和 22年 ) - 1948
年 (昭和 23年 )3月 31日 -学制 改革 により閉校 。
旧制 高等 女学校 時代
- 1902
年 (明治 35年 )5月 31日 -姫城 町 に「北諸県 郡 立 女子 職業 学校 」が設立 される。機織 ・染色 を学 ぶ学校 であった。 - 1914
年 (大正 3年 )5月 10日 -女子 職業 学校 の募集 が停止 され、「北諸県 郡 立 都城 高等 女学校 」が設置 される。 - 1916
年 (大正 6年 )4月 1日 -実科 (修業 年限 2年 )を設置 。同時 に女子 職業 学校 が廃止 される。 - 1918
年 (大正 7年 )3月 31日 -県立 移管 により「宮崎 県立 都城 高等 女学校 」に改称 。 - 1925
年 (大正 14年 )-制服 を制定 。講堂 が完成 。 - 1926
年 (大正 15年 )4月 -私設 補習 科 を設置 。 - 1928
年 (昭和 3年 )11月 -校歌 ・校旗 を制定 。 - 1931
年 (昭和 6年 )- この年度 から補習 科 卒業 者 に無試験 検定 で裁縫 専 科 正教 員 免許 状 の授与 を開始 。 - 1933
年 (昭和 8年 )5月 -制服 を改定 。 - 1944
年 (昭和 19年 )4月 1日 -都城 市立 都城 高等 女学校 [3]を統合 。実科 の募集 を停止 。 - 1946
年 (昭和 21年 )4月 1日 -修業 年限 が5年 となる(ただし4年 修了 時点 で卒業 することもできた)。 - 1947
年 (昭和 22年 )4月 1日 -学制 改革 (六 ・三 制 の実施 )が行 われる。高等 女学校 の募集 を停止 。新制 中学校 を併設 し(以下 ・併設 中学校 )、高等 女学校 1・2年 修了 者 を併設 中学校 2・3年生 として収容 。高等 女学校 は経過 措置 としてあくまで暫定 的 に設置 されたため、新 たに生徒 募集 は行 われず、在校生 が2・3年生 のみの中学校 であった。高等 女学校 3・4年 修了 者 はそのまま高等 女学校 4・5年生 となった(ただし4年 修了 時点 で卒業 することもできた)。
- 1948
年 (昭和 23年 )3月 31日 -学制 改革 により閉校 。
旧制 商業 学校 宮崎 県立 都城 商業 高等 学校 #沿革 を参照 。
旧制 農 学校 宮崎 県立 都城 農業 高等 学校 #沿革 を参照 。
新制 高等 学校
- 1948
年 (昭和 23年 )- 4
月 1日 -学制 改革 により都城 市内 の県立 旧制 中等 教育 学校 4校 が統合 され、新制 高等 学校 「宮崎 県立 都城 泉ヶ丘 高等 学校 」が発足 。県立 旧制 中等 学校 4校 -都城 中学校 ・都城 高等 女学校 ・都城商 業 学校 ・都城 農 学校 通常 制 (後 の全 日 制 )普通 課程 ・商業 課程 ・農業 課程 、定時 制 (夜間 )普通 課程 を有 する総合 制 ・男女 共学 の高等 学校 。旧制 中等 学校 卒業 者 (5年 修了 者 )を新制 高校 3年生 、旧制 中等 学校 4年 修了 者 を新制 高校 2年生 、併設 中学校 卒業 者 (3年 修了 者 )を新制 高校 1年生 として収容 。旧 4校 の併設 中学校 も統合 され「宮崎 県立 都城 泉ヶ丘 高等 学校 併設 中学校 」となり、在校生 が1946年 (昭和 21年 )に旧制 中等 学校 へ最後 に入学 した3年生 のみとなる。旧制 中学校 を「本部 」、元 農 学校 校舎 を「北 校舎 」、元 商業 学校 校舎 を「中 校舎 」、元 高等 女学校 校舎 を「南 校舎 」とし、4校舎 体制 をとる。高原 分校 (定時 制 農業 課程 )を設置 。
- 7
月 1日 -高城 町立 高城高等学校 を統合 し、高城 分校 (定時 制 農業 課程 ・家庭 課程 )とする。
- 4
- 1949
年 (昭和 24年 )- 3月31
日 -併設 中学校 を廃止 。高原 分校 を廃止 (その後 宮崎 県立 小林高等学校 に移管 される)。 - 4
月 -全 生徒 を北 校舎 (元 農 学校 校舎 )に集約 。他 の3校舎 は市内 の公立 新制 中学校 [4]へ開放 。 - 8
月 -再 び4校舎 に復帰 。北 校舎 を都城 市立 祝吉 中学校 に開放 。
- 3月31
- 1950
年 (昭和 25年 )4月 1日 -家庭 課程 (被服 科 )を設置 。農業 課程 と高城 分校 が宮崎 県立 都城 都島 高等 学校 [5]に移管 される。 - 1953
年 (昭和 28年 )4月 1日 -家庭 課程 (家政 科 )を設置 。 - 1955
年 (昭和 30年 )-校歌 を制定 。 - 1957
年 (昭和 32年 )4月 1日 -商業 課程 が分離 し宮崎 県立 都城 商業 高等 学校 として独立 。商業 課程 の募集 を停止 (ただし在校生 卒業 まで商業 課程 は存続 )。 - 1958
年 (昭和 33年 )4月 1日 -家庭 課程 (被服 科 )の募集 を停止 。 - 1959
年 (昭和 34年 )- 3月31
日 -商業 課程 を廃止 。 - 4
月 1日 -宮崎 県立 都城 都島 高等 学校 の普通 課程 (2学級 )の募集 が停止 されたことにより、本校 の普通 課程 ・家庭 課程 の定員 が増員 される。
- 3月31
- 1960
年 (昭和 35年 )4月 1日 -定時 制 商業 課程 を設置 。 - 1961
年 (昭和 36年 )5月 -創立 60周年 を記念 して図書館 が完成 。 - 1962
年 (昭和 38年 )3月 -宮崎 県立 都城 西高 等 学校 との間 で合同 選抜 入試 を開始 。 - 1967
年 (昭和 42年 )3月 -体育館 が完成 。 - 1970
年 (昭和 45年 )3月 -第 2運動 場 が完成 。 - 1976
年 (昭和 51年 )3月 - プールが完成 。 - 1984
年 (昭和 59年 )12月 -新 校舎 が完成 。 - 1985
年 (昭和 60年 )-講堂 と大本営 跡 校舎 が解体 される。 - 1986
年 (昭和 61年 )6月 -管理 棟 が完成 。 - 1987
年 (昭和 62年 )3月 -芸術 科 棟 が完成 。 - 1989
年 (平成 元年 )12月 - 28年 ぶりに修学旅行 が復活 。 - 1990
年 (平成 2年 )3月 -同窓 会館 「義友 会館 」が完成 。 - 1992
年 (平成 4年 )4月 1日 -家政 科 の募集 を停止 。 - 1994
年 (平成 6年 )- 3月31
日 -家政 科 を廃止 。弓道 場 が完成 。 - 4
月 1日 -普通 科 に理数 コースを設置 。
- 3月31
- 1999
年 (平成 11年 ) -創立 100周年 記念 式典 を挙行 。「いずみ会館 」が完成 。 - 2002
年 (平成 14年 )3月 - この時 の入試 をもって宮崎 県立 都城 西高 等 学校 との合同 選抜 を終了 。最後 の合同 選抜 となる。 - 2003
年 (平成 15年 )3月 -合同 選抜 制度 の廃止 により、この時 の入試 から単独 選抜 を開始 。 - 2004
年 (平成 16年 )4月 1日 - 2006
年 (平成 18年 ) -必修 科目 の未 履修 が発覚 。 - 2007
年 (平成 19年 )3月 -野球 部 が第 79回 選抜 高等 学校 野球 大会 に出場 。 - 2010
年 (平成 22年 )4月 1日 -附属 中学校 を併設 。
部 活動
[全 日 制 課程 運動 部 ・文化 部 ともに部 活動 がさかんである。高等 学校 -
運動 部
野球 部 - 2007年 (平成 19年 )に21世紀 枠 に選出 され、第 79回 選抜 高等 学校 野球 大会 に出場 し1勝 を挙 げた。剣道 部 柔道 部 弓道 部 - ソフトテニス
部 - テニス
部 (硬式 ) - バドミントン
部 - ラグビー
部 - サッカー
部 - ハンドボール
部 - バレーボール
部 - バスケットボール
部 陸上 部 卓球 部 山岳 部
文化 部
中学校 -
運動 部
文化 部
定時 制 過程 -
運動 部
- バレーボール
部 野球 部 - バドミントン
部 卓球 部 剣道 同好 会
文化 部
- コンピュータ
部 英語 同好 会 美術 同好 会 軽音楽 同好 会
著名 な出身 者
[政治 ・行政
池田 宜 永 -都城 市 長 石神 啓吾 -国会 議員 (衆議院 )、高岡 町 長 井上 知治 -国会 議員 (衆議院 、参議院 )、衆議院 副 議長 、閣僚 (賠償 庁 長官 )井ノ上 正 盛 -外交 官 桑畑 和男 -三股 町 長 坂元 親男 -閣僚 (北海道開発庁 長官 、沖縄開発庁 長官 )、国会 議員 (衆議院 、参議院 )、宮崎 県議会 議長 長峯 誠 -国会 議員 (参議院 )、都城 市長 西広 整輝 -官僚 (防衛 事務次官 )東国原 英夫 (そのまんま東 ) - タレント、公選 第 17代 宮崎 県知事 、国会 議員 (衆議院 )堀之内 久男 -国会 議員 (衆議院 )、閣僚 (農林 水産 大臣 、郵政 大臣 )、都城 市長 (旧 ・中郷 村長 )山中 貞 則 -国会 議員 (衆議院 )、閣僚 (総理府 総務 長官 、環境庁 長官 、沖縄開発庁 長官 、防衛庁 長官 、通商 産業 大臣 )
経済
・
小山田 浩 定 -総合 メディカルホールディングス創業 者 南 園 克己 -元 日東紡績 社長 、元 日本 紡績 協会 会長
学界
報道 ・出版
芸術 ・文化
中山 大 三郎 -作詞 家 、作曲 家 、高崎 町 出身 永山 智行 -劇 作家 、演出 家 、泉ヶ丘 高校 演劇 部 を母体 に劇団 こふく劇場 を旗揚 げ黒木 和雄 -映画 監督 (1949年 に小林 高校 から転入 し1950年 卒業 )山口 絵美 菜 -女流 棋士 山田 孝雄 -作詞 家
芸能
- スポーツ
戸田 賢良 -元 サッカー選手 戸田 光洋 -元 サッカー選手 西浦 達吉 - ラグビートップリーグコカ・コーラウエストレッドスパークス選手 (PR)、ラグビー日本 代表 宮村 眞 也 - ラグビートップリーグNECグリーンロケッツ選手 (LO)橋口 弘次 郎 -調教 師 (日本中央競馬会 )
交通
[最寄 りの鉄道 駅
最寄 りのバス停
宮崎交通 「高校 前 」バス停
最寄 りの幹線 道路
国道 269号 「北原 」交差点
周辺
[都城 運動公園 陸上 競技 場 ・野球 場 ・体育館 ・庭球 場 都城 市立 妻 ヶ丘 中学校 都城 市立 東 小学校 宮崎 県 都城 土木 事務所 総務 課 都城 市 総合 文化 ホール
脚注
[- ^
織物 で、白 い繊維 と色 繊維 を混紡 した糸 を用 いて織 ったもの。 - ^
原 武史 『昭和 天皇 御召 列車 全 記録 』新潮社 、2016年 9月 30日 、77頁 。ISBN 978-4-10-320523-4。 - ^ 1941
年 (昭和 16年 )4月 、都城 市 都城 国民 学校 (高等 科 のみ)に併設 された。都城 市立 南 小学校 を参照 。 - ^
本部 校舎 (旧制 中学校 )は都城 市立 小松原 中学校 、南 校舎 (高等 女学校 )は都城 市立 姫城 中学校 へ、中 校舎 (元 商業 学校 )は都城 市立 妻ケ丘 中学校 に開放 された。 - ^ 1944
年 (昭和 19年 )創立 の宮崎 県立 都城 工業 学校 と都城 市立 都城 女子 商業 学校 を母体 として1948年 (昭和 23年 )の学制 改革 により「宮崎 県立 都城 都島 高等 学校 」が発足 。通常 制 (全 日 制 )工業 課程 ・商業 課程 ・普通 課程 、定時 制 工業 課程 ・商業 課程 ・農業 課程 ・家庭 課程 を有 する総合 制 の高等 学校 であった。1950年 (昭和 25年 )に都城 泉ヶ丘 高等 学校 の農業 科 および高城 分校 が移管 され、通常 制 農業 課程 となる。1955年 (昭和 30年 )に高城 校舎 が宮崎 県立 高城高等学校 として独立 。1961年 (昭和 36年 )に工業 課程 が分離 し宮崎 県立 都城 工業 高等 学校 として独立 。1962年 (昭和 37年 )に普通 課程 が分離 し宮崎 県立 都城 都島 第 二 高等 学校 として独立 。1965年 (昭和 40年 )に都城 都島 高等 学校 は宮崎 県立 都城 農業 高等 学校 に改称 した。 - ^
通例 定時 制 課程 の修業 年限 は4年 であるが、通信 制 課程 と併 せて学 ぶ「定 通 併修」などにより全 日 制 課程 のように3年 で卒業 できるようにする制度 。